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天平期の改革と律令制

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Osaka Gakuin University Repository

Title 天平期の改革と律令制The Relation between the Reforms in the Tenpyo Year

Period and the Ritsu-Ryo System

Author(s) 中田 興 (Kokichi Nakada)

Citation 大阪学院大学 人文自然論叢(THE BULLETIN OF THE CULTURAL AND NATURAL SCIENCES IN OSAKA

GAKUIN UNIVERSITY),67-68:92-69

Issue Date 2014.03.30

Resource Type Article/ 論説

Resource Version URL Right Additional Information

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第67 68号 2014年3月 [一] ―92―

はじめに

  日本に律令法が採り入れられ、いわゆる律令法にもとづく社会へと 移行したのは七世紀末のことであった。この律令法は格式によって改 変整備されるが、この法体系にもとづく社会体制すなわち律令制はい つまで続いたのであろうか。   これについてかつて石母田正氏は①天平時代を古代世界の頂点であ ると位置づけるとともに、古代社会における矛盾が鮮明にすべての面 においてあらわれ、貴族階級内部における対立が激化し律令制本来の 諸政策が破綻し始め、全体として古代社会の行き詰まりが到来したこ とを示した点において、古代の没落の第一段階と位置づけ、②その古 代没落の第二の段階は八世紀末葉の平安遷都および桓武天皇の治世時 代で、奈良時代における社会的、政治的矛盾にもかかわらず、真に古 代国家を変革すべき階級的勢力が未成熟であり、したがって律令制的 政 治 体 制 の 一 時 的 再 建 の 企 図 が 果 た さ れ る 条 件 が 存 在 し て い た 時 代 で、約一世紀にわたり政治的安定がみられた時期とし、③そして古代 没落の第三の段階が一〇世紀の延喜・天暦以降の時期以降で、藤原氏 の摂関政治の開始、同時に古代国家の骨格をなしてきた天皇制とその 法制的表現である律令体制が没落に向かう時期と説い た 1 。一〇世紀頃 まで律令制社会として漠然と考えられているのである。   また律令制は唐をまねたものであり、唐と日本の社会の違いを考慮 せず、律令制以前の社会の上に唐の制度をまねることに専念してでき あがったものであるとする 坂上康俊 氏は、①土地所有に関して言えば 初期の大土地所有は体制に対する協力要請の側面もあって豪族の権益 を保護していたが、天平期にいたって貴族の主張を採り入れ、その権 益拡大が図られたとし、②また八世紀初頭の大宝律令により律令国家

天平期の改革と律令制

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[二] ―91― が 成 立 し た も の の し だ い に 混 乱 し、 そ れ は 九 世 紀 前 半 に 再 建 さ れ る が、 や が て な し 崩 し 的 に 崩 壊 し た と し、 ③ 八 世 紀 を 律 令 国 家 の 発 展 期、九世紀を律令国家の安定期とす る 2 。これは吉田孝氏の、八世紀は 中国的な律令制を志向した時代で、天平期は律令制の軌道修正期であ り、九世紀になると古典的国政の確立期を迎えるとの考 え 3 の延長上に あるが、一〇世紀まで律令制社会が存続していたと考えられているの である。   三氏は天平期に大きな変革がなされながらも、それを律令制の枠内 でのこととみているのであるが、問題となるのは多くの変化の中に律 令制の存続を図ったものと、否定したものがある場合、それをいかに 位置づけるかである。律令制社会を超えるものがある場合、それをど う位置づけるかも重要となる。     以下、この視点に立ち、天平期の改革と律令制の関係について考え ることとしたい。

 

正税出挙の変化

    ︵一︶   正税の大規模化   天平期における施策の変化という点においてまず注目したいのが、 天平期になされた正税出挙の大規模化である。この正税出挙の大規模 化自体は和銅五年︵七一二︶八月の郡稲処分などに淵源をも つ 4 が、天 平六年︵七三四︶正月には    聴 三 国 司 毎 年 貸 二 稲 一 大 国 十 四 万 以 下。 上 国 十 二 万 以 下。 中 国十万以下。下国八万已下。如過 二玆数。依法科罪。 と、国司が大量の﹁貸官稲﹂することが政府によって認められるに至 る 5 。これは﹁国司借貸﹂と称されるものであるが、薗田香融氏は国司 が国衙より無利子で借りた正税を農民に貸し付け、その利を得るもの と解 し 6 、長く受け継がれてきた。しかし山本祥隆氏は、この国司借貸 の開始時の天平六年は飢饉の只中にあり、天平四年から六年までは賑 給・借貸が頻繁におこなわれていた時期であり、また続けて疫病が発 生しており、天平年間の借貸は災害対策に他ならず、国司借貸は利益 を見込めない中で実施されたものであり、国司借貸を国司得分とみな すことは難しいと説 く 7 。   国司借貸は国司得分か、否かで論が分かれているのであるが、これ についてはあくまで﹁貸 二官稲﹂とあることが注意される。山本氏は 百姓の要望に応えるために低利の公出挙を増やそうとして国司借貸を 展開したとするが、ならば何故に直接的に公出挙の拡大ないし無利子 の 借 貸 = 賑 給 と し な か っ た の か が 問 わ れ る の で は な い か。 国 司 へ の 「 貸 」 を 経 て 出 挙 す る 以 上、 そ こ に 国 司 へ の 配 慮 が 感 じ ら れ る。 す な わち賑給であればいっさい返済を求めないが、公出挙ならば民間より 低 利 8 ではあっても利子を取ることとなり、その利子は国衙に入ること となる。国司借貸はその中間に位置するものであり、その利益は国司 に配分されるのであ る 9 。   ともあれこの天平六年の国司借貸において正税出挙はその規模が拡

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[三] ―90― 大 し た の で あ る が、 天 平 一 七 年 に こ の 正 税 出 挙 は さ ら に 大 規 模 化 す る。 ﹃続日本紀﹄天平一七年一一月庚辰条には    制。 諸 国 公 廨。 大 国 卌 万 束。 上 国 卅 万 束。 中 国 廿 万 束。 ・・ 下 国 十 万 束。 ・・ 若 有 下 税 数 少。 及 民 不 二 挙 一 不 二 満 限。 其 官物欠負未納之類。以 レ玆令塡。不更申 と、正税出挙の量が大幅に拡大され、大国では四〇万束に登る公廨の 財源として期待されるに至るのである。この記事は﹃延暦交替式﹄の    公廨     大国肆拾万束     上国参拾万束     中国貳拾万束 就中大隅。薩摩二国各四万束     下国壹拾万束 就中飛騨。隠伎。淡路三国各三万束。 志摩国。壹岐嶋各一万束。         太 政 官 奏。 諸 国 司 等 割 二 正 税 一 出 挙 之 式。 請 依 二 件 一 以 為 二 公 廨 之 料 一 若 有 二 税 数 少。 及 民 不 レ 者 一 不 二 満 限。 其 官物欠負未納之類。以 レ玆令塡。不更申     天平十七年十一月廿七日 と の 規 定 に 通 じ る が、 正 税 出 挙 の 利 を 割 い て﹁ 公 廨 之 料 ﹂ に 充 て る が、 ﹁官物﹂の欠負未納をも補塡するとされている点、注意される。   右 に 見 え る 公 廨 で あ る が、 ﹃ 令 集 解 ﹄ 田 令 在 外 諸 司 職 分 田 条 に お い て、 ﹁古記﹂が﹁公廨田不輸租。問。国司公廨田以 二誰人作。答。役 二 事 力 一 作 也 ﹂ と 注 し て い る。 こ れ に よ れ ば 公 廨 の 意 味 は 職 分 田 に 準 じ、それ故に国司得分と関わることとなる。この点、早川庄八氏は原 義的には官衙官庁の社屋及びその収蔵物であったが、しかし天平期の 激動のため、正税そのものを確保維持することが困難となり、それを 補うものとして﹁公廨稲﹂が創出され、その運営のために担当する国 司へ残余分を報酬として与えることとなったとす る 10 。また渡辺晃宏氏 は公廨は本来国衙における財源として国司公廨田の収穫稲と公田の地 子とによるものであり、その用途は国司巡行の際の食料や国衙の雑用 などであり、また国司の給与の一面をなすものであったとす る 11 。その 公廨が天平一七年において拡大されているのである。   この拡大の目的については見解が分かれている。国司の俸給を増加 さ せ る も の で 天 平 六 年 制 の 復 活 と と ら え る 見 解 12 、﹁ 官 物 ﹂ の 欠 負 未 納 の補塡であるとの見 解 13 、さらに、各国に設置された公廨稲は官物の欠 負未納の補塡と国儲にあてられたあとの残りの利稲が国司の所得とし て舂米の形態で配分されたが、この方式は国司各員が個々に穎稲を借 りだして出挙する国司借貸とは別のものであり、公廨稲制度は国府財 政に対する国司の個別的な関与を制限し、財政の運用方法を組織的な 構造に改変したものとする見 解 14 、公廨の財源として出挙稲を独自に設 定するとともに、公廨にはもともと国司給与の側面があったが、かつ て公廨が果たしていた機能をふたたび正税から独立させるとともに公 廨の用途として新たに官物︵正税︶の欠負の補塡を狙ったものとの見 解 15 である。   先にふれたように﹃続日本紀﹄や﹃延暦交替式﹄がともに﹁其官物 欠負未納之類。以 レ玆令塡﹂と記していることに注意するならば、こ

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[四] ―89― の目的は公廨本来の国衙の費用や国司個人の給与の補塡にあてるとと も に、 「 官 物 」 の 欠 負 未 納 の 補 塡 に 充 て る こ と に あ っ た の で あ る。 す なわち、国司借貸は天平初年の困難な状況出現に対処する国司への激 励の意を込めた手当の増 加 16 を図ったものであるが、その成功を見て国 衙費用の補塡、さらには﹁官 物 17 ﹂の欠負未納の補塡のために正税出挙 の拡大が図られることとなるのである。先にふれたように山本祥隆氏 は国司借貸は国司得分とみなすことは難しく、百姓の要望に応えるた めに低利の公出挙を増やそうとして国司借貸を展開したと解してい る 18 が、そうではないのである。   注意しなければならないことは、出挙を受けて死亡する者も出現す ることである。その一端は天平一一年の﹁備中国大税負死亡人 帳 19 ﹂か らうかがわれる。これには﹁大税﹂出挙を受けながら、死亡したこと により返済しなかった者が書き連ねられてい る 20 。また﹁天平一〇年和 泉監正税帳﹂には前年のこととして    出挙参萬束     負死伯姓伍伯伍拾参人   免税壹萬参仟陸拾束     未納貳仟壹拾貳束     負伯姓壹伯参拾捌人     定納穎稲貳萬貳仟参伯玖拾貳束   本一万四千九百廿八束 利七千四百六十四束 とあ り 21 、出挙した三万束の中から回収できたのは二万二三九二束に過 ぎない。これは天平四年から九年にかけては干魃や飢饉、災異、疫病 が頻りに起きたためであ る 22 。   しかし、公出挙の場合、その利子は年五 割 23 に達し、私出挙の半額の 利子ではあるものの、利を生むのである。すなわち、ここでも一万四 九二八束から利として七四六四束を得ているのである。天平四年から 九年にかけて死亡者などの多いことは特例であり、してみると順調な ら ば 利 を 生 む こ と が 期 待 さ れ る の で あ る。 正 税 は 正 倉 に 納 め ら れ れ ば、鼠害や風水害などからして減損するばかりであ る 24 が、出挙するこ とによって利益を生むものとなるのである。当時の農民は春の種籾、 秋口の食糧不足に悩んでいたことからし て 25 、借用する者が多く、ため に村落規模で展開されていた私出挙を抑制するならば公出挙による利 益 は 確 実 に あ っ た の で あ り 26 、 そ の こ と は﹁ 其 官 物 欠 負 未 納 之 類。 以 レ 玆 令 レ ﹂ と あ る こ と か ら う か が わ れ よ う。 民 間 よ り 低 利 で は あ っ て もそこに﹁官物﹂の欠負未納などをもその利子でもって補塡できるだ けの利益をともなうものであったのであ る 27 。国司借貸方式は国衙さら にそれを担当する国司に利益をもたらしたのであり、故にこの方式は 拡大されることとなるのである。     ︵二︶   正税出挙の利益と徴税方法の変化   この正税出挙の大規模化によってもたらされた利益が何に向けられ たかである。もとより公廨稲制度によって国司はその得分を得ること ができることとなるのであるが、その一つとしてまず国衙運営の費用 の確保があげられるのではないか。これまでは租を農民からとり、そ れを財源として国衙が運営されてきた。しかし国衙財政を田租のみで ま か な う こ と は か な り 困 難 な こ と で あ っ た よ う で、 そ れ は﹃ 続 日 本

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[五] ―88― 紀﹄大宝元年六月己酉条において﹁国宰郡司。貯 二置大税。必須 レ 法﹂とあることから察することができる。この段階で想定以上の大税 すなわち田租が国衙の運営に充てられていたことが察せられるのであ る。田租のみで国衙の運営ができなければ、田租を出挙し、その利を 国衙財政に組み込むこととなろうが、しかし簡単に国衙が出挙できた わけではないことが注意される。既に民間による私出挙が広範にしか も伝統的におこなわれ、それに食い込むのが難しかったからである。 このような状況の中で個別財源の確保をもかねたとまでは断言できな いが、国衙財政を田租と正税出挙でまかなおうとして、正税出挙など の拡充が画されることとなったのである。   注意されることは先の天平一七年の制では﹁其官物欠負未納之類。 以 レ玆令塡﹂とあることである。公廨稲によって官物欠負未納之類が これによって補塡されるのであり、それは国衙財政の充実につながる ことは言うまでもないことであろう。   注意されることは、このことは一方で官物の欠負未納の補塡を通じ て中央財政にも貢献しうるものであったことである。すなわち賦役令 土毛条には    凡土毛臨時応 レ用者。並准当国時価。々用郡稲 とあり、土毛は郡稲から出すべきとされ、また賦役令諸国貢献物条に は    凡諸国貢献物者。皆盡 二当土所出。其金。銀。珠。玉・・及珍異 之類者。皆准 レ布為価。以官物市充。 ・・ と あ り、 官 物 を 貢 献 物 の 財 源 と す べ き と さ れ て い る。 こ こ に 見 え る ﹁ 官 物 ﹂ で あ る が、 天 平 一 〇 年 頃 成 立 し た﹃ 令 集 解 ﹄ 所 引 の 古 記 28 は 賦 役令諸国貢献物条において官物を﹁郡稲﹂と注し、これは穴説も同様 である。朱説は﹁正税﹂とするが、意味は同様である。このようにみ るとそれは﹁郡稲﹂と解され、儀制令元日国司条において元日の儀式 におこなう儀礼のための﹁其食以 二当処官物及正倉充﹂についての義 解 の ﹁ 官 物 者 。 郡 稲 也 。 正 倉 者 。 正 税 也 ﹂ と の 理 解 に つ な が る 29 。 早 川 庄八氏はこれを不動穀、動用穀、出挙雑物と解す る 30 が、学令釈奠条に ﹁凡大学国学。毎 レ年春秋二仲之月上丁。釈奠於先聖孔宣父。其饌酒 明 衣 所 レ須。 並 用 二 物 一 と あ る こ と が 注 意 さ れ る。 大 学 は 中 央 に 置 かれていることから釈奠の費用に﹁郡稲﹂を充てることはできず、し た が っ て﹁ 官 物 ﹂ を﹁ 郡 稲 ﹂ と の み と 解 す る こ と は で き な い。 ﹃ 続 日 本紀﹄天平四年八月壬辰条には﹁節度使所 レ管諸国軍団幕釡有欠者。 割 二 今 年 応 レ 官 物 一 充 レ 速 令 二 備 一 と あ る こ と が 注 意 さ れ る。 ﹁応 レ京官物﹂は調庸物と考えられ る 31 ことからして、賦役令諸 国貢献物条における﹁官物﹂が実質的に﹁郡稲﹂を指すにせよ、国衙 財政が充実しておれば中央政府は土毛や貢献物の入手も期待できたの であり、それは中央財政への貢献に他ならない。   さらにこの国衙財政の充実は、本来政府が支出するはずの方面への 支 出 を も 可 能 と す る こ と で あ る。 天 平 二 年 の、 ﹁ 大 倭 国 正 税 帳 ﹂ に は ﹁ 依︵ 天 平 元 年 ︶ 六 月 十 日 省 符、 給 正 四 位 下 長 田 王 三 百 斛、 依 六 月 七 日 省 符、 給 従 五 位 上 田 口 朝 臣 家 主 百 斛 32 ﹂ と み え、 ま た﹁ 尾 張 国 正 税

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[六] ―87― 帳 ﹂ に も 民 部 省 符 に よ り﹁ 皇 后 宮 職 封 戸 租 料 肆 佰 伍 拾 伍 束 伍 把 伍 分 33 ﹂ を支出したとある例などはその例である。もし国衙財政に不足が生じ て い る な ら ば、 政 府 の 要 求 に 応 じ る こ と は 難 し か っ た と 考 え ら れ る が、それが天平二年の段階で展開されていたのである。正税出挙の大 規模化が展開されるならば、この方面への支出も拡大された可能性が ある。   次に注目されるのは調庸の欠負未納の補塡である。本来、調庸は賦 課 対 象 の 個 人 が 納 付 す る も の で あ る 34 が、 し か し 時 に 欠 負 未 納 が 生 じ る。それは国司の勤務評定のマイナス、中央政府の財源の減少を意味 するが、それを防ぐこととなるのである。   ところでこの公廨による﹁官物﹂の欠負未納などの補塡は、国司の 職務を全うせしむるに便なることが注意される。国守については職員 令大国条では    掌 下 社。 戸 口。 籍 帳。 字 二 百 姓 一 勧 二 農 桑 一 糺 二 所 部 一 貢 挙。 孝 義。 田 宅。 良 賎。 訴 訟。 租 調。 倉 廩。 徭 役。 兵 士。 器 仗。 鼓 吹。 郵 駅。 伝 馬。 烽 候。 城 牧。 過 所。 公 私 馬 牛。 蘭 遺 雑 物。及寺。僧尼名籍事 上 と租調、徭役などの責任を負うこととなっており、考課令最条に国司 の最として﹁強 二済諸事﹂が掲げられ、また同令国郡司条において国 司の評価は部内の戸口や耕作面積の増減などにもとづくことが規定さ れている。   具体的に見ると和銅五年五月には    太 政 官 奏 。 郡 司 有 下 繁 二 戸 口 一 増 二 調 庸 一 勧 課 二 桑 一 人 少 二 乏 一 禁 二 逋 逃 一 粛 二 盗 賊 一 籍 帳 皆 実。 戸 口 無 レ遺。 割 断 合 レ理。 獄 訟 無 レ冤。 在 レ 匪 レ懈。 立 レ 清 慎 上 其 一 ・・ 田 疇 不 レ 。 減 闕 二 調 一 籍 帳 多 レ 。 口 丁 無 レ 。 逋 逃 在 レ 。 畋 遊 無 レ 度 。 其 二 若 有 下 司 及 百 姓 准 二 三 条 一 三 勾 以 上 一 国 司 具 レ 状附 二朝集使。挙聞。 と の 方 針 が 示 さ れ 35 、﹁ 減 闕 二 調 一 な ど の 場 合 は 国 司 に は マ イ ナ ス の 勤務評定をなすと定められた。それがいま公出挙の運用に成功するな らば、いちいち各戸から徴収の実を挙げなくても、その求められた租 調などの徴収額は確保できるのである。公廨からの転用によって本来 ならマイナスの評価となるところをプラスに転じさせることも可能と なったのである。   すなわち納付するべき調庸物の量に不足が生じた場合、正税出挙で あげた利益でもってその不足分を交易により補塡することによって納 付 す る こ と が 可 能 と な る の で あ る。 正 倉 院 に 年 月 不 明 で あ る が、 「 伊 豆国那賀郡那賀郷戸主生部直安麻呂委文部益人 」 が 「 調堅魚代﹂とし て納付された﹁商布﹂が存在す る 36 。市などにおいて流通していた﹁商 布 ﹂ が 購 入 さ れ、 そ れ が﹁ 調 堅 魚 代 ﹂ と し て 納 付 さ れ た こ と を 示 す が、この例は個人がおこなった可能性がある。しかし流通している物 品を購入し、調庸物に充てると言うことは国衙でも展開されたのであ る。そのことは天平勝宝七歳︵七五五︶から八歳にかけて相模国から 東 大 寺 司 へ 売 却 さ れ た ﹁ 調 邸 37 ﹂ か ら う か が う こ と が で き る 。 栄 原 永 遠 男

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[七] ―86― 氏はこれを相模国が京の市で調庸物の確保にあたるための施設であっ たととらえてい る 38 が、国司も勤務評定がマイナスとなる調庸の欠負未 納を避けようとすれば、正税出挙の利益から費用を捻出し、時に京の 市や国府の市で求め て 39 調庸物を納付し、マイナスの勤務評定から逃れ ようとしたのであ る 40 。   さらに公廨稲制度により国司はその得分を得ることができることと な る。 全 体 と し て は 正 税 出 挙 の 拡 大 は 国 司 の 責 務 を 全 う す る に お い て、また中央省庁にとってもその支払うべき給与の財源の一つとして 使うことができるという点において、都合が良かったのである。   このように正税出挙の拡大とその結果もたらされた利益が各方面に 転用され、潤滑剤として機能したと想定されるが、注意したいことは こ こ に 地 方 政 治 の 転 換 が 隠 さ れ て い る の で は な い か と い う こ と で あ る。どのようにして税を徴収するかというそれまでの政策の基本的な 点での変質である。それまでは租を農民からとり、それを財源として 国衙が運営され、また調庸が京に運ばれて中央政府の財源とされたの であるが、それに正税出挙の利益が加わったのである。   正税を出挙して得た収入にもとづく国衙の運営は本来、構想されて おらず、あくまでもそれは租を中心としたものであったのである。そ こに正税出挙の利益が加わったのである。渡辺晃宏氏は正税・公廨と いう二本立ての財政運用は古代国家の基本構造として、国家財政を支 える重要な柱として機能すると説いてい る 41 が、本来的に正税出挙は農 民の必要に応じたものであり、私出挙によってカバーできない場合に おいて機能する性格のものであった。したがって、その貸し出しを前 提 と し、 国 庫 に 組 み 込 む と い う こ と は 想 定 さ れ て い な か っ た の で あ る。しかしいま、それが大規模に展開され、国衙の運営のみならず、 政府の財源の一部と化すに至ったのである。それまでの租税確保の方 法に変化が起きたことに注意する必要があろう。

 

天平一九年五月官奏

  次に注目したいのが天平一九年五月の太政官奏である。 ﹃続日本紀﹄ 天平一九年五月戊寅条には    太 政 官 奏 曰。 封 戸 人 数 縁 レ 少 一 所 レ 輸 雑 物 其 数 不 レ等。 是 以。官位同等所 レ給殊差。於法准量。理実不愜。請毎一戸 以 二正丁五六人中男一人率。則用郷別課口二百八十。中男五 十 一 擬 為 二 数 一 其 田 租 者 毎 二 戸 一 束 一 。 不 レ 減 一 奏可之。 とみえ、封戸の給物に差が生じないようにするため、一戸あたりの正 丁 を﹁ 五 六 人 ﹂、 中 男 を 一 人、 田 租 を 四 〇 束 と し、 郷 別 課 口 二 八 〇、 中 男 五 〇 と す る こ と と し た と あ る の で あ る。 こ の﹁ 郷 別 課 口 二 百 八 十。中男五十﹂について、沢田吾一氏は課口二八〇には次丁を含み、 五六人は五人ないし六人という曖昧なものと し 42 、時野谷滋氏は課口は 正丁のみで、五六人は五人または六人で多きにしたがう方針の下に整 数化されたとみ る 43 。

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[八] ―85―   この数値自体については後に論じることとし、この官奏そのものが いかに扱われたかであるが、 ﹃令集解﹄巻十三賦役令封戸条には    天平十九年六月一日格云。郷内戸口縁 レ多少。所輸雑物。其 数不 レ等。官議平章。損多益少。毎一戸正丁五六丁。中男一 人 一率。則用国郷別課口二百八十。中男五十。擬為定数 其 田 租 者。 毎 二 戸 一 十 束 一限。 不 レ 減 一 自 レ 以 後 永為 二恆例 とみえ、封戸に限らず﹁国郷﹂全体に及ぼされ、また田租は三〇束に 変更されて施行されたようである。果たして正丁五六人課口二八〇が 沢田氏の言うように全国の封戸または公戸のすべての統計から得られ た平均値を反映したものであるのか疑問の点はあるが、そのような数 値 に 統 一 し よ う と し た 点 は 注 目 さ れ る。 こ の 点、 ﹃ 延 喜 式 ﹄ 巻 二 十 二 民部上をみると    凡 封 戸 。 以 二 丁 四 人 。 中 男 一 人 一 為 二 戸 一 率 租 毎 レ 以 二 束 一 為 レ 。 毎 レ 満 二 口 二 百 人 。 中 男 五 十 人 。 租 稲 二 千 束 一 若 不 レ 満 二此数。通計国内塡。但遭損之年。不聴通計満給 とあり、封戸については一戸あたり正丁四人、中男一人、田租は一戸 四〇束とされており、天平一九年の官奏とは数値が異なっている。   このようにそれぞれ若干の数値の変動があり、またその数値や課口 に次丁を含むかなどをめぐって見解の相違もあるが、この法定された 数字と実勢の差をまず検討することとしたい。郷別課口二八〇、中男 五〇から検討したいが、一郷に何人の正丁や中男がいたかは意外と明 らかでない。唯一具体的なものとして﹁大宝二年御野国山方郡三井田 里 戸籍﹂の首 部 44 を掲げることができる。 三井田里戸数俉拾戸 上政戸拾壹   中下壹戸   下中壹戸   下上壹戸   下々捌戸 中政戸貳拾壹   下中伍戸 下々拾陸戸 下政戸拾捌   下上壹戸   下々拾陸戸   下中壹戸        口数捌佰仇拾仇 男肆佰貳拾貳 有位捌   正丁参   癈疾壹   次丁参   耆老壹 正丁壹佰伍拾参之中 兵士参拾貳 遣壹佰貳拾壹   鍛壹   次丁拾 少丁肆拾壹之中 兵士参 遣参拾捌 小子壹佰肆拾肆 緑児伍拾貳 癈疾伍 篤疾貳 耆老 女肆佰陸拾参 有位次女壹 正女貳佰拾貳 次女拾伍 少女肆拾 小女壹佰貳拾捌 緑女肆拾伍 耆女貳拾貳 奴 正奴参 次奴壹 少奴壹 小奴貳 婢 正婢肆 小婢参 とあるとあるのがそれである。   しかし、後述するように一郷あたりの数字にはかなりのばらつきが あり、これのみを以て代表させるわけにはいかない。そこでもう少し 範囲を広げる必要がある。幸い、沢田吾一氏のまとめた完形の戸にも とづく戸口の実数などの数値が存在す る 45 ので、それに加えて五〇戸換

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[九] ―84― 算したものも対比して示すと表1のようになる。なお、有位者の取り 扱いや残疾者などの取り扱 い 46 は不明であるので、年齢中心であること を断っておく。また戸令三歳以下条によれば三歳以下は黄、一六歳以 下小、二〇歳以下中、二一歳から丁、六一歳から老、六六歳から耆と されているので、これにしたがってい る 47 。   正 丁、 次 丁、 中 男 数 か ら 見 て み よ う。 三 井 田 里 の そ れ は 正 丁 一 五 三、次丁一〇、これに中男四一となるが、御野国全体の平均では正丁 一 九 六、 次 丁 五、 中 男 四 四、 全 籍 帳 の 平 均 数 値 は 正 丁 二 一 七、 次 丁 七、 中 男 三 八 と な る。 し て み る と、 ﹃ 延 喜 式 ﹄ 段 階 の 課 口 数 な ど に 関 する数字はここで示している実数に近いものの、先の天平一九年の改 革における数字はかなり多めの数字と言ってよい。   では田租額はどうか。これも沢田氏の先の数字をもとに戸口を整理 して示すと次の表2から5のようになる︵奴婢は省略︶   これを改めて一戸あたりとし、その授田額、それに段別一束五 把 48 に もとづいて田租額を求めると表6のようになる。無論、田地の寛狭、 田品差があるなどあるが、すべて無視してまとめたものである。なお 封 主 に は 賦 役 令 封 戸 条 に お い て ﹁ 調 庸 全 給 。 其 田 租 為 二 分 一 一 分 入 レ 官。 一 分 給 レ ﹂ と 田 租 の 二 分 一 を 給 す と さ れ て い た が、 天 平 一 一 年 五月からは全給とされてい る 49 ので、租の額はそのまま使用できること となる。   と こ ろ で 天 平 一 九 年 五 月 官 奏 で は 四 〇 束、 六 月 格 で は 三 〇 束 と あ る。いずれが正しいのであろうか。これについて時野谷滋氏は民部省 表1 完形50戸の課口数の内訳 もとの戸数の 課口・中男数 課口・中男数50戸換算の 正丁数 次丁数 中男数 正丁数 次丁数 中男数 御野 107戸 420 11 94 196 5 44 三井田里 50戸 153 10 41 153 10 41 西海道 29戸 124 5 24 214 9 41 計帳 34戸 133 4 18 196 6 26 下総 24戸注1 126 3 20 263 6 42 平均注2 217 7 38 注1 沢田氏は養老五年下総国戸籍の房戸62戸を郷戸24としている。    参考として掲げた。  2 三井田里は含まない。

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[一〇] ―83― 表4 神亀・天平年間の籍帳中完形34戸の年齢内訳 34戸 50戸換算 男 女 計 男 女 計 ∼6歳 40 43 83 59 63 122 7歳∼ 232 290 522 341 426 767 計 272 333 605 400 489 889 表5 養老五年下総国戸籍の年齢内訳 24戸 50戸換算 男 女 計 男 女 計 ∼6歳 36 31 67 75 65 40 7歳∼ 195 273 468 406 569 975 計 231 304 535 481 634 1,115 表2 大宝二年御野国戸籍中完形107戸の年齢内訳 107戸 50戸換算 男 女 計 男 女 計 ∼6歳  212  192  404 99 90 189 7歳∼  817  911 1,728 382 426 808 計 1,029 1,103 2,132 481 516 997 注 50戸換算の数値は、6歳までと7歳からの男女の実数値を換算して四捨 五入したものを示し、計欄の数値はそれぞれを足したものを示した(以下同 じ)。 表3 大宝二年西海道戸籍中完形29戸の年齢内訳 29戸 50戸換算 男 女 計 男 女 計 ∼6歳 58 64 122 100 110  210 7歳∼ 230 255 485 397 440  837 計 288 319 607 497 550 1,047

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[一一] ―82― 式上が郷別﹁二千束﹂とすることから﹁四〇束﹂が正しいとす る 50 が、 表6によれば四〇束が正しい可能性がある。   ここで実際の﹁相模国天平七年封戸租交易帳﹂をみると、その首部 に    合八郡食封壹拾参処   壹仟参佰戸   田肆仟壹佰陸拾貳町貳段貳佰 玖歩   不     輸租田壹仟貳佰肆拾肆町参段壹佰陸拾壹歩   見輸租田貳仟玖佰     壹拾町玖段肆拾捌歩   租肆万参仟佰陸拾捌束把 とあ る 51 。これを五〇戸換算などしたものが表7である。一戸換算した 場合の租稲三三束七把は一戸あたりの口分田二町二段に段別租稲一束 五把として算出される三三束と近似している。天平七年段階では封主 にはその二分の一が支給されることからすると、それの数値化と思え るが、そうではなく、その全額なのである。しかし天平一九年段階で はこの租が全給であり、そのまま支給されることとなる。してみると 天平一九年五月官奏の戸別四〇束はやや多め、六月の三〇束はやや少 なめの設定となる。   もっとも先にみたように課口数はかなり多めに設定されており、そ のことからすると国庫に入る調庸の量、封主が受け取る封物は以前よ り多くなることとなる。国庫に入る調庸はその多くが支配者層に消費 されることからすると、そこに太政官構成員の意向が反映された可能 性がある。   しかしそのことは一方でその徴収の任に当たる国司にとっては負担 表6 1戸あたりの授田額と田租額 御野 西海道 計帳 下総 平均 授田額(段) 26.6 27.6 25.0 31.4 27.7 田租額(束) 39.9 41.4 37.5 47.1 41.6 表7 相模国天平七年封戸租交易帳の換算 戸数 田数 不輸租田 見輸租田 租稲 1300戸 4162町2段209歩 1244町3段161歩 2917町9段48歩 4万3768束7把 50戸換算 160町1段 47町8段 112町2段 1683束4把 1戸換算 3町2段 1町0段 2町2段 33束7把 (50戸換算・ 戸換算の田数は段以下、租稲は把以下切り捨てている)

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[一二] ―81― となるはずである。それは調庸の欠負未納につながるが、ここで想起 されるのが前章における正税出挙の拡大であり、それによる欠負未納 の補塡である。すなわち、納付するべき調庸物の量に不足が生じた場 合、正税出挙であげた利益でもってその不足分を交易により補塡し、 納付するのである。このことからすると、正税出挙の拡大によっても たらされた利益でもって、本来の規定よりも多くを納付することも可 能となり、それを背景として天平一九年五月官奏において法定収量の 設置がなされたと考えられるのであり、それは太政官構成員にプラス となることであったのである。 一 つ 注 意 し な け れ ば な ら な い こ と は、 農 民 の 動 向 を 把 握 す る 度 合 いの低下である。一郷に何人が居住し、どれだけの田地を耕作してい るかはかつては国衙財政・国家財政の基盤をなしていた。それが、法 定化されたのである。このため、農民の動向には以前ほど注意が払わ れなくなるのである。先にみた和銅五年五月の太政官奏の方向とは異 な っ て お り、 そ の 意 味 で は 従 来 の 理 念 と は 異 な る 理 念 の 下 に 国 衙 財 政・国家財政の運用が展開されることになったと言うべきであろう。

 

土地制度の変化

に 土 地 制 度 の 変 化 か ら 検 討 す る こ と と し た い。 周 知 の よ う に 天 平 一 五 年 に 墾 田 永 年 私 財 法 が だ さ れ る。 ﹃ 続 日 本 紀 ﹄ 天 平 一 五 年 五 月 乙 丑条は    詔 曰。 如 レ聞。 墾 田 依 二 老 七 年 格 一 限 満 之 後。 依 レ 収 授。 由 レ 是。農夫怠倦。開 レ地復荒。自今以後。任為私財。無三世 一身 一。悉咸永年莫取。其親王一品及一位五百町。二品及二位四 百町。三品四品及三位三百町。四位二百町。五位百町。六位已下 八位已上五十町。初位已下至 二于庶人十町。但郡司者。大領少領 三 十 町。 主 政 主 帳 十 町。 若 有 三 給 レ 過 二 玆 限 一 便 即 還 レ公。 作隠欺。科 レ罪如法。国司在任之日。墾田一依前格 とする。ここに見える養老七年︵七二三︶格とは﹃続日本紀﹄養老七 年四月辛亥条の    太 政 官 奏。 頃 者。 百 姓 漸 多。 田 池 窄 狭。 望 請。 勧 二 天 下 一 開 二 闢 田 疇 一 其 有 下 溝 池 一 営 二 墾 一 不 レ 少 一 給 伝 二 三世 一。若逐旧溝池。給其一身。奏可之。 のことである。しかしこの﹃続日本紀﹄天平一五年五月乙丑条の記事 は﹃令集解﹄巻一二田令荒廃条では    養老七年格云。其依 二旧溝墾者。給其身一身也。新作堤防 者。 給 伝 二 世 一也。 国 司 不 レ合。 天 平 一 五 年 五 月 廿 七 日 格。 勅。 如 レ聞。 墾 田 縁 二 老 七 年 格 一 満 之 後。 依 レ 収 授。 由 レ 農 夫 怠 倦。開地復荒。自 レ今以後。任為私財。无三世一身。悉咸 永年莫 レ取。 其国司在 レ任之日。 墾田一依 二前格 但人為 二田占 地 者。 先 就 レ 申 請。 然 後 開 レ之。 不 レ 占 二 百 姓 有 レ 之 地 一 若 受 レ 之 後。 至 二 年 一 本 主 不 レ 者。 聴 二 人 開 墾 一 其 親王一品及一位五百町。二品及二位四百町。三品四品及三位三百

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[一三] ―80― 町。四位二百町。五位一百町。六位以下八位以上五十町。初位以 下 至 二 庶 人 一 十 町。 但 郡 司 者。 大 領。 少 領 卅 町。 主 政。 主 帳 十 町。若有 三先給地数過多玆限。便即還公。作隠欺。以法科罪。国司在任之日。墾田一依前格 とされており、また﹃類聚三代格﹄巻一五所収天平一五年五月二七日 格では    勅。墾田據 二養老七年格。限満之後依例収獲。由是農夫怠倦開地復荒。自今以後。任為私財三世一身。悉咸永年莫 レ 取。其国司在 レ任之日。墾田一依前格。但人為田占 地者。 先就 レ国申請。然後開之。不玆占請百姓有妨之地。若 受 レ地之後。至于三年。本主不開者。聴他人開墾 とされている。   やや異同があるが、これについて吉田孝氏は﹃令集解﹄は弘仁格を 写したあと﹃続日本紀﹄を付加したものとした上で、①三世一身にも とづく収公は広範におこなわれなかった可能性が強く、②天平一四年 には班田図が作成されるが、この過程で墾田収公の得策でないことを 知った為政者は墾田は永年収公しないという画期的な決断を下したも のの、③しかし為政者は養老七年格のように﹁不限多少﹂としたので は身分の低い豪族が大規模な墾田地の占定が予想されるとして、その 対策として私財法で制限規定をしたものとし、④この制限規定は田令 による位田などの階層的秩序を墾田を含めて再編成しようとしたもの で、田令の全面的否定ではないとし、⑤私財法は田令の重要な部分を 崩したが、土地に対する支配の深化の中から生まれたもので、制限規 定は現実には未墾地の大規模な選定を促進したものであり、⑥制限規 定が弘仁年間までに何故無効とされたか不明、とす る 52 。また、これに 関して⑦田令荒廃条古記が﹁荒地。謂未熟荒野之地。先熟荒廃者非。 唯荒廃之地。有能借佃者判借耳﹂と、荒地と荒廃地︵田が荒廃したも の︶を区別していることから、大宝令に荒地規定があり、荒地には借 佃に関する規定が適用されないと述べているとみて、大宝令には荒地 には借佃に関する規定を適用しないとの法文があったとし、大宝令に は百姓墾田の収公規定無しとし、すなわち建前としていつでも収公で きたが、しかし私功を加えたものは口分田よりも難しいとした上で、 ⑧私財法は開墾予定地の占定手続きやその有効期間を明確化したもの で田地に対する支配体制を深化させたものとし、開墾された土地は輸 租田として田図に登録しており、田地に対する支配権は後退していな いとし、⑨しかも占定面積を律令官人の位階に応じて制限しており、 これは隋唐的な律令体制を基準にすると私財法は律令体制的な制度に ほかならず、私財法は日本の班田制に欠如していた要素を補完したも のとし、⑩開田のすべてが見作田とならない農業技術の段階では見作 田の面積を直接制限することは技術的に困難であるとして、むしろ開 墾予定地の占定を制限する方がより現実的な規制方法であったとみて い る 53 。 れ に 対 し て 坂 上 康 俊 氏 は ① 大 宝 田 令 荒 廃 条 に お い て 古 記 が ふ れ て いる荒地は唐令には確認できないもので、その荒地を条文に含めた理

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[一四] ―79― 由は荒地規定を独自に挿入しなければならないと考えた理由を説明す る 必 要 が 生 じ た、 す な わ ち、 後 半 部 で 地 方 官 の 開 墾 に 言 及 し て い る が、前半の荒地は一般庶民の開墾となる﹁百姓墾﹂への対応のためと 考えられるとし、大宝令制定時点で全くあらたな開発田の出現が十分 に予想されたために、その取り扱いや班田収授制に取り込む規則も用 意したのであるとし、その上で、②私財法に対する吉田氏の荒地の開 発とそれによってできた熟田を漸く国家の規制下に置けるようになっ たとの評価を疑問とし、③私財法が限度額を定めようとしたとき、唐 の 永 業 田 の 規 定 を 参 照 し た 可 能 性 は な い と は 言 え な い が、 庶 人 の 場 合、唐では二〇畝を超す分は口分田にされ、国家による均田制サイク ルに回収されるが、私財法では墾開者に処分権が認められており、墾 開地の耕作が続く限り班田収授のサイクルにはいることはないとし、 ④私財法は庶人についても私的土地所有の確実な一歩であり、吉田説 は 私 財 法 と 均 田 制、 官 人 永 業 田 の 相 似 し た 面 を 強 調 し す ぎ て い る と し、⑤大宝令の制定時点で庶人の開発にも明確な構想と意思をもって いたが、私財法はその構想、意思の一部放棄を宣言したもので、⑥こ の法により、国家によると田地把握が深化したと評価できず、また唐 均田制に近づいたとも言えないとし、⑦しかしだからといって国家に よる土地把握を危殆に陥れたわけではなく、経済政策面からは私財法 は土地所有への欲求を刺激して国家の財政基盤を拡大させるための施 策であったと説いてい る 54 。   荒地開墾規定が大宝令ではどう規定されていたかが鍵を握るが、荒 廃条の位置づけについては諸説あ る 55 。これは大宝令文が不明なためで ある。すなわち養老令では    ❶凡公私田荒廃。    ❷三年以上。有 二能佃者。経官司判借之。    ❸雖 二隔越亦聴。    ❹私田三年還 レ主。公田六年還官。    ❺限満之日。所 レ借人口分未足者。公田即聴口分    ❻ 私 田 不 レ 。 其 官 人 於 二 部 界 内 一 有 二 閑 地 一 者 。 任 聴 二 種 一    ❼替解之日還 レ公。 と規定されている。大宝令の注釈である古記は❷にあたる大宝令の箇 所に対して    荒 廃 三 年 以 上。 謂 堤 防 破 壊 不 レ 理 一 仍 有 二 修 理 一 者。 判 佃 之 也。 主 欲 二 佃 一 盡 二 主 一 謂 他 人 先 請 二 佃 一 経 二 司 一 訖 。 後 主 聞 二 人 佃 一 而 未 レ 佃 一 。 縱 雖 二 申 一 令 二 佃 一 開 元 令 云 。 令 二 借 一 不 レ耕。 経 二 年 一者。 任 二 力 者 借 之。 即 不 二 加 功。 転 分 二 人 一者。 其 地 即 廻 二 見 佃 之 人 一 若 佃 人 雖 二 経 レ熟訖。三年之外。不種耕。依式追収。改給也。荒地。 謂未熟荒野之地。先熟荒廃者非。唯荒廃之地。有 二能借佃者。判 借耳。   ❻にあたる箇所に対して    任聴 二営種。謂告同官知之也。

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[一五] ―78―   ❼にあたる箇所に対して    替 解 日 還 レ 収 授。 謂 百 姓 墾 者。 待 二 身 亡 一 即 収 授。 唯 初 墾 六 年 内 亡 者 。 三 班 収 授 也 。 公 給 熟 田 。 尚 須 二 年 之 後 一 授 。 況 加 二 功 一 未 レ 哉。 挙 レ 明 レ 義。 其 租 者。 初 耕 明 年 始 輸 也。 開 元式第二巻云。其開 二荒地。経二年熟。然後准例。養老七 年格云。其依 二旧溝墾者。給其身一身也。新作堤防墾者。給 伝 二三世也。国司不合。天平十五年五月廿七日格。勅。如聞。 墾田縁 二養老七年格限満之後。依例収授。由是農夫怠倦。開地 復 荒。 自 レ 以 後。 任 為 二 財 一 无 レ 世 一 身 一 悉 咸 永 年 莫 レ 取。 其 国 司 在 レ 之 日。 墾 田 一 依 二 格 一 但 人 為 二 占 地 者 。 先 就 レ 申 請 。 然 後 開 レ 。 不 レ 占 二 百 姓 有 レ 之 地 一 若 受 レ地之後。至三年。本主不開者。聴他人開墾。其親王一品及 一位五百町。二品及二位四百町。三品四品及三位三百町。四位二 百 町。 五 位 一 百 町。 六 位 以 下 八 位 以 上 五 十 町。 初 位 以 下 至 二 庶 人 一十町。但郡司者。大領。少領卅町。主政。主帳十町。若有 給 レ地数過多玆限。便即還公。作隠欺。以法科罪。国司在任之日。墾田一依前格 と註しているが、これのみでは大宝令の全文を完全に復原することが できないためである。   しかし、近年発見された北宋天聖令が状況を一変させた。すなわち 唐令は永徽令から開元三年令を経て開元二五年令に至るが、大宝令は 永徽令を参照してい る 56 。その永徽令も不完全にしか復原できないが、 この度発見された北宋天聖令にはそれまで完全な形で知ることのでき なかった開元二五年令が完整な形で保存されていたのである。それに は    諸公私[田]荒廃三年以上、有能[借]佃者、経官司申牒借之、 雖 隔 越 亦 聴。 ∧ 易 田 於 易 限 之 内、 不 在 備︵ 倍 ︶ 限。 ∨ 私 田 三 年 還 主、公田九年還官。其私田雖廃三年、主欲自佃、先尽其主。限満 之 日、 所 借 人 口 分 未 足 者、 官 田 即 聴 充 口 分。 ∧ 若 当 県 受 田 悉 足 者、 年 限 雖 満、 亦 不 在 追 限。 応 得 永 業 者、 聴 充 永 業。 ∨ 私 田 不 合。 [ 令 ] 其 借 而 不 耕、 経 二 年 者、 任 有 力 者 借 之。 則︵ 即 ︶ 不 自 加功、転分与人者、其地即回借見佃之人。若佃人雖経熟訖、三年 [之]外不能耕種、依式追収、改給。       ∧∨は本文註、 [ ]は補入、 ︵ ︶は衍字・誤字。 とあったのであ る 57 。   この開元二五年令は開元三年令、さらには大宝令が手本とした永徽 令と近いとして、服部一隆氏は大宝田令荒廃条を    凡公私荒廃三年以上、有 二能佃者、経官司判借之。雖隔越 聴。私田三年還 レ主、公田六年還官。其私田雖三年、主欲 二 自 佃 一 尽 二 主 一 限 満 之 日 、 所 レ 人 口 分 未 レ 者 、 公 田 即 聴 レ 充 二口分。私田不合。其官人於所部界内、有荒地佃者、 任聴 二営種。替解之日還官収授。 と 復 原 し た 58 。 そ の 上 で、 大 宝 令 は 唐 令 の﹁ 請 ﹂ に あ た る 未 墾 地 の 開 墾 規 定 を 削 除 し、 ま た 借 佃 規 定 は 郡 司 と 百 姓 の 別 も 定 め ら れ て い な

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[一六] ―77― かった大宝以前では想定が困難で、そこで借佃規定であった条の内、 不要となった後半部分に荒地という唐田令の字句を利用した未墾地の 開墾規定を挿入したもので、荒地の百姓開墾は大宝令では想定外にお かれていたとす る 59 。 の よ う に 服 部 氏 は、 百 姓 墾 に つ い て の 規 定 は 存 在 し な か っ た と と らえたが、しかし 坂上康俊 氏はその規定は存在していたとみてい る 60 。 論が分かれているのであるが、これについては当初からその存在は想 定されていたと考える。法文としての明確な規定は見当たらないが、 義解が同条において、位田、賜田、口分田、墾田を私田とすると註し て い る 61 こ と が 注 意 さ れ る。 既 に 墾 田 の 存 在 が 想 定 さ れ て い る の で あ る。これが義解の註であることから後世の観念によるものとの見方も できるが、荒地について︵ア︶において﹁開元式﹂の引用にせよ古記 が ふ れ て い る こ と、 ま た、 同 様 に︵ イ ︶ に お い て﹁ 替 解 日 還 レ 収 授。謂百姓墾者。待 二正身亡。即収授。唯初墾六年内亡者。三班収授 也。 ・・﹂ と﹁ 初 墾 ﹂ を も 念 頭 に お い た﹁ 百 姓 墾 ﹂ に ふ れ て い る こ と は百姓による荒地開墾の存在が想定されていたことを示すものであろ う。 ﹁ 公 私 荒 廃 ﹂ の 私 田 に は 私 が 開 墾 し た 墾 田 が 含 ま れ る 以 上、 百 姓 にしろ、王臣であれ、開墾はしてお り 62 、それを念頭に置いていないと いうのは不思議であるからである。とすると、百姓墾は展開されてい たのである。   ところで私財法については、旧来は私的土地所有の端緒となり、公 地公民制の解体ととらえられてきた。例えば石母田正氏は﹁直接には 東大寺及び大仏造立計画のための法令であり、その後の各階層からの 大量の施入は政府の政策の成功を物語るものであるが、そのために土 地国有制と原則的に矛盾するかかる法令の発布を見たことは王臣家、 社 寺 等 お よ び 地 方 豪 族・ ﹁ 殷 富 の 百 姓 ﹂ の 基 本 的 利 害 が 自 由 な 土 地 私 有権の獲得にあったことを明瞭にしている﹂と述べてい る 63 。これに対 して吉田孝氏は田地に対する支配体制を深化させようとしたも の 64 、坂 上康俊氏は私的土地所有の端緒として評価すべきと し 65 、評価が分かれ ているが、それに至る政策の変遷からして石母田氏、坂上氏にしたが う。すなわち﹃続日本紀﹄慶雲三︵七〇六︶年三月丙辰条では    ・・ 頃 者。 王 公 諸 臣 多 占 二 沢 一 不 レ 種 一 競 懐 二 婪 一 空 妨 二地利 一 。・ ・自今以後。不 レ更然。但氏々祖墓及百姓宅辺。 栽 レ樹為林。并周二三十許歩。不禁限 とし、また和銅四︵七一一︶年一二月丙午条では    詔 曰。 親 王 已 下 及 二 強 之 家 一 多 占 二 野 一 妨 二 姓 業 一 自 レ 以 来。 厳 加 二 断 一 但 有 下 空 閑 地 一 宜 経 二 司 一 然 後聴 二官処分 とし、王公諸臣や豪強之家の土地私有が制限されているのであ る 66 。両 者の差違は明らかであろう。確かに養老七年格が﹁開 二闢田疇。其有 下 新 二 溝 池 一 営 二 墾 一 不 レ 少 一 給 伝 二 世 一 若 逐 二 溝 池 一。給其一身﹂とし、面積を﹁不多少﹂とすることからみる と、天平一五年の私財法は面積に上限を設けており、その意味では制 限を加えたかにみえる。しかし一方で永年の私財とすることを認めて

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[一七] ―76― いるのである。養老年間の土地政策は﹁百姓漸多。田地窄狭﹂の故に あくまでも班給すべき口分田のための田地の拡張をはかったものであ り 67 、開墾された土地は最終的に国家に帰属することとなっており、公 地公民制、換言するならば律令制の土地制度の枠内に収まるものであ る。それを私財法は養老の政策が失敗したと位置づけるものの、田地 拡張策を維持する一方、新たに上級官人層の土地所有に道を開いたの である。このことは坂上氏の説くように上級官人層の意向を受けて方 針転換がなされ た 68 と言えよう。その意味では、私財法はかつては禁じ ていた土地の開墾私有を認めたものと評価すべきなのである。 の よ う な 政 策 が 何 故 出 さ れ た か で あ る。 吉 田 氏 は 先 に み た よ う に 田地に対する支配体制を深化させようとしたものととらえてい る 69 。確 か に 田 図 の 作 成 な ど、 墾 開 地 な ど に 対 し て も 支 配 は 継 続 さ れ て い る が、しかしそのことは私財法がなくてもなし得ることではないか。そ うであれば従来とは異なり、土地の私有自体を認めさせようとした上 級 官 人 層 の 意 向 を 反 映 し た も の と と ら え る の が 妥 当 で あ ろ う。 ﹃ 続 日 本紀﹄や﹃令集解﹄巻一二田令荒廃条所引天平一五年五月廿七日格は ﹁ 勅。 如 レ ﹂ と し て 私 財 法 が 出 さ れ て い る。 こ の 点、 養 老 七 年 格 は ﹃ 続 日 本 紀 ﹄ に よ れ ば﹁ 太 政 官 奏 ﹂ を 受 け て い る が、 官 奏 の 手 続 き 70 か ら し て も、 ﹁ 太 政 官 ﹂ 構 成 員 の 意 図 が 背 景 に あ っ た と 考 え ら れ る の で ある。   確 か に 養 老 七 年 格 が ﹁ 開 二 田 疇 一 其 有 下 新 二 溝 池 一 営 二 墾 一 不 レ 少 一 給 伝 二 世 一 若 逐 二 溝 池 一 給 二 一 身 一 と し、 面 積 を﹁ 不 レ 少 一 と す る こ と か ら み る と、 天 平 一 五 年 の 私 財 法 は 面 積に上限を設けており、その意味では養老七年格以前の土地政策を踏 襲しているかに見える。しかし﹁其親王一品及一位五百町。二品及二 位四百町。三品四品及三位三百町。四位二百町。五位百町﹂との制限 額は、田令位田条の、一品八〇町、二品六〇町、三品五〇町、四品四 〇町、正一位八〇町、従一位七四町、正二位六〇町、従二位五四町、 正 三 位 四 〇 町、 従 三 位 三 四 町︵ 以 下 略 ︶、 田 令 職 分 田 条 の 太 政 大 臣 四 〇町、左右大臣三〇町、大納言二〇町との規定と比較して、私財法の 発令当初においては十分な広さと認識されていたのではない か 71 。また 一方で永年の私財とすることを認めているのである。このことからし て、私財法は上級官人層の意向をもとに、かつては禁じていた土地の 開墾私有を認めたものであり、それまでの政策を大きく転換したもの と言えよう。

天平期の政策と律令制

  以上、天平期になされた主要な改革についてみてきたのであるが、 正税出挙の大規模とそれを背景とした法定収量の設置はそれまでの律 令法の枠から抜け出していること、また土地政策の変更は上級官人層 の意向を反映し、それまでの土地政策のあり方を一八〇度転換させた ものであることが注意される。   すなわち正税出挙の大規模化は、後に出挙することなしに出挙を受

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[一八] ―75― けたものとしてその利子に当たるものを税として納付させることとな る 72 こともさることながら、官物の欠負未納の補塡を可能とすることか ら国衙財政さらに政府の財政に寄与すること、それをもとに法定化さ れた数字にもとづく収取が展開されることとなることが重要なのであ る。また天平一九年五月官奏に始まる改革は課口数を多く見積もるこ とから、調庸の増徴に寄与する一方、封主への封物増加をもたらすこ とを意味するが、これを可能とするのは正税出挙の大規模化にともな う利益であった。このことはそれまでの国衙や政府の財政のあり方と 異なるものである。さらに土地政策の変更はそれまでも優遇されてい た上級官人層をさらに優遇する側面をもつものであるが、とくに留意 したいことは、それまでは禁じていた土地私有を認めたことである。 れ ら を い か に み る か で あ る。 吉 田 孝 氏 は、 土 地 政 策 の 変 更 を 唐 の 制 度 に よ り 近 づ こ う と し た も の で、 私 財 法 は 律 令 体 制 的 な 制 度 で あ り、 日 本 の 班 田 制 に 欠 如 し て い た 要 素 を 補 完 し た も の と と ら え る 73 一 方、それまでの軌道修正とみてい る 74 。すなわち、日本は国家建設を急 ぎ、その青写真として隋唐の律令制度の導入をはかったのであるが、 天平期にその軌道修正が図られたとするのである。また小倉真紀子氏 は、公廨稲制度の拡大、正税出挙の拡大について、官司が個別に財源 を保有し、その運用についての責任を各官司が負う、という唐に倣っ た財政構造の導入が当時の日本の政府の目標とするなら、在京官司の 公廨銭、諸国の公廨稲は律令支配の動揺を示すものではなく、律令制 の段階的な導入の一環であるとみ る 75 。   これらの側面があることは否定できない。しかし吉田説については 私財法は上級官人層の意向をもとに、かつては禁じていた土地の開墾 私有を認めたものであり、それまでの土地政策を一八〇度変更したも のであった点、小倉説については天平一九年五月官奏に始まる改革を も考慮するならば、国衙や政府の財政そのもののあり方と異なるもの であり、税の確保のあり方を転換するものであった点が注意される。 吉田氏、小倉氏はともに唐の制度に倣おうとして、天平期の改革がな されたとみているのであるが、日本はいまだ封建制以前の段階にとど まってい た 76 のに、国家建設の範を封建制の域に達していた唐に求め、 律 令 制 を 敷 い た の で あ る。 し か し 唐 の 制 度 を よ り 深 く 知 る に し た が い、より唐の制度に近づこうとし、既に唐で展開されていた封建的な 部分をも、律令文とは別に導入をはかったのである。このことをいか に評するかであるが、石母田正氏はなおも律令制の存続する点に重点 を置いてとら え 77 、吉田氏、小倉氏はこれを律令制が社会に浸透してい く過程で起きた軌道修正と位置づけた。しかしそれ以上の変化が起き たのではないか。   従来の体制の軌道修正などと解すると、一方で奇妙なことが生じる ことが注意される。それは唐の制が封建制を前提とし、その一方で皇 帝の絶対制を唱えているのに対し、天皇専制については論が分かれる もの の 78 、封建制以前の体制下にある日本が唐の制に倣うというのであ る。唐に倣って専制を敷いて上級官人層の権利を制約する、もしくは 唐の制を離れて専制を廃止して上級官人層の権利を拡大するのであれ

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[一九] ―74― ば理解できるが、ここでは唐の制度に倣うとしながらも、上級官人層 の権利が拡大されており、 ﹁ねじれ﹂が生じているのである。   このようにみてくると、問題は天平期の改革を単に軌道修正などと とらえ、律令制をより唐の制に近づけるものであったとみなすのか、 それとも上級官人層の利益を優先し、それまでの日本の体制を軌道修 正以上に変更しようとしたものであったとみなすというのかと言う点 にあることとなる。したがって、唐の体制の模倣以上に上級官人層の 優遇がなされたのかが焦点となる。   この点、吉田氏は私財法は墾田地を位田や口分田、郡司職田のほぼ 五倍を目処として大雑把に制限額を定めたものであり、実質的にはそ の半分程度が墾開されたものと説いてい る 79 。しかし表8にみるように 日本の上級官僚に対する給付は唐以上になされていたのである。唐の 上級官人層も当然ながら優遇されているのであるが、日本の方はその 唐よりもより多くの給付額を上級官人のために設定していたのに、さ らに多くの土地の開墾を認めたのである。このことは律令の模倣以上 に上級官人層の優遇が画されたことを意味する。律令に規定された以 上の優遇策を上級官人層が意図し、それは実行に移されたのである。 このことは単に唐令の模倣と言うことはできず、そこに上級官人層の 意向が働いたとみるべきであるが、注意されることはこの土地の私有 は、国家から支給される俸禄に依存する体制から、独自にまかなうこ とのできる方向へと変化することである。土地を開墾し、耕作し続け るならば、その地は永遠に個人のものとして認められ、その土地から 表8 唐と日本の上級官人の優遇度* 唐 比率 大宝令 比率 口分田 丁男1頃  1 口分田男2段  1 永業田・位田 永業田親王100頃〃 職事正一品60頃 10060 位田一品80町〃 正一位80町 400400 京官職分田 一品12頃 12 太政大臣40町 80 在外諸司職分田 二品12頃 12 大宰帥10町 50 *上級官人のそれは最高位の者に対する給付額を示した。  また比率は成人男子一人を基準とする。

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[二〇] ―73― の生産物は土地所有者に帰属することとなるのである。   上級官人層は自らの利益のために、唐の制度に近づくことを掲げる 一 方、 そ の こ と を 通 し て 国 家 の あ り 方 に つ い て も 変 更 さ せ た の で あ る。先にふれたように、日本はいまだ封建制以前の段階にとどまって いたのに、国家建設の範を封建制の域に達していた唐に求め、律令制 を敷いたのであるが、唐の制度をより深く知るにしたがい、より唐の 制度に近づこうとし、封建的な部分も、律令文とは別に導入をはかっ たのである。少なくとも唐で展開されている封建制的な要素が色濃く なったのである。   注意されることは、政治体制はそれまでを踏襲し、また、律令法文 の多くも同様であったことである。このため、天平期の改革にもかか わらず律令制は継続され、天平期の改革は軌道修正に過ぎないと評価 されることにもなったのである。しかし天平期の改革によって当初の 律令制のあり方とは大きく異なったものとなったのである。確かに支 配者層が、農民から集めた物を自由に使いつつ国家を運営するという 点では変わりはないが、しかし農民からの税の取り方、土地制度のあ り方は当初のものと異なったものとなったのである。その意味では当 初の農民から税を取り、その税で国家を運営するとともにその基礎と してある土地は公のものとして成り立つ律令制は終わりを告げ、その 外殻をまとった異なる体制が出現したと位置づけられるのである。支 配者層が律令法を掲げ、従来と同じく農民から徴収したものによって 国家運営をおこなうことが続いていることから、当初の体制を軌道修 正したと言えないことはないが、支配者層が律令制を掲げる点は同じ でも、国家運営のための収入は得られさえすれば手段は問わないとの 考えに変わり、国家が直接農民を把握するという方向から逸脱し、国 家運営にあたる上級官人にしても、国家から支給される俸禄に依存す る 体 制 か ら、 独 自 に ま か な う こ と の で き る 方 向 へ と 変 化 し た の で あ る。当初とは似て非なる体制がスタートしたことを重視するならば、 軌道修正以上の改変がおこなわれたのである。

おわりに

  以上、天平期の改革について、その主要と考えるものに絞って検討 した。   この天平期の改革を唐の制度に近づこうとしたものとの評価もなさ れているが、唐のそれが封建制段階のものであることからして、もし 唐の制度に近づこうとしたのであれば、それは古代的な日本律令制か らの転換を図ることになる。すなわち土地は国家のみが管理する段階 か ら 上 級 官 人 層 や 大 寺 社 の 土 地 所 有 が 認 め ら れ る 段 階 へ の 変 更 で あ る。また、農民が納める租税による国家運営を原則とした段階から公 出挙収入などによる国家運営の段階へ、すなわち国衙や政府の収入さ え確保できればその手段は問わない段階への移行である。国家運営の 方式が大きく変化したのである。   表 面 的 に は 律 令 制 は 当 初 の 外 殻 を ま と い な が ら、 以 後 も 永 き に わ

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