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リヴァプール財政改革協会について--その成立まで---香川大学学術情報リポジトリ

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リグァプー ル財政改革協会について −−

そ の 成 立 ま で−・−・

西 山 一 郎 Ⅰ‖ ほじめに。ⅠⅠ小19世紀中柴のリグァブール。ⅠⅠⅠ・リグァプー ル反独占協会。ⅠⅤ〟 一リグァプ・−・ル茶関税減税協会。 Ⅴ.、リグァプ −ル財政改革協会の成立。 ⅤⅠむすび。 Ⅰ

リグァプ−ル財政改革協会(TheLiverpooIFinancialReformAssociation)

−以下,LFRAと略称する−−一紅関する研究ほ.,私のせまい見聞によれば, 1960年に発表されたコ−キンズ氏の論文l)が唯一・のものである。この論文に・お ける同氏の結論は,LFRAが中央政府の財政政策の形成底値按影轡をおよばす ことができず,その運動は「失敗」2)であったというものである。LFRAがな ぜ「自由貿易ロビー・一」として成功しなかったのカモ。コーキンズ氏はその理由を 5つあげる。発1は,全国的な名声をもつ者を指導者にすえることができなか ったこと,辣2ほ,租税改葦に‥おいて積極的なプログラムをもたなかったこと, 辣3は,宣伝力法が拙劣であったこと,弗4は,同時代紅おける他の改革運動, とくに議会改革運動と比較して朗政改革が地味で大衆を魅了することができな かったこと,そして最後ほ,ヰl央政府の財政政策がLFRAのかかげる財政改 革の提案とほまったく別個に.形成されたことである。3)そして,こ.れら5つの 理由のうち氏がもっとも重視するのほ第5の理由である。それを具体的紅いえ ば,LFRAの初代会長ロバ・一トソン。グラッドストン(Robertson Gladstone)

1)W.N.Calkins,‘A Victorian Free Trade Lobby,’The Ecowmic HistQr.γ Review,Second Series,VOl,Ⅹiii,nO。1小1960.

2)′∂idい,p.104

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香川大学経済学部 研究年報 2() J9β0 −−2β6−・ と19世紀の財政運営の衝紅あたったウイリアム・グラッドストン(WilliamE. Gladstone)とが実の兄弟であったにもかかわらず,両者の凱、だに交わされた

手紙はわずか一・通−しかもそれほLFRAが結成される以前のもの一しか

残っていないことに端的に示されるように.4),LFRAと中央政府の財政当局と の人的つながりがきわめて希薄であったということである。 さて,これら5つの理由はそれぞれもっともなように.みえるが,批判の余地 がないとほいえない。ただち紅気づくことは,策2の理由に.ついでである。そ れほ具体的に.ほ.,LFRAが直接税を推奨したにもかかわらず,異体的な直接税 を指示しなかったということである。しかし,後にみるよう紅,LFRAは,最 初は不動産への相続税の適用を提唱し,ついで所得税の存続を擁護しているの であるから,コ一−・キンズ氏の批判はあたらないといえよう。また,第5の理由 についていえは,その後の研究によりロバ「トソンとウイ.リアムは終始親密な 関係にあり,両者の間に交わされた手紙もー∵通だけではないことが証明された ので,り コーキンズ氏の断定は性急にすぎたといえよう。ある運動が成功し革 か失敗したかの判定ほ.,たとえば反穀物法同盟のよう紅その目的が完全に.速成 された場合をのぞいて,−儀的に下すことが困難である場合が多いといえよ う。私は,LFRAの財政改革運動を生んだ基盤をリグァプ−ルの経済地理的位 置にもとめるとともに,LFRAの財政改革論を内在的に解明することを通じ て−,LFRAを19世紀の財政改革運動史の中に正しく位置づけたいと思う。 LFRAは,66年間の良きに.わたって活動し,第一・次世界大戦が勃発した1914 年に終焉をむかえた。しかし,私ほLFRAの全生涯を分析する材料も時間も もらあわせていない。私が現在関心をもっているのほ19世紀中葉のイギリスで あるから,LFRAの分析も1870年代中頃まで紅限定される。¢)ただし,小論に おいては準備の都合上,LFRAの結成までを取り扱うに.とどめる。 4)J∂紘,p.91¶ 5)S。G.Checkland,TheGladstones:aFamil.yBiograbh.y1764−1851,London, 1971,pp.376,379. 6)コ−キンズ氏の論文も1850年前後のLFRAの分析が中心であり,1850年代中頃以降 の酒勤についてはごく簡単紅しかふれていない。

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リグァプ・−ル財政改革協会について−−−▼−その成立まで−【一 仙2β7− ⅠI LFRAほ,のちに詳しくみるように,1848年に設立されたが,まず最初に LFRAの活動の拠点となった19世紀中葉のリグアブールに・ついて概観してお く。

マ」一汐−・河(七he Mer・sey)北岸に.位置するリグァブールほ.16隠紀中葉には人

口500人程度の寒村にすぎなかったが,18世紀後半紅ほじまった産業革命の進 行と歩調をあわせるように.発展し,19世紀中葉にほロンドン,ニュ−・ヨ−ク とならぷ1甘界の三大国際貿易港になった。r)】8世紀後半から19憶紀中葉にかけ てのリグァグー・ルの発展を示す指標として人1コとリグァプ−ルに入港する船舶 のトン数をあげれば,寛1表と策2表の通りである。人口についてほ.18世紀は 第1表リグァプールの人口 第2表リヴァプール入港船舶ト ン数 (単位1,000トン) 用■リ18世紀は推計,19世紀はセン サスによる。 j:−出所〕エ‘ひ♂グー如扉:0〟g(∠αJG〝グ♂β, Liverpool,n.d,p.19 iこ出所〕F.E.Hyde,エね劇如∂J の適rJん♂。M初’.sβ.γ:α乃 βc¢〝¢招∠c 〟よぶね′\γ∂。/■α」n〝■fヱ7(7クーヱ97(フ, Newton Abbot,Devon,1971,pp. 235−238.

7)Thomas Paines,HilStOr.y Ofthe Commerce andTown ofLiverPool,andofthe

斤ブ紹(げ■肋〝〝ノdcわ〝・よ刀gJガ♂〝Sわノ・.γわり 富加仁A須初嶽堵C肋彿焼ゞ,London,1852,p.

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香川大学経済学部 研究年報 20 ヱ9β0 −「里沌−・ 推計であり,トン数軋ついてほ原資料が区々であるため,引数の信葱性に若干 問題が残るであろうが,大ざっばなところ両者ともに18世紀末からの増大が顕 著であるとい.え.よう。 産業革命の▲進行に.ともないイングランド経済の中心ほ南東部から北部(the Notth)およびミツドランヅ(the Midlands)に.移行したが,主要な工業都市 を100マイル以内に.もつリグァブールほ原料を搬入し製品を輸出する重要な港 として繁栄することになった。イギリス綿実の中心地マンチェスタ−とリグァ プ岬ルの関係について,マントク教授はつぎのように.いう。「‖‥・リグァブー ルゐ倉庫になん千となく積みこまれる綿梱ほ,すぐ近くのマンチェスタ−を連 想させる。多くの貪欲な仁Ⅰのように,たえず供給しなければならないマンチェ ヌタ−の無数の機械,そこを出港して全世界に.流通してゆく大愚の製品を連想 させる。リグァブールをこの間断なき流通の出発点,帰着点とするならば,マン チェスターー工業地帯がその中心,心臓部をなしている。」8)しかし,繊維産業に ついていえは,リグァブールを出発点ないし帰着点としていたエ場は,マンチ ェスタ」−のみならずマンチ・ェスタ・−を中心とするランカレヤーーやチェシヤJ・・・・−, ヨークレヤ一に広がっていた。これら3つのカクソティが19世糸己中英のイギリ ス繊維産業にしめる割合を示せば,第3表の通りである。すなわち,これら3 第3轟 イギリス繊維産業にしめるランカシャー,ヲ∵ェシヤ−およびヨ −クレヤ−・の地位(1850年) 工場数l

._ _._‥_ _

二 l

._: ∴≡てご ユニ二

30,153 43,799 〔−出所〕Baines,〃rs朗′’γ〃ノー≠カ♂C〃〝Z∽β㌢cβα〝d7b紗〝0ノエよむ♂r♪∂クJ,London,1852,p.760. 8)ポ・−ル・マントク著,徳増他訳『腐業革命』東洋経済新報社,1978年,127−128ぺ・−・ ジ。

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リグァプール朗政改革協会について−∼ その成立まで… …2β.9一 つのカウンタイの繊維産幾ほ工場数でほ7割ちかくに達し,スピンドル数,力 織機数でほ8割をこえ.ていたのである。この表にいう繊維とほ,ク」−ル,ク− ステッド,リンネル,絹を意味するが,いうまでもなく,綿製品の主産地ほマ ンチェスターを中心とするランカレヤ−であり,クール製品のそれは.リ−ズ, ブラッドフオ−ドを中心とするヨ−クレヤ−であった。そして,こ.れら3つの カクンティの生産する繊維は主として.リグァプール港から輸出された。1851年 の連合王国の繊維製品の輸出価額は.4,600万ポンドであったが,そのうちリグ アブール港を経由したものほ2,800万ポンドに達したという。9)繊維製品の他に リグァプール港を経由したもの紅ほ.,バ−・ミンガムやレ.よフィールドで生産さ れた金属。機械製品や刃物類,スタッフオ−・ドレヤーの陶器,北クェ∵−ルズや ヨ−クレヤ−,スタッフオ−ドレヤ−で生産される鉄がかった。また,18世紀 以来の伝統的な輸出商品であるチェレヤ−・産の塩,ランーカレヤ−・−,ヨーークレヤ 一等で産出される石炭もリグアブールから積み出されたのである。1857年のリ グアブ−ルの輸出価額は.5,500万ポンドであったが,このうち42%が綿製品, 21%がそ・の他の繊維製品,20%が金属・機械や刃物類であった。10)そして,同 年のリグァプールの輸出価額ほ連合王国のそれの45勿に達した。ちなみに同年 のロンドンのそれほ連合王国の23%,グラーズゴクほ4%,サブンプトンは1.6 %であった。11) さて,輸出のつぎに輸入をみよう。19世紀中葉のリグァプーールほどのような 物資を輸入していたのであろうか。籍4表は,リグアブール港とロンドン港を 通じて輸入された諸商品のうちで金額の大きさでみて上位10品目をぬき出した ものである。まずロンドン港について。当時250万人(1851年センサス)の人口 を擁する大消聖地の港に陸上げされる第一・位の物資が穀物であるのほ当然とし て∴ それに茶,コ・−ヒ・−,それらを飲むさいに.使用される砂糖,さらにタバコ 9)Baines,OP.cit.,ppり760−761..

10)FIanCis E.Hyde、LiL,erZ・00[and thc jIL(TSC、・h aJZ E(ONOHti(Hts[or.y o/a Polt J700−1970,Newton Abbot,DevoEl,1971,p“41.

11)∫∂よ♂・,p…97リ】858年の船舶の登録トン数をみると,ロンドンよりリグァプールの方 が多かった(PいTbompsonedr・,レ揖〃7・∠α乃ぶβα卸≠(A5、ヂ祝d.γ0ノエ∠ぴ♂ゆ〃/):ダ∠ノブカ

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香川大学経済学部 研究年報 20 第4衷リグァブ・−ルとロンドンの歪要輸入物資(1850年) Jタ占() 一一J9り−一 ロ ン ド ン リグァプール 金 額(ポンド) 冒 品 比 分 −日 品 目i金 額(ポンド)

意ル

茶 六 穀 砂クタコ イ皮ラ 6806870996 1396■432111 41 ′ 花物コ糖 ■\ 絹穀夕砂 8,032,080 7,560,000 6,327,370 5,0(氾,000 3,600,000 1,846,000 1,580,000 1,350,000 1,316,000 1,040,000 6477337114 nO741▲只て43332 1111 15,730,800 5,198,796 3,388,500 2,485,000 1,831,000 1,380,000 772,640 731,500 725,000 593,488 ル 脂材 茶二麻 米 ク 獣木 86.9j 小 、

._ その他 了

37,7ユ.1,450 L 87い3 13..1 そ の他1 5,472,371【12.7 合 37,804,400 †100.0さ 合 計J 43,183,821 〔出所〕)bidりAppendix,p8〃 と首都および周辺に住む人々の嗜好品がつづく(籍4位のク・−ルに.ついてほ.よ くわからない)。そして,殻物と嗜好品で全輸入価額の63.3%に.達する。つづい て,リグァプ−ル港。第一・位ほ.,いうまでもなくランカレヤ・−を中心とする綿 工業の原料である綿花であり,それほ全体の4割をこ.える。19世紀前半におい てリグァデー・ル紅.陸」二げされた綿花の輸入先を示すと,発5表の通りである。 リグァプールに陸上げされた綿花の大部分がアメリカ合衆国から輸出されたも のであることを別にすると,リグァブールの綿花取り扱い高ほグレイト・ブリ テンの80%以上,年によって90%以上にも達していることがわかる。したがっ て,リグァブールは綿花の輸入港として−イギリス綿業の死命を刺する地位に.あ ったといえ.よう。リグァプールの第2位の輸入物資ほ後背地の膨大な人口12)を 12)後背地をランカレヤ−,ヨ」−クレヤ−・,チエンヤ−,スタッフオ・−ドンヤ′−とすれ ほ,これら4つのカウンタイの人口は1851年のセンサスによると合計490万人となる

(B.R.Mitchell,AbStraCt Oj’BYitiSh LWstoyicalStaiistircs,London,1962,p”

20り)。なお,1851年にリグァプールに陸上げされた穀物は43万トン余りであった。そし て,リグァプ・−ル・マンチェスダー鉄道の敷設を推進した中心人物の一人はリグァプー ルの穀物輸入業看であった(TいC.Barker andC”InSavage,An Eco710micHistory 扉∵rγ・α〃5♪クrfオ〝かけ扇〝,London,T血iTddition,1974,p59−)。

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リグァプーー・ル財政改革協会について−その成立まで−−・ 一29J−一 第5表 綿花輸入先内訳 (単位1,000梱) iアレイト1岳せ(%) リ グ ァ プ ー・ル エジプト2プラ汐ル上その他レ」\紺刃トブリテン嘲(B) 80.2 88.8 91.2 86.8 87.6 88.4 87い0 459 弓 572 2 6 4 l l l l l l 17 83 39 51 1820 1825 1830 1835 1840 1845 1850 273 8 419 571 700 1,155 1,370 1,085 15 1:≧ 55 93 87 198 l 1 6 5 4 3 7 1 2 3 6 ︵む 938【1,081 54 l,40111,600 ∴ 二二三二_ 〔注〕1,000梱以下は4拾5入した。したがって小計はあわないものがある。 〔出所〕D.M。Williams,‘LiverpooIMerchantsandtheCottonTrade1820− 1850,,.−1.R.HarT・is ed..,エ壷即β′・如〟α祓几物■Sβγぶオdβ:駄sαプ5よ乃≠カβ g00朋の彿cのね=如焔−αJ〟g5ね㌢,γ0ノ■〃緑㌧打卯・≠α〝d山方査一乃≠β㌢■Jα〃d,London, 1969,p.183、 養う穀物であり,あとほタバコ,茶,砂糖と庶民階級を中心とする人々の嗜好 品がつづく。 以上要するに,19世紀中葉のイギリス資本主義を,入江教授にしたがって「綿 工業資本主義」13)と規定するならば,.リグァプ−ルほ綿工業資本主義をささえ る支点の役割をほたしていたのであり,経済地理的観点からみてリグァグール ほロンドンよりもはるかに重要であったといえる。 ところで,リグァブールは,後背地に原料や食料を搬入し,マンチェスタ・− の綿製品やり−・ズの毛織物,i/ェフイ」−ルドの刃物類,バ」−ミ・ンガムの機械類 を輸出するさいに.どのような輸送手段にたよっていたのであろうか。一つは道 路を属を使って運ぷ伝統的方法であったが,その他にリグァブールと後背地を 結ぷ有力な輸送手段が二つあった。貨1は18世紀後半に・狂気のように・開削され た運河である。運河は1760年にほサンキ1[T(SankeyBrook)運河一本で良さ はわずか14マイルであった。それが1792年になると運河ほ31本に増加し,総延 長も890マイルに達した。41〉その頃からイングランドは「運河狂時代」に突入し, 13)入江節次郎『帝国主義論への道』ミネルヴァ憩房,1973年,68ぺ−ジ0 14)Baines,∂♪.df,pり488..

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香川大学経済学部 研究年報 20 J9β0 …292一 1800年にほリグァプーリレとロンドンを運河で結ぶグランド・ジャンクションが 完成した。15)そ・して,1830年代には運河の総延長ほ2,600マイルに達したのであ る。16)その結果,四通八達した運河を通じて,石炭,塩,鉄,木材等の重患の ある物資が大愚かつ安価に運搬されるよう軋なった。17) 寛2の輸送手段は鉄道である。1830年6月紅リグァブール・マンチェスタ− 鉄道が開通したのを喘矢龍鉄道の建設がすすみ,1850年代初めまで紅ほイング ランドの主要な都市が相互に.鉄道で結ばれた。時期的に前後するが,1837年に グランド・ジャンクレヨン鉄道−のちのロンドン㌧ノ−スウェスタン鉄道− が開通したことにより,リグァプールはマンチ∴エスクーを経由してバーミンガ ムや,スタッフカ∵−ドシ1仁一,ウォリックレヤー,クスタ−レヤー・の鉱山地帯 と連絡がとれるようになった。そして,1851年にほ.リグァプールから出発する 鉄道貨物の52%はマンチェスタ一−・向けであり,そのうち70%は綿花であったと いう。18)なお,鉄道の開通ととも紅運河や道路による輸送は衰微するどころか 逆に発展したのであった。たとえば,1839年−44年の5年間に、リグァプールー マンチーエスクー間のプリッ汐クオ−ターー運河ほ年間20万1千トンの貨物を,マ ー汐−・・アークェル運河ほ.14万2千トンの貨物を,そして鉄道ほ16万5千トン の貨物をそ・れぞれ運んだのである。19) ところで,リグァプ鵬ルの海外貿易の発展を示すとつぎのようになるであろ う。18世紀におけるリグァグー・ルの海外市場は,砂糖,コ−ヒーー,ココア等の 熱帯−・次産品を産する西インド諸島,西アフリカ,南アメ.リカや,チ・エンヤ“ 産の塩を輸出する先のニュ−・ファワンドランド等であった。19世紀に.入りナ 15)J∂Jdりp一ノ506 16)RamsayM11ir,A Histor.yqf■L,iverPool,Secondedition,London,1907,p.257巾 17)トンあたりの運賃は運河を使った場合が道路輸送の場合の約4分の1になったとい う。たとえば,リグァグールーバ・−ミンガム間は道路を使うとトンあたり5ポンドで あったが,運河では1ポンド5シリングに・,マンチェスター㌧べ−ミソガム間は4ポン ドが1ポンド10シリングに,マンチェスタ−−ダービ一間は3ポンドが1ポンド10シリ ングに.という具合であった(Baines,OZ・,Cit.,pp.439−440)。 18)Hyde,∂♪‖Cれp‖91 19)BarkeIand Savage,OP.ciilリp、64,fn.道路輸送については,ibid。,p.,123,をみ よ。

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リグァプール朗政改革協会について−−一その成立まで【− −2・9」ヲー ボレオン戦争の終結とともに.綿花の輸入を中心にアメ.リカ合衆国との交易が飛 躍的に拡大した。また,ア汐ア紅おいてほ.東インド会社が独占していたインド との交易が1813年に開放され,リグァブール商人は早速インドとの交易にのり 出した。20)さらに.1833年にほ中国貿易も自由化され,リグァプ叩・ルの茶商人が 中国産の茶の輸入に.のり出した。そして,「インドおよび中国との交易はリグァ ブール商人に.とって非常に重要な分野になったのである。」21)したがづて−,19世 紀中葉にいたってリグァプールは,アメリカ,アフリカから極東までの全世界 といってもよい地域を相手紅商取引をおこなう都市にまでなったのである。ハ イド教授ほ,「1750年から1850年の間においてリグァグー・ルは全世界を相手紅交 易をする機会を与えられるとともに.,退路,運河および鉄道の便がたえず改善 されることによって連合王三国の市場のすみずみまで物資を供給するようになっ たのである。」22)という。 以上のように.19世紀中英のリグァプ−ルは,後背地に原料や食料を供給し, 後背地が生産する諸商品を全世界に売りさばく「−交易センター」28)であった。 したがって−,リグァプールの要求ほ当戯に.商品流通の促進をうながす「自由貿 易」でなければならない。ミュ.ア教授ほつぎのようにいう。19世紀中葉の「イ ングランドほ,世界に冠たる工業,商業および楓民地をもつ強国,すなわち世 界のエ場であるとともに世界の市場であった。そして−,リグァブールほ,イン グランドの工業地域の集配センタ−として利益をあげた。リグァプ−ルほ,特 紅自由貿易体制の成立に.よって商品流通にたいするあらゆる人為的規制が廃 止された時に利益をあげたのである。というのほ,19世紀中葉のイングラン木 は,流れこむすべての取り引きから養分を吸いとる巨大な渦のようであり,潮 20)インドむけの第一・船は1飢4年にリグァプールを出帆したが,それはジョン・グラッ ドストン(JohnGladstone)所有のKingSmill(516トン)であった(Muir,Ob”Ci’t…, p‖254.)。 21)David.丁.Owen,r血ク(力∠g∠〝の疋」加朋血ゆ肌〟f q/■摘♂P卯オ・ざ0/■班招 こ血路拍 幻乃g(ブ〃邦,London,1948,p.69 22)Hyde,β久 Cれp..203..したがって,19他紀中葉のリグァグー・ルほ繁栄の頂点に あった。そして,今†ヨ,Brown通り紅偉容をほこるTheMuseumsが1851年に・,The CityLibrariesが1852年に,そしてTheWalkerArtGaller.yが1877年KI,それぞれ 開設されたり開館されたりしたのも,リグァブールに婿集した富とは無関係ではある まい。 23)J∂よd,p。21

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香川大学経済学部 研究年報 20 ー・−ご9・」L−・ ヱ.9β0 流に.たいする障害物の除去によって繁栄は驚異的に増大したからである。」2■1)し たがって,リグァブールほど「自由貿易」体制を切実に.希望した都市はなかっ たといってよかろう。 Ⅰ‡Ⅰ リグァアールにおいてほ蕎志の市民や労働者が経済社会の諸制度の改革をめ ざして団体を組織し活動する伝統があったようだが,そのような団体としては 19世紀の20年代に.おいてはたとえばリグァプール奴隷制度撤廃促進協会25)があ げられ,30年代に.おいてほ.リグァプール労働者協会2¢)があげられる。しかし, この種の団体ほ1840年代に・入り俄然多くなったようにみえる。小論が対象とす る LFRA も1840年代に族生した団体の−・、つであった。そして,私のみるとこ ろ,LFRAの先駆をなす団体としてほ二つあるように思う。第1ほ,1842年1 月に設立されたリグァプ−ル反独占協会(The LiverpooIAnti−Monqpoly As− SOCiation)であり,第2は,1846年11月に発足したリグァプ−ル茶関税減税協 会(The LiverpooIAssociation for the Reduction of the Duty on Tea)で ある。 まず最初にリグァプ・−ル反独占協会についてみよう。協会ほ結成の必然性を 「商工業の増大する不振と労働者階級の驚くべき窮乏化」27)にもとめたように., 24)MuiI,のれC∠fりpい296 お)この協会は1823年3月紅結成された。議長ほ1807年の奴隷貿易禁止法の成立にさい して活躍したロスコー(William Roscoe)であった。協会の目的は,「一合法的平和的手 段を用いてできるだけ早急に残酷かつ下劣な制度を廃止すること」(伽cJ〃′α≠∠0〝0ノ■〃ね 0ゐメβC≠,Sげ〃iβエ如′如扉ふ抑β打力′ タグ’川畑肋g〃招A励眈ク〝∂./ぶJαぴg′.γ,25tll MaICh,1823,Live王pOOl,〔1823二貞,1p.8。)であった。 26)1838年1月に設立された協会は,ロンドンやバ」−ミンガムの労働者協会と連帯して 労働者の「平等な政治的社会的権利」(Adか■βぶ√S,紺よ才力オゐβ0∂如≠√S〃〝♂点〝J♂5∂ノ’≠カβ 揖抑頬畑Ⅵ物・射〝g几免乃,S A朋飢琉抽0〝,Live工・pOOl,1838,p..5.)の実現を目的とし た。協会はクレリン(E..CIellin)以下9人の執行委員によって道営され,議長(会 長)はロビンソン(IobnIiobinson)であった。 27)ダ壷γ需ノ抽別路J兄畑〝■f()ノ才力βC〃〝乃C〃軋仁抽β山乙,♂γ如〟A祓t肋〝0♪〃ルAぎ5クぐ∠か tioILjolth(rtl(17]843 以、F.FI′ゞt:11:,,ZLE7!R{PoTJ,と略称する∴ Li\▼elpOOl、

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リグァプール財政改革協会についで−その成立まで− −295− イギリス経済ほ当時1841−42年の「中間的恐慌」紅岬吟していた。マルクスほ., 当時の経済状況を「1837年および1838年には不況と恐慌。1839年に.は景気回復。 1鋸0年紅は大不況,暴動,軍隊の干渉。1841年および1842年にほエ場労働者の 恐ろしい窮乏」28)と簡潔に叙述しているが,まさにこの通りだったようである。 協会自ら.リグァブールの貧民街の調査をおこない,ある街l真二の4,818世帯のう ち完全失業世帯が1,713,週1日−5日働く部分失業世帯が1,587に達するとと もに,失業の増大にともない売春行為も増大していることを明らかにした。29) そして,協会は,地元産業の不振や失業,貧困の増大をまねいた原因を′,流通 過程を担当したリグァブールの都市経済的性格を反映しでであろうが,「過剰生 産」にではなく,商品流通を束縛して−いる諸規制にもとめた。たとえば,協会 結成の大会においてホランド(Charles Holland)は,「過剰生産について云々 することほ笑止千万であります。なぜなら,諸国民が自らの商品を自由に.規制 されることなく交換するならば,そのような事態は存在しえないことが明々白 々であるからであります。」30)とのべる。 地場産業の不況と労働者階級の貧困を解決しようとして結成された反独占協 会ではあるが,会長に就任した,Wolverhampton選出の庶民院議員ソ・−・ンリ− (ThomasThomley)は,協会の目的についてつぎのように・t、う。「この協会の 目的は,現行の穀物法の撤廃をかちとるこ.と(謹聴!謹聴!),そして,わが国

の通商(tr・ade and commerce)にたいするすべての束縛をとりのぞき,わが国

の通商が従うべき原則を確立し,連合王国の人民が立法上の規制に.制約されず どこにおいてもできるだけ安価に買い,できるだけ高価に販売できるようにす ることであります(大きな拍手)。」叫協会のみるところ,穀物法が「最大の独 28)マルクス著,長谷部訳『暦本論』青木文辟版,滞3分冊,730ページ。 29)ダよ7・扉ノ如∽払扉」翫少卯’≠,pp−・6−7小 30)∫♪♂βC・カβざ 伽J如γ−βdα≠fカタダiケ’・扉−相加痢〝g Oノ’〃2βエ∠ぴ♂′如而∴射め−ルわ〝ク♪∂J.γ As.sociation〔以下,Sbeeches,と略称する〕Liverpool,〔1842〕,p.8.したがって, ホランドは,商品の生産は同時に商品の諾要をつくるというセイ法則を信奉していた ようにみえる。なお,当時,ヨークシヤ−のクエスト・ライディングの実業家たちは, 不況の原因は過剰生産だとして工場の運転時間の制限をもとめる請願を政府にたいし ておこなっていた(査鉦九p.7.)。 31)J∂よ♂りp.3.

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香川大学経済学部 研究年報 20 ー・296− ヱ9β∂ 占」32)であり,それこそ外国貿易と国内産実の発展を阻害している元凶である。 したがって,協会の弟1の目的ほ穀物法の撤廃である。この点に.おいてマンチ ェスタ−の反穀物法同盟と共同行動をとりうる。しかし,協会に.ほ第2の課題 があった。それは,製造業や造船業に不可欠の木材にたいする関税やコ−ヒ ・−,砂糖に.課されている差別関税,茶やタバコに課されている極端に.壷1、関税 の減税や廃止をもとめることであった。そして,地元産業の景気と雇用を回復 するにほ,一言でいえば,通商上のあらゆる独占の廃止,すなわち「通商の自由 (freedom of exchange)」を実現する以外にないと判断される。そこで「自由 な通商(freeexchange)」あるいほ「自由貿易(free trade)」が協会のスロ]−− ガンとなる。この精神は,のちにみるようにLFRA紅引きつがれるのである。 もっとも,協会ほ政治上の独占の幻破にはきわめて憶病であった。ソ−ンリ ー・会長ほ,前述のように協会の目的をのぺたあと,すぐつづけて「■政治結社を つくることがわれわれの目的ではありません。われわれはこの協会の目的を承 認するあらゆる党派の諸君の参加を求めます。」33)といって,超克派的団体であ ることを表明した。しかし,これに.は−・定の留保条件があった。さきに言及し たように,.リグァブールにおいても労働者協会が結成され,チャーーティズムの 影辛が浸透していた。反独占協会の結成大会にも.リグァプールの労働者が出席 して.いたのである。彼らは,非難されるべき最大の独占は政治上の独占だとし, それを打破するために.ほ普通選挙権の牡得が必要だと主張した。アンプラ」− (Ambler)は,「他の人々と同様に労働者にも議会における発言権をあたえよ。 そうすればわれわれは金持ちの同情なんかをもとめないし,穀物やコーーセ−, 砂糖の独占を打破する協会をつくる必要もないでありましよう。普通選挙権以 外なにも必要でほありませんrl…」鋸)といい,マッカ−レ′− (M’CaI他y)ほ., 「私は労働者の同志諸君軋,立法上の独占を含むあらゆる独占の撤廃の運動を 続け,独占という大木の一・枝のみの除去を目的とする〔リグァブール反独占〕 協会を支援しないように訴えたい。」8累)と発言した。会場は前者のアングラ・−の 32)ダわー・毎.動珊払〟」翫ゆの−f,♪.31 33)∫♪♂β√カβぶ,p.3,ホランドの発言も同じである(哀みメdリp.6)。 34)J鋸♂,pい13. 35)J∂∠dリp.、18

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リグァブール財政改革協会について−−−−その成立まで岬 】2タ7− 発言をめぐり混乱した。書記のロ−・リンズ(C.E.Rawlins)が特に発言し,「当 協会ほ通商上の独占の撤廃をもとめるものであり,宗教や政治上の独占、に・柊思 ったく関知しない。」36)と/宣言した。すなわち,協会は,その活動を純粋に経済 闘争に.限定し,議会改革にほ取りくまないとしたのであるが,この路線ものち にLFRAに引き継がれてゆくのである。 1842年初め軋結成されたリグァデー・ル反独占協会は,集会や講演をひんばん に.開催したり,パンフレットを刊行したりして活発な活動を展開したようであ る。そして,会員数ほ′1842年の340名から1843年に.ほ271名へといったん減少し たものの,1844年には404名へと増加し,1845年にほ712名に.達した。37)また, 運動の進展紅応じて協会の財政も膨張し,初年度(1842年1月−・12月)紅は, 1,000ポンド弱であったのが,1845年度には1;500ポンドをこえるまでになっ た。 寛4匝Ⅰ年次大会ほ1846年3月初旬に開催された。協会は,第4回年次報告書 において過去3年間においてピールがおこなった大幅な関税の整理と減蝉の方 向を高く評価する。38)しかし,協会が最大の眼目とした穀物法は当時どうなっ て1、たであろうか。周知のよう紅,1845年末から1846年初めにかけて\政局ほ穀 物法の存廃をめぐりめまぐるしく転変していた。ピーールは,穀物法廃止の方向 で閣議をとりまとめることができず,1845年12月5日にいったん辞表を提出し たが,再び大命が降下し,同月20日に組閣をすることになった。再登場したピ

ールほ翌年1月27日,穀物法の廃止を含む関税改革案を庶民院に提案した。す

なわち,穀物については第6表のような軽減税率のスライディング・スケ−ル を3年間継続したのち,1849年2月1日をもってそれを廃止し,以後名目的な 36)J∂よd.,p,.13 37)P㌢・∂g7−gぶざ〃ノーダれ招:n’α♂β∠〝J朗5:ダの〝才力A刀花〟αJ斤β少β㌢’≠〃ノ≠カβ C〃〟〝CよJ〃′

摘β エよ紺相即JA抽一肋〝∂♪クJ.γ A・9ざOCね抽用ノ加f如 y♂αγ■ ∫β45〔以下;釣働■拍 A仰拍動㌃見好吼■オ,と略称する),Live叩00l,1846,pい6いもっとも,第4回年次報告番 に付されている会員名港によれば1845年の会員は565名である。なお,1842年以来会長 をつとめたソ−ンリ−は1846年3月に会長職を辞し,1鋸6年度の新会長には南ランカ レヤ一一選出の国会議員であるプラクソ(William BIOWn)が就任した。

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J9β0 香川大学経済学部 研究年報 20 第8轟 穀 物 関 税 一一29β− (尊僚 シリング・ぺンス) か ら す 変 小 麦 大 麦

税讐彗乞芯い渕

㌢莞忽㌫ 関 税讐_幣詣う】関

0 6 0 6 2 A▲ 3 つJ 2 2 18 19 20 21 48 49 50 51 52 10 0 9 0 8 0 7 0 6 0 26 27 28 29 30 31 3 0 】 22 53 1 5 0 5‥j・∴ __‥__、_ 冊斬〕釣棚■拍A嘲掴卜町如畑p26. 関税率(1クオ一夕ー一につき1シ′リング)を適用するとしたのである。き∋)この ピー・−ルの提案は,穀物法の存続を主張していた与党トーリーの一一・部と撤廃運動 を展開していた反穀物法同盟に.よって批判されたが,大方の支持をえて,1846 年2月27日に.賛成337票反対240票で,昇一・読会を通過した。 ピ・−ルの提案は,第二読会も3月23日に.302票対214票で通過することに・なる が,3月9日に開催された反独占協会の籍4回年次大会は,ピーー・ノレの提案をつ ぎの二点において批判した。「算1ほ.,食料の輸入に・たいし更に3年間関税を継 続して課すことは消費者にたいして不公平をもたらすこと。このことはいつい かなる状況においてもそうであるが,今日のように食料不足正直面している場 合に.は特に不公平である。第2ほ,ことさらスライディング・スケ−ルを存続 した形で廃止を延期することは国内生産者に深刻な害をもたらすこと。この二 つの理由紅よってわれわれは,ナ・−・ロバーー・ト・ピ−ルの提案のこの部分にた いしては強い反対を表明せざるをえない。」40)そして,年次大会ほ.,穀物法なら びに.あらゆる差別関税が即時完全に撤廃されるまで協会を解散しないという決 議を採択した。しかし,協会の第1の目的とした穀物法の撤廃が事実上達成さ れた現在,その使命は終わったとみてよいであろう。たしか紅,協会の第2の

39)Archibald Prentice,mSioT.y Ofihe Anti−Corn Law L・eague Second edition

(Kelley),New York,1968.vol.ii,pA21

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リグァプール財政改革協会について・−■・ノh・−その成立まで叫Ⅳ一 −299一伽 課題である関税の減税ないし廃止ほ残っているが,それほ体制をたて直し別の 組織をつくって運動を推進する必要があったと思われる。それが,LFRAの直 接の前身をなすリグァプ−ル茶関税減税協会であった。 ⅠV 17世紀中頃にイギリスに初めて輸入された茶は18世紀中頃になるとすでに.国 民的飲料となっていたが,41)その生産ほ中国のみに.限定され,輸入ほ東インド 会社が独占的に担当していた。しかし,東インド会社による200年余りの茶貿 易の独占も1833年に終焉をむかえ,茶貿易ほ自由化された。それまで茶の単な る圏内仲買人や小売人軋あまんじていたリグァプ−・ルの商人ほ早速中国茶の輸 入にのり出したのである。42)北部および中部イングランドを後背地にもつリグ ァプ岬ルの商人たちほ国民的飲料となった茶こそ需要の伸びる有望な奴り扱い 商品であると判断したのであろう。しかし,茶ほのち紅みるように.1840年代後 半のイギリス産業資本にとってもっと重要な意味をも?ていた。それはともか くとして,イギリス全体の茶の消費鼠は1840年代から急上昇するが,431発7表 のようにリグァブールに陸上げされる茶も1840年代後半から激増し,リグァプ −ル商人の取り扱う茶の嵐はイギリス全体の4分の1に達した。そして,1850 年代初めのリグァブールに.は32名の茶の輸入繭,12名のプロ・−・れ・−,300名の 小売商人がいたのである。4ヰ) リヴァプール茶関税減税協会ほ1846年11月初めに結成された。しかし,前年 41)「この配紀〔1引.臼†紀二j の第3・四半柑紀に.なると茶を飲むことほ旗戌階叔の間では通 常のこととなった。喫茶の風習は普及して職人階級に広がり,さらに農業労働者や召 使い虹まで達し,長い間朝食の主要な飲みものであったミルクとかゆ紅茶がと・つて代 った。」(Step血即DoⅣ・さ王王,AガZ、∫わ′’.γβ./rα∬〃fメク〟βガdγα.芳βゞ£乃 E乃gJ伽♂,1■bird edition(CaちS),Ⅴ・01‖iv・,London,1965,pl.217.) 42)東インド会社の特許廃止の法律が発効した3日後,すなわち1834年4月25日紅,リ グァプールむけの紅茶を儲んだ凍一風が広東を出帆した(Denys Fo汀鈴t,rβα.舟′ 〃iββ7班・Sゐ:〃ie5〃Cよα/α〃dβc伽β桝∠c仇√S如.γ〃ノ■αj㌔㍑別物.S Trαd♂,London,1973, ppい118−119.)。 43)加藤祐三『イギリスとアジアーーーー近代史の原軒−−』岩波新苔,1980年,109ぺ・−ジ, 図6。 44)FoI・工eSt,0タ.cよgリp‖122

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香川大学経済学部 研究年報 20 ー3∂0一 ユタβ0 粛7表リグァプールの茶貿易 (単位1,000蛋盈ポンド) 〔出所〕Baines,Ob.cit.,.p”790. に首相ピールあての手紙の形をとった,リヴァブール東インド・中国協会の− 員であるブロドリッブ(Edward Brodribb)紅よる茶関税に関するパンフVッ トが刊行されている。45)茶関税減税協会の主張の要点ほプロドリップの公開書 簡に尽くされているあで,まずそれを紹介し検討する。 プロドリッブは,茶関税の減税の喫緊を訴える。48)当時の茶関税の実効税率 ほ,策8表の通りである。1844年をとれば,紅茶のCongou,すなわち工夫茶, 45)Anon..,Aエ♂才才βrわ才ゐβ点∠g如肋乃♂鋸γα∂J♂Sわ・凡血椚上靴融,風おれ∴酌7・sオエ♂′・d げ肋γ肋メβS研ぎアシβα.郎〝.γ,βれ,〃乃≠カβrβαβ〟f≠♂ざ,∂.γα月離職血汀セ′相場工劫即一 如〟風ぬ=元物α撼C厨如A5ゞクCよαgわ〝〔以下,エβJ′♂γ■♂〝′カβrβα∂〟≠∠β5,と略 称する〕,Liv由・pOOland London,n.d小この手紙の日付は,「■1845年12月」となってい る。これは若干圧縮され著名も明示してAれsわ・αC・≠として,リグァグール茶関税減税 協会から独立のパンフレット(一部2ぺンス)として刊行された。なお,プロドリッ プは缶年の経験をもつリグァブールの茶プロ−か−であった。 46)茶税の歴史についてほ,Dowell,OZ>.Cit”,pp..220L226;Sydney Buxton,Finance

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リグァプール財政改革協会について−・−−その成立まで−【劇−− −−−βOJ・∬ 第8表 茶 関 税 2 8

∼ 2 2‡

19与 2 2‡

0 4 4 4 8 8 1 1 9 i2 9 実 効 税 率(B)/(刃(%) 輸入価格(ポンドあたり)(刃」(B)

㌫㌃「盲丁霜 Bohea lCongou 5Twankay

S d l、41T l 1 1 3 3 9面1藷且17 1 ▲ソー 3 6 8 2 1 1 S d 3盲1盲 9 1 1 3 4 3 S 10

1844J2 7喜

310‡;311‡

〔出所)エβfタe′・銅=摘βT以仁肋〟e5の付表。 緑茶のTwankay,すなわち屯渓茶がともに120%をこえている。プロドリップ ほ,「100%の税があまりにも重いということほ明日であります。と申しますの ほ,それが長い間の習慣によって社会の上流階級に・おける毎日の2回の食事の 蚤要な部分になっている商品にたいする課税だからであります。特に工凛都市 においてほ茶が労働省階級や箆民階級にとってより一・層重要なものに.なってお

ります。すなわち,茶を飲むこ

とに.よってのみ乾いた食事や冷えた食事紅うる おいと諒びがあたえられるからであります。」47)とど一−ルに訴える。大衆向け紅 茶のBobea,すなわちポヒ一茶の実効税率は茶貿易が自由化されてもはぼ200 %の水準を維持し,1844年にほ驚くなかれ500%ちかくに達している。したが って,庶民に安価な茶を供給するということが茶関税減税の理由の一つであっ たことほたしかだが,プロドリップにとって茶関税減税の第一・の目的ほ広大な 中国市場であった。 r茶こそわが国と1rt]国とが通商するさいの主要な交換手段(principalmedi・ 47)エβ抽′鋸=場βr紺㌧仇〟βS,p.8.

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香川大学経済学部 研究年報 20 ユニ)ざ(フ −β¢2− um()f exchange)であります。したがって,それに不必要に課税することはわ が国の流通手段軋たいする課税そのものであり嘉す。」舶)また,「もしわれわれが 見返りに(in retuIn)茶を受け取るならば,中国人が購入しうるわが国のエ業 製品の騒には限界がないようにみ.え.ます。」49)プロドリップは茶が! ̄交換手段」 であるとか,「見返りに」茶を受け取るとか記しているが,と.れは何を意味する のであるか。それ裾.,結論を先取りしてい.えば,当時英中間の貿易がパー一夕ー 制であったことを示す。50)国際貿易でいうバ一夕ー制は国際収支の不均衡と片 貿易を防ぐ目的で発生するといわれるが,叫1840年代後半における英中間のバ 一夕ーー制もその例外ではなかったようである。 英中間のバ一夕」−制ほ1840年代中頃にほ.じまったという。52)バ」−・タ一一制かお こ.なわれるようになった虐接の原因は,1830年代後半以降中国に/たいするイギ リスの工業製品,なかんずく綿製品の輸出が増大したことやそれに.連動してイ ンド産アへンが中国に流入したこ.と,アへン戦争にもとづく中国の賠償金の支 払い等により当時における国際貿易の決済手段としての銀が中国から大愚に流 出したことである。銀ほ,イギリスとアメリカの入超をインドの出超から差引 く形で,最終的に中国からインドへ流出したが,そのピ−クほ1838−39年と1843 −44年であった。53)その結果,1845年前後から銀減少=銀員を原因としてバータ ー制が開始されたのである。 英中間のバ・一夕−制の前提は,イギリスは大鼠に生産される綿製品を販売す 48)∫∂∠♂.傍点は原文がイタリックである。以下同じ。 49)′∂よd.,p.14り 50)広東のイギリス領事が発信した,1847年2月15日何の急送公文酋はいう。「中国貿易

は本質的に直接的な/i・−・クー・貿易(direct barter trade)であり”l‥」(Reborifl’Om

the Select Commiteee on CommeY・CialRelations u,ithChina,1847,p。Vii,fn.)。

51)詳しくほ,谷口吉彦『貿易統制論』(新経済全集7),日本評論社,1934年,121−139 ぺ−ジを,簡単には,『経済学小辞典』(増訂),岩波書店,1960年,の「バ一夕」一制」(吉 村正晴);『体系経済学辞典』(改訂新版),東洋経済新報社,1975年,の「貿易協定」(依 光良寮),をみよ。なお,いずれの論者もバ一夕一制ほ1930年代以降に出現したとして おり,1840年代後半の英中間のバーク一制にはまったく言及していない。 52)浜下武志「近代中国における貿易金融の一・考察一触19世紀前半の銀価胎農と外国貿 易構造の変化−∴J,『東洋学報』弟57巻第3・4号,1976年3月,153−154ぺ・−ジ。 53)同上,12ト124ぺ−ジ,とくに表3。

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リグァブー…ル財政改革協会について−・・「その成立まで肌−一一 −∂ク3− る必要にせまられるとともに,中国を唯一・の供給国とする茶がイギ.リス国民に とって生活必需品紅なっていること,ならびに,中国にとっては.茶以外にイギ リスにたいする大口の輸出商品がないということであった。1846年11月に開催 された茶関税減税協会の大会に酎、て,ブラウン(WilliamBrown)はいう。 「もしある国がなんらかの別の方法を使って支払うことができるならば,どの ような場合でもわれわれほ商品を輸出する相手国と虐接的な等価物の交換をし なければならないということに・はならないのであります。しかし不幸に.もその ことほ中国に・はあてほまりません。それ故に,われわれの目的は直接的交易 (diIeCttrade)を増大させることです。」54)また,1848年1月の大会でラスポー ン(WilliamRathbone)はいう。「われわれすべてが承知しているように,中 国とイギリスのバー一夕ーほ茶を通じてであります。もし中国人がわが国の商品 にたいする支払手段をもたないとすると,マンチェスタ−・の友人たちは商品を 〔中国に〕送り出すことはできません。」55)したがって,イギリス綿業資本に.と って茶こそ大愚に生産される綿製品を中国に.売りこむさいの鍵をにぎる戦略商 品だったのである。イギリスが茶を大暴かつ安価紅輸入して,国民が消費すれ ばするはど,イギリス綿製品は中国市場に流れこむことになる。茶にたいする 重い関税は綿製品の輸出を制限し,その影響も国際的であったのである。56) なお,中国からの銀の流出はイギリス銀行資本の中国への進出に.より停止 し,インドへの銀輸送も1853−54年にいたって−急減した。したがって,1850年 54)TheCommitteeof theLiverpoolAssociationfortheReductionoftheDutyon Tea,尺β少β㌢■才∂/■Jカβタグ−OC錯励〝g・5〃ノ′ゐ♂P〝∂JJc肋♂どよ〝g♂〝才ゐ♂rβαか甜才∠βざ〔以 下,助肋卜怖融毎=明地打㍑れ伽擁S,と略称する〕,Live工pOOl,〔1846〕,pい5 55)The LiverpoolAssociation for the Reduction of the Duty on Tea,The Tea

〟扉壷・5こガβ♪♂γぃげれ毎ふ拍加㌃鞠加わル払痛〝g〔以下,ぶβC〃昭dP〟肋c〃毎払喝,と略 称する〕,Livef・pOOl,1848,p‖2) 56)プロドリップは,1846年11月に小う。「われわれは原綿をアメリカから輸入し,それ をマンチェスタ」一紅送り,そこで原綿は中国市場にあうような綿布に姿をかえます。そ のようにして生産された品物が中国で販売され,その代金(proceeds)は茶で本国の われわれの手許紅送られてくるのであります。帖したがって,茶ほ,アメリカ,イギ リス,そして中国の物産(industI・y)を代表してt、るのであります。財政法にもとづ くとはいえわれわれは地球を四分の三回りする物産に直接課税をしているのでありま す0」(P〟∂/∠c腑蛸励g㈹J如7鋸仁a扉需・5,pp..53−54.)この発言ほいかに.も大風呂 赦のようにみえるが,クソではなかったのである。

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香川大学経済学部 研究年報 20 ヱ9β0 ーー3∂・J−−、 代中頃硬バークー一利ほ終璃をむかえたのではないかと推測される。さ7)それ故, 英中間のバーター制は1840年代中頃から1850年代中頃まで約10年間継続したと いってよかろう。 さて,ピ岬ル首相あてのブロドリッブの手紙にかえろう。リヴァグー・ル商人 に.とって,3億余の人口を擁する中国ほイギリス工業製品の底なしの受け手の ように「みえるとともに,iヨ分たちほ後背地の製品を中国へ売りちむ先兵である と考えて.いたようであった。この点についてのプロドリップの説明ほ興味ぶか いので,やや長いが引用しよう。 音 ̄今日われわれは本質的にわが国の製品の中国への輸出業者(expo‡■teI・s)で あります。中国ほ広大な市場であり将来性もありますが,その限界は,多分輸 出代金に相当する返り荷(f■etuI−nS)を確保できるかどうかによっております。 われわれがわが国の商品の販売者(Sellers)になったことによって産業紅おけ■ る雇用ほ火幅に増加しましたし,その結果,海運関係,特に輸出貨物の分野に おける雇用ほ予想以上に増加しました。予測ほ.困難ですが,〔中国への輸出によ り〕マンチェスクー,リーズ,レェフイ−ルド,バ−・ミンガム,そしでスタッ フカ−ドンヤーの産業における雇用はただちに拡大するでしょうし,造船業に 従事する者の雇用の増大にもすぐなからず寄与いたします。また海運庭.たいす る大幅な裔要の増加によって種々の手職人もうるおい,直接的ではありません が重要でないとはいえない分野では,積出し港への荷物の輸送に関連して鉄道 や運河の利用がのびるととも紅そこで雇用される労働者が増加し,それら紅必 要な資本も増人するとともに.関係するブローーカ−や委託売買人も恩塩をうけま しょう。」5S)ブロド.リップほ,リプァプ仙ル の商人こそ後背地の運命を左右■して いると言いたかったのであろう。 茶関税は,1834年に従価税から従壱ほ削こかわった。ブロドリップほ,「税率ほ 固定され価格には依存しないので,消費が増大すれば税収入は増加いたしま す。」59〉という。重税を課して税収入をおさえるより,凝い耕を課して消費を増 大し,税収入をのばす方が国家に.とっても有利となる。彼によれば大衆が茶に 57)浜下,前掲論文,122−123ぺ−ジ,表3。 58)ム出初釦=兢β7融Zβ如来・S,pp.8−L9, 59)Jゐよdl,p.18.

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リグァプ【ル財政改革協会に.ついて一−−その成立まで−一一 −3♂5一 支払いうる価格ほポンドあたり5レリングであるから,それから逆算して輸入 関税ほ最高でも1シ′リングにおさえるべきである。すなわち,現行の税率がポ ンドあたり2シ′リング2吉ぺンスであるから半分以下に.減税せよということに なる。 以上要するに,プロドリップほ,無限の可能性をもつ中国市場へイギリス製 品を売りこむ手段として茶関税の減税を主張したのである。 さきにのべたようにリヴァプール茶関税減税協会ほ1846年11月初め把.発足し たが,60)同月25日紅は市長ロ−レンス(GeorgeHallLawrence)の呼びかけで発 1回の大会が開催された。当日議長席には市島自らすわった。そして,南ランカ レヤー選出の国会議員でリグァプール反独占協会会長でもあったブラウンをは じめ,市参事会員でドック委員会議長プラムリ−・・モqア(J.Bramley−Moore) やワイン・スピリッツ協会議長ディクソン(Dixon),プロドリップなどの市の 有力者11名が発言した。当日の議論の大要ほ報告書61)の最初に.付された要旨に まとめられている。大筋ほプロドリップの手紙と同じであるが,協会の第1回 の大会であるこ.とを考慮して壷複をおそれず紹介したい。 まず,中国市場の有望性が強調される。「さて,膨大な人lコを擁する中国ほ., 限度を見出すのが困難な位わが国の製品を受け入れる体制虹あるが,わが国の 巨大な生産力をもっですれば中国の需要に十分対処しうる。そして,中国は見 返りに.十分な茶職この商品ほ/現在生活必宗品であるのみならず,わが国民の 大い首こ好むものである−を供給できる。この点にこそこれから大きく増加し, 相互に利益をもたらすであろう通商の自然的な要因がある。それゆ.え,こ.のよ うな好条件の下では中国との交易ほ生産力の増大と消炎人口の増加に.ともない 漸次増加するであろうと期待された。しかし不幸なことに現実はそうではな い。中国へのわが国の製品の輸出は最近大幅に低下したのみならず,製品があ 60)会長には,リグァ70・−ル東インド・中国協会議長のニコル(WilliamNicol)が就任 した。執行委員はア−ムストロング(George Armstrong)以下34名。その中に.は, プロドリップ,ヘイワ・−ス(LawIenCeHeywoItIl),ラスポ・−ン等がいた。ロバ−トソ ン・グラッドストンは執行委員にはなっていないが,協会にたいして活動資金として 10ポンド10シ′リングとl、う叔高額の寄付をしている。 61)P〝∂/ic〝ββ′i〝g O〝才力♂rβαD〝ヂiβ5.

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香川大学経済学部 研究年報 20 ヱ9β0 ーー・l、ヲ0♂−−− ちらでほ売れず価格も現実にイングランドより切り下げられているのである。 他方,わが商人に.よって輸入された茶ほ,原価を25%ないし30%わらなくては 販売できないために.保税倉庫紅績まれたままである。」62)この原因は.な紅か。そ れほ政府が茶に.過重な阻税を課しているこ.とである。「茶は中国へ輸出されたわ が国の製品にたいする中国からの返り荷の重要な手段であるが,それに・政府ほ. ポンドあたり2レ/リング2・豊ぺンスの関税を課している。そ・れほ平均で200%, 場合によってほ400%以上になる過重な税率である。」63)「その結果,−・方でほわ が国の人々ほ愛飲する茶に正.当な価格以上の代金を支出するかまたはそれをま ったく断たなければならなくなるし,他方でほ輸入業者や船主,工場主,労働 者の利益が大い托そこなわれるのである。」叫そこで,茶関税の減税が主張され る。そして−,すで軋実施されたコ−ヒーー・や ココアの減税の場合と同様に.,「(茶 の〕消費の増大ほ人きく,大蔵当局は減税による損失をつぐなって−余りがあ る。」65)したがって,協会ほ,減税による減収の補填財源を考えてほいないので ある。66) 大会ほ最後に政府にたいする請願書を採択した。それは,現行のポンドあた り2シ/リング2圭一ペンスの関税が不当に重いこと,茶関税の減税に.よってこ中国 との交質が拡人しイギリスの輸出は大幅に.増大すること,茶関税の減税をおこ なっても茶と砂糖の消費が増大することに.より国家収入は大きな損失をこうむ らないであろうことを訴えるものであった。8」7)そ・して,この請敢のためア−リレ (WillamEarle)他3名の代表団を送るこ.とが決定された。代表団ほ,1846年 12月初旬にラッセル(LordJohn Russe11)首相とクツド(Char1es Wood)威

62)Jみま♂り,pp..Ⅴ一Vi. 63)J∂よ〆りpp.ViトViii‖ 64)Jみ∠d.,p..Viji巾 65)Jみ摘.,p…ix.ホ−ソピ一−・(Hugb HoI・nby)ほ,茶関税を1シリングに・減税すると, 「数年のうちに」茶の消要は3倍となり,茶関税収入ほかえ.って増収になるという (友一鋸d“,p…21り)。 66)ただし,ヘイワ・−スは,有審な茶関税を滅赦するためならば所得税を増税してもよ いと発言している(≠鋸ゼ.,p.63.)。第2回の大会においても,補填財源として所得税 を推奨する発言があった(∫ec♂〝d P捉占〃c肋βJま−〝g,pp..25,36)が,伝統的反対論 も根強く(よ∂よ♂リp..56い),協会としての統一・見解は出せなかった(よみよ♂リp.′60)。 即)Pαみ∼よc.泌鋸刃喝のり南アβα加わe・S,pp,65−66,

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リグァブール財政改革協会について一一一一−その成立まで【−一 −−307−− 相に.面会した。68)しかし,政府の返答ほ,茶関税を減税したさいの歳入欠損を どう考えるのかということであった。89) さて,茶関税減税協会の宣伝ならびに陳情を重要な契機としでであろうか, 議会ほ,1847年3月に,中国との通商関係についての現状を検討する特別委員 会を設置するこ.とにした。委員会の議長にほリグァプ−ル選出の国会議員サン ドン子爵(Viscount Sandon)が就任し,委員にほブラウン,元蔵相のペアリ ング(Francis Baring)等がなった。そして,同年7月紅,委員会の報告書が 発表された。 委員会ほ,茶関税減税協会の主張をそのまま承認した。すなわち,中国への 綿製品輸出がのびない唯T・の原因ほ返り荷確保の困難にあること,返り待とほ いうまでもなく茶であるが,高率の茶関税によって茶の価格が引き上げられそ・ の消費が抑制されていること,したがって結論として,「これらの理由に.もとづ き本委員会ほ,国民の嗜好と社会的習慣に配慮するとともに,歳入の−・時的減 少をまねくが中国との貿易を拡大するのみならず現在到達している水準を維持 するのにも不可欠であると判断して−,できるだけ早急に.茶関税を大幅に引き下 げることを十分な根拠をもって本院に働脅する。」70)かくして,協会ほ議会の委 員会のぎ ̄ぉ墨付」71)をえたのである。協会のメンバ−ほ欣藩雀躍した。そして, 茶関税減税運動にほ一・層の拍車がかかったのである。 協会の策2回の大会中ホ−スフかqル(TuB・HDrSfall)市長の呼びかけで, 1848年1月14日に開催された。大会における発言はその内容において第1回の 68)この時首相と蔵相に茶関税の減掛こついて陳情したのは,ア−ル等のリグァプ′−ル 茶関税減税協会の代表団にカ‖えるに,リグァプ卿ル東インド・中国協会,リグァアー ル船主協会,リグァプー・ル西インド協会,・マンチェスタ一通商協会,グラ・−ズゴク衆 インド協会,.エディンバラ商業会議所,タブリン商業会議所等の代表団であった。こ のことは,茶関税の減税にいかに広場聞な階層が関心をもっていたかを示す。 69)A“∂α〝才(〉ノ〃ね∴F卯・∽αf去〃れ,P′∠血よ〆βS,α〃dOり♂Cf・S〃ノ′カ♂エ≠ぴβγ少〃βJダ≠〝β乃(よαJ 点β.わ7椚A5.5♂C査αゎー㈹〔以下,Aα0α〝f oノ〃紹」n汀川場わ0〝,と略称する〕n..p。.〔Lon− don〕,n.d,.〔1849〕,p‖4 70)尺β♪〃′オノンro∽ ≠カβ∫♂Jgc≠ Cの服用広け釘e(朋Cク〝Z∽♂′・わ扉.飢勅励♂〝S紗わ摘 C崩乃α, 1847,p.Viii.

71)LiveI・pOOIAssociation for a Reductionin the Tea・Duty(sic),‘TheAddressof theAssociation,,in The Tea・Dut.y Question,Liverpool,1848,p.7

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香川大学経済学部 研究年報 20 ーーー.ブ♂ざ1− Jリ占() それをこえるものではな1、。鵠1回の大会の時点とことなるのほ,政府の特別 委員会の報告が出されていることである。大会の最後に採択された請願書は, 茶関税減税紅かんする協会の主張が議会の委員会に′よって裏づけられたとの べ,「そ・れ故,われわれ請願者ほ.,庶民院の特別委員会の勧告をただちに採択し て下さるよう閣下諸賢〔国家財政委員〕の御高配をわずらわしたく伏してお願 いするしだいであります。」72)という。そして,請梅吉を政府に手渡し茶関税の 減税を要請するため,ロバ−・トソン・グテッドストン他6名の代表団を派遣す ることが決定された。 リヴァプー・ルの代表団がラッセル首相に.面会したのほ同年2月初旬であっ た。グラツドスl、ンが口火を切り先月の大会の模様ならびに大会で採択された 諸決議を説明し,茶関税減税の喫緊を訴えた。つづいて発言したブロドリップ は,より直凝滞二 ■ニ者択一,すなわちわが国の製品に関して申】遍との交易をあ きらめるか,あるいほ茶関税の一・部をあきらめるかである」7$)として,政府に 茶関税の減税をせまった。これにたいする首相の回答は1846年12月の会見の場 合と同様に.,歳入が問題だとした。すなわち,茶関税の減税を承認すると,同 様紅高関税を賦課されているワインやタバコ等も減税しなければならなくな り,その穴埋めになんらかの増税をしなければならなくなるとしたのである。 この主張にたいして,プロドリップは本末転倒だと憤慨する。「そのような議論 は歳入を華上のもの,政府の最初に考えるのは歳入であるということであり, 国民の福祉(welfare)ほまったく二次的なものとなっている。代表団は,その 逆に,国民の福祉こそ賢明かつ善良な政府のまっ先に考え.る事柄であり,それ こそ・政府の目的である。そ・してそれを実現するため紅歳入があると考えたので あります。」71)しかし,首相の発言が,入るを討って出ずるを制すということを 主張したものであるとすれば,−∵理ある。茶関税減税協会ほ,「国民の福祉」を・ 実現するための積極的代案を提出する必要紅せまられたのである。すなわち, 72)飢購傲ブA祓抽爪オβ♂∼∠〝g,p.58リ

73)LiverpooIAssociation fora Reductionin the Tea・Duty(.sic),‘RepoIt Ofthe Interview between the Deputation fr・Om the Liver・pOOIPublic Meeting and Lord

.Iobn Russe11,,in7 ̄カβrβα・丑扉.γQ鋸南府外 p一.15い

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リグァプール財政改革協会について−−その成立まで“−−・Ⅶ −β09− 協会の減税要求ほ,茶関税のみのそれであるが,それ以外の減税をどのように 考え.るのか,茶関税の減税に.よる減収は最終的に.ほ消費の増大に・より補壊され るとしてもそこにほ当然time−lagがあり,その間の収入の減少をどう埋め合せ るのか,まして茶関税以外の減税をもあわせおこなう時には大幅な歳入欠損が 発生するが,それはどのように補興するのかという宿題を政府から出されたの である。協会は,国家財政全般に関する改革案を用意する必要にせまられたの である。しかし,このような課題をほたすに.は協会として荷がかちすぎていた0 新しい組織が求められる。 この節を終わるにあたり,ニ点付加しておく。貨1。協会が要求した茶関税 の減税について。茶関税の減税は,奇しくも,茶関税減税逓動に参加しのちに LFRAの初代会長に就任したロバ−・トソン・グラッドストンの実弟であるウイ リアム・グラツドストン蔵相によって実行された。彼ほ,1853年度予算におい て■,茶関税を初年度をこ2レ′リング2妾ぺン∵スから1レリング10ぺンスへ,1854 年に.1レ′リング6ぺン∵スへ,さらに1855年に1シ′.リング3ぺソスへ減税し,18 56年に1レ/リングにしでそれを継続することを提案した。75)この計画ほクリミ ヤ戦争によって変更を余儀なくされた。1857年に1シ′リング5ぺン∵スとなり, これが1863年までつづいた。こ.の時茶関税ほ再び蔵相であったグラッドストン に.よって1シ/リングに減税され,茶関税減税協会の当初の目的は達成された。 しかし,グラッドストソほ1865年にさらに減税し茶関税は6ぺンスになったの である。L78)そして,1860年代以降茶の価格は大幅に低下するとともに・その消費 臨も急増した。77)ただし,消費の急増は,インド,セイロン魔の茶の輸入に・よ るものであり,中国産の茶の輸入シェアは葦9表のように急激に低下していっ た。 発2。中国へ.の綿製品の輸出について。リグァプ−ルの商人たちが熱望し期 待した中国への綿製品の輸出ほ結局思ったはどは伸びなかった。第10表をみ ょ。中国・香港への綿製品の輸出額は絶対額でも変動がほげしいが,19世紀中 葉における中国市場はイギリスの綿製品輸出額の10%にほほとんど達しなかっ 75)Buxton,OP・C払,ppl124−−125・ 76)Dowe11,〃♪.、Cれppn227−228 77)加藤,前掲憲,109ぺ−ジ,図6。

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香川大学経済学部 研究年報 20 J.9β0 ー一3J()− 第9蓑 茶の輸入先内訳 (.弘位 %) 第10表 中国・香港への綿製品の輸出 (単位 万ポンド) 票讐姦悪慧(刃「碧怠謂(B) 刷/(B)(%) 年 弓中 国= インドlセイロン 年 0505∩︶ 3へ∂445 008︵む8︵む l l l l﹁⊥ 66342 4370 11 1,530 1,642 1,757 1,916 2,188 2,759 4,215 4,692 5,675 5,485 6,366 48997 25292 3 021只∵4 38609 8 1 50506 56677 8008︵0︵H▼ l l l l l 0079nO3 7 0050010 ウ︺ 3265 5 〔出所〕P.Mathias,‘The British Tea Trade in the Nineteenth Century,,D小Oddyand D.Mi王ieI eds.,rカe肋ゐ∠〃gげ〃iβ肋dβγれ βγよヂよ.sカj封■ef,Totowa,New.†eI− Sey,1976い p一.92. 1880 〔注〕輪 出額ほ時価である。 (.出所〕(A)は,加藤祐三「19世紀のアジア三角貿易.」, 『横浜市立大学諭遊』(人文科学系列),第30巻 寛2・3合併号,1979年3月,籍1表,M欄。 但)は,A.Imlab,且相加潤わガ/♂鯛βガヂぶよ〝≠カβ

Pax Briiannica,New York,1969,ppい208

−210.. たのである。中国への輸出が伸びない理由に/ついて同時代人のレグイは,中国 人の好みに.あった衣類をイギリスが生産できないことと英中両国の課す関税を あげている。78)そして,角山教授ほ中国における土着綿業の強固な存在,東金 税という国内逆送税の障害,中国商人が国内市場をがっちりと掌握していたこ との三点をあげている。79)したがって,イギリスと中国の双方にその原因があ ったといえ.るであろう。

78)Leone Levi,On Taxation,London,1860,p.,72中国の課す関税が障害の一日つ

になっているというレブイの指摘ほあたらないであろう。というのは,アへ・ン戦争の

結果イギリスがおしつけた不平等条約・諸協定によって中国の課す関税は威則として 従価5%であったからである(MりGreenbe【g,Briiish Trade andiheObeningo.f

Cカ査刀αヱβ00MJβ42,New YoI・k and London,1951,p..214;坂野正高『近代中国政 治外交史−プァスコ・ダ・ガマから五四運動まで一一』東京大学出版会,1973年, 172ぺ一汐)。

79)角山栄『茶の世界史』中公新苔,1980年,111−112ぺ一−ジ。同「イギリス綿工業の発 展と世界資本主義の成立」,河野・飯沼編『世界資本主儀の形成』岩波苔店,1967年,

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