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1970年代過疎地域における地方自治体の対策と地域づくり : 長野県下伊那郡2か村の比較を通じて

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Academic year: 2021

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(1)1970 年代過疎地域における地方自治体の 対策と地域づくり ──長野県下伊那郡 2 か村の比較を通じて── 蘇 曼. はじめに. また,以上のように地域社会の変動により学 問の拡張や再編が余儀なくされたが,そのよう. 本稿の目的は長野県下伊那地域の阿智村と南. な地域社会の変動よりもさらに激しくあらわれ. 信濃村における,1970 年代の過疎の実態や過. てきたのは過疎問題である.これに対応する過. 疎対策,住民側の対応を含めた地域づくりの方. 疎研究は地域社会の研究と無関係ではないが地. 法を明らかにすることである.つまり農村地域. 域研究のなかでも農村地域の研究に属する上,. を対象とする地域研究である.日本の高度成長. さらに一般農村地域とも区別される条件が多. 期,その急速な経済成長を遂げる過程で,重化. い.本稿の課題は,農村地域のなかでも,もっ. 学工業化 や 都市化 が 進 み,地域開発政策 の 下. とも深刻な過疎問題に直面した農村地域の地域. で,地域社会に急激で巨大な変化をもたらし. づくりの取り組みを明らかにすることである.. た.1970 年代 か ら 日本経済 は 低成長 に 入った が,地域社会に生じた種々の弊害が逆にあらわ. Ⅰ 先行研究. になってくる.そのような地域社会の急激な変. 「はじめに」で述べたように,まずは 1970 年. 化に対応すべく,地域住民は自らの生活を守り. 代 の 地域社会研究 に 関 す る 研究史 の 地域経済. 権利を獲得するため,一部の地域において住民. 学,地域社会学,社会福祉学,社会教育学 の 4. 運動が展開された.しかし,過疎地域のような. つの分野から代表的な研究を取り上げたい.. 人口流出が激しい地域において,地域社会が衰 退し,地域産業も住民運動も後退ないし,容易. 1.1970 年代地域研究の拡張. に前進できない事例が多い.. ⑴ まず,1970 年代経済学の分野で政府の地域. 一方,このような地域社会自体の急激な変化. 開発政策を巡る二つの代表的な議論を挙げた. や住民運動に対して,学問への新たな問題提起. い.一つは経済学者であり,1970 年代に経済. が必要となり,1970 年代の地域問題をめぐっ. 審議会専門委員,工業立地及び工業用水審議会. て,特に経済学と社会学の 2 つの分野で学問の. 委員なども務めていた伊藤善市氏の中間都市論. 拡張が集中している.本稿は,1970 年代にお. である.その内容は,「①下請け関連産業など. けるこのような学問の再編過程を地域経済学,. 多様性をもった工業生産部門の集積,②広域に. 地域社会学,社会福祉学,社会教育学,の 4 つ. わたる交通・通信網などの結節的中核施設の集. の側面からとらえ,全体として把握したい.. 積,③流通,信用,行政,政治,文化,金融,.

(2) 124 (404). 横浜国際社会科学研究 第 19 巻第 4・5 号(2015 年 1 月). 技術など諸機能の集積に大別される」1)として. 行政枠(地方自治体)は,それ自身,国家機構. おり,地方中間都市の外部経済の集積を期待す. と癒着した独占資本の国民収奪の地域政治機構. るものである.この中間都市論は全国総合開発. として,またそうした階級的矛盾を止揚する地. 方式(全総)の拠点開発方式と同様に工業誘致. 域住民の手による地域民主主義を確立する社会. とその波及効果で地域の発展を図るという理論. 的自治機構として,それは現実的に極めて大き. である. もう一つはこの理論とまったく違って,. な機能を果たすという地方自治体が持つ二つ. 地方自治の視点から中央政府の地域開発を批判. の機能を指摘した4).似田貝香門氏は重化学工. する宮本憲一氏の地域経済論である.宮本氏は. 業資本 に よ る「全般的都市化」が 普遍的傾向. 戦後日本資本主義の政治経済構造に社会資本を. として現れ,この都市化は既存都市と農村都. 2). 相対的に不足させる要因を内包している ,重. 市化の二重に進行していることを明らかにし. 化学工業を拠点産業としてその波及効果で最終. た.このように地域社会が解体されていくな. 的に住民福祉の向上を実現するのではなく,公. か,地域 の 発展=再編成,地域再編成=形成. 害問題を引き起こすと鋭く指摘した.1970 年. するためには自然発生的な住民の協同組織化. 代は列島改造政策による公害問題が発生するで. を,自覚的・合理的 か つ,自己管理的 な 過程. あろうと予測し,そのために必要な政治経済制. へと変動させていく必要がある.また,公権. 度として:⑴ 資本形成や土地所有を計画的に. 力への住民の参加のための社会的基盤づくり. 行い,生活様式を合理化しうるような経済制度. が 必要 で あ る.そ し て,住民諸階層 の 具体的. の 確立 ⑵ 民主主義特 に 地方自治 の 確立 ⑶ 環. 要求をどのように定義し,計画化していくか,. 境基準と公害防止計画の改定 ⑷ 現行法の範囲. を真剣に要求し,問う政策が地方自治体の課. 内で,地方条例のなかで工場立地規制を強化す. 題であると指摘した5).. る ⑸ 工場立地の決定権に住民参加方式の導入3),. ⑶ 以上は 1970 年代地域研究における経済学と. を提言している.. 社会学,2 つの分野での方向の転換や研究方法. ⑵ 激変する地域社会に関する研究は,経済学. であるが,次に 1970 年代の地域研究に不可欠. だけではなく,社会学の分野でも 1970 年代に. なアプローチである社会福祉論と教育論,この. 入ると活発になっていた.布施鉄治氏は,従来. 2 つの分野での地域問題研究を取り上げたい.. 地域社会についての研究は,農村社会学と都市. まず,社会福祉論の分野では一番ヶ瀬康子氏の. 社会学の 2 つの分化によって行われてきたが,. 研究が挙げられる.高度経済成長下において,. 1955 年以降の地域社会理論は行政枠を超えて,. 国民の消費水準が高まったが,階層間の格差は. 現実の資本主義的生産様式の高度化にともなっ. 拡大し,低所得層の問題が生じ,国民生活にお. て現に惹起している都市―村落を含めた地域. いては,社会福祉に対する権利意識が強調され,. 社会の構造変化の論理を取り押さえるなかで,. 各種組織運動が展開された.さらに 60 年安保. 地域住民の生活の実像にアプローチしようとす. で国民運動が盛り上がり,生活困窮者だけでは. る志向性をもつ社会学研究の変化を確認した.. なく,環境改善政策として,家庭や地域社会の. . . 1)伊藤善市著『地域開発 と 国民福祉─日本列 島の未来像』日本労働協会,1972 年,p. 182. 2)宮本憲一著『社会資本論』有斐閣,1976 年, p. 312. 3)宮本憲一「地域開発 と 公害」高橋裕[ほ か] 著『岩波講座 現代都市政策Ⅵ 都市と公害・災害』 岩波書店 1975 年,pp. 183─187.. 4)布施鉄治「現代における地域社会変動の構造」 蓮見音彦,倉沢進,奥田道大,平野秀秋,吉田裕, 石川晃弘編集『社会学セミナー 2 地域・産業』有斐 閣 1972 年,pp. 139─150. 5) 似田貝香門「地域社会の形成と主体」蓮見音彦・ 山本栄治・似田貝香門著『地域形成の論理』学陽書房, 1981 年,pp. 23─24..

(3) 1970 年代過疎地域における地方自治体の対策と地域づくり(蘇曼). (405) 125. 問題にも目が向けられ,経済扶助的な社会福祉. ら,単なる教育権の権利論ではなく,教育要求. から社会的処置,方策としての社会福祉へその. の客観性が広く認められ,地域教育運動が公共. 6). 焦点が向けられた .社会福祉分野はその実現. 的性格をもつための最低の条件として:①父母. の方法,手段からして地域性が不可欠であり,. 住民の教育要求が社会化されていくこと.②教. 地方自治体によって具体化される. そのことは,. 職員集団と協力して父母住民が “教育とは何か”. 人々の生活が地域で家庭を軸として展開されて. を共同思考し,教育的価値のあり方を共有する. いることに対応している.しかし,社会福祉行. こと.③地域教育運動内部において,教育要求. 政には以下のような課題も残される:①住民の. がもろもろの生活上の諸要求と関連していくこ. 生活を社会的に保障する総合システムの確立②. と,と 指摘 す る.そ し て,1970 年代地域教育. それに基づく住民のための施設と行政の基準指. 運動は,単なる教育政策批判から一歩進みでて,. 標の設定とレベルアップ③そうした改革を実現. 地域教育計画を展望し,射程のうちにおさめつ. するための「下から」の参加としての住民自治. つあると評価した9).. 7). の推進である と一番ヶ瀬氏が論じている.. 以上,先行研究整理 ⑴,⑵ は 経済学,社会. ⑷ 1970 年代 の 地域 に お け る 社会教育 の 領域. 学 2 つの分野の研究において,地域社会の激変. で,小林文人氏 の 研究 を 挙 げ た い.小林氏 は. に対応すべく研究方法の転換を示したものであ. 1970 年代社会教育の動向は,明らかにそれま. る.地域開発によって続出する地域問題は,従. でとは違った新しい段階としての特徴をもって. 来の市場を対象にする経済学から地域を対象に. い る と し,特 に「社会教育実践 の 飛躍的 な 発. す る 経済学 に 転換 さ せ,さ ら に 住民自治,地. 展」に注目していた.その飛躍的発展の先駆と. 方自治の理論をもちいり議論しなければ対処で. して必ず 60 年代激動期の苦悩にみちた社会教. きなくなった.社会学の分野では農村社会,都. 育実践の模索があり実験があったが,もっとも. 市社会というより地域住民の生活の実像に即し. 重要な条件は実践を担う主体の形成やそれ自体. て,住民と自治体の役割や機能に注目しなけれ. の発展:つまり一つには社会教育職員の専門的. ばならないと研究の拡張と対象の変化がみられ. 力量と集団的形成の向上拡大,もう一つには社. る.1970 年代の地域問題に対するこのような. 会教育にかかわる主権者としての住民の権利意. 学問の対応の一方で,地域の住民運動もそれま. 識と運動的力量の深化発展がみられると指摘し. でと違って新しい展開を見せた.地域住民の生. た.この両者の成長によって,かつて自治体が. 活問題,環境問題といった身近な,そして切実. 行政的に組織する公的社会教育と矛盾し,ある. な問題から権利意識が強調され,生活福祉の要. いは敵対する場合も少なくなかったが,70 年. 求が高まった.同時に生活との関連で学校教育,. 代においてようやく両者は歩みより結合しあう. 社会教育を含めた地域の教育問題も教育権から. 実践を生みだしつつあると評価した8).藤岡貞. 出発し,特に社会教育の面において自治体(社. 彦氏は学校教育も含めた地域教育運動の視点か. 会教育職員)と住民の新しい運動の姿勢で地域. . 6)一番ヶ瀬康子「日本社会福祉 の 歴史的特質」 一番ヶ瀬康子・真田是編『社会福祉論〔新版〕』有 斐閣,1975 年,pp. 143─144. 7)一番ヶ瀬康子「日本 の 社会福祉 と 自治体」 一番ヶ瀬康子・真田是編『社会福祉論〔新版〕』有 斐閣,1975 年,pp. 255─275. 8)小林文人「社会教育における地域の思想」矢 野峻・岩永久次編『現代社会における地域と教育』 , 東洋館出版社,1981 年,pp. 185─190.. 教育運動が展開されていった. 2.1970 年代の過疎研究の方法 1970 年代過疎研究 に お い て も 前掲地域研究 . 9)藤岡貞彦「教育要求 と 教育 の 計画化」五十 嵐顕・矢川徳光編『講座 日本の教育 1 教育とは なにか』新日本出版社,1976 年,pp. 289─293..

(4) 126 (406). 横浜国際社会科学研究 第 19 巻第 4・5 号(2015 年 1 月). のように,工業化や農業近代化を優先する研究. ない人間で非常に高い価値を生産し,他の産. とこれとまったく違って,過疎地域の問題解決. 業を上回る企業的農業に移行すべきと主張し,. という視点から農林業や地場産業を重視する視. 過密問題や過疎問題は農業や農家の減少に続. 点からの研究があった.さらに,過疎法が推進. いて都市の社会淘汰がはじまり,生じる結果. する対策の効果や問題点に関しての研究や過疎. であると伊藤善一氏が説明している12).このよ. 地域の直面している具体的な問題への対応法に. う な 伊藤氏 や 並木氏 の 見解 か ら 高度成長期以. 関する研究も数多くある.このような過疎研究. 来,経済成長,工業化優先,農業近代化 の 思. の基本的視点の違いや多面性によって,以下 4. 想が 1970 年代にも根強かったことがわかる.. つの方面から整理をする.. しかし,このような考え方と同時代でありな. ⑴ 「中央 エ コ ノ ミ ス ト」 の 過疎認識 と し て ま. が ら,拠点開発 で は な く,農村地域 の 社会基. ず,農業総合研究所所長を務めていた並木正吉. 盤の開発,工場誘致に頼る産業発展ではなく,. 氏の見解を挙げたい.並木氏は,人口流出は農. 農,林業に重点を置いた過疎対策をとるべきと. 村の過剰人口問題解決に好ましいと考え,人口. い う 見解 が 存在 し た.農村社会 を 研究対象 と. 流出による農業経営の規模拡大,自立経営農家. した安達生恒氏の研究がそれである.安達氏. の増加に期待を寄せ,農村の零細農家の跡取り. は過疎とは単なる人口問題ではなく,自然と. 新規労働力の離村,さらに家ぐるみの離村は歴. 土地とそれらを前提とする産業問題でもある. 史的な必然性を持っていると予言した10).その. と認識していた.そして宮本憲一氏が「それ. 理由としては:①農家の家本位から個人本位に. ぞれの地域で貧困を中心にして,どのような. なったことが流出を促進する.②(特に)跡取. 社会問題が発生しているかを分析する」13)とい. りの離村問題は規模拡大につながる.しかし,. う 地域問題認識 と 同様 に,安達氏 も 過疎 の 問. 70 年代に入り農村からの人口流出は進んだが,. 題解決という立場からの過疎対策を考えてい. 農業経営の規模拡大や自立農家の増加は進まな. た. 過疎地の産業的特性は農林業にあり,そ. かった.このような農村と農業の現実に対し並. の振興は複合経営による特産形成のシステム. 木氏は,一般にいわれている農業人口の老齢. をつくることにある.そのための基礎的条件. 化,婦人化は専業農家や第一種兼業農家に当て. は,平地農村に比べはるかに低い公共投資の. はまるが,圧倒的に数が多い第二種兼業農家に. 是正と,自治に根ざした町村振興体制が不可. 当てはまらないとし,網羅した農業人口が予想. 欠である14).国からの適正な援助が必要であ. した形で減らなかったため,農地の流動と農家. るが,援助に頼るだけではなく,地域の自立,. や農業経営の再編成が起きない.さらに一切農. 自力更生 の 計画 が 必要 で あ る.過疎市町村自. 業をやらない農家の跡取りが 20 代中心に広が. 体のきめ細かな対策や,住民の自立と連帯を促. りつつあることに注目し「今後 10 年~ 20 年の. すソフトウェア対策のあるなしが大きな関係を. 間」には現在農離れの若い世代は再び農業に戻 らず,その時に農地の流動が本格化すると期待 していた11). ⑵ 日本農業は伝統的なやり方から脱して,少 . 10)並木正吉 『農村は変わる』岩波新書 1960 年 7 月 18 日,p. 175. 11)並木正吉「これからの農業はどうなるか」 『農 林水産技術研究ジャーナル』1 巻 1─2 号,農林水産 技術情報協会,1978 年 2 月,pp. 12─26.. . 12)伊藤善市著『地域開発 と 国民福祉─日本列 島の未来像』日本労働協会,1972 年,pp. 56─57. 13)宮本憲一編『講座 地域開発 と 自治体 1 大都市とコンビナート・大阪』筑摩書房,1977 年, p. 24. 14)安達生恒「後期過疎対策への提言」 (過疎地 域問題調査会『過疎地域問題調査会報告書』1974 年 3 月.の ち,安達生恒『農業・農民 シ リーズ 安達 生恒著作集 第四巻 過疎地再生の道』第 7 章,日 本経済評論社 1981 年,所収)pp. 209─219..

(5) 1970 年代過疎地域における地方自治体の対策と地域づくり(蘇曼). (407) 127. 持 つ15)と安達氏が力説する.安達氏の研究対. ⑷ 最後 に 過疎地域 の 老人問題,産業問題,教. 象は農村地域であるが,研究方法はすでに農. 育問題を対象にした研究をそれぞれあげたい.. 業経済学,農村社会学 な ど の 分野 を こ え,農. 過疎地域の老人問題に関しては,布施鉄治氏ら. 村地域の問題の所在を究明するための独自の. の共同研究があげられる.この研究は北海道過. 研究方法になっていた.. 疎農村の老人が若い世代の流出により過重な労. ⑶ 安達氏の過疎研究は過疎問題を全面的に把. 働を強いられていることに注目し,農村老人問. 握し取り上げたのに対し,研究者各自の研究分. 題を農家の老人問題のみに局限することができ. 野から過疎問題を取り上げた研究からも学ぶこ. ないと指摘した. 農村老人問題を農家の老人. とが多い.その過疎問題の取り上げ方は高齢者. 問題として,しかも農業「近代化」との関連で. 問題,農林業問題,教育問題,生活問題,家族. とらえられてきたとして,農業からのリタイ. 関係や共同体問題,集落問題や地域開発問題と. ヤーを強いられた老人の「いきがい」論がある.. 実に多面的である.その中からまず,過疎法の. しかしそれ以前に,都市―農村の構造的関連で. 重点施策に関する研究をあげたい. まちづくり,. 農村社会をとらえ,老人の労働―生活過程を「い. 地域共生 を 分野 と す る 社会学者 の 三沢謙一氏. え」の生業及び家族類型との関連でとらえるべ. は,特に過疎地域の集団移転16)に注目している.. きだと論じている18).過疎地域の地場産業の発. 過疎法が「住民福祉の向上と地域格差の是正」. 展に関して下平尾勲氏の研究を挙げたい.下平. を目的とした集落移転策が逆に職業生活,消費. 尾氏は通勤兼業層の高齢化に直面する過疎地域. 生活,地域共同生活のいずれも悪化し,地域住. にとって地場産業がますます重要になってくる. 民の福祉が後退していくことを明らかにした.. ことを指摘し,道路や施設づくりより地域づく. 過疎地域への工業導入に関する研究で佐藤隆雄. りのための知識と制度と人づくりがもっと必要. 氏の研究を挙げたい.佐藤氏は過疎地農村への. だと述べている.そのため,地場産業の創出に. 工業導入17)は零細農家に対しては直接的な影. 関する技術,知識,地域ぐるみの制度や教育,. 響を与えない,むしろ上層農家が強い影響を受. リーダーの育成などに関する情報の提供が最も. けるとしている.それは階層の分解を促進する. 重要であるとしている19).過疎地域の社会教育. 要因になるが, 後継者を農村に引きとどめつつ,. 研究の分野において,高倉嗣昌氏の成人教育計. 兼業によって農業経営を継続させる一面も持っ. 画 の 研究20)を 挙 げ た い.過疎問題 は 地域問題. ていると指摘した.. である以上,過疎地域の成人教育は地域問題解. . 15)安達生恒「過疎地域振興のためのソフトウェ ア 12 章」 (過疎地域問題調査会『過疎対策 の 実施 に伴う成果の総合的分析及び今後の方策に関する 調 査 研 究』1980 年 3 月.の ち,安 達 生 恒『農 業・ 農民 シ リーズ 安達生恒著作集 第四巻 過疎地 再生の道』第 9 章,日本経済評論社 1981 年,所収) p. 352. 16)三沢謙一「過疎地における集団移転─移転 が も た ら し た も の」『評論・社会科学』⑻ 同志社 大学人文学会,1974 年 7 月,pp. 121─155. 17)佐藤隆雄「過疎農村における工業導入の農 家及び農業構造に及ぼす影響に関する調査研究: 兵庫県城東町におけるケーススタディ(都市計画)」 『日本建築学会近畿支部研究報告集.計画系』15, 1975 年 6 月,一般社団法人日本建築学会.. 決を目標とする成人教育「最有力な分野」であ ると高倉氏が述べている.そして,地域問題解 . 18)布施鉄治,岩城完之,小林甫「北海道過疎 農村 に お け る 老人 の 労働─生活家庭 と 社会関係: 北海道南十勝T町の実態調査にもとづく実証的研 究」『日本教育社会学大会発表要旨収録』28,日本 教育社会学会,1976 年 9 月,pp. 105─107. 19)下平尾勲「過疎地域の進行と地場産業」 『東 北経済』76,福島大学東北経済研究所,1984 年 3 月,pp. 1─32. 20)高倉嗣昌「 「過疎地域」に お け る 成人教育 計画の研究:北海道における若干のスケッチ」 『北 海道大学教育学部紀要』21 巻,北海道大学教育学 部,1973 年 3 月,pp. 39─56..

(6) 128 (408). 横浜国際社会科学研究 第 19 巻第 4・5 号(2015 年 1 月). 決を目指す成人教育に不可欠なのは,①文化団 体の連携を強め,少なくとも生活教育的な要素. Ⅱ 本稿の課題と方法. を組み込む方法の探求,②高齢者を老人福祉の. 先行研究の最初に取り上げた学問の拡張にお. 枠内ではなくより教育的側面での探求,③中心. いて,経済学と社会学両分野からの地域社会研. 施設の充実化により,各部落代表研修的な機会. 究に注目した.学問分野が違うが,住民自治や. が増えているが,そうした間接的な教育機能の. 地方自治を強調する点では共通性がある.実際,. 実際的な効果をもっと見極めること,と指摘し. 中央政府の地域開発によって生じた地域社会の. ている.. 諸問題を解決するにはその政策を批判的にとら. 過疎問題に関する以上の先行研究を小括した. え自分の生活する地域の問題を自分たちの力で. い. 農業近代化,規模拡大 で 農村地域 の 発展. 認識し,克服するという地域住民や自治体の実. をはかろうとする中央エコノミストの考え方と. 践がすでに一部の地域で展開されていた.また. 反対に安達氏の過疎対策論は,自治,自立を不. そのような実践が展開されていなかった地域に. 可欠とする,農林業を基本に置いた産業発展を. おいても「主体形成」 「地域づくり」 「自治」な. はかることである.また安達氏の過疎問題の分. どのことばが使われており,運動の中身の是非. 析は,過疎地域の生態,自然,土地,生活,老. を別にして各種住民組織も形成されていた.地. 人社会化などきめ細かに過疎地域に生じている. 域住民には「主体形成」の必要性,地方自治体. 問題をとらえようとしたところに分析方法の特. には住民参加をとりいれた施策の必要性が強調. 徴がある.⑶ の研究は過疎地域で地域対策と. されるようになった.1970 年代に生じた変化は. して多く実施された集団移転と工場誘致に関す. 以上のような意識面での変化だけではなく,そ. る研究であり,過疎地域の問題解決には,過疎. れ以上に生活の変化が著しいものであった.逆. 法の政策では解決できないことを論証してい. にいえば,急激な生活面での変化が生じるがゆ. る.⑷ は 過疎地域 の 老人問題,産業問題,社. えに地域住民の権利意識が強くなっていった.. 会教育問題についての研究である.布施氏らの. 地域住民が直面する多様な問題を一言で言う. 過疎地域における老人問題研究は前掲地域研究. と都市化によって生じる問題である.都市化に. の拡張 ⑵ と対応しており,地域問題全体の把. よる生活の変化をとらえる際に都市―農村を含. 握にも,地域内部の個別問題に関しても都市─. めた視点が必要だが,本稿の対象は過疎地域で. 農村の視点が不可欠であり,老人問題はさらに. あるため,都市住民の環境問題,過密問題など. 労働─生活過程の視点からとらえるべきことを. は今後の研究課題にする.本稿の課題を以下の. 示唆した. 下平尾氏や高倉氏の研究はそれぞれ,. 3 つに設定する.まず,2 つの過疎村それぞれ. 地域に視点をおいた地場産業の創出と成人教育. の過疎の実態を明らかにして,工場誘致と集落. を対象にしている.一口で過疎地域といっても. 移転政策の効果と反省すべき点を検討する.2. それぞれの地域には特徴があり,過疎問題も一. つ目の課題は地方自治体の施策や過疎の実態を. 様ではない.しかし問題解決の基本的立場とし. 通じて,自治体の機能と住民主体形成の位置づ. ては地場産業の創出と社会教育の視点は欠かせ. けに関して検討する.3 つ目は 1970 年代過疎. ないであろう.特に高倉氏が高齢者を老人福祉. 地域における地域づくりのあり方に関して,筆. の枠内ではなく,より教育的側面で探求すべき. 者の視点を明瞭にする.. という指摘は高齢化していく過疎地域にとって. 中央政府の地域政策と地方自治体の対応,住. 重要な視点である.本稿は以上の過疎研究の視. 民の対応によって政策の受容形態を意識し,3. 点を取り入れて下伊那地域の両村の過疎問題の. つの課題に対して,具体的に以下のような分析. 所在を究明したい.. 方法をとる.まず,役場資料,県統計書,公民.

(7) 1970 年代過疎地域における地方自治体の対策と地域づくり(蘇曼). (409) 129. 表 1 下伊那地域 1970~1980 年人口,産業,財政状況 項目,年. 人口(人). 経営耕地面積 (ha) 林地面積(ha). 建設・製造業就業者数 1969. 地域別. 1970. 1980. 1970. 1980. 1970. 歳入・歳出決算額(千円). 1980. 1971. 建設業 製造業 建設業 製造業 8192. 1980. 1980. 7061 142047 142295. 歳入. 歳出. 歳入. 歳出. 下伊那郡. 99725 100947. 4543. 8680. 6327. 13571. 7,916,108. 7,778,176. 29,476,080. 28,691,570. 鼎町. 11844. 13175. 297. 225. 46. 38. 565. 2800. 741. 2368. 488,471. 464,955. 2,404,459. 2,339,324. 松川町. 12411. 13108. 1296. 1181. 4813. 4839. 442. 900. 623. 1746. 634,718. 619,097. 2,579,509. 2,517,397. 高森町. 9885. 11488. 1133. 1061. 2689. 2577. 226. 1079. 499. 1491. 615,288. 608,436. 3,012,125. 2,906,701. 阿南町. 8261. 7290. 826. 678. 10589. 10402. 230. 284. 443. 891. 794,431. 790,002. 2,569,928. 2,507,086. 上郷町. 10137. 13333. 431. 381. 1813. 1792. 372. 952. 671. 1740. 597,058. 590,129. 2,541,331. 2,472,619. 清内路村. 1017. 946. 78. 49. 4155. 4229. 9. 7. 66. 246. 165,055. 160,085. 629,597. 615,428. 阿智村. 6466. 6064. 603. 484. 9671. 9670. 256. 459. 369. 1066. 464,719. 460,216. 2,025,127. 1,975,646. 浪合村. 846. 808. 96. 33. 5262. 5429. 23. 39. 68. 85. 272,851. 268,198. 578,284. 563,067. 平谷村. 679. 657. 58. 32. 7376. 7568. -. 56. 45. 87. 162,731. 158,707. 522,433. 508,199. 根羽村. 2121. 1773. 188. 148. 8491. 8291. 137. 95. 142. 237. 353,380. 338,426. 1,088,985. 1,045,286. 下条村. 4057. 4078. 537. 500. 2738. 2686. 79. 217. 290. 389. 264,858. 256,179. 1,059,963. 1,011,467. 売木村. 1024. 828. 158. 120. 4118. 4031. 16. 23. 23. 94. 274,916. 270,490. 662,892. 643,561. 天竜村. 4222. 3389. 159. 120. 10062. 10191. 377. 169. 378. 354. 438,701. 428,725. 1,203,649. 1,153,365. 泰阜村. 3189. 2613. 352. 254. 5799. 5734. 284. 141. 193. 297. 311,539. 313,574. 1,228,817. 1,200,942. 喬木村. 7389. 7224. 679. 606. 5247. 5315. 245. 600. 486. 920. 433,309. 410,147. 1,689,893. 1,633,950. 豊丘村. 7600. 7409. 732. 738. 6184. 6144. 777. 578. 507. 920. 596,935. 581,566. 2,182,587. 2,147,203. 大鹿村. 3030. 2322. 297. 226. 21780. 22320. 210. 26. 305. 148. 396,219. 419,940. 1,277,787. 1,250,903. 上村. 1355. 1164. 81. 74. 11845. 11884. 58. 25. 132. 87. 235,539. 230,955. 906,467. 894,682. 4192. 3278. 190. 151. 19369. 19155. 237. 230. 346. 405. 415,390. 408,349. 1,312,247. 1,304,744. 南信濃村. 出典:‌長野県総務部統計課編『昭和 46 年 長野県統計書』1973 年,長野県総務部情報統計課社会生活統計班『昭和 55 年 長野 県統計書』1982 年 .. 館報などを使い,2 つの村の過疎にいたった原. 誘致に関して,その効果と問題点に注目する.. 因も含めて過疎の実態を明らかにする.次に議. さらに,地域住民において生活問題からどのよ. 会資料,公民館報を用いて,過疎法の対策方針. うな意識の変化や行政への要求が生じたのか,. に即した地方自治体の施策と住民組織の力の発. それぞれの村の住民主体形成のあり方と地域づ. 揮はどのような形態だったのかを分析する.つ. くりの関係を分析する.. まり自治体の施策のなかに住民参加はどのよう に取り入れられたのか,あるいは取り入れてい. Ⅲ 下伊那地域の概況. ないかの問題であり,特に多くの過疎自治体に. 1.1970 年代下伊那地域人口と産業の概況. とって過疎対策の骨子であった集団移転と工場. 下伊那地域各町村の 1970 年から 1980 年まで.

(8) 横浜国際社会科学研究 第 19 巻第 4・5 号(2015 年 1 月). 130 (410). 表 2 1971~1980 年阿智村,南信濃村製造業の状況 年,地域別 1971 年 1974 年. 1980 年. 製造業事業所数. 区別. 1~19 人. 20 人以上. 製造業従事者数. 製造業粗付加価値額 (万円). 阿智村. 12. 5. 519. 107,315. 南信濃村. 24. 1. 222. 22,620. 阿智村. 21. 8. . 40,449. 317. 59,791. 927. 664,145. 376. 65,002. 南信濃村 阿智村 南信濃村. 17. 3. 1~29 人. 30 人以上. 35. 6. 17. 3. 出典:‌長野県総務部統計課編『昭和 46 年 長野県統計書』1973 年,長野県総務部情報統計課編『昭和 49 年 長野県統計書』 1976 年,長野県総務部情報統計課社会生活統計班編『昭和 55 年 長野県統計書』1982 年.. の概況を過疎化に関連する要素を中心に,つま. みると,南信濃村は人口減少 500 人以上のグルー. り 人口,耕地,林地,建設業・製造業従事者数. プに,阿智村は 500 人未満のグループに属する.. の変化,歳入歳出状況を表 1 にまとめた.まず,. もとの人口規模が阿智村の方がはるかに多いと. 人口の変動を見てみると,1970 年代を通じて下. いうのが事実であるが,後述のように阿智村が. 伊那郡の人口は全体として増加しているが,そ. 工場誘致を行ったのはかなり早い段階(1960 年. れは飯田市の周辺地域のみであり,それ以外の. 代)からであったことが関係していると考えら. 農村地域は減少している.①人口減少 500 人未. れる.表 2 で 1970 年から 1980 年の 2 村の製造. 満の地域は : 清内路村,阿智村,浪合村,平谷村,. 業の推移を見てみると,阿智村はこの 10 年間. 根羽村,売木村,喬木村,上村がある.②人口. で事業所数も従事者数も大幅に増加したことが. 減少 500 人以上の地域は:阿南町,天竜村,泰. 確認できる(付加価値額は下伊那地域では鼎町,. 阜村,大鹿村,南信濃村.人口増加下地域 は:. 松川に次いで第三位になっていた) .経営耕地. 鼎町,松川町,高森町,上郷町,下条村である.. 面積は下伊那全体が減少しているなか(表 1) ,. 次に,経営耕地面積は全体として減少するな. 南信濃より阿智村の減少率がはるかに大きいこ. か, 豊丘村を除くすべての町村も減少している.. とがわかる.林地面積はほとんどの町村が減少. 林地面積は全体としては増加傾向にあるが,そ. しているなか,阿智村の方がわずかに減少して. のうち,実際増加したのは松川町,喬木村,天. いるのに対し,南信濃村は大幅に減少している. 竜村,大鹿村のみで,ほとんどの町村は減少し. ことがわかる.このような経営耕地と林地の推. ている.建設業と製造減の就業者数は全体とし. 移はそれぞれの離村や離農の形態によって決ま. て増加傾向にあるが,製造業の増加が建設業よ. るが本稿では検証せず,今後の課題とする.. り大きい.建設業従業者増加し製造業従業者が. 阿智村と南信濃村のこのようなデータからみ. 減少した地域は鼎町のみである.歳入歳出状況. た特徴に合わせて次のⅣ,Ⅴで過疎対策の実施. の変化は下伊那地域全体として財政規模が拡大. や住民組織の活動などからそれぞれの基盤産業. していることがわかる.. の動向と地域づくりの特徴を検討したい.. 2.1970 年代南信濃村と阿智村の特徴. Ⅳ 南信濃村の過疎対策と地域づくりの取り組み. 両村の特徴をまず 1970 年代人口流出の規模で. 南信濃村の過疎対策と地域づくりのあり方を.

(9) 1970 年代過疎地域における地方自治体の対策と地域づくり(蘇曼). (411) 131. 表 3 南信濃村 1970~1980 年農家人口及び経営状態の変化 区別. 農家人口(内 60 歳以上). 専業農家数. 第一種兼業農家数. 第二種兼業農家数. 1970. 2472 人(576 人). 57 戸(9.8%). 71 戸(12.3%). 469 戸(77.9%). 1975. 2139 人(588 人). 45 戸(8%). 58 戸(10.4%). 454 戸(81.6%). 1980. 1857 人(583 人). 71 戸(13.7%). 42 戸(8.1%). 407 戸(78.2%). 年. 出典:‌南信濃村・南試案 の 村農業振興地域整備促進協議会・南信濃村農業技術者連合協会「南信濃村農業生産振興計画書」 1980 年, 『地域農政推進会議関係綴』1980 年所収,より作成.. 表 4 南信濃村 1970 年代産業別生産額 産業別. 林業. 農業. 1970. 137,000(13%). 110,000(12%). 779,000(76%). 1,026,000. 1975. 124,727(11%). 212,000(21%). 804,000(70%). 1,140,727. 1977. 99,883(5%). 193,232(11%). 1,630,325(85%). 1,923,440. 年. その他. (単位:千円) 合計. 出典:長野県下伊那郡南信濃村『第 2 次林業構造改善事業計画書』1978 年より作成.. 検討するにあたって,まず過疎問題の所在と過. われる」というように主要な作物の変化,高齢. 疎による地域産業の変化を把握する必要があ. 化や機械化,省力化によって労働形態も変化し. る.なぜなら,南信濃村の場合は,基盤産業の. てきたことがわかる.. 変化は結局のところ地域住民の生活や自治体の. 1970 年から 1980 年まで表 1 でわかるように,. 運営に深く影響を与えることになる.それがさ. 南信濃の人口は 900 人以上も減少している.こ. らに自治体の対応と住民の意識の変化につなが. の間の農業経営状況というと,表 3 のように人. ると考えるからである.. 口流出のなか,農家人口全体は減少し,1975 年 の専業農家は 45 戸で全農家の 8% を占めていた. 1.過疎の実態と産業構造の変化. が,1980 年には専業農家は 71 戸となり全農家の. 南信濃村の農業の基本は麦とこんにゃくによ. 13.7% に増加した.しかし第二種兼業農家数は. る二毛作 と い う 畑 の利用体系であった.特に. 依然として多く,表 4 で見てわかるように農林. 「こんにゃく」の減少により桑園に転換する農. 業以外の生産額が 1977 年に 85% を占めている.. 家が増え,そして主に老齢化により養蚕業も又 1974 年になると衰退21)していった.麦の脱穀. 2.自治体の過疎対策と住民の主体形成. 機械化と麦作自体が後退するなか「ユイ」の必. ⑴ 自治体の過疎対策. 要がなくなったが,1968 年の茶振興計画が進. 深刻な過疎を食い止めるために,自治体は交. められ,茶摘という仕事のなかで労力を交換し. 通通信,生活環境,産業など各種政策を実施し. 合う動きが増えた.しかし, 「茶摘の機械化も. た.まず,各種事業への事業費割り当てを見て. 遂次始められており,やがて衰退するものと思. みたい. 『過疎地域振興事業実績書綴』 (1970─. . 21)南信濃村『南信濃村史 遠山』長野県下伊 那郡南信濃村発行,1976 年,pp. 264─286.. 1979 年)によると,その事業費の約半分(1970 年代前半は 46%,後半は 57%)は交通通信体系 の整備に当てた.次に事業費が多いのは生活環.

(10) 132 (412). 横浜国際社会科学研究 第 19 巻第 4・5 号(2015 年 1 月). 資料 1 1976 年 3 月 11 日 南信濃村議会 3 月定例会会議録 6 番議員N:八重河内地区の過疎化は,村の過疎につながらないと考えておられるのか,後に残されたものはどうなるのかこ (ママ) (ママ) (ママ) れは単純な引き算だが例えば 100 軒あって 20 ケン出れば残り 80 ケン,この 80 ケンは色々な負担がかかる.いままで以上に 負担がかかる.これが減員の要因となる.学校友達とも別れ別れになる.この地域の人たちはうきあし立ってくる.しかもこ の計画は農林業を行わない否定的である.八重川内部落の崩壊は南信濃村の崩壊につながらないとは言えない.現状認識につ いて根本的に違うのではないか.樋口に来るものの生活は誰が補償するのかその人たちがただ単にそこにすむということで, ただ便利ということであれば,これは便利の点では,南信濃村より,飯田の方が便利でこれが南信濃村の過疎化につながらな いとは言い切れない. …中略. 村長(片町伊那喜) :集落整備は重要な問題であり,また深刻な問題である.こうすれば,こうなるんだと回答ができないも のであり, やはり時代の推移により,生活様式も変わってきた.これは危険地帯からの動きで,危険地区であり早く移転したい. ぬた平,小嵐の人は 1 日も早く出たいという考えをもっている危険地帯から出るのが直接の動機である.やはり時代の推移か ら生活様式も変わり子供の教育生活のできる地域に出たいということでこうなってきた.水窪に行っても水窪も全体には過疎 だがなかの草木というところは過疎になり町の方は過密になっておる.当村もそのようにならないとも限らない.なぜ過疎に なったのかそれは東海道ベルト地帯に工業地帯ができあそこにいけば生活できるということで 6000 人の人口が 3000 人減って しまいました.これは時代の推移によりやむを得ない.たしかに先祖伝来の地を離れることは残念であるが学校,医療,生活 のことを考えるとやむを得ない.当局としてもこれはやむを得ないと考えて住民の希望にもより樋口に第 1 回の 12 戸の移転 を考えております」 . 出典:南信濃村議会 『南信濃村議会会議録 1976 年』. 境の整備であり,前半は 26%,後半は 15% を. 療や教育の問題上移転は「やむを得ない」と答. 占めた.農林水産業を主とする産業振興に関し. えている.さらに過疎化になった原因は「東海. て は,前半 24%,後半 11% で あ り,他 は 教育. 道ベルト地帯に工業地帯ができ」たからである. や移転事業などに当てた.次にその事業の内容. と指摘し,生活のできないところからより良い. を見てみたい. 同じく『過疎地域振興事業実. 生活環境のあるところに移ることは「やむを得. 績書綴』 (1970─1979 年)によれば,交通通信体. ない」ことと認識していた.. 系は市町村道整備が最も重点に置かれ,次は林. 南信濃村の過疎対策は政府の過疎対策事業に. 道,次は農道と橋梁であった.生活環境整備は. 沿って,村内の道路や施設の整備に重点を置い. 児童や福祉施設,水道やごみ処理施設,公営住. た.しかし,これは単に,政府の政策に従うと. 宅など生活の変化に応じた整備事業が行われ. いうことではなく,生活様式の変化や兼業化の. た.産業振興にあたる事業には,前半は茶,養. 拡大に応じて基本的整備を施していると見るべ. 蚕,ア マ ゴ 養殖,公団造林 な ど の 事業 が 中心. きである.問題の根本には安達氏が指摘するよ. で,後半はかんがい用水路,茶,造林,小梅,. うに過疎地域は平地農村に比べ公共投資の水準. 野菜ハウス,就業施設整備などの事業を実施し. がはるかに低いという要因がある.自治体は限. た.教育に関する事業は,学校の体育施設や校. られた財源からその費用を捻出するのが非常に. 舎補修,教職員住宅小学校プール,公民館建設,. 難しいため,国の補助金に頼りながら自ら整備. 地区集会施設,基幹集落センターの建設などで. を行う必要があった.これがさらに自治体の財. あった.集落移転事業として団地建設し,辺地. 政を圧迫し,他の部門への投資が不充分となる.. 部落の住民を進めた.資料 1 は 1976 年 3 月 11. 産業面での投資は基盤産業である農林業に集中. 日南信濃村議会 3 月議会定例会での住民の移転. しており,茶,梅,野菜,魚の養殖など農業の. に関する答弁である. 議員から移転先での仕事,. 発展を目指しているものの,それを前提にする. 子どもの学校の問題,部落の維持などの質問に. 地場産業の創出はない.製造業 は 存在 し な い. 対し,村長は辺地部落の生活環境の危険性,医. わけではない.村史によれば,村の工業は精.

(11) 1970 年代過疎地域における地方自治体の対策と地域づくり(蘇曼). (413) 133. 資料 2 1972 年 2 月 25 日 南信濃村議会臨時会会議録 「12 番議員 K:ただ今村長さんから発言があり,地財も本年をもって解消でき,明るい村にして村民の希望も入れ完全にやっ てくれました.産業振興も近代化の設備による行き方も着々成功を上げつつある.私個人としては片町村政に対して,敬服す る気持ちでいっぱいであるのがいつわりのないところでございます.今後の産業の振興をするための基盤整備,村道 2 路線の 完成申すまでもなくミネコシ林道は国道につながる重大路線で中京地区とのつながり,また赤石林道も砂防えん堤の増築につ ながる重大な路線であります.これができあがりますと総合開発が考えられ重大な意義をもつ 2 路線であり完成の域にある. 尚過疎対策においては,産地化と工場誘致も緒についたばかりで,今後の行き方によって大きく成果もあります.このような 時私個人の考えですが,村長さんがむち打って出馬することを表明したことにつきましては大きな期待がかけられるかっこた る信念により出馬をしたことについては支持を申し上げます.なお,このことについては,議会の皆様の全会一致の推薦され るよう意見を申し上げます. 議長K:村長の出馬表明に対し,ただ今,K君の推薦の発言がありさらに全会一致で推薦されるよう発言がありましたが,こ れについて会議におけるこうした推薦議決について自治省通達により,このましくないという通達があるので,これを尊重し 村長推薦の件につきましては本会議が終了後ただちに協議会において議題とするので,このことご了承ください」. 出典:南信濃村議会『南信濃村議会会議録 1970~1975 年』. 密工業 が 進出 し 電子部品製造業 の ほ か,製材. まう.資料 2 は 1972 年 2 月 25 日の議会臨時会. 工場,木材 チップ 工場,砂利採取場,コ ン ク. で,村長の片町伊那喜が次期も出馬すると表明. リート製品工場,砥石原料工場,製縫工場など. したことに対して,全会一致で推薦するよう呼. がある .しかし,その規模が極めて零細であ. びかけている場面である.実際 1972 年は無投. り,製材工場と木材チップ工場だけは林業と関. 票当選 で 二選 さ れ た23).1976 年 に も 村議会全. 係するが,他の工場は農林業と全く関係がない. 員協議会で全会一致の推薦,老人クラブ連合会. 上,表 2 で 見 て わ か る よ う に,1980 年時点 で. の推薦を受けた片町伊那喜村長が三選を目指し. こ れ ら の 製造業 の 事業所 20,従業者数 376 人. て出馬するが,無投票に持ち込むことは「村民. 極めて零細規模である.兼業労働力やまだ働け. サービスの公平化,民主化を阻害するもの」で. る老人層を吸収できる規模の誘致企業もなかっ. あるとして,御子柴秀志氏が少年,青年,婦人,. た.1980 年時点でまだ全人口の半数以上が農. 老人各層有志の強力な推薦を受けて出馬を決意. 家人口 と し て 留 まって い る(表 1,表 3)が,. し た.御子柴氏 は 伊那青年会議所 OB,南信濃. 基盤産業である農林業を活かした付加価値を創. 商工会理事,和田商 PTA 役員,南信濃公民館. 出し,その枠内で就業機会の拡大に取り組まな. 役員,東亜通商社長,レストラン渓流社主,レ. いと住民の生活や生産のための現金収入の確保. ストハウスグリーンパーク社主などを勤めてい. も,人口流出を食い止めることもできない.. た24).片町氏の公約は「過疎行政の根幹である. 以上,過疎対策事業から南信濃村過疎の要因. 国道 152 号線の早期改良促進.遠山川総合開発. は,政府の公共投資の低さを補うかたちでの道. により農林業,観光面のテコ入れ.農林特産物. 路,施設整備事業と,地場産業の不在であるこ. の育成と誘致工場の強化など産業振興,村人口. とを明らかにした.しかし,自治体の機能とし. の二割を占める老人福祉の強化」.これに対し. てもっとも問題視すべきことはその地域の住民. 御子柴氏 の 公約 は「高齢化,マ ン ネ リ 化 し た. 22). の意見ではないか.資料 1 のように,民意を無 視した移転事業は逆に過疎化を深刻化させてし . 22)南信濃村『南信濃村史 遠山』長野県下伊 那郡南信濃村発行,1976 年,p. 320.. . 23) 「南信濃村長 に 片町氏三選 御子柴氏 の 戦 前も及ばず」 『南信州新聞』1976 年 4 月 27 日. 24) 「南信濃村長選一騎打ち確実 御子柴氏,片 町村政に対決」 『南信州新聞』1976 年 3 月 16 日..

(12) 横浜国際社会科学研究 第 19 巻第 4・5 号(2015 年 1 月). 134 (414). 資料 3 「明るい村づくりに励む南信濃の若妻グループ」: 南信濃村は静岡県に隣接した県南の温暖の土で林業,茶,こんにゃく,春蚕,水稲などの複合経営が行われている.若者は 流出し,男の人も他産業へ働きに出,女の人が多く,農業を行い,家を守っているが,この中核として若妻グループの育成に 力を入れており,明るい村づくりに励んでいる. 下伊那農業改良普及所が先に行った農村生活水準診断調査の結果,忙しさに追われ,主婦の学習する場や機会が少なく,学 習意欲に欠ける点や子どもの教育には熱心だが,主婦自身のバランスのとれた食事ができていない,などのマイナス面が指摘 され, 「もっと主婦の学習する機会をつくる」それには「グループ育成をしよう」という動きが高まり,50 年度に 2 つのグルー プが結成され,さらに 51 年度には 3 グループ増え,現在のところ計 7 グループ,85 人となった.よりよい生活や地域づくり を目指すためには生活面と農業面の両方から実生活に結びついた目標を持った活動ができるとしており,特に 51 年度には県 の若妻集団活動育成事業の指定を受け,7 つのグループを中心によりよい村づくりと地域農業の発展に活動を進めている. 特に冬の間不足する野菜接取の為にハウス利用による自家用野菜の年間栽培=希望者に村で助成=や住みよい村づくりのた め昔からの村のくらしや行事,習慣などを知り,若い人や子供たちに伝えていく. 既製品が多く出回り,余り豊かさに恵まれ,人生の大切な時期に考えることや,感動の少ない今の子供たちに, これらを伝え, より良い人間形成,ふるさとづくりをしようという発想で村の文化祭に発表するなど好評だった.また先進地視察を計画,農業 面では阿南町新野のトマト団地,上郷町別府のハウス見学,生活面では県飯田消費生活センターで行われた「みんなの生活展」 見学などを行ってきた.グループ員は若くて行動力があり,健康でより良い生活や農業技術の勉強に熱心に取り組んでいる. 『南信州新聞』1977 年 1 月 18 日.. 村政 を 打破 し,行動力 の あ る 行政.林業振興. の向上を妨げ,老人問題解決の要求が老人福祉. の 予算 を 増 や し,植林の 推進.村民の所得向. 施設の整備で満足してしまう.老人対策が欠け. 上の場の拡大.土木,建設事業と結びつけた. た過疎対策は地域の現状を正しく認識したこと. 道路網の手直し,村民の声を吸収した人口増. にならないし,抜本的な対策もとれない.安達. 25). 対策」である .選挙の結果は御子柴氏が敗北. 氏の過疎のメカニズムを「悪循環過程」と解明. し片町村長が三選されたが,御子柴氏 381 票の. したが,過疎地域の老人化と民主主義の確立に. 26). 得票. は意味深いものであった.. も一種の悪循環が存在する.さらに,片町氏と. ま ず,1972 年 と 1976 年 の 2 回 の 選挙 の 際,. 御子柴氏,両者の公約からみると,片町氏の公. 2 回とも議会全会一致で推薦ということは明ら. 約の特徴は村民が感心する道路,特産物育成,. かに住民不在である.次に 1976 年選挙で片町. 工場誘致,老人福祉であるのに対し,御子柴氏. 氏を推薦するのは議会と老人クラブ連合会であ. の公約は村政の立て直し,林業振興,所得向上,. るのに対し,御子柴氏を推薦するのは若い層を. 村民の意見尊重などであった.片町氏の公約内. 含む村内各層である.1975 年村の 15 歳から 29. 容は村民の関心を集める内容であり,同時に片. 歳人口は全人口の 11% に対し 65 歳以上は 15.6%. 町氏が当選したことは,中央政府の「農業近代. である27).つまり,過疎化の拡大は老人化を深. 化」,「拠点開発方式」になどの政策方針が深く. 刻化させ,老人化の拡大は村の政治に影響を与. 地域住民や自治体指導者に影響していることの. え,民主主義の確立を妨げる.逆に言うと,民. 表れでもある.. 主主義と住民主体形成の遅れが老人の権利意識. ⑵ 住民の主体形成. . 25) 「きょう 村長選合同演説会 南信濃片町,御 子柴氏の順に登壇」 『南信州新聞』1976 年 4 月 23 日. 26)「南信濃村長 に 片町氏三選 御子柴氏 の 戦 前も及ばず」『南信州新聞』1976 年 4 月 27 日. 27)南信濃村『過疎地域自立促進計画』2000─ 2004 年度.. 住民の主体形成に関して,まず,若妻グルー プの活動を紹介したい(資料 3).若妻グルー プは生活,農業生産両方の視点から村づくり, 健康づくりに取り組んでいた.このような活動 には県の取り組みや村の助成など(下線部)も あるが, 「若者は流出し,男の人も他産業へ働.

(13) 1970 年代過疎地域における地方自治体の対策と地域づくり(蘇曼). (415) 135. 資料 4 1. 「農業の前途を確信し,山村営農による所得向上のために」 婦人の農業就業を促進:営農類型による農業収入と婦人の農外収入の比較検討.農業有利の啓もう. 生産者グループの組織化:小さなグループでも営農よろこび苦しみのとりまとめと,技術交流の場をつくる.その中から,生 産者組合へ連結する. 土づくり対策→無機質肥料の多用を反省し,林業副産物の活用,小家畜の飼育奨励. 2. 「山村の生活を協同でよくしていくために」 自給率を高め食生活に転換:自らの農地を活用して自給食糧をふやし,健康と経済を守る運動の展開. 生活資金の有効的活用,教育資金制度の創設要請:くらしの計画化で資金調達の相談,教育資金の需要については制度化を村 に要請. 生活改善運動:組合員の生活の合理化を進め,儀礼生活改善運動に呼応じ,資材,施設の供給. 3.協同運動の強化を進めるために 婦人部活動の強化と援助:自らの組織として,自主性のある運動にしていく.少人数でも未組織部落をなくす.天竜事業所内 の組織化の検討. 青壮年部の組織化:組織化について青壮年の組合員の意見交換.人数にとらわれないで組織化. 出典:南信濃村産業課『昭和 52 年度商工会森林組合農業総会関係綴』.. 資料 5 「遠山常民大学開講 郷土の歴史,思想の流れ勉強」: 遠山常民大学が 12 日南信濃村で開かれる.村内外を問わずそれぞれ郷土の歴史,思想の流れを勉強したいとする人たちを 対象に全 15 回に分けて開くもので会場は,村福祉センター,旅館,児童館などを使用し,一人一講義につき受講料千円(教 材別) .主題は「近代日本の思想と民衆」(後略). 「教育テレビで全国へ 遠山の常民大学に取材班」: 南信濃,上村など遠山地方の郷土の歴史,思想の流れを勉強しようという同地方の青壮年の人たちの提唱で,昨年 11 月か ら毎月一回開講されている「遠山常民大学」の実情を NHK 教育テレビが取り上げ,全国に紹介することになり,12 日から取 材班が来村,同地方の全容の取材をしている(後略). 「さらに第二期開講望む声 遠山常民大学の修了式」: 南信濃村に昨年 11 月開校した「遠山常民大学」は第一期 15 回の講座を終え 18 日,同村福祉センターで修了式を行った. ・・・ (中略)鎌倉市の自宅から毎月一回の講義に通い続けた同村出身の主催講師・後藤総一郎さん=明大講師も目を細めてこの日 の修了式を見守っていた. ・・・ (中略)なお,受講者たちは「戦後,生活に追われて学ぶ機会がなかった.喜んで参加したが,最後まで続けられるか どうか心配だった.しかし,だんだん面白くなって意欲も出てきた.これからも勉強を続けたい」とそれぞれ語っている. 村史「遠山」の出版を機に学習熱が高まり,青年らを中心に昨年 11 月,スタートした常民大学は村の歴史を中心に勉強を 進め月に一回の講義とお盆の 8 月の集中講義を合わせて 15 回開き,この間,1 回千円の受講料を払って学んだ人は村外からも 熱心な受講者を迎え延べ 520 人にのぼり,大きな成果をあげた. 『南信州新聞』1977 年 11 月 3 日,1978 年 5 月 16 日,1978 年 11 月 22 日.. きに出,女の人が多」いという状況で, 「より. 部落ごとに組織され,農家の主婦が中心になっ. 良い人間形成,ふるさとづくり」に主婦たちの. て生活の改善や地域問題に関して学習や各種活. 力は不可欠であったということでもある. また,. 動を展開していた.いわゆる上からの組織化で. この資料から当時兼業化が進むなか,農家の女. あるが,そのようなグループ活動の内容を資料. 性に農業生産と家庭生活の 2 重の負担がのしか. 4 で見てわかるように,生産と生活問題が中心. かっていて,このようなグループ活動は農家女. で特に生活問題に関心が大きい.. 性の生産と生活を見なし学習する場になってい. 住民の主体形成に関して,遠山常民大学の学. たといえる.若妻グループ以外にも,農業改良. 習活動 も あ げ ら れ る.資料 5 の よ う に,1977. 普及所が推進する生活改善グループ活動は,各. 年 11 月に開講してから 1978 年 8 月まで全 15.

(14) 136 (416). 横浜国際社会科学研究 第 19 巻第 4・5 号(2015 年 1 月). 回の講義を行った.後藤総一郎氏の「郷土史研. うとした点では 1970 年代の南信濃村に当たっ. 究」の原則的理念が述べられている.①身銭主. て非常に画期的な学習活動であったといえる.. 義による自己教育の実践を貫くこと.村役場や. しかし,以上のようなグループ活動や常民大. 篤志家に助成や寄付ではなく己の内面世界を己. 学には克服できなかった欠陥がある.グループ. 自身の力で養うという自立精神を育む.②主体. 活動は上からの組織であり,農家婦人中心の活. 性と内発性にもとづく「大学」への参加.長幼. 動であるため生活問題が中心であった.また各. や身分の序列意識にもとづく,あるいは義理や. グループの横の連帯と交流がかけるため村全体. 人情にからんでの, 「大学」への協力や参加を. の運動へと発展できず,生活問題の学習がさら. 一切排除し,主体性と内発性にもとづく参加を. に自己形成を強め住民自治に直ちにつながるこ. 原則とする.③長期的展望による大学構想.④. とはなかった.常民大学運動の成果を 70 年代. 良識ある,従断的世代構成による運営委員会の. に限って評価すべきではないが,生活問題に意. 組織化 .. 欲的に取り組んでいる女性の参加者が少ないこ. 常民大学開講前の状況を中心メンバーの一人. とからすると,常民大学の思想はこの時期に,. である小沢氏はこう語っている「狭い村では,. まだ女性の自己形成,自己教育さらにいえば,. 何か事を始めると守り立てるより,足を引っ張. 過疎地域の地域活動に組み込まれることには限. る.後藤はこれを利用して村長選に出る気じゃ. 界をもっていたといわざるを得ない. 過疎地. ないか,と噂する人もいる.なにしろ,今まで. 域の自治体や社会教育部門は住民に真の学習の. 村の政治に登場しなかった人が主役だから,そ. 場や自己形成につながる有益な情報が提供され. の分だけ中傷も激しい.その意味でも,大学は. ていなかったこと,つまり社会教育不在に起因. 村にいい意味の揺さぶりをかけたわけだ. 」 「そ. する.このように 1970 年代南信濃村のグルー. れでいい.疑問をもてばいずれ結果がわかる.. プ活動や学習活動は横の連帯をかけ,一貫性が. オレたちが何をしようとしているか.それを見. ないため,村政運営に住民の意見が反映できな. ながら村の人が村の現状のおかしさに気づくん. かったといわざるをえない.. 28). だ」29).その参加者を職業別にみると,公務員 40%,自家営業 20%,会社員 15%,農業 10%,. Ⅴ 阿智村の地域づくりと社会教育. 学生 5%,その他 10% であり,年齢別にみると,. 本稿は 1970 年代を対象にして阿智村の事例. 10 代 3%,20 代 22%,30 代 20%,40 代 30%,. を と り あ げ る が,阿智村 の 過疎対策 の な か,. 50 代 15%,60 代以上 10% である.職業は公務. もっとも決定的な施策である工場誘致はすでに. 員が最も多く,世代は 40 代が最も多い.女性. 1960 年代に実施され,さらにそれに関する反. はのべ 10 人で,常連は 3 人で少なかった. こ. 省や学習も行われていた.過疎の実態は実質上. のように,常民大学は補助事業ではなく身銭主. 自治体が過疎対策を講じていた段階の実態と考. 義を貫き,村の風潮を変え自己教育を実現しよ. え,最初に実態と自治体の対応をとりあげ,社 会教育を場とする住民の学習と活動を一体的に. . 28)後藤総一郎「自己認識としての「村の学問」 ─遠山常民大学の航跡」『月刊社会教育 民衆の自 己形成と地域文化 <特集> 』1979 年 2 月,「月刊社 会教育」編集委員会編,pp. 13─22. 29)編集部「身銭で支えるムラの大きな試み― 開講した「遠山常民大学」 」 『朝日ジャーナル < 特 集 >80 年代へ架ける生き方を求めて』朝日新聞社 編,20 ⑴ 1978 年 1 月,pp. 34─38.. 把握するために公害学習と住民主体形成を次に 検討する. 1.過疎の実態と自治体の対応 ⑴ 過疎の実態 阿智村人口 は 1955 年 か ら 1970 年 の 間 159 戸,2044 人減少 し,1969 年 に 飯田下伊那地区.

(15) 1970 年代過疎地域における地方自治体の対策と地域づくり(蘇曼). (417) 137. 表 5 阿智村 1970~1980 年の産業別就業者数 項目. 労働力 総数. 年. 農業. 林業, 漁業, 狩猟業 水産業. 鉱業. 建設業. 製造業. 卸売業,. 金融,. 小売業. 保険業. 不動産業. (単位:人) 運輸, 通信業. 電気, ガス, サービス業. 公務. 水道業. 1970. 3934. 1886(48%). 58. 4. 3. 344(9%). 787(20%) 317(8%). 7. . 79. 30. 343(9%). 73. 1975. 3410. 1202(35%). 54. 9. 2. 289(8%). 910(27%) 355(10%). 13. 1. 96. 24. 380(11%). 71. 1980. 3513. 933(27%). 30. 9. 3. 369(11%) 1086(31%) 367(11%). 14. 90. 21. 532(15%). 76. 出典:1970,1975,1980 年度『国勢調査』より作成.. 表 6 阿智村 1971~1980 年各部門への投資(歳出額) 総額. (単位:千円). 議会費. 総務費. 労働費 民生費. 衛生費. 農林水 産費. 商工費. 土木費. 消防費. 教育費. 1971. 460,216. 4,237. 143,766. 32,545. 12,610. 48,515. 5,310. 119,415. 8,500. 47,622. 1974. 705,427. 10,242. 86,153. 136,059. 45,728. 109,774. 5,857. 129,165. 16,124. 114,954. 1980. 1,975,646. 21,946. 163,982. 192,225. 100,361. 404,111. 38,445. 348,021. 51,580. 422,155. 出典:‌長野県総務部統計課編『昭和 46 年 長野県統計書』1973 年,長野県総務部情報統計課編『昭和 49 年 長野県統計書』 1976 年,長野県総務部情報統計課社会生活統計班編『昭和 55 年 長野県統計書』1982 年.. が広域市町村圏に指定され,1970 年に過疎村の. ⑵ 自治体の対策. 指定を受ける.道路,施設の整備,牛肉生産団. 阿智村 の自治体 の 対策を検討してみたい.. 地育成事業のほか,1960 年代から工場誘致も積. 表 6 は阿智村 70 年代各部門への歳出額をまと. 極的に行った30).1980 年現在阿智村の統計では. めた推移である.1970 年代を通じて土木費がか. 化学関係,繊維関係,機械金属関係 の 計 14 の. なり高いが,農林水産費と教育費も依然として. 工場が設置され,その中で規模・従業員数とも. 高く,1974 年から教育費が農林水産費を上回っ. に一位は塩化ビニール製フロアマットの製造販. ていることがわかる.村が実施した事業をさ. 売会社の盟和産業株式会社長野工場だった.. らに詳しく見てみると,表 7 で見てわかるよう. 表 5 は 70 年代阿智村産業別就業者数 の 推移. に,1971 年度村が実施した主な事業とその事業. をまとめたものであるが,農業従事者が人数も. 費のうち,重点事業は役場庁舎建設事業,その. 割合も減少するのに対して,製造業従事者が人. 次に事業費が大きいものは村道改良舗装事業で. 数も割合も増加し,1980 年には 3 割を占めて. ある.農業振興事業の事業費は橋梁改良事業費. いることがわかる.また,表 1 で阿智村の人口. を若干上回る程度であった.1971 年の村政は施. と経営耕地面積の変化を見てみると,1970 年. 設整備に重点を置いた方針であったことがわか. から 1980 年まで人口は 602 人減少し,経営耕. る.次に表 8 の 1975 年度各部門の予算を見て. 地面積 は 119ha 減少 し た.農林水産 へ の 投資. みると,道路や施設への投資を減らし,農林業,. が増大するにもかかわらず,農業就業者数と農. 教育,福祉事業へ重点を移していることがわか. 地が減少していたことが確認できる.. る.. . 30)阿智村誌編集委員会編『阿智村誌 下巻』 阿智村誌刊行委員会,1984 年,pp. 219─223, 347.. 以上のように阿智村の過疎の実態としては, 激しい人口流出にともない農業の経営耕地面積 も大幅に減少した.人口の減少は南信濃村に比.

(16) 横浜国際社会科学研究 第 19 巻第 4・5 号(2015 年 1 月). 138 (418). 表 7 1971 年度阿智村の主要な事業と事業費 重点的事業. 項目. 事業名と 事業費. 事業名. 農林業. 事業費(千円). 事業名. 役場庁舎建設. 96,440. 農業振興事業. 村道改良舗装. 82,560. 米生産調整愛策諸事業. 橋梁施設改良. 10,510. 福祉 事業費(千円). 事業名. 事業費(千円). 11,950. 青少年健全育成対策. 2,000. 75 歳以上老人医療費 補助. 1,200. 合計. 3,200. 5,500. 地籍調査事業. 8,240. 特農を含めた耕地事業. 7,540. 林道開設事業 合計. 189,510(43.5%). 6,490. 合計. 39,720. 出典:‌ 「役場建設などで膨張 46 年度の村の決算」阿智村公民館『あちむら』1973 年 2 月 5 日,第 54 号,p. 1.阿智村公民館報 縮刷版編集委員会編集『阿智村公民館報縮刷版』阿智村公民館 1991 年,p. 159.. 表 8 1975 年度各部門の予算 項目. 民生費 総額. 事業名と 事業費. 内重点 事業. 衛生費 総額. 内重点 事業. 事業費単位(千円). 農林水産費 総額. 内重点 事業. 土木費 総額. 内重点 事業. 農業構造改善 ホームヘルパー 事業,農道,肉 成人病予防,各 212,196 101,177 村道改良舗装 91,344 増員,機能回復 42,993 牛生産団地造 種検診 訓練事業 成事業. 教育費 総額. 内重点 事業. 182,745. 伍和小学校の 校舎改築. 出典:‌ 「一般会計八億一千六百万円 村の予算きまる」阿智村公民館『あちむら』1975 年 3 月 28 日,第 59 号,p. 1.阿智村公 民館報縮刷版編集委員会編集『阿智村公民館報縮刷版』阿智村公民館 1991 年,p. 177.. べ若干少ないが,経営耕地面積の減少は南信濃. 戦後新たに結成したあとは,どちらも有力な団. 村をはるかに上回る.このような状況で村が. 体だったが,1955 年以降経済成長政策の下で,. 取った対策は道路や施設の整備に重点を置き,. 若者の離村,農業機械化経営,現金収入の必要. 工業誘致で人口のUターンをはかり,農業にお. などから次第に活動が落ち込んでいく.しかし,. いては牛肉生産団地の造成などであった.. 青年団は工場誘致が進むことで公民館を通し青. 後述のように,阿智村は過疎が現れ始めた. 年たちの自己研究や青年活動が活発になり始め. 当初 は,村 の 財政 が 危機 に 陥 る こ と を 懸念. た.青年団員の減少に直面して,青年団がとっ. し,工場誘致を行い,1970 年代に入っても以. た対策は「多種の行事のたびに呼びかけて,そ. 上で述べてきたように施設や道路の整備に重. れが継続的に団員になってもらうことを考えて. 点を置いていた点では南信濃村と共通した政. いる.そのための行事もスポーツ関係多い」31).. 策受容がみられるが,1960 年代末からの住民. その後農業の後継者から結成される農業青年会. や各種住民組織の運動が強まっていくなかで,. 議(資料 8),青年同士の連帯を作る目的で青. 以下述べるように行政施策の姿勢が変わって. 年団の呼びかけで結成される「青年連絡協議会」. いった. 2.公害学習と住民主体形成 ⑴ 青年団と婦人会の活動 資料 6,資料 7 のように青年団も,婦人会も. . 31)阿智村公民館『あ ち む ら』1976 年 10 月 25 日第 64 号 p. 4.阿智村公民館報縮刷版編集委員会 編集『阿智村公民館報縮刷版』阿智村公民館 1991 年 12 月 25 日,p. 192..

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