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談話室-香川大学学術情報リポジトリ

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談 話 室

はるけく来つるものかな一着任雑感 高 橋 明 郎 であったが,その人の系累が観音寺の人と 判明して,身晶虞だろうというので我が家 では一顧だにされなかった。 実際私も採用面接の為9時間かけて初め て連絡船で夜の瀬戸内海を渡り高松に辿り 着いた時ほ,後鳥羽上皇隠岐の島という感 じがした。時を同じくして近畿圏から赴任 された先生方は古い・高い琴電にカルチュ ア・ショックを受けられたらしい。が,私 の地元には御同様中古車の巣の日立電鉄 と,キロ当り運賃が日本一高い筑波鉄道が あったから少しも驚くものでほなかった が,天下の大朝日新聞の物申す欄投稿者の 居住地があらかた聞いたこともないもので あり,又その欄で長きにわたってムカデ除 け・退治法秘伝が開陳されているのを見る につけ,或は名前ほ知らないが体育館前の パイナップルと葉巻を掛け合わせたような 木の関東でほ考えられぬ程の育ち様を見る につけ,随分と遠くへ来たものだと実感さ せられた。私の前任の先生は陶淵明の詩が よく分るようになったと言い残して私と交 替されたが,,この分でほ私もアイへンドル′ フのIn der Fremde といった詩を涙なしに

は読めなくなるのであろうか? 否,そう悪く言う程のことは実際にほな かった。去年通勤に片道5時間かけていた 私には歩いて通えるのが何より有難いし, 心配していた専門書も,勿論大きな大学の 「南の島はもうすっかり新線に包まれて いることと存じます。」昨年お世話になっ た大学の学科主任の先生から頂戴した御手 紙の書き出しである。一体「南の島」とい うのは小笠原・庵美或はフィジーといった 感じだから,関東人にとって四国の位置が どう把えられているかをこの文はいみじく も示しているのだ。 だから私が香川大へ赴任する前の周囲の 反応は推して知るべし。大抵の方が四国へ 就職というと,一応の祝いの言葉のあと 「=‥‥まア若いうちの苦労は買ってでもし ろというから」と続けるのである。この裏 には関東人に蔓延する“西の人には気をつ けろ”という意識が有るのである。多分長 く王城の地・文化の中心だった関西へのコ ンプレックスに由来するものなのだろう が,ここへ書き連ねたら石見銀山でも盛ら れかねない多くの西国人への悪口も聞かさ れた。大体私ほ水戸と会津の合の子だか らト縁者の頭の中では,戊辰戦争で会津へ 攻めよせた西軍(当然ながら官軍・敗軍と いう呼称は俄軍の地では用いられない)へ の怨みで西方の人は悪いということになっ ているのである。本来会津と同姓の松平 で,水戸光囲の子孫の藩たる高松が悪く言 われる謂は全く無いのだが…… 。その中で 最も好意的な人の意見は「四国の人は京・ 大阪の人に比べれば人が良い」というもの

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高 橋 明 郎 だろうか)勿論讃岐土着の文化ほ有るし, 音楽にしてもアマチュアの多くの団体が活 動している。多くの人がプライベートに演 奏に参加したりするのは文化の重要な一面 だし私自身も好きだ。しかし,それらほ所 詮一流のものに接することの代替にはなり えない。 実のところ文化への飢えは日々増してい る。文科の教師・研究者としては,この飢 餓感はいつまでもはっきりと感じるようで ありたい。この点だけは香川に同化し慣れ てはいけないと戒めたい。そうしてこの飢 餓感を事あるごとに学生に吹聴したいと 思っている。灰閲するに香川大の学生の多 くは近県出身者だそうである。だから彼ら は当初からこうした深刻な飢餓感を感じな いでいるのかもしれない。例えば国語や社 会,芸術の先生はとどのつまり文化を伝え る仕事だ。こうした飢餓感すら感じない学 生がそのまま卒業してそうした職につくと いうのは考えてみればこれほど恐しい事は ないと思うからである。 98 ようなわけにはいかないが先任の先生方の 御力で必要最低限のものは有った∴それに もかかわらずこの町の暮しには一点の大き な不満が有る。それは文化の層の薄さであ る。私の生まれ育った茨城もその点でここ といい勝負だった。しかし乗り物にゆられ て東京へ出さえすればよかった。好きなオ ペラや展覧会,所謂名画座,もっと小ぶり にほ東宮御所近くのドイツ文化センターで 年2回程集中して開かれたドイツこ映画やオ ペラ・フィルムの上映週間,常打ちの寄 席,こうした多くの催しに通えた学生時代 は実に楽しかった。人ごみ,渋滞と,そこ に住みたいと思ったことは一度もなかった が,少くとも文化面では東京は宝の山で, 大阪ですらその意味では数等下,況や高松 に於てをや。(今春の入試で京大から東大 へ人が流れて大騒ぎだったようだが,これ など東大が好かれたというより東京が好か れたためと思うがどうかしら。東大と京大 がスタッフ・予算等そのままで場所だけ交 換したら今年と逆の結果になるのではない

留学生随想 その1

友 沢 昭 江 が)には,近くの華僑の散髪屋さんとか焼 肉屋の朴さんといった日本人と全く変わら ない人たちとの接触を除けば,外国人は遠 い存在なのである。 ところが,私が入学した大学には,毎年 三百名以上の外国人が留学生として日本語 を学びに釆ており,彼らと何でもおもしろ そうな事をしてやろうという学生のクラブ 私の生まれ育った町,神戸は人口ひとり あたりの割合で見れば,外国人の数ではお そらく日本でも一,二になるだろうと思わ れる。しかし,普通の神戸人(「神戸っ子」 という洒落たことばがあるが,これはさし ずめ北野町辺りに住んで,子供をインター ナショナルスクールにでも通わせて喜んで いるような人にしか当たらないと思うのだ

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があった。ここでの活動を通して,ユニー クな,そして心に残る留学生と知り合うこ とになり,ひいてほ後に日本語を教える きっかけにもなったのである。なにか短い エッセイでも,と言われなければ,おそら くじっくりと想い出すこともなかったであ ろう外国の友人たちのことを少し述べてみ ようと思う。 大学に来ている留学生はみな文部省の奨 学金を受けている学生で,日本語を半年間 学んだ後,全国の大学に振り分けられ,各 自の専門分野の研究に携わることになって いる。 この最初の六ヶ月間の研修期間中は出身 国も専門もバラバラの外国人がせまいキャ ンパスにうようよし,さながらミニオリン ピックの様相を呈する。これだけの数が集 まれば,中にはちょっと変わったのや,ユ ニークなのも当然出てくる。万年「平和」 の「単一民族」国家の日本にどっぷりつ かっていては,ちょっと聞けないような詰 も耳にする。 今回は,今の日本人にとっては最も現実 感の薄い「戦争」という現実をまざまざと 感じさせた一人の留学生のことを書いてみ ようと思う。 ベトナムの留学生のホンさんに初めて あったのは,1974年,大阪の千里にある留 学生寮のクリスマスパーティーでだった。 そのとき彼ほすでに博士課程の三年で,専 門の電気工学の研究もあとほ論文を仕上げ るのみだった。彼の日本語はかすかに「な まって」はいるものの,およそ完壁に近い ものだった。アメリカやヨーロッパの学生 が底抜けに楽しんでいるのを,すこし離れ てワインを飲みながらながめているその視 線は,優しいというより,淋しげであった。 長髪に口髭をはやし,黒の上下に細身の体 をつつんだ彼は,アジアのインテリ青年の 名にふさわしい人に見えた。その頃のベト ナムからの留学生はみな当時の南ベトナム からで,彼も,サイゴソの出身で,これも またエリートの例に違わず,英語とフラン ス語を話し,戦下にある祖国や,家族のこ とを常に心に懸けていた。彼によると/両 親はサイゴンで商売を営んでおり,妹が何 人かいて,彼は長男で,一家の「期待の 星」のような存在であり,その自分が研究 のためとはいえ,故国を離れているのは何 とも心もとない。ひんばんに手紙を書くの だが,日数もかかるし,出したものもすべ て届いているとは思えず,向こうからの返 事も,忘れたころにやっと来るということ であった。博士号をとれば一刻も早くベト ナムに帰りたいとは思うものの,その時点 での情勢によっては,せっかくの日本での 努力の成果も役立てることができなくなる かもしれず,毎日をやりきれない思いで過 ごしていたのだった。 新しい年1975年が明けて,彼の出す手紙 に対する返事ほ全く来なくなってしまった。 そのことの意味を彼ほノ最悪の事態が起 こっているのだと解釈したようだった。そ の年の4月に彼は念願の博士号を取り,彼 の故郷サイゴンほ陥落,北ベトナム軍によ り「解放」された。この時,国外にいたベ トナム人留学生の中には帰国を諦めた者も 多くいたが,ホンさんほ決めあぐねていた。 第一,故国のために自分の知識や技術を役 立てたいと−ま思っても,それはあくまでも 愛する家族や友人や慣れ親しんだ町や風景 があってのこと。その家族の安否も確認で きない所へとびこむのは,かなりの勇気の いることであった。 しばらく彼と会うこともなく数カ月が過 ぎ,私は大学三年の夏休みをフランス語の

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友 沢 昭 江 れる始末。その後,日本もベトナムからの 難民を不承不精受け入れ,対応に四苦八苦 することになろうとほ思いもよらなかった 頃のことである。 解放後数年たって80年代に入ると,統一 ベトナムからの留学生がやってくるように なったが,彼らとホンさんの間にはかなり の違いがあるように思われた。専攻が理科 系に多いのは相変わらずだが,ロシア語を 話す人が多く,服装もどちらかというと地 味で,少し野暮ったいような感じだった。 祖国の建設のために学ぼうという真撃な態 度には変わりないのだが,意気込みがスト レートで,解放前の,特にサイゴソのよう な大都会出身者にみられた少し斜に構えた アンニュイな雰囲気を持ち,音楽や文学な どの専門外のことに関する知識も豊富に備 えた人は少なくなったような気がした。 ホンさんがカナダへ移住した後のことは 一切分からない。アメリカよりも移民の受 け入れに対する配慮の細かい国であるか ら,彼のような専門技術の持ち主はおそら く「平等の機会」を十二分に活かしている ことだろう。しかし,今でも,一家でベト ナムを脱出し,大海を小舟で漂流するボー トピープルのニュースを聞くと,たった一 人でカナダへ行ってしまったもう一人の 「難民」のことを思わずにほいられないの である。 100 「勉強」のためにパリで過ごすことにした。 凱旋門からほど近いアパルトマンの一室に 下宿し,語学学校に通ったのだが,夏の日 の長いパリのこと,夕食後,同じ下宿のス イス人の女の子といつものように散歩にで かけた。見知らぬ通りを歩くのはワクワク することだが,パリという衝はそんな好奇 心を決して裏切らない。その日ほミーハー 的に凱旋門の下をくぐりぬけて,シャンゼ リゼへ行こうということになった。薄暗い 地下道で向こうから近づいてくる人影をみ たとき,思わず大声をあげた。 「ホンさん,何してるのん,こんな所 で!」 「あなたこそ,なんで・・・」と,まるで 梅田の地下街で出会ったようなやりとりに 二人とも大笑いをした。 彼の話によると,家族の安否は相変わら ず不明のままで,新生ベトナムの体制には 自分の考え方は受け入れられないだろうと の思いもあって,結局帰国を断念し,技術 を持つ者を優先して受け入れてくれるカナ ダへ移住することにした,というのだ。そ して,祖国に帰れないのならその前に,友 人や親戚の多くいるフランスへセンチメン タルジャーニーを,と考えたのだった。 「日本にそのままいたら?」と聞くと「日 本には,僕の業績を認めて,働く場を与え てくれる所があると思う?」と反対に問わ

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百人一書−

わたしの読書遍歴Ⅰ

中 川 益 夫 ど味わいが増してくることは,既に多くの 先達が経験していることでもある。だから こそ,読め,読め,読み進め!と幾多の先 人が繰り返しわれわれ後進に教訓を示して くれてきたのであろう。 そんな思いをかけめぐらせつつ,この チャンスとスペースを得て,私が,無数に 近い古今東西の書物の中から,感銘を受 け,涙を流し,笑いころげた,印象に残る 名作を特に百選に限定して跡付けてみよう と思い立った。小倉百人一首に形式は倣っ たものの,表題はあくまで私個人のささや かな読書遍歴の一表現形態であることもち ろんである。 日 読みはじめた頃 奈良盆地ののどかな田園に生れ育った私 ほ,書物を読みはじめるのが遅かった。家 には少年向きの本らしい本が皆目なかった のが一つの理由である。小学校の図書室に は書棚に百冊ばかりゐ本が並んでいたこと や,村に廻ってくる貸本屋のおじさんが行 李にぎっしり本をつめてやってくることか ら,世の中に本というものがたくさんある らしいことは子供心に理解出来た。 文学作品として小さい私の心をとらえた のほ,小学六年の国語の教科書に出てきた 短篇,志賀直哉「かくれんぼ」と芥川龍之 介「みかん」であった。この二作が並んで 出てくる配慮もすばらしい。前者は水晶の はじめに 古典と呼ばれるような価値ある本を読む のは好きだが,自然科学系の実験分野で仕 事をしている私ほ,普段はなかなか文章を 書かない。でも,あなたも何か書きますか と誘われると,書いてみたい気拝も起る。 そうして,いろいろ迷ったあげく,書く。 ところが,そうと決心して書くとき,たち まち押し寄せる逆流に身を置いている自分 に気付く。それをも振り切って書けば書く ほどに勾配はきつくなる思いがする。押し 流され,初心もゆらぐ。「どうせ,たいした ことも書けまい」と外なるざわめき。書 け,書け,書き進め!と内なるときめき。 そうこうして,やっとつつましやかな一作 が出来上がる一−これほ私の場合の話だ が,幾十年幾百年の時代の荒波に陶汰され てなお生き残っている名作という・ものが世 の中にはある。そうした古典の数々に私如 き浅学非才が口ばしを入れる余地は無いか も知れない。でも,時には例外も許して欲 しい。 最近は,若い学生も含めて,人はあまり 本を読まないという。名著なら読みますか と聞いても,何が名著か判らないとの応答 も。多様化の世相の中で,名著すら読む必 要がなくなってきたのだろうか。一断じ て否。蜃著に触れてこれを読むとき,伝 わってくるあの感動ほどうだろうか。一回 の通読では稀薄であっても,読めば読むほ

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102 中 川 益 夫 読んで割り切れない気がして仕方ない。し かし何か不思議なもの−論理を越えた想 像力とでも言うものが文芸作品たるゆえん だと段々わかるようになってきた。おとぎ 話や童話の世界に出てくる非論理,たとえ ば浦島太郎が水中にもぐって平気なこと や,天人が空を舞ったり動植物がものを言 い,竹や桃から人が生れ出てくるなどほ, 人間の心のうちの何パーセントかを占めて いて,あたかもビタミン剤のような働きを しながら人を制御してくれているのでもあ ろう。 私が生まれて初めて自分で本を買って全 真読みおおせたのほ,アミーチス原著菊池 寛訳『クオレ』という,昭和2年発行の小 学全集の一冊の古本だった。ピサの斜塔を 背景に若い女性が花籠を頭にのせている表 紙の絵が気にいったらしく,京都河原町蛸 薬師の夜店で,内容は知らないまま買い求 めたものだった。それは戦后4年目,私が 中学に入学した13才の春だった。『クオレ』 は一口に言えば,イタリアの或る学校生活 を措いた愛国少年物語ということになる が,月に一回先生の講話という形で挿入さ れている物語が特に興味深い。全体に愛国 心を吹き込む題材が色濃く出ていて問題は あると思うが,「母をたずねて」などの名 作紹介のほか,とりわけ「フローレンスの 少年筆耕」の物語が心の琴線にふれて感銘 深いものがあった。それというのは,貧し い父親の収入を助けようとして,夜中に起 きてこっそり封筒の宛名書きを手伝う少年 が,成績がおち体力が衰えて,ついに親に 気付かれてしまうという物語に熱い涙を流 したのを思い出す。 作品の味わいというよりも性格形成に大 きな影響を与えてくれたと思われるのは, 国木田独歩「非凡なる凡人」であった。桂 ように透明で明るく都会的なひびきのある 作品である。「オデットはずるい……」と 叫ぶあたりを頂点として一編の詩を読むよ うな味がある。後者の「みかん」は地味で 田園的で,ひなびた貧乏くさいにおいのす る作品である。汽車の密から子供達に向っ て投げられるみかん−その情景が印象づ けられるまで,バッとしたところが無い。 が,心よい余韻が尾を引くという点で,即 効性の「かくれんぼ」と際立ったコントラ ストをもつ晩発性の名作だと思う。或る日 の授業中,先生が「この二つの作品のどち らが好きか」と質問を発した。私はちょっ とためらったのち「みかん」の方に手を挙 げた。クラスの生徒ほ農家の子弟が多かっ たが,特に学校まで2キロ3キロの道を雨 の日も風の日も歩いて通ってくる遠相通学 児がこの「みかん」の方に多く手をあげた。 「かくれんぼ」の方には会社員などの子弟 が多く,交通便利な街道筋の子が多いよう に思われた。確かめたわけではないが,19 48年当時の指導要領に「どちらの作品が好 きかを問え」とあってのことと思うが,す ばらしい設問だったと思っている。 小学校卒業式の日,教室の机にかじりつ いて,いつまでも泣き続けたのは,あの 「みかん」側の学童たちだった。「かくれん ぼ」組はカラッとしていて,桜の咲く校庭 で書々として遊びに興じていたのを思い出 す。その相関関係を不思議なものだとしみ じみ思うのである。 文学作品というものが実生活と少し変っ た内容を含んでいる,いわゆるフィクショ ンを巧妙にとり入れていて,それが実は作 品の味なのだということが幼少の私にはな かなか飲み込めなかった。宮沢賢治「どん ぐりと山猫」も教科書に出ていて何度か読 み返したが,キツネにつままれたような,

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正作の仕事に打ち込んでいる姿などは,自 分もこうありたいと強く隣ったものであっ た。この短編に出てくる『西国立志編』(後 出)は,その後二十数年聞古本屋をめぐり 歩いてほ探し廻ちた探求書の一つで,京都 丸太町通りでやっと見つけた時の嬉びは大 きかった。 ここで本から少し逸脱するが,映画も小 さい頃からよく見に行った。風の吹き抜け る校庭で,白い布を張って野外映画会がた びたび催された。電卓に乗って衝まで映画 を観にゆくことのすくない私共田舎者に とって,これは大人たちも楽しみにしてい る行事だった。「愛染かつら」とか「新妻 鏡」なども観た。その後,これとは別に学 校から団体映画観賞という形で奈良市内ま で午前またほ午後の授業をとばして出かけ ることがあり,中学高校時代の無上の楽し みの一つであった。 そういう中で映画「ジャンヌ・ダーク」 と「ひめゆりの塔」の二つほ,いわゆる思 春期にあった私に強烈な印象を与えてくれ た。どちらも映画を観てからあと本で読ん だ。講談社の『ジャンヌ・ダーク』は,映 画のイメージに加えて本で更に理解を深め るという経験を覚えた最初であったことも 加え,ジャンヌの生き方,いやそれよりや はリイングリッド㌧バーグマンの魅力に すっかりとりつかれたという方が正直だろ う。物語と映像とが渾然一体となって分離 することは難しいのだが,女優の魅力とい えば,『ひめゆりの塔』(石野径一郎原 作)でも同じで,先生役の津島恵子と生徒 の香川京子のイメージが脳裡に焼きつい て,初恋の人にこうした人々に似た女性を 選びたいという麟望を持ったことから始 まって,女性を見る見方に今日まで影響が 及んでいるといっても過言ではない。 「ジャンヌ・ダーク」も「ひめゆりの塔」 も,おおむね暗い重々しい場面が多いだけ に,かえって鮮明に,若い日受けた印象が 薄れずに残っているのであろう。 最近では茶の間でテレビから名作が形・ 色・音を伴って送りとどけられる。今の子 供たちは(大人ももちろん)そういう文明 の「進歩」のおかげで,労せずして作品内 容を深く広く吸収していける幸せを享受し ているわけである。昔,中学時代ヨハンナ ・スビリ原作野上弥生子訳『アルプスの山 の娘』や,ローリングス原作『仔鹿物語』 などの名作は,学校の宿題そっちのけで読 んだけれど,そういった作品から想像出来 るヨーロッパアルプスの山の姿もアメリカ の開拓農民の苦労や風物も,総合的立体的 に,つまりテレビで見る樫には理解出来て いたわけではなかったこと言うまでもない。 とは言っても,見たり読んだりするだけ でなく,自分も何か小説のようなものを書 いてみたいと思う暗が(多分誰しも共通 に)あった。ずっとあとになって読んだ本 であるが,石井桃子『ノンちゃん雲にの る』のあとがきに“人は誰しも小説を一つ は書ける材料をもっている”という意味の 文章に遭遇して,なるほどそうかと勇気百 倍。騙されたと思っても良い,とにかく書 いてみることが読み方にも反映して,読解 力に変化があらわれでくるということは大 いにあり得ると気がついた。 人ほ万能でない以上,書けばおのれの恥 もかく。精根を懐けつくしても,生涯の間 に書けることには量質共に限度があろう。 それをも承知の上で読みかつ書こう。自己 顕示欲が強いなどと陰口をたたかれても気 にすることはないと勇気が湧いてくる。 かけ出しの私にFD(Faculty Developm ent)の詳細ほ判らないけれど,今,ふと

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中 川 益 夫 た。−一応の自信もぐらついて,国語の期末 成績もこの一事のためかガタ落ちとなった。 もとより先生は私の学力を見込んで指名し て下さったものと信じてよい。しかし私は 先生の期待を裏切ったのだった。私は文科 志向から自然科学へ背水の陣を敷く思いで 方向を換えた。その時の先生をうらんだこ とはない。むしろ今も慕い続けている。で も,あの不覚を,三十五年以上経過した今 も悔い続けていることほ確かである。 高校高学年では「萬葉集」も出てくる。 斉藤茂吉『萬葉秀歌』は青年に好個の入門 書として必読の文献であると思う。叙述が 柔かく,しかも含蓄が深い。歌のよさが 解ったような気になってくるからすばらし い。 私ほ「万葉集」を中学で,むしろ漢詩の 方を高校にもってくる方が良いように思う。 漢詩といえば,やはり教科書に出てくるの で愛読した唐詩は,膏川幸次郎他『新唐詩 選』で読み進んだ。高校時代に読んでもす こぶる難解などころがあり,『萬菓秀歌』 のようにこなれていない感じもする。それ はともかく,長恨歌などを始めから終りま で覚えた生徒もいたようだが(私にはそれ だけの暗諦力がなかった)若い時に頭にた たき込んでおくだけの値打ちほ十二分にあ ると思う。教科書には出てきたが『新唐詩 選』に出てこない次の二首が,私には宝石 104 FD〔教授団の自己開発〕が意識の上にの ぼってきた。 日 吉典への入口 日本の古典に接して,これを味わえるよ うになったのは,私の場合,高校生になっ てからである。国語が,やほり古典への重 要な手引きの役割を果たしてくれた。 鴨長明『方丈記』などは古典への入口と して最良のものの一つであろう。「ゆく川 の流れは絶えずしてしかももとの水にあら ず。よどみに浮かぶうたかたはかつ消えか つ結びて久しくとどまることなし・・=‥。」 日本人の自然観・人生観を凝縮し得ている ように思われる。併教思想とも結びついて いる点で,外国人に対する日本入門の書と しても優れた文献たりうるのでほないか。 さて,−†般に人と文との出合いには実に さまざまなエピソードがあるかと思う。 「凌〉だし野のつゆ消ゆることなく,島部 山の煙立ち去らでのみ澄みはつるならいな らばいかでもののあはれもなからん……。」 あまりにも有名な兼好法師『徒然草』の一 節である。誰しもこういう名文を養分とし て吸収し大きくなってきたのである。私は 中学高校共国語ほ好きな学科の一つで,自 信という程でもないが一応自信もあった。 高校一年の時だった。先生から不意に上 の一節を指名されて読む羽目になった。運 悪く私はその時に限って予習を怠っていた。 今にして思えば『徒然草』の中でも際立っ て名調子のところだが,下読みをしてこな かった私には難解で意味の通じないことは もちろん,抑揚もテンポもあったものでは なかった。しどろもどろで額に汗しながら 読みおえると,「ほほう,なかなか理智的 な読み方だね……。」チクリ寸評が私を突 き刺した。汗顔の至りとはことことであっ 以上の宝物である。 白日山に依りてつき 黄河海に入りて流る 千里の目をきわめんと欲し 更に上る一層の楼 故人西のかた黄鶴楼を辞し 煙花三月揚州を下る 弧帆の遺影碧空に尽き (王之換)

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ただ見る長江の天際に流るるを(李白) 芭蕉『おくのほそ道』は国語に自信をな くしてからあとも大好きで熟読吟味した。 受験勉強の真最中なのに解説書をノートに 丸写しして,芭蕉の味と香りをすべて吸収 しようと努力した。 苧て俳句は一句一句が独立していては深 い意味を通じおおせるものでほない(短歌 にしてもしかりで,短歌滅亡説が出たのも 当然と思う。)将来の発展のためにも,私は 散文と俳句を一体とした『おくのほそ道』 のような散文俳句混清体,つづめて散句体 にすべきだと思っている。ここで駄足なが ら,『新唐詩選』の中で「あら海や佐渡に横 たう天の川」のような句をもってしても, 漢詩の世界の広大さにたちうち出来ないと いう意味のことが語られている,が私は, 漢詩には乏しい“哲学”が五七五の小さい 世界の中にも込められている点で,一歩も ひけをとらないと思うのである。 さて,以上のような,かたい古典のほか に純文学では,中勘助『銀の匙』が子供の 目と心からみた世界を描いて美しく,祭り の提灯のように心の中にあかりを灯してく れた。長編小説で,主人公のその時々の年 令相当の目で見た描写(文体)で表現する という書き方もあって良い(既にあるかも 知れない)と思うが,それにはこの作品が 優れた手本になると思っている。 川端康成『伊豆の踊り子』も映画で観た 時の感動と重なっているが,初恋を扱った 数多くの作品の中でも,ひときわ印象深い ものであった。 他方,小説ほ面白いものでなければなら ないという説もあるようだ。読後感を聞い て,「あれは面白かった」という一句が 入っておれば,その作品に何らかの意味で 読むだけの価値があったと解してよい。面 白いというのは,いろんな価値を含めた総 合的で最終的な評価なのだろう。それはと もかく,読んで無条件に面白いのほ,純小 説では夏目漱石『わが輩は猫である』の右 に出るものほすくないのではないか。古今 東西を見渡しても,推理小説や探偵小説な どに類するものを別にすれば,やはり上に 言った通りだと思う。人から猫への視点の 転換というアイデアがずば抜けている上, 描かれている人物がごく普通の人間であっ て,しかも独得の個性をそなえている。猫 が地球上にいる限りこの作品の面白味は色 あせることがないだろう。 大学生の頃に読んだ日本文学の中では倉 田百三『出家とその弟子』が衝撃だった。 前文に出てくる,人間による殺生の犠牲と なったものたちが現出してくる情景は,そ の後何回か姿・形をかえて私の夢にも現れ た。めいめいが生きていることの罪深さを 問われているようであり,また問題を徹底 的に煮つめてゆく手法がドストエフスキー やその他の大作の入門としても役立つ作品 だと思うがどうだろうか。 この章の最後に,島崎藤村『破戒』を 持ってくることにしよう。『破戒』が世に 出て与えた影響や文学史上での位置づけは 大きなものがあるが,読者個人とこの書と の出合いにも相似の事情が成り立つのでほ あるまいか。つまり或る年令に達して,個 人の或る「秘密」が明らかになるに及べ ば,人はそれ相当の影響を受ける。言うな れば一つのドラマがそれを実桟に展開する。 しかもその時,それ以前のことまでも(さ かのぼって)ドラマ性をおびてくるのだ。 「時間遡行」が起るのである。それまで無 色であったものが(歴史をさかのぼって) 有色に,無関係であったものが有関係に転 換する。ここが自然科学と社会科学・人文

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益 夫 親に経済的負担をかけるのを承知で(結局 は親せきからの援助を得て)私立丁学園に 通っていた。家から駅まで歩いて20分,●そ れから電車で30分,片道計約1時間は通学 に要した。或る日学校からの帰り,ガラン とした電車の中で吉田洋一『零の発見』を 読んでいた。横に膜かけた初老の紳士が私 の読んでいる本を見て,「君はいい本を読 んでいるね」「これはなかなかすばらしい 本だよ」「しっかり勉強したまえ」などと 私をしきりに激励して下さったのである。 その人は私の駅の二つ手前で下車された が,見知らぬ人からのこの激励がだんだん 強く有難いものと思えてきた。『零の発見』 の前半では,二千年以上の昔,「ゼロ」とい う概念が数学上にあらわれてきたことがど んなに重大な発見であったかを,後半では ゼノンの逆理と呼ばれる数理哲学上の問題 の現代的意味についての解説が中心である。 私は数学者になろうと望んだことはないが 自然の研究者になりたいと強く思うように なった。『零の発見』を境に,淡いあこがれ から一つの意志にかわっていったのである。 自然科学分野に進みたいと私が考えてい ることを知った先輩からポアソカレ著河野 与一訳『科学と方法』や『科学と価値』な どをいただいた。充分に消化しきれないま ま何か惹かれるものを感じつつ読み進んだ のもこの頃である。 中学二年の夏,夕食抜きの古本屋通いが たたって,若いのに珍しく関節リウマチを 患い,一夏病床に伏すことになったが,そ の時読んだガモフ著白井俊明訳『太陽の誕 生と死』は深い興味をかきたててくれた。 白揚社版独得のプンとくる香りも,この本 の魅力と結びついていた。 以上のような専門書に近い読みもののほ かに,教科書にも出ていた杉田玄白『蘭学 中 川 106 科学のちがう点で,まだあまり究明されて いない面白いテーマを内包しているように 思う。 『破戒』の時代的制約や問題解決の方向 についてほ種々問題にされてきた。そうい う点を乗り越えて,それらを一歩踏み越え た作品がやがて準備され,世に問われる日 が来るであろう。(住井すえ『楕のない川』 (後出)がすなわちそれだと言う人がある かも知れない。) 蜃 自然にあこがれて 1949年,湯川秀樹博士は日本人として初 のノーベル賞に輝いた。私のひそかにあこ がれていた物理学の分野であった。 私は小学校でも(それ以後も)数学の出 来は悪く,それだけでも自然科学,とりわ け物理学を志向するには向かないハンディ を背負っていた。しかし,小学六年の時, 宇宙の ていた)を教室の黒板一杯に計算してみせ るという経験があって以来,宇宙の謎とい うものにも強い関心を持つようになって いった。 湯川秀樹『原子と人間』は柔かいタッチ で自然の理法というものを解き明かす道し るべの書のように思われた。確か四行ずつ に区切った湯川博士の詩にならって,私な りの自然志向宣言を書き綴ってみたことも あった。 菊池正士『粒子と波』も魅力のある記述 でわかり良かったが,『原子と人間』の方 が文学の世界と重なり合う要素があって叙 情に富んでいたように思う。 さて∴そうした淡い自然科学へのあこが れを一段プッシュしてくれる出来事があっ た。1950年,私が中学二年の時である。私 は地域の学区の公立中学校へは進まずに,

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事始』などほ学問の草分けの人々の苦労が うなるほど伝わってくる思いであった。他 方,ファラデーの『ロウソクの科学』など は具体的でわかりやすい記述ではあった が,理詰めすぎて空想をかきたててくれる ようなニュアンスがないので,偉い学者の 姿勢には感心しつつも魅力を感ずるにほ到 らなかった。 他方,小官豊隆編『寺田寅彦随筆集』は 身近かでありながら取り上げる対象が多方 面に亘り,着眼点が面白く,しかも従来の 物理学をほみ出た物理学がそこにほあった。 高校時代.秀才の心友がほめちぎった「ど んくナウ」などは短編小説の手本だと思う。 林の中で枯葉を踏みながら無心にどんく−り を拾っている息子の姿やしぐさに,胸を病 んで早世した妻の遺伝をおそれないわけに はいかない寅彦の心情は読むものの胸を打 つ。私はそれでも「ルクレチウスと科学」 が一番気にいっている。 アインシュタイソ・イツフェルト著石原 純訳『物理学はいかに創られたか』は,こ れを全部理解出来ることが一つの到達目標 だった。いつしか物理学全般に亘って力が ついてきて,本書のクライマックスとも言 うべき一般相対論の説明の連鎖がのみこめ るようになった時,天にも昇る思いがした。 これで相対性理論を一般の人にも解りやす く解説出来ると思ったものだが,数式を 使っての展開となると全く自信がない。多 分,解った贋りになっているだけだったの だろう。 ずっとあとになって出版された朝永振一 郎『物理学とは何だろうか』もユニーク で,既に古典に列せられる内容をもってい ると思う。物理学上の一つのアイデアが頭 に浮かび,それからよどみに浮ぶうたかた のように,かつ消えかつ結びながら形をな してゆく過程が,まるで推理小説を読むよ うに展開されてゆく。物理学の荘厳な発展 史を,適当な高さから眺めて解説していた だいているような気分になる。名著と呼ば れるゆえんである。 この章のしめくくりに,読みものとして は多少例外に属すると思うが,湯浅光朝編 『解説科学文化史年表』を,やはり必読の 文献としてとりあげたい。人類の英知とは 何か,人類は真に進歩してきたのか,また 科学と技術,哲学思想,社会思想との関連 など,科学文化史という広 い 視 野の パースベタティプ 中で総合的にとらえた実に得がたい労作で あると思う。私は1950年,初版本が出ると すぐ姉に小遣いをねだって買い求めた。知 的に疲れたスランプ状態になると本書を開 いてみる。調子の良い時にもこれを開く。 もし仮に,本を一冊だけしか手元に置いて はならないとの条件が長期間に亘ってつけ られる時には,私ほためらうことなく『解 説科学文化史年表』を指定するだろう。 (次号に続く)

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欣 哉 松 島 108 断 松 島 欣 哉 葉=言語的記号により,言葉になる以前の 無定形の思念・意識を分節し現実を切り 取っていると言う。換言すれば,ラングと いう関係性の網により掬い上げられたもの が言説(つまり,話された言葉,書かれた 言葉)となって顕在化するというのである。 もしそうであれば(私ほソシュールの説 を受け入れる着であるが),人間の存在が 主であり,言葉ほ従(道具)であるとする 一般概念は怪しくなってくる。この点をマ ルチソ・ハイディガーは,「本来,語るの ほ言葉であって,人間でほない」(『ヒュー マニズム書簡』)と看破している。 私は外国語の勉強を始めて20年近くにな るが,益々言葉の重圧がひどくなる。日本 語というラングによって切り取って来た現 実世界を,英語という別のラングにより再 布置化する時,日本語が助けとなり且つ障 害となるのである。現在の私には,言葉に より礫刑にされた人間の姿が眼前に浮かん でならない。 私は物心つい七此の方,言葉を発っして 後自分の思いが十分表現できていないとも どかしく感じたり,他者に私の真意をわ かってもらえない,という経験を何度とな く持った。それに伴い,私には言葉により 私が他者から二重に隔てられているという 感覚が募って釆た。そのような折,某新聞 のコラム欄で,堀口大挙が鬼箱に入る数年 前に,「このごろ漸く日本語が自由に使え るようになった」と言った,と書いてある のを読み,私は堀口大学ですら(卑下して 言ったことであろうが)90歳前後になるま で言葉を自由に操れなかったことに溜息を 吐いた。と同時に,言葉は道具として人間 の外にあるのだろうかという疑念も湧いた のだった。 丸山重三郎氏を通して私が理解するソ シュールによれば,彼ほ人間の心に言葉に なる以前の思考や概念が確固たる実体とし て存在し,それを写すのが言葉である,と いう言葉=名称目録説を否定し,人間は言

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ず い そ う

小 林

か い ぎ

昨年秋,実施された「Faculty Developm entに関するアンケート調査」には,“大 学自治における教授会等大学管理機関の会 議の重要性は誰しも認めるところである が,それらの会議のあり方については折々 に再検討され,活性化が図られてよい” (見解15)という項目がある。大学の教官 集団にとって研究と教育が表舞台の職務で あると言えるとすれば,管理運営に関わる 諸々の会議はいわば舞台裏の職務であると 言ってよいのではないか。教官集団として は研究と教育そして会議に対して配分され る時間と労力については常にバランスが自 覚されていてよい問題ではないかと思われ る。長い会議の後は帰宅時間も晩くなるか ら翌日の授業にもあまり充分な準備も出来 ないまま教室に臨まざるを得なくなる。気 力の充実した授業の展開は期待できない し,通り一遍の授業になるのは必定であ り,受講生の居眠りや退室が目に見えるよ うである。授業には時間割りがあって公表 されているが,研究に対してはどのような 影響があるのかは分りにくいが,研究論文 の発表が少なくなるとか全然発表しなくな るという事態で以って示されるのではない だろうか。 会議は議事が多く,議論が活発であれば 長くなるのは自然である。同じ学部に所属 していても“隣りは何をする人ぞ’’といっ た状況にあるのが通例だろうから会議の場 を相互の理解と親睦をはかる機会と見倣す ことは一つの見識であろう。従って議論が 活発になって会議が長くなることもー概に 悪いとは言えない側面もあるのではないか。 長い会議とは反対に,会議がセレモニー化 して形式的に進行し,質疑も議論もないま ま終了するとしたら,効率的ではあるがや はりまた少し問題があるといえるのではな いだろうか。会議が集団的思考であり,集 団的意思決定であるとすれば,一部の教官 がたて続けにしゃべり発言をひとり占めす るようなことがあってもやはり問題であろ う。その経験の豊かさ,見識の高さ,熱意 の程には敬服せぎるを得ないにしても民主 的な雰囲気ほ失われることになりほしない だろうか。会議の効率性と同時にその民主 性をも不断に追求することほ,至難の業に は違いないが,やはり必要なことではある まいか。それ故に,“大学をめぐる歴史的 社会的な情勢変化に対応するには,形式的 な制度枠にとらわれることなく,Faculty を目的に応じて機能的弾力的に組織し,運 営することが重要であり,それを可能にす るため自律的なFacultyに内在すべき相互 的な能力(例えば討議能力・議事能力)の 開発を図ることほ無視できないところであ る。その能力ほ,メンバー個々の能力に還 元しきれない,Facultyそれぞれが保有す る能力とみてよい。’’(見解14) ところでまた会議のあり方は制度的要因

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小 林 ゆる別表に該当する教官集団によって管理 運営されているのだが,他方では教育学部 教官として専門課程に関わる会議にも委員 として出席できる慣例になっている。これ は一般教育部の教官が身分的に教育学部に 所属しているだけでなく,大多数の教官は 専門課程の授業を担当しているという実態 に基づくものであろう。従って一般教育部 の教官は一般と専門の両課程のいずれの会 議にも委鼻として出席できる制度になって いると言ってよいのではないか。しかも一 般教育部教官の中で.も,とりわけ俊英が専 門課程に関わる会議の委員としても活躍し ておられるとすれば,折角,教育上の必要 に応じて独立のDepartmerltとして設置され た効果をも結果的にほ相殺することになる 恐れもないとは言えないのではなかろうか。 一般教育部設置の本来の主旨を生かすた め,少なくとも一般教育部所属教官である 期間は,一般教育に専念できるよう何らか の措置を講ずることが望ましいと言っても よいのではないだろうか。 110 によっても影響される所が大きいと言える のではないだろうか。“香川大学の場合, 教育学部は,かつて学部のundergraduate courseに対する責任を負うとともに,全学 部にわたる一般教育課程の責任を負うてい た。一般教育部の成立は,その責任を区別 して一般教育課程のため,教育学部のFacu ltyのうち所定の分野一定数の教官を選定 し,「三学部から等距離に置く部局」であ ると同時に「その身分は教育学部に所属す る」という原理のもとに新組織を形成する ことであった。・それは,Facultyを分離す ることなく,教育上の必要に応じていわば Developmentを図るため,特定の教育課程 の責任主体として独立のDepartmentを設置 するものであり,特定の教育課程のために 独立のFacultyを組織する教養部とは発想 を異にし,成立の事情を異にするものであ る。したがって,一般教育部は,ことばに よらずFaculty Developmentを本来の役割 としているといえる。”(『香川大学一般 教育研究』第31号30頁)一般教育部はいわ ペンネーム ≪広辞苑≫によると筆名というのは文章 などを発表する際に用いる本名以外の名で あると説明されている。雅号はさて措い て,何故,本名を用いずに筆名などを使用 するのだろうか。筆名の使用ほ,日常性を 離脱して変身する楽しみがあるからでもあ ろうが,もっと単純に考えると本名を知ら れたくないという理由が挙げられると思う。 たとえば批判的な文章を書いたり,逆鱗に 触れるようなことを本名で以って発表する と具合の悪いことも多いからではあるまい か。新聞の投書欄などでよく見かける匿名 希望という署名の方法は,本名を隠すこと によってはじめて率直に意見が発表できる という現実の存在を示唆するものであろう それに本名ではなしに筆名とか仮名を使っ て文章を書くと気楽な面もあると言えるの ではないか。文章に多少の間違いや行き過 ぎろミあっても,筆名や仮名ならば何処の馬 鹿が無知で幼稚な寝言をいっているか軽度 に一笑にふされることだろうが,本名であ ればたちまち物議を醸すことにもなるに違 いない。従って読み手の反応は書き手に対 して直接的に影響してゆくことだろうし,

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笑いごとでは済まないかも知れない。なか には先入観や誤解にもとずいた反応なども ないとは言えないから,日常生活において 何かと差し障りがあることだろう。それ 故,筆名の使用は文章を発表することに よって起るさまざまな反応をまともに受け ることなく避けることカミできる利点がある と言ってよいのではないか。しかし,その 筆名が有名になると本名との関連が究明さ れるに違いないから,筆名の磯能を果さな くなることだろう。従って,もし論争的な 意見などを発表しようとすれば,新しく筆 名を不断に創り出す必要に迫られるに違い ない。それとは反対に,インタビューなど の記事にあっては発言者の真意を間違えて 伝えた場合などに迷惑がかからない よう文 責だれそれとして記者の氏名が明記されて いるのが普通である。 話は飛ぶが,中国近現代における文学者 ・思想家といわれる周樹人が〈魯迅〉 とい う筆名を使用したのほ口語小説「狂人日 記」を雑誌『新青年』(1918年5月,第4巻 第55号)に発表した時である。ところが周 樹人は『新青年』のその同じ号において筆 名〈唐侯〉を用いて三篇の口語詩(「夢」 「愛之神」「桃花」)を同時に発表している (伊藤虎丸)のである。一般的には「狂人 日記」の筆名である 〈魯迅〉はよく知られ ているが,口語詩に用いられた〈唐侯〉 と いう筆名はあまり知られていないように思 われる。従って,同じ作家が異なる筆名を 用いて形式の異なる作品を発表すれば,読 者は別人の作品として受け取り得る事例の 一つとして挙げることができるに違いない。 同人雑誌などであれば作者と筆名の関係ほ 編集者しか知らないわけで,第三者には分 りにくいだろうから,時の経過につれて, その作家の全集などを編む際には障害にな るのではないかと思われる。作家自身もし くは近親者でもない限り,原稿が保存され ていなければ,筆名の異なった作品を同一 作家のものとして判別することは極めて難 しい作業となるに違いない。事実,周樹人 の筆名の数についても研究が進むにつれて 増えるという傾向が見られたようである。 “文学者で筆名・仮名の多いことにかけ てほ,西のスタンダール,東の魯迅が双璧 をなすであろう。『ギネス・ブック』に該 当する項はないようだが,物の本によれ ば,スタンダールことアンリ・ベイルの場 合は171を数えるというに対し,魯迅こと′ 周樹人はその塁を摩する。”“戦前の蓑湧 進編『現代中国作家筆名録』(1936年)に採 録された周樹人の筆名はなお58に止まるも のの,戦後の李允経編『魯迅筆名索解』(1 980年)ともなると専著だけあって141,準 筆名をも加えれば155にも及ぶ。”“余人 は知らず,魯迅のおびただしい筆名は,伊 達や酔狂なものではなく,30年代に入って 激化した当局の言論弾圧十一検閲,発禁の 所産であり,筆陣を張る一方で筆一本で妻 子を養う魯迅にとって逼られてのもので あった。”(伊藤漱平) 話をもとに戻すと,『香川大学一般教育 研究』第4号には“原稿は氏名を明記する ことをたてまえとしますが,論争的な問題 提起も活発に行えるよう,ペンネームでも さしつかえありません。’’と編集委員会は 「『談話室』の開設に当って」記るしてい る。爾来,筆名による文章は未だ発表され ていないと思われる。言論の自由に対する 種々の圧力が加わる世相とも関連してペン ネームを使用した意見発表や問題提起など も検討してみる価値は十分あると言えるの ではないだろうか。

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村 田 直 樹 112

講道館柔道,タイを往く−その9−

村 田 直 樹 前号迄のあらすじ。 知的な光をキラリとその瞳に漂わせるタ イの青年に再会した私。今度は柔道場では なく,国際交流基金バンコク事務所の中 、だった。図書閲覧室でバッタリ逢い,話が 弾んで外に出る。青年の名はスリチャイ= ワンケーオ。タイの名門,チエラロンコン 大学の講師(政治学)だった。 「私の勤めるチエラロンコン大学では, アジア研究所,社会学研究所などの有志を 中心に,‘日本製品反対運動後10年経っ て,よくなったのは何だろう’という長い 名前のシンポジウムを開きましたヨ。」 そう言って,彼はそのシンポジウムの冒 頭で朗読されたという詩を紹介してくれた。 その詩は,日本製品不買運動なるものが起 こった当時の日本製晶が氾濫する実態を的 確に伝えるもので,私はその詩を聴いてい るうちに何となく複雑な思いに浸され,朗 読するスリチャイの顔を凝視した。で,そ の詩の内容は−? * * * 私の「日常生活」 サッカダー=ナンタナーウイチット 寝ボケまなこをこすりつつ ライオン歯磨きで朝が来る 食事の支度に手間ひま要らぬ ナショナル自動炊飯器 ボサボサ頭に丹頂ポマード スキッとこなす東レテトロン 腕に輝く男の勲章 その名も高きセイコースポーツ ラジオはサンヨー 音質バッグン 流れるニュースの心地好さ 自慢のマイカー‘トヨタクラウン, いぎや出陣町の中 ハンドルさばきもさっそうと いとしき女の、おんもとへr 「よくぞ作った,書きました。貴方は本 当にサッカダー。」 私は酒落たが,目の前で朗読しているタ イ人のスリチャイには通じなかったよう で,こちらをチラリと見たが,直ぐ詩に 戻った。 今日も今日とてショッピング やって来ましたダイマル・デパート よくぞ集まる人の群れ これ皆われらの兄弟姉妹 カネボー ポーラにシセイドー パピリオ コーセー エトセトラ 見ればおかしや おぞましや いとしき女の血ばしりまなこ さすがはダイマル よりどり見どり 買いたい放題 見放題 知らぬ人なし ダイマル商品

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かたじけなくもかしこくも ‘日出づる国’よりお出ましの メイド・イン・ジャパンの高級品 この詩は当時バンコク最大の新聞「タイ ・ラット」日曜版特集に掲載され,反日本 製品運動に参加した学生の共感を読んだ由。 私は聞いた。 「クン・スリチャイ(=スリチャイさ ん),この詩の中で大丸デパートが随 分詩われているけど,何故に又?」 「チャイ クラップ(=はい)。日本製品 ボイコットの集会が初めて開かれたの がそのタイ大丸の前でしてねェ。」 タイ大丸ほ,バンコク目抜き通りの ショッピングセンター,ラーチャプロップ 地区の一画に在る。柔い中間色で統一され た店内の装飾,流れるムード・ミュージッ ク,輝く照明,ショーケースに並ぶ絢爛た る商品の数々。それ等の商品の殆どが,日 本からの直輸入か日本が出資する合弁会社 の製品であった。当時のタイ大丸ほ,日本 の経済進出の象徴的存在だったのである。 その大丸前。日本製品ボイコットの集会が 初めて開かれた場所一−−−㌔ スリチャイほ言う。 1972年11月13日の夜だった。当時,バン コクは戒厳令下にあり,わずか数人の集会 でさえ取締の対象になっていた。 それがその夜は500人もの学生が集まっ たのである。 タイ人ほ日本の奴隷ではな−いっ! 大丸は出て行け一つ! 集会ではシュプレヒコールが繰り返さ れ,集まった人々はデモに流れていった。 この日以降,不買運動の終わる迄,大丸は 学生達の様々な抗議行動にさらされること になる。 街には日本製品不買運動をすすめる様々 なポスターがはられた。チョンマゲ姿の日 本人が,タイ人の背中に股が って日の丸を 振るうポスター。ボクシングで日本人がタ イ人を打ち負かす図。中には赤い日の丸に 白で×印を付けた上に,黒で「対日輸入超 過1億5000万′し−ツ」と書き加えてあるも のまであった。 スリチャイはそう言って,再び目を詩の 方へ落とし,朗読を始めた。まだ有るのだ。 家に帰ってスイッチ捻りゃ 色もクッキリ トーシバ・テレビ チャンネル回して目を凝らす サムライ映画の大立ち回り 何処から来たのか やぶ蚊が一匹 忘れていましたキンチョー・カトリ 独り暮らしの夜も更けゆきて 何故か恋しいトルコ風呂 いっそ行こうか行くまいか 不夜城「サユリ」が俺を呼ぶ やっぱり出て来た,トルコ風呂。そろそ ろ出番と思っていた。ANAパックにJA エバック。凄い名前の航空券。見ればおか しやおぞましや。これ皆日本の団体さん, と私も創った。 トルコ風呂「サユリ」も実在である。現 地では今尚,Turkish bathなどと英語で表 示されている。Turkish bathの本物とほ違 うのに。日本から輸入したものだからだろ う,名称もそのままだ。 バンコクのニューペッブリ通りに,この 「サユリ」始め「ニュー・トーキョー∴ 「アタミ∴「ハニー」等々10軒近く立ち並 ぶ。その正確な数は分からない が,バンコ

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直 樹 正直正銘のタイ人じゃないか一 「コップ クン クラップ(=有難う)。 これが,何だっけその…‥∵長い名前の シンポジウム…」 「‘日本製品反対運動後10年たって,よ くなったのは何だろう’。」 「そうそう,その‘日本製品反対運動後 10年たって,よくなったのは何だろ う’のシンポジウムの冒頭で朗読され た詩なんだネ。」 「えゝ,そうです。」 スリチャイは眼鏡の中に微笑を見せて調 いた。一人のタイ人が,今,一人の日本人 に対し,まさに日本のやり方とタイの在り 方について話している図。何年か前の私な ら,相当カッカ釆て,感情は‘何言ってや がるっ’,と一辺倒一直線に相手側に向け られ,批判と非難のごちゃ混ぜで対したろ うに,今は全然異なった。独善的でなく なった。両国を視座に据えて聴いていた。 そうしたら静かだった。 しかし又,事の重要性に私の神経が勤め く風でもないのだった。・鳴呼。ドイツ歴史 学の泰斗ランケが言う如く,世界史の大事 件が起こった時点に於ては,誰もその致命 的重要性にほ気付かないものなのか。 日本の経済進出。米国ではその報復措置 の法案すら論議に上ってきている。東南ア ジア諸国に対する日本の経済進出,その功 罪など私にほ全然ピンと来ていない。危機 意識などまるでなし。 ジャーナリズムは言う。現代日本の経済 進出は,恐るべき危機に直面している一 しかし,その危機の本質についてはどうな のだ。無理解であることの方が多いのじゃ ないのか。 村 田 114 クには50軒近いトルコ風呂が在ると言う。 大抵が5.6階の立派なビルディングで, 一階に大きなガラス張りの一角が在り,そ の中ほ赤い毛髭よろしく雛壇みたいになっ たフロアー。其処に何と200人からの女性 が侍りけるを,だ。これが本当の選取見取 か。戦後,日本の貿易商社がタイに進出し た頃に始まり,近年のパック旅行の流行と 共にその数は増える一方である。 日本から輸入したものの一つがトルコ風 呂なら,同じ様に日本から輸入したテレビ 番組の中にもかんばしからざる評判をとっ たものがある。 「熱血のジェードー」,「カラテ無敵」, 「ケンドー無頼」,「リングの王者」,「ウル トラマン」等々だ。 毎夜サムライが出てきて人を斬り, ジェードーやカラテの達人が大技で人を傷 つける。アメリカの西部劇にとってかわっ た日本のテレビ映画が,タイの人々の中に 日本のイメージをどの様に植え付けたか, 想像に難くない。 不買運動の底流にほ,こうしたサムラ イ,カラテ映画等の「文化的進出」への反 発もあった由。スリチャイは詩の最後を読 み上げた。 時代の波に乗り遅れまじと 暮らす毎日 しんどい限り 文化生活もいいけれど これでいいのか俺達は? アサヒ・ガラスの鏡に映る 自分の顔に問いかけりゃ いっそくやしやなさけなや われとわが身のグータラかげん 俺たちゃ一体何者だ 生まれ育ちは血統保証 白日天下にまぎれなき

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霜を踏みて堅氷到る,というが,霜が降 りた時点に於て既に,満山紅葉の秋は去 り,極目粛然たる厳冬の到来を理解しなけ ればならぬ筈。 人ほ経済侵略とも言う。しかし私には全 然ピンと来ていない。タイ人スリチャイと ほ違うだろう。 コーヒーをすすって私は遠くを見る限付 きになった。ぼんやり思った一明日もま た昨日までの如く,「永遠なる過去」の連 続として暮れてゆくだろう。何の根拠もな いまま,ただ何となく,そう思いながら時 を移すか,と。思ってもみよ,ロッキード 事件やら,アキノ暗殺やら,大韓航空磯撃 墜事件やら色々在ったが,当事者以外の 人々にほ,風する馬牛も相及・ばざる有様 で,最早感覚記憶の外だろう。 日本製品不買運動。そんな運動が在った ことなど全然知らない。そして,その10年 後のシンポジウム。10年後のタイの現実ほ どうなのか。よくなったのは何なんだ。 詩「私の日常生活」は,日本商品の波に 呑まれた当時のやりきれなさを詩っている。 その詩を聞く会場の反応は以外に明るかっ たという。詩の朗読が進むにつれて,共感 の笑いを浮かべたり,ほろ苦い笑みをかみ しめる場面が何度かあった,とも。シンポ ジウムの10年前にはその笑いほやりきれな い怒りとなって,行動に結び付いたのだが。 年月を経て,事態は一体どう変化したの か。以下,再びスリチャイの言− シンポジウムの最初のパネラー(=国産 品振興協会書記)ほ次の様に訴えた。 「日本との貿易収支の赤字ほ,この10年 間,毎年35%ずつ増え続けている。タイの 入超,日本の出超という片貿易の構造ほ何 ら変わらない。政府がとってきた政策がう まくいっていないことがわかる。」 対日貿易赤字は,10年前の2億7000万ド ルが今は12億ドルと4倍近い数字になって いる。タイほ原材料しか輸出できないが, この価格は低く抑えられ,反対に日本から の工業製品の価格はどんどん上がっていく。 こうして赤字は累積していくが,それを止 める有効な手段もないままに日を重ね,日 本の商品が街にあふれかえる。状況は10年 前と変わっていない。 パネラーの討論会の中では,「日本商品 の市場に占める比率がこれだけ大きくなる と,日本製品排斥運動がもう一度起こり得 る心配もなくほない」との結論に達した程 である。 ただ,そのかわりに会場が明るいのは, 当時と他の状況が変わっているからであっ た。日本人のセックス・ツアーは相変わら ずその会場でも問題となったが,それ以上 に日本とタイの色々なレゲエルでの交流が 進んでいる事実が在るからであった。 川端や漱石がタイ語に翻訳されて売れて いるし,福沢諭吉の『学問のすすめ』,中根 千枝著『タテ社会の人間関係』なども出版 されている。知識層の間では禅がブーム で,大学の前の小さな本屋にさえ,5冊も 6冊も禅の入門責,解説書が並んでいるほ どである。 日本からの援助で,日本学の講座があち こちの大学で設けられ,日本を研究する学 者の数も増えた。色々な機関や私立の日本 語学校も結構流行っている。 テレビも,日本商品のコマーシャルは相 変わらず多いが,かつての殺伐としたチャ ンバラ映画にかわって,今人気を集めてい るのは「ドラえもん」や「一休さん」に なった。

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村 田 直 116 あのタイ大丸も,タイの商品をショー ケースに並べるようになった。かえってお 客が増えたという。 日本商品排斥運動当時,同じように取り 上げられたタイ人スタッフの昇進問題も, 現在,日本の企業はタイ側の要求にそっ て,少しずつ管理職のポストをタイ人に任 せるようになっている。日系企業に働くタ イ人の中には,労働の質では変わらないの に,日本人の7分の1の賃金しか貰えな い,と不満を訴える老が多いのも事実だ が,10年前と比べれば,日本人幹部との関 係はうまくいっていると言えるようだ。当 時「エコノミック・アニマル」とともに使 われた「イエロー・モンスター」という言 葉は影ひそめた。 「なる程ネ。当国の動向が少し判った ヨ。」 と私ほ言って話を打ち切りたかった。少 しくたびれてきたのである。国際交流の話 は結構だが,もう少し別の側面で話がした くなっていた。それを知ってか知らでかス リチャイは言った。 「最後にもう少しだけ話させて下さい。 これで終わり。総括といきましょう。」 「OK,Keep on please.」 コーヒーカップはもう空っぽ。おかわり 頂載。来た!美少女のウェイトレスー。 固い話が英語で続き,私の頭はバテテ来 て,視線は此方に移りゆく。 (可愛いなア。この肌の浅黒さ。ウー ム,セクシィ!)内心の声。 一方スリチャイ先生,最後の件をこう締 め括った。 「日本側の努力の成果に加えて,1976年 lO月に起こった学生運動の大弾圧の経 験,日本商品氾濫の裏で暗躍する政治 的指導者やこれと結んだビジネスマン 達の存在が見えてきたこと,政府の政 策面の対応の拙さなどもタイ国中に 判ってきていること等々,簡単に10年 前の再現という様にはいきませんヨ。 でも思いましたネ。会場でシンポジ ウムを聞きながら,日本商品氾濫の背 景に在るこの国の工業化の方向につい て反省しない訳にはいかないって。 タイは既に経済社会開発計画に則っ た工業化の道を歩み始めているんです。 その中で10年前に起こったあの日本商 品排斥運動は,一部でほこういう日本 や西欧に従属的な工業化,或いは近代 化,に対する人々の抵抗という側面が あったのではないか。こうした経済的 な自立を目指した民衆の運動があった のに,そのヴィジョンは今や行き詰 まっているかのように見えるんです。 我々ほ再び,タイ国に於ける我々自 身の近代化の意味を問い直さなければ ならない時じゃないのかって思うんで すヨ。」 スリチャイの微笑は最後迄消えなかった。 その表情が,会話の雰囲気を終始,和やか なものにしてくれていたのも事実。タイス マイル。イイじゃないか。日本人だと仲々 こうは行くまいヨ。仏頂面か無闇矢鱈のス マイルか,で。 私はこの青年に逢えて好かった,と思え てきた。タイ日交流の一側面に触れ得た, と思った。そしてそれを有意義,と。 2杯目のコーヒーはおいしかった。詰も

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終わったし,最後に登場した美少女のウェ イトレスがよかった。 スリチャイと私ほ再会を愉しみに,とお 互いに言って店を出た。私の心,美少女に 残って…… 奈良の大仏とどっちが大きいかな− 於スコータイ旧跡 つづく

参照

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