中世後期における伊予守護河野氏と島嶼部領主―忽
那氏および二神氏の趨勢―
著者
佐藤 正隆
雑誌名
国史談話会雑誌
巻
53
ページ
25-56
発行年
2012-12-21
URL
http://hdl.handle.net/10097/00127075
中世後期における伊予守護河野氏と島随一部領主
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は じ め に 伊予悶忽那七島は忽那烏(中島)、野忽那島、陸月島、怒 和命、一一神島、津和地島、校島からなる諸島であり、中世に お い て 忽 那 氏 と 一 一 神 氏 と い う 一 一 つ の 領 主 が こ の 地 で 権 勢 を 振 るった。忽那氏はその名の通り、忽那乱仰を本食の地としてい た 一 族 で あ る 。 同 氏 に つ い て 、 ﹁ 忽 那 系 図 ﹂ ﹁ 忽 那 島 開 発 記 ﹂ は藤原道長の後世間であり、この地に配流された親授を起源と しているが、親授なる人物の存住は他の史料から確認でき ず、実際は平安時代に島を問問裂した掬発領主だったと考えら れ て い る 。 鎌倉期より地頭御家人として一次史料に名が現れ、南北制抑 制 刑 に 忽 那 議 絡 が 、 時 に 北 秘 方 の 勢 力 と 干 支 を 交 え 、 時 吋 に 閤 下 する懐良親王を島内に迎えるなど、十刑判方として自立的に動佐
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いた時搬をもって同氏の最盛期とされている。ところが、や がて河野氏に従属するようになると、忽那氏はそれまでの自 立性を失ってカを弱め、戦闘期以降、同七島内の二神島を木 拠としたこ神氏が忽那氏に取ってかわって島腕部で勢力を張 る よ う に な る 。 この二神氏というのは、長門閣の有力御家人であった豊田 氏をそのルi
ツとすると言われているものの、二神島に移住 した時期については諸説あり定かではない。同氏は室町捌か ら近世初期にかけてまとまった文設群を残している。 この忽那氏二神託に関する研究であるが、いまだ十分に 踏み込まれていないように思われる。まず忽那氏に関して は、専ら同氏の最盛期である南北初期に主眼を置いて研究が なされており、室町期以降の同氏については概説的に論述さ れることが多い。管見の限りこれに詳締な検討を加えている 研究は、南北朝期から室町期にかけての忽那氏の従属過程を 考察した山内治則氏、忽那氏の自立的側面について強制した 小林可奈氏の論稿があるのみである。史料の少ない室町期以 降の忽那氏を考察の対象としている点で大きな成果であると いえる河論文であるが、残念なことに時系列に沿った観点を 欠いている。守護の傘下に入ったことを契機として、忽那氏 は被支配者として変質してもくわけであるが、そういった変 質がいっ、どのように、何をきっかけにして起こったか、そ して最終約に、いかにして一一神氏にとって代わられたか、検 討を加える余地が多分にあるように恕われる。 また、一一神氏については、景消勉氏の論考を除いて他に詳 細な先行研究はほぼ見当たらず、﹃愛媛県史古代 E ・ 中 世 ﹄ でも僅かに触れられているのみであり、その動静については 不明な点が多い。渋柿川氏は研究が進んでいない理府として、 系図の問題上、一次史料に見える人物を比定するのが困難な ことに加え、二神氏がいくつかの成家に分かれるためにその 関係を把握しにくいことを挙げている。いまだ手つかずとな っているこ神氏の動静を追うには、既存の系閣に顧らず一次 史料から系穏を再現するよりほかにないだろう。 本稿では以上に提示した研究上の課題を踏まえた上でニつ の領主について見てゆくことにより、直接的には伊予守護河 野氏と島腕部の悶人領主との関係を明らかにし、大局的には あ興部に本拠を絞く領主に特有の投資について一つの可能性 を 提 示 す る 。 第 宝章 忽那氏と伊予の争乱 先述した通り、安町期以降、忽那氏は守護河野氏との主従 関係を深化させる。そのために、独自の励きを史料上ほとん ど見せなくなる。つまり、裂を返せば室町刻の忽那氏を見る にあたって、守護の動静も眼中に入れなければならないとい直 加 遇 制 臨 州 吉 遜 拙 通
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(注2球部助氏善努より〉 う こ と に な る 。 中除後期の河野氏は 数ある守護大名家の例 に漏れず、跡目をめぐ る内紛、そしてそれに 伴う領閣内の動乱とい う、守護権力にとって 危機的な時局に商す る。こういった不安定 な時期を見てゆくにあ たって、河野氏の当主 ごとに便宜的な時期区 分(
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期 教 通 ・ 通 秋 期 、 E 期 通 笈 ( 刑 部 大怖)刻、盟問郎通院 ( 郎 正 少 閑 ) ‘ 情 通 期 ) を設け、その内部事情 と結びつけながら忽那 氏 の 動 向 を 追 う 。河野教通通秋期︿
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究正期の守護家分裂 忽那氏が河野氏へ従属するきっかけについて記された一次 史料はない。ただ、﹃忽那島開発記﹄には足利縫満の仲介に よって忽那通則は河野氏の配下となったとある。一一次史料の 性格上、これを鵜呑みにするわけにはいかないが、河野氏の 通字である通の字を通則の代から用いていることから、この ころ従属への転機があったとみてよいだろう。この通則の跡 を継いだと思われる通経の代に、河野氏が忽那氏に対して比 較的多く安堵・宛行を行っていることが伺える。このころが 主従関係の数明朗であろう。本節で扱うのはその次代の通 定 、 さ ら に そ の 次 代 の 通 光 の 間 別 で あ る 。 まず、当該時期の河野氏の情勢について触れておきたい。 永卒七年二回一一一五)、当主通久の戦死を受けて、その跡を 嫡子犬正丸︿のちの数通)が継ぐこととなる。数通が跡をつ い で 早 々 、 永 享 一 一 年 ( 一 四 一 一 一 九 ) の 永 享 の 乱 の 際 に は 美 淡 ( 阿 u へ、悶年、大覚寺義昭の乱の擦は吉野へ、嘉吉元年(一一泊四 一 ) の 説 窓 口 の 乱 で は 嬬 臨 世 間 へ 、 と 立 て 続 け に 国 外 出 兵 が 命 じ られる。それが一段落するやいなや庶子家通春が反抗を始 め、惣領・庶子河家の常事館突が始まる。 文安元年(一一出割問)四月、小早川氏に対し教通への合力 を催促する畠山徳本(持悶)発給のド M 都府御数惑が、問者の軍 ω 円 事衝突が起こっていたことを知る事の出来る史料の初見であ る。このお状には数通の相相手方が通春であることは記されて いない。しかし、このころ幕府は鳥山氏管領期には数通に合 力するよう周辺勢力に働きかけ、細川氏管領期には通春に合 力するよう働きかけるという姿勢をとっていたことから、こ の小早川氏への催促は数通・通春の対立に関するものと見て 差し支えないだろう。文中に﹁既於所々及合戦之上者、不廻 時日致進波﹂とあるので、四月時点で既に合戦が諮所で展開 さ れ て い た よ う で あ る 。 ちょうどこの翌月、忽那氏が数通より四松名限に加え、山 崎・小淡松前をまとめて宛行われている。時代は下るが戦 闘期に、掘江を中心とした三洋松前にかけての海岸一帯の 地域は、河野氏によって城下町湯築の外織とされるようにな る。このことから忽那氏が宛行われた松前・小淡は海事な面 で十分機能しうる土地であったと扱測される。まだ従属して から年数が浅い、いわば外様の勢力である忽那氏にこういっ た重姿な地域を数週が与えたのは、河野惣領・庶子の寧事的 衝突により問氏の持つ海上軍事力の必要性が高まったために 他 な ら な い 。 では、この忽那氏の海上問中本力はどのように使役されてい たのだろうか。このころ河野氏による動員の具体的事例が確 認できるのは、文正元年(一四六六)の恋良域合戦のみであ29 る。しかし、年次不明七月二三日の忽那通賢宛の河野通秋添 状における﹁悶之事取しつめ候ハ L かい分可加扶持候、しん るい仁等相共仁致忠節候ハヘ肝要候、いささか不可有等閑 ム 凶 } 候 也 ﹂ の 文 略 一 回 、 お よ び 、 究 正 六 年 ( 一 四 六 五 ) 九 月 三 日 の 忽 那通光宛の河野通生省状における﹁昨タロロ御出陣かへ御身 小袖ニ長万給へく候﹂といった文言により、このころ忽那氏 が河野氏によって一度ならず軍事的動員を受けていたことが 伺 え よ う 。 このころ、通春を援助する形で相内野氏の内紛に介入してい た細川勝元が、大野氏・森山氏重見氏などの伊予密内の ﹁山方﹂綴主に通春方に同心するよう働きかけていたのであ るが、教通が忽那氏と積極的に結びつこうとしたのは、こう いった通春方の動きに対するものであろう。伊予に限ったこ とではないが、こういった閤人勢力は頻々と立場を変えうる 存在であった。ー期を通じて河野惣領家による忽那氏に対す る安堵宛行が頻繁に行なわれるのはそのためであろう。年 次不明十二月一六日の忽那氏に宛てた教通話状にある﹁数年 之忠節歪今無ニ成候事あるへからす候﹂という一文が、両者 ( 刊 } の関係がまだ不安定であったことを表している。 この後、克正五年(一四六四)に、向盟関係にあった通泰 A m } ( 引 } と細川勝一克が決別し、河野宗家と庶子家の和隆を経て、もと もと河野氏の内証であったものが、河野間家と締川勝一克の対 立へと展開してゆく。当時管領であった細川勝元は幕府権力 の下、古川氏小早川氏出羽氏毛利氏。大内氏といった { 包 一 諸勢力に通春討伐令を出すのであるが、大内教弘政弘父子 R n v は命に背いて間関底島に渡海し通春の支援に回る。この奥居島 は忽那島から程近い場所に位践し、忽那島からまっすぐ松 前小淡方面へ渡る際には、興居島付近を通過することとな る。こういった地理的関係は、通春支援に回った教弘政弘 の渡海に忽那氏が関与していたという川岡勉氏の推測を裏付 けるであろう。対立の様相が変われども、忽那氏の海市争力は 変わらず動員され続けていたのである。 応仁の乱と伊予 このように国内外の勢力をも巻き込む騒乱が統く最中、機 内では応仁の乱が勃発する。当然河野氏もこれに関与してゆ ︹ 町 一 くのであるが、﹃予防河野家盟問﹄と﹃築山本河野家譜﹄の聞 で、乱に際しての河野氏の動向について記述が食い巡ってい る。前者は数通が西軍につき、過者は東軍についたとする一 方、後者には教通についての記載は無く、通春が商間半につい たとしているのである。そのため、このころの数通通春の 動きに関してはいくつかの見解が存復する。 諸先行研究を見てゆく前に、確かな点在盤理しておきた い。第一に、河野通春は応仁一万年六月から七月頃に大内政弘 i i
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に従って上浴したという点である。﹁河野﹂が政弘に従って A M ぬ ︼ 上浴したと記滅されている史料がいくつかあり、河野姓の誰 かが上治したことは確かなのであるが、この﹁河野﹂が庶子 家通春のみを指すのか、惣領教通も含むのかという点が争点 となっていた。しかし、少なくとも政弘と友好関係にあった 通春はこれに従軍したとしている点で諸先行研究は共通して おり、これには異論を差し挟む余地は無いように思われる。 二つ自の点は、遅くとも文明五年までに教湧は東軍につい て い た と い う こ と で あ る 。 こ れ は 文 明 五 年 ( 一 四 七 一 一 一 ) 、 当 時東軍側であった足利義政によって、数通が伊予守護織に補 任されていることから明らかである。一元々、数通は河野惣領 家として伊予守訟を継いでいたのであるが、康正一苅年(一間 五五)に細川勝元によってその臓を怒われている。長禄閉年 ( 一 四 六O
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には教通自身が幕府に申状を提出し、河野氏代 々 の 由 絡 を 担 当 き 並 べ た 上 で 、 伊 予 守 都 世 や 豊 後 図 臼 杓 ・ 近 江 国 鳥 測 の 恩 賞 地 を ﹁ 如 一 苅 朝 制 御 成 敗 ﹂ す る よ う 幕 府 に 求 め て い る ことからも、守護機復帰は教通の予てからの悲顕だったこと を 伺 い 知 る 事 が で き よ う 。 以上の一一点から、このころの河野氏の動静を見てゆくよで ポイントとなるのは、応仁の乱の勃発から文明五年の守護復 帰までの間の数通の動きということになろう。この点に関し て、古くは長山源雄氏の論術に、史料的根拠が無いものの、 ( 部 } 状況から考えて教述は東軍に味方したという説がある。ま た、淡泊勉氏の論稿では教通も通春同様、政弘に従って上洛 しており、前向者競合しながらも西軍についたと述べられてい A U V る。石野弥栄氏は、教通は峨峨鮮明にせず税潤したとする。 山 内 議 氏 は 以 上 一 一 一 氏 の 先 行 研 究 を ま と め た 上 で 、 詳 細 な 検 討 を加え、教過は炊峨鮮明にせず在京する一方、伊予圏内の指 即時は弟の通生が守瑞世代として執っており、その後文明元年 { 幻 w (一四じ九)頃に教過は帰闘したとする。川向勉氏は山内説 に概ね質問しつつも、教通のm m
悶年次を文明元年より早い時 A M } 刑 制 と し て い る 。 山内氏の詳細な研究から、乱の勃発時、教通は旗蛾鮮明に しないまま在京し、その後、いずれかの時期に帰閲したと見 るべきだろう。となると、論点とすべきは山内説と、そのそ れに修正を加える川岡説の相迷点、つまり教通の帰国年次と なる。これについては忽那氏の動きも絡めつつ、後で詳しく 検 討 し て ゆ く 。 では、応仁の乱勃発に際しての忽那氏はどう動いていたの だ ろ う か ロ 円 予 湯 河 野 申 氷 山 諸 ﹄ で は 、 細 川 方 と し て 参 戦 し た 通 春に従って上浴した中の一人に﹁忽那﹂の名前がある。しか し上洛した通春が、悠那氏に対して﹁同心﹂を求めたと思し き書状である︻史料 l ︼が存在することから、この記述は誤 りであろう。実際には忽那氏は上治せず、伊予にあって態度を明らかにしていなかった可能性が向い。 { m v ︻ 史 料 l ︼河野通春滋状 内 政 弘 } 就御進返事、大内新介進状像、此時分有御同心被致忠節候 者本望候、此子細逮々申候へく候、出方以都郎被任新介ウ議 候者、歪巳後可然存候、所設不日可有現形候、此方又無除 持制等閑之上者、可承子細等、不可有陥心之儀候、委縮者此 使者可申候、恐々謹言、 { 什 謹 ) ﹁ 河 野 伊 予 守 昔 名 九 郎 ﹂ 正 月 廿 五 日 通 春 ( 花 押 ) ( 泊 鬼 V 忽那新布衛門尉殿 この文惑の発給年次は不明だが、大内政弘への同心を求め ている事を恨拠としてか、﹃県史﹄は大内政弘上洛後の応仁 二年に比定している。これと同じく年次不明であるものの、 応仁二年正月二五日発給に比定されている平間男景・一房近発 給の訴状にも通券に同心すべき旨について記されている。 【 司 ヨ 其 伊 市 、 子 予
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九州聞の海域で軍事的緊張が高まったとして もおかしくはない。大分時代は下るが、永禄八年(一五六五) 五月以降、大友義鐙配下の諸将が伊予へ渡海し、松前今 津筒一生など道後地方の浦へ上陸し河野方と戦っているよう ︿ 仙 } に、九州から道後地方への佼攻は怨定されない事ではなかっ たのである。通春は九州勢の励きを危畑出し、忽那氏への合力 を 持 ち か け た の で は な い だ ろ う か 。 さて、合力の話が持ち上がっていたのは通株i
忽 那 問 問 だ け ではない。通森教通路にもこのころ合力の話があったこと を 示 す 史 料 が あ る 。 ︻ 史 料 3 ︼泰綱諮状索 於 相 関 川 川 合 戦 、 色 々 鐙 策 定 祝 一 市 給 鉄 、 大 波 候 、 仰 合 力 之 官 引 承 候、如何様急度談合仕可致奔走候、如何候、京都時申立並而日 時 二 合 兵 二 月 候 部H卜 者 少 子 八 可 予 ijiili工 日 承 州 殿 候 領 泰 地 綱 恐 之 判 々 商 謹 々 言 ^' 同 尚 候 於 器 二 弥 、 摂 ? 兵
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省 き 侠 常 三 略 、 関 候 令 、 、 談 無 恐 合 心 々 仕 元 霊童侠之 嘗 て 処 、可 奔定員 走説主 申 承 候1
畏 委 目 細 出 山内誠氏が︻史料 3 ︼を門史料 4 ︼の添状とみなし、門史 料 3 ︺の差出の泰紛が︻史料4
︼の弥三郎と同一人物である ( 担 } 可能性があるとしているように、日付と文面の一致から両文 書は関連して出されたものと見てよいだろう。﹃県史﹄では、 両文設ともに発給年次は応仁一一年に比定されている。その根 拠となったのは、両文設に見られる﹁際州(摂津国)合戦﹂ であろう。長山源雄氏はこれを﹃大日本史料﹄応仁二年正月 一一四日にある摂津諸郡攻略と同一のものとしている。﹃大日 本史料﹄に引かれているのは、東一雨寺僧正雲泉太極による記 録である﹃碧山日銀﹄の﹁正月二十四日甲山中、辰而雨下、西 事政弘之兵陥掻州諸郡一再﹂という記述である。このことから 一一四日の時点で合戦は終わっており、その報が京都までもた らされていた事が侭える。 さて山内線氏と川岡勉氏が数通帰国年次について異なった 見解を示していることについては先に触れたが、その分岐点 となっているのは︻史料3
︼ ︻ 史 料 4 ︺の解釈なのである。 山内氏は︻史料3
︼の宛所﹁予州領地之面々﹂から、京都の h K M V 教通から伊予の通生へ送られたものとしている。その一方川 岡氏は、河野氏の文書の発給主体が、このころ守護代通生か ら数通へ移っていることを指摘した上で、︻史料 4 ︼ か ら 、 数通はこの時期より先に帰国し、それと入れ替わりで通生が 在京するようになったとする。つまりこれが伊予の教遥から 京都の通生へ宛てられたものであると比定しているのであ る。氏がそう比定する根拠は明示されていないが、おそらく ︻ 史 料4
︺の文蘭において畿内で起きた摂津合戦について伝 郎した旨を記してあるためなのであろう。 両被状について、山内氏は内容に深く触れる事はしていな いが、改めて文面を見てゆくと、どちらも摂津での大内勢の 勝 利 を ﹁ 大 慶 ﹂ ﹁ 悦 ﹂ と 歓 迎 し た 上 、 ﹁ 的 合 力 之 本 承 候 ﹂ と し 、 通生に﹁奔走﹂するよう命じていると解釈できる。ここでは 明らかに摂津合戦と合力が関述付けられているのである。こ のことから、この合力というのは、数通と摂津合戦で時貨を得た大内政弘・逸春との合力と見ることができよう。前後関 係を抑測するに、かねてから教通は通春大内政弘よる合力 の誘いを受けていたものの、それには乗らず放機不鮮明を貫 い て い た が 、 大 内 勢 有 利 の こ の 郷 に 合 力 の 話 を 受 け る 窓 士 山 を 明らかにし、その旨を通生に伝えたのが門史料
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︼ ︻ 史 料 4 ︺ な の で は な い だ ろ う か 。 以上のことを受けて、通春ないしは政弘のもとへ﹁奔走﹂ し﹁談合﹂するよう命じられている通生は、この辺状が出さ れ た 応 仁 一 一 年 二 月 の 時 点 で 彼 ら と 同 じ く 機 内 に 居 な け れ ば い けないことになる。このことから、川岡説を取るのが妥当で あるように忠われる。摂津合戦をきっかけとして、﹁合力﹂ へ の 動 き が 加 迷 し た の で は な い だ ろ う か 。 ここで、合力への転機が摂津合戦であったことを念頭に続 きつつ、先の通春から忽那通光に宛てられた︻史料 l ︼を解 釈してみたい。仮に﹃県史﹄の通り、応仁ニ年発給とするな らば、この設状は先の﹃弟山目録﹄の記事の用耳目、つまり京 までその報がもたらされて問もないころに発給されたものと なる。そうすると、文哉の閤頭、川間氏が忽泌氏のそれと採 っていた﹁御進退﹂は大内政弘の摂津合戦での戦采ととれ、 政弘が﹁進状﹂たのは合戦での戦果について通春に知らせる ためであり、その知らせを受け取った通春が、大内方に戦果 のあった﹁此時分﹂だからこそ﹁有御同心被致忠節候者本製 候﹂と忽那氏を説得しているものと解釈できるだろう。﹁労 以郁郎被任新介之儀候者、査巳後可然存侠﹂と少々オーバー だと思われる表現が用いられているのも、大内政弘が今まさ に勢いに乗っている時分ゆえ、と説明がつく。︻史料 l ︺ に おける通春l
忽那聞の交渉もまた通春l
数週間でのそれとほ とんど同じ動機をもって進められていたのである。 この後、両者の談合は助れたのであろうか。それから一ヶ 月もたたないうちに、通春が誼接関同許の教通へ悶心するよう 説 得 し て い る 。 門 史 料 5 ︼河野通春怨状案 久 雌 不 ゆ 候 、 以 背 中 之 次 令 啓 鉄 、 抑 天 下 之 劇 部 協 延 々 之 様 ニ 候問、更以無覚悟候、御同心候哉、就中先年大内方重見内 務少輔以申下鉄旨、子今同前候、其後其方之一途不預御返 事候条、罷過候、仰上怒之事御兄弟之儀に狭間、不可有差 異 候 欺 、 殊 今 度 就 接 州 合 戦 之 時 賞 、 品 開 悶 補 任 之 子 細 共 候 、 於 家 名 者 可 為 間 関 刷 候 敗 、 先 以 此 時 分 布 御 同 心 、 且 中 部 口 起 、 且闘を被貫一候様に、御了間尤肝要候、委細間々可申候、恐 々 謹 言 、 一一一月五日通春(花押影) 靴制対僻殿進之候翌文明元年六月に商家方の斯波義肢が伊予国人大野氏に対 ( 刊 } し、河野惣領家通秋通生の討伐を命じており、また、その 後すぐに数通は東軍に属すようになった。このことから両者 の決別は決定的なものとなったことが侭える。 妓後に、河家決別にともなう忽那氏の動きを見ておきた い 。 ︻ 史 料 1 M ︻ 史 料 2 ︼に見た通春の危快が現突のものとな り、文明二年(一四七
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一 一 月 に 、 東 掠 と 結 ん だ 大 内 政 弘 の 伯父である左京大夫入道道網が大友親紫の援助を受けて長門 用 問 で 反 乱 を 起 こ し た 。 小 林 可 奈 氏 の よ る と 、 こ の 反 乱 の 線 、 ( 刊 } 忽那氏は道順親繁方を支緩したという。小林氏は忽那氏の 自立性という論点からこの事実を述べられているが、この出 兵 は 東 軍 万 と な っ た 教 過 の ・ 訟 を 汲 ん で の こ と だ ろ う 。 以上、応仁の乱の前後を過して忽那氏は河野宗家と去就を 共にしていたことを明らかにした。南北朝刻、帰属を替えな がら白夜に動いていたころの頂影はこのころすっかり胡削れて しまっていたのである。しかし i で述べたように教通が忽那 氏 の 離 反 を 危 供 し て い た こ と や 、 H U で述べたように通春によ る合力交渉において河野宗家に対する交渉と忽那氏による交 渉が河列に進められていることから見て、河野両家の当主は 忽那氏にいくばくかの自立性を見出していたのではないだろ うか。しかし、次期になると河野宗家l
忽那の主従隠係にこ ういった不安定感は見られなくなる。それについて次節で述 ベ て ゆ き た い 。 ∞汚野遠出回二刑部大橋)期︿ E 期V1
忽那島の直轄化 応仁の乱終息後も、帰国した教通通春によって争いは続 けられたようで、文明十年(一四七九)、惣領家との戦いに A m ) 際し、通春が大内政弘に対して援軍を要請している。文明一 四年(一四八一)に通春が死去し子の通篤へ、明応九年(一 五Q
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)
には教通が死去し子の通宣(刑部大柿)へと、両家 は代替わりを絞る。河野氏の文認発給主体として両者が並存 していることから見て、両家対立は規模を縮小しつつも存続 し て い た こ と は 磁 か で あ ろ う 。 さてこのころ通宣から忽那通乗に宛てられた文書は健かに A M 川 } 二 通 で あ る 。 通 出 品 の 死 去 が 永 正 一 六 年 ( 一 五 一 八 ) で あ り 、 通笈が当主であった期間が緩かったせいもあろうが、︻表 l ︼ の 次 期(
E
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)
発給のものと併せて見てみると、E
期を堺に 閣内野忽那聞の文設が激減していることは明白である。 次にその文書の内容に法g
してみたい。忽那氏当主は遜 定通賢通光の一一一代に渡って、河野宗家より本領安犠と東 A m v 浦検断臓を安堵されているのだが、通乗の代にはその両方が 見られなくなり、代わりに忽那氏本領であるはずの忽那島内 に存在すると思われる五名の代官臓が安堵されている。 もちろん通乗に対する安堵状宛行状がたまたま残らなかった可能性も考臓に入れなくてはならない。しかし、通乗に 対する忽那島五名代官級の安堵を、忽那胤仰の河野蔵総領化と ︽目川V 石野弥栄氏がみなしているように、このころやはり河野氏に よる忽那氏への統制力が強まっていたと思われる。その嬰悶 として考えられるのは、やはり
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において立て統いた戦乱 に忽那氏が動員されたことなのではないだろうか。伊予本土 への恕率的動員を通して、山内氏。小林両氏が指摘するよう な忽那氏の対岸地域(道後地方沿岸)への拠点の移動にます ︹ 凶 ) ます拍車がかかり、その結果、陵上の権力たる河野氏の膝元 へ よ り 深 く 取 り 込 ま れ て い っ た の だ ろ う 。 また、河野通宣は明応八年(一四九九)、鹿島(史料上は 賀嶋)衆にも旋怒を出している。山内議氏はこの鹿島衆の起 源を、忽那島から程近いクダコ島の海城に在番していた忽那 { 幻 } 氏の配下 ( H 久田子衆)に求めている。クダコ域はその地理 的関係から、忽那乱削の支城的な機能を果たしていたであろう と推測されるのだが、そういった存在がこのころ伊予本土に 近い鹿島に移っていた上、忽那氏ではなく河野氏惣領から緊 急性のない旋惑を直接受けているのである。ここにもまた、 守 護 の 権 限 強 化 を 見 る 本 が で き よ う 。 河野通直(弾正少弼)階遇制問︿置期﹀│忽那から二 神 へi
永正一六年(一五一九)に通買が病死すると、その跡を嫡 子通痘が織ぐ。文安ごろに勃発し先代まで統いていた内紛が 山 脱 却 っ て か 、 こ の こ ろ に な る と 守 護 権 力 の 衰 退 が 見 ら れ る よ う に な る 。 そ の 兆 候 と し て 大 永 一 一 一 年 ( 一 五 二 一 一 一 ) に は 配 下 の 悶 ︹ 制 調 ) 人 正 問 経 貞 が 、 事 禄 一 一 一 年 ( 一 五 二 九 ) に は 重 見 通 村 が 反 乱 を A m ) 起こしており、また伊予田出外からも天文八年(一五三九)に { ω v は細川持殴の佼攻、九、十年には大内氏配下の白列房胤が中 島(忽加山)や大三島などに襲来するといったように、まさ に内密外患の時代であった。そういった中、通直はしきりに 幕府へ贈答を行い、家鼠閲統率および領陣支配のために将軍 A m v の権威をかりようと腐心するようになる。こうして守護権力 が不安定な局面を迎えていた天文期、その内部では再び分裂 が 生 じ る の で あ る 。 応仁の乱に際しての記述伺様、天文年間の河野氏内部対立 に関する記述にも﹃予防河野家譜﹄と﹃築山本河野家殺﹄で 食い違いが見られる。﹃予綴河野家譜﹄によると、後嗣に村 上通出版を推す通践と、庶子家で通絡の孫に当る精通(当時は 通政。のちに精通に改名するのだが、以下改名後の名で統一 す る ) を 推 す 家 間 出 向 山 と の 聞 で 対 立 が 起 こ っ た 結 果 、 湯 築 を 追 われた通院通肢は通艇の本拠である米烏へ逃れ、その後、 国3
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河者の防に講和が結ばれたため通痘は帰城。情通は早世し、 弟の通授(のちの通宜)が跡を継ぐも幼少のため通夜が後見 したとある。その一方、﹃築山本河野家諮﹄には、通直と長 子附通が対立し、情通に居城を攻められた通肢は適時胤に伴わ れて来島に一一時退避するも、通牒の奮戦により湯築城へ復 帰。その後両者の講和が成り、迷ざけられた晴通に代わって 次予通宣が跡を継いだとある。双方とも河野氏が中区来島 通康ガと精通方に分裂して争ったと記している点で共通して いるものの、前者はこれを惣領・庶子の対立とし、後者は父 子の対立としている点に相違がみられる。 川岡勉氏はこれに関して、天文一一年(一五四一己を期に 文設の発給主体が通直から晴通に移りその後すぐ通践に戻っ ている事から、家殺の示すような通院の追放と復権は確かに 存在したとし、同年幕府が河野氏の﹁父子不会﹂を仲裁しよ うとしている滋状が存在する十掛から、通直・通附を親子とす ︻ m v る ﹃ 築 山 本 河 野 家 諮 ﹄ の 記 述 の 方 が 信 滋 性 が 高 い と し て い る 。 この河野氏の内乱について、寺川仁氏は親大内派の過渡親 { ω v 大友派の情通という図式を一市し、それを批刊して川岡氏は反 A 応 ︾ 大内派の通産親大内派の情通という図式を示す。異なる図 式を示す両氏ではあるものの、外交方針をめぐる当主の分裂 に家臣鴎の分裂も伴っていたとしている点で共通している。 となれば、河野氏に深く随従しつつあった忽那氏も一速の騒 乱と無関係ではいられなかったはずであるロ この騒動を見る上で着目したいのは、﹃市間行雑録﹄に収め ︻ 侃 } られている﹁郎正少開通臨御下衆少々記事局﹂である。この文 習には、河野通産の配下の人物が衆ごとに列挙されているの であるが、その成立年次は記されておらず、その性格も不明 である。石野弥栄氏はこれを天文期における河野通直(際正 少粥)の家医罰をあらわすものとし、当時対立関係にあった 通情に属する勢力はここに記されていないのではないかと雄 総している。この史料の中に﹁下島衆﹂として忽那新布衛門 (通乗)らの名が見られる。石野氏の般論に従うならば忽那 氏は通直方についていたことになろう。前述のとおり、天文 九 年 に 大 内 氏 配 下 白 井 氏 が 忽 那 臥 仰 を 攻 め て い る の で あ る が 、 この翌年に忽那配下と忠われる淡山衆に、通直より﹁一ニ嶋衆 中嶋発炎﹂につき警戒すべき旨が言い渡されていることから { ω v すると、忽那氏は通産方だったのではないだろうか。通直方 の忽那氏の本拠が大内方の攻懸対象となっている以上、通直 が大内氏と対立していたとする川同氏の示した図式の方が整 合 的 で あ る よ う に 思 わ れ る 。 さ て 、 門 表 1 ︺に明らかなように、このころ河野氏による 忽那氏への発給文設が次第に見られなくなってゆく。その一 方 、 門 表 2 ︺に示したこ神文書を見てゆくと、 E 期において 忽那氏と入れ替わるように、二神氏への安堵・宛行が増加していることが伺える。忽那氏の笈退に代わって二神乱仰を本拠 とする二神氏が台頭することについては概述したが、その転 機となったのはこの天文期の河野氏内乱なのではないだろう ' 刀 とりわけ二神氏への安堵宛行が集中の度合いが甚だしい のは、天文一四
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一一一年ごろ、通院からの安堵宛行であ り、八年間に年次の分かっているものだけでも一一通の沼状 を 確 認 す る 事 が で き る 。 一 度 家 阪 に 反 旗 を 桐 附 さ れ た 通 践 は 、 復帰後間もない時期に二神氏、中でも特に一一神弥五郎(兵庫 助、友馬助)なる人物に急接近したようである。この人物に つ い て は 後 に 詳 し く 触 れ た い 。 この時期、河野辺直来島村上通艇と二神氏の問の接触を 確認できる史料はそれだけではない。近世の地誌によって、 鹿島城主が通康、城代が二神山越前司だった時期がある事が知 ( ω 守 ら れ て い る の で あ る 。 来島村上氏が鹿島城主だったことが一次史料で確認できる ようになるのは通康の子得居通幸の代からである。しかし、 この通幸と二神氏の聞に幾ばくかの関係が認められる事か ら、先に挙げた近世地誌の記述も否定しきれないと山内議氏 は指摘している。盟期において鹿島衆(旧久田子衆)が河野 氏に直糖化されつつあったことについては先にも述べた。来 島村上通燦というのが、後に自身の実子を河野氏当主に据え るまでの権力を持つようになる人物であることからすると、 鹿島における河野氏←来島村上氏・二神氏という勢力転換を 目見ることができよう。鹿島におけるこの転換は、七島におけ る忽那氏から二神氏への転換と対応するものなのである。 同忽那氏のその後 さて、二神氏に取って代わられた忽那氏はその後どうなっ ていったのであろうか。軒期以降、一次史料にこそ忽那姓の 人 物 の 名 は ほ と ん ど 見 ら れ な く な る も の の 、 ﹃ 予 防 河 野 家 割 問 ﹄ を中心とした編築物において、戦闘末期の河野氏滅亡まで寧 事助員を受けている様子が伺える。個々の記述を鵜呑みには できないが、同氏がそのまま衰退・消滅したわけではなく、 二神氏に取って代られでもなお頻繁に動員されるだけの諸事 力を持っていたのだろう。 注目すべきは﹃予湯河野家譜﹄永禄八年の記事に忽那通乗 が衡山城を居波としていた、とある点である。街山は現在の 忽那山に比定されるのだが、そこへ忽那氏の惣絹闘が在城して いたということは、忽那氏勢力の対岸地域への移動が戦国後 期に至ってますます進行したことをな味しよう。街山城が忽 那氏の間同械であったことを確かめられる史料として、他に 可伊予官隙史﹄がある。近世成立のこの史料には、通乗およ びその子の通努がここを股械にしたという記述があるのだが、やはりこれを裟付ける一次史料は皆無である。しかし山 内治朋氏の指摘の通り、仮にこういった編築物の記械が誤り だったとしても、その一誤記の背後には忽那氏が道後側伊予本 土沿岸地峨への進出に附関与していたという認識が含まれてい た と 考 え る こ と は で き る 。 とはいえ司予防河野家諮﹄を見る限り、戦闘後期になって も 忽 那 氏 は 依 然 と し て 村 上 氏 ら と 同 様 の ﹁ 島 方 ﹂ に 区 分 さ れ 、 海上軍事力を有している事が伺える。二神氏が七島において 勢力を伸ばしたとはいえ、戦国末期まで忽那氏は﹁島方﹂領 主としての特性を有していた。水甲車的特性は残しつつもウェ イトを対岸地域に傾けることによって元来の自立性は失い、 守護権力に使役されやすい形態へ変化したのである。 先に述べたように、こういった変化の原悶となったのは、 応仁の乱前後の河野氏の内部対立によって忽那氏の持つ軍事 力の必要性が高まった事であった。忽那氏は河野惣領家に深 く従属し、その嬰誌に応えて対岸地域へ接近、その後、天文 の河野氏内証をきっか付として忽那氏の影響力の減退した七 鳥において二神氏が台頭してくるのである。 さて、次章ではそのこ神氏について見てゆきたい。 第 章 二 神 氏 の 脱 出 盛 と 戦 国 末 期 の 島 唄 部 最初に述べたように、二神氏に関しては系図に不明な点が 多い。本章ではまず系譜類に頼らず一次史料を根拠として一一 神氏系図の再構成を試み、それを踏まえたよで新たに島艇部 において台頭することとなった二神氏の趨勢について検討し て ゆ く 。 な お 、 る 。 二神氏関連の文書は一ニヶ所に分かれて伝わってい 一つはこ神島に伝わった﹁二神文書﹂、一つは松山市の 対 岸 地 域 に 伝 わ っ た ﹁ 片 山 一 一 神 文 習 ﹂ 、 一 つ は 中 島 ( 忽 那 島 ) の古木に伝わった﹁吉木一一神文書﹂である。これらの史料に 二神氏の人物の名が見られるのであるが、同時期の史料でも それぞれの文書訴ごとに免られる人物名に相違がある。これ ら三つの文怒群はそれぞれ、中世において分派した別系統の 家 に 伝 わ っ た も の で あ ろ う 。 以 下 で は こ の 一 一 一 つ 文 設 が 伝 え ら れ た ニ 神 氏 の 系 統 を 、 そ れ ぞれ使定的に本島流片山流背水流と名付けて論を進め る 。 な お 、 こ の う ち 政 治 的 動 向 の 乏 し い 吉 木 流 に 開 閉 し て は 、 紙数の都合上割愛することとする。 二神氏の系譜 本島流 ではまず二神島に伝わった﹁二神文設﹂から見てゆく。 ﹁一一神文滋﹂は全四巻、五十三点の文書からなっている。う ち ﹁ 一 一 神 文 辺 一 ﹂ ﹁ 一 一 神 文 書 二 ﹂ に は 主 に 安 堵 ・ 宛 行 関 連 の ω 円
文 設 が 収 め ら れ 、 ﹁ 二 神 文 滋 一 一 一 ﹂ ﹁ 二 神 文 怒 四 ﹂ に は 主 に 年 賀 ︹ m v 謀役関連の怒状が収められている。一一神氏の政治的動向のみ ならず島内の様子も知る事ができ、中世瀬戸内の島酬明部を知 る 上 で 食 震 な 史 料 で あ る と い え よ う 。 前半のニ巻を見てゆくと、風早郡粟芥の安岡名友兼名を 河野氏当主より数度安堵されており、また一度没収された 後、﹁逃補﹂されている例もあることが分かる。忽那氏にと っての本償安堵東浦検断職安堵と同様、この二名は二神氏 にとって援要な怒味合いを持っていたと推測される。ここが 誰に相伝されているかを見てゆく事で、本島流の中心人物の 系譜をある程度追う事が出来るはずである。 ︻ 表 2 ︼を見ると分かるように、四郎左衛門尉 l v 藤二郎 ( 左 馬 助 ) ← 弥 五 郎 ( 兵 庫 助 ' 友 出 向 助 ) と 安 岡 名 友 兼 名 が 安 堵されている。血縁について、四郎左筏門尉
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藤 二 郎 聞 の 出 品 縁は不明であるが(年次の隔たりから考えて、問問に数代挟む 可能性もある)、藤二郎l
弥 五 郎 防 に つ い て は 、 天 文 一 一O
年 に河野通底(抑正少狗)から兵庫助(弥五郎)へ宛てられた 安 堵 状 に ﹁ 一 一 神 島 作 機 之 事 、 任 親 父 友 陣 内 助 知 行 之 旨 、 進 退 不 可有相違之状郎件﹂とあるので、両者が父子であることが分 かる。勝二郎(左馬助)へのこ神島作臓の安壊状は現存しな いが、実際は安堵があったこともまた文阪から伺えよう。も しかすると四郎左衛門尉の代から安岡友兼名と併せて二神 島作職も相伝されていた可能性もある。ともあれ、遅くとも 藤二郎弥五郎の代、戦闘中期間引にこの系統は二神島内で勢 力 を 張 り 、 在 地 の 川 崎 尽 を 統 指 し て い た の で あ る 。 では、弥五郎以降の系譜はどうであろうか。これ以後につ いては所領の安堵から追う事は出来ないが、その他の河野氏 発給文殺の宛所からなら追う事が出来る。年次不明ゆっき (河野通直(牛福丸)の母)怒状の宛所は﹁さまの介との﹂ ﹁しゅりとの﹂となっている。左馬助を名乗っていることを 確認できるのは藤二部弥五郎の二人であるが、﹁しゅりと の﹂に関しては永禄i
天正年閲に修理進を名乗っている人物 が確認できるので、この人物に比定されよう。またこのこと から﹁さまの介との﹂は永禄年聞にその名を確認できる弥五 郎のことであると推定される。当時の二神流当主や五郎と共 にゆっき怒状に名を併記されている修理進は本島流において 弥五郎に次ぐ地位をもっていたのだろう。後述するように、 天正のころ大友義統と提携しつつ、河野氏に反逆した来島村 上氏の通総を援助している窃から、この修理進は弥五郎の後 に木島流を継ぎ、守護家に対して自立的な動きを見せた人物 で あ ろ う こ と が 推 測 さ れ る 。 河野氏滅亡後の天正十五年三五八七)八月十八日、一戸間 勝監の命で検地のために二神島に入ったと忠われる佐藤兵 士悶多馬久古から﹁しゅりとの﹂﹁弥五殿﹂へ年只の勘定についての部状が出されている。﹁しゅりとの﹂は修理進であ ろうが、﹁弥五殿﹂は先の弥五郎ではなく、天正八年に﹁弥 五郎﹂の仮名浅山山を通誼(牛福丸)より受けている相生に比 定される。史料上確認できる年代が修理進のそれと重なるこ とから、相生は修理進に次ぐ地位にあったのかもしれない。 天正一二年に二神亀松なる人物が﹁新四郎﹂の仮名書出を通 直(牛揺丸)より受けているのだが、この新聞郎と向一と忠 われる人物が、近世初頭のものと思われる迷習に二神村の代 門 別 ︼ 表 者 と し て 議 印 を 捺 し て い る 。 一 一 神 氏 は 近 世 以 降 帰 山 脱 し た こ とが知られている。新四郎の代にはすっかり本島流ニ神氏は r 自 体 身 分 に な っ て い た 事 が う か が え よ う 。 以上述べてきた本島流の系譜を再度まとめると、四郎左衛 門尉←藤二郎(友局防)←弥五郎(兵庫幼左馬肪)←修理進 弥五郎(相生)←新四郊(亀松)というようになる。同氏は 天文期に急速に台頭していった弥五郎(兵庫助左馬助)の 代に全盛を迎え、戦国求刑制、修理進の代に自立的な励きを見 せるものの、その後近世初頭にかけて武士身分を失うのであ る 。 ま た 、 網 野 義 彦 氏 も 指 摘 す る よ う に 、 ﹁ 二 神 文 辺 一 一 一 ﹂ ﹁ 二 神 文滋四﹂の中に、二神島の年賀が﹁二神殿(島内の作臓を持 っていた本島流当主のことかとのみではなく、﹁村上殿(能 鳥村上氏)﹂﹁今岡殿﹂にも約められていたことを示す注文が 一 " と あ る 。 こ の こ と を 示 す 史 料 の 初 出 は 永 正 一 一 年 ( 一 五
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五 ) で 、 終出は永禄元年(一五五八)であり、一一神藤二郎弥五郎の 時代と重なる。この父子は能島村上今岡となんらかの関係 を持っていたのであろう。能島村上氏も今岡氏も河野氏配下 の水寧的領主として知られている一族なのであるが、忽那氏 の力が衰退した七島海域に少しずつ影響力を及ぼすようにな った両氏に対し、二神氏は自領からの収入の一部を納める事 で 協 調 を 計 っ た の で は な い だ ろ う か 。 片山流 次に﹁片山二神文怒﹂について見てゆきたい。同文書は全 十通からなっており、本島流の﹁一一神文書﹂に比して分殺が 圧倒的に少ない。以下、片山流の系一諮を追ってゆきたいので あるが、本'防流における安岡名や友兼名のような相伝の所領 をここから見出す事は困難である。そこで、官途名を手がか り に そ の 系 山 識 を 追 っ て ゆ き た い 。 ﹁ 片 山 二 神 文 品 川 町 ﹂ に お い て 、 隼 人 佐 の { 呂 途 が 宛 所 と な っ て いる文書が間通見られる。少なく見積って、隼人佐の官途を 持 つ 人 物 は 一 一 人 ( 長 事 期 の 隼 人 佐 と 天 文i
永禄期の隼人依) 存在する。前者の後、問に数代はさんで片山流の当主となっ た の が 後 者 な の だ ろ う 。 ま た 、 弘 治 一 一 一 年 ( 一 五 五 七 ) 村 上 通 威 容 状 の 宛 所 に 、 隼 人 i i4
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佐と並んで﹁其外郷衆中﹂とある。向じく﹁片山二神文書﹂ に﹁宅波一一神衆中﹂という集団が宛所になっている文滋があ ることから察するに、﹁其外御衆中﹂にはこの﹁宅並一一神衆 中﹂がふくまれていることが推定される。 この宅扱衆とは、七島の対岸地域に位置する宅並域を本拠 地とした二神氏配下の集団と挽測される。一一神氏の系図によ ると、いつのことかは不明であるが稀陵なる人物が宅並域に 移ったとある。系図の不備については既述したが、二神氏の 一統が島興部から宅並に移り、ここで綜叫慨するようになった のが宅設衆である可能性はおい。﹁其外御衆中﹂という宛所 の文言から、片山流二神当主である隼人佐と宅波衆は主従の 関係にあったことが伺えよう。 また、年次不明十月一一十日怒状にて、今日敵が動くという 訴を聞いたので、明日﹁人数等﹂を泣わすよう、河野遜笈 (左京大夫)から孫右衛門と﹁其外衆中﹂が命じられている A m } のである。この孫右衛門と同時期の文書に日比られる当主と思 しき隼人伎との関係は不明であるが、片山流の中心的人物で あろうことは確かである。これに対して本島流の人物から片 山流の人物に対して何かしらの命令が出されている例はな い。つまり、片山流は本島流の支配下にあったわけではな く、直接河野氏に従属していたのである。 さて、以上のことを念頭に佼き、︻史料 5 l a ︺ ︻ 史 料 5 1 b ︺ を 見 て ゆ き た い 。 ( 腕 } 門 史 料 5 1 a ︼ 河 野 氏 奉 行 人 連 盟 世 奉 引 曲 家 日 k A泌 ︺ 一ーよ窓之儀、来嶋被相背上者、向後牛絵丸江御刑判間有間放 候 事 、 { 弔 問 ﹀ 一 一 ⋮ 均 実 父 子 芳 江 於 向 後 、 無 刷 出 心 可 被 仰 談 事 、 一河野郷反役職、各江可被仰付事、 一土民分、問秋光分、可被進事、 一 日 出 坂 神 助 知 行 分 、 正 拘 束 分 可 被 進 事 、 一 一 来 上 分 事 、 一 難 波 正 問 問 二 五 拾 冊 以 分 可 被 進 事 、 一彼五ヶ所者米給之芳江可被進事、 一各本衆井者、御進退之新給次目之御判不可有相違事、布 之燦々、努急度於御忠節者、無相違可被仰付者也、 { 例 化 d 永 禄 十 一 一 一 年 騎 馬 平自 十 二 月 朔 日 田 山 笑 二神修理巡殴一候ー器
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子 儀 】 労 河 江 ヨ長野 於 嶋 氏 向 被 卒 後 相 行 背 人 上 述 者号哲也白
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山 ) ^' 御 約 国 有 間 数 以 無別心可被仰罰事、一 河 野 郷 反 役 職 、 各 へ 可 被 仰 付 事 、 ル 机 克 一 土 屋 分 隠 匿 光 分 可 被 進 事 、 一 一 出 坂 神 幼 知 行 分 、 正 問 策 分 可 被 進 事 、 一 栗 上 分 帯 、 一 難 波 正 問 問 ニ 五 拾 食 分 可 被 進 本 、 一 彼 五 ヶ 所 者 、 米 給 之 芳 江 可 被 進 事 、 一各本衆労御進退之口衆亦闘目之御判不可有相違事、右之 様 々 、 努 急 度 於 御 忠 節 者 、 州 知 相 違 可 被 仰 付 者 也 、 永 禄 十 一 一 一 年 十二月朔日 中 人 位 二 神 修 理 進 殿 其外宅並衆中 IJJf- 主,,, 奨四周ト 門 史 料 5 l a ︼ は ﹁ 二 神 文 書 ﹂ に あ る 文 詩 家 で 、 ︻ 史 料 5 l b ︺ は﹁片山二神文禄﹂にある文治案である。その文面から、同 文設は同一の正文を写したものと考えられるのであるが、諸 所 に 差 異 が 見 ら れ る 。 一 品 市 大 き な 差 異 は 宛 所 、 ︻ 史 料 5 1 a ︼ で﹁修理進殿﹂となっているものが、門史料 5 l b ︼では﹁修 理進殿﹂が見せ消ちとされ、﹁隼人佐殿﹂に訂正されている 上 、 ︻ 史 料 5 a ︺には無い﹁其外宅並衆中﹂の名が記されて いる点であろう。これを怒手の際の単なる誤写とみなす事も 出米ょうが、﹁一一神文設﹂にある案の宛所の修理逃が当時の 本島流の中心人物であり、﹁片山二神文議﹂にある案の宛所 の隼人佐が当時の片山流の中心人物でありかっ宅並衆が片山 一一神氏の配下にあったと考えられる点、また同年発給の文書 に 向 じ よ う な 事 例 が も う 一 級 あ る こ と か ら ( 永 禄 十 一 一 平 士 一 月 の 迫 某 剤 一 一 一 骨 自 五 買 に 関 す る 河 野 牛 旧 制 ( 通 位 ﹀ 安 陣 地 状 で 、 ﹁ 二 神 文 治 L に あ る ︽ ω m v 文治事の宛所が﹁修班進殿﹂となっており、﹁片山二神文治﹂にある文書案 ( m w } の 宛 所 で は 、 ﹁ 睦 理 進 殿 ﹂ が 見 せ 消 ち と さ れ 、 ﹁ 部 人 位 殿 ﹂ に 訂 正 さ れ て い る ) 、 この宛所の相違は怒図せざるミスからくるものではないので はなかろうか。どちらかの案文には作為的な改作を加えられ た可能性、すなわちその背景に河系統の対立の存夜した可能 性を指摘できよう。自己の領有権の正当性を主張するため に、どちらかの流派が偽文設を作成したのでは無いだろう か。対岸地域を本拠とする片山流はもちろんであるが、対岸 の 領 地 を 相 伝 し て い た 本 島 流 も ﹁ 河 野 郷 反 役 職 ﹂ ﹁ 楽 井 一 一 一 分 什五貫﹂といった権益に興味を持ったとしても不自然ではな 、 。 以上、少々脱税であったが両系統について系訴の再織成を 試みた。文中では触れなかった人物も含め、一一神氏の人物の ︻ 叩 ) 相関関係を図示したものが門表
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︼である。不確定要素が多 くまだ存分に議論の余地はあろうが、ひとまず本稿ではこの 相 関 関 係 に 則 っ て 論 を 進 め た い 。4
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人物関係図 o z x 片 閑 凶 m a を 跡 内 寸 前 場 ω 4 守 佐 町 刊 守 嗣 l i 中人長 leetV遜 盛 傘 儲 孫右衛門 天文14(1545)河開分を宛行われる[1751片} 。 河野遠宮(左京大夫)より採取効駄を交ける [1苅2ニ] 棟三郎 災:::5C1附543}和気郡肉ー-11)を宛行われる【m 9片] 天文21(1552)友近名を宛行われる[1781片]二二ゴ〉傘人佐
天文15(¥5国2)父"潔守の良部を相続【1153片} 弘治3(1557)ifla;との利水権争協に関して村上過履から3害状を受け取る【1614片] 永 禄13(1570)河野氏署長行より九ヶ条を受ける(俗文容か)[2107二] 迫粟弁を宛行われる(偽文書容か)[210~ 片】 [ l肉の数字lま『県史』の史料番号。ニ=二神文著書、片=片山二神文書、野=野坂文芸書4
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町 商 丙 蔚 薬草i
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文明 11(1479) 安伺ー友禁ー宮崎を犯行われる [1486ニ} 文明 13(1401)商山題点により鼠尽都手作分段銭を納入される [1499ニ3 v 議金 、 レ 式部丞 文明18{148ゆ 遊 金 跡 給 食1豚を裕続 [1530=] 。 当備公務について早悶扇雀から指示を受ける [1531ニ] 藤二郎{友賂助) 永定 17(1520) 安悶友蒸奮闘を宛行われる [1625ヱ] 。 河野道直(製正少弼のljl"状を焚ける [1626ニ] 。 御 原 与 三 割 問 醐 こ つ い て [1627ニ1 ワ 左 賂mの宮芝生祭出を到する [1028ニ〕 ψ 勝五郎(濁康?・兵庫助・tr.隠劫) 天文 11(1542) 安岡宮前,友棄を宛行われる [17HI二] 天文 13(1544) 兵悠助の官途寄舗を受ける [1145二】 天文 14(1日5l松家和泉守に苅際分ω 町宛行を箆ける [1748ニ] 安岡宮前ー友紫の温織を焚ける [1750ニ3 天文20(1551) 二神&作聡の安舗を受ける [1773ニ] ? 河野遜i!!(l原正少琵)1:ニ神島に居留することを終される [1714ニ] 天 文21(1552) 二神謙三郎先知行分の宛行を気付る [11関ニ] ど-永 線6(1563) 友掲劫の費途省出を 5をける [1902ニ1 " 元亀2(1511) 商阻俄分犯行をSをける [2112=l ? 得能"'撃に材木鐸供 [223泊二1 今 弥五8附担金ヘ1!!状を出す[2Z4S二] 種刻〈回兵衛) 天 文12(1543) 村上通磁の使者を務める [11匂注予} v 友篠r
,尉 天文 14(1545)火消J¥tl神主磁を施行われる [1749二] 天文 2代1552) 袈弁段役絡を宛行われる臼110=] 修理退く一一一一一一一 W閣 保 永 線13(1510河野氏著者市より九ケ栄を受ける [21OCヱコ 追・粟弁を宛行われる [2110ニコ 天:iEl0(1582) 特上通路フーとして戦う [2440片] 天iEl2(lS64) 大友義統より通函伺聞に関する筈状を受ける [2440片] ;:;:::iE15(15S刃俄稼早苗多馬久吉より念事気勘定に羽する醤状を受ける[ニコ ? 得"遜拳に符木復供[国39ヱ3l
担 問 )ヌi'ES(158ω 弥五郎の仮名望号出を受ける L2244ニ1 3定蕊15(1587) 佐沼早宮多属久吉より匁頁卸定に闘する奮状を受けるfニ1 新四郎(亀松) 実iE14日5!回新聞郎の仮名書凶を受ける [2410ニl J!!l義2(1597) 線知石盛主文に名が見える[ニj "畏18(HI13) 足立省半部門より竹木の伐採を然じられる【ニ] ? 足立半右衛門からのi1-m=1三二神村代表として鈴勿[ニ1 [表 3]二神氏 溜主面詔有脊葬亙琢ヨミ 実 線 の 矢 印 は 音 量 接 の 相 続 と 思 わ れ る も の 。 点 線 の 矢 印 は 問 に 数 代 は さ ん で の 相 続 と 思 わ れ る も の 。4
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口二神氏と村上氏 既述のように、天文期の河野氏の分裂が島艇部転換のタ! ニングポイントと考えられるわけであるが、ここではこの内 乱 に 二 神 氏 が ど う 間 関 わ っ て い っ た か 詳 し く 見 て ゆ き た い 。 先に示した、天文の内乱の様相を示すとされる﹁郎正少郎 通底御下衆少々記駕﹂に見られるこ神姓の人物は、﹁難波衆﹂ の 隼 人 佐 孫 布 術 門 新 左 衛 門 和 泉 守 越 後 守 ・ 修 理 苑 の 六名である。このうち隼人佐孫右衛門は先に見たように、 片山流の中心人物と考えられる。このように片山流の中心人 物の名前が見られるにも関わらず、天文年間に木島流当主で あった弥五郎の名がここにない。片山流は天文期の内乱にお いて通直方についており、本島流は精通ナーについていたので はないだろうか。天文十一年(一五四一一)、本島流当主弥五 郎へ情通から安岡・宮前友包を安堵され、その一一一年後には 通直から向地を巡補されている山掛からすると、弥五郎は当初 附通についていたものの途中から通践方へ寝返り、その際精 通から安堵された領地を没収されたが、その後に滋補された の で あ ろ う 。 とするならば、この弥五郎に対する天文期におけるまとま った安堵宛行は、政権に復帰したばかりの通直による本島 流懐柔工作と解釈できる。河野氏当主に反旗を蜘附した勢力が 制裁ではなく逆に厚遇を受けており、ここから守護権力の弱 体ぶりが伺えるのだが、それのみならず、守設に自立的行動 への危機感を慈起せしめる点にI
期およびそれ以前の忽那氏 との類似を見ることもできよう。 一 方 、 先 の ﹁ 郎 正 少 凋 通 直 郷 下 衆 少 々 山 山 山 一 潟 ﹂ に お い て 片 山 流 の 而 々 が 得 印 刷 治 部 少 帥 酬 を 中 心 と す る ﹁ 難 波 衆 ﹂ に 所 属 し て いることから片山流が陸地側の勢力に如組織されていた事が伺 える。少々時代が下るが、﹃予防河野家訓践によると天正一万 年 ( 一 五 七 一 一 一 ) 、 伊 予 殴 人 大 野 氏 が 長 家 我 部 方 に つ い て 謀 反 を起こした際、この討伐に一一神氏も動員されているのである が、そこに名が見られるのは隼人佐孫右衛門越後守であ り、やはり片山流と思しき人物ばかりである。本来島腕部に いた片山流であったが、対岸地域へ移動することによって使 役されやすい存夜になるという、 E 期以降の忽那氏と同じプ ロセスで河野氏への従属度合を高めていたのである。 さて話を本島流に戻そう。先に忽那氏との共通項を見出せ た木島流であるが、忽那氏にはなしえなかったことも行って いる。それは守護権力への介入である。戦闘後期、能島・来 島両村上氏や平限氏のような河野氏に従属していた領主岡山が 弱体化した守護権力の中綴において力を振るうのであるが、 本島流二神氏にもその徴誌が見られる。︻ 史 料 6 ︼二神積牒書状 な を / t ¥ 御ちんへもさかなをもたせ候て、かしまへの人も われらよりよ申伎、甲山ゑもしをさかなやり中候、このよ し修理殿へも口口口申候、又それへもめはるかす十九進 候、武士同への人舟おもさくしつわたし候、くハしく新兵衛 へ申候、又申候こよミをうっし候て給候、文巳月廿五日 わ さ と 市 中 す 候 、 そ こ も と 御 番 ニ ゆ た ん な く か ん や う ニ 候 、 す こ し も ゆ た ん 侠 て ハ 、 く せ 事 に 候 、 又 あ こ 土 ゑ ↑ も ち き ゃ うの事たのミ入候儀ねころ申わたされそろするきかんやう に候、しんかいあこ L を よ く f t 、 た の み 候 て 、 せ ん と の な りに申候事わりのきわいつれ/ヘきんとわたりそろす閥、 申へく候のよしあもしゑ申候、ゆたんあるましく候、ひん き い そ 候 閥 、 あ ら ま し 申 候 、 恐 々 訟 一 一 吉 田 ニ か み 主 可 助 一 一 一 月 廿 八 日 種 燦 ( 花 押 ) ︿ ウ ハ 治 ) ﹁ ( 沼 引 ) 弥 五 郎 殿 ま い る ﹂ この辺状の差出の二神種康は、左馬幼の官途から藤二郎 (左烏助)か弥五郎(兵庫助・左馬助)の事と思われるが、 文 中 に 見 ら れ る 能 島 村 上 氏 の 武 士 百 の 生 没 年 ( 一 五 三 一 一 す ・
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四)から後者である可能性が高い。とするならば、文中 の﹁修恕殿﹂は修理進、宛所の﹁弥五郎﹂は弥五郎(相生) に比定される。この怒状から読み取れることとしては、①種 通 は 鹿 島 へ ﹁ 上 市 中 ﹂ し た こ と 、 ② 能 島 の 村 上 武 士 口 と 交 流 し て いたこと、③弥五郎は現在﹁御番﹂に当っており、幅制践の元 にはいないこと、③議艇は弥五郎に対し、知行のことについ て﹁あこ斗﹂を紋むよう言っていること、などであろう。 先述の通り、このころ鹿島は村上通康の子、得居通幸の支 配下にあったと思われる。そこへ①のように種凝が﹁さかな﹂ を進上し﹁上山中﹂しているということは、来島村上氏に対し 本島流二神氏が何らかの口入を求めたと解釈できる。宛所の 種康という実名が、通践の関川務を受けたものであるという憶 測 も 十 分 成 り 立 ち う る 。 ②の武吉との交流については、先述したとおり一一神島の年 貢の内に能島村上氏の取り分があった事と関係しよう一。天文 期の弥五郎(緩燦)が河野氏より大泣の安堵点宛行を獲得し た災には、①と②に示されているような岡村上氏との凶係が 前 提 と な っ て い た に 違 い な い 。 ③ の ﹁ あ こ tこ に つ い て 、 商 問 用 和 美 氏 は 河 野 通 砥 ( 牛 箔 丸 ) 品 伯 ︼ に近侍していた二神氏出身の女性であると述べている。種康 は こ の ﹁ あ こ ! ょ を 通 じ て 所 組 閣 の 使 { 与 を 悶 ろ う と し て い る の であろう。河村上氏のバックアップのもと木烏流一一神氏は身内の人物を河野氏当主の近くに送り込んでいるのである。 50 白村上通総の謀反と戦毘の終駕 ( 例 ) 永禄十年(一五六七)に村上過康が死去する。その後、来 島村上氏を継いだのは通康の子で門事平の兄弟にあたる通総で ある。この通総は家管継承直後の元抱一五年(一五七