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経済動向を示す値と経国済民の関係 : 前編:収支バランスと経国済民 利用統計を見る

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山梨大学教育学部紀要 第 26 号 2017 年度抜刷

前編:収支バランスと経国済民

A Gap between Economics and Education of Economy Part5

宇 多 賢治郎

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経済動向を示す値と経国済民の関係

前編:収支バランスと経国済民

A Gap between Economics and Education of Economy Part5

宇 多 賢治郎

Kenjiro UDA

キーワード:合成の誤謬、節約、家、財政、社会科 1.はじめに

Mark Twain: “What gets us into trouble is not what we don't know. It's what we know for sure that just ain't so.”

 本紀要の前身である『山梨大学教育人間科学部紀要』、第 16 巻から、「経済学」の基礎理論があくま で経済「学」を知るための基礎であり、社会科教育で公民として把握する「経済」の基礎とは乖離が あることを示してきた。これらの説明を踏まえ、本稿を前編とする二本の論文では、財政などの「収 支」と「経済成長」の、「経国済民」とのつながりを確認する。  そのため前編にあたる本稿では、支出増が問題とされている政府の財政収支を含む「収支」を説明 する。これまでの論文では、辞書の定義と日常で使われる意味に相違があることを示し、その理由を 説明してきた。例えば、「経済」の語源は「経国済民」と説明されながら、日常ではその意味とはかけ 離れた「節約」や「金儲け」といった貨殖術的な意味で使われている。しかし、これは言葉が変化し たのではなく、社会構造の変化によって、意味が対象とする範囲が変わったことによる。つまり、「家」 や「社会」と呼ばれる人の「集団」の構造が単純であれば、「収支」つまり金や物の出入りを管理し、 「節約」をしていれば「経国済民」を達成することができていた。これに対し、「国家」が巨大化、複雑 化し、多種多数の「家」を内包するようになれば、それぞれの「家」が「節約」をすると、「国家」規 模では「経」(流れ)が細くなって不況が生じ、「経国済民」が達成できなくなる。  このような構造や関係が複雑になった経済を理解するには、「家」の意味の多様化によって生じた変 化を、俯瞰して構造的に把握、比較できるようになる必要がある。そこで前編にあたる本稿では、「収 支」に焦点を当て、人の集団の規模や形態によって「収支」の意味が異なることを説明する。  なお、前後編で説明が完結するよう、また教育関係者を想定して立論した結果、今回の二本の論文 には以前の論文で説明と重複する箇所があることをあらかじめお断りしておく。また、本稿は経済学 の基礎理論を用いて社会科教育の中で経済の要点を説明するものであり、経済学の基礎理論を否定す るものではないことを明言しておく。 2.前提 「経済」と「家」の意味の確認  本稿は社会科教育の立場から経済を理解することを目的とするため、初めに小学校の学習指導要領 の内容を確認する。宇多(2016b)で図示したように、1~2年生にかけては経験や体験を通じて身近 なことを確認する生活科の授業が行われる。その「私」の見直しの後、3年生から6年生までの4年

山梨大学(教育学部 准教授)kuda@yamanashi.ac.jp、研究紹介 Web サイト(http://www.geocities.jp/kenj_uda/)

 今回も本学部皆川卓氏には、西洋史を専門とされる立場から貴重な意見をいただくなど、執筆の際は大変お世話 になった。ここに記して感謝申しあげる。なお本稿の文責は筆者に帰す。

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間に日常、自身の経験や体験だけでは学べない部分を学習する社会科が行われる。この社会科では、 3~5年生にかけて把握する空間の範囲を日本国内まで広げ、6年生に日本国の成り立ち、つまり歴 史を教え時間的把握を済ませた上で、国家の仕組みを学ぶ。  また、この時の説明では踏み込まなかったが、3~5年生の空間的把握の作業は二段階に分かれて いる。第一段階は、3~4年生で行う、児童の視野を自身の身の回りだけの狭い範囲から日本国まで 広げる作業である。この段階は、学習指導要領でも一くくりにされており、教科書も3~4年生の教 科書を上下二冊に分けており、学年別とはしていない2 。また、この段階の学習指導要領の目標の箇条 書きは「地域」で始まり、「地域社会の一員」、つまり「私」の視点で説明がされる。  これに対し第二段階、5年生になると箇条書きは「我が国」で始まり、説明も「私」から「公」、つ まり小学校における社会化教育の目標である「公民的特性」を育ませることが明確にされる。つまり、 3~4年生は「私人」の視野を広げることを目的としているのに対し、5年生以降の目的は「公民」 の視点で日本国という社会、人の集団を俯瞰して捉えることに変わる。  このことを踏まえ、「経済」の意味を確認する。以下は、『大辞林』(第三版)の説明の四項目のうち、 2番を宇多(2016a)の論証を踏まえ、2番の「世」を「国」に変更したものである3 。 1.物資の生産・流通・交換・分配とその消費・蓄積の全過程、およびその中で営まれる社会的 諸関係の総体。 2.国を治め,民の生活を安定させること。(原文は「世を治め、」) 3.金銭の出入りに関すること。やりくり。 4.費用が少なくてすむこと。節約。  〔「経世済民」または「経国済民」の略。「和英語林集成」(1867 年)に訳語としてeconomy と載 るのが早い例〕  このままでは、四つの異なる項目があるように見える。しかし、1番の説明は経済を俯瞰して捉え たもの、2番は1番が良好に機能している状態を示す四字熟語であり、短縮する前の語源を示したも のである。つまり1番と2番は公的関心に基づいて、広い視点で捉えている説明であることが分かる。 一方、3番と4番の説明は私的関心に基づき、狭い視点で自身の関係する「経済」、つまり私的関心に 基づいて経済全体の一部に焦点を絞った説明であることが分かる。また項目の順序から、日常的に多 く使われるのは3番、4番であっても、意味としては1番、2番の方が重要であることが確認できる。  また、3番と4番の意味は自身の欲に直接関係ある部分なので、個人差はあっても、私的な体験を 通じてある程度は身に着くものである。しかし1番と2番のような、巨大な構造を体系的に把握する のは、経験だけでは困難であろう。  また、本稿で説明する「収支」は、同辞書によれば「収入と支出」、つまり「金銭の出入り」のこと である。つまり、「経済」の説明の3番にあたり、「収支」は「経済」の流れとしては一部であることが 確認できる。  次に、「economy」の語源である「oikonomíā(家政)」の「家」(ギリシャ語:oikos)の意味を確認する。 ここでは、「家」の概念を説明している『世界大百科事典 第2版』を引用する。  日本の家も西欧のファミリーも、その基本的機能は成員の生活保障にある。だからこそ血縁者 2 2017 年3月に発表された『新学習指導要領』では3、4年生の目標は分かれているが、執筆時点ではそれに合わ せた教科書が作成されていないため、本稿では前の 2011 年の『小学校学習指導要領』を説明に用いた。 3 「世」を「国」に書き換えた理由は、宇多(2016a)を参照。また使用例も省略した。

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のみでなく、他人もいれる必要がでてくる。英語のファミリーfamilyの原義は家の使用人たちで あった。歴史とともに社会が安定し、生活が容易になれば、他人を必要とせず、血縁につながる 近親者の小集団に縮小してくる。しかし、家の血縁に対する考え方は国によって違う。  この「社会が安定し」という箇所を、社会科教育の視点から説明すれば、社会は「成員」によって 構成され、「成員」が安定させようと努めるもののはずである。しかし、規模が大きくなることで、そ の必要性が実感しにくくなり、また自身が反する行動をとっても揺らぎにくくなるため、関心が薄れ てしまいやすくなる。しかし、宇多(2016b)で複数の辞書を用いて説明したように、社会も「家」、 人の集団の性質を持つ4。つまり、大きい「家」である国家や社会も、核家族のように小型化した「家」 も、「成員の生活保障」を目的とするものである。そのため、小さな「家」が内包される大きい「家」 である社会が不安定ならば、一族徒党が「お家」を守らなければならなくなる。逆に、安定していれ ば小さい「家」の規模で人を含めて必要なものを抱えずとも、大概のものは大きな「家」で金を出せ れば入手できるから、核家族化されやすくなり、また一人で生きることがしやすくなる。これにより、 国家という大きな「家」の中に「家庭」、「家族」レベルの小さな「家」が組み込まれるという構造が成 立することになる。 3.様々な「家」(集団)の「収支」の違い 3-1.「収支」の意味  このような形態や状況の違いを踏まえ、それぞれの「家」の「収支」の特徴を示していく。そこ で混乱を防ぐため、以降は大きな「家」を「国家」、小さな「家」はマクロ経済学に倣い「家計」 (Household)と記して区別する。また、上記の「成員の生活保障」を行うはずである「家」の中には、 今日の「企業」のように一見、「家」とは言い難い構造になっているものもあるため、「集団」と表記す る。  まず「収支」とは、この「集団」の境界(際)を越えた金を方向の別、つまり「入」と「出」のそ れぞれの動きの別に計上し、「入」の額から「出」の額を引いたものである。例えば、『国際収支統計』 ならば、「国家」の「際(きわ)」つまり国境を越えた金の差、財政ならば政府の収入と支出の差にな る。この時、「集団」の外から内への金の動きはプラス、逆に内から外への動きはマイナスとする。  ただし、「出納帳」や国際収支統計のように、ある集団の金の出入りを記録する場合は、「支出」とは 一定期間にその「集団」の「外に出た金」を指し、「支払った金」ではないものも含まれる。この場合、 誰かに金を貸す、銀行に貯蓄するといった、他人に渡った金は「支出」扱いになる。そのため、ある 期間内に人に金を貸した額が戻ってきた金よりも多ければ、赤字として計上される。このことから、 「国際収支」の一項目である「投資収支」、国境を越えて行われる投資の場合は、外国から日本への投 資よりも日本から外国への投資額の方が大きいことから、赤字となる5  また、「収支」は一定期間の間の金の動きでしかない。例えば、特定の目的のための収入と支出の時 期がずれれば、収入があった時期は黒字、支出をした時期は赤字になる。さらに、国外との取引の評 価を日本円換算で行う場合、収入と支出の換算する時期が異なれば、所有している外国の通貨では黒 字であっても、日本円では赤字と評価されることもおこりうる。  これらのことから、赤字を即問題と短絡的に結び付けるべきではないことが分かる。しかし、日常 4 このことから、今日の「経済」の意味は「political economy」(政治経済)であり、「家政」ではないという説明は、 今日の「国家」や「社会」の役割と責任を無視することによって成立するものであることが分かる。 5 その結果、投資の見返りである「投資収益」が黒字になるという、黒字と赤字の表裏の関係が成立する。そもそも『国 際収支統計』は、全項目を合計すると収支がゼロになるように作成するため、経済の動きの良し悪しを説明する には限界があることに注意する必要がある。

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的な家計簿の場合は、赤字は金の使いすぎ、つまり消費過多が原因であることが多いためか、こう いった会計や国際収支統計の定義を無視して、「赤字=悪」と決めつけた説明につい釣られてしまう。 3-2.原始的な「集団」の場合  このように「赤字」の意味、またそれがもたらす影響や問題は、その集団や状況によって異なる。 そこで次に、これまでの論文で説明してきた「経済」や「社会」の意味のように、収支の意味も人の 「集団」の構造によって異なることを確認する。そこで、初めに原始レベルの、社会の規模が小さく構 造が単純な状態、つまり集団」内の成員で「産」み出した収穫を「共」有物とする社会構造を想定す る6  まず、この状況で他集団との接触がない場合は、これまで説明した金銭的な「収支」は存在しない ことを確認しておく。「収支」は集団の境界線を越えるものであり、他集団の存在とその集団との取引 を前提とするからである。また、この場合は「金」は存在しないため、労働力とそれによって自然か ら得た「成果」である物の動きを説明する7  このような単純な人の「集団」と、自然との関係を示したのが、図1左である。  このような状態で考えるべき「収支」の相手は、他の集団ではなく、「自然」(しぜん、野生)になる。 つまり、この場合の「収」とは自然に対して狩猟や採集、文明が発展すると牧畜や農業といった働き かけの「成果」であり、人の役に立つものを一方的に自然から得る行為が生産活動になる。この場合、 「成果」は自然への働きかけ、つまり狩猟採集などの結果であるから、努力が結果に結びつく保証はな い。これに対し「出」は、「集団」内の消費活動になる8 。この消費、単純に収穫物である食糧の消費は、 生産に比べれば簡単に増やすことができる。単なる消費だけでなく、保存方法がない、あるとしても 失敗して腐らせてしまったなどの喪失、また配慮のない者達による浪費などの要因から、その管理は 困難になる。この場合、「節約」という管理方法が「経国済民」のための手段となるため、その集団を 治める者は、節約や管理の権限を持ち、責任を負うことになる。また「集団」の規模が拡大し、自然 をただ利用するだけでなく、道具や施設を作る、つまり「投資」により「資本」を蓄積し、生産性を 上げるようになれば、その管理や維持は一層難しくなる。 6 ここれを「原始共産制」という。 7 本来ならば、「金」でなく「貨幣」と表記し、「貨幣」の意味を説明する必要がある。しかし、本稿の目的である「収 支」の理解のためには不要なため省略し、汎用の「金」という表現を用いることにする。 8 消費の結果の廃棄物や排泄物等は、肥料やリサイクル資源などの使い道がない限り、価値がないものであるため、 「出」とは扱われない。 図1 原始的な「家」(集団)の物の流れ (左:原始的な労働力と生産の関係、右:他集団との取引)

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 この説明で難しいのは、「価値」の意味である。「価値」として同一視されているが、労働を直接的な 食料の採取、つまり消費を目的に生産するのか、それを容易にするための道具作りや施設の整備など の投資を目的に生産するのかで、同じ労働でも内容や得られる成果は別物のはずである。しかし、こ こでは人が得た成果として同一視する、という方法が採られている。これにより、GDP のように、成 果を同一の基準で測り、計上することが可能になる。  次に、他の「集団」と接触し、「取引」が生じた場合を説明する。この他の集団との取引を含め、生 産と消費の関係を示したのが、図1右である。  他の集団と取引を行うのは、その「集団」が持つ技能や住む土地などの条件により、入手できない ものを得る、あるいは足りないものを補うためであろう。略奪や征服などの手段を用いず、取引をす るのであれば、代わりに自身の方から相手の欲するものを「対価」として提供することになる。これ によって集団間の物々交換が生じ、また交換を効率化するため、「金」が使われるようになる。  しかし、そもそも得るために十分な生産物を提供できる、そもそも提供する物がないといったこと がおこる。このような場合は略奪など、取引以外の手段を執るか、「人」を提供することになる。この 場合の「人」の提供には、出稼ぎに行くなど労働力を売ることだけでなく、人身売買も含まれる9 。つ まり、物の取引が成立するためには、いろいろな条件が整い、人々がそれを守ることが必要であるこ とが確認できる。 3-3.家計、企業の収支  次に、図1で示したような人の「集団」が「国家」と呼ばれる規模にまで巨大化した、今日の国民 国家の状態を説明する。「集団」に所属する人数が増えれば、「集団」内に小さな集団が内包されるため、 分配は難しくなり、小さな「集団」間でそれぞれの成果を取引するようになる。つまり、需給ギャッ プより欲しいものを得るため、余ったものや、切り詰めて工夫して用意したものと交換するなどの形 で、小さな「集団」間で調整がされるようになる。  また分業により特化が生じ、生産者、消費者といった役割が、説明の便宜上、別人として扱われる 理論が現れる10 。これがミクロ経済学の消費者、生産者という分け方になる。  これらの「収支」の一例を、マクロ経済学の「家計」と「企業」の名で示したのが、図2である。 9 例えば、昔の農家が農耕用の牛馬を買うために娘を売ったという話しは、牛馬を自前で確保できず、外から買う ための資金を得るために必要な資金源となる売り物、つまり余剰生産物がないことによって生じる。 10 この場合、大きな「集団」を管理する「政府」が必要になるが、本来の分配の役割を失い、公共財の提供や格差 の是正といった、役割を担うことになる。このことから共和国や民主主義は、太古に小さな集団では成立してい た運営方法が、集団の規模が拡大し、構造が複雑化したことによって機能しなくなったのを、数千年かけて何と かできるようにした一形態であることが分かる。 図2 「家」(集団)の形態変化 (左:家計の例、勤労者世帯、右:企業の例、株式会社)

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 図2では、金の動きのみを示している。つまり、金の動きとは逆の方向に、物や労働力といった取 引された対価が動いていることを省略している。  図2左は、今日の多数派である、労働力を会社など他の集団に提供することで賃金を得る、「勤労者 世帯」を説明したものである。図2左のように、今日の「家計」の多数は、生産のために必要な「資 本」(土地や店舗など)を持たず、労働によって賃金を得るようになっている。つまり、自然や資本と いった、寄って立つところがない、それ故にそういったものに束縛されない、「持たざる者」という意 味で「自由」である。そのため、提供できるものは労働力だけ、収入も賃金だけという人たちが現れ る。また今日のように産業化された社会では、不動産販売が自由になり、持っている農地を手放して も仕事に就くことによって生活できることから、かつての封建社会のように土地の所有が集団の存亡 を決めるため、命を懸けてまで守らなければならないほどの強い執着はなくなる。つまり、「家」の説 明にある「小集団に縮小」することが可能になり、核家族化が可能になる。これにより、「家計」の 内側だけで済ませることができなくなり、また金を通じて他人から得るが大きくなるから、それだけ 「家計」にとっての収入と支出の額面は大きくなる。  一方、「企業」は、ミクロ経済学的な説明のように、その活動の目的を「利潤の最大化」とする「集 団」に変化したことで、「家」の機能は失われたかに見える。このような変化を、今日の代表的な形態 である株式会社を例に説明したのが、図2右である。  図2右のように、今日の「企業」(corporation)という集団の構造は複雑になっている。前産業革命 期の家内制手工業のように単純な構造であれば、図1右のように、「集団」の成員が働き、成員がその 成果、つまり分け前にあずかることができていた。この状態ならば、企業の目的は利潤の最大化であ り、その利潤はそのまま消費者の所得になる。この状態であるなら、利潤と所得の関係を明確に述べ ないミクロ経済学の基礎理論のような説明でも、問題にならない。  しかし、今日の「企業」の形態では、この利潤がそのまま所得になるという単純な関係は成立し ない。図2右の「株式会社」の構造では、成果である利潤の分け前である、「配当」に与るのは株主 (Stockholder)であり、社員ではない11 。労働力を賃金という、儲けに関係なく一定額支払うという契 約で、一時的に雇われている社員に支払われる賃金は、会社のもうけを示す「経常利益」では、費用 として計上される12。また、経営者も雇われるようになった今日では、起業あるいは出資した関係者が 経営者という関係も少なくなっている。これにより、集団に属する成員が働かず、属さない部外者が 賃金のために働くという関係が成立する。このような形態の集団、組織だからこそ、「会社は株主のも の」という説明が成立するのである。 3-4.家計と企業による負担の外部化  先述の「家」の説明に、「社会が安定し、生活が容易になれば、他人を必要とせず、血縁につながる 近親者の小集団に縮小してくる」という箇所があった。この説明に捕捉すると、小さな「集団」が所 属する大きな「集団」(国家、社会)が安定すれば、その内部では安全が保障されるから、他集団との 取引の危険性が減ることになる。これにより、他集団からものを購入する、人手を借りるなどができ るため、互助で補っていたものを抱えこむ必要がなくなり、「集団」を小さくすることができるように なる。例えば、サービス会社に依頼すれば、近所付き合いや親せき付き合いなどの「縁」に頼る必要 性は減る。 11 株式会社でなくても、社員が身内と扱われない全ての会社で、この関係が成立する。ボーナス(賞与)は、分け 前ではなく、文字通りその働きに対して「賞」を「与」えるものに過ぎない。 12 日本の会社経営に対する慣習は異なると言っても、商法上はこうなるので、問題にならない。つまり、実態と法 がずれていただけである。この乖離が日本経済にもたらした影響の例は、山本(2015)を参照。

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 つまり、家族間、仲間内といった「集団」内の「縁」に頼っていたことを、金を払えば済むように なるようになれば、小さな集団はその規模を維持する必要がなくなる。しかし、以前よりも金で買っ て済ませなければならない部分が増えるのだから、共働きが必要になる度合いも増えることになる。 一方、それは共働きの家とそうでない家の、自治会などの組織運営の負担格差を生じさせ、運営や維 持を難しくさせることになる。これにより、例えば自治会単位で、近所の「縁」により無償奉仕で 行っていたごみの回収が、業者が各家を回って回収する形で費用計上される。また、その費用負担は 家計から市町村の財政に転嫁されるため、その自治体の財政支出は以前よりも増加することになる。  一方、日本型経営の特徴とされていた企業経営では、社員を集団の内側の者、つまり成員や疑似的 な家族とみなしていた。これは、「株式会社」の説明で示した欧米型経営の考え方からすれば、本来の 成員である起業者、出資者、株主が受け取る「利潤」を減らすことでしかない。このことから、本来 の欧米型経営のように、社員を会社という人の「集団」の「成員の生活保障」の対象外、契約に基づ いた部外者として扱い、必要な時にだけ利用できるように図られることになる。また、企業が利潤を 生む生産活動以外、例えば社員食堂などの福利厚生を自身で抱え込むことを止め、他企業に外注する ことによって、効率化が図られるようになる。  このような変化の中で、これまでの年功序列、終身雇用といった再分配機能を持つ「慣習」は廃止 され、非正規労働者や派遣会社などを利用することにより、人員調整が行われるようになる。これに より、日本型経営では会社がある程度担っていた社会保障の責任は、失業や生活保護といった形で政 府に転嫁され、政府の負担を増やし、結果的に財政支出を増加させる、社会的に見てアンバランスを 生み出す、気づきにくい要因になる。 3-5.国家の収支  次に、これら企業、家計といった小型の「集団」が所属する、より大きな「国家」の「収支」を説 明する。この場合、「国の収支」という表現が使われることがあるが、この表現を使う際、聞く際は 「国家」と「政府」を混同しないように注意する必要がある。例えば、国債は国の借金で負担は一人当 たり何円という説明があるが、貸したのは国債を買った人、多くは国民であり、また借りたのは「政 府」であるため、国家でも国民でもない。また債権は借金と異なり、身内の借金をサラ金業者が取り 立てに押しかけてくるように、国債を買った人が国民の財産を差し押さえに来るようなものではない。  また、マクロに俯瞰して国民経済の「収支」、この場合は収入と支出の差分だけではなく、「収入」と 「支出」の別に捉えようとすれば、以下の二種類の金の動きの捉え方ができる。  第一に、国境を挟んだ「収支」である。これを計上したものが、『国際収支』、国の際(きわ、国境) を超えた金の出入りである。貿易はそれに含まれる一項目である。  第二に、国内に所属する様々な「集団」、つまり「家計」、「企業」などに分類された、それぞれの 「集団」の「収支」をまとめたもの、つまり「集団」間の金の動きを集めた「国民所得」である。国内 総生産(GDP)は、この「国民所得」の一種である。ただし、全ての金の動きを把握しているわけで はなく、「家計」や「企業」といった「集団」内で完結する動きは、外の集団や人との金の動きを伴わ ないため、計上されない13。例えば家事など、家の中で行われていることは、金の動きが伴わないた め、あるいは対象外と扱われるため、計上されない。また、身内で介護をすれば計上されないが、介 護サービスに頼めば、集団外の人を使うことで金の移動が伴うので、計上されることになる。  これを単純化し、図にしたものが、図3である。 13 「帰属家賃」のように、家主と住人を別人とみなして、計上するものもある。また農家などが、生産活動の成果を 自分たちで消費した、「自家消費」も計上される。

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 図3左にある「集団」は、ミクロ経済学のように生産者と消費者に分けず、人の集団が不足分を補 うために取引をしている状況を描いたものである。この図3で示せる集団の生産形態は、せいぜい産 業革命以前の家内制手工業程度であろう。つまり、図3右が示すように、労働力は集団内で済ませ、 生産で得た財を売って収入とし、それを使って支出、つまり消費や投資を行なっているものとする。 また、集団内は「縁」によるため、金は動かないものとし、その場合の物や労働力、また金の動きは、 一本の灰色の矢印にまとめて示している。  これにより、図3右では、収入は「売」の矢印、支出は「消費」と「投資」、二本の点線の矢印にな り、収支は3本の矢印が示す金額の差分になる。一方、図3左は、国家に属するより小さな集団Aと集 団B、また国外の他集団、計三集団内の金の動きを示したものである。この場合、収入と支出は立場に よって変わるため、実線と点線を組み合わせた矢印で示している。  この金の動きの内、ミクロな集団Aの「収支」を取り出したものが図4左、「国民所得」を示したも のが図4右である。 図4 集団Aの「収支」と「国民所得」 (左:ミクロな「集団A」の収支、右:国民所得) 図3 集団の収支と国民所得 (左:国家内外の取引、右:小さな集団の詳細)

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 図4では、支出つまり収支の計算ではマイナスで計上するものは点線で示し、計上しないものは灰 色で示してある。  この図4左が示すように、集団単位の収支で捉える場合、集団Aにとっての収入は国内の集団Bと国 外の「他集団」からの二本の矢印で示され、支出は集団Bへの点線の矢印一本になる。また、図では示 していないが、集団Bにとっての収入は集団Aからの一本のみ、支出は集団Aと国外の「他集団」への 二本になる。  これに対し、図4右のように国民経済として捉える場合、まず国境上の収支である国際収支(貿易 のみ)は輸出、輸入の二本になる。ただし、輸入はマイナスと扱い、輸出から引いた結果である収支 が「純輸出」になる。一方、「国民所得」は、国民経済に関係する金の動きなので、集団Aと集団 Bの 間の取引二本と輸出、輸入の計四本になる14 。  このように、同じ金の動きでも、国家の立場、それに所属する小さな集団の立場によって、捉え方 が異なってくる。  次に、図4左を、今日の「国民所得」の計上方法に近づけたものが図5である。  図5では、生産者Aは労働力不足を補うため集団外の人を雇うのに対し、生産者 Bは労働力を自集団 内で確保できているものとして説明する。また労働者1、労働者2は土地や工場などの生産手段を持 たないため、生産者A に労働力を提供し、賃金を得ているものとする。なお、図が複雑にならないよ う、説明で重要ではない貿易や政府活動は省略した。  図5で生産者Aと生産者Bの取引の矢印が三本であるのは、生産者Bが中間財、つまり部品や原材料 などを生産者Aから購入するが、生産者Aは外から中間財を購入しないとし、その違いを示している。 中間財の消費、つまり国内生産のための消費は「国民所得」の支出とは扱わないため、金の動きは あっても計上しないことを灰色で示し、また点線は企業が費用として扱う金の動きを示している。な お、最終財の購入は本来、民間投資、政府支出、輸出入が含まれるが、今回は説明の単純化のため消 費のみとする。また、いずれにせよこれらは生産活動ではないため、生産者の費用とは扱われない。  また、経国済民が達成できているかは、この金の動きではなく、それに伴う物の動きやそれが人に もたらした恩恵次第である。このことから「国民所得」というものは、人の社会的活動の内、金を介 図5 労働者と生産者を分けた場合の収支と国民所得の関係 14 今日の複雑な経済から原理的な部分を取り出して説明しているため、それ以外の重要な部分を省略せざるを得な い。例えば、国境を越えた所得などの貿易以外の金の移動や、実際の国内総生産で販売するものを自分たちで消 費した場合は、計上するなどの説明を省略した。

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した動きの一部を、特定の側面から捉えて、一括りにして金額で示すという方法であり、その値の大 小だけで評価するという、評価方法の一つでしかないということが確認できる。  今日では、小さな集団内で済ませることは減り、集団外に頼る度合いが増えている。これにより、 生産手段を持たない労働者が増えたため、人の数の変化に対し、金の動きの変化のほうが大きくなる。 この状況の変化が著しかった、1930 年から 1970 年、昭和初期から高度経済成長までの就業者数と国民 所得の変化を示したものが、図6である。  図6左は就業者数、図6右は「実質国民所得」、つまり当時の急激な物価上昇を除いて産業構成比を 示したものである。戦前から 1970 年までを取り出したのは、経済成長が著しい時期でないと、産業構 成比の変化が小さく、捉えにくいからである。  敗戦直後(「国民所得」は 1946 年、就業人数は 1947 年)には、就業者数は増加しているのに、「国民 所得」は半分に減っている。それに伴い、第一次産業の構成比が就業者、国民所得ともに増加してい る。また経済成長以前の構成比は、大きく乖離していることが分かる。これを捉えるには、産業構成 比で使われている分類方法を確認する必要がある。  まず、第一次産業は「Primary」(主要)の名前の通り、本来の自然から人の集団に必要なものを取り 出す産業のことを指す。それは主に食料であり、これを小さな集団内で消費してしまうか、集団外と も金を用いず物々交換をすれば、計上されないことになる15 。これに対し、第二次産業は「Secondary」 (派生)の名前の通り、自然から得たものを加工する派生的な産業である。その成果の多くは食べられ ないため、製造したものは他の集団に売って、金を得て生活費にまわす必要がある。また、第三次産 業とは、それらに属さない「その他」であり、「分類不明」も含まれる。しかし、基本は「Service」、つ まり人の代わりをする、奉仕することであり、衣食を保証された住み込みでもなければ、得た金を生 活費にまわす必要がある。この産業が成立するには、そもそも奉仕を必要とする相手がおり、かつそ の相手に人を雇えるだけの所得があるという条件が必要である16 。このように、産業が成立するために 必要な条件が異なることで、就業人数と国民所得の構成比、またその変化に差が生じることになる。  このことから、生産施設や都市を爆撃等によって破壊され、経済の循環が滞り、生産施設を必要と する第二次産業、他人との関わりを必要とする第三次産業は減少する。その結果、このような影響を 受けない、根源的で、小さな集団内で済ませることが可能なため、国民所得上に現れない第一次産業 が相対的に増えることになる。 図6 産業構成比(左:就業者数、右:実質国民所得) 15 税制度や、今日のGDP を含む国民経済計算では、生産したものを自身で消費した場合は、計上される。 16 住み込みのように、生活の保障のみで、賃金が伴わない労働もあり、それが就業人数に対して国民所得が低い原 因であることも考えられる。

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 このような経済構造の変化を、マクロな視点で、俯瞰して考えるには、「成員の生活保障」が達成さ れるかを捉えればよい。例えば、第一次産業が労働生産性を上げれば、ある人数を食べさせるのに必 要な量を、それよりもはるかに少ない人数で生産することができるようになる。例えば、日本は労働 生産性の議論でされているように、土地や資本等の制約条件を無視して、労働人数だけで生産を考え るという方法を採れば、10 人に1人が農業をすれば、食料生産は賄えることになる。その結果、残る 9人のミクロ的な視点ではどのような手段で他の人の物である食料を手に入れるか、マクロ的には成 員である残りの9人にどのような形で食料を分配するかが問題になる。この分配を結果的にもたらす のが集団間の取引であり、小さな集団の収入と支出の差分がそれぞれの「収支」となり、大きな集団 である「国家」にとっては、その動きの合計が「国民所得」になる。  これにより、ミクロな単位の「収支」を改善させようとする動きが不況を起こすという、マクロ経 済学の「合成の誤謬」が発生することが説明できる。例えば、先ほどの戦時の状況に加え、「ぜいた くは敵だ」などの扇動的、情緒的なスローガンを掲げ、国家、公、社会のためといったお題目の下に、 「節約」を強いたことで、不況をさらに悪化させていた。  また、日本史で「江戸の三大改革」として学習するものは、朱子学の「貴穀賤金」という考え方に 基づいて、それぞれの「家計」、ミクロなレベルの集団単位で質素倹約を強いるものであった17 。そ の結果、特に寛政と天保の結果は、人為的に不況を発生させ、文化の停滞、犯罪の増加、政治不信と いった社会問題を生じさせた。つまり、ミクロな「家計」が消費を前よりも減らせば、それだけ社会 で動く金の量が減るのだから、金に伴って動いていた物や仕事の量も減ることになる。これにより、 都市に住み、農地などの生産手段を持たないことから自給自足ができないため、物の売買を仲介して 儲ける、人の役に立つことで賃金を得る、サービス(奉仕)関連に従事する人たちの仕事を減らし、 人為的に不況状態を作りあげたのである。  このようなことから、戦時中の総動員体制や「江戸の三大改革」というものは、金を通じて一部の 人が生産した食料を、残りの国民に行きわたらせる経済構造が変化したことを理解せず、食料の管理、 節約だけで済んでいた自給自足的な時代の、単純な「家」の発想で、流通手段である金を卑しいもの と貶め、またその結果である消費を贅沢、浪費と決めつけ、実態を見ずに数値の改善を試みたことで 「経」、金を通じた物の流れ、人の関係を滞らせたものであることが分かる。  つまり、「国民所得」の増加が示す、経済規模の拡大とは、国家に属する小さな集団が国内外の他の 集団に頼る部分が増え、それにより集団間で動く金の量が増えることを意味する。そして、この経済 規模の拡大が、後編で扱う「経済成長」である。このようなことから、「収支」バランスの改善は、方 法次第で江戸の三大改革や戦時中のように盲目的、強迫観念的に「節約」を強い、競わせ、経済の流 れを滞らせることがある。このように、改善や改革をもっともらしくうたいながら、結果的に不況を もたらし、「経国済民」を損なうことがあるという事実を知っておく必要がある。 3-6.政府の財政収支  この「国家」のように「集団」の規模が拡大し、また構造が複雑になれば、分配は「集団」による 管理によってではなく、各自が金を使って行うようになる。これにより、多くの財の「分配」は市場 でされるようになり、「政府」の役割は、市場では調整がうまくいかない公共財や「再分配」に特化さ れる18 。  この「政府」という機関にとっての収支とは、政府という組織内のやりくりではなく、国家という 社会、この場合は人の「集団」を維持、運営するためのものになる。つまり、政府機関で働く者では 18 私的財と公共財の境界については、別稿で扱う予定でいる。 17 井沢(2012)p.253 ~ p.436

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なく、より多数の、国家に属する成員の生活を保障する役割を持つ。  この「政府」と「国家」の関係を、図4を基に示したのが、図7である。  図7が示すように、「政府」の役割は、「国家」内の生活を保障するための運営、徴税をするなどの 形で収入を得て、「公共財」を提供することである。つまり、社会的インフラを整える、制度を維持管 理する、社会保障によって生活を保護するといった支出を行う。つまり、収支に問題があるとすれば、 収支と支出の両方に問題がある可能性があり、それを検証し、示すことが必要になる。  図8は日本の財政収支の問題を説明する際に、財務省が示すグラフに、「国家」内の集団の「収支」 を合わせた値でもある「国民所得」(GDP)を、数値を調整して重ねたものと、GDP比にすることで変 化を捉えやすくしたものである19 。  この図8左を見ると、支出の動きがGDP の動きから大きく外れるのは、第一次オイルショック (1973 年)、アジア通貨危機(1997 年)、リーマンショック(2008 年)、といった世界的な事件によって 引き起こされた不況の時であり、景気回復と共にその乖離は小さくなっていることが分かる。これに 対し、税収を見ると 1990 年から減少し、実感なき好景気と言われた 2000 年代前半の時期は、必要なだ け徴集できなくなったことが分かる。また、図8右の内訳を見ると、その原因は 1989 年の税制度の変 更以降の所得税と法人税の税収減であることが確認できる。 図8 財政収支と GDP(左:金額、右:GDP 比) 19 例えば、財務省(2017)p.3、図表3。このグラフにつけられた説明は、以下のとおりである。  これまで、歳出は一貫して伸び続ける一方、収入(税収)はバブル経済が崩壊した 1990 年を境に伸び悩み、その 差はワニの口のように開いてしまいました。また、その差は借金である公債の発行で穴埋めされてきました。 図7 国家と政府の関係

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4.小括  以上、国民経済の構造をマクロに捉える方法の一つとして、本稿では「収支」を説明した。説明で は「国家」、「家計」、「企業」など、人の「集団」の経済活動の一部にあたる「収支」つまり「集団」の 外との取引の意味や必要性が、集団の形態や規模によって異なることを示した。しかし、「収支」には 人の集団である「家」の「成員の生活保障」のために、「集団」の境界線を越える外部とのやり取りを 計上したもの、という共通点がある。しかし、経済の構造が複雑化し、「集団」の性質に合わせてそれ ぞれの「収支」の意味が異なったものに変わり、共通している根幹が分かりにくくなり、それが理解 の妨げになっていることを確認した。  そのため本稿では、まず共通点をおさえ、次に集団の形態の変化に合わせて「収支」の意味が変化 したことを示した。これにより根幹を把握せず、「集団」の意味や違いを無視し、異なる「収支」を同 じものと扱うことが、例えば財政収支の問題の理解を妨げていることを示した。  後編では、この「収支」の説明を踏まえ、「経済成長」と経国済民の関係を示す。 参考文献一覧 井沢元彦(2012)『逆説の日本史 15 近世改革編』、小学館。 宇多賢治郎(2015a)「経済学の基礎理論と経済循環構造の乖離 前編:中間財の扱い」、『山梨大学教育人間科学部 紀要』、第 16 巻、山梨大学教育人間科学部。 宇多賢治郎(2015b)「経済学の基礎理論と経済循環構造の乖離 後編:付加価値と利潤の違い」、『山梨大学教育人 間科学部紀要』、第 16 巻、山梨大学 教育人間科学部。 宇多賢治郎(2016a)「『経済学』と『経済』教育の乖離 前編:経国済民と節約の分離」、『山梨大学教育人間科学部 紀要』、第 17 巻、山梨大学教育人間科学部。 宇多賢治郎(2016b)「『経済学』と『経済』教育の乖離 後編:私と公民の分離」、『山梨大学教育人間科学部紀要』、 第 17 巻、山梨大学教育人間科学部。 宇多賢治郎(2017a)「社会科教育と経済学の基礎理論 前編:例1 需給均衡理論の検証」、『山梨大学教育学部紀 要』、第1巻、山梨大学教育学部。 宇多賢治郎(2017b)「社会科教育と経済学の基礎理論 後編:例2 乗数効果理論の検証」、『山梨大学教育学部紀 要』、第1巻、山梨大学教育学部。 金森久雄、荒憲治郎、森口親司(編)(2013)『経済辞典 第5版』、有斐閣。 財務省(2017)『これからの日本のために財政を考える』、財務省。 小学館国語辞典編集部(編)(2012)『大辞泉 第2版』、小学館。 総理府統計局(1956)『日本の統計 1956 年』、総理府統計局。 総理府統計局(1963)『日本の統計 1962 年』、総理府統計局。 根井雅弘(2005)『経済学の歴史』、講談社。 平凡社(編)(2006)『世界大百科事典 第2版』平凡社。 松村明(編)(2006)『大辞林 第三版』、三省堂。 山本七平(1995)『日本資本主義の精神なぜ、一生懸命働くのか』、PHP研究所。 文部科学省(2011)『小学校学習指導要領』。

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参照

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