彦根藩普請方の組織と機能
は
じ
め
に
近世大名家における家臣団編成の中で、足軽や小者︵中間︶の位置 づけが、日用層に代替可能な一代限りの雇用労働の状況から、大名家 によっては、諸役所︵役方︶で長期間使役され専門的な業務遂行能力 が求められるようになり、世襲的な譜代家臣化が進んだと指摘されて い る ︶1 ︵ 。また足軽が諸役所で恒常的に使役されることを ﹁ 定役 ﹂ と表現 されることが各大名家の事例で確認さ れ ︶2 ︵ 、近世足軽の一定の格式を表 現する共通認識となっていたと考えられる。 このような足軽は、一般的に近世初期では城郭や城下町形成のため の普請に動員され、城郭・城下町整備が一段落する十七世紀後半には、 一部の足軽は、城郭や藩の諸施設の維持管理のため使役されるが、そ の他は番 方 ︶3 ︵ や諸役所で使役されるようになる。 加賀藩の武家奉公人︵足軽・小者︶を分析した森下徹氏は、加賀藩 の 足 軽 組 織 は 、 年 寄 や 物 頭 に 付 さ れ る ﹁ 組 附 足 軽 ﹂、 諸 機 関 に 付 さ れ る ﹁ 諸 場 附 足 軽 ﹂、 諸 機 関 で の 人 員 不 足 を 臨 時 に 補 充 す る た め の ﹁ 割 場附足軽 ﹂ に大別され、十七世紀末から近世中後期にかけて、足軽の 職務としての普請役がなくなっていく過程で、役所︵諸機関︶で使役 さ れ る よ う に な り 、﹁ ﹁ 元 来 ﹂ は 、﹁ 武 用 専 務 ﹂ に 編 成 さ れ た は ず の 先 手組において、まともに弓術の練習はおこなわれておらず、役所での 使役を専らとするようになっていた ﹂ と述 べ ︶4 ︵ 、さらに ﹁ 割場附足軽 ﹂ の詳細な分析を通じて、足軽の存在について ﹁ 諸藩の藩庁機構は、そ の末端に、専門的な実務官僚としての足軽層を抱え込んで成立してい た ﹂ と、近世大名家臣団の官僚制的性質を強調し た ︶5 ︵ 。 しかしその一方で同氏は、萩藩家臣団の分析においては、普請役の 縮小にともない、萩藩の大組︵軍事における ﹁ 備 ﹂ 編成の単位︶家臣 の普段の勤めは ﹁ 番役 ﹂ となったこと、それを担う大組家臣の一部は 役所の統括的な地位につくが、個々の部署には下級家臣や奉公人クラ ス︵足軽・中間︶が実務担当者として配属されたとして、下級家臣や 奉公人クラスの吏僚化を指摘した上で、これら役人の頻繁な不正事例 を 紹 介 し て 機 能 不 全 を 指 摘 し 、﹁ 東 ア ジ ア 官 僚 制 国 家 ﹂ を 体 現 し て い るとはいえないと論じ た ︶6 ︵ 。 この二つの藩の分析結果の差異について、同氏はとくに触れてはい ない。しかし個々の諸藩の事例を分析すると、このような差異が家臣彦根藩普請方の組織と機能
母
利
美
和
団の成立経緯や、大名領知高と家臣団人数あるいは給人層知行高との 関係など、個々の家臣団の特質によるものであることは考慮されなけ ればならないであろう。 例えば、萩藩において大組家臣の本務が ﹁ 番役 ﹂ であることは、大 組 家 臣 は ﹁ 番 役 ﹂ に つ く 家 臣 と ﹁ 役 方 ﹂ に つ く 家 臣 が 区 別 さ れ 、﹁ 番 役 ﹂ につく家臣が八割以上おり、足軽の内七組の弓足軽は苗字を持つ が 、 鉄 砲 足 軽 の 二 十 四 組 は 苗 字 を 持 た ず 、﹁ 番 役 ﹂ の 勤 め 方 に お い て も格差があると指摘され る ︶7 ︵ 。しかし、本稿で論じる彦根藩では、 ﹁ 備 ﹂ の ﹁ 組頭 ﹂ をはじめ、 ﹁ 旗奉行 ﹂﹁ 鑓奉行 ﹂﹁ 弓鉄砲足軽頭 ﹂﹁ 母衣役 ﹂ などの ﹁ 武役 ﹂ を勤める上・中級家臣が、平時の ﹁ 役儀 ﹂ を兼務し、 文政期の給人四七五人の内、四一八人、約九割もの家臣が藩政機構の ﹁ 役儀 ﹂ についており、三十七組の弓・鉄砲足軽一、 二七〇人︵組手代 を含む︶は、すべて苗字帯刀を許されているなど、あきらかに家臣の 位置づけ、家臣に求められた ﹁ 役 ﹂ のあり方が異なってい る ︶8 ︵ 。 本稿ではこのような差異の認識にたった上で、彦根藩の普請方組織 を検討することにより、藩主家・家臣団とその経済をささえる町人が 共存した城下町をはじめ、領内のインフラ整備・維持に藩官僚組織が 実効的に機能していたことの一事例を提示したい。とくに、これらに 動員された足軽・旗指などの下級家臣の労働役である ﹁ 出人 ﹂ や、家 臣に課される ﹁ 家中役夫 ﹂ のあり方については、近世前期に頻繁に見 られた幕府から諸大名に命じられる ﹁ 公儀普請 ﹂ だけではなく、藩領 内での ﹁ 家中役夫 ﹂ 使役の具体像と、それらを差配する普請方の役割 についても注目していきたい。
第一章
普請方の組織
第一節 近世前期の普請方の組織 ( 1) 普請奉行 彦根藩における普請奉行の初見は、大坂夏の陣後の元和元年︵一六 一五︶七月二十四日、二代井伊直孝が彦根城の改修にあたって命じた 次の ﹁ 普請 定 ︶9 ︵ ﹂ である。 御普請ニ付 而 万定之事 一、侍衆、他所へ御使ニ越候時に、休日之日限三分一たるへき事、 一 、御足軽衆・御中間衆、他所へ御使ニ参候時之休日、十日ニ三日 つゝの積り五十日迄之分、五十日 ゟ 上ハ休日十五日たるへき事、 但、路次積り之外おそく参候 者 、休日之内たるへき事、 一 、御あしかる・中間、朝めし・昼食ニあたり候時、かねつき次第 早々普請場へ可出事、 一 、つぼわり内、普請出来候ハヽ奉行人へ相渡シ可申候、若不相渡 罷帰り候ハヽ其日之不参たるへき事、 一 、御普請昼休之事、六月之土用入ニ候て ゟ 七月中迄一時たるへき 事、 一、着到之儀、右定之積りを以、念ヲ入付可申事、 一、ふれ口之事、御足軽之内にて拾人可被遣候事、 右之条被仰出候間、早々御ふれ可有之候、以上、 卯 ︵元和元年︶ ノ七 月廿四日 御普請奉行 早川弥左衛門殿彦根藩普請方の組織と機能 同 忠左衛門殿 佐成三郎左衛門殿 植田長右衛門殿 竹中勘兵衛殿 御着到付 西嶋弥次左衛門殿 水嶋善左衛門殿 宛名には、早川弥惣左衛門以下五人の普請奉行と普請場での着到付 の二人が記載される。彦根城普請は、慶長九年︵一六〇四︶年、徳川 家康の命により公儀普請として幕府から三人の公儀奉行が派遣され、 近江周辺の数十家の大名が動員されて始められたが、この元和期の普 請は、彦根藩単独での改修・整備の普請であっ た ︶10 ︵ 。改修・整備工事と いっても、慶長期には第一郭・第二郭を中心に整備され、第三郭や諸 櫓・門の整備は完全ではなかったため、家中総動員で進められた大規 模な工事と考えられる。 ﹁ 普請定 ﹂ では、 ﹁ 侍衆 ﹂﹁ 御足軽衆 ﹂﹁ 御中間 衆 ﹂ の休日・昼食・坪割︵分担地︶の完成届・昼休・触口について規 定し、普請奉行・着到付から家中へ触れ出すよう申し渡された。 普請奉行の筆頭に記された早川弥惣左衛門は、近世中期の記録では あ る が 、﹁ 井 伊 年 譜 ︶11 ︵ ﹂ に 慶 長 期 の 彦 根 城 の 縄 張 り を お こ な っ た と 記 さ れる ﹁ 早川弥三左衛門 ﹂ と同一人物と考えられ、普請に精通した家臣 であったと推測される。元和期の普請では、彼を筆頭として五人の普 請奉行が城郭・城下町の改修・整備に従事していたが、寛永期には、 普請奉行は二人体制に移行する。寛永元年︵一六二四︶に二条城普請 に 動 員 さ れ た 彦 根 藩 で は 、﹁ 手 前 普 請 奉 行 ・ 足 軽 か し ら 、 し ゃ う ご ハ なく談合つくニ仕候由、一段之奉公ニ而候、其上弥無所存様ニ可被申 付 事 ︶12 ︵ ﹂、 ま た ﹁ 佐 ︵ 普 請 奉 行 ︶ 成 ・ 竹 中 ・ 塩 ︵ 作 事 奉 行 ︶ 野 ・ 植 田 ニ 少 も 〳〵 じ ゃ う ご ハ な く 、 こ ︵ 小 者 ︶ もの ・中間のやうニ か ︵ 顔 ︶ ほ あからめあい不申とも、なにをも〳〵 だ ︵ 談 ︶ ん 合仕、能キかたの た ︵ 多 分 ︶ ふん ニつき可申付旨、可被申付候 事 ︶13 ︵ ﹂ と、現場で の 普 請 奉 行 ・ 作 事 奉 行 と 足 軽 の 物 頭 が ﹁ し ゃ う ご ﹂︵ 齟 齬 カ ︶ な く ﹁ 談 合 ﹂ を 尽 く し 、 現 場 で の 指 揮 を と る よ う 命 じ て い る 。 佐 成 と 竹 中 は当時の普請奉行であり、二条城での普請現場に二人の普請奉行が派 遣されている。 その後、慶安三年︵一六五〇︶四月二十五日には、おそらく地震に よ る も の と 考 え ら れ る が 、 次 の 八 箇 条 の ﹁ 覚 ﹂︵ 井 伊 直 孝 書 付 ︶14 ︵ ︶ の よ うに、城中・惣構・道路・土居・石垣・三之丸瓦葺塀・天守取付の十 二間櫓・本丸角櫓などの破損箇所の修復を、それぞれ普請奉行・作事 奉行に命じている。 覚 一 、城中破損所之書付 小幡久右衛門・湯本弥五介 所 ゟ 指越候、 則御 老 中 ゟ 修 覆 御 証 文 申 請 越 候 間 、 足 軽 并 役 人 も 草 臥 不 申 様 ニ 一 旦 ニ 不仕候とも 、緩々と仕立候様ニ可被申付候事、 一 、 惣 構 破 損 所 、 右 弐 人 之 者 所 ゟ 書 付 越 候 、 是 ハ 大 積 ニ 而 間 数 多 修 覆所々書付上、御証文申請候御紙面ニ有之候、右同前ニゆる〳〵 と丈夫ニ可被申付事、 一 、山下茂左衛門屋敷西之方、船留番所へ通り候道連々くすれ、只 今 道 直 四 尺 在 之 由 申 越 候 、 道 は ゝ 四 尺 ニ 而 能 候 之 間 、 其 四 尺 石 之 崩不申候様ニ波よけをもよく念入申付尤ニ候、 一 、惣構土居之儀、崩ハ拾間も十五間もその上も有之時分ハ書付指
越 候 様 ニ 仕 、 少 ツ ヽ 崩 候 所 ハ 普 請 人 拾 ・ 弐 拾 斗 ツ ヽ ニ 而 普 請 と も 見 へ 不 申 候 程 之 儀 ニ 而 出 来 可 申 候 間 、 つ ね 〳 〵 無 油 断 崩 目 を も と め、立派能様ニ可仕旨可被申付候、左様之時分ハ何事も見廻り、 其上仕様可被申付候、普請共目たち申程之儀ニて候ハヽ、公儀へ 不申上仕候義ハ不入義ニ 而 候間、左様之処見斗尤ニ 而 候事、 一 、 石 垣 之 義 ハ 五 間 三 間 ニ 而 も 何 時 も 申 越 候 様 ニ 可 被 致 候 、 幾 度 被 申越候 而 も御証文申請候ニ滞申儀ニ 而 ハ無之候事、 一 、三之丸瓦ふきの塀大方損し申旨、破損方宮崎惣右衛門・越石次 郎右衛門申越候書付見分候、二人之者申ことくニ、壱度ニハ不成 儀、其上夥敷世間へも見へ可申候間、三四拾間、四五十間、六七 拾間斗ツヽも連々ニ、当年、来年之内ニそろ〳〵丈夫ニ念入可被 申付候事、 一 、天守へ取付候二間十二間之多門損し申候由、右弐人之者申越候、 是ハ此已前 ゟ 其まゝ被指置間敷躰ニ候間、新敷内も見苦敷無之様 ニ丈夫ニ念入可被申付候事、 一 、本丸角之矢倉北西之方、風雨つよくあて壁節々損し申旨二人之 者申越候、是ハ先成次第ニ念を入、如跡々壁仕候様ニと可被申付 候事、 右之通、万損益之考なと被仕、丈夫ニ見懸能、末々迄もこ たへ候様ニ可被申付候、又矢さま・鉄炮狭間なとも吟味仕、是又 可被申付候 、惣別普請ハ何時所替へ可被仰付も不被存候義候得ハ 、 人 ニ 渡 し 、 其 後 之 外 聞 作 法 能 様 ニ 仕 所 肝 要 ニ 而 候 、 当 分 少 物 入 申 儀如何と存、見苦敷様ニ被申付間敷候、材木なとも領内ニ有之木 も可有之候、他所 ゟ 調よセ候材木大方ハ入可申候、左様之吟味念 入可被申付候也 、 寅 ︵慶安四年︶ 卯月 廿五日 御印 木俣清左衛門殿 庵原主税介殿 岡本半介殿 木俣半弥殿 これによると、 ﹁ 城中破損所之書付 ﹂ を江戸へ報告した普請奉行は、 小 幡 久 右 衛 門 ・ 湯 本 弥 五 介 所 の 二 人 、﹁ 三 之 丸 瓦 ふ き の 塀 大 方 損 し 申 旨 ﹂ の書付を報告した作事奉行は、宮崎惣右衛門・越石次郎右衛門の 二人であり、この時期も普請奉行は二人体制となっている。 ここで注目したいのは、普請奉行が二人に減少したことだけではな い 。 被 害 が 甚 大 で あ っ た こ と も あ る が 、 幕 府 老 中 か ら の ﹁ 修 復 御 証 文 ﹂︵ 老 中 奉 書 カ ︶ を 要 請 し て 認 可 を 得 た の で 、﹁ 足 軽 并 役 人 も 草 臥 不 申様ニ一旦ニ不仕候とも、緩々と仕立候様ニ可被申付候事 ﹂ と、足軽 や ﹁ 役人 ﹂︵家中役︶が ﹁ 草臥 ﹂ ないように、 ﹁ 緩々と仕立 ﹂ るよう命 じていることである。 近世初期に見られた ﹁ 公儀普請 ﹂ では、軍事的緊張状態のため、動 員された大名は、個々の割り当てられた持ち場をいかに早く見事に完 成させるか競合させられ、短期間で一気に工事をすすめたが、この慶 安期の普請では、かなり甚大な破損箇所がありながら、そうした軍事 的緊急性は求めていない。むしろ末尾の傍線部に記された趣意書に見 ら れ る よ う に 、﹁ 万 損 益 之 考 ﹂ を お こ な い 、﹁ 丈 夫 ニ 見 懸 能 、 末 々 迄 も ﹂ 持ちこたえるよう申し付け、矢狭間や鉄炮狭間も吟味して普請を 申 し 付 け る こ と は 、 い つ ﹁ 所 替 ﹂ を 命 じ ら れ る か 分 か ら な い た め 、 ﹁ 人 ﹂︵ 他 の 大 名 家 ︶ に 渡 し た 後 で も 、﹁ 外 聞 作 法 能 様 ﹂ に す る こ と が 重 要 で あ る と の 認 識 が あ っ た か ら で あ る 。 そ の た め 、﹁ 当 分 少 物 入 ﹂ と な る こ と を ﹁ 如 何 と 存 ﹂、 ﹁ 見 苦 敷 様 ニ ﹂︵ 手 抜 き し て ︶ 申 し つ け て はならないと命じている。
彦根藩普請方の組織と機能 こうした認識は元禄期でも確認できる。元禄十三年︵一七〇〇︶十 月十八日、四代井伊直興は、国元の家老・普請奉行・作事奉行へ次の ように命じてい る ︶15 ︵ 。 一 、普請方・作事方・諸奉行兼々申付候仕置之儀、随分念入、かり ニも大まかに無之様ニ申合、無油断可相勤候、 一 、人夫等召仕候ニも当分之人見せニ斗心得、日送りと存致し候故、 人 夫 ハ 入 増 候 而 も 普 請 等 は か ど り 不 申 、 人 夫 等 ハ つ か れ 候 様 成 わ け可有之事ニ候、ケ様之考第一ニ存候、御先代之奉行共ハ左様之 処を能致得心召仕、普請等はかゆき候様ニ仕、又可休時刻ハ見合 人夫等休め、進退をわかち候と相聞へ候、近年之奉行ハ朝 ゟ 晩迄 ふしつかせ候ても、終日召仕候を好と斗心得候故、人夫・役人等 も 却 而 奉 行 人 之 気 つ か ぬ 不 得 心 を 見 切 、 日 用 取 之 一 日 送 り 之 様 ニ 万事致し来候由、前々十日ニ出来候儀廿日ニも出来かね、人夫つ かれ万不作法成仕方と相聞へ候、此段ハ普請奉行・作事奉行之不 了 簡 と 申 も の ニ 候 、 人 ヲ 召 仕 候 ニ ハ 指 引 之 心 得 無 之 候 而 ハ 難 成 事 ニ候、能々申合役儀可相勤候、 一 、 当分之物入をいとひ当座払ニ物事仕来、間もなく、また修復取 懸り候様ニ仕候事、下 ら ︵ 郎 ︶ う の一銭をいとひ百銭捨訳可有之儀 ハ、 ケ様之所奉行之考第一成事候、其上城内廻り破損ハ、猶以丁寧ニ 念 入 久 鋪 こ ︵ 堪 ︶ た へ 候 様 之 心 得 肝 要 ニ 而 候 、 城 廻 り 之 普 請 ニ ハ 公 儀 ゟ 御奉書頂戴之上申付候処、何之子細も無之ニ、早速破損仕候と申 上 事 ハ 難 成 つ け 御 見 か ︵ 限 ︶ き り 之 根 本 ニ 而 候 、 内 証 方 之 儀 ハ 幾 度 も 成 やすき事候、城廻りハ公儀之第一之事、ケ様之儀ハ普請奉行・作 事 奉 行 勤 候 程 之 も の ハ 一 言 不 申 候 而 も 了 簡 可 有 事 候 得 共 、 物 事 大 切之義と不苦儀との用捨相考、役儀申合可相勤候、 一 、 惣 而 城 廻 り 之 修 復 等 ハ 老 中 ・ 城 代 へ 申 聞 、 両 役 相 談 之 上 可 被 申 付儀と存候、 一 、 右 之 外 ハ 兼 而 申 付 候 趣 毛 頭 無 相 違 可 相 勤 候 、 我 等 永 々 病 中 故 気 遣ニ存、小野田小介用事有之上せ候間、乍序申付候、 右之通可被申渡候、以上、 十月十八日 元禄十三年 木俣清左衛門殿 庵原助右衛門殿 長野十郎左衛門殿 長野民部殿 普請奉行 作事奉行 普請方・作事方・諸奉行への通告としながらも、とくに普請奉行・ 作事奉行を取り上げ、人を使役するには、やみくもに朝から晩まで働 か せ る の で は な く 、 適 切 に 休 み を 取 ら せ る こ と が 大 事 で あ り 、﹁ 人 ヲ 召 仕 候 ニ ハ 指 引 之 心 得 無 之 候 而 ハ 難 成 事 ﹂ だ と 普 請 奉 行 ら の 心 得 を 述 べている。また、当面の出費を厭い、十分な修理をおこなわず、また す ぐ に 再 修 理 を お こ な う こ と は 、﹁ 下 ら ︵ 郎 ︶ う の 一 銭 を い と ひ 百 銭 捨 ﹂ て るようなものだと断じる。さらに ﹁ 城内廻り破損ハ、猶以丁寧ニ念入 久 鋪 こ た ︵ 堪 ︶ へ 候 様 之 心 得 肝 要 ﹂ と し 、﹁ 城 廻 り 之 普 請 ﹂ は 公 儀 か ら の 御 奉書を頂戴した上で申し付けるものであり、さしたる事情もなく ﹁ 早 速破損 ﹂ したと再度修復を願うようなことはできない。そのような事 態 と な れ ば 、 幕 府 か ら の ﹁ 御 見 か ︵ 限 ︶ き り ﹂ の ﹁ 根 本 ﹂︵ 原 因 ︶ と な り 、 ﹁ 内証方之儀 ﹂、つまり将軍への非公式ルートで伝達される ﹁ 内証 ﹂ 事 項 に ﹁ 幾 度 も 成 や す き 事 ﹂ で あ り 、﹁ 城 廻 り ハ 公 儀 之 第 一 之 事 ﹂ で あ るとの認識を示している。 当時、直興は ﹁ 永々病中 ﹂ にあり、この翌年三月五日に嫡子直通に
家 督 相 続 を 許 さ れ 隠 居 し て い る 。 文 末 に は 、﹁ 右 之 外 ハ 兼 而 申 付 候 趣 毛頭無相違可相勤候 ﹂ と、これ以外は以前から命じていることと変わ りはないが、これだけは病中であり ﹁ 気遣ニ存 ﹂ ずるため、他の御用 で国元に派遣した側役小野田小介を通じて、関係諸役人に態々命じた のである。 これ以後、普請奉行は二人体制として確立し、幕末までつづくこと になる。 ( 2) 普請奉行配下の下役 寛永から慶安期に二人体制となった普請奉行は、近世初期において は城郭の改修・整 備 ︶16 ︵ 、幕府から臨時に命じられる ﹁ 公儀御普 請 ︶17 ︵ ﹂ が主 要な任務であったが、それらが整うと同時に、それらの維持管理、ま た様々な課題処理のため任務は増大した。 寛 永 二 十 年 ︵ 一 六 四 三 ︶ 二 月 十 三 日 に は 、 同 十 八 年 か ら 二 年 に わ たった凶作のための飢饉により、在江戸の藩主井伊直孝は国元からの ﹁ す ︵ 救 ︶ く い普請 ﹂ の伺いに対して、次のように指示を出し た ︶18 ︵ 。 領 内 で も ﹁ と か く 奉 公 ニ も 余 、 ひ し と 喰 物 無 之 つ ︵ 詰 ︶ ま リ 候 も の 定 而 多 く可在之候 ﹂ という状況となり、もし飢人が多くいるなら、 ﹁ 女の分 ﹂ は十年以内の年季で ﹁ 他処 ﹂︵他領︶奉公を許容するが、 ﹁ 男の分 ﹂ は ﹁ 他処 ﹂ 奉公をさせず、 ﹁ 一日ニ壱人ニ付、米武佐升一升ツヽ ﹂ で召し 使うよう、例年申し付けている堤・川除普請を村々へ申し付け、堤・ 川 除 の で き な い 所 は 、 用 水 の 新 溜 池 や 新 開 な ど を 申 し 付 け 、﹁ 飢 死 可 申 躰 之 も の ニ 者 壱 人 ニ 付 而 一 日 ニ 米 武 佐 升 壱 升 ツ ヽ ﹂ 与 え て 普 請 す る よう命じた。また、普請場所がない ﹁ 浦方 ﹂ には、藩が管理する ﹁ 小 谷山・奥之嶋山 ﹂ などで薪を集めさせ、船着き場へ運び出し、船で彦 根まで運び売らせるよう指示をしたのである。 こうした領内各地での普請実施に、普請奉行だけで対応することは 困難であった。そのため、次のようにも指示を出してい る ︶19 ︵ 。 一 、 如 件 方 々 ニ 而 飢 人 す ︵ 救 い ︶ く ひ の た め 色 々 之 儀 可 申 付 候 間 、 手 代 ニ 足 軽 之 内 ニ 而 慥 成 者 吟 味 仕 、 渡 候 而 成 と も 申 付 候 様 ニ 可 被 致 候 、 右 之役人ニ成候衆へ常式之普請なとの様ニ心得つよく申付候ハヽ、 却 而 迷 惑 ニ 成 可 申 候 間 、 左 様 之 考 、 何 之 所 も 如 同 ニ 仕 候 様 肝 要 候 事、 一 、 新ひらき抔申付候所ハあかり足軽之内、又ハ伊賀衆、又ハ七十 人 衆 な と の 内 ニ 而 左 様 之 所 々 た ん れ ん 仕 候 慥 成 者 を 申 付 、 人 召 仕 候 様子、右之通ニ仕、西堀次兵衛指図仕申付候様ニ可被申付事、 前条では、足軽の内から確かな人物を選び普請奉行の ﹁ 手代 ﹂ とす る こ と 、 次 条 で は 、 新 開 場 所 へ は ﹁ あ か り 足 軽 ﹂︵ 隠 居 後 ﹁ 番 上 が り 足軽 ﹂ となり門番に就いた者︶の内か、伊賀歩行・七十人歩行の内か ら、新開普請に熟練した人物を選び申し付けるよう命じた。またこう い う 状 況 で の 普 請 に 動 員 さ れ た ﹁ 役 人 ﹂︵ 百 姓 役 夫 ︶ は 、﹁ 常 式 之 普 請 ﹂ と は 異 な り 、﹁ 心 得 つ よ く ﹂ 指 図 し て は 窮 状 に あ る 彼 ら に と っ て は却って迷惑であるので、よく了簡し、どの普請場所でも同じように 対応することが大事とも命じている。つまり、普段の普請に従事し熟 練している足軽などを ﹁ 手代 ﹂ として、各普請場の管理をさせること である。 さ ら に 、 五 日 後 の 二 月 十 八 日 に は 、 領 内 村 々 の 飢 人 を 改 め 、 ﹁ す ︵ 救 い ︶ く ひ 之 た め ニ 所 々 普 請 ﹂ を 申 し 付 け る よ う 指 示 し 、 領 内 が 広 く 急
彦根藩普請方の組織と機能 に は 出 来 か ね る が 、﹁ す ︵ 救 い ︶ く ひ 普 請 ﹂ の 場 所 が 多 く て も 思 う に 任 せ 実 施 できないでは済ませられない、奉行も動員する ﹁ 役人 ﹂ が多く、それ ぞ れ ま ち ま ち に 指 図 す れ ば 、﹁ 大 成 儀 も 少 之 用 申 付 候 も 同 前 ニ て 候 ﹂ と、実効のある成果が得られないので、穿鑿吟味するよう命じてい る ︶20 ︵ 。 これらの普請は、あくまで飢饉対策として臨時におこなわれた ﹁ す くひ普請 ﹂ であるが、この他にも ﹁ 常式之普請 ﹂ が増加していた。正 保 四 年 ︵ 一 六 四 七 ︶ 四 月 十 二 日 に は 、﹁ 小 谷 山 ニ 而 瓦 作 り 、 是 も 大 普 請 ニ 而 候 ﹂・ ﹁ 奥 之 嶋 四 手 村 ニ 而 石 切 ︶21 ︵ ﹂ を 、 慶 安 三 年 ︵ 一 六 五 〇 ︶ 四 月 二十五日には、従来は ﹁ 中間 ﹂ や家中の ﹁ 役人 ﹂ を賄方から人足とし て 派 遣 し 調 達 し て き た ﹁ 八 尾 山 ﹂ の 下 苅 柴 ・﹁ 奥 嶋 山 ﹂ の 小 松 枝 お ろ し な ど は 、 人 夫 を 負 担 す る 賄 方 や 家 中 の ﹁ 物 入 ﹂ と な る の で 、﹁ 当 年 ゟ 無用 ﹂ とし、賄方で必要な薪は、現地の立木のまま ﹁ 枝・下苅 ﹂ ま でを入札し、小給の確かな人物二人に、足軽か七十人歩行を人選し差 配 さ せ る よ う 、 筋 奉 行 衆 ・ 西 堀 次 兵 衛 ︵ 賄 役 ︶・ 普 請 奉 行 ら に 命 じ て いる。また村々で起こった火事では、 ﹁ 用 ︵御用木︶ 等にも不成程 ﹂ の立木の内、 百姓が必要な立木を ﹁ 本木・枝葉迄も積り直段 ﹂ を立てて利用させる た め 、﹁ 立 会 ﹂ を 筋 奉 行 ・ 普 請 奉 行 に 命 じ て い る 。 以 後 、 こ れ ら の 業 務は普請方の重要な任務となる。 慶安四年には、城中本丸廻りの松の管理、惣構の土居の竹の管理、 ﹁ 古城山 ﹂︵佐和山︶ ・﹁ 里根山 ﹂・ ﹁ 小谷山・奥之嶋山、其外裏山 ﹂ の松 や下木の管理を、普請奉行と相談の上おこなうよう筋奉行に命 じ ︶22 ︵ 、承 応二年︵一六五三︶には、領内の新田普請・ 城中破損普請・外堀廻り 之普請 に際して、普請奉行一人づつに、知行三百石以上の家臣からの ﹁ 役 人 ﹂ を 付 属 さ せ 、 さ ら に 小 給 の 家 臣 の 中 か ら 確 か な 人 物 を 必 要 な だけ奉行の補助を勤めさせるよう命じてい る ︶23 ︵ 。 このように普請場所の増加、普請奉行の管理場所の増加により、二 人の奉行だけでは処理できず、その補助的人員が、業務に熟達した足 軽や歩行など小給の者が、その都度付属させるよう命じられていた。 ただし、この時期には普請方の ﹁ 手代 ﹂ などの下役は、まだ組織と して明確に規定されてはおらず、組織化が進められたのは、四代井伊 直興の時代と考えられる。 直興は藩主就任後、各役方業務の分担・権限、人事管理など諸制度 改革を積極的にすすめたが、その時期の改革を指示した書下を編集し た ﹁ 諸御役 所 ︶24 ︵ ﹂ という記録がある。ここには、年紀があるものや年次 を推定して記載されたものが見られるが、郷中宿での火事後の対応を 命じた承応元年︵一六五二︶の一通を除き、延宝七年︵一六七九︶か ら元禄十三年︵一七〇〇︶まで、ほぼ直興の藩主在任時期のものであ る。 この記録には、年未詳だが四月十五日で、次のように ﹁ 普請方足軽 定引覚 ﹂ と題する普請方下役に関する年寄衆への改革提案書がある。 普請方足軽定引覚 一、三人 西ケ原柴蔵奉行 一、三人 西ケ原材木奉行 右六人を二人ニ可致候、 一、三人 東柴蔵奉行 右三人を壱人ニ可致候、 一、弐拾人 浮役 右弐拾人を拾人ニ可致候、
一、三人 割元物書役 一、三人 勘判元 右六人、三人ニ可致候、 一、弐人 触役 右之弐人、止ニ可致候、 一、四人 石垣縄見役 右四人、弐人ニ可致候、 一、弐拾三人 手木役 右弐拾三人を拾人ニ可致候、 一、弐拾人 段平船乗 右弐拾人、拾六人ニ可致候、 一、壱人 石垣曲尺見 右浮役之内へ入置、曲尺見用之時分相勤させ可申候、 一、九人 石細工 右九人、定引を止ニ致し、用之時々ニ割出し召連可申候、 一、弐人 きやり役 右弐人、止ニいたし、用之時分ハ何時も割出し召連可申候、 一、三人 普請場棹打 右三人、止ニいたし、万一棹打申儀有之候ハヽ、八人の杖 つ ︵ 突 ︶ き 手代出し、用相勤させ可申候、 一、五人 里根山廻 右五人、弐人ニ可致候、 一、五人 古城山廻 右五人、弐人ニ可致候、 一、四人 北南上海道奉行 右浮役不足之割、此四人召遣可申候、 一、弐人 下海道奉行 右浮役不足之刻、此弐人召遣可申候、 一、弐人 五畝畑奉行 右弐人止ニ致し、五畝畑請取渡し、年貢等取立候儀ハ、下海道 奉行相勤候様ニ可致候、 一、弐人 城中廻 右浮役不足之刻、此弐人召遣可申候、 一、三人 大工役 右三人を壱人ニ致し、万一大工役之用事候ハヽ相勤、浮役不足 之時ハ召遣可申候、 一、壱人 木挽役 右壱人止ニ致、万一木挽役用之刻ハ、作事方中間木挽召遣可申 候、 一、三人 中土手廻 一、三人 尾末町土手廻 右六人を弐人ニ致し、中土手・尾末町土手相兼候て相勤させ可 申候、 一、三人 猿ケ瀬土手廻 右 三 人 止 ニ 致 し 、 ま ︵ 纏 指 ︶ と ゐ さ し 拾 二 人 ニ 相 勤 さ せ 可 申 候 、 并 奉 行 役 不足之刻ハ土手廻八人、山廻四人之内、当分之用ニ召遣可申候、 一、三人 上善利川土手廻 一、三人 下善利川土手廻
彦根藩普請方の組織と機能 右六人を弐人ニ致し、上下相兼勤させ可申候、 一、三人 西ケ原土手廻 一、四人 中藪土手廻 内弐人ハまとゐさし 右七人、弐人ニ致し、西ケ原・中藪相兼相勤させ可申候、 右 ① 之 通 普 請 方 定 引 之 足 軽 減 シ 相 勤 候 様 ニ 可 被 申 付 候 、 先 如 此 ニ 而 相 務 、 是 非 手 廻 り 不 申 、 用 事 滞 申 儀 有 之 候 ハ ヽ 重 而 吟 味 之 上 申 聞 候様ニ役人共ニ可被申付候、 一 、 如 ② 斯人数減シ候へハ、毎日七十七人ツヽ普請人出人増、年中合 テ弐万七千六百拾弐人之出人と相見へ候、左候へハ余程為方ニも 可罷成儀と存候 、 一 、 荒 ③ 神山 ゟ 大石・中石・ く ︵ 栗 ︶ り 石等、人隙之時分ハ無油断取よせ、 長曽根又ハ曲輪之内へ指置 、役人共相談了簡致候ハヽ、余程為宜 義も可有之候、件之趣尤被存候ハヽ紙面之通普請奉行吟味方へも 可 被 申 渡 候 、 右 了 簡 之 品 も 有 之 候 ハ ヽ 重 而 其 段 無 遠 慮 可 被 申 聞 候 、 以上、 四月十五日 年寄衆 この書下は傍線①に記されるように、西ケ原柴蔵奉行・西ケ原材木 奉行以下、 ﹁ 普請方定引之足軽 ﹂ の人員削減を命じたものである。 ﹁ 定 引之足軽 ﹂ とは、後には ﹁ 引 ︵ひけ 人 にん︶ ﹂ と呼ばれ、足軽が属する組役を免除 され、各役方での業務に専念する ﹁ 定役 ﹂ をつとめた足軽のことであ り、傍線②のように、この ﹁ 定引之足軽 ﹂ の減員により、毎日七十七 人 づ つ ﹁ 普 請 人 ﹂ の ﹁ 出 人 増 ﹂ と な り 、﹁ 年 中 合 テ 弐 万 七 千 六 百 拾 弐 人 ﹂ の足軽 ﹁ 出人 ﹂ が捻出できると指摘する。その目的は、傍線③で は、城郭の石垣修築などで用いる石の切り出し場である荒神山から、 人員の隙があるときに切り出し、城下南西端の長曽根村や曲輪内に保 管しておくことであった。 こ う し た 普 請 に お け る 人 員 確 保 に つ い て は 、﹁ 諸 御 役 所 ﹂ の 記 録 中 に散見され、元禄五年︵一六九二︶三月十六日に、各役方での役夫の 使 い 方 を 見 直 せ ば 、 普 請 方 へ 延 べ 一 年 に 二 五 ,八 九 〇 人 分 の ﹁ 家 中 役 人 ﹂ が出せるとの藩主直興の書 下 ︶25 ︵ から判断すると、同時期のものと推 測 さ れ る 。 お そ ら く 元 禄 五 年 ま で に は 、 普 請 奉 行 の 配 下 に 、﹁ 定 引 之 足 軽 ﹂ に よ る 下 役 が す で に 制 度 化 さ れ て い た の で あ ろ う 。 た だ し 、 ﹁ 諸 御 役 所 ﹂ の 記 録 の 中 に は 、 他 に ﹁ 普 請 方 手 代 ﹂ の 呼 称 も 見 ら れ 、 この減員の対象となった下役が普請方の全体像とは限らない。 普請方手代については、時代は下るが、文化八年︵一八一一︶から 普請方手代を勤めた小野惣次の公務日記である ﹁ 諸事日 記 ︶26 ︵ ﹂ によれば 十人の手代、天保七年︵一八三六︶の ﹁ 普請方下役名 寄 ︶27 ︵ ﹂ では十三人 の手代が確認できるように、藩行政の分業化が進むなかで普請方の担 当業務が増大し、普請方での ﹁ 手代 ﹂ は減員の対象とはならず、不可 欠 な 存 在 で あ っ た と 考 え ら れ る 。﹁ 諸 御 役 所 ﹂ の 年 未 詳 六 月 十 五 日 付 の井伊直興書 下 ︶28 ︵ では、様々な役方業務の適正をはかるため目付に ﹁ 立 会 ﹂ を命じたなかで、八尾山・奥之嶋山・小谷山などの藩直営の山林 における立木・下刈柴の内、 ﹁ 御用 ﹂ 以外のものを現地で売り払う際、 ﹁ 普 請 方 手 代 ﹂ が ﹁ 立 会 ﹂ う よ う に 命 じ て お り 、 現 地 で の 普 請 方 業 務 は普請奉行自らがおこなわず、 ﹁ 手代 ﹂ が担うようになっている。 しかし、こうした現地での ﹁ 手代 ﹂ 一任の状況は、時には不正の温
床ともなっていた。年未詳ではあるが、四代井伊直興が七月十九日付 で家老衆へ家中の普請役人の現地での使役について指示した黒印書 下 ︶29 ︵ では、 ﹁ 手代 ﹂ の ﹁ 成相 ﹂︵馴れ合い︶や ﹁ 我侭 ﹂ を普請奉行が把握し ていないことに ﹁ 不届千万 ﹂ であると指摘し、確かであれば ﹁ 手代曲 事 ﹂ を申しつけるよう命じている。 こうした下役人の不正は、普請方にかかわらず起こりうる問題であ り、その防止のため、四代直興は諸奉行・諸役人の任務と権限を明確 に し 、﹁ 誓 詞 ﹂ を 提 出 さ せ る こ と と し た 。 普 請 奉 行 が 担 う 業 務 の 範 囲 も、次の史料により、ほぼ四代直興の頃に規定されたと推測され る ︶30 ︵ 。 一 、 此 ① 度 御 役 義 ニ 付 誓 詞 相 改 、 当 夏 御 前 江 指 上 ケ 候 、 就 夫 大 切 成 御 役 と 申 、 第 一 ニ 者 公 儀 を 奉 重 之 一 ツ 、 次 ニ 者 家 之 仕 置 旁 ニ も 有 之間、各初近習向諸役人等迄、此度誓詞相改可然存候 、依之 前 ② 書 等 之 子 細 、 此 度 御 前 江 差 上 候 我 等 誓 詞 前 書 之 趣 、 又 ハ 寛 永 戌 之 年直孝公被仰付候誓詞前書之品、両様を此度致通用、別紙之通前 書認遣し候 、被致見分、存寄之旨も有之候ハヽ可被申聞候、於爰 元 十 ︵ 家 老 長 野 ︶ 郎左 衛門方へも出し申事ニ候、 一 、 此 ③ 前書之儀ハ、当夏 ゟ 我等数度相考、如此認遣し 候、 諸 ④ 奉行・ 諸役人誓詞前書之儀ハ、其役之品ニより少ツヽの替り目可有儀と 存候、件之前書之儀ハ、各之誓詞前書を元ニ被相立、何もとくと 被致相談、役人共之誓詞ハ宜様ニ前書之儀案文認見せ可被申候 、 有増ハ別紙ニも少々書付遣し候、尤於爰元十郎左衛門へも出し、 存寄承事ニ候、 一、直孝公被仰付候誓詞留書之案文壱通 一、此度我等御前へ差上候誓詞之写壱通 右 二 通 之 写 者 広 ク 他 見 致 も の ニ ハ 無 之 候 、 此 度 我 等 申 付 候 誓 詞 案 文之下書と引合せ被致拝見候ハヽ早速此方へ返し可被申候、尤我 等誓詞案文之義ハ其元なとに留被致候事も無用ニ候、拝見之上、 早速返し可被申候、以上、 九月廿五日 元禄十年 木俣清左衛門殿 庵原助右衛門殿 長野十左衛門殿 中野助大夫殿 西郷藤左衛門殿 木俣半弥殿 この書下は、元禄十年︵一六九七︶九月二十五日、在江戸の直興が 国 元 の 家 老 衆 へ 発 し た も の で あ る 。 傍 線 ① の 、 こ の 度 ﹁ 御 役 儀 ﹂ の ﹁ 誓 詞 ﹂ を 改 め ら れ ﹁ 御 前 ﹂ へ 指 上 げ た こ と と は 、 直 興 が こ の 年 の 六 月十三日に大老職に就任したため、将軍徳川綱吉へ役職就任の誓詞を 差し出したものと考えられる。大老職は重職であり、その勤めを果た す に は ﹁ 第 一 ニ 者 公 儀 を 奉 重 之 一 ツ 、 次 ニ 者 家 之 仕 置 旁 ニ も 有 之 間 、 各初近習向諸役人等迄、此度誓詞相改可然存候 ﹂ と、大老職に就いた 直興の代わりに藩政を支える家老衆と、直興の ﹁ 近習向諸役人 ﹂ にも 誓詞を命じたのである。その際、傍線②のように、直興の大老職就任 の誓詞前書については、 ﹁ 寛永戌年 ﹂︵寛永十一年︶に二代井伊直孝が 将軍徳川家光に提出した誓 詞 ︶31 ︵ の前書とを通用させたとして、直孝の誓 詞 と 、 今 回 の 直 興 の 誓 詞 の 写 し を 家 老 衆 に 示 し 、 こ れ ら を 元 に 家 老 衆・近習向諸役人の誓詞前書案を提出させるよう命じたのである。 誓詞前書は、役職就任に際して勤めるべき役儀の内容と権限が箇条 書きで記されるが、そこに記される文言は決して形式的なものではな い。彦根藩においては、諸役方の頭・奉行のみならず、それらの下役 までが役儀の具体的内容を箇条書きで記した前書を備えた誓詞を提出
彦根藩普請方の組織と機能 してい た ︶32 ︵ 。 二箇条目では、傍線③に、誓詞前書については直興が大老職に就任 した夏以来、熟慮して認めたとし、傍線④に、国元の諸奉行・諸役人 についても、家老衆がそれぞれの役儀の前書文言を検討し、草案を直 興に見せるよう指示している。 普請奉行の誓詞も、おそらくこの時に作成されたと推測され、時代 は下るが、享保三年︵一七一八︶のものと推定される普請奉行誓詞で は、次に略記した五つの前書条項が見られ る ︶33 ︵ 。 ① ﹁ 重御前御為第一 ﹂ に存ずること。 ﹁ 公儀御用 ﹂ は言うまでもなく、 ﹁ 御自分之御用向 ﹂ は万事 ﹁ 御損益 ﹂ を考えておこなうこと。 ﹁ 一 味徒党 ﹂ の禁止。 ② ﹁ 御 足 軽 ・ 御 中 間 并 御 家 中 役 人 ﹂ の 使 役 に つ い て 、 御 足 軽 ・ 御 中 間 の 御 普 請 を 免 除 し 、 む や み に ﹁ 奉 行 人 ﹂︵ 下 役 ︶ に 取 り 立 て な いこと。御普請場に不参の足軽・中間・家中役人の取り締まり、 風 雨 が 強 い 時 、﹁ 御 城 中 ・ 外 輪 迄 見 廻 り ﹂ に 注 意 を 払 い 適 切 に 対 処 す る こ と 。﹁ 奥 方 御 普 請 ﹂ の 際 は ﹁ 御 奥 向 及 見 申 儀 於 外 様 一 切 取沙汰 ﹂ しないこと。 ③ ﹁ 御領内御用木 并 御山之木・柴草以下迄 ﹂、 私曲を存ぜず、 現地で の ﹁ 御 払 物 ﹂ が あ る 時 は 相 役 が ﹁ 立 会 ﹂、 御 役 人 中 へ 相 談 し 値 段 を 考 え 、﹁ 払 之 代 銀 ﹂ は 必 ず 取 り 立 て 提 出 す る こ と 。 こ れ ら の 代 銀を私用はいうまでもなく、 ﹁ 親子兄弟・親類縁者、身寄之もの ﹂ であっても借用などを禁止すること。出郷の際、百姓を私用に召 遣 う こ と や ﹁ 御 普 請 手 代 并 召 連 候 御 足 軽 ・ 御 中 間 ・ 御 家 中 役 人 ﹂ を自分の用のため使役することを禁止すること。 ④ 百 姓 そ の 他 何 者 に よ ら ず 、﹁ 御 山 ・ 御 林 惣 而 御 法 度 之 場 所 江 立 入 、 竹 木 草 并 御 作 之 物 な と 荒 し ﹂ は 厳 し く 吟 味 し 、 筋 奉 行 ・ 御 代 官・支配人に断り、籠舎か過料を取り、見逃してはならないこと。 音信・礼物を請取らないこと。 ⑤ ﹁ 諸役所ニ差置候支配下之もの共、 誓詞申付置 ﹂、 それぞれの役儀 を精勤させ、不正をさせないこと。下役の内に見慣れない者が居 る 場 合 は 、 よ く 取 り 調 べ て 家 老 中 へ 上 申 し 、﹁ 依 品 曲 事 ﹂ に 処 置 するか、 ﹁ 御入替 ﹂ をすること。 ﹁ 組頭 ﹂ がいる下役では、その頭 を厳しく注意すること。 ① の 箇 条 で は 、 普 請 方 の 任 務 が 、﹁ 公 儀 御 用 ﹂ つ ま り 幕 府 か ら 預 か る城郭修築普請や ﹁ 公儀普請 ﹂ に関わることを上げている。②の箇条 で は 、 普 請 方 任 務 で は ﹁ 御 足 軽 ・ 御 中 間 并 御 家 中 役 人 ﹂ を 使 役 し 、 そ の内、足軽・中間が普請方下役として取り立てられていたことが窺え、 風雨災害の時には、城中や外曲輪の見廻りを勤めることが規定される。 ③ の 箇 条 で は 、﹁ 御 領 内 御 用 木 并 御 山 之 木 ・ 柴 草 以 下 迄 ﹂ と 城 下 町 以 外の管轄区域と、そこでの物的・人的不正を禁止する。④の箇条では、 ﹁ 御 山 ・ 御 林 惣 而 御 法 度 之 場 所 ﹂ へ 百 姓 に 限 ら ず 何 者 で あ っ て も 立 入・不正行為を禁止し、不正を見逃さないこと。⑤の箇条では、普請 方支配下の下役には ﹁ 誓詞 ﹂ を提出させて精勤させ、支配下の多勢に 及ぶ下役の把握に努めることが規定される。 この前書条項が元禄期から継承されたものかは不明であるが、享保 期には、すでに普請方下役に足軽のみならず中間からも取り立てられ ていたこと、城郭・城中・外曲輪などの城下施設の管理、災害時の対 応、御山・御林の管理、下役人の監督・統率などの管轄範囲・権限が
明確にされていたことが窺える。 第二節 普請方業務の増大と下役人員配置の変遷 本稿末尾に掲出した 表① ∼ ⑤ の各表は、 表① は元禄期︵一六八八︱ 一七〇四︶ 、天保七年︵一八三六︶と同十一年、元治元年︵一八六四︶ の 普 請 方 に 配 属 さ れ た ﹁ 足 軽 定 引 ﹂︵ 定 役 ︶ と な っ た 下 役 人 の 人 員 配 置、 表② は天保七年と同十一年、元治元年の普請方に配属された ﹁ 旗 指 ﹂﹁ 扶 持 人 ﹂ の 人 員 配 置 を 対 照 し た も の 、 表 ③ は 天 保 七 年 の 手 代 と そ の 家 の 歴 代 名 、 表 ④ は 天 保 七 年 の 下 役 の 内 、 看 板 役 ・ 触 役 ・ 物 書 役・鍛冶方役・鉄物役・東西の薪蔵役の前歴と下役各家に関する召出 年・歴代名のデータを提示したもの、 表⑤ は普請方下役の所属する足 軽等の組別名簿であ る ︶34 ︵ 。以下これらから、普請方の人員・業務の変遷 を検討してみよう。 表① では、元禄期については前述したように ﹁ 手代 ﹂ の役名がなく、 減員対象外の役名記載が漏れている可能性があるが、同一役名の人数 で比較すると、全体的に元禄期の減員案前の人数よりも、天保期には 各下役人数の増加が確認される。また、天保期には見られなくなる役 名もあり、ゴシック体で示した ﹁ 猿ヶ瀬土手廻 ﹂ は 表② の ﹁ 猿ヶ瀬御 土手・清涼寺御廟御掃除兼帯 ﹂ と同役と考えられ、足軽ではなく ﹁ 旗 指 ﹂︵中間︶が配属され、 ﹁ 大工役 ﹂・ ﹁ 木挽役 ﹂ などは、おそらく作事 奉 行 の 下 役 に 配 属 替 と な っ た の で あ ろ う 。﹁ 浮 役 ﹂ は 、 臨 時 に 人 員 不 足の下役に振り分けられる者と考えられ、天保期には見られない。元 治元年の大幅な減員や役名の廃止は、幕末期の将軍徳川家茂の上洛に ともなう供奉、京都など各地の警衛などに藩兵が動員されたためであ ろう。 ﹁ 看 板 役 ﹂ は 、 元 禄 期 に は ﹁ 勘 判 役 ﹂ と も 記 載 さ れ 、 普 請 場 に お け る 監 察 の 役 割 と 考 え ら れ る 。﹁ 物 書 役 ﹂ は ﹁ 割 元 物 書 役 ﹂ と も 記 載 さ れ、普請業務実施における人足割当を差配し、文書作成する記録役で あろう。また ﹁ 触役 ﹂ は、普請方から家中への伝達を担う。この三つ の 下 役 は ﹁ 手 代 ﹂ の 次 に 記 載 さ れ る こ と か ら 、﹁ 手 代 ﹂ 業 務 の 重 要 な 補佐役と考えられる。 その他、 表① に見る ﹁ 定引之足軽 ﹂ の下役を概観すると、役名から 詳 細 な 業 務 内 容 は 不 明 で あ る が 、﹁ 鍛 冶 方 役 ﹂・ ﹁ 鉄 物 役 ﹂ は 普 請 道 具 の 製 作 や 補 修 を 担 う と 考 え ら れ 、﹁ 西 御 薪 蔵 役 ﹂・ ﹁ 東 御 薪 蔵 役 ﹂ は 藩 庁 表 御 殿 や 下 屋 敷 の 槻 御 殿 ・ 松 原 御 屋 敷 、 山 崎 御 屋 敷 ・ 広 小 路 御 屋 敷・尾末御屋敷などの庶子屋敷に用いる御用薪などの保管蔵の管理、 ﹁ 段平御貸附役 ﹂ は普請方で用いる石や土砂輸送に用いる ﹁ 段平 ﹂︵ 艜 ひ ら た 船 ︶ の 貸 付 管 理 、﹁ 中 御 土 手 役 ﹂・ ﹁ 下 御 土 手 役 ﹂・ ﹁ 善 利 川 御 土 手 役 ﹂ な ど は 外 堀 廻 り や 城 下 南 部 を 西 流 す る 河 川 の 土 塁 ・ 堤 防 の 管 理 、﹁ 御 城中役 ﹂ は本丸の天守以下の諸櫓・石垣・高塀・土塁・樹木の管理、 ﹁ 北・南・下海道役 ﹂ は領内の街道の管理、 ﹁ 石樋役 ﹂ は城下の上水道 の 管 理 、﹁ 石 灰 役 ﹂ は 普 請 の 漆 喰 ・ 三 和 土 な ど に 用 い る 石 灰 の 調 達 ・ 管 理 、﹁ 里 根 御 山 ・ 古 城 御 山 廻 り ﹂ は 城 下 近 隣 の 藩 直 営 山 林 の 管 理 、 ﹁ 縄見役 ﹂・ ﹁ 曲尺役 ﹂ は石垣の縄張り・点検・測量、 ﹁ 木遣役 ﹂ は御用 木の輸送、 ﹁ 手梃 役 ︶35 ︵ ﹂ は普請現場での石積みの補助的役割、 ﹁ 黒御門御 屋 敷 掛 り ﹂︵ 槻 御 殿 掛 り ︶・ ﹁ 御 薬 園 御 用 掛 り ﹂ は 下 屋 敷 付 属 の 庭 園 ︵玄宮園︶や薬園の管理である。 ﹁ 絵図 役 ︶36 ︵ ﹂ は屋敷改修や火災等の現場 絵 図 の 作 成 、﹁ 段 平 御 船 乗 物 主 役 ﹂ は 石 材 輸 送 船 の 上 乗 り 役 ︵ 荷 の 輸
彦根藩普請方の組織と機能 送監督︶ 、﹁ 細工役 ﹂ は詳細不明であるが普請方に関わる諸小道具細工 に か か わ る も の で あ ろ う 。﹁ 塩 硝 御 蔵 御 番 ﹂ 以 下 の 御 番 は 各 蔵 や 城 下 と周辺村との出入口を監視する番役である。 表 ② の 内 、﹁ 御 旗 小 頭 ﹂ は 、 普 請 方 下 役 に 動 員 さ れ る ﹁ 旗 指 ﹂ の 統 括 を 担 う と 考 え ら れ 、﹁ 伊 賀 町 ﹂ に 居 住 す る ﹁ 伊 賀 歩 行 ﹂ が 勤 め た 。 そ の 他 の ﹁ 旗 指 ﹂ が 務 め た 役 は 、 文 政 年 間 に 造 営 さ れ た ﹁ 護 国 殿 ﹂ ︵ 後 の 佐 和 山 神 社 ︶ の 番 人 、 城 下 町 北 部 の 松 原 内 湖 に 流 入 す る 猿 ヶ 瀬 川 の 土 手 と そ の 近 隣 の 井 伊 家 廟 所 で あ る 清 凉 寺 の 掃 除 番 、 普 請 方 役 所・普請方の管理する御蔵番、御堀・石場・城下周辺村から城下への 出 入 り 口 の 見 廻 り 番 、 普 請 奉 行 の 御 供 な ど で あ る 。 表 ② の 内 、﹁ 扶 持 人 ﹂ が勤めた役は、城下以外の藩管理の石場・山林の見廻りなどであ る ︶37 ︵ 。これら ﹁ 扶持人 ﹂ が勤めた役は、足軽の下役が普請現場での実務 担当が多いのに比べ、普請本来の普請現場での業務分担ではなく、番 役や見廻り役・伝達役など、普請業務の熟練を必要としない業務と考 えられる。 つまり、普請方の下役にはある程度の熟練が必要な役と、経験のな い初任者が勤める役があったと考えられよう。そこで、 表④ を見ると、 普請方下役の前歴の初任役は、ほとんどが ﹁ 手梃役 ﹂ か ﹁ 場所役 ﹂ で あり、これらの下役を勤めた後に、適性を判断し各下役での経験を積 み 、 数 年 か ら 十 数 年 以 上 の 経 歴 が 見 ら れ る こ と が わ か る 。 中 に は 、 ﹁ 触 役 ﹂ の 居 林 旧 右 衛 門 の よ う に 、 文 化 七 年 ︵ 一 八 一 〇 ︶ か ら 天 保 七 年︵一八三六︶まで二十数年の間に、手梃役・物書役・下海道石ケ崎 役・御殿掛り・槻御用掛・触役と、七種の役儀経歴を積むものもいた。 表③ の手代の各代の履歴からは、手代小野惣次家は少なくとも天保七 年から明治四年︵一八七二︶まで、普請方手代の居住区である善利橋 六丁目に屋敷を持っていることから、この期間は世襲していたと考え られ る ︶38 ︵ が、その他の普請方下役が世襲されたかどうかは不明である。 おそらくこれら下役は、足軽組での勤務状況が評価されて各役方へ定 役として出向すると考えられ、紙幅の関係で普請方下役の各家の歴代 相続の状況を掲示することはできないが、ほとんどが数代以上相続を 重ねた家であり、各組での経歴︵譜代化︶が ﹁ 定役 ﹂ として選任され る条件であったと推測される。 これらの内、足軽が勤めた下役は足軽が所属する組から ﹁ 定引之足 軽 ﹂︵ 定 役 ︶ と し て ﹁ 組 ︵くみぬけ︶ 抜 ﹂ し て 出 向 し て お り 、 そ の 元 の 組 は 、 表 ⑤ の通り特定の組ではない。組により出向した人数は、 15番の黒柳孫右 衛門鉄砲三十人組や 17番の酒居三郎兵衛鉄砲三十人組、 21番の高橋要 人鉄砲三十人組の一人のみから、 7番の今村忠右衛門鉄砲四十人組の 十五人と差異はあるが、ほぼ全足軽組三十七組から出向している。こ れら出向した足軽は、平時には本来所属する組の果たすべき足軽組役 としての辻番や普請役︵出人︶などは免 除 ︶39 ︵ されていると考えられ、辻 番などの割当のためか、多くとも出向者は組人数の約三割から四割に 抑えられている。 以上のように、普請方下役の分業体制は、元禄期から天保期にかけ て担当業務が拡大・固定化するとともに、下役人員も増大傾向にあっ たこと、元禄期から天保期にかけて、普請方下役の業務増大にともな い、足軽からの ﹁ 定引 ﹂︵定役︶だけではまかなえず、 ﹁ 旗指 ﹂ や現地 採 用 等 の ﹁ 扶 持 人 ﹂ に よ り 担 わ れ た こ と が わ か る 。 ま た 、﹁ 定 役 ﹂ に 選任される者は、ある程度歴代を重ねた譜代の者で、各組での経歴実
績 が 評 価 さ れ 、﹁ 手 梃 役 ﹂ や ﹁ 場 所 役 ﹂ な ど の 初 任 役 に 登 用 さ れ 、 登 用 後 は 普 請 方 で の 経 歴 を 積 む こ と に よ り 、﹁ 手 代 ﹂・ ﹁ 看 板 役 ﹂ な ど の 実務管理職に登用されたと考えられる。
第二章
普請方業務の実態
本章では、文化八年︵一八一一︶十一月二十八日に普請方手代の見 習を任命された前述の小野惣次︵正好、善利橋六丁目居住︶が記録し た、文化八年から文政二年︵一八一九︶の公務日記 ﹁ 諸事日記 ﹂ と文 政七年から同十年の公務日記 ﹁ 官事 録 ︶40 ︵ ﹂ により、普請方業務の実態を 検討する。とくに注記をつけない記事・事項は、これら日記の記事を もとにしており、適宜年次・日付を示すこととする。 第一節 定例の儀礼・事務 年頭儀礼 文化八年に手代見習となった小野は、文化九年正月元日 は、御家老衆・両奉行、その外所々へ年礼に参上し、六日には ﹁ 見習 被仰付之神酒 ﹂ を手代の ﹁ 仲間中 ﹂ へ振る舞い、七日は ﹁ 七 ︵ななくさ︶ 種 祝儀 ﹂ として両普請奉行、その外所々へ挨拶廻りに出向き、十日には、普請 奉行の大久保藤介から ﹁ 例年之通、組合五軒へ酒弐樽・鯣五れん・鏡 餅壱重ツヽ来ル ﹂ と、手代衆へ年始祝儀の酒肴・鏡餅の振る舞いが使 者により届けられている。 正 月 十 一 日 は 、 城 下 南 部 の 善 利 川 に 面 し た 足 軽 居 住 区 の 八 丁 目 に あった普請方役所の役所開きである。文化九年の記事では、両普請奉 行が普請方役所に出勤、 ﹁ 仲満中 ﹂︵手代衆︶へ年始に来られ茶を出し、 供役の者へは酒を出し、それから御役所開きが始まった。手代衆は全 員 、 役 所 へ 参 集 、 役 所 に お い て 年 中 の ﹁ 旅 虎 口 ﹂ や ﹁ 不 時 地 廻 り ﹂、 ﹁ 両 御 山 虎 口 ﹂ な ど を 取 り 決 め て い る 。 こ の 日 、 普 請 奉 行 所 藤 内 の 屋 敷 へ 鏡 開 き に 参 上 し 、﹁ 種 々 御 馳 走 ﹂ の 振 る 舞 い が あ っ た 。 例 年 は 、 この日に ﹁ 仲満寄会 ﹂ をおこなうが、 ﹁ 御用多 ﹂ く翌日になった。 十 二 日 は 、 小 野 の 屋 敷 で ﹁ 寄 会 ﹂ し 、﹁ 年 中 地 普 請 帳 ・ 所 々 番 所 帳・諸手立会帳 ﹂ などの ﹁ 帳面之閉 ﹂︵帳面綴じ︶をおこな い ︶41 ︵ 、﹁ 今日 雑用仲満一統持也 ﹂ と ﹁ 寄会 ﹂ の経費を手代衆の割勘定としている。 これら新年の儀礼が終わり、普請方業務は動き出す。 勘定寄合 日記の記録者小野惣次は、文化九年の二月十日から五月 まで病気のため普請方業務についていないが、二月三十日には ﹁ 日夏 氏 ニ 而 御 勘 定 寄 会 ﹂ が あ り 、 こ れ に は 出 席 し た 。﹁ 雑 用 八 人 前 持 、 両 割元ヘハ割合不懸 ﹂ とあることから、この時期の手代人数は、当番の ﹁ 割元 ﹂ を合わせ十人であったと考えられる。 御入部の儀礼 藩主が江戸参勤暇を得て入部する際には、御迎えの ため全藩士はそれぞれの持ち場で出迎え、格式に応じた御目見えの儀 礼がおこなわれ た ︶42 ︵ 。例年の藩主入部は五月であるが、文化九年は十二 代井伊直亮が二月五日に家督相続し、六月十八日に初入部した。 こ の 日 、 普 請 方 の 手 代 も 御 迎 え に 出 仕 し た 。 藩 主 は ﹁ 御 乗 馬 ニ 而 外 船 町 よ り 一 文 字 笠 ﹂ を 召 さ れ 、﹁ 御 普 請 奉 行 、 其 次 御 作 事 奉 行 、 其 次 着到奉行、所々御用達、其次御普請手代、夫より北之方へ諸小頭 ﹂ が 御目見えし、切通口御門の枡形からは ﹁ 下座 ﹂ で御迎えし た ︶43 ︵ 。﹁ 仲満 ﹂ ︵ 手 代 衆 ︶ の 次 へ 下 役 の ﹁ 中 御 土 手 役 ﹂ も 出 仕 し て お り 、 そ の 後 、 手 代衆は ﹁ 御家老衆、両奉行 ﹂ へ入部が滞りなく済み ﹁ 恐悦 ﹂ を申し上 げている。彦根藩普請方の組織と機能 六 月 二 十 九 日 に は 、 藩 主 入 部 着 城 後 の 儀 礼 と し て ﹁ 殿 様 御 城 中 御 廻 ﹂︵巡覧︶のため、五ツ時に御供揃での巡覧を普請奉行が ﹁ 御案内 ﹂、 作事奉行が同道し、普請方手代も二人同道した。普請・作事の両役奉 行は櫓下で平伏、普請方手代の川嶋・小野は御宝蔵の後方で下座平伏 して迎えている。この日の巡覧は天秤御櫓まで上ったところ俄雨で中 断 し た が 、 晴 れ 間 を み て 残 り の 分 を 巡 覧 、﹁ 廿 間 御 櫓 ﹂ か ら ﹁ 着 見 御 櫓 ﹂ の二階へ上り、それから ﹁ 御天守・太鼓櫓御矢櫓 ﹂ へ進み、西之 丸 で は 足 軽 六 ・ 七 人 に ﹁ 物 具 ﹂︵ 武 装 ︶ さ せ て 上 覧 が あ り 、 七 ツ 時 分 に御城中を下った。雨天で巡覧できなかった残り分は、七月二日にお こ な わ れ 、 鐘 之 丸 で は 、 ま た 足 軽 二 十 人 程 に 鎧 わ せ て 、﹁ 早 ︵はやごう︶ 合 ﹂ に よ る弾丸の装填作法の上覧があった。また、御籏櫓では ﹁ 御纏 ﹂︵旗印︶ を ﹁ 旗指 ﹂ に負わせて上覧があったという。 五 節 句 儀 礼 文 化 十 三 年 ︵ 一 八 一 六 ︶ 三 月 三 日 に は 、﹁ 先 月 廿 八 日 ニ、当御前様御逝去之御触有之候ニ付、当節句なし、但し為御悔、御 用 番 并 奉 行 所 罷 出 ル ﹂ と 、 通 例 の 節 句 が 御 前 様 の 逝 去 に よ り お こ な わ れず、御用番家老・普請奉行に御悔やみに参上したとする。日記では、 五節句の記事は ﹁ 節句例之通 ﹂ とのみ記され詳細な記事は見られず、 休 日 と な る こ と が 多 い が 、 文 化 十 二 年 九 月 九 日 の 重 陽 で は 、﹁ 嶋 へ 帰 ル、其節岡林・向坂へ立寄 ﹂ と記され、節句当日、奥ノ嶋へ ﹁ 石鑿御 用 ﹂ の た め 石 の 切 り 出 し に 赴 い て い る な ど 、 節 句 日 と い え ど も ﹁ 御 用 ﹂ が優先される様子が窺える。 土用虫干し 例年、夏の土用入りの時期には、城中の櫓に保管され ている具足・武具等の虫干しがおこなわれた。文化九年︵一八一二︶ の例では、六月十二日から始まり、六月二十九日まで実施されたが、 その間、普請方手代二人が ﹁ 虫干御用 ﹂ として見廻りをおこなってい る。 御足軽衆鉄炮御上覧 藩主在国中には、足軽鉄砲衆の砲術御上覧が 定例でおこなわれる。文化九年の例では、十一月十日に城内の御用米 矢場でおこなわれ、普請方手代二名と物書役一名に料紙箱持一人が出 仕した。鉄砲矢場の設営も関係すると考えられるが、物書役・料紙箱 持の出仕は、御上覧の際、各足軽組の砲術披露による中り付け記録の ためと考えられる。 御山御成御供 城下周辺の普請方が管理する藩直営の ﹁ 御山 ﹂ では、 藩主や庶子等が御成の際には、普請方の奉行以下、諸下役が御供をし、 鹿狩りや茸狩りなどの遊興をおこなった。 文 化 九 年 十 月 三 日 に は 、 十 一 代 井 伊 直 中 の 庶 子 ﹁ 鑑 ︵ママ︶ 次 郎 様 ﹂ が 、 ﹁ 古 城 御 山 ﹂︵ 佐 和 山 ︶ へ 御 成 の た め 、﹁ 大 洞 御 廟 前 よ り 御 舟 着 迄 、 御 廟 よ り 御 山 茶 所 迄 ﹂ の 道 筋 の 掃 除 、﹁ 御 山 ﹂ に は ﹁ 飾 手 桶 壱 飾 并 杓 荷 桶 壱 荷 ﹂ を 飾 り 、 大 洞 の 船 着 き の ﹁ 岸 岐 ﹂︵ 雁 木 ︶ の 中 段 鳥 居 脇 に ﹁ 飾手桶壱対 ﹂ を飾り置いた。 ﹁ 新 堂 ︵燈カ︶ 大中小籠丈杖竹へら ﹂ を飾り置き、 その際、 ﹁ 奉行衆 ﹂ は御目見、鳥居脇で ﹁ 仲ま ﹂︵手代衆︶は惣門下に 平伏、その後、この日出仕した普請方の ﹁ 名前人数書 ﹂ を指出し、菓 子・酒・鯣を下されるのが恒例とのことである。 文化十三年正月二十一日には、 ﹁ 両御山 ﹂︵佐和山・里根山︶で鹿狩 りがおこなわれた。両普請奉行と手代 ﹁ 田中・小林・冨田・三宅・木 村 ・ 小 野 ・ 松 居 ﹂ の 七 人 、 場 所 役 の 内 ﹁ 成 宮 理 右 衛 門 ・ 薩 摩 良 右 衛 門・高木和介・横野多介・北川惣九郎・大橋右平太・川嶋八十八・前 河七蔵・中村助次・川村良右衛門・田中孫次 ﹂ の十一人、手梃役の内
﹁ 諏 訪 伝 蔵 ﹂ 一 人 、 ほ か に ﹁ 川 嶋 元 右 衛 門 ﹂ の 依 頼 に よ り ﹁ 人 見 作 次 郎 ﹂、 ま た 旗 指 か ら ﹁ 拾 七 八 人 斗 ﹂、 ﹁ 目 印 持 ﹂ と し て ﹁ 御 役 夫 ﹂ 一 人 が出仕した。これらは奉行から ﹁ 手明之者出勤候様御達 ﹂ があったよ う で あ る 。 た だ し 、 こ の 日 の 鹿 狩 り は 殿 様 や 庶 子 の 御 成 は な く 、﹁ 殿 様御成ニハ例之通罷出候得共、其余ハ今度初也 ﹂ と記す。 また佐和山や里根山などの ﹁ 御山 ﹂ は、家中の日常勤務への慰労の ためか、遊山のため拝借が許されることもあった。文化九年十月十六 日には、 ﹁ 古城御山 ﹂︵佐和山︶は目付衆・内目付が拝借、 ﹁ 里根御山 ﹂ は普請奉行・作事奉行と配下の手代の ﹁ 手明 ﹂ は残らず拝借を許され、 ﹁ 古 城 御 山 ﹂ へ は ﹁ 両 山 ﹂ の 当 番 虎 口 で あ る ﹁ □ □ ・ 冨 田 隆 介 ・ 見 習 木 村 ﹂ が 管 理 担 当 と し て 出 向 い て い る 。﹁ 里 根 御 山 ﹂ へ は 、 普 請 方 の ﹁ 役 所 ﹂ か ら ﹁ 酒 ・ 豆 腐 、 敷 ︵ 打 敷 カ ︶ 内 其 外 諸 色 ﹂ を 持 た せ て 行 き 、 普 請 方 の ﹁ 鉄 物 方 ﹂ は 惣 出 、﹁ 場 所 役 ﹂ は 両 山 へ 壱 人 づ つ 、﹁ 御 役 夫 ﹂ が そ れ ぞ れに二・三人づつ付けられた。 御城中の植栽管理 城中の管理は普請方下役の ﹁ 御城中役 ﹂ が担っ ており、とくに松木の高さや枝振りは注意が払われた。家老木俣源閑 ︵ 守 安 ︶ も 三 代 井 伊 直 澄 に 、 城 郭 の 周 辺 か ら の 見 か け の た め 松 木 の 処 置について意見具申しているほどであ る ︶44 ︵ 。城中には松以外にも多様な 植栽があり、とくに大雪の後などは、雪折れ枝の処理をおこなった。 小野惣次と不破多四郎は、文化十二年十二月二十五日に ﹁ 御城中方へ 雪折見分立会 ﹂ に出かけ、次のように枝・柴処分の ﹁ 出来目立会 ﹂ を おこなっている。 ○水之手土手、百五拾九束、松柴 ○同所ニ 而 、三百〆目、松枝木 ○同所、拾壱束、樫柴 ○山崎腰曲輪ニ有之、百貫目、松枝木 ○右同所ニ有之、三拾束、松柴 ○西之丸ニ有、三拾四束、同柴 ○鐘之丸、八束、同柴 ○大手広場、四拾束、同柴 〆四百貫目、 松枝木 弐百七拾壱束、 松柴 拾壱束、 樫柴 右之通、出来目立会ニ罷出ル、小野・不破多四郎 土 手 方 の 竹 木 管 理 城 下 の 土 居 は ﹁ 土 手 ﹂ と 称 さ れ 、 表 ① の 下 役 名 で 見 ら れ る よ う に 、 中 御 土 手 役 ︵ 中 土 手 廻 り ・ 尾 末 町 土 手 廻 り ︶、 下 御 土 手 役 ︵ 西 ヶ 原 土 手 廻 ・ 中 藪 土 手 廻 ︶、 善 利 川 御 土 手 役 ︵ 上 善 利 川 土手廻・下善利川土手廻︶などが見られる。これらの役割は土居の維 持管理と土居の補強のために植えられた竹や樹木の管理であった。こ れらは毎年定期的に、下草・下柴苅りや竹・笹の間引き苅り、樹木の 剪定・目摘みなどがおこなわれた。各持ち場の担当下役は、土居の植 栽から生じる枝木は藩の普請・作事用材となるほか、民間への払い下 げがおこなわれ、各持ち場担当下役の土手役はこれらの伐採・下刈を 管轄していた。普請方の手代は、さらにこれら作業の ﹁ 立会 ﹂ をおこ ない、数量管理をおこなった。 文 化 十 三 年 の 例 で は 、 二 月 二 十 九 日 、 手 代 小 野 と 北 村 里 右 衛 門 は ﹁ 下 御 土 手 方 ﹂ の ﹁ 立 会 ﹂ を お こ な い 、 次 の よ う に ﹁ 出 来 目 ﹂ を 記 録 し奉行に報告した。
彦根藩普請方の組織と機能 ○七ツ 臼保太、○弐百八拾貫目斗、松役木、○三拾弐束、松葉、 右、松原口ニ 而 出来目、 ○五束 三寸廻り竹、○弐束 屑竹、但し弐拾五本ゆひ、 右、長曽根口ニ 而 出来目、 ○五束 三寸廻り竹、○四束 屑竹、七束 下ノ下竹、五拾本結、 右、中藪口ニ 而 出来目、 ○弐束 三寸廻り竹、○弐束 屑竹、 右、本町口出来目、 惣〆、拾弐束 三寸廻り竹、八束 屑竹、七束 下ノ下竹、 同年六月十八日の例では ﹁ 中御土手方 ﹂ での ﹁ 立会 ﹂ をおこなった。 中御土手方へ立会へ罷出ル、小野・北川十介・羽淵悦右衛門、 ○五把半 笋、切通し口ニ 而 、 ○拾五束 松葉、 ○壱丸 柳柴、 ○拾束 雪折竹、油懸口ニ 而 、 ○拾束 柳根、 ○五丸 柳柴、 ○五束 雪折竹、高宮口ニ 而 、 ○壱丸 柳柴、 ○八束 雪折竹、同所西方ニ 而 、 ○拾五束 松葉、 ○五束 雪折竹 〆三拾束 松葉、七丸 柳柴、拾束 柳根、弐拾七束 雪折竹、 二月には竹の伐採が多いが、夏季には生い茂る柳・松葉が多く、竹 は ﹁ 雪折竹 ﹂ だけである。竹は普請や作業の用材として重要であり、 領内村々の竹は竹年貢として徴収され竹奉行が掌握していたほどだが、 夏季の竹は水分量が多く普請・作事用材には向かないことが普請方に も経験的に理解されている。 こうした土居の管理の記事は頻繁に見られ、各御屋敷での燃料、普 請・建築用材の確保に用いられ、土居の強度維持など、城郭・城下町 維持管理において重要な業務であった。 また樹木の管理は、御用林のある各地の ﹁ 御山 ﹂ でもおこなわれ、 各 ﹁ 御山 ﹂ 担当の普請方下役が現場の指揮をとり、伐採や枝打ち材の 払い下げ処分の際には、普請方手代が ﹁ 立会 ﹂ をおこなった。 諸々御番所見廻り 日記には数ヶ月置きに ﹁ 所々御番所廻り ﹂ の記 事が見られる。文化九年七月五日は見廻り者の記載はないが、同年十 月 三 十 日 は ﹁ 所 々 御 番 所 廻 り 、 田 中 ・ 小 野 ﹂、 文 化 十 二 年 七 月 二 十 日 は ﹁ 所 々 御 番 所 廻 り 、 明 屋 敷 附 り 、 林 田 ・ 小 野 ﹂、 文 化 十 三 年 正 月 二 十 九 日 は ﹁ 所 々 御 番 所 見 廻 ル 、 替 事 無 、 冨 田 ・ 小 野 ﹂、 同 年 二 月 三 十 日は ﹁ 所々御番所見廻ル、替事無、林田・小野 ﹂ とあり、手代二人づ つが担当し、日記の記録者の小野惣次が当番を勤めた記事のみが記さ れていると考えられることから、この時期の手代十人が二人づつの虎 口で、ほぼ毎月見廻りがおこなわれていたものと推測される。 御城中・御林・御山・街道の御見廻り御供 番所の見廻りは手代の み で 勤 め た が 、 普 請 奉 行 は 、 普 請 方 の 管 轄 で あ る 御 城 中 ・ 御 林 ・ 御 山・街道などを、毎年ではないが点検のため巡見した。 城内 ﹁ 有木 ﹂︵植栽樹木カ︶の点検のための ﹁ 御城中御見廻り ﹂ は、 頻度は不明であるが定期的におこなわれており、文化十二年では、八 月十九日と十二月二十四日に手代一∼二人、御城中役の下役一∼二人 が勤めている。 また同年の三月十三日から同十七日の五日間、普請奉行は領内の巡 見 に 出 郷 し 、 柏 原 ・ 守 野 の 御 林 か ら 八 尾 御 山 ・ 川 手 御 山 ・ 桃 之 尾 御 山・退蔵御山を見分した。奉行は駕籠に乗り、 ﹁ 村継人足 ﹂ で見廻り、 手代二人が御供を勤めている。
同年八月二日からは、普請奉行の柏原与兵衛が北 海 ︵ 街 道 ︶ 道 の見分に出郷 した。中山道の大堀村から北への見分であった。やはり駕籠に乗り、 ﹁ 村 継 人 足 ﹂ で 見 廻 り 、 城 下 南 の 中 藪 村 ・ 後 三 条 村 ・ 西 沼 波 村 ・ 東 沼 波村を経て中山道に至り、大堀村・地蔵村、原村では庄屋宅で休足、 それから小野村・鳥居本村、矢倉村で小休、摺針村・元番場村・番場 村・久礼村・門根村・樽水村・樋口村と山道を経て牛打村の庄屋方で 弁当を摂っている。この巡見では手代の小野が御供し、下役の海道方 ︵ 北 海 道 役 ︶ 北 村 友 右 衛 門 、 場 所 役 川 嶋 八 十 八 、 笠 持 一 人 が 従 っ て い る。 こうした普請奉行の巡見は、定期的におこなわれていると考えられ るが、あくまで管轄地である山林・街道の状況を把握するためのもの であり、現場での業務の指揮をとることではない。 小 手 分 道 押 御 上 覧 ﹁ 小 手 分 ﹂ は 文 化 六 年 ︵ 一 八 〇 九 ︶ に 新 た に 海 防に対応するため、基本的に ﹁ 二十騎一備 ﹂ を単位として二備が年番 を任じられ、嘉永七年︵一八五四︶まで続いた新規編成の機動部隊で あ る ︶45 ︵ 。この新規編成は、幕府が海岸警備を諸藩に命じる状況下にあっ て、海洋に面していない彦根藩が、幕命により、いつどこへでも海防 加勢ができる体制をとるためであった。そのため、実戦に対応すべく 軍事調練をおこない、藩主在国中には定期的に ﹁ 御上覧 ﹂ があり、藩 主在府中にも家老による ﹁ 御代見 ﹂ がおこなわれ た ︶46 ︵ 。文化十三年十月 二十四日の記事では、次のように記される。 一 、十月廿四日、小手分道押御上覧、隊長岡本半介付、吉川九郎太 夫 組 ・ 渥 美 平 八 郎 組 ・ 加 藤 織 人 組 、 脇 内 記 付 、 藤 田 四 郎 右 衛 門 組 ・ 夏 目 外 記 組 ・ 河 北 庄 介 組 也 、 御 ︵ 普 請 奉 行 ︶ 奉 行 衆 柏 原 ・ 犬 塚 、 小 ︵ 手 代 ︶ 野 ・ 深 ︵ 手 代 ︶ 見 九郎右衛門、御城中役村越平十郎・伊藤安右衛門・金子武右 衛門、料紙箱持壱人、御作事奉行、下役共罷出ル 岡 本 半 介 ・ 脇 内 記 の 二 隊 と 各 隊 に 鉄 砲 足 軽 組 三 組 に よ る ﹁ 道 押 ﹂ ︵ 調 練 ︶ が 実 施 さ れ 、 普 請 奉 行 二 人 と 手 代 二 人 、 下 役 の 御 城 中 役 二 人 と料紙箱持一人、作事奉行とその下役が出仕している。 飾松渡御用・暮物・惣御掃除・歳暮祝儀廻り 毎年十二月には年末 の恒例行事がおこなわれる。十三日には例年、大手御門の枡形におい て 、﹁ 所 々 飾 松 渡 シ 御 用 ﹂ に 手 代 三 人 、 場 所 役 一 人 が 出 仕 し 、 二 十 六 日頃には、勤務振りに応じて、 ﹁ 於御役所弐拾五匁頂戴 ﹂﹁ 此三年無滞 相 勤 候 ニ 付 、 壱 人 扶 持 頂 戴 ﹂﹁ 先 例 之 通 、 於 御 役 所 金 子 弐 百 疋 頂 戴 ﹂ な ど と 、﹁ 暮 物 ﹂ と い う 年 末 褒 賞 や 加 増 が お こ な わ れ た 。 十 二 月 二 十 八日は、 ﹁ 御城中 ﹂ と ﹁ 外輪 ﹂︵外曲輪︶の ﹁ 御吉例惣御掃除 ﹂ があり、 早番の手代は朝七ツ時に出勤、場所役が ﹁ 場所割 ﹂ をおこない家中役 の ﹁ 御 役 夫 割 ﹂ を 取 り 決 め 、 そ の 他 の 手 代 は 朝 六 ツ 時 か ら 出 勤 し 、 所 々 場 所 見 廻 り を お こ な っ て い る 。﹁ 惣 御 掃 除 ﹂ が 終 わ る と 両 奉 行 ・ 親類中へ 歳暮祝儀廻りをおこない、一年の業務を終える。 第二節 臨時の儀礼・出動 法 事 ・ 葬 儀 毎 年 の 定 日 で は な い が 、 歴 代 藩 主 や 井 伊 家 家 族 の 忌 日 には回忌・遠忌の法事が営まれる。文化十二年︵一八一五︶二月十八 日から二十日までの井伊家廟所清凉寺で三日間施行された ﹁ 大 ︵ 十 代 井 伊 直 幸 ︶ 魏院様 廿七回御忌御法事 ﹂ では、十八日夕方に手代の小野と猿ヶ瀬御土手役 の 古 川 伴 右 衛 門 が 夜 間 警 備 の た め 出 勤 し 、﹁ 奉 行 衆 も 御 出 勤 ﹂ で あ っ た。