T・S・エリオットの『四つの四重奏』における時間意識
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(2) . 北海道教育大学紀要 (第1部A) 第44巻 第1号 I 44 i Sec i i t ido Un iver ty ofEducat lof Hokka onIA) Vol on( s Jouma . ‐ , No. 平成5年7月 ly Ju ,1993. T・S・エ リ オ ッ ト の 『四つ の 四 重 奏』 に お け る 時 間 意 識. 菅. 井. 隆. 良. は じ め に. 小論の四つの章でそれぞれ冒頭に置いた引用は, 独立した固有の表現形式と意味内容を持ち, 相 互に何の因果関係もないため唐突の誹りをあるいは免 れないかもしれないが, 一定の時間経験の脈 絡の中でいわゆる起承転結を概括的に方向づける役目をそれらに担わせるというのが筆者の意図で ある. この場合の脈絡とは, 各引用の内容が示唆する ごとく, 均質で無目的な量的時間の不可逆な 流れの中での消滅の不安から可逆 的な内的時間経験の物語化による再生の期待へ, という現代の西 欧人の精神の逼塞を解放する可能性の模索を意味している. そしてこの脈絡が終始一貫して持続す ることを単に言葉で叙述するだけ でなく ・論の形式そのものに語らせる方法を探るうち, 筆者は論 旨の核心部をなす第m章から音楽のソナタ形式応用の着想を得, さらに引用の典拠を示す書名 をそ のまま章題として用いるの が有効 であることを発見するに至っ た. 具体的にいうと, 呈示部に当た 工章の章題にそれぞれ第一主題と第二主題を奏でさせ, 次いで展開部の第m章でそれ る第1章と第1 らを具体的な詩作品の中に取り込み, 最終章は再現部として第1章とおなじ章題が与えられるとい う趣向である. しかしソナタの第一楽章を念頭に置きソナタ形式を応用して表現される小論の主題は, ソナタの 主題がいくつかの動機の集積によっ て形成され, その内容よりもむしろなにものかに生成発展する プロセスに重点が置かれるのに対して, それ自体が既に最初からなにものかを表現しているという 点 に お い て, ソ ナ タ で は なく フ ー ガの 主 題 に 適 合 し て い る と い え る か も し れ な い. こ の こ と は, 章. 題と冒頭の引用とが同時に別の角度から主題がなにものであるかを示す役目を担うという, 小論の ポリ フ ォ ニ ー 的 構 成 に よ っ て 裏 打 ち さ れ,よ り 明 確 に な る で あ ろ う.な ぜ な ら ソ ナ タ は ホ モ フ ォ ニ ー. を本質とする楽曲であっ て, いわゆる対位法的処理には馴染ま ないからである.. I LA MORT: UN TERME OU UN COMMENCEMENT l NOSsouvenirs ne sont plus qu’un visage denous t ia mor ‐meme de ,et que nous contemp ons ible eme inaccess depui ‐ロー 【 1mes comn 〔 1 e a nous s une autre rive oQ nous son ‐ Nous Voyans. facer des Pans entiers de notre existence oa nous estrevき足,de ja gef ,ce que ごest que nous i ; reun V ・encedel 1 10食 est unie a notreexPer a rd sage aimを‐ L’exPさrience delal perdre ,etpe i i i ion Continue denous tque nous t 1ne1 〕 〔 1e …meme a nous‐ a e dans cette esP邑ce de d sPar vi ,qm f ien ibl i e de ne saluonsiama s un iour nouveau sans prendre cong6 dunio世 anc ‐ lmposs , i i 3Prouver 1 二 re f ixer un instant de notre ▽ tさ de toute tentative qu1 e absurd Pretend ,sansi 115.
(3) . 菅 井 隆 良 t vaincrel ti rai croi a mor. [呈示部:第一主題 (死は終わりか始まりか)] [起:消滅の不安] 円環的時間の概念に直線的時間の概念を対比し, 古代世界におけるヘブライ ズムの特異性を強調 す る の は よく 知 ら れ た 図 式 で あ る. 確 か に わ れ わ れ が ”untermeouul lcommencement” と いう 言. 葉によっ て想起するものは, まずヘレニ ズムにお ける円環的時間 の概念の方であろう. 時間の概念 はそもそも太陽や月の天球 での周期的運行に対する生活上の意識から生じたのであるから, 宇宙の 森羅万象を周期的に把握し時間には始まりも終わりもないと考えることは, たとえば真木悠介の四 つの時間形態の図式における ごとく周期性を円環と反復とに分別する解釈が認められるに しても,2 自然の成り行きに即 したものとみなすことができる. したがっ て古代ユダヤの民が自然のサイクル から遊離した直線的時間の概念を創出受容するについては, 当然しかるべき原因が存在したはずで ある‐ ヘ ブライ ズムが初めから円環的時間の概念と無縁だっ たわけ でないことは, たとえ ば伝 道の書 きき のち こと l i ) 第一章における伝道者の, 「先にあっ たことは, また後にもある,/先になされた事 (Ec t c e s as e s ち ひ あ の した たら は, また後にもなされる./日の下には新しいものはない.」 (1. 9 )という言葉から容易に知れる‐ しかしこのような記述は旧約聖書では極めて稀な事例 であり, ユ ダヤ教が首尾一貫して説く教理の 枢要が宇宙の出来事の一回性, つまり非円環あるいは非反復の主張に在ることは明らかである. そ してこのことは, かつてない受難を経験したユ ダヤの民がその受難の歴史は一回限りのものであっ て未来に民族の救済が待ち受けていると信 じるための必須の条件であっ た. すなわち民族の救済へ の期待が直線的時間の創出と受容に寵められていたと考えてよい‐ 個人の魂の救済という普遍的な目的を掲げて不可逆な直線的宇宙観をユダヤ教からそっくり受け 継いだキリスト教は, キリストの死と復活を新約の啓示に基づくその救済史の起 点と定め,「かつて 一一 いま -- のち」という時間区分のいずれにおいても, 聖書による歴史事実の一回性という時間的 lmarm) は, キ リ ス ト 教 の 本 質 特 質 を 強 調 す る. こ の 点 に 関 連 し て オ ス カ ー・ク ル マ ン ・ (oscarCul. 的中核をなす聖書的救済史における時間把握の特徴を次のように分析している‐ 第一には, 救済が過去現在未来を包括する連綾した時間的出来事に結びつけられている. 啓示 と救済は上昇してゆく 時間の線上において行われる. ここに新約聖書の巌密に直線をなした, 線 的な時間の考え方が, ギリシャ の園環的なそれに謝し, 又救済が常に 「彼岸」 にあっ て自由にな るとする, すべての形而上拳に謝して, 一線を劉くさねばならぬ. そして原始キリスト教の考え によれば, いかに啓示及び救済が, この連績する時間のなかに, 聯関をもっ て 「起る」 かが示さ れねばならぬ. 第二に, この救済史的な時間評慣の特徴をなすのは, この救済の線のすべての難が, 中心たる 一つの歴史的事費にむすびつけられていることである. 即ち, まさにその平凡な一回性において 救済を決定的にする, イエス・キリストの死と復活という事責である. ここにおいて示されるべ きは, いかに全億の線の種々な個々の部分 が, たえずこの中心から規定せられていて, しかもそ の濁自の時間的な意義をもっ ているかということである.3 i ク リ ス チ ャ ン・シ ャ バ ニ ス (Chr ianChaban t i ) が冒頭の引用 で記述するごとく, 無限に流れ去 s s 116.
(4) . T・S・エリオットの 『四つの四重奏』 における時間意識. る時間意識の中で消滅の不安におののく人間 が, クルマンの描く救済を目的とする質的な有限の線 分による時間表象を媒介に自己の肉体の終わりの一 点を 見 つ め て い る の で な い こ と は 明 白 であ る‐ ) の 断 章 の 一 部, i この消滅の不安は, 真木悠介が人間の生死の認識に対する パスカル(B1 a sePascal 「なぜなら この世で生きる時間は一瞬にす ぎず 死の状態は その性質がどんなものであるにせよ, , , , 4を引用 して説く 「近代的理性そのものを究 永遠であるということは疑う余地がないからである」 , 5と同一のものであって パスカルの願いも虚しく神によっ て予定された 極においてふちどる恐怖」 ,. 道を自らの自由意志で離脱し, 無限の直線によっ て表象される均質で無目的な量的時間の世界に足 を踏み入れた西欧近代人の精神が行き着く当然の帰結というべき であろう‐ 肉体力轡滅びた後人間には何も残るものがないのではないかという不安は, 現実の生の営為の虚し さと容易に一体化する. 過 ぎ去っ て決して戻らない過去, そして現在も未来も途切れることなく過 去に飲み込まれて消滅するという永遠に続く時間の破壊作用から生じる生の虚無は, 皮肉なことに ルネ ッサンスの人間復興の精神にまでその源をたどることができる‐ Sheshould have 止 i ed hereafter; There would have been a ti・neforsuch a word‐ To-mon r ow,andto-moーばow, andto-morrow, Creepsi i nth s petty pace from dayto day. ime labl Tothelastsyl eofrecordedt , ightedfool And ai lour yesterdays havel s l i ! The way to dusty death efcand e ‐ out ,out ,br , l Li fesbut a Walking shadow, a poor p ayer i Thatstruts andfrets h s hou丁s upon the stage i Andtheni ti e sheard no more:i s ata Toidby anid iot lofsound and fury, ,ful 6 fy Si ing not恒ng ) gmi ‐(V‐v - l l iam shake シ ェ イ ク ス ピア (Wi ) は十七世紀初頭に既に, 王妃の自殺の報を受けた国王 spear e ベ labl im ざ l tsy マ ク ス (Macbeth) に 人 生 の 虚 無 を 露 わ に 述 懐 さ せ て い る. ”thelas eofrecordedt. が表面上はキリストの再臨と最後の審判を表象してはいるものの, そこに至る時の歩みは三度くり 返される ” t row’が暗示するごとく単調無意味で,クルマンが説く救済を目的とした質的緊張 o ‐mor ) へ と 流 れ 去 り, 束 の 間 terdays to‐morrow) は 無 為 に 過 去 (yes は 微 塵 も 見 出さ れ な い. 未 来 の 時 (. の生の現在には何の価値もない‐ マクベスという明断な近代の精神は, 無限の時の流れを前にして 後に パスカルが危倶し, 以後現代の西欧人の多くが実感として悟る己一個に限らない消滅の不安を 見事に予見しているとみて 差し支えない‐. 1I LE TEMPS VECU ionintegal i ique sur un temps i Cetabl tき psycb tat d’mle pro ( { ject e deia rea eau estieresul ’ i i f i i i i h i U d i t i b i e t t t s r n o e t c u u r u e s o 花 j n ve Psychique suf o ec v , e q e ConGo a p y que p . i tさ etabl eau en question ne correspond aucunement ala real pourtant pour montrer que i ‐ 117.
(5) . 菅 井 隆 良 Tout d’abord nous ne vivons Pas du tout le te l 工 l l l lne une success・on l 工 IPs u副ique ent col. lanent l l iVerse tue sde notreconscience,com江lele Veut Ziehen;nousConnaissons edesd Perpき d’ l ement 〔定立Ie que 広 Ienes 二 ・ こ r del encorel s a dur巷e de ces e es pheno〕 e factet , autre part ,l ,de n ta1 ayanttrai a m a工Ioirecontiennenten eux. erepport:passe-present,rapport nese1aissant 7 ion defai ts ) ) point ramener a une simple success ‐” .. [呈示部:第二主題 (生きられる時間)] [承:瞬間の継起] ルネ ッサンス以降の西欧近代社会において, あるいはその影響を強く被っ た世界のいかなる文明 社会においても, 時間は外面的には時計によっ て空間化された時刻によって表象される. そしてそ. の場合時計の文字盤は十二等分 され円環の形を取るが, 抽象的な量としての時間の概念は無限に延 i 長される直線上の無数の点の連続として認識されてきた‐ いわゆる 「厳密学としての哲学」 (Ph ‐ 「 losophi f ) が分析の対象とする根源的な意味での 存在としての時間」 t e al s strenge Wi s sen s cha ) に 関 し て, ユ ー ジ ェ ー ヌ ・ ミ ン i (Ze t t al i ) とは対立するこの 「日 常 的 時 間」 (Vulgare Zei s se n コ フ ス キー (Eugごne Mi i ) が時間論と精神病理学とを結合しようとする試みの中でいみじ nkowsk くも, 「日常生活に於て時間が問題となるときには, われわれは本能的に時計を引っ ぱり出し, ある カレンダー いは 暦 に目をやる‐ あたかも時間に関しては, すべてが, 各々の出来事に定っ た点を指示し, 次い 8と述べるごとく で, それらを互いに分っ距離を, 年, 月, 時間で表わすことに帰するかのように.」 , 近代の西欧人は時間の無目的で均質な空間的計量化を日常的に容易に行っ てきたのである‐ 上述の外的時間経験と人間の内的時間経験すなわち 「生きられる時間」 との垂離は, 前者が瞬間 を固定し時間をその継起として捉えるのに対して, 後者は人間の存在そのものが持続する時間であ. るという, 両者の本質的違いから必然的に発生する. そしてこの場合も前章と同様に, シェイクス ピアが好個の一例を提供してく れる. l ROSALIND(お CB lspeak to him l ike asaucyl Z鉱)lwi tplaythe ackey ,andunderthathabi knave wi thhim‐. ( o oγ卿7 240) Do you hear,forester? ORLANDO Very we hat would you? l l . Wr ’ h ROSALIND 1Pray you w atis’t o lock? c ,. ’ ORLANDO Youshould ask me whatt ime o’ day. There s no clOCkinthe forest . l ighingevery minuteandg1 ROSAL1ND Thentherei t snotn1eloverinthefores ses roaning ,e l ime as we l las a c ldde tectthelazyfootoft every hour wou ock. f ime ? Had notthatbeen as proper? ORLANDO And why notthesWi tfootoft. 「. ’lte i l ROSALIND By no means ivers paces wi i l l th d verspersons ‐ 11 ,sr. Time travesin d imegal l imeambl imet thal thal thal rotswi opswi es wi you whot ,whot ,whot ,and whohe 9 1 1 1 i l l wi l i tha ) tandsst s .i . ‐ ( lock,no cl こ の例 は げc l ock, a c ock という語呂合わせに絡めて, 内的時間経験が個々の人間の 存在の根元に密接に係わっ ていることを示している. ミンコフスキーが人間によっ て生きられる時. 間は時計によっ て空間化された測定可能な量としての時間と重なり合うことがなく, また固定され 8 11.
(6) . T・S・エリオットの 『四つの四重奏』 における時間意識. た瞬間の継起に還元されないと主張するのも, この点を根拠にしているとみてよい. しかし生きら れる時間が空間化された時刻の表象でもっ て表されない何ものかを含むと仮定して, それでは可逆 的に流鋤’して止まない意識と一体化された内的時間経験において, 現在における瞬間の固定という 意識中断を行わないで人間は どのようにして過去と未来を明確に識別しうるのか. ジ ョ ル ジ ュ.プー レ (Georgespou l ) は個人の内面を流れる人間的時間の研究の冒頭でモンテー t e IEyquem de Monta i隊]e ) を 取 り 上 げ, 次 の よ う な 問 い を 発 して い る. ニ ュ (Mi che モ ン テー ニ ュ が 自 己 の 思惟を《記録すること》をはじめる以前, それがす でに一つの物語をもっ. ていたとどう して言えよう?物語は彼が書きはじめた瞬間にしかは じまらない.なぜなら,書く行 為は, それが彼の場合のように脈絡のないときでさえ, 触知されないものに身体を与え, 単に精 ー よさ 神を通っ たにす ぎないものに形体を与えるからである‐ では, 彼が 《記録する》 ために筆を取り 0 は じめ る 以 前, モ ン テ ー ニ ュ の 思 惟 は どこ に あ っ た の だ ろ う か ?1. 書くという行為は思惟の流れを中断して瞬間を固定し, さらに絶え間なくゆらめき動く思惟を固定 された各瞬間の継起の集合として静止態に変えることである. その際, 固定された瞬間の継起すな わち物語に還元されない思惟内容は, できあがっ た物語をめ ぐる新たな思惟の中に取り込むことが 可能となり, 最初の思惟内容と物語との間に生じる空隙は埋められる. これを敷宿すると, 内的時間経験についても同じことが言える‐ つまり 現象学でいう絶え間なく 流れる意識という時間構成の場 でもっ ぱら認識される限り, 生きられる時間は現在の時間経験に限 定され, 現存しない未来と過去の時間は暖昧にしか捉えられない. 中島義道が 「私は, 意識流に直 接問いかけても, ある過 ぎ去っ た知覚内容が現在からどれだけ隔たっ ているのかに関して, ほとん 1 1と述べるのは 内的時間経験の現象学的認識における上述の欠陥を指 ど何ものも決定できない.」 , lmmanue I 摘してのことである‐ しかし小論は, それではということで彼が拠り所とするカント ( Kan )の純粋直観構成による客観的時間に飛び付きはしない. なぜならそれは固定された瞬間の継 t 起を結果的に無限の直線による不可逆的時間表象と結合させることになり, 生きられる時間が全体 として一瞬に過 ぎず, もの皆消滅へ向かうのを免れないという死の恐怖を助長するだけだからであ る.. もの皆消滅へ向かうのを免れないという不安は前章で既に述べたように, 因を質せ ば近代西欧人 の合理主義の精神 が人間を単に科学の-研究対象に還元しようと努めたことの当然の帰結 であっ て, プーレはモンテーニュ を科学的合理主義が創り出す進歩の世界と人間の内面に生起する秘めら れた瞬間の世界との垂離を初めて認識した近代人として捉えているのである‐ モンテーニュ がその lan Kl 垂 離 を 解 消 す る た め に 用 い た 方 法 の 正 当 性 を, ミ ラ ン ・ ク ン デ ラ (Mi mldera) は ヨ ー ロ ッ パ. 斤代の繁明期以降, 小説は人間のつねにかわらぬ忠実な伴侶 です. このと の小説の精神について, 「近 き, 〈認識の情熱〉 が人間を捉えますが, それは人間が人間の具体的な生活を探求し, 〈存在忘却〉 1 2 からこの具体的な生活を守るためであり, 〈生の世界〉 に絶えず照明をあてておくためなのです.」 IRi と述べる中で間接的に擁護しているが, ポー ル・リクール (Pau ) は全三巻から成る大著 c鑑ur でもっ てそれよりはるかに大がかりな理論づけを行っ ている‐ 具体的には物語の言述と時間の経験 の相互性を検証するために二つの仮説を掲げ, リクールはそれらが 「時間と物語の間の相互的条件 づけ, 相互的決定を表している」 ことを強調するのである. 1‐ 人間の時間経験は物語言述のおかげで言語のレベ ルで分節されてはじめて意味をもつもの で 119.
(7) . 菅 井 隆 良. あり, その物語言 述ば, 歴史的物語とフィ クショ ン物語 (民話, 叙事詩, 戯曲, 小説, な ど) と いう ち が っ た 形 式 を も つ.. 2. 物語の主要な機能は時間の諸相を明らかにすることであり, その時間の諸相は, 自然の継起 する出来事の単なる年代順には還元されず, かえっ て, 緊張の度合, 形式の順位といっ た質的 3 な相を, 要するに線状的でない構造論的特徴を提示するもの である.1 かく して プー レから始まりクンデラを経てリクールヘと上昇する内的時間経験の物語化のモチー フは, これまでに呈示された二つの主題を持続し発展させようとする力, すなわち人間の内面に生 起する秘められた瞬間の世界の復権を願う魂の琴線を震わし,次の展開部への扉を開くことになる.. 11I FOUR QUARTETS ime past 1in[ l e present andt Areboth perhaps presentin ti lne future , ime past Andt imefuture containedint ‐ ltin ly present l fal [ : l ei seternal AI 1t imei s unredeemable‐ VVhat mighthavebeeni s an abstruction Rema bi l i i ty lmng a perpetualposs onlyin a wor ld ofspeculation. VVhat mi ghthavebeenand whathasbeen 1 4 Pointt。 one end chis always present ‐ , Whi. [展開部:四つの四重奏]. [転:可逆的時間経験] 文学における音楽のアナロジーは言葉の厳密な意味においては適用が不可能である. 理由は二つ あり, その一つは楽曲が, 一方に音楽が近代以降に到達した他の芸術鈴頂域に比類のない業績の高さ を評して,「しかし,そのために,音楽は何という大きな犠牲をはらわなければならなかっ たことか/ わたしは, 何も 《近代》 を十ばひとからげに呪うものではない. けれど, すくなくとも, 音楽に関 しては, このような 《近代化》 は, 一 口にいっ て, 音楽の 《標題楽化》 をもたらした. 人生観的意 1 5と慨嘆する声はあるにしても ともかく純粋に物理的な振動として 味づけを,音楽にもちこんだ.」 , の音にのみ依拠して人間の心になんらかの情念を喚起 するのと比べて, 文学の媒介手段 である言語 は外延が定まっ た意味内容を伴っ て常になにものかを描写するからである‐ 両者の違いを具体的な比較によっ て検証してみよう. 図 1 は ベ ー ト ー ベ ン (Ludwig von Be hoven ) の弦楽四重奏曲第四番 (ハ短調) の第一楽章, t e. 第一 バイオリンが奏する冒頭部分である.第一主題を構成する六個の動機は個別的には弱小 で,個々 lに入る形で始まる第一動機の4度 の動機そのものより バイ オリンの最低g音からハ 短調の基音c 3小節 鋤こ至るまでに第一主題がどのように形づく の跳躍を本質的特徴として,第六動機の最後の1 られるかが重要性を持つ. この第一主題の旋律が, シンフォ ニーであれピアノ・ソナタあるいは バ 120.
(8) . T・S・エリオットの 『四つの四重奏』 における時間意識 図I. 1 6 4 STRE工CHQUARTETT Nr ‐. 0.! . のー. w. J ザ し ,,,. ′ーiー. . .. I. 1 ー. . …. . (. . ,当 洋翁F EE 鱒一. 〆 r C ど S C .. 1. ド , 1. 1 . イオリン・ソナタであれ, ハ短調のベ ートーベ ンの作品に対する 「宗教的な匂いをもっ ていて悼ま 1 7などという標題楽的 思い入れをまっ たく排除してなお 聞く人の心に憂いの情を喚起するこ しい」 , とは何人も疑い得ない. このことはハ長調からヘ長調およ び変ロ長調を経て下降するハ短調の調性 と, 意図的に秩序を保っ て特定の旋律を奏でる楽音の音響的特性とにもっ ぱら由来するものであっ て, 個々の楽音が, そして動機が, さらに主題が何らかの不安と悲しみの物語を語るわけでは決し て な い.. 音楽と対照的に, 文学がもっ ぱら言語の音響的特性にのみ依存して独自の表現形態をとるのでな. to‐morroW と い こ と は, 第 1 章 で引 用 した マ ク ベ ス の 独 白 が明 示 し て い る‐ 既 に 指 摘 し た と お り, ‘. ‘ ’の繰り返しはなるほど音響的に 虚無感を人の心に喚起するが それは次に続く数行が描写する and , 「明日」 という未来の時の来るべき姿を補足的に暗示するだけであり 音自体 が動機となっ て[人生 , t には何の意味もない] という悲劇の 主題を形づくるわけではない.‘ r row が「明日」 という意 o ‐mo 味内容を伝えて初めてこの一行の音響的効果が生きるの であっ て, 先に例示したハ短調第四クワル テッ トの六個の動機とはその機能が本質的に異なることは明らかである‐ 文学に音楽のアナロジー が厳密には適用 できない理由の第二は,両者の時間的特性の違いにある‐ 上に掲げた楽譜において六個の動機は不可逆的に連続して第一主題を形成するのであっ て,1譜面上 左から右へ推移する時間の流れが逆転することはない‐ しかしマクベ スの独白の場合は, 言語音は テクスト上楽音と同様に左から右へ不可逆に連続するが, その意味内容に関していえば, 現在とい う時の一点におけるマクベ スの内的時間経験の中でシェイ クスピアは, 天地創造から現在に至る過 去の, そして現在 から最後の審判に至る未来の人間の有り様を分節し, 人間によっ て生きられる時 間の三つの相を瞬間の固定を通して可逆的に構造化してみせるのである‐ クリスチャン・サーモン i ianSalmon) と の ・説 の 技 法 に 関 す る 対 談 の 中 で ク ン デ ラ が ジ ェ イ ム ズ・ジ ョ イ ス ( (Chr Japnes t s. ) の達成した成果を, 「現在というものほど明瞭で確実な, そして明白なものはないとも見ら joyce れるでしょう. それでいて現在はまっ たくつかめない. 人生のあらゆる悲しみはこの事実にありま す‐ わずか一秒において私たちに視覚, 聴覚, 喚覚は多くの出来事を (意識のあるなしは別に) 登 録し, ひとつながりの感覚と観念が脳を走ります‐ 一瞬一瞬がひとつの小世界となり, 次の瞬間に は忘 、れられてあとも どり できない‐ ところで, ジョイスのす ぐれた顕微鏡はこのうつろいゆく瞬間 1 8と評するのも 物語言述による内的時間経 を固定してとらえ,読者に見せることができるのです.」 , 験の瞬間の固定の方法に着目するからである. 以上の二つの理由から, 文学にとっ て音楽のアナロジーはもっ ぱら形式面に限定されざるを得な 121.
(9) . 菅. 井. 隆r 良. い の であ る‐ し た が っ て T・S・エ リ オ ッ ト (ThomassteamsE 1 i ) が詩と音楽の関係について, t o 「詩が 一つの主題を異っ た楽器群で展開するのとある程度似通っ た方法をとることができましょう , し, また一つの詩の中で交響曲や四重奏の楽章になぞらえて調を変えることもできる でしょう. 主 1 9と述べ さらにクンデラが自己の創作技法の特徴に触 題の対位法的処理ということ も可能です.」 , 2 0と音楽における技術的な側面と れて,「おお ざっ ぱにいっ て同じことが小説にもあてはまります‐」 の関連を強調するのは至極当然のことといえる. エ リ オ ッ トの F鰯γ Q加ガ8為 はその標題が示すとおり, クワルテッ トに準えた四篇の詩で構成さ. れ, 各篇は五部から成る‐ もともと独立して発表された四つの詩篇が, 後にエリオッ トの詩作活動 b i ) が ”β粥 川 l の集大成として一つに纏められたものであるが,、ヘレン・ガー ドナー (He er enGarご Z i 1963 鋼o汚伽 waspubl )andi t wasa t wasthe eded Poβ粥s( ・ u louncedthenthati shedinthe COZ f i tet rstof a series offour Quar s賜1 と 指 摘 す る ごとく, エ リ オ ッ ト が初 め か ら 何 ら か の 統 一 的 構. 想を持っ ていたことは, 四篇が構成上緊密に相関している事実からして間違いないであろう‐ この 場合筆者が統一的構想を想定す ると, 緊密な相関を持ちながらも四つのクワルテッ トが独立を保っ 2ではなく もっ と積極的に緊密の度合 てそれぞれ五つの楽章を持つという二宮尊道の指摘する形2 , いを高め, 四つの楽章がそれぞれ五部構成をとっ て 一つのクワルテッ トを形づくるということにな 3一つの楽章が全体として呈示部なり展 る であろう.なぜならソナタ形式の応用を認めるとすれば,2 開部あるいは再現部なりに相当するなどと考えるのはきわめて不自然だから である‐ しか しエリ オッ トのクワルテッ ト構想が実際には底の浅い上っ 面だけの構想であっ て, 方鋤γ Q加“eぉ はクワ ′ ルテッ トとは似て非なるものであることが容易に判明する‐ 四つの楽章がすべてソナタ形式とは, 第二楽章が緩徐楽章でない上に, メヌエッ トもロン ド形式もないクワルテッ ト/四つの楽器がそれ ぞれどの部分 を受け持ち何を奏でるというのか?F鰯γ Q卿だβ Z sは何よりもまず, たとえどんなに 皮相であっ てもともかく音楽のアナロジーから解放される必要がある.. β“粥Z NOだo” の第1部が呈示する主題はこの一篇の主題 であると同時に, 四篇全体を貫く統一 主題でもある. 冒頭の 「時・ に関する 思索はこの主題の中核をなすが, エリオッ トはわれわれの意 表を突いてヘレニズムにおける円環的時間の概念をいきなり呈示して見せる. エビグラフとしてギ てHpを〃入”て”) の断 リシャ 語そのままで引用された, かの 「万物流転」 の哲学者ヘラクレイ トス ( ‘ ‘ ’ 2 4が 円環的時間の中にわれわれを導き入れる役目をかく 片 も 6ゞ 後シの 〃αての 腸α 瓦解 も 飾ろ’ , も直裁に果たすことに感嘆すると同時に, われわれはまたその時間の概念と既にイ ギリスに帰化し. プロテスタントからアン グロ・カトリッ クに改宗した信仰者としてのエリオッ ト像との垂離に奇異 の感を抱かされる. しかし改めて考えなおしてみるまでもなく, エリオッ ト自身がユニテリアンで あろうとアン グロ・カトリッ クに改宗しようと SF鰯γ Q加“eな はあくまでも架空の物語言述の世 界であっ て, エリオッ トがそこに自己の内面の信仰をあからさまに吐露したとは 思われない. それ どこころかかえって初期の詩から おo粥 Q加“eな に至るまで通して, 信仰を単に知的に対象化し非 宗教的な認識の世界を模索してきたとさえいえるのである. エリオッ トが自己の人間としての存在とその社会的使命の基盤をキリスト教の信仰に求めたこと は, それがアングロ・カトリ ッ クであっ た理由はさて措いて紛れもない事実である.このことは1 930 2 6 年代に行われた宗教的匂いの強いいくつかの講演に端的に現れているが, 他方において文学が文 7エリオッ トは両 学以外のもののために利用さ れることへの拒絶も強く主張されていることから,2 122.
(10) . T・S・エリオットの 『四つの四重奏』 における時間意識. 者をいかにして矛盾なく自己の魂の器に収めることができるかという難問の解決を終生の課題とし 39年にケン ブリッ ジ大 学 で行っ た 講演‘The たと考えてよい であろう. したがっ て, たとえ ば19 ianSoc i ldeaofaC 1垣i ety を引き合いに出して, F鰯γ @≠“e鳶 からも同じように, 「統一的な精 st 2 8に対抗する 神の指導原理をもたない大衆社会のすきまに割りこんでこようとしていた, 異教主義」 ものとしてキリスト教社会の理念の復 活を熱望する宗教的傾斜を読み取ることは, 人間エリオッ ト の実像からも おo昭 Q粥“eな の文学作品としての実像 からも遠 ざかるという, 晶展の引き倒し的結 t t 果を招く可能性が強いと思われる‐ 四つの Qua r e sの統一主題が円環的な時間把握にあり, 非キリ スト教的色合いを強く 表出していることは否めない事実であるが, かといっ てその事実はエリオッ トの宗教的理念が非キリスト教的であることの証拠にはならないのである. E鰯γ Q伽巧ぽ鳶 の描出 する世界が基本的に架 空の世界であることを再度思い起こすべきであろう. 上述の非キリスト教的な円環の時間概念の構図は, ヘラクレイ トスのエビグラフに続いて, エリ オッ トの時間意識と密接に 結びついて標題として用いられて いる四つの地名 によっ ても暗示され 9 エ リ オ ッ ト は BurntNorton「昔 日 の る‐ こ の 点 に 関 し て 二 宮 尊 道 の 意 味づ け を 借 用 して い え ば,2 名残」 によっ て円環的時間の特性をま ず叙述し, 次いでイ ギリ ス の 冠astCoker「祖 先 の 土 地」 か ら l tt eGidding 出 発 して ア メ リ カ の The Dry Salvagesr旅 の 土 地」 に 至 り, 再 びイ ギ リ ス に 戻 っ て Li. 「祈りの地」を踏むという 始まりと終わりが合一する円環の形でもっ て, 必ずしもエリオッ ト自身 , とは重ならない一詩人の内的時間経験に関する物語言述の特性を示しているのである. imefuture imepas t/Arebothperhapsint β”粥Z NO打o” の冒頭の三行,“Timepresentandt ,/. ” imepa Andt imefuturecontainedint t s . は, 始めと終わりを明確に区切る上昇する不可逆な線分. ではなく, 循環して止むことのない円環的な時間表象に見事に適合している. 現在の時が一瞬たりとも静止することなく 未来の時を侵食していけば, 図2と図3の どちらの時 図2 円環としての時間表象. ↓ 簾ぢ 創造 旨. 現在 O. 図3. 上昇する線分としての時間表象 審 判. 創 造. 遠ロ 去【 鎖未 来顕 永 ロ永 遠湖 過 始. 現. 終. . . . 123.
(11) . 菅 井 隆 良 imepas 間においても現在の時が時の終わりも こ到達した時点で, “Timepresent andt t/Areboth‐ ” imefuture nt perhapsi . が 成 り 立 つ. 図 2 の 場 合 は さ ら に, 時 の 終 わ り が 時 の 始 ま り と 重 な っ て 同. ” imepas imefuture containedint じ事象が再び繰り返され, “Andt t ‐ が 実 現 す る. し か し 図 3 に おいては時の終わりは文字どおり終わりであっ て, 最後の審判の後は無時間性の神の永遠のみが存. 在する. キリストによる服罪の行為 (Redemp i ) はこの不可逆な線分上の一回限りの出来事であ t o “ fa l lt imei l lyp る か ら, l setema r e s enr という条件が満たされる図2において廠罪の意義は消滅 ’ ’ 1t imei し, “AI sumedeemabl e ‐ が 事 実 と して 認 識 さ れ る‐ し た が っ て 詩 人 は こ の 部 分 で, キ リ ス. ト教によるのではない魂の救済の可能性を模索していることになるが, 第1部 ではそれに代わるも ‘oneend のは何一つ示されず, 記憶の中にある Burnt Norton の 廃 邸 の バ ラ 園 で, 現 在 の 時 の 一 点 ‘ , ”における流動する意識を通して過去と未来を交錯させるだけである i t wh chi s alwaysp r e s en . 第口部では, 生身の人間の内なる静と動 の対照が様々 なイメジャ リーによっ て重ね合わされ, 現 i l lpoint ofthe tuming wor lず と して 捉 え ら れ る こ と に hest 在の意識流が一瞬の静止の一点, “ t よっ て, 過去と未来の時間的位置が明らかになる. imefuture Time past andt AI 1ow but al i l t t e consciousness. To be consciousi ime s notto beint Butonlyint ime can せl e momentinthe rose‐garden, The momentinthe arbour wheretherain beat, The momentin 化i I e draughtychurch atsmokefal Beremembered th past and future. ;involved wi imei onlytmrought imet s conquered.. 内的時間経験は可逆的に推移する意識内容の単なる集積であり, 現在の時の一瞬は, “one end ,. ” i tandfuturearegathered’と し て 存 在 す る 限 り, 捉 え 所 wh chi s always present や ”Wherepas i l lpointofthetuming wor ld’と して 認 識 さ のない流れの一部でしかない‐ しかしこれが“ hest t. れるや, 内的時間経験の様相は一変する‐ すなわち静止の状態の現在の意識は時間的には単なる点 でしかないが, その固定さ れた一瞬は過 ぎ去っ た知覚内容を記憶の中から任意に取り出して過去の 時間的位置を確定し, さらに現在あるいは過去の知覚内容を未来へ向かっ て照射することを可能に す る の であ る‐ 詩 人 が ”on lythrought imet imelsconquered’と 直 観 す る 所 以 で あ る. “ ’ imea 第 m部 は, Timebeforeandt f t er すなわち過去と未来の時を永遠の内懐の中に暖昧模糊 ズ fect io〆 と 断 定 し として包み隠す, ヘブライ ムの時間表象に支配される現世を “aplaceofdi saf ” ている‐ そこは霊魂を浄化する場 ではもちろん な い し, ulmeal thy soulぎ は た だ ひ た す ら “the l f l d i ld not wor ld tude ld l wor o perpetua sol ch i s not the wor ,/ Wor , but that whi ,/lnterna. da rkne s s-” を 求め て 浄化 の 闇 に 沈潜 す る こ と を避 け, 始ま り と 終 わ り に よっ て 区切 ら れ た “meta l l ime past andt imef t ed waysoft u urざ の上を欲望のままに突き進む.. 第W部は,美しい叙情的描写でもっ てわれわれを第1部の バラ園に連れ戻す.この自然のイメジャ 0時は終わるのではなく再び始まるのだという期待をわれ i リ ー に 囲 ま れ た “al ftwi l i co yr ghr は,3 i l lpointoftheturn ing wo われに抱かせ, 闇に消え去る直前の夕映えに浮き上がる ”thest l定 が r その期待の実現の可能性を約束している.. 第V部では, 第1部においてバラ園の記憶の中の足音のように所在なくこだました言葉が, 初め 124.
(12) . T・S・エリオットの 『四つの四重奏』 における時間意識. て流適めして止むことのない意識の中で静止の相を与えられる. VVords mOVe,nousIC 江1OVes 0nlyintilne; butth iving at w恒chi so証yl r Can on lyd ie ter sPeech,reach ‐ V▽ords ,af lence h lntothesi l b o tern, ・ ・ ny ytheforl . ,t e pat Can words or music reach The st lness as a Ch i l l l inesejarst i , lyi l lness ハ江oves perPetual nitssti .. こ こ で ・論の第1 1章で言及したプーレの人間的時間論と, リクールの物語的時間論を 思い起こす. ことは無駄ではない. 触知されないものに身体を与え, 精神をよ ぎっ たにすぎないものに形体を与 えること, すなわち時間の三相を可逆的に揺らめき動いて静止することのない意識流をいっ たん中 断し, 内的時間経験を固定された瞬間の継起の集合として再構築する行為がなければ, 人間によっ て生きられる時間はただ生きられたということ以上の意味を持ち得ない. その固定の方法がりクー ルの物語言述というわけである. ヘラクレイ トスのもう一つの断片がエビグラフとして用いられて 1 こ の よ う な‘入るγo の果たす べ き役割に係わっ てのことと了解さ れる であろう “ い る の も,3 he . t i l lpointofthetqrmng wo lず によっ てもたらされる多様な瞬間の固定とその継起は, しかし次 st r の段階では静止を解かれた意識流に還元されなければならない. そしてその時にこそ, 生きられる 時間の実体と物語言述との間に横たわる空隙は埋められ, “&ロdtheend and the begi lming were here/Beforethebegi l田亘ng and af li lwaysnow刀 が単に時間の tertheend alwayst sa ‐/And al 特性としてではなく, 人間性の真実として意味を持つことになるのである‐. 2同名の 互餌Z C豹eγ East Co ke rはエリオッ トの祖先が代々住ん でいた土地であるところから,3 と題されたこの詩篇における時の 主題は全般的に 人間的匂いが強いが, 特に B粥川 MO“例 の抽象 的な思索とは異なっ た, 第1部における単刀直入で具体的な円環的な時間概念に係わる書き出しに 対して, ガー ドナーは次の評言を与えている. ln my endi l コ [ le mot i t opens wi th an inversion oft to on 凸なary Stuarrs cha rofstate:‘ s mLy ’ begi l田dng l節dngi igid s my end,thi s appears as a statement of r ‐ lnverted to n my begi determlnlsm, and t b f l i he f i h h t r rst paraき享aph ofthe poem establ owe u h中 s es y P ry s and i ions the cycl ic view of hu i fe and hu t repet ユman l j ヒ nan hi story‐. i fe of l The l 1 7 ーan and of. コ hesame pattern asthatofa l ll fe on i mankind s shown to havet ,and ofthe works of mani 3 3 ing succession ofb th less l i theear l th :an end y recunr ,growth ,decay and death‐. 誕生・成長・衰退・死という生命あるものすべてが辿る生死のプロセスはヘ ブライ ズムにもヘレ ニ ズムにも共通であるが, それが“anendlesslyrecurring successiod’ であ る と いう 考 え 方 は, ヘ ブライ ズムの時間表象と真っ 向から対立するのであっ て, 「『わが初めにこそわが終わりあり』 とい うことは俗にいう 『生きるのは死ぬことのはじまり』 であっ て, 時というものに対する常識的な経 125.
(13) . 菅 井 隆 良. 3 4などという解釈は戯言にもならない ヘ ブライ ズムでは 験智的な観察の要約みたいなものです.」 . 終わりは終わりであり, 終わりの後に無時間性の永遠があるのみとは既に述べた‐ 永遠に始まりも 終わりもないことはいうま でもない‐. inthe 第1 1部以降は最後の第V部に至るまで, 故郷の地の村人の一人“anindividual snow‘ ,whoi ” 3 5 l dd mi ewaゾ としての詩人が, 自己の半生を通して抱いた時間の推移に対する失意と挫折の感慨 1 を綴っ て終わる. β粥川 亙o 7 ひれ の第V部 で示された希望は空転する歴史的時間の中で掻き消され, 荒廃する魂の救済の道は見出せない‐. . T脳 D“ S煽り咽 び搭 で は The Dry Sa lvages は 原 注 に 記 さ れ て い る と お り の 岩 礁 群 の名 称 であ り, 7 ‘ 7‘ ’‘ l i Eas t Coker の 土 と 対照 的 に 水 のイ メ ジ ャ リ ー が用 い ら れ る. 第 1 部 では, rver sea and の 三. 語によっ て自然界における水の循環が想起され,E硲云C味” での歴史的時間の空転に対比して,「止 3 6 むことなく変化し, 目標も目的もないかのごとき果てしない流動としてのく時〉が記述される」 . 遠 i i く 内陸に源を発した水の流れは細流から褐色の奔流となっ て海に注ぐ. 川は”Keep ngh sseasons troyer” と み な さ れ る が, か つ て 季 節 の 移 ろ い に 応 じて 人 間 と の 間 に 親 密 な 繋 が り を andrages ,des 保 っ て い た‐ Hi h直h i m was presentinthe nursery bedroom, sr i ldooryard lanthusofthe Apr lntherank ai , l lnthesme lofgrapes on the autu工nntabl e , 1 ight And七he evening circ1einthe winter gas .. ” として感知される 褐色の水の流動を呑み込む海もまた in u th そして現に今も”Theriveri s wi s ‐ ‘ ‘ ‘ ‘ 7 l about lロ あ る い は menace と caresg と い う 両 面 性 を 備 え な が ら も, ”the seai howr と ye s al ” が り い る 昔も変 h l d d l h i れ と 親 密 な 繋 を保 て 今 も us っ ;/T esea st e an se geaso と み なさ 人 間 の . わらず川と海と陸を経巡る水が表象する時間は, しかしただ循環するだけで新しいものを何も生み 出し は しな い.遠い昔の時間の始まりから存在する海の ”thegroundswell” が “neverendingtime” を告げる鐘を鳴らし続けるだけ であっ て, ここ でもやはり荒廃する 魂を救済する手立ては何も見つ か ら な い.. ‘Where i 第1 1部 で は, ‘ s no end s there an end?” と二度繰り返される問いに対して, “Th e rei ,. ” と答えるのがすべ てである 円環する時間の概念において終わりが始まりと重なり butadd i i t on : , . i t 同じ事象が再び繰り返されるだけであれば, それは確かに ”addi oぜ で しか な い. l i l ing Therei t s no end ofi , ,the voice ess Wa ing, Noendto the whi ther thered flowers, of whi. i l l l inthati Tothe movementofpa spa essand motionless, f ing wreckage, i f i Tothe dr t tofthesea andthedr lythe hard ly lyprayabl The bone’s prayerto Deathi t e s God . on ,bare Prayer o ion iat fthe one A n睡unc L ‐. 126.
(14) . T・S・エリオットの 『四つの四重奏』 における時間意識 「告知」 の 祈 り と は い か な る 祈 り か そ の 祈 り は い か に し て‘ i ion に た い して‘ i ion でない t t add add .. 意義を付与することができるのか‐ 解答はまだ与えられない. 第m部で詩人は β粥川 亙o打o〃 第1部の時間の定義を再確認するが, われわれは… 蕉天の化身クリ 7果てしない流動としての時間の概念にはヘレニ ズム的円環と仏教 i ) の名前から,3 シュ ナ (Kr sml a 的輪廻とが重なり合っ ていることを悟らされる. しかも第N部 で, 未来へ向かっ て船出する者たち のために‘Lady への祈願が歌われるに及ん で, 本田錦一郎の「エリオッ トの〈時間〉」 をめ ぐる卓見 がひと際光彩を放っ て見えてくる‐ エリオ ッ トの到達することになる第三の, 最終的な時間概念は, 第一の通過点, ギリシア=イ ン ド的な原体験を, まっ たく異質の対立的なユ ダヤ=キリスト教的原体験と接合し, さらに, 第 二の通過点さえ,ただ無意味な有害なものとして葬り去ることなく もちろん否定的であるが, -- この現実を現実としてとらえなおし, すべてこれら因子を, 自己の内面へ収蝕する試み, と考 8 え て よ か ろ う‐3. 第二の通過点については, 上の引用の直前のパラ グラフ で 「近代理性によ るく進歩〉 の概念, 〈因果 律〉 による時間を, いかに克服するかというテーマ」 と説明されている.. 第 V 部 は, 過 去 と 未 来 を 虚 しく 深る 人 間 の 日 常 的 行 為 を 批 判 し た 後,‘ inで と‘ lncamat ion の 二 sa 「 「 語 に よ っ て, 詩 人 が ア メ リ カ の 旅 の 地」 を 去 っ て イ ギ リ ス の 祈 り の 地」 に 戻 る こ と を 暗 示 し て. 糸冬わる‐. L端を GZメメ勿g に は, 7 1脳 Dゆ S煽り鰹 αB S の水に代わっ て火のイメジャリーガ与えられる‐ 第1部 l i i fy では,Li t t eGidd ngカヰ斤り の 地 で あ り, そ こ を 訪 れ る も の の 目 的 が,”Youarenotheretover ,/ f orinform cur lnstructyoursel ios i ty /0rca l/ Whereprayer rryrepo賞‐ Youareheretoknee , hasbeenval idぞ と 明ノ 示 さ れ る‐. T脳 D“ S煽り増鎧 第工 ZCOをγ の 土,7 1部ではまず,世界を構成する四元(B%例ZNO“◇“ の空気,EQ S ‘H mnanemot Zれg の 火) の 循 環 の 過 程 で, ガ ー ドナ ー が‘ ionandhumnanpass の 水, 乙霧迄 Gzメメ ion departinto t he air, hu工nan ef for コ he monui fthe huiman spirit are t crui n nents o c 口blesi nto dust ,t. 9と 述 べ る ご と く 人 間 の 生 の 営 為 の 意 義 が 全 面 的 に he corrosion of waterandf i rotted byt re刀3 , i i iDan 否 定 さ れ, つ い で ダン テ (A1 ) の 「地獄篇」 あるいは 「煉獄篇」 を下敷き に して, 第 t er e gh ” h t h d dh d i f 1部 の 最 後 の w at e ea a nospeechfor t ving が ”thegi sreservedforage/To ,whenl ” ’ i fet ime for t と して 披 歴 さ れ る. set a c rovm upon yourl sef. 第m部では,F鰯γ Q加“e z sの総まとめともいうべき浄化の主題がさりげなく顔を出し, 第W部の 愛とともに第V部への橋渡しとなる‐ 第 V 部 は 巡り 巡 っ て B“瑠f 亙o“例 の 第 1 部 に 立 ち 戻 る. “What wecal lthebeg inn ingi soften ” は 既 に 何 度も 聞い た 言 葉 であ り こ れ が ndto makeanendi ing theend/A1 sto makeabeginn ‐ ,. 同じことの繰り返しであれば荒廃した魂に救済はない‐ 始まりと重なっ た終わりが新たに始まりと なり, 既に終わりと重なっ た始まりとは内容が異なっ て初めて円環が意味をなすの である. VVesha l lnot ceasef rom exploration 127.
(15) . 菅 井 隆 良 ing lour explor Andtheend ofal i l lbeto arrive where we started VV i tti ・ r l e APd know the placeforthef rs ‐ Throughthe unkn○wn,remembered gate VVhenthelas thl tto di tofear scover ef l nning sthat whi ch wasthebegi .. ‘ l i t ora on とは始まりが終わりとなり終わりが始まりと なっ て, 常に新しい未知のものを追い求 exp める人間の内的時間経験のことであり, 物語言述によっ てそれを固定された瞬間の継起の集合に還 元するとき, 可逆的な歴史記述と虚構の物語とが誕生する. l lbe we l land lsha Aねdal I M i lbe we l I AI 1 manneroft ngshal folded VVhenthetongues off lame arein‐ i lntothe crowned knot off re i Andthef reandthe rose are one‐. ‘ l i f i t re とは‘ exp o ra on の持続を欲する情念の火であると同時に, その情念の元たろ魂を浄化す. the rosg とは ”the る 闇 の 火, や が て 光 に 変 じる は ず の “the darkness of Goず の 火 でも あ る. ‘ “ ” i thl ttod explo‐ ef scove に 咲く ‘ unknown,r ememberedgate を 通 っ て 至 る バ ラ 園 す な わ ち ear. 7の対象たろ花であり その物語言述の成果が歴史を形づくる したがっ てその火とバ ラの合 i t ra on . , ’ つまり β“γ霧 No“例 の第V部 でさり げなく l 一は, 未知の花に対して抱く探求者の不断の‘ ove ,. “the cause and end of movement” と し て 姿 を 見 せ た 愛 が LZ粥g GZ dd i“g の 第 W 部 で‘℃he un‐ ,. lame/ Whi l toff fami iar Name/Behindthe handsthat wove/Theintolerabl r eshi ch humnan. ” power camlotr emove . と歌われる神の愛に導かれて,. Z脳 Dゆ 鉱加増B Sの第V部で提示された. i bl 目標 “theimposs i t e union ofspheresofex s ence’の実現の プロセスを普遍的な歴史の中に組み. 込むことを意味するのである. 詩人は最後ま でこの不可能な合一 の実現を助ける‘God がヘ ブライ ズムの神なのかあるいはヘレニズムの神なのか明らかにしないが, 全篇を締めくくる‘ onぎ は両者 の合一をも示唆しているように 思われる.. IV. LA MORT:UN TERME OU UN COMMENCEMENT. ’ heures Combi res heureuses de notre Vie sont totalement effacees de notre en d , meme t i iappaniennentau passe,qm sont tquedes moment ?orl re re squ ev6t re eth邑at memoi ,afa ,l E ’ i donc mo食s e sens, encore W1 e fo s ,de ma , en memetemps ne sont pas morts‐ t cestl ’ ’ ’ ’ l l i f i l l i d i i i t 邑 e t t 貴 :ques‐cequeceasg匝 eque a【 nous :vousavez t a【 san nsans mmo es queston h i d d ion du temps fasse pen壱trer ains i dans mle autre percept , ans une appre ens on e. 4 0 ’ l i iabl ? noubl e. [再現部:死は終わりか始まりか] 128.
(16) . T・S・エリオットの 『四つの四重奏』 における時間意識. [結:不滅への希求] 人間は人間以外の生物と異なっ て, 造物主によっ て割り当てられた物理的な生の時間を常に引き 延ばそうと食欲さを明らさまにしてきた. 死の不可逆性を悟るや, 人間はす ぐさま防衛的戦略を巡 らして様々 な方法を試み続け, 特に近代以降の西欧人は不滅の魂という至福の花園に咲く バラを枯. id not ら して し ま っ た 後, 足 音 だ け が こ だ ま す る 乾 き き っ た バ ラ 園 を “the passage whi ch we d. t ake” を通っ て抜け出て, バラを育てることとは無縁の創造の館へと足を向ける. f the i he s i l l po t t to n 死の不可逆性に対抗する手段は今や創 造の行為にしか残されていない‐ ” turning wo ld’は バ ラ園の中と同 じく 現在の意識流の 一瞬の静止の一点として捉えられなければ r ならないが, その静止の一点を基にした内的時間経験の一瞬一瞬の固定と継起は創造を通して行わ れ, 人々は芸術の形と図式の中に己の永続性を見出すことになる‐ ここで永遠ではなく永続性とい う言葉を用いたのは, もの皆相対的にしか存在を認識することができない現代にあっ て, 永遠であ りうるのは無限に延 びる直線として表象される抽象的な時間だけだからである. 今やヘレニ ズムの円環的時間表象に拠ろうとヘ ブライ ズムの有限の線分あるいは古典物理 学の無 限の直線の時間表象に拠るうと, いずれにしても始まりと終わりを明確に区別されざるを得 ない生 きられる時間は, 創造によっ て静止の形を与えられて初めて永続性を獲得する. しかしこの創造の i 行為も, この章の冒頭に掲げたシャ バニスの問いに対して劇作家アリアーヌ・ムヌシュ キン(Ar ane 0人間そのものが生物学上の概念である 「種」 としての存在の永続 i Mnouchk ) が答えるごとく,4 ne 性を保つという条f牛付きで, 固体から固体へと 「普遍的な歴史」 の中に組み込まれて伝達され永続 性を保ち得るの であっ て, 種の永続性が証明されない限り, 現代の西欧人は消滅の不安をパスカ ル と共有し続けなければならない.. i brai直e A! theme Fayard ) i i i 1, Chr t :Li z ‘”“ の“勿解れ”粥eれ房(Par s s an Chaban s ,1982 , ,LA 財ORZ ““ 友粥8o 6 1 5 ‐ pp . .. 8‐ 5 3頁を参照‐ 98 1年) 2. 『時間の比較社会学』 (岩波書店, 1 , 14 9 54年) 3. 『キリストと時』 前田護郎訳 (岩波書店, 1 , 18頁‐ 前田陽一編訳 97 8年) ( 中央公論社 53頁‐ 4- 『パスカル』 世界の名著29 ,1 ,1 , 5. 真木悠介, 前掲書, 2頁- l l 6‐ 賜α s and G‐ Taylor (oxford: oxford n 脳粥彰“ 2 S加納珍如だ二 Z綾 Com斜雑e 似煽お,eds c彰仇 i .S . We 997-8 Un iver i ty Pres ) s s ‐ , ,1988 ,pp l l 乙 7- Eugene Minkowski Z 卿 ogZ s(Neuchate :De achaux 8 B SP姦ぁ2 0“露“o o q”e “ お 婚姻′お粥d 習字鉛 gzp卸物opの肋Z , l 1 9 6 8 1 4 - 5 t e t Ni ) es e p p ・ , , .. 2 97 8- E・ミンコフスキー 『生きられる時間-- 現象学的・精神病理学的研究1』 中江育生・清水誠訳 (みすず書房, 1 1 9頁 年) , ‐ i たe 互 641 9‐ As y no o“ Lま 少 ‐ ‐ . dち P ,i. 『 35 刻摩書房, 196 9年) 6頁‐ 10 , 井上究一郎・他訳 (筑 ,4 ‐ 人間的時間の研究』 筑摩叢書1 「時間構成と自我構成」 『思想』 No 7 1 11 5 6 0 6頁 . , , . . 『 2 4 90年) 1 , 金井格・浅野敏夫訳 (法政大学出版局, 19 , 6頁‐ ‐ 小説の精神』 叢書・ウニベルシタス29 『時間と物語1』 久米博訳 (新曜社 1 9 8 7年 ) i頁 1 3 , , ‐ . 7 i 14 ) ot o“ @〆の毎奮(London:Faberand Faber . ‐ .E1 ,1954 ,P . T.S ,F 『わたしの音楽室』 (新潮社, 196 6年 ) 1 7 7頁 吉田秀和 15 , . - 129.
(17) . 菅 井 隆 良 「 16 , 5頁. - ベートーベン 弦楽四重奏曲第4番」 諸井三郎解説 (全音楽譜出版社) 『 白水社 アラン 音楽家訪問 1 9 6 5年 ) 8 宗左近訳 ( 17 1頁 』 , , ‐ ‐ .9頁 18 . ‐ クンデラ, 前掲書, 2 「 『 1年) l 8頁‐ 及び He 19 enGardner , ,9 ‐ 詩の音楽」 小林稔訳, エリオット入門』 荒正人・小野協一編 (南雲堂, 196 Z 36 を参照‐ Z脳 Aガ ザ 71 S. EZ t Pre$,1949 ) se D≠{London :The Cres . , p 20 3頁. ‐ クンデラ, 前掲書, 8 46 21 ご b i er , , . ”ん P ‐ Gar ,oの. 「 『 959年) 22 , 96頁を参照. ‐ 二宮尊道 四つの四重奏」 --T・S・エリオット詩の研究--』 (南雲堂, 1 23 ‐ 同書, 97頁を参照. 6 idge i dge 24 f G舵eた Pぬすめsop勿,vol :Cambr ‐ 及 び W‐ K‐C . Guローde , A 圧おわり q ,1(Cambr . E鯛γ Q2姻巧eな,p‐ i i P Unver 443を参照‐ ) sty re鮎,1967 . ,p 『 25 9 7 4頁を参照‐ 0年) 3- ,6 . 本田錦一郎 T・S・エリオット研究序説』 (篠崎書林, 19 「 『 26 , 英語文学世界』 第8巻・第 号 , 20頁を参照‐ . 羽矢謙一 エリオットの道」 27 . 本田錦一郎, 前掲書, 200頁を参照‐ 2 8 . 羽矢謙一, 前掲論文, 21頁‐ l l 1S Zの(London i dg の 7 2 9 1頁‐ 及びGeor amson αdBγS G“Z :Thamesand ge Wi ‐EZ ,A Re . 二宮尊道, 前掲書, 10 Hudson 207を参 照. ) . ,1955 ,p G d “ 30 162 ‐ - ‐ ar ner ,oぬ ん P. 3 1 8 ‐ 9頁を参照‐ . 二宮尊道, 前掲書, 9 l l i 32 217‐8 を参照‐ amson .c江,pp . . Wi ,qp (超er 33 の . 凋ん PPユ64-5 . ‐ Gar ,o. 4 45頁‐ 3 ‐ 二宮尊道, 前掲書, 1 35 ご b i 164 er の ‐ . . αん P ‐ Gar ,o. 5頁‐ 3 6 ‐ 本田錦一郎, 前掲書, 36 l i 37 l amson . d乙 ‐ Wi . 225‐6を参照. ,op ,pp. 3 8 2頁‐ ‐ 本田錦一郎, 前掲書, 35 178 39 .c猛,P ・ . ・ Gardner ,oの 40 C h b i ” 380 ん a ans P . ・ ・ , ゆ.. (本 学 助 教 授 ・ 釧 路 校). 1 30.
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