• 検索結果がありません。

[巻頭論考]ロバート・バウン号事件再考 : 東アジア国際秩序再編の一契期として: 沖縄地域学リポジトリ

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "[巻頭論考]ロバート・バウン号事件再考 : 東アジア国際秩序再編の一契期として: 沖縄地域学リポジトリ"

Copied!
82
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

Title

[巻頭論考]ロバート・バウン号事件再考 : 東アジア国際秩

序再編の一契期として

Author(s)

西里, 喜行

Citation

琉球王国評定所文書, 11: 6-86

Issue Date

1995-03-28

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/19226

Rights

浦添市立図書館

(2)

ム ノ、 ロ パ

l

ト ・ パウン号事 件 再考 ││東アジア国際秩序再編の一契機として │ │ 西 里 宣 回 'ー イ丁 はじめに 十九世紀も後半に入ると、琉球を含む東アジアの諸地域 ・ 諸民族は欧米列強主導の世界市場形成の波に巻き込ま れ、宗主国 H 清国と周辺属国の宗属関係を中 心 とする伝統的な国際秩序 H H 冊封体制が撹乱され動揺し始める。 一八五二年の三月、慶門を出港してサンフランシスコへ向かったアメ リ カ船籍のロパ l ト ・ パウン号が中国人労 働 者(華工、以下、苦力という) の反乱によって乗っ取られ、石垣島へ﹁漂着﹂したのを契機に、琉球をはじめ清国 ・ 日本 ・ イギリス ・ アメリカなどを巻き込む国際的事件に発展したことは、周知の通りである 。 ロ パ l ト ・ パウン号事 件と称されるこの国際的事件は、従来、苦力貿易との関連において注目され、その一 側 面として位置づけられるか、 あるいは琉球 ・ 中国交流史上の友好連帯のエピソ ー ドとして称揚されてき

ι

-旬 しかし、このパウン号事件は国際的事 件であるにもかかわらず、十九世紀五

0

年代の国際秩序のあり方との関連で、この事件の世界史的背景や全貌を解明 する試みは十分になされているとはいえないように思われる 。

(3)

むろん、この事件の世界史的背景についていえば、欧米列強による苦力貿易の 全 面展開と清国内の内乱の拡大とい う 二 つの要因に注目すべきであろう 。 前者については、すでに次の点が指摘されている 。 第一に、資本主義的生産の ための原料供給地並びに商品販売市場として、あるいは労働力の供給源として、 アジア ・ アフリカ・中南米に植民地 を求めて進出してきた欧米列強が、 一八四八年のカリフォルニア金鉱山の発見を契機に、さらに大量の労働力をアジ アに求めたこと、第 二 に、同年のフランスの 二 月革命直後、奴隷完全解放が決議されたことに象徴されるように、黒 人奴隷貿易の禁止・奴隷制度廃止の潮流が世界の趨勢となりつつあったため、プランテ 1 ションに代表される資本主 義企業にとっては、黒人奴隷に代わる労働力としてインドや清国の苦力 ( 肉体労働者 ) の獲得が益々不可欠となった こと、第 三 に 、 アヘン戦争後に獲得した治外法権を楯に、欧米人の貿易商人が清国沿岸の開港都市などからアメリカ 大陸やキュ ー バ ・ 西インド諸島等へ向けて大量の苦力を送り出し、﹁もう一つの奴隷貿易﹂と称された苦力貿易を全 ( 四 ) 面的に展開したこと、これである。 もっとも、清国政府がすでにアヘン戦争以前から繰り返し海外渡航の禁令を発していたことは薙正十二年、乾隆四 ( 五 ) 十年、道光十六年、道光十九年の禁令によって内外によく知られており、また中国人の海外渡航が条約上で公認され たのは、第 二 次アへン戦争後すなわち一八六

0

年代以降のことであるから、五

0

年代の苦力貿易は清国側から見れば 非合法﹁貿易﹂に外ならなかったのである 。 にもかかわらず、苦力貿易が五

0

年代以降に全面展開を遂げるに至った 考 のは、清国政府の威信や統治能力が低下したことの反映であろう 。 事実、この時期に太平天国や小万会などの反乱が 論急速に拡大し、清国政府の基盤を激しく動揺させていた。清国の統治能力の低下は、清国を中心とする東アジア冊封 頭 体制の国際秩序維持機能の低下を引き起こさざるを得ない。 巻 このような内外情勢を背景として展開したロパ l ト ・ パウン号事件の全貌を解明するために除、この時期の東アジ 七

(4)

}¥、 アの伝統的な国際秩序 H H 冊 封体制がどの程度機能し、どの程度動揺(変容) しつつあったのかという視点から、事件 の諸局面へアプロ ー チすることが必要であろう 。 本稿はかかる視点に立 っ て、とりわけ関係各国の事件処理における 国際秩序意識と具体的対応策に注目しつつ、事件の全貌へアプロ ー チし、その歴史的意義について再検討してみたい 。

I

パウン号上の苦力反乱事件の真相 ( ニ 反乱事件の発端と経緯 一九世紀の五

0

年代に 、 苦力貿易の拠点は湊門 ・ 香港 ・ 広州から油頭 ・ 慶門 ・ 福州 ・ 寧波などへ拡大したが、とり わけ慶門は苦力貿易の 一 大拠点となった 。 匿門在住の欧米貿易商人たちは、﹁客頭 L (仲介入 ) の中国人を使って誘拐 同然の方法で福建省各地から苦力をかき集めさせ、﹁猪仔館﹂ ( パ ラ ク 1 ン ) { 七 } へ送り出すことに暗躍していた 。 ロ パ l ト・パウン号に載せられた苦力の 一 人で、福建省永輿県出身の羅福安 ( 二 十 へ監禁した後、苦力貿易船へ載せて海外 一 歳 ) は、次のように供述している 。 ﹁ 今 年 ︹ 一 八 五 二 年 ︺ の 三 月九日、もともと知合いであった客頭の陳阿賀 ( 寸 包 括 ﹀ ケ ヨ 巾 ) が私をアメリカ船へ 一 雇 用労働者として紹介した 。 私は月給四元で 一 履われることに同意した。 一 緒に裁判にかけられている陳得利 ( ( U F 5 ヨ 円 } 乙 巾 ) らはいずれも客頭に欺されてアメ リカ船へ乗り、船底に閉じ込められたもので、総計四七五人であ った。ア メリカ人は私と他の 三 人を厨 一 房の料理人に当てた ( 私は他の 三 人の姓名を知らない ) 。 船には薪 ・ 米・蝋燭の外には 何もなか っ た 。 乗 船 し た 後 、 アメリカ人は船底の人々に自分で自分を売る契約 書 一 枚を渡し、もし受け取って署名し なければ直ちに鞭で責めたてた 。 この時、私は他のすべての人と同様に、初めて客頭に欺されたことを知り、脅迫さ

(5)

れて契約書に署名する外に方法はなかった 。 その後、船が琉球島付近へ達した時、 アメリカ人は忽ち私たちを 一 人 一 人甲板に引き出し、弁 髪 を切り落した 。 何十人かは病気で立ち上がれなかったが、この時アメリカ人は彼らを打ち殺 すか、海中へ投げ捨てた 。 私たちはこの様を見て恐れおののき、皆 立 ち上が っ て大騒ぎとな っ た 。 船 主 は大いに驚き、 { 八 ) 泳いで逃げ出した 。 水手はマストの高い処によじ登って攻撃から身を避けた﹂ 。 客頭に欺かれてパウン号へ載せられたことについては、他のすべての苦力も同様に証 言 し て い る 外 、 アメリカ人が 苦力の弁髪を切り落したこと、病人を海中へ投げ捨てたことが﹁大騒ぎ﹂の発端となったことについても苦力の供述 はほぼ 一 致している 。 アメリカ人船員のジョセフ ・ バレンタイン

C

2

3

F

︿ 包

E

C

ロ 巾 ) も ま た ﹁ 船 長 ︹ プ レ イ ソ ン ∞ ミ

g

ロ ︺ は清潔を保つために多くの苦力の弁髪を切り落し、さらに苦力に甲板へ上がるよう強制して、冷水を苦力の全身に注 ぎ、船員たちが同時に竹停で苦力たちの体をごしごしこすって洗い流した 。 苦力たちは弁髪を失ったことを非常に憂 (丸 } 慮し、その多くは働突した﹂と証 言 していることからも、暴動 ( 反乱 ) の発端がパウン号船長の苦力虐待にあったこ とは明らかであろう 。 ところが、広 州 駐在のアメリカ合衆国公使パ l カ 1 (司国﹁ } 両 市 ﹁ ) は清国側地方当局に対しては、別の船員の証 言 に依 拠して﹁弁髪を切ったのは実は長途の航海中清潔を保持する為の衛生上の必要からである﹂と強調しつつ、﹁多くの 考 ものが自主的に弁髪を切ることを求めた﹂などと強弁し、さらには﹁この海賊事件は慶門を離れる前に予め企てられ { 一 O } た﹂計画 的 陰謀であるかのように主張している 。 もっとも、パ l カ l は合衆国極東海軍司令オ l リック ( ﹀ = z n r ) に 論対しては﹁極めて遺憾なことであるが、プレイスン船長が苦力を虐待したという伝聞は、現在では直接の証 言 に よ っ 頭 { 一 一 } て立証されている﹂ことを認めざるを得なかった 。 にもかかわらず、清国側に対しては予め仕組まれた海賊行為であ 巻 るという主張を繰り返し続けたのである 。 では、果たしてパ l カ l のこの見解は成立し得るであろうか 。 九

(6)

琉球側の役人に対する苦力たちの供述によれば、﹁前月、洋に在るの時、英夷は我が同輩の病を患う者 二 人を将て 海中に撒棄したれば、我等 三 、四十人忽然として怒りを発し、船主水梢共に六名を打殺せり 。 是の時、我が同輩の五 名もまた英夷に打殺せらる L ) という 。 苦力たちの供述通り、計画的な反乱ではなく、自然発生的暴動であったことは 推測に難くない 。 琉球側の役人たちも苦力たちは﹁異国人へ買い取られ﹂、生計のために海外渡航を企てたまでであっ て、異国人の 言 うような﹁海賊﹂ではないと判定していることに注目すべきであろう。 パウン号は四一

O

名の苦力を載せて五 二 年 三 月 二 十一日に慶門を出港しカリフォルニアへ向かったが、事件が勃発 したのは十日後の 三 月 三 十日のことであった 。 事件の経緯について、前掲のジョセフ ・ バレンタインは次のように証 言 している 。 ││﹁ (出航から ) 十日後の朝九時半、私は料理 室 の入口で一匹の鶏を料理していたが、中国人たちの 聞から叫ぴ声があがるのを聞いて、あたりを見渡してみると、 一 群の中国人どもが木片を梶棒として武装し、後ろか ら突進して来るのが見えた 。 この時、群の後ろの 一 人が私の腰に抱きついたので、私は手にしていた小万で彼の腕を 切り割いた 。 その苦力は私を手放して仲間の後について行った 。 そこで、私は一人の中国人コ ッ クとともに料理室へ 入 り 、 二 人で料理室の戸を守って中国人苦力たちを中へ入れさせなかった 。 料理室のフロントの小さな窓から、私は 第 二 航海士が殺 害 される状況を自にした 。 一

O

名から 一 二 名の苦力が彼の頭を激しく打ちつけ、彼をその場に打ち倒 した 。 若干の苦力はその時までには木の槍を手に入れていて、彼を突き刺した 。 彼は半死の状態で海へ投げられたが、 一 本のロ l プにしがみついたので、苦力たちはまた彼がロープを手放すまで木の拾で彼を突き刺していた 。 続いて苦 力たちは料理 室 の戸を開けて閲入し、中国人コ ッ クが哀願したにもかかわらず、木の拾で私を突き刺した 。 私は 一 本 の木の槍を奪い取ることに成功し、苦力たちを後退させ、同時に 一 人 二 人の苦力を押し倒した 。 その時私は苦力たち に阻まれて行けなか っ た船首部のハ ッ チへ飛び降りた 。 およそ一時間ほど経って、苦力たちは 一 人の英語のできる中

(7)

国人を通じて私に登 っ てくるようにと伝え、 害 を加えないことを約束した 。 私が登って行くと、操縦室の後ろへ連れ て 行 か れ 、 スミスもまたそこへ連れて来られた 。 一 時間ほど操縦した後、私は呼ばれて船 室 へ 行 っ たところ、苦力は 必死の形相で威嚇し、私に船長の財物がどこにあるかを 示 すよう命令した 。 私は命じられるままに 示 したが、苦力た ちは何も手に入れることはできなか っ た 。 私が甲板へ上が っ て来た時、船員たちはマストへよじ 登 っ ていた 。 彼 ら は 無駄な抵抗を試みた後、退いてマストへ登 っ たのである 。 苦力たちは船 員 たちに、もし降りてきて自分たちを岸へ送 り届けるならば傷 害 を加えることはしない、と 言 っ た 。 そこで船 員 たちは降りてきた 。 船員たちが引き返して来る閥、 すべて丁重に待遇された 。 私は中国人苦力たちから船長と 二 人の航海士と 三 名の船 員 が殺されたことを聞いた 。 苦力 たちは私に負傷した若干の苦力の世話をするよう強制した 。 彼らは闘争の中で八名の苦力が打ち殺され船外へ放り投 { -四 } げられたと 言 っていた 。 盗品の分配をめぐ っ て、苦力たちは激しく口論した﹂と 。 苦力と対立する立場にある船 員 バレンタインの証 言 がどれほどの信想性を持ち得るかはなお検討の余地があるけれ ども、船上で激しい戦闘が展開されたであろうことは、双方にかなりの死傷者が出ていることからも、推測に難くな ぃ 。 同じく船員のジョン・スミス

o g ω

百 円 ﹃ ) もまた次のように証 言 している 。 ﹁暴動の日の朝、私は当直を終わって船首楼で水浴していた 。 その時、中国人苦力どもの聞から喚声があがるのを 聞き、彼らが綱留栓、木製の突き槍、大工道具、梶棒を持って突進して来るのを見た 。 私は直ちに第 二 斜槍の方へ走つ 考 た 。 船首楼の人が騒音に気づいて航海士が持っていた四つのマスケ ッ ト銃を取って苦力たちに向かって発砲し、その 論 後銃剣で突き刺した 。 私は数人の苦力が殺されたと思う 。 しかし、苦力たちの力は非常に強く、屍を越えて次から次 頭 へと押し寄せたので、船員たちは第 二 斜椅へ追い詰められた 。 船員たちはそこから帆の補助縄を伝わってマストの頂 巻 上へよじ登った。あの第二航海士として行動していた人物が殺害されるのを見て、苦力たちは通訳を前橋楼へ遣わし、

(8)

船員たちがもし甲板へ降りてきて船を操縦するならば傷害を加えないと伝えさせた 。 船員たちは 一 人 一 人降りてきた が、降りてくるとすぐ手足を縛られ、貨物室か船室に放り込まれた 。 船を操縦する必要がある時には、 一人を連れて きて縄をはずし、次に来た人に替わればまた縛 っ た 。 船員の自由が認められたのは 三 、 四日後のことである 。 私は苦 力のリーダーが通訳を通じて私に船を岸へ進めなければならないと告げるのを聞いたので、そのために尽力すると約 こ 五 } 束したものの、航海術には詳しくなかった 。 彼らは陸地を発見したが、船は浅瀬に乗り上げてしまった﹂ 。 苦力たちが船員たちを縛り拘束したという点など、 スミスの証 言 はバレンタインの証 言 とはやや異なるが、大筋で は 一 致している 。 パウン号は苦力に乗っ取られたわけであるが、真っ先に殺害の対象となったのは船を操縦できる船 長や航海士であったことからも、予め計画された反乱ではなかったことを窺知し得るであろう 。 しかし、虐待に堪え かねて積極的に反乱に参加した 三 、 四十名の問では、航海中に予め役割分担が決められていた可能性もないわけでは

y n g l J ヘ E 巾 ) ない 。 パウン号にコ ッ ク と し て 雇 わ れ 米 国 側 の 証 人 と し て 証 言 し た 謝 丁 茂 ( ω 巾

a

t

呂 1 g o ロ ) ら四人の証 言 によれば、﹁ 三 月 三 十 一 マ 軒、その船︹パウン号︺が名前を知らない海洋のある場所へ到つ 官慶玉 ( 問 者 自 た 時 、 アメリカ人たちは沢山の労働者を連れてきて、彼らの弁 髪 を切り落とした 。 その為に彼らは非常に不満で、怒 りの炎を燃やした 。 私らは大いに 警 戒して船底へ隠れた 。( 中略 ) 私らはただ 一 人の米国人が自分で海へ飛び込むの を見ただけだ 0 ・:私、官慶玉はすでに捉えられている陳得利という人が、手に小旗を持ち、万を用いて船員たちを拘 ( ニ ハ ) 束し、叫ぴ 声 をあげるのを許さなかったのを見ている﹂という 。 アメリカ公使のパ l ヵーはこの証 言 をとらえて﹁陳 得利が用いた旗と万は旅客を強制して彼の権力に服従させる為に用いられたのであ っ て、生き残りの船 員 を保護する ためではなか っ た ︺ } と 主 張し、計画的反乱の証拠とみなしている 。 しかし、陳得利の行動に関するアメリカ側証人の 証 言 は、反乱のプロセスで彼が指 導 的役割を担 っ ていたことを示しているだけであ っ て、パウン 号 出航前に反乱を謀

(9)

議した首謀者であるという証拠とはなりえないであろう 。 毘門駐在のアメリカ領事ブラッドレイ ( 切 円 包 Z ﹃ )

ft

ヨ J . ヵ - r w 問 問 した船員たちの証 言 によれば、﹁苦力のなかの一人が船長の職務を引き継いだ 。 彼は船員たちに命じて船を台湾へ航 行 さ せ 、 四日間の時間を与えてこの任務をやり遂げきせようとし、もし予定通り台湾へ到着できなければ全員殺して しまうと威嚇した 。 船員のなかには一人の操縦士もいなかったが、当時およそ台湾の東方 三百 マイルの地点にあると 推定して、その見積りに従って船を操縦した 。 後 に船が風で転覆するのを恐れて、苦力たちは船員全員の縄をほどき、 円 一 八 ) 厳重な監視を加えただけであった﹂という 。 船長の職務を担った陳得利は、台湾へ向かうことを意図していたが、船 の操縦についてはすべて船員たちに頼らざるを得なかったのである。 (二)パウン号の石垣島漂着と鹿門への回航 反乱によってパウン号を統制下に置いた苦力たちは、台湾を目指して航行し、 四 月 二 日に船をある陵地へ接岸させ たが、そこが台湾でないことがわかったため、夜間にもかかわらずさらに移動して航海を続け、四月四日の朝、名前 三 九 ) のわからない 二 つの島を発見し、船をこの二つの島の問へ向かわせた。しかし、逆風のため鳥へ接近することができ { 二 O ) たのは、ようやく四月八日のことであった 。 パウン号船員のバレンタインとスミスの証言によれば、﹁船は珊瑚礁の 浅瀬に衝突してそこに釘付けにされたままで、満潮になるのを待って水深の深い処へ移動して碇を降ろした 。 そ の 時 、

{ - 一 - )

考苦力たちは船員たちに対して彼らを島へ上陸させるよう強制した L という。苦力たちが上陸しようとした島が石垣島 論 であることは言うまでもない。苦力たちの上陸前後の状況について、石垣島の役人は次のように報告している。 頭 ﹁①五二年四月八日 、 午前八時、石垣間切崎枝村から二里ほどの沖合いに、異国船一般が現れたとの知らせがあり、 巻 早速私ども(八重 山 鳥在番筆者知念里之子親雲上 ・ 同東恩納筑登之親雲上)並びに頭 ・ 総横目その他の役人が出向い

(10)

四 たところ、船は沖瀬に乗り上げているように見えたので、助け船を出す手配をしたものの、波の荒い処で風波も強く、 助け船を出すのは困難で見合わせることにしたが、まもなく異国船の伝聞船 (渡し船)から唐人(中国人苦力のこと、 以下苦力という)九名が上陸した 。 そこで、通訳を通じて来着の理由を問い質したところ、 ︿ 福建省の泉州府・海州府・ 汀州府の各県出身者である。多年干ばつのため飢餓に苦しみ、大英国へ渡って生計を立てるべく、慶門停泊中の船と 相談の上、航海用の米 ・ 薪・水 ・ 魚などを積み込んだ。船は苦力四

O

五人を載せて三月二十一日慶門を出帆したが、 途中逆風に遭ってここへ漂着し、沖瀬に乗り上げて危険なので、船中に居住することはできない ﹀ と供述した。次い で伝聞船二般で三五

O

人が上陸し、ここに宿泊したいと申し出たものの、これほど多人数の宿舎を急に調えることは できず、折節雨も降ってきてどうしょうもないので、崎枝村外れの人家を明け渡し、湯粥などを与え、規定通り不寝 番を付けて警護させた。 ②翌日(四月 九日 )早朝 、異国船は珊瑚礁を離れたので、 苦力どもに本船へ帰り早々に出 帆するよう伝えたところ、 ︿ 天 候をみて十日ほどで出帆するつもりだが、食糧を本船から取り寄せる問は面倒をみて頂きたい ﹀ と申し出て来た 。 なお、苦力 二 十一人が伝聞船 二 般で上陸したので、前日と併せて都合 三 八

O

人となったが、各自衣裳包一つの外は何 も持っていないことから、先例通り面倒をみるように世話係へ指示しておいた 。 同日、人家を遠く離れた赤崎という 所に宿舎を調え、私どもが苦力 一 同を警護して午後四時ごろ宿舎へ引き入れ、外側に柵をめぐらし、昼夜とも見張り を付けておいた 。 ①四月十一日 、異国人九名が上陸したので、異国人の上陸は国 禁であるから 必ず本船へ帰るよう苦力を通して説得 したけれども受け付けず、無理に苦力の宿舎へ入ったので、仕方なくそこへ別に宿舎を作り、 二 重 の柵をめぐらし、 狸りに外出させないよう厳重取締りを指示しておいたにもかかわらず、異国人どもは無理に苦力どもの宿舎へ出入り

(11)

し た 。 ④四月十 二 日、午後四時ごろ、昨日上陸した異国人九名の内、 一人を宿舎に残して八人は本船へ帰ったが、まもな く本船は出帆したので、残し置かれた異国人と苦力どもは周章狼狽し、浜沿いに本船を追跡したけれども、南東の風 で直ちに北西の方向へ通過した 。 右の者どもは帰って来て涙をこぼし、ひどく悶え苦しんでいる様子なので、私ども もはたと驚き入り、事の成行きを通訳に尋ねさせたところ、何の相談もなく出帆したということである 。 苦力どもは 右のような事情で食糧もなく、 ひどく迷惑しているので、世話人を付けてくれるよう通訳を通じて要求したので、先 例通り世話するよう指示しておいた 。 ⑤苦力どもは最初四

O

五人とのことであ っ た が 、 三 人

O

人は上陸したので、残りの人数並びに奥田人の乗組員につ いて尋ねたところ、異国人は十 二 人、その内一人を島に残留させ、苦力の残りは本船にいるとのことである 。 ⑥崎枝村は在番所から 三 里も離れて不便なので、冨崎という所に宿舎を作り、 四月十六日午後四時ごろ異国人・苦 力どもを崎校の囲い場から冨崎の新宿舎へ移居させた 。 ⑦苦力の内、 二 十 三 人は病気にかかり、薬を飲みたいと要求したので 、 早速係の医者新嘉喜筑登之親雲上へ治療を 命じておいたところ、二人は治療の甲斐もなく四月十七日死亡、棺材を調え、新 川 村地方の内ならさという所に葬つ E事 -︽ V J ' h L 考 苦力の石垣島上陸前後の状況は、以上の報告によってほぼ明らかであるが、 八重 山 在番筆者らの目にはまだ苦力と 論 異国人の間の敵対関係は捉えられていない 。 従って、パウン号が座礁してから出帆するまでの聞に、 頭 アメリカ人の船 巻 員 二 人が救命ボ l トで脱走したことには気づかなかったようである。その内の一人バレンタインの証言によれば﹁次 の日︹四月九日︺、船員たちは百名乃至百五十名の苦力を上陸させた 。 苦力たちは一部の船員に岸に留まるよう要求し、 五

(12)

ム ノ 、 すべての苦力が上陸するのを待って、乗船して船をどこかの港へ乗入れさせることを約束した 。 二 名の船員が岸に留 められ、再びボ l トへ乗ることを許されず、その他の者は岸から離れて本船へ帰った 。 その時、苦力たちは長いボ l トを降ろし、その夜に残りの苦力すべてを上陸させる準備をしたが、翌日を待つことにした 。 船員たちはその夜この 長いボ l トで逃走することに同意した 。 私とスミスは長いボ l トへ到ってその中の水を汲み出し、本船に留まったの は八名の船員であった 。 彼らは絶えず航海に必要なさまざまの物資を運んでいた 。 暫くすると、苦力たちは船員たち の行動の意味をはっきりと覚った 。 本船の甲板で大きな騒音が発生し、中国人たちが灯篭を掲げて走り回っていたし、 また私たちは仲間の姿を 二 度と見なくなったので、仲間たちは縛られたか、殺されたのだという結論に達した 。 そ こ で、夜が明けると私たちはとも綱を切断し、パウン号を離脱して漂流し、帆を上げた 。 珊瑚礁を通過した時、長いボ l トの中の水漏れがひどか っ たので、私たちは 一 時間ばかり 立 ち往生し、苦力たちのいる同じ島の別の場所に接岸した 。 そこの土地の人は私たちに大変好意的で、淡水 ・ 野菜 ・ 鶏を贈り、徹夜で私たちを警護してくれた 。 土地の人々は長 を掲げて出帆し、 い着物を着け、頭髪は頭の上で丸くし、前に 星 印の付いた一本の替で留めていた 。 ボートの水漏れを修理した後、帆 八日目にナイム号

(

Z

E

Z

)

に救助され た 一 ) という 。 バレンタインらを救助したイギリス船隻のナイム号の船長ウィルソン ( ︿︿ニ 帥 O ロ ) は﹁私が彼らに遭遇した時、彼 らはすでに七・八日も漂流していた 。 私はボ l トに穴を開けて沈め、ボートに残 っ ていた若 干 の物、たとえば望遠鏡・ 旗 ・ 羅針盤 ・ 四枚の海図及び船 具 を持ち帰 っ た 。 彼 ら が上陸した島はマ ジ コ シ マ ( YA 邑 闘 い n o 巴 自 由 ) 群島であると思わ れる 。 この群島は東北東と西南西の方向へ一 二

0

マイルも伸びて、台 湾 の北端の西南西から 一 二

0

マイルも離れてい る 。 私は船をこの群島の最も近い地方へ向かわせ、若 干 の船員や船 隻 に出 会 うことを期待したが、見当たらなか っ た 。 ( 二 悶 ) : ・ 苦力たちには乗船以外に別の方法で島から逃走する手段はないものと私は思う﹂と報告している 。

(13)

ナイム号が バ レンタインらを救助して上海へ入港したころ、船 員 たちに 奪 回されたパウン号も 二 十 一 名の苦力とも ( 二 五 } ども慶門へ回航、苦力たちは犯罪者として鹿門同知へ引き渡され監 禁 されることとなる 。

E

英米艦船の石垣島来航と苦力捕獲作戦 ( 一 ) 清国駐在英米領事の対応 パ ウン号が屡門へ回航して苦力反乱の情報を伝えるや、 アメリカ領事のブラ ッ ドレイは直ちに行動を開始し、連れ 戻 された 二 十 一 名の苦力を清国側の海防責任者 ( 度門同知 ) に引き渡すとともに、道台へも照 会 を送り、広州駐在の アメリカ特使 ( パ l カ l ) の命令を受け取るまで、苦力を監禁して置くよう要求した 。 ついで、ブラッドレイはパウ ン号の苦力反乱事件への対処方について、犀門駐在のイギリス領事サリパン ( ω E F -︿曲目)と相談したところ、サリパ ンは苦力反乱に大いに憤激し、申し入れに応えてイギリス艦船のリリ l 号 ( F ξ ) と蒸気船セミラミス号 ( ω 冊 目 弓 伊 豆 凶 ) を現場へ派遣し、苦力に監禁されているアメリカ市民 一 人を救出するとともに、この悲劇的な事件に参加した苦力を できるだけ多く捕らえて審判に付すべきであると提案した 。 ブ ラ ッ ドレイはサリパンの提案を広州駐在のパ 1 カ l へ 伝えるとともに、次のように建議して指示を仰いでいる 。 考 ﹁イギリス領事のサリパン氏は私︹ブラ ッ ドレイ︺と何人かの生き残りの船員たちがこの 二 般の船舶に乗って現場 号6. 同欄 へ赴き、苦力逮捕の任務を遂行すべきであると勧告した 。 慶門からの至急使が広州に届くのに、十日の時間を必要と 頭 巻 す る 。 今回の遠征に必要な情報を得るために、広州から船を派遣して慶門に至るには、さらに十日を必要とする 。 従 つ て、この間の遅延を避けるために、私はイギリス領事のこの憤激に満ちた提案を受け入れるべきであると考えている 。 七

(14)

ji、 この船︹パウン号︺ の航海日誌は保存されていて、悲劇的事件が発生する前日の位置は、航海日誌の記載によれば、 北緯 二 一 度 五

O

分、東経 二 一 八度 二 六分である 。 幸いに生き残った船員たちはこの烏及びその居住民、慶門へ引き返 した航路について明瞭に記述している 。 その説明によれば、苦力たちが上陸したその島はマジコシマ ( Y 白血聞広 O ∞

58

・ ) と呼ばれる群島の一つであると推測される 。( 中略)既に逮捕されている犯罪者と今後捕獲されるであろう他の犯罪 A ニ 七 } 者の処理問題について、私は閣下に指示を要請し、あるいは建議を提出するであろう 。 ﹂ 慶門のブラ ッ ドレイが広州のパlカlへ事件発生の第一報を送った日から五日後の四月 二 十七日、漂流中のパウン 号船員バレンタインらを救出したイギリス船籍のナイム号が上海の呉松へ到着した 。 ナイム号船長ウィルソンの手紙 を受け取って事件を知った上海駐在アメリカ代理副領事のカニングハム ( 開 門 同 者 曲 互 の ロ ロ ロ ヨ 四

Z

B

)

は、広州のパ l カ l へウィルソンの手紙を転送するとともに、次のように報告している 。 ││﹁この問、 ( 上海には ) 巡洋航海に適しな いイギリスのコンテスト号 ( の

O

E

g

門 ) の外には別に軍艦はなく、私がこの種の目的のために 一雇一うことのできる船舶 もない 。 私は船を台湾へ派遣して他の船 員 を捜し出すこともできないので、かかる状況を迅速に貴下に報告する 。 と いうのも、南方から一隻の船を派遣すれば、何名かの船 員 の生命を救出することができるかも知れないからである 。 私は上海駐在のイギリス領事に連絡して、この種の緊急状況のもとでは、航海に適しないけれどもコンテスト号を派 遣させることができるかも知れない﹂ ) と 。 上海駐在のカニ ン グハムはパウン 口 すがすでに生き残りの船員と苦力 二 十 一 名を載せて慶門へ回航したことを、この時点ではまだ知らなか っ たわけであるが、イギリス領事の協力を得て上海停 泊のコ ン テスト 号 を船 員 救出のため石垣島へ派遣できる可能性を示唆している 。 カニングハムからパ l カーあての報 告 が発送された同じ日に、慶門のブラ ッ ドレイはすでにイギリス船隻 二 般を石 垣 島 へ派遣したこと、しかしその内のリリ l 号 は大風のため鹿門に引き返し、別の一戦艦も香港へ向か っ たことを パ l

(15)

カ l へ報告するとともに、パ l ヵーからアメリカ合衆国極東海軍司令官のオ l リックへ通報し、自ら石垣島へ赴いて ( 二 九 ) 苦力に捕らえられているアメリカ人船員を救出させるよう希望している。ブラッドレイの要請を受けて、パ l カ│は 四月 二 十九日オ l リックへ書函を送り、直ちに有効な措置を講じ、苦力に捕らえられているアメリカ市民を救助する ( 三 O ) とともに、﹁犯罪的な中国人を逮捕﹂するよう要求した 。 しかし、ォ l リックは﹁アメリカ海軍省から現在地あるい は香港に留まるよう命じられており、私にはこの重要な事件に参与する権限はないけれども、遅滞なく合衆国船艦の を度門へ派遣する﹂旨パ l カ l へ回答するとともに、サラトガ号艦長ウォ l カ l ( 巧 - = 戸 曲 目 サラトガ号(∞問主 o m 白 ) ω d ︿即 - w m 吋)に対して、直ちに﹁海盗﹂を追究捕獲し裁判にかけて懲罰し、併せてアメリカの船員を救助することに 注意するよう命令した。 この間、上海のアメリカ代理副領事カニングハムは四月 二 十八日付の書函で、イギリス領事がコンテスト号を現場 へ派遣し、パウン号を捜し出すとともにその船員を救護することに同意したことを広州のパ l カ 1 へ報告し、同時に 合衆国軍艦を東支那海へ派遣して常駐させることを提案日た。ところが、広州駐在のイギリス領事ボーリング c o F ロ

o d 弓﹃戸口問) は パ l カ!の要請に対して、﹁イギリス領事にはイギリス船艦に任務を与えたり命令する権限はなく、た ( 三 四 ) だ海軍当局に特殊任務を示唆し勧告することができるだけである﹂旨回答し、やや消極的な対応を示している 。 しか し、慶門や上海にはイギリス戦艦しか停泊していなかったことから、英 ・ 米両国の当事者たちは緊密に協力し、 ア メ 考 リカ人船員救助と苦力捕獲を大義名分として戦艦を石垣島へ派遣することとなる 。

t

命 頭 巻 (二)イギリス艦船の来島と苦力捕獲作戦 アメリカ側の要請を受けてイギリス船籍のリリ l 号が慶門を出発して石垣島近海に姿を現したのは、 五二年五月四 九

(16)

日のことであった。リリ l 号艦長のサンダ l ソ ン ( ω 自 己 巾 ﹁ 凶 O ロ ) は石垣島到着後の苦力捕獲作戦について、次のよう に報告している。 ﹁私は苦力の居住地区から約八

00

ヤ ー ド の地点に碇を降ろした 0 ・ : 私 は 直ちに人員を配備し、ボートを武装した が、我々が出発する前に、苦力全員はキャンプから逃げ出した。私は発砲を命じ、威嚇射撃して逃走を阻止し引き返 させようと試みるとともに、ボートを発進させて上陸し彼らの後を追った。彼らは四方へ逃げ散ったが、私は大急ぎ でマット・灯龍・帆布・衣服などあらゆる種類のものを携帯していたこの集団の後を追いかけた。十三名は捕獲され たが、ある者は逃げようとして銃殺された 。 私は六時間ほど進軍した後、およそ 二 百名の苦力が潜り込んだジヤング ルの外側で停止した 。この時 、日は既に西に沈みかけていた 。 : ・ 私 は 引き返して船上へ至った 。 : ・ 五 月 六 日 、 木 曜 日 、 イギリス船籍のスル l プ船コンテスト号が上海からここへ到 着し、長いボ l トで本船から 二 名の男を連れて来た 。 ・ : また 一人の中国人通訳をも連れて来た。我々は艦長のスペンサ l ( ω 宮 口 円 巾 ﹃ )と通訳を伴い、上陸して名刺と書函を 島の長官へ送り、ロパ l ト・パウン号の失践した船員と中国人苦力の問題についてインタビューを要求した 。 そ の 晩 、 第 二 の命令を受けた 二 人の官吏が到着したが、その時私は再び長官との会見を要求した 。 長官は翌朝やってきたので、 私はこれらの苦力の問題について、彼と長いインタビューを行った 。 彼は苦力たちがあらゆる略奪行為を働き、農民 の小屋を力づくで手に入れたりしたので、彼らをこの島から移動させたいという希望を表明した 。 しかし、彼は烏か ら苦力たちを駆逐するようなことは何もできないと意思表示し、島の人々も苦力を恐れているように見えた 。 インタ ビューが終わりかけた頃、 三

O

名あるいは四

O

名 の苦力が近隣にいるという情報があ っ たので、私はスペンサ 1 艦 長 ・ ウィリアム親王

(

P

5

2

巧 EEB ) 及ぴ我々の 二隻 の ボ l トの乗組員を伴ってそこへ出向き、通訳を通じて彼らと連 絡できることを希望した 。 しかし、何マイルか歩いた後、 日の落ちる時刻になっても、我々は僅かに五名を捕獲する

(17)

のに成功しただけで、残りの者は我々がジャングルへ近づくと退却した。 ・ :金曜日︹五月七日︺ の朝、失綜した船員 が浜辺に這い出して来たので、救助して乗船させたが、かなり衰弱した状態であった。彼は苦力に拘束され、その夜 やっと逃げ出したのである。私は前日通訳に若干の土地の者を付けてジャングルの苦力集団のところへ派遣し、苦力 たちが船へ来るよう説得させ、彼らを船上で虐待しないこと、私が影響力を行使して慶門当局に彼らの生命を保障さ せることを約束させたが、帰って来た通訳の報告によると彼らは自首することを拒絶したとのことである。およそ四

O

名の苦力がジャングルの中で首吊りその 他の方法で自殺し、餓死者も多数いた 。翌日、私は前夜 捕獲した 苦力の中 から一人を選んで同様のメッセージを伝えるために派遣したが、彼も帰って来ると彼らの内の誰も出て来ないと言つ { 三 五 ) ハ デ ィ ン ト ン 港 ( ヨ ユ 国 包 任 口 開 門 O 口 ) を 離 れ た ﹂ 。 た 0 ・:私は五月十一日木曜日に、 慶門から派遣されたイギリス船籍のリリ l 号と上海から派遣された同じイギリス船籍のコンテスト号の武装イギリ ス兵が、石垣島に上陸して苦力捕獲作戦を展開した状況は、前掲のアンダーソン般長の報告によってその概要を伺い 知ることができるけれども、ここで注目したいことは第一に石垣島が琉球王国の一部であることについて、 アンダー ソン艦長は一言も言及していないこと、第二にアンダーソン艦長は石垣島の統治者に何の断わりもなく、突然上陸し て苦力を武装襲撃したこと、第三にアンダーソン・スペンサ l 両艦長が石垣鳥の長官と会見したのはコンテスト号到 着の日 考 ( 五 月六日 ) であるが、会見の中で両艦長は石垣島の長官が苦力の略奪行為を告発したかのように受けとめて いること、これである。琉球王国の﹁主権﹂を無視して強行されたイギリス艦船の苦力捕獲作戦は、石垣島の役人の 言命 目にはどのように映ったのであろうか。八重山鳥在番筆者の東恩納筑登之親雲上は琉球王府の鎖之側へこの間の状況 巻 ﹁①五二年五月四日午前十時、異国船一般が石垣間切崎枝村から二里ほどの沖合いに現れたとの情報で、早速私ど

(18)

もも頭・総横目などの役人を引き連れて出向いて見たところ、崎枝の沖合い二十町ほどのところに碇を降ろし、渡船 四般に異国人 二 百人ほどが分乗して先日中国人苦力の上陸した前の浜へ次々に漕ぎ寄せた。その渡船四般には小旗一 本づつを立て、 一般には大砲を備え 付け、異国人 一人が太万 ・鉄砲を持 って上陸したので、通訳を派遣したと ころ何 の説明もなく、苦力の宿舎を検分してすぐ渡船へ帰り、まもなく異国人二十人ほどが各々太万・鉄砲を持って上陸し た。そこで、来着の理由を尋ねたけれども、言語 ・ 文字が通じず、手まねで先に上陸した苦力どもや異国人のことを 尋ねている ように見えたので、 冨崎の方向を指さし、図面を書いてみ せたところ、納得した様子で渡船へ帰り、直ち に冨崎の方へ向かったが、途中、建かに大雨が降り風波も荒れてきたので引き返し、午後四時ごろ本船へ帰った。 ②翌五 日、冨崎滞留の苦力の内、官話 ( 中国語 )を話せる者、漢字 を書ける者、異国語を知っている者、都合 三名 が異国船の停泊場へ赴いて帰国の相談をしたいと申し出て来たので、通訳どもに警護させて出向かせたところ、ちょ うど渡船一般に五人の異国人が乗り込んで崎枝の浜へ上陸するところであった。苦力どもは異国人と対面し、異国人 一 同と渡船で本船へ乗り付け、冨崎の沖合いへ回船する様子なので、私どもも冨崎へ出向いたところ、異国船は苦力 の宿舎から七里ほど沖合いに碇を降ろし、宿舎近辺に頻繁に鉄砲を発砲したので、滞留の異国人と苦力どもは大騒動 に陥り、山野の方々へ逃走した 。 異国人どもは渡船五般で 二 百人ほどが次々に上陸したが、各々鉄砲 ・ 太刀を持参し ていた 。 彼らは先に本船へ乗り付けた苦力 二 人を連れて上陸するや、直ちに逃走する苦力どもを追いかけたので、私 どもは大いに驚いて事の成行きを通訳を派遣して例の 二 人の苦力へ尋ねさせたところ、 ︿ 島 の方々には何ら問題はな く、滞留の苦力どもを捕獲するまでのことです ﹀ と 言 い、異国人どもとともに通り過ぎたので、私どもも 警 護のため その跡を追った 。途 中、苦力十四人は異国人へ近寄って謝罪したが、 三 人は逃走したので、異国人どもが追いかけて 鉄砲で射殺した 。 謝罪した者どもは異国人に連れられ、夕方本船へ帰ったが、全く予想外の事である 。

(19)

③翌六日正午頃、新たな異国船一般が崎校の沖合いへ乗り付け、冨崎沖停泊の異国船から渡船 一 般が崎枝へ漕ぎ行 き 一緒に午後 二 時頃冨崎の沖合いへ来着、渡船一般から異国人十人、中国人 一 人上陸したので、通訳を通じて来 着 の理由を尋ねさせたところ、 ︿ 先月麗門からカリフォルニアへ向かうパウン号に乗船していた中国人苦力四百人余が、 途中欲心を起こし、船主や水手六名を打ち殺した由、度門の官憲に報 告 されたの で 、右苦力どもの捕獲のためにイギ リス官船 二 般来着した次第である、明日こちらの長官に面会したい ﹀ と 申 し 出 た 外 、 ︿ 逃走した異国人を探してくれ ﹀ と付け足して本船へ帰 っ た 。 私どもはイギリス人に追い散らされて逃走した苦力を見付け次第、飢えないように取り 計らうよう各地の役人に指示したところ、まもなく方々の原屋に隠れていた苦力に食物を与えておいたとの連絡が 入った 。 そこで、早速通訳を通じて苦力ともへ、イギリス人と話 合 いの上無事帰国するよう説得を試みた 。 し か し 、 苦力どもは承知しないので、適当に世話するよう係の役人どもに指示しておいた 。 ④ 五月七日、イギリス船 二 般から官人 三 人 ・ 中国人 一 人が上陸したので、私どもが対面したところ、 ︿ ここに滞留 している苦力どもは先に申した通り悪意の者どもで、必ず捕獲しないわけにはいかないが、方々へ逃走して捕まえ難 いので、当地の人に捕まえさせてくれ ﹀ と申し出た 。 ︿ 私どもは小島の者で、中国の人を捕獲する件については要 望 に応じられない ﹀ と断わったところ、 ︿ それならば苦力どもを探索のためこちら側から通訳の中国人を差し向けるので、 当地の人も同行させてくれ ﹀ と要求してきた 。 そこで、通訳どもが警護して近くの野原を通過し、方々に隠れていた 考 苦 力 三 十名ほどと対面、中国人通訳がイギリス人と逢って相談するよう説得したけれども受け入れず、苦力どもは山 論 中へ逃走したとの事である 。 頭 ⑤ 五月八日、渡船 二 般から官人十名、兵 三 十 名 上 陸 、 ︿ 逃走した苦力どもを揚め取らないわけにはいかないので、 巻 当地の人を連れて行きたい ﹀ との申し出があり、私どもが通訳を連れて行ったところ、近辺の野原に隠れていた苦力

(20)

四 数十人は方々へ逃げ去り、 五人は捕獲された 。 異国人どもは ︿ 明日から方々を探索して通るので乗馬 二 十匹・人夫 二 十人を差し出すように、また探索が夜半に及ぶ場合は宿泊しなければならないのでその用意をするように ﹀ と 言 い 残 して、本船へ帰った。 ⑤五月九日、イギ リス船の官人 三 名が中国人通訳を連れて上陸、 ︿今日は雨天で探索できず、また苦力どもはイギ リス人を見かけると山中へ逃走するので、たとえ晴天でも捕獲し難く、その上官船には別に用事があり、ここに長ら く滞在するわけにもいかず、当地の人も捕獲の件については応じられないとのことなので、本船は帰還の上、 アメリ カ船を来着させることにする ﹀ などと、機嫌悪そうに 言 うので恐れ入り、 ︿ その通りにされたのでは島中の騒動にな るので、どうか後 二 、 三 日滞在し、苦力どもと熟談して本船に載せ帰ってくれ ﹀ と中国人通訳を通じて頼んでみたけ れども、何の返事もなく本船へ帰った 。 ⑦ 五月十日、中国人通訳が上陸して私どもの詰所へ来たので、昨日依頼した通り取り計ら っ てくれるよう申し入れ た と こ ろ 、 ︿この件については相談中で、本船が出帆した後逃走した苦力どもが出てきた場合、流球が責任をもって 送り届けるように伝えよとイギリス人は 言 っ ている ﹀ との事である 。 ③ 五月十一日早朝、官人 三 人が中国人通訳を連れて上陸、 ︿本船は今日午後四時頃出帆するはずで、もしこの後蒸 気船が来着した場合は、この世直面を渡すように、そうすれば無事帰 帆するはず である﹀と申し出、横文字の書函を封 筒に入れたまま 差 し出したので、受け取っておいた 。 この日は南東の風で、イギリス船は午後四時ごろ北西の方向へ 航走し、午後六時ごろには船影も見えなくな っ た 。 ⑨ イギリス船が出帆したので、逃走している苦力を探索のため手配し、方々の山野を巡り、 四日までに 三 三 七人を呼び寄せて宿舎に入れ、世話や見張りを申しつけておいた﹂ 。 五月十二日から五月十

(21)

東恩納筑登之親雲上の報告はリリ 1 号艦長アンダーソンの報告と大筋において一致しているけれども、苦力たちに 対する石垣島役人の対応姿勢については、両者の聞に相違が見られる。すなわち、後者では苦力の略奪行為を告発し て捕獲に協力的であるかのように描き出しているのに対して、前者では﹁中国人苦力の捕獲の件についてはイギリス 側の要求に応じることはできない﹂ときっぱり拒絶しているのである。リリ l 号艦長のアンダーソンらがこの点に不 満を抱き、後続の艦船の来航を予告したという事実に鑑みれば、東恩納筑登之親 雲上 の報告の方に、より正確な事実 が反映されていると見なすべきであろう 。 (

、、./ サラトガ号の来襲と琉球役人の対応 アンダーソン艦長の予告通り、イギリス緩リリ l 号 ・ コンテスト号が石垣島を出帆してから十日ほど後の五 二 年五 月二十二日、今度はアメリカ艦サラトガ ( ω 白 ﹁ 同 門 O岡田)号が苦力捕獲のために石垣島へ来航した。サラ ト ガ 号の石垣島 来航から出航に至る全経過を、八重山島在番の読谷山里之子親雲上は次のように報告している 。 ﹁ ① 五 二 年五月 二 十 二 日正午頃、異国船一般が崎枝村沖合いに現れ、まもなく冨崎沖に停泊、渡船一般から異国人 六名と前回来着のイギリス船の中国人通訳一人が上陸したので、来着の理由を尋ねたところ、︿前回のイギリス船が 度門に帰って役所に状況を報告し、悪意の苦力ども多数を小島に捨て置くわけにはいかず必ず捕獲するようにと申し 考出たので、アメリカのサラトガ号に艦長ウォ l カ l ・ 小 官十人 ・ 兵員二百人が乗り込み、さらに前回捕獲した苦力二 論 十三名も載せて来着した次第、明日はこの船の官人が上陸し、当地の長官と商談するつもりである ﹀ と告げて、本船 頭 巻 へ 帰 っ た 。 ②翌二十三日正午頃、渡船二般から官人十一人が中国人通訳を連れて上陸し、苦力逮捕のために来着した旨を告げ、 五

(22)

占 ノ、 苦力の所在を尋ねたので、 ︿ 冨 崎の宿舎に入れて置いたものの昨日貴殿らの船を見て逃走し、現在どこにいるのかわ からない ﹀ と答えたところ、 ︿ 探索に出かけるので乗馬二十匹 ・ 案内人七八人を用意してくれ ﹀ と要請して本船へ帰つ た。同日夕方、 アメリカ人百人ほどが各々太万 ・ 鑓 ・ 鉄砲を持って上陸、探索用の乗馬を差し出すよう要求し、苦力 を探索殺害する様子なので、私どもはびっくり仰天して ︿どうか無事に連 れ帰って頂きたい ﹀ と願い出、乗馬の件も 再三断わったが承知せず、仕方なく差し出したところ、夜の十二時頃二手に分かれ、旗を持って出発し、方々の原屋 を検分、翌 二 十四日までに苦力五

O

人 を捕獲して夕方帰還した 。 捕獲された苦力は手足に鉄の鎖をはめられて宿舎に 入 れ ら れ 、 アメリカ人四十人が警護に当り、その他は本船へ帰った。 ③五 月 二十六 日 、 アメリカ人の要請により、監禁中の苦力どもに食糧を支給した。同日、苦力の一人が鎖をはずし て 逃 走 、 アメリカ人三名が探索して新 川村 はずれの原屋に隠れているのを捕獲し、夕方連れ帰った。 ④五 月 二 十 七 日 、 アメリカ船の船長と私ども役人の間で贈物を交換した 。 同日、捕獲監禁中の苦力をアメリカ船へ 移送したので、立ち会った 。 ⑤五月二十八日夕方、 アメリカ人五

O

人が各々太刀・鎚・鉄砲を持って上陸、苦力探索用の乗馬を差し出すよう要 求したので提供したところ、午後十時頃出発して大浜村の川原へ赴き、 二 手に分かれて近くの原屋を検分、さらに大 浜村へ入って人家を検分し、苦力七人を捕獲、翌 二 十九日午前十時頃本船へ戻った 。 同日、小官一人が中国人通訳を 連れて上陸、文書を差し出した 。 この時、中国人通訳が 言 う に は 、 ︿ 逃走中の苦力ともは容易に捕獲出来ないので本 船はまもなく出帆し、再度戦艦を派遣して捕獲する ﹀ とのことである 。 しかし、異国人どもは鳥人に対しては律儀で、 何の障害もない 。 ⑤五月三十日 、異国船は北東の風を 受けて午前八時頃出 帆、北西の方向へ通過し、正午頃には船影も見えなくな っ

(23)

{ - 三 -ニ 一 七 } - ‘ ' -n + , ム ハ ﹂ アメリカ艦サラトガ号の来襲の経緯は、以上の八重山在香の報告によって確認されるが、当のサラトガ号艦長ウォ 1 カ ( 当 ' ω 者 回

- Z

﹁)もまた合衆国極東海軍司令オ l リックあてに、遠征の詳細な状況を報告し、その中で石垣島を 含む八重山が政治的に琉球に隷属していることを指摘するとともに、苦力捕獲作戦については、﹁五月二十三日、島 の責任者と会談し、道案内人を出してくれるよう要請、互いに贈物を交換した 。 その晩、艦上に兵員百名を集合させ、 十分なる食糧 ・ 武器を準備し、午後十時に四ル l トに分かれて上陸、苦力の捜索逮捕を行った 。 捕獲されて宿舎へ連 れ戻された苦力は五 三 名、艦上の苦力と合わせると七

O

余名となる。翌日の夜九時、また陸戦隊員六

O

名を上陸させ、 捜索逮捕を継続した。その日の晩から翌朝まで大雨が降りやまなかったけれども、陸戦隊はなお積極的に行動し、苦 力が身を隠している場所を発見し、 二

0

時間の捜索逮捕を続行した後、苦力二名を捕獲して綾上へ 一 戻 っ た 。 捕獲され た苦力は合計五五名、慶門でイギリス艦リリ l 号から受け取った二三名を加えれば、総計七八名である。その中の九 { 三 八 } 名はすでに死去したので、六九名の苦力が残っている﹂旨報告している 。 八重山在番の報告とサラトガ号艦長の報告には細部に若干の相違があるものの、大筋において一致していると見て よいであろう。ただ、苦力の捕獲をめぐるアメリカ側と琉球側の思惑や対応については、両者とも十分に本音で語つ ているわけではない。この点では、むしろ、末端で交渉に当たった双方の通訳の対話に注目すべきであろう 。 サラト 考 ガ号停泊中の五月二十七日、琉球側の通訳村山がアメリカ側の中国人通訳羅元祐に向かって、﹁この度、毎日のよう 雪ι 凶冊 な苦力捕獲作戦で、島中騒動している。君は同じ中国人であるから、彼らの気持ちを察して船長に宜しく相談して、 頭 巻彼らの危難を救い無事に連れ帰って、私らをも安心させるように取り計らってくれ﹂と申し入れたところ、羅元祐は ﹁苦力どもは慶門では乞食のような輩で、 アメリカへ行く途中船長ら五名を殺した悪人だから、相談して無事に連れ 七

(24)

)¥ ( 三 九 ) 帰ることなどできるはずはなく、捕獲次第鹿門へ連れ帰り打ち殺されるはずだ﹂と応えている 。 また、翌 二 十八日に { 四 O ) も、両者は次のような対話を交えている。 羅元祐 今日捕獲した苦力を船中で訊問したところ、逃走中の食糧は当地の官人から支給されたと 言 っている 。 と すると、逃走した苦力は島役人が隠匿して世話しているはずで、異国人が捕獲しようとしてもできるわけはなく、本 船は慶門へ帰り、別の船を派遣して捕獲させるので、その旨承知するように 。 村 山 貴殿の抗議を受けて当方の官人は驚き入り、弁明のために参上したので、承知されたい 。 苦力どもは山中へ 離散し、在所も定まらないので、蔵元 ( 役所)から追跡して世話しようにもできるわけはなく、彼らが時々原屋へ押 し入って食物を貰っているとしても、島人は他国人に対して恐怖心を持っているので、仕方なく与えているに過ぎず、 当地の官人が世話する筋合いは全くない 。 ただ、前述のように、当方が苦力を捕獲することはできないので、本船が ムユ両日停泊し、苦力を捕獲して連れ帰り、再度船を派遣することは取りやめて頂きたい 。 羅元祐 艦長の考えによれば、現在の状況では捕獲の件はうまくいかないので、本船は早めに鹿門へ帰り、福建総 督へ訴え出て、中国の船を派遣して残りの苦力を捕獲させたいということだ。私どもの本船が出帆すれば、逃げ隠れ た苦力どもは必ず宿舎へ集まるだろう 。 中国船は琉球船と同じ形をしているので、中国船を派遣すれば琉球船と間違 えて逃走しないはずだから、 一 挙に捕獲できる 。 これが最上の計策だと艦長は考えている 。 村 山 今回滞留の苦力を養うために、島中の男女は自分の仕事を顧みる暇もなく、難渋を極めているのに、またま た中国船が来着したならば、島中が荒廃してしまう外はないので、この所は深く倒察して頂き、緩長と宜しく相談し て、どうか中国船の派遣を取りやめて頂きたい 。 羅元祐 苦力どもが山中へ逃げ隠れたのでは容易に捕獲できないので、この島の役人が苦力どもと相談し、近辺の

(25)

離島へすべて移動させるよう取り計らうわけにはいかないだろうか。そうすれば、逃走しようにもできず、苦力ども を残らず捕獲するのもたやすいことなので、そのように取り計らってはいかがであろうか 。 村 山 当地の官人もその積もりで、先頃苦力どもへ相談したけれども、彼らはすぐにその気配を察したのか、承諾 せず、山中へ逃げ隠れているので、そのように取り計らうこともできない 。 羅元祐 兼々申し伝えているように、苦力どもは米国船に乗ってサンフランシスコへ行く途中、船主らを打ち殺し た悪人であるから、護送することは取りやめるよう心得て頂きたい 。 以上の対話の中に、双方の思惑や希 望が よく示されている 。 琉球側の現地役人たちは自ら苦力捕獲を請負うことは せ ず 、 一方で苦力どもが﹁飢渇に及ばざるよう取り計らわず候ては、中国ご都合向きの障りに相い成る事候問、人々 見つけ次第、自分間い入れの形を以て、密々飯料相い与へ候ょう取り計らうべ﹂しと指示しながら、他方ではこの事 が﹁異国人へ相い知れ候ては、当所眼前の憂い出来致すべく候問、此の所は深く勘弁致し﹂異国人に悟られないよう { 回 二 にせよとも注意している 。 冊封体制下の遭難者救助規定に従うことを前提としつつも、圧倒的な武力を背景とした異 国人の意向をも配慮せざるを得なかったのである。また、英米艦船の乗員には、琉球の主権を侵犯しているという意 識さえなかったことにも注目すべきであろう。 考 皿 苦力の石垣島滞留と琉球王府の対応策 論 頭 巻 (ニ苦力漂着の第一報と護送船派遣方針 八重山在番筆者の知念・東恩納両名から琉球王府の鎖之側あてに、異国船ロパ l ト・パウン号が石垣島へ漂着、中 九

(26)

国人苦力三八

O

人と異国人一人を放置して間もなく出帆したという趣旨の前掲第一報が送られたのは成豊 二 年三月四 目、すなわち一八五二年四月 二 十二日のことである 。 この時、知念・東恩納らはまた御物奉行所あてに、寸石垣島滞 留の苦力と異国人は本来区別して取り扱わなければならないけれども、両者は懇意のように見え、異国人は制止する のも構わず自ら苦力の宿舎へ入ってしまう有様なので、 { 回 二 } にも苦力と同じ船に乗せて送り届けることにしたい﹂と提案して指示を仰いでいる。 一緒にして面倒を見ることとし、御地(那覇) へ移送する際 八重山現地からの第一報で、滞留苦力たちが清国への護送を要請していること、及び現地の役人たちが従来通り漂 着の苦力と異国人を一緒に那覇へ送り届けたいと提案していることを知った琉球王府の評定所内では、早速その取り 扱い方針が検討された。従来、遭難漂着船が沈没あるいは損壊して使用不可能となった場合には、漂着人は漂着地か ら一旦那覇へ移送され、那覇から進貢船か接貢船で、あるいは特別仕立ての護送船で福州へ送り届けられることになっ ているけれども、今回の場合には、若干配慮すべき事情があった。漂着人が多数であること、その中に異国人が一人 含まれていることなどである 。 この時期、琉球王府は頻繁に来航する異国船と異国人への対応に追われて困却していた 。 と り わ け 、 一八四六年に イギリス船で来航して以来、琉球に居座り続けている宣教師兼医師のベ ッ テルハイムが、異国船の来航に便乗して内 政干渉的な要求を押し通すなど、事あるごとに頭痛の種となっているところでパウン号漂着事件の報告が届いたの である 。 ベッテルハイムの干渉を恐れる琉球王府の 三 司官は、﹁今回八重山へ漂着した苦力の中にはイギリス人も一 人交じっているので、那覇へ移送したのではベッテルハイムに気づかれ支障が生じる 。 従って、まず大船一般に食糧 を積み込んで八重山へ送り、彼らに与えて自ら清国へ帰還するよう説得し、聞き入れない場合には 三 般の護送船に分 ( 岡 三 } 乗させて護送するよう手配せよ﹂と指令し、従来とは若干異なる方針の選択の可能性を打ち出した 。 つまり、船舶・

(27)

食糧を与えて自ら帰還させることを第 一 方針とし、それが不可能ならば琉球が護送船を派遣するという第 二 の方針も 用意したわけであるが、 いずれにせよ規定通りに那覇へ移送することはせず、直接八重山から清国へ帰還させるとい う方針である 。 もっとも、王府の首脳部は第 二 の方針の選択の可能性を想定して、関係機関に護送船派遣の準備を命じたので、関 { 困問 ) 係機関は通常の護送船派遣の例に従 っ て諸準備に取り掛かった 。護送 船の派遣は貿易のチャンスをも意味したから、 通常ならば護送役の志願者は少なくないはずであるけれども、今回の場合は異国船が中国人苦力とイギリス人を放置 したまま出帆していることから、﹁通常の漂着とは違うのではないかとの疑いが広まり、護送役の志願者が少ない﹂ { 四 五 ) ので特典を与える旨の決定も下された 。 他方、護送船貿易は穫摩藩の出先機関 ( 在番奉行所 ) とも調整する必要があ り、薩摩側が見布の積み込みを要求したのに対して、琉球側は﹁ 三 七九人を 三 般で護送することになれば、 般 二

O

人以上の大勢の人聞を載せなければならず、しかも中国人どもは異国人となにやら不穏な動きもあるので、商売 物などは積み込ませないようにしたいところであるが、 一切積み込ませないことにすると護送役を志願する者がない 一 般に付き昆布十 二 万斤づっ積み込ませることにしたい。就いては産物方の荷物の積み込みは取りやめにして { 園 大} 頂きたい﹂と返答して、薩摩側の要求を退けたものの、折衝はなお難航した 。 産物方からの再度の要求をめぐ っ て 、 の で 、 琉球王府の摂政 ・ 三 司官は﹁護送船積み込みの昆布について、産物方では薩摩の要求を無視できないとのことで、 考般には八万斤、 二 般には四万斤積み込むよう求められたとのことであるが、中国人どもは出所不正の者共で航海途中 論 欲望に駆られてどんなことをしでかすかも知れないので、 頭 苗 主 に﹂と評定所へ指示している 。 やはり産物方の要求はお断りするよう再度相談するよう 巻 この間、護送船派遣の準備と併行して、進貢船の派遣準備も着々と進行していたが、前者を優先させる必要から、

(28)

進貢正副使に対して﹁護送船三般が福州琉球館へ到着したら、早速福建当局へ中国人どもを受け取るよう申し出て早々 に引渡し、今年夏頃までには帰国できるよう宰領人へ緊急の対応処置を命じておくこと、用心銀は先例通り一一一貫目渡 ( 四人 } しておくので、その範囲内で処理し、残金があれば持ち帰ること﹂などの指示も出された。他方、八重山現地で苦力 取り扱いの任務を指揮させるために、琉球王府は第一次の使者として毛成美伊野波里之子親雲上盛郁 ・ 鄭徳潤屋冨祖 ( 阻九 ) 親雲上などを派遣することを決定し、同時に伊野波・屋冨祖らへ﹁八重山島に於て取り計らい向きの条々﹂を通達し たが、その内容は前掲の琉球王府の方針を敷街したもので、次の点を強調している。 ﹁①福建省では長年雨降らず、人民は飢縫に苦しみ、イギリスで生計を立てるため慶門滞留のイギリス船に乗り込 み、途中逆風に遭遇して漂着したという八重山滞留中国人どもの供述が事実であるかどうか、到着次第詳細に訊問し て報告すること、②従来、島々へ漂着した中国人は、原船で帰還できない場合は、御当地(那覇) へ送り届け、御当 地から護送することにな っているけれども 、今回の中国人どもは異国人とも関係があり、御当地へ送り届けられた場 合には、ベッテルハイムから干渉されて支障が出るかも知れず、その上出所不正の者どもを護送した場合、清国 側 の 都合向きによっては不穏当な事態ともなりかねないので、中国人どもに対して、大船一般と航海中の食糧を十分与え るから自分達で八重山から直接清国へ帰還するようにと、全力を尽くして説得し、承知した場合には至急便で連絡す ること、①中国人どもが説得を受け入れず、万一那覇へ送り届けて清国へ護送するよう要求した場合、那覇へ送り届 ける日数を計算に入れると清国向けの出帆時期を逸してしまい、また那覇では疫病が流行しているので、是非八重山 へ届け出る必要があるので、英国船の船長と船名、 { 五 O } さらに船一般を与えて帰還させることに同意した場合には、航路と到着地を聞いておくこと﹂。 から直接帰還するよう幾重にも説得すること、④御国元(薩摩) 特使としての伊野波・屋富祖らの任務は第一に船・食糧などの提供を前提として苦力たち自身で帰国するよう説得

(29)

することにあ っ たわけである 。 しかし、この方針は従来の冊封体制下の遭難民護送規定を逸脱することから、琉球王 府は説得不可能な場 合 をも想定して、同時に 護送 船派遣の準備も 着 々 と進捗させ つ つ あ っ たこと、前述の通り で ある 。 ( 二 ) 苦力捕獲の続報と琉球王府の方針転換 特使の伊野波・ 屋冨 祖らが琉球 王 府の内命を帯びて那覇を出港し た のは五 二 年五月十九日のことで、既にイギリス 船籍のリリ l 号 ・ コ ン テスト 号 が石垣島 へ 来襲し苦力捕獲作戦を展開してから 一 週間も後であ っ たけれども、その時 点ではまだイギリス艦の苦力捕獲作戦の報告は王府へ届いていなか っ た 。 従 っ て 、 宮 古経由で五月 二 十四日に石垣島 へ着船した伊野波らは、すでにアメリカ船籍のサラトガ号が石垣島の冨崎沖に停泊中で、 アメリカ兵が苦力捕獲作戦 を展開中であるなどとは予想もしていなか っ た 。 現地の役人たちから苦力の状況報 告 を受けた際に、 ( 五 二 一 般が停泊し、変事が出来していることを知 っ て驚博したのである 。 目下アメリカ船 英米艦船の来襲、苦力捕獲作戦に関する八重山役人からの第 二 報・第 三 報が王府へ届いたのは、 五 二 年五月下旬か ら六月中旬にかけての時期であ っ たと恩われる 。 この問、伊野波 ・ 屋冨祖らは在番 ・ 頭以下の現地役人を指揮しなが ら、当初の内命に従 っ て行動するより外に対処の方法はなか っ た 。 まずサラトガ 号 退去の後、捕獲を免れた苦力たち に船を与えて直ちに帰国させる件について、官話のできる苦力 二 人と交渉したが、苦力たちは﹁船を操縦した経験の 考ある者はいないので、琉球側が護送してくれるよう嘆願している﹂ことを確認し、その旨王府の評定所へ報告すると ( 五 二 ) 論ともに、﹁苦力の嘆願通り護送することにしてはどうだろうか﹂と提案した 。 ついで、滞留苦力を訊問した結果、パ 頭 巻 ウン号の苦力は当初四 一

O

人であ っ たこと、すべて福建省出身者であること、生計のためイギリスへ渡航の途中漂着 したことなどを確認し、﹁右唐人 ︹ 中国人苦力︺共は異国人へ買い取られ候者共ニて、外ニ子細これあり候者とは相

(30)

四 ( 五 三 ) い見え申さず候﹂とコメントして、苦力への同情的な報告を提出している 。 ところが、八重山現地役人の第 二 報 ・ 第 三 報や特使の報告などで、英米艦船の襲来、武装兵の上陸と苦力の捕獲 ・ 射殺、後続の戦艦の来航予告などを知った琉球王府の首脳部は、未曽有の事態に驚博するとともに、状況の変化に対 応して方針転換を模索せざるを得なかった 。 まず、鎖之側の川平親雲上らは特使の伊野波と在番の読谷山に対して、 ﹁再度異国船が来着した場合には、異国人どもへ中国人苦力を全部逮捕させるように協力し、もし全部を逮捕できず、 僅かでも残したまま出帆する気配があれば、異国人どもに対して、逃げ隠れた苦力どもが山中から出て来た場合、こ ( 五四 } から護送してもよいかどうか相談し、承知すれば証文を取 っ ておくように﹂と指示した 。 英米兵の武 ちら ( 琉球側 ) 装襲撃に恐れをなした琉球側は、伝統的国際秩序や﹁主権﹂の侵犯に対して英米側に抗議するどころか、苦力の捕獲 作戦に協力する方針を打ち出し、苦力の護送についてさえ英米の鼻息を仰がねばならなくなったわけであるが、この { 五 五 ) ような川平親 雲 上らの指示が現地の八重山へ届いたのは六月下旬のことである 。 読谷山・伊野波らの報告によれば、﹁ ① 六月 二 十 二 日、飛船使森永仁屋らの乗船が川平港から石垣港 へ 回 航 し た の を 、 苦力どもは異国船と間違えて、制止するのも聞き入れず方々へ散乱したので、呼び 戻 すよう命じておいたところ、六 月 二 十七日までに冨崎の宿 舎 へ 集 ま っ た 。② 七 月 四 日 、 { 呂良村の東南に異国船一般が現れたので、苦力捕獲のために { 五 六 ) 来着 した船であれば、 ︿ 御趣意の通り ﹀ 取り計らうよう命じておいたところ、東南の方 へ 素 通りしてしま っ た﹂という 。 いわゆる﹁御趣意﹂とは川平親 雲 上らの前掲指 示 文 書 のこと で あろう 。 要するに、八 重 山現地の役人たちも 王 府の指 示 に従 っ て異国人の苦力捕獲作戦に協力する つ もりであ っ たのである 。 このような琉球側の方針転換を、苦力たちは敏感に 察 知し、さまざまの抵抗を試みるようにな っ た 。 七月八日の集 団断食もその 一 つである 。 苦力の断食を止めさせるために、 翌 九日宿 舎 へ赴いた琉球側役人に対して、苦力たちは次

参照

関連したドキュメント

地蔵の名字、という名称は、明治以前の文献に存在する'が、学術用語と

[r]

 近年、日本考古学において、縄文時代の編物研究が 進展している [ 工藤ほか 2017 、松永 2013 など ]

近年、金沢大学資料館では、年間 5

2008年 2010年 2012年 2014年 2016年 2018年 2020年

八〇.

〒104-8238 東京都中央区銀座 5-15-1 SP600 地域一体となった観光地の再生・観光サービスの 高付加価値化事業(国立公園型)

「イランの宗教体制とリベラル秩序 ―― 異議申し立てと正当性」. 討論 山崎