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近世における雁木通りの分布と形態

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Academic year: 2021

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1.  はじめに

 雁木は,我が国の新潟県とその周辺地域におい て主屋から道路側に下ろした庇の呼称を指し,同様 の庇は他県にも見られ,青森・岩手・秋田の各県で は小見世(こみせ),鳥取県若桜町では仮屋(かり や)と呼ばれている注1)。近世文書には「雁木(長 岡,高田,糸魚川,栃尾,小千谷,片貝),がんぎ (与板・松代),かんき(長岡),かんぎ(片貝),小 見世(弘前・黒石・青森・八戸),小店(弘前・秋 田),小ミセ(弘前),小見せ(青森・八戸・秋田), 小間屋(米沢),こまや(白岩),小前(山形),庇 (秋田・酒田・三条),平板作り(津川),ひさし(田 名部・新潟・亀田・糸魚川),見世下(盛岡),軒下 (新潟)」等の呼称が確認できる注2)。なお仮屋につ いては近世文書に確認できていない。  このように主屋から道路側に下した庇は地域に よって呼称が異なるものの,いずれも歩行者用の通 路として利用されることから,本研究では個々の町 家の前に設けられた往来可能な庇が連続し,町並み においてアーケード状の連続空間をもつものを「雁 木通り」とする。尚,各地で史料に見られる呼称は 「 」書とした。  雁木通りは,深雪地域における歩行者用の通路と して建設されたとされる注3)。しかし,深雪地域以外 の全国各地の町家に雁木と近似した庇が多数存在す るため注4),雁木通りの形成要因を深雪だけに求める 従来の説には無理がある。  本研究では,近世注5)において雁木通りの建設が 確認された町場の分布から,その形成要因を検討 し,さらに雁木通りの形成と発展を時間軸の上で検 討する。また雁木通りの分布と形態との関係につい て明らかにする。

2.先行研究について

 建築史の稲垣栄三らは注6)上越市高田(新潟県) の町家と雁木の実測調査から,落し式雁木と造り込 み式雁木の変遷を検討し,筑波匡介・平山育男は注7) 同県長岡市栃尾に集中して残る半造り込み式(落し

学術論文

日本雪工学会論文集 J. of Snow Eng. of Japan Vol.37 No.2, 1-16, April 2021

Original

近世における雁木通りの分布と形態

A study on distribution and form of Gangi-Dôri in the Edo era

菅  原 邦  生

  Kunio Sugahara

* 新潟青陵大学短期大学部人間総合学科 准教授 博士(工学)

[本稿受理:2020 年 4 月 8 日,修正原稿受理:2021 年 2 月 28 日,討論期限:2022 年 2 月 27 日]

SYNOPSIS

Gangi-Dôri was found at 28 cities in the Edo era. Gangi-Dôri was constructed in castle town, post town and market town along Hokuliku-dou, Hokkoku-kaidou, Mikuni-kaidou and Dewa visit way. Dôri was constructed in castle town and port town ruled by castle town. Gangi-Dôri was constructed in the port town in Niigata and the market town in Kameda which is connected to the port town in Niigata by shipping. Some wide Gangi-Dôri was sometimes used for markets. The width of the Gangi-Dôri was 1.8m in castle town and post town along Hokuliki-dou and Hokkoku-kaiHokuliki-dou.

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式の屋根上に 2 階が半分程張り出したもの)の変遷 について実測調査を基に明らかにした。また深澤大 輔は栃尾の雁木の発生について検討した注8)。さら に草野和夫注9),高橋恒夫ら注 10 )は黒石(青森県黒石 市)に残る小見世の特徴や修景について報告した。 しかし,これらの研究の多くは単体としての雁木や 小見世に着目したものであり,それを設けた町家が 連続することで形成される往来可能なアーケード状 の連続空間を主な研究対象としたものではなかった。  一方波多野純注 11 ),玉井哲雄注 12 )は絵画史料・町 触などから雁木通り同様,往来可能な江戸の庇の存 在を指摘し,近世史の吉田伸之注 13 )は江戸の庇の商 業利用を明らかにした。  また建築計画学の視点からは,上越市高田を中心 に雁木通りを積雪市街地における共用空間と捉えた 糸長浩司・青木志郎の研究注 14 ),集住様式と捉えた 野口孝博,足達富士夫の研究注 15 ),高田の町家と雁木 の遺構調査を中心とした黒野弘靖らの一連の研究注 16 ) などがある。  さらに地理学の視点からは,早いものとして安田 初男の研究注 17 )がある。安田は高田の雁木通りを分 布に示し,町家 1 階の高さに合わせて庇をつけた落 し式雁木と 2 階下を通路とする造り込み式雁木の存 在を指摘した。その後,最も体系的な研究成果とし て氏家武の研究注 18 )があり,氏家は 1960 年代に広範 な現地調査を実施し,全国 46 市街地における雁木通 りの分布や立地要因を検討した。その中で雁木通り の史的側面についてアンケート調査を基に,その多 くが近世に建設されたことを指摘した。しかし検討 の過程で,近世史料に基づく具体的な検討は長岡な ど一部に限られており,その信憑性に疑問が残る。  歴史地理学の視点からは渡邉英明の研究注 19 )があ る。渡邉は,越後平野を事例に定期市と雁木通りの 関係を検討し,氏家が指摘した雁木通り関係市街地 は近世に定期市が開かれ,近代以降も定期市が引き 継がれた町であったことを指摘したが,雁木通りの 史的側面については氏家の成果を踏襲するに留まっ た。  最後に雪工学の視点からは,こみせの今日的な意 義を問うた奈良洋の研究注 20 ),津軽藩を中心に伝統 的民家の雪対策として「こみせ」を取り上げた月舘 敏栄の研究注 21 ),道路における雪対策としての雁木 を取り上げた高橋喜平の研究注 22 )などがある。以上, 雁木通りについては,建築計画学・地理学・歴史地 理学・雪工学などを中心に多方面から研究が進めら れてきたが,歴史的な視点からの研究は十分ではな かった。  筆者のこれまでの雁木通りに関する研究では,城 下町・港町・宿場町・市場町などを事例に雁木通り の建設整備過程や近代の衰退消滅過程などを研究し, 雁木通りは防雪を目的に建設され,その後商業活動 に利用されたことを明らかにした。しかし研究対象 としたのは比較的史料に恵まれた代表的な町場注 23 ) に過ぎず注 24 ),全国的な視野から見ると,いまだ十 分であるとは言えない。

3.研究の方法

 まず初めに,近世における雁木通りの分布を検討 する。氏家の研究注 25 )によれば,雁木通りの建設が 確認された町場は全国 76 箇所にのぼる。この内近世 において雁木通りが建設された町場は 62 箇所,明治 から昭和中期に建設された町場は 14 箇所である。し かし雁木通りの建設にかかる氏家の成果は,自治体 の教育委員長や図書館長をはじめとする学識経験者 へのアンケート調査を基にしており,必ずしも明確 な根拠をともなったものではない。  そこで本稿では,上記 76 箇所の町場を中心に,遺 構・文書・絵画史料により近世において雁木通りの 建設が確認できた町場( 18 か所)と,新たに確認で きた町場( 10 か所)注 26 )の分布を検討した(表 1 , 図 1 )。他の町場については今後とも検証が必要であ る。表 1 には雁木通りの建設が確認された町場名だ けでなく,確認時点での町場の機能と,雁木の形態 について整理した。尚,遺構・文書・絵画史料によ る雁木通り確認の判断基準は次の通りとした。 Ⅰ. 近世文書による確認は,人々が往来した記述が あるなど,庇下の通路としての利用を確認でき るものか,本稿において資・史料を検討した結 果,その存在が明らかになったものとする。 Ⅱ. 絵画史料による確認は,町家前面の往来可能な 庇が連続し,町並みにおいてアーケード状の連 続空間が確認できた場合とする(図 2 )。

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表 1 近世における雁木通りの形成が確認された町場 ※ 1 )判断基準Ⅰ~Ⅲは本文中に記載。2 )a ~ fは地域的なまとまりを示しFig1と対応。町場名は氏家が取り上げた町場以外で近世 の建設を指摘。町場名は氏家によって明治から昭和中期における建設が指摘されるものの近世迄遡ることができた町場。3 )町の機 能は雁木通りが確認できた時点の機能とした。 呼称については,※の内,弘前は『要記秘鑑』文化 9 年( 1812 )条,青森は享和 2 年( 1802 )の記録,八戸は文政 12 年 (1829 )の 『家作制限』,秋田は「小見せ」が明和 4 年( 1767 )の記録「小店」が文久 3 年( 1863 )の記録,山形と白岩は本文中に記載,新潟 は明和 5 年( 1768 )の記録。長岡は元文 5 年( 1740 )の記録,小千谷は文久元年( 1861 )6 月の記録,糸魚川は天明 4 年( 1784 )1 月の町年寄の記録。形態については出典記載の史料以外を参照した場合は番号順に次の通り。1 )本町の宝暦 4 年 (1754 )の記録,2 ) 重要文化財  石場家住宅保存修理工事報告書,3 ),4 )宝暦 13 年 (1763 )頃築の高橋家の遺構に確認,5 )鳴海静蔵:『黒石の小見世 について』(嘉永 5 年 (1852 )『屋敷間数歩割下帳』記載の屋敷地奥行と現状を比較),6 )文政 12 年 (1829 )の『家作制限』,7 ),8 ), 9 )文化文政期『秋田風俗絵巻』,10 )宝永 4 年 (1707 )~正徳 4 年( 1714 )『酒田袖之浦小屋之浜之図』),11 )天保 12 年 (1841 ) 『内町塞道絵幕』,12 )『慶応三年 (1867 )  家普請中大工日雇并金子相渡帳』),13 )幕末『懐旧歳記』(『日本庶民生活史料集成 第五 巻 城下町篇Ⅲ』),14 )安政 3 年 (1856 )『雪の図絵巻』(『江戸時代図誌 第 13 巻 北陸道二』)並びに注 13 )前掲,15 )注 13 ) 前掲,16 )注 14 )前掲『雪の図絵巻』, 17 )『家作画図入』(上越市立高田図書館蔵)所収の西澤家平図面 ,18 )『筆満可勢』所収の天 保元年 (1830 ) の記録 (『日本庶民生活史料集成 第三巻 探検・紀行・地誌 東国篇』所収)

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Ⅲ . 遺構による確認は,民家報告書等に示された道 路沿いの民家遺構の復原平面図において,道路 に沿った主屋前面に柱が一定の幅と間隔で建ち 並び,袖壁がなく,吹き放しの庇(図 3 )を, 何棟か確認できた場合とする。  次に雁木通りの分布と呼称との関係や,雁木通り の建設が確認された町場の機能,雁木通りの形成と 発展について検討する。  最後に雁木通りの形態について,遺構・史料に 見られる,①幅,②建具,③屋根葺材,④雁木柱を 支える土台について分布との関係を踏まえて検討す る。これらは雁木通りを構成する主要な要素である ばかりでなく,分布ごとに地域差が予想される。

4.  近世における雁木通りの建設が確認された

町場の分布と形成要因

4.1  近世における雁木通りの建設が確認された町場 の分布  近世における雁木通りの建設が確認された町場の 分布をみると(図 1 ),深雪地域の全ての町に存在す る訳ではなく,建設された町は,地域的なまとまり をもつ場合(a ~ f)と点在する場合が見られる。  地域的なまとまりとは,物理的な距離・範囲では なく,①主要街道や出羽三山参詣路沿いなど街道に よる繋がりや,②城下町とその支配下にある港町, 支藩の城下町など政治的な繋がり,さらに③港町と 直結し市が開かれた町場など経済的な繋がりを意味 している。例えば城下町である高田と糸魚川はそれ ぞれ統治が異なるものの,北陸道・北国街道沿いの 城下町であり,北陸諸藩や越後諸藩の主要な参勤路 であるなど街道による繋がりがあった。点在する場 合は以上の繋がりが低く,単独で分布するものであ る。 図 1 近世における雁木通りの分布と呼称 図 2 往来可能な庇 『 湯 殿 山道中一 覧 』(『 江 戸時代図誌 8 巻』より模写 「本文図 7 の一部」) 図 3 相沢家 ( 松代 ) (18 世紀末頃或いは 19 世紀 初め頃 ) 大田博太郎:信濃 の民家より復元平面図(部 分)を転載

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1 )  地域的なまとまりをもつ場合 a)  城下町弘前と港町青森,弘前と街道で結ばれた 城下町黒石  羽州街道沿いの城下町弘前やその外港青森,弘前 と街道で結ばれた城下町黒石に雁木通りを確認でき る。青森は寛永元年( 1624 )に津軽藩の城米の江 戸回航を目的に開港が決定され,町並みの建設が開 始された。青森には津軽藩の町奉行所が設置され藩 が直接支配した。黒石は明暦 2 年( 1656 )に初代藩 主津軽信英(黒石津軽家)が津軽氏から分知された 支藩の城下町であり,弘前城下と密接な関係にあっ た。  弘前は本町において定期市開催にともない享保年 間( 1716 ~ 1736 )頃に「小見世」が連続した注 27 ) この時期,定期市が開催されたのは本町だけでな く,土手町・親方町・亀甲町など多くの町で成立し ている。そのためこれらの町でも「小見世」が連続 した可能性がある。天明 8 年( 1788 )刊『奥民図 彙』注 28 )によれば「小ミセト云モノ町コトニアリ, 其幅九尺或一間計,往来ノ人雨天ノトキ雪中ナトハ ミナ此小ミセヲ通行ス」とあり,城下町の多くの町 で建設された。青森では定期市が開かれ,明和 3 年 ( 1766 )の地震後,弘前城下に倣って道路上に「小 見世」が整備された注 29 )。さらに黒石では 18 世紀後 半から 19 世紀中頃において道路上に「小見世」が整 備され,安政 4 年( 1857 )『滝屋日記』によれば町 年寄が「小見世」の通路としての利用を妨げたため 藩が免職・謹慎処分とした注 30 ) b)  城下町鶴岡と港町酒田  六十里越街道の終着点であり庄内藩の城下町鶴岡 においては,天保 13 年( 1842 )頃に描かれた『夢 の浮橋絵巻』注 31 )に吹き放しで往来可能な庇の連続 を一部に確認できる(図 4 )。その外港酒田も文政 4 年( 1821 )の記録に「庇下通して歩行相成」とあ り,庇は道路上に形成されていた注 32 ) c)  出羽三山参詣路沿いの地域   (山形・上山・米沢・白岩・志津)   羽 州 街 道 沿 い の 城 下 町 山 形 に お い て 文 政 3 年 (1804 )発行の『湯殿山道中一覧』注 33 )(以下『一覧』 図 5 ~ 8 )によれば,出羽三山の道者宿として栄え た八日町では吹き放しで往来可能な庇の連続を確認 図 4 鶴岡 図 5 山形(三日町) 図 6 山形(七日町) 図 7 山形(八日町) 図 8 山形(十日町) 図 9 白岩 図 10 渡辺家 図 11 志津 庇部分を中心に模写した。出典 図 4『夢の浮橋絵巻』,図 5 ~ 7『一覧』(『江戸時代図誌 第 8 巻』より模写),図 8 『一覧』(『図説山形県史 山形県史 別巻 第一巻』よ り模写 ),図 9『一覧』(『山形県史 第三巻 近世編下』 より模写 ),図 10『東北の民家』( 1968) より模写,図 11 『一覧』(「六十里越街道と出羽三山  歴史手帳 11 巻 11 号」より模写 ) ※ 葺材名は描写により判断(筆者加筆 ) ※ 図 5,図 11 の屋根葺材については,茶色に塗られ他の 葺材と絵画表現が異なることから,茅葺と判断した。

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できるものの,道者宿の三日町や紅花の商人町注 34 ) として栄えた七日町・十日町では庇先に長暖簾が下 げられるなど私的利用が見られる。七日町は旅篭町 から南へ上がる主要商人町で明和 6 年( 1769 )頃の 『山形風流松木枕 下巻』注 35 )によれば, 此町紅花時分の最中は市場を立,京都より紅 花仲買の旅人下りて売買仕る,他国の衆はしら ぬ,其時分は男も女も狂人のことく姿を崩し, いつ櫛の歯入たる儘から赤裸に成,何か一ケ月 の儲か一年中の暮らしとなりぬこと故,前後を 争ひ,親兄弟の見境へもあらはこそ,我劣らし との買ふこと故,昼夜の境なく賑ひ申なり とあり,紅花市で活況を呈したことが分かる。ま た十日町は同町星野家の普請記録である文政 11 年 ( 1828 )『万歳帳』に「こまや」屋根葺きの記録注 36 ) が残る。  城下町上山は山形同様羽州街道沿いの城下町であ り,『一覧』に十日町の観音寺周辺における町家前 面の吹き放しで往来可能な庇の連続( 2 軒続きが 2 箇所)が描かれている。十日町は定期市が開かれ問 屋・本陣が置かれた宿駅であった注 37 )  さらに上山から最上街道(米沢街道)で結ばれ た米沢藩の城下町米沢では,宿駅を基盤として成 立した東町の検断石田家の『石田名助記録』享和 3 年( 1803 )条に「小間屋海道掛三尺壹寸五分,右小 間屋通往来相成候様可致置候事」とあり,「小間屋」 の通路としての利用を確認できる注 38 )  さらに山形を起点に鶴岡に至る六十里越街道沿 いの宿場町である白岩・志津に確認できる(図 9・ 11 )。六十里越街道は近世において賑いを見せた湯 殿山参詣路であり年間 3 万人の人々が行き交ったと される注 39 )。白岩は『一覧』に吹き放しで往来可能 な庇の連続が一部に描かれ,画面右最奥の町家は庇 に袖壁が設けられるなど私的利用が見られる。また トレースする中で画面左側の橋上に行き交う人々を とり除くと庇下に人( 1 人)が通る様子を確認でき る。また白岩は以西が湯殿山の神域とされ,天保 13 年( 1842 )の『當村方諸商売商人取調書上帳』注 40 ) によれば,蕎麦切屋や草履草鞋の類,おこしの類な ど計 72 件の農業以外の職業戸数を数えるものの,宿 屋はなく他職が道者宿を兼ねていた。小野芳次郎 『東北の民家』注 41 )によれば白岩の道者宿,渡辺家 (加賀屋)は慶応 3 年( 1867 )の大火後の再建であ り,切妻平入で主屋前面には往来可能な「こまや」 がある(図 10 )。渡辺家の「こまや」については 『慶応三年 家普請中大工日雇并金子相渡帳』注 42 ) 「こまや」屋根葺きの記載があることから,建築当 初から既に設置されていた。また志津も吹き放しで 往来可能な庇の連続が『一覧』に描かれている。志 津は六十里越街道保全のため慶長年間に大井沢・月 山沢・砂子関の各村から 7 人の百姓を選んで関所を 設けたのが始まりとされ,田地がなく,志津宿の経 済は三山の道者宿としての役割に依存していた注 43 ) d)  港町新潟と亀田   信 濃 川 の 河 口 に 発 達 し た 港 町 新 潟 は 天 保 2 年 ( 1831 )『北国一覧写』に「町家両側軒下往来」と の文言が確認される注 44 )。また港町新潟と舟運で直 結する交通の要衝であり定期市が開かれた亀田は, 新潟に滞在する上方商人だけでなく,高田・柏崎の 商人なども商いにきた。『亀田町史』注 45 )によれば 元禄 6 年( 1693 )に町割され,初期の町場につい て「亀田町は四間であり,両側に雁木道を配してい た」とある。この「雁木道」とは,通りの両側に建 設された雁木通りと考えられ,町割直後の元禄 7 年 ( 1694 )に定期市が開かれ,同年の記録注 46 )によれ ば「ひさしの柱に旅人宿と書付置」とある。尚,雁 木通りが定期市に利用されていたかについては不明 である。 e)  三国街道沿いとその周辺地域   (長岡・与板・小千谷・片貝・栃尾)  越後は古くから京都と結ぶ北陸道や佐渡の金を江 戸に運ぶ佐渡三道(北国街道・三国街道・会津街 道)に沿って宿場町が整備された。  三国街道沿いの城下町長岡は寛永 19 年( 1642 ) の 記 録 に よ れ ば, 元 和 3 年( 1617 ) ~ 元 和 8 年 ( 1622 )の城下町建設と同時期に「雁木通り」が建 設され注 47 ),同じく三国街道沿いの城下町で当初長 岡藩の支藩であった与板は弘化 4 年( 1847 )『御用 留 未正月』注 48 )に, 町中に焼物集置へからす,時々掃除可致事,が んぎ通りニあく俵置へからず とあり,「がんぎ通り」の存在を確認でき,冬期に

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おいて往来を妨げる障害物の撤去を藩が指示してい る。  いっぽう三国街道と信濃川の渡しによって連絡 し,城下町長岡と街道で結ばれた小千谷は十日町 など魚沼奥地への物流拠点であった。『小千谷市史  本編 上巻』注 49 )によれば寛永 15 年( 1610 )『魚沼 郡小千谷村所替屋敷割之事』に雨落を道幅に含めた 取り扱いから,すでに雁木通りが建設されていたと 推定している。この推定は雨落が雁木先の雨水処理 に利用されたことを前提とするものである。また小 千谷は寛文年間( 1661 ~ 1672 )から縮市が開かれ 江戸・大坂・京からも商人が訪れるなど盛況であっ た。  さらに小千谷と与板・弥彦を結ぶ街道沿いの宿場 町片貝は当地庄屋の記録である文化 6 年( 1809 )~ 文政 7 年( 1824 )『也勢可満登 冬』注 50 )に「雁木 庇の雪ニ倒れさる様に雪を下ろすこと度々也,当国 の慣はしにて毎朝毎朝かんぎ・庇之雪,又通路之途 を踏付くること」とある。冬期において「雁木」が 雪で壊れないよう日常的に維持・管理していること から,「雁木」が通路として利用されていた可能性 が考えられる。  さらに三国街道沿いの宿場町塩沢に生まれた鈴木 牧之の天保 11 年( 1830 )刊『北越雪譜』二編巻之 一注 51 )によれば,場所は不明なものの, 宿場と唱る所は家の前に庇を長くのばして架 る,大小の人家すべてかくのごとし。雪中はさ ら也,平日も往来とす。これによりて雪中の街 は用なきが如くなれば,人家の雪をこゝに積。 次第に重て両側の家の間に雪の堤を築きたるが 如し。こゝに於て所々に雪の洞をひらき,庇よ り庇に通ふ,これを里言に胎内潜といふ とあり,冬期における防雪通路として町家前面の 「庇」が利用され,屋根雪を街道に積むことができ たとしている。  一方城下町長岡と峠道で結ばれた山間の町場であ る栃尾は,嘉永 2 年( 1849 )『谷内町市ニ付返答書』 注 52 )によれば,定期市開催を目的に御役人所より大 町全体を雁木通りにするように指示された。この史 料によれば,栃尾の雁木通りの成立は城下町長岡の ように計画的に建設されたのではなく注 53 ),当初大 町の一部に雁木通りが形成されていたものの,19 世 紀中頃に,既存「雁木」側面の袖壁を取り払い,大 町全体を雁木通りとするよう御役人所から指示され たものである注 54 )。その後,大正 15 年( 1926 )の 大水害後,多くの町で雁木が建設され,雁木通りに よって結ばれた。 f)  北陸道から北国街道沿いとその周辺地域   (糸魚川・能生・高田・松代)  北陸道沿いの城下町糸魚川は 18 世紀中頃に雁木 (「ひさし」)を有した商家が軒を連ねることにより雁 木通りの建設が開始され注 55 ),糸魚川と城下町高田 に挟まれた能生(糸魚川市)は北陸道沿いの宿場町 であり,『天和検地帳』注 56 )によれば敷地の間口,奥 行き,坪数などとともに「四壁引」の坪数が記載さ れる。「四壁引」とは免租地を指すが,この坪数が雁 木幅1間と仮定すると,間口一杯に雁木を設けた場 合の雁木下の面積とほぼ符合する。よって当時すで に雁木通りが道路上に建設されていた可能性がある。  また北国街道沿いの城下町高田は寛保 3 年(1743 ) の 記 録 に「 高 田 町 幅 の 狭 き は 慶 長 年 中( 1596 ~ 1615 )福島城を移築の際,町家造りし頃,雁木と 云なく,雪中歩行不自由に依て,後片庇を卸したる 故,町幅狭申伝有り」とあり,「雁木」は防雪通路 としての利用を目的に建設された注 57 )。北陸道は加 賀藩・富山藩・大聖寺藩の参勤路で,糸魚川・能生 や北国街道沿いの高田はいずれも宿泊地であった。 また北国街道はその安全性から,冬期間,越後諸藩 の参勤路として利用される場合が多かった注 58 )  さらに北国街道の牟礼から分岐する松代道沿いの城 下町松代は,享保 13 年( 1728 )の紙屋町の記録注 59 ) によれば「五間三尺町幅 右町幅之内六尺がんぎ下 側」とあり,道幅 5 間 3 尺の内,6 尺を「がんぎ」の 敷地にしたとある。いっぽう東西に延びる紙屋町通 りの北側に位置する 18 世紀末頃或は 19 世紀初め頃 に建てられた相沢家と通りの南側に位置し幕末頃に 建てられた柿崎家には,建築当初から,それぞれ 3 尺幅の吹き放しの庇を確認できる注 60 )。記録には 「町幅之内六尺がんぎ下側」と「がんぎ」が道幅に 含まれた取り扱いから,道路上の両側に 3 尺幅の雁 木通りが建設されていた可能性が考えられる。  以上,地域的なまとまりをもつ場合は,①城下町

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の町場とその支配下にある外港の町場(弘前と青森 → a,鶴岡と酒田→ b),②出羽三山参詣路沿いの城 下町の町場と宿場町や市場町の町場(山形・上山・ 米沢・白岩・志津→ c),③港町の町場と港町に直 結する全国から商人が集まる宿場町や市場町の町 場(新潟と亀田→ d),④越後の主要街道である三国 街道・北陸道・北国街道沿いとその周辺地域の城下 町の町場や宿場町・市場町の町場(長岡・与板・小 千谷・片貝・栃尾→ e,糸魚川・能生・高田・松代 → f)などがあった。 2 )  点在する場合 ⅰ)  奥州街道から分岐した八戸街道沿いの城下町八 戸と田名部街道沿いの田名部  奥州街道から分岐した八戸街道沿いの城下町八戸 では元禄 13 年( 1700 )に定期市開催に際し「小見 せ」が連続する様子を確認できる注 61 )。また下北半 島に位置し奥州街道から分岐した田名部街道沿いの 田名部(青森県むつ市)は,南部藩における下北半 島の中心地であり,寛政 4 年( 1792 )『菅江真澄遊 覧記』注 62 )によれば,18 世紀後半において往来可能 な「ひさし」の通路としての利用を確認でき,定期 市における商業活動に寄与していた。田名部は雁木 通りの建設文化の北限と言える。 ⅱ)  奥州街道沿いの城下町盛岡  近世末期『盛岡城下絵図大曲一双屏風』注 63 )によ れば,奥州街道沿いの城下町盛岡では仙北町に往 来可能な庇の連続を一部に確認でき,庇下は商品売 買の場としても利用されていた。城下南の玄関口で 宿屋・料理・飲食・肴・海産物などの商業地として 発展した仙北町は注 64 ),近世後期『見聞随筆』によ れば「在方入込筋故」を理由に定期市が設けられな かった注 65 )。いっぽう他町ではその多くで定期市が 開かれ,『盛岡市史』によれば『見聞随筆』所収の 元禄期( 1688 ~ 1704 )の初期「女町市立之図」を 引用しながら,道幅 16 尺の内,中心が 4 尺,道脇の 堰向が両側 3 尺ずつ,町家前面の「見世下」が両側 3 尺ずつとある注 66 )。また同図には「此通ハ見世下 也」とあることから通路状になっていたことが推察 される。 ⅲ)  羽州街道沿いの城下町秋田  羽州街道沿いの城下町秋田(久保田とも呼ばれ る)において,天明 8 年( 1788 )『東遊雑記』に通 路としての「雪道」の整備が確認でき注 67 ),定期市 開催場所としての利用は文化文政期( 1804 ~ 29 ) 『秋田風俗絵巻』注 68 )に確認できる。 ⅳ)  会津街道沿いの宿場町津川  会津街道沿いの宿場町津川は,阿賀野川舟運の起 点で市も開かれるなど商業地として発展した。津川 は慶長 15 年( 1610 )の大火の際,津川城主岡重政に より雁木が造られたと指摘されている注 69 )。しかし, その根拠とされる明和 8 年( 1771 )『津川姿見』注 70 ) には, 津川は延享丑年まで本町惣板葺なり。杉を打 ち割り,板の長さ六尺,厚さ八分なり。中町は 出梁に小屋送りといふ。棟の高さ八,九間なり。 上町・横町・下町は平板作りといふ庇を用ふ。 とあり,延享 2 年( 1749 )までに上町・横町・下町 において「平板作り」と呼ばれる庇が建設されたこ とは分かるが,慶長 15 年( 1610 )に遡れるものか については判然としない。また史料によれば中町で は「出梁に小屋送り」とあることから主屋屋根が道 路に向かって張り出される様子が分かる。いっぽう 上町・横町・下町は出梁ではなく,町単位で庇を張 り出していることから,往来可能な庇の連続が形成 されていた可能性が考えられる。 ⅴ)  城下町長岡と港町新潟を結ぶ街道沿いの三条  新潟と長岡を結ぶ街道沿いのほぼ中間に位置し, 戦国城下町の城が破却され在郷町に変容した三条で は 文 政 11 年( 1828 ) の 地 震 後, 天 保 4 年( 1833 ) の記録注 71 )によれば「庇之中通行無之候而者,雪中 通路始諸商売之都合不宜敷候故,町並一同庇附為 出」とあり,冬期間の歩行者用の通路として利用す るだけでなく,商売上の利便から「庇」が整備され た。また「町並一同庇附為出」とあることから,道 路上に整備されたものと考えられる。 ⅵ)  若桜街道沿いの城下町若桜  若桜は当初若桜街道沿いの城下町で後に宿場町と なり,交通の要衝として栄えた。仮屋については城 下町建設当初に建設された可能性が指摘される注 72 ) 元禄元年( 1688 ) 『因幡民談記』によれば,雨の日 も傘なしで歩けるのが町の誇りであったとされ注 73 ) 冬期以外の利用も見られる。明治 18 年( 1885 )の

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大火後には,若桜宿会より防火後の町づくりとして, 沿道の建物を 1 丈 1 尺分セットバックし,幅 4 尺の仮 屋と幅 2 尺の水路を設けることが議決された。近年 では町並調査が実施されており,町家前面の仮屋が 部分的に残るのみで,通路としての機能は失われて いる注 74 )  以上,点在する場合は,城下町の町場単独か(八 戸・秋田・盛岡・若桜〈後に宿場町〉),近隣に城下 町がなく市や河岸など商業地域として栄えた町場 (田名部・津川・三条)であった。 4.2 雁木通りの分布と形成要因  地域的なまとまりをもって分布する場合は,以下 の 3 点を指摘できる。①京都と越後を結ぶ北陸道, 北陸・越後諸藩の参勤路として利用された北国街 道,また北国街道や会津街道とともに佐渡の金を江 戸に運ぶ三国街道,出羽三山参詣路として賑わいを みせた六十里越街道など,深雪地域における主要街 道に沿った城下町や宿場町を中心に建設された。ま た②城下町弘前と港町青森,弘前藩の支藩である城 下町黒石,城下町鶴岡と港町酒田など,城下町とそ の支配下にある港町や支藩の城下町に建設された。 さらに③港町新潟と,水運によって直接繋がり市が 開かれていた亀田に建設された。点在する場合は各 地域において城下町単独か商業の中心地に建設され た。  以上のように,雁木通りは深雪地域の全ての町場 に建設された訳ではなく,街道や政治的,経済的な 繋がりのある地域を中心に形成された。 4.3 雁木通りの分布と呼称との関係  雁木通りの分布と呼称との関係をみると,地域的 なまとまりをもって分布する場合は,①「小見世」 は a(弘前・黒石・青森 以上青森県),②「小間 屋(こまや)」は c(米沢・白岩 以上山形県),③ 「庇」は d(新潟・亀田 以上新潟県),④「雁木 (かんき・がんぎ・かんぎ)」は e.f(長岡・与板・栃 尾・小千谷・片貝,高田・糸魚川・松代 以上新潟 県)である。新潟県下における「庇」と「雁木」の 2 種類の呼称は,前出の『北越雪譜』二編巻之一注 75 ) にも「江戸の町にいう店下を越後に雁木又は庇とい う」とあり,確認できる。  点在する場合は,「小見世」は八戸(青森県),秋 田(秋田県)に確認できる。また「庇」は田名部 (青森県),酒田(山形県),三条(新潟県)などで 用いられており,地域により呼称が異なった(表 1 )。 4.4  雁木通りの建設が確認された町場の機能と呼称 との関係  雁木通りの建設が確認された町場の機能と雁木の 呼称との関係をみると(表 1 ),以下の 2 類型とな る。尚,町場の機能については先述の通り,雁木通 りの建設が確認できた時点の機能とし,例えば宿場 町において雁木通りが確認された時点で市が開かれ ていれば,宿場町と市場町を併記した。 ①城下町の町場を中心に建設された「小見世通り」 ②城下町の町場や宿場町の町場を中心に建設され た「雁木通り」「小間屋通り」「仮屋通り」  尚,城下町内における雁木通りの建設地域について は,すでに拙論において呼称別に検討しており注 76 ) 「小見世通り」は城下町における定期市など商業機 能を中心とした町場に形成され,「雁木通り」「小間 屋通り」「仮屋通り」は宿駅機能を基盤に成立した 町場を中心に形成されたことを明らかにしている。 4.5 呼称別にみる雁木通りの形成と発達  ここでは,代表的な呼称ごとに,近世における雁 木通りの形成と発展について時間軸の上で再検討す る(表 2 )。 ① 雁木系  「雁木通り」の建設が確認できる最初の例は,元 和 3 年( 1617 )~元和 8 年( 1622 )の城下町長岡で ある。城下町長岡の「雁木通り」は,城下町建設と 同時期に防雪通路を目的として藩命により政策的に 建設された。その後,城下町建設後の高田でも防雪 通路を目的として形成された。これらの城下町は, それぞれ北越諸藩・越後諸藩の参勤路である北国街 道,三国街道の要衝にあり,交通機能の維持が何よ り求められたことによる。また宿場町小千谷(寛永 15 年・1610 の推定)や,宿場町能生(天和年間・ 1681 ~ 83 の可能性あり),城下町松代(享保 13 年・

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1728 に確認),城下町糸魚川( 18 世紀中頃に形成), 城下町与板(弘化 4 年・1847 に確認)など,いずれ も両城下町と街道で結ばれた周辺の城下町や宿場町 に発達したものである。 ② 小見世系  奥羽の城下町弘前(享保年間頃・1716 ~ 1736 に 小見世が連続)や,その外港である港町青森(明和 3 年・1766 の地震後に整備),弘前の支藩の城下町 黒石( 18 世紀後半から 19 世紀中頃に整備),さらに 城下町八戸(元禄 13 年・1700 に確認),城下町久保 田(天明 8 年・1788 に確認)など,定期市の開催場 所としての利用を背景に「小見世」が形成された。 ③ 小間屋系  出羽三山の参詣路である六十里越街道沿いの城 下町山形(文政 3 年・1804 )や宿場町白岩(文政 3 年・1804 )に「小間屋」が確認され,同様の庇は宿 場町志津(文政 3 年・1804 )にも確認される。また 六十里越街道に連なる街道沿いの城下町米沢(享和 3 年・1803 )に「小間屋」が確認され,同様の庇は 城下町上山(文政 3 年・1804 )にも確認できる。 ④ 庇系  港町酒田(文政 4 年・1821 )に「庇」下の通路機 能が確認できる。また同様の庇は酒田を支配下に置 いていた城下町鶴岡(天保 13 年頃・1842 )にも確認 できる。一方,亀田(元禄 7 年・1694 に確認),三条 (文政 11 年・1823 の地震後に整備),港町新潟(天 和 2 年・1831 に確認)など,17 世紀末から 19 世紀中 頃において「庇」を確認できる。新潟と亀田は経済 上の繋がりが深く,三条は防雪通路としてだけでな く,商業活動をも目的として形成された。この庇系 には,商業利用がされた江戸の町家の「庇」も含ま れるものと考えられる。  以上を整理すると,「雁木通り」(新潟県の上・中 越地方)は,17 世紀初頭の城下町建設期に,防雪通 路を目的として形成され,その後城下町など市が開 かれた町に「小見世通り」(青森県や秋田県等)が 形成された。さらに庇(山形県庄内地方や新潟県下 越地方)や「小間屋通り」(山形県の村山・置賜地 方)は,19 世紀初めから中頃までにその多くが整備 されたものと考えられる。

5.雁木通りの分布と形態との関係

 雁木通りの分布と形態との関係ついて,以下の観 点(①~④)から検討する(表 1 )。これらは前述の 通り雁木通りを構成する主要な構成要素であるとと もに,幅や建具は空間利用のあり方に,屋根葺材は 町並景観に,土台は柱下部の納まりなどと関係して いる。 ① 幅  地域的なまとまりa では,城下町弘前の「小見世」 幅が 1 間~ 1 間半と広く,港町青森の「小見世」は 弘前に倣って整備されたことから弘前同様幅広で あった可能性がある。弘前の「小見世」は商品売 買の場であり注 77 ),より広い空間を必要としたため であろう。f では北陸道沿いの城下町糸魚川,宿場 町能生,北国街道沿いの城下町高田でいずれも 1 間 表 2 呼称別にみる雁木通りの形成と発達 凡例 ◎:城下町 □:宿場町 ◇:市場町 △:港町 ●:根小屋・他  ※若桜は当初城下町で後に宿場町 記号 a ~ f は地域なまとまりをもつ場合,点:点在する場合,他:別系の場合 年代 記号の位置は凡その位置であり,必ずしも建設時期を示す訳ではない(詳しくは表 1 参照) 注 1 盛岡は近世後期,小千谷は推定,能生は可能性あり 注 2 鶴岡は呼称不明なものの酒田と同一グループのため庇の欄に入れた。

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( 6 尺)幅であり街道に沿って伝播した可能性が考え られる。一方点在する場合,城下町秋田は 1 間余と 幅広で,これは主要街道に沿うとともに庇下が定期 市に利用されていたためと考えられる。また城下町 八戸は表町 4 尺,裏町 3 尺,城下町松代は 3 尺と比 較的幅が狭く,これは主要街道沿いでなかったため と考えられる。 ② 建具  庇先の建具には戸障子と落し板が見られる。戸障 子は上半分に障子を貼って屋号などを記し,下半分 は板戸としたもので,落し板は雁木柱の溝に板を落 し込んだものである。まず戸障子について地域的な まとまりa では,天明 8 年( 1788 )の城下町弘前, 宝暦 13 年( 1763 )頃の城下町黒石の高橋家に確認 され,先述の通り黒石は弘前の支藩であったため伝 播した可能性がある。一方点在する場合は文化文政 期( 1804 ~ 1829 )の城下町秋田,天保 2 年( 1831 ) の港町新潟に確認できる。弘前や秋田は「小見世」 が商業空間として利用され,戸障子を設けて「小 見世」と道路を隔てる必要があったものと考えられ る。また『筆満可勢』注 78 )天保元年( 1830 )大晦日 の記録によれば,城下町高田では雁木部分について 「両側庇の柱に取り付けて雪よけをなし,上は雨障 子」とある。柱下部についての記述はなく不明であ るが,雪除けを目的としていることから下に板が嵌 められる戸障子であった可能性が高い。  一方城下町長岡は,幕末の絵図において,落し板 が多くみられるが,他にも板戸(下側)や,安政 3 年( 1857 )の絵図では雨障子(上側)なども確認で きる。長岡は,新潟・高田と地域的なまとまりが異 なるとともに地理的にも離れている。また長岡藩の 支配下にあった栃尾も,明治後期の古写真注 79 )にお いて雨障子が確認でき,また年代は不明なものの, 現在の町並遺構として落し板を嵌めるための溝を雁 木柱に確認できる注 80 ) ③ 屋根葺材  絵画史料にみる庇の屋根葺材をみると,宝永 4 年 ( 1707 )~ 正 徳 4 年( 1714 )の 港 町 酒田は 石 置 板 葺・草葺,宝暦 4 年( 1754 )の城下町弘前で杮葺, さらに同城下町の天明 8 年( 1788 )で石置板葺,文 政 3 年( 1820 )の城下町山形で茅葺・石置板葺・杮 葺・瓦葺,城下町上山で茅葺・杮葺,同年の宿場町 白岩で杉皮葺,宿場町志津で茅葺が確認できる。さ らに文化文政期( 1804-1829 )の城下町秋田で石置 板葺,天保 2 年( 1831 )の港町新潟で石置板葺,天 保 13 年( 1842 )の城下町鶴岡で石置板葺,幕末の 城下町長岡で石置板葺であった。  以上,18 世紀前半~ 19 世紀中頃においては茅葺 や石置板葺が多いものの,地域的なまとまりa の城 下町弘前(杮葺)や,cの城下町山形(杮葺・瓦葺) や城下町上山(杮葺)など出羽三山参詣路沿いの 城下町の町場では,屋根葺材の発達が速い傾向にあ る。 ④ 土台  雁木柱を支える土台について,地域的なまとま りa では,城下町弘前の 18 世紀前半の建築で 19 世 紀初めに移築された石場家の移築時の復原において も,雪除け板が入ることを理由に小見世先の柱下に 土台があったと判断され注 81 ),城下町黒石の宝暦 13 年( 1763 )頃に建築された高橋家の小見世にも土台 があり注 82 ),戸障子同様伝播した可能性がある(但, 後補の可能性を否定できない)。また地域的なまと まりb では天保 12 年( 1841 )の港町酒田,c では文 政 3 年( 1820 )の城下町山形と城下町上山,さらに e では安政 3 年( 1856 )の城下町長岡,さらに f で は城下町高田でも上が雨障子で戸障子であった可能 性が高く,19 世紀には土台があったものと考えられ る。  以上 19 世紀初めから中頃までには,雁木柱下の土 台が各地に確認される。

6.おわりに

 以上,判明した諸点をまとめる。 1 )雁木通りの分布と形成要因  近世史料などにより雁木通りの建設が確認された 町場 28 箇所について,その分布をみると以下の 2 類 型となる。 a. 地域的なまとまりをもつ場合  ①越後の主要街道である北陸道・北国街道・三国 街道に沿った城下町や宿場町,市場町の町場(e.f), 出羽三山参詣路沿いの城下町や宿場町,市場町の町 場(c),②城下町の町場とその支配下にある外港の

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町場(弘前と青森(a),鶴岡と酒田(b)),③港町 の町場と港町に直結する全国から商人が集まる市が 開かれた町場(d)などに建設された。つまり①街 道による繋がり,②政治的な繋がり,③経済的な繋 がりのある地域で,まとまって雁木通りが形成され る傾向にあった。 b. 点在する場合  城下町の町場単独か,近隣に城下町がなく市や河 岸など商業地域として栄えた町場に建設された。  以上を整理すると,深雪地域において全ての町場 に雁木通りが建設された訳ではなく,特定の地域に 建設された。深雪という同一の条件下にも関わらず 雁木通りの形成・未形成が発生した要因には,上記 にみられる自然条件以外の,街道や政治的・経済的 な要因が起因したものと考えられる。  また雁木の呼称と雁木通りの分布との関係をみる と,「小見世」は a「小間屋(こまや)」は c「雁木 (かんき・がんぎ・かんぎ)」は e.f と,各地域で呼称 が異なり,また雁木の呼称と雁木通りの建設が確認 された町場の機能との関係をみると,「小見世通り」 は城下町の定期市が開かれた商業機能をもつ町場を 中心に建設され,「雁木通り」「小間屋通り」「仮屋 通り」は城下町の宿駅機能を基盤に成立した町場や 宿場町の町場を中心に建設された。そのため「雁木 通り」や「小間屋通り」は街道に沿って分布してい る。  さらに呼称別にその形成と発展をみると,「雁木 通り」(新潟県の上・中越地方)は,17 世紀初頭の 城下町建設期に,防雪通路を目的として形成され, その後市が開かれた町に「小見世通り」(青森県や 秋田県等)が形成された。さらに庇(山形県庄内地 方や新潟県下越地方)や「小間屋通り」(山形県の 村山・置賜地方)は,19 世紀初めから 19 世紀中頃ま でに整備されたものと考えられる。 2 )  雁木通りの分布と形態  次に雁木通りの分布と形態との関係をみる。  まず庇の幅は,地域的なまとまりa では,城下町 弘前の「小見世」が定期市開催に利用されたため 1 間~ 1 間半と広く,港町青森の「小見世」は弘前に 倣って整備されたことから弘前同様幅広であった可 能性がある。さらに f では北陸道沿いの城下町糸魚 川,宿場町能生,北国街道沿いの城下町高田でいず れも 1 間( 6 尺)幅であるなど,街道に沿って伝播 し,前述の『北越雪譜』にみるように,宿場の防雪 通路として利用されていた可能性がある。戸障子は 雁木下の商業利用にともない,弘前・黒石・秋田・ 新潟など各地に確認され,高田でも戸障子が嵌めら れていた可能性がある。一方,港町新潟や城下町高 田と地理的に離れた城下町長岡で落し板が雁木柱に 多く嵌められていた点は特筆される。屋根葺材は 18 世紀前半~ 19 世紀中頃において茅葺や石置板葺が多 いが,地域的なまとまりa の城下町弘前(杮葺)や, c の城下町山形(杮葺・瓦葺)や城下町上山(杮葺) など出羽三山参詣路沿いの城下町では屋根葺材の発 達が早い傾向にあった。さらに雁木柱下の土台は, 19 世紀初めから中頃までには,各地に確認される。 3 )  雪国と雁木通り  本研究では,近世における雁木通りの地域分布の 検討から,雁木通りは深雪地域の全ての町場に建設 された訳ではなく,街道や政治的,経済的な繋がり のある地域を中心に建設されたことが分かった。雁 木=深雪は,これまで自明のこととして説明されて きたが,雁木など民家の形態は深雪など,風土に よってのみ形成されたものではないことが分かる。

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( 2002.6 ):青森県黒石市中町の「こみせ」と町 並,日本建築学会東北支部研究報告集,pp.167-170 6 ) 久保田一成・黒野弘靖( 2002.6 ):屋敷と町の 利用と空間構成に支えられる雁木通りの公共 性,日本建築学会北陸支部研究報告集,第 45 号,pp.299-302

注 1 ) 参考文献 1 ) 注 2 ) 雁木・小見世については,菅原邦生・波多 野純( 1997.4 ):近世における雁木通りの建設 整備過程,日本建築学会計画系論文集,第 494 号,pp.221-228 小間屋(米沢)については,菅 原邦生( 2002.9 ):近世における雁木通りの権 利形態と利用実態,日本建築学会計画系論文 集,第 559 号,pp.249-253 を参照。米沢以外の 小間屋については,寒河江市白岩に所在した渡 辺家の『慶応三年家普請中大工日雇并金子相渡 帳』(山形市史編纂委員会編( 1980 ):山形市史 資料 第 59 号,山形市,p.33 所収)に確認でき る。また山形城下(十日町)星野家の文政 11 年 ( 1828 )『万歳帳』(前傾「山形市史資料 第 59 号」所収)では小間屋は「小前」と呼ばれてい る。他は本文中に示す。 注 3 ) 参考文献 1 ) 注 4 ) 江戸において一間幅の往来可能な庇が成立し ている。波多野純( 1986 ):「江戸の町家」日本 名城集成江戸城,小学館,pp.158-186 注 5 ) 近世は一般に,織田信長が京都に進出し,中 央政権への道を歩み始めた永禄 11 年( 1568 ) から徳川幕府が滅亡し大政奉還がされる慶應 3 年( 1867 )であるが,見解が異なる場合もあ る。本稿では,この内,徳川家康が征夷大将軍 に任じられた慶長 8 年( 1603 )から大政奉還さ れた慶應 3 年( 1867 )を研究対象期間としてい る。 注 6 ) 東京大学工学部建築史研究室(稲垣栄三他数 名が調査)( 1982 ):越後高田の雁木,新潟県上 越市教育委員会,pp.4-21 注 7 ) 参考文献 3 )ほか多数 注 8 ) 深澤大輔( 2001.9 ):中世栃尾城の寄居町で あった大町の雁木の形成と変遷 豪雪地帯にお ける雁木の発生と変遷に関する研究,日本建築 学会大会学術講演梗概集 E2,pp.623-624 深澤大輔( 2004.12 ):同名タイトル,新潟工科 大学研究紀要 第 9 号,pp.49-56 注 9 ) 草野和夫( 1991 ):東北民家史研究,中央公 論美術出版,pp.318-330 同( 1995 )近世民家の 成立過程 -遺構と史料による実証-,中央公 論美術出版,pp.212-215 注 10 )参考文献 5 ) 詳細は財団法人日本ナショナル トラスト( 2002 ):黒石「こみせ」の町並み, 日本ナショナルトラストを参照 注 11 ) 注 4 )前掲「江戸の町家」 注 12 ) 玉井哲雄( 1986 ):江戸失われた都市空間を 読む,平凡社,pp.78-105 注 13 ) 吉田伸之 ( 1992 ):第八章 肴納屋と板舟-日 本橋魚市場の構造的特質- 商人と流通-近世 から近代へ- 山川出版,p.385 注 14 ) 糸長浩司・青木志郎( 1988.10 ):雁木通りの 空間構成と住民評価に関する研究 -積雪市街 地の共用空間に関する研究-,日本建築学会大 会学術講演梗慨集 F,pp.225-226 注 15 ) 参考文献 4 ) 注 16 ) 参考文献 6 ) 並びに永木浩司・高梨芳則・黒 野弘靖( 2005.7 ):上越市本町通りにおける町 家と雁木の空間特性,日本建築学会北陸支部研 究報告集,第 48 号,pp.409-412 佐野光浩・黒野 弘靖・大築宏光( 2000.7 ):空間特性とその利 用にみる雁木の公共性,日本建築学会北陸支部 研究報告集,第 43 号,pp.493-496 ほか多数 注 17 ) 安田初男( 1939 ):高田市の景観,地理学評 論,15 巻 7 号,pp.509-523 注 18 ) 注 1 )前掲 注 19 ) 参考文献 2 )他に渡邉英明( 2011.10 ):18 ~ 19 世紀の越後三条町における雁木通りの-形成 と機能,人文地理第 63 巻 第 5 号,pp.57-71 注 20 ) 奈良洋( 2006.3 ):雪国の知恵・こみせ(小 店)の今日的意義-秋田県鹿角市花輪と青森県 黒石市にみる,雪氷 68 巻第 2 号,pp.141-147 注 21 ) 月舘敏栄( 1987.9 ):東北地方の伝統的民家

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における雪に対する適合形態の研究,日本雪工 学会誌 第 4 号,pp.18-35 注 22 ) 高橋喜平( 1957.1 ):多雪都市の雪路につい て,雪氷 第 11 巻 3 号,pp.94-99 注 23 ) 本稿で言う町場とは,町家が建ち並び町並み を形成する場所を示す。 注 24 ) 注 2 )前掲「近世における雁木通りの建設整 備過程」で①弘前・②八戸・③長岡・④高田・ ⑤糸魚川を,同前掲「近世における雁木通りの 権利形態と利用実態」で⑥黒石・⑦米沢を,菅 原邦生( 2004.8 ):近世の城下町以外の町場に おける雁木通りの建設整備過程,日本建築学 会計画系論文集,第 582 号,pp.133-137 で⑧青 森・⑨田名部・⑩新潟・⑪三条・⑫小千谷(脚 注で同市片貝における存在も指摘)を(花輪に ついては本稿の判断基準と合致しないため再考 の上除外),菅原邦生( 2004.11 ):城下町にお ける雁木通りの建設地域,日本建築学会計画系 論文集,第 585 号,pp.149-153 で⑬秋田・⑭山 形を,菅原邦生( 2012.1 ):港町酒田における 雁木通りの形成と変容について,日本建築学会 計 画 系 論 文 集, 第 77 巻,第 671 号,p.193-197 で⑮酒田を,菅原邦生( 2014.10 ):近世・近代 の栃尾(長岡市)における雁木通りの形成過程 と雁木の形態,日本雪工学会誌,Vol.30 No.4, pp.15-26 で⑯栃尾を,それぞれ既に検討してい る。 注 25 ) 注 1 )前掲,pp.480-481 注 26 ) この中には,氏家の指摘する明治から昭和中 期に雁木通りが建設された町場の内,近世にお ける存在を確認した 3 箇所(青森市主部(青森 県),小千谷市片貝(新潟県),若桜町(鳥取 県)が含まれる。まず青森は注 24 )前掲「近 世の城下町以外の町場における雁木通りの建設 整備過程」参照。小千谷市片貝は同論文脚注 にて存在する可能性を指摘。若桜町は『因幡民 談記』(民俗学研究所編( 1955 ):改訂 総合 日本民俗語彙 第一巻,平凡社,p.428 )によ り通路としての利用が確認される。尚,最上川 舟運の河岸地である大石田(山形県)は『大石 田河岸絵図』(大石田東町地区所蔵 山形県編 ( 1988 ):図説山形県史 山形県史 別巻 第一 巻,山形県,pp.148-149 )によれば,その一部 に吹き放しで往来可能な庇の連続が描かれるも のの,必ずしも描き方が明瞭とは言えず,アー ケード状の連続空間であるかは定かではない。 注 27 ) 弘前市史編纂委員会編( 1953 ):弘 前 市 史  藩政編,弘前市,p.395 注 28 ) 森谷尅久編( 1977 ):江戸時代図誌 第 8 巻  奥州道二,筑摩書房,p.116 に一部所収 注 29 ) 注 24 )前掲「近世の城下町以外の町場にお ける雁木通りの建設整備過程」参照。享保 2 年 ( 1802 )の記録に藩主が青森町を通行する際の 諸注意として, 上堤町より博労町,米町,同町六丁目小路 より大町安方町,御仮屋小路より新町御仮 屋 の町において, 尤夜ニ入御通ニ而ハ見せ江灯を置,小見せ 燈籠釣可申候 とあり,小見世の存在が知られ,博労町では馬 市が,新町では六斎市が開かれた(下中邦彦 ( 1982 ):日本歴史地名体系 第二巻 青森県の 地名,平凡社,pp.312-354 )。 注 30 ) 注 2 )前掲「近世における雁木通りの権利形 態と利用実態」参照。 注 31 ) 注 28 )前掲,p.29 天保 11 年( 1840 )に酒 井家の越後長岡転封の幕命に対し領民が反旗し た様子を描いた絵巻。城下の町並も克明に描か れている。 注 32 ) 注 24 )前掲「港町酒田における雁木通りの形 成と変容について」参照 注 33 ) 山形県立博物館蔵 注 28 )前掲 江戸時代 図誌 第 8 巻 奥州道二,p.56,61 注 26 )前 掲 図説山形県史 山形県史 別巻 第一巻, p.140 屋根葺材については,絵画表現により判 断した。例えば図 5,図 11 の茅葺は茶色に塗ら れ,石置板葺の表現などと異なっている。 注 34 ) 山形市市史編さん委員会編( 1971 ):山形市 史 通史編 中巻,臨川書店,p.557 注 35 ) 原田伴彦編( 1976 ):日本都市生活史料集成 五 城下町篇Ⅲ,学習研究社,pp.604-617 所収

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注 36 ) 山形市史編纂委員会編( 1980 ):山形市史資 料 第 59 号,山形市,p.33 金壱両ト九百八十文 見世小前(小間屋を指す) 木羽新キ 四坪壱分二厘五毛 注 37 ) 上山市市史編さん委員会編( 1980 ):上山市 史 上巻 原始・古代・中世・近世編,上山 市,pp.656-661 注 38 ) 『石田名助記録』(米沢市史編さん委員会編 ( 1984 ):米沢市史 資料篇 3 近世史料 2,髙橋 幸翁)の検討並びに同解説による。注 2 )前掲 「近世における雁木通りの権利形態と利用実態」 参照。 注 39 ) 金山耕三( 1983 ):六十里越街道と出羽三山, 歴史手帳,11 巻 11 号,名著出版,p.29 注 40 ) 寒河江市史編纂委員会編( 1985 ):寒河江市 史編纂叢書 第三十四集,寒河江市教育委員 会,pp.56-60 所収 注 41 ) 小野芳次郎( 1968 ):東北地方の民家,明玄 書房,pp.48-49 注 42 ) 注 36 )前掲 pp.51-52 一,金壱分ト五匆 幸四郎殿 こまや杉皮吹代 注 43 ) 注 39 )前掲 注 44 ) 新潟県立図書館蔵。新潟市歴史文化課に複写 資料が保管される。 注 45 ) 亀田町史編さん委員会編( 1988 ):亀田の歴 史 通史編 上巻,亀田町,p.281 注 46 ) 亀田町史編さん委員会編( 1990 ):亀田の歴 史 資料編,亀田町,p.221 注 47 ) 注 2 )前掲「近世における雁木通りの建設整 備過程」参照。寛永 19 年( 1642 )8 月『八町家 の記録』に「雪中のため家の内に欠込て雁木通 りを申付候」とある。本記録は城下町建設時の 様子を示す。 注 48 ) 与板町編( 1993 ):与板町史資料編 上巻 原 始古代・中世・近世,与板町,pp.473-478 注 49 ) 小千谷市史編集委員会編( 1969 ):小千谷市 史 本篇上巻,新潟県小千谷市,p.376 注 50 ) 小千谷市史編集委員会編( 1972 ):小千谷市 史 史料集,p.55 所収 注 51 ) 鈴木牧之(岡田武松校訂)( 1936 ):北越雪 譜,岩波書店,p.32 注 52 ) 山崎久雄編(代)( 1970 ):栃尾市史史料集 (第二集)町方史料編(上) ,p.303 大町之儀者往古より一円雁木通も無之七日町角 ヨリ大坂屋まで十三四軒而已雁木通ニ而,其外 ハ不残壱軒壱軒ニ仕切在方同様ニ而雁木之通 用ハ無之故,盆暮市相立候場所とも相見へ不申 候,御役人所ヨリ大町へ雁木通ニ被仰付候ハ漸 く近年事と奉存候 以上の検討は菅原邦生( 2014.10 ):近世・近 代の栃尾(長岡市)における雁木通りの形成過 程と雁木の形態,日本雪工学会,vol.30,No.4 (Ser.No.116 ),pp.279-290 参照 注 53 ) 注 2 )前掲「近世における雁木通りの建設整 備過程」参照 注 54 ) 注 52 )前掲「近世・近代の栃尾(長岡市)に おける雁木通りの形成過程と雁木の形態」参照 注 55 ) 注 2 )前掲「近世における雁木通りの建設整 備過程」参照 注 56 ) 能生町町史編さん委員会編( 1982 ):越後国 頚城郡能生町御検地水帳,第 1 集,能生町教育 委員会,pp.65-71 注 57 ) 注 2 )前掲「近世における雁木通りの建設整 備過程」参照。寛保 3 年( 1743 )の記録(高田 市史編集委員会編( 1958 ):高田市史 第一巻, 高田市役所) 注 58 ) 桑 原 孝( 1996.8 ): 近 世 に お け る 雪 と 交 通  -越後の街道を手掛りに-,交通史研究 第 37 号,交通史研究会,pp.1-21 注 59 ) 長野県教育委員会編( 1976 ),大田博太郎 : 信 濃の民家 : 長野県文化財保護協会,p.486,浦野 氏所蔵の日記写。 注 60 ) 注 59 )前掲,pp.483-483 注 61 ) 『雑記』注 2 )前掲「近世における雁木通りの 建設整備過程」参照 金田一村助蔵七兵衛と申者,去八日之市へ参, 怪敷様子ニて,小見せ,店所々あるき申ニ付 注 62 ) 『菅江真澄遊覧記』「牧の冬枯」,注 9 )前掲 草野和夫『東北民家史研究』,p.330 に一部所収  注 23 )前掲「近世の城下町以外の町場における 雁木通りの建設整備過程」参照

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雪は日にそひて,けふもいやふりてけれ ど,此里のならいとて,ひさしひろく作り て軒端のみ行かひすれは,市人やすけにあ りく 注 63 ) 吉田義昭編( 1983 ):図説 上巻 盛岡四百年  江戸時代編 城下町-武士と庶民,郷土文化研 究所,pp.220-221 注 64 ).65 ).66 ) 盛岡市( 1979 ):盛岡市史 第三 巻(復刻版),トリョー・コム,pp.2-4 『見聞随筆』については,岩手県立図書館編 ( 1983 ):岩手史叢 第六巻 見聞随筆上,岩 手県文化財愛護協会,pp.404-412 を参照。尚, 同史料は,以下の論考においても取り上げられ る。大場修,石川祐一( 1998.3 ):東日本にお ける市町の構成と常設店舗の成立過程-近世町 家の地方形式に関する史的研究-,住宅総合研 究財団研究年報 No24,pp.1-10 注 67 ) 注 24 )前掲「城下町における雁木通りの建設 地域」参照 庇は同じように一間余もさして,これを雪道と 称して雪のふるせつの通い路とす 注 68 ) 秋田県立博物館蔵。菅原邦生( 2004.1 ):雁 木通りの空間構造,日本建築学会計画系論文 集,第 575 号,pp.133-137 注 69 ) 津川町史編さん委員会編( 1969 ):津川町史, 新潟県東蒲原郡津川町役場,pp.102-103 注 70 ) 今泉鐸次郎ほか 2 名編( 1974 ):越 佐 叢 書, 第一巻,野島出版,pp.107-108 注 71 ) 三条市史編修委員会編( 1980 ):三 条 市 史  資料編 第四巻 近世二,三条市,pp.19-22 注 21 )前掲「近世の城下町以外の町場における雁 木通りの建設整備過程」参照 注 72 ) 木内信蔵他( 1959 ):集落地理講座 第 4 巻  朝倉書店,p.334 によれば,仮屋について「こ の形式は若狭出身と伝えられる旧城主により, 城下町建設の場合移入されたものであろう」と ある。 注 73 ) 民俗学研究所編( 1955 ):改訂 総合日本民 俗語彙 第一巻,平凡社,p.428 注 74 ) 奈良文化財 研究所編( 2017 ):若 桜町 若 桜  伝統的建造物群保存対策調査報告書,若桜町, p.19 注 75 ) 注 51 )前掲 p.188 注 76 ) 注 24 )前掲「城下町における雁木通りの建設 地域」参照 注 77 ) 注 2 )前掲「近世における雁木通りの建設整 備過程」を参照 注 78 ) 竹内利美ほか 2 名編( 1969 ):日本庶民生活 史料集成 第 3 巻 探検・紀行・地誌 東国編, 三一書房,p.696 注 79 ) 新 潟日報 事 業 者出版 部 編( 1981 ):写 真 集  ふるさとの百年〈栃尾・見附・南蒲原〉,新潟 日報事業社,p.12,p.37 等 注 80 ) 注 52 )前掲「近世・近代の栃尾(長岡市)に おける雁木通りの形成過程と雁木の形態」参照 注 81 ) 財団法人文化財建造物保存技術協会編 ( 1982 ) :重要文化財 石場家住宅保存修理工事報告書, 石場清勝,p.13 注 82 ) 草野和夫( 1991 ):東北民家史研究,中央公 論美術出版,p.325 の復原正面図に示されるが, 根拠と復原年代については明確ではない。 ※本研究の要旨は,2019 年度日本建築学会関東支部 研究報告集に掲載されている。

表 1 近世における雁木通りの形成が確認された町場 ※ 1 )判断基準 Ⅰ ~ Ⅲ は本文中に記載。2 )a ~ f は地域的なまとまりを示し Fig1 と対応。町場名は氏家が取り上げた町場以外で近世 の建設を指摘。町場名は氏家によって明治から昭和中期における建設が指摘されるものの近世迄遡ることができた町場。3 )町の機 能は雁木通りが確認できた時点の機能とした。 呼称については,※の内,弘前は『要記秘鑑』文化 9 年( 1812 )条,青森は享和 2 年( 1802 )の記録,八戸は文政 12 年 (18

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