沖縄ウーマンからみえる沖縄戦後史
――フィリピンに生きる沖縄ウーマンの聞き取りを中心として――
細
田
亜津子
(長崎国際大学 人間社会学部 国際観光学科) 要 旨 第二次世界大戦後、沖縄に駐留する米軍の軍属または雇われたフィリピン人と結婚し、フィリピンに生 きる沖縄人女性がいる。フィリピンでは沖縄ウーマンと呼ばれている。沖縄以外の他県からの移民男女と 区別し、フィリピンに住む沖縄女性は、日本女性ではなく沖縄ウーマンといわれる。 沖縄戦後の社会の混乱と親族の死亡などがあったが、それでも女性たちは生活をしなければならず、米 軍関係の仕事をした。フィリピンに渡った沖縄ウーマンは、バギオ、ダバオ、セブ、レイテ、ネグロス・ オリエンタル、ジェネラル・サントスなど広範囲ではあるが、点として存在し、地理的共通性がない。し かし沖縄ウーマンは「沖縄語=ウチナーグチ」を話すことで沖縄人としてのアイデンティティを維持して いる。また、家族や関係者を大事にし、助け合っているのは、沖縄の「結い」の精神をフィリピンでも失っ ていない証拠である。 沖縄人移民は、アジア、南米にひろがっており、移民の歴史は沖縄県内の市町村にて解明が進んでいる。 しかし、沖縄ウーマンについては皆無である。沖縄ウーマンの移民の背景と地理的分析、現在の生活形態 を調査し言及をすることは、沖縄の戦後を考えるための新しい展開として貢献する。 キーワード 沖縄ウーマン、日系人会、沖縄県人会 は じ め に 第二次世界大戦後沖縄に駐留する米軍の軍属 または軍に雇われたフィリピン人と結婚し、 フィリピンに渡り生きた、または現在フィリピ ンに生きる沖縄ウーマンはマニラを中心にバギ オ、ダバオ、セブ、レイテ、ネグロス・オリエ ンタル、ジェネラル・サントスなど広範囲に住 んでいる。しかし、集団で、または集落を形成 して暮らしていることはない。沖縄ウーマン は、フィリピンでは日本人女性とは区別されて 使用されている。フィリピンにおける沖縄人の 移民の歴史は広く認識されており「沖縄ウーマ ン」は、この移民の歴史を背景にしてフィリピ ンでは、日本人女性とは区別されて使用されて いる1)。 これまで聞き取りができた沖縄ウーマンの在 住地は範囲が広くそして点在する。沖縄ウーマ ンは、集団で生きているのではなく、地理的に も単独で生活している。戦後のフィリピンで は、沖縄ウーマンとその家族は、「ハポン・ハ ポン」と言われ、戦争中の日本軍人または日本 人の行為の裏返しとしての抗議や反発を一身に 背負ってきたという事実もある。一方、沖縄ウー マンは「私は沖縄人よ、日本人ではなく沖縄人 よ」といってこの混乱から逃れたバイタリティ あふれる人生を送ってきた女性もいた。また、 距離的に比較的近い地域に住む沖縄ウーマン は、教会に通い、週一回ウチナーグチを話すこ とを生きる糧として、ウチナー語を失わず、言 葉の中に沖縄ウーマンのアイデンティティを投 影し苦しい生活を生き抜いてきたと多くの沖縄 ウーマンが証言している。 95孤独ではあるが、バイタリティがある沖縄 ウーマンは、現在高齢化が進み、聞き取りの最 中に入院し、死亡した女性もいた。沖縄ウーマ ンは、家族とともに、子供や孫に囲まれて生活 している人がほとんどであった。沖縄ウーマン の生活形態は、子どもたちとの生活にめぐまれ ている人、現在は一人暮らしをしている人など さまざまであった。これまで沖縄ウーマンの存 在を実証しているものは少なく、これを実証 し、記録として残していくことが求められてい る。本稿はこの目的を少しでも埋める役割をも つものである。 しかしながら、「沖縄ウーマン」と呼ばれて いる女性たちが生きた証をドキュメンタリーと することではない。沖縄ウーマンがフィリピン 移民の中でどう位置づけられるのか、戦後米軍 施策の中でどう位置づけられてきたのか、広義 では、沖縄人の生活形態、移民の歴史の一形態、 地理的範囲の共通性などとして論理的に構築を 行うということが本論の大きな目的でもある。 なお、本論は!沖縄人移民の歴史的裏づけと 米国軍政府下沖縄での結婚をとりまく背景をも とに沖縄ウーマンのフィリピンへ移住した要因 を展開した「沖縄戦後女性史の証言と発掘― フィリピンに生きる沖縄ウーマンの移民背景 ―」をうけて、フィリピン現地で沖縄ウーマン を探し、聞き取りをした調査結果を中心にフィ リピン沖縄ウーマンからみえる沖縄戦後史とし て位置づけるものである。 ! 調査の背景と調査方法 沖縄ウーマンの調査は以下の調査をベースに し、その展開の中でフィリピン沖縄ウーマン調 査まで至ったものである。ベースとなった科学 研究費助成調査は2007年と2008年に行い、その 後、この調査をうけて2009年に調査を延長した ものである。 2007年度の調査は、科学研究費助成「東・東 南アジアにおける沖縄の地域間ネットワークの 形成と変遷に関する総合的研究」の一部として フィリピン・マニラ、バギオ、ダバオ地域を主 に調査した2)。 2008年度の調査は、同じく科学研究費助成 「東・東南アジアにおける沖縄の地域間ネット ワークの形成と変遷に関する総合的研究」の一 部としてフィリピン・マニラ・バギオ、セブ地 域を中心に行った3)。 2009年度の調査は、これまでの調査の継続と して琉球大学と共同で調査を実施した4)。 本論は沖縄ウーマンの存在を探し確認し、背 景等を分析し、沖縄ウーマンをとおした沖縄戦 後史の一領域とする役割をもつ。これにいたる には、前述科学研究費助成による調査時での沖 縄人ネットワークとの出会いが大きかった。 インドネシアの調査では、ポナペ生まれで宮 古島池間出身の長崎氏と会い、聞き取りをする ことができその成果が大きかった。長崎氏は、 戦前、スラウェシ(旧セレベス)で 移民とし て働き、戦争となり現地徴集され死亡した沖縄 人の遺骨を探しこれを収集し沖縄人墓を建設す る努力を続けていた。長崎氏は戦後パラオ、セ ネガル、サントス、ダバオなどでさまざまな仕 事をし、その後ジャカルタで仕事をし、当時は ビトゥンに居住していた。ビトゥンは沖縄漁民 がカツオ漁ではいり、鰹節を製造していた地域 であった。現在も鰹節製造は続いている。長崎 氏は、沖縄人の遺骨収集を現在も続けている。 また、沖縄人が埋葬されているといわれる墓を 探しだすことも続けている。 バリ島では、宮古島出身の平良定三氏、イン ドネシア名 Nyoman Buleleng 氏の情報を得て、 その家族に会うことができた。平良氏の家族に よると、平良氏は17歳で軍人となった。インド ネシアに移住した多くの沖縄男性は漁民であっ た。平良氏は戦争の混乱、戦後のインドネシア の混乱時を経験し、戦後はインドネシア側で独 立戦争を戦い、バリに家族と暮らしていたが、 すでに亡くなっていた。 長崎氏と平良氏との調査中の出会いと発見 は、宮古島よりフィリピンを通り、インドネシ 96
アまでやってくるルートの確認もさることなが ら、この地理からくるフィリピンの沖縄ウーマ ンの調査へと導かれたことになった。 調査方法は、沖縄県人会や日系人会、領事館 を訪ねまずこちらの目的を説明し、沖縄県人会 やフィリピン日系人会5)での情報を基に、沖縄 ウーマンの住む場所をたずね、直接話を聞くこ とを基本にした。この調査は、島々の多いフィ リピンでは、大変な作業であった。 調査は、まず調査メンバーが沖縄語で話を始 めてもらい、少しずつ話の糸口をつかみ、慎重 に聞き取り調査を行うという方法をとった。沖 縄語での話は、最初は「すっかり忘れた」と言 いつつもなつかしそうに話をしてくれるのが通 例であった。 また、これまでの沖縄ウーマンの様子、例え ばダバオでの聞き取り調査では、マニラやバギ オでの沖縄ウーマンの様子を伝え、情報の共有 をすることで、自分の話を始めてくれる女性も 多かった。こうした沖縄ウーマンの聞き取り調 査から、他島に暮らしている沖縄ウーマンの情 報を得ることもあった。 高齢化している沖縄ウーマンは、入院中で あったり、病院に治療に行っていることもあ り、その場合は、家族と密に連絡をとりつつ会 える日を予約した。家族は母親やまたは祖母が 沖縄出身ということは知っており好意的に対応 してくれ、沖縄ウーマンとの聞き取り調査を可 能にしてもらった。 ! 沖縄ウーマンの定義 沖縄ウーマンの定義 沖縄女性がフィリピン人と結婚してフィリピ ンに渡ったのは、1948年米軍特別布告以後であ る。フィリピン人男性は米軍属として様々な仕 事についていた。沖縄ウーマンとの出会いは、 ほとんどが沖縄女性が米軍基地内の PX(post exchange)にて仕事をしていた事、基地の町で アイスクリーム店を手伝っていた場合、米軍人 やフィリピン人がアイスクリームやケーキを買 いに来た事、基地の中で洗濯をしたり等様々で あって、女性たちはフィリピン人と直接に対面 する仕事をしていた事である。そこでフィリピ ン人と出会い結婚し、フィリピンへ移住した。 「War Bride」=戦争花嫁は、米軍属と結婚し て米国へ渡る花嫁のことで、1952年頃から現れ たが、当時米国領事館がなかったため、米軍属 である夫の旅行命令書で渡米した。そのため戦 争花嫁の実態把握が不明である。(『沖縄大百科 事典』p602)これは、渡米の話であるが、フィ リピンへ渡った沖縄人女性への記録は皆無であ る。 また、写真結婚による妻の呼び寄せ移民は認 められていた。(石川2005、p15)写真による結 婚は結婚を目的に渡航したもので、戦争花嫁と は違う形態の結婚形態である。また、自分の母 親は戦争花嫁であったと証言する日系人会の女 性は、自分の母親と沖縄ウーマンとは区別して 話をしていた。(セブ日系人会での聞き取り調 査にて)6) 戦後沖縄の混乱期で女性たちは食べて生きて いかねばならなかった。沖縄の女性たちの中に は、沖縄戦により頼りにする場所、家族もいな い人もいた。そのような敗戦後の沖縄社会で、 生きていくために基地内の仕事や基地関係の仕 事をした。そこでは米軍人との出会いもあった が、女性たちは米軍人を選ばず、フィリピン人 を夫として選んだ人たちであった。 その後フィリピンに渡り夫の家族と生活し、 または夫の家族の世話をし、自分の家族をつく り、家族の中でも確たる地位を築き女性として 生きている人たちである。 しかし、沖縄に米軍基地がなければ存在する ことはなかった。それが沖縄ウーマンである。 フィリピンでは沖縄男性移民の歴史の中での 「沖縄」が地域としても、人々からも「沖縄・ オキナワ」として認められていた。そういう背 景があり、沖縄出身の女性である沖縄ウーマン として認知されている人たちである。したがっ てフィリピンでは、日本人女性や日系人とは区 97
別されている特別な存在であり続けている女性 たちである。 ! 沖縄ウーマン聞き取り調査の実態 沖縄ウーマンの調査は、情報を集め、その情 報を基に名前を探し出すことが最初の仕事で あった。その後、これを基に居住地を探しあて た7)。実際に話が聞けたのは、マニラ、バギオ、 ダバオ、ジェネラル・サントス、ネグロス・オ リエンタル、セント・カタリナ、レイテ、セブ に住む女性たちであった。マニラの沖縄ウーマ ンたちとは毎年話を聞くことができている。バ ギオは一回のみ調査ができた。ダバオ、ジェネ ラル・サントスは2∼3回訪ねて話を聞いたも のである。 ! バギオの沖縄ウーマン バギオへは、ルソン島マニラから北へ伸びる 高速道路にはいり、クラーク基地のあったパン パンガ、アンゲラスを通過してさらに北へのび る幹線道路(日本でいうなら国道)を進む。カ パス∼タールタック∼カメン∼ウルダネット∼ シソンを走る。シソンからベンゲット通り、そ してバギオに到着した。走行距離は約242!で あるが、高速を走ったこともあるが、もっと走 行距離が長いような気がした。沖縄移民の最初 の仕事であったベンゲット道路から急勾配を登 るが、避暑地といわれているので、気候はとて も涼しく、そのために来ていた観光客や地元の 人も多かった。マニラからは朝出発し、夜到着 する一日行程の距離であった。 ベンゲット道路はアメリカが夏季の首都およ び避暑地として選定した。(『沖縄縣史』p337) バ ギ オ に は 在 比 ル ソ ン 比 日 基 金(Filipino-Japanese Foundation of Northern Luzon, Inc.)が あった。ここでバギオに現在いる沖縄ウーマン が存在するかどうか確認を行った。バギオは前 述したベンゲット道路建設をはじめとする日本 人移民が多かったこともあり、このような基金 や在比ルソン比日基金弁護士もおり、日本人名 簿の中から沖縄人の名前を探し出すことができ た。また、海野常世シスターの活躍や尽力によ り維持されていた同基金の運営や海野シスター の墓地を訪ねることもできた。その成果で当間 清子さん、知念つる子さん、外間サダ子さんの 三名の沖縄ウーマンに会うことができた。この うち知念つる子さんは旦那さんと暮らしていた が、当間さん、外間さんはいずれもすでに旦那 さんは亡くなっていた。 {那覇市出身。キャンプ・瑞慶覧から嘉手納 基地に移り、防疫の仕事をしていた旦那さんと 51年に結婚した。長男長女は沖縄で生まれ1964 年に La Union(バギオより西方の海岸沿いの 州、中心地は San Fernando)に入ってきた。最 初はスクラップの仕事をしていたが、旦那さん は、米軍とともにベトナム、サウジ・アラビア に行った。旦那さんはすでに亡くなり、息子は 同じように25年間サウジ・アラビアに勤務し た。フィリピンに最初に来たラ・ユニオンでは 夫の家族と一緒に暮らし、家族の世話をしてい た。バギオに移ってから、夫の家族もバギオに 移って来たのでその世話をしていた。町では、 「ハポン、ハポン」と指をさされたのがとても 悲しい思い出として残っている。フィリピンに きてから洗礼をうけてクリスチャンになった。 教会ではウチナー語を知念さんと話す}8) {1949年に旦那さんと会い、1951年に結婚し た。キャンプ桑江の PX で品物を購入してくれ たのでそれを売って商売をし、生活の足しにし た。1963年にフィリピンにはいりバギオに来 た。沖縄からはトラックを持ってきたので最初 の米の商売もうまくいった。旦那さんは子供を 大学にいかせるためベトナムとサウジ・アラビ アに行った。旦那さんは健在でウチナー語を話 す。} {船のラジオ・オペレーターの仕事をしてい た 旦 那 さ ん と は 船 が 港 に 到 着 す る と 荷 物 の チェックをしていたので知り合い結婚した。 フィリピンには1958年に来た} 教会に行ってウチナーグチを話し、お互いの 98
状況を確認しあうことができている当間さんと 知念さんは病気がちではあったが、元気に暮ら していた。しかし、バギオ市内でも二人と離れ た地域に暮らしている外間さんは、話す相手も いないので、ウチナーグチもわからなくなって いた。当間さんと知念さんはすぐにバギオに やって来て在バギオ期間は30年から40年になる が、外間さんはイフガオや他の地域で暮らして からバギオにやって来た。それぞれ家族形態は 違うが子供にめぐまれていた。 ! マニラの沖縄ウーマン マニラにはフィリピン沖縄県人会(Philippine Okinawa Society)があり、元気な沖縄ウーマン が定期的または不定期に集まって情報交換し、 相互扶助精神でお互いをささえあっていた。 調査では、かならずマニラ・フィリピン沖縄 県人会に行ってメンバーと会い情報を得てい る。現在、沖縄ウーマンは高齢化が進んでいる ものの2世から3世の時代になり、3世がフィ リピン沖縄県人会を維持するまでになってい る。最初の聞き取りの時には、13名がマニラ近 郊から集合してくれた。聞き取りをとりまとめ ると以下のようになる。 {フィリピンに来たのは一番早い沖縄ウーマ ンは1950年を最初に1956年、1957年、1958年、 1959年、1963年、1966年、1970年と続いた。米 軍クラーク基地のあるパンパンガに上陸した。 バタンガス州リパ、ビサヤ州カリボから来た女 性、最初からマニラに来た女性とさまざまで あった。現在はマニラ、パンパンガに住んでい る人が多い。旦那さんは、牧港のモータープー ルで働いていた、エンジニアとして仕事をして いた。天願の PX の勤務であった。嘉手納のモー タープールに勤めていたなどモータープールの エンジニアが多かった。旦那さんのうち、一人 の公務員であったことをのぞけば、フィリピン に来てからもラオス、ベトナム、サウジ・アラ ビア、イラン、ニューギニアなど米軍に勤務し た。その理由はほとんどが生活のためであっ た。 沖縄ウーマンは4−5人の子供を育て上げ、 現在は悠々自適の生活を楽しんでいた。旦那さ んはすでに亡くなっており、子供たちと暮らし ていた。 このうち一人の沖縄ウーマンは、戦後フィリ ピンに来たため日本名とわかるとフィリピン人 に日本人か問い詰められたが「オキナワですよ と言ってごまかした」という沖縄ウーマンのた くましい側面を見ることができた。すべての沖 縄ウーマンは、フィリピンに来てから言葉がわ からず会話に苦労したのが一番大変な事だった と言った。しかし、ほとんどの女性たちは、自 分たちがフィリピンに来たことで、日本人妻を 持っていることで旦那さんも共に苦労したであ ろうと言って、旦那さんに対していたわりの気 持ちが大きかった。} マニラの沖縄ウーマンは人数が多いこともあ り、相互扶助の精神でお互いの生活を気遣い、 お互いの健康をいたわり活発な人たちであっ た。しかし、バギオや後述するジェネラル・サ ントスに沖縄ウーマンがいることを説明すると その事実を始めて知る者が多かった。マニラの 場合は、2世、3世は、沖縄ウーマンの子供と して「沖縄は自分の血であり肉である」と明言 する。このように沖縄人としての意識を強く もっている。これは、次世代にも沖縄ウーマン の歴史が引き継がれていくものと確信できるも のだった。この沖縄ウーマンの2世、3世が他 地域の沖縄ウーマンおよびその子どもたちとの 連携を創っていくことは今後の課題であろう。 " ダバオの沖縄ウーマン ダバオはフィリピン日系人会=「Nikkei-Jin Kai, Inc」の組織が大きく、活動も活発で情報 も多く、沖縄ウーマンの情報を得やすかった9) ダバオはミンダナオ島南東部にあり、フィリ ピンではマニラに次ぐ人口の多い都市である。 アジア太平洋戦争前、ダバオ周辺には東南アジ ア最大の邦人社会が形成されていた。 99
{邦人社会の多くはアバカ(マニラ麻)栽培 に従事する農業移民で、およそ半数は沖縄出身 であった。}(大野2006、p1) 前述したバギオでのベンゲット道路工事終了 後、フィリピンに残った沖縄人ベンゲット移民 の大半はダバオに渡ったと考えられる。(大野 2006、p2) {ベンゲット道路及びそ の 他 の 諸 工 事 完 了 後、工事を終えて身の振り方に困っていた日本 人を1904年9月と1905年1月に太田恭三郎に引 率されてダバオに移った。}(『沖縄縣史』7移 民、1989、p343) {沖縄県人はダバオ開拓の初期から多く移民 し、他県を圧していたが1929年には沖縄県人の 数はダバオ在住の日本人の約52%と過半数を占 めるにいたった。}(『沖縄縣史』7移民、1989、 p345)
After the construction, some of the Japanese re-mained in the Philippines. Those who had saved enough money return to Japan. A few out of the 800 workers earlier came to Davao in 1903. (The Philip-pine Nikkei-Jin Kai, Inc. Its History, 1988-p2)
ここでも移民は、ベンゲットの工事終了後、 ダバオに移ってきた事が書かれている。ダバオ における日系人の存在、換言するならば沖縄人 の存在は、ベンゲット道路建設の労働者として 沖縄人移民の歴史を刻んだ。その後、アバカ栽 培での沖縄人の移民の歴史が重層しダバオにお ける沖縄人移民の存在は大きかったことにな る。したがって、沖縄という知名度は現在でも 高かった。 {日系人の中で「沖縄人」であることの認識 は、「オトロ・ハポン」=別の日本人として差 別もふくめ区別していた。フィリピン人たち は、沖縄人のことを平均的にやや低い身長、体 毛の濃さ、食事の嗜好などの面から見分けし、 フィリピン政府も日常言語で沖縄人と本土日本 人と区別していた。それがチャパカノ語で「オ トロ・ハポン」と呼んだ。}(大野2006、p7) また、大野は当時、日本人と沖縄人移民の差 異への言及がないなかで Cody の例をあげ、ダ バオの在留邦人について沖縄人と非沖縄人を分 けていたと指摘している。(大野2006、p6) このように当時から沖縄人の存在は大きかっ たと同時に差別をふくんだ日本人―沖縄人の区 別をしながら認識されていた。現在、フィリピ ン人に沖縄人に対する差別があるかどうかは、 調査ではわからないが、それでも「沖縄=オキ ナワ」は言葉としても存在としても認識してい る。したがって、調査では、沖縄ウーマンと言っ ても「当然のごとく」沖縄ウーマンの存在を理 解するのであった。そこには上記の沖縄移民の 歴史が背景にある。 ! ジェネラル・サントスの沖縄ウーマン ダバオを出発し、ジェネラル・サントスの沖 縄ウーマンを訪ねる。ダバオから山越えをして サウス・コタバト(South Cotabato)州のジェ ネラル・サントス(General Santos)に沖縄ウー マンが数名暮らしていた。ダバオからダバオ海 峡の海岸沿いをタロモ(Talomo)∼トリル(To-ril)∼ディゴス(Digos)に行き、それか ら 山 越えをしてジェネラル・サントスに至る。この 山越えはここ数年、山岳ゲリラが出現するとい われている場所であり、運転手はこのルートを 好まず、とにかく明るいうちに山越えの往復を しなければならず相当厳しい行程であった。 ジェネラル・サントスから郊外に数キロの範 囲に沖縄ウーマンが住んでおり沖縄ウーマンた ちと会うことができ話を聞くことができた。 {小学校4年の時に戦争が始まり、米軍によ り山原のキャンプに収容された。戦後、軍の洗 濯の仕事をした。旦那さんはキャンプ瑞慶覧に て事務職であった。1954年にフィリピンに来 た。マニラ∼セブ∼ジェネラル・サントス∼ポ ロモロック(ジェネラル・サントスの郊外)と 移り住んできた。フィリピンでは旦那さんの家 族と一緒に住み、様々な品物を扱う店を開いて いた。言葉がわからず苦労した。家族は、旦那 100
さんとの結婚には反対だった。すでに旦那さん は亡くなった。子どもたちも大きくなり日本や オーストラリアに働きに出ている}(久田ナヘ さん宅で聞き取り) {戦後宜野湾に出てきて仕事を探した。米軍 の大山軍病院の PX のスナックバーで働いてい た。旦那さんはモータープールで働いていた。 家族は、結婚には反対だった。子供が産まれ、 子供がフィリピナーといわれるとかわいそうな のでフィリピンに行こうと思った。フィリピン へは1952年に来た。最初軍の飛行機でパンパン ガに来た。マニラ∼ダバオ∼ジェネラル・サン トスと移り住んだ。旦那さんは技師で、ダバオ ではジープの運転手をしていた。また、日本人 向けにキューリや野菜を栽培し出荷していた。 沢山の人を雇って生産をし、日本まで輸出し た。旦那さんはすでに亡くなった。慰霊団のガ イドをしていたが、現在は体調がすぐれずやっ ていない。}(比嘉ヨシ子さん聞き取り。本名は 比嘉ヨシであることが後でわかった。当日は体 調が悪く、入院しており、病院まで訪ねて聞き 取りをした。それでも沖縄人に会えると楽しみ に待っていた。パスポートの問題があって悩ん でいた。その後、再度自宅を訪ね聞き取りがで きた。) {旦那さんは天願の米軍で事務職として働い ていた。自分は米軍基地内で洗濯をして働いて いた。結婚には賛成されなかったが、1952年か 1953年頃沖縄から軍用機でフィリピンに入りダ バオに来た。旦那さんはガードマンの仕事をし たが、若くして亡くなった。その後、子供を育 てるのが大変だった。子供たちはフィリピンの 子供から「ハポン・ハポン」と追いかけられ可 愛そうだった。それでもよく手伝いをしてくれ た。子供を育てるため、豚を飼育しそれを売っ て稼いだ。現在は所有する家屋を貸している。 また、子供や31人の孫、9人のひ孫がいる}(幸 地ヨシさん聞き取り) {旦那さんは、米空軍の事務所に勤めていた。 仕事は地域コミュニティサービス担当だったの で、旦那さんが村に来た時、出会い結婚した。 1956年にフィリピンに来た。旦那さんのおじさ んと一緒にダバオに来て、精米工場で働いた。 子供が精米機械で腕を切断したことを旦那さん は悲しみ、その後亡くなった。}(大城シゲ子さ ん聞き取り。大城さんは入院中で入院先の病院 で会うことができた。沖縄人と会うことを楽し みにしていたのに倒れたとのことであった。病 院では娘さんと一緒に話すことができた。大城 シゲ子さんはその後急逝した。)10) 調査をダバオからセブに移し、セブ日系人会 へ行き情報があるかどうか確認した。ここでは 沖縄ウーマンの所在確認ができなかったが、4 名の沖縄人の名前を探すことができ、そのうち リロアン(Liloan)の沖縄人家族を訪ねた。こ の家族の話では、昔リロアンには沖縄漁民が集 まって暮らしていた。フィリピン人の奥さんと 暮らしていたが、戦争で現地徴集されミンダナ オ島タモガンにて死亡した。現在、奥さんは元 気に孫たちと暮らしていた。家族のうち数名は 日本に出稼ぎに行き、帰ってきた子供と孫もい た。他の、2名も沖縄漁民であったと情報はあっ たが、詳しい調査はできなかった。 ! ネグロス・オリエンタルの沖縄ウーマン ネグロス・オリエンタルはネグロス島東部、 セブ島より頻繁に船が出入りしている島であ る。ネグロス島は西側 Negros Occidental と東側 Oriental Negrosに分かれている。沖縄ウーマン がネグロス・オリエンタルに住んでいるのは、 セブ島が近くセブ島で働いてからやって来たと も想定できた。ネグロス・オリエンタルに沖縄 ウーマンがいるという情報は、ダバオでもマニ ラでも話にはでたが、ネグロス・オリエンタル のどの地域なのか、正確な名前も分からなかっ た。そこでまずバレンシア警察(Valencia Police Station)で何か手がかりが無いか聞いた。ここ で聞いた一人の北海道出身の日系人の家を訪ね た。沖縄ウーマンの情報は何も得ることができ 101
なかった。 次にバレンシア市長を訪ねた。市長は調査の 支援をしてくれることになったが、沖縄ウーマ ンの情報を得ることはできなかった。その後、 元ザンバンギタ(Zambanguita)市長を訪ねた。 元市長は18年間市長をしていたこともあり、一 人の沖縄ウーマンを知っていた。 これまで情報をもらっていた沖縄ウーマンと 市長の言う沖縄ウーマンの名前が一致し自宅を 訪ねることになった。沖縄ウーマンの自宅にて 話を聞くことができた。 {両 親 は サ イ パ ン∼ロ タ∼テ ニ ヤ ン に 移 住 し、テニヤンで生まれた。1942年テニヤンは米 軍による空襲があった。父親はその時逃げ場所 が悪く死亡した。自分たち姉妹は米軍の収容所 に収容され1943年に沖縄に引き揚げた。故郷は すでに米軍の基地になっており、戦後は、昼間 は洗濯をし、夜はお手伝いをして働いた。嘉手 納基地で建築の仕事をしていた旦那さんと会 い、結婚した。家族は、フィリピン人との結婚 に反対した。1957年、沖縄よりパンパンガに来 た。それからマニラ、バレンシアに来た。バレ ンシアでは旦那さんと田で米を作ったりトウモ ロコシを作ったりした。牛を飼っていたが重労 働だった。自分は昼間時間があると洗濯をし、 夜はアイロンかけをして稼いだ。食べるのに精 一杯だった。生活が大変苦しかったがその苦し みを家族にも話すことができなかった。戦争の 後が本当に大変だった。}(喜納照子さん聞き取 り。喜納さんはフィリピンに来たとき、軍のト ラベル・オーダーという書類で来ていたので、 フィリピンのパスポートがなく、日本のパス ポートを取得するために沖縄に帰った。51年ぶ りに兄弟に会えたと喜んでいた。) その後、セント・カタリナ(Saint Catalina) にて糸満出身の大城さんの息子を訪ねた。4人 兄弟でネグロスに来て、セブ出身の女性と結婚 した。これが両親で二人とも亡くなった。この 時他の情報提供もあり、セント・カタリナより バ ヤ ワ ン(Bayawan)の ダ ビ ン(Davin)に 行 き、大城ゼンエンさんと会った。 大城ゼンエンさんは、バレンシアの山の中で 生まれた。ゼンエンさんが産まれたときは、両 親はお手伝いさんを雇っていた。日本へ引き揚 げの命令がでた時、大きかった兄弟は沖縄に連 れて行ったが乳飲み子だったゼンエンさんはお 手伝いさんにあずけて両親は引き揚げていっ た。 このように沖縄ウーマンの調査とは直接関係 がないものであるが、調査をしていると情報を 寄せてくれる人がおり、時間のある限り会うこ とができた。沖縄人、一人ひとりの複雑な人生 があり、沖縄人の移民の歴史検証がまだまだ進 んでいないことを実感するものであった。 ! レイテの沖縄ウーマン レイテ島は激戦地でもあった。トロサは、元 マルコス大統領夫人イメルダの出身地でもあ る。また、激戦地に建つ各県の慰霊碑が多い。 したがって慰霊団も多く訪れていたが最近はそ の数も少ないという話を建立塔の近くでフィリ ピン人に聞いた。 沖縄ウーマンの仲村ヒデコさんは、この慰霊 団のガイドをしていた。日本の旅行者も仲村さ んの名前を知っていたのには驚いた。レイテ島 タクロバン(Tacloban)より内陸に入ったブル エン(Burauen)に仲村さんは一人暮らしをし ていた。 {沖縄の両親は農業をしていた。戦争中は大 宜味村に疎開し、戦後、コザでアイスケーキの 売り子をしていた。旦那さんはコザで建築の仕 事をしていた。アイスケーキ屋によく来てくれ た。家族は反対したが結婚してコザに住んだ。 戦後軍の飛行機でマニラに来た。マニラに住ん でいたが、子供のことを考え涼しいビサヤン (Bysayan)に来た。フィリピンに来てから、 戦後、日本人ということで屋根裏に隠れていた 時期もあった。レイテでは慰霊団のガイドを33 年間やった。旦那さんの家は土地があり、散髪 102
屋をしていた。レイテ島には沖縄の慰霊団は来 なかった。レイテには最初4人の沖縄ウーマン がいたが2人は帰った。言葉はワライワライ語 とタガログ語で会話にはとても苦労した。}(仲 村ヒデコさん聞き取り。現在は一人暮らしをし ているが近くに孫が住んでおりいつも行き来を していた。現在、足が悪くてあまり歩けなくなっ た。沖縄から調査のためにわざわざレイテまで 来てくれて「もう死んでもいい」と言われた。 それほど沖縄の人には会いたかったのだと言わ れた。 ! 沖縄ウーマンの地理的特徴 これまでの調査は、バギオ、マニラ、ダバオ、 ジェネラル・サントス、セブ、ネグロス・オリ エンタル、レイテ島を少ない情報を集めて行っ た。また、これまでの情報では、イロイロ島 (Iloilo)にもいるという情報を得ている。ま た、サモール島(Samor Island)にも沖縄ウー マンが一名いるという情報を得ている。しか し、その島のどこにいるのかはわからない。実 際、これまでの調査は、小さな情報をつなぎあ わせて、フィリピン人の協力を得ながら沖縄 ウーマンの住居を探しあてたものであった。し かし、訪ねていくと、突然にもかかわらず本当 に喜んでくれて、多くのことを語ってくれた。 その喜びの裏に女性たちのいかに孤独な生活が あったのかと思いしらされたものであった。 これまで調査ができた沖縄ウーマンの出身地 は、国頭村、那覇市、与那原、具志川、中城、 具志川天願、大宜味村、沖縄市越来、テニアン などばらばらであった。 この点は、前述したベンゲットから始まる沖 縄人移民の出身地が、沖縄本島が圧倒的に多 く、本島中部から南部にかけての地域が中心 だった。{なかでも目立ったのが、「沖縄移民発 祥の地」といわれる金武村であった。}(大野 2006、p4) {沖縄社会における血族的血縁的紐帯の強さ は自給自足を建前とする閉鎖社会から一歩踏み 出して、その外部の世界においても発揮され た。その例が各移民在留国における県人会・市 町 村 人 会・字 人 会 の 誕 生 で あ っ た。}(石 川 2005、p25) {フィリピン移民の志願者は国頭郡が一番多 く、中頭郡からもみられた。}(『沖縄縣史』7 移民、1989年、p348) つまり、移民社会を考える場合沖縄人が在留 する国や地域への出移民の傾向は、沖縄の社会 組織である血族血縁的紐帯が海外でも存在し、 ここに移民の地を求めていった移民が多かった という特徴があるということである。 この点での沖縄ウーマンの血族的血縁的紐帯 による地域的特徴はみられない。聞き取り調査 では、例えば「誰かを知っていたから」「近所 の誰かがいるから」という理由は一切なかっ た。沖縄ウーマンのフィリピンにおける在住地 の地理的なつながりや特徴は特にないのが現実 であった。しかしながら、沖縄からフィリピン への入り口の部分は、パンパンガなど米軍基地 へ到着し、フィリピンの第一歩が始まるという 点のみが共通していた。この点は前述の沖縄移 民のルートとは異なっている。フィリピンに到 着してから、次の場所、地域への移動は、すで に在留する沖縄ウーマンを頼って移動し、居住 することになった例は一切なかった。 フィリピン沖縄ウーマンの移住した理由は、 まずフィリピン男性と結婚したことであり、戦 後の混乱期であってもフィリピン男性と結婚し たことは、認めてもらえなかった場合、また、 反対された場合があった。フィリピン男性との 間ですでに子供がいる場合は、子供のことを考 えフィリピンにやって来た場合もあった。これ はこの裏返しの現象として、沖縄社会での「フィ リピナー」という差別的感情も作用していた。 したがって沖縄ウーマンの移住地は、ほとんど は自分の意思ではなく、旦那さんの家族のいる 場所や、旦那さんの仕事がしやすい場所であ り、これは家族の数だけ居住地が点在するはず である。 103
沖縄ウーマンの聞き取り調査では、最初から 一箇所にまったく移動せず定着した人はいな かったし、ほとんどの沖縄ウーマンは数箇所を 転々と移動した。現在では、沖縄ウーマンが作 り上げた家族が一緒に暮らせる場所に住み、高 齢化とともに定着地としていたのが特徴であ る。 沖縄ウーマンの地理的広がりは、一島に一 人、一市に一人か二人というように転々と点在 し、面的な広がりはほとんど認められない。し たがって点と点を結ぶネットワークがない限り 沖縄ウーマンはすぐ近くに沖縄ウーマンが住ん でいても分からなかったのであった。このよう に点在する地理的特長は、沖縄ウーマンの精神 的な孤独の程度と比例するものと考えている。 む す び 沖縄ウーマンの存在をさがし、沖縄からフィ リピンに移住した理由やフィリピンでの生活な どを少しずつ話してもらい聞き取りをしてき た。フィリピンに移住した理由は、フィリピン 男性と結婚したこと以外に、結婚に反対または 認めてもれなかったこと、子供がうまれ、子供 のことを考えてフィリピンに移住したなど、一 つの決定的理由はなく、いくつかの理由が重複 していた。沖縄ウーマンは、個人史を全部語っ てくれているわけではない。それでも本論に紹 介できない事柄もあった。調査の聞き取りのと きに「躊躇しながら」話してくれる事柄は、こ の裏に話せない事柄が山ほどあるということで あった。 沖縄ウーマンがフィリピンで「沖縄ウーマ ン」として認識されているのは、沖縄の移民の 歴史を抜きに考えることはできない。ベンゲッ トの道路工事やアバカ栽培などを初めとして沖 縄からのフィリピンへの移民の歴史は、現在の フィリピンの沖縄ウーマンおよび2世、3世を 考えるためにも必要である。 沖縄女性がフィリピン人と結婚して移住した 事実は、「戦争花嫁」「写真花嫁」としてくくら れてしまうとしたらそれは正確ではない。沖縄 ウーマンとして認知される理由、その背景、要 因を知る必要がある。その上で点在するフィリ ピンの沖縄ウーマンの存在をつなげるネット ワークの構築が2世、3世によって創られるこ とが望まれる。 まだフィリピンのどこかに沖縄ウーマンは存 在する。また、同じ境遇でフィリピンに渡った がフィリピンに住めずにグァムなど太平洋諸島 に渡り沖縄には帰っていない沖縄ウーマンがい る。これらも沖縄ウーマンとして今後調査する 必要がある。また、できる限り沖縄ウーマンの 故郷側の聞き取り調査も続けるならば沖縄ウー マンの全体像を論理的に展開できる。 聞き取り調査ができた沖縄ウーマンは、一度 も沖縄には帰っていない女性もいた。また、結 婚について反対されたけれども一度は沖縄に 帰ったという女性もいた。したがって、故郷で の聞き取り調査も、また複雑な配慮を必要とす るかもしれない。アバカ栽培で成功した移民を 送りだした金武村を例にすると、村史としてき ちんととりまとめられている。この点は、沖縄 の村史の充実を認めるものである。しかし、フィ リピン人と結婚した沖縄ウーマンの生活と生き 様を記録しているであろうか。 日系人組織については、現在、新日系人組織 も存在する。また、フィリピン女性が日本人男 性と結婚してフィリピンに戻っているか、日本 在住している新しい世代のフィリピン人の対応 が進んでいる。これらを勘案すると、初期の沖 縄人移民の歴史と新日系人の間に存在した、存 在している沖縄ウーマンの戦後史はまったく掘 り下げることもなく消失していく可能性があ る。たとえば、沖縄ウーマンの3世がフィリピ ン人男性と結婚した場合、沖縄の苗字(大城、 金城など)をすでに使用していない例もあっ た。この点は、将来、本調査ができた沖縄人の 苗字を選んで沖縄ウーマンをさがしていくとい う方法はほとんど成立しなくなる可能性が大き 104
いのである。この点からも本論は、フィリピン への沖縄移民、日系人移民の歴史とは異なる沖 縄ウーマンの存在を明記しただけでも沖縄戦後 の社会形態の解明に貢献できるものであり、沖 縄戦後史の一つとして提示できたのである。 脚注 1,フィリピンではタガログ語と英語を共通語とする ため Okinawa Women は英語で分かりやすいという こともある. 2,この時の科研費助成調査メンバーは,安江孝司, 飯田泰三,仲程昌徳(敬称略),細田亜津子であっ た. 3,この時の調査メンバーは,安江孝司,仲程昌徳(敬 称略),細田亜津子であった. 4,この時の調査メンバーは,琉球大学より大城肇, 金城宏幸,仲程昌徳,法政大学より安江孝司(以上 敬称略),細田亜津子であった. 5,フィリピン日系人会の設立,その後の日系人会の 活動,歴史については,『The Philippine Nikkei-Jin Kai,
Inc. Its History』としてまとめられ,情報を共有して いる. 6,セブ日系人会は,2008年,2009年2月の調査時に 訪問した.2009年は,セブ日系人会の会長は山内氏 (女性)であった.山内氏からは,戦争花嫁であっ た母親の話,他の日本人女性の話などを聞くことが できた.ここで大城ゼンエンさんの話を聞き,大城 さんがフィリピンに残された理由などが明確になっ た. 7,沖縄人の名前は特徴があるため,調査する際は名 簿などを見せてもらったり,閲覧して,沖縄人名と 推定できた.しかし,沖縄人名と日本人名が微妙な 場合(例:東)は両方の可能性から調査し,名前か ら住所を探しあてた. 8,沖縄に帰国したら教会の牧師さんに会ってお礼を 言って下さいと頼まれた.教会は,沖縄世界宣教教 会喜納牧師のことである.2009年喜納牧師に会い, ダバオの報告をした. 9,ダバオ日系人会会長の Mr. Juseven S. Austero に は,情報の提供や知人の紹介など調査をスムーズに できるよう尽力してもらった.ここに謝意を表した い. 10,2009年娘さんと会うことができた.調査に来た沖 縄人と会えたことを母親は本当に喜んで亡くなった と聞かされた.生前に会うことができたこと,それ によって少しでも沖縄ウーマンの歴史として記録で き残すことができて安堵した. 参考文献・資料 ・石川友紀(1997)『日本移民の地理学的研究』,榕樹 書林 ・石川友紀(2005)「沖縄県における出移民の歴史及 び出移民要因論」『移民研究』創刊号,琉球大学移 民研究センター ・石川友紀(2008)「100周年を迎えたキューバにおけ る沖縄県出身移民の歴史と実態」『移民研究』第4 号,琉球大学移民研究センター ・大野俊(2006)「「ダバオ国」の沖縄人社会再考 − 本土日本人,フィリピン人との関係を中心としてー」 『移民研究』第2号,琉球大学移民研究センター ・宮内久光(2009)「引揚者在外事実調査票にみる沖 縄県本籍世帯主の居住地域!−フィリピン−」『移 民研究』第5号,琉球大学移民研究センター ・沖縄県教育委員会(1989)『沖縄縣史』7移民,図 書刊行会 ・沖縄県文 化 振 興 会,公 文 書 館 管 理 部 資 料 編 集 室 (1998)『沖縄県史』資料編6 移民会社取扱移民 名簿,近代1,沖縄県教育委員会 ・沖縄大百科事典刊行事務局(1983)『沖縄大百科事 典』,沖縄タイムス社 ・沖縄県総務部総務課(昭和57)『移住関係事務概要』 ・沖縄県総務部国際交流課(昭和58)『海外移住事務 概要』 ・「新沖縄文学 No.84」―特集/もうひとつの戦争 体験―台湾・フィリピン・南洋群島―(1990),沖 縄タイムス社 ・望月雅彦(1994)『ボルネオ・サラワク王国の沖縄 移民』,ひるぎ社 ・琉球政府(1957)『琉球要覧』,琉球政府行政主席官 房発行所
・Vicente T. Mori, 1988, The Philippine Nikkei-Jin Kai,
Inc. Its History.
沖縄県立公文書館資料
・United States Military Government Special Proclamation
No.28
・United States Military Government Special Proclamation
No.31
・琉球臨時中央政府行政主席事務局「米国軍政府特別
布告第28号」
・「米国軍政府特別布告31号」