予
の
安
心
立
命
北
尾
日
大
緒
..=.. 邑 たとひ位・高貴を極め、富・天下を墜するも、若し人にして正信正解在く、安心立命無くんば仇に基無きものであ る。予は宿一雨深厚にして熱烈たる法華日蓮の家庭に人となり、二十歳出家得度し、宗門の謬林へ墜び、品川二歳母校の 日蓮宗大串中等部教授に就任せしより以来、自他の安心立命の震に信心と行皐を修し、教育著述謁文及布教にも従事 したのである。予の安心立命は予の信解行詮、自行化他の進歩につれて向上哲民して来た。畏れながら樺曾は八十で 浬繋せさせたまひ、紳武天皇は百三十七で崩御遊ばさせたまひたが、明治天皇‘日蓮聖人は六十一歳で沿占なくなり遊 ばされた。私は本年六十三‘老て各々盛なりと評するものあるも飴命長くはあるまい。よって現在に於ける私の信解 と安心決着の諸点を述べて‘私の生命の立脚地を詑するととにした。一
、
教
皐
観
に
於
け
る
安
心
法問外無景一なりと雄も一心と寓法との封立花過ぎない。そして一心寓法を解説して物心二面に於ける人間同家の文化 を開殻し向上せしむるものは敬法皐問である。所修の壊について敬といひ、能修の人について墜といふ、叉は能化に 予 の 安 心 立 命 A 五予 の 安 心 立 命 八六 約して教といひ、所化について皐といふ‘教と壊とはただ能所の相呉のみである。 世界に於ける敬皐は無数ある が之れを大別すれば同種と・なる、科歯学の敬、背撃の敬、遺徳の敬、宗教の敬である。科皐は専ら自然現象、現賓の事 理を研究して吐舎人類に多大の使谷と幸一晒とを興へ、所調近代文化の花として必修の事問であるが、未だ宇宙の本休 心霊の本質を究明せや、また若し之を悪用せば岡家人類の文化を破壊するととさえある。 村 思 T . い ま 折 H 壊とは専 ら西洋の背壊を指すのでソクラテス、プラト l 、アリスト l ト ル 等 の 古 代 軒 目 撃 よ り 、 カ シ ト 、 へ l p ル 、 ス ピ ノ ザ l 等の近世背壌に至るまで、科事以上に宇宙の本休‘間家人類の本質を説明する高尚な串間であるが、未だ共の極設を 顕してゐたいのみたら十‘共の設く所高級にして一般人類を指導する上に於て欠けてゐる。 道徳叉は倫理の最勝 たるものは支那の孔子敬ハ儒教︶ である。儒敬は易経の如き哲撃の方面もあり、四書五経の中には宗教的要素もある が五倫瓦常人遣を設くのが本領である。併し共設く所が現在に止って過去を設かや未来を設か歩‘人間界のみを明し て 天 の 内 容 も 紳 の 本 質 も 詳 読 し ・ な い か ら 、 其 の 闇 申 設 は 徹 底 し た い の で る る 。 宗敬とは宗の敬である‘宗とは宗旨・宗要・宗極・大宗等と熟語し、園家人類に取って無くてはならね肝心肝要の 教 関 申 を 宗 教 と い ふ の で 、 ︵ 宗 乗 で い ふ 宗 旨 に 劃 す る 宗 教 で は な い ﹀ 科事哲曲申道徳以上の慎値と穣戚を有するものでるるが 世人が一般に宗敬と稿する内には野盤、牟聞のものあり、迷信搾嗣邪敬と名くべきものさへある。文明的宗教と稽せ ら る a A ものは禍太敬、基督敬‘回敬、婆羅門教、印度敬‘俳敬、酬明鴫敬、道敬、紳遣の九︵若し儒殺を宗教とせば十︶で あるが、中にも備敬、基督敬、回敬は世界の三大宗教である。併し現在我闘では紳遣を加へ岡敬を除き・榊僻基三救 が 日 本 の 三 大 山 一 不 敬 で あ る 。 基督敬は紳の漏り子と稀せらる a A 耶蘇基替によって開かれたる宗敬で、榊と子と精謹を以て三位一体とし‘紳に封
する信と.人に封する愛と、天国に封する望とを三大モットーとして、高閣の人類を救はんとする大宗殺であるが、 共の聖書に設かれたる紳の観念が不透明であり、一脚天地官同物語化説も亦不道理であり、人間原罪読も亦奇怯の設であ り、道徳論も不完全でるり、特に共の偏狭なる車一一紳硯は日本の閤慌にも衝突する、また脊率的方面も貧弱である、 西洋では最勝の宗救ならんも到底東洋の悌敢に比すれば宗救・哲事・道徳の三方面とも・劣ってゐる。 日本の神遣は皇岨天照大紳を根本隼とし、共の皇孫に賜ふ川の三種の帥器を至賓とし・共の蔦世一系天壌無窮の紳 勅と、紳武天皇の養正・重一陣・積慶の三救を聖救とし・古事記・日本書記を歴史的経典とし、所謂市内閣無比の闘悼を 明微にし大日本精紳の淵源を敬一不するものなれば、有くも生を我固に受くるものは神道を信仰し研究せねばならない。 併しながら悌救の如き経典たく、宗殺。哲曲申・道徳が伸救の如く深遠買大に詑かれてないから、世界的宗敬としては 安営じない点がある。然るに明治以後の我闘の政治者等は神道を患に宗教と見守、紳道を二分して紳枇神道と宗祇帥 活︵十三波﹀とに別ち‘一柳枇紳道は宗救に非守、宗救を超越してゐるものとしてゐるが、吾輩は一仰枇榊道も亦一居等き 意味に於て日本同有の宗救であると認めてゐる。との点は予と同郷の先輩故川合清丸氏の日本岡敬大清一世︵神儒仰コ一選 組 立 ︶ の主張と粗一致してゐる。何となれば宗敬とは紳と人との交渉叉は仰と人との結合に外ならないからである。 吾等が伊勢大廟等大小の紳枇に参拝して H K 敬躍を行ふ営問、少くとも大日本的敬紳の宗救心は油然として湧き、大和 橿原一脚祉の批踊に脆づくとき国民的忠世れ愛閣の信仰が明瞭に起るからである。 併殺は印度の大聖路掌に依って創立され‘支那朝鮮を総て日本に侍来し、日本に於て共の精髄が護揮されたもので あるが、経容は五千︵草間諜︶七千︵新諜︶飴巻るり、救法は華厳・阿合・方等。般若@法華・浬繋の五時、蔵・通・別・ 国・化法の問敬、頓−漸・秘出向@不定・化出の四敬、大小・偏固・擁賞、所詞八高四千無量の法門があるが、悌陀出 予 の 安 心 立 命 八 七
予 の 安 心 立 命
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世の本懐・衆生成品開の直道は純国一賓の真理を設ける法華経一部八巻廿八品︵漢諜に依る V で b る。何となれば伸敬と は併と人との交渉.人と僻との結合が悌敬である。然るに阿含鹿苑の三蔵小乗は一疋ふまでもなく、四敬誼設の方等 ︵ 回 開 土 民 言 三 部 経 毎 ︶ 部 の 諸 経 も ‘ 般 若 華 最 の 大 乗 も 向 人 が 昆 貰 に 成 悌 せ 守 、 帥 の 宜 体 が 光 山 制 さ れ て た い か ら で あ る 。 所 謂 所 化 の 敬 径 ︵ 二 乗 成 仰 ︶ 金 か ら や 、 能 化 の 賞 事 ハ 久 遠 賃 成 ︶ が 顕 現 し ・ 泣 い か ら で あ る 。 然るに法華経を二大分せば前牛を漣門、後今を・本門と稀す.述門の中心は方便品、本門の中心は如来書量日間である 方便品にて諸法の賓相が明されて所化が成伸し‘寄量品にて久遠質成が顕はれて能化の備の露両目が現はれた。そし て法華経は一往は在世の矯め在るも再往は滅後、中にも末代我等の震に設かれたものである。而して減後末代の化導 は弟子の菩薩に委任して浬探せらる L ので、末代の化導は本怖の高弟本化上行等の菩薩に付蝿せらる L のである。と の付帰の事は法師賓塔に事起り‘涌出書量に事顕はれ、紳力嘱泉に事寛るので之を起顕寛十三口聞といふのであるが‘ 尤も肝要たるは控門より本円であり.中にも涌出品から蝿異口問まで本化在座の八品が大事である。更に涌出口聞は本悌 と本化との闘係と本化の人格が明されてるるので肝要であり‘分別功徳品は如来書量口聞の本伸に封ずる信解と妙法蓮 華艇を修行する方法と共の階段と人絡とが明されてあるので肝要であり、法師功徳品は法華経の行者の偉大なる功徳 が明され、世法即働法の妙法が設かれてるるので肝要であり・不軽品は末代の行者の献身的折伏逝化の模範が示され であるので肝要であり、紳カ品は本伸樺隼の妙法蓮華経が本化上行の手に渡る一大敬相が明されてあるので肝要であ り、特に如来書量品の一品は以上の法門を組括する最高の本悌の無限の智慧と無限の慈悲とを内容とせる無限の生命 の貰相が光顕されてあるので肝要中の肝要である。妙法蓮華経の題目は廿八品に冠せられてゐるが、妙法蓮華経の詑 明が徹底したのは如来書量品であるから本門書量口聞の肝心妙法蓮華経といふのである。との妙法は我等衆生の纏てが絶針に蹄命し師依し渇仰せねばならねものたるが放に南無の二字を冠し、セ字の題目が成立するのである。 書量品の肝心、本門の肝心、 法 華 一 部 の 肝 心 、 一切経の肝心なる妙法蓮華経とは何ぞ.ム口営二家の論者に述べられ たる例は多方面であるが‘名体宗刷救の五草玄義と.敬理行巣の四一に約して控べるのが要偵を得る。妙法蓮華経は 若し名に約せば法雲 H 疋口広最勝の形式である、若し体に約せば法華乃至一切経の本体、 一 大 法 凶 作 の 組 体 で あ る 、 若 し 宗 に約せば最勝の宗旨であり、 一乗の因果である、若し川に約せば逆縁下種の密徒、順縁熟院の妙別である、若し敢に 約せば無上最勝の大致、末代救済の憲散である。又若し救法に約せば世界に於ける一切救撃の頂上である、若し理法 に約せば十方三世を一貫する普遍安営の絶封真理である、若し行法に約せば諸善高行を組括せる一法である、若し果 に約せば本伸謹俳・紳明聖頂の本体又は悟り、心である o 之を要するに思想の華、文化の棋である諸の敬事中には伸救、俳敬中には法華経、法華経中には八品、八品中には 書量口川と分別口聞と紳力品、中にも書量口問、而して書量品乃至一切救撃の心髄は南無妙法蓮華経の題目なりと信解する は予輩の救壊に於ける信解と安心立命である。 但し以上は従湾、五深、拾劣得勝の法門談活であって、若
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一 度 法 華 経 本 門 書 量 口 問 の 妙 法 蓮 華 経 が 光 出 願 さ れ た 上 は 之に順催する一一切の法門準設は、梯法と世法とを問はや,、内遣と外道とを論ぜ守、之を修事し之を臆用して多 KM 倫 k 使十べきものなるととは勿論である o二
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思想・併設・貧験等を以て宇宙法界市内有を観察するに賀に無量無謹にして共の本体現象の全部を正確に認識すると 予 の 安 心 立 命 A 九予 の 安 心 立 命 九 0 とは五口等凡夫には到底不可能に属するが、之を総括すると既辿の如く一心と高法との封立に過ぎない。而して一心は 主税の妙法にして高法は客観の妙法であるつそして若し之を縦に時間的に大別すると過去の法・現夜の法・未米の法 の三極となり、更に過去現在未来に各三世の法ありて九世の法となり、若し三世九世を一括する制法を立てば十世の 法となるのである。若また之を杭に昼間的に大別すると地獄・餓鬼・世間生・修羅・人間・天上土防聞・総畳・菩薩・ 仙 陀 の 十 回 介 と な る o 最悪の世界は地獄凶作‘食欲の世界は餓鬼凶作、思痴の世界は高生界、闘争の世凡は修雑界‘平和の 世界は人間界、快嘆の世界は天上界、聖者の聾を聞いて無常を感やる世界は韓関界、向然現象を悶じて無常を感やる 世 凶 作 は 縁 由 党 回 介 、 献 身 利 他 の 世 界 は 菩 薩 回 介 、 自 先 覚 他 倒 議 口 の 世 川 外 は 帥 陀 間 外 で あ る 。 以 上 は 大 法 国 外 に 遍 布 す る 別 在 の 十 界 で ② る が 、 更 に 五 共 の 十 国 外 と 己 心 の 十 日 外 が あ る 。 五 共 の 十 回 介 と は 地 獄 界 所 共 の 十 回 介 、 俳 界 所 兵 の 十 回 仲 で あ る 、 共 の中人文史上に現はれ、五日人が直接見聞し得るものは人間界に於げる十界である、即ち鯉傘は悌界‘天親龍樹天台日 蓮等は菩薩周作、迦葉等は縁畳、舎利弗日連阿難等は聾問、諸天小説日紳等は天上界、忠臣孝子志士仁人等は人間界、蒋介 石等の魔軍は修羅問介、愚痴蒙昧の野賢人等は高生界、乞食非人賎民等は餓鬼界、極悪の罪人死刑問等は地獄界、更に 大正十二年九月一日、二日闘東の大震火災の際には明瞭に地獄兆が展開されたのであった。己心の十周知とは五口等が心 に内在せる十界で、晴る心は地は、食る心は餓鬼、恐かな心は高生.争ふ心は修議、平和恋心は人問、禦む心は天上 ’ 純 一 常 を 感 ・ ヂ る 心 は 縁 莞 韓 問 、 利 他 の 心 は 菩 薩 ‘ 白 血 品 質 他 ・ 大 慈 悲 心 ・ 大 智 慧 心 は 伸 陀 で あ る 。 さて十回外に各々十兆を共して百兆の世界が展開し‘百間外に更に各 K 十如是ハ相・性・賠・ヵ・作・因・縁・果・報・ 本末究立等︶を H A ︵して千の世界が成立し、千世出外に更に三種世間とて五陰世間︵色受想行識﹀と衆生世間︵動物界︶と 岡土世間︵植物界と鎖物田仲︶とを共するが放に認に三千の世界が作在することになる、とれを十界三千の諸法ともいふ。
而してとの十界三千の諸法は五日等の一念に共有するのである、これを一念三千といふ。 そしてとの十界三千の 諸法は一も同定的のものはない、 一念の持ち方により、善因善岡市悪因悪果、悶果必然。法則によって無始無格に鑓化 差別窮まりないからである。叉十界三千の諸法は現象としては鑓化無常窮まりないが共本休は常性不鑓にして平等で ある。とれを常同常別といふのである。常何の方面を宰といひ、常別の方両を般といひ、常別に即して常同、常同に 即して常別なる方闘を中といふ。市して宰も絶封、仮も絶対、中も絶封、之を岡融三諦といひ、その観念友一心三視 と い ふ の で あ る 。 如此十界三千の昼間の諸法は東西南北問維上下十方に於て無長無漫にして共の究極は到底 E H 人の認識を以て知るこ とは不可能である。時間の無始無経は誰人も肯定する所なるも‘共の無始の時間.無絡の時聞は亦凡慮の及ばざる所 で あ る 。 而して如此無限際の時間、無謹際の宰問、即ち三世十方の一大法界の中心に肢在して無限の智慧と無限の慈悲と無 限の生命とを以て常住不断に糟じでは一大法界、別しては近く世界人類を平等に車み支配し敬へたまへる主師親三徳 兵備の最高統括曾即ち法界濁一無比借時点の大木曾は、賀大乗法草木門需品一口叩所顕の一大本帥なりと信解するは、予輩 の法界観に於ける安心立命である。 別 花 の 十 回 作 に つ い て 詳 − 誌 を 製 す る が 、 そ れ は 河 合 目 反 附 の ﹁ 立 正 安 閑 論 賛 鎚 ﹂ 山 手 の 如 く で あ る 、 ん , は 之 を 略 す る 。 予 の 安 ・ C . ・
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十界中、人間界は上からは六番目、下からは五番目でるるが、ざっと宇宙法界の中程に位してゐる。西洋の製設で も悌救の皐設でも天上界の太陽が既に無敢に官在するから‘その周聞に在る人間世界ハ洋製では地球といふ︶も亦無敢に 存夜するので、之を或は三千大千世界といひ、或は無量世界と稀する。而して現在吾等が棲息してゐる世界は共の一 部分で、併殺では南閤浮提といひ、世間では地球、東洋同洋、五大洲等と稿してゐる。勿論人間界といふも非情の植 物鎖物あり、有情の動物︵高生﹀も居るが、共の主体は寓物の霊長と一五はる L 人間であるから人間界と名くるのであ る。
一念三千の原則で、人聞の本性には先天的主観的に聖凡迷悟善悪邪正の性を具してゐるから.客観的後天的にも袈 者凡夫善人悪人悟者迷者無量の人間が存在してゐるが、之を大別すると十国外に分類するととが出来るととは既速の如 くである。此の人界の十界については辰師の﹃立正安閑論賓鑑﹄が一呑詳しいやろであるが、今は﹃費鑑﹄にも引用 せる元政上人の草山集第十八容に記する人聞の十界の詩を出すに止める。 ホ シ イ マ 、 少 さ 、 五選及ヒ十悪縦ヲ心ヲ段 d 大 乗 寸 縮 テ 無 山 働 法 借 サ 荷 げ テ 恩 ヲ 不 レ 思 レ 報5
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︿ 地 獄 旧 作 ︶ 不 信 一 一 メ 不 レ 孝 日 親 = 貧 け 他 ヲ 集 メ テ 師 山 我 邪 見 謡 曲 ノ 心 曾 テ 無 山 知 ︵ 餓 鬼 界 ︶ 痴験 a y 不 レ 知 げ 耽 ァ 念 念 耽 計 五 欲 利 げ 己 レ 7 絶 叫 悌 昨 日J
他 ヲ 貧 け 多 ヲ 無 訪 日 肌 足 ゴ ー ︵ 高 生 界 ﹀ 念 念 雄 日 修 日 ト 善 ヲ 猪疑毎 a 満 山 胸 見τ
賢 ヲ 亦 タ 不 し 悦 高 山 己 レ ヲ 欲 山 人 ノ 従 咋 1 ヲ ︵ 修 羅 界 ︶ 至 誠 勤 計 五 常 ↓ 深 信 崇 さ 一 由 民 未z
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世 襲 ノ 心 ↓ 輪 ニ 特 ぇ 八 苦 ノ 道 ︵ 人 間 国 外 ︶習 げ 蹄 ヲ 修 計 十 善 イ 寵 円 戒 思 包 無 凶 邪 マ 主 口 略 夕 日 つ会主.,,, ノ、 F・寸3カ タ
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人 ヲ ハ 縁 畳 界 ︶ 寓 境 是 レ 中 道 一 心 淡 河 町 畦 ザ 深 グ 知 て 諸 法 ノ 妙 イ 更 入 =予 重 』,_. ・"' 門 タ立?捨
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4ヲ 悔 ︵ 菩 薩 間 外 ︶ 我 ガ 心 内 田 疋 レ 衆 生 我 ガ 家 n 日 疋 レ 法 界 各国作に於ける人物の貰例は前の法界観の下に略邸弔する如くであるが、此中働界菩薩界乃互主口等の模範とする聖賢は 我闘では政治方面?天照大紳、一肺武天皇、神功皇后、鹿紳天皇.桓武天皇、聖武天皇、後醍醐天皇、聖徳太子、藤原 鎌足、菅原道官、和気清麿等。宗敬方面で偉救大師、日蓮聖人.日像上人、日親上入、日朝上人等。軍部にては楠正 成、加藤清正、東郷平八郎等であり。外闘にては印度の樟等、阿間世玉、天親龍樹、阿育王等、支那の莞舜、文武、 周公、孔子、孟子、諸葛孔明、文天群‘天台妙業等、治太の基替、希臨のソク一フチス、調逸のルlテル、ヵント、米 同のワシントシ等であらろ。 然るに平凡なるもの.邪悪の人聞にも本来伸性を具するものなれば、精々ムレヰ u 知識に遇って伸法を聴き、信心と事問 ーと行道とを修して本有の僻性を開殻せねばならね。時迷開悟離苦得壊は死後よりも生前に必要である。 一念悪心を起 せ ば 獄 卒 杖 を 振 ひ 、 一念善心を生ぜば諸仰蓮台を傾く。悪因は必や苦果を感じ悪遣に晴づ‘共の極点は地獄である。 者 因 は 必 守 勢 ・ 果 を 招 安 − 善 道 に 昇 る 、 共 の 極 点 は 伸 界 で あ る 。 苦 旧 市 は 誰 人 も 好 ま ざ る 所 、 副 業 報 は 市 内 人 の 欣 求 す る 所 で あ る ο 心ある人問、求道の入、須らくE
法によって五信に入り・更に正智正徳五勇を獲るととに勇猛精進せねばならなv
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予 の 安 心 立 命 :h.予 の 安 心 立 命 九 四 凡そ人生営面の目的は種 k 様々であるが、最高の目的は自らも紳になり仰になり、他をしても紳となし仰となさし む る に − あ る c 向上の志ある大丈夫須く小成に甘んじてはならない。 さて話は前に踊るが、現在の人間世界は何時頃成立し、現在如何に経化し・還に将来は如何にたるかといふに、先 づ西洋の皐読では現在の地球の形成期は約四億四千高年以前にありて無生物時代である。約一億六千高年以前に初め て
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物川来‘約二千高年以前に初めて人類出生す、云?と設ひてゐる。 伸教では物の鑓化を生性異減、人間の鑓 化を生老病死、世界の鐙化を成住壊空の問劫で説明する。成は成立時代、住は相績時代、壊は破壊時代、宗は空虚時 代である。現世界成立時代は西洋の謬説以上に古いやろである。そして共の住劫時代に更に進化時代と退化時代とが あり、現在は退化時代で‘般ひ物質文化は進歩すと難も、地球も人間も退歩の過程にあると設かれてゐる。故に出来 得る限り人聞の文化を護展さして世界そのもの L 退化を減少せねばならぬといふのである。委しくは菰に述べがたい。 尚一言人間の生死のととを述べると、凡そ寓物は其の営相は時々刻 k に鐙化し無常なるも共木休は常住にして不鰐 である.人間も亦然りである。肉障も心霊も其の相用は常に費化し越に死滅の期あるも、共の本体は常に不純慣にして 生死を超絶してゐる。しかも無形の心霊の不死常住は有形の肉障の如くたらや、それ自体を全ふして不死である、肉 障は焼けば骨となり友となり.埋むれば土となる‘心霊は一時死によりて肉障と離れ、その作用を停止するも更に若 千の時間の後、新しき母胎に宿りて十ヶ月の後再び人間とたってくるのである。そして生前に於て寸前生の如き生活を せるものは必然的に牛馬犬猫の胎内に宿り、普通人聞の生活をせるものは再び人聞に生を受け、同じく人間に生を受 くるもの L −中にも、信心ありしものは信者の家庭に、不信心のものは無宗敬の家庭に、曲学問を好めるものは智者と生 れ‘殺生を好めるものは短命多病と生れ、慈悲心ありしものは長命のものと生れ、眠惑の人は醜くき容貌を受け、賃欲のものは貧窮者と生れ、施しを好むものは富者と生れ、人を敬ふものは貴人と生れ、人を軽んやるものは下賎のも のと生れ、心の弱きものは多く女人と生れ、心の強きものは多分男子に生れ‘人を殺害せしものは人に殺害さる L 果 報あり、不品行たるものは夫婦問不和の果報がある等である。而して共の樽生の期間は一七日・二七日・乃至・五七 日・七七日であるといはれてゐる。葬式は勿論普通七日・七はの迫善供養は専ら肉瞳より放たれたる亡霊を善導し向 上さする目的に外在らない。その死より生に至る聞を中有といふ。但し極善極悪のものには中有がない、極悪のもの は死とともに堕獄し、制善のものは直に成仰するからであると設かれである。 故に一口に迫善菩提の法事と云ふも七七四十九日中陰の弔ひが一番肝要である。 一周忌以後の迫普は多分迫壊のた め謝恩のための意味が強いととになる。但し誌に疑問があるのは、既に碍生せるものに封しては迫善の必要が・ないで はたいかといふのであるが、五口等は凡夫で時生未開生が不明なれば、兎に角埠善菩提を修すれば可なりである。そし て若し既に時生せるものに封する回向菩提の功徳は一一押して共の再生の人の塙に現世安稔の祈稽にたり、共の功徳は 何れにしても効果はあるとされてゐる。例へば人るり遠方に遊墜せる子の病筑療養費として余若干を送金す、若し病
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未だ快癒せざれば正しく治療費となり、若し快癒後友れば皐資に特別せらる L が如きであらう。位牌墓石等に封す る糊念亦之に準じて知るべきである。 但し以上は凡人について云ふ、帥菩薩榊明等に封する法要回向は‘放桝善導の意味でなく、報思惑謝、迫慕温懐、 法 脈 相 槙 等 の 意 味 に 外 な ら ・ な い 。 又更に現在の世凶作特に日本に到する観念としては、要するに現在の世界各聞は概して物質的文化は進歩するも精神 的ん一不敬的道徳的文化は退歩してゐる。されば各国とも口に筆に正義人道を唱へざるに非ざるも宜際は縦横に機謀術策 予 の 安 心 立 命 :Jr. 五予 の 安 ,r,、, 立 命 ’ ’ 4 、 , J ’ J ノ を弄して所詞優勝劣敗弱肉強食、地獄餓鬼高生修維の思想で生活行動を得してゐるやうである‘去に菅にソ聯英米側 蒋闘民政府のみではあるまい。現在の世界の情勢では到底、基叔 H 敬、問哉、神道の榊の閣も伸救の仰の図︵浮土﹀も 永久に資現せ歩、民の平和は東洋でも西洋でも世界に於ても断じて望まれないことは誰人も異議がないであらう。然 らば如何にせば民の和千が獲られるかといふと.とれは種々の観点から論ぜらる L が、手取り早い所では世界の総て を正しく敬へ正しく指導し疋しく支配し正しく成敗し得る絶大なる智慧の力と慈悲の力と経済の力と軍隊の力とを右 する岡家闘王が勃興することを第一保件とするでるらう e 日 川 口 慧 の 力 と は 思 想 事 問 の 力 、 慈 抵 の 力 と は 宗 敬 道 徳 の 力 、 経済の力とは物質的財力、軍除の力とは武力でるる。日蓮聖人の翻心木隼砂に﹁此問主口薩︵本化︶折伏ヲ現ズル時ハ賢 王トナリテ恐王ヲ誠責シ、躍受ヲ行ズル時ハ併ト成リラ正法ヲ弘持ス﹂とあるは味ふべき御文である。 さて此の正しき意義に於ける世界統一の天業を全国し成就すぺく智慧・慈悲・経情・武力の間大力に於て完備せる 国家は現在に於ては見賞ら・ないっ唯我大日本闘が比較的に此等の力を備へんとしてゐる。中にも 天皇陛下を直接に 大元帥として到に頂ける臨海空の軍隊が優勝である、更に帝国一致、謹応報閣の大和魂が優れてゐる。との軍人精神 日本思想の優勝の根本原因は、一脚遣の所設高岡無比の岡酷精一肺と、寓敢無比の日本僻敬及儒款の感化によりて三千年 二千年来養成し練へ上げたるものであらう。特に忠世相愛闘の精一脚は紳道及儒教の救ふる所、大慈折伏、大悲罷受、不 惜身命七生報闘の信念は専ら大乗俳救の敬ふる所である。 ζ の観念を直接我園の官民に敬一不せられたる聖者は、前に 聖徳太子、倖救大師等あり‘後に日蓮聖人、日像上人等がある o 近く問中智阜、川ム日清丸先生等の如きも共の流れを 汲める人であらう。 日本は岡休と宗敬と武力とに於て大と僻するととを得るも‘領土は狭小である。七十年前政治に於ては明治維新の
大業を断行し、明治廿七八年の日清戦争、品川七八年の日露戦争、大正時代の世界鞍争、昭和六、七年の満州事同盟、特 に今度の支那事費に大たる犠牲を鋤へるも国語愈三宮展し、新東亜興隆の聖業も近きにあるととは殆
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疑を容れぢる 所怠るも.園際外交の智識‘経済の力、科拳文化のカ‘竪 a u 持久の思想等に於ては向未だ英米等に及ばざる所がある と い は れ て ゐ る 。 今や東に日支事国型ありて皇軍の向ふ所百職百勝、蒋の躍軍絡に壊滅せんとし‘王兆銘を中心とする支那自体の平和 運動接頭して支那新政府の樹立も本年を出でんとし、東洋の平和克復期して待つぺしと雄も‘昔は支那日本と封立し て東洋の三大闘であり‘伸敬法華経の淵源地たる印度は向依然として異敬徒英国の殖民地である。印度は文化的に宗 敬的に日本及支那浦酬と密接の闘係ある園、早蝿英園の魔手より脆せしめて正義日本の勢力範園とすべきとと恰も浦 州及支那の如くたさねば左らぬ。然からざれば東亜新興は完全に成立したいととは勿論、従って世界の永遠の平和は 期せられ左いのである。 若し将来日本の力に依って日本と浦酬と支那と印度と心からの同心協力が成功し、更に調ソ伊共他の協力が出来た ならば英米備も恐る与に足らざるのみ・ならや、所謂聖歌的世界統一の大業は成就し、大日本天皇は少なくとも精神的 に世界に君臨せらる﹄ものと堅く信ゃるのである。 如此東亜の統一、世界の統一は勿論百年、五十年計重であって.現在の日本としては政府も岡氏も、政治者も敬育 者も宗敬家も共他各階級の人々、男女老若とも、大なる覚悟と、大たる研究と、大たる修養と、大なる試練と‘大・な る努力と、市して各方面に於ける大たる改革を要するととは勿論である。 私の人間観に於ける信解と安心立命は粗ぽ斯の如くである。 予 の 安 心 立 命 :IL 七予 の 安 心 立 命 負A , 、 、
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次に聖敢に依りて、五口等人聞が理恕する僻又は紳に成るために要する信心行皐に於ける領解安心を述べゃう。 成俳の需の修行白方法としては‘本経は分別功徳品の後年四信五品段、特に五品の敬相に設かる L 所が一番整備し 組制にては諸法賓相紗の末段に、 一閤浮提第一の本隼を信じさせたまへ、相棒へ相構へて信心強く候て三悌の守護を被らせたまふペし。行撃の二道 を蹴み候ふペし、行拳絶えなば働法はあるべから歩、我も設し人をも敬化候へ、行皐は信心より起るペく候。若し カあらば一文一句左りとも語らせたまふペし。 とるるのが占んも能く繋備してゐるやろである。 本経に於ける修行法は五種修行と十種供養と三皐六度とを出でない。そして此の法華経の行法を質行された最高の 聖者が宗阻大聖人であるから、法華経の行者日蓮ともいふのである。よって質相紗の外、組判至る所に述べられてあ る行法は本艇に準接されたものである。今本経組判に依って本宗の修行を考へて成怖の安心を決着すれば大時次の如 ︿ で あ る 。 さて本経組判に敬へられたる修行法は数多たりと雑も受持信心を以て根本とし肝要と定めてある。受持とは﹁信力 の故に受け、念力の故に持つ﹂で受持即ち信念又は信心叉は信仰又は信である。 既に信といふ、信守る者と信ぜらる L 者即ち信心の釘象のごうが必・千封立せねばたらぬ。信十る者は吾人で.信ぜ らる L ものは僻賓法賓償費、紳、聖賢哲人等無教にあり、従って吾等の信やる心も極 K 様 k で t c るが、即身成怖を最高目的とする根本信心は‘序口問より動議品に至り、建長五年の朝たより弘安五年のタに至るまで妙法蓮華経に南無す る信心、即ち南無妙法蓮華経の信心と確定してゐる。信心それ自身が南無妙法蓮華経と一定せば、共の封象も亦自ら 南無妙法蓮華経であらねばたらぬ道理である。との道理の通り、如来書号一品中心の法華経一部八巻廿八品中一番尊い ものは組の題目である、妙法蓮華経の題目、五字の一大秘法が法華経の本隼で同時に一代俳敬の最高唯一の本隼であ る の で あ る 。 組判に之を見るに矢張り本経の如くで、輝隼‘法華経、上行並口薩、天照大紳、八幡大菩薩、大日天 子等宗組自身が隼敬され信仰された働法伶又は紳は少なくも仏いが南無妙法蓮華経以上の御本隼は見常らない。更に宗 組自作叉は感得の本傘形式と偉へられるものには南無妙法蓮華経式と南無妙法蓮華経十界勧誘式と、四伴傘式と一一等間 士式とがあるが‘十界は妙法の光明に照られて本掌果海に入れるものにして本来よりの本隼に非争、つまり傍隼である し、上行等の四士は勿論本併樺隼の脇士であって本隼の主体ではない。故に此の同種の本隼様式もつまりは妙法本等 と本伸本隼の二種
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汁たらない。然るに此の二種の本隼様式中何れが御正意であるかといふと・妙法本曾が正意であ らうと思ふ。何とたれば確宜なる宗組直作の御本掌中最大多数の大長陀羅は悉皆南無妙法蓮華経が中心糟尋となり、 一 一 服 も 南 無 樺 迦 牟 尼 悌 が 中 隼 に な っ て ゐ る の は 無 い か ら で あ る 。 南無妙法蓮華経の本隼に封して南無妙法蓮華経の信心を露す。境智冥ム口、能所一休、画益相慮、とれ吾等の宗門の 根本の信心本寧である、 さて信 A Y る本鎗の南無妙法蓮華経とは如何なるものであるか、若し名に約せぽ法華の題目、本伸の御名、十界品専の 総桝である。若し韓に約せば、 一 部 の 心 、 一切粧の綿要本怖の智慧叉は本悌それ自醐巧本化の魂嶋、天地の紳明三世 諸仰の御心.天地の真理‘文化の根本原素である。若し宗に約せば本果妙の本隼である。若し用に約せば逆縁下種の 予 の 安 心 立 命 1L 丸予 の 安 心 立 命
一
00 本 仲 峰 、 順 縁 熟 股 の 本 隼 で あ る c 若し敬に約せば高世不易の本傘、 一切法界普遍安営の本傘である。芳し叉伸叉は人に 約せば木伸心又は本伸自体でるり。若し法に約せぽ根本法、 一 切 経 の 心 髄 、 一部八巻の師趣である。若し借に約せば 本化日蓮聖人其他聖哲の精神である。尚是観之に南無妙法蓮華経木曾は一往は法本隼のやろだが阿佐は瓦玄具足の本 簿、人法一体の本隼、三賢一体の本隼である。而して再々往は五玄では韓玄義、人法では人、三買にては伸賓を在意 とすぺきか、何とたれば熱烈なる信心の封象たる本傘は大慈悲大智慧大神力主師親三倍の人格的本仰が尤も力強くあ る か ら で あ る 。 日蓮聖人の宗義に於て三大秘法は本化別一聞の宗要と稽せらる L が 、 第 一 の 本 門 本 傘 は 報 恩 紗 三 大 秘 法 紗 と も 需 品 事 一 品 の教主樫算になってゐるのは此の重ではあるまいか。 更に一義あり、伸・法一休中、間目紗、三大秘法紗、法華取要紗、問主口薩浩立砂、位一ザは怖を表として法を合ませ. 木伸尋問答紗、日女御書、大量茶雑等は法を表として悌を含ませられたものか。 更に一義あり、帥滅後二千二百二 十飴年叉は三十齢年一闇市提の内未曾有の大受茶羅の表面を拝するに中心隼又は最高統括仲牲として中央に南無妙法蓮 華経と大書してある、そして此絶封本隼体内の諸隼として十界の聖者が羅列してある中、常に共の最上席に位するも のは南無稽迦牟尼伸と定まってゐる‘最上首は共の界を代表するもの、よって中央隼の題目か櫓の本円本写、絶封的 本隼たるに封して、本品抑樺隼は別の本門木等、相封的本寧と分別する義である。 更に大憂茶羅式と一掌四士去の交渉如何といふ氏、二種一体の義に約せば‘ 一 一 等 即 題 円 で あ る と 同 時 に 樫 迦 多 賓 等 の伸界を合み、四士を以て九回作隼を揺する、二種は相具体同と拝せらる。若し二種異休とせば. 一律問士は第二義的 で.此の式には線写の意義が顕はれや、伸界と九界と別傘のみの本等式と見るより外はない。向私見によれば営家の本第は大量茶羅で十分であるのに、何故に別に一一第四士の形像式を立てられたるかといふと 文字塁陀羅では園語を異にする外人や小児たぞには認識されがたく信じられ難い、よって誰人が見てもすぐ信敬せら れ得る形像式を立てられたのではあるまいか。例せば新聞雑誌書籍等の説明には文字で可なるも誼貨に檎室闘を挟むこ とが請者を喜ばせるやうなものである。 要するに法華経の本傘、日蓮聖人の本骨争、吾宗の本掌は南無妙法蓮華経を第一義の本尊とするととは動かぬ所と信 ヒ、之に封して金剛の信仰献身的の信心を捧ぐるととが肝要であるoさて第二義の本隼としては勿論教主樺掌又は法 華経一部であらねばならで更に第三の本隼としては能弘の大導師宗組日蓮大聖人であらねばならや。更に営分,
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の本曾としては、天体にては大日天子、地上にては00
、日本園紳としては天照大紳、本宗の聖廟では岨廟、本宗の 寺院では身延山、府職市町村にては知事、市長.宗門では管長、ヰ寸では住職、 一家にては主人が本傘である等の義成 立し、更に諸法融通の翻心に約せば五大本等、法界本傘、 一樹衆生本隼‘己心本掌.自己本第等無量の本曾義が成立 するが‘宗敬宗旨の本等としては‘法に約すれば南無妙法蓮華経本隼.人に約すれば久遠質成禅迦牟尼悌本隼であっ て共の様式は南無妙法蓮華経十界勧請式で表現するのが安営であると信やる。而して他は悉く傍隼末隼といはねばな らない。然るに古来の日蓮本悌本隼義、近時の0
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義等は不相停の僻見であるととは勿論である。 さて大長茶雑本隼に十界具足庚式と諸隼省略式と一遍首題要式とがある。とれは行皐朝師の合通せらる L 如く庚式 は妙解の本隼、略式は妙行の本傘、要式は妙詮の本館となるであらう。詮りの本隼としては一週首題に自ら諸傘具足 せば、別に煩はしく之を形式に現す必要がなく、悟遣の上根者にとりでは要の一遍首題にて可なりであらう。行の本 傘としては、共の模範者としての四聖及闘神等を要して提婆龍王等の諸隼は必十しも用としないであらろとれは中根 予 の 安 心 立 命。
予 の 安 心 宝E 命
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の行者に親しいであらう。妙解の木等として中等の内容を解説し‘中央締隼と傍列別得とを分明にし、別待十回作を委 細に表現するの必要あり、とれは下根の信者に親しいであらう、末代の最大多数は下機下根である。宗祖及先師の本 舎が多分庚式を周ひてゐられる意趣荒し是であらう。 向妙解十界の本骨与に封する観念については種々の観点あらんも、要するに仰で中央の南無妙法蓮華経を擬脱しては 市侃⋮は五日等の熱烈なる至誠金剛の信心、妙法は天地の精宗法界の紳露たる本併の全体、蓮は本仰の川市裕、華は本仰の 悶行、経は不動の結語。要するに南無妙法蓮華経即ち三世常住法界周遍の一大本併に一心師命せば之と一体不ごとな りて即身成仰するととを得と確信する。弐に南無稽迦牟尼伸、市加盟⋮天照大榊、日蓮の文字等を拝しては、即ち生ける 悌.一脚、大拍車人・なりと確信し.共の冥加を祈るとともに、共の一大量格に一如して、日に夜にとの生活をなし・叉聖 の如く一耽舎岡家世界人類の岱に霊力せぎるべからやと念じ、それには正しき信心を増進して吏に行事の二遣を励むペ しと思想を迩すのである。 山川本付帯義には排・ヂペき多くの問題義門が残ってゐるが之を略し、最後に勤諸に閲する要件を一言するに止めゃう。 本傘は一紳聖にして犯すべからざるもので、共の勤諸法は尤も正格、巌粛、清浮無垢であらねばならぬ o 然るに寺院 の本傘を見るに、多くは中央の題目の形小に失し諸傘の勧請宜しきを得てゐ・添い。十杭円余の俳壇に至りでは見るに忍び ざる非法のものが多数である c 五日等は本等伸捜の改革を叫ばねば左らぬ。 次に正しく信行について言へば、本宗の信心とは南無妙法蓮華粧の本傘を信じて、 E H 等の心身が妙法蓮華経に一致 合体せんと欲求する心理欣態をいふ。既に言へる如く南無とは信心なり、妙法とは木怖それ自身の全体・なり、蓮は本 併の川市徳なり、車は俳の因行なり、経は常住不動を意味する。故に五日等が一心強盛に南無妙法蓮華経の題目を心念日唱して本傘の南無妙法蓮華経封し、之と一致合体せば越に即島芳成仰するのである、信心成伸受持成悌とは是である。 受持信心は成仰の正因にして成伸は其の結果である。 本経に行法冒として五種の修行︵受持・讃・諦・解説・書寝︶と十種供養︿華・杏・抹香・塗香・焼香・理路・幡益・ 伎繋・衣服・合掌︶と三曲学︵戒・定・慧︶六度︵布施・持戒・忍辱・精進・一心・智慧︶等が設かれであるととは既 に一言した。受持の一行は直接妙法蓮華経の木崎却を信念する行にして成併の正固なるが故に上根下根を捧ば歩、初心 後心供に修せざるべからざるも、讃諦乃烹三風一大度等は正因の信心を培養し助長するための傍縁に外ならぢれば共の 用不用は時機の宜しきに従はざるべからや J O 叉初心下根は一部議諦向堪へざる所、況や三皐六度等に於てをや。今本 経分別功徳品に依って本門の行者の階級蛇に行法等を固示せば弐の如くである。 予 の 安 心 立 命
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成悌の矯の法華経主義の修行の中、受持の一行は成伸の正因として占んも大事なれば更に少しく詳述せねばならぬ。 先づ三業受持といふ乙とを知らねばならぬ。 ,吉正 Jι 持 ーー__..ーー『 身 口 怠 業ーー唱 題 ︵ 顕 ﹀ 業ーー信 •lJ、 ︵ 起 ﹀ 業
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合掌瞳奔、乃至、如読修行不惜身命 ︵ ム 菅 地 ︶ 要するに本宗の受持は信心に起り唱題に顕れ賓行に覚らねばならぬ。受持を三業分別する場合には信心と唱題とを 分けるが普通は信心といへば唱題を含み、唱題といへぽ信心を含んでゐるのである。故に信唱一致に約せば信心正因 といふも唱題正因といふも同じゃうであるが、本宗の受持は意業の信心正意か口業の唱題正意かといふと古来信心成 悌義・唱題成悌義と二詑あるが、予輩の領解安心では唱題よりも信心を正意としてゐる・何と・なれば唱題無きもハ岨 者 、 犬 病 人 、 口 に 病 る る も の 、 職 務 搬 忙 の 折 P 、 或 る 事 業 事 務 の 箆 め 障 P あるとき﹀信心さえ正しければ成悌可能なるも、い かに一生百官同の唱題を行ふも正信・なきものは遂に成伸不能なるが故である。然るに本経には口業に約して受持を勧め たまへる所は殆E
無きも、組判には五品紗、報恩紗等唱題に約して信心を勧めたまへる所多きが故に、本宗の成悌は 信心よりも唱題を正意となすべしと断歩る副学者あるも、私見は五品紗も報思紗も既に南無妙法蓮華経を唱ふべしとあ0
.南無とは献身的信心のこと・なり‘信心の上の唱題乞勧められたものと奔する。瀬本法華宗の受師は信心E
行唱題 明行と立て L 信を非常に重く置てゐられる。此設は更に考ふペしであらう。私見は唱題の行は内容の信心乞口業を以 て表現して信心を忘れ歩、菅に忘れざるためなるのみ左ら歩、之を修養し撃勤して更に不惜身命如詑修行の本俗的責 行に進む激励の聾であり、叉沈賦の信心は一躍自行に止まる、之を化他に及ぼすべく主体的に聾も客まや唱ふるの意 予 の 安 心 立 命一
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六 味があらう‘若し大鼓木柾を合打するは更に唱題を激効するためである。更に一義あり、末代の.胡夫恐婦、幼稚の子 女、野箇未聞の徒輩をして正信に入らしむることは困難なり.よって比較的易修易行の口唱に約して成怖を勧められ た意味もあらう、所前心理事上の形式より反臆する内容の蛸充なるものであらう、方便より異質への下機誘引の方法 であらう。但し正信たき唱閣は成仰のE
因にならざれば、能化者はこの道理と法門を芥込んで精々昆の唱題の信者を 主成するに努力せんことを援する。所訪信男信女と稀するもの L 大部分は正信無き哨題であらう。私の現在居住して ゐる烏取嬬あたりでは民の日蓮法華宗の借俗は暁天の星の如くであるととを遺憾としてゐる。 次には受持に単一一党持と共足受持とあるととを知らねばならぬ。とれは陀羅尼品から出た義で、間早に題目だけ持ち 得る初心の受持と‘題目受持の上に一部乃至諸行を粂行し得る後心の受持とで、後者が勝れてゐることは勿論である。 草信無解又は但信無解と有信有解との優劣また準知すぺきである。 之を要するに本経には通じて五種十種三島十六度の諸行を設かる L も、別しては受持の一行を以て成怖を決定せられ 組説亦一ならざるも特に信心成帥唱題成併を主張せられたるは、行に約すれば諸善高行中信心唱題点も肝要であり、 機に約すれば末代の下根は諸行に堪へや、 一行によって精紳を統一するが得策であるからである。但し比較的後心叉 は後心たらんとする者は進んで説諦解説等を修し・更に宗敬家として散化の大任に衝らんとするものは更に進んで三 皐六度をも分に修せねばならない。 故清水梁山氏の讃諦説法論の如きは初口聞を知って後品を知らや、受持一行に囚はれて諸行に進むととを忘れたる愚 論に過ぎ守、田中智謬氏の三曲学無用論の如きは初二三品に滞りて後二品を否定せる浅見である。 向賀相紗の信心と行皐二道と説法とを排守ると。信心とは一関浮提第一の御本隼を信じて題目を唱ふるを行を信心といふのであるから、信心も行撃の行の内に躍するといふよりも行の棋本でるるが、信は一番肝心の行主るが故に特 に別出されたのであらう c 正しく行とは譲諦解説三皐六度等の諸行であらう。墜とは曲学問研究であれば、脅に行道の 研究のみなら歩、贋く働法世法、敬相親心の皐であらうが。之を大別すれば宗飛飴乗とたり、宗乗を以て五意とする ととは勿論である。但し祖師御在世に於ては法華経の研究が宗乗であったであらう。祖師滅後に於ては本粧の外に租 書 簡 申 も 宗 乗 と た っ た の で あ る 。 ﹁力あらば一文一句たりとも語らせたまふべし﹂ と は 、 特 に 化 他 惇 遣 の 念 務 を 曲 学 匠 最 蓮 一 反 へ 封 し て 勤 め ら れ た も の で あ る 。 以上、行に闘する談道は三大秘法中にては本門題目の下の法円である。三秘は古来宗敬の五綱に封して宗旨の三郎 といふも、質は樫隼の宗旨‘ 一切粧の宗旨、法華経の宗旨、日蓮聖人の宗旨‘法華宗の宗旨、吾等の宗旨は要するに 唯一一束の法のみありでごも友く三も危い筈である、それは一大秘法の南無妙法蓮華経である。そして三大秘法は一大 秘法より聞かれたる行門に於ける要法であらう、故に本門本館本門題目といふも、たど共の法体を説明されただけで はたい、日本乃至全世界の人類一向に之を本等とすべし‘日本乃五漢土月氏一関浮提に人ごとに有智無知日をきらは十 一 同 氏 他 事 を す て L 南無妙法蓮華経と唱ふペし、と共の本傘信心の賓践白羽行を勤めである。本門題目の下には只信心 唱題即ち受持の一行のみ勤めたまへるは本門題目の信唱が貰に即身成怖の原因でるるからである。決して讃諦解説等 の諸行を否定されたのではたい。それ故に﹁他事を捨て L ﹂の他事とは躍し三義があらう、 一には宗に約して他宗の 信行を捨てよとであらう、こには行に約して専修正行の談活であらう‘一こには機に約して下機下根翠信組⋮解一向信心 の 草 で あ ら う 。 予 の 安 心 立 命
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O 七予 の 安 心 立 命
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O 八 次に本門戒壇は報恩紗等の諸御主同には口ハ名目を架げて内容を秘したまふ、ただ御入減の前年弘安川年四月八日太町 AR 吾 殿 に 封 す る 教 舎 の み に 務 一 一 日 的 に 其 要 領 を 明 し て 委 細 は 秘 し て ゐ ら れ る 。 戒壊とは王法伸法に其し、伸法王法にA
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王臣一向に本門の三大脳特の法を持ちて、有徳王由党徳比丘の共放仔 を末法濁思の未来に移さん時、救宣蛙に御敬脊を巾下して盛山洋土に似たらん最勝の地を零ねて戒壇を建立すべき 者 欺 、 時 を 待 つ べ き の み 事 の 戒 法 と 巾 は 日 疋 な り 。 一 一 一 一 闘 抗 に 一 間 浮 捉 の 入 、 機 悔 減 罪 の 戒 法 の み な ら や 、 大 党 天 王 帝 ふ み 開 伴 等 も 来 下 し て 踏 給 ふ べ き 戒 壇 た り 。 とである om 脚本宗の受師鑑師、日蓮宗の問控師等は三秘紗備作論者で王伸具合事情況建立を一笑に附するのであるが、 既に三秘は宗祖の確設である以上、如何に事未来に属する法円であっても、名目のみで一向に内容を明されざる持は たい、御門弟なぞには弘安阿年を待たやして在島中既に語られたと想像する。何となれば戒壇は既に小乗椛大衆註門 の戒壇が印度支那日本に建設せられてゐるから、それ以上の使命と椛成を持する本門の宗教にそれが無用である舎は たい。よって私は三耐紗のあるととを幸とし之を亘書と信ぜんとするものである口そして本等は成伸の大事のための 信仰の釘象であり、題臼は信仰それ自身であり、戒壇は信仰木曾のん一京佐の閤結力と敬化カにょうて将来に官現すべき 一 大 理 想 境 で あ る と 信 守 る 。 そして共の建立せらるべき時機は、王法即も闘王を首脳とする闘民の思想が伸法の民理に一致するやうにたり、俳 法の真理が世間の諸の法と冥 A n するやうになり、結局上は閤王より下は庶民に至るまで三大秘法の妙宗の信者となら れた時に、長れ多くも園王の軟宣の下に建立せらる L 闘 教 的 一 大 道 場 で あ る の で あ る 。 王 帥 . 具 合 王 伸 一 一 来 と い っ て も 直ちに王法が共催働法といふのではない。僻法は能化、王法は所化である。そして共の場所の最勝の地とは大日本であるととは紳問主御堂円で察せられるが、日本の中では仰れかといふと‘凸口問 士山説‘宮士山大石寺説、富士山北山本門寺設と身延山読とがある。私も一時間中知 H 皐氏に依り宮士山誌を採ったと とがあるが.後に富士山は休火山でありと聞き、叉大正年間登山して宮地を見分し‘山としては最肱なるも、謀、壇の 場所としては不誼営なるととを認めた。然らば何所かといふと宗祖棲一紳の霊山身延ではなからうかと考へる。 宗祖延山隠棲については事者種々の設を話すが、私見にては近く新宗敬の中心締本山創立のためであり、遠くは本 門戒昭一建立の潟であらろと拝察する。弟子の教育のため、聖黙然の化導のため等といふ如きは一義に過ぎないであら ろ。一二度諌めて容れられざれば山林に逃るとは一陣営面の理由に過ぎないととは勿論である。
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本宗の所期、三日脚の目的は人に約すれば即身成伸で、闘に約すれば婆婆即寂光である o 所信の本傘は唯一なるも、能信の人の因行に利鈍上下等あるが故に即身成怖の結果も一ならない、所前五品の階級 六 即 の J 弐位位一寸がある‘往て分別功徳品と法師品と書量品御義と得受功徳法門紗等を往て見ょ。婆婆即寂光亦準知すべ きである。但し末代の通機としては、初随喜品の成伸、名字即の成帥多数を山め.名字即単信無解の成俳より出琵せ ねばならぬも、決してそれで行止りではない、視行却乃辛一究究即の大泉を矧せねばならぬ。名字即の成仰は成仰の起 点にして妙完の成併は共の絡貼である。故に三世諸帥総拘文妙にも﹁名字即より即身成仰す﹂とありて﹁名字即に限 る﹂とは無い。故K
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一日等能化を以て任じ向上進歩を期するものは、少くとも初一二二品の小成に甘んぜやして後二日間の 大成に匙まねばならぬo組側大聖人は五日徒法来日蓮の徒の最高間範の行芥である‘然るに名字の日蓮、珂即の如き日 予 の 安 心 立 命一
O 九予 の 安 心 立 命 一 一 O 蓮 一 X K と巾されしは一往末代の通機に代つての謙都のみ、決して聖人の民面目では危い、型人の本領は下山紗の﹁糟 隼より大事の日蓮﹂、撰時砂の﹁閤浮第一の聖人﹂・顕僻未来詑の﹁仰の如き聖人﹂、本尊紗の﹁高貴の大菩薩﹂、諌暁 八幡紗の﹁日の如き聖人﹂、高年救護の本隼の﹁上行の化身﹂等と云へる方が宗祖の本領である。 悌設を以て組師を見るに末代に於ける後心の正行六度の行者は宗祖以上の人は無い。宗組は宮に受持に於て日本一 であると同時に讃諦に於ても解読書寝に於ても第一であった。更に布施慈悲に於て、持戒道徳に於て、忍辱忍耐に於 て 、 勇 猛 精 進 に 於 て 、 一 心 開 定 に 於 て 、 相 官 慧 皐 聞 に 於 て も 最 話 第 一 の 行 者 で あ っ た 。 ﹁ 法 華 経 の 行 者 日 蓮 ﹂ の 稲 は 決 して名字却の如き低般の信者を意味するものではない。 更 に 一 一 一 一 一 口 補 足 す る 。 三 大 秘 法 中 、 即 身 成 仰 は 境 の 一 本 門 本 隼 と 智 の 本 門 題 目 と が 江 戸 A 口する所に貰現し、要婆即寂光は 更に本門戒壇の建立せられたるとき質現するであらう。但し今は事の戒壇でいふ、若し理の戒壇若くは一分の事壇は 本傘に針して正し︿題目を唱ふる所即是道場の意味で現はれる。若し夫れ戒法には組戒と別戒あり。組戒は信心にし て、別戒は開顕の三景浮戒等なり﹃護法救世妙蓮明鑑﹄等往て見ょ。 以上組山製院文飽宇部員の依頼に鷹じ.主として畢院生を封象として、宗畢上より観たる敬法、宇宙、人間‘行法‘ 成仰の五項に於ける私の現在の領解と安心を略述して諸子の参考に供した。本経組判の依交を引くに容なるは筆者寺 務に多忙にして共の飴裕たきが震と原稿に制限があるためである。願くは私の敢極の拙著の外、特に大崎製報第七十 八蹴所載の三皐六度進退論、同七十九蹴の立五主義信解行詮賢略要概説︵本化行皐論︶を参照されたい。但し本稿と 多少の相違ある点は、改めて合通又は何れかを訂正せねばならぬ。若夫れ宗門営両の問題たる﹁皇道僻敬行道合﹂の 教義信僚に封する批判は材料集り次第私見を何等かの方法によって殻表しゃう。 円昭和十四年十一月十日鳥取芳ゆ寺に貯 t 草