Title
比嘉春潮論への覚書−1930∼1940年代の在本土沖縄県人
との関係を中心に−(付 比嘉春潮著作目録)
Author(s)
納富, 香織
Citation
史料編集室紀要(32): 21-50
Issue Date
2007-03-30
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/7798
Rights
沖縄県教育委員会
史 料 編 集 室 紀 要 第32号 (2007)
比嘉春潮論-の覚書
- 1930- 1940年 代 の在 本 土沖 縄 県 人 との 関係 を 中心 に - (付 比嘉春潮著作 目録) 納富 香織1
は じめ に 一先 行 研 究 の整 理 と本 稿 の課 題 今年、 2007年 (平成19)は、比嘉春潮 が亡 くな っ てか ら丁度30年 目に あた る。 奇 しくも、比嘉春潮 が 生涯 師 と して仰 い だ伊 波 普 猷 が亡 くな ってか ら60年 目で もあ る。 明治 ・大正 ・昭和 と激 動 の時代 を生 き た比嘉春潮 の人 生 を振 り返 る とき、沖縄 が抱 えて き 写真 1比嘉春潮顕彰碑 (西原町立図書館 前) た諸 問題 が鮮 明に浮かび 上がって くる。そ して沖縄 の歴 史に興味 を持つ後学 の者 に とって、 比嘉春潮が遺 した膨 大な資料群 、比嘉春潮文庫 (沖縄県立図書館蔵)の意義 と恩恵はあま りに も大 きい。 2006年 (平成18) 4月 、沖縄近現代史に偉大な足跡 を残 した比嘉春潮 の顕彰碑 が西原 町 立図書館前 に建 立 され た (写真1)。関連 して比嘉春潮資料展、シンポジ ウムが開催 され、 現代 を生 きる我 々が比嘉春潮 を どの よ うに評価 し、継承 してい くのかが問われ ることにな った。 これ ら一連 の動 きについては 『ふ る さとを愛 した篤学 ・反骨 の研 究者 比嘉春潮顕 彰事業報告集』 (比嘉春潮顕彰碑建 立期成会、2006年 ) に収 め られてい るが、本稿 は筆者 が比嘉春潮 シンポジ ウムで行 った報告 をもとに加筆、修正 した ものである。 比嘉春潮 の主 な著作論 文 は、『比嘉春潮全集第1- 5巻』 にま とめ られ、それ 以外 の も の も含 めた論文 目録 は 「比嘉春潮著書論 文 目録」 (全集 第 3巻)、 「比嘉春潮 著書論文 目録 補遺」 (全集第5巻) に、年譜 は全集 第4巻 に収 め られ てお り、比嘉 を研 究す る上での基 礎資料 になってい る。先行研究 としては、次の よ うな論文がある。 1964年 に 『沖縄 タイム ス』 で連載 された比嘉の 自伝 「年月 とともに一 自伝 的回想 か ら」の談話筆記 を担 当 した由 井晶子 「比嘉春潮 を語 る一同伴者 の衿持 を貫いた気骨 ・(続)」(
『新沖縄文学』第33・34号、 1976- 1977年) では、有能 なジャーナ リス ト、柳 田国男 をは じめ とす る研 究者- の資料提NoTOMIKaori:OnHigaShuncho:his1.elatiollSllipwitll0killaWanSillJapanProperinthe1930sthrougll 1940swithabibliography
史 料 編 集 室 紀 要 第32号 (2007) 供者 (イ ンフォーマ ン ト)、そ して様 々な研究者 を結びつ け支援す る 「バイ ・プ レーヤー」 で あ る 「沖縄 学 の同伴者 」 と評 してい る。 比屋根 照夫 「比嘉春潮小論 」 (『近代 日本 と伊 波普猷』三一書房、1981年)では、近代 か ら現代 の沖縄 に対 して、比嘉春潮 が一貫 して民 衆 の立場か ら歴史 を追究 してきたその精神 のあ り方 を、比嘉の 日記 ・著作か らくっき りと 描 き出 してい る。鹿 野政直 『歴 史のなかの個性 た ち- 日本 の近代 を裂 く』 (有斐閣、1989 午)では 「日本民 間学史 に逸す ることのできない存在」と評 している。その他 、三木健 「沖 縄 の歴 史研 究 と比嘉春潮翁」 (『南島史学』第4号、1974年4月)、比嘉政夫 「比嘉春潮 一そ の研究 と方法」 (瀬川晴子編 『日本民俗学のエ ッセ ンス』ぺ りかん社、1979年)、仲嶺政光 「『方言講演』考 一近代 沖縄 ・伊波普猷 と比嘉春潮 と地域文化 」 (『教育学年報』1997年) 等がある。又、比嘉が亡 くなった後の 『沖縄文化 第56号 比嘉春潮先生追悼特集号』(1980 年10月)では比嘉 とゆか りの深 かった人々が、沢 山の逸話 を書いてい る。 これ ら全集 、先行研究か ら浮かび上がる比嘉春潮像 を大 まかにま とめるな らば次の様 に なる。 キ リス ト教 か ら トルス トイズム- と傾倒 してい く青年像、1910年 (明治43)の伊波 普猷 との出会い をきっかけ として沖縄 の歴 史- と関心 を深 めた こと、近代沖縄 にお ける社 会主義運動の先駆者 、エスペ ラン トとの関わ り、上京後 の柳 田園男 らとの交流、南島談話 会 を中心 とす る民俗学研 究 とイ ンフォーマ ン トとしての役割 、雑誌 『改造』『島』 に携 わ る有能 な編集者 、戦後 は沖縄人連盟や沖縄文化 協会 での活動 、 「沖縄歴 史研 究会」等で若 手の研究者 たち と共 に学びあい、終生、在野で沖縄研究 を行 った人物 であった。そ して多 くの論者 が指摘す る通 り、比嘉 は戦後 になって 「沖縄民族 の歴史」 (『沖縄 タイ ムス』1955 -1958年連載、後 に 『沖縄 の歴史』 と改題 され 出版) を始 め とす る著作 を多数世 に出 し、 著作年譜 を見 るだ けで も、その沖縄研究の幅広 さと深 さ、情熱 に圧倒 され るばか りである。 しか しなが ら全集 に掲載 され てい る著作 目録 を見 ると、戦後 に比べ、戦前の著作物は少 な く、特 に1930年代 中頃か ら1945年 の戦時体制下においては、当時の厳 しい出版状況 を考 慮 した として も、非常に少 ない。 さらに年譜、 自伝 において も当該期 にかけての叙述は少 な く、いわば 比嘉春潮史の空 白期 になってい る。今 回、本稿 を準備す るにあた り全集 ・目 録 ・目録補遺未収録 の著作論文 (座 談会等 も含む)計84点 を収集 、その うち1930-1940年 代の ものは35点確 認す ることがで きた (詳細 ま巻末 「比嘉春潮著作 目録 」 を参照)。本稿 では、以下二つ の視点か ら比嘉春潮 について論 じる。 第一 に、比嘉春潮 と人 とのつ なが り、特 に上京後 の在本 土沖縄県人 との関わ りについて である。比嘉春潮 ほ ど、主義、主張 を問わず幅広 い人 間 と交遊 し、沖縄 の問題 を考 えた人 物 も珍 しい。上京前、沖縄 にて新 聞記者 を していた時、社会主義運動家 と してマー クされ なが ら、和 田潤 内務部長 、後の沖縄県知事 にいた く気 に入 られ 、県庁の官 吏にな り、和 田 -2
2-史 料 編 集 室 紀 要 第32号 (2007) の私設秘書 のかたわ ら社会主義運動 を行 った こ とな どは、比嘉の度量の深 さ、人柄 か らく るエ ピソー ドであると思 う。 その よ うな比嘉春潮 の存在 を軸 に、戦前の在京沖縄 県人 との 関わ りについて述べたい。在京県 人会につ いては、戦後 については東京沖縄県人会発行 の 『三十周年記念誌』(1987年)な どの刊行物 があ るが、戦前 とな る と、ま とまった研 究論 文 も数少 な く、関西県人会 と比べ ると研 究の層 が薄い。 第二に、1930-1940年代 にかけての比嘉春潮 の動 向についてである。特 に昭和10年代 の 戦時体制 下、様 々な主義 ・思想 が弾圧 され る中、郷 土沖縄 の行 く末 を遠 く離れ た東京 で案 じていたで あろ う比嘉 は何 を考 え、行動 していたのだ ろ うか。 この時期 について は 自伝 で も余 り触れ られてお らず 、そ して 日誌 も公 開 され ていないので、分か り難 い面 も多いが、 本稿 では比嘉 の 自伝や周辺資料、特 に全集 には掲載 されていない当該期 の資料 を用いて分 析 を行 ってい きたい。
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在京県人 と比嘉春潮
1923年 (大正12) 1月、比嘉春潮 は県庁 を退職、上京 を決意す る。比嘉 の 自伝 によれ ば このまま県庁勤 めを続 けて も、社会主義的な思想や行動か ら出世す るとも思 えず 「二度 と この地 をふむ こともあるまい」 との決意 で那覇港 を後 に したのは同年 3月、比嘉40歳 の時 であった。県庁 を退職 してか らは、要注意人物 として警察か ら尾行 を付 け られ 、上京す る 際 も、鹿児 島港で私服刑 事が待 ち構 えていた。機 転 をきかせ家族連れ を装い私服刑事か ら 逃れ 、出迎 えた井之 口政雄 の手配 した旅館 に向かい、その後滞 りな く東京-到着す る。 上京後 は小学校教員 になって社会主義運動 を行 うつ も りであったが、同志であった仲宗 根源和 、鏡 平名 (後 に永丘 に改姓)智太 郎 らのはか らいで、改造社 に入社、出版 部 に配属 され る。当時の改造社 には鱒 平名 の他、宮城聴がいた。1932年 (昭和 7)改造社 を退社 し、 柳 田国男 との連名 で雑誌 『島』 を発刊す るが、1935年 (昭和10)に改造社-復職、1944年 (昭和19)1月 に同社 を退社、2月 に小 山書店-再就職、1950年 まで出版界で働 き続 けた。 比嘉春潮 が上京 した 当時の 日本 は、第一次世界大戦後 の戦後不況 に続 き、1923年 (大正12) 9月の関東大震災による震災不況 に見舞 われてお り、全国的に深刻 な経済危機 を迎 えてい た。 さらに、沖縄 の経済状況 は逼迫 していた。1920年 (大正9)に砂糖相場 が暴落、甘庶 栽培 を基幹産業 としていた沖縄 は大不況 に陥 る。 このいわゆる 「ソテツ地獄 」期 には、沖 縄 三銀行 の倒 産 (1925年) に象徴 され るよ うに沖縄 の産業経済 は破綻、沖縄 では移 民 と出 稼 ぎ者 が大量に増 え、県外 に労働力が流 出 した。 比嘉 は この 「ソテ ツ地獄」期 に上京 したが、上京前の1921年 (大正10年)10月 に発足 し史料 編 集 室紀 要 第32号 (2007) た 「沖縄 協会」 のメンバーで もあった。『沖縄 協会報 第1号』(1922年) に よれ ば、当真 嗣合や和 田潤 、高嶺朝教 らが発起人 であ り総裁 には床次竹二郎 を冠 した この 「沖縄協会」 は、金融救済 の陳情、航路 問題 等 を解決す るための機 関であ り、 「沖縄県 の発展振興のた め、沖縄 を広 く内外 に紹介 し、中央 との連携 を深 める」事 を 目的に設置 された。 メンバー は、沖縄側 か らは知事 を始 め とす る県庁 関係者 、経済界、新 聞界 な ど主立 った人物 は殆 ど 入 ってお り、伊波普猷や比嘉春潮 も名 を連ねてい る。京浜在住沖縄 出身者 も尚昌を筆頭 に、 漢那憲和 、神 山政 良、永丘智太郎 らもメンバーであった。比嘉が同協会 とどの程度 の関わ りがあったかは不明であるが、上京前か ら、在京 県人 とのつ なが りはあった と考 え られ る。 この よ うな沖縄 の窮状 を打開す る策 として、様 々な沖縄救済論議 が巻 き起 こ り、やがて 沖縄 県振興計画 が生み出 されてい く。1924年 (大正13)には官民協力の も とに 「経済振興 会」が結成 され 、県議会や 国会- の請願運動がな され た。1925年 (大正14) 2月 には 「沖 縄 県財政経済の救済助長 に関す る建議案」が、翌年 には 「沖縄経済振興 に関す る請願書」 が国-請願 され た。1931年 (昭和6) 6月 、第22代沖縄 県知事の井野次 郎は10ケ月 をかけ て 「沖縄 県振興計画15年計画」案 を策定、その計画 をもとに那覇市長照屋宏 を長 とす る 「沖 縄県振興促進期成会」が発足 し、政府 にその実行 を働 きかける。沖縄振興計画は1933年 (昭 和 8)度 か ら予算化 され るものの、戦時体制下においてその殆 どは実施 に到 らなかった。 この 「ソテ ツ地獄 」期 には、疲弊 した沖縄 を どの よ うに救済 してい くのか とい う命題 を 在京県人たちも抱 えることとな り、志を持 って上京 したであろ う多 くの在京県人 に とって 「沖縄」 と向き合 う時期 にもなった。沖縄救済請願運動 の他 にも、学生会 の創設や郷友雑 誌 の創刊 な ど、 さま ざまなアクシ ョンが起 こされてい くが、比嘉春潮 は在京県人会やその 他 県人 団体で も活動す るよ うになる。 東京 を中心 と した在京沖縄県人の組織 については、巻末の 「年表 主 な在京県人組織、 研究会 、機 関紙 ・雑誌等」 を参照 して欲 しい。1882年 (明治15)に最初 の県費留学生 5名 が上京 して以来 、戦前、高等教育機 関が存在 しなかった沖縄 か らは、沢 山の 「留学生」が 進 学、そ して定住す るよ うになってい く。1886年 (明治19)に、それ ら青年達の間で結成 された勇進社 (発起人 ・桃原 良得、諸兄里朝鴻他)は1889年 (明治21) に沖縄学生会 と改 称 され、1891年 (明治23)には さらに沖縄 青年会 と改称、1909年 (明治42)護符久朝惟が 会長 の時、創 立20周年記念会 が開催 された。増加す る留学生達のため、1913年 (大正2) には、寄宿舎 ・明正塾が落成、初代舎監 を東恩納寛惇 がつ とめた。学生 を中心 とした在京 県人組織 であった沖縄青年会 は、や がて1921年 (大正10) 1月、青年会大会改正規則によ り、東京沖縄県人会 と改称、役員 を理事制度 に改 め、漠那憲和が理事長 となった。その後1925 午 (大正14)には、従来県人会 に準会員 として参加 していた学生達の間で京浜沖縄県学生 -2
4-史料編集室紀要 第 32号 (2007) 会が結成 され 、県人会 よ り分離 した。京浜沖縄 県学生会委員長 は、 当時東京帝大在学 中の 仲井異一 郎 (後 に八幡 に改姓)で あった。 「ホップハ ウスの国家 に関す る研究」 と題す る 卒論 を制作 中であった仲井異は 「沖縄県の物質的救済問題 、精神 的啓蒙運動 は、決 して二 三の政治家 、実業家や 、数名 の教育家、思想家、宗教家、芸術家等 に-任 しておかるべ き 性質の ものではあ りませ んo挙県一致、全県民が各々の力相応 の任務 を果た して こそ、そ の 目的は達せ られその実績 は挙が るのであ ります」 と述べ、全沖縄県の青年学生及び識者 (1) 各位 の報道 ・知識 の交換機 関 として、機 関紙 『南島』 を発刊 した と述べてい る。 そ して学 生たちは 『南 島』 を創刊す る際、編集 上の意見 を在京 の先輩 である伊波、僚 平名 、比嘉春 潮 に仰 いだ とい う。す る と 「発行費用 の不足分 は何時で も出 して上げる !」 と言 われ 、学 (2) 生たちは大変感激 してい る。 「沖縄 と琉球 を親子 の様 に別 々の品物 と誤解 して居 る人間が (3) 日本帝 国には多い。世 も末 だ」等、沖縄 を離れて学問をす る学生達 に とって、比嘉春潮 ら 在京 の先輩達 は頼 もしい存在で あった ことだ ろ う。 1930年 (昭和 5) 11月、京浜沖縄県学 生会秋季総会 にて、渡 口精鴻 、比嘉春潮 の講演 を行 うな ど、学生会 と比嘉春潮 は交流 が続 いた と考 え られ るが、比嘉 はその後 も仲井異 との付 き合いが続 くよ うになる。 学生会の誕生 な ど、新 しい波 が押 し寄せ る中、大正の終わ り頃になると、従来の在京県 人会 内に不協和音が聞 こえ始 める。1926年 (大正15)5月 に発刊 された東京 に於 ける最初 の郷 友雑誌 とされ る 『沖縄及沖縄人』 (編集発行 ・大宜見朝徳)大正15年7月号 には、次 (4) の よ うに小那覇三郎 (沖縄朝 日新聞東京支局長) 「在京県人会刷新論」が掲載 され てい る。 それ によれ ば在京県人会は 「更始一新 この県難 を打開 して蘇鉄地獄 よ り蘇生す る事六十 万県民の努力 に待つ可 きは勿論であるが、在京県人の責任 も又決 して軽 Lとは しない」が、 今 の在京県人の状態は 「党 中党 を作 り閥を作 り更に統一な く更に秩序 な く救済問題 どころ の騒 ぎ」ではない。そ の原 因は、沖縄青年会 か ら今 日の県人会まで多少 の変動 はあるが、 その幹部 はず っ と同一 の人 々であ り県人会 としての活動が皆それ ら人 々の専断 に よって行 われ てお り、後輩会員 は事後承諾 を強い られてい る状態であるか らだ と分析 してい る。や り玉 に挙 げ られていた のは 「土曜会」 (大正 8年発足) とい う護得久朝惟や神 山改 良な ど 在京 県人の先輩たちが結成 してい る団体であ り、漢那憲和理事長 の態度 を批判 してい る。 神 山政 良『年表 沖縄問題 と在京県人の動 き』(琉球新報社東京総局、1966年)によれば、1925 午 (大正14) 8月 に 「土曜会事件」の項 目があ り詳細 は不明であるが、小那覇の文章 中に (1)仲井異一郎 「普く県下の識者並びに青年諸君に訴ふ
」
『南島』創刊号、大正15年7月 (2) 「編集後記」京浜沖縄県学生会発行 『南島』創刊号、大正15年7月 (3) 「余録 唇寒き言 うるま狂児」
『南島』創刊号、大正15年7月 (4)小那覇三郎 「在京県人会刷新論」大宜見朝徳編 『沖縄及沖縄人』大正15年7月号史料 編集 室 紀 要 第 32号 (2007) 土曜会 に関連 して 「過般大 問題 となった倣 文事件」 との記述 が出て きてお り、何 らかの確 執 が県人会 内部 で生 じていたので あろ う。 そ こで 「土曜会」 に変 わ る活躍すべ き人材 とし て 「渡 口博 士 [筆者 註 一沖縄初 の医学博 士で ある渡 口精鴻 は この よ うに形容 され る]
」
「旭 ガ ラス の翁長 良保」
「日々新 聞の仲 吉 良光」
「改造社 の比嘉春 潮 」等 が挙 げ られ 、比嘉春 潮 の活 躍 が期待 され てい るこ とが分 か る。 その よ うな在京 県人 の世代交代や意識 改革 が進 む 中、1926年 (大 正15) 5月 に行 われ た沖縄県人会役員改選 に も触れ、 「新理事 に渡 口博 士、新城 朝功 、奥 島憲仁 の諸君 が あるのは陣容 を建 直 した もの」 で あ り 「階級 思想や事大 主義 を打破 して精神 的 に門戸 を開放 し和衷協 同 さま よ- る一般県人 を指導す るは勿論直面 す る蘇鉄地獄 の打 開せ ん こ とを望む」 と結 んでい る。 ここか ら読 み とれ るこ とは、在京県人 の中で も世代 間格 差 が生 じてい る こと、そ して恐 らく学生会 の創設 とも関係 す る と思われ るが 「階級思想や事大主義 を打破 」 との文言 か ら 分 か るよ うに 旧来 とは違 う新思想 を持 った人 々が増 え、そ こで期待 され る人材 として比嘉 春潮 の名 前が挙 げ られ たので ある。その後、1929年 (昭和4)の東京沖縄県人会役員にて、 会長 ・渡 口精鴻 、副会長 ・比嘉春潮 、翁長 良保 が改選 され た。 1929年 (昭和4)頃の比嘉 とい えば 「日曜会」 (後述) メンバー として活動 していた時期 とも重 な り、 ここで も主義、 主張 を問わず、幅広 い人 間 と交遊 し、沖縄 の問題 を考 える比嘉 の姿 が浮 かび上 が る。県人 会 の役員 改選 は 2年 毎 だが、1931年 (昭和 6)以後 は副会長 ではな く幹事 として県人会 に 関わ っていた。 そ の後 『沖縄及 沖縄 人』 は廃 刊 され (昭和2年 1月号 を最後 に現存 していない)、大宜 見朝徳 は南洋 ・布 畦 ・南北 アメ リカ に渡 った後、1933年 (昭和8) 1月、『南島 郷友版』 を発行す る。 同紙 は在京県人 の準機 関紙 としての役割 を果 た していて、東京や 南洋 の県人 会 の動 向や県人の紹介 を行 ってい る。 その記事 を拾い読み してい くと、県人会 の様子 をつ かむ こ とがで き る。例 えば 「役 員 改選 を前 に県人会 改造 の叫び」 (『南 島』 昭和8年 5月 5日)では 「東京 沖縄県人会 は、帝都 の県人会 として一般 よ り期待 されつ つあ るが、事業 らしい こ とを何一 つ行 っていない。 一部 の人 にはその存在す ら知 られ てい ない。 昭和8年 5月上旬 に 2年任 期 の改選期 にあた るので、 これ を機 会 に東京 沖縄 県人会 を改造 したい と の世論 が高い」 と報 じられ てお り、 同時期 、県人会 の活動 が停滞 していた様子 が分 か る。 そ の後 「東京沖縄 県人会 」 (『南 島」]昭和8年 8月 5日)では、改選 された新評議員 は18名 として 「渡 口精鴻 、大宜見朝徳 、比嘉 良篤 、石川正通 、比嘉春潮他」 との名 前 が挙 げ られ てい る。 また、久 米仙 「わが郷 里 の人 々 (1)」 (『南 島』 昭和8年11月17日) で は、在京 県人 の人 とな りの紹介 で比嘉 につ いて 「博 学善識 の才能後世恐 る可 Lと認 め られ たか比嘉 春潮 は校 正係 の権威 」 で あ り、 「改造社 を退 いて柳 田国男 と共 に民俗雑誌 『島』 の編韓 に -2 6 一史 料 編 集 室 紀 要 第32号 (2007) 従事 して居 るが、島国琉球 出身者 として適所 を得た るもの、比嘉春潮 自らの座席 を発 見 し た るもの として郷党 は喜 んで居 るが、一部の友人では彼 を次代 の県図書館長 に噂で任命 し て居 る」 と評 され てい る。 、-、 『南島 郷友版』 の創 刊 とともに 「郷土の研 究郷友 の輯 睦機 関」た る 「南 島倶楽部」 も 創設 され、大宜兄 を始 め比嘉春潮、仲吉良光、東恩納寛惇 な ど沖縄県人 同士が集 まって度 々会合 を持つ よ うにな る。例 えば東恩納寛博 が南洋 を視察 しての講話 を行 った との記事 (東 恩納寛惇 「南支南洋 を視 察 して」『南 島』昭和9年 8月 1日) も見受 け られ る。 この時期 は柳 田を中心 とす る 「南 島談話会」 も1933年 (昭和8)
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月までは例会が開催 されていた が、それ とは別 に県人主体の 「南 島倶楽部」にて様 々な議論や会が催 されていた ことが分 か る。 また1933年 (昭和8)頃の 「南島倶楽部例会」において比嘉春潮 が発起人 とな り、 久志芙佐子 の激励会 が明治神宮表参道の尚志会館 で開かれた とい う。 出席者 は伊波普猷、 東恩納寛悼 、仲原 善忠、仲吉良光、仲井真一郎、伊波南哲、石川正通、比屋根安定等 であ (5) った。 1932年 (昭和 7) に起 こった久志芙佐子 「滅び ゆ く琉球女の手記」 を巡 って在京県 人学生会 が掲載雑誌 『婦人公論』販売元の中央公論社 に対 して抗議 した事件 について、比 嘉春潮 は学生た ちの言 い分 は正 しい としつつ も、 「久志 さんの よ うにせ っか くチ ャンスを 与 え られ た才能 を、脇 か らつぶ して しま うこともあるまい」 と考 え、金城朝永、与儀正 昌 (6) な どと話 し、久志 を擁護す るために中央公論社 を訪れた とい う。 その よ うな思い もあって 激励会 を開催 したので あろ う。 この 『南 島 郷友版』 の廃刊時期 について発行者 の大宜兄は 「昭和8年 に南 島を月一回 (7) 刊行 したが之 も旅行勝 ちの為 め昭和10年 の4月 に休刊 してい る」と述べてい る。それ以後、 定期的 に在京 県人会紙 が発行 され た様子 はない (名 簿 は除 く)0 1936年 (昭和11)に改正 された 「東京 沖縄 県人会 々則 」 (『昭和15年3月現在 会員名 簿 東京沖縄 県人会』
) に よれ ば、会の事業 として 「会報 ノ発行」 が掲 げ られてい るが、現在筆者 が確認 できる会幸鋸ま神 山政 良 「戦局の発展 と銃後の責任」 (『東京沖縄県人会報』昭和12年11月15日、比嘉春潮文 (5)勝方-稲福恵子 「『久志芙佐子』年譜」(『沖縄学』第8号、沖縄学研究所、2005年)。 しかし、 伊波南哲の回想によれば 「南島文化協会の金城朝永 らの主催」とあり、比嘉春潮も参加者に入 っている (伊波南哲 「久志芙佐子さんの思い出」『青い海』通巻29号、1974年)。久志の回想で は、主催団体名は明記されていないが、発起人は比嘉春潮であるとされ、在京の県人有志30名 ほどが集ま り、その中には 「烈火の如 く怒ってい らした方」たちもいた とい う (久志芙佐子 「筆禍事件のあとさき」『青い海』第27号、1973年)。主催団体については、南島文化協会の可 能性も否定できない。 (6)比嘉春潮 「年月とともに」『全集第4巻』p.336-338 (7)大宜見朝徳 「僕 と郷友雑誌」『大阪球陽新報』第23号、昭和13年8月1日。なお、『南島 郷友 版』は創刊号 (昭和8年1月1日)から第13号 (昭和9年8月1日)まで現存している。史 料 編 集 室 紀 要 第32号 (2007) 庫蔵 ) の新 聞切 り抜 きのみである。東京沖縄 県人会は、 1940年 (昭和15) 12月 に開かれた 役員会 にて神 山政 良が会長 を辞任 、漢那憲和が会長 になる。その後、具体 的な資料 が余 り な く県人会 の活動 については良 く分か らないが、敗戦前後 には、東京沖縄県人会 は殆 ど機 (8) 能 しな くなった とい う。以上、幾つかの資料 をつ なぎ合わせ て比嘉 と在京県人 とのつ なが りを見て きたが、比嘉春潮 は世代交代が進みつつ あった在京県人会 にて活躍 を期待 され、 在京県人 を支 え、人 と人 を結びつ ける役割 を担 っていた と考 え られ る0 その よ うな姿勢 は、上京後の社会主義運動 との関わ りにも表れてい る。 沖縄 にお ける社 会主義運動 の先駆 け として活躍 し、社会主義思想 について も 「東京 に出てか らは、体 を張 る活動 は とて もで きなかった」 と比嘉 は述べてい るが、東京 と沖縄 の運動家たちを結ぶ窓 口の役割 を果 た し、社会主義の研究や逮捕者救 出を 目的に1929年 (昭和4)に結成 された 「日曜会」 では、いつ も比嘉春潮 の家 に集 ま って研 究会 を行 っていた0 1931年 (昭和6) 沖縄でのOIL事件で逮捕 ・起訴 された志多伯克進 らの救援のため、当時社会主義関係 の弁護人 として活躍 していた弁護士布施辰治-弁護 を依頼す る等、社会主義思想に対す る弾圧が厳 しさ を増す 中で、比嘉 自身 も拘禁の経験を受けるな ど、非常に厳 しい状況の中でも物心両面で運動 を支えていた。又、プ ロ レタ リア ・エスペ ラン トの仲 間 と当時、相木 にあった比嘉 の 自宅 で学習会 が行 われ た ことか ら、その学習 グループは 「相木 ロン ド」 と呼ばれ ていた。比屋 根照夫は 「社会運動の前面には出ないけれ どその縁の下を支 える、いわばこの時代の伴走者 と (9) しての比嘉春潮の存在 は際だって」お り、「暗い谷間の社会運動の伴走者」 と評価 している。 3
昭和
10年 代 と比 嘉 春 潮 一生 活 改 善 運 動 との 関 わ り-鹿 野政直 も指摘す るよ うに、比嘉は 自伝 において戦時体制下の活動 を余 り記述 してお ら ず、同時期 については 「検 閲の強化」が激 しくなっていった こと、伊波 ・柳 田 らと行 った 「沖縄研究」について熱 を込めて書いてい る。鹿野 は 「柳 田民俗学 は、い ささか乱暴ない いかた を許 して も らえるな ら、社会運動家たちの戦時下での一種 のか くれ家のお もむ きを (10) もっていた」 と指摘す る。巻末の著作 目録 を見れ ば分かるよ うに、戦時体制下においても 比嘉 は、柳 田との活動 を続 け、民俗 に関す る論文 を書いてい るが、本稿 では南島談話会後、 比嘉春潮 を含 めた在本土沖縄県人 によって行われ た南島文化協会及び、在本土沖縄県人 と 生活改善運動 との関わ りについて述べたい。 (8)山城善光 『続 ・山原の火 火の葬送曲 -転向者 赤裸々の軌跡』火の葬送曲刊行会、1978年 (9)比屋根照夫 「近現代沖縄における比嘉春潮の思想的軌跡」『ふるさとを愛 した篤学 ・反骨の研究者 比嘉春潮顕彰事業報告集』(比嘉春潮顕彰碑建立期成会、2006年、p.56) (10)鹿野政直 『歴史のなかの個性たち- 日本の近代を裂く』有斐閣選書、1989年、p,104-28-史 料 編 集 室 紀 要 第32号 (2007) 南島談話会 は、1922年 (大正11) 4月か ら1933年 (昭和8) 5月まで開催 され、確認 で I.lL きるだ けで も断続的に24回の会合 が持たれ、多 くの 「南 島出身者」が参加 していた。比嘉 も 自伝 にて 「大正11-12年か ら昭和8- 9年 にかけて学界の沖縄民俗研究 は非常 に盛 んな ものだった」 と述べてい るが、柳 田を中心 とした南島談話会 に参加 した沖縄 出身者 は比嘉 の他 、機 関誌 『南 島談話』 の編集 を担 っていた金城朝永、島袋盛敏 、仲原善忠等 がいた。 比嘉 も1921年 (大正10)に柳 田と出会い、上京後 に柳 田と親 しくなって以来、周 りの研究 者 とは常 に 「イ ンフォーマ ン ト」 として接 し、柳 田に対 しては特に この 「限界」 を守 って きたっ も りだ と述懐す る。南 島談話会 は1933年 (昭和8) 5月 を最後 に開催 され なかった が、前年 に改造社 を退職 していた比嘉 は、その後 も柳 田とともに雑誌 『島』 の編集 に携 わ った り、同年9月発足の 「民間伝承論 の会」、翌年1月 に柳 田を中心に発足 した 「木曜会」 に金城朝永 ら南 島談話会 メンバー とともに参加す る等、民俗学-の見識 を深 めてい く。 ところで、本稿 の課題 である昭和10年代 の比嘉春潮 の活動 についてであるが、金城朝永 は、南 島談話会 か ら続 く沖縄研究 について 「柳 田先生の世話で別 に沖縄 出身者 のみの沖縄 土俗談話会 が、その分身 として創 立 され、後 に、 これが南島談話会 を襲名 、沖縄研究 (主 として民俗学的)の中心 とな り、学界で もその名 を知 られていま した。や がて昭和8年 頃 か らは全 く柳 田先生の手 を離れて、名称 も南 島文化協会 と改 め、講演会 の外 に、機 関誌 『南 島談話』 (金城朝永編集 ) の発行 もや っていま したが、大戦末期 に、その活動 は全 くの休 (12) 止状態 に陥 り、終戦 を迎 えた」 と述べてい る。屋嘉比 は金城 の この証言 に対 し、『南 島談 話』発刊 の時期 が違 うこ と [筆者注 - 『南 島談話』創刊 は昭和3年 で金城 が創刊 の辞 を執 筆 、その後昭和6年 に復活 した南島談話会では比嘉春潮 と金城 が幹事 とな り、機 関誌 の編 集 を金城 が行 う]、沖縄 土俗談話会 、南 島文化協会 については比嘉春潮他 関係者 の記述で 確認 で きない こ とを指摘 した上で、沖縄土俗談話会 は沖縄 出身者が運営の中心 を担 った第 2期南 島談話会 (昭和2- 3年)の ことを指 してい る可能性 もあること、南 島文化協会 に ついては、改姓運動 を論 じる新 聞記事でその名 を確認す ることはで きるが詳細 は不明であ (13) る と述べ てい る。 また太 田良博 「改姓改名運動」 に 「1937年 (昭和12)には、就職 ・社交 に さ しつ か える と在京 県人会 を中心 とす る南 島文化協会 の (珍姓改姓運動)」が あった こ (ll)屋嘉比収 「古 日本の鏡 としての琉球」『南島文化 第21号』沖縄国際大学南島文化研究所、1999 年。屋嘉比は南島談話会について、第1期 (大正11-15年)、第2期 (昭和2-3年)、第3期 (昭和6- 8年)の時期区分を行い、第2 ・3期については、「南島出身者」が会の運営を担 いながら、インフォーマン トとしての役割も担っていたという両義性を指摘 している。 (12)金城朝永 「最近の沖縄研究の傾向と情勢一琉球研究史の一節-」『金城朝永全集 (下巻)』沖縄 タイムス社、1974年、p.425 (13)屋嘉比前掲論文、p.154
史料編集室紀要 第32号 (2007) とが述べ られ てい るが具体的 な活動 内容 については 、=1 分か らない。 これ まで、 「南 島文化 協会 」 につ いて は、屋 嘉 比 も指摘す るよ うに、実態 は よ く分 か らなかった。 し か し、 2006年 (平成18) 9月 に沖縄 県公文 書館 にて 公 開 され た 「湧川 清栄文書」 に、 1936年 (昭和11) 7月 に開催 され た南 島文化協会第5回例会 の案 内葉 書 が収 め られ てお り、同団体 に関 して幾つかの情報 を得 る こ とが で き る (写真 2)。 それ に よれ ば、世 話 人 と して比嘉春潮 ・比嘉 良篤 ・八幡一郎 ・高嶺 明 達 ・石川 正通 ・金城朝永 が名 を連 ねていた こと、事 務所 は金城 朝永 の 自宅 にな っていた こ と、金城 の回 想 通 り、講演会 が行 われ ていた こ とが読み とれ る。 顎 三 年 七日 三 打 甫 (轍 鵡< ) 比 嘉 赤 潮 ・ 比 最 良 締 ・ 拓 嶺 研 遜 ● 石 川 正 通 . 称港 沖 凍み 瀬田 沸濁 r7 1宗 島 文 化 協 批 評 を iJも 邦 池 致 し ほ いと 存 じ ま す . zE 畔 七 月 七 日 (火 ) 牛 窃 六 時 骨 坊 九 ′内 -芸 階 (紳 駅欝 剛駄 賃 抑 最 盛 曾 ル 肪 向 と 骨 哉 管 回 五 十 改 宗 L品 柑参 観か ます レ 願 ひ ま す 。 0 ナ チ ス治 下 の 濁 泡 文 他 肘 立 お 役 敢 牧 井 上 発 令 氏 ○ 布 根 暮こ 於 け る 解 人 の 情 勢 純 純 益 捌 柳 河 川 帝 展 式 佃 ' 懲 日 は 先 般 公 演 の 沖 鈍 舌 炎 戟 蒲 に 封 す る や 月 紙 幣 の 榊 城 漁 ゐ を 池 へ お 解 を 弛 -都 に な っ て ゐ ま す か ら 、 鈎 知 友 御 津 舟 せ の 上 伸 今 度 は 勾 泡 朝 蝉 か ら 蹄 軸 な さ れ た 井 上 代 -日 下 都 畦 か ら 凍 演 経 巻 木 骨 節 前 回 何 食 AL友 紀 の 姐 h 糊 付 致 し ま す 。 写真 2 南島文化協会第 5回例会 [沖縄 県公文書館湧川清栄文書 (0000050703)] 世話人が固定 メ ンバーであったか ど うかな ど詳細 は分か らないが、比嘉 は この南島文化協 会 の 中心 メンバ ーであった ことが伺 える。 さらに後述す るが、別 の新 聞資料か ら関西に も 「大阪南島文化 協会」が存在 していた ことが分かってお り、南島文化協会 とい う郷土の文 化 を研究す る団体 が、やがて改姓運動 な ど生活改善運動全般 に関心 を寄せ 、比嘉 を始 め八 幡一郎等 はやがて 「沖縄生活更新協会」 との関わ りを持つ よ うになってい く。 1937年 (昭和12) 7月 に 日中戦争 が勃発 、同年 8月 に 「国民精神総動員 実施要綱」が制 定 され るな ど、戦時体制- と移行 してい くにつれ 沖縄 の思想 ・文化 の取締 りが強化 され る よ うになった。 1930年代後 半か ら1945年 にかけて行 われ た生活改善運動 は、沖縄 のみな ら ず在本 土県人の間で も推進 され てい く。極 めて文化的な形 で推進 された この運動 において は、抑圧 された もの と称揚 された ものが存在 していたが、それ は国策 に沿 うかたちで推進 (15) されてお り、改姓 、琉装廃止、辻遊郭取締 りな どが主張 されてい く。生活 改善運動 につい て冨 山一郎は 「沖縄人 を支配 ・統合す るイデオ ロギー装置の形成 に向けた沖縄 出身者 自身 (16) の運動であった」 と述べ、主 として在 阪県人達 の動 向を分析 してい るが、在京県人側か ら もその よ うな動 きがあ り、やがては在本 土 ・在沖縄 県人達 の間で連携 してい くことになる。 (14)太田良博 「改姓改名運動」『沖縄大百科事典』沖縄タイムス社、1983年 (15)生活改善運動に関する先行研究として、西原文雄 「昭和十年代の沖縄における文化統制」(『沖 縄県史料編集所紀要』創刊号、1976年)、冨山一郎 『近代 日本社会と沖縄人 「日本人」になると い うこと』(日本経済評論社、1990年)、仲間恵子 「ヤマ トクのなかのウチナーンチュ」 (赤坂憲 雄他編 『いくつもの日本Ⅴ 排除の時空を超えて』(岩波書店、2003年)等を参照。 (16)冨山一郎 『近代 日本社会と沖縄人 「日本人」になるということ』日本経済評論社、1990年、p.226、 - 30
-史 料 編 集 室 紀 要 第32号 (2007) そ して、 自伝や全集 では触れ られてはいないが、同時期、比嘉春潮 も改姓運動 に関心を寄 せてお り、在京沖縄県人 とともに生活改善運動 について度 々議論す るよ うになってい くO 比嘉 は戦後 に 「沖縄 人 の姓 について」、 「沖縄人の改姓」 とい う論 文 を表 してお り (とも に全集3巻収録)古来沖縄 人の姓 の由来か ら、明治 中期∼第二次世界大戦後の改姓 につい って姓 の読み替 え ・改姓 が唱導 され たこと、 しか し昭和初 め頃までは当事者 たちが思い思 いに行 っただけであ り、沖縄全体 としての統一はなかった こと、1936年 (昭和11)になっ て沖縄県教育会が 「姓の呼称改姓 に関す る審査委員会」 を設 け基準 を定めた こと、1937年 (昭和12) 2月に 「姓 の呼称改姓審査会」が 「読み換 えるべ き姓」84を発表、主導者 たる 島袋源一郎が 「姓 の統一 に関す る私見」 (『沖縄教育』247号、昭和12年3月) を発表 した こと、教育界の示 した基準が殊 に県外 ・海外 の沖縄人 に受 け入れ られた ことを記 してい る。 昭和期 にお ける改姓運動 について屋嘉比は、1936年 (昭和11) 3月の沖縄初等教育研 究 会 か ら難解 な姓名 の読み方統一が県教育会 に建議 され (「姓名 が難解 だ読方 を統一せ よ 沖縄初等教育研 究会か ら県教育会-建議」『大阪朝 日新 聞鹿児 島沖縄版』昭和11年3月7 日)、同 じく在本 土沖縄県人組織 か らも 「就職や社交上 に損 をす る」 との理 由によ り提言 (17) され て、その後、沖縄県教育会が乗 り出 した経緯 を指摘 してい る。 これ ら昭和10年代 の改姓運動 に関 しては、在本土沖縄県人か らの呼びかけも強 くあった と考 え られ る。 「珍奇 な名 は改めよ 就職や社交上損 をす る 沖縄 の珍 しい運動」 (昭和11 年8月13日付 『大阪朝 日新 聞
』
) では 「東京在住 の本県人 を以て組織す る南島文化協会 で は珍奇 な姓名 を改姓す るこ とが県人の利益 な りとし団体的に改姓運動 に乗 出す こ とにな り 八幡幹事は 目下帰省 して各方面 と折衝 中である」 との行動が起 こされた とあるが 「南島文 化協会」の 「八幡幹事」とは、京浜沖縄県学生会初代会長であった仲井真一郎であ り、1935 午 (昭和10) 7月、 旧姓 ・仲井員か ら 「八幡一郎」 と改姓 を行い、その挨拶状 を各方面に (18) 出 していた。 1937年 (昭和12)3月末 、比嘉 は南島文化協会世話人の八幡一郎、金城朝永 と大阪-赴 (19) き、大阪南島文化協会主催 による座談会 に出席 してい る。大阪側 の出席者 は、豊川忠進 、 異柴 田勝朗 ら在阪名 士た ちであ り、改姓運動や服装改善 についてや り取 りが行 われた。豊 川 は 「どうぞ東京 の先輩 の方々は吾々の会 に対 して腹臓 な く御感想 と御希望 を述べていた (17)屋嘉比前掲論文p.165。又、近代から戦後にかけての改姓について論 じた研究に、武智方寛 「沖縄の姓の変遷についての考察一近代から琉球政府時代まで」(
『具志頭村立歴史民俗資料館 年報』第4号、2004・2005年度)がある。 (18)「八幡一郎氏改姓のお知らせ」湧川清栄文書、沖縄県公文書館蔵 (資料コー ド0000050703) (19)「読み難い姓名改姓座談会 大阪南島文化協会主催」
『琉球新報』昭和12年4月14-15日史料 編 集 室 紀 要 第 32号 (2007) だいて今後 も吾 々の指導役 になって も らいた く思います」 と述べ、比嘉は 「今後 もこ うい う会 を益 々盛 に して東京 と研 究 の交換 を して沖縄 文化 の紹介 につ くしたい と思 っていま す」 と発言、沖縄 の貨幣や 中国 との関係等 の沖縄 の歴 史文化 に関す る話 がな された後、沖 縄 の改姓運動 につ いて熱 の こもった議論 が交わ さ81てい る。 八幡は、 旧姓 の仲井 異では 「種 々の不便 があった」ので、先祖 の姓の一つであった八幡 に改姓 した と自身 の体験 を述べ 、 「沖縄 は島津の圧迫 で故意 に改姓 させ られた事 もあるの です か らむ しろ 旧姓 に復帰す る事 は正 しい」 「私 は要す るに沖縄 が 日本的 に国際的に発展 便 を問題 に しない といふ事 はあま りに視野が狭す ぎる と思ふ のです」 と述べ、改姓 の方法 について、 旧姓復 帰、一家創 立の二通 りある と述べ る。 比嘉春潮 は 「実は私 も改姓運動 に興味 をもってい る訳 です が」 と前置 き した上で、 「慶 長年 間に島津が大和人 にまざ らは しき姓 を故意 にか- させ た事があ りま した。例 えば私の 比嘉 も東だった ろ うと思います」 と述べ、改姓の方法 については、法律上、 自由にできる か ど うかは分 か らないが、 「一つ の運動 としては出来 るだ ろ う」 と主張 した。 「明治以後 は沖縄 も全 国 との接触が多 くなったので ど うして も 日本的に通用す るものでない と困る場 合が多い (中略)私の比嘉 も沖縄 では ヒヂヤです が今 ではほ とん どヒガで通 っています0 こ ういふ軽 い意味 の改姓 は現在 の私共の 日常生活上 巳む を得 ない事」であ り、 「沖縄で も 此頃普通通 りに読む事、如何 に読みかえるべ きか とい う事が問題 になっている様 ですが改 姓 の必要 に就 いて は皆様 が実際に困った経験 を沢 山お話 して下 さい。実例 を沢 山あげて其 の中に共通点があれ ば世論 に訴えて一時に解決 出来 るか も知れ ない と考 えています。又そ れ を東京の御 土産 ともしたい」 と運動- の展開を視野 に入れ た発言 を行 ってい る。 大阪側 の事例 として、豊川 も 「沢 山の苦い経験」か ら親類達の大変な反対 を押 し切 って 旧姓 ・安富祖 か ら改姓 した経緯 を述べ 「改姓問題 は吾々の出世 にも影響す るか ら、沢山不 便 な理 由を並べ て沖縄 の大問題 として最後 まで運動 を続 けて行 きたい と思 っています」 と 発言 、異柴 田は 「全 く吾々の将来 にも関係す ることですね。 労働者 が偽名 で工場 にはいっ たが後でばれ て くび になった例 もあ りますか らね」 と事例 を紹介 してい る。 八幡は 「保守的 な人は 日本 の真似 を してい るとい う風 に考-て偉 くなれ ば沖縄 のむつか しい姓で も一般 的 な良い姓 になる と考 えている らしいが決 してそんな ことはない と思いま す。 日本人の真似 をす るのでな くて、歴史 を さかのぼれ ば立派 に 日本的に通用す るのがあ るのにわ ざわ ざむつか しい姓 を固執す るのは却 って ヒガ ミだ と思います」、金城 は 「改姓 に反対 され る方 は大抵 日本人の真似 をす るのはい けない とか偉 くなれ ばむつか しい名 で も 良いではないか とい う保守的な意見 をもってお られ るよ うですが、それ は 日常の生活の不
-32-史料 編 集 室 紀 要 第32号 (2007) 便 を考 えないただ先祖 の功 のみ を英雄的に尊ぶつま らない感情 に過 ぎない と思い ます。私 共は今 、沖縄 の姓 を五十音順 にな らべてその内読み に くい不便 なものの統計を とっていま すが近頃沖縄 で も島袋源 一郎氏等 が改読運動 をや ってお られ る様 です。 これは改姓の一歩 手前の運動 ですが沖縄 では読 めるが 日本的に通用 しない ものをわか り良いよ うに読みか え る方法 なのです。 (中略)大阪の方 も大部進歩 的な意見 をもってお られ るよ うです か ら是 非東京 と協力 して下 さい」と改姓運動 についての在本 土沖縄県人の連携 を呼びかけてい る。 そ して比嘉春潮 も 「大阪の労働者 の苦い経験 を沢 山承 りたい と思いますが、今晩 は時間が あ りませ んか ら大 阪南 島文化協会でま とめて東京-送 って下 さいませんか。世論-訴 える 良い材料 です か ら」 「全 く余計 な苦労 を子供達 に も気 の毒ですか らね」 「大 阪の熱 意 を伺 って遠 い所 に同志 を得 た よ うな気 が して心強 くな りま した」 と述べ、琉装廃止 も是非必要 ではないか との問い に、 「それは着 々 と進行 しつつあるよ うです」 と発言 してい る。 この座 談会か ら、東京 と大阪 とい う沖縄県人が多 くいた場所の県人同士が、生活改善運 動を押 し進 めてい く姿勢 が明確 に現れてお り、比嘉春潮 もその運動 と関わ りがあった こと が分か る。 しか し比嘉 自身は改姓 を行 った形跡 はな く、比嘉春潮 の本名 は 「春朝」である が、改造社時代 、周 りか ら源為朝の系統か ときかれ るのが しゃ くで、さんずい をつ けて 「春 (z()) 潮」 との雅号 を本名 の よ うに用いた とい うエ ピソー ドもある。 この座談会があった約4ケ月後の1937年 (昭和12) 7月25日、関西沖縄県人会 の準機 関 誌 『大阪球陽新報』が創 刊、異柴 田 (松本)三益が編集 を企画 し、鼻柴 田勝朗 を主幹 とし、 社友 には比嘉春潮 、親泊康永、八幡一郎 らが名 を連ねてい る。 同紙 は生活改善運動や航路 運賃改善問題 に積極 的に取 り組 んでお り、関西 のみ な らず 、戦前の在本土沖縄県人社会 の 動 向を窺 い知 るこ とがで き、比嘉春潮が当時の状況 に対 して どのよ うに考 えていたのかを 示す記事 も何 点か ある。 『大阪球陽新報』第23号 (昭和13年8月1日)には、里見哲太郎 ・比 嘉春潮 ・石川正通 ・大宜見朝徳 ・金城朝永 ・仲宗根源和 ・喜屋武保 昌 ・志賀進 ・異柴 田勝朗 ・ 親油康永 「郷土の文化促進座談会/在京文化人の郷土に対する烈々の情」との座談会が開かれ、 沖縄の生活改善について意見交換が行われている。その中で比嘉は服装改善について 「趣味の 上か らその土地に封建的支配的地位 にあって洗練 されたものに対 しては反対がある。その点か ら云えば文化趣味の低い農村の方か らが便利であろ う。断髪男子の服装等 も農村の方か ら実行 された。一度 に全部完全 なものにす る事は出来ないか ら過渡的には中途半端な不調和なものに (20)由井晶子 「比嘉春潮を語る (舵)一同伴者の給特を貫いた気骨
」(
『新沖縄文学』第34号、1977 年1月)また、仲嶺政光は「
『沖縄学』者比嘉春潮のアイデンティティと実践の特質」(一楠大 学大学院社会学研究科 1997年度博士課程単位修得論文)において、比嘉春潮のペンネーム として 「東太郎」があったことを指摘 している。史 料 編 集 室 紀 要 第32号 (2007) なっても一時は忍ばねばな らないo趣味を一時犠牲に しなければな らぬ と思 う。だか らどうし ても田舎の方か らがや り易い」 と発言 している。他の在京県人たちも生活改善運動 を推進 して い くにあたって、 「国家総動員の現時沖縄県の頭脳 は東京に集 まっているか ら総ての問題に対 して県外 の頭脳 を借れ と主張 し度い」 (大宜見朝徳) との発言に見 られ るよ うに、在京県人た ちは、在沖縄県人たちを指導 ・助言す る立場 との認識か ら発言 している。 比嘉や他 の在本 土沖縄県人達 は、沖縄 の歴史 ・文化 に強 く関心を寄せ愛郷心 を酒養 しつ つ、在本 土で暮 らす現実 と対峠 し、生 き抜 く術 として改姓 を始め とす る生活改善運動 を推 進 、その回路 は在 沖縄県人たちにも波及 ・共鳴 しあってい くことになる。 その後南 島文化協会 は、日中戦争 を境 に活動 を休止 していたが、1939年 (昭和14)9月23 日 「南 島ペ ン倶 楽部 (仮称)」 として再組織 され る。永丘 (旧姓鏡 平名)智太郎 (拓殖奨 励館主事)、宮城 清 (雑誌 商工編集部)、比嘉春潮 (文化協会)、金城朝永 が発起人 となっ て、東京 で活躍 してい る文筆、著述 関係者 を中心 に結成 、結成 当 日には伊波普猷が 「琉球 史上に於 ける氏族制度 と封建制度 の交渉」 に関す る40分程度 の講話 を行い、今後 は、隔月 (21) 位 に例会 を開 くこ と、団体名 を 「南島ペ ン倶楽部 (仮称)」 とす ることが決定 した とい う。 4 戦 時 体 制 下 の 比 嘉 春 潮 一沖縄 生 活 更新 協 会 と方 言 論 争 戦 時体制 下の生活改善運動 を考察す る際、在本土沖縄県人側 のキーパー ソン として、親 L∴い 泊康永 の存在 があった。親泊康永は、上京後 、賀川豊彦 と出会い、道連れ会や消費組合運 動 といった立場 で生活改善 を訴 える一方 、『沖縄 よ立 ち上れ」
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(新興社、 1933年)等 におい て沖縄県振興計画 を批判 し、沖縄 の 自力更生 を説 いた人物であった。親油は1937年 (昭和12) 8月 『大阪球 陽新報』東京支局長 に就任 、同紙や著書 『文化 沖縄の建設 一新生活運動の設 計 -』 (新 興社、 1938年) において生活 改善運動 を主張、東京 ・関西 ・沖縄 を行 き来 しな が ら運動 を行 った人物である。そ して親泊 を支 えた人物の一人 に、比嘉春潮がいた。比嘉 と親 泊の出会 いは、親泊が富川町にて 「道連れ会」 を主催 していた大正末期 であ り、それ ijl-iil 以来、思想 ・宗教上の立場 は異 なるが 「其 の情熱、其実行力 、其 の真筆 な態度」 に動か さ 、∴ミ・ れ 、深 い敬意 を払 っていた とい う。 (21) 『大阪球陽新報』昭和14年9月27日 (22) 親泊 (大里)康永については、「『義人 謝花昇伝』の背景」(新崎盛嘩 『沖縄現代史-の証言 (上)』沖縄タイムス社、1982年)参照。 (23) 比嘉春潮 「親泊康永君のこと」『琉球新報」]昭和4年8月1日。又、親泊が富川町での沖縄県 人の生活の様子を 「東京裏面観」と題 し 『琉球新報』(昭和4年8月)に連載 したとき、比嘉 は大変良い読み物であり、沖縄の人々にも紹介すべきだと沖縄朝 日新聞を紹介 したという。 (「『義人 謝花昇伝』の背景」(新崎盛嘩 『沖縄現代史-の証言 (上)』沖縄タイムス社、1982 年、p.169) -34-史料 編 集 室 紀 要 第32号 (2007) 1937年 (昭和12)秋 頃 よ り、東京 において生活改善 (24) 運動 を起 こすべ く度 々話 し合 いが持 たれ、1938年2月、 親 泊 は東京 にて男 爵伊江朝助 、伊示豊肇 、比嘉春潮 らの 賛助 と激励 を受 け、県内外 、海外 を含 めて 「生活 改善 期成会 」又 は 「文化 向上促進 同盟 」の如 き機 関 を組織 す るた め東京30名 、大阪約10名 の発 起人の 内諾 を得 て、 (25) 沖縄 に向か うo 帰沖後 は 「挙 県一致 の大衆運動」 を起 こす べ く、太 田朝敷 、志喜屋 孝信 らと話 し合 い、その 実現- 向けて奮 闘す る。 当時、沖縄 において も郷 土協 会 の島袋源 一郎 、島袋全発等 を中心 に服装改善、標準 語 の励 行 につ いての研 究がな され 、民間 において も生 活 改善運動 の必要性 が叫 ばれ、親 泊 の計画 は各方面 を (26) 刺激 した とい う。 そ して在京 県人 であった親 泊康永 の この よ うな運動 に呼応 したのが沖縄県社会 事業主事 の 吉 田嗣延等 で あった。 吉 田は1937年 (昭和12)10月 に 帰 沖 、県 の社 会事業主事 にな り、 まず始 めに生活 改善 運動 を重点 目標 に掲 げ、「生活 改善」 との言葉で は 「消 極 的傾 向が強 く、魅 力 が少 ない」 との考 えか ら、 「生 (27) 活 更新 」 との言葉 を考 え出 した。 こ うして 「伸 び行 く 日本 進 め沖縄 強 く正 しく 朗 らかに」をモ ッ トー に、 県 、各 市町村 、教 育界 、新 聞界等 「官民一体」 となっ 写真3沖縄生活更新協会ポスター(力ラl) 「新聞切抜 真書志 (大里)康永作」 (由井 晶子 氏蔵) ポスターには5つの標語が掲げられてい る。 (ポスターの文言は、「更新協会だより」『新 生活』創刊号、昭和14年3月に掲載されて いる) △精神作興
自
重
自
愛
大国民的雅量と推進 力とを揮ひ起
し
ま
せ
う
△服装改良 旧式の服装を改めて時代に適 する身なりに致しませう △言語鷹待 公私の生活に標準語をもって 朗らかに鷹待しませう △時間尊重 進んで時間尊重定時励行の実 行者となりませう △其他合理化 全生活を衛生、能率、経済、 風儀の方面から合理化しませうo 」 て沖縄 県民 の生活 改善を進 め る機 関、沖縄 生活更新協会 が創 立 され る (写真3は 同協会の ポ ス ター)O そ して同 脇会 は沖縄 のみ な らず、東京 、 関西 、台湾 に もネ ッ トワー クを広 げ てい く。1938年 (昭和13)12月8日、沖縄 生活更新 協会主事富 山正堅 、顧 問 ・嵩原安佐 県 会議長 、伊 豆見元永首里市長 らが上京 したのを機 に、神 山政 良 ・比嘉春潮 ・大演信泉 ・比 屋根 安 定 ・八幡一郎 ・親 泊康永等 が発 起人 とな り、在京有力者40余名列席 して 「生活 改善 (24) 「沖縄生活更新協会創立発会式報告」『新生活』創刊号昭和14年3月。なお、総力戦期の文化 動員 との関わ りで、沖縄生活更新協会について論 じた先行研究に戸追秀明 「沖縄 屈折する自 立」(『岩波講座 近代 日本の文化史8感情 ・記憶 ・戦争j
l岩波書店、2002年)があるO (25)「文化向上促進同盟 県内外、海外を一丸に親泊康永氏が結成へ」『琉球新報』昭和13年2月9 日 (「新聞切抜 真喜志 (大里)康永作」由井晶子氏所蔵・2006年の比嘉春潮資料展にて展示) (26)「沖縄生活更新協会創立発会式報告」『新生活』創刊号、昭和14年3月 (27)吉田嗣延 「生活改善雑感」『新生活』創刊号、昭和14年3月史料編集室紀要 第32号 (2007) 座 談会」 を開催 、富 山等 か ら沖縄 県 にお ける生活 改善運動 、沖縄 生活更新 協会 の活動報告 がな され た。 更 に当 日出席 した在京 県人 は全員 、同会後援会発 起人 とな り、神 山改 良、比 嘉春潮 、比嘉 良篤 、仲里朝章、比屋根安定、奥 島憲仁 、奥間徳一 、翁長 良保 、恩河朝健 、 島袋源 七、親 泊康 永 らが実行委員 に選 ばれ 、同年12月14日には沖縄 生活更新協会東京後援 (2臼) 会 が結成 、比嘉春潮 は幹事 とな り、以下の よ うな決議 がな され た。 沖縄生活更新協会東京後援会 会長 神山」政良、副会長 大境信泉 幹事 比嘉春潮、比嘉良篤、八幡一郎、大宜見朝徳、島袋源七、親泊康永 決議事項 沖縄生活更新協会ノ成立-吾人ノ多年要望セシ トコロニシテ殊二八紘一宇 ノ国是二添ツテ遇 進セン トスル県民ノ現状二鑑 ミ時宜二通セル好施設タルコ トヲ信ズイ乃ツテ義二在京県人有志ハ 沖縄生活更新協会東京後援会ヲ組織シ其発会式二際シ特二左記事項ノ決議ヲナス 記 -、本会ハ一致 脇カシテ沖縄生活更新協会 ノ事業ヲ全幅的二支持シ物心両方面ヨリ之ヲ後援ス 一、在郷官民一同ハ同協会ノ目的達成二一層ノ鞭捷協力アランコ トヲ切望ス 以上 その後 、沖縄生活更新協会 の機 関誌 『新 生活』創刊号 (昭和14年3月)第 2号 (同年5 I/.,・一 月)、そ して第3号か らは誌名 が 『置生活』 (同年10月) に改 め られ 、編集発行 は30年余 り 沖縄 の教育界 で活 躍 し、小 学校長 を辞 して生活更新協会専任 主事 となった宮 山正聖 が務 め -= た。 宮 山は沖縄 県 内のみ な らず 、先述 の通 り東京 、そ して関西 か ら台湾 まで各地 の県人会 (?,i) を巡 り、多 くの県 民 に沖縄 生活更新協会- の協力 を呼びか けてお り、1939年 (昭和14) 5 月 には生活更新協会大阪後援会 も結成 、会長 ・豊川 忠進 、後援 会幹事 ・畏柴 田勝朗 (関西 (32) 球 陽会代表) ら5名 が選 出 され た。 さらに、親泊康永 は1940年 (昭和15) 8月 、生活改善 (33) 運動 を推進す るた め沖縄 に居 を移 し、青年 の修養 を行 う 「興亜塾」 を創設す る。 東京 後援会 の具体 的実践 は明確 で はないが、1940年 (昭和15)、富 山が上京 した折 りに 比嘉春潮 、八幡一郎 、島袋源 七 、金城朝永 、親 泊康永等 が、神 山政 良に後援会会長就任 を 再交渉す ること [筆者 注 -先述 の通 り、沖縄生活 更新協会東京後援会設 立 当初 の会長 も神 山で あった ので、再任 の依 頼 で あった と考 え られ る]、名誉会員 を20名募 集 し物質的援助 の方法 を講ず る事 、第2回総会 を県会総会期前後 に開催す るこ と等 を協議 、比嘉、島袋 、 (28)「在京有志主催の生活改善座談会」「沖縄生活更新協会東京後援会結成 さる」『新生活』創刊号 昭和14年3月 (29)表題を 『異生活』に改めたのは 「理事者間の意見を取 り入れた」もの、同時に携帯に便利なよ う体裁を普通の雑誌型に縮めたとい う。親泊康永 「編輯後記」『異生活上.]第3号、沖縄生活更 新協会、昭和14年10月O この号以後、機関誌が出されていたかどうかは不明であるo (30)「富山正堅氏/生活更新協会専任幹事就任」『大阪球陽新報』第25号、昭和13年9月1日 (31)富山生 「台湾から阪神方面を廻って」『異生活』第3号 (32)「沖縄生活更新協会 大阪後援会結成 さる」『異生活』第3号、昭和14年10月 (33)「親泊康永氏帰郷 して生活改善運動に余生を捧 ぐ
」
『大阪球陽新報』昭和15年8月5日-36-史 料 編 集 室 紀 要 第32号 (2007) (34) 富 山が神 山を訪 問、神 山は会長 の件 を快諾 し、 さらに 「積極 的活動」 を誓 った とい う。 こ うして、比嘉 をは じめ在京 県人たちは、沖縄 ・東京 ・関西等、沖縄県人のネ ッ トワー クを結び、情報 を共有す るよ う努 めていたO例 えば、島袋源一郎、親泊政博 、渡久地政懲 ら在沖縄 の 「名 士」達が上京 した際は、沖縄 県 下の米配給制度 の実態、島袋全発 の図書館 長辞任 問題 、 「方言論争」 のその後の影響並び に各界の動 向等、沖縄 の情報 を比嘉 は金城 (35) 朝永、八幡一郎等 とともに対応 、情報交換 を行 っていた。そ して、それ らの情報 を在京県 人た ち と共有 していた様 子が伺 える。例 えば、1939年 (昭和14)10月、比嘉は、金城朝永 ・伊波南哲 ・親 泊康永 ・宮城聴 ・山之 口毅 ・島袋盛敏 ・島袋源七 ・石川正通 らと 「ナイ ン (36) クラブ」 を結成 、琉球紙 に 日曜通信 を送 ることになった との記事や、1940年 (昭和15)に は 「七星会」 (比嘉春潮 、仲吉良光、比屋根安定、八幡一郎、石川正通、島袋盛敏、金城朝 永)を結成、 「沖縄研究が目的だったが、時局緊迫下、雑談会になり、各家庭もちまわりの自由な雰 しこ17) 囲気」の中、沖縄についての話を県人同士で行ってお り、郷土沖縄-の関心を常に抱き続けていた。 郷土文化-の愛着 と在 京県人等 とのつなが りが、文化 の戦争動員 と不可分 に絡 ま り合 う 中で一つの事件 が起 こる。 それが1940年 (昭和15) 1月、柳宗悦 ら日本 民芸協会 同人 と吉 田嗣延 ら沖縄県学務部 との間で始 まった 「方言論争」であ り、比嘉は在京県人 として、そ して柳宗悦 ら民芸協会側 か らはイ ンフォーマン トとして両方 の立場か ら発言 を求 め られ る ことになった。管見の限 りでは、 これ まで方言論争 を巡 る在京県人座談会の様子 は、その 概要が掲載 され た 「在京文化人 の標準語 問題座談会
」(
『大阪球陽新報』昭和15年2月15日) 等 はあるものの、個別 の発言まで掲載 され た資料 はなかった。 しか し 「新 聞切抜 真 喜志 (大里)康永作」 (由井晶子氏所蔵)において、掲載紙 ・年月 日は不明であるが1940年 (昭 ILLl一 和15) 1月30日に開催 され た座談会 の詳細 を掲載 した新 聞記事が発見 された。その記事に よれ ば、比嘉は 「標準語 問題 は最近 問題化 して居 る県の生活改善運動 の一つ として大いに 検討すべ き良い問題 である」 と挨拶、続 いて八幡が東京 に暮 らす県人達は新 聞掲載 の記事 に よってのみ情報 を得 てい るだけであ り、県 当局 、 「外来者 」の態度 について批判 し、喧 嘩 を買って出た と誤解 され て も困るので、吾々が県 当局及び県人 に どんなこ とを望むか と い うことを中心議題 に しよ うと提案、その方向で議論 してい く。座 談会 において各 出席者 (34)「生活更新協会東京後援会の活動」
『大阪球陽新報』昭和15年5月 1日 (35)「上京諸名士と在京有志との交歓」
『大阪球陽新報』昭和15年6月1日 (36)『大阪球陽新報』昭和14年11月1日 (37)『金城朝永全集 (下)』p.555、石川正通 「春潮畳茶羅」
『沖縄文化』第56号、1981年 (38)掲載紙 ・掲載 日不明 比屋根安定 ・八幡一郎 ・大浜信恭 ・仲原善忠 ・比嘉春潮 ・新屋敷幸繁 ・石川 正通 ・我謝秀祐 ・金城朝永 ・親泊康永 ・高江洲朝和/(朝 日新聞)奥義晴修 ・普最嗣弘 「私達はこ う思ふ 標準語と方言の問題 在京県人有志座談会 (1・2)一家揃って標準語 議論の余地なし! 在京県人座談会の結論」(昭和15年との書き込みあり、『沖縄朝日新聞』か?)0史 料 編 集 室 紀 要 第32号 (2007) とも標準語励行 については賛成 の意 を表すが、各々意 見は微妙 に異 なっていた。標準語奨 励 は 「教 育家」 が あた るべ き (比屋根安定)、 「思想統一の上 か らも他府 県 よ り以上に努 力すべ き」 (仲原 善忠)、 「学校 では勿論標準語 を励行すべ きで あるQ 私は家庭 では方言 を 使 ってい る。 (中略)方言が蛮語だか ら標準語 の励行 をす るのだ とい う様 な誤解 か ら来 る ヒガ ミ根性 を与 えてはい けない」 (石川正通)、 「標 準語 が良 く出来たれ ば こそ、漢那 さん や、その他 の先輩 達が県外 にあって活動 している。言葉 は思想 、感情等 を表現せ んが為の ものであ り下手で も良いか らよ り良 く生 き、 よ り良 く活動 しよ り良 く社会 に貢献せんが為 に充分標 準語 を使 い こなせ るよ う努むべ きであ る。 沖縄 を愛す る故 に」 (八幡一郎)、そ して比嘉 は標準語励行 について 「私 も必要だ と思います。 ギコチな く、不快 で耳障 りな事 もあるだろ うが、それは過渡期 として仕方ない と思 う。 ポスター もや り過 ぎではない琉球 語 と標準語 との交換云ふ様 な機 関、例 えばこの琉語 には ど う云 う標準語 を適用 した ら良い、 と云った様 な機 関を作 る といい と思 う。方言 の保存は レコー ドに してで も-」 と発言、方 言 を保存す る とは民俗学的な発想 であった と考 え られ る。本土で暮 らす沖縄県人だか らこ そ、標準語励行 の必要性 は既 に動か し難い もの と認識 され、在沖縄県人- の態度表明を し てい ると考 え られ る。 一方、民芸協会柳 と柳 田国男 の対談 においては 「沖縄県人」の立場で発言 を求 め られ る。 比嘉 は、柳 に在京 県人の座談会の様子の説 明を求め られ、次の よ うに発言 している。一連 の出来事 を巡 る 「琉球の新聞」報道 を見る と 「柳先生御 一行 に対す る問題 」だけではなく、 裏面には県庁 と新 聞社、選挙 の関係等が入 り交 じってあのよ うな論争 になったのではない か、それ は恥ず か しい こ とである と指摘 し、 「それ で、東京 の座 談会 では、新 聞だけよむ でい る我 々には具体的に今度の問題 に立入 ることができないので、結局は風俗改良の上か らはやは り普通語 は奨励すべ Lといふ ことで結び ま したけれ ども-・沖縄 の言葉 の問題 には いろい ろ歴 史的な関係 もございま して、なかなか簡 単にはゆかない ことを今度 の問題で も 悟 りま した」 と発言、対 して柳 が標準語 の奨励 に反対 ではな くや り方の問題 であ り、今 の 沖縄県人 に対す る県庁 の態度 には、沖縄 の文化 に対す る尊敬 が足 りない と指摘す る。比嘉 は柳 の指摘 に首肯 しつつ も 「唯わた くLな どの感 じた ことは、皆 さんの琉球語 の価値評価 が、余 り琉球 の工芸に良い所があった為 に、言葉 に対 して も 日本語 の中に於 ける価値評価 (39) が少 し高す ぎは しなかったか とい うことで した」 と発言、柳 ら民芸協会の意図す る 「沖縄 文化 の尊重」-の違和感 、沖縄 県人の生活 と直結す る言葉 ・文化 と工芸 を混 同す る事に対 す る疑義 がはっき りと表 明 されてお り、例 え相手が柳 ・柳 田であって も一歩 も引かない と (39)対談 柳田囲男 ・柳宗悦 司会 式場隆三郎 沖縄県人 比嘉春潮 「民芸と民俗学の問題
」
『月刊民 芸』昭和15年 4月号 -38一史 料 編 集 室 紀 要 第32号 (2007) い う比嘉の反骨精神 と沖縄人 としての複雑 な心境 を読み取 ることが出来 るのではないか。