教育愛の構造-香川大学学術情報リポジトリ

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全文

(1)

人間は教育を受けることによつてのみ人格脅形成し得ると共に囲家人となり得るのである。戊た、園家む教育

作用を通じて自己を持続し、その所有する文化を倦承し永粧せしめ、且つ新しき文化を創出して行くこ虻を得る

のである。かくて観衆の宿する文化内容は轟だ聾P買なり、国民の慣隠意識は教展するのである。教育は園家を 鷲践の場となし、文化慣倍々妓介としたる儲民の文化意識の後塵−を箇少、慣偲行動の促進を得ひ、以て人格陶冶 ノ′︻L

針助成する文化活動である。人間は常に必然的な死の選命の強腰扮下にある有限的春水着であるバ而して有限的

性格を有するが故に、その有限性脅否定して永遠の椰に連がらんとする欲求軋持つ。斯かる永遠性に連がる仕方

は教育む通じて兇義に既存p文化を俺達して文化意識を晶瘍せしめ、⊥先の人格にまで形成し、自己の選長とな

して永遠の袖に蓮がらんとするので功驚

まだ国家もでの泰在学水耕させんがだめ▼・には教育を通じて兇童竺先の人格にまでの陶冶を斬ひ、以て死に行

教育費の構造 \、ノ 叫 教育作用の動機としての鷺 ︵

敦蘭愛 の 構、造

独 ダ 痕 ︵二二三︶ 九三

(2)

東十六替 第二髄

︵二二四︶九閃

く図民の補充を行ふと共に、俸統、慣習等其の他あらゆる文化を維椅後麒せしめて行くのである。攫って教育闇

﹁生けるもの﹂−人格者−の堆祷、敬展の作用とせ云へるであらう。

然るに他方に於て教育作用は本能や衝動より田敬し、人間以外の動物にも存在すると云はれる▲¢即ち親猫が仔

猫に鼠を靖獲する方淡を教へることはその劇例とせられる。併し斯かる本能現象は、その底質に於ても、また本

能を充足せしむる形態に於ても、曹庵今も何等攣るものでなく、まだ将来に於ても同様でみり、そこには何等の

意味も慣値も生じないのである。即ち蟹展や進歩を伴はない本能の甲山なる反後作用に過ぎない。斯かる本能は

永久に自然領域にのみ止まカて叉化領域に、進むことは不可能である。人間の場合に於ても箪なる本能ゼけにては

教育が不可能であることは前述と称棟である。自兇を伴はぎる本能作用や衝動的行馬に於ては文化慣儲藩創造せ

られず、また人格の陶冶も行はれ得ない。

イノチ 轟音は文化個櫨を妓介として自己が他者と生命の共同を潜むと共に礪意せる人格を陶冶しっゝ道徳的赦愈の完

成を意向する意識的な文化活動でなければならぬ。従って文化意識から出費して人格陶冶を目的とする教育作川

が規則するためには、人間が∵疋の文化内容を有し、慣櫨意識へ進む文化的白鼠の立場に立つことが必要であ

告反之、文化的意識の段階に達することなく、よに反省的方法薮知らぎり七原始時代の入間は他の動物と殆ん

ど同様に親ば子供に封して単に本能的な呼び扱げや衝動的な働きかけを行ふのみで、教育を行ふこまがなかつ

た。犬れ故に子供は韻の本能や衝動、′及ぼ風土的、自然的限定を受けるので′整月は撃しされることなく、衣、

(3)

食、任の資料を獲得し得る仙先の年齢に達するや図鰻の成最たる一山とが出来たので透る。聾するに﹂この時代の 人間ば外から自然的な偶然的な限定脅受け′美白英領域内で.生活をしたのであるかふ教育は存轟しなかつたと主張 す各のも強ち富ひ過ぎでばないであらう。併し、﹁庶人問が自然傾城かち文化領域へ進んだと通いへ、各く自然 領域を挺香することは用釆得ない打である。吾々は眉戯的限定と歴兜的限だの坤にある軋禽の中で生れ、こゝで 成長し、こ1で死んで行ぐも併しながらこの場合に昏々は祀静的限定を受けるけれども、かた逆に酷愈を限定 イノチ し、自戯を限定して鮭兜を創造する。斯か1る入間の﹁生命﹂の創造性や限定性望息識敬展を水質とする教育によ って陶冶されたものであらねぼならぬ。 祀禽は入間が生れると直ちに養護、衣食、書籍 慣習の加き同質的要素を祷つご先の方法−即ち文化を媒介と して教育す︵る。従って人間は絶て同質的宴素によつて教育が統一せられるが故に、園豪的性格は直ちに個人の性 格主なり、その結果、個人の持つ天既とか技能とも云ふべき異質酔勢家が殆んど否定きれる結果は兵隊的にして 猫自の低値を有する人格計陶冶することは不可能なととでぁる。臆し、政令が文化費展をなし、その構造が複雑 となったとき、文化内容は非常に増加せ㌃れて多種多様となり、文化意識は昂揚せられ、′その結児、人間は個世 を自覚し、その償値と尊厳さを認識して個性の計且を政令灯向つて主張するに室つた。︰従つで現在まで敢脅の同 質的安東によつて否定されてゐた 親らしき文化慣値を創造し、且つそれを媒介として生ずる具慣的にして特殊な個性を内容ケした人格が陶冶され / \ 教育愛の構造 ︵二二五︶ 九五

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硫 るのである。人間はその存廃祐也に於て陪食的存在であると共に個性的存在であると云ふ二旛の性質を縛っ。か くて人間は赦魯の限定諺受くると共に赦禽を規定する。人間は酢愈内に凝りながら斬昏を超越する。斯かる舶反 した二つの存在恕域に同時に存在し得るのが人間の本性である。而してこの本性が岳党を呼び起す基礎ヤぁり、 文化を創造すぎ根源である。飼、姦育姉人間の由冶作用である限りはヾ教育に於ても灘反する性贋を同時に持つ 人間存轟構造に現はれた如き二重性をその億に反映する。即ち穂愈約数育と個性的教育はそれである。入閣の布 衣繊遭が桝説法的性格を持つが如く、教育作用の論規は難語法で透る。次に、教育は曳化の媒介を必薮とするが 故に変化なきところにぼ教育作鳳は起らないし、よた入組談教育することが克ければ文化の生席は行はれないの である。斯くしで文化は徹宵の仕方を規嘉し∵教育は変化の刊容を限定する。 イツクシミ 而してかゝる教育作用の動機となるものは見韮に刻す ︵Amarin邑−erJt巨許︶である。即ち教育は文化的自覚の立場に在る成人が兇賓を容閣としてその能力を充分に符 聾し、人格を陶冶する助成作用である故、登美の愛を特にないときには教育意思もなく、従って教育作用は麗 らないのであそ愛あるところに教骨ば告レ、愛か消炎しだときに教育は解消する。人間は自己が創造し.に文化 アツガレ イツク・シミ に封し限卦なき﹁愛惜﹂を感じバ・また永遠の文化慣値に判しでは熱烈琴憶傲﹂の愛を持つ?か㌢遁文化債低への愛 と、それを持粧せしめんとげる欲求は成人の教育意思を滞り動かして晃覚への教習となつて規はれるのでぁる。 イ′チ 教育作用に放で教育する尭餞と教育せられ.る客鰐との問に於ける﹁生命﹂の典同の結合原理となるものは入間への 第†六懲 第こ凍 ′ 〓二二ハ︶ 九六

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± 教育愛に於ける音t12ゴ㌻的契機

︵ イノチスガタ、 人間が原始的段階である自然領域にのみ﹁生命﹂を地盤としたときに塊はれた愛の相は欲卑︵E甘F仁mia︶であ る。欲求ほ本能や衝動に駆られて竃己の物慾を充足し予慾望を端足することを以て本来の性質とする?例へば食 イノブ 慾や酔愁り如きはそれである。而しで欲求は岬施するとき﹁坐命﹂そのもの1如く考へられ易いであらう。即ち イ′・チイ′チイ′チ 欲求を持たない﹁生命﹂がなく、また﹁生命﹂なき欲求ばあり得ない。人周が質存す電以上、﹁生命﹂と欲求と イノチ ︵こ ∵ イ′タ は相即不撒のものである。欲求は常に﹁生命﹂よ結合サる。徒つ三.生命﹂が苧“義烈に自己を主張するとき欲 イノチ、 溌は愈々激しく現はれるのである。欲求は﹁生命﹂の拾動の榛識であ少:ハスカルが﹁パンセー﹂に於て﹁盛慾 イ′タ /イノチ ︵二︶ が藩々に於ける灸行鴇の根瀕である。﹂と云った如く﹁生命﹂の原動力である。欲求な変二.生命﹂ほ永遠の死で イツク・シミ イ′中. 愛と文化への﹁愛惜﹂である。斯かる愛に依ってのみ教師と生徒との問に於ける﹁生命しの全領域に濠透し合ふこと イノア を得るつ而しで昏々は教育愛を以て教師と生徒≠の﹁生色の共同から生する隋であると呼ぷC教育作用に於けか スガダ 教師と生徒とは文化意識の次元を異にすち以上、適者の静つ愛の内容と相は興るものでなければ奉らぬ。またこ の二つの兵なる盛が交流し限定し合はなけれぼ教育作用は硯ばれない。少即ち教師が教へんとする愛と生徒の率げ へ が如何なる構造を持つかを明らかにしたいあである。 んとする﹁憤憬﹂が交流しなければ教育作周が行はれ甘いことば明瞭である。嘗々は愛の原理を究明しっ1教育愛 教習直の棒追 7.っガレ ︵二〓七︶ 九七

(6)

ある○

イ′チ

イ′プカラタ 然らば欲求は﹁生命﹂と同仙なるものとして考へ㌃るべきあのであらうか。﹁姦八郎﹂も欲求も共に﹁一身餞﹂な \ カラタイノチカラダ くしでそれ自身にて存在し得るも伊でなく、常に﹁身憾﹂と結合して驚存する。﹁生命jほ﹁身餞﹂と結合する イノチ′ヵラタ ∴とに依ってのみ農場的にして特殊な個性として訂己ぉ家現することが田楽がの苓ある。﹁一隻命.山が﹁身甲山と

の結合を離れた時に人間の死が生する。人間が鸞存するがために蜂鱒肴ば相即不離でなければならぬ。故に身憾

、イ′ずナノタカラタ 的欲求が燭烈でみれはある程、﹁生命﹂は強烈なる欲求を感ずる。而して﹁後人抑﹂なき﹁身鰭には何等の欲求も 、

ノイ′ブイノ争サイ/チ 説はれないがため﹁生命﹂は欲求の基餞︵詳咄○訂im告On︶であり、欲求ば﹁生命﹂の展性である。斯かる.生命﹂ イリノr は自己を他に表現することに伐つで自己の存在を主麗する。此の場合に臆て表現の内容となるものは﹁生命﹂そ −、、■′1■J■∼ のちのでなく欲求を酒足するために外から獲柑せられた物である。換言すればヾ欲求を充足せしむる物が﹁生命﹂ ︵三︶ イソナ

の寮甥内容となかのである。﹁・鐘命トほ欲求に依って自己豊富ならしめ、且つ敬展することセ得る∵経つで欲

イノチ

哀は﹁生空の蟹厳原埋であるとも云へるであら乞併し、、欲求偲そ.の慾笠を充足するや直㌧に汚鍼して自己琴

イソチ 定を行ひ、吏に新らしき欲求を生する。伺、七の欲凍もその発足の後には死す′べき道命を祷つ。﹁生命﹂の申に

.サヶヵタイノチ 於ける欲求の生滅は、あたかも十水泡.山の田扱が水の流れてあること蜜ボブ如くー﹁坐高こが絡勤しでゐること ゝスガタ を詮左する。雷々ば欲求の蜂問性1即ち有馬緒欒の相を欲求に於て見る。斯かる欲求叔他者に封しで直接的に働

き幼け、ひたぶるに他者を否定し、打ち倒し、他者を手段し布い、物件化すること把よつて欲望を充足する。戴

第十大螢㌧ 第二雛 ハニ二八︶ 九八

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サトノ ィノチ に駅東が﹁生命の驚甥のために他者を破壊し滅亡することを仕事とすることを教見する。殊に欲求の破壊性は本 能や衝動の住家であ紅白然領域に放てす㌢よじき猿風桐の如くに腰乱す、る。此塵に於rは文化もなければ人格も ノJ一丁′ イノブ なく、唯、本能や術数が交々に出施して他者の滅亡や破壊が行はれ、途には﹁生年︼それ自偲をも埜止せしむる ィ′チ イソチ に至る。、﹁生命の孤立性は究極に於て自己否定となる。即ち欲求、は﹁生命トをバビロンの遺へと馳り立てるので イノタイ′チ ある。斯くて﹁生命﹂の認展原理としての欲或は﹁生年一の繍亡の原理へと帽化する。而して欲求の斯かる遵紛 イノチ 的悲劇性は欲求の性質であ諸敏目性、偶然性、及び瞳闘性に起因するのである。欲求に依って行動す彗.生命一 スガタ の行篤は銀白僚であるにめ、その\追は死に通する。欲求Ⅵ灘と性質を汲む鮮かに浮き捜してゐるものは彿教で云 ふ煩檎︵芥訂sO︶であらう。 イノイ7 前に述べた如く欲求は﹁生命﹂の行動の源泉であサ、進展の原理である故に教育作用も欲求に基礎を澄ぐこと ば常然である。根源的意味に於で教育は欲求を動機として生するとも云はれ得るであらう。然るに欲求は地軸に 於て﹁生命﹂の破壊の原理で雷ノ、滅亡 イ′ヰヤ 展であると共に人格を陶冶す牒作用である。逼って教育は﹁生命﹂の畿展に逆行する破壊性や滅亡性に封しては 決して志向づれないのである。故に教育が欲求のみにをの原理を求心るとすれば、欲求と同椋の還命に支配せら れて教育は滅亡し解消されるので透る。瞥這E甘ぎ凱に立つ教官が決して自覚の立場にある陶冶作用でな かつたことを原始民族の軋薗に於て了解する。即ちこの時代に於ける児童は家庭並に敢倉で文化閏碕動によるこ 教育愛の櫓邁 ︵二こ九︶ 九九

(8)

賃†大審 第二蚊 ㌧ ︵二三〇し山00 となく、略啓目的にして衝動的な変に倣ってのみ埋骨せられるがため、全く末陶冶であり、自然的であつた。従 って斯かる敦育現象には模倣や本能に伐る俺達は存在じ得るが磯展とか創造といふが如き現象は存在しなかった と云へるであらう心かくて書々は■E甘hロm︸aは教育作用の動械として、田蔑鮎としての二軍分を構成ずることは 認め得るも、′それが教育を支持し、成立せしめる原野点ること牢王張することは札束ない。 イノチ ﹁生命﹂は欲求なくしては・障時︳雉も存在することば出釆克い。而して欲求の封象となり、その充足内容とな イ・・, るものは軍なる抽奴的な働ではなべ、常に﹁生命﹂主情意的な聯踊を宥する農機的にしT慣倍あるものでなけれ ばならぬ。例へぼ昔々が渇して水を欲するとき、吾々の求める水は決して水蒸気や化学分子で云ふ翠なケHも でない。あくまで宜異に渇を癒してくれる冷めたき滑らかな甘い水である。この場合正於け計﹁冷めたい﹂とか イ′チ ﹁清らか﹂とか﹁甘い﹂と云ふのは水それ自身の有する魔性ではなく、﹁生命﹂によつ・て生産された情意的な意晩 ︵四 レ イノケ であダ、水に向けられた慣倍内容である。鼓で欲求は﹁生命﹂によつて否定され、限定を受くるのであを。即ち スガタ 或る慣低を持つ他の愛の相に止揚せられるのである。Epi−h己m−aが議定されることによつで簸じ烏高次の愛ば 由r餅であ驚Er計は人間があるT定の文化意識の段階に到達したときに生ずる愛で臥り、その成立契機として Epithロ邑aを常に内存する。生物一般に共通し・てゐ多茸itぎmiaと入閣に初冬存在するE⋮との二つの愛め スガタ 相は文化慣値への志向性七中心として隈別されるのであ驚かくの如くE卦,はそか成立健件としで女化的自覚 と文化的償佑を必要とする故に、文化活動としての教育に番壕なる聯摘を有することは雷然である。即ちEヨS

(9)

イヴクシ、・ が文化の﹁愛牌﹂である難からして、〟般に教育愛はE牒に於て成立す㌃と牢はれる。、而しでE琶sを最も鮮か に義旗もてゐ牒ものはプラ†ンの﹁.饗宴﹂であらうノ喜完は﹁饗琴山に現はされたEr。Sを教育拳の宜場から 解繹しっゝ教育愛の離㌘吟味して行きた/い 心 アコガレ ︵こ Eぷは﹁イデア﹂里心向する﹁憧憬..完あり、撃の永久的桝有々昭ふ愛

ィヅクシミ

カラグ 欲求する﹁愛惜﹂である。従ってEr。S〟はEpithumiaを成立契機として内存するけれども、﹁身鰻﹂に路傍す

カラタ る蒜の欲求から解放されて文化慣値を欲する愛である。佃、昔々が﹁身鰻の健全を愛し、その成長や

ゝヽ

ヵラダイ′チ

して探甚わ配庶をな

するための機細とし愛するがためである。即ち吾々の偉犬克る師ブラ

ヵラタ イノチ\ ︵こ︶ 身鱒を新着することにょつて、普飴なる﹁隼鱒﹂に自己を捧げるために子供常備常数師のもとに法る。﹂と云ってゐ 許 (四)(三) (ニ)(一っ 教育愛の構造 西田機多副将士著﹁無の自覚的限定﹂三三仙東以下象照 謀計︸・諾ilS訝et〇・pu芳已認,p已bl罫㌣笥互景∴苧琶Se冒icY一句監i訂㌢罵琵訂seet.r空 以下パスカルの引用文は同書に依る。 西阻幾多郎博士著﹁無の自覚的限声〓三き哀以下参照 ﹁同音﹂三三二賞象頼 lノ

≡ 敬愛に於ける﹃○抑的契醜

︵ ︵こ主こ州○叫 えse乳.ノヽ−山山阜

(10)

︵ニ三三︶叫○ニ 魔十六啓 第二折 ることは慣習の目的を示すと共に倍音の動機がEまより出やることを明瞭にする。従って文化的自覚の立場に カラ々 ある吾々は﹁身憾﹂、を愛するものはEp寮毒iaでは忽く由⊇芸あると主張する。鮮卑内に具鰐的な人格者とし イ′タカラダ 王存癒する雷々は﹁生命と﹂﹁身髄﹂とを所有する。即ちパスカルの冨塞を借用すれば﹁吾々は相戻り相異る二 ︵三︶ イソテ カラダ の本性、ト即ち﹁生命﹂と﹁身鰐﹂から成立してゐる事茸であるぐ而かも粥者は常に限定し、否定し合ふ桝茫淡

イソナヵ一ツタィ′タカタダカ言 的構造をなす︰壷命﹂

ィノタ

イノチカラタ

﹁身隈

も﹁蒜

イノタ ヂア﹂か追求し、文化慣倍を創造するのである。然るに従来まで﹁隼鱒﹂の賛展を閲り、蕃の追求を行ふ場合に カラタヵ一ンタ ﹁身鰐﹂はそれを阻零するも打として軽視されて来た。殊に十身鰐.蒜多くの宗教家達に依づで罪の棋淑であり イノア カラタ 憩の原理としで峻烈なる論告盈受けて釆たのである。反之、整日に於て﹁感鰻﹂は左ぎが薯を行ふ道具でぁ カラガ ると密へる針以って、善の原難となす。斯かる意味に於て警八は﹁身牌の碁敵と鍛練を行ふ汀である。黎しも鰐 カラゲ 背かE甘h仁邑aを以ってその動機であるとすれば、﹁身牒﹂は鹿なる物骨となり、煽らはしきものに壁用、物慾 ︵四︶

.イノチ ヵーフタ ′

インチ し、﹂.生命﹂を囁き死の蔭へと辿らしめるに至るで挙らう。 イノチカラグ 人間は矛盾する性質1﹁生年﹂と﹁身讐との結合より成る桝語法的存在者である。而して粗牲と本能との粕 ヵーフダ ふナ 対とか対立に依って自己の重しさ魔ゆると共に償保高き善を知るに至る。菟に於て苧。Sは﹁身鰭﹂を清浄化し

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イ′ヂ っ∼﹁生命﹂教室偽善へと意向せしめる。かくし£異に教育軌範生が現はれるに至る。.ハスカルが云つた如く、 人間は二軍の歴の如くに挽射であ少予眉蛮わ前には殆んど無にも等しき有産では診るけれども、常に盈昔る自 ︵五︶ 汐 魔的存在悪あるしこ職人問の思惟性や自覚性ばE岩S・に基づいで慣他の紋乏性や蓉の紋如性を人間に覚らしめる めである。従つでぎ還発会性そのうのでぼなく﹂不完全性から完全性ぺの追求を意味すか。プラトーンば﹁饗 箪山に於でアガトンが溜説の後にゾクラテス字レで菅。Sは﹁何物かへの愛﹂で思ると共にをの封象ば﹁現在、 ︵十、︶ 釈乏を感じでゐるもの。﹂と語らせてゐる。即㌢Er率は﹁イデア﹂人の愛である。薔控はE諾に伐つ七のみ反 省的方漁の原理の上芯立ちで自白の自己無知や不完全さを知り、自らの客しさを恥ぢ、文化慣檎が釈如せること 7.っガ に驚くのである。変化への驚きの情はA雷雲卦sとなつてErOリノを喚扱起す。而しで菅。Sは﹁イデア﹂を燥揺 れて永久′の善を把喝すべく嚢力を拭け各のである。ErOSは文化慣他創造の地盤であり、教育作用が藤生する地 イ′千 姫である。か1る砲床に恐放した教育作用は教師と生徒とが文化を紋介とする﹁身命﹂の共同の営みから生する イノチ ﹁生命トめ凌透でかり、意識の額放であり、文化慣倍の創造であるQ而して教育肘用に於、ては常に教育する卓牌 と数百せらる1客畢彦必螢とする。佃教育作用に於ける故高の段階であると云はれる自己陶冶に於ては主催と 容餞とは共に自己であるが、真髄とレての自己と容鰐としての自己との問には師弟の摘係を持つ。教育作用に於 でこの両者の路傍を全く顛威しては陶冶は行はれないであらう。∵∵方、主鰐としての歌劇は文化的自覚の立場に 療つで文化債値を創造しっゝ永久の薯である﹁イデア﹂を志向して精進すると共に、文化的自覚を持たない生徒 教育愛の構竜 ︵ニ三三︶剛〇三

(12)

に文化慣値の紋如と挙が紋乏しでゐることを自覚せしめ、生徒をして筆風準への追求や文化慣依の創造を行はし めると共に人格陶冶の補助作用七膚ふの、である。而して他方、客媚としでノの生徒は教師の産婆術的補助に依って 至高蓉を追求する文化的自覚を獲得し、﹁イふてノ﹂む憧蔭し文化債鹿の創造を志向し、且っその努力ヘの意思牢 有するに至るのである句犬れ故に文化的自覚と慣蟹息識の畿展を水質とするから、人瀾意識嶺展の陶冶で過り、 前歯意散の牽展作用とも云へるで透らう。而しで慣偲意識は教育によつてのみ帝展が可能であり、また教育は倣 蟹息故によづて進歩す−るのである。倍倍の紋乏性と志向性としてのErqs腋憤倍意識畿展としでの教育作用の劫 ¢ 一 機である。 イ′チ ︵七︶ E︸・〇ひは常に﹁イデア﹂を意向する愛である。故に層々が﹁坐命﹂の中に炊乏を自覚してゐる蓉は ﹁イデア﹂ の中に食まれる絶鰻実としての至高着である。E岩Sか志向し、追求するものは芙の﹁イデア﹂であり、幸Ⅵ ﹁イデア﹂であるところの﹁イデア﹂の﹁イデアーであることば明瞭である。即ち﹁イ≠ア﹂の﹁イデア﹂はヘ ーゲルが云ふ抱懐精神に粕常するむのであつて紳でぁる。而しTプラトトンに依れば﹁イデア﹂Ⅵ典餞的表現は 隣家であるが故にE岩S知ら出敬した億円の目的は要望︰上しての困象贋甥に外ならないのである。梅、﹁イダ ア﹂の﹁イヂア﹂ば柴枯盛衰が行はれ、有感韓婁が出改する硯象の慨界ではなく、不婁にして永住の絶照美の牲 界である。而かも﹁イデア﹂の絶醒美は至高善悪あると共に鹿央の穂である。プラトーンはこり等質を﹁プ.P夕 ︵八︶ ゴラス﹂封・話筒に於てゾクラテスをレ七﹁混も知識と云ふことが発はしいと見ないでどうする。と語らしめ、突 第十六替 第二絆 ︵ニ三四︶嘲○閏

(13)

と智放とが同左りとしてゐる。斯くぺプチートγ哲輿では発と智諏と沓は常に相即不離の輯係にあることを知

るのである。例へば薔宗蒜の花智見て美しさ努感サみときには、′何時も認識や判断作用を伴はなければ月ら

ぬ。/即ち﹁あの花は赤いかち発しい。﹂と云ふどきの霊鳥に於ける﹁赤﹂′は轢かの状態に於て発心いのであり、

この慧ロに﹁赤﹂の性質を認識し規定するものは智識の働きである。従つで発意儲に於ける許設や判断作用は芙

その場のま票るでぁらう。認識や判断作用なき実は存泰し卑いのである。倫、替が智識であると云ふ安常悼も

右Ⅵ靡き艶由に依って主張せらるゝのである。プラ∵トーンは﹁クリ†ン﹂に於てゾクラテスをして﹁善く生きる、

ことす∵実はしく生きることゝ、正しく生きることは同じと云ふことに戯て攣りはないか。﹂と質問せしめ、これに

︵九︶ 判しクリトンをして﹁欒夕濾ないb﹂と答へしめてゐるC勿論、この場合ド於けるブラニトーンの如かる考へ方は観 照︵T訂a計︶の立場で解繹さるペきものではなく∵常に饗政一︵P蒜軋s︶Ⅵ立場で理解さるべきものである。従

って善と美と智識とは全く同㌻のものでぁり、三位■慣の踊償をなす。﹁イデア﹂は絶憾芙にしで抱鰐智、至高

蓉にして故高の徳を有する世界である。要するに﹂イデヱは理性によつ£議された叡智的世界︵Ⅰ已e寿ib訂 weiこと針茶へるであらう。而しTむの具鰐的表現を国家に於て見ることを得るのであるりかくて﹁イデア∴へ の愛としての料;Sは図表や赦命への愛であるとも云へると偲ふ。 Er冨が国家的性格を持つが故にErOS、を動機よして成立す′る教習は﹁イデことしでの閏家の絆持及びその\

餞炭を首的とすることは明瞭であるバ韮に吾々は教育が閑寂や赦禽針有線虻しむる機能を有してゐることを認め

教習褒の構遭 ︵二三五︶二じ甘

(14)

︵二三六︶〓∪六 第十六番 第二款 る∵尚、加之、教育は囲家や敢倉の硬展作用を行ふのである。故に教育は反低値的な時流とか、反﹁イデア帖的 ヅ〃 な酎豪や赦禽を存糖せしむることなく∵逆にそれを倒壊して新たなる文化慣佑を創り、﹁イブア∴的な図家や祀 ︵叫○︶ よ讐質埋設する。即ち尊王息想を地盤とした水戸墜派の教育説か徳川囁府を潰城して明治維新を断行せしめた動力 因と・なり、・また彿静酉革命が称家主義の教育挙詮に起因してゐたどときはそ前二例である。而して反偶佑約なも のに封する教習の破壊性はEres・より生やることは云ふまでもないであらうりEr。Sは文化の保存性と反憤低朋 なものへの破壊性をその性質とする。 ErOSは﹁イデア﹂を意向する愛である故に、詳。Sの地盤に立つ人は何と云っても原理的には必ず﹁イデア﹂ に依.って限定を受けなけれぼならぬ。何となれば∴イデこは東金性で凍ると共に人間よりも俊位酌に優先的な 存在でかるからで雪。人間讐イデアLから限定を受くるめみであつで、逆に﹁イデア妄磐疋する機能を持 イノタ たない、ため、人間の﹁生命﹂は﹁イデこ的州舵他の濃厚なる溶透を受けで同質的安東を以て全部饗はれてしま イ′チ ひ、﹁生命﹂の持つ具鰭的にして猫臼の異質的葵素ば﹁イデア﹂の申に全く解消せられるのである。表見の立 場に於ては個性も人格も認めちれないのである。Er。Sは本来的に非個性的恐祈り、非人格的である・即ち閏崇諒 空.エアア﹂とか国家と云ふ如き義者里心向する愛であって、偶別巻賢心向する愛ではない。然るに蒼々は仙 ィソチ 般者への愛を抱くと同時に他者の﹁生申しを愛するノハリまた場合ヒありてーサ嘉者に扱いてかでも他者を愛せんと する傾向すらもしば′1見受けられる場合がある。如かる愛は個性そのものに向けられた愛であづて野望とは

(15)

イ′ブィ′ナ 牲格を全く異にするっ個々の﹁套叩﹂が持↓異質的要警向けられる愛である。而しで﹁蛮空の異質的要素り

華厳を闘ることは個性の教官でみれ、人格の階冶であるわ肘性の教習が人格の陶冶が行はれる焉に空般者の同

質的要素は後退して異質的箪素が教育の前面に鮮かにノ滞彫となつて甥はれな骨れ漣ならぬ。個性教育の原理とな

るものはE訂ではなく、他の次元、に功名愛である。即ち後述するA等仙守・の原理が求められるのである。 ∴併し\こ切場合に於ても個性が他の個性と比較せられて始めてその個性の展慣を後押し、且つ個性としで成立する

のである。即ち個性を比較する場としての表者がなければならぬ。議者がなければ贋に個性は成立し得ない

であらう。従つて相性教育の場合に放てErOSは直接の教育作用の励礫とはなり得ないが、間好的にそれを支持

するカとなるのである。

昔ユニ

次ぎに軒OSは実の申に生産する愛であ1るノ∴ErOⅧは箪に了ヂア﹂を志向するばかりでなく常に脊を生産し ながら﹁イデア﹂へと上つで行ぐ。衛、この場合に於ける契は前に述べた血Tエ苦と智儲と同苗ものである。従

っ妾の申に於ける蓋は穂是る認儲によつてのみ可能である。而して㌃品は人間が可能性め遣命を有す

るが故に必然的に不死不湖のせ界に参興することにある。綺﹂この場合、不死不滅の世界は薯と共に欲求せら弟

︵†二︶ − るが睾め、不贋不滅の世界痕沓ゐ永久的所有への愛によつでのみ到達せられるのである。従つで徳を知る認識は

生産的であると共に人間む永遠に布衣せんむる方放であると云へるであらう。即ちプラトーン綱‖単に於て認舘な

き驚践は存癒し能ぎると共に驚践なき認識は成立し緒なかった伊である。嘗鵡は認識にその内容を輿へ、認讃′は

数帝愛の棒童 ︵ニ三七︶州〇七

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第十大督 第二訝

\ヽ ︵ニ三八︶二じ入

質鋳を正しき方向へ指導する。誓すれば鷺躁なき認識は志であり、総論警還昏冒で雷。斯かる驚躁

的智識の立場に於ける‘ErOSを整晶に解繹すれば俺達された文化憤借を受け取るのみならす、更に高次の乳化

イ′す 低値を創造し得る人間の﹁生命﹂に智識を得せしむることに依少、新し漕文化慣備を創造せしむることである。

雄飛までE⊇Sが文化慣偽計あこがれる愛で雷と呼ばれたのに対して私は女化僚佑を創造する愛であると呼び たい。従って教育は成人と晃寮との間に行はれる文化の繚連作用に止ネ;ことなく、新しぎ文化慣値の別適作用

でなければならぬ。

イノテ

プラ二トーンに依るとE岩Ⅷは仝鰭の人間の﹁賃仰﹂某所有せちれるものではな∴常に紳か点ハヘられた禦仰 イノダ︵十三︶ ︵T訂iraM。i邑として特定の人間の﹁坐高﹂に硯はれるものであるrこれを教育軋に云へばE岩Sを原櫻とす

る教育作用に於ては陶冶力の健良なる兇層が教育の客鰐な少、、それ以外の兇意は教育の客腰とし七無税せられる

ごと憲味するので考従って教師篭徒に勤してのみ徹宵讐向け、彼の陶誉ためには自分を

も犠牲にするLとをも族ばないであらう。反之、陶冶力を殆んど有せざるが如き劣等なる生徒や精神虚弱兄とか

不具者等の如き異常兇は教育の若から除外せられるのが原則的富のと苦れ、教師は彼等に卸しては殆んせ

アマガレ 綾なき他者であるの然る.に教育に従事するとき、智識に封する﹁憤l憬﹂\もなく、蓉を追求する努力も有せざる異 常兇−陶冶力が殆んど映如せるかと思ばれるが如き生徒に対する教師の教育藩児唸少しも弱身るこ主な㌧むし

ろ逆に教育意思は愈々常闇となり、教育の熱筒貧苦煽烈になることを何人でも等しく鰻験すかことであらう凋

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E苫Sは秀才教育の原理とは成り得るがノ、柵神輿鴬野の教育愛の原理とは成り得ない。.従って兄憲全髄を教育 する愛の原理とし′てEr針が妥督しないととは明瞭である。 教育作用は文化を媒介せし、師弟の問に於て繭者の愛が互に 合、一般には雨着の愛は共通の文化慣隠をあてがれ、こわを食草するE甘○∽であると云はれる。勿論、兇登の中 に野。Sが現はれる年灘は山定の限度がある。自覚の立場に立ちて文化債倍々認める脊年期に達した晃態に於て ︵十五︶ 浮臥の働きが現はれるyⅥである。従つてそれ以下の年齢期に駁する兇鷺1嬰兇、幼虜等十に勤しでE⊇Sは金 ぐ線なき他庸であり、従って彼等の墾田原敬とは成り得ないのである。E⊇SⅥ立場に於ける教師と生徒は共七 変化的自兜の意識に協守Jとを必然的に嬰求する。而して開署が共に文化的自覚の立場にあること埠主として瓢 等教習以上の高等教育の現象に於で、のみ見られるべきものであり、初等教習や家虚数育に於ける容牒としての兇 塞に文化的意識の自覚性お求めることは不可能であケ㌢と思ふ。Er宏は高等教習の原埋であると云へるであら ユノ0 人間め教習は青年期から始まるものでは昼く、人間の誕生から始㌃り、\人間が死んだときに教習は終止するも めである。従って右に論じた如く、E3Sは教育の全領域を流石る愛の原迦となり得るのである。教育原理とし での愛には、受化憤値をあこがれ各愛としてのE≡の外に、、憤侭あるが故に愛するⅥではなく、愛するが故に偶 像密生ずると云ふ人間そのものに∵対する愛がなければならぬと息ふ。 堅固変の碑通 ︵二三九︶山〇九

(18)

第十六啓 第二祝 三四〇︶仙一〇

了イノチ 教育作用に放て文化慣低額疲介として生徒の﹁生命﹂に呼びかけて低値意識の自覚を撃のに剖し、見嚢は肖

イ′チ 已の慣倦怠識の発展を以て教師に射しで應答する。斯くで教師と生徒との間に於ける∴・生申蒜文化慣倍の雄介

にょって慣願意識の語感をなす∵jの場合に於ける媒介や仕方は命令と服従とを安東する。即ち教師は生徒に勤 して文化慣億を受け取るこせを命令する。−例へば慣習、格率等の如き規範的意識を持って。この應令に勤して 生徒は虞心から之を服従し、教師s膏薬を蓮車して厩鯨駁創造し、鷺現せんがた切に努力曽なすのである。ル警

陶冶が行ぜられるので計る。ノ栂、このときに放ける教師の命令は常に惟威から統領、生徒の服従は教師に勘する

生徒の敬から生するものでなければならぬ。構成なき隠令は虞の命令でなく、また敬吼き服堆は似而非服従であ

る。而しで構成と敬は愛より机や竃もめである。而し→この場合に於ける樺威せ敬とは文化慣髄を伴ふものであ

るから、、苧。Sから教師の碑威と生徒の教師への敬とが生ずるのである。即ち教師の教育意思と生徒の串督患甘

が文化慣仮の同義に於て合洗したときに教習作用が生じ、教師應あら牒る方法を以、て教授する。而して免綻ば

自分を陶冶してくれる教師に刻しでは如何なる奉仕をもいとはないのみならや∵数緬に服礎する

︵十六︶ ㌔名容と恩ふのである。数蘭の構成は外的な力を件ふものでなく、常に交=化債低から竿レたもの/であつて生徒

ィノナ

スガタノイノチ の﹁生命﹂に働くのて富。教師の権威はせ通に営為の禰をもつて生鎗の﹁隻脚﹂に臨む。セた生紆は教師が豊

富な文化慣借主申き徳を持つことを知るが故に、何時も数師を敬して彼の命令を覆車することによぃ、文化低櫨を

創造し、徳を有せんことを努力する。か′\て生徒の教師に封する敬の表現は教師への服従となるの骨ある。條威 ノ

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\ イ′チ は教師が教育の在韓を隆行す、ると逐の護要なる條件であり、敬は生徒が﹁生命.﹂を陶冶レ、敬展させるためめ必 須的契撥である。従って教育愛は成立の運勢契機として確威と敬とを要求する。構成と敬を停はぎる教育愛が存 在するとすればそれは似両非教育愛である。閏㌃に於て樺威や敬が償値を原理として成立することは勿論であ イ′チ 卑て教育ほ入間の↓生命﹂の懇意作用であり文化偶像の創造作甘であ.るぺ而して教育に於けるこの敬展性と創適 性に依り、教師は生徒によルて終発は慣俵的や智識的に超克せらるべき蔓食む捧つ。即ち生徒は自己乱成長ど典 に智識的にも文化慣偲の創造に\於ても迭慮なく教師を避へで先へ′バと前進する。この場合に於ての教師と弟子 との慣値的位置は全く緒倒する、に草0。著ルも教育愛が 数千の教師に渕する敬も消えて之に代るに軽硯が生ずるであらう斯かる有様こそが智識への変、慣低へのあこが ちスガタ れを東野とサみErO敬の露の相であると児ふ。併し、教育の驚際に於て数千が教師営起虚しても、教師に封する 感恩の情と敬の観念は解消せられることはない。即ち教師の構成と弟子の服従は存抗しで行く?斯かる樺威と服 裾は評。鼠外の愛にをの原理を嬰諭せ庖ばならぬ。ノEまの立場に崩ては高次の文化慣倍を媒介とす畠ことによ っでのみ自己の債値簸きことを自覚し、永遠のキと智詭を求めることを始める。この場合に文化的自覚の媒介と ←て沓.発と徳と云ふが如き倍旭を食ひ緒概念が取り上げられてその尿封漑.念は全く放棄せられるのである盛る に教育に於ては憩ケか醜や不億と云ふ如き反慣繭性の諸概念を媒介とレで轟き自己陶冶へ進むことを得るのであ る。例へば他人が不徳を行ふ振舞を見てはむの非なることを知ると共に徳を知り、自分が不徳に堕ちることを固 ■ 教育魔の構造 ハニ四↓二−叫\

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第十大替 第二紋 ハニ閃二︶小 二山 く戒めて徳を得ることに努めることである。即ち﹁人の振り見て許が撮り直せ。﹂と云ふが如き常葉は態や不徳の 傭値乏しき振舞を媒介としで華や徳せ膚指して自己陶冶を行ふのである。教育に於ては一切の反慣低的なる悪を 単に放饗することなく、常にこれを蛛介して高次の低値と至高替へせ陶冶作用を進めなければならぬ。教育は反 憤低的な態とか不徳と云ふ如きものを愛の浄化によつて至高蓉や彼の陶冶をわふ媒介となすこと得るのである。 然るに字OSは華や穂の如き有慣侭性にのみ志向する愛であるから、悪とか不徳と云ふが如き反債倍性若しくは 無償依なるものに対しては綾なき容顔である。故にE㌃は世界に存在する二切のものを陶冶材とする教育の原 灘とは・なh得ないことは常鍔であうっ。 ︵†七︶ Er訂は智識︵Pぎ冨乳s︶と無智︵Amat訂a・︶との中間的存査である。而して智と叡智との中間に存在する以上 イノJ′ ErO蒜人間の思惟性に紺聯を有せねば、ならや。人間の思併は﹁生傘−をして無昔垂彗善と藩、本能と理性、 イノチ または智と無智等の問を動備させて止よない。﹁公命﹂がこの二つの反封概念の中間を潮播するのは思惟の自覚 性に基づく秒である。自覚なき存在者ば首慣︵An釘c已とのみ布衣するものであつて決して向自餞ハ苫r卦cF︶ として布衣することは出来ない。従つ上向自硯と自牒の中間ハ買tt¢︶一は存在しないのである。中間と云ふ性格 は自覚性が必然的に有するものである。文化的自覚の立場に於て成立す′るErO防は智と無智、発と醜との中間者 且あも、これは常に最高智であり絶鰻糞である﹁イデア﹂へ向っての勤務である。′ETO∽は替の紋乏や癖智を自 スガタ 発して﹁イデア﹂へ向ふ遊戯でゐト、その服は倣藩ではなく、ひしろ苦悶せる努力そのものである中間としでの

(21)

浪に志向するときに忠恕は登屈し、文化的自兇は高度の進展箪ポめす。智勧愛としてのEr宝は人間をして愛想 ︵十九︶ 者︵P邑訂Op訂s︶たらしめること敬以て任務とするⅧブラニトーンによ紆ば陶冶することは管掌することであ り、教育と習撃とは常に同二である。故に教育の自的は人間をしで愛智者たらしめ、有徳着たらしむることであ ︵こ十︶ る。かくて智識への愛を以で生徒を愛するのが教師の愛である。而しで智諏や徳は智識愛としての守OSに伐つで 教へられるのぜあり、その方法は愛の感化である。瓢リシヤ時代に.於ける教育は現代の如く教軋が単に講義によ つ七生徒を数へるものではなく、教師は智識への愛を以て智識を追求し、恕を積み、普を行って生徒町境範とな るてとであつた。生徒は教師の示した模範に刺戟せられ∵良からも智識への愛に馳られて智織を追求し、徳を棟 み、沓智行って﹁イデア﹂ へ向っての額を始めるのである。即ち出;Sの立場に立っ教育ゆ愛の感化と鸞践に依 る陶冷作用である。 教育愛の癖遺 ら れ る′ヽ 0−、 社会 野①S、は無智から智放へ進む愛−智織べめ愛︵PgOSO冨ia︶、即ち診療である?智赦を愛することは同時に認識 ヽ.︸\ する乙とである。従って.蒜浸く愛することは同時に緩く認識することに外庵㌃ぬ。愛と認識とは斯く.の如き額 接なを関係を有すゑ︶ こ影蔽いでは他の存在も困難でぁる。勿論ErOSは﹁イ、デア﹂を志向する愛であるから イ′チ ﹁生命﹂が﹁イデアしに到達したとき、愛の罵動は停止す、るから︵E巧OS︶は﹁イデア﹂即ら絶鰐智の下に礎威する が、智誠は愛なくしで智緻は成立し得ないのである。パスカルによれば盤は智織を輿へ、愛は智誠によつて貴へ って愛なきところに教養がなく、教養が尤いところに尿管な変の完成は拳り得ないであらう。.愛が智 ︵二四三︶〓三 −

(22)

︵。四囲。竜

琶ハ巻遠。批

︵貢︶ E蓋が﹁イブア﹂へ到達する方渉は坪繚法︵Dialek−i粁m︶である。而してプラトーシの鞘誇法は岬単に察鹿な 言某や抽象的論鱒とか鯉⋮味乾燥した思惟によ㌃ものではなく、′常に清澄に生きノ1した具鰐的な感覚に姦づく

義軍しの活動、由ら感覚的襲象よ小出敬しで智識を警故後に﹁イデア﹂の認識へ別学る。換言すれば相磯 カラダ

から一晩封蒜く造である。個鰻は直接的に義挙へ飛躍することは許されないのであらて必ずErOSを媒介と

妾琵ばな畠。個管しての書芸Er。芸妓介としで撃の段階竺歩々還るが如くに蒜警㌢の

﹁イデヱヘ辿・りつ主とを得るのである。併し一、人間は生れながらにして始めから愛智者にることを希写る

湯でもなけれぼ、﹁イデア﹂還潰するあでもぞ、感性に遷される苦覚の自然領域に在る軋め貯捻

る。唯、一致帥に指警られることによつて腰倦怠識に目覚め、文化慣倦む媒介んとして感性的知覚から攣櫓認識へ

と襲撃し、自警丸遺徳へと進む。画岩竺り立場の驚は文北慣低姦介モて遺徳国家占的の苗卜監蒜

する・ための教師と生徒の﹁鋸鱒芸共同の営みである。

野OS竺︰イデア﹂ぉ役経の目的とする。従つで未来が目的秒完了で思って現凝はその手段セあり、過程であ

るに過ぎ禁。現在は歪に何時も輩警られて管、溺私自身の猫立した意義と慣偲を持這い。現在の持っ

意味之債櫨は未来に伐つ基言霊宗佑に制約せられ孟である。即ち瞬間や慧は殆んど舛蓋にして無

償倍なものとして忘是㌃輿へや、・ま蒜問や慧に止羞㌃とな,、√琶牒る‘に蓑的啓在としてのフヂヱ 各線し▲て進む窮Eまの眞の碑で雪。斯くして現在は常に未警依苫限慧られるの・に反し芸警視 スガタ

(23)

発することは絶対に不可鎗である。莱兼の規稟性は硯承が持ってゐる猫自的にして特殊の意薗と憤倍を未来の目

的め申に解消してし事つ。斯かるErOSの時間構遭の性格は同時にErO頓を原理とサる教育挙の持つ時間性でな

ければならぬ。即ち児童が滞米に於て十全の敢倉盆清針鶴すために完全なる準備患ハへる作用を以て教育である

上定義をする教育拳の時間性は河rしsの時間構造と同叫であるb併し﹂人間の∵竺に於け患執れの段階を切期し

て考へて㌣それは軍に兼兼の準備や過管して写るのみならネ、常に特殊憲讐警の償倍と羞つ目的を

饗現し、完了すると共に、東灘の目的ヤ驚現するた芸準備でもあるの帯ある。瞬間や現在は猫立した布衣であ

ると共に未来芯従厳し、彗未来を限定れる鱗鶏を宿しなければならぬ○例へば少年時代は葦に成人と誉準備

め時代でもなければ手段でもなぐ、梅痍の麺止し窟警憤警棒つ眉墨現する慧し草野凝であや。葡、

礪自の倍借を創過しで十是の目的を贋現すると共に虞に新しき目的を生み、さの管硯のための準備ともな万手段

イソチ ともなるのである。人間の﹁生命﹂はその時問性から見れば過・撃未の三界の朔記法によつ廿敏行して行くの

である表芸の立場に於ては瞬間や現在が目的の鷺視であると共に他の新らしき目的を生み、その饗硯のため

に現雷香空で未警突入すると云ふ時間性姦つ教育の原理は成立をい。虞の教育は人瀾の﹁笑叩﹂の イ′チ

現在曽未米に従威せしむるのみならす、それに猫自の横倍を持たせる猫韮の布衣となし、且つ未来も硯尭から限

雷苦るやうに人間の陶冶亮ふので警。かう∵を如何誉年齢報にある人間島に翌し妄警な計

\ スガク ことを得るのである。・昏々.はか∼る教育の原理と′怒る愛の相薮ErO00以外のものに求めなけれぼならぬ。 教育愛の櫓遣 ︵二四五︶ふ 山五

(24)

︵こ四大︶二大 第†六番 第二渋 以上論じた如くE讃′は永久的藩告嵩した間断なき追求であり、努力で′ぁる故に、瞬間や現在に止まることを 許さないで常に﹁イデア﹂へ向つて人間を貼りたてるのである。Er針から駐上皿てられる人間は瞬間に止まる ことが許されないから、瞬間に五まつて自己を深く反省すること軋不可能である。併し鷺存する人間は常に思惟 する。而して人間は革に未来を目指して希他に進むのではなく、雇に過去を回想し、現泰を反省しながら未来を 掛望して進ひのである。侍、現衣に、於ける自己反省が非常に鋭敏であり自己洞察が甚だ深いとき、人間は自己の 賽虚をを、無力き等を強く感じ、﹁イデア﹂と砂肝難が益々泣くなり行くことに気付いて非常に賂咲するであら う。かくで∴イデア﹂を追求すればする藤﹁イデア﹂は無限の泣きへ退くことを知るに至り、始めて﹁イデア﹂ ︵ニ十こ︶ へ到達し斯きことを白魔する1。このとき、薔守は﹁仲之璃高撥之摘撃勝之東商忽焉在後﹂と云つで使い嘆息を著 した顔淵と同校な悲痛な咲寄せ壊するに至るであらう。而して人間の無力、女化僧侶の紋乏の白魔に依って出張 し㍍﹁イデア﹂への追求は途ヰに於て﹁イデア﹂へ到達するわ不可能の思惟を拍き ﹁吾々は展に教師たるの資格ありや﹂︳云ふ腰間を畿せぜるを得なくなることを鰐験することもあえであらうっ ま吃ヽ峻烈なる自己批判を行ふ者は﹁教師たるの資格思し﹂と云ふ結論に達して教師としての自伝を失ふであら イノダ う。かゝる悲劇は中間的存在者としての﹁生命﹂が梼つ脆弱性や有限性宰起因するものであり、またEr。Sが有 すべき運命でもある。著々は﹁イデア﹂へ到達し難字1とを嗅息ん、慣隠映如の自覚より来る不安と殆んど絶望 に導い状態にあり払がらも教師は生徒を教育せんとする意思を棄てないで教育作用に熱中する。この場合に於け

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スガタ をれノよらも凰泥く横長つでゐる高窓愛の相がか去れでゐるこ逐知ら誇れば富ぬ。 詫 ︵こ 望裟On︸詳stm已ュ.uber∽.ヂ∴胃i岩eb⊇ndデ一望唱.s.望l−.S、∞の ︵二︶ 望atOnけDi已。g吋邑ag弓挙告ers.一、,Apeざ一望00.∽.鍔 ︵三︶、竹篭邑︶勺e琵舟es↓See∵H巨√叫一 ︵四︶ ロマ替 八輩不節 ︵五︶ノ憎琵昌1.増e房野s.seO.く︸蟹﹃. 二ハ︶ 憎㌻tOヨ︶Gas昏已ユー告e誌−勺.寧宣告畏註t.一望P∽.遥 ︵七︶ 少トa.〇.S.望 人八︸望賢n“亨○忍0蛋.告発詳づ.Ape︼㌢一望00.s﹁軍

る愛は苧OSでないリ イノブ 教育が文化を媒介とする﹁生命﹂の敬展作用である限人数育愛が文化倍偲をあこがる∼愛を、その成立契機と して存在する思となし、また軍服文化への愛を以で教育藤とし、これ箋他の愛と隈糾する類禦琵ea=ypus︶ l としても、文化愛のみで教育が行ぼれないことは既に述べた通りである。教習愛が師弟の問に於け㌧る愛である以 上、両者の愛は同﹁のものではなく別個のものであるb従って雨着の愛の構遷が相異ること息易であるC倍、 身こつの愛が交流し賢し合は誇れば警作用は生じないて吾ふはErOSの分析からして、㌢sの禁生 スガタ イノブイノチ 彼の壷空や自己陶冶の中に現は、れてゐるこ、とを知含また教師の﹁生命↑の中には勿論Eまもあるが、佃 教育愛の構造 ︵ニ酔七︶〓七

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ゾ ︵九︶ 望旨n−A凰董.のdes設計訂翠ul邑智it。P邑のやヂAp浄蔓①・S・紆 ︵十︶ヨpぎGas−m賢各e声夕出11計ぎn㌢一⋮・甲州冴 ハ十こ p・寧・〇・S、∞の ︵十二︶ p・鵬r〇・Ⅷ・B ︵十三︶.望旨n−憎F乳d芸・各e−・S・く・PRi吉り蔓♪00・踪−笥 一l一G邑官許−∵告e誌.戸出ildeざ賀dt●一望p∽・00ひ†思 ︵十四︶ a−寧,〇・S・望 ︵†五︶′a●㌘〇・S−筐 ︵†六︶ p・少・〇・切、g ︵†七︶ a・p・〇・r∽・00N 芋八︶ 吋a笠−︸七enS貰え壱変uls・七ub訝par詳琶ぎ亭て2dE隻=噌蓼2ぎ∵計喜峯監こe註e舛呵・琵琶≡若ニes p邑iO芦de−、呂D賢㌘p﹂提 ハ十九︶ 望邑On−n邑苫aE・各e誌卜声⊥崇−deざa已t﹂空将・∽・00N 芸十︶ 望旨き吋邑agO琵㌦各e諾︸ゴApeF蔓00・S●魚N名㍉や∴ぶ ︵千丁〇 ︼詳tOn∵謬sぎa声音e誌1・謀−deb喜d二望p∽・ぎょ一 ︵ニ十ニ︶ 論語、子翠第九 第十六懲 第二Y雛 萄 ︵二匹八〓一入

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四 教育費に於1ける′A肇p動的舞磯

︵ ギリシャ人は蓉の白魔に依って﹁イデア﹂.を志向する愛を持ってゐたがにめ、悪とか慣倍の乏し沓ものに勤し では殆んど無摘心であつた。綺、E⊇Sは刷般者への愛であつたが故に個性とか人格に封する愛でも往かつた。 従ってギリシャ人は普哲も故実することなく、香、それむ渾化することに依つで替への陶冶材となす愛とか個性 スガタ や人格への愛についての理解は稀薄であつたやぅである。嘗々蘭斯かる愛が混もよく表現された相を基替歌の申㌦ 心慮愁であり、原理的な貫塞 ︵こ・ イ′チ からの通路が閃かれてゐるばかりである㌧紳の限りな、く、滞き愛が人間の﹁生空へ向けられたときにのみ、人 静 rl と怒ったAga思に於て理解することを得るであらう。基暦数の人間単に伐れぼ人 間は紳から創造せられ㍍ものであり、紳の絶鰻性の前には顛にも等しき存在である。而して人間猫白の力によつ て朽執する自由は許されないで、何番も抽の停禾に従ってのみ行動するナ㌻が許されるのである。人間が直接的 に弾む愛することすら許されてゐないのである。′巾唯、紳が人間をいつくしみ愛するぼかりである。斯くてErOひ ・ の場合に恕て見られたが如き人間が紳へ壷ると云ふ下から/の通路は全く閉鎖せ診れで居り、弾から人間に至る上 間は死の滅びから救済鞍経る。Agapmは沖が人間に訂する最大の恩寵であり∵しかもその具憾的表現は油の受 ︵二ノ 肉化である。アダムとイブが禁断の智蕃の贋を食んで以来、人間′ぼその原罪に基いで為す恵と罪のにめに域され をペき感命を持つが、榊のAga現によ 教育愛の構造 イソナ びの運命から解放せられて永遠の﹁生命﹂を縛る。併し人間密教 や ︵二四九︶叫一九

(28)

′ 二義○︶叫二〇 第†六魯 第こ断 イソチ 臍するた臥に紳は自らを受肉化して自己を人間の﹁生命﹂の中に香忠しなければならぬ。ErOSが常−こ自己主張 を行ひ、自己中心を畔び、自己の優先的存赤を認めるに射してAgap㌣は他者のために自己香定を行ひ、他者申 心を認め、他者の煙先的存在を原建とすむとき、耐着の問に根本的な和典示がされてゐる、ことを知るであらう。 イノチ 併し、人間の愛が常に﹁生命む地膚として生ずる情である以上、如何に和典せる愛でもある共通せるものや結合 の契橡を持つことは雷然である。A習pmが榊の恩寵上して人間に現はれるがためには、人間が罪の自覚がなさ れなければならぬ﹄罪の自覚なき場合には決心て紳のAga濡は現はれないのである。然るに罪の自覚はErOSに 伐つでのみ可能である。E⊇SはAga思が成滋する必須的條件と云へ畠であらう。 イノ正ノ A肇骨ば他者の優先的存避を原野となすが故に常に犠牲とか献身と云ふ如き自己否定を人間の﹁生命﹂に向つて 箪求する。†︺れを故も端的に表現したものが基督の十字架であると云はれる、″勿論、かゝる白己否定む硯象は基 クラ・け 膚歓にのみに現はさ汀るものではなく、常々の‖常の﹁仕遠㍗の申に於てしぼノ1見ムれ亮ところである。例へ ︵三︶ ば﹁上着己欲立而立人己欲法面通人﹂の如きはそれである。 イ/チ 紳のAgap和が人間の﹁生命しに向ふときほ、共観満青書に於て見る如く、A笥罵は﹁蔚は虞心を殻し、精神 ︵四︶ ︵五︶ 、 を姦し、思ひを姦して爾の紳を愛すペし。﹂と、更に﹁自れの如バ術の隣人を愛す町しピと云ふの二つの愛の命令 ︵六︶ としで臨むのである。即ち愛の命令はAgapmを理解する出費鮎である。而して愛の命令に於て指定された隣人 は原始基督数的意味に於て、ギリシャ思想の影響を受けたヨハ、ネやパウ笹が主張んた如き四海園胞、仙税同人と

(29)

云ふ人間全髄Ⅰ人類そのものを指したものでばなく、コーヘンが惑ペた如く自分に最も近き血線的闘係から生 / ︵七︰− じたものでぁり、それが基督の億仰に依つで結合した人間の仲間を意味してゐた。従つ七基暦数に於て云はれる 隣人愛は﹁自己に近き着への愛﹂を普遍的に椀張したものではなく、基僚者への愛であるであらう。この隣人愛 ︵八︶ イ′チ は殖を愛する愛となるのである。勿倫、この場合に於て\も人間の﹁生傘山それ白身から生する愛では甘く、鹿に 厨揺動の反射によつて成点した愛であり。基儲の愛を模倣した愛である 基暦数に於て神は金轡益能、至高善にして絶鰐の神教を祷つ正義紳であり、且つ創造する帥である。而tて人間 はアダム、イブが罪を犯しで以来、原罪の悲レき運命を有し、生れながらにして罪人として直接的に紳への通路は 閉ざゝれてある。唯、濃罪愛と隣人愛を媒介としでのみ紳への通路が開かれるわである。即ち人間は隣人愛を掛介 ︵九︶ ′ 左した愛の耕謹法王依って紳に近かづバことを得る。陶、/ヨハネが云ふ如く・A笥peは紳である。締め倉apeは 由冠雪の如くその動機や契機が慣備に制約せられて生する愛でぽなく、全然、愛それ竃髄の性質として、其の関 西等の敷硬や契機を要することなく、全く無制約的に他者を愛する愛であるC而してAgapeはその根汝的意味 に澱て親がその子供に封する愛として表現される。即ち親がその手供を愛する場合に、子供に偲偲を認めて、こ れ牽動梯として子供を愛するものではなく、唯子供なるが故にひたぶるに愛ん続けるのである。殊に倍依なき子 供と忍ばれる子供に対しては愈々愛することが深くなふのでぁる。親の子供に射する愛は抱封的なものである。 葦に紳のAga罵の髄判性が表瑛きれでゐ思の々知るであらう。また磯はその子供の申七日己を死することに俵 教育費の構造 ︵二五∴二二叫

(30)

第三ハ啓 第二耽

隕 ︵二五ニ〓二二

って自己を生かし、子供の申に自己を見るのである。従って親の愛に教け㍑抱鰻は直接に子供を自己のものにな

すこと.によつて生する絶髄ではなく、自己を子供に輿へることに生やる愛の絶鰐甘ある。かくの如く愛の〓淘に は日己が死することに依って生きるよ云ふ如き、否定に依㊨骨法が語ればならぬ。紳のAgaてeは人間に射し

では抱鰻の愛であるが、それは否定即骨盤の作用によつて生する愛の紀噂である。常々が他者を愛するとき、常

に眉己を他者のものとしたるときに他者を自己のものとなすことを得、ま土地者の申に自己否定を行ったときに

イ′チ 贋に自己怠是する。故に紳のAga七eに包まれた﹁生命﹂は常に他者を中心とし、他者の優先的樺利を認める

と共に自己を全く放棄し香淀し墨して全く他者のもⅥになつたとき舶めて自己の自覚に立ち鐸少て尿の自己骨意

が行はれるのである。即ちパウロが云った如く﹁我基層と共に十字架につけられたり。液隼我生くるに非ら

︵十︶ す。基督我が内に在りて生くるなり。﹂と云ふ言某はかゝる現地空不めせるものである。 次ぎに榊∽A竃eはEヨの如く二鱒者へ向ふ愛ではなく、紳によつで預め選揺され艶足せられた特定の入 ︵十こ ・間の﹁影﹂へ向ふ愛であるC従って紳の音甘はその剖象に関してはある限定僅を特し、警の関係概念を 持つ鮎からしで血線的紺係の土に生じ、.それから教展したものである。這グ←シが云ふ如くAg莞は子供に封 ︵十i﹁︶ する父の永堵なる愛である。斯くでAgap¢は倍低みるが故に愛するのでば及く、唯ひたぶるに愛せへんがために 人間を愛する琳S愛である。A撃peの立場は僻隠を認謝し、それから致するのではなく、愛することによつで

愛する者の認識暫泥め、そこに憤依を姿見するのである。即ち慣値の認織が変を生するものではなく、逆に愛が

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︵†三︶ 債低の認識を生むのである。例へぼ﹁知子奥如父﹂と云はれる常葉はこの原理を傲もよく表現するもので透ら イ′まノ ぅ伶人問の﹁生命しほど慣位の嚢漕ものはなく、\何物を以でしても之れに代るペき′ものはない。従つ壬切の文化 イ′チ 惰低は﹁生ゐ﹂と比較せられるとき七殆んと数ふるに足りないも賢かる。人乳が会せ界に於ける蒜の文化債 イ′チ 放を狩侍してもその﹁生命﹂を対ふときにそれは全く黍に鐸する。然るに人間はむの布衣構造の陀射的性格に引 イJタ きづられて恵を行ひ、罪を犯し、て死の谷の蔭を歩きで敦高僧偲としでの﹁生命﹂む央はんとする。このとき、紳 イソチ インチ のAga噂eは戟び行く道命の申.灯ある人問の﹁生年j牢水越の壷空へと筏括せしめ、その故高慣倍一軍保存さ ∵イJチ せるのである。郎ち人間の﹁一生姦こ∴些細のAgapeによつTのみ政商慣低を保ち得る。かくてA笥peは慣値創 ︵†四︶ 迫の原理である。 Å閥は意を行ひ、罪を犯し、紳に腎いたぬ果、正義の新の思に俄れてバビロン河の濁流へ投げ込まれんとす る。意や罪はその健の状態では常の滅亡への道である。然るに人間がAgapのに依って救済せられたとき、滅亡 の棍掠カとしてむ惑や罪は殖の愛によつて浄化され、且つそ弟自身の持て高岡有の性質は失はれて人間を重工精 進せ心むる契撥となるのである。こゝにA等pのの慣依韓襖の原艶が布衣することを教見するであらう。即ち教 育的立場から観れば清浮化せられた感は遺徳の陶冶材︷なり得るのでみ〃鳶柵のAgape接骨界する一朝の憩や ● イ′㌢ 鍵を浮免して﹁生命﹂の陶冶朝と化するので率る。 家庭に放て親が子供を薬殺し保育する原理となるものは親のAga慢eである烏嬰見や幼児は心身共に虚窮にし 教育愛の構遷 ︵二五三︶〓ニニ

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東十大魯 第二野

人. ︵こ五四二二四 イ′ナ て殆ん.志方に等しき存在なるを.以て狗力にで﹁.生命を繚けることは絶鰭に不可能であ㌔常lニ親、の挽き愛の実

。箸しも親の愛に依る快速邪なければ、嬰児や幼見は将来に於て賛展すべき緒能

の下に保護されなければならぬ

昼間題外でぁる。扱が子供のために自分を犠牲とするエとは義務意識から生するものではなく、・﹁生命しそれ自 イ′チ

る能力を認識しで子供脅愛するものではなく、唯子供・であることに愛するのであり、慣借を創造する能力の有無

rイノチ 敏なる知覚へ、股肱とした意識から明瞭なる意識へと﹁生糸こを敬展させaのである。額ば子供が低値む創造す 力の蜜を﹁影篭奥に嘗た健死する︳外は肯いであノらう。子供は親の愛に宵ぐぐ克て警感祭ら鋭

ぺの要求から湧き出づふものである。簡、、子供は親の藩思に背き、硯の愛を塞切る行為をしばしば行ぶけれども

親は決して見棄てることなく、却って益々自分を峯しくして子供を愛し、自分を子供に捧げる。而しセ親は子供

を愛することによつて子供の性質を知名故に個性の陶冶に蘭意して子供を養育する。親の愛は子供の個性を認

︵十五︶

め、それを蟹展ざせ完成せしむる原理である。即ち﹁繹子英如人﹂主君言葉ほ親の愛が子朝の個性を訟識する

ィ′チイノ

ー例空不したものであらう?親の愛化の感は深

ずイソナ 鱒妄受配し、生き生きした人格の中心となるⅧ愛が人間の﹁生壁の共同の潜みかむ生じた隋であβ以上、他

者へ向ふ愛と他者から釆る愛とがなければ花ら鱒。即ち愛の作用と反作用と政変努成立せしむるに必婁な契廟ヤ

告。従って雨着の執れか嘉を紋如するときに愛の発会性は央はれるであらう。嘩ナ問に於て初の愛が成普

る・ためには子供の褒がなければならぬ。而して子供が劫に対する褒の中ドは従順と敬の概念が濃厚に合去れてゐ

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〆ン るや・︸である。而して両者が交流する七き眞宣愛の感化が行はれるの澤ある。故に教育が愛の感化であるとすれ ば、教育は親心と予心とd交流に依って成立するとも云へるであらう。これこそ教育の典静的なものである。併 し、子供を育ぐぐむ原理である親のA笥℃巾は常に榊のAgapeに伐っで包まれでゐなければならぬ。親は柵の A等号を療倣して子傲を愛する。然る詫きに親は子供を愛することに於て紳を愛するのである。子供空つの イ′チ 格者と謎めてこれを愛し、その人格を敬する。親子の阻に放でば血縁的関係を窮す名と雄ども嘗々は敬に伐つで 子供を弼立め人格者と認め、これを敬することによつて自分の人格を敬するので洩るや従つ、て敬な計愛は似而非 愛である。 スガタ ︵†六︶ Aga喝eは榊である。夫れ故にAg竜eは﹁方では犠牲や献身の朋を以て脊々に臨む上共に他方では至高に絶大 の樺威を以丁昏々に迫るのである。この場合に於ける棟威ほ外的な樵カでは往く 紳の′絶餞的人格の申から流れ ︵十克︶ 出る内的な構成である。而して子供に封する親の構成が親の人格を媒介としで生ずるものでなければな宣誓碍 樺威は幼が子供を、教師が生徒を服従せしむる原理である。故に権威は敬と英に教育愛を成立せしむ・る重安な契 機である。 イ′タ 的自覚に壊した教師は﹁イデア一.二到達することの不可能を知ると共に眉已の果敢なさや姦しさを識h、沓の迫 教育愛の橋渡 二︼五五︶〓一五

(34)

第†六替 第こ躯 ︵こ五大︶二義 求や﹀文化慣他の創造に困鳩首感する。∴jの場合に教師ば教帥とし透自信を失ひ、宿望に隋る傾向がある故に完 イノチ 重なる教育心行はれ得なくなるであらケ。然るに人間の﹁生命∴ほ自分の感や翠ど自覚し∵悔悟し紳のAga坐eを イ′チ 得たと普始めで患や罪から救済され、有限より解放せられて永遠の相の下に新なる﹁壁命﹂を得て触⋮限の希望に 輝くことを得るのである。紳ばAga℃e霊芝の外敵から働きかけられるもので粛なて、パ・ワロが云った如く常 Jチ ︵†八︶ イ ′ イ′チ に﹁生や︼の内部から働きかけるの′である。かくて紳の意思と愛は人間の﹁生年∵曾填じてのみ表摸せられるか ら人間が赤姦しないところに沖は布衣しないのであ告沖は人間を包み、また人間が紳を包むから、僻の存壷ば 人間を超越すると同時に人間に内奄するものでなければならぬ。斯かる紳のAga苛々教師が受けた一ときー救開 された教師の感謝と喜びば渾び教育意思となつて生徒の教育に精進を披け牒のである。この場合に於で教師ほ生 、イノダスガダ 徒を愛することが直ちに紳への盛となり、生徒の﹁尊命﹂の中に自己を否定すそjとによつて河の鼎を絶、且つ スガタ 自己の相・筈の申に蔑見するであら・サ。尚.生徒・曾教育す㌃ことは、自分を教育することで優り、生徒の\陶冶は 自己の陶冶に外ならぬ。Aga咄eの立場に於てのみ﹁教ふることは習ふことである。﹂と云ほれる音楽の安常性が, 可能となるのである。梅、Aga頂に立っ教師は低臓兄、粍紳薄弱兄や芥長老等に対しても㌦駁の生徒と同様に し肴、それ以上の努力を以て陶冶に熱中するのである。鼓に於て宵今は﹁教育は愛によつて行はれるO﹂七云ふこ とを汲も高らかに主蕗し得るのである。、而して人間仝櫨が教育せられ、文望息識は愈々昂り、人格の陶冶へと進 むことを得るのノである。

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