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世親「妙法蓮華経優波提舎」における信 (林是幹教授古稀記念号)

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Academic year: 2021

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(1)

世親﹁妙法蓮華経優波提舎﹂

における信

1

﹃妙法蓮華経優波提舎﹄には漢訳の二本があり、発文は未だ発見せられてはいない。漢訳二本はともに大正大蔵経 造 元貌中天竺三蔵助那摩提 後貌北天竺三蔵菩提留支 共僧朗等訳﹂と示されており、この番が世親︿天親︶︿

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によって脅かれた 共 沙 門 曇 林 等 訳 ﹂ ﹁ 婆 薮 般 豆 菩 薩 ( 96 ): に載せられているが、そこには﹁大乗論師婆薮集豆釈 もので、イ γ ドから中国に来た二人の僧によって訳出されたものであることを示している。 ︽ 2 ︶ 世 親 に つ い て は か つ て 記 し た こ と も あ る が 、 無 着 ﹀ 一 留 島

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の弟として出生し、最初小乗を学び、後大乗に転じたと いわれ、その著述として﹃阿見達磨倶舎論﹄ ﹃唯識三十頭﹄等が知られている。しかし世親の著述はこのような小範 固にとどまらなかったことは広く知られている。すなわち﹃十地経論﹄﹃無量寿経優波提舎﹄﹃妙法蓮華経優波提舎﹄ 等々、大乗諸経典の注釈番も数多く存する。 しかして、この書の訳者の勤那摩提問主ロ

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が イ γ ドから中国に渡って来たのは正始五年︿五

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八 ﹀ だ と 伝 え 1 菩提留支回 O 向 日 開 岡 山

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が入国したのは永平元年ハ五

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八﹀のことだというが、貌の閤は正始五年に改元し永平元年とな

(2)

っているから、これは同年のことで僅かに数ヶ月の差であったということになる。 ︽ 3 v について、北天竺の人、菩提流支は貌の国では道希といい、永平二年から天平年閉まで二十余年に亘って翻訳に従事 したといい、更に ﹃歴代三宝記﹄はこの二人の関係 中天竺三蔵法師勤那摩提。或云婆提。貌言宝意。正始五年来洛陽殿内訳。初菩提流支助伝。後以相争因各別訳。沙 門僧朗覚窓侍中盤光等筆受。 となしている。助那摩提訳出の﹃妙法蓮華経優波提舎﹄は僧朗等共訳とし、菩提留支訳出の書は曇林等共訳としてい るから、あるひはこの両訳は二人に意見の相異を見て別離した以後の訳出になるのかもしれない。 しかし、両者の訳文が全く同一といっていい位に類似しているのは何故なのだろうか。今はそれについて検討して み る 機 会 が な い が 、 一考の余地は存するところであろう。しかして、この雨宮はともに妙法蓮華経となしており、妙 ( 97 ) 法華経の訳文をそのまま踏襲しているあたり、羅什訳を参照したことを伺わせるものがあるが、序品の心得自在に引 き続いて、善得心解脱善得議解脱。心普調伏:::とその内容にふれている等々、妙法華経に含まれていないものもか なり訳出せられでもいる。このことは羅什訳を参照としながらも、羅什訳になく党本にあるものを訳出して補ったこ

とを示すものと思われる。叉、提婆達多の授記にふれたところがあるから、これによってみると羅什訳所依の党本と は異本を所依としたものとも思われる。羅什が妙法華経を訳出したのは四

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六年であり、両者のこの書の訳出は五

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八年以降であるから、その聞には一

OO

年のへだたりがあり、党本の相異もまた当然のことであろう。 ちなみに序品の心得自在の以降は 普 得 − 一 心 解 脱 − 普 得 = 慈 解 脱 一 。 心 普 調 伏 。 人 中 大 竜 。 応 ν 者 作 。 所 作 己 弁 。 離 = 諸 重 担 − 逮 = 得 己 利 − 。 尽 = 諸 有 結 − 。

(3)

善 得 − − 正 智 心 解 脱 − 。 であり、﹃妙法華経﹄はここのところを

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a M 逮 = 得 己 利 − 尽 − 一 諸 有 結 一 。 心 得 − 一 自 在 一 0

となしているにすぎない。そしてここのところをケル γ ・南条本の党文法華経は

話 仲 間

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胃 旦 宮 町 仰 昔 話 可 包 円 自 各 削 固 定 包

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ロ 伽 冨 昨 日

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訟 円 仰 ぐ 路 島

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︵心痛なく心自在で、心と惑を離れ貴族で偉大な竜であり、作すべきをなし、作さねばならぬことをなし、重荷を 捨て自己の目的を達し、存在せる結線を離れ、正しい教えで心を脱し、一切の心自在で最高の彼岸に到達し、直観 一 切 心 得 − 一 自 在 一 到 − 一 第 一 彼 岸

γ

( 98 ) の秀でた大戸間たちであった﹀ となしているから、﹃妙法蓮華経優波提舎﹄が所依とした党本は、ケル γ 南条本に近いものであったことを思わせる。 この趣は方便品の冒頭の部分でも同様であるといえる。 ﹃ 妙 法 華 経 ﹄ は 爾 時 世 尊 従 − 一 三 味 − 安 祥 而 起 。 告 − 一 舎 利 丸 一 句 で あ る の に 対 し て 、 ﹃ 妙 法 蓮 華 経 優 波 提 舎 ﹄ は 爾時世尊入一一甚深三味一正念不動。以=如実智一観。従三ニ昧一安祥而起。起己即告二尊者舎利札サ で あ り 、 ﹃妙法華経﹄に比べてかなり詳細を極めている。ケル γ ・ 南 条 本 は

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削E E W 何 回 巳 ロ

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開 制 定 削 ロ

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叫 民 自 削 ロ

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可 M 宗 国 品 目 当 削 ヨ

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印 刷 M け 吋 岱 口 同 伽 ロ M m ロ C 1 削 W M 制 W件 。 ω ロ M m ハその時に世尊は記憶を思いおこし、三味より立ち上って、立ち上って長老の舎利弗に諮った﹀ であるから、これもまた﹃妙法蓮華経優波提舎﹄の方に近いことは明白であるう。 こ の 外 、 ﹃妙法華経﹄と﹃妙法蓮華経優婆提舎﹄の記述を比較すると、後者の記述の方が詳細である点は随所にお よんでいるが、このことは両者の党本にかなりな相違があったことを示すものと思われる。 し か し 、 序 品 に お い て は 、 ﹃妙法謡華経優波提舎﹄は芦閲名の列挙をしてはおらないが、これは注釈のために不必 要であることから、ことさら列挙しなかったのではないかと思われる。 r、圏 r、 r「 f、 r、 f「 f「〆ヘ〆「 f「 f、 f「~ 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1.

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( 99 ) 大 正 二 十 六 ・ 一 上 、 一

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下 拙 著 ﹃ 法 華 経 に お け る 信 の 研 究 序 説 ﹄ 七 人 以 降 ﹃ 歴 代 三 宝 記 ﹄ は 菩 提 留 支 を 菩 提 流 支 と 記 し て い る 。 大 正 四 十 九 ・ 八 六 中 大 正 四 十 九 ・ 八 六 中

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下 同二十六・八上、一人中 間 ・ 一 上 、 一

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下 同 九 ・ 一 下 印 刷 w a F ・ N 大 正 九 ・ 五 中 大 正 二 十 六 ・ 四 中 下 印 刷 脚 色 町 − M 也

(5)

2 世 親 の ﹃ 妙 法 蓮 華 経 優 波 提 舎 ﹄ ︿法華論﹀は上下二巻であり、その内容は序品第一の冒頭から八万人の菩薩等が集 まっており名称普聞で無数百干の衆生を度したところまでの法華経の文を挙げて注釈を加え、方便品第こでは冒頭か ら五種法ハ十如是﹀のところまでの法華経の文を挙げて注釈を加えたものとで大部分をしめ、鵬首喰品第三では舎利弗 の侮言を挙げて注釈を加え、後の各品は法華経説示の展開上の必要に応じて要をとって言及されるという型をとって いる。このため、法華経の各品・各部において世親がどのような見解を持っていたかを詳しく知ることは困難である といわなければならない。しかし、それらの中にでも、世親の法華経に対する理解の一端をうかがい知ることが出来 る 。 すなわち世親は序品第一は、七種の功徳の成就の示現を説いたものであるとして、序分成就・衆成就・如来欲説法 (100) 時至成就・依所説法威儀随順住成就・依止説因成就・大衆現前欲開法成就・文珠師利菩薩答成就の七種類を挙げ、こ れ に つ い て 注 釈 を 加 え て い る 。 第一の序分成就は諸法門中最勝義と自在功徳義とのこつの成就を示現するもので、 釈尊が住した王舎城同旦

ω

笥 何 回 仰 番閤堀山の三宮浜田宮は他の玉城・山にすぐれたものであることを示している o ’ 第二の衆成就とは数と行と摂功徳と威儀如法住の成就を示現するものであるとしている。無数の大衆が囲践してい るので数成就であり、声聞は、小乗の行を修し、菩薩は大乗行を修し、更に菩謹等は神通自在に随時に示現し、出家 の戸聞は威儀一定であり菩醸と同じではないからとして行成就であることを示している。しかして世親は経文を挙げ

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て摂功徳成就について、声聞功徳成就と菩藍功徳成就とがあることを詳細に論述して、普知識に依り、 一 切 衆 生 の 利 益せんとの心、授記密智・諸通智・真実智の三種智、三種智の所摂の応知によってなされているから摂功徳成就だと なし、釈尊は大衆に回線され供養恭敬され尊重讃歎されているから威儀如法住成就だとなして、この故に衆成就だと な し て い る 。 第三の如来欲説法時至成就については、経文の為諸菩盛説大乗経故の言葉をうけて、この法華経には十七種の名が あることを挙げ、釈尊が法を説かんと欲する時に即座に説かれているもので最高のものであることを示している。そ の十七の異名は 無量義経 大方広経 ((101) 最勝修多羅 教菩藍法 仏所護念 一 切 諸 仏 秘 密 法 一 切 諸 仏 秘 密 蔵 一 切 諸 仏 秘 密 処 川 能生一切諸仏経 ・ 一 切 諸 仏 之 道 場

(7)

一切諸仏所転法輪 一切諸仏堅固舎利 ︸切諸仏大巧方便経 説一乗経 第一義住 妙法蓮華経 最上法門 で あ る と い う 。 第四の依所説法威儀随順住成就については、釈尊の禅定、世間の震動、過去無量劫の知悉らの三味成就・器世間・ .( 102) 衆生世間の三種を成就したことだとなしている。 第五の依止説因成就については、釈尊が大衆を導くために大光明を放つなどの異相不思議な事を示現し、渇仰の念、 開法の心をおこさしめたことだとなしている。 第六の大衆欲閥現前成就については、釈尊が神変の相を示したのは大法のためであり、大衆をして大法に随順せし めんがためであるとなしている。そして 第七の文珠師利菩薩答成就では、弥勤菩薩の質問に答えた文珠師利菩薩は、宿命智をもって過去の因相果相を現見 して十事を成就しているから、現在前の如くにすべてのことが解るのだとなしている。 このように世親は序品の特徴を列記し、それ以下は所説の法の因果の相を示現したものであるとなしている。

(8)

方便品第二については、まず釈尊が対告衆として菩麓を選ばず舎利弗を選んだ理由を五種義ありとして、更に如来 は四種の功徳を成就しているから衆生を度すことが出来るのだとしている。ここでの四種の功徳とは、生死等を意の ままに現ずることが出来る住成就、染浄の因を自在に示し衆生を導きうる教化成就、法を体得し法の如くに行いうる 功徳畢寛成就、どのような衆生に対しても法を説きうる説成就のことである。 かくて世親は五種法に関する注釈を展開している。それによると 何等法||声聞法僻支仏法諸仏法||有為無為法等||名句字身等||調未曽聞 云何法

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起 = 種 種 諸 事 説 −

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因縁法非因縁法等

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依=如来所説法−ーー調種種言辞饗喰顕説 何似法

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依 三 二 種 門 司 得 = 清 浄 −

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常 法 無 常 法 | | 能 教 コ 化 可 化 者 一

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唯為二大事一 何 相 法 | | 三 種 義 一 相 法 | | 生 等 三 相 法 不 生 等 三 相 法 | | 依 = 音 声 − 取 。 以 下 依 − 一 音 声 一 取 申 彼 法 ム | | 為 τ 随 − − 衆 生 器 一 (103) 説 申 諸 仏 法 主 何 体 法 | 無 三 7 体−︵無量乗唯一仏乗無二乗﹀|五陰体非五陰体|仮名体法相義||唯有二乗

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と な さ れ て い る か ら 、 一大事因縁をもって出世した釈尊は、 一仏乗をもって衆生を導くことを唯一の目的としている ことを示そうとしたものであるとなすことが出来るが、世親は五種法の何体法について、 諸 仏 如 来 平 等 法 身 。 彼 諸 声 聞 畔 支 仏 乗 非 − − 彼 平 等 法 身 之 体 − 。 以 − − 因 果 行 観 不 同 一

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一 乗 体 と は としているから、平等法身であることが一仏乗だとしていることを意味している。したがって、平等法身の体たる一 仏乗をどううけとめるかが問題となる。 そこで世親は以下の方便品の説示は、四種の疑心を断ぜしめるためのものだと指摘をしている G それによると、釈

(9)

尊は五濁の悪世に出現し、どのような時であろうとも種々の方便説法で導き疑心を断ぜしめ、不信の増上慢の者のた めには教えを説かず、仏から法を聞いても誘心をおこす者には説かず、釈尊の教えは先に説くものも今説くものも妄 語ではないから、童子がたわむれのために砂をもって仏塔を建てたとしても皆仏道を成ずるように、仏語を一心信解 することが大切な&ころだとなしている。 時官喰品第三においては、舎利弗の ﹁ 金 色 三 十 二 十力諸解脱 同 共 一 一 法 中 而不 ν = 此 事 八十種妙好 十八不 共 法 如 ν 是等功徳 而我皆己失﹂の偏言を注釈して、 これは舎利弗が人・法無我、 一切諸法悉く皆平等なる法を得 ることが出来ないでいるからと自責の念で語ったものだとしている。そして世親はこれ以下のものは、七種の輸が七 種増上慢心を対治せんがために説かれ、更に三種染慢人のために三種平等が説かれているとなしている。七喰と七種 ( 104) 増上慢心の関係は、 顛 倒 求 − 一 諸 功 徳 一 増 上 慢 心

ll

世間中諸煩悩染織然増上||火宅喰 声聞一向決定増上慢心

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自 言 我 乗 与 = 如 来 乗 − 等 無 = 差 別 −

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窮子輸 大乗一向決定増上慢心

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無−副声聞勝支仏乗−ーー雲雨響喰 実無謂 ν 有増上慢心

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実 無 − − 浬 紫 − 生 = 浬 襲 想 − ー ー 化 城 喰 散乱増上慢心

ll

実 無 レ 有 レ 定 過 去 難 レ 有 − − 大 乗 善 根 − 而 不 − − 覚 知 − 。 不 一 − 覚 知 − 故 不 ν = 大 乗 − 。 狭 劣 心 中 生 エ 虚 妄 解 − 。 調 第一乗||繋宝珠喰 実有功徳増上慢心

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間 二 大 乗 法 − 取 − − 非 大 乗 − ー

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輪王自警中明珠与之喰 実無功徳増上慢心

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於 ニ 第 一 乗 − 不 三 曽 修 = 集 諸 善 根 本 −

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第一乗−心中不レ取以為=第一一|医師向

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であり、三種染慢の人は三種の傾倒の信あるもので、それは信=種々乗異六信=世間浬蝶異ス信−−彼此身呉−であり、 これの対治のために乗平等、世間浬鍵平等、身平等が説かれたのであり、その説示は多宝如来の出現、声聞らへの授 3 ﹂ 、 d t − u 一仏乗の説示等が示すところであるとしている。しかして、釈尊が三乗を説いて一乗となしたのは同義によるか らだとして 言 = 同 義 − 者 。 以 z 法 身 声 開 法 身 彼 此 平 等 無 差 別 − 故 。 以 = 諸 戸 間 辞 支 仏 等 乗 不 同 − 故 有 コ 差 別 − 。 以 三 彼 二 乗 非 三 大 乗 − 故。如来説言不 ν − − 我 身 − 是 無 上 義 。 とのベ世親は無上義を提義し注釈を加えている。無上義には、種子無上、行無上、増長力無上、令解無上、清浄国土 無上、説無上、教化衆生無上、成大菩提無上、浬梁無上、勝妙力無上の十種があるが、この中の第七の教化衆生無上 は地涌菩薩出現のことで、第八・九の成大菩提無上・浬繋無上は如来寿量晶の説示によって注釈されたものである。 ( 105) すなわち一乗についての考え方は、方便品中心にとどまるものではなくて、涌出・如来寿量等の各品にまでかかわる ものであると捉えられていることを示すであろう。 そして世親はこれ以下の各口聞は、法力・持力・修行力を示現したものだとして法華経の注釈を終っている。 ︹ 註 ︺ ハ 1 ︶ ︵ 2 ﹀ ハ 3 V ハ 4 ﹀ 大 正 二 十 六 ・ 六 上

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七 下 、 一 五 下

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一 七 上 同 ・ 七 下 、 一 七 上 同 ・ 八 中 、 一 七 中 下 同 ・ 九 上 、 一 八 中

(11)

3

﹃妙法蓮華経優波提舎﹄は方便品の注釈の中の四疑を語る段において、信に関説している。四疑とは一疑何時説、 二疑云何知=是増上慢人二三疑云何堪レ説、四疑云何如来不 ν 成 − − 妄 語 − の こ と で あ る が 、 こ の 中 の 第 二 疑 の 注 釈 に お い て世親は 如 来 不 下 為 = 増 上 慢 人 − 而 説 申 諸 法 主 。 云 何 知 − 一 彼 是 増 上 慢 − 為 レ 断 − − 此 疑 − 。 如 レ 経 若 有 三 比 丘 − 実 得 = 阿 羅 漢 一 者 。 若 不 レ 信 − 一 是 法 − 無 ν − − 是 処 − 如 ν 等 故 。 と語り、更に第四疑の注釈では 此 以 = 如 来 先 説 法 異 今 説 法 異 − 。 云 何 如 来 不 レ 成 二 妄 語 − 為 レ 断 = 此 疑 − 。 如 ν 経 舎 利 弗 汝 等 応 当 二 心 信 − 一 解 受 持 仏 語 一 諸 仏 如 来 言 無 − − 虚 妄 − 無 ν 有 − 一 余 乗 − 唯 一 仏 乗 故 。 ( 106) となしている。この中の前者の説示は法華経の 会中有エ比丘比丘尼優婆塞優婆夷五千人等−。即従レ座起礼仏而退。所以者何。此輩罪根深重及増上慢。未レ得調レ得。 未 ν証謂 ν 。 有 − − 如 ν 失 − 。 : : : 如 レ 是 増 上 慢 人 。 退 亦 佳 央

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− − − 汝 等 当 ν 信 仏 之 所 説 言 不 − − 虚 え 一 日 をうけたものであり、その信は青色色町仰を意味すると思われる。後者の一心信解は法華経の説示よると釈尊が舎利 弗にむかつて仏の所説を信ずることを強調したことをうけているので、青仰向

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酬を意味するとは思われるが、分別功 ︽ 4 ﹀ 徳ロ岡では妙法華経が常

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注目昌と包

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ロ W 毘とを一念信解と訳出している例もあり、普通、信解は怠

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ロ W 誌 に 対する訳語として使用せられるから、法華経の説示をうけており、骨制 W内 定 H H 仰 の 可 能 性 が あ る と は し て も 吟 仰 向 田 島 町 簡 を

(12)

意味するとは断定出来ない。この書の党文が未発見の現在としては止むを得ないことかもしれない。 しかして﹃妙法蓮華経優波提舎﹄は、蹄官喰ロ聞の注釈の中で三種無煩悩人三種染慢を諮っており、その中でそれらは 所謂三種顛倒信故 o 何 等 為 レ 三 。 一 者 信 − − 種 種 乗 異 − o 二 者 信 − − 世 間 浬 柴 田 ? 。 三 者 信 − − 彼 此 身 盟 九 百 であり、三種染慢を対治するために三種平等を説くのだとしている。ここで諮られる信は乗や湿撲や身体には種々に 異ったものがあるように信ずることを意味し、それを対治するために釈尊は教えを説いたことを示している。法華経 円 6 v では誤り劣った教えを信解

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巴するということは種々使用せられるところでもあり、ここでの信が信解の意 が強くても吟

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仰と

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のどちらを意味しているかは即断出来ないところである。 更にこの書は、分別功徳品以後の各品について、法力・持力・修行力を示現するものだとしているが、その法力に ( 107) 五門ありとし、その第二に信門を挙げ、それは 如 ν 復 有 − − 八 世 界 徴 盛 数 衆 生 − 皆 発 = 阿 梼 多 羅 三 貌 三 菩 提 心 − ためであるとして分別功徳品の言葉を引用している。これは如来寿量の説示を聞いた人々は大鏡益を得、無生法忍を 得るに引き続いて語られたものであるが、如来寿量の教えを聞いて無上等正覚の心をおこすためには、教えに対する ひたすらな信がなければならない。如来寿量品のその説示に先立って、釈尊が一切の菩薩大衆にむかつて如来誠諦の 語を信解すべしと繰り返し強調せられているが、この時の信解は

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2

であっ勺このことは如来寿量の説示を うけとめるためには、菩薩大衆の心に恥

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がなければならないことを意味していると恩われ、分別功徳品は如 来寿量品の説示をそのままにうけついでいるから、当然教えを聞いて無上等正覚の心をおこすためには信常包−一色伊仙 がなければならないであろう。世親が分別功徳品の説示を引用して信門を注釈した意もそこにあると思われる。

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叉 ﹃優波提舎﹄は、観世音菩薩の名号を受持することによって得る福徳

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函について二種の義ありとし、 は信力であるとし、信力には叉、二種ありとし、 一 者 我 身 知 − − 彼 観 世 自 在 − 無 レ 異 畢 克 信 故 。 二 者 調 於 レ 彼 生 = 恭 敬 心 一 。 如 − − 彼 功 徳 − 我 亦 如 ν 畢 寛 得 故 。 としている。観世音菩薩のように異りなく畢寛信ずる等というのは、そのものになり切るように信ずることであろう から、そこにては迷い惑うことは全くないのであるから、それは念に近く、これ以上にまかせ切ってしまうというひ たすらな信 m m 片 側 丘 品 目 回 仰 は な い で あ ろ う 。 以 上 、 ﹃ 妙 法 蓮 華 経 優 波 提 舎 ﹄ に お け る 信 を 見 て 来 た の で あ る が 、 そ こ に て は 信 が 、 常 包 向 日 何 回 仰 を 示 す と 思 わ れ る も の も あ る が 、 制

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n忠信解であるのか、吟創島内出品であるのかは必ずしも明白でない。それでは世親は信について どのような考えを持っていたのだろうか、別のところで検べてみなければならない。 そこでちなみに、世親の著述といわれる﹃阿毘達磨倶舎論﹄と﹃成唯識論﹄とを見ると、そこにはそれぞれ次のよ ( 108) うに示されている。玄弊訳の﹃倶舎論﹄には 信 者 。 令 − − 心 澄 浄 − 。 有 説 。 於 − − 諦 宝 業 果 中 − 現 前 忍 許 故 名 為 ν 信 。 とあり、真諦訳の﹃倶舎釈論﹄には、 ︽

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信 謂 心 澄 浄 。 有 余 師 説 。 於 = 諦 宝 業 果 中 − 心 決 了 故 名 レ 信 。 と示して、玄弊の現前忍許を心決了と訳出したのが異っているにすぎない@これに対して発文の﹀

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(14)

︵ そ の 中 で 信 と は 心 の 浄 信 で あ る 。 諦 と 宝 と 業 と 果 と に 対 す る 信 頼 で あ る と 、 他 の も の は ︿ い う ﹀ ﹀ と述べこのところを注釈した称友の﹀

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庄 内 田 町

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︿ 可 帥 富 岡 山 品 は

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ハ 信 と は 心 の 浄 信 な り と 。 信 に よ っ て 、 煩 悩 ・ 随 煩 悩 に 濁 さ れ た 心 は 滞 信 と な る 。 水 が 水 を 澄 静 に す る 宝 珠 に よ る よ う に 。 諦 と 宝 と 業 と 果 に 対 す る 信 頼 で あ る と 、 他 の も の は ハ い う ﹀ 。 四 諦 と 三 宝 と 善 不 善 の 業 と 愛 非 愛 の 果 に お い て 、 こ れ ら は 正 に あ る と 信 頼 し 、 明 解 す る の は 億 な り と 、 行 相 を も っ て 信 を 説 示 す 。 ﹀ ( 109) となしているから、現前忍許・心決了と漢訳されたものが

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−であることは明白であるから、それは 確かなる信頼を意味している。しかしてこの一句の冒頭の信とは心の浄信なりの言葉の浄信は官

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であるが、こ こでは胃包脚色

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が本来もっている意味を明示しているといえるであろう。胃

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は大乗の経典等においては浄信 ここでは宝珠によって濁った水が澄浄になるとのたとえで胃

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脚 色 ” が 使 用 さ と訳出される場合が多いのであるが、 れているから、この語は語根の官

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がもっている、静める、喜ぶ、明白にするなどの意において、心境を指す 言葉として使用されていることになる。すなわち、この言葉には元来、信の意味は含まれていないのであり、信が静 ︽ M V かな清らかな心の状態、作用、性質をもつものであるところから、信とは心の浄信なりとなされたものであろう。し

(15)

かして、四諦・三宝と業果を現前忍許するのが信であると他の者はいうのだというが、四諦・業因業果は仏の教えの 内容であり、仏法僧三宝の中の法にかかわるものであるから、仏或はその教えをそのままにすなおにうけとめて、現 前忍許することが信吟削

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であるということが出来るであろう。 t 信及不放逸 そしてこの言葉は、大善地法について述べた煩に対して注釈されたものであった。ちなみにこの煩は ︽店︾ 勤 唯 適 ニ 善 心 − 軽安捨備悦 二根及不害 と訳され、真一諦によって 信不放逸安 捨差及漸憐 ニ根非逼悩 ︵ 甜 ︾ 精進恒於レ善 と訳されたもので、大善法の所行処の心玉を大善地と名づけ、大普地が所有するものを大善地法と名づけ、この法は 恒に諸の善心にあることをのベ、そしてこの法は信吟包昏倒不放逸

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払 備 ( 110 ). 何 回 H1 日 同 1 塊 削 号 制 W H 可 制 同 司 帥 無 貧 巳 o σ H M m w 無慎釦仏語溜不害

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毘 弓 ω 間 勤 ︿ 同 一 弓 m F の十種であり、恒に善心におこることをのベ たもので、この章の冒頭の一句は、この中の信に関して詳説したものであった。 したがって信は善心の中に常に存在するところの心所の一つであるから浄信なもので、仏や法等にたいして素直で ひたすらで且つ浄信なものでなければならないであろうし、前述の信等五根は清浄において増上の用ありとする立場 をうけつぐものであるといえよう o ’そしてそのあり方は﹃大見婆沙論﹄にいう ︵ 口 ︾ 信 能 為 − − 諸 善 根 本 − 。 無 レ 有 − − 普 品 離 レ 信 而 成 − 。 をうけつぐものでもあろう。 一方、護法造・玄弊訳の﹃成唯識論﹄は

(16)

云 何 為 レ 信 。 於 − 一 実 徳 能 一 深 忍 楽 欲 心 浄 為 ν 。 対 − − 治 不 信 一 楽 ν 善為レ業。然信差別略有三ニ種、 一 信 − 一 実 有 − 。 調 於 − − 諸 法 実 事 理 中 − 深 信 忍 故 。 二 信 ニ 有 徳 − 。 謂 於 三 ニ 宝 真 静 徳 中 − 深 信 楽 故 。 三 信 − 一 有 能 − 。 調 於 − ニ 切 世 出 世 善 一 深 信 = 有 レ カ 能 得 能 成 − 起 − 一 希 望 一 。 由 レ 斯 対 − 一 治 彼 不 信 心 可 愛 宮 一 楽 証 − − 修 世 出 世 善 治 ︾ となしており、安惑の注釈である党文の︿ロ

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︵ こ の 中 で 信 は 業 ・ 果 ・ 諦 ・ 宝 に お い て 信 頼 す る こ と 、 心 の 静 信 な る こ と 、 希 求 す る こ と で あ る 。 実 に 信 は = 一 種 に 転 ず る 。 事 実 に お い て 、 徳 あ る い は 無 徳 に お い て 信 頼 の 相 あ り o 実 有 と 徳 と に お い て 浄 信 の 相 あ り 。 実 有 と 徳 と に お い て 得 る こ と あ る い は 生 ず る こ と の 可 能 き に お い て は 希 求 の 相 あ り ﹀ ( 111) と述べている。これは善 W F H B E について述べたところであるが、それは﹃倶舎論﹄における、議官心の中にはいつも 存在するところの心所で大善地法のところに該当している。ただし﹃倶舎論﹄では信・不放逸・軽安・捨・漸・塊・ 無貧・無膜・不害・精進の十法を挙げているが、ここでは信・備・悦・無貧・無蹟・無療・精進・軽安・不放逸・捨 ・無害の十一法を挙げている。 ︽ 却 ︶ 善地法であるとはいわないとしているためであろう。 こ れ は ﹃ 倶 舎 論 ﹄ で は 、 無擦も善根であるが惑を体とし、 慧は大地法であるから大 それはとも角、安懇の注釈叶 ZS 訟

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可 仰 が 示 す 信 に 関 す る 釈 は 、 ﹃倶舎論﹄が示す諦・宝・業・果に 対する信額、心の浄信が信であるとするのと同様であるが、ただここでは、更にもう一ケ条、希求すること

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(17)

をつけ加えている。そして、信は実有、徳等に信頼し、浄信し、実有・徳から生ずるものに希求する相があからだと 指摘している。そして、三種の信と安慈の注釈とを比較すると、それはそれぞれ、第一の﹁信実有﹂は信業・果・諦 ・宝に信頼すること、第二の﹁信有徳﹂はそれらに心の浄信なること、第三の﹁信有能﹂はそれらを希求することに あたると思われる。してみると、﹃成唯識論﹄が掲げる﹁於実徳能﹂は、それぞれ信実有、信有徳、信有能にあたり、 それは安慈釈の業果等に対する信頼、心の浄信、希求というこ主になり、 ﹁忍楽欲﹂はそれをうけたものであると思 われる。これが認められるならば、忍は安態釈の

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句 ” に あ た り 、 楽 は 同

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にあたり、欲 は

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帥包にあたることになるであろう。制

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は﹃倶舎論﹄において忍許と訳出されてもいるので 問 題 は な く 、 向 島

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冒溜は希求することであるから問題はないと思われるるが、湾側

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が楽にあてはまるかど ﹃ 成 唯 識 論 ﹄ は 於 三 二 宝 真 浄 徳 中 − 深 信 楽 故 と し て い る が 、 ﹃ 倶 舎 論 ﹄ で は 同 肖

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は心澄浄と訳され、信楽 ( 112) う か は 問 題 が あ ろ う 。 とは訳出されてはいない。信楽と訳されるのは普通削丘

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誌 で あ る が 、 ﹃倶舎論﹄においてこの語は勝解と訳出 さ れ 、 ﹃ 唯 識 三 十 論 額 ﹄ においても勝解と訳出されているから、ここでの信楽の訳になったものは

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区 自 ロ w t の 語 ではなく、発文が示すようにそれは司自&含かと思われる。 党文はこの心浄信ハ澄浄﹀について

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(18)

︿ 心 の 浄 信 と は 、 実 に 信 は 心 の 濁 り に 相 違 す る か ら 、 信 の 相 応 の 時 は 煩 悩 、 随 煩 悩 の 垢 の 濁 り を は な れ る か ら 、 と な る 、 と 、 心 の 浄 信 を 説 く 。 信 は 叉 、 所 依 を 与 え る を 業 と す ﹀ 心 は 信 の 故 に 浄 信 として、信吟

ω

内 出 品 は心の濁り染汚に相反するものだから、信がある時は煩悩等の濁りとはなれるから、心も信の ゆえに浄信となるのだとしている。そして安懇は信に関してこと更にこれを語っており、 ﹃成唯識論﹄も三宝真浄徳 中となして信楽を語っているから、信について考える時、 心の浄信たる胃

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脚 色 ” は 信 の 性 格 を 語 る も の と し て 、 重 要な意味をもっていると考えることが出来るであろう。 そ し て 叉 、 かかる意味で ﹃ 成 唯 識 論 ﹄ が 示 す 信 楽 の 語 も 、 同 ︼

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仰 色 白 の 意 を 示 す も の と 思 わ れ る 。 ﹃ 成 唯 識 論 ﹄ が 前 掲 の よ う に 、 信 は 於 − 一 実 徳 能 一 深 忍 楽 欲 心 待 為 レ 性 。 対 − 一 治 不 信 一 と い う の も 、 信 は 削

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この語句を説解し、実・徳・能は信の依処、忍楽・欲は信の因果である、として、突とは事理の諸法、この諸法に忍 (113)

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冒溜の上にあるべきものなるを示していることになる。深浦正文博士は﹃唯識学研究﹄の中で、 可決定し、徳とは三宝真浄の徳、この徳について深く信楽し、能とは一切世、処世の普法、この善法において力あり、 よく得しょく成ぜんと深く信じ希望するから欲を起すとしているが、更に忍可決定に関して、忍決するのは勝解の心

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所であり、これ信の因にあたる、すなわち信は、この勝解の忍決によって起るところの果であると注釈している。 ﹃唯成識論﹄は信に関して忍楽欲を語った後に、 ︽ お ︾ 忍謂勝解。此即信因。楽欲謂欲即信果。 となしているが、これは深蒲博士の注釈の基になったところのものであるが、ここでは忍とは勝解の心所であり、信 の因であり、楽・欲は信の果であると、忍・楽・欲の関係をのべている。そしてこのあり方は、衆賢の﹃順正理論﹄

(19)

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が示す能資−−勝解−。説名為レ信の説示とは全くちがうものとなり、 ことになるであろう。 勝解︵信解﹀ こそが信の因たることを説いている すなわち信

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即日仏島町仰は決定したことをそのように印持雪印

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ロ仙沼するものであり、 〔 が り ハ ハ ハ ( 〈 ( 〈 ( ( ( ( ハ ハ ハ 湾 出 善 ~egg~~ !乙 εε6~ るみー来法 よ 藤 出 尽 同 同 大 拙 大 留 同 同 同 同 大 う およ tこ

っ田室、史

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下 回 主 下 と 門 教 八 中 中 け 上 、 下 . 、 な 足 に 中 、 る 、 一 、 六 同 一 戸、 論 お 一 信 一 八 九 七 旬 』 け 九 の 九 上 ム 上

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解 な 世親の信は三宝等に対し、 ひたすらなものが信だということ ( 114)

(20)

釈 を 立 て る 論 的 定 義 を な し た 結 果 で あ る と な し て い る 。 ︵時﹀大正二十九・一九上中、三一二中 ︵時﹀同・一七人中、ちなみに、目

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広三は信は業・果・諦・宝において信頼することの四種を挙げているが、荻原震来博士は、 これについて、徳を加えており、それは ω 1 S Z F m i の

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の 誤 り で あ る と 指 摘 し て い る 。 ︿ 荻 原 雲 来 ﹃ 荻 原 雲 来 文 集 ﹄ 六 一 三 ニ ﹀ ︿ 却 ﹀ 同 J

m 色 町 M m w ロ ・ 切 切 ︵幻︶叶ユヨ m即 日 ︸ 内 似 − M a ︿泣﹀深蒲正文﹃唯識学研究﹄下巻一五九

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︵勾﹀大正三十一・二九中 ︿ M ﹀同二十九・三九一上 ハお﹀深蒲博士は忍に関して、これを忍可決定と理解しているが、ここで語られる忍は三宝等に対してのもので、それは包告官 凶 許 可 白 百 で 示 さ れ て お り 、 信 解 が 語 ら れ る と こ ろ で は 削 宅

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で 示 さ れ て い る 。 こ れ は ﹃ 供 舎 論 ﹄ で も 同 様 で あ る が 、 こ の両語の相異を明白にするために、前者を信額、後者を印持としておいたが、玄弊は前者を忍許、忍、後者を印可、印持と訳 出 し て い る 。 ( 115)

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