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※ 各 節 に 設 け た 註 記 は 本 文 の 内 容 を 資 料 的 に 補 足 す る と も に 、 筆 者 の 主 張 が 披 涯 さ れ て い る の で 、 努 め て 註 記 を 参 照 せ ら れ た い 。一、問題提起と研究領域︵本文略︶
本節は紙数の関係上、そのアウトラインを筒条書に列記し、筆者の意図するところを披摂するに止めたい。 村中国家族の歴史的型態には、家族共産型︵同日同財・同居同嬰・経済的家族とも呼ぶ︶と同族的家族︵宗族的家族 −祭妃家族・宗教的家族とも呼ぶ︶の二型が代表的であること。山門家族型態の起源は周代の父権的氏族社会の||殊 に上属階級の血縁的シンボルとしての姓の組織体系たる||宗法に基く祖先祭妃によって形成されたこと。同こうし た歴史的家族型態を土台としながら、解放前夜の華北農村社会の家族制度を1
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殊に同族的・家族椛成の問題を数量的立場から
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考察すること。 帥本論文は東京大学史学会委員会の教示に基き、家族制度を通して良民の封建的意識 を浮きぼりし、近代的意識と対比すること。∞今日、巾同農村の家族制度は分析解明を最も要求されている焦目り課 題であり、そこには幾多の研究領域が績たわっている。家族制度の佃々の只体的現象の科学的分析こそ、何が封建的 で何が近代的なのかという問題の把梶への道となるのである。一
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華北農村における家族制度を研究するに当リ、まづ家族の外延を構成する同族の結合と分布の実態について調べて おきたい。即ち、同族的結合の実態を把摂することは、一日制度と忠恕としての家族制度。@土地制度及び村落との関 係o
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同族的結合に於ける問結及び族長の支配椛の様相。⑮同族の社会的機能。などの諸問題を論究すべき基礎的資 ( 92 ) 料を提供するものである。 ② 従来、中国における同族的結合の強さは、宅中・ことに不同に著しいとされてき介。 つまり、同姓の比重の大きい 村孫は、清代未期または近来の状態からいえば、事中華南殊に車中間の農村に多いとされてきたのである。 然しこれに対して、結合分布の比率が弱いと忠はれる華北に於ては如何であろうか。たしかに華北では、華南に見 ちれるような稲田の代りに小麦と高梁の畑に点在すゐ同族共同の始机を祭る相堂︵宗初︶には、美麗に修理されたも のは悉ど見られない。と云っても、同姓︵同族︶村落が絶無ではないし、同姓の比重が大きい場合がないではない。 ⑧ ただ数量的に華北農村では同族的結合の比重がむしろ少いということである。従って結合分布の度合を、 一律に平均 して担えることは失当である。即ち、華北農村の同族的結合の分布状態は、可能なかぎりそのニュアンスを把えるよう努力すべきである。 先に見たように、華北には同族的村泌が絶叫ではないが、 ④ も様々であゐ。従って、 また同族 ︵同性︶村でない村も多く、村務民の姓も職業 同族約合の強弱の度合は、各村泌が壮烈に平均的でないことは一五うまでもない。十字景渋氏によ ⑤ る河北省定県の村落調査の結果を参考にすると、 同出村の同姓の比前一は半中華市民村に比して小さい似内にあるが、 る 。 華北出村としては、それ程小さい方ではない。にも拘らず定以六十二カ村山内、同性村山治は一カ村を数えるのみであ こうした傾向は華北炭村慣行調査︵訓査主任杉之原洋一氏︶によって明かとなった河北省保城県の場合も定県と同 比して肢も特徴的な状況を示しているようである。 様の状況を示している。また河北省順一弘山の場合は同性︵同族︶の比主はこの一両県より小さく、幸中華南の由民村と対 今この捺城県︵全五区
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山城山を除ぐ︶百四十三カ村の村山治仙成から、川現ではあるがその一部を掲出して参考 としてみたい。 第一表 h u グ ラ ’ b 菌 、 一 ヘ 人 1 五 日 悼 の 中 貼 城 内 を 際 く 一 山 三 カ 村 山 内 三 十 五 村 か 一 例 示 。 / 河 北 省 綾 城 県 の 村 落 構 成 ︵ / 総 戸 数 と そ の 百 分 比 は 筆 者 の 算 出 に よ る 。 、 、 総 性 数 最 多 性 と 戸 数 同 上 百 分 率 五O
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一荘六十八戸 四市川村山戸の内李姓九十五戸。 の内十字姓六十七戸。蘇印村百九十五一戸の内桂壮一一白九十一一戸。一県佐村二百五十二一ドの内張姓二百三十一戸。前向頭村百 六戸の内郭姓百三戸これである。!ー第一表に例示した三十五力村部以外には九割以上を占める最大姓戸数は見当ら ないのである。そして全五区村内の最大性の戸数が九割以上を占める圧倒的な比率を示さなくとも、岡村内戸数の半 ぱ以上を占める村落は同県内総村部百四十一二カ村の内、町制二分の六十カ村である。 ︵第三表を参照︶ この築城県に対して順義県の場合には対比さるべき諸点に大きな差異が見られる。 ⑦ \順義山山富一区五十四カ村の内、二十二カ村を例一川総戸数。 J 順 義 県 の 村 落 栂 成 ︷ / 百 分 比 は 筆 者 の 算 出 に よ る 。 、 第二表村 名 大 東 庄 小 東 庄 村 越 古 与苧 仁ヨ 沙 井 キ ナ 河南村四保 ︸ 阿 南 村 六 保 胡 各 荘 石 各 荘 梅 治 営 村 沙 柁 村 泥 河 村 社 各 荘 村 北 法 信 村 劉 家 河 - L jf;f 門 向 大 村 村 防 営 秦 巻 刻h 店 キ ナ 東 民 改 村 一 一 総 六 四 戸 四 六 数 一 二 四 ー 七
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順義県第一区五十四カ村の内、同性村落又は村落戸数の九割以上を同一姓で占める最大併をもっ村部は見当らな ぃ。この傾向は嬢城県と対照的な村部柿成を示している。そればかりか、その七・八割を占める杭度の最大性をもっ ものには漸く梅治営村・秦巻村・東思決郷の三村を数えるのみである。 然も村内の最大社一の戸数が同村内総一戸数の半 の比六ドを示している ぱ以上を占める村務は県内村務総一戸数の内、二刑四分の十三カ村に止まり、半に達せぬものは七割六分の四十一カ村 ︵ 第 三 表 参 照 ︶ 然らば、このような華北出村の椛成は、華小華南の村落とはどのような対比を示しているであろ弓か。この対比に 第三表 関して、仁井同教授﹁中岡山村の家族﹂ ︵六問頁︶の中で作成されている対比表を転載しておこう。 ⑧ 四 県 村 落 内 最 大 姓 戸 数 の 百 分 比 対 照 最大姓戸数が一村総 戸数内に占める率 Q一
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、、.., 第三表によると、 ⋮山一江省よ率化県の郊似郷では一札を以て一村の戸数の半ば以上を山める村訟は、村山治抗数こ六七 カ 村 ︶ の九割︵一阿八力制︶に近く、 殊に完全な川悦村落は八十カ村に達し村務総数の半に透している。 しかも注目 されることは郊似郷の村部内に従っては、 一村の続出川をこえて近接数村をあげて向性一︵岡技︶の父系山族を以て柏成 ⑨ されていることである。例えば郊綜郷の毛れ一村山治では、仏いも﹁東岡市北みな毛﹂ ︵ ゴ 一 同 志 周 郡 伝 ・ 仁 井m
教授﹁支那身 分法史し参照︶というが如芳知であって、 その村誌の内部桃成が単一の同性﹁毛﹂ であるというよりも、同性 ︵ 間 放 ︶ 結合が数村の地税を述ねてその上に形成されていると一五えよう。これら同性の比率の大きい中南地滑の村泌情成は、 同性の比率の小さい河北省m
,我山町の村部どは全く対間的な村裕椛成である。 ﹂れに対して、引北中引先児の場合は多小 ( 98 ) とも完全な向性村部を有し、最大問ノのもつ傾向も山県城県に類似している。即ちは取大性の戸数が村内の戸数の半に速す ぬ 伊 r 品 川 て る村 H 郊と半に満たぬ村怒との比平は、四訓八分︵三十カ村︶対五間二分︵三十二カ村︶である。 右の知山山的な数量的比率からも分る通り、華北向山村と華中市出村山治との問には、同姓︵同族 J 結合には大きな差異 が見られる。 即ち中同の同侠付合は車市村芯地引に強く、 訴ヤ北以村には極めて之しい。 し か し 、 一概に平均してその 結合分布の状態を把似してはならない。 ①私が﹁同族結合﹂としないで﹁同族的紡合﹂とした即由は、恰もマックス・ウエパl教授の社会科学方法論の基礎概念である 理恕型による類梨﹁資本主義精神﹂に対して﹁資本主義の精神﹂とすると同じ概念の用法である。︵拙著﹁マックス・ウエlパ に 於 け る 資 本 主 義 の 精 神 の 研 究 L ︵ 身 延 山 大 学 々 報 第 三 十 二 号 参 ︶ Q 即 ち 華 北 村 落 の 内 部 組 織 の 別 一 が 、 そ れ を 構 成 す る 同 族 ︵ 同 姓必ずしも同族ではない﹀の比重の差によって数個の類型に区分される故である Q 参 考 ま で に 、 同 族 結 合 の 構 成 を 類 別 一 別 し て みょう。付一村一一位︵一村一族︶の同族村落@判二個又は数仰の同似をもって構成される村落 Q 回特に多くの戸口を擁する一・二 又は数個の同姓︵同族︶の外に、少数の戸口を悼惜する一姓乃至諸姓を同時に含み構成される村落 Q 帥特に大きな戸口を機する同 性が存在せず、各々少数の戸口を擁する諸姓によって構成さる村落などが列挙されよう。 @華中華南の同族的紡合の強弱に関して、ラング女史は広東省・福山叫省の農村を一九三六年に調査した結果を報告し、間放的結 合の強弱の度合を主に利堂・住宅・店舗・即日制・祭日・墓地・放出などの大小の比によって示しているが、その中で﹁同族はし だいにその意味を失ないつつある L Q ﹁そこでは同僚の重一攻作が減少していることを物語っている﹂と述べ、従来の華南地僚の 炭村家族に対する見方をや h 修正している Q ︵ 巳 四 日
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吋 由 日 々 司 忠 由 ・ ︶ 小川修訳﹁中国の家族と社会﹂︵岩波現代議 4 4 一 日 ︶ 第 一 巻 二 二 六t
二三二頁参照︶しかし総体的には華中華南の同政的結合は強 い。例えば湖江奉化県の m w 似郷の場合︵データは治末のもの︶は完全な間性村孫は八十に達し村務総数の半数に及んでいる Q ︵仁井田教授﹁中国農村の家村﹂︵一九五凶年京大出版会 ω 六 七t
六八頁 Q 牧野呉氏﹁中凶に於げる家族の村落分布に閉する統 計的一資料﹂︵家族と村務第二桁 ω 間和十七年︶またむ・2
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によれば、広東省洲安附近の科江をさかのぼった鳳以村は殆ど一一姓の同族村落であるとされている。 ⑦華北村落における同族結合の弱さを一不すものとして、例えば郷土志叢書第一集︵民国二六年二月燕京大学印行︶の阪国省部に は﹁甘泉県では大姓氏族なし ω 岐山県でも十数代数代を伝える刊家大放もないではないが少く、族一前も信附すべきものが少い Q 寧元州でもこれと同様の傾向がある ω 城川県でも一族は多くて数十戸であり江南広東の同族に比すべくもない﹂とあり、その傾 向を知ることができよう G ①華北農村の八割程度は農民によって市められるが、小には同一家族内に短工、長工、木匠、苦力、ボ l イなどの職業に従い家 計を援助する者もあり、戒は析には小学校教員、警官、商人などを生業とする者もある Q 性も雑多で木文第一表、第二表を参照 さ れ た い 。 ⑤ ヰ j 長漢氏﹁定県社会概泌調査﹂︵民同二二年二月。一六八頁以下︶。仁升同教綬﹁中国の農村家族し︵附和二九年十月。東大 出版会 ω 六O
頁︶同﹁中国渋制史﹂︵昭和二七年。岩波全書 ω 一 九O
頁 ︶ ①綾城県の村落構成表は﹁中国農村似行調査﹂︵第三巻二O
頁︶の﹁絡城県第一区各村別姓の積知及呉戸数︵城内は略く︶﹂ ︵ 、 川 北 省 真 定 道 料 品 城 県 第 一 区 保 甲 編 成 聞 に よ る Q 間和十七年二月二十六日︶とある調査資料を参加した ν 尚右の資料に誤記が見 られるので訂正しておく Q 即ち資料では﹁第一区﹂となっているが第一一民は三十数村より構成されるのみであるが、一凶三カ村の構成が一亦されることから、恐らく全五区百六十カ村︵県城内を除く﹀の資料と忠はれる Q 事 実 、 第 一 医 と あ る 村 落 名 や 一 戸 数 が ﹁後城県各区警察所造送一月分戸口統計表﹂︵前秘書第三巻−八頁︶と照合した場合にも、二区・三区・四区・五区の各区内に 見出されるのである Q また治、河南村に関して一調査資料では総戸数を二二六戸とあるが、張姓問凶一戸と諸姓︵一五姓︶の戸数を合算すれば一
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− − 戸 足 ら ず、一一二ハ戸とするのが正しいと忠はれる Q 更 に 寺 北 柴 村 の 均 合 、 総 一 戸 数 一 凶 一 一 ド と あ る が 、 前 恥 資 料 第 三 巻 の ﹁ 同 県 城 県 寺 北 柴 村一戸別調査集計表﹂︵開和十七年三月調・五二四員以下︶では一四OP
で あ り 、 劉 姓 二 三 戸 ・ 抗 体 姓 二 コ 一 一 ド は 末 々 二 一 戸 と 筆 石 は 集計したが、この点はレずれとも判断し兼ねてレる u 的また、第城県村路構成表については布武直氏﹁中間於村社会の格追﹂ ︵ 附 和 二 一 年 −O
月 三 七 六 貝 以 下 ︶ Q 仁井同教授﹁中間の農村家族 L ︵ 閉 店 刊 二 九 年 六O
貝以下︶にも刷秘な発表がなされてし γ る が、福武氏の発表には誤記もあるが、仁丹田教綬によって訂正されてい 1 る ω しかし又、仁井町教授の発表分にも、村名の北闘を 百 円 閲 と し た か き 僅 か な お 記 が 見 ら れ る 。 ⑦附義県村↓治構成表のれ成には﹁中間農村慣行前十食 L ︵ 第 一 巻 ・ 六OR
以 下 ︶ の ﹁ 河 北 省 順 義 県 第 一 一 収 所 符 村 落 の 姓 別 一 ド 口 数 ﹂ −V ︶ 参 照 む ⑦四県村落内最大性戸数の百分比対照表の作成には、牧野興氏﹁中国に於げる家放の村落分布に関する統計的一資料﹂︵家肢と 村落第二輯昭和十七年︶を参照して定県、村数を算出す。また狗亦郷村数は、前江奉化県 N U源 郷 の 引 源 郷 志 巻 山 氏 族 ﹂ を 参 川 ⋮ 引 用して仁井回教授の作成されたものを参汚させて頂いた Q ⑦毛姓村落に就ては牧野氏前和書二三川頁以下参川ら @華北村落でも華中華南と同様に豊かな村務となると同族結合の傾向が強く見られる場合がある。例えば山東省厭城県冷水治荘 では三百七戸の内に李姓百七十一戸、料姓五十戸、利姓凶十戸があり、 t f 拡が全休の六割︶分を占め、日明姓一割六分、利姓一制三 分 で 、 三 大 姓 に よ っ て 九 割 強 が 占 め ら れ 、 同 姓 ︵ 同 排 出 ︶ 集 居 の 傾 向 が 強 い 。 ま た 河 北 省 日 日 数 小 川 町 侯 家 営 の 調 交 で は ︵ 民 国 三 十 年 の 保甲間による。中国農村悩行制査第五巻五頁参昭一﹀同村の一戸数は百十問戸、人口六百八十人。侯家営の名称が一不す如く侯姓が最 も多く、八十四一戸︵七三・七%︶を占め、劉姓一O
、王姓六となっており、華北 m m 村のいずれよりも、間放的色彩が濃いのであ る 。 これに対し山東省息県後夏案では、戸数百三十戸、総姓数十一、その内王姓五一戸︵三割九分︶馬姓三十戸︵二割問分︶円ハ姓十 八戸ハ一割二分︶程度にて、冷水溝荘と対比しても明らかな如く、華北村落の一般に見られる符姓村落である Q また河北省良郷 ( 100)県城での調査︵中国民村山行調究第五巻六頁参照︶によれば、県城内には多少とも同姓戸数の割合の多い村として張家荘︵張妓 約 一 一 分 の 一 ︶ 王 家 荘 ︵ 高 姓 約 三 分 の 一 ︶ の 程 度 で 、 河 北 省 南 部 の 情 城 県 な ど に 比 す れ ば 同 族 村 落 の ニ ュ ア ン ス は 極 め て う す い 構 成 で あ る 。 三 、 家 族 成 員 と
構
成 の 問題
中国家族の成員と構成の論議に関しては、 ① 仁井出教授が倒見に包む所論を発表されている。従来、家族の集団化の ② 専ら論争点となってきたのは、山中川家族の桁小説と非納小説をめぐっての対立である。即ち、縮小説 問題について、 と非縮小説をめぐって、 家族成員が五人前後にすぎないとか、 m品川町同肘家族が軽制できないとか、 という問題点に論 争が集小してきたようである。しかし、 かかる認識ぞ内出領域にのみふみとどまっていたのでは、研究成果の発反は の ぞ め な い 。 何故に歴史的に見ても大家肢が少いのか、 それと関辿して大小山本肢の社会的分布状態が如何に示される のか、の問題点を知ることこそ中国家肢を研究する市安な諜出でなければならない。 以下に近来の小国家族の成員とそれの脱史的抗移を二・三例示しながら、市北投村との比較に於て間出の焦点をし ぼってみたい。例えば、十 A r 摂漢氏が一九二八年河北行定以の五百十五戸の出家を対象とした殿村訓査の結果によれば 左表の如くである。 一 ⑤ 河北省定県農家類別と一家平均人口との関係 農 家 類 別O
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江 蘇 省 江 寧 県 経 済 状 況 と 一 家 平 均 人 口 と の 関 係 経 済 状 況 栴 貧 貧 人 口 総 数 一 五 七 七 二 家 数 三 四 一 四 七 一 家 平 均 人 口 四 ・ 六 肉 ・ 八、
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u 五 二 阿・
£1七 通 八 三O
∼ 品 二 九 六 四 六 六 ・ 四 、 総 五 四 六 . 八 三 計 五O
四 ( 102) 両極の間にある家族の大きさも、 この訓究衣に於ても、河北省定刊と同僚な結果を示している。枢任者の四・六人に対して宮裕者が六・四人を上口め はば氷山の大小に川⋮応した比率を示している。 ここで燃史的に家族成員の統汁を参考にしてみよう ο 勿論中国領土の広大のため現今に於ても精密な人口統計を得 ることは至難である。前んや古代以米の人口統計に粘査を則侍するのは無理ではあるが、大体の指棋を定める参考資 後漢順常時代の戸口統計を参出すると 料となろう。さて、中国家族の戸口統計は泌代より信頼すべき数値を示しているとされている。 いま前浅平帝時代と 統 計 年 代 数 一家半均人口は五人前後となっている。 口 数 四 一 戸 八 平 七⑤均 戸 前 漢 平 帝 元 始 二 年コ
1 A A A a Z 二 、O
六 五 九 、 五 九 四 、 九 七 八後 渋 川 畑 帝 永 和 五 年 九、六九八、六三
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一戸平均五人の家族ということは、前述の李景決、張履驚両氏の調査と悉ど同率の数量を示している。 ⑮ 五 ・O
七 右 の 如 く 、 四 九 、 一 五O
、 二 二O
近代と渓代の間には約二十世紀の歴史的隔離があるが、家族成員数に大差を示さないことは、近来の調査及び法制 為には、父子あるときの生分︵一同識もないし心。 史的研究の立場から考諭すれば、家族机成上、父子二代の同居が多いことである。しかも、成員が五人を越えない 転じて他家に而識をもつこと、即ち家産をもって独立した一家を構成すること である。漢書地理志が最初の出典で、家産分割に於ける一方法で、出分ともいう。︶・売子・殺子・柊子︵子供を奴抑に売ること︶ 次に出宋時代の戸口統計を参照してみよう。 などによる人為的制限、或は州川町九日べ円ト死による白然的減少、戦乱による災厄がその制限の条件となろう。 統 計 年 代 止i 数 府 玄 宗 開 一 冗 二 八 年 八 、 四 一 二 、 八 七 玄 白 ポ 天 宝 一 四 年 八 、 九 一 四 、 七O
九 宋仁宗天聖七年 一O
、 一 六 二 、 六 八 九 神 宗 照 準 一O
年 一 四 、 二 四 五 、 二 七O
右衣によると、出代に比較して前二者はぞ L 多く、後二者は若しく少くなっている。もしこの平均家族数を知一而通 口'
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一 一 戸 平 均 ⑦ 五 ・ 七 二 ⑧ 五 ・ 九 六 ⑨ 二 ・ 五 六 ⑧ 一 一 ・ 一 六 川 八 、 問 凶 三 、 六O
九 五 二 、 九 一 九 、 三O
九 二 六 、O
五 四 、 二 三 八 。 、 八O
七 、 りに受取るならば、山村家族の三位同居以上の累品川同居の凶賊性を恕像しうるのである。惟うに、中国家族の縮小は 孟子の井同学説に瑚芽し爾米、小烈家族は奈川出時代を位地し、その傾向は近世清末に及んだと推定されるのである。 併し又、この府史的過程を通して、士大夫会﹂小心とすゐ日伯山川五十二日和者の上回階級を中心として、大家族制が発達していたことも否定できない事実である。従って、人口統計の示す数量が大家族をも F含めて五人前後の家族成員を示す ととは、中国家族の椛成が如何に極宵と極貧の差があったかを、社会的分布状態のうえから示唆されるのである。 次に金代より明代までの戸口統計を参照すれば、 ト ELl ロ ﹄ t b
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玄 小 雪 日 ・ i i j 金 世 宗 大 定 二 七 年 章宗泰和七年 元世祖至元二年 明 太 祖 洪 武 三 五 年 孝 宗 弘 治 一 五 年 ノ、 、戸 七 八 九 四 数 四 九 七 、 六 八 四 、 四 三 八 一 三 、 一 九 六 、 二O
六 一O
、 六 二 六 、 七 七 九 九 、 六 九 一 、 五 四 八 左表の如くで、渓・山口・末時代と大差がない。 口 数 四 四 、 七O
五 、O
八 六 四 五 、 八 二 ハ 、O
七 九 五 八 、 八 三 四 、 七 一 一 五 六 、 三O
一 、O
二 六 ハ 一 、 凶 二 ハ 、 三 七 五 一 戸 平 均 六 ・ 五 八 @ 五 ・ 九 六 宮 四 ・ 四 六 一 也 五 二 ニO
⑮ 六 ・ 一 一 一 四 以上歴史的に孝察した結川市、概略的ではあるが小型家肢が傾向的であることを認められよう。併しかかる統計表に のうえから考察を進める よ っ て は 、 小川官一家族と大型家族との比較対山ができない。史に社会的分布状態︵社会構成︶ 為には、より特査な制査去を必要とするであろう。 あ り 、 近代に至っても、 さて小型家族が歴史的に傾川的であったとしても、その問、ゴ了凹刊同居程度の大型家族も存犯したことは事実で ことに郎放前夜にも相当高い比ホをもって存在していたことは注意されよう。即ち、本十川駅決 M W J 氏 の 一 九 二 一O
年の河北省定引五二五五戸制査の結果では、 十人以ょが五戸、 最大六十五人が一戸の数最古一ボし、 家族十六人以上が百五戸、 二十一人以上が三十七戸、 またパック氏の七省十六地域 にわたる二・六四O
− P の広範聞の淵査では左表の如くになっている。 大型家族の存在を実証している。⑩ 七 省 十 六 地 方 農 家 家 族 の 度 数 分 布 表 一 家 人 口 一 二 三 家 数 五 七 一 五 一 三
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四 百 分 比 二 ・ 二 ハ 五 ・ 七 一 一 一 一 ・ 五 一 四 五 四 四 九 五 三 八 一 七 ・OO
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・ 二 一 八 六 七 八 九 一O
三 八 二 二 四 六 一 八 四 九 五 八 二 一 四 ・ 四 七 九 ・ 三 二 六 ・ 九 七 三 ・ 五 九 三 ・ 一O
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一 一 一 一 一 二 三 一 二 一 一 一 二 七0
・ 八 三 一 家 人 口 一 四 一 五 一 六 一 七 一 八 一 二 二 二 二 四 三 五 二 七 二 八 二 九 家 数 一 八 六 一 一 四 コ 一 一 一 一 一 一 − 一 − 百 分 比0
・ 六 八0
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四 総計家数 二 、 六 問 。一
00
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此表から得られる統計的意味は、戸数の最多なるものは五人家族︵二0
・ 三 八 % ︶ で あ り 、 四人家族︵一七・00
%︶と六人家族こ四・四七%﹂がそれに続き、このコ一大家族によって総戸数二、六回Q
一 い の 内 一 三 六 九 戸 ﹁ 五 一 ・ 八五万︶を占めていることである。既に述べきたった如く、中国家族の杭成上には貧富と成貝数の問には比例山係が ある乙とが、またその関係は古代より近代に至るまでの歴史的形態であることも、右表のうえから指摘することがで き 令 。 さて以上の統計資料を通して芳察した組問で云い件ることは、単純に家族分裂の傾向や家族成日数のうえからのみ 観るならば、犬家族制度の解体は近来に始まったものではな︿、二千年前の孟子の井田学説以来、家族分裂の剖芽は 見られるのであり、問中同校村の社会に主って十日以上の大川家肢が支配的であったとは云い難いのである。従って 今夏 F ︶こで、崩壊とか解体ということ自体に疑問を抱くもので、 一家六人、五人、四人程度の小型家族は近代家族ど ころか古代家族型とさえ云い得るのではなかろうか。さすれば、小国家族の縮小説と非縮小説をめぐる論争点は、観 ⑪ 点の転回をはかることによって、中国家族制度のより漸新的研究への道が開拓されるのではなかろうか。~
。
。
前来、煩現にすぎるほどに統計資料と制究結果を参出してきたが、解放前夜の華北政村の家族成員の実態を単に統 ⑮ 計的観点からみた場合には、結論的に云って前来と同様な調査報告がなされている。併しこれを社会杭成的に考察し ⑮ 一家旋数名の小型家族であっても、夫婦と未婚子女のみの所謂近代型家族は稀れであって、多くはその た 場 合 に は 、 内に祖父母を含み、又は傍系親をも合むことが珍しくないのである。 ︵日本の農村に数多く見られる家族梢成と全く 同じである︶。従って、小型家族であるからといって、夫婦と未婚子女のみの婚姻群とは限らないのである。労働槌 成・扶養者関係などの構造的に動態的に捉えるならば、小型家族と云えども、そこには大型家族と共通する複合的家 伝 ︸ 族︵大家族的性格︶を見出すのである。大家族とか小家族︵の円o
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日 0 ・ 同 日O
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ヨ ロ 目 。 独 ︶ を 論 議 す る 場 合 に は 、 に加味せねばならない。また、家族成員数が多いからと云って、必ずしも富戸とは限らないことは、華北段村の一特 ( 106) 家侠成員数の立場から見るべきではなく、家族梢成の複合的関係と職能、それを成立せしめている社会的第件を芳察 色 で も あ る 。 さて華北農村の実態制査にも先に述べたような芯味で、三位、四世間居。家口数の二十、三十、四十に及ぶ大型家 股が往々見出されるのである。 以下にその実態を考察しよう。@
第一表河北省築城県寺北柴村の家族成員と戸数対比表 一 家 人 口 一 二 三 四 五 六 七 八 九 一O
戸 数 六 二 一 一 九 一 五 二 二 一 一 一 三 八 七 三 百分比四・四一五・o
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河 北 省 順 義 県 沙 井 村 の 家 族 成 員 と 戸 数 対 比 一 瑚 一 一 了 五一
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00 第 二 表第三表 一 家 人 口 戸 数 百 分 比 占 ノ f u JJ ノ 一 三 ・
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山 東 省 恩 県 後 夏 案 の 家 扶 成 員 と 戸 数 対 比 表 一 二 三 四 五 五 一 − 一 二 二 六 二 五 四 ・O
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一 一 一 一 一 ・ 三 五 一 四 七 一 一 四 計 三 一 二 七 二 ・ 三 一00
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右の対比表のうち、第一一衣の探城県は草北間以村地時としては、同族的結合が割合に強いという、社会杭成上の特色 をもっているが、@
とは云えない。のみならず、解放前夜の華北限村に花ても、 ︵前節参照︶対比一次に一不される度数では、同校的結合の比率がそのまま家族の大小に反映している 四・五人程度の小川叫ん家族が圧倒的ではなく、十日未満の 家族が割合に高い率を示して、いる。 ﹂れは新北限村地桁の経済的貧闘のために小刑家族への傾向を示しているのかも 知れない。しかし十日以上の大烈家族の存在も報告されていることから考えると、大小の家族型を決定する要副が家 族枯成の内部にひそんでいるようである。 このような大型家族の存在を前提としながら、家族机成の内部に立入って考察をすすめてみたい。河北省順義県の 四何各荘鎮の家では﹁三十人位は可成ある。最大は凶十人伐﹂それには﹁代々民業をしている L 家多し。商人の場合は家@
族は少い﹂︵山本氏調査︶。また順義旧小張喜荘では、二百六十一ド中に張性約九十一 Y を占め﹁張 L 米で大家族の家は二十名 ⑮ 位。分家は昔に比べると近年多くなったが、特に事変後多くなったとは忠われぬ﹂︵山本氏調査︶ということである。 河北省楽亭旧派吉祥寺郷では、王郷長の家は四十余人、張廿永氏の家は三十余人、張保長の家は四代同田川二十余人からなり、十人以上の家も﹁非常に多い﹂と報告されている。 ⑧ ︵ 杉 之 原 氏 調 査 ︶ と 報 五 口 さ れ て い る 。 ︵安藤鋲正氏調査︶更に河北省捺城県の ﹁両隙村の張老雅の家 は四十人以上﹂ さて右の調査報告と先の三つの対比表から大家族の存在を前抗した場合、二つの問題が抽出されるであろう。第一 の問題は、大家族が必ずしも常戸︵財産家︶とは限らたいことである例えば↑家族の多いのは郁性約三十人、特に有
@
銭的に非ず﹂と順義県臨河村々長は附合えているが、他にも同様な執告が数多︿なされている。即ち、宮戸に非ずてし 大家族が形成されてレることは、そこに経折的一貨同︵損失︶を械的︵するに足る家族労働の継続が主眼となっている為 @ ︶ と芳えられる。例えば婚跡にしても家族労働者含有るが為の結婚であったり、また附婚が夫権によって日凶に可能で あ司たにも拘戸町一ず、妻を逐出せばその場から生活に回る程の出村家族に在つては、労働力維持が章一要な関心事であっ 第二の問題として、いま見た如く家旅労働を紘推するが為の家族杭成であるならば、大家族であったとしても分家 ( 108) たし、それが家族的秩序を支えている支柱でもあったと考えられる。 ︵家産分割。家族分裂とも呼ぶ︶はあり符ないか。また富一γ
であっても分家はしないか。更に推して汚えるのに、 か えって貧農なればこそ一家族の経済的消引を最小限にくいとめる為の手段として分家を行わないか。と一五うことであ る。しかし﹁分家は昔に比べると近年多くなったが、特に事変後多くなったとは思われ向﹂ ︵ 前 出 山 本 氏 調 査 ︶ の 如 く 解放前夜の華北農村地帯の家族分裂の何仰は出著ではなく、市川 1ろ 不 U 定的でさえある。即ち山東省凶山県の良民は﹁事変@
後とくに多くなったということはないか﹂の問に対して﹁関係なし﹂と答え、稀に分裂何向が者しくなったかの如き印@
象を与える調査報告があったとしても、それを過大視することは妥当を欠くであろう。事実山東省歴城県冷水部荘で ⑧ ︵内田氏調査︶とあり、旧来の理解と知識をもって中国家族の、ことに華北 は ﹁ 昔 も ム 7 三百戸位で家もそう多くない﹂農村の犬家族が急速に崩壊過程にあると論断すとはできない。 しかし
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、中国家族の杭造上の特異性からして、院子︵垣を周回に絞らした地所・庭︶を共同にして累世同居の担をと るならば、分家しても村落総戸数の増加は見られない。河北省良郷山県山村の制査で﹁保叩簿により自然村としての 呉店村に於て十人以上の家族民を擁する者は尚文海・李永治各十人。雨明・業振明・劉謙十八人。同荏二十人である が、実際は劉財・郭樹・買生・同欽・同程・いずれも既にけ十く分家し、ただ院ゴを共同にして住んでいるため一戸と@
扱われているのである﹂とあり、院子を共同にする限り分− hかしても一戸数の増加は見られないが、実質的には家産分割 が行われているのである。 勿論、事北山灰村と云っても、栴めて広大な地帯であるので、地域差や家族梢成の相具、或は医賊などの襲撃から被 ともかく、家族分裂の傾向は、平一而的、日, M附的に見るべきではなく、秘々の条件を芳はしながら山線的、伯球的に、 室口を段少限にくいとめる為などによって、分裂の進行速度には辺辿がはられることは当然考えられるところである。 更には螺旋的にこれを考察すべきであろう。人間の営む向雑な社会集団の研究であるから、立体的な領域から制下げ ていくことが肝要であろう。 ①仁井田陸教授﹁中国農村の家族﹂︵昭和二十七年 Q 東 大 出 版 会 。 九 五 | i 一O
三 頁 ︶ ①中国家族の縮小説、非縮小説をめぐる代表的文献のみを指摘しておこう。先づ縮小説の代表者に加藤常賢博士﹁支那古代家族 制度研究﹂︵五七三ll
五七六頁︶。陶希聖氏﹁支那に於ける附則及家族史﹂︵天野元之助訳。四頁︶。これに対して非縮小説 には牧野巽博士﹁支那に於ける家族制度﹂︵岩波講座 Q 東 洋 思 潮 。 一O
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一 三 頁 ︶ 。 桑 原 隣 蔵 博 士 ﹁ 支 那 法 制 史 論 叢 ﹂ ︵ 一 五 七 1 1 i 二 つ 一 頁 ︶ が あ る Q この間にあって仁井田陛博士﹁唐宋法律文書の研究﹂︵五四四 1 l a 五 六 五 一 良 ︶ は 儀 礼 喪 服 伝 を は じ め 上は周漠史料にさかのぼり、下は明清史料に至るまで広く論証をす h め、中国家族の共産範聞が父子祖孫に及ぶことを論じ、ま たこの形態は立法家乃至法律註釈家のあらかじめ前提としたものであることを立証されている。仁井田教授の所論は中国家族発展の傾向について何ら触れるところがないにも拘らず、大家族の軽視すべからざる所以を曲芸品な史料によって論断された点は中 同家扶制の研究者に強い示峻を与える。筆者も仁井問教授の所論から多大の教一不を受けた。尚、縮小説・非縮小説をめぐる論議 に関しては、清水感光開土﹁支那家伎の構造﹂ハ一一
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一二二頁︶に慨略されている ω ①半景渓氏﹁五百十五農村家庭之研究﹂︵社会学界︶第九一巻六月号・間六点叫 一④張履驚氏﹁江寧県四百八十一家人口調資的研究﹂︵中国人口問題・中国相会学社編紹︶二一O
七頁!|四八一戸の内、一戸は謝 査 中 に 選 出 し た @ ⑤前漢書巻二十八下。地問志第八下 Q @後漢書巻三十三 Q 郡 国 志 第 二 十 三 ノ 五 。 ①旧店主日巻三十八志第十八 Q 地 現 一 。 ①社佑、通典巻七 ω 食貨七。暦代盛衰戸口。 ①馬端臨、文献通告勺巻第十一、一戸口芳二 ω ⑮宋史巻八十五、志第三十八、地理一。 出川市木時代の戸口統計を見て問題となるのは、山口代に比べて人口が大きく減少していることである@その原因として、玄宗皇帝代 の安禄山の叛乱︵七五五︶。次で史忠明の反乱︵七五六︶によって印刷係国の基礎であった均田制や租調役制が崩れ、農民が戸籍 を離れて大土地所有者の下に険れたこと。更には黄巣の乱︵八七四八八四︶による唐の滅亡。華北では短命な五代諸国の興亡 ︵ 九 Q 七ll
九七六︶によって、れ闘制の発達と新興大土地所有者があらわれ、戸口調査が、彼等によってさまたげられた為と 同われる Q ⑪金史巻四十六、志第二十七、食貨一。 ⑫王折、続文献通考巻五十九、戸口考。 ⑬前掲、巻之二十、戸口考@ ⑪図書編第九十巻、国朝民数総叙 Q @ 本 γ 景渓氏﹁農村家庭人口統計的分析﹂社会科学、第二巻第一期八O
頁 Q ドヤ景淡氏調査の河北省定県は華北地批判としては刊族的結合が強く︵前節参︶共同始祖をもっ同族性の強さは、同族構成にも比例 関係し、大家放を形成しているようである。 ( 110)⑬パック﹁支那出家経済研究﹂下巻︵東
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戸前調査局訳四六八・四七O
頁 ︶ パックの調査した地域は次の七省十六日町である。安徽省︵限速・宿・来安・刊紙湖︶・直隷省︵平郷・塩山︶・河南省︵新郎・開 封︶・山西省︵武郷︶・山江省︵鋲泌︶・福建省︵連江︶・江刊紙省︵江得・武進︶この中塩山県と江符県は再調査されている。 ⑬筆者の主張したいことは、旧来中間家族の博成として大型家族が支配的であった如く理解されてきたことに対して、反省を求 めると同時に、二千年前の孟子の井町学説以来︵一五子際文公主句上︶秦・渓・南北朝・円・宋・明・清そして近代に至るまで小 郡一家族が支配的であったことは、大川川家政の崩壊とか分公︵家産分割﹀を論議すること臼休意味が少い。それよりも、や﹄もす れば大型家族の傾向をとりがちな小川家肢が、如何にして五人前後の小川家肢が支配的となったか Q と云う問題を中国社会のも つ社会構造の特攻と併せて理解することこそ市安な訟昧があろう ω 旧 中 国 社 会 の 生 活 械 式 か ら 云 え ば 、 大 山 引 に 家 族 の 中 に も パ 注 目 肢 の 例 が な い で は な い 。 し か し 大 体 は 官 吏 や 地 主 な ど の 生 活 富 裕 者 の 生 前様式が傾向的である。又、小川家族の中にも市者を令むことはあっても、大部分は貧農の生活様式が傾向的である。例えば家 族を小型化︵家毘分引︶ならしめても、開裂なり山山政なりできるところでは、日公に於けると同様に、貧民に於ても家族分裂の 可能性は多分にあるのである Q ⑬華北農村慣行調査に基き筆者が作成した結県を例一ぶしておこう Q 河 北 省 順 義 同 片 山 沙 井 村 戸 口 統 計 一 戸 数 ︵ 七O
﹀口数︵男一九三 ω 女二一四 u 計 問 。 七 ︶ 一 戸 W 十 九 ︵ 五 ・ 八 ︶ 河 北 省 順 義 川 町 大 東 庄 村 戸 口 統 計 一戸数︵一四六﹀口数︵男四三O
@女間三八 Q 計八六八︶一一戸平均︵五・九︶ 右表は﹁中間農村慣行調査﹂︵岩波書店第一巻︶六O
||七二頁併せて巻末附表の﹁順義県沙井村戸別調査集計表﹂︵民国三十 年十月三十一日現在︶を参照じて筆者が算出したもの Q また華北農村でも刊族結合が強いど m u われる川北省総城県の調査を兄ょう Q 河北省築城県第一区西大街村一戸口統計 戸数︵四O
三︶口数︹男一OO
三。女九三八 Q 計一九同一︶一一戸平均︵四・八﹀ 河北省築城県第二区三十一カ村戸口統計 戸 数 ︵ 四 、O
一二九︶口数︵男一二、一五三。女一O
、九九八 J 計 二 三 、 一 五 一 ︶ 一 戸 平 均 ︵ 五 ・ 七 ﹀河北省山梨城県第五区三十一カ村戸口統計 戸数︵四、七三六︶口数︿男一四、一五三了女一三、一八三。計二七、一二三六﹀一戸平均︵五・七︶ 築城県の統計は﹁中国農村慣行調査﹂第三巻一八頁所収﹁陣地城県各区警察所造送一月戸口統計表。民国三十一年一月二十九白現 在﹂より筆者が算出作成したもの。||統計数量のうえからは、華北段村地帯は小塑家族が大部分を占めていることが知られ る Q ⑬ 近 代 家 族
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自己可この概念は歴史的形態上、家父長制家族に対するもので、権威主義的家放に対する民主主税的家族 ・家族主義的家族に対する倒人主義的家族であって、形態からすれば夫婦ど米燃の子女のみからなる所刻家族的核E
自 己 主 口E
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だけの家紋であり、家族成員からいっても小規模である。ここでは家族を構成している社会関係の中心が親子関係では なく、むしろ夫婦関係におかれ、相互の愛情に基礎をおく結びつきをなしている ω その特徴は結合が制度的に社会的圧力を受げ ることがない。愛情と合訟に基く配偶者の選択・付知後の親子別居・夫婦平等の原則・家族会議の尊重・最大限の個人の自由な のである。しかし反面、純粋に個人的愛情と立志による為に、献川附率も高い Q ⑫拙著﹁中国農村に於ける法立識の変革﹂︵身延山短大学報三十一号・七六||七七頁﹀ Q 中 国 農 村 の ’ 米 放 的 秩 序 を 支 え て い る のは家父長的構成であるが、その家族の従属関係︵身分的法作関係︶は家長と家族︵父と子・妻・娘・養子・婿︶の間に、多分 に労働力の継続的把握、又はその支配をねらって規律だてられた諸関係がある Q @﹁中国農村慣行調査﹂第三巻五二五 1 五三三頁 ω 別表﹁州市城以寺北柴村戸別調究集計表 i 二昭和十七年三川・民国三十一年︶ を参照して筆者が作成した対比表・寺北柴村の総一戸数は一四O
戸 で あ る が 、 調 査 に 当 っ て 、 劉 徳 一 元 ・ 徐 五 一 寸 ・ 徐 福 玉 の 三 戸 は 不 明 u 徐侯氏は村外に嫁して不在 ω 劉 洛 玉 は 老 哀 し 一 一 百 訴 不 明 に て 結 局 一 三 五 戸 が 実 態 調 査 の 対 象 と な る Q ⑫﹁中国農村慣行調交﹂第一巻六O
||七二百 ω 及び別表﹁順諮問山沙井村戸別調査集計表﹂︵民国三十年十月三十一日現在︶を参 照して筆者が作成す Q @﹁中国農村慣行調査﹂第五巻 ω 五五七 11 五 六 三 一 頁 ω 及 び 別 表 ﹁ 山 束 中 日 凶 山 県 後 夏 実 戸 別 調 査 表 ﹂ ︵ 附 和 十 七 年 五 凡 1 1 六月︶を ゑ服して筆者が作成す Q 調査戸数中不問凶戸 l l L L寸存義・説例氏・劉長沼・孟非公がある Q ③同族的結合の大小と家族成員との関係の一例として、山束中引朕凶川県冷水洗荘は三百七十戸内・宇佐一七O
戸。的姓五十戸 ω 謝 性問十戸を占め、同放結合が強いが、そのまま大家族へと述るかと云えば、そうではなく、﹁保甲簿を見ると二人三人凶人くら レの家族が多いが、これは分家したもの||三人・凶人が官通である﹂︵中凶出村似行調査四巻五七頁︶と報告されている。⑫山本斌氏調査﹁中国農村慣行調査﹂第一巻二頁参照。 ⑧山本斌氏調査前掲書十六頁。また順義県第七区牛欄山鎮では﹁事変前では二十名近くあった家が二・三十戸あったが、事変後 は土民を恐れ分家するため今では多い家族の家なし。・・::::事変前の大家族の家は商農又は背の秀才の出た家等に拘らず、又 山日貧に拘らず、仲が良い家は人が多った﹂︵前倒書一巻二十九頁︶と報告している。 ⑪杉之原舜一氏調査 ν 前 相 白 書 第 三 巻 七 頁 。 ︵ 川 和 十 七 年 二 月 二 十 六 日 ﹀ 参 −
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品。順義県第四区山河村︵山本氏調査︶。前知書第一巻三十七頁 Q 大家族と日貧との関連について、﹁家旅の多い家は概して官戸 か 1 l t 必ずしも然らず。不一定﹂︵順義以紅寺村 u 山本氏調査 ω 第一巻六頁︶﹁大家族は二十一二一名。それは必ずしも宮戸と 限らず、家庭内の感情のよき家﹂ハ山木氏・第一巻二十頁︶。ともある。 ⑨拙書﹁中国農村に於ける法芯識の変革 L ︵身延山短大学報第三十一号七七頁以下︶家族労働力を維持するための姉姻・離燃の 意義を華北渋村の実態調査から例示してある。 ⑨内回智雄氏調査 ω 山 東 省 関 山 県 後 夏 実 ︵ 開 和 十 七 年 五 月 三 十 日 。 前 科 書 第 四 巻 四 五 二 頁 ︶ ⑮河北省順義県沙井村︵本田・小沼両氏調査︶﹁分家は最近多くなった Q 父母が死んだら殆どする﹂と符えているが、﹁父母が 死んだら﹂と云うのは﹁父母生前に﹂と云う答えではなく、殊に同地に於て内田智雄氏の調査で別の農民に分家の多少を聞いた 所が﹁少い﹂と答えている。又岡県回回目日︵同教徒部落︶で山本氏調査でも﹁近年分家は多からず﹂となっている。 @内田智雄氏調査 Q 山 東 省 医 仙 川 県 冷 水 前 荘 ハ 前 科 書 知 四 巻 五 十 七 頁 ︶ ⑮早川保氏調査。前仰向書第五巻四六二頁 Q四
、
結
語
と
A、 ア後
の 研 究 課 題 中国の同族と家族との相瓦関係は中国社会を理解する北一本線の一つである。筆者はーーその杭造的、社会的条件に 深く立入り論議する所は少なかったが||或る程度そのmM
につとめてきた。 従 来 中国の血縁主義 ︵ 族 的 結 合 ︶ は極めて強力と理解されてきたが、 同族的結合が大とされた華中華南でさえも、絶対的な大きさは示していない。とりわけ華北農村に在っては||数日以的分布状態は||極めて弱い結果を示し て い る 。 また同族︵宗族︶集問の底辺には個々の家族があるが、筆者は統計的に見て、近年にわかに大刻家族から小型家族 への変化||家族制度の崩壊説ーーには否定的ひ一坊を主張したい。かえって井町学説以来、二千年来小担家族が数量 的に支配的であったことを指捕したい。 さて前節来の外形的、数量的考察からは、大略の概観は捉え得ても、中国家族の実態と杭造を但挺することは難か しい。そこに筆者自身、今後に伐された幾つかの課題があるが、前米からの数日明的研究に関述して問題を掘り下げて 芳えてみたい。 第一節に於て、不北農村の同族的結合力の弱さを数量的に山握したが、 しかし、その結合力の弱さが何故に傾向的 く114) であるのか、の問題にはふれなかった。惟うに同技結集力の強弱は、族長の支配桁と対応的であると考えられるが、 決定的な要因は族庄の多寡と結合設識との関係であろう ο 即ち同族和集機能としての族産︵祭川又は殺位地・義荘・ 義
m
−宇田・塾回・族問・族袷X
は宗譜︶が同絞結合カの強弱を左右すると考えられるが||勿品川、軍北にゐっても 族同が一本相で族譜がなくとも、河北省山県城県寺北山市村の如くいい川合力と族長松威の強い地域もあるがI
ー ー 族 庄 は 同 族 結 集力の内部から出来上ったものであり、これらが同組問族意識︵同族規悩﹂を呼び起し、同族結集の機能を果すこと によって、循環的にその結果皮を強める傾向があることは育めなャ。つまり、華北民村に於ける刷族的結合力の考察 も、単に数量的立場のみではなく、機能的な立場︵同族規範︺から考察をすすめることが重要であろう。 また大型家族とか小型家族と云っても、単に数量的立場からすれば、そこに累世間居︵大型︶と近代家族︵小型︶を予恕し勝ちであるが、しかし質的区分に立入って考察するならば、大烈とか小引の両者の限界は却しい。即ち. ク ラインフア 5 リ エ ︵ 町 内