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教育を掌る「日本型」教職の起源に関する考察 利用統計を見る

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山梨大学教育学部紀要 第 27 号 2017 年度抜刷

An Analysis of the Origin of the Japanese Teacher Employment Practices

平 井 貴美代

Kimiyo HIRAI

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教育を掌る「日本型」教職の起源に関する考察

An Analysis of the Origin of the Japanese Teacher Employment Practices

平 井 貴美代

Kimiyo HIRAI

はじめに  政府主導の「働き方」改革の機運が教育界にもようやく波及し、2017(平成 29)年6月の中央教育 審議会諮問を受けて設置された特別部会が、教員の働き方改革について集中的に議論を進めている。す でにこの問題の主要な関連学会である日本教育経営学会の研究推進委員会では、2015 年から3か年の 研究テーマとして、教員以外の専門スタッフとの協働による新たな学校経営の在り方について研究を進 めており、筆者もその一員として 2017 年6月開催の学会大会で、教員の「働き方」問題の歴史的考察 に関わる口頭発表を行った1 。政府や中教審は、「教育の質の向上や様々な教育課題の対応が求められる 中、教員の長時間勤務に支えられている状況は既に限界にきている」(2017 年4月 28 日の定例大臣会 見)との問題意識から専門スタッフの配置を進めようとしているが、他方で「教員が、教科指導、生徒 指導、部活動指導等を一体的に行う」「日本型学校教育」(2015 年 12 月 21 日中教審答申「チームとし ての学校の在り方と改善方策について」資料より)の看板を下ろす気配は全くないようである。実は日 本型とは異なる分業体制を基本とする欧米型知育学校でも学校機能の拡張が近年進んでいるが、教員の 多忙化には直結していない。フレキシブルな多職種化を許容したり(アメリカ)、多様な雇用形態を共 存させたりする(ドイツ)など、拡張した機能に応じてスタッフが配置されることが前提となっている からである。しかし日本では、拡張された機能が多職種化ではなく「教職」の役割拡張につながること が、勤務量の増大という結果をもたらしている。つまり本当に問題とすべきなのは、勤務の量・内容を 無制限に拡張させることを許す「日本型」教職の雇用慣行なのではないかというのが、口頭発表の際の 筆者の問題意識であった。  しかし、教職の雇用慣行を問題にしようとする時に難しいのは、それが教職固有の問題なのか、それ とも「日本型」の雇用慣行(とくにホワイトカラーの)共通の問題なのかということが判然としなくな ることである。「日本型」の広汎な学校機能を支えているのが、勤務の量・内容を無制限に拡張させる ことを許す雇用慣行であることはすでに述べたが、なぜそのようなことが許されるのかと言うと、そも そも教職が担うべきとされる職務内容がはっきり定義づけられていないことによる。しかしながら職務 内容の無規定性は、日本の企業の正規雇用の被用者やホワイトカラー公務員職の「働き方」に共通する 特徴でもあるため2 、問題の本質が「日本型」雇用システムにあるのか、あるいはそこには括ることの できない教職固有の問題なのかが曖昧になりがちである。たとえば教職の勤務実態の国際比較調査結 果(OECD「国際教員指導実態調査」TALIS2013)が公表され、日本の中学校教員の勤務時間が他国に 比べて「大幅に長い」ことがセンセーショナルに報じられたときにも、教員の国際比較ではなく日本に おける他職種との比較をおこなう必要があるという意見が一定の説得力をもって受け止められてしま うのは3「日本型」の雇用慣行共通の問題(だから仕方がない)との理解のされ方が基盤となっている からであろう。しかし、そうした概括的な括り方こそが問題の本質を見えにくくしていると筆者は考え ている。  政府の「働き方」改革でも、「日本型」雇用における勤務の量的規制について、労働時間規制が残業 代の割増計算上の基準時間に空洞化している現状が問題視されているが、教職の場合は教職調整手当の 支給をもって残業の存在すら否定されている。勤務内容についても、その無規定性が日本型雇用の一般

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的特徴であるとしても、教職の場合は教科・学校種に相当する免許状がなければ従事することのできな い専門職であるから、本来ならばジョブ内容は免許の範囲に限定されるはずである。しかし、現実には 業務内外の区別が曖昧であるために、わざわざ国が規定しなおさなければならない事態に至っている。 そうした教職固有の事情は、「働き方」改革一般の議論からは零れ落ちてしまう視点であろう。労働法 学者や経営学者らによれば、「日本型」教職の問題の根本は、1971 年「公立の義務教育諸学校の教育職 員の給与等に関する特別措置法」(以下、給特法)が、労働基準法にもとづく労働時間規制の「歯止め」 を適用排除したことに求めるのが通説となっている。筆者も教職固有の労働時間規制の法的歯止めの無 さはやはり問題であると考えるが、その引き換えに留保された「教育労働の特殊性」を単なるイデオロ ギー(教師聖職論)と切り捨てることは短絡的であるとも考えている4  6月の口頭発表では、「日本型」教職の雇用システムの形成過程が、「日本型」雇用システムと共振し (ているかのように見え)つつも独自の形成過程をたどっており一括りには考えられないこと、とりわ け「官」のシステムの末端に位置づけられながらも、天皇への忠誠の証としてだけでなく「教育」の論 理に沿った形で「教育労働の特殊性」が形成されてきたことを指摘したが、その形成過程の詳細は十分 に論証し得なかった。本稿ではその最初期にあたり、もっとも核となる特徴を形作る契機となったと考 えられる 1891(明治 24)年 11 月制定の小学校令の下位諸規則群に焦点をあてて、「日本型」教職の雇 用慣行の形成過程を明らかにしていく。1891 年の諸規則群のなかには、教育実践の単位としての「学級」 をはじめて規定した規則も含まれている。小川正人はすでに 1998(平成 10)年の論考で、日本の教師 のオーバーワークや過労状態が、「日本の教師の独特な勤務形態に起因するものであること」を指摘し、 その「独特」さの核心が「『学級』を単位とする教育実践に対する考え方や教師の勤務形態」にあると 洞察していた5 。「日本型」教育の独特さを「学級」に求める知見は数多くあるが、小川の卓見はそれを 教職の「働き方」の問題に結びつけた点にあった。結論を先取りするならば、のちに給特法に引き継が れることとなる「教育労働の特殊性」とは、イデオロギーであるのと同時に「学級」を中核として形成 された「日本型学校教育」という実践的な暗黙知を表現する言葉でもあり、両者が一体であることの課 題を確認することが本稿の着地点となる。 1.教育組織に対するコスト意識の萌芽――等級制と学務委員の問題―― (1)明治初期の教育組織  日本に近代学校の制度が導入された当初の学校組織や教師の働き方が、現在とは全く異なる、きわめ て分業的なものであったことはよく知られている。開校当初の東京師範学校附属小学校に、お雇い教師 スコット(Scott, M. M.)がアメリカから持ち込んだのは、個別指導を基本とする伝統的教授スタイル にとはまったく異なる等級制の一斉教授法であった。「一人の教師が一定数の生徒集団に対して、同一 の教育内容を同一時間で教授する」6一斉教授法は現在でも多く見られるが、教育内容程度の水準に即し て区分された上下小学校それぞれ8つの「等級」を、学習者が試験を経て順次上級等級に進んでいく等 級制は、今日の学級制とはまったく異なっていた。ランカスター・システムのモニター(助教)を教師 に置き換えて成立したとされる、アメリカの等級制学校における一斉教授法は、柳治男が抽出してみせ たモニトリアル・システムの特徴--指導者間の分業と単純化した教授活動のパッケージ化--を色濃 く継承していた7 。正規の教員や訓導が不足していた当時の日本において、未熟な授業生でも一定の効 果が期待できる分業的指導体制が適している面は確かにあったと思われるが、その一方で、地域によっ ては非効率的かつ非効果的なシステムと化してしまうことも多かった。というのも、一等級一教師を配 置することが効果的なのは就学率の比較的高い都会の学校のことであって、村落の就学生徒の少ない学 校では、上位の等級になると生徒数が極端に少なくなるなど非効率的で経済的にもコストがかかりすぎ

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たのである。現場サイドでは、数級の生徒を一緒に教授し、教師の数を減らして費用を節約する合級教 授法などの提案が次第に見られるようになっていった。  初期段階の学校は教授組織だけでなく、学校経営組織も複雑であった。とくに藩校等から発展した中 等教育機関では教員以外の職員数も多く、機能も分化していたようである。たとえば開成校を前身と する大阪中学校が、初等中学校四か年8級、高等中学校二か年4級で編成されていたときの教職員組 織は、教官 18 名に対して職員 25 名と教員数よりも職員数の方が多かった。内訳は書記6名、医師1 名、雇属員4名、門番・小使が 14 名である。ちなみに生徒数はわずか 157 名であった(1882 年9月時 点)8 。1887(明治 20)年に来日し、のちに帝国大学文科大学内に中等教員養成のための「特約生教育 学科」を創設するよう促し、その初代教師として教鞭をとったことでも知られるハウスクネヒト(Emil Hausknecht)が、同学科の設立を建議した品川弥二郎宛意見書のなかでも、多くの書記吏員を必要とす る日本の学校の組織体制を「一大弊害」と断じて、「斯ノ如キ浩大ニシテ且ツ多費ヲ要スル官庁風ノ組 織ハ倒とう底教員ヲシテ学校ノ発達ニ関シ正実ノ利害心ヲ致セシムルコト能ハス」と批判していた9 。  ハウスクネヒトの主張は、自らの体験にもとづき、ドイツのギムナジウムが校長付きの書記を雇う少 額の費用しか与えられず、たいていの事務書類は校長自らが教員の助けを借りて処理していることなど を論拠とするものであったが、主張の力点は経費面よりも、むしろ教員の資質向上にあった。校長の事 務を分担することが、「教員ヲシテ大ニ学校ノ隆盛ニ係ル諸般ノ問題ニ参与」することを可能にするこ とや、ギムナジウムの「学級教員」(クラス担任)制の教育上のメリットを主張するハウスクネヒトの 提言は、現在の教職の在り方を髣髴とさせる。しかし、政府サイドが教育組織の改善を課題として認識 するようになるのは、まずはコスト面の問題であった。 (2)教育令再改正のもとでの教育組織の再編  1885(明治 18)年8月5日の布告第 25 号をもって教育令が再改正された。ときの文部大臣は大木喬任。 再改正教育令の骨子は井上久雄によれば次の3点であり10、その筆頭は学務委員廃止であった。   一、町村教育行政機関たる学務委員を廃止すること   二、初等教育機関の設置や就学などを簡易にすること   三、授業料を徴収して節減した教育費を補充すること  教育令は、「学制」を廃止して 1879(明治 12)年に公布された学校教育全般に関する全 47 条からな る基本法令で、学制に比べて著しく簡略かつ、地方自治的な特徴を有していたのはアメリカの制度を模 したためであったとされる。同法令の自治的性格が自由放任と解されたことで学校教育を後退・崩壊さ せるものと懸念され、制定翌年にはさっそく改正される憂き目にあったものの、教育委員会制度を日本 の地方制度に合わせて改編させた学務委員制度は、その後も継続されていた。しかし、教育令の再改正 では、この学務委員が地方費削減の目玉として焦点化されることとなったのである。  学務委員については、以前より内務行政サイドで地方費削減策として検討されてきた経緯があった。 同令改正の前年に山県有朋内務卿が太政大臣に上申した2つの提言、「地方経済改良の議」(1885 年2 月)と「区町村費節減ノ議」(1885 年4月8日。大蔵卿との連名)では、地方費の節減対象を区町村 費のうち教育費と衛生病院費にしぼりこみ、さらに具体的に「衛生委員と学務委員を戸長兼務とする ことによって、衛生病院費のうち衛生委員給料三十四万二千百六十七円、教育費のうち学務委員給料 六十一万八千九百七十円を節減しうる」と述べていた。学務委員制度そのものの改変の提案ではなかっ たが、文部省はこの提案を逆手にとって不備の多い学務委員制度廃止と引き換えに、学事取締を制置し て地方教育行政機関を強化する原案を元老院に提出したが、かえってそれが「口実をあたえ、言質をと られたかたちで廃止の断がくだされる」顛末となったという。骨子二、三についても、山県内務卿の提 言に、具体的な費目を明示せず「小学校ノ経費」662 万円余から「概計二百七八十万円ヲ節減」して地

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方費節減総額の 90%を満たすことが示され、その見込みとして「教育令ニ於テ各校ノ便宜ニ放任」し てきた授業料等を徴収することや、1校あたり平均 234 円余かかっている経費を、貧村の小学校が年間 50 円未満で賄っていることを鑑みて節約すれば、達成可能な数字と示唆されたことが背景にあった。  再改正教育令は、およそ半年後に大木文部卿のもとで文部省御用掛を務めていた森有礼が、文部大臣 に就任して矢継ぎ早に制定した一連の学校令のために、ほとんど実行されることなく自然消滅したとも 言われる。しかし、この時期は“空白期”ではないとの見方もある11。諸学校令が制定されるまでの間 には、小学校における授業料徴収原則、半年進級制から一年進級制への移行、簡易な小学校の設置、尋 常・高等といった二段階の小学校制度など、小学校令期に引き継がれる様々な重要な改革が打ち出され たからであるが、それら改革への森御用掛の関与についても消極論と積極論とが存在する。消極論をと る井上は、根拠として伊藤博文宛と推測する 1987 年7月の意見書「教育令ニ付意見」において、森が 教育令の部分的改正を不十分として抜本的な学校条例の制定を主張し、学務委員の改正(廃止)以外は 目下その要なしと文部省原案と異なる主張をしていたことを挙げている。学務委員の廃止にしても、「学 務ニ従事スル所ノ各員ノ職分権力及上下ノ関係ハ、専ラ施策上ヲ円活ニスルノ目的ヲ以テ定ムヘキ事」 を「学事ヲ整理スルノ端緒」とする森の提案は、「教育行政を一般行政系列にくみいれて行政支配の単 線化をはかることを主意とし、文部省原案の学事取締とは似て非なるものであ」ったという12 。筆者も 消極論をとる点では同様だが、森の意図は行政権の強化だけではなかったと見ている。  たしかに森は学務委員の給料を廃して郡区の名誉職とすることを提言している。名誉職になれば実務 は担わなくなるので、業務を代わりに郡区吏員に帰属させることとし、「其区町村ニ属スルヲ便トスル モノ」に限って「戸長ヲシテ之ヲ掌ラシム」ようにすれば良いとも述べていた13。行政支配の効率化と ともに業務の再配分による効率化も狙いとしていたわけである。その点では再改正教育令のもとの学務 委員廃止は結果的に森の意図にそったものとなったはずであるが、業務の効率化においては森の見込み 違いであった可能性もある。というのも、区町村に帰属させることが便利と判断され、一般行政事務に 回収されずに戸長事務に帰属させる事務が多く残された場合には、「書記若クハ用掛ヲ増ササルヲ得」14 なくなることは必至であったからである。中学校で学校内に教員以外の職員が多く雇用されていたよう に、小学校では学制制定時より、学区取締という正式な地方教育行政事務担当者に加えて、学制に規定 のない学区取締の補助機関が様々な名称で自発的に設けられ、学区取締と協力して学校の庶務、学費の 経理、就学事務や教員採用、区長戸長との連絡等を担当していた15 。教育令のもと学務委員が置かれる に伴いその役割は縮小されたり廃止されたりしていたが、学務委員が廃止されるとなれば再び吏員が雇 われて、経費節減につながらなくなる恐れもあった。  簡易な初等教育施設の設置についても、森の提案は文部省案とはかなり異なっていた。再改正教育令 の「小学教場」に類似した制度として、同時期に作成された森の別の草案には「簡易低度ノ教育」16 の 提案が見られるが、小学教場の文部省原案が市町村の設置負担軽減策を目的とするものでしかなかった のに対して、森の提案は義務教育と授業料徴収の矛盾を無償の貧民教育機関を設置することで両立させ ようとするものであった。参事院の修正によって小学校の授業料徴収が原則化されたことで、「授業料 の有無が小学校と小学教場とを識別する明瞭な尺度となった」が、それは結果論に過ぎないと井上は指 摘する17。森の義務教育制度のビジョンは旧来の文部省の思惟様式に比べてはるかに論理的・合理的で あった。しかし、その理念がストレートに反映された小学校令が制定されると、「強制」教育や貧民教 育のレッテルが嫌われ、明晰さを欠いた学校令期よりもかえって教育不振を招いたのは皮肉であった。 教育組織の効率化のためには、さらに根本的な発想の転換が必要とされていたのである。 (3)ドイツモデルの教育組織の導入へ  再改正学校令に大鉈をふるった参事院は、明治 14 年の政変を経て生まれた憲法起草の牙城として、

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自由民権勢力と対峙するドイツ法学の担い手を多数集めた組織であった18 。同年9月設立の独逸学協会 が「独逸学振興」の別働隊となり、「独逸ノ政治法律」に関する著書を次々と刊行することでドイツ化 は急速に進められていく。教育行政にドイツ化の影響が及ぶまでにはしばしの時間を要したが19、教育 令再改正の審議時にはお雇いのドイツ人内閣顧問、テヒョー(Herrmann Techow)が起草した「学校制 度に関する書類」を伊藤博文が参照した形跡が書簡に残されていた。伊藤が参照した「書類」が、『秘 書類纂官制関係資料』中にある「徹証氏教育ニ関スル答議」(明治 16 年 11 月に来日後明治 17 年3月ま でに提出されていた)であると推定した井上は、「教育令再改正案における半日制小学校や小学教場の 考案はテヒョーを介してドイツのファルク法が影をおとしている」と考察した20 。答議はプロイセンを 中心にドイツの教育行政や学校組織などの全貌を要略したもので、初等教育に限っても目下の課題で あった授業料や森文政下で導入される温習科などに、「テヒョーの答議を通したドイツ方式の反映をみ とめる」ことができるという。  テヒョーは森が文部大臣に就任した 1885(明治 18)年末頃にも報告書を上申しており、その一部と 見られる『テヒヨウ氏述、小学校ノ組織』の末尾では、自身の報告書がドイツ方式、とりわけファル ク法を基調とするものであることが明言されている。ファルク法とは、プロイセン文部大臣ファルク (P. L, A. Falk)が 1872 年に公布した小学校一般規定であり、テヒョーはこのほか、公布に至らなかった 「『ファルク』氏ノ指定ニ因リタル孛国新教育規則ノ草案」も参照したという21。同報告書は、「六十余 日の長期にわたる国内出張において地方学事の実況をつぶさにきわめた」うえで作成され、「日本国小 学校新組織ノ綱領」を論じた「宏大な」教育改革案としての性格を有していたとされる。『テヒヨウ氏 述、小学校ノ組織』には、課程年限や学年学級編成などの多様な提案が含まれており、1885(明治 18) 年 12 月 12 日文部省達第 16 号によって改正済みであった小学校の等級を半年制から一ヶ年の学年制に あらためたことへの評価も記されていた。井上は学年制導入の文部省達が「テヒョーの勧告によるとは 簡単にきめかねる」といちおう断りながらも、「学年制はもとよりテヒョーの同ずるところだつた」と 指摘している。「学年二級制」から「学年一級制」への変更は、東京師範学校においてすでに 1883(明 治 16)年に、森の明六社同人であった西周文部省御用掛兼東京師範学校長(校務嘱託)22 のもとで実施さ れており、そちらからの影響の可能性も否めないが、西は独逸学協会の初代会長であるからドイツ起源 であることには変わりないだろう。  他方で森の教育施策全般へのドイツの影響について井上は、「うけいれの国内事情もさることながら、 森の見識と抱負がドイツ一辺倒をゆるさなかつた」として、その反映は部分的であったと見ていた。 「国内事情」とは近代教育のいまだ黎明期にあった当時の日本と、かたや世界の先端にあったドイツの 歴然たる違いのことであり、導入と言っても「無償教育や国庫補助金の制度がただちにとりいれられる ことはなかつたし、また、とりいれた学年制や学級編成の方式にしても ・・・・・・ 人件費節減の方策とし て利用された感がふかい」という。井上の「利用された」という評価には、テヒョーの提案にそれ以上 の深い意図が含まれていたことを示唆するが、法律の実務家であるテヒョーにはそこまでの意図はな かったとも思われる。先述したようにテヒョーは、たしかに等級を学年制にあらためる文部省達を評価 したが、すぐにこの改正が効果を及ぼすのは 16 級から8級に級数を減ずるところまでで、教育組織の 合理化策としては「初歩」に過ぎないと断じている。さらなる経費節減のためには級数を減じる必要が あるが、「費用節減ヲ最モ必要トスル狭小ニシテ且ツ貧困ナル町村ニ於テモ、多級小学ヲ設ケ、単級小 学ハ殆ト之ヲ設クルヲ欲セス」と分析し、等級制を脱却するには次のような逆転の発想が必要であると 促していた23 是故ニ改正スヘキ普通ノ教育規則ニ、必要ナル細則ノ外又初、中、高ノ三科ヲ備フル小学校ノ級別 ハ、主トシテ現在セル生徒ノ数ニ由テ定ムヘシトノ原則ヲ掲ケ、且ツ明カニ単級小学校ヲ以テ、通 例ノ小学校ト認ムルコトヲ示スヘシ

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 テヒョーの提案の革新性は、ファルク法の第二条「一級ノミヲ有スル小学」の規定にならい、「諸学 責アル童子、其年齢ヲ論セス、一室内ニ集メ、一教官ヲ以テ、同時間ニ之ヲ教ヘ」24 る単級方式の導入 を促すだけでなく、さらにそれを「原則」「通例」とすることに逆転させた点にあった。しかし、そこ に教育的な意図を見出すことはできない。次章で詳しく見るように森も経済主義を標榜したが、「児童 六十人以下ノ場合ニ於テハ学級ヲ分カツコトヲ得ス」を原則化させたのは、小学簡易科のみであった (1886 年5月 25 日文部省訓令第1号「小学簡易科教則要領ノ事」)。それ以上の普遍化は、森の見識が 許さなかったということなのか。森の教育組織の合理化策は、直接的なドイツ化とは別の方向で模索さ れていくことになる。 2.森有礼の「学校経済主義」とそのドイツ化 (1)「学校経済主義」から構想された教育組織  「学校経済主義」は文部大臣森有礼がことあるごとに強調した、彼の教育政策の根幹をなす主張で あった。「国体教育主義」と「学校経済主義」を森の「二大成語」と評した横山健堂は、「学校経済主義 といふものは、国体教育を実行する所以の方法に於ける綱領」であったと位置づけている25。後年には「自 理」という言葉も「綱領」に付け加えられた。森の「自理ノ精神」は、「国家全体ノ勢力ヲ強ク」する ための「同心協力」を「各人各家各村各郡各県皆其範囲相応ノ責任ヲ尽シ」て行うというシチズンシッ プ的概念であったが、同時に日本の置かれた条件や環境を踏まえて「自他並列」「和働」させる柔軟性 も持ち合わせていた。そのような「プラグマティズム的発想」26が森の思想の分かりにくさにつながる ことは否めないが、具体的な提案に落とし込まれればその革新性は明白であったし、時に物議をかもす ことにもなった。森の提案には師範教育制度や兵式体操、大学の教授会の原型など様々なアイディアが 綺羅星のごとく犇めいており、以下に挙げた初等・中等教育の教育組織に関する主な提案にも、森らし さを随所に窺うことができる。 ・近代的な組織統御法:職階の各段階における権限の分割と不可侵性、それに伴う責任(人事権)を 明確にしたこと。職員の統御法は「命令」ではなく「心服」をもってし、「各職員ヲシテ其担当部 門ノ事業ニツキ常ニ整理開進ノ考案ヲ尽サシムル様仕向ケルコト」や27 、教員が互いにその教授を 参観して研究会を開くべきことなども示唆した28 ・教育者と行政官・監督者としての役割を兼ねる兼務の構想:尋常師範学校長が県学務課長を兼任す ることは「一挙両得」と述べ29 、高等小学校長を「其校及其学区内初等小学校ノ帳簿整理ノ責ニ任シ、 兼テ校費ヲ節約スルノ務ニ服セシムヘキ事」30 を提言した。既存の教員組織である地方教育会を再 編強化して行政的役割を代行させ、将来的には教育会に学校長選任権や職員任免権などの大幅な 自治的権限を与えるとともに、学校評価・勤務評定についても教育会が大きな役割を担うことを 企図した31 。 ・分散的リーダーシップ:「小学校ノ事業タルヤ……中央政府ニ於テ案ヲ立ルヨリハ実地地方ニ於テ 其任ニ当ル者ガ案ヲ立ルガ適当デアル」として、市町村の教育は「法律ノ範囲内ニ於テ自理ヲス ルコト」を上位機関も「信用スルの外ハナ」く、余計な干渉をすべきではないということを明言 した32 。 ・ 教授法の協働化:各学科の区々分立を排して学科総体の「連進」を重視し、とくに複数の教師に よって教育がなされるときに「其教授法ヲシテ諸学科ノ連進ヲ期スルニ足ルヘキ諸能力ノ共同一 致ヲ得セシムルノ道ニ由ル」べきことを主張33 。「連進教授法」と名付けられ教授法として位置付 けられているが、一教師が複数の教科を同時に教えることの利点を説いた主張でもあった。

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 上記の提案からは、森が近代的組織観に深い理解を示しながら、その利点を斟酌しつつ日本の国情に 適合させようとしていたことが伝わってくる。これらアイディアが、森の文相時代に施策化されなかっ たのは、森のキリスト教的なバックグラウンドが儒教主義を道徳の基本に据えようとした保守勢力側に 警戒されたことにもよるが、何よりも森自身が官僚制的な上意下達の組織の在り方を非効率と考えて、 「文部大臣ハ成ルヘク言ハヌ精神」34 を貫いたことが大きかった。「自理の精神」にもとづく制度化の在 り方、すなわち文部省が法令によって命令するのではなく、必要性を説得することにとどめて徐々に市 町村や学校管理者の納得を引き出し、当事者がそれぞれの置かれた状況にとって最適な方法を考えると いうのは、現在の目から見ても正論だが時間と労力を要するプロセスでもある。そして森の不慮の死ま でに残された時間はわずかであった。  森在任時に実現しなかった「学校経済主義」にもとづく教育組織改革のアイディアは、森の死後、彼 の元下僚たちによって法令改正や著述などのかたちで部分的に継承され、あるいは歪曲されていくこと となった。小学校令改正というかたちで一部実現することになる教員の兼務的な役割拡張と教育組織の 簡素化については、節をあらためて論じていくこととしよう。 (2)改正小学校令における理念の継承と断絶  森文相のもとで制定された諸学校令の改正作業は、森存命中の 1888(明治 21)年4月 26 日、市制・ 町村制の公布翌日から進められていた。すでに同年2月には市制・町村制の公布に先立って招集された 全国の地方長官を前に、内務省担当者が小学校令を改正して町村の責任や権限を明確にすることを示唆 しており、同令を含む学校制度改革は待ったなしの状況であったからである。先に述べた森の「自理の 精神」も、こうした状況をうけて自らの理念を発展深化させたものであった。改正作業に取り組む省 内体制は、4月 26 日に会計局長久保田譲・参事官江木千之、同木場貞長の幹部三人が「臨時取締委員」 に任命されたのを皮切りに、翌月 10 日には参事官大島誠治を同委員に追加、その後も「事務順序取調 委員」として文部属5人、「教育ニ関スル法令編纂委員」に書記官1名、「臨時事務取調委員」に秘書官 1名視学官5人を追加するなどして続々とその陣容が整えられ、森の死後は後任の「榎本文相期にその まゝ継承進行され、その在位末期 23 年3月以降、一定の成按を得るに至っ」35 ていた。だが森路線の継 承もここまでであった。小学校令案が 1890(明治 23)年3月 24 日に閣議に提出されると「忽ち異議百 出」して決定を見るに至らず、榎本更迭後に任命された「芳川顕正の指揮のもと」で同案の改訂作業が 再度進められることになったのである。このとき旧案で最も問題とされたのが、「学校の管理における (自治)的要素の導入」をはじめとして、「教育勅語制定へ凝集しようとする山県・芳川ラインの教育政 策発想とはなじまない諸要素を許容しているその制度構造」そのものであったという。  森の「学校経済主義」にもとづくアイディアは基本的には「自理」に基づく構想であったので、ここ でその命運がつきたかにも見えるが、実はその後も部分的に継承されていった。その理由として考えら れるのは、第一に改正小学校令の細則制定が芳川文相のもとではなく、次の大木文相のもとで公布され たことがある。大木は前章で扱った学校令再改正時の文相であり、理念は別としても教育費削減という 目的において森のアイディアを許容する余地があったものと推測される。第二に森のアイディアには、 その提供の仕方は「自理」的であっても、内容的には勅語体制とも共存可能な組織効率化策が少なから ず含まれていたことである。その場合は、アイディアの伝え方を官僚的統制のもとでの上意下達方式に すれば、何ら問題はなくなる。教育組織面の改革において森のアイディアが継承されたのは、教員の職 務の拡張(兼業化)と小学簡易科を全面化させた学級制度であるが、前者については、芳川文相のもと で同年6月に公布された文部省令をあえて改正したことからも、大木の教育費削減の意図の反映と見る ことができるし、後者は森文相時のアイディアを応用した法令を上意下達方式で一律に適用させたもの である。

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 ここで教育組織面の改革について、森から芳川、そして大木文相期にどのような政策の変遷があった のかを確認しておこう。施政の後半になると「教育自理」を盛んに説いた森文相であったが、反面で教 員政策については極めて統制的であり、1886(明治 19)年制定の師範学校令では、文部大臣が管理す る高等師範学校だけでなく府県支弁の尋常師範学校に対しても、「尋常師範学校ノ経費ニ要スル地方税 ノ額」を文部大臣の認可制と定めて、国(あるいは森自身)の関与を強く押し出していた。これは森が 教育において教師の果たす役割を重く見たのと同時に、地方において師範学校が「他ノ模範」となるこ との重要性を強く意識していたことによるものと思われる。森は師範学校を「経済ノ試験場」と考え、 そこで教育を受けた町村小学校の教員や彼らが教育する児童が「諸般ノ経済改良ノ種蒔ヲスル」役割 を果たすことを期待していた36。そのため森は、各府県尋常師範学校の学校規模、職員・生徒定数、設 備に関して詳細な規程(1888 年8月 21 日文部省訓令第1号「尋常師範学校設備準則」)を設け、予算 編成や支出にも周到な指示を与えている37 。1886(明治 19)年 10 月8日「尋常師範学校官制」(勅令第 113 号)で定めた必置職員(学校長、教頭、教諭、助教諭、幹事、舎監、訓導、書記)についても、そ れぞれの人員数に加えて、受持ち学科・事務や一週あたりの教授時間まで詳細に定められていた(表1)。 表1.「設備準則」の教職員配置規定  しかしその一方で、他の学校種の配置職員については、下記のように名称や待遇のみを閣令(「公立 学校職員ノ名称及待遇」1886 年 12 月 28 日閣令第 25 号)で規定しただけであり、地方の「自理」に任 せる側面もあった。 公立学校職員ノ名称ハ尋常中学校及等位ノ之ニ準スヘキ学校ニ於テハ学校長教諭助教諭書記トシ、 小学校及等位ノ之ニ準スヘキ学校ニ於テハ学校長訓導トシ、総テ判任ヲ以テ待遇スヘシ  芳川文相期になると上記規定は勅令(1891 年6月 30 日勅令第 73 号「市町村立小学校長及教員ノ名 称及待遇」)に格上げされるとともに、職員の種別は学校長訓導に加え、高等訓導、准訓導、授業師、 准授業師が追加されて多様になり、それぞれの職の判任官待遇の詳細も事細かに規定されて、統制の度 学科 事務 学 校 長 一人   教諭兼教頭 一人 10 教   諭 一人 24 教   諭 一人 24 教   諭 一人 24 教   諭 一人 24 教   諭 一人 20 教   諭 一人 24 助 教 諭 一人 24 助 教 諭 一人 19 助 教 諭 一人 28 助 教 諭 一人 28 助 教 諭 一人 28 助 教 諭 一人 22 助 教 諭 一人 19 助 教 諭 一人 18 助 教 諭 一人 18 幹   事 一人 舎   監 二人 舎   監 二人 書   記 二人 国語・漢文 数学・簿記 英語 家事 職  名 人  員 受持 倫理・教育 倫理・教育 物理化学・手工 男女生徒ヲ置クトキノ職員 (注)省略した「男生徒」ノミヲ置クトキノ職員」の表では、教諭・助教諭・舎監が半減している 体操 男生徒寄宿舎 女生徒寄宿舎 会計・庶務 一週教授時間 実地授業 実地授業 実地授業 習字図画 音楽 体操 博物・農業 英語・地理歴史

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合いが強められた。改正の由来ははっきりしないが、おそらく森文相下で組織された文部省内の小学校 令改正チームが同令改正にあわせて考案した諸規則の一つではなかったかと推測される。「自治」を嫌っ た芳川文相にしても、森の教員政策の統制的側面には異論はなく、かえって勅令にあらためることで統 制強化したのであろう。しかし芳川の後任の大木文相からすると、不経済と映ったと思われる。勅令は 施行されないうちに同年 11 月に再改正され(勅令 218 号)、小学校の必置職員の職種は、小学校長、訓導、 准訓導の3つに再び絞り込まれている。改正の理由は、「慣用に重キヲ置クト繁文ヲ省略スルトノ旨趣」 と説明された38 。  この勅令改正が公布された 1891(明治 24)年 11 月 17 日の官報には、小学校令に「付随」する 17 本 の文部省令も同時に掲載された。1890(明治 23)年 10 月7日に改正公布された小学校令に付随する下 位規定の制定が、改正小学校令の再改正がささやかれるほどに遅れてしまった背景には、省内の不一致 があったようである39 。大木首相のもとで普通学務局長に就任した久保田譲が雑誌記者の取材に答えた 記事があるので、やや長くなるが該当箇所をそのまま引用しよう。 予ガ普通学務局ノ椅子ニ就キタル日ヨリ、教育家ハ勿論四方ノ有志者、予ニ向テ小学令ニ付随スル 文部省令猶数種ノ発スベキモノアリ、何時発スルカヲ質問セルモノ多シ。又新聞紙ノ如キモ、屢  此事ヲ記載シ、種々ノ随想ヲ付シテ、頻リニ攻撃ヲ試ミタルモノアリ、然レドモ予ハ別ニ考フル所 アルヲ以テ、一モ之ガ答弁ヲナサズ、又今日マデ実ニ新令ノ起案ニモ着手セズ、只目前不得事ノミ 処分シ居レリ。然ルニ今ヤ大木大臣ノ指示ニ拠リテ、局務処弁ノ方針一定スルヲ得タリ、此方針ハ 未ダ詳細ニ公示スルノ機会ニ至ラズト雖モ、要ハ国力ニ伴ヒ民情ヲ酌ミ、教科ト施設トヲ切実簡易 ニシテ、夫ノ教育過度実業忌避等ノ通弊ヲ矯メ、貧民ノ児童ト雖モ、容易ク就学スルヲ得セシメ、 教育普及ノ実効ヲ挙グルニ在リ40 。  記事の文面からは大木の就任をもって省内の方針が一定し 1891 年 11 月の諸規則群の制定に向かった こと、そして大木のもとで統一された新たな方針の概要が、教育を簡素化・低コスト化して貧民層にも 普及することであったことが分かる。引用箇所のつづきには、「大木大臣ニモ始メヨリ定説アリ、予モ 亦数年前ヨリ定案アリ、昨年ノ外国行以来、一層自説ノ国情ニ照ラシテ、不当ナラザルコトヲ信ゼリ」 との一文もあり、大木の「定説」が文部卿時代以来のものであり、久保田がおそらくはドイツに行って 確信を得た「方針」であったことも窺われる41。このとき法令策定のおもな担い手の準拠国がアメリカ からドイツに移ったことが、単なるコスト削減策を意図した当事者の思惑を超えていくこととなった経 緯を、尋常師範学校教員の職務規定と単級学校の制度化から明らにしてみたい。 (3)ドイツ化された「学校経済主義」:教育を掌る教員と学級の制度化  尋常師範学校の必置職員やその職務内容を規定する「尋常師範学校官制」は、森文相の諸学校令制定 と同時に公布された全 11 条からなる勅令であった。1891 年 11 月に小学校令の下位規則群とともに全 部改訂された際には(勅令 217 号)、改訂前後で条文数や構成は大きな変化がないものの内容面、とく に必置職員の構成と職務内容に大幅な変更が施された。必置職員の構成では、改正前に必置職員であっ た教頭、幹事が廃止されたこと、また必置であることに変更はないものの専任者が配置されていた舎監 を教諭助教諭のなかから「兼任」させることとした(表2)。職務内容にも様々な変更が加えられたが、 もっとも大きな変更点は、師範学校教諭と附属小学校訓導の職務規定に「教授ノ事ヲ掌ル」という文言 が充てられていたのが、「教育ヲ掌ル」に変更されたことである。教頭・幹事の廃止は明らかにコスト 削減策であったが、その職務を教諭助教諭が分掌することにより「校務整理上ノ便宜ヲ図」42ることが できるという文部省の法令解説には、単なる詭弁というだけでなく、ハウスクネヒトが校務の分掌化の 利点として教員の経営参画意識の向上をあげた主張が想起される。

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表2.改訂前後の「尋常師範学校官制」における必置職員構成の変化  教諭・訓導の職務規定の変更についても、教員の役割変更(拡張?)についての何らかの含意があっ たことを窺わせるが、そのことを裏付ける直接の説明は残念ながら文部省の法令解説には見当たらな い。ただ、舎監を教諭助教諭の兼務職に改正した理由として、舎監が「常ニ寄宿舎内ニ在リテ生徒ト起 居飲食ヲ共ニスヘクシテ生徒教養上ハ勿論修業上ニモ亦重要ナル関係アル」にも関わらず、専任者では 「薫陶上ニ於テ遺憾ナシトセサルモノ」があったので、教員中の「優良ノ者」を充てるよう変更したと の説明を根拠に、新たに追加された教諭への「修業上」の役割期待が、「教授」から「教育」への職務 規定変更の理由であったと解釈されている43 。教諭に関しては、「府県知事ハ教諭ノ中ヨリ附属小学校 主事ヲ命シ校務ヲ掌ラシム」という規定も追加さたが、これも単なる兼務化によるコスト削減というだ けでなく、附属小学校の「地方小学校ノ標準タルヘキモノ」としての重要性を認めてのものであった。 このとき附属小学校が地方に示すことを期待された「標準」が、次に見る単級学校制度であったことは、 文部省令第 26 号「尋常師範学校附属小学校規程」第3条で、府県知事が定める附属小学校の学級編制 に文部大臣の許可を受けることを規定したうえ、その但し書きに「但単級ノ制ニ依リタル学級ハ必ス設 クルコトヲ要ス」とわざわざ記し、さらに単級に編制された児童の授業料は徴収しないことも規定して (第4条)、その実行を促したことからも明らかである。  以上見てきた教授から教育への職務規定の変更が、どこまで意図されたものであったのかは推測の域 を出ないが、少なくとも単級学校の制度化については、大木流のコスト削減の政策がのちに転じて教 員の働き方に大きな影響を与えたものであったと言うことは可能であろう。「学級編制等ニ関スル規則」 (1891 年 11 月 17 日文部省令第 12 号)は、日本独特の学級制度の起点として第二次小学校令の諸規則 群のなかでもとりわけ馴染みのある規定であるが、制定時に最も重要視されていたのは単級学校をデ フォルト化することであった44 。それまで簡易な初等教育機関を導入して教育の普及を図ることが何度 も試みられ、森も府県の学務課長に対して簡易科の導入を働きかけたが、学務課長らは等級制の変更に 否定的であった。人々の意識を転換するためには単級小学校を「標準」化すべしとしたテヒョーの提言 に、森はおそらく「自理」の理想を優先して踏み切らず、ようやく大木のもとで以下のような条文をもっ て法令化されることになったのである。 第一条 小学校ニ於テハ此規則ニ依リ学級ヲ編制シ及教員ヲ配置スヘシ 全校児童ヲ一学級ニ編制スルモノ之ヲ単級ノ学校トシ、二学級以上ニ編制スルモノ之ヲ多級ノ学 校トス 小学校ニ於テ全校児童ヲ二学級以上ニ編制スル場合ニ於テハ児童ノ学力及年齢ヲ斟酌シ学級ヲ別 ツヘシ 第二条 市町村立尋常小学校ニ於テ学級ヲ編制スルニハ左ノ例ニ依ルヘシ 一 全校児童ノ数七十人未満ナルトキハ之ヲ一学級ニ編制スヘシ 二 全校児童ノ数七十人以上百四十人未満ナルトキハ之ヲ二学級ニ編制スヘシ、但七十人以上百 改訂前 全部改訂後 学 校 長 学 校 長 教諭兼教頭 教   諭 教   諭 助 教 諭 助 教 諭 幹   事 舎   監 教諭助教諭兼舎監 教諭兼附属小学校主事 訓   導 訓   導 書   記 書   記

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人未満ナルトキハ之ヲ一学級ニ編制スルコトヲ得(中略) 第四条 市町村立尋常小学校ニ於テ教員ヲ配置スルニハ左ノ例ニ依ルヘシ 一 単級ノ学校ニ於テハ全校児童ノ数七十人未満ノ学級ニ就キテハ本科正教員一人ヲ置キ七十人 以上ナルトキハ本科正教員一人及本科准教員補助教授スル者一人ヲ置クヘシ(以下略)  同規則には、このほかにも多級学校でも教科目によっては一人の教員が数学級を同時に教えることを 可能にしたり(第8条)、二部教授の規定を設けたり(第9条)とコスト削減策が並び、法令解説にも 「専ラ学校ノ経済ニ注意シ其費用ヲ減省シテ、成ルヘク良好ナル教育ノ成績ヲ得ントスルモノ」と明記 されていた。他方で高等小学校の学級定数を 60 人に抑えたのは「教育上ノ便ヲ計」るためと説明して おり、質的低下は織り込み済みであったとも言える。  なお 1891 年 11 月の諸規則群制定の際には、尋常師範学校官制と「市町村立小学校長及教員ノ名称及 待遇」が改正されたほか、新たに「小学校長及教員職務及服務規則」(文部省令第 21 号)が定められて いる。その第三条では、正教員及び准教員の職務について次のように規定された。 第三条 正教員及准教員一時教授スル者ハ児童ノ教育ヲ担任シ並之ニ属スル事務ヲ掌ルヘシ  小学校教員の職務内容に「教育」という言葉を用いた点では同様だが、師範学校教諭や附属小学校訓 導と大きく違うのは、教育だけでなく「事務ヲ掌ル」ことが職務内容に含まれたことであろう。もっと も法令解説を見ると、「之ニ属スル事務」としては、「教授ノ準備ヲ為ス事校具ヲ整理スル事教育ノ成績 ヲ調査スル事等ヲ取扱フヘキノ義務」45 のみが想定されており、そもそも「教育」の職務にそれら業務 が付随していないことの方が不思議なぐらいである。それほどまでに分業的な教育組織観が浸透してい た当時の状況で、しかも教育の質的低下が明らかと思われる施策を、たとえ法令によって強制されたか らといって、果たして人々は唯々諾々と受け入れたのであろうか。結論を先どりすれば、法規万能主義 では末端は動かないが、理論を伴うことで人が動き、教育の質の定義が転換されることで学級制が定着 していったのである。 3.「学級」の理論化と正当化 (1)単級教授法とヘルバルト主義の流行  小学簡易科の不振の一因が貧民学校視する差別意識にあることには、森文相もうすうす気付いていた のではないだろうか。というのも森の先駆性として注目されてきた連進教授法の提案は、実は一人の教 師がすべての教科を教授する単級学校の利点を強調するものでもあったからである。森の連進教授法 は、教科担当の教師たちが学科総体の「連進」を意識することの必要性を説いたものと受け止めら れてきたが46 、先入観を外して森の論考をながめれば、「一校一教師」と「一校数教師」ではそれぞれ 長短があり、その長短に応じて教授法を変えるべきとの主張であって、決して後者の教授法のみを論じ たものではない。前者の問題については、次のように述べられていた。 一校一教師ノ教授法ハ、生徒ノ数三十以内ナレハ、一個ノ心臓善ク諸学科ヲ連想シ、交モ進メ以テ 生徒ヲシテ不要ノ苦ト時トヲ免カレシムルヲ得ル容易ナルヘシト雖モ、生徒ノ数増スニ従ヒテ其難 キヲ加ルヤ弁セスシステ明ナリ、・・・  生徒数が少なければ「一校一教師」の方が「連進」が容易で利点が大きいと述べたはずが、「連進教 授法」という名称が独り歩きして、教育世論を騒がす事態となったわけである。このことに限らず、森 のアイディアの独自性には衆目の理解が追い付かないところしばしばあったので、文部省の下僚が森に 代わって論考や著述などで森の思想を明確化する役割を担っていた。森の「連進教授法」についても、 下僚の能勢栄がその「方法ノ一部分ニ答ヘル考ヲ以テ」、その教育的価値を補強する論考を『大日本教 育会雑誌』に寄稿している47 。能勢は、1886(明治 19)年に出版した『通信教授教育学』(第一~第八、

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1886 年、通信講習会)が森の目にとまり、「大に之を称讃せられ、遂に召し見て、其教育上の意見を聴 かれた」48 ことが機縁となって、1887(明治 20)年2月に文部省入りすることになった人物である。元 幕臣で苦学しながらパシフィック大学を卒業後に福島県師範学校長等をへて文部省事務官となった経 歴からも、その思想的背景は森と共通性があり、かつ教育理念にも明るかったことが森に重用された理 由であろう49 。森が提案した教授法について、能勢は、複数の教師が学科相互の連関について一定の了 解に基づいて「恰モ一ノ脳髄ヲ以テ教ユル様」にするための方法として、教頭が中心となってこれらを 調整・監督することや教員会議を定期的に開くことなどを詳しく論じているが50 、「一校一教師」の教 授法については全く触れていない。能勢の論考は、アメリカの分業的な教育組織観を相対化する森の意 図からはむしろ逆効果であったのかもしれない。  能勢は森の死後、東京女子師範学校長を経て野に下り執筆を生業とするようになったが、執筆のかた わら森文相のもとで解決できなかった単級学校の教授法の開発にも尽力している。大日本教育会の「研 究組合」の一つ、「単級教授法研究組合」の発起人の一人に加わったのである51 。研究組合は、能勢、 石川重孝、川村理助、町田則文、野尻精一、鈴木光愛の6名の発起人に加え、黒田定治、渡邊政吉、田 中敬一、多田房之輔、戸倉廣胖、丹所啓行、金子治喜、村田千熊、上野道之助、牛島常也の総勢 16 名 のグル-プであった。規約に記された目的は「単級教授ノ理論及ビ方法ヲ研究スルヲ目的トス」という 簡潔なもので、発足の動機などは全く分からない。当初は一年間を期限としていたが、その後に出され た報告書では半箇年延期して 30 回以上の集会協議をしたとあり、かなり熱心に活動したようである52 。 次の研究事項を予め設定し、「抽選法を以て各其の受持を定めた」という。能勢が担当したのは5と8 であった。 1、単級小学校の意義 2、組の分け方 3、単級と多級との利害得失の比較 4、正教員と准教 員との関係、5、生徒の補助すべき事柄 6、単級学校管理法 7、時間割の標準及び其の例 8、 単級学校教師の性格 9、教室の構造 10、器具の配置 11、教授用具 12、単級学校教授法  もともと単級小学校は 1887(明治 20)年に高師校長山川浩が「時ノ文部大臣ニ謀リ」53高等師範学校 附属学校の一部に開設した「合級教場」を嚆矢とするもので、1891(明治 24)年の小学校令諸規則の もとで正則化されて各府県師範学校に「単級ノ制ニ依リタル学級」の開設が指示されると、同校の「実 地研究」の成果は報告書や講習会などを通じて全国的に普及することになった。それに伴い、当初貧民 対象の不完全な教授組織として捉えられていた「単級」には、「教育ノ精神ハ毫モ普通ノ多級小学校教 育ノ精神ニ異ナルナキナリ」との認識のもとに、教授中心の多級学校に相対峙する「教育所」としての 普遍的意義が付与されていったとされる54。1894(明治 27)年に公刊された勝田松太郎の執筆による高 師附属小の第3回報告書『単級学校ノ理論及実験』では、一学校一教師という「単一」の組織編成が、 「教育主義ノ一致及永久」を保つ上で、また知識を「一箇道義的意志ノ下ニ統合」し教科相互の関連づ けを行ったりする上で、あるいは「師弟ノ情誼」が濃く「和気藹々宛然一家族ヲナ」す点での訓育上の 効果が大であるとして、学校教育のあるゆる側面における単級の長所が強調されていた55。大日本教育 会の「単級教授法研究組合」は、おそらく師範学校を中心に隆盛を迎えた単級の「実地研究」の成果を、 理論化することを狙っていたのであろう。その研究成果は『大日本教育会雑誌』に分載され、それらを まとめた非売品の報告書も刊行されたが56、反響が少ないことへの不満が最終報告の中で訴えられてい ることからも、所期の成果は収められなかったのかもしれない。しかし成果云々よりも、アメリカ研究 者である能勢までも巻き込むような教育学界の一大ブームとなっていたことが重要である。このときに は能勢の教育思想にいま一つのドイツ化、すなわちヘルバルト主義への傾倒も認められるようになって いた。  能勢は 1895(明治 28)年に 44 歳で早世するまでの数年間は主に文筆家として生計を維持していたの で、数多くの著作物を公にしているが、その中でもヘルバルト派教育学に関する著作は3点もある。能

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勢の評伝にはヘルバルト主義に「転向」したことを揶揄するものもあるが、公平に言えばもともと能勢 の教育理念はヘルバルトに近かったとも言える。能勢は森の「連進教授法」を、目的に従って学科総体 を「連進」させて学習の効率化を図る教授法と説明したが、この考えは帝大「特約生教育学科」のハ ウスクネヒトが特約生に講じた、ヘルバルトの「訓育的教授」とも重なる57 。ハウスクネヒトは、「訓 育的教授」を実現するには「受持教師ハ同一ノ精神ヲ以テ教授ニ従事スルコト」と説明したが、これは 能勢の「恰モ一ノ脳髄ヲ以テ教ユル様」にすべきとの主張と近似しているし、さらに言えばハウスクネ ヒトが、「一校ノ教師ハ可成同一ノ精神ヲ有スル所ノ少数教師ノ一団体ナルヲ要ス」るとして、小規模 校を良としたことは、能勢の考えというよりもむしろ森の主張そのものでもある。  ハウスクネヒトの来日した 1887(明治 20)年1月から森が暗殺される 1889(明治 22)年2月までの 2年間の間に、両者の接点は少なくとも二度あったと考えられる。一度目は、ハウスクネヒトが来日直 後に講演を行った場に文部大臣として森が列席していた機会である58 。1887 年4月 10 日の大日本教育 会第四回総集会でハウスクネヒトが行った「善良なる教員養成法」と題する講演では、教員養成の制度 についてドイツの大学での中等教員養成資格制度をモデルとした具体的な提案を行ったほか、「学級教 員」を「孛露西國ニ於テハ教育ノ目的ヲ達センカ為ニ一ノ特別ナル良イ方法カ設ケテア」ると紹介し、 また「善良ナル即チ完全ナル教則」は「常ニ各科目ト他ノ科目ト正当ナル所ノ関係ヲ有サナケレハナ」 らないことも力説していた59。もう一つの接点と考えられるのは、帝国大学に創設された特約生教育学 科の認可である。すでに述べたように、ハウスクネヒトは同学科の設立を建議した「高等学校教官養成 之議」を 1888 年7月1日付で品川弥二郎に提出しており、認可の際に森が目を通した可能性は十分あ る60。建議書提出から半年後の 1889 年1月 14 日に、森文相は帝国大学に対して特約生教育学科の設置 に関する訓令を発し、同年4月からハウスクネヒトは同学科の「専担」となった。森がいずれかの機会 でハウスクネヒトの主張に関心をもって、その研究を能勢に命じたのではないだろうか。森の経済主義 はハウスクネヒトを経て、ヘルバルトのドイツへと向かおうとしていたのかもしれない。特約生教育学 科は短命に終わり大学での教員養成の制度化につながることはなかったが、特約生やハウスクネヒトの 授業を受けた受講生が教育界に進出することでヘルバルト主義は流行し、プロイセン特有の「学級教員」 という「働き方」が日本の初等・中等教育界に広がる契機になったと推測されるのである。 (2)師範学校用教科書における「学級事務」定型化のプロセス  前節では簡易な教育組織として導入された「学級」の意義が、単級教授法やヘルバルト主義などのド イツ起源の理論によって正当化されることで、それまで支配的であったアメリカ起源の分業的な教育組 織観を後景に追いやっていく経緯を見てきた。この転換の推進役を担ったのが、高等師範学校や各府県 の師範学校附属小学校に設置された「単級ノ制ニ依リタル学級」であり、ヘルバルト主義流行の担い手 となったドイツ研究者や師範学校教員、教育ジャーナリズムの関係者たちであった。日本教育会の「単 級教授法研究組合」のメンバーのうち、能勢と弟子筋の多田房之介(雑誌『日本の小学教師』の創刊者) を除くほとんどがドイツ学者や師範教育関係者であったことは、その端的な例であろう。先行研究でも 単級教授やヘルバルト主義教育学を、「日本型学校教育」の特徴とも言える学級や集団主義的教育方法 の原型と見るのはほぼ通説となっており61、この論考でもそれら研究に多くを学んでいる。しかし、ド イツ化のもたらした変化が教育方法に留まらず教員の働き方にも及んでおり、その推進役を師範学校が 担ったことについて十分に認識されてきたとは言えない62 。ハウスクネヒトが紹介したプロイセンの「学 級教員」のアイディアや単級教育の管理手法のノウハウは、師範教育カリキュラムにおいて必修化され た学校管理法のテキストにおいて急速に定型化されていくこととなったのである。  表3は明治期に公刊された「学校管理」を書名に含む著作のうち、国立国会図書館に所蔵が確認でき るものの一覧であるが、そのほとんどは師範学校用教科書として用いられたものである。1886(明治

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19)年4月の師範学校令以降、師範学校用教科書に は検定が実施されたが、開始直後は検定を受ける教 科書が少なく、やむなく既刊の図書から文部省が選 定したので、そのほとんどが翻訳書であった63 。既 述したように当初は米英の思想的影響が強かった ので学校管理法の翻訳書も米英のものがほとんど で、「日本の学校経営研究史上わが国の教育学者に よる最初の著作」64 として知られる伊沢修二の『学 校管理法』(1882 年刊行)も、その体裁は「蘇国教 育家カレ-氏ノ教育論ニ則トリテ彙類編成シ」たも のであった65 。能勢の『学校管理術』は、「完全ナ ル著書ノ邦人ノ手ニナル者」66 であることを謳った 第一号とも言えるが、彼の思想的背景もやはりアメ リカである。しかし、師範学校関係者による学校管 理法書が次々と公刊されるようになると、その内容 にヘルバルト主義や単級教授法などのドイツ起源 の教育思想の影響が強く反映されるようになり、教 育組織の在り方や教員の職務内容の記述も次第に 変化していくことになった。  最初期の学校管理法の考え方が極めて分業的で あったことは、伊沢の『学校管理法』によく表れて いる。そこには校務分掌の記載はなく、「諸種ノ編 制法及特質ヲ論ス」と題された章には、次のような 節や項のタイトルが並び、等級制の教育組織の編制 法が解説されていた67 。 (一)助教ナキ学校ノ編制 (二)助教アル学校ノ編制  (甲)教員及助教員ヨリ組織セル学校  (乙)教員及授業生ヨリ組織セル学校  (丙)教員助教員及授業生ヨリ組織セル学校 (三)三類ノ分業  同時期に公刊された学校管理法書も伊沢の著作 とほぼ同内容であったが、次第に森文相の経済主義 や小学校令改正の影響などにより、教師による事務 分掌が提案されるようになっていく。『実用学校管理法』(1888 年)を執筆した多田房之輔は、能勢が 福島師範学校長在任時に同校教諭に招きその後教育ジャーナリストとなった人物であるが、同書では職 員5~6人以上の学校では規則等を設けて「各自ニ充分ノ責任ヲ負ハシメルザルベカラズ」として、そ の編制法を5パターンで例示した68 。「第一種」「第二種」はブロック単位のライン組織、「第三種」以 降は「教務庶務係」などの機能別の分掌が提案されている。小学校令が改正された 1890(明治 23)年 刊行の峰是三郎・生駒恭人著『学校管理法』は、「亜米利加独逸」でも大規模校以外は、「事務員ヲ置ク コトナク、多クハ校長ト教員トニテ万般ノ校務ヲ処理スルヲ常トス」と西洋を持ち上げつつ、「本邦ニ 於ケル学校ノ組織、即チ校長ナリ教頭ナリ幹事ナリ書記ナリ種々ノ階級ヲ設ケテ事務員を置クモノニ比 発行年 書名・執筆者 1882 学校管理法(伊沢修二),普通学校管理法(太田保一郎) 1884 小学校管理法摘要(宮林亨) 1886 学校管理法(ランドン) 1887 学校管理法(勃氏) 1888 教員理事者必携学校管理法提要(浦守)、学校管理法(奎 氏)、実用学校管理法(多田房之輔) 1889 学校管理法(金港堂)、学校管理法(義氏) 1890 学校管理法(峰・生駒) 1892 実験学校管理法(杉山正毅) 1893 学校管理法(一条亀次郎)、新式学校管理法(国府寺・相 沢)、学校管理法百問百答(日下部三之介)、学校管理法 附 教育令(寺田捨次郎) 1894 新編学校管理法(高橋章臣)、学校管理法(広瀬吉弥)、学校 管理法(松本貢)、小学校管理術(原慶次郎)、実験小学管理 術(山高幾之丞) 1895 学校管理法問答(冨山房) 1896 管理法問答(田口義治)、小学校実際管理法(増地三之助, 池田保之助)、実験管理術(新編)(国分寺・相沢) 1897 学校管理法(田中敬一)、学校管理法(峰是三郎)、小学実践 管理法(大橋唯雄) 1898 学校管理法(多田房之輔) 1899 新説学校管理法(槇山・小山)、学校管理法(黒田・土肥) 実践管理法(大村茂樹) 1901 学校管理法:新令適用(大塚薫)、学校管理法:令規適用(鈴 木光愛)、学校管理法:新令適用(寺内穎)、通俗学校管理法 (安田清忠)、小学校管理法(和田豊) 1902 学校管理法問答(王宰善)、師範教科 学校管理法及教育法 令(里村・増戸) 1903 学校管理法(清水・渡邊・服部)、学校管理法(町田則文)、管 理法教科書(田中敬一)、修正学校管理法(槇山・小山)、新 編小学管理法(川島・大戸・石井) 1904 小学校管理法(樋口勘治朗) 1905 学校管理法:法規適用(柴崎鉄吉)、小学校管理法(小泉又 一) 1906 学校管理法(教育学研究会)、学校管理法(山路一遊)、実験 学校管理法講話(渡辺辰次郎) 1907 実用管理法要:教育教科(小平高明)、新編学校管理法:師 範適用(鈴木光愛) 1910 学校管理法(小平高明)、学校管理法:女子師範教科(藤井利誉)、小学校管理法(小川・佐藤・篠原) 1911 改修師範適用新編学校管理法(鈴木光愛)、学校管理法(桜 井虎之助)、学校管理法教科書(渡辺辰次郎)、実験学校管 理法精義(渡辺辰次郎)、新撰学校管理法教科書(篠田・西 山) 表3.明治期の学校管理法著作

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スレバ、其差幾ント雲壌ノ差アリ」と日本の分業的教育組織を批判したが、その理由はもっぱら「教育 費ヲ節減」する観点からであった69 。  しかし改正小学校令の下位規則群が制定された 1891(明治 24)年刊行の杉山正毅著『実験学校管理法』 になると、早くもその論調に変化が見られるようになる。同書では教員が事務分掌を負担することが 経済的な意義だけでなく教育的効果があると強調し、「書籍器械器具ハ常ニ整頓シテ乱雑ニ至ラス遽ニ 教授ノ際ニ至リテ差支ヲ生スルコトナク」、また経費節減に努力する姿を見せることで、「父兄人民ノ信 用ヲ篤クシ隋テ心服セシムルニ至ル等ノ利益アルノミナラス為メニ教育上ノ機関ヲシテ円滑ニ運転セ シムルニ至ラン」等の利点を並べて、「分業法ヲ用ヰテ校務ノ分担ヲナシ協心ヲ以テ益学校事業ヲ改良」 することを説いていた70。1893 年(明治 26)の国府寺新作・相沢英二郎著『新式学校管理法』になると、「明 治廿四年十一月文部省令第二十一号第三条ノ精神」によれば、学校事務は必ず教員が負担し「俗吏ノ手」 に委ねてはいけないし、専任の事務員を置くことは「道徳ニ反スルモノ」とまで主張された71 。それで も校務分掌については国府寺・相沢の著作では「負担」と認識され、その適切な分担を行うことは「学 校経済ノ主義」のために必要と述べるだけであったが、1899(明治 32)年の槇山英次・小山忠雄著『新 説学校管理法』になると、「市町村長ノ管掌スル所」も含め、事務の全般を知ることは教育者として「極 メテ切要」とその重要性が強調されるようになり72 、1901(明治 34)年の鈴木光愛『学校管理法=令規 適用』では、「教員が校務を分掌するは、即ち職員一般協同して学校事業を進捗せしむる所以にして、 寧ろ望ましきこと」73 とその評価が逆転している。その理由は、「蓋し校務は、大となく小となく、皆児 童教育に関係を有し、決して孤立のものにあらざればなり」として、「教育」の担任に関連すると説明 されていた。  職務規則の制定以降から急速に教員の仕事としての価値づけが進んだ「学校事務」に関する師範学校 用教科書の記載内容は、明治末になると教務関連の「学級事務」と「教科事務」、そしてその他の「狭 義の事務」の3つにほぼ定型化されていた。教科書執筆者が、欧米を範にとるのではなく既刊の学校管 理法書を参照して執筆するようになり、テキスト間での相互参照が行われたためである。学校の実態は 師範教育ほど迅速に定型化されたとは思われないが、規範論としては師範学校卒業生だけでなく、教育 ジャーナリズムや免許上申のための講習会、通信教育の受講者などに広く流布されていったと見ること が出来る。教師が掌るべき「教育」の範疇に「学級事務」だけでなく「学校事務」までも含まれることが、 少なくとも理論的にはほぼ決定づけられたと言うことができるだろう。 おわりに  本稿では、1891 年に制定された小学校令の下位規則群において、「教育」を担任する/掌る職務とし て規定されたことを起点に、「日本型」教職の雇用慣行が形成されてきた最初期のプロセスを明らかに してきた。起点となった小学校令諸規則群の制定意図は、当時の「国情」にあわせて学校教育(とくに 義務教育段階の)を簡易化することにあったが、それを正当化するうえでは国家の必要性を根拠とする だけでは足りず、教育的な意義づけを必要としていた。それを提供したのが準拠国ドイツであったこと が、その後の日本の教育や教師の「働き方」を決定づけたと言うことができる。ドイツ起源の単級教授 法の研究が開始された当初の認識では、高コストの分業型教育組織からの転換が教育の質的低下を結果 しないようにすることにあったはずが、次第にその優位性が主張されるようになった背景には、アメリ カを凌ぐ教育先進地ドイツからもたらされた最新教育理論、ヘルバルト主義のお墨付きが威力を発揮し たことは確かであろう。しかし実践的にはむしろ、単級教授を発展させた児童集団主体の教育方法と、 教員が一人しかいない単級学校において多級学校ならば職員が担うはずの「その他事務」を児童にも担 当させる学校管理法とが癒着して、教育システムと管理システムの相互補完性が強まったことの方が大

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