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「帰葬詩」に関する覚書(一) : 漢代から南北朝末期まで

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Academic year: 2021

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(1)Title. 「帰葬詩」に関する覚書(一) : 漢代から南北朝末期まで. Author(s). 後藤, 秋正. Citation. 北海道教育大学紀要. 人文科学・社会科学編, 54(1): A46-A31. Issue Date. 2003-09. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/762. Rights. 本文ファイルはNIIから提供されたものである。. Hokkaido University of Education.

(2) 第二号. ︵一︶. 第五十四巻. に関する覚書. 北海道教育大 学 紀 要 ︵ 人 文 科 学 ・ 社 会 科 学 編 ︶. ﹁帰葬詰﹂. 平成十五年九月. には、次のように言っている。. 北海道教育大学札幌校漢文学研究室. 後 藤 秋 正. の西北、首陽山のふもとに埋葬された。韓愈の. によれば、杜甫︵七一二−七七〇︶ の死後、遺骸は岳陽に残葬されたまま帰葬を果たせ の手によって條師県︵河南省條師県︶. ︵﹃元氏長慶集﹄巻五六︶. −漢代から南北朝末期までー. 元横の﹁ 唐 故 工 部 員 外 部 杜 君 墓 係 銘 井 序 ﹂. ︵冒日黎先生集﹄巻一四︶. ず、四十三年が経過した元和人年︵八一三︶、孫の杜嗣業︵宗武の子︶ ﹁改葬服議 ﹂. うず. たび. 残於堂、則謂之残、療於野、則謂之葬。近代己来、事与古異、戎源戎仕在千里之外、或子幼妻椎而不能自還、甚者拘以陰陽畏忌、送葬於其土。及其反 葬也、達 者 戎 至 数 十 年 、 近 著 亦 出 三 年 。 わか. 堂に残すれば、則ち之を残と謂い、野に療むれば、則ち之を葬と謂う。近代己来、事は古と異なり、或いは併し或いは仕えて千里の外に在り、或いは. 子幼く妻稚くして自ら還す能わず、甚しき者は拘われて陰陽を以て畏忌し、遂に其の土に葬る。其の反葬するに及びてや、遠き者は或いは数十年に至 り、近き 者 も 亦 三 年 を 出 づ 。. ∵j∴. 古来、人が死亡したときにはまず二疋の期間奥座敷にかりもがりし、ついで郊外にある先祖代々の墓所に埋葬することが習わしとして定着していた。それ. が唐代になって士人の行動範囲が広がると、郷里を離れた遠地で死亡する者が増加し、妾や子が若かったり幼かったりして反葬できず、また、陰陽の占い. 31.

(3) 後 藤 秋 正. に拘束されて遺骸がその土地に埋葬され、反葬できた場合にも少なくとも三年、数十年を要する場合があったというのである。. ︵大公. ︵2︶. このように人が旅先で死去した場合に、遺骸が移送されて祖先の墳墓の地に埋葬される風習はかなり早くから存在したと考えられる。﹃礼記﹄檀弓上に ころ 営丘に封ぜらる。五世に及ぶ比ま. は、﹁大公封於営丘。比及五世、皆反葬於周。君子日、⋮⋮ 礼不忘其本。古之人有言、日、狐死正丘首、仁也。﹂. で、皆な反りて周に葬る。君子日く、⋮⋮礼は其の本を忘れず。古の人言える有り、日く、狐は死するときに正しく丘に首するは、仁なりと。︶と言ってい. る。斉の代々の国王は、斉に封ぜられたが周にとどまって国都の鏑京に葬られた太公望呂尚の故事に則り、五代目あたりまでは、ひつぎを鏑京に運んで埋葬. によって規定されずとも、故郷の先祖代々の墓所に葬られたいというのは人情の自然な欲求であり、故郷を離れた地で死亡した者が出た. した。礼というものは、その根本を忘れない。狐でさえ死ぬときには自分の住んでいたほら穴のある丘のほうに首を向ける、これが﹁仁﹂というものなの だ、と。特 に ﹁ 礼 ﹂. 場合に、遺体を故郷、もしくは故人の望む地、あるいは女性の場合は夫の墓所に移送して葬ることが子孫に課せられていったのも当然のことと言えよう。. それでは、斉の代々の国王は別として、このような風習はいつごろから記録に残されているのであろうか。また、これを詩に詠ずる風潮はいつごろ生ま れ、それらの詩はどのように詠じられているのであろうか。. 本稿においてはひつぎを故郷に移送して埋葬する、帰葬あるいは返葬を詠ずる詩︵以下、帰葬詩と称する︶を、送葬一般を詠ずる詩と区別してこれに焦点. を当てるが、紙幅の関係でとりあえずは南北朝末期までの展開の様相をたどってみることにしたい。当然のことだが、帰葬に伴って、帰槻が行なわれること. ︵四九九−五〇一︶. の初め、母の喪に郷里に帰葬す。. ﹃梁書﹄巻十人、張恵紹伝の例のように、親族の葬儀のために郷里に帰ることも帰葬と称することがあるので、これは除外する。. になるので、これを詠ずる詩は同系のものとして扱うことにする。また、種々の困難によって帰葬を果たせずに放置されている旅槻を詠ずる詩も必要に応じ て扱う。た だ し 、 次 の. 字は徳継は、義陽の人なり。⋮⋮永元. 張恵紹字徳継、義陽人也。⋮⋮永元初、母喪帰葬於郷里。 張恵 紹. の条には、楚の捕虜となり、交換で釈放されることになった晋の知皆の、﹁以君之霊、累臣得帰骨於晋。﹂ ︵君の霊を以て、. まず、帰葬の実態はどのようなものであったのか、その概略を時代を追って見ておこう。 ﹃左伝﹄ 成 公 三 年 ︵ 前 五 八 八 ︶. 累臣は骨を晋に帰するを得たり。︶という楚の共王への感謝の言葉が記録されている。これは、幸いにも故郷で死ぬ機会を得たというのであって死後のこと ではないが、﹃史記﹄巻三十五、管察世家の曹の悼公の記事は明らかに死後のことを言う。. 宋に朝し、宋. 之を囚う。曹. とら. 其の弟野を立つ、是れ声公為り。悼公 宋に死し、帰葬す。. 悼公人年、宋景公立。九年、悼公朝子宋、宋囚之。曹立其弟野、是為声公。悼公死於宋、帰葬。 悼公の八年︵前五一六︶、宋の景公立つ。九年、悼公. 32.

(4) 「帰葬詩」に関する覚書(一). ︵悼太子. ︵3︶. 魂に死し、雀陽に帰葬す。︶ と、魂に人質になっていた悼太子. の条には、前年秦に入朝して留められていた楚の懐王が死んだことを次のように記録する。. 曹の悼公は宋に入朝してそのまま捕えられ、宋の地で死んだ。その後、曹の地に帰葬されたのである。同じく﹃史記﹄巻五、秦本紀の昭嚢王の十一年︵前 二九六︶. 受けず、還た秦に之き、即ち死し、帰葬す。. 楚懐 王 走 之 趨 、 趨 不 受 、 還 之 秦 、 即 死 、 帰 葬 。 走げて趨に之くも、接. の条は、﹁悼太子死魂、帰葬雀陽。﹂. 斉に適きて反らんとするに、其の子死し、扁・博の間に葬る、⋮⋮而して号して日く、骨肉の. には、﹁延陵季子適斉而反、其子死、葬於義・博之間、⋮⋮而号日、骨肉帰復於土、命也、魂気則無. ︵延陵の季子. ﹁上疏﹂. 不之也 。 夫 哀 ・ 博 去 呉 千 有 余 里 、 季 子 不 帰 葬 。 ﹂. また、﹃ 漢 書 ﹄ 巻 三 十 六 、 劉 向 伝 に 見 え る 彼 の. が帰葬された こ と を 記 録 す る 。. ま. ﹂♂. ゆる. の死後のこととして次のように言う。. 嘗て大尉黄壕の辟す所と為るも、就かず。壕の草して帰葬するに及び、程乃ち糧を負い徒歩して江夏に到りて之に赴く。発酒を設けて薄祭し、突. めぐ. 亦往きて固を果し、Pを殉りて育て去らず。︵梁︶太后之を憐れみて乃ち聴し、趣致して帰葬するを得たり。. に帰葬されたのである。また、﹃後漢書﹄巻八十∴独行列伝には、晩貴の. 33. 別将の捕虜となったが屈せずに自殺し、一旦は光武帝から洛陽に墓地を下賜されて埋葬されながら、郷里の太原に帰葬された温序のような例も見えている。. 洛陽の四つ辻にさらされていた李固の遺体は漠中の南鄭︵陳西省漠中市の東︶. 南陽 の 人 董 班. 南陽人董班亦往芙固、而殉戸不肯去。︵梁︶太后憐之乃聴、得趣致帰葬。. さらに、﹃後漢書﹄巻六十三、李固伝は、梁巽の誕告によって獄死した李固︵九四−一四七︶. 撃りて去 り 、 姓 名 を 告 げ ず 。. 稗. 稗嘗為太尉黄壕所辞、不就。及項卒帰葬、程乃負糧徒歩到江夏赴之。設灘酒薄祭、突撃而去、不告姓名。. めよう。﹃後 漢 書 ﹄ 巻 五 十 三 、 徐 程 伝 に は 次 の 記 事 が あ る 。. 代にはすでに帰葬の風習が定着していたことを物語っている 。漠代、特に後漠に入ると帰葬の記録は多い。ここではそのうち、三例について見ておくにとど. ︵4︶. の季札の子が死んだときに彼は帰葬しようとはせずに、泰山の近くに葬ったというのである。帰葬しなかったことが記録に留められていること自体、春秋時. 帰して土に復するは、命なり、魂気は則ち之かざる簸きなりと。夫れ哀・博は呉を去ること千有余里なれば、季子は帰葬せず。︶と言う。斉からの帰途、呉. ゆ. ゆ. さらに、 同 じ く 昭 嚢 王 の 四 十 年 ︵ 前 二 六 七 ︶. 楚の 懐 王. −.

(5) 後 藤 秋 正. 温序 字 子 房 、 大 原 郁 人 也 。 ⋮ ⋮ ︵ 建 武 ︶. 六年、拝謁者、遷護克行尉。序行部至裏武、為随意別将萄宇所拘劫。⋮⋮逐伏剣而死。序主簿韓遵・従事王忠. 之を許し、乃ち旧些に反る。. 寿、服覚りて郷平侯の相と為る。夢に序 之に告げて日く、. おわ. 屍を持して帰赦せんとす。光武 闘きて之を憐れみ、忠に命じて送喪して洛陽に到らし. 六年、謁者に拝せられ、護克行尉に遣る。序 行部して嚢武に至り、随苦の別将苛字の拘劫する所. 持屍帰赦。光武闘而憐之、命忠送喪到洛陽、賜城傍為家地、樽穀千斜・練五百匹、除三子為郎中。長子寿、服寛為都平侯相。夢序告之日、久客思郷里。. 字は子房は、大原郁の人なり。⋮⋮︵建武︶. 寿即弄官 、 上 書 乞 骸 骨 帰 葬 。 帝 許 之 、 乃 反 旧 坐 焉 。. 温序. と為る。⋮⋮遂に剣に伏して死す。序の主簿韓遵・従事主恩 おく. に埋葬された。. のころの人である張覇の場合は、死期を悟った際に延陵の季子の故事に言及しっつ、成都への帰葬の困難さを慮って、. 即ち官を弄てんとし、上善して骸骨を乞いて帰葬せんとす。帝. め、城傍を賜いて家地と為し、穀千射・練五百匹を縛り、三子を除して郎中と為す。長子 久客は 郷 里 を 思 う と 。 寿. さらに、 和 帝 ︵ 在 位 九 人 1 一 〇 五 ︶. 死亡した土地に葬ることをみずから﹁遺勅﹂し、河南梁県︵河南省汝州市︶. 張覇字伯鏡、萄郡成都人也。⋮⋮後徴、四遷為侍中。⋮⋮後当為五更、会疾卒、年七十。遺勅諸子日、昔延州便斉、子死扁・博、因吹路側、逐以葬. 斉に使いし、子. 当に五更と為るべきに、会たま疾みて卒す、年七十。諸子. 扁・博に死し、因りて路側に吹りて、遂に以て葬る。今 萄の道は阻連なり、宜しく帰坐すべからず、此. あなほ. たま. 焉。今萄道阻遠、不宜帰塾、可止此葬、足蔵髪歯而己。務道連朽、副我本心。人生一世、但当畏敬於人、若不善加己、直為受之。諸子承命、葬於河南梁. 延州. 字は伯鏡は、萄郡成都の人なり。⋮⋮後徴され、四たび遷りて侍中と為る。⋮⋮後. 県、因遂 家 焉 。. 張覇 に遺勅 し て 日 く 、 昔. や. 己に加わるものならば、直に為に之を受けよと。諸子. ここ. 命を承け、河南梁県に葬り、因りて遂に焉に家す。. ﹃三国志﹄巻五十二、﹃呉書﹄虞翻伝を引いておこう。. 字は仲翔は、会稽余挑の人なり。⋮⋮翻. 性疏直にして、数しば酒失有り。︵孫︶権 に在ること十余年、年七十にして卒し、旧墓に帰葬し、妻子還るを得たり。. 虞翻. ︵﹃後漢書﹄巻三六、張覇伝︶. 怒りを積むこと一に非ず、遂に翻を交州に征す。⋮⋮南. 虞翻字仲翔、会稽余挑人也。⋮⋮翻性疏直、数有酒失。︵孫︶権積怒非一、逐徒翻交州。⋮⋮在南十余年、年七十卒、帰葬旧墓、妻子得還。. の項に詳し い 。 こ こ で は. 帰葬の風習が魂晋南北朝期に入るといっそうの盛行をみたことは、例えば徐吉軍﹃中国喪葬史﹄ ︵江西高校出版社、一九九人︶第五章﹁帰葬習俗的盛行﹂. 遺族にとって、帰葬の実行には多大の困難が伴ったことはこの一事からも明らかである。. 不善. に止めて葬り、髪歯を蔵するに足るべきのみ。務めて速やかに朽ちるに遵い、我が本心に副え。人一世に生まれては、但だ当に人を畏敬すべく、若し. そ. 34.

(6) 「帰葬詩」に関する覚書(一). 鹿部︵一 六 四 ⋮ 二 三 三 ︶ は 交 州 ︵ 広 東 省 広 州 市 ︶. 地遠くして虞翻老い. にあっても学を講じて倦むことがなく、門徒は常に数百人を数えたというから、彼らが帰葬を援助したの. ︵﹃仝唐詩﹄巻六七五︶. の末聯は、宰相であった楊収の収賄事件に連座して南方に流された李羽を励まして、. であろう。虞翻の左遷はしばしば唐人の同情をかっている。李白は乾元元年︵七五人︶、夜郎に流される途次の詩﹁贈易秀才﹂ ︵﹃李太白文集﹄巻二︶ で次. 地遠虞 翻 老 秋深くして宋玉悲しむ. のように詠 じ た 。. 秋深宋 玉 悲. の﹁遷客﹂. 虞翻. また、鄭 谷 ︵ 八 四 人 ? − 九 〇 九 ? ︶. 虞翻帰 有 日. 便ち窮途を芙する莫かれ. 帰るに日有り. 英便笑 窮 途. と言っている。しかし、晋が南渡した時には、帰葬を果たせなかった者も数多く出たことであろう。南渡した温峨︵二八八−三二九︶ は、北方に残った母. の在民の死後、その帰葬を果たすことができなかった︵﹃晋書﹄巻六七、温峨伝︶。また、染の滅亡後に北斉に奔った顔之推︵五三一−?︶ の﹃顔氏家訓﹄. 終制篇は 、. 先君・先夫人皆未還建都旧山、旅葬江陵東郭。承聖末、巳啓求揚都、欲営遷居、蒙詔賜銀百両、己於揚州小郊北地焼埼、便値本朝倫没、流離如此。数 十年間、絶於還望。⋮⋮吾今帝旅、身若浮雲、寛未知何郷是吾葬地。唯当気絶便埋之耳。. 先君・先夫人は皆な未だ建都の旧山に還らず、江陵の東郭に旅葬す。承聖の末、己に啓して揚都を求め、営みて遷居せんど欲し、詔を蒙りて銀百両を. あ 賜り、已にして揚州小郊の北地に於いて噂を焼くに、便ち本朝の倫没するに催い、流離すること此の如く、数十年間 遠望を絶つ。⋮⋮吾 今 蒔旅し つい て、身は浮雲の若く、克に未だ何れの郷か是れ吾が葬地なるを知らず。唯だ気の絶ゆるに当りて便ち之を埋めんのみ。. と述べている。隋の南北統一後にあっても、顔之推の父母は江陵に残葬されたままで揚都︵建康︶ に帰葬されることはなかったのである。戦乱に巻き込ま. れて祖先の墳墓の地に埋葬されなかった例はほかにも多いことだろう。しかし、これらの例はあるにしても、魂晋南北朝期に帰葬された例としては、典葦. の人である不俵と兄の不斉の例を引いておこう。. ︵﹃三国志﹄巻一人、﹁親書﹂典葦伝︶、麻思の母︵﹃晋書﹄巻一一四、王猛伝︶を始めとして、枚挙にいとまがない。親を帰葬することは、孝子の証でもあっ ︵5︶. た。﹃陳書﹄巻三十二、般不儀伝から、陳郡長平︵安徽省寿県︶. 35.

(7) 後 藤 秋 正. 不倭、字季卿、不害弟也。少立名節、居父喪以至孝称。⋮⋮承聖初、遷武康令。⋮⋮会江陵陥、而母卒、道路隔絶、久不得奔赴。四載之中、昼夜号. 泣、居処飲食、常為居喪之礼。高祖受禅、起為戎昭将軍、除婁令。至是、第四兄不斉始之江陵、迎母喪枢帰葬。不倭居処之節、如始開閉、若此者又三. 字は季卿は、不害の弟なり。少くして名節を立て、父の喪に居りて至孝を以て称さる。⋮⋮承聖︵五五二−五五五︶ の初め、武康の令に遷る。. わか. 年。身自負土、手植松栢、毎歳時伏臓、必三日不食。 不倭. ⋮⋮会たま江陵陥ちて、母卒するに、道路隔絶し、久しく奔赴するを得ず。四載の中、昼夜号泣し、居処・飲食、常に居喪の礼を為す。高祖受禅し、起. 又三年。身自ら土を負い、手ずから松栢を植え、歳時の伏臓毎に、必ず三日食らわず。. ちて戎 昭 将 軍 と 為 り 、 宴 の 令 に 除 せ ら こと. が如く 、 此 の 若 く す る 者. ︵6︶. 北朝においても帰葬の風習は確立していた。それは墓誌銘などからもうかがえる。ここではやや長くなるが、﹃親書﹄巻七十、博永伝から、本妻の、妾と. の例を引いておこう。. その子への怒りと嫉妬によって、生前に本人が希望した北びへ埋葬することができず、父母の埋葬の地である清河︵河南省商丘市の南︶ に帰葬された博永 ︵四三四− 五 一 六 ︶. 朝堂を経るも、国珍. 常に之を怒る。憑 永に. 理すこと得る能わず、乃ち東浦河に葬る。又永 昔 宅兆を営み、父母を旧. 本と永と同に征役を経たれば、其の慕う所に感じ、叔偉の葬るを許す。貫 乃ち. 叔偉の将に憑を以て合葬せんとするかと疑い、貫 遂に求めて永を. 子を悼みて貢に事うるに礼無く、叔偉も亦買を奉ずるに順ならず、貢. 遂に貢の意に従う。事. 司徒を経、司徒の胡国珍. 父の命と称して北部に葬らんと欲す。貢. 後に平城に帰り、男無く、唯だ一女のみ。憑. 霊太后に遊訴し、霊太后. に葬る。貢 此において強いて之を征し、永と処を同じくせんとす、永の宗親 抑うる能わず。葬ること己に数十年、棺は桑嚢の根の遼東する所と為 あな り、地を去ること尺余、甚だ周固と為り、斧を以て斬析し、之を吹より出すに、時人 感怪す。未だ三年ならずして叔偉亡す。. ただ. 封ぜら る る 所 の 貝 丘 県 に 帰 葬 せ ん と す 。 事. 先だち て 亡 す ひ 永 の 卒 す る に 及 び 、 叔 偉. む。買. 地数頃を買い、子の叔偉に遺勅して日く、此れ吾が永宅なりと。永の妻貫氏は本郷に留まり、永は代都に至りて、妾の憑氏を要り、叔偉及び数女を生. の処に於いて滑を奮い馬を躍らせて盤旋・暗望し、終焉の志有り。遠くは杜預を慕い、近くは李沖・王粛を好み、其の墓に葬附せんと欲し、遂に左右の. 博永、字は情期は、清河の人。⋮⋮汝南太守二月丘県開国男、食邑二百戸。⋮⋮幣平元年︵五一六︶卒す、年八十三。⋮⋮永 嘗て北部に登り、平坦. 以斧斬析、出之於吹、時人感怪。末三年而叔偉亡。. 得、乃葬於東清河。又永昔営宅兆、葬父母於旧郷。貫於此強徒之、与永同処、永宗親不能抑。葬己数十年臭、棺為桑稟根所遼東、去地尺余、甚為周固、. 遂求帰葬永於所封月丘県。事経司徒、司徒胡国珍本与永同経征役、感其所慕、許叔偉葬焉。貫乃邁訴霊太后、霊太后遂従貢意。事経朝堂、国珍理不能. 数女。貫後帰平城、無男、唯一女。憑博子事貢無礼、叔偉亦奉貫不順、貫常盆之。憑先永亡。及永之卒、叔偉称父命欲葬北び。質疑叔偉将以憑合葬、貫. 焉之志。遠慕杜預、近好李沖・王粛、欲葬附其墓、遂買左右地数頃、遺勅子叔偉日、此吾之永宅也。永妻貢氏皆於本郷、永重代都、安妾憑氏、生叔偉及. 博永、字傭期、清河人。⋮⋮汝南太守・月丘県開国男、食邑二百戸。⋮⋮興平元年卒、年八十三。⋮⋮永嘗登北び、於平坦処奮飛躍馬盤旋塘望、有終. 36.

(8) 「帰葬詩」に関する覚書(一). 博永は北部への埋葬がかなわず、結果として本人の意志とはかかわりなく郷里に帰葬されることになったわけである。. 穀きては則ち室を異にするも. みち. ︵﹁王風﹂大草︶. 長く辞して遠く逝き湘に乗りて去らん. の﹃楚辞﹄九歎・怨思の﹁歎﹂には﹁帰骸﹂の. さて以上のことから、帰葬の風習の淵源は、資料に見るかぎり少なくとも春秋時代まではさかのぼることが確認できる。それでは、帰葬を詩歌に詠ずるこ とはいつごろから始まるのであろうか。次にこれについて見ていこう。. 穀則異室 死しては則ち穴を同じくせん. では、死もしくは埋葬については例えば次のように詠じられることがある。. 死別同 穴. 行に死人有れば. ﹃詩経﹄. 行有死人 ︵﹁小雅﹂小弁︶. 尚お埴むること戎り. うず. 尚戒壇之. 帰骸旧邦 莫 誰 語 今. 語が見えて い る 。. 1つ0. ︵言うこころは己れ骸骨を楚国に帰せんと欲するも衆知らず、故に復た長訣し水に乗りて遠く去らんと欲するなり。︶と言う。仮に死後、遺骸が楚の都. 漠代には他に、前漠の成帝に仕えた班妊婦︵前四人?−前六?︶. の﹁自悼賦﹂︵﹃漢書﹄巻九七下、外戚伝︶ に﹁帰骨﹂の語が見られるが、これは長信宮に. 37. の部に戻ったとしても、誰も知ってはくれないだろうと言うのである。これが仮定の措辞ではあるにせよ、文学作品に帰葬が取り上げられた最初の例であろ. 也。﹂. せんと欲すると維も、語を告げて己の心を達する所無きなり。︶と言い、﹁長辞﹂の句については、﹁言己欲帰骸骨於楚国而衆不知、故復長訣乗水而欲遠去. ﹁帰骸﹂の句について王逸注は、﹁言己思念故郷﹂雑死欲帰骸骨於楚国、無所告語達己之心也。﹂︵言うこころは己れ故郷を思念し、死して骸骨を楚国に帰. 長辞遠逝 乗 湘 去 今. 骸を旧邦に帰するも誰の語るもの莫し. しかし、﹃詩経﹄には帰葬を詠ずる例は見られない。﹃楚辞﹄ではどうであろうか。劉向︵前七七?−前六︶. あ. LV.

(9) 後 藤 秋 正. 願帰骨 於 山 足 今 松柏の余休に依らん. 願わくは骨を山足に帰し. 退居した彼女が、いずれは太后の陵墓の近くに埋葬されたいという願望を吐露したものであって、死とは結びつくものの帰葬とは言えない。. 依松柏 之 余 休. の﹁王仲宣謙﹂. の﹁寧帰骨於松柏、不買名於城市﹂. いた. の. に付. ︵二十二年春、道に病みて卒. ︵﹃文選﹄巻五六︶ であろう。この諌は、曹操の孫権討伐に従った王粂が、建安. ︵寧ろ骨を松柏に帰するも、名を城市に買わず︶ という句は、﹁自悼賦﹂を. ︵﹃文選﹄巻一六︶.の﹁重﹂に見える﹁終帰骨今山足、存憑託今余華﹂ ︵終りては骨を山足に帰し、存しては余華に憑託す︶. ︵﹃江文通集﹄巻一︶. ちなみに 、 播 岳 ﹁ 寡 婦 賦 ﹂ 句、及び江掩 ﹁ 去 故 郷 賦 ﹂. 襲ったもの で あ る 。 ついで帰葬が取り上げられるのは、曹植︵一九二−二三二︶. 二十二年一月に途中で病死したことを悼むものである。﹃魂志﹄巻二十一、王粂伝には、﹁二十二年春、道病卒、時年四十一。﹂ す、時に年四十一。︶と言う。諌の本文中、帰葬に言及するのは次の部分である。. いた. 繍顧孤嗣、号働崩推。発珍北貌、遠迄南准。経歴山河、泣沸如額。哀風興感、行雲俳桐。⋮⋮我将仮翼、諷親高挙、超登景雲、要子天路。喪枢既藻、 将反魂京。霊塙週軌、白牒悲鳴。虚廓無見、蔵景蔽形。 もと. 副櫛たる孤嗣、号働して崩推す。珍を北魂に発し、遠く南准に迄る。山河を経歴し、泣沸して頼るるが如し。哀風は感を興し、行雲は排桐す。我 将. に翼を仮り、諷親として高く挙がり、景雲に超登し、子を天路に安めんとす。喪枢は既に凍り、将に貌京に反らんとす。霊輯は軌を過らし、白旗は悲鳴 す。虚 廓 に し て 見 る 無 く 、 景 を 蔵 し 形 を 蔽 う 。. ﹁魂京﹂は、曹操の当時の根拠地であ\った鄭を指す。この謙が制作された場所について、例えば趨幼文﹃曹植集校注﹄ ︵人民文学出版社、一九八四︶. の﹁寡婦賦﹂. の人であり、その後長安に移っているから、さらに長安に帰葬されたかもしれない。曹植はこ. ︵﹃文選﹄巻一六︶. は、任護、字は子成の妻であり、播岳の妾の姉妹でもあった楊肇の娘の立場に立って、夫に先立た. れた寡婦の悲しみを詠じたものであり、中に次のような記述がある。. 播岳︵二 四 七 − 三 〇 〇 ︶. の諌で、王粂の遺児の悲しみにも言及し、ひつぎは見えても王粂の姿が見えないことを悲しんでいる。. 王粂の墓所ははっきりしないが、彼は山陽高平︵山東省都県︶. 従、時后以病留鄭。﹄則植未従行、亦未在郷、疑時在孟津也。﹂と言うから、曹植は王粂の遺骸が帰葬される途中の ﹁喪枢﹂を孟津で出迎えたものであろう。. 載された﹁曹植年表﹂の建安二十一年の項には﹃魂志﹄后妃伝の装注に引く﹃親書﹄を引用し、﹁﹃二十一年、太祖東征、武宣皇后、文帝及明帝、東郷公主皆. 38.

(10) 「帰葬詩」に関する覚書(一). 飛旗顧 以 啓 路. 龍稀儀 其 星 駕 今. 将遷神 而 安 居. 痛存亡 之 殊 制 今. 飛施は顧として以て路を啓く. 龍輯は僚としで其れ星駕し. 将に神を遷して安居せんとす. 存亡の制を殊にするを痛み. この描写は李善注に引く丁儀の妻の﹁寡婦賦﹂を踏まえたものだが、﹁遷神﹂の語について、李周翰の注は、﹁遷神安措、謂遷枢帰葬也。﹂︵遷神・安措は、. 枢を遷して帰葬するを謂うなり。︶と言う。しかし任護が死んだ場所も不明であり、果たして任護が楽安︵江西省博興県︶に帰葬されたものか、単に残宮に. 安置されていた枢が墓地に遷されて埋葬されたものかはっきりしない。 ついで﹁帰骸﹂に言及するのは、劉峻︵四六二卜五二一︶の﹁広絶交論﹂︵﹃文選﹄巻五五︶である。. 近世有楽安任妨。⋮⋮及冥日東卑、帰骸洛浦、練帳猶懸、門竿漬酒之彦、墳未宿草、野絶動輪之賓。 はか 近世に楽安の任防なるもの有り。⋮⋮東単に冥目し、骸を洛浦に帰するに及び、総帳は猶お懸かるも、門に清酒の彦は竿に、墳に未だ宿草あらざ に、野 に 動 輪 の 賓 を 絶 つ 。. ︵7︶. 任防は天監七年︵五〇八︶の春、寧朔将軍・新安太守として赴いた任地の新安郡︵漸江省淳安県の西北︶で亡くなった。この﹁帰骸﹂の語は先に引いた、. ﹃楚辞﹄九歎・怨思を踏まえており、李善注は、﹁東卑、謂新安。防死所也。洛浦、謂帰葬楊州也。﹂︵東卑は、新安を謂う。肪の死する所なり。洛浦は、楊. 州に帰葬するを謂うなり。︶と言い、張銑注はさらに詳細に、﹁冥目、死也。卑当為越。為任防死於新安、葬於楊州。楊州別梁之洛陽也。﹂︵冥目は、死するな. 指している。任肪の出身地について、﹃梁書﹄巻十四の本伝には﹁楽安博昌の人﹂とあり、これは山東省博興県の東南にあたるから、祖先の墳墓の地ではな. り。卑は当に越と為すべし。任防の新安に死するが為に、楊州に葬る。楊州は則ち梁の洛陽なり。︶と言う。この楊州︵揚州︶は、建康を中心とした帝畿を ︵8︶. く、建康に帰葬したものであろう。また、﹃梁書﹄巻三十三、劉孝綿伝には彼の三人の殊に関する次のような記事が見られる。. 其三殊遇娘邪王叔英・呉郡張峡・東海徐憐、並有才学、恍妾文尤清抜。憐、僕射徐勉子、為晋安郡卒、喪還京師。妻為祭文辞甚懐恰。勉本欲為哀文、 ︵9︶. 祭文を為り、辞. 甚だ懐恰たり。勉. 本と哀文を為らんと欲するも、既に此の文を暗、是こに於て閣筆す。. 既陪此 文 、 於 是 閤 筆 。 とつ 其の三妹は娘邪の王叔英・呉郡の張憐・東海の徐憐に過ぎ、並びに才学有り、憐の妻 文尤も清抜。悌は、僕射徐勉の子、晋安郡と為りて卒し、喪 京師に 還 る 。 妻. ここに言う﹁喪﹂は遺体、もしくは遺体を納めた枢を指しているから、晋安︵福建省福州市︶の内史であった徐憐の枢が晋安︵福建省福州市︶から建康に. 39.

(11) 後 藤 秋 正. 運ばれたことは確実である。﹁祭文﹂とは、大同五年︵五三九︶に徐憐の妻の劉三昧︵劉令嫡︶が、普通五年︵五二四︶に亡くなった夫のために撰した﹁祭. では次のように言っている。. 夫文﹂︵﹃芸文類衆﹄巻三人︶を指すが、これは帰葬には一切言及しない。これに関連して、徐悌の父である徐勉︵四六六−五三五︶の﹁答客喩﹂︵﹃梁書﹄巻 二五、徐勉伝 ︶. 普通五年. だからであ る 。. ︵川︶︵1 1 ︶. 牛弘. 字は里仁は、安定鶉触の人なり、本姓は棄民。⋮⋮艮ずるに及んで、馨貌 甚だ偉なり、性 寛裕にして、学を好みて博聞なり。周に在りて. r12︶. 傷惜之、媚贈甚厚。帰葬安定、贈開府儀同三司・光禄大夫・文安侯、認白憲。. 其選挙先徳行而後文才、務在審憤。⋮⋮大業二年、進位上大将軍。三年、改為右光禄大夫。六年、従幸江都。其年十一月、卒於江都郡、時年六十六. 美称。⋮⋮宣改元年、転内史下大夫、進位便持節・大将軍・儀同三司。関白窟、遷授散騎常侍・秘書監。⋮⋮尋授大将軍、拝吏部尚書。⋮⋮弘在吏. 牛弘字里仁、安定鶉触人也、本姓棄民。⋮⋮及長、巽貌甚偉、性寛裕、好学博聞。在周、起家中外府託宣・内史上士。俄転納言上土、尊掌文翰、. の本伝を 見 て お こ う 。. 遷されたのは大業元年︵六〇五︶のことである。ただし、彼の﹁傷牛尚書弘詩﹂は現存しない。牛弘︵五四五−六一〇︶の略歴について、﹃隋書﹄巻四十九. ともに礼楽の議定に従事している。二人には﹁奉和冬至乾陽殿受朝応詔﹂詩が残されているが、それはこの時のものであろう。. く隋の高祖楊堅が陳を討伐する時にあたり、その後、陳が滅亡したために隋に留まることになった。仁寿二年︵六〇二︶には摂太常少卿となって、牛弘らと. 伝によれば、善心は十五歳の時に、父の友人である徐陵に﹁神童﹂と認められた人物であった。陳の禎明二年︵五八八︶、隋に碑使として赴いたが、折悪し. ﹃文苑英華﹄巻三〇二︶は明らかに牛弘の帰葬を詠じている。詩題に言う﹁許給事﹂は、許善心︵五五人−六一八︶のことであろう。﹃璧日﹄巻五十八の本. それでは、南北朝期には帰葬を詠じた詩は見られないのであろうか。管見によれば、隋の劉斌の﹁和許給事傷牛尚書弘詩﹂︵仝二四句。﹃初学詰﹄巻一一、. 徐氏は東海郷︵山東省都城県の北︶の人だから、本来ならば祖先の墳墓の地へ埋葬されるべきであるのに、北魂の領土内にある郷に帰葬できないことは明白. ここには﹁帰骨﹂の語が見えている。この﹁帰骨﹂は、徐悌の枢が千里の外である任地の﹁閑区﹂︵福建省︶から建康に帰ることを指しているであろう。. ここおお 存す。其の旋反して少しく衰暮を慰めんことを巽うに、言に今日、抄然として長く往くを合う。加うるに棺を千里の外に闘うを以て、未 みちふ いず 期を知らず。無情の倫を復むと錐も、庸謳くんぞ昔を痛まざらん。. しお. 普通五年春二月丁丑、余第二息晋安内史憐喪之問至罵挙家傷悼、心情若隕。⋮⋮自出関区、政存清静。巽其旋反、少慰衰暮、言合今日、抄然長往 加以閏棺千里之外、未知帰骨之期。雉復無情之倫、庸諺不痛於昔。 たより 春二月丁丑、余の第二息晋安の内史憐 喪するの間至る。家を挙げて傷悼し、心情 隕つるが若し。⋮⋮閑区に出でしより、. 40.

(12) 「帰葬詩」に関する覚書(一). 中外府記室・内史上士に起家す。俄にして納言上土に転じ、専ら文翰を掌り、甚だ美称有り。⋮⋮宣改元年︵五七八︶、内史下大夫に転じ、位を使持節. 禄大夫 ・ 文 安 侯 を 贈 ら れ 、 諾 し て 憲 と 日 う 。. 江都郡は、現在の江蘇省揚州市。﹁和許給事傷牛尚書弘詩﹂ ここでは帰葬を詠ずる後半十句を引用する。. 19帰魂貌 幡 路. 18曳履聞 無 由. 17伝呼更 何 日. 16閲水遽 遷 舟. ほ高衛翻 税 駕. 征稗. 帰魂. 條路貌く. 伝呼すること更に何れの日ぞ. 高衝. 邪溝に. 履を曳くこと聞くに由無し. 閲水. 長風惨み. 遽に舟を遷す. 翻って駕を税き. を讃美してい る 。. 20征禅儀 邪 溝. 林薄. 寒雲愁う. かえ. 21林薄長 風 惨. 江上 終に曙けず. にわか. 22江上寒 雲 愁. 夜台. 徒に自ずから留まる. あ. いた. 犠. す. ふなよそおい. とお. 23夜台終 不 曙. 遺芳. ︵13︶. 24遺芳徒 自 留. 序﹂. うま. ︵物極まれば則ち衰う、吾. まぐさか. 之を傷惜し、贈贈すること甚だ厚し。安定に帰葬し、開府儀同三司・光. 未だ駕を税く所を知らざるなり。︶とあり、曹植の﹁洛神賦﹂ なが. に、﹁閲水環階、引地分席。﹂. あみ. ︵﹃文選﹄巻一九︶ に、﹁爾逓税駕乎裔皐、. おも. ︵閲るる水は階に環らし、池を引きて席に分かつ。︶と言う。﹁遷舟﹂. の語は﹃荘子﹄大宗師の、﹁夫蔵舟於. ︵爾して遭ち駕を衡皐に税き、駆に芝田に林う︶とある。ここでは牛弘の亡くなったことを言う。﹁閲水﹂は流れる水。顔延之﹁三月三日曲水詩. ︵﹃ 文 選 ﹄ 巻 四 六 ︶. 株脚乎芝田 ﹂. 則衰、吾未 知 所 税 駕 也 。 ﹂. ﹁税駕﹂は引き馬を解いて馬車を停めること。転じて、休息すること、あるいは帰宿することを言う。﹃史記﹄巻八十七、李斯列伝中の李斯の語に、﹁物極. の前半は、隋朝にあって図書の整理、礼制の整備、官吏登用制度の確立に貢献した牛弘の治績. る。六年、幸に江都に従う。其の年十一月、江都郡に卒す、時に年六十六。帝. や、其の選挙は徳行を先にして文才を後にし、務めは審慎に在り。⋮⋮大業二年︵六〇六︶、位を上大将軍に進む。三年、改められて右光禄大夫と為. ・大将軍・儀同三司に進む。開皇の初め、遣りて散騎常侍・秘書監を授けらる。⋮⋮尋いで大将軍を授けられ、吏部尚書に拝せらる。弘の吏部に在る. つ. に、. 負せて走り、昧かなる者は知らざるなり。︶という発言に基づくが、ここはかりもがりを終えて埋葬すること。後の例になると、蘇頑︵六七〇−七二七︶. の. 墾、蔵此於沢、謂之固臭。然而夜半有力者負之而走、昧者不知也。﹂︵夫れ舟を墾に蔵し、山を沢に蔵して、之を固しと請う。然れども夜半に力有る者は之を のおろ. ﹁夜間故梓州幸便君明当引締感而成幸﹂詩︵﹃仝唐詩﹄巻七四︶. 41. と.

(13) 後 藤 秋 正. 里開寧相 杵 朝歎忽遷 舟. 里閏. 寧ぞ杵を相せん. 朝に欺く忽ち舟を遷すを. と見えている。﹁伝呼﹂は﹃漢書﹄巻七十人、粛望之伝に、﹁︵王仲翁︶.下車趨門、伝呼甚寵。﹂. ︵︵王仲翁︶車より下りて門に趨り、伝呼すること甚だ寵あ. 擢でて尚書僕射と為す。数しば見えんことを求めて諌争し、. 鄭尚書の履声を識ると。︶ と言う。﹁帰魂﹂は、沈胴﹁帰魂賦序﹂に、﹁周易有. ︵哀帝. り。︶とある。牛弘が親しく声をかけることを言うのであろう。﹁曳履﹂は靴を引きずること。ゆったりしたさまを言う。﹃漢書﹄巻七十七、鄭崇伝に、﹁哀. 笑いて日く、我. ︵周易に帰魂の卦有り、屈原は招魂の篇を著す、故に魂の帰るべき、其の目 己に久しきを知る。︶と. 初め納 れ て 之 を 用 う 。 見 ゆ る 毎 に 草 履 を 曳 く に 、 上. 帝擢為尚書僕射。数求見諌争、上初納用之。毎見曳草履、上笑日、我識鄭尚書履声。﹂ 上 帰魂卦、屈 原 著 招 魂 篇 、 故 知 魂 之 可 帰 、 其 日 己 久 。 ﹂. 喧しくして征樟発し、亭. 幽蔽して、道. 遠忽たり︶とある。﹁征梓﹂は、遠くに行く船。康信﹁応令﹂詩に、﹁浦喧征樟発、亭. きずみぞ. 空しくして客の還るを送る︶と見えている。﹁邪溝﹂は、邪水、邪江などとも表記される。春秋時代、呉王夫差. ︵帰路. あるように、一旦肉体を離れながら再び肉体に帰着したたましいを言うが、ここは、帰葬される牛弘のたましいを指す。﹁惰路﹂は、長い道。﹃楚辞﹄九章. ︵浦. ・懐沙の ﹁ 乱 ﹂ に 、 ﹁ 幡 路 幽 蔽 今 、 遥 遠 忽 今 ﹂ 空送客還﹂. が間髪した運河。糧道を通ずるために長江の水を准水に引き入れた。﹃左伝﹄哀公九年︵前四人六︶ の条に、﹁呉城邪、清適江・准。﹂ ︵呉 邪に城き、溝ほ. りて江・准に通ぜしむ。︶と言う。ここは、腸帝がこれらを利用していっそう大規模に開整したいわゆる大運河を指す。江都郡で亡くなった牛弘の柩はこ. ︵誰か与に斯の遺芳を玩ぶべき、農に風に郷かって情を野ぶ︶とあり、転じ とムU. ︵曾て未だ其の巧笑を申べざるに、忽ち躯を夜台に倫む︶とある。﹁遺芳﹂は、多くの花々が散った厳冬期にも. しず. と林薄に死し、脛牒並びに御いられて芳は薄くことを得ず︶とあるから、この語も死のイメージと結びついている。﹁夜ムロ﹂は、墳墓のこと。沈約﹁傷美. もら. こを通って北上したのである。﹁林薄﹂は、むらがり生える草木。﹃楚辞﹄九章・渉江の﹁乱﹂に、﹁霧中辛夷死林薄今、腹膜並御芳不得薄今﹂︵露申と辛夷 つ. 人﹂詩に 、 ﹁ 曾 未 申 其 巧 笑 、 忽 冷 躯 於 夜 ム 巴. 高照 劉 皇 后. ︵﹃南斉憲﹄巻二〇、高照劉皇后伝︶. 宋の泰務元年︵四七二︶ に廻す、年五十。宣帝の墓側に帰葬す、今の奉安陵なり。 諒は智容は、広陵の人なり。⋮⋮. 高照劉皇后諒智容、広陵人也。⋮⋮来春複元年剋、年五十。帰葬宣帝墓側、今奉安陵也。. 囲で、﹃南斉書﹄﹃梁書﹄﹃南史﹄﹃親書﹄﹃北斉書﹄﹃周書﹄﹃北史﹄から南北朝期における帰葬の例を確認しておこう。. すでに述べたように、南北朝期においてもさまざまな理由で、郷里を離れて他国で死んだ例はしばしば見られた。ここで改めて先述した例と重複しない範. て、故人が残し留めた名声に喩える。第十九句から二十二句までは、明らかに帰葬の途次の描写である。. 香る、蘭や菊などの花。﹃楚辞﹄遠遊に、﹁誰可与玩斯道芳骨、農郷風而静情﹂. む. 42.

(14) 「帰葬詩」に関する覚書(一). 諒は徽は、高平金郷の人なり。⋮⋮建武五年︵永泰元年。四九人︶、高祖. 嚢陽の官舎に廻す、時に年三十二。其の年. ︵﹃梁書﹄巻七、高祖都皇后伝︶. 商徐州南東海武進県の東の城里山. 薙州刺史と為るや、之に先んじて鎮し、後乃. 高祖徳皇后都民諒徽、高平金郷人也。⋮⋮建武五年︹永泰元年︺、高祖為薙州刺史、先之鎮、後乃迎后。至州未幾、永元元年八月規子裏陽官舎、時年. の徳皇后都民. 三十二。其年帰葬南徐州南東海武進県東城里山。 高祖 ︵ 粛 術 ︶ ち后を迎う。州に至ること未だ幾ならずして、永元元年︵四九九︶八月. に帰葬 す 。. 先是有大中大夫娘邪王敬胤、以天監八年卒、遺命。⋮⋮吾気絶便沐浴、藍輿載P、還忠侯大夫旛中。若不行此、則戟吾戸於九泉。敬胤外甥許慧詔因院 研以聞 。 詔 日 、 敬 胤 令 其 息 崇 素 、 ⋮ ⋮ 帰 葬 忠 侯 。 かえ. はずかし. もう. 先に是れ太中大夫娘邪の王敬胤有り、天監八年︵五〇九︶を以て卒し、遺命あり。⋮⋮吾が気絶すれば便ち沐浴せしめ、藍輿もて戸を載せ、息侯大夫. ︵﹃南史﹄巻四九、王敬胤伝︶. の燵中に還せ。若し此れを行なわずんば、則ち吾が戸を九泉に我めんと。敬胤の外甥の許慧詔は院研に因りて以て閲す。詔して日く、敬胤は其の息の崇 素をし て 、 ⋮ ⋮ 忠 僕 に 帰 葬 せ し め ん と す と 。. 之を歎惜せざる無し。京師に帰葬す。. ︵﹃梁書﹄巻七、高祖院惰容伝︶. 諒は令扁、本姓は石は、会稽余挑の人。⋮⋮常に高祖の蕃に出づるに随う。大同六年︵五四〇︶六月、江州の内寝に蓑ず、時に年六十. 高祖院情容諒令哀、本姓石、会稽余挑人。⋮⋮常随高祖出蕃。大同六年六月、売子江州内寝、時年六十七。其年十一月、帰葬江寧県通望山。 高祖 の 院 修 容 七。其 の 年 十 一 月 、 江 寧 県 の 通 望 山 に 帰 葬 す 。. 周幾、代人。⋮⋮率洛州刺史子栗碍以万人襲陳城、卒干草、軍人無不歎惜之。帰葬京師。 したが. 周幾は、代の人。⋮⋮洛州刺史子栗碍の万人を以て陳城を襲うに率い、軍に卒す、軍の人. ︵﹃親書﹄巻三〇、周幾伝︶. 式子憲、字仲軌。⋮⋮以母老乞帰養、拝趨郡太守。遊惰与其川里、傭帰葬父母也、牧守以下畏之累跡、惟憲不為之屈、時人高之。 之が累跡を畏るるも、惟だ憲のみ之が為に屈せず、時人. 之を高しとす。. ︵﹃親書﹄巻三六、李憲伝︶. 式の子の憲、字は仲軌。⋮⋮母の老いたるを以て帰養せんことを乞い、趨郡太守に拝せらる。趨情 其の州里を与にす、情の父母を帰葬せんとする や、牧 守 以 下. ︵大統︶十年︵五四四︶、大行台度支尚書を授けられ、著作を領し、司農卿を兼ぬ。⋮⋮十二年、位に卒す、時に. 蘇縛字令綿、武功人。⋮⋮︵大紋︶十年、授大行台度支尚書、領著作、兼司農卿。⋮⋮十二年、卒於位、時年四十九。太祖痛惜之、哀動左右。⋮⋮及. 字は令綽は、武功の人。. 綿帰葬 武 功 、 唯 載 以 布 章 一 乗 。 蘇綽. 43.

(15) 後 藤 秋 正. 年四十 九 。 太 祖 ︵ 字 文 泰 ︶. 之を痛惜し、哀しみは左右を動かす。⋮⋮綿. 武功に帰葬するに及んで、唯だ載するに布車一乗を以てするのみ。. ︵﹃周書﹄巻二三、蘇綿伝︶. 慮潜、箔陽嫁入。⋮⋮武平三年、徴為五兵尚書。⋮⋮至却末幾、陳将呉明徹渡江侵掠、復以潜為揚州道行台尚書。四年与王琳等同陥。尋死建業、年五 十七、 其 家 購 屍 帰 葬 。. 王琳等と同に陥る。尋いで建業に死す、年五十七、其の家 屍を購いて帰葬す。. ︵﹃北斉書﹄巻四二、慮潜伝︶. 慮潜は、苑陽沫の人。⋮︰・武平三年︵五七二︶、徴されて五兵尚書と為る。⋮⋮鄭に至ること未だ幾ならずして、陳の将呉明徹 江を渡りて侵掠し、 復た潜 を 以 て 揚 州 道 行 台 尚 書 と 為 す 。 四 年. ︵14︶. これらの記録が正史に散見するにもかかわらず、喪葬や送葬を詠ずることはあっても、とりたてて帰葬を他と区別して詠ずることはない。その中で先に引. いた劉斌の﹁和許給事傷牛尚書弘詩﹂は、わずかに牛弘の帰葬を詠じている。この詩が存在すること自体、隋の統一後、遠距離の帰葬が可能となったことを. の人である、北周から隋に仕えた醇. に帰葬している。. 開皇初、擢拝尚書虞部侍郎、尋転考功侍郎。⋮⋮後其母疾、清貌甚憂痺、親政弗之識也。墜丁母難、詔鴻艦監 護. は、そのことを端的に示している。彼は母を夏陽︵陳西省韓城市の南。扮陰の西︶. 示している。当然のことだが晴代に至っても帰葬は子の使命とされていた。次に引く、河東扮陰︵山西省万栄県の西南︶ 清の例︵﹃隋 書 ﹄ 巻 七 二 、 孝 義 伝 ︶. 溶少 喪 父 、 早 孤 、 養 母 以 孝 聞 。 ⋮ ⋮ つと. おか. 甚だ憂棒するも、親政. およ. 之を識らざるなり。母の敷に丁たるに墜び、鴻艦に詔して喪事を監護し、夏陽に帰葬せしむ。時に隆. あ. 少くして父を襲い、早に孤にして母を養うに孝を以て聞こゆ。⋮⋮開皇の初め、擢でられて尚書虞部侍郎を拝し、尋いで考功侍郎に転ず。⋮⋮. 其の母疾み、清の貌. 清. 喪事、帰葬夏陽。干時隆冬極寒、清衰姪徒洗、冒犯霜雪、自京及郷、五百余里、足凍堕指、癒血流離、朝野為之傷痛。⋮⋮溶寛不勝喪、病且卒。. 後. 衰経・徒胱し、霜雪を冒犯し、京より郷に及ぶこと、五百余里、足凍えて指を堕とし、癒血 流離たり、朝野 之が為に傷痛す。 た. 寛に喪に勝えず、病みて且つ卒す。. 44. か。これに つ い て は 続 稿 で 述 べ る こ と に し た い 。. 箋待緯璽. 実際上北方の祖先の墳墓の地へ帰葬する手段がなかったことと大きく関わっているに違いない。それでは唐代に入ると帰葬はどのように詠じられるのだろう. 関心が薄かったというよりも、まだ詠詩の対象としては意識されることがほとんどなかったからだと言えよう。特に南朝において、南渡した者にとっては、. 以上、漠魂晋南北朝期には諌など一部の作品を除いて、文学作品、とりわけ詩において帰葬が詠じられることは稀であることが確認される。それは詩人の. ⋮⋮溶. 冬・極 寒 に し て 、 清. 、.

(16) 「帰葬詩」に関する覚書(一). ︵1︶韓愈は反葬の語を用いているが、帰葬、還葬、帰骨、帰骸などとも言う。以下、論述に際しては、主として帰葬の語を用いる。. 執筆にあ た っ て は 続 稿 も 含 め て 、 啓 発 さ れ る 点 が 多 か っ た 。. ︵2︶唐代における帰葬の実態については、中砂明徳﹁唐代の墓葬と墓誌﹂︵砺波護編﹃中国中世の文物﹄京都大学人文科学研究所、一九九三所収︶、特にその第一章﹁旅槻未だ帰らず﹂が詳細に述べている。. の、﹁雀陽在薙州藍田県西六里。﹂︵雀陽は薙州藍田県の西六里に在り。︶という記述を引く。. ︵3︶この記事は﹃史記﹄巻一五、六国年表三には、﹁太子質於魂者死、帰葬雀陽。﹂︵太子の魂に質たる者死し、雀陽に帰葬す。︶とある。雀陽の位置について、徐広は﹁覇陵﹂と言い、﹁正義﹂は﹃括地志﹄. によるもの、父母や妻子、友人や親族、また弟子やもとの下僚などの手によるものなど、さまざまな場合があることが分かる。. ︵4︶楊樹達﹃漠代婚喪礼俗考﹄︵商務印書館、一九三三︶第二章、喪葬、第二節、帰葬の項は、﹃漢書﹄﹃後漢書﹄﹃隷釈﹄などから多くの例を収録している。これによれば漠代の帰葬においても、生前の遺言. 並びに幼くして名を知られ、祥の愛する所と為る。二子. 亦時を同じくして亡す。将に死せんとするに、烈は旧土に還葬せられんことを欲し、芽は京邑に留葬せられんことを欲す。祥 流. 烈・芥並幼知名、為祥所愛。二子亦同時而亡。将死、烈欲還葬旧土、芥欲留葬京邑。祥流沸日、不忘故郷、仁也、不恋本土、達也。惟仁与達、吾二子有焉。 烈二分. 沸して日く、故郷を忘れざるは、仁なり、本土を恋わざるは、連なり。惟れ仁と達と、吾が二子は焉れ有りと。 つまり少数ではあるが、留葬を遺言することが﹁連﹂であるとして認められていたこともまた事実である。. ︵6︶一例を挙げれば、いずれも北魂の、﹁親政使持節城陽懐王元鸞墓誌﹂﹁大観征東大将軍大宗正卿洛州刺史楽安王︵元緒︶墓誌銘﹂﹁親政中散楊君︵阿難︶墓誌銘﹂など。. 絶。﹂︵ 天 才. 俊逸にして、文雅. 弘く備わる、心を学府と為し、辞を錦辟と同じくす、華を含みて藻を振るい、鬱焉として高致あり、川路に帰るを望み、t岩阿に閥を待つ、幽光忽ち断たれ、窮燈 焉滅. ︵7︶沈約﹁太常卿任防墓誌銘﹂︵﹃芸文類宋﹄巻四九︶は次のように言う。﹁天才俊逸、文雅弘備、心為学府、辞同錦韓、含華振藻、鬱焉高致、川硲望帰岩阿待闘、幽光忽断、窮燈黙滅、爾有令問、蘭薫無. す、爾 令間有れば、蘭薫 絶ゆる無し。︶. に帝畿と成る、望は実に隆重なり。︶. ︵8︶例えば﹃南斉書﹄巻一四、州郡志上の冒頭に以下のように言う。﹁揚州京輩神皐。⋮⋮元帝為都督、渡江左、速成帝畿、望実隆重。﹂︵揚州は京輩・神皐なり。⋮⋮元帝 都督と為り、江左に渡りて、遂. 筆。﹂︵ 所 謂 劉 三 娘 な る 者 な り 。 悌. 晋安郡と為りて卒し、喪. 建都に還る。妻. 祭文を為り、辞. 甚だ懐恰たり。憐の父勉 本と哀辞を為らんと欲するも、此の文を見るに及び、乃ち閣筆す。︶. ︵9︶﹃南史﹄巻三九は、﹁恍妻尤清抜﹂以下を次のように記述しており、﹃梁書﹄と若干の異同がある。﹁所謂劉三娘者也。憐為晋安郡卒、喪還建桝。妻為祭文、辞甚懐恰パ悌父勉本欲為哀辞、及見此文、乃閣. 裂軌 傷 不 尽 裂 執. 傷み尽きず のぞ 恨み社き難し. ︵10︶簡文帝粛綱の﹁怨歌行﹂︵呉兆宜箋注本﹃王台新詠﹄巻七︶には、次のように﹁帰骨﹂の語が見えている。. 帰骨 恨 難 社 帰 骨. この句について箋注は、先に見た﹃左伝﹄成公三年の条と播岳﹁寡婦賦﹂を典拠として挙げている。しかし、この﹁怨歌行﹂も班捷好の﹁怨歌﹂︵同﹃王台新詠﹄巻一︶を踏まえ、寵愛を失って死後も. 郷里に埋葬されるかどうか分からない官女の怨みを詠じており、実際の帰葬を言うものではない。. ︵11︶劉斌について﹃隋書﹄巻七六、文学列伝は、﹁南陽劉斌、頗有詞藻、官至信都郡司功書佐。賓建徳署為中書舎人。建徳敗、復為劉間中書侍郎、与劉閥亡帰突厭、不知所終。﹂︵南陽の劉斌は、頗る詞藻有. は、劉閲を劉異聞に作る。劉黒閤︵?−六二三︶は賓建徳︵五七三−六一二︶の部将で、突験の兵を借りて独立の勢いを示したが、唐軍と戦って敗死した。. り、官は信都郡司功書佐に至る。賓建徳著して中書舎人と為す。建徳敗れ、復た劉聞の中書侍郎と為り、劉閥と突既に亡帰し、終わる所を知らず。︶と言うのみで、生没年は不明である。﹃北史﹄巻八三. ︵12︶ 甘粛省霊台県。. 45. が見えて い る 。. し、卒する所に留葬せしむ。︶という記述があり、遺志によって亡くなった場所に埋葬、すなわち留葬し、帰葬しなかった例のあることも知られる。さらに﹃晋書﹄巻三三、王祥伝にはつぎのような記事. ︵5︶ただし、察邑が陳塞のために撰した﹁陳太丘碑文﹂︵﹃文選﹄巻五人︶には﹁中平三年八月丙午、遭疾而終。臨没顧命、留葬所卒。﹂︵中平三年︵一人六︶八月丙午、疾に遭いて終る。没するに臨みて顧命. ′.

(17) 後 藤 秋 正. ︵誓﹁邪﹂を﹃初学記﹄は﹁邪﹂に誤り、﹃文苑英牽﹄は﹁邦﹂に誤る。﹃古詩紀﹄巻一三六に従う。. ︵空このほか杜文潤﹃古謡諺﹄巻九〇には、以下のように﹃暢帝海山記﹄に引かれる﹁歌﹂を収録している。. 隋の腸帝の大業十年︵六一四︶、東のかた維陽に草し、竜舟に御す。中道にして、夜半に歌う者の甚だ悲しむを開く。其の辞に日く云云。帝. 又困隋碇道. 飢死青山下. 前に去くこと三千程. 方今. 今我は竜舟を挽き. 我が兄は遼東を征し. 煙草に泣く. /\る. 安んぞ保つべけん. 些小も無し. いささか. 幽魂. 此の身. 路程. 荒沙を枕にし. ︵札幌校教授︶. ﹁歌﹂は、隋朝練治下で船曳きの苦役に従う者の苛酷な現実を反映している。詩歌には詠じられていないものの、帰葬を待つ多くの死没者が存在したこともまた事実である. 其の歌を聞き、遠かに人を遣りて其の歌う者を求めし. 隋腸帝大業十年、東幸維陽、御竜舟。中道、夜半開歌者甚悲。其辞日云云。帝間其歌、遽遣人求其歌者、至暁不得其人▲。帝頻彷裡、通夕不落。. 我見征遼東. 路糧無些小. 寒骨 望みは吾が家の老を断つ. 寝ねられず。. 今我挽竜舟. 此身安可保. 此の主簸きの屍を焚き. 悲しみは門内の妻を損ない. 頻りに彷但し、通夕. 方今天下餞. 幽魂泣煙草. 安くにか義男児を得て. むる に 、 暁 に 至 る も 其 の 人 を 得 ず 。 帝. 前去三千程. 望断吾家老. 青山の下に餓死す. 寒骨枕荒沙. 焚此無主屍. 其の白骨を負いて帰らん. 隋堤の道に困しむ. 悲損門内妻. 其の孤魂を引きて回り. 女. 安得義男児 負其白骨帰. 天下磯え. 引其孤魂回. ︹追記︺本稿の骨子については、本年七月五日の六朝学術学会第九回例会︵於青山学院大学︶で発表した。. 無名氏のこの. 46.

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