〈Sommario〉
La RES PUBLICA artistica e letteraia è nata e coltivata, storicamente fin dall’ antichità greco-romana persino ai nostri tempi, soltanto in salotto, anche se nella corte imperiale oppure nella casa privata della nobiltà o della borghesia in Europa. La salonnière è la donna di cultura, che sa bene accogliere ogni tipo di persone di talento a casa sua, per migliorare la qualità della vita intellettuale e umanitaria nell’ambiente senza confine, per così dire, cosmopolita. La Belle Époque era il periodo molto particolare in Europa, che ha raggiunto la grande fioritura della civiltà cosmopolita, grazie alla scoperta della nuova tecnologia finora sconosciuta, e anche al dominio del mercato mondiale attraverso la colonizzazione dei Paesi Afroasiatici.
Anne George Marion Vivanti, chiamatasi artisticamente Annie Vivanti, era una delle più brave salonnières-écrivains del tempo, ed anche una scrittrice perfettamente poliglotta, che ha avuto un buon successo nel mondo letterario europeo, pubblicando le sue opere sia in lingua inglese che in italiano. La lettura dei tre racconti vivantiani, tradotti per la prima volta in giapponese nel presente saggio di traduzione, vi presenterà la migliore repubblica letteraria della Belle Époque, caratterizzata con femminilità e cosmopolitismo di prima categoria in Europa.
IV. 《輝く妖 精》( Fata luminosa )
《輝く妖 精》とは私のこと。 こう明言すると,謙虚さを欠いている人間のように思われかねない。実のところ,書いていて 恥ずかしくなる。 それでも,ある立派な教訓譚を物語ることが狙いなので,その物語をありのままに語ることに する。 たぶんローラのお気に召すだろう。 ローラと出遭ったのは,山だった。猛暑の夏だったが,私は不埒なアルビオンの残虐行為を解 説する記事の執筆にかかりっきりで,それを意識していなかった。ある日のこと 暦 を見よう と,ふと眼を上げた時,夏がすでに遠のいていることに気付いたのだった。それに,私は田舎に 出かけていたわけではなかった。例年のように,私は標高千メートルとか 2 千メートルのところ
ベル・エポックのイタリア社交界女性とその小説世界
―アニー・ヴィヴァンティ Annie Vivanti[アン・ジョージ・マリオン・ヴィヴァンティ
Anne George Marion Vivanti](1866 1942)著短編小説集『感激 GIOIA!』
( Firenze, R. Bemporad e figlio 1921 )邦訳(その 1)
にいたのではなかった。 「一番近くの山はどこかしら」― 私は急いで帽子を被りながら,そばにいた人に訊ねた。 「マクニャーガ」との返答だった。 「善は急げ。マクニャーガへ出かけます。では,これで。」 十月のマクニャーガは誰もいなくて,マクニャーガで凍えてしまうよと,人は反論したが無駄 だった。 私は出発した。 私がそこへたどり着くと,十月の太陽 ― 一年を通して一番美しい太陽が 碧 玉 色の空に輝い ていた。モンテ・ローザ山の氷河が,眼がクラクラするくらい湯気を立てていて,巨人たちの 蹴球試合のような轟音とともに,斜面で雪崩が発生して崩落した。 マクニャーガには誰もいなかった。 その方が好都合だった。太陽と雪の栄光のすべてが,私ひとりのものだった。 私は主人不在のまま支払をした。マクニャーガの主人は旅館を閉じていた。もし松林や氷河で 野宿したくなければ,彼と共に平野まで降りていかねばならなかった。 私は降りていった。でも,できるだけ降りてしなわないことにする。私は山の中腹のチェッポ 村に踏み留まった。そこは,野生の長之助艸のように片足を斜面に,もう一方の足を渓流に置い た格好の心地よい僻村で,私はマリーア夫人が経営するこじんまりした《阿爾卑斯館》に宿を とった。(マリーア夫人,もし貴女がこの物語をお読みになれば,私の挨拶のことばを内心に感 じて下さるでしょう。) ローラと識り合ったのは,このチェッポ村だった。私が午後に学校のそばを通りかかると,彼 女が二,三十人の子供たちに取り巻かれていて,皆が彼女に何ごとかを大声で叫んでいるのだっ た。彼女は返事もしないで,熱っぽく大きな黒い眼で私の方をジッと見つめていた。 私は彼女にことばをかけた。顔を赤くした彼女は,やがて蒼ざめ,私の名前を呟いた。私には, 彼女の感動が大げさながらも,阿諛のように思えた。 午後,彼女は私に会いに来た。たくさんの花を持ってきてくれた。痩せている彼女は,興奮し ていて熱っぽかった。 村では,「若い女教師だって? 気の毒に! すっかりお手上げのはずだ」と噂していた。 彼女もある日,やや喘ぐように私に向かって「参ってしまうわ」と云った。その口調には,大 きな不安とある種の浪漫的な満足感とが同居していた ―「誰もがそう云っている。ミラノの 医師たちも云っていた。私に注射をしてくれる当地の医師もそうだった。何をやっても無 駄! 私もお手上げなの。」 私は,大いに同情するとともに心が痛んだ。山地を駆け巡って太陽と風に向かって上ってゆく 時,私は自分に向かって云った ―「気の毒なローラ。何も出来ない彼女は! …」樅の森で迷 い,険しい氷堆石を攀じ登って,渓流を渡ってツルツルの岩で滑りながら,膝まで凍るように冷 たい水に濡れて,氷河の十字架のところまで辿り着き,大空だけを背に眼下にひらける世界を見
渡す時,私は考えるのだった ―「疲れてはならない気の毒なローラ! …身動きならないロー ラは憐れだ…」と。 阿爾卑斯の道端で祠や十字架を見かける度に,私は立ち止まって,ローラの病気が治るように と祈りのことばを唱えた。陽光と雨で色褪せた碧い外套にくるまった小さな聖母像に出会うと, 私は「聖母さま,どうかローラを元気にして下さい」と小声で呟くのだった。 でも,内心はローラが元気になれないことは分かっていた。 ローラは,憑かれたように情熱をこめて私に縋り付いた。私は出歩く度に,立ち止まって,例 の潤んだ眼で私を見つめている彼女に出遭った。女教師は出かけなければならなかったから,学 校の女 児たちには,いつもはしゃぐ時間があった。《阿爾卑斯館》の白い扉の前と緑の窓の下を, 彼女は軽やかにゆっくりと通り過ぎていった。 そこで,ある日,私は彼女に入って来るようにと声をかけた。 それからも,彼女を呼び止めて,立ち寄って行きなさいと云った。彼女は長椅子に横になると, 書きものをする私を見ながら午後を過ごした。時には,真昼時,二人で 出 窓 に出たりした。私 に話しかけないようにと云った。それは,彼女が発熱に見舞われる時間帯だった。彼女の頬が火 照って,両手は焼けるようだった。短い黒髪が,汗ばんだ額の上にもつれていた。 彼女がやって来て去ってゆく時には,いつも私は彼女に挨拶の接吻をした。そうする度に,彼 女は私に向かってこう云った。 「有難う!」 11 月になった。太陽はチェッポ村に顔を出さなくなった。太陽が手際よく後退してゆく様子 は,まるで裏切りを画策している不実な愛人のようで,日々少しずつ,ゆるやかに村から遠のい ていった。 「当地では,これから冬の間はずっとお天道様は拝めませんよ」と,マリーア夫人は云った。 身をかがめて私が手荷物の荷造りをするのを手伝ってくれながら,彼女は「4 月になると,再度 お目にかかれます。その折には,貴女にもお目にかかれるように期待しています」と付け加えた。 「私もそう願っています」― めったなことでは再訪が認められないことを考えながら,私は そう云って嘆息をついた。 村人たちはこぞって郵便局前に集まり,私の出発を見送ってくれた。ただひとりローラの姿が なかった。 私は,すでに岩と樅の谷間を快適に下ってゆく街道筋を 10 キロないし 12 キロほど歩いてゆく ことに決めていた。私の新しい友人たちの幾人かは,途中まで同道してくれた。分岐点にさしか かって,樹の幹に座って私を待っているローラを私が認めた時,皆はすでに村へと引き返してし まっていた。彼女は腕に花をいっぱい抱えもって,眼に涙をいっぱい溜めていた。(涙が自分に 向けられている場合や,花が私のために摘まれた場合は,涙も花もご免だ。) 「こんなに遠くまで来てはいけないわ。」― 私は大声で諌めた ―「どうやって帰るつも り?」
彼女は全身を震わせて,「いよいよお別れね,貴女のことは決して忘れません」と云った。そ して,「貴女は私にとって…《輝く妖 精》です」とも。 「何て大げさな!」と,私は笑って,彼女に挨拶の接吻をした。 すると,彼女はいつものようにすかさず「有難う!」と呟いた。 「さようなら,ローラ。お帰りなさい。賢明に振る舞うように気を付けてね。卵をたくさん食 べるように。」 「さようなら,《輝く妖 精》」― 彼女は涙ながらに云った。 こうして,彼女を一人ぼっち街道のただなかに残したまま私は別れたのだった。モンテ・ロー ザを背にして,彼女の小柄な姿は病と憂鬱でくすんで見えた。思い出すのは,花は私が持ってゆ くのに疲れていたように,運ばれてゆく途中で萎れ,あちこちに首をブラブラ振っていたが,私 が数キロ進むと,小さな洗礼堂の前を通りかかったことだ。私がそこで立ち止まって,なかを覗 いてみると,小さな聖母像が,蛇の頭を誤って踏みつけてしまったことを申し訳なく思っている ような温和な態度で微笑んでいた。聖母は頭に 7 つの星を戴いていた。 私は花を祠の前に供えた。「7 つ星の聖母さま,」― 私は祈りを捧げた ―「ローラの病気を 治してあげて下さい。」 そして,私は再び歩き始めた。 運命は私を遠くへと連れ去った。そして,一枚の 絵 葉 書 が(それはミラノの住所宛だったが, 私が留守にしていたので,転送されて)巴里に届いた時,ローラのことなど,もう忘れてしまっ ていた。はっきりした達筆の子供らしい大きな文字で,こんなことが書いてあった。 「《輝く 妖 精 》に !! …私たち 29 人の 女 児 は,貴女のことを慕っています。私たちの女の先 生は,いつも貴女のことを話題にしています。この春には,森へ出かけて,私たちは貴女のため に菫の花を摘むつもりです。」 私はくすっと笑った。ローラって,何と感 傷 的で浪漫的な女性なのかしら! …私は一枚の 絵 葉 書 を書いて,29 人の女 児全員に感謝のことばを認めた。それに対して,彼女たちは返事 の 絵 葉 書 をもう一枚書いて寄こした。その 絵 葉 書 も同じく達筆の大きなマル字で,いつもの 通りこう始まっていた。 「《輝く妖 精》に!」 (旅館の受付係りは,それを私に持ってくると,ニヤッと微笑を浮かべた様子だった。) そして,春になると,私のもとに菫の花が届いた。毎週,色褪せ萎れてしまった森の菫の花が, たくさんの苔 ― まだ湿り気が残っていることもあったが ― に埋もれて入った拉げた包み紙が 届けられた。ミラノから羅馬へ,羅馬からジェノヴァへ,ジェノヴァからモンテカルロへ,モン テカルロから巴里へと,私を追って届けられてきた…黒い霧の一日,惨めな愛蘭土旅行から私が 倫敦へ戻ってくると,洋卓の上に,いつものほどけかかった包みが置いてあった。中を見ると, 匂い菫の屍骸が入っていた。そのすべてが,小さな春の名残りだった! 私は我慢できずに,その匂い菫を捨てた。
でも,そこはかとない香気は心に留まっていた。 運命の計らいで,結果的に私は伊太利に舞い戻ったのだった。すると,ある日のこと,来客の 知らせがあって,私は胸騒ぎを感じながら,大広間へと入っていった。 部屋の片隅に,小柄な女性が座っていた。その姿は細身で,大きな縮絨獣毛の帽子を被ってい た。彼女は立ち上がると,私の方へ心もとない感じで歩み寄ってきた。 「《輝く妖 精》さん,私のことを憶えていて?」 それはローラだった。しかも,太って血色も良く小麦色に日焼けしたローラだった。 「ローラじゃない。お元気? それにしても,とても元気そうね!」 「病気が治って,」― ローラは云った ―「体重は 49 キロなの。」それは,ローラにとっては, 太り過ぎだった。チェッポ村では,37 キロの体重だったもの。「《輝く妖 精》のお蔭なの。」 「シッ! 相変わらず,そんな大げさな云い方はよして。」― 私は厳しく諌めるように云った。 そして,彼女を抱き締めた。 私は,彼女が有難うということばを今回は口にしないことに気付いた。 「病気が治ったの。」― 彼女は云った ―「それは,私のことを勇気づけ慰めて下さった貴女 のお蔭なの。私を恐れず別れの接吻をして下さった貴女のお蔭よ。貴女が…」 「それって,卵のお蔭だわ。医師の注射もね。」― 私は付け加えて心中で呟いていた ―「7 つ星の聖母さまに感謝。」 ローラは,学校に 2ヶ月の休暇を申請して許可されていた。そして,私といっしょに 2ヶ月を 過ごしたのだった。 私に話しかけ,私のことを話題にする時,彼女は相変わらず私のことを《輝く 妖 精 》と呼ん だ。どうしてもそれを止めさせることが出来なかった。それに ― 白状しなければならないの か? ― 初めから,この渾名が私の心を 快 くくすぐってはいた。家の中で自分がそう呼ばれ ると,私は微笑を浮かべて,心もウキウキと走り出すのだった。次第次第に,家の他の者ま で ― ローラのことを笑いものにしようと,また私をからかおうとして ― 皆がその呼び名で私 を呼び始める始末だった。 …それでも,自分がその呼び名のせいで,どのような苦痛と犠牲を強いられているか白状しな ければならないとしても,信じてもらう自信がない。 人生には《輝く 妖 精 》でもなく,またそうありたいとも思わない時が,日によってあるもの だ。多忙だったり,急いでいたり,生活が順調でなかったり,神経質にイライラしていたりする と,《輝く妖 精》呼ばわりされることが耐えられなくなって,ムカつくことがある。 《輝く 妖 精!》ローラはこの忌々しい二語で,私の存在を悲しいものにしてくれた。それま での私は,大方自分の好きなようにやってきた。朝は好きな時に起きて,好きな服を着て,笑い たければ笑い,不満ならふくれっ面をした。今は,そうではない。 この頃は,夜明けに,まだ私が目覚めていなくて,精神は遥か遠くの気持ち良い眠りの深みに 沈んで惰眠を貪っているというのに,自分の枕もとでは歯切れの良い陽気な挨拶のことばが聞こ
える始末だ。 「《輝く妖 精》さん,お早う!」 そうなると,いやでも目覚めて,出来る限り朗らかな笑顔をつくるハメになる。不平を鳴らさ ず, 暁 に目覚めた妖 精らしく快活に,お調子よく振る舞うことになる。 「あっ! お早う! お早う!」 身体が冷え切ってもの悲しい気分の私は,朝方の憂鬱さの中で仕方なく起き上がると,(身な りをかまわない)義理の母親から貰った紡毛地の部屋着を羽織って,年代物だが(毛の裏打ちは 残っている)上履きをつっかけようと考える。こうして髪の毛を無造作に 簪 で留めると,自室 の扉を開けて,牛乳珈琲を持って来るように云いつける。ある種の〈安逸〉に浸りながら,ひと りでそれを飲み,新聞を拾い読みする。 ところが,遠くから私に向かって挨拶してくる家人の声がする ―「 妖 精 さん,待っていま すよ,私たち」と。ローラが,鈴のように響くソプラノの声で叫ぶ。 「あっ,妖 精さんがやって来る…《輝く妖 精》さん!」 私は扉を閉めなおす。鏡を覗いてみて,自分が 妖 精 とは程遠く,むしろ(トスカーナの友人 ピアなら云いかねないように)〈雷を落とす神様〉に似ていると納得する。 腹が立って,私は紡毛地の部屋着を遠くへ脱ぎ捨て,毛の裏打ちの上履きを脱いでから,その 片方をもう一方の上にポイと投げつける。服を着て,靴を履き,香水をつける…そして,食堂の 敷居でにこやかな表情を作って姿を現す。 「あっ! 妖 精だわ! 《輝く妖 精》!」 教訓譚? そう。この物語の冒頭で,私はひとつの教訓譚の約束をしていた。 もし,私の物語を読まれる未知の親愛な友人たる貴方の家に,幸運にも女性がいれば ― それ が妻や姉妹,義理の母親や兄嫁,叔母や姪で,彼女が陽気であれ不愛想であれ,鷹揚であれ 狭 量 であれ,善良であれ意地悪であれ ― その彼女に向かって絶えず云い続けることになるだ ろう。しかも,毎日こう云うだろう。 「ああ,クレーリア(ソーティアでも,ルイーザでも,思い付きの名前でもいいが),貴女っ て,本当に輝く妖 精そのもの!」 あなたの家を極 楽にするには,この簡単な手立てで十分だ。 彼女がやや硬く険しい表情をしていたり,あるいは 卸 業 者 と喧嘩をしていたり,家政婦を怒 鳴りつけたり,料理女を一週間でお払い箱にしようとしたり,五月蠅い子供の頭をパンパンとた たいたりするところを見かけたりすれば,…順番があなたに回ってくる前に,ここぞとばかり間 髪を入れず,さっと扉を開けて,優しい声で,こう呼びかけるのです。 「輝く妖 精っていうのは,あなたのことでしょ?」 彼女は「そうよ,それは私のこと」と云うでしょう(だって,彼女は「いいえ,私のことじゃ ない!」とは云えないもの)。 すると,十中八九, 嵐 はおさまる。
ところが,これでおしまいではない。十 中 八 九,かかる呼び名は,単にその形容に叶った表 情を作るように仕向けるだけでなく,彼女の魂まで愛嬌へと傾斜させることだろう。 次第次第に,彼女は慕い愛されるような習慣 ― それを悪習と云ってもよいが ― を身につけ てゆくだろう。周囲を明るく浮き浮きさせ,いつも口もとに微笑みを浮かべ,手にはいつも抱擁 を,口は《真珠と薔薇と優しいことばに溢れている》自分を感じるようになるだろう。 …かくして,光と輝きを喚起するこの二語を発すると,まるで魔法のように,たちまち私たち の周囲の世界がすべて輝く妖 精で満たされることになるだろう。
V. ランドリュに殺されなかった女( Quella che Landru non uccise )
巴里,11 月 26 日 …それは,私が愛想のよいド・ジュヴネルや眩しい存在のコレットに挨拶しようと赴いた 〈朝刊〉本社から,ちょうど出ようとしている午後のことだった。顔見知りの年老いた案内係り で笑顔の 門 番 が,私を引き留め,折しも編集局の部屋を出て階段を降りてくる女性の方を指 さしながら,謎めかして私にこう囁くのだった ―「あのご婦人が誰だかご存じかね?」 何のことだか私には解らなかった。そこで,彼は一層声をひそめて,こう教えてくれたのだっ た。 「ほら…例のランドリュに殺されなかった女さ!」 「ランドリュですって! 」― 少なくとも 10 名の女性を殺害した嫌疑をかけられている恐る べき人物像がサッと私の脳裏をかすめた。つまらないキセル行為で(彼はちょっと移動するにも 無銭乗車をやっていた)逮捕されたのがきっかけで,人類史上前代未聞の一連の猟奇的犯罪が発 覚したのだった。彼と連れだって出奔したある女性は,二度と戻って来なかった。ガンベにある 彼の別荘へ連れていかれた二番目の女性は,そのまま消息を絶っていた。彼が結婚を約束してい た三番目の女性は,行方知れずのままだ…ざっと,こんな具合である。彼の肖像写真が〈朝刊〉 に公開されると,巴里の方々から,新聞社の編集局や警察庁部局宛に,微笑の〈青髭〉と出奔し たまま戻って来ないその他の女性の親族からの手紙や電報や捜索願が続々と舞い込んできた。 (巴里から 1 時間の)ガンベ村の住民たちは,孤立した別荘で彼が思いやりたっぷりに寛いで もらおうといつも 新 顔 の相手を連れて来る姿を見かけていた。数週間の間,通りかかった 人々は,その女性が無邪気にも楽しそうに庭園内を歩き廻っては花を摘んだり,何百年もの大木 の木蔭に座ったりしている姿を認めていた。 優に十回も,ランドリュは陽気な連れ合いと巴里からガンベに旅をしていた。とりわけ驚くべ きは,彼が自分用に往復切符を,連れ合いには片道切符だけを用意していたことだ。こうした若 い女性たちは,揃いも揃って優雅な身分で,豪華な衣装に高価な宝石を身に着けていることが多 かった…やがて,日が経つにつれて,彼女たちの姿が見られなくなっていった。 目撃されるのは,夜の帳が下りる頃,もくもくと別荘の煙突から立ち上ってくる黄色味がかっ た厚い煙の雲だけだった。それが嫌な刺すような臭いの煙だったので,通りかかった 百 姓 たち
は,互いに大きな声で云い交わしたほどだった ―「あの家では,何と酷い料理を作っているこ とよ!」(酷い料理とは,よく云ったものだ。)目撃されたのは,(あるいは少なくとも目撃した 誰かのことばによれば,)夜中の時間帯に,別荘から出て,ブルギエーレの〈池〉― 隣接する 森の周囲の深い沼地へ向かってゆく扉を閉め切った謎の自動車一台だった。 「ランドリュに殺されなかった女さ…」― 私はもうそれ以上ジッと聞いていなかった。すで に階段の屈曲部で見えなくなっていた女性の姿を追って,私は素早く降りて行った。私は彼女に 見えてみたかった。かくも残虐な死から生還した女性が,その顔に過去の恐怖の痕跡を留めてい るかどうか知りたかった。 私が控えの大広間に辿り着くのと彼女が着くのと,ほぼ同時だった。彼女は,そこを出ようと しながら,こちらを振り向くと,親切にも背後の扉を開けたままに保持してくれていた。 雨が降っていた。モンマルトル表 通 りを,通行人たちは傘をさして足早に通り過ぎていった。 通りの中央を,どれもこれも満席の乗合馬車が全速力で走り去った。 私の自動車は,舗道の側に停車した。 私は振り返って,〈朝刊〉社の玄関口に佇んで,傘も持たずに,そこを出ようかどうしようか と迷っているように思われるその女性の姿を眺めた。彼女の容貌はとびきり興趣があって,黒い 二つの大きな眼はほとんど動かなかった。その時の勢いで,私は彼女に話しかけた。 「お伴を致しましょうか…何方まで?」 彼女はやや吃驚した表情で私を見つめ,即答はしなかった。それから,彼女は衝動的に訊いて きた ―「貴女は〈朝刊〉編集局の方なの?」 「私は作家です」― 私は曖昧な返答をした。 「まあ!」― 一瞬の間を置いてから ―「それで…私のことをご存じなの?」 私はその時ジッと彼女を見つめて, 門 番 の云ったことばをくり返した。 その女性は咄嗟にクルリと背を向けたが,その顔に名状しがたい表情が過った。それは,瞬時 だが顔の輪郭を歪める所謂神経性の痙攣のようなものだった。 「まあ!」― 彼女はもう一度くり返した。そして,黙ってしまった。 私はといえば,心理的探究熱がムクムクと頭をもたげてきて,居ても立っても居れなくなった。 「豪華旅館で,お茶をご一緒しましょう」― 未知の魂や未知の経験を前にした作家の抑えが たい衝動に駆られ,私はそう云った。 「変な思い付きだこと!」― 彼女は大きな声でそう云って笑った。その笑顔が実に素敵だっ たが,決して納得したという微笑ではなかった。むしろ彼女はその場を立ち去ろうと考えている かのように,表通 りの方をチラチラと覗っているのだった。̶ 不意に,羅馬である日著名な外交官から聞いた 忠 告 が私の脳裏をかすめた。「貴女がある人 物にある事をしてもらいたければ,」― 彼は私に語ったものだった ―「相手の眼を,それも両 眉毛の中心をしっかりと見つめることをお忘れなく。そうして,やおら自信たっぷりに貴女の要 望を持ち出すのです。そうすると,十中八九は貴女の思い通りになるでしょう。」
そこで,私は巴里の 舗 道 に身動きもせず,通行人を気にもしないで,催眠術的集中力を込め て,その見ず知らずの女性の方をジッと見つめた。額の黒い両眉毛の中心をしっかり見つめて, 私は誘いのことばをもう一度述べた。 彼女は,肩で一瞬ためらうような変わった仕種をした…それから諾OKと云った。 豪華旅館の談話室は,香水芬芬たるおしゃべりな世界市民で溢れていた。楽団は,物憂げな曲 〈躊躇 Hesitations〉と躍動的なジャズ〈シミィ−シェイクス Shimmy-shakes〉を幾度か演奏した。 私たちは,部屋の隅の花と葉陰の間の目立たない席を選んだ。お茶が持ってこられた。 「ちょっと込み入ったことをおうかがいしたいのだけれど」― 私は云った。 その女性は興奮気味の視線を私の方に向けて待った。 そこで,私は訊ねた。 「貴女に惚れたの…例の男?」 彼女は,諾という代わりに頷いた。 「彼が人殺しだって判った時,貴女はどう自分に云い聞かせたの?」 しばしの沈黙。やがて彼女はおもむろに喝破した ―「承知の上だった。」 「承知の上ですって! …何時から?」 「彼のところを訪ねる前から。マルシャディエ嬢,彼が…」― 声の調子が急に落ちて… ― 「彼に絞め殺されて焼かれた女性は,私の友人だったから。」 「貴女はご存じだった…彼が殺したってことを?」 「そう考えたの。彼女は私に打ち明け話などして,変だったもの。やがて,行方知れずになっ たわ。どうなったのか,誰にも分からなくなって。」 「でも,それなら…」― 続けて云おうとしたが,声が出なかった。 彼女は興奮した眼差しで私をジッと見据えたが,その表情が実に奇妙だった ―「勿論,それ でも,彼のところへは行ったわ。」 「でも,貴女って…神経症患者なの? 気が変なのでは?」― 私は大きな声で云った。 「多分そうね。」― そして,見ず知らずの女性は軽く肩を竦めるようにしながら ―「今時の 女って,みんな多少不安定じゃないかしら。そう思わない?」 私は返事をしなかった。私はあっけにとられて,戸惑うようにこの謎の女性に見とれていた。 彼女の眼をジッと見つめていると,まるで悍ましい秘密をたくさん隠しているブルギエーレの池 の淀んだ水を覗き込んでいるような気がした。 その間も,楽団は哀愁を帯びた円舞曲を奏でていた。 傍 の女性はサッと私の方を振り向くと, こう云った。 「私の心の中までご覧になりたい? それでは…」 蒼ざめた 唇 の彼女は,顫る両手を 膝の上でギュッと握りしめながら,次のような話をして くれた。 「知っておいて頂きたいのは,私がしきたりとか見慣れている 卑 俗 な ものすべてを常日頃
から毛嫌いしているってことなの。 私の夢は,普通でない数奇な人生を生きることだった。私は,素晴らしい色恋沙汰や奇妙な恋 愛関係を夢見ていた。 ところが,私の人生は,退屈極まりない旧弊だらけの灰色の経路を辿る運命にあるように思え た。私の父は,小さな村の公証人だった。4 人姉妹の長女の私は,音楽的な才能に恵まれている ように見えた。事実,7 歳になった時,母は洋琴を私に教え始めた。最初はディアベッリ 1) から 始めて,チェルニー 2) に移り,やがてクラマー 3) を終えて,ショパン 4) のマズルカに進んだとこ ろ…第 3 番目のマズルカに取り組んでいた時に,急に母が亡くなった。 すぐ下の妹は,当時 8 歳だった。その妹に私が音楽の手ほどきをするように,父は望んだ。こ うして,私はもう一度ディアベッリやクラマーやチェルニーをさらえた…ショパンのマズルカに 入った時,妹は村の薬剤師と結婚してしまった。 残る二人の妹は,当時 9 歳と 10 歳だった。そこで,彼女たちともディアベッリとクラマーな どをさらえなければならなかった。 今回は,チェルニーに入った時,村長の息子と私は駆け落ちして,巴里へ行った。 そこで,私はあれ程も夢見ていた数奇な冒険人生を始めようと願ったのだった。ところが,村 長の息子は着くが早いか私を捨てた。そこで,私は生活のために,ディアベッリやクラマーや チェルニーやショパンを習いたいと思っている女の子たちを見つけなければならなくなった。 人生に嫌気がさして,私は死にたいと思った。少なくとも,死は自分で選べて,思いのままに なった。 《誓うわ!》― ある日,私は友だちのセリーヌ・マルシャディエに向かって云った ―《人 生はご覧の通り。死は,私たちの思いのままになる。自分の人生のパッとしない芝居に,意外性 のある決着をつけたいと思うの。》 彼女は笑った。そして,私が浪漫的で興奮しやすい点を非難した。セリーヌはやや有産階級的 心情の持ち主だった。そのささやかな有産階級的婚資を,彼女は結婚生活の静かな幸福の担保に していた。 実際,彼女は夢に見た婚約者に出遭った。それは,頼もしい髭を置いた礼儀正しい実直な人物 で,田舎に別荘があって…ランドリュと云った! セリーヌは,その婚約者と連れだって,ガンベの別荘へ出かけた。一週間後には戻ると私に告 げた。 彼女は,杳として行方知れずのままだ。 私は,彼女から奇妙な手紙を受け取った。 《この別荘は,》― 彼女は述べていた ―《薄気味悪い。私の部屋の寝台の側の壁全体に,黒 い染が一面に付いている…庭はぞっとするほど気味が悪い。どうでしょう,その隅っこの枯葉の 下で,私は 2 匹の犬と 1 匹の猫の屍体を見つけたのだもの。3 匹とも首に紐が巻き付けられてい て,しかもそれが靴屋の使用する瀝青表面加工の紐だった…この家には,その類の紐ならたくさ
んある…》 翌日の日付がある 2 番目の手紙は,こんなことを語っていた。 《この男はきっと 偏 執 狂 だと思う。一日中,私に枯葉を集めて台所へ運ばせたりするのだも の…明日,巴里に戻ります。》 彼女から 3 通目の 音 信 が届けられた。それは,私自身が書いた郵便葉書で,すっかり皺く ちゃになっていた。彼女は宛先を鉛筆で消して,私の住所に書き直していた。文面は,ほとんど 読めなかった。道端に捨てられていたのを誰かが拾って投函したように,紙面は泥まみれだった。 こんなことが書かれている。 《今すぐやって来て。お願い。彼は狂っている。大きな火を点火している最中で…何だか怖い の。》 急遽,私は隣の女性とその息子と一緒にガンベに急行した。別荘は閉ざされていてシーンと静 まり返っていた。村の人は何も知らなかった。 その翌日も,その次の日も,単身ガンベを訪ねたが,庭園の入り口はいつも閉まったままだっ た。 三月の灰色の午後,私は一人で三度目の訪問をした。ちょうど気が滅入ってしょげかえってい た私が,引き返そうとしていた矢先のことだった。駅へと向かう人気のない道で,私は不意に一 人の男と鉢合わせになった。それが,何と彼だったのだ。 すぐに彼だと,私は察しがついた。セリーヌが特徴を書いて寄こしていた通りだった。 私は,麻痺の発作に襲われたかのように立ち止まった。その男は私を直視したが,私が受けた 印象は,背筋が寒くなると同時にゾクッとするような魅力だった。私は身動きせずに佇んで彼を 眺めていたが,まるで蛇が背中を這っているかのようなゾクゾクする寒気を感じていた。 〈こんばんは〉― 彼は云った ―〈誰かをお捜しですか?〉 奇妙に柔和な低い声だった。 〈ええ。〉― 私は口ごもった ―〈捜しているのは…セリーヌ・マルシャディエの消息を…掴 みたくて。〉 一瞬の沈黙。やがて,その男は一歩こちらへ近寄った。 〈別荘へお越し下さるつもりであれば…〉― 彼は云った ―〈お教えできますとも。〉 私は叫び声をあげて,逃げ出したくなった。私は,すでにこの悍ましい人殺しの狂人に追いか けられて,叫びながら人気のない道を走ってゆく自分の姿を思い描いていた…彼は,蠟屈症患 者 5) のように私が身動きしないように睨みつけていた。私は,話すことも動くことも出来ない状 態だった。 彼は,藪から棒に私の片腕を一方の手で掴んだ。まるで 夢 遊 症 6) の女のように,私は彼に 付き従った。 彼とあの屋敷に閉じ籠った時に感じた気分は話したくない。私がセリーヌのことをもう一度訊 ねると,彼は云った ―〈ひとまず食事にしましょう〉と。
彼自ら夕食の準備をしてくれ,笑いながら〈学生向けですが〉と云った。 〈お嬢さん,この種の冒険がお好きですか?〉 そして,私は内心こう考えていた。 《私を始末するのは何時なのだろう? その手段は? …いきなり首を掴んで,絞め殺すのかし ら? あるいは,用意してくれた葡萄酒に,すでに睡眠薬か毒薬を入れたのかしら? …》 そうした間も,彼は私に話しかけていたが,それがとりとめもない話題だった。 私の方は,彼をジッと見つめていた…眼を離さずに。その黒い神経質な手を見つめて…その両 手がセリーヌの華奢な首のまわりにかけられている有様を思い描いた… すると,彼は彼女のことを語り始めた。彼女は米国に発ったと云う… そのことばを聞くと,私は臓躁症発作のようなものに襲われて,痙攣性の笑いがこみ上げ,激 しく吹き出してから,すすり泣きをした。ランドリュは,吃驚した様子で,私を眺めていた。 彼はいきなり立ち上がると,隣接した部屋 ― それが台所だったが ― へ行って,小さな酒杯 に入った薬用酒を一杯もって戻ってきた。 〈飲みなさい。〉― 彼は命じた。 私はまだ笑っていた。歯はガチガチと鳴っていた。全身が,ブルブルと激しく震えていた。彼 の手から酒杯を取って,咄嗟に彼を見据えながら訊ねた。 〈毒薬なの?〉 彼はハッとした。私は,その眼差しに驚愕と狂気の光を認めた。 〈あるいは…〉― 私はすすり泣きをしながらも笑って,続けて云った ―〈あるいは絞め殺 すつもり? そうよ…そうなのだわ…瀝青塗りの細紐で,私を絞め殺すのでしょう。2 匹の犬と あの猫を絞め殺したように? …〉 彼は勢いよく前進すると,私の両手を握った。彼の恐るべき顔が,私の顔のまじかに接近した …とうとう 最期の時が到来したと感じた。これこそ最期だとの思いが,パッと閃いた。望み通 りの変死,破天荒な最期… 私は彼に向かって,それを口にした。彼に面と向かって ― おそらくそれだけが自分を救って くれる手段と本能的に実感して ― 死にたい…それも殺し屋の正体を百も承知している彼の手で 喉を掻っ切られて死にたいと叫んだのだった。 〈殺して! ひと思いに! …このような死にざまでなければ! 首に手をかけて…グッと力を 入れなさい! 絞めるの! 肉に爪を食い込ませて…〉 そして,私は官能の歓びに喘ぎ声を上げた。 彼はギョッと眼を見張って,後ずさりした。 〈何て女だ! 手に負えない!〉― 彼は大きな声で云った ―〈ああ,困った女だ! …〉 私は救いを実感した。自分に対する情熱に似た何かが,その悍ましい男の中に芽生えるのを感 じ取った… 外は,すっかり夜の帳が下りていた。しかも雨が降っていた。庭園にザーッと雨水が流れる音
や,広壮な邸宅の周囲をビューっと風が舞う音が聞こえた…凶悪な存在は,その悪魔的魂の深淵 を私に露わにしていた。 彼は項垂れた格好で,細く黒い手で髭を撫でながら小声で話した。 〈私のことを解ってくれたのは君だけだ!〉― 彼は呟いた ―〈女と見ると,他の男なら 《あの女は性交中には,どのような姿態をとるのだろう?》と自問自答することはご存じの通り だが,私はそうじゃない。女を見ると,私は《どのような状態になるのだろう…死に際して は?》と自問自答する。女は必死でもがき,絶叫して噎せ返るのだろうか? あるいは,痛めつ けられた仔犬のように,キャンキャンと鳴き声を上げながら,身を捩るのだろうか? …気に 入った女の最期を是非とも見届けなければとの思いが,私に熱狂のように,慾動の発作のように 生じて…〉」 話し手の女性は,恐怖譚を中断して,顔を覆った。豪華旅館の楽団は,《木蔭 Shadows》を呟 くように演奏していた。 私は,いきなりヒョイと立ち上がった。 「よして!」― 私は叫んでいた ―「もうたくさん。聞きたくありません。」 すると,その見知らぬ女性は立ち上がった。彼女の顔は土気色だったが,微笑んでいた。 「神経が細いのね。」― 彼女は云った。 そうして,彼女は曖昧な微笑をたたえたまま私に会釈して,旅館から出ていった。 この出遭いの最初の感動が去った今,私は自問自答してみる ―《ほんの一瞬だが,おそらく 私は怪物じみた人間の深淵を覗き込んだのでは? …》 あるいは,《朝刊》紙編集局からやって来た例の女性は,物語作家なら…たぶん私の同僚であ り好敵手なのでは? 私には判らない。これからもたぶん判らないだろう。 彼女のことを,名前だって私はまったく知らないのだもの。
VI. 恋の仲立ち…( Galeotti.... )
I. 「…それから,眩暈のような発作に襲われて,倒れないように何かに掴まっていなければなら ないの。動悸がして,息が詰まるような経験を時々する。場合によっては,急に心臓が停止して, 脈が飛んでしまうの…ほら! 今だって…」 そして,ヴィーリアは,スッと彼女の女友だちの方に細い手首を差し出した。その手首を,友 人は手袋をはいた指で挟んで触れた。 「感じるはずよ。10 回 12 回毎に,脈が一度は飛ぶでしょ。一瞬,脈が 滞 って,呼吸が出来 ないの。」 「壱,弐,参,四,五,…」― 女友だちは数える ―「あら,ほんとだ。途絶える感じがす る…」「それに,他にも数限りない障害を抱えているの。時に,途切れ途切れにベースの低音域の耳 鳴りがすることがある。眼の調子も可笑しいときがある。眼の前に黒い揺蚊が飛んでいるように 見えるもの…」 「まあ! こうした病気すべての治療に何を服用しているの?」 「でも…どうすればね。」― はっきりしないヴィーリアは,溜息をついた ―「医師は,沃素 膠質溶液治療と高原滞在療法を推奨してくれた。」 束の間の沈黙が,心地よい広間を支配した。洋卓の中央に活けられた大輪の躑躅の花弁が,深 紅の天鵞絨の絨毯の上に幾つか散った。 「ねえ,」― クラウディアは,伯爵家の紋章に縁取られた黄金の紙巻莨容器を衣囊から出し ながら云った ―「私の見る限り,貴女が必要としているのは,もっと他のものよ。」 「その治療を信用してくれないの?」― ヴィーリアはやや不安げに訊ねた。 クラウディアは紙巻莨を一本選んでから,容器で軽く叩いて,火を点けると,天井に向かって, フウッと莨の煙を長く燻らした。 「結構,結構。高原へ行って,沃素膠質溶液を服用するといいわ。」― クラウディアは云っ た ―「でも,情夫も連れて行った方が良くってよ。」 「何ですって?」― ヴィーリアは身震いをして大きな声で叫んだ。 「その必要性を感じたはずよ。」― 女友だちは明言した。 「情夫ですって! そんなこと! また,どうして?」 「聴きなさい,」― 平和通りの緑色のトック帽を被った愛らしい顔を背凭れで支える姿勢を とって,クラウディアは云った ―「だって,神経症に効能があるし,顔色を改善してくれ,性 格改善にも役立つもの。強壮剤を飲むように,試してみなければ。如何したいの。沃素治療が有 効な年齢なら,恋愛療法だって有効よ。」 「皮肉たっぷりね。」― ヴィーリアは両手で顔を覆って,大きな声で云った ―「貴女って, 本当に背徳的で恐ろしい女ね。」 「そうかしら。」― クラウディアは云った ―「私って正直者で単純な女よ。周囲をご覧にな れば,私の云っていることが正しいと納得するでしょう。愛された経験に乏しい女をご覧なさい。 酷い干乾びようだから!」― クラウディアは脚を組んで,見事な 靴 下 の細い片脚をブラブラ させた。 「恐ろしいことを云うのね!」― 面喰ったような視線を女友だちに向けて,ヴィーリアは大 きな声で云った。 「貴女って,病んで干乾びてゆくのよ。」― クラウディアは猶も追い打ちをかけた ―「だっ て簡単でしょ,愛された経験が乏しいのだから。」 「それは違うわ。私の夫は…」 クラウディアは細い片手を挙げ,長い指を全部揃えて,古代印度の偶像の厳かな仕種をして, 彼女のことばを遮った ―「貴女の檀那様の話はよして。貴女のことを愛してくれているとおっ
しゃりたいのでしょ。知ってるわ。でも,それはまったく別次元のお話ね。家族愛のことを問題 にしているのじゃないもの。」 「分かってるわよ,ジーノが…ってことぐらいは。」 クラウディアは老いた釈迦の仕種をもう一度くり返した。 「結婚して何年目かしら? 確か,ルチャーナは 10 歳になるわね。」 「11 歳よ。ジーノのお蔭で,私は最高に倖せな女になって 13 年にもなるもの。」― ムッとし て,そう云ってのけると,ヴィーリアはやや蒼白い口元を噤んだ。 「ええ,承知しているわ。」― クラウディアは返事をした ―「ジーノが天使だってことぐら いは。だからといって,自然の普遍的法則に変化は生じない。生理学的にみて,恋愛感情という ものは,用語本来の正確な意味からして,4 年以上は持続することはない。とすれば,貴女は 9 年この方,不完全で 異 常 な生活をしていることになる。」 「まあ,異端も馬鹿も程々にして頂戴。」 「馬鹿を承知で云ってはいないわ。これって,刀圭家のことばよ。巴里でも獨逸でも阿蘭陀で も研究生活を送って,何でも知っている神経病理学者がそう云っている。彼は研究室へ私を案内 して,亞爾箇保兒溶液に保存されている大脳標本を幾つか見せてくれたわ…ともかく,彼が確言 するところでは,神経細胞は 4 年経過すると…神経線維鞘に…」 そして,クラウディアは長々と科学的で具体的な議論を展開した。 ところが,ヴィーリアは聴いていなかった。彼女は夢見るような眼差しで,躑躅の桃色の花弁 が時々静かに落下する様子をジッと見詰めていた。 「おまけに,」― クラウディアは結論付けて云った ―「貴女の周囲には,これといって実例 がないもの。ミリアム・ヴォーリをご覧。32 歳だっていうのに,50 歳に見えるわ。ジーナ・デ ル・ボスコをご覧。なお若いのに,吝嗇で,無愛想で,信心家ときている。カルロッタ・アッ レーグリをご覧。私たちより若いのに,木乃伊みたいに干乾び切っているじゃない。みんな取り 返しのつかない不倖せな女性ばかり。自分の姿を直視しなさい。そう,一度とくと鏡に映る自分 の姿を見てみるがいいわ。何て顔をしていることでしょう! 恋を経験したことのない女性特有 の退屈し切った顔をしているから。」 ヴィーリアは笑った。彼女はつと立ち上がると,前に進んで暖爐臺上の鏡に映る自分の姿を覗 き見た。クラウディアは彼女に付いて行って,片腕で背後から抱きかかえるようにした。 「正論だってことがお解り? 貴女には,面白味がない。味気ないのよ。生気のない眼つきだ し,皮膚は弛んでいて,髪の毛に艶がない。貴女の何処に生気や覇気があるの。こんな調子で歳 取ると,5 年もすれば,廃人同然ね。」 ヴィーリアはまだ笑っていたが,底抜けに陽気な笑いではなかった。 「で,私をご覧。」― クラウディアは続けて云った ―「どう,退屈な顔をしているかし ら? 私の髪の毛を見て!」 「私が櫛で髪を梳くと,パチパチと音がして,火花が出るの。髪の毛の一本一本が,まるで
電 池そのもの。ほら,この私の髪の毛! …それに,私の口,ツルツルでしょ。レンツォ・ガリ ンベルティがいてくれなければ,私だって今頃は皺くちゃ婆になっていたわ。レンツォの存在こ そ,私にとって正 真 正 銘の 美 容 院 ってわけ。」 「そのレンツォ・ガリンベルティって?」― ヴィーリアは吃驚した表情をして,彼女をジッ と見詰めた ―「ご免ね! …てっきり信じていたもの…私たちの誰もが信じていたもの,アル シエーリ伯爵が…」 「昨年,」― クラウディアは真顔になって云った ―「私がジューリオ・アルシエーリを情夫 に持ってから,丸 4 年が経ったの。そこで,私は彼と別れなければならなくなった。」 「また,どうして? あんなにも貴女に尽くしてくれているのに。音楽という絆があっても…」 「その理由は云ったでしょ。刀圭家の理論なの。4 年が経っていたもの。だから,私たちの恋 愛療法の…効き目がなくなっていた。そして,ジューリオは治療法としても,強壮剤としても, 蠟屈症 5) 予防薬としてもお役目ご免だったもの。」 「貴女って呆れた女ね! 」― ヴィーリアは云った。 相手は笑って立ち上がった。ヴィーリアは玄関口まで送って行った。 クラウディアは敷居のところでクルリと振り向くと,女友だちの細面を両手で挟んで,ジッと 彼女の眼を見詰めた。 「お願い,私のことを嫌いにならないでね。お願いよ。」 「別に嫌いはしないわ。」― ヴィーリアは云った ―「ただ,貴女が云ったことは忘れたいだ け。」 「いいわよ。」― クラウディアは応えて云った ―「色香も元気もなくなってしまった貴女の 姿だけは見たくないわ。」 そして,クラウディアは彼女の頬に 接吻してから別れた。 II. 《色香も元気もなくなって…》― この気の滅入る科白に何日もヴィーリアは拘っていた。鏡 を覗き込む度に,自分に向かって《お前は色香も元気も失せてゆく》と云ったものだ。やがて, 日々のやりくりにかまけて気が紛れた。彼女はジーノの食事の用意をし,彼のために家の整頓を し,ジーノの書類を整理しなければならなかった。ルチャーナの 課 題 の心配をし,彼女を散歩 に連れ出さなければならなかった。散歩に出ると,決まって色香も元気も失せてはいないと気付 くのだった。誰もが彼女に注目した。男たちの無遠慮で執拗な視線が彼女に注がれた。女たちは 彼女をジッと眺めては荒さがしをして,魚の目鷹の目で品定めをした。 刀圭家が処方した沃素膠質溶液 7)― クラウディアが嘲笑った治療 ― は奇蹟を起こした。 ヴィーリアは,心悸亢進症 8) や不整脈 9) や眩暈にもはや苦しめられることがなくなった。人生は 素晴らしく生きがいがあるように思えた。 クラウディアは,夫を連れて細々里へ行ってしまった。ヴィーリアは,彼女を見かけなくなっ
てホッとしていた。 ある日のこと,彼女はレンツォ・ガリンベルティにヴィッラ・ボルゲーゼ公園で出遭った。彼 は疾走馬場の柵に凭れ掛かって,小走りに通り過ぎてゆく乗馬女性たちを眺めていた。クラウ ディアが彼のことを《 美 容 院 》呼ばわりしたことをふと思い出して,急に笑いたい気分に なった。 ガリンベルティ青年は,彼女に気付くと,会釈をした。やがて,彼は血色が良い笑顔の彼女を 認めて,遠慮がちに近寄ってくると,ご一緒させて頂いても宜しいかと訊ねた。 話題は,馬や社交界や現代舞踊のことだった。彼は,豪華旅館の演奏会に明日行くつもりだと 云った。やがて,話題がクラウディアのことになった。すると,ヴィーリアは笑った。ガリンベ ルティも微笑んだ。 ルチャーナは幼い女友だちと手を取り合って行儀よく軽やかに,彼らの前を歩いていた。ガリ ンベルティは女の子の素晴らしい髪の毛 ― 事実,長く縮れた赤毛だった ― を観察して, ヴィーリアの方を振り向いて,こう付け加えて云った。 「ほら,華奢な女の子をご覧なさい。もう数年たらずで,貴女に気を揉ませることになるから …」 何故だか分からないが,ヴィーリアはそうした観察に閉口気味だった。そこで,彼女はそそく さと退散しようとした。彼は一瞬スッと背筋を伸ばして,日向に頭を出して,彼女の片手を ギュッと握った。 「明日,私と旅館〈エクセルシオル〉で昼食をご一緒して頂けませんでしょうか?」 ヴィーリアは首を振った。 「ともかく,…私は行くつもりです。」―《 美 容 院 》はそう云うと,意味ありげな眼差 しを向けた。 ヴィーリアはルチャーナに声をかけてから,挨拶して,帰宅の途についた。 彼女は鏡を見ながら,帽子を脱いだが,自分のことを美しいと思った。そして,午後の間,顔 の按 摩を行っては,手と爪の手入れに余念がなかった。7 時になって,念入りに 化粧をし,今 まで着ることがほとんどなかった黄色と黒の衣装を纏った。(「まるで三鞭酒の銘柄広告みたい だ。」― 夫は彼女の姿を初めて見た時,そう云ってから,ルチャーナに解らないように仏蘭西 語で,さらに付け加えて云った ―「とっても刺激的なお前には,そそられるよ。Tu es très troublante et émoustillante!」) ところが,その日の晩,ジーノは帰宅しなかった。彼は事務所から電話をかけてきて,これか らリッチ宅へ赴いて,おそらく〈土地不動産信用〉に関心を持っている或る議員に会わなければ ならないので,食事は待ってくれなくてよいと云ってきた。 黄色と黒の服を着たヴィーリアは,ルチャーナと二人きりで食事をしたが,ルチャーナはダダ をこねて泣いたりしたので,果物が出る前に就寝させなければならなかった。 ヴィーリアは部屋や広間をしばし歩き廻っては,洋琴を少し弾いてみたり,『伊太利新聞』を
拾い読みしてから,料理女に仕入の清算を任せると,黄色と黒の服を脱いで就寝した。彼女は, 人生とは空虚で退屈な制度なのだと独り言を云った。夜中に,またまた耳鳴りがして,心悸亢進 の発作に見舞われた。 一方,ジーノはジーノで議員がまったく〈土地不動産信用〉に食指を動かしてくれなかったの で,嫌になっていた。リッチ宅の料理が最悪で ― リッチ老人は英国で暮してきたので,いつも 印度カレー風味のソースを所望した ― ジーノはほとんど手を付けなかったし,食後のこなれが はかばかしくなくて,暗い顔をして帰ってきた。彼がヴィーリアに慰めてもらおうと,彼女の部 屋へ行くと,彼女は起きていたが,冷淡で侮蔑的な態度だった。おまけに,頭から議員の件を 疑っていた。 「ちょっとお願いがあるの…議員ですって,それが何なの? 議員の話などしないで。」 「じゃあ,どのような話題でなければならないのかね?」― ネクタイを取りながら,ジーノ は口ごもった ―「印度カレーのことでも?」 ヴィーリアは背を向けると,枕に顔を沈めた。 「リッチ夫人のことは知っています。臓躁症の女で,貴方を戦利品扱いしたいのよ。貴方は チャラチャラして,彼女を元気付け,ご機嫌をとっているじゃない…」 印度カレーは,頂けなかった。ジーノは扉をバーンと閉めて,部屋から出ていった。彼は, 浴 室に隣接する 客 間 へ行って寝ることにした。扉は開けたままにして,彼は就寝した。 木蔦で縁取られた窓から,夜中に〈刺し蟻〉という物々しい名前の危険な蟲が一匹入ってきた。 暗がりの中を,この蟲はグルグルと飛び回り,壁面のあちこちに頭をぶつけながら,止まっては 小さく邪悪な鋏を開いたり閉じたりした。 浴 室 に続く僅かに開いている扉の 帷 の上を這い 廻ってから,遍歴を続行しつつ,陶板製の壁だと歩くのに白堊の表面が滑り易いことに気付いた。 冷たい陶板を震える鋏で探りを入れながら,歩く速度を上げて,もっと居心地の良い避難先へと 走って下降した。それは海綿の中で,ふんわりと気持ちよく,やや湿気ていて,暗い通路が沢山 あった。慌ててその中へ潜り込むと,無意識ながら二人の運命の裁定者よろしく,そこにどっか と陣取った。 翌朝,ヴィーリアは朝早く目覚めたが,すぐ眼を開けなかった。精神は微睡の中に沈潜したま まで,彼女は朝の辛い生活に戻る時間を出来るだけ遅らせようとした。毎日の過酷な即物的現実 に立ち戻るために,光仄かな夢想から抜け出す気がしなかった。中庭で絨毯を叩く音や階上の住 まいで人が歩き廻る跫音や家具を動かす音を聞くと,彼女は気分が悪くなった。これといった訳 もなく,ただ漠然と,彼女は目覚めるよりも眠っている方がましだと感じていた。まだ覚醒して いない想念の底には,一日の始まりで自分を待ち構えている厄介な事態を察知する感性のような ものが存在したのだった。 イラつく絨毯の跫音は,執拗に続いていた。隣の住居では,技師の娘がいつものように音階練 習の手始めに,くり返し洋琴の音合わせをやっていた。 ヴィーリアは嘆息をつくと,眼を開けた。彼女は眼が覚めた。
思い出すだに不愉快になるのって,何だったっけ? そうだ,ジーノだった。昨晩,ジーノは 食事に帰ってこなかった。そして,帰ってきても,つっけんどんで不作法だった。リッチ夫人が …まさにリッチ夫人だった。そして,ヴィーリアだが,彼女は,馬鹿みたいに,爪を磨いたり, お顔の手入れをしたり,髪の毛を巻き毛にしたりして午後の時間をやり過ごしていた。やがて, 夕べの時間まで,馬鹿みたいに一人ぼっちで過ごしてしまったのだった。つまり,彼女は午後 4 時から真夜中に眠ってしまう時間まで,丸 8 時間を無為にして化した訳だ。虚空に投げ込まれて, 奈落の底に呑み込まれてしまった。二度と取り戻せない 8 時間を,彼女は生きずに過ごしたの だった。何たる浪費,何たる無駄使い! 彼女の年齢を考えると,そうした贅沢は許されないこ とだった。彼女の年齢なら,人生の一時間一時間が貴重なもののはずだった。一日の三分の一を, このように捨てて顧みないことは不可能だった。… 《その年齢を考えると》― 憎たらしい文句だこと! まだ人生をやり始めていないかのよう な云い方。本当に ― 他の人たちなら,きっとそう云っただろうから ― 彼女は自分自身に《年 齢を考えれば,こんなことはしない…あのようなことはしない》と云い聞かせなければならな かった。 溺れかかっている人が咄嗟の本能として救命板に手を伸ばすように,彼女は思いをジーノに馳 せた。ジーノは善良だった。ジーノは彼女を愛していた。ジーノだったら,彼女のことをいつま でも愛してくれただろう。リッチ夫人のことは,ジーノにまったく興味がなかった。時々, ちょっぴり痛い目にあわせて,ちょっとした悶着を引き起こしたい必要を感じた折に,偶にしっ ぺ返しをするには,ヴィーリアに対する口実としてリッチ夫人が役立ったに過ぎなかった。 ヴィーリアは急いで起き上がると,服を着た。 ジーノは自分の寝床でなかったのでよく眠れなかったし,議員やカレーやヴィーリアの不公平 を思い出すと胸糞が悪くなった。彼はいつもより遅い時間に起き上がって,腹立たしい気分で, そそくさと 浴 室 に入っていった。すると,すでに風呂が用意されていて,瓦斯暖房も効いてお り,化粧水の瓶が手の届く処にあったので,すぐさま彼の怒りは鎮まり解消した。ヴィーリアは 後悔していたし,尊敬に値する償いをしてくれていた。ヴィーリアは天使だった。リッチ夫人は 手におえない女性だった。彼のために印度カレーやなお一層印度的な議員を用意したリッチ夫人 は,もうご免だ。 ジーノは上履きを,まるでそれがリッチ夫人でもあるかのように遠くへ蹴飛ばし,寝間着を, まるで議員ででもあるかのように脱ぎ捨てた。彼は入浴を済ませた後で,ヴィーリアのところへ 行って,両手に口づけし,愛の言葉を述べる決心をした。 例によって彼は入浴する前に,海綿を掴んで湯につけ,それを顔にあてがった。急に彼の頬の 上を何かかが走ったように感じた。彼は手で顔を叩いた。得体の知れないものは,髯やもう一方 の頬の方へと走った。いったい何だったのか? ジーノは鏡の中を覗き込んだ。それは《鋏》 だった。海綿から出てきた一匹の刺し蟻だった。 「不潔!」― ジーノは海綿を放り投げながら叫んでいた。そして,耳の方へ走って行こうと
する蟲を襟首から振り払おうとした。ジーノは,素肌が突っ張るような感じがした。不快感を 持っただけでなく,彼は不安にもなった。老家政婦がかつて彼に語ってくれたが,その蟲が耳に 侵入すると,人は発狂するのだそうだ。そのゾッとする話は,彼には忘れられないものだった。 不潔な昆虫は何処へ行った? 消えてしまったぞ! 何処にいっちゃったのだ? ジーノは耳の 中を指でほじくった。彼は盛んに罵りのことばを並べて,素足で地団太を踏んだ。家政婦を呼ぼ うと呼び鈴を鳴らし,締切った扉越しに叫んでいた。 「この家は豚小屋だ。それに,蟲だらけの海綿ときている…これは恥だ。」 彼は入浴もせず,ヴィーリアの両手に口づけもしなかった。彼は,ヴィーリアがルチャーナ 共々珈琲を飲もうと待ち構えている 食 堂 へも入って行かなかった。家の出口の扉をバタンと 閉めて,彼は外出すると,喫茶店で恨めしい珈琲を飲んだ。 正午になって,彼は心機一転大人しく帰宅した。ヴィーリアは留守だった。 ウルウルの泪眼をした髪の毛がバサバサのルチャーナしかいなかった。母親は晩までには帰る と云い残して,11 時に出かけてしまっていた。 刺し蟻は,その使命を果たすと, 浴 室 の下で熱気を帯びた昼間をやり過ごし,夜になって外 に出て木蔦の処に舞い戻った。やれ自分の時間が到来と思いきや,その蟻は一羽の仔雀に啄まれ てしまった。
註および参考文献
本稿で使用したテキストは,Annie Vivanti [Anne George Marion Vivanti] (1866 1942), Gioia! (Firenze, R. Bemporad e figlio 1921)で,本短編集所収の『輝く妖 精』,『ランドリュに殺されな かった女』,『恋の仲立ち』と題する第 4 篇から第 6 篇(95 頁から 134 頁まで)の 3 篇を本邦初訳 として試みに邦訳・紹介してみた。 アン・ジョージ・マリオン・ヴィヴァンティは,ロンドンに生まれた完璧な英語・イタリア語 両 言 語作家。父親はオーストリア軍からガリバルディ一派として死刑の宣告を受け亡命生活を 送ったアンセルモで,母親アンナ・リンダウはユダヤ系のドイツ人。(スイス,米国,英国と)旅 に明け暮れる不安定な少女時代を経験する。ジョージ・マリオンの 筆 名 で英国文壇に初登壇し, やがてローマの雑誌《ドン・キホーテ》の寄稿者になる。1887 年,オペラ歌手を目指す決心をし てイタリアに移住し,歌唱と外国語の教授職に就く。様々な努力を重ねた後で反故にされてきた詩 集『抒情詩』(1890)によってイタリア文壇に初登壇する。トレヴェス書肆が出版の条件として詩 人の紹介を義務付けていたので,カルドゥッチが序文を書いた。カルドゥッチは,「僧侶と女は詩 に不向き」とする自身の信念に叛いて,それを承諾したのだった。このようにして,アニー・ヴィ ヴァンティの成功は始まるが,すでに老境の詩人は,彼女の若さと美貌にすっかり魅了されて,彼 女にしきりと書簡をしたため,文学界に推薦する。事実,彼の最良の抒情詩の何篇かは彼女に捧げ られている。ふたりのあやしい関係は物議を醸した。1892 年,アニーは,自伝的な 蓬 髪 派 風長 編小説『カフェ・コンセールの芸人マリオン』を出版する。米国人記者ジョン・チャターズと知り 合って,結婚し,米国へ移住するが,カルドゥッチとは頻繁に文通を続けた。定期的にイタリアに 戻って来てはいたが,やがて定住するにいたる。ユダヤ系の血を引いている廉で弾圧を受け,第二 次世界大戦中は,他の英国市民たちとともにアレッツォに軟禁されていた。しかし,彼女にとって
最大の痛手は,ロンドン空襲による天才的ヴァイオリニストだった娘ヴィヴィアン・シャルトルの 非業の死(1941 年)だった。やがてトリノに移り,1942 年 4 月 20 日,困窮のうちに亡くなる。幾 篇かの長編小説を残したが,そこに批評家たちはどのような文学的モデルにも属さない直截的で自 発的で理想的な女性解放の姿勢を認めている。 1) Anton Diabelli(1781−1858)当初 M. ハイドンに作曲を師事して,J. ハイドンの後押しで音楽 教師をしながら音楽出版に従事した。家庭用練習曲集『ピアノのためのソナチネ Sonatine』 op. 151,op. 163,op. 168 や『ピアノ連弾用ソナチネ曲集 Sonatine』op. 24 1,op. 24 2,op. 54, op. 58,op. 60 および『旋律的練習曲集 Melodische Übungsstücke』op. 149 が知られている。 ディアベッリ当時のウィーン・アントン・ヴァルター(1752−1826)社製ピアノの音色を知ら なければ,ニューヨーク・スタインウェイ社製現代ピアノでいくら練達の名人の演奏を聴いて も意味がない。軽いアクションのアントン・ヴァルター社製ピアノは,歯切れのよさと奥行あ る響きを特徴とする。 2) Carl Czerny(1791−1857)ロマン派初期様式の開拓者にしてピアニストのヴィルトゥオーゾ。 ベートーヴェンに師事して,F. von リストや S. タールベルクなどを門下生として輩出。ピア ノ練習曲集『熟練の手引き Die Schule der Geläuftigkeit』op. 299『ヴィルトゥオーゾの手引き Die Schule der Virtuosen』op. 365『指使いの技法 Die Kunst der Fingerfirtigkeit』op. 740『技 巧の練習曲 Die Schule der Geläuftigkeit』op. 849 で知られている。美しい音色で評判の 19 世 紀ウィーン・シュトライヒャー一族のピアノで,チェルニー時代の響きを知る必要がある。 3) Johann Baptist Cramer(1771−1858)ムーツィオ・クレメンティ(1752−1832)にピアノを師
事,パリで暮した後,ロンドンに定住して優れたピアノ教師として名声を博した。練習曲集 『実践的ピアノ教本 Grosse praktische Piano-Shule』全 5 巻など多くの作品がある。英国ブロー ドウッド社製ピアノで,高均一な音色とダイナミズムを特徴とするクラマー時代の響きを聴か なければ意味がない。
4) Fryderyk Franciszek Chopin(1810−1849)フランスのピアノ製作者カミーユ・プレイエルの 名器でショパン時代の響きを現代によみがえらせた CD『浜松市楽器博物館コレクションシ リーズ 10 ノクターン』を聞けば,ニューヨーク・スタインウェイ社製現代ピアノによって一 掃されてしまったショパン芸術の神髄に触れることができる。
5) 蠟屈症(強梗症)catalepsy[G. katalepsis < kata, down+lepsis, seizure]四肢がさまざまな位置 にしばらくの間固定されてしまう蠟様強直の状態のことで,刺激に対して無反応・無言・無活 動となる。特にカタトニー性統合失調症などの精神病で起こる。
6) 夢 遊 症 somnambulism[L. somnus, sleep + ambulo, to walk] somnambulance, oneirodynia activa複雑な運動性行為も絡んだ一種の睡眠障害で,主として夜中の前半の三分の一ぐらいま でに起こり,急性眼球運動期には起こらないとされている。
7) 沃素膠質溶液 Jodarsol 伊吹麝香艸の葉に含有される結晶性フェノールを沃化した膠質状溶液 (沃化チモール thymole iodide[thymolis iodidum](C6H2CH3C3H7OI)2)
8) 心悸亢進症 palpitazioni(動悸 tachysystole, palpitation, Herzklopfen)心臓の拍動を自覚する状 態のことで,心拍数の増加ないし心拍の増強や不整脈が原因の場合もある。症候性と器質的心 疾患性,薬剤や酒,莨,珈琲の過剰摂取および不安神経症由来などに分類される。
9) 不整脈 aritmie, arrhythmia, pulsus irregularis 健常者では心拍数は毎分70前後で,ペースメー カーの洞結節の興奮が両心房と心室に刺激伝導系により伝えられ極めて規則正しい調律すなわ ち正常洞調律を示す。緩急は交感神経と迷走神経によって調節されるが,何らかの原因によっ て正常洞調律以外の心収縮や調律を呈するものを不整脈と称する。一般に心電図により原因は 判明する。
小倉貴久子著『カラー図解 ピアノの歴史 ― 作曲家が愛した当時のピアノで奏でる CD 付』河出
書房新社 2009
南山堂『医学大辞典 MANZANDO’S Medical Dictionary』MANZANDO Co., Ltd. Tokyo 1985 『最新 医学大辞典 ISHIYAKU SHUPPAN’S Medical Dictionary』医歯薬出版株式会社 1990 『ステッドマン医学大辞典 STEDMAN’S English-Japanese Medical Dictionary』(株)メジカル