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棲神 第53号 (里見泰穏教授古稀記念号)

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(1)

研究紀要

里見泰穏教授古稀記念号

第53号

(2)

§,

‐言

*〃魁 ビ寺

学頭・里見泰穏教授近影

(3)

研究紀要

里見泰穏教授古稀記念号

第53号

(4)

学頭・里見泰穏教授近影

序⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮学長望

序⋮⋮⋮⋮..⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮理事長竹

法労を謝す⋮⋮⋮.:⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮.:⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮・林

即身成仏論の成立と展開⋮⋮:⋮・⋮・⋮:⋮⋮⋮・・⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮浅 安達泰盛とその兄弟⋮・⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮・⋮⋮・・川 浬藥経にとって大乗とはなにか⋮⋮⋮⋮⋮:⋮⋮・⋮・⋮⋮・⋮⋮⋮・⋮河 竺道生・妙法蓮花経疏における信⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮・⋮・⋮⋮・⋮・望 法華玄義成立についての一考察⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮・⋮⋮⋮⋮・⋮:若 身延山晩年における日蓮聖人⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮.⋮上

l弘安三年九月から十二月までl

最蓮房あて御書の一考察⋮⋮⋮⋮:⋮⋮⋮・⋮・⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮・中

l立正観抄・同送状l

御本尊論研究ノート︵前篇︶・⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮:桑

日蓮聖人の臨終観⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮:奥

棲神第五十参号目次

田杉月村添井

下月

本見海孝昭円是日

條暁秀︵”︶

野名 本貫

昌龍淑照二道幹康滋

へへへへへへ 71 61 43 31 19 I 口ーーーーー 洋正 へへ 〃9〃9 ーー

(5)

身延山と藤村紫朗県令︵本県第五代知事︶⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮林是幹

南部資長考⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮中里悠光

l資長の姓についてl

身延山諸堂建立考⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮..⋮林是晋

小乗の中の大乗:.⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮高橋堯昭

現代文化への反省⋮⋮⋮.:⋮⋮・⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮桐谷四郎

修道誓願と霊性⋮⋮..⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・・・町田是正

Il西独・聖オッティリエン大修道院の路りにてl︲l ︿資料﹀身延山歴代略譜︵第二回︶⋮⋮⋮⋮・⋮・・・⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮:。⋮:⋮⋮:⋮・⋮

中論の論理の一考察︵五藍品第四の第八偶・第九偽についての管見︶⋮⋮⋮⋮里見泰穏

法要式英訳試作⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮村野宣忠

言語小論④:⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮..⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮大森孝

里見泰穏先生略年譜・執筆目録⋮⋮⋮⋮⋮⋮:⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮.

︿書評﹀﹃法華経における信の研究序説﹄⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮望月海英

学園棄報・学園だより⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮..⋮⋮⋮・⋮⋮.⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮.

後記

へへへへへへへ 2”2”249 35 19 1 233 嘗当曹一一一一 へへへへ 2"I99I83I69 ーーーン へへ I53J" し−

(6)

里見泰穏学頭の古稀を記念して論集が刊行される事は、墓に同慶の至りであります。 先生は、昭和八年立正大学宗教科を卒業され、更に研究科へ進み、同十五年同科を修了するや、直ちに祖山学院助 教授に就き、身延山専門学校・身延山短期大学と名称は変りましたが、今日迄、高等学校をも含めた身延山学園の教 埴上一筋の道を歩まれています。この間、昭和二十七年には高等学校校長を、また同五十一年には短期大学学頭とな 先生は、印度学仏教学会︵理事︶・仏教学会に所属し、一貫して宗教学、或いは仏教学における哲学的考察を進め ている事は、その著書・論文により周知の事ですが、最近では﹁七面信仰の系譜と展開﹂﹁日蓮宗と俗信仰との交渉﹂ など、宗門人にも馴染み深い問題を取り上げています。 宗内にては、日蓮教学審議会委員、普通試験講習委員長、各種講習会等の講師として活躍し、他方、山梨県私学振 興会理事、同私学審議委員、同私学退職金財団理事と、身延山学園を代表して山梨県教育会に活動されている事は、 余り知られてない事と思われます。 先生は、教育一筋に情熱を注がれ、難解な学問を温厚な態度で授業し、薫陶を受けた者は今日迄多数に上りますが これは宗門が認めるのみでなく、昨年五月教育功労者として文部大臣表彰を受賞した事が顕然と示しています。 学頭として本学の発展に尽力され、又、山梨県の教育界に重きをなして来られた先生の古稀を記念して特集が組ま れるに当り、御健勝にて更に研鎮を積まれ、我々を教導されん事を願い、慶賀の微意を表するものです。 ︵昭和弱・皿・認述︶ り、今日に至っています。

身延山短期大学学長

望月

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ます。 身延山短期大学学頭里見泰穏先生の古稀を祝い、その学徳を讃えて記念論文集が刊行されますことは、窪に慶びに 堪えません。先生は学生時代から寡黙謹言孜ことして勉学された方でした。友人達が高声激論する中でその傍らに在 って黙々として読雷されていられるような篤学の方でした。昭和十五年立正大学宗教科研究科を卒業されると、時の 身延山専門学校教頭片山日幹先生の推挙で本学に赴任されました。片山教頭は前々から先生に嘱目されており宗門子 弟の僧風教育の唯一場である祖山に先生を迎えられたのです。激動する戦前戦中戦後の教育特に戦中は学徒動員で学 生と共に軍事工場で苦楽を共にし、戦後は物質の飲亡の中旧校舎に在て学生を指導されました。この苦難の中から巣 立った方々が今宗門の中堅となって、全国で法躍しております。斯のような間でも先生は数多くの学術論文を発表し て学界に貢献されました。先生の努力で学園も面目を一新いたしました。御遠忌後本山当局は宗門人材教育の学園 の経営に最善の努力を借しゑません。先生の御健康をお祈りし一層宗門子弟の教育にお尽し下さることお願いいたし

身延山短期大学を園理事長・学監

竹下日康

(8)

学頭里見泰穏教授が本年古稀を迎えて、学園内外の祝賀を受けられ、﹁棲神﹂誌が、古稀記念号として刊行される ことは、教授はもとより関係者一同の大きな喜びである。教授は対島中学の出身で、昭和二年春、立正大学予科に 入学、以来谷山に研鐙を積むこと十年、仏教学科を卒業して更に研究科を修学された。昭和十五年春偶々身延の新教 頭に就任の片山先生の懲憩を受けて祖山学院教授として勤務するに至った、祖山学院は翌十六年に多年の要望が実現 して、身延山専門学校として新発足するに至り、正に師徒一体となって学校発展に努力迩進の気運に充ちていた。教 授も終戦前の短期間召集を受けたが、間も無く無事に学園に戻ったことは幸いであった。爾来今日迄四十余年の永き に亘って本学発展のために尽粋された。顧ゑて本学の今日迄の歩象を考えると逢着した幾多の障碍や困難が偲ばれ る。里見教授が年と共に次第に責任の立場に関係するに伴い、好むと好まざるとを間はず種含の困難、制約を打開し なければならなかった。教授が寺を持たない、従って法務、寺用に煩はされずに教育に専念出来たことは忘れてはな らない。又忍耐強く頑張って周囲と余り摩擦を起さずに、局面の打開を図ったと云ふことも教授の特長として数えら れると思ふ。所謂前時代生き残りの古つわものの間に伍して、次第次第に学校の旧体制を改善して来たとも言へる。 教授が多数の宗門子弟を育成した功綴は勿論言を俟たない、同時に本学の基礎確立に、内容の充実に今日迄払はれた 労苦は甚大なものがあり、里見教授なればこそ具体化され、実現されたと見る幾多の成果を決して忘れてはならない 教授は決して頑健と云ふくきではないが、所謂柳に風折れなしの健康状体である、且つ平素摂生に努められている が、古稀を期して更に一層自愛されて寿を重ね、背骨を伸ばし気力を充溢し、愈々学園伸展の為めに努力されんこと を念じ、併せて慶祝の意を表する次第である。 と思ふ。

法労を謝す

同学林

是幹

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1、提婆品の竜女成仏に対して﹁即身成仏﹂の名目を与えた最初の人は伝教大師最澄である。最晩年の著作﹃法華秀 句﹄の﹁即身成仏化導勝八﹂がそれである。それ以前の用例を強いて求めれば、六祖湛然が﹃法華文句記﹄の提婆品 釈の中で、﹁忽然之間変成男子﹂云云の経文を解釈して﹁現成﹂﹁現身成仏﹂等と呼ぶと共に﹁即身成仏﹂︵会本二 十三ノ三十右︶と一回だけ呼んでいるにすぎない。 この両者を比較すると、﹃記﹄では必ずしも即身成仏の呼名で一決したわけでなく、現身成仏等の用語と共に即身 成仏という用語をも使用したにすぎない感があるに対して、﹃秀句﹄では竜女成仏に対して﹁即身成仏化導勝﹂の章 名を立てたのであるから、法華教学史上に即身成仏の名目を樹立したことになる。 2、最澄のいう即身成仏の意味の主たるものを拾えば、第一にはその行位を初住以上とすることである。﹃秀句﹄ は﹁即身成仏化導勝八﹂の前に﹁即身六根互用勝七﹂の章を置き、 即身六根互用l法師功徳品l第四相似即位有漏位︵伝全三ノー五九︶

即身成仏I提婆品I是則分真証︵同二六六︶

即身成仏論の成立と展開︵浅井︶ ︹寄稿︺

即身成仏論の成立と展開

一、成立

浅井円道

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即身成仏論の成立と展開︵浅井︶ とする。即ち相似即十信までは即身成仏ではなくて即身六根互用であり、分真即初住以上の果を得て初めて即身成仏 といえるというのであるから、﹃玄義﹄位妙︵会本五上ノ十五∼二十一丁︶で六根清浄位と竜女成仏位とを判位する 場合の格調と同一であり、原始天台の円教位階論を即身成仏の名において再認識したにすぎぬものである。 第二に文証。提婆品後半の竜女成仏段の説相に従い、経文解釈の姿勢をとりながら即身成仏論を述べているから、 第一の証文は提婆品後半であるが、章末に﹃観普賢経﹄の釈迦牟尼仏名砒盧遮那遍一切処其仏住処名常寂光﹂の 句と﹁行此餓悔者身心清浄⋮⋮応時即入菩薩正位﹂の句を﹁乃至云﹂で結び引文している。﹁即入菩薩正位﹂の句は 即身成仏を意味する句として引かれたことはわかるが、前半の釈迦名遮那の句を何故引いたか、最澄は説明しないが、 恐らく即身成仏の基盤は法身理の遍在にありと考えて引いたものと思われる。そして丁度同じ基盤に立ったのが、空 海の即身成仏論である。その﹃即身成仏義﹄で六大・四曼・三密による成仏を説く中の六大体大の項に﹃大日経﹄阿 閣梨真実智品第十六の﹁我レ即チ心位二同ナリ︵識︶、一切処一一自在ニシテ普ネク種々ノ有情及ビ非情二遍セリ。阿 うん きや 字ハ第一命︵地︶ナリ、聴字ヲ名ケテ水卜為シ、畷字ヲ名ケテ火卜為シ、畔字ヲ名ケテ風卜為シ、怯字︿虚空二同シ﹂ の文を引く。六大とは﹁諸ノ顕教ノ中一兵四大等ヲ以テ非情卜為シ、密教ニハ即チコレヲ説イテ如来ノ三摩耶身ト為 ス﹂と次下に説明するように、六大の遍一切処ということは即ち大日法身の遍在ということであり、これを以て空海 も即身成仏の基盤としたわけで、両者その構想を一にしている。そして彼等が法身理を根幹として即身成仏論を立て たところに、わが日蓮聖人の思想信仰と異質することを知らねばならない。 最澄と空海とどちらが早く、奈良仏教に異なる平安仏教の特色として即身成仏を提唱したかを探ると、一般的には 空海が密教上の諸著作を発表したのは最澄滅後に属すると見るのが常識であるから、即身成仏論についても最澄の方

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が早いとしなければならないが、勝又俊教編﹃弘法大師著作全集﹄第一巻の解説によると、即身成仏にも言及する ﹃弁顕密二教論﹄を弘仁六年頃に係けているから、弘仁十二年作の﹃法華秀句﹄より早いことになる。しかし両大師 の著作の内容を検すると、奈良仏教に異なる平安仏教の特徴として教相上において空海が力説したことのほとんど は、最澄も同じく強調したところであるから、空海は最澄の法門構成を真似た、あるいは最澄が曽て開拓したところ を押えて、その点では密教の方が円教より勝るということを意識的に表明したという印象を受ける。従って即身成仏 論も最澄に従って空海もより強調したと見た方が自然かも知れない。 1、最澄滅︵八二二︶後、徳一は﹃真言宗未決﹄一巻を書き、その第三条に﹁即身成仏疑﹂を設けて之を空海に送 り︵勝又俊教は弘仁六年に係ける︶、空海は天長七年︵八三○︶の﹃十住心論﹄や﹃秘蔵宝鋪﹄ではまだ即身成仏の 語を使用していないが、やがて﹃即身成仏義﹄を書いて、六大・四塁・三密による即身成仏論を完成するなど、漸く 即身成仏の旗幟は平安仏教界を風扉するに至った。 一方、天台宗においては、天長七年︵?︶作の義真の﹃天台法華宗義集﹄では一生入住・一生超登十地義・十地虎 狼等の論を展開するが、まだ即身成仏の名目なく、承和三年︵八三六、円澄入寂︶以前に書かれた円澄の疑問には ﹁五、仏果隔生有無﹂﹁二十九、自二初品一至一初住一可一二生修証一者誰為二其人この間はあるが、疑問のどこにも広修 ・維燭の答えにも即身成仏の語は見当らない。 ﹃伝教大師全集﹄第三巻収録の﹃払惑袖中策﹄下巻に﹁第二弁論頓成﹂の項があり、竜女の変成男子を取挙げてい 即身成仏論の成立と展開︵浅井︶

二、展開

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即身成仏論の成立と展開︵浅井︶ るが、その中に竜女成仏を﹁妙経即身成仏之義﹂と称し、﹁智積執二於別教歴劫之行一難一即身成仏こと述べるなど、 平安仏教の成仏論を奈良仏教︵特に法相宗︶の歴劫修行観に対して即身成仏と呼ぶことに一決した感が深いが、本書 は塩入亮忠︵国訳・諸宗部十七︶もいうように﹁真偽未決﹂であるから、今は除外する。 2、光定疑問・宗頴決答、徳円疑問・宗頴決答の両﹃唐決﹄になると漸く即身成仏の名目を既定の成語として使用す るに至っている。決答の時期は光定に対する﹃唐決﹄の巻末に﹁唐会昌五年︵八四五︶三月二十八日上都︵長安︶ 右衛醗泉寺義学沙門宗頴上﹂︵日蔵・天台宗顕教章疏ニノ四二五下︶とあり、日本の承和十二年に当り、空海入寂 ︵八三五︶の十年後である。決答を与えた宗頴は円仁の天台止観相承の師である︵﹃慈覚大師伝﹄、続群八下.六九 ○上︶であるから、両人の疑問を宗頴に提示した人は恐らく円仁であろう。とすれば両人は円仁が入唐する前に、円 澄と同時頃にそれぞれ疑問を作成したと思われるが、円澄問と光定・徳円間は同時の作ではない。なぜなら両者の間 には用語上の隔りが感ぜられるからである。たとえば草木成仏・即身成仏という成語は徳円・光定にあって円澄にな い。また両者同時の制作とすれば、一方には広修・維鰯決があって宗頴決がなく︵円澄疑問は円載と円仁との両方に 手交されたが、円戦がその黄を果たし、円仁が志遠に円澄間を提示したときは、既に広修・維飼の決が与えられてい るからという理由で断られたという︶、他方には宗頴決があって広修・維鯛決がないということは不自然である。故 に両者同時の制作とは認められない。思うに円戦の弟子の仁好は承和十年︵八四三︶十二月円澄に対する﹃唐決﹄を 叡山に将来したが、翌年七月再入唐するに際して、朝廷は円載・円仁に黄金二百両ずつを賜うた︵﹃天台宗年表﹄︶ というから、光定・徳円の疑問は恐らく仁好の在山中に起草され、仁好の再入唐に託して円戦・円仁に手交され、翌 会昌五年に円仁によって宗頴に提示されたと思われる。

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さて徳円には十問中第八に﹁即身成仏時無明所感之身捨不捨疑﹂︵日蔵・天台宗顕教章疏ニノ四一五下∼六下︶が ある。円澄にも三十問中第五に﹁仏果隔生有無﹂の質問があったが、それは最後に妙覚を証するときは元品の無明を 断ずるから、無明所感の変易身を捨てることになるのか、もし捨てるとすれば妙覚位に入るとき隔生があるのではな いかという質問であったのに対して、今は竜女の変成男子を顧ゑると、我等の即身成仏も分段身を捨てねばならない のかという質問である。これに対する宗頴の答えは、即身・隔生は﹁夢ノ百年モ覚しゞ︿一念﹂、変成男子は女根を男 根に変えただけであって、﹁是し命ヲ捨テテ別二生ヲ受ケズ﹂と述べ、入住時の分段身の捨不捨のことに関しては隔 靴掻痒の返答しか与えなかったわけである。 この両者の質問と同一趣旨のことを更らに的確に質問したのが光定の六問中第三で、 ス ヤ ルニ二 即身成仏者為し在二初住一為三復在一和似一・若言レ在二初住一者従二分段一入二変易一必有二隔生義一。如何得し云二即身成仏一。 ツルヤヲ 若言三即身成仏只在二相似已来一者依二何経論一而立二斯義一︵同四二二下︶ と。相似即十信位に即身成仏を認めてもよいかというのは、質問というよりは提案である。一生に入住できることは、 ﹃摩訶止観﹄には﹁初従二初品一終至二初住二生可し修一生可し証﹂︵巻六下︶とあり、﹃法華玄義﹄位妙の項にも﹁於 一生中即入二初住こ︵巻五下︶とあるから、天台教学上では一生成仏を入初住に置くことを約束とする。従って﹃法 華秀句﹄も即身成仏の果を初住に置き、相似即までは即身成仏から除外していた。しかし内凡の相似十信位に対して も即身成仏の名を与えなければ、即身・隔生の問題を解決することはできない。天台教学の約束では、相似十信位ま では凡位であり、分段身による修道であり、分真即初住以後は聖位であり、変易身による証道であるから、入住のと きは必ず分段身を捨てて変易身を得ると考えられるからである。故にもし十信の後心に即身成仏の名を与えることが 即身成仏論の成立と展開︵浅井︶

(14)

天台教学の位階論の約束を守って、初住以上を即身成仏とする最澄の即身成仏論は、光定に至って一歩踏み越えら れた。しかも口から出まかせに、私勝手に約束を破ることはいとたやすいが、光定は教学上の約束を守りながら、教 学の伝統的限界内においてこれを越えた。そこに、後世の名字即成仏論を醍醸する原点としての力があることを認め ねばならない。こうして相似即十信位を即身成仏の圏内に組込んだら、あとは入相似の功は観行即、入観行の功は名 字即にありと手繰ってゆけば、遂に成仏位を名字即に引下げることに成功するわけである。 3、﹃伝教大師全集﹄第三巻所収の﹃感論弁惑章﹄一巻は書末に﹁天台宗沙門伝灯法師位安慧於二下野大慈寺菩提院 〃 ク ハ 遊行之次一卿以紗記畢。伏庶幾同我後哲幸莫二燈咲一実。承和十四年四月十五日﹂︵同四四四︶とあり、且つ安慧ず遍 即身成仏論の成立と展開︵浅井︶ 可能ならば、文字通りの即身成仏義が成立するわけである。 宗頴の決は十信の後心に即身成仏を認めるための理論的根拠を光定に与えた。

モモワ

ハルト二︽︽一テ

相似初住即身成仏皆得。何者常途所し云由二相似後心一断二初住之障一方入二初住一。若相似位中不レ断一燕明一何由可レ入ニ ヲ スルヲ

ハチスレハ

初住之位一。相似位人決一筋無明一八相成仏方名二初住一。所以断障見理之功正在二相似一。若以二断障入住之能一即身成 仏正在一租似位中一︵同四二三上︶ つまり入住のための断障見理の功は相似後心にあるから、即身成仏は、得果に従うならば初住位にあるが、功能に約 するならば相似即位にあると云えるというのである。﹁常途所云﹂とは華厳宗法蔵の﹃探玄記﹄第三や﹃華厳五教章﹄ の﹁所詮差別﹂第九の第三﹁行位差別﹂等でいわれる信満成仏論などを指すか。信満成仏論は日本でも空海が既に注 目したところで、﹃弁顕密二教論﹄に五教章の文を引いている︵弘全一ノ四八二︶・光定は恐らくこれらの説に暗示 を得て、今の提案をしたものか。

(15)

ノ 昭の系譜に列なる五大院安然は﹃教時謡論﹄の中に﹁安慧座主伝灯之代亦作二感論弁惑章三巻一以破二徳溢天台宗未決 義一巻一﹂︵大正七五ノ三六六上︶というから、本書は安慧の作であり、かつ承和十四年︵八四七︶、つまり光定・ 徳円が唐問を発した三年後の作品である。安慧の師円仁はこの年の十月入唐を終えて太宰府に帰着しているから、本 書は円仁の前に位置することになる。 さて、﹃悪論弁惑章﹄には﹁示即身成仏文第こ﹁通即身成仏疑第二﹂﹁通舎利弗経劫成仏疑第三﹂﹁通違宗失第 四﹂の四章に即身成仏論がある。ここで注意すべき点は、第一に承和十四年に安慧が本書を撰した頃は、即身成仏の 名目は既に仏教界に定着していたと推察することができ、また本書の第一章から第四章までを即身成仏論が占めてい るということは、即身成仏論こそが平安新仏教の最大の特色として認識されていたことを示している。その他、注意 すべき点が二・三あるが、省略する。 ○ ” 9 ハ 4、円仁は﹃金剛頂経疏﹄の教玄義を明す段に﹁問答分別者義門非レー。謂顕教密教別・即身成仏義・四智五智別・ 法身説不説等、具如二別章一﹂︵日蔵・密教部章疏下一ノー五二上︶といい、即身成仏論を法身説法論や顕密相対等と 共に密教学生の研究課題の一に指定した。その理由は、さきにも述べたように円仁帰朝の承和十四年頃は即身成仏論 は奈良仏教に対する平安新仏教の特色の随一であるという認識が仏教界にも叡山にもあったからであるが、さらに円 仁にはこれを重視しなければならない特殊事情があった。即ち円仁所釈の金剛頂経の具名﹁金剛頂一切如来真実摂大 乗現証大教王経﹂の中には﹁現証﹂の二字があり、それは疏の名玄義で解説するところによると﹁不歴多劫﹂﹁頓証﹂ ︵同一三三下︶、つまり現生証得、即身成仏の意であるという。だから即身成仏は﹃金剛頂経﹄が経題の中で謡歌す るところだったのである。ただし﹁即身成仏﹂の用語例は、円仁著作中には殆んどないのが実状である。 即身成仏論の成立と展開︵浅井︶

(16)

金剛頂経疏・﹁速具光明﹂釈 スレハトシテ

トトト

若依二顕教一修行者久久経二三大無数劫一然後証得。若依二秘教一修行者不し歴二劫数一現生証得。於レ此応し有二似分究寛一。 Oノ。Oハニン ノ ノ 若似仏眼凡位得し之。若分仏眼約二十住地等一・若究寛是毘慮遮那三身普光地也︵同三四九上︶ 蘇悉地経疏・﹁不久而得無上正等菩提﹂釈 ルニ ト レハ 然於二成仏一有二二種義一。謂凡位成仏聖位成仏。言二凡位成仏一者若得二如来智慧一雄レ未二断惑一依正二報随レ解融通於二

サニモニシテ

一々微塵一具見二十方三世一於二一々身分一具見二法界相好一・凡夫依報従し本以来遍法界之依、愚縛正報法然道理等二虚空一 ナレトモ ノ ◎ 之正、由し未し遇し縁不レ得一顕現一・今依一如来三密加持一此身法界依正始漸顕現将レ似一聖位毘盧遮那一・但以二凡情鹿劣一 不し能一観見一。唯仏能見レ之為二凡位成仏一也︵同四○八下︶ 第一文は現生証得に似・分・究寛の段階ありとし、似の仏眼は凡位に得ることが可能であるという。この似分究寛の 説が天台六即に相当することは一見して明かであり、相似即位を﹁現生証得﹂即ち即身成仏の内と見たところに、宗 頴的見解が認められる。 第二文は、成仏に凡位成仏と聖位成仏とがあり、凡位成仏とは、如来の智慧を信知すれば、解の厚薄に随って未断 惑の凡身に三世十方の法界依正が互相融通するに至るが、まだ三密修行の縁に遇わないので冥伏して顕れないでい る。しかし三密修行の縁に遇えば、如来加持力によって凡身に法界の依正が漸現する。この状態を﹁将二聖位ノ毘慮 たことを示している。 ことと想像される。z 即身成仏論の成立と展開︵浅井︶ 円仁が立てた即身成仏時の行位は、さきの光定疑問の提示者が円仁であったことを思えば、相似即に基盤を置いた とと想像される。そして次の二文例は、相似即成仏論が円仁の三密即身成仏論の要求に最もふさわしいものであっ

(17)

遮那一一似タリ﹂というのは、三密修行とは行者が如来の三密と相似の印契・真言を身に取ることに外ならないからで ある。故に第一文で凡位の成仏の基本を似位に置いたのは、それが密教の事相にふさわしい位階だったからである。 また凡位成仏は鹿劣な凡情では観見不能、唯だ仏だけが認知しておられるとて、凡位成仏を仏自内証の次元におい て把握しようと試みたところに、凡位即身成仏論の新たな視野が開拓されたことになる。﹃法華経﹄ではこの点を提 婆品に﹁又聞イテ菩提ヲ成ズルコト、唯ダ仏ノミ当二証知シタマフ・へシ﹂というが、法華教学ではこの点は余り注目 婆品に﹁又聞〃 されていない。 5、天台座主第三代円仁、第四代安慧の跡を継いで第五代となった円珍になると、即身成仏の用語例は漸く豊富にな り、比叡山教学を考える場合の不可欠の名目に成長した観がある。円珍の主たる著作は大体八八○年代であるから、 最澄滅後六十年の頃に相当する。 即身成仏圏の範囲を拡大して下位を摂取する試みは光定・円仁に認められたが、これまた円珍に至って大体極に達 した観がある。﹃普賢経記﹄で経の﹁不断煩悩不離五欲得浄諸根﹂を解釈する中に スト 可し謂。従二観行即一能具二仏六根一。此︵六根浄︶位鞘長也、初即観似二位、次即分真五階、後即究寛一位︵智全四 可レ謂・ とあるo最澄の即身六根互用勝によれば、六根清浄は相似十信位であったが、今は六根清浄にも観行・相似・分真・ 究寛の四種浄があることを、天台・妙楽の諸処の釈文から義推し、観行即に六根清浄の妙用を認めたわけである。同 一趣旨の文言は﹃法華論記﹄の第十勝妙力無上の釈下︵同三○○下’一上︶にもあり、これは円珍の定説である。六 根清浄を相似位から観行位まで下げ、名字即位にまでは下げなかったのは、観行即は思位・修位であり、名字即は聞位 即身成仏論の成立と展開︵浅井︶ ○九上︶ とある。唾

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鵬D︿ 此解脱種本来具在二一切衆生心行之中一。理即不し知、名字僅聞、観行思し之、相似略見、分真分見、究寛全見。見者 レ ヶレパナリスル︻一 証也。是解脱性本来広博猶如二虚空一。以レ山対し空大小易し会。一心具二十法界一十法界是一心、心為二芥子一十界如レ山。 随縁不変故不二増減一、不変随縁故観二大小一。我輩若会二如レ此妙理一自二従名字一能証二解脱一︵同三四四下︶ とはまさに名字即成論である。一心具十法界の妙理に接する最初は僅聞の名字即位であり、後々の位は名字即で聞き 得た十界互具の妙理の思・修、自然昇進にすぎないと考えたとき、名字即成に逢着するわけである。﹃法華論記﹄の 七成就中第二の衆成就を解釈する中にも﹁於二名字位一作二当機衆一﹂︵同五一下︶﹁名字等位聞必成仏、乃至分真聞則 入極、位々聞法位々成仏﹂︵同六六上︶とあり、円珍の聞慧尊重の意向を伺うことができる。 かくて﹃末法灯明記﹄を始めとする鎌倉仏教の名字即為本、ことに日蓮聖人の名字即成・信心為本の思想信仰は、 円珍に早くもその骨格を見出すことができるわけである。ただし聖人の即身成仏論は仏種の下種を基盤とし、最澄・ 空海が法身の遍在、円珍が本来具在一切衆生心行中の広博猶如虚空の解脱種を論拠として即身成仏論を展開したのと は違う。 子決八﹂に 即身成仏論の成立と展開︵浅井︶ だからであろう。しかし観行即五品の初品は聞信位であるから、名字即にも六根清浄の用を認め得る可能性はある。 また最澄は即身成仏化導勝と即身六根互用勝とを八・七の両章に分節したが、今は観行即から究寛即までの各位をす べて六根清浄の分満の差にすぎないと解釈するから、即身六根互用と即身成仏との区別は払拭されたことになり、即 身成仏の果を観行即において分に認めたことになる。 成仏圏を上位から下位へ拡大しようとする試承は、名字即成まで来なければ終結しない。﹃授決集﹄の﹁須弥内芥

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一定として平等も城等もいかりて此一門をさんさんとなす事も出来せば、眼をひさいで観念せよ、︵弘安二年十月 一日﹁聖人御難事﹂、定遺一六七四頁︶ 安達泰盛が得宗被官の上首平頼綱と並んで北条時宗政権の最有力者であり、日蓮の宗教活動に有形無形の影響を与 えていることが知られる。筆者は日蓮研究を深化する方法の一つとして、同時代鎌倉政治史研究の援用が不可欠であ ると考えているが、その意味からも、安達泰盛についての理解は必要である。紙数制限に合わせ、ここでは安達泰盛 の妹が北条時宗と結婚する弘長元年︵一二六一︶を目安に、それまでの安達泰盛の事績を中心に、その兄弟の事績を 安達泰盛とその兄弟︵川添︶ 日蓮遺文には安達︵城︶泰盛について、次のように二ヶ所に所見がある。 大がくと申人は、ふつうの人にはにず、日蓮が御かんきの時身をすてかたうどして候し人なり、此仰は城殿の御計 なり、城殿と大がく殿は知音にてをはし候、其故は大がく殿は坂東第一の御てかき、城介殿は御てをこのまるる人 也、︵弘安元年﹁大学三郎御書﹂、定遺一六一九頁︶ ︹寄稿︺

安達泰盛とその兄弟

添昭二

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安達泰盛とその兄弟︵川添︶ 併叙して、鎌倉政治史の一素材を提示し、日蓮研究に備えてゑたい。 ︵■且︶ 弘長元年︵一二六一︶四月二十三日、十一歳の北条時宗は、安達義景の娘で十歳の堀内殿と結婚した。堀内殿は、 建長四年︵一二五二︶七月四日、義景四十三歳︵卒去の前年︶のときの生誕であるo堀内殿が北条時宗に嫁したとき は父義景の没後であり、安達氏の惣領で二十二歳年上の泰盛が親代りで世話をしたと思われるo堀内殿は北条時宗の 正室で、貞時の母である。潮音院と号し、松岡殿といわれ、駈入寺︵縁切寺︶として知られる鎌倉東慶寺の開基であ る。徳治元年︵一三○六︶十月九日没、法名は覚山志道尼である。堀内殿が北条時宗の正妻になったことは、何より も安達氏︵泰盛︶の政治的地歩を固めることに役立った。以下、安達泰盛を中心に、その兄弟についてふれていこう。 ︵⑰色︶ 安達泰盛の曽祖父藤九郎盛長は源頼朝の幕府創業を助けた功臣である。祖父景盛・父義景は執権政治の確立に力を 致し、宝治合戦では北条時頼の三浦氏に対する巧象な撹乱・挑発を背景にしながら、三浦氏打倒の正面に立ち、時頼 ︵ 3 ︶ の権力確立を助け、自家勢力を躍進させた。安達氏は建保六年︵一二一八︶景盛が武門の名誉とする秋田城介にな って以来、義景・泰盛と正嫡は秋田城介になった。安達氏は、評定衆・引付衆など幕府の重要政務の担当を通じて勢 力を蓄えたが、盛長以来四代にわたり上野守護としてその勢力を強固なものにした。上野以外の守護としては、盛長 ︵4︶ のときの三河、景盛のときの摂津、泰盛のときの肥後がある。安達氏の勢力が強固なものになった理由として逸する ことのできないのは、他氏との婚姻関係である。まず、北条氏得宗及び北条氏一門との婚姻があげられるo義景の妹 松下禅尼が北条泰時の嫡男時氏に嫁して経時・時頼らを生んでいることはよく知られている。義景の子息顕盛の妻は 北条政村の娘である。その他、後述のように、小笠原氏・宇都宮氏・武藤氏・二階堂氏など、有力御家人・幕府法曹 ︵尽凹︶ 吏僚系武士との婚姻関係が知られる。

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義景は建長五年︵一二五三︶六月三日、四十四歳で没するが、その子女は多く、泰盛段階で飛躍的に勢力を拡大し た大きな理由をなしている。﹃尊卑分脈﹄が義景の子女としてあげているのは、頼景・景村・泰盛・時盛・重景・顕 盛・長景・時景の八人の子息と女子三人の計十一人である。女子は大江宗秀の母︵時秀の妻︶、宇都宮景綱の妻、北 条時宗の妻となっている。時宗の妻になった女子以外は、その事績は不詳である。 次郎頼景は正応五年︵一二九二︶正月九日六十四歳で没しているから、逆算すると寛喜元年︵二三九︶義景二十 歳のときの生まれになる。泰盛より二歳年上である。﹃吾妻鏡﹄では城次郎と記されており、﹃尊卑分脈﹄は関戸次 郎と号したとしている。﹃吾妻鏡﹄では仁治二年︵一二四一︶正月二十三日条に城次郎の名で笠懸の射手として見え ︵6︶ るのが初見である。ときに十三歳。元服後間もなくのことであろう。以下、計四十七ヶ所ほどの所見がある。多くは 供奉関係である。弘長三年︵一二六三︶十一月二十二日条の出家の記事が最後である。しばしば、笠懸・犬追物・流 鏑馬などの射手をしており、射芸に長じていたことが知られる。建長二年︵一二五○︶十二月二十七日近習結番三 番、同四年四月三日格子番一番、同年十一月十二日間見参結番三番など、他の安達氏の子息同様将軍近仕の役をつと めている。正嘉元年︵三一五七︶十一月二十三日、北条実時の息男︵時方、後の顕時︶の元服に理髪役をしており安 達氏と金沢氏の親密な関係の一端が知られる。顕時が弘安八年の霜月騒動に連座して下総埴生庄に龍居させられたの も安達氏と親しかったからである。 建長四年︵一二五二︶四月、宗尊親王が無事鎌倉入りをしたことを奏聞する使者として上洛。翌五年十二月、泰盛 と一緒に引付衆になり、正嘉元年︵一二五七︶三月丹後守に任じ、叙爵している。幕府に一応重要な役割を果たして いるが、弘長三年︵一二六三︶六月に、同じ引付衆の後藤基政とともに六波羅の評定衆になって上洛しており、幕政 安達泰盛とその兄弟︵川添︶

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次の景村は城三郎と呼ばれ、﹃尊卑分脈﹄には大室三郎と記されている。年齢は不詳。﹃吾妻鏡﹄には八ケ所ほど の所見がある。将単頼嗣が由比の浦に犬追物を覧た建長二年︵一二五○︶八月十八日の供奉者の中に三郎の名が始め て見える。このとき頼景は二十二歳、泰盛は二十歳であるから、二十一歳ぐらいが目安になろう。﹃吾妻鏡﹄の記事 は、ほとんど供奉の記事である。建長二年十二月二十七日、将軍の近習結番のうち五番に配されていることぐらいが 特記すべきことである。正嘉二年︵一二五八︶六月十七日、鶴岡放生会供奉人のなかに見えるのを最後として、以後 宗であろう。 安達泰盛とその兄弟︵川添︶ 中枢からは外れている。安達氏興廃の命運をかけた宝治合戦は、景盛の督励下に義景・泰盛父子が中心となって活動 しており、頼景は脇役であったらしい。六波羅評定衆への転出も、安達氏の勢力拡充からいえば、幕府の重要な出先 機関に外援的勢力を配置したことになるけれども、頼景は惣領泰盛の兄であり、鎌倉にあっては微妙な問題があった ろう。北条時宗と庶兄時輔との、執権と六波羅探題との関係の、まさに縮少版である。弘長三年十一月、北条時頼の 卒去にともなって弟の時盛らとともに出家し、法名を道智と号した。このことから推察すると、頼景の頼の字は時頼 から与えられていたのかもしれない。六波羅評定衆に転じたあと、同じような運命を辿っている探題の北条時輔と親 しくなったのは当然で、文永九年︵一二七二︶時輔が訣殺される二月騒動に連座して関東に召し下され、所帯二ケ所 を収公されている。﹃帝王編年記﹄巻廿六弘安八年︵一二八五︶十一月十七日条によれば、霜月騒動で安達泰盛一門 ︵”8︶ が誰された折、泰盛舎弟丹後守頼景錘鑑は泰盛に与せず災を遁れた、とあるo安達氏存亡の折、頼景は本宗の泰盛に 協力しなかったのである。頼景が反泰盛の姿勢を持続していたのは明らかであり、北条時宗体制に対しても批判的で あったろうことが推測される。なお、﹃大体和尚法語﹄に城丹後右衛門なる人物が見えるが、頼景の子息右衛門尉長

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﹃吾妻鏡﹄中にその名は見出せない。 三番目に記載されている九郎泰盛は、北条時宗の時代を理解するための鍵になる最重要人物である。ここでは時宗 ︵ 8 ︶ 結婚の弘長元年︵一二六一︶ごろまでの動きを追っておこう。まず生没年の確定が必要である。その手掛りになるの ︵ の ご ︶ は、多賀宗隼氏が早く指摘されている﹃関東評定伝﹄弘安四年条である。同年二月、泰盛の子息宗景が引付衆に加わ ったときの記事で、﹁干し時二十三歳、父︵泰盛︶例﹂とある。つまり泰盛が建長五年︵一二五三︶引付衆になった のは二十三歳だったというのであるoそれを基準にして生年を逆算すると、泰盛は寛喜三年︵一二三一︶の生まれと いうことになる。弘安八年︵一二八五︶霜月騒動で平頼綱から訣殺されたときは五十五歳であった。﹃尊卑分脈﹄に ︵加︶ よると母は小笠原六郎源時長の娘である。小笠原氏は甲斐源氏の流れである。時長は長清の子で伴野六郎と称し、安 達氏歴代の地盤である上野に程近い信濃国佐久郡伴野庄の地頭である。同庄は中世信濃ではもっとも広大・肥沃な水 ︵ 、 ︶ 田地帯であった。時長の孫長泰をはじめ信濃伴野氏の本系が霜月騒動で泰盛に味方して多く討死しているのは、右の 安達泰盛の幼年時代は北条泰時によって執権政治が確立される時代であり、二十代の前半ごろまでは時頼による執 権政治の整備の時代である。この間、笠懸・犬追物などの射手として、しばしばすぐれた射芸の力量を示している。 馬術にすぐれていたことは﹃徒然草﹄第百十八五段でよく知られている。御鞠奉行などもつとめ鞠にも堪能であっ た。番帳の清書などをしていて書にすぐれていたことが知られる。日蓮の遺文﹁大学三郎御書﹂には﹁城介殿は御て をこのまるる人也﹂︵前引︶とあって、泰盛が、書道の名手で日蓮の信徒である大学三郎を敬愛していたことを伝え ている。建長二年︵一二五○︶十二月二十七日には将軍近習の結番一番であり、建長四年︵一二五二︶四月三日には 安達泰盛とその兄弟︵川添︶ ような事情による。

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安達泰盛とその兄弟︵川添︶ 格子番五番、正嘉元年︵一二五七︶十二月二十四日には、仙洞の義に准じた将軍の廟衆の六番、文応元年︵一二六○︶ 二月二十日には同三番、同年正月二十日には昼番衆の一番である。関東の有力御家人の多くがつとめていることでは あるが、泰盛の将軍近侍の度合は他の有力御家人に比べて、やはり高い。それだけに、将軍という存在に対する御家 人としての求心性は強かったとゑられる。 安達泰盛について肝心なことは、安達氏一門のなかでどういう位置を占めていたのか、ということである。それを 知る手掛りになるのは、泰盛が﹃吾妻鏡﹄に初めて見える、寛元二年︵一二四四︶六月十七日、十四歳の折の記事で ある。これは泰盛が、上野国役としての京都大番役勤仕の番頭であったことが知られる記事である。当時の上野守護 は父の義景である。泰盛は番頭として上野の御家人を率いて京都大番役の催促・勤仕にあたっていた。父の代官とし て安達氏を代表した格での勤務である。すでに安達氏の惣領後継者に擬せられていたとみて差しつかえあるまい。 建長五年︵一二五三︶十二月、泰盛は兄の次郎頼景とともに引付衆になるが、康元元年︵一二五六︶四月には二階 堂行泰のあとをうけて五番引付頭になっている。これはもともと行泰が安達義景のあとをうけて就任していたもの で、泰盛は父のあとをついだことになる。さらに同年六月には評定衆となるが、頼景は引付衆のままで、幕府政治に おける泰盛と頼景の差は明瞭である。頼景が後に六波羅評定衆に転ずるのも、泰盛の意向によるものであろう。この 差が出てきたのは、実は泰盛が安達氏の家督を継いだからである。義景が建長五年六月三日卒去したあと、建長六年 十二月、泰盛は安達氏の正嫡の標識とも言うべき秋田城介に任ぜられている。このあと、文永元年︵一二六四︶六月 に三番引付頭となり、同年十月に越訴奉行となるなど、要職を重ねてゆく。 正嘉元年二月二十六日の北条時宗元服の折には烏帽子持参の役をつとめている。時宗より二十一年の年長である。

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時宗の後見役的な傾向はこれでいっそう強まった。﹃保暦間記﹄などは、泰盛を時宗の舅だったから並ぶ人も無かっ たと記している。事実上は時宗は泰盛の妹婿で義弟になるのであるが、泰盛と堀内殿とは兄妹と言うより親子のよう な関係であったo堀内殿が泰盛の猶子ではなかったかという推測も残しておいてよいように思う。泰盛は一門の惣領 として二十二歳年下の妹を愛育していた。松下禅尼の存在は、おそらく堀内殿を時宗の妻にする方向を強めたことで あろう。堀内殿の結婚が、安達氏惣領泰盛と北条時頼の合意の上に成立したものであることは言うまでもあるまい。 通︶ 安達泰盛の選択に、北条時宗が得宗後継者であるからとの評価があったことは、これまた言うまでもあるまい。 四郎時盛の略伝は﹃関東評定伝﹄建治二年条に象える。それによると弘安八年︵一二八五︶六月十日高野山で四十 五年の生涯を終えている。逆算すれば仁治二年︵一二四一︶義景三十二歳のときの生まれで、泰盛より十歳年下であ る。﹃吾妻鏡﹄には三十三ヶ所ほど所見があり、建長二年元旦年始の儀に泰盛とともに同四郎時盛として見えるのが 同書を含めた史料上の初見である。以下、同書ではほとんど供奉の記事である。それも泰盛と一緒に供奉している例 が多い。他では正嘉元年十二月二十四日、文応元年二月二十日、廟衆として見えること、文応元年正月二十日昼番衆 として見えることがやや注目をひく程度である。犬追物・御鞠奉行などをしているから、射芸・蹴鞠には巧みであつ ︵胸︶ たことが知られる。ことに詠歌にはすぐれていた。 弘長三年︵一二六三︶十一月二十二日、北条時頼の卒去にともない、二十三歳で兄頼景とともに出家し、法名を漉 忍と号した。このことからすると、兄の頼景と同じく時の字はあるいは時頼から与えられていたものかもしれない。 ︵M︶ 法名は後に道供︵道洪︶と改めている。この出家の記事以後、﹃吾妻鏡﹄に所見はない。﹃外記日記﹄によると、文 永三年︵一二六六︶七月二十一日、二階堂行忠︵法名行一︶とともに関東の使者として上洛している。もちろん、将 安達泰盛とその兄弟︵川添︶

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安達泰盛とその兄弟︵川添︶ 軍宗尊親王が将軍職を廃されたことに関するものである。出家はしても重要政務に携わっていたのである。文永四年 十一月には関東評定衆になっている。ところが、建治二年︵一二七六︶九月、遁世してひそかに鎌倉の寿福寺に入り、 同月十五日所帯を悉く収公されている。一門から義絶されたのはこのときであろう。時盛の﹁遁世﹂が少なくとも一 門的な行為でなかったことは確かであろう。北条義政の遁世とも関係があるように思われる。時盛が卒去したとき、 義絶の故に相模国司後室︵堀内殿︶・泰盛以下の兄弟は喪に服しなかった、と﹃関東評定伝﹄は伝えている。﹃尊卑 分脈﹄によると、時盛の子息時長は﹁母出羽守行義女﹂とあり、二階堂系図とも合致する。評定衆二階堂行義は文永 五年︵一二六八︶閏正月二十五日六十六歳で卒している。なお、時長は弘安八年霜月騒動のおり自害している。 五郎重景は、建長四年︵一二五二︶四月三日、城五郎重景として格子番二番に見えるのを初めとして、弘長元年 ︵一二六一︶八月五日城五郎左衛門尉として供奉の障りを申した記事に至るまで、﹃吾妻鏡﹄に十二ヶ所見える。母 も年齢も不詳。初見の建長四年にはすでに元服をしているのであるから、かりに十歳ぐらいだとすると四郎時盛より 少し年下である。正嘉元年︵一二五七︶十二月二十九日の格子番四番では城五郎重景とあり、翌年元旦には城五郎左 衛門尉とある。以下の所見にはすすべて左衛門尉の官途がつけられている。﹃吾妻鏡﹄では、格子番・廟衆の記事以 外は、多く供奉の記事である。後に出家して、弘安八年の霜月騒動で訣殺されている。 六郎顕盛については﹃関東評定伝﹄弘安三年条に略伝が見える。弘安三年︵一二八○︶二月八日、三十六歳で没し ているから、寛元三年︵一二四五︶の生まれになる。母は入道大納言家中納言とするが、﹃尊卑分脈﹄の顕盛の箇所 には﹁母雅経卿女城尼﹂とある。同書の飛鳥井雅経の女子に城介義景の妻が見える。雑経は﹃新古今集﹄の撰者とし て著名な歌人であり蹴鞠飛鳥井一流の祖である。関東との縁が深く、源実朝と藤原定家との間を仲介し、鴨長明の鎌

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倉下向を斡旋したりしている。雅経以来、その子教定・孫雅有は関東祇候の廷臣であり、安達氏一門が蹴鞠・詠歌に ︵妬︶ 秀でていたのは飛鳥井家との縁によることが多かろう。顕盛も詠歌には相応の力殿を有していた。 ﹃吾妻鏡﹄には三十三ヶ所に安達顕盛の名が見える。正嘉元年︵一二五七︶元旦が初見で、文永二年︵一二六五︶ 七月十六日が最後である。記事のほとんどは供奉関係で、兄たちと同様、廟衆・格子番・昼番衆などをしている。初 見記事以来、城六郎顕盛として見えるが、弘長三年︵一二六三︶元旦から兵衛尉として見える。最後の記事は、吉川 本では城六郎左衛門尉である。﹃関東評定伝﹄によれば、文永六年︵一二六九︶四月、左衛門尉藤原顕盛は引付衆に 加わっている。文永十一年︵一二七四︶三月、加賀守に任じ叙爵され、建治元年︵一二七五︶評定衆。翌年引付衆。 弘安元年︵一二七八︶三月評定衆となり、弘安三年に没する。﹃尊卑分脈﹄によると子息の太郎左衛門尉宗顕の母は 平政村の娘であり、﹃北条系図﹄も同様である。宗顕は弘安八年の霜月騒動で二十一歳のとき訣殺されているから、 文永二年︵一二六五︶顕盛二十一歳のときの子である。 弥九郎長景は﹃吾妻鏡﹄では正嘉二年︵一二五八︶元旦から文永三年︵一二六六︶七月四日まで、計十九ヶ所見え る。九郎長景と記した箇所もあるが、正しくは弥九郎長景である。記事のほとんどは供奉関係で、兄たちと同様、廟 衆をしている。﹃関東評定伝﹄によると、弘安元年︵一二七八︶十一月、左衛門尉藤原長景が引付衆に加わり、同二 年三月美濃守に任じている。﹃尊卑分脈﹄では長景の子息九郎宗長の母は信乃判官行忠の娘とある。長景は評定衆二 階堂行忠︵法名行一︶の娘を妻としていたのである。﹃公衡公記﹄弘安六年︵一二八三︶七月一日条では、城美濃守 長景は二階堂信濃判官入道行一癖群の聟だとある。長景に歌集﹃美濃前司長景集﹄のあることはよく知られている。 ﹃吾妻鏡﹄には弘安元年︵一二六一︶元旦から十月四日までの間に計五ヶ所、城十郎時景の名がみえる。初見の年 安達泰盛とその兄弟︵川添︶

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安達泰盛とその兄弟︵川添︶ 始記事以外はすべて供奉人としての記事である。﹃尊卑分脈﹄には十郎判官として従五下使左術門尉﹂と記して いる。﹃関東評定伝﹄によると、弘安五年︵一二八二︶十一月、左衛門少尉時景が引付衆になっており、弘安七年四 月、泰盛と同様、時宗の卒去にともない出家している。法名は智玄という。弘安八年の霜月騒動で謙殺されている。 ﹃吾妻鏡﹄建長二年︵一二五○︶七月十八日条は、秋田城介義景の男子出生を記しているが、年齢的には十郎時景が もっとも近い。かりにそうだとすると、弘安八年三十六歳で没したことになる。 多賀宗隼氏は﹃鎌倉時代の思想と文化﹄︵二五三頁︶で、﹁報恩院入壇資﹂﹁統伝灯広録﹄を引き、醍醐三宝院の 弘義阿閣梨が義景の息だという所伝を紹介し、正嘉元年︵一二五七︶二十七歳とあり、泰盛と同年であるから、その 異母兄弟であろう、としている。 以上、安達泰盛の前半生及びその兄弟の事績を述べてきた。安達氏の兄弟中には頼景・時盛のような、惣領泰盛に 対する反対的・批判的分子を含象、その族的結合は必ずしも一枚岩ではなかった。前述したように、泰盛はかなり強 引な族的統制を行なったようである。北条氏得宗・北条氏一門・有力御家人等との婚姻関係の結成もこのことと不離 ︵Ⅳ︶ であろう。泰盛を始めとする安達氏一門の真言宗l高野山信仰もこの面から改めて見直されなければなるまい。霜月 騒動は安達氏の族的結合と政治的緊張にかかわる族内外の諸問題を敗滅の相において開示した。それに至る経緯は追 って検討していきたい。 戸 ,−,,−、註 2 1ー’ ーー ﹃尊卑分脈﹄︵刊本・第二篇二八八頁︶に義景の女に配し﹁平貞時朝臣母、号潮音院尼﹂と記している。 安達盛長については、新田英治﹁安達盛長﹂︵佐藤進一編﹃日本人物史大系﹄第二巻中世、一九五九年九月、朝倉書店︶、

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︵3︶今村義孝﹁出羽国司の性格I秋田城介の場合l﹂︵﹃秋大史学﹄創刊号、一九五二年三月︶は古代を中心にしているが、安 達氏の秋田城介の理解に参考になる。 ︵4︶佐藤進一﹃増訂鎌倉幕府守謹制度の研究﹄、一九七一年六月、東京大学出版会︶。 ︵5︶御家人と法曹吏僚とは互いに相即しており、簡単に区別することはむづかしいがかりに、小笠原氏・宇都宮氏などは前者、 武藤氏・二階堂氏は後者としておく。 ︵6︶以下﹃吾妻鏡﹄所見の安達氏については﹃吾妻鏡人名索引﹄︵一九七一年三月、吉川弘文館︶を参看。 ︵7︶﹃帝王編年記﹄同日条は安達泰盛を義景の長子とし、頼景を泰盛の舎弟とするが、本文に述べているように頼景は泰盛の兄 ︵庶兄か︶である。泰盛が安達氏の惣領であったところからきた誤解であろうか。 ︵8︶以後については別稿に述べる。安達泰盛については鎌倉後期l得宗専制を扱った論著は例外なく論及しているが、多賀宗隼 ﹃鎌倉時代の政治と文化﹄︵一九四年一○月、目黒書店︶、佐藤進一﹁鎌倉幕府政治の専制化について﹂︵竹内理三編﹃日本 封建制成立の研究﹄一九五五年二月、吉川弘文館︶、石井進﹁霜月騒動おぼえがき﹂︵﹃神奈川県史だより﹄、一九七三年三 月︶、網野善彦﹃蒙古襲来﹃︵一九七四年九月、小学館︶、武井尚﹁安達泰盛の政治的立場﹂︵﹃埼玉民衆史研究﹄創刊号、 一九七五年四月︶、新田英治﹁鎌倉後期の政治過程﹂︵岩波講座日本歴史6中世2、一九七五年二月︶、渡辺晴美﹁得宗専 制体制の成立過程﹂︵﹃政治経済史学﹄一二五・一三九・一六二号、一九七六年七月’七九年二月︶、奥富敬之﹃鎌倉北条 氏の基礎的研究﹄︵一九八○年二月、吉川弘文館︶等は必読の文献である。さらに、文化史的側面からの次のような研究も 見逃せない。藤原猶雪﹃日本仏教史研究﹄︵一九三八年七月、大東出版社︶、水原尭栄﹁世尊寺経朝と安達泰盛との関係及び 町石率都婆文字の筆者﹂︵﹃積翠先生華甲寿記念論纂﹄、一九四二年︶、山岸徳平﹁藤原泰盛の出版及び春日版の摺経﹂︵岩 波書店・日本古典文学大系月報釦、一九五九年二月︶、愛甲昇寛﹃高野山町石の研究﹄︵高野山大学内密教文化研究所、一 九七三年一二月︶、山西明﹁真名本﹃曾我物語﹄と安達氏﹂︵東京教育大学中世文学談話会編﹃和歌と中世文学﹄︵峯村文人 先生退官記念論集︶、一九七七年三月︶、後藤紀彦﹁沙汰未練書の奥書とその伝来﹂︵﹃年報中世史研究﹄二、一九七七年五 月︶、福田晃﹁﹃曾我物語﹄覚え書き﹂︵﹃立命館文学﹄四○三・四○四・四○五号、一九七九年三月︶・田中稔﹁秋田城介 時顕施入の法華寺一切経について﹂︵﹃大和文化研究﹄五’六、一九六○年六月︶も参考となる。なお、吉川弘文館﹃国史大 安達泰盛とその兄弟︵川添︶ ある。 八幡義信﹁鎌倉幕政における安達盛長の史的評価﹂︵﹃神奈川県立博物館研究報告﹄一巻三号、一九七○年三月︶等の専論が

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︵胆︶﹃関東往還記﹄弘長二年︵三一六二︶六月廿日条に﹁故奥州禅門後家妙郵麺睦嘩井女輌鋤零於北舎受斎戒﹂とあり、安達泰盛 の妻が北条重時の女であったことが知られる。 ︵過︶安達時盛は詠歌にすぐれており、﹁弘長元年七月七日将軍宗尊親王家百五十番歌合﹂︵古典文庫一四七冊︶に左衛門権少尉 藤原時盛の歌十首が拳える。図書寮蔵十一冊本八代集︵後拾遺集︶の下巻奥書に﹁此本道洪法師燕睡碑罐依夢想一定口進先人文書 等内也﹂とあり、歌欝の収集につとめていたことが知られる︵松田武夫﹃勅撰和歌集の研究﹄二五七頁、一九四四年二月、 、 日本電報通信社出版部︶。なお、﹁為兼卿家集補遺﹂︵﹃続々群書類従﹄十四’六二八頁︶に﹁道洪法師すすめ侍ける十首歌 の中に﹂という詞書をもつ和歌が収められている。勅撰集への入集歌数は詠歌にすぐれた安達氏の中でも次のようにもっとも 、 、 多い。﹁続古今集﹂︵頼景一︶﹁続拾遺集﹂︵頼景一、道洪四、長景二、時景一︶﹁新後撰集﹂︵道洪一︶﹁玉葉集﹂︵義景 、 、 、 、 一、頼景一、道洪一、顕盛一︶﹁続千戦集﹂︵頼景一、道洪二、顕盛二︶﹁続後拾遺集﹂︵道洪三︶﹁新千戦集﹂︵道洪二︶ 、 ﹁新後拾遺集﹂︵道洪一︶、西畑実﹁武家歌人の系謎哩︵﹃大阪樟蔭女子大学論集﹂皿、一九七二年二月、︶参看。 、 ︵M︶前注諸史料には道洪とし、﹃関東評定伝﹄﹃天台座主記﹄慈禅の条では道供、﹃外記日記﹄文永三年︵一二六六︶七月廿一 、 日条には城四郎左衛門入道道渋とする。 ︵巧︶﹁弘長元年七月七日将軍宗尊親王家百五十番歌合﹂に藤原顕盛︵当時十七歳︶の歌が十首収められており、勅撰集への入集 状況は︵咽︶のとおりである。 ︵躯︶﹃隣女和歌集﹄︵﹃群書類従﹄九’四四八頁︶に﹁長景すすめ侍し奇の中に同題﹂という詞書をもつ歌が収められている。 ︵Ⅳ︶﹃東巌安禅師行実﹄︵﹃続群書類従﹄九上三二三頁︶に﹁奥州禅門命執事玉村、於和賀江上建居之、山号福光、寺号聖海、師 住数歳﹂とあり、安達泰盛が執事玉村に命じ鎌倉の和賀江に聖海寺を建てて東巌慧安を住持としたことが記されている。玉村 が安達泰盛の執事であることは﹃蒙古襲来絵詞﹄詞八・詞十四によっても知られる。泰盛は臨済禅に対しても外護を加えてい るのであるが、その信仰の中心が真言宗I高野山信仰にあったことは、すでに先学によって明らかにされているとおりである。 安達泰盛とその兄弟︵川添︶ 辞典﹄1︵一九七九年三月︶に安達氏関係項目がある。 ︵9︶多賀宗隼﹃鎌倉時代の思想と文化﹄二四八頁、一九四六年一○月、目黒書店。 ︵皿︶﹁小笠原三家系図﹂︵﹃続群書類従﹄五下一二三頁︶は小笠原時長の女子に﹁秋田城介泰盛妻﹂としている。 ︵、︶信濃教育会風鍛錬醗澤る信濃勤皇史孜﹄二七七頁以下、一九三九年一月。塚田正朋﹃長野県の歴史﹄八三頁、一九七四年五 月、山川出版社。

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教﹂の意垂 訳である。 大乗仏教の源流をさかのぼれば、その主要教理の大部分は部派仏教の中に、なかんずく大衆部の主張する教理にお おく承ることができると論じたのは、前田慧雲の﹃大乗仏教史論﹄においてであった。例せぱ、﹁過未無体説﹂は大 衆部の根本教理であると同時に大乗経典の底を流れる根本原理であること、また、﹁心性本浄説﹂は大衆部の根本教 理であると同時に大乗仏教の説く真如縁起説の原理であること等々である。これらはやがて、大乗仏教は大衆部から 起ったということが、学界の定説のごとくなってきたことは否めない事実である。それでは根本の教理において、大 乗と小乗とどう区別するのかということになると、これは容易ならぬ問題である。そこで、教理の上から大乗小乗の 区分を考察することもさりながら、これは教団の上からの大乗小乗の区別を検討しなければ、真の大乗教団というも のを明らかになしえず、教理の考察はこの上に立って成り立つものと考えられたのが、平川彰博士の﹁初期大乗仏 教﹂の意であった。そこでは前田慧雲博士の大乗の大衆部源流説は、大乗教団としては著るしく根拠が薄弱となった ︹寄稿︺ 浬桑経にとって大乗とはなにか︵河村︶

浬藥経にとって大乗とはなにか

一、問題の所在

河村孝照

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浬藥経にとって大乗とはなにか︵河村︶ さて、大乗の浬桑経、ことには曇無識訳の﹃大般浬藥経﹄のごときは、経典にもられた諸種の教理は、あるいは有 部所説に同じるものあり、あるいは成実所説に同じるものあり、またその他、いかなる部派の所説かつまびらかなら ざるもの等々、まことに多彩であって、決して一筋繩でくくれるものではない。例えば前掲のように、大乗仏教の根 幹の教理思想とされる﹁心性本浄説﹂のごときも、浬藥経は清浄説に批判的態度をとり、﹁善男子よ、諸仏菩薩は終 に心に浄性及び不浄性有りと定説せず、浄、不浄性は心に住処無きが故に﹂︵徳王品、巻二十五︶と述べているがご とき、これを有部の婆沙論に承れば、婆沙論巻二七において分別論者の心性本浄説に対して批判し、煩悩があるとき を有貧膜痴心といい、煩悩がなくなったときを無貧腹痴心といい、とくに心の本性がどうかという取りあげ方をして いないところと教理上まことに似通っていることが知られるのである。また大乗小乗の重要教義の一つとして十二因 縁説がある。大乗はこれを二世一重に解釈して説き、小乗はこれを三世両重に解釈して説くというのが大小乗の区 別とされている。いま浬藥経の十二因縁説をうかがうと、﹁過去の煩悩を名づけて無明と為し、過去の業は則ち名づ けて行と為す。現在世の中、初始めて胎を受くるを、是を名づけて識と為す。入胎して五分、四根の未だ具せざる を、名づけて名色と為す。四根を具足して未だ触と名づけざる時、是を六入と名づく。未だ苦楽を別たざる、是を名 づけて触と為す。一愛に染習する、是を名づけて受と為す。五欲に習近する、是を名づけて愛と為す。内外に貧り求 むる、是を取と為す。内外の事の為に身口意業を起す。是を名づけて有と為す。現在世の識を未来の生と名づけ、現 在の名色、六入、触、受を未来の老病死と名づくるなり﹂︵巻二十七、師子呪品︶と説いているがごときは、これは 小乗にいう三世両重の十二因縁説にほかならない。これを成実論にみると、この十二因縁説も亦た三世両重を説いて おり、成実はまったく有部宗の所説に同じている。ここで浬藥経の所説と多少相違するといえば、小乗有部が現存の

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愛、取、有を未来の生老死の因とするに対して、未来の生を現在の識の果とし、未来の老病死を現在の名色ないし 触、受の果としているところであるが、これが三世両重にわたって説かれていることにはかわりはない。大乗の因果 説である二世一重の十二因縁は説かれるところではない訳である。このほかにもとりあげればまだまだ存するが、こ のように浬藥経にもられた教理内容や、また経典自身がもっている素材の出所などを確かめると、その多くに阿含、 ニカーャ所説のものや、小乗アビダルマにおいて説く教理の存することを指摘することができるのである。それでは 浬藥経は、何に故をもって自ら大乗と称しているのか、この点に関する課題は、今日まで必ずしもあきらかに浮きぽ りにされているとはいえない。それはすでに浬梁経をして、とくに大乗の白眉とされる法華経とならんで大乗経典の 重要なものの一として、その立場からこの浬薬経は検討されてきたからである。この研究にあっては、むしろそれと は反対に、しかもきわめて素朴に、浬薬経にとって大乗とはなにかと問いかけ、浬藥経は何をもっての故に大乗と称 しているのか、この点について浬藥経自らが語るところを明らかにして象ようというのが、この論文のねらいである。 大乗を標傍し大乗を唱道する仏典としての浬藥経の組象たては、浬藥経の伝訳の事情ときわめてよく合致する。ま ず前十巻、すなわち、大衆所間品までを前段とし、それ以後を後段とするのがこれまで採用された浬藥経の内容上の 区分法であったが、この研究にあってもこの区分法はあてはまった。後段においてさらにこれを現病品から徳王品ま でと、師子呪品、迦葉品のグルー・フと、最後に僑陳如品との三つに区分すると理解し易かった。すなわちこれらを通 して述べると、まず序品から大衆所問品までは、大乗といえば浬藥経のことであり、この浬樂経の説く所を信奉する 浬盤経にとって大乗とはなにか︵河村︶

二、大乗仏典としての浬藥経の組織

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浬藥の会座は序品︵以下の品名は理解の都合上、慧厳再治本による︶に五十二類といわれる。これらの会座の衆の 中で、阿羅漢は、﹁衆生を利益し安楽にし、大乗第一空行を成就し、如来の方便密教を顕発せんと欲するが為に﹂仏 所に至り、菩薩は﹁その心皆な悉く大乗を敬重し、大乗に安住し、大乗を深解し、大乗を愛楽し、大乗を守護し﹂、 浬桑経にとって大乗とはなにか︵河村︶ ことによって大乗の菩薩道が完成されると説くところである。このところにあっては、浬薬経における大乗の主義主 張が説かれるが、それでは大乗を学する具体的な修行に至っては、必ずしもまとまって説かれているとはいえない。 つまり浬梁経が大乗大浬梁の大飾をかかげて大乗を唱道してやまないところであって、浬藥経の主張点の存するとこ ろであった。つぎに現病品から徳王品に至る間は、浬藥経の説く大乗の具体的な修行徳目、ならびにその所得の功徳 を説くところで、これは前段、すなわち前十巻の部分の、具体的な補足説明と桑ることができた。これが五行十徳に まとめられており、即ち、浬桑経の説く大乗の徳目と象ることができる。この五行十徳のもっとも根本課題は、それ は仏性の開顕であって、それがつぎの師子肌品に説かれ、この仏性開顕の当然の帰結として、大乗が主張してやまな い一切皆成を成立せしめる一闘提の成仏が、つぎの迦葉品において説かれていくのである。かくして浬薬経の大乗が 確立してそこに外教徒の謬見を正すことができ、大乗大浬藥の教団に入ることができるのであるoそこで本論文にお いて、浬築経にとって大乗とは何かと問うとき、その中心課題は仏性開顕にあるとしても、浬藥経は何をもって大乗 と称しているかということになると、とりあげるところは主として序品より徳王品に至る浬藥経における説相という ことになるのである。

三、前段に説かれた浬藥経における大乗

参照

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○関計画課長

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