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部落共有金穀の運用と名望家支配(2) : 静岡県富士岡村竈地区の事例

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部落共有金i穀の運用と名望家支配(2)

一静岡県富士岡村竈地区の事例一

筒  井  正  夫

皿 共有金運用過程の分析  甲乙有金の由来は,嘉永期から慶応期(1850∼60年代)にかけての幕末の難 村状況下に,村内神裡風損木売却金(1852年)・嘉永6年地震の際の小田原藩 よりの下渡金(1853年)・村民月掛による村備金(1857年)・玄清寺運営費積 立金(1861年)が,それぞれ村民貸付に供されて運用されてきたものである。 この時期竈報徳社は,小田原藩による仕法中止令(1846年)により休社状態に おかれていたため,村民は上記のようなさまざまな方法で資金を積み立て,村 内金融に用立ててきたのであった。これらの資金は村役人の管理下に別個に運 用されていたが,1865年に統一されて村内五人組の共同管理に移されている。 その後は,1873年(明治6)大区小区制下に大世話人が選出され,1891年(明 治24)新町村制下において規約書が締結され正副取扱長の管理下に置かれる経         緯は,共有籾と同じである。  今,1891年規約書の内容に結実してゆく共有金運用形態の形成過程を,表        らの 5・6・7によりながら次の3つの時期に分けて考察しよう。  1.規約書締結に至るまで ① 1876年(明治9)∼1880年(明治13)  まず1876年以前の動向を確認しておくと,1865年五人組に引き渡された時点 51)以上の記述は竈部落「共有金台帳」による。 52)以下共有金支出・収入・貸金の内容についての説明は,同前「明治25年共有金台  帳」の記載による。この史料には,共有金の由来並びに規約書と1865年から1907年に  至る支出・収入・貸金の内訳が記されている。

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 110  彦根論叢 第237号 で100両余に達していた共有金は,その後も貸金として運用され,1875年には 160円余にまで漸増していた。  この時期幸区小区制下の「民費」負担は,正副区戸長給与・大区小区事務所 費・中学校三等の国政委任事務費を中心に(「明治8年第1留置四小区民費」   53)      53) 中79%),村社祭典・道路橋梁・水利・山林管理費等村落共同事業費(旧約16%) を加えて多額にのぼり,竈村では「民費等二減少可.仕」きよう隣村6ケ村と       うの 合併して泉村を造成するよう静岡県に願い出るほどであった。こうした状況下 にもかかわらず,共有金は「民費」負担軽減のために上記諸事業へ積極的に支        表5 竈共有金の推移        単位:円

前年度

現在高

諸収入

合計諸支則貸

  現金及び金  銀行預金

1865年

1875(明8)  76( 9)  80( 13) 81と14)  84( 17)  87( 20)  88( 21)  91( 24)  93( 26)  94( 27)  97( 30)  98( 31) 1902( 35)  04( 37)  10( 43)  14(大3)  16( 5)  19( 8) 100両3分1朱   円  146. 16  145.34  277. 58  274. 66  827.33  879. 37  907. 37  804. 76  665. 66  673. 01  551.14  601.96 1, 2!6. 42 1, 819. 55 1, 622. 57 3, 341.59 3. 446. 70 4, 782. 12 10両!朱  14.61  500. 57  127.82  541.96  22!.63  1!7.85  253,11  108.33  88.04  100.62  160. 61  703. 18  814. 89  848.99  45!.65  549.69  598. 92 1, 725. 99 111両1朱  !60 77  645, 92  405. 40  816. 62 1, 048, 97  997. 22 1, 160. 49  913. 09  753. 69  773. 63  711.76 1, 305. 15 2, 031. 32 2,668.54 2, 074. 22 3, 891. 28 4, 045. 62 6, 508. 11  15.43  284.65  130.76  192.16  198. 66  89.86  401. 39  223. 39  80. 65  146. 33  109.80  187. 79  279. 56 1, 101. 95  236.11  685. 54  188, 89 1. 346. !6  111,20  145 34  361 27  201. 40  624. 46  849. 78  907. 37  759 45  689,90  673. 01  627. 30  601.96 1, 117. 36 1, 751, 76 1.566.59 1,838.11 2, 475. 37 2, 534. 88 2, 253. 26 V 73.25  730. 38 1, 321. 84 2, 908. 74 出所) 「竈共有金台帳」及び「共有金計算帳」より。  注)1865年の単位は,両分朱。▽印は現金有高。厘以下四捨五入,以下の表も断らな   いかぎり同様。 53) 『市史』第5巻,138頁。 54)同上,153頁。

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      部落共有金穀の運用と名望家支配 (2) 111 出されることはなかったのである。この点訳有金には「民費」補助を成しうる だけの十分な財源が確保されておらず,専ら貸金として運用されることでその 保全が図られていたのであった。  だが1876年以降地租改正事業が進み,また明治国家の教育並びに寺社政策の 進展が,さらなる「三二」負担を村民に強いる段階になると,竈村ではそうし た状況を逆手にとる形で「民費」負担軽減に資する独特な共有金運用方法を創 出していった。1876年共有金総額は500円の収入金によって,前年の160円余 から645円余へと4倍にも増大し,諸事業:支出(284円)と貸金の拡大(142円 一>361円)に充てられたのである(表5)。  まず収入金のうち80円は村内神社風損木立木売却代である。当時政府は, 1871年(明治4)の寺社領上知令により,境内を除く寺社領を没収し,幕府権 力と密接に結びついた寺社の経済的基盤を掘り崩すとともに,同年より全国の 神社を中央の官幣大社を頂点として格付けすることによって,神社を神道国教 化政策の中にとりこんでゆく政策を推進していた。寺社領地は,地租改正の実        うらラ 施過程の中で明確に定められたから,御殿場地方でも,地租改正実施期間と重 なる1875∼77年の時期に,寺社領の確定と上知並びla一‘村一社主義にもとつく         神社の統廃合と村社指定が行なわれていった。竈村では1875年村内各地にあっ た天神社,稲荷社,天王社,諏訪社,愛宕社のうち前3社が,村社指定を受け た諏訪湖に合併され,愛宕社は無壮心として存続させられている。この時各神 社領地の上知も並行して行なわれたが,その際合併された3神社の敷地に残さ れた森林は売却処分に付され,その代金80円が共有金に繰り入れられたのであ る。さらに地租改正の過程で確定した村内各地の潰家の田地・雑地を売却して 368円を得ている(表7)。  こうして得られた収入金は,まず村内士族の田地(4反7畝)買受資金にあ 55)寺社領上知と地租改正事業との関連についてはとりあえず大竹秀男「近代的土地  所有権の形成一明治初期における社寺地処分の観察を通じて」 (高橋幸八郎編『日本  近代化の研究』上,東京大学出版会,1972年)参照。 56) 『市史』第8巻,687頁。

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112 彦根論叢第237号      表6 共有金支出の内訳(1870年∼1890年) ①社寺・ ② ③土木 ④

⑤公租 ⑥無尽

祭典費 教 育 費 建築費 衛 生 費 公 課 掛 金 70(明3) 71(4) 72(5) 19両3分 73(6) 7両3分 74(7) 17両 75(8)  円P5.43 76(9) ヂ63 39.69 15.99 32.89 77(10) 14.43 7.46 9.70 44.48 78(11) 12.09 70.46 11.93 44.78 79(12) 16.71 7.51 24.48 27.68 38.96 80(13) 13.13 10.75 30.59 81(14) 58.31 4.18 68.26 82(15) 1.61 7.52 45.02 77.15 83(16) 13.84 1.00 82.98 84(17) 10.89 20.80 1.00 76.58 85(18) 23.71 7.24 74.65 86(19) 20.25 0.39 1.56 72.95 87(20) 21.36 1.04 29.84 88(21) 279.40 40.50 35.40 89(22) 33.72 3.00 28.18 90 3 45.61 .58 8.11   出所)表5と同じ    注)項目⑦は、風祭り費・学校資本金利子・租税等の合計額であり、その内訳は てられ(169円),買受けた田地は以後村有地として村民に貸付けられ,以後27 ∼84円の小作料収入を共有金にもたらしている。次に23円が小学校費として使 用されている。1872年の学制頒布以来御殿場地方の村むらでも寺院や神社の拝 殿等に小学校が開設されていったが,竈村でも1874年4月に隣村萩蕪・沼田2 村と合同で玄清寺に大成舎を開校している。共有金23円は,この大成舎の修築 費として支出されたものであった。大成舎は1877年に火災で焼失したため,翌 1878年村内中央部に校舎が新築されることになるが,この時にも諏訪社上知に 伴う風損木売却金99円のうちから63円が共有金に繰り入れられ,校舎新築費に 充てられたのであった。この時玄清寺敷地の一部は学校田として払下げられ,

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部落共有金穀の運用と名望家支配 (2) 113 単位:円 ⑦その他① 一⑤合計分 ⑧そ の 他 合   計 備       考 28両2分 28両2分 ⑧田畑買受代 6両1分 6両1分 ⑧同上田地代金残額 19両3分 7両3分 17両  円 P5.43  円 P88・451 284.65 ②大成舎経費補助23円⑧田地購入費168.6円含む ll:1;1 102.84 P88.96 ⑧地租改正に付絵図作成費 A大成者建設翼63円⑧学資金利子支払のため村 民へ無利息年賦貸付 18.97 134.31 ④コレラ対策費⑧入会争論示談金 一 一 I l 5婆.45 Q0.47 U8.65 1測   1      「 130.?6!⑧入会争論示談金1囎、16臨神社修繕。吉田梯祭典等⑧通運会裡捕助・入会 @  浄論示談金等 P99.95i⑦郷蔵普請費含む

1

33.20 1・3・,321

」紙器

39.82 玉。.66 1e.rf, s 9.麗 29護6 5エ.17 1e.Ie 11.87 27.80 16.63

謎!鎧喩

lll:1濃霧黙・る翻

125.47⑧10円貯金 89.86⑧郷蔵綴善貸三7円,10N 40L39①神社新築費②藍沢学鼓建設費寄付30円⑧鍵在    1所鰐費網 108.921⑧10円貯金 明記されていない。⑧は④∼⑦以外の項目。 1880年からその小作金が共有金へ繰り入れられている。また学資金利子として 毎年7円50銭が共有金から麦払われているが,1877年には村民の学資金利子支 払いのために各戸に合計50円が無利息年賦貸として貸出され,村民の負担軽減 に供されたのであった(以上表6)。  そのほかこの時期に現れた注目すべき支出項目を表6からあげると,1, 1876年より村社祭典費が毎年計上されるようになったこと,2,地租改正によ り村有地租の支払いが始まり,また改正事業進展のための絵図作製費(1877 年)や官民有区分に伴って発生した入会争論への諸経費が計上されていること (1879・80年),3,コレラ流行に伴う予防費があげられていること(1879年),

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 114 彦根論叢第237号 等である。いずれも当時の国家政策と社会状況の変化に対応して,共有金が村 民負担軽減策として運用されたことを示すものであった。さらにこの期には村 内4無尽に対して,毎年40円余が出金されていることが注目される。このこと は,共有金が無尽金融を通して村内金融を潤すとともに,後に無尽落札金が共 有金の主要な財源の一つとして立ち現れ,諸事業支出と貸金業の恒常的運用を 支える役割を果たすようになる点で,重要な意義を持つものであった。  以上共有金は,1876年を画;期に国家政策に対抗する村民の自衛組織として貸 金業と諸事業支出の双方を可能にする独自の運用方法を確立した。だが他方で またそうした村民の対応を可能にさせる国家側での法的措置がとられていたこ とをみのがすことはできない。町村土地所有者に対して共有金穀と土木心匠の 処分裁量権を大幅に認めた,1876年「各区町村金穀公借共有物取扱土木雨止規 らア  則」の制定がそれである。国家にとっても,豪農層を核とする村内土地所有者 を共有物並びに土木事業の処分決定に参加させ,彼等の一定の同意をとりつけ ることなしには,増大する「民費」負担を全村民に課し,その上で円滑なる国 政委任事業の推進を図ることは困難であると判断されたからであった。このよ うに共有金組織とは,維新政府による強力な上からの近代化政策とそれへの 民衆の側での対抗,対応の中で新たに生みだされたものであり,藩政期以来の 共同体組織の単なる復活或いはその残存物ということは決してできないのであ る。 ② 1881年(明治14)∼1887年(明治20)一松方デフレ及びその回復期一  さて共有金の運用は松方デフレ期に第2の画期を迎える。この期の最大の特 徴は無尽金融と結びついた貸金業の著しい拡大傾向である。まず1881年に貸金 高は前年の201円から624円へと3倍強に拡大され,さらに不況ピーク時の1884 年には849円,回復期の1887年には907円にまで増加している(表5)。1881年の 貸金拡大は,前年までの無尽掛金400円が一挙に動員されたものであった。その 後の貸金の増加も,毎年30円∼80円の無尽落札金によって保障されていたので ある。次に利率別貸金額の内訳をみると,1882年には年1割が224円,1割5分 57) この法令の意義については,藤田武夫前掲書,58頁,ユ24頁等を参照されたい。

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      部落共有金穀の運用と名望家支配 (2) 115 が423円であったが,不況の進展した!884年には年6分が213円,8分が6!3円      ら   という割合になり,半額に近い利子率の引下げが行なわれていたのである。  松方デフレ下激しい農民分解が進む中で,没落下降する中下層民が借金党を 組織し,借金の無利息年賦裾置を唱えて御厨銀行に伸しかける勢いであった が,竈村人混々代小林清三郎(田2町3反所有)は,!885年1月「是(借金党 の「貧民会」一引用者)ヲ押ヘルニハ利子ヲ下ルノー天カト心得,小生儀本月         九日御厨銀行エセマリ利子ノ儀二付三日ノ間昼夜ヲ不問掛合候処」,ついに利 子引下げに成功している。このように,村内上層農も中下層民の救貧対策に躍 起となっており,その一助として共有金貸付利子の大幅引下げも敢行されたの であった。  こうして共有金は低利貸付の敢行によって,松方デフレ下の窮状から村民を 守る自衛組織としての性格を示したが,それはまた農民分解の進展とともに没 落下降し借金党に結集してゆく中下層民を,再び地主・豪農の支配下にからめ とるための同意獲得装置としての性格をも滞び始めるに至ったのである。  さて次にこの時期の注目すべき共有金支出項目としては(表6),従来から の神社祭典費・学校資本金利子・無尽掛金等に加え,郷蔵修繕費(1882年・87 年16.7円),道路橋梁費(1884年以降),さ嚇こ1881年設立の村営通運会社への 補助(8,9円)や再建寵報徳社への善種金麦出(1885年10円余)がみられ,村 落共同体の維持管理とともに上層農が主導する村営事業や農民組織化政策にも 共有金が供されていることがわかる。 ③ 1888年(明治21)∼189!年(明治24)規約書締結に至るまで  この時期共有金の運用に画期をもたらしたものは,1888年の401円にのぼる 多額の支出増であった。まず支出中最大のものは、279円余の神社・祭典費で ある。これは1889年開通の東海道線が村社諏訪神社の敷地を横切るため,諏訪 神社は移転を余儀なくされ,その移転新築費に充てられたものであった。次に 40円が小学校費として計上されている。1886年小学校令改正に伴い,新学区が 58) 前掲「共有金台帳」の記載より。 59) 『市史』第5巻,419頁。

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116 彦根論叢 第237号       表7 共有金収入の内訳(1870年∼1890年) ① ② ③ ④ ⑤ 田小作料(俵一斗)

貸金利子

無尽落札金 寄 付 金 財産売却金 1910年(明3) 14両1分 7両2分 72(5) V6(9) 3〔督03(22) 14両1分 円 15.57

7了(10) 27.52(14−3) 36.13 50.00 78(11) 41.25(15 ) 32.21 99.91 79(12) 54,27(16−2) 30.09 80(13) 8829(17−1) 23.43 0.36 12.88 81(14) 4.20(0−3) 23.81 400.00 0.47 111.22 麗(15) 61.82(13−3) 84.22 0.75 0.61 16.27 駁}(16) 54.83(14−3) 78.50 61.50 0.35 雛(17) 28.15(13−2) 61.22 80.00 0.28 8.28 あ(18) 38.63(12−3) 63.76 60.00 0.34 86(19) 29.78(12−2) 66.81 30.00 0.33 田(20) 32.26(15 ) 64.86 0.49 88(21) 28.53(14 ) 55.00 50.00 41.23 24.31 89(毘) 24.4弓(11−2) 50.99 30.63 0.37 12.38 go 23 34.4710 56.71 40.68 0.18   出所) 「竈共有金台帳」より集計。    注)厘以下は四捨五入 設定され,ほぼ新町村制下の行政村を範囲として各小学校の統廃合が行なわ れた。当地域でも,後に富士岡村として編成される村むらの小学校3校(大 成舎・函西学校・審問舎)が統合され,1888年9月中山村に藍沢小学校が開校 された。この時の開校資金援助として30円が共有金から寄付されたのである。 さらに同年中山村に新築された駐在所にも5円が寄付されている。この期に は,連合戸長役場制が敷かれ,新町村制へ向けて行政区画の拡大が図られると ともに,その行政区画にみあった教育並びに治安行政の整備が進展した時期で あったが,上記共有金の支出は,そうした行政整備に対応した措置であった (以上表6)。  ところで,こうした多額の支出はいかにして賄われたのであろうか。この年 は,小作料・利子収入に加え,神社風損木売却金24円,寄付金40円,無利息年 賦貸返済金50円,無尽落札金50円等,例年の2倍近い253円もの収入を得てい るが(表7),それでも401円の支出を賄うには148円の不足が生じていること

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部落共有金穀の運用と名望家支配 (2) 117  単位:円 ⑥そ の 他 ⑦ 合 計 備       考 21両3分 ⑤諏訪神社枯木売却金 1.02

1講

⑤同上及び天神社枯木売却金 D諏訪神社・天神社・稲荷社立木80円、村内一家田地・雑地等売却 金368円 113.65 ③学資金利支払のため村民に無利息貸付のため 2.32 175.69 ⑤諏訪神社立木売却金 7.69 92.05 ⑥土木境界争論示談金 127.68 ①墓所払下地小作金4.20円含む(以後同様)⑥同h 2.66 54L96 ③貸金へ運用⑤村社諏訪社立木売却金等 163.67 ⑤村内良家圭地売却金 195.18 43.70 221.63 ⑥利予納入困難により貸金元金返済分。 162.73 126.92 20.24 117.85 ⑥鉄道開通に付郷蔵移転料金 54.04 253.11 ⑥1877年無利息貸付50円返金 118.81 19.4 151. 6    ’ヘ     ケこつ  豊 董       一 ’ がわかる。そしてこの不足分は,そのまま貸金の減少となって現れている(表 5)。つまり村社新築・小学校統合という大事業の前には,従来の無尽金融の 利用や風損木売却並びに寄付金による資金念出策では限界があり,村民貸付金 の強制的返済が行なわれざるをえない事態に立ち至ったといえよう。  こうした事態は,共有金の運用の基本が,村共同事業の支弁に置かれるのか または村民貸付に置かれるのかという問題を,改めて村民の協議の組上に浮び あがらせたと思われる。さらに新町村制下に二村が富士岡村の一部落として編 入されるに及んで,共有金の部落共有物としての性格並びに利用規定が,明確 に部落民に対して示される必要があった。1891年竈部落共有金規約書が締結さ れた所以である。  次に規約書の内容を検討するが,16条にも及ぶ全文をここに紹介する余裕は ないので,以下要約的に特徴点を指摘することにしよう。まず第1に,共有金 の性格が明確に「部落二限リ,共有金ト確定」(第1条)された点である。従

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 118  彦根論叢 第237号 って各個人への分割は厳禁され(第2条),部落を去り他所へ移住した者には, 共有金利用の権利は失われることが明記されたのである(第3条)。第2に, 共有金運用の基本が貸金業よりも部落共同事業への支出にあることが明確にさ れた点である。このことは,第12条において「多分入費入用ノ節ハ入用金高ヲ 部内ノ貸付金高へ赤心何時成トモ出金スル者トス」とあり,多額出費の際に おける強制的貸金返済規定が明記されている点より明らかである。第3に,貸 金運用の方法についても具体的な規定が与えられた点である。貸付は普通貸と 店貸の2種に分けられ,前者は年1割(他部落者は1割2分)7ケ年の利付貸 であり,後者は7ケ年無利息年賦貸と定められた(第8条・11条)。だが両者 とも元金返済後にさらに1ケ年分を「冥加金」として納めることが義務づけら れたから実際にはかなりの高利貸であり,無利息貸ともいえなかったのであ る。また貸付の際には,8名の貸付処分委員が選ばれ,正・副取扱長との協議 の上貸付対象者が選定された。普通貸では「確実ナル抵当ヲ要シ登記祝宴ノ上 貸付」ることが定められ(第11条),前貸では「品行正真ニシテ本業二丹精ス ルモ窮困ナル者と天災其他,災害二罹リ窮困ナル者」が対象者とされ,さらに 「組長ノ他2名ノ組引受証書」が必要とされ組単位で貸付が行なわれたのであ る。こうして共有金貸付は,共有籾の場合と同様,村内地主・自作地主の正・ 副取扱長層と自作・自小作中堅の組長層による重層的な監視体制・のもとに置 かれたのであった。第4に,「田畑小作ノ義ハ定小作ニシテ少シノ不作ニハ小 作引無智者ト定メ,若シ小作不納者有之富田其地所村方へ取揚ル者トス」(第 14条)とあるように,村有地に関する厳格な小作条項が定められたことであ る。第5に,以上みたような様々な共有金機能を円滑にとり行なうための諸規 定が明示された点である。まず正・副取扱長への報酬支払い規定が新たに設け られた(第6条)。 さらに共有金取扱いの際には「取扱長ト錐トモ自分勝手相 成ラス事」 (第6条)という有力者の専横廃止規定が明示され,加えて全部落 居住者に対し「部内多数ノ議決二不抱我勝手ヲ申立二元円掛金高ヲ其者二割返 シ仲間ヲ退去スル者トス。但元円掛金無心者口出儘退去スベシ」 (第13条)と され,村八分的共同体規制が明記されたのであった。共有金運用主体としての

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      部落共有金穀の運用と名望家支配 (2) 119 竈部落は,部落共同事務並びに国政委任事務の遂行者であり,救貧機能をも備 えた金融機関=金貸しであり,同時に小地主でもあるという三重の性格規定を うけるものとして立現れたが,それら諸機能の円滑な運用を保証するものとし て,金銭支出を伴った地主層(正・副取扱長)の共有金運営業務への恒常的な 動員と,全部私民に対する共同体規制の徹底化が,改めて明示される必要があ ったのである。  以上,規約書の締結をもって共有金は,明確なる運用上の規範が与えられた のである。次に規約書締雨後の運用の実態を以下の3期に分けて分析しよう。  2,規約書締結以後の運用過程 ① 1891年(明治24)∼1893年(明治26)  この期は東海道線開通後の村経済の一時的沈滞期にあたり,共有金の全体額 も1891年913円から1893年753円へと停滞するが(表5),内容的には以下にみ るようないくつかの新しい特徴点が現れていた。  まず支出面では(表8),規約書で定められた正・副取扱長への報酬支払い が現れるが,同時に各組長へも報酬が支払われている点が注目される。共有金 穀の貸付けの際に組長は重要な役割を果たし,また部落諸事業は月3∼5回開 催される組長会で決定されていたため,そうした諸事業の円滑な遂行のために は組長たる自作・自小作中堅層の動員二協力がどうしても必要とされたからで あった。またこの期より坪刈り補助や郷蔵修繕に共有金が毎年支出されるよう になり,さらに1891年には125円をもって畑地2ケ所を購入し,以後若干の畑 小作金収入が計上されている。だが前期まで恒常的に行なわれていた無尽出金 がこの期にはみられなくなり,そのため無尽落札金収入は消滅し,収入額は 100円前後に低迷することになった(表9)。  次に貸金の内容を表10によってみると,規約書の規定により,1891年から普 通貸と助貸の2本立てになっている。前者は140円∼243円(3∼4人)と停滞 しているのに対し,後者は1891年548円が村内8組の困窮者に対して貸付けら れている。この期共有金は,共有籾と同様に,駄賃稼ぎや鉄道工夫画意の副収 入を失って生活苦にあえぐ中下層民に対して,生計扶助手段として貸出された

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120 彦根論叢第237号 表8 共有金支出の内訳(1891年∼1920年) 歪曲妾8● 63 @         9臼     9臼 ・費券債鱗国 ㎝㎝ ㎜㎝㎝㎜襯㎜ 踊麟 枷謝 ㎜襯脚   ㎜棚812  4444忽3  511   77   1515忽     139G  費 業⑥勧 騎お㏄307051娼5447弱⑲6385024504器93657036銘8920005565298820L3.aaLLL445.皿乞皿翫2。4。a駄鉱aa諏⑩4聡4盛凪且億      9日   2  費 生⑤衛

㎝朧 藻  翻  謝鵡翔

●製 93 U6 V3 P1 P5 P1

X14182021202349165441興313131お323332器353662帥82

49 P9 X4 O9 @       1       0り 租課公公② 9? R2 S0 P3

@      1

・費蟻 63 P7 P7 P9 P9 Q1

ッ7043餅492345雌5170㎎菊93備8473翅獅捌姻獅㈹相鎚

︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ¥bノ ︶ ︶ ︶㎜難慰撫鯉讐鞭羅嘱罷灘鮒鵜¶←       −       i 出所) 「三共有金台帳」及び各年次「門口有金計算帳」より集計 注)厘以下四捨五入①祭典費では、毎年秋の風祭のほか、1914年より新嘗祭、    1915年には大嘗祭の経費が加わる。④報酬。手当は、正副取扱長と各組長報酬。    1903年に区長(常設委員)報酬が加わる。1918年に区長(常設委員)並びに組長    報酬増額⑥勧業費には毎年の坪刈経費が含まれている。

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部落共有金穀の運用と名望家支配 (2) 121 単位:円 ⑨教育費

⑩土地

w入費

⑪陸軍

ヨ係費

⑫その他 ⑬合 計 備         考 125.86 222.95 ③郷蔵修繕含む(以後同様)⑩畑2ヶ所 2.01 3.20 60.01 80.65 ⑥杉苗640本購入代含む 0.11 146.33 ⑦軍事公債払込金 48.90 3.41 246.39 ⑦同上⑩郷蔵敷地買受代 1.26 62.24 4.80 4.76 109.801③里道橋梁費⑦農工銀行株払込代 5.27 T.27 20.63 2.80 V.92 178.47

1騨灘講講響含む

5.27 271.67 ①愛宕神社再建費109円含む 5.75 5.08 384.63 ⑦御厨銀行新橡払込金 5.74 T.74 103.78 X0.98 2.20 T.31

麗:lll灘纏蕪⑥膿会費醐

1 7.05 279.71 0.541,101.95i⑦御厨銀行株500円⑧同行へ借金返済 1 5.57 12.44 263.551⑦国債払込金⑧同上 52.92 23.6G 31.42 358.61 ①村社屋根替費含⑧同上⑫戦勝祝費含 36.91 0.19 59926 ②村社土地御料地払下代111円⑧同上 2.40 274.75 ⑤富士岡村衛生費補助⑥共有地分割経費 56.39 0.30 8.37 361.13 ①愛宕神社修繕費⑨教員住宅修繕 1.50 21.34 55.07 236.11 ⑨農業補習学校修繕 24.83 374.00 ③芹沢橋改築費100円 9.56 1◎.10 412.69 ⑥二子山植林代 2.5G 16.12 17.19 534.06 ⑩村社修繕⑥同上⑪陸軍演習雑費 4.18 7.48 685.54 ①御還宮式、宣戦布告祭費⑫出入営費 13.12 2.70 337.73 ③明治矯架橋78円含 5.95 3.50 188.89 ⑤トラホーム検診費⑥共有地分割経費含 3.00 31.01 279.95 ⑥二子山植林代⑫陸軍へ寄付金10円 5.59 2.16 710.76 ⑤隔離病舎修繕費⑥部農会費・畑開墾費 66,5禽 乞80.GO 104.60 @8,79 12.53 U8.19 1,346.10

_灘欝欝難灘噺

農工銀行 ⑨教育費1897∼1905年までは学資金利子がほとんど。以後教員住宅建築費や分教場存廃を めぐる運動費(1912年、1915年等)カミ加わる。⑩1904年までは貸付金滞納による質地買受が ほとんど。1919年は、富士岡村基本財産造成のため各部落より山林寄付のため山林購入費 ⑪陸軍廠舎を自部落に誘致するための運動費がほとんど

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!22 彦根論叢第237号 表9 共有金収入の内訳(1891∼1920) 醐錦鉄代 瑠媚朧課纒捌脚  魍 鷹號1      1  金 付⑤寄

譜朧粥㎝瑠擶畿m  瑠鵬

産代財却④売 潤      部  茄涕朋   器澗馬縄茄 鋭魂 澗紛 99655    捌 ㎜3鴨  脳11誘野田2灘 当子硫利 肥000092004037205093妬1358肥9040  ゐ飾  4578%05054675臨翫n舩開田鉱舩器π田田田田鴨脚 肌肱 臆肌肱肱肱脇㈲      1     1        1     ¶■ 1  1  1  1  1  1

33 P3 V5 V5 U9 O5 W1 V1 X1 U5 O3

^鎗鑑鷺㌶機器器鶴鵬鑑嶽講書瓢

計合 ’5 R1

@      11  11111  11      1122

面作小① 畑 70 V0 R5

♂辯l41。aLLLL4翫6.皿器隠隠器皿舩 器ル 弧臨ル焦捻嬢捻

魏俵田

捌繍欄鞠醐灘繍㎜幽明鯛㎜灘㎜刷

目項次 年 出所)表8と同じ  注) 厘以下四捨五入②貸金及預金利子では、1913年より御厨銀行預金利子が

(15)

部落共有金穀の運用と名望家支配 (2> 123 単位 円 ⑦補助金 ⑧陸軍

@収益

⑨使用料 ⑩その他 合  計        、         考 0.89 108.33 129.06 1.13 88.04 100.62 4.10 114.11 118.35 160.62 32.00 703.19 ④共有籾67俵売却代 247.30 220.87 0.08 435.66 ④軍事公債売却 515.31 814.90 ⑩三部落共有金野分繰入金 0.1 203.31 586.31 ④土地交撫こよる⑩畑補助金 501.50 848.98 ⑩御厨銀行株式買入のため同行より借入 291.99 310.68 5.0 554.22 ④共有籾売却⑨溜池使用料 5.0 365.22 5.00 5.0 4.59 391.03 ⑦神二二常料富士岡村より以後同じ 5.00 28.12 5.0 1.00 45L65 ⑧馬糞収益 19.35 5.0 LOO 811.23 ④共有籾・枯損木売却代 ⑦隔離病舎修繕費富士岡村より12円 7.00 18.90 657.50 ④風損木売却125円、圭地売却55円 7.oo 321.25 1.00 L355.47 ④山林土地売却⑧共有地を陸軍へ売却 代200円含 12.∞ 43.69 549.69 55.68 581.42 13.00 27.15

LOO

598.91 13.GO 95.48 5.80 999.97 ④共有籾82俵売却代 13.00 177.61 1.00 916.15 U.00 908.73 4.00 ,725.98 ⑧742円廃弾売却金 20.⑪0 74.42 1.00 914.21 加わる。③配当利子は、銀行株及び国債の合計④補助金は、1909年富士岡村からの神 撰幣吊料がほとんど⑧陸軍収益とは、人馬糞擁弾等安価払下物の売却金と報償金。 /

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124 彦根論叢 第237号    表!0

共有金貸付の推移

1890年(明23)  91 ( 24)  92 ( 25)  93 ( 26)  94 ( 27)  95 ( 28)  96 ( 29)  97 ( 30)  98 ( 31)  99 ( 32) 1900 ( 33)  1 ( 34)  2 ( 35)  3 ( 36)  4 ( 37)  5 ( 38)  6 ( 39)  7 ( 40)  8 ( 41)  9 ( 42)  10 ( 43)  11 ( 44)  12 (大1)  13 ( 2)  14 ( 3)  15 ( 4)  16 ( 5)  17 ( 6)  18 ( 7)  19 ( 8)  20 ( 9) 助字(無利息年賦貸) 貸付額 人  数

 712826831774244842608833622221 853468375777524216008872665003

円︻&9甑乳&7。&L94。45。τ4。93α乳ε439。43L2。9。8。&5

 4224769722218!5249542099843339

 544311    

34544211111

 8組  8組  8組  8組 5組と8人 5組と5人 3組と4人   4人   1   1   !

 24

 22

 21

 20

 17

 10

  9.   8   8   7   7   6   7   6   4   5   4   4   5 普 通 貸 (利付 貸) 貸付総額 内杉山左門内勝又兼作人  数 治預り  預り   (他部落)    円   804.76   104. 83   178. 12   243. 69   279. 82   316.41   383. 27   503. 58  1, 045. 63  !,186.69  1, !40. 62  1, 19!. 66  1, 436. 02  1, 332. 04  1, 052. 35  1,135.72  1,123.96  1, 148. 58  1, 281. 55  1, 353. 02  1, 580. 60  2, 030. 01  2, 296. 82  2, 392. 50  2, 357. 37  2, 4e4. 60  2, 467. 49 1 2, 315. g4  2, 413. 68  2, 190. 48  1, 926. 56  円 238.94 !8.85 132.01 85. 78 163.10  832. 77  940.23 1,239.49 1, 251. 20 1, 234 57 1, 249, 21 1, 250, 32 1, 277. 61 1, 328. 42 1, 337. 58 1, 301.34  円 270. 97 252. 92 392, 26 548. 39 573. 22 600 21 623. 49 661.87 435. 95 300.00

明のののののののののの前前の幻㊧幻④の勿のの勿の

       ︵︵︵︵︵︵︵︵︵︵︵︵︵︵︵︵︵︵︵︵︵︵︵

 人

不33444551011!0812121216!6181415!21315161615131212!2!1

出所)各年次「三共有金計算帳」より集計。 注)。杉山左門治は共有金取扱長,勝又兼作は同副長を歴任した人物。    。厘以下は四捨五入。    。この表には1902年よりの滞貸据置分(24・一円113円,2人)は加えていない。

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      部落共有金穀の運用と名望家支配 (2) 125 のであった。だが無尽金融との連繋を欠いたこの時期には安定した収入源が得 られず,その後貸金全体は大きく拡大されることはなかったのである。 ② 1894年(明治27)∼1904年(明治37)一日清日露戦間期一  共有金全体額は,1894年773円から1904年には2,668円へと実に3.5倍に増加 している(表5)。日清「戦後経営」による地域統合策の進展と地域産業の発 展に伴い,共有金の支出並びに貸金業はともに拡大し,またそれを賄う新たな 資金獲得方法が確立されるのがこの時期の特徴であった。  まず支出増をもたらした要因を表8でみよう。第1に,寺社祭典費は従来の 村社中心の支出に加え,1898年信心寺修築に25円,1900年至急社愛宕社に109 円等の多額が支出されて増大している。第2に,1897年衛生法施行に伴う隔離 病舎の建設費として1903年244円の多額支出を余儀なくされている。富士岡村 は,政友会県議で村長をも兼ねる土屋五東の政治活動により,多額の県補助金       の を獲得し,各部落ごとに隔離病舎が建設されたことで知られる。その際補助金 交付がなされるまでの資金として一時御厨銀行からの借入れがなされたが,こ の共有金244円はその返済金の一部に充てられたものであった。第3に,土木 費や勧業費もこの期の商品経済の浸透と勧農事業の活発化を反映して,少額で はあるが増大している(1897年・98年の橋梁工事費67円,毎年の坪刈費,1903 年部面…会費補助6,7円等)。富士岡村ではこの時期県から96∼291円の補助を得 ビ  て,村内主要幹線道路騙甲州街道の修築を行なっていたが,共有金はそうした 村財政ではゆき届かない部落内里道や橋梁の修築に充てられているのである。 このように共有金は名望家層が繰り広げる財政誘導=補助金獲得による村行政 事業や農会活動にみられる村民組織化活動を,資金面で援助或いは補完する役 割を:果たしているのであった。第4に,この期は貸金返済未納による質地雨請 が活発であり,合計544円を投入している。第5に,無尽出金に代って銀行株 及び国債への出資が活発に行なわれ,合計1,156.85円とこの期最:大の支出項目 となっている。まず日清戦争期(1894・95年)の軍事公債に200円が払込まれ, 60)前掲拙稿『歴史学研究』538号,!985年。 61) 当該期富士岡村「決算報告書」より。

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 126 彦根論叢 第237号 次で1897∼1900年には農…工銀行へ40報ずつ4回の払込みが行なわれた。さらに 御厨銀行へは,1901年の増資の際に手持ちの軍事公債180円を買却して新株15 株280円(1901年242.5円,1902年37.5円)の払込みをなし,!904年には同行か ら500円を借り入れて,旧株10株を購入するほどであった。当時竈共有金取扱 長の杉山左門治は,御厨銀行の頭取でかつ同行第2位の大株主であり,また副 長の勝又兼作も1899年より同行職員として勤務している。こうして彼等は自己 の経営する銀行の運転資金に少しでも資するため,やはり自己の支配下にある 共有金をできうるかぎり大量に導入していったのである。  次に上記の支出増を賄った収入の内容をみると(表9),貸金の拡大と所有 小作地の増加によって利子収入・小作料収入ともに,1894年半ら1903年にかけ てそれぞれ5.6倍・1.5倍に増加し,加えて国債並びに銀行株の取得によって, 配当収入も1896年19円,1901年27円,1904年83円へと増加し,前期と比べ安定 した収入の推移を示したのであった。  最後に貸金の動向を,多額の臨時収入との関係で考察しよう(表10)。この 期貸金は1897年前で600円前後に停滞するが,翌1898年1,117円に著増し,1902 年さらに1,751円へと増加している。1898年の516円余の増加はすべて普通貸の 増加であり,これは同年共有籾67俵の売却金487円余がすべてふり向けられた ものであった。ここで普通貸の利用者層を1902年時点で確認すると,部落有地 の小作料滞納分が貸金に振りかえられた4名と他部落者3名を除くと,2名の 商人のほか4名はすべて正・副取扱長(杉山左門治・勝又兼作)を含む1∼9        等の部落内上級地主(自作地主)であった。また貸付金額も100円∼200円台と 大口貸付けがほとんどを占めていたのである。このことは,9等以下の自作・ 自小作・小作層が利用,返納した共有籾が,売却換金されて,9等以上の地主 層の資金需要に供されたことを意味した。  次に1902年の535円の貸金増のうち131円は普通貸の増加分であるが,404円 62) 4名の小作料滞納者を除くと普通貸利用者は以下のとうり。杉山利十郎(地主6等)  33門,勝又兼f乍(地主8等)252円,杉山左門治(地主1等)188円,伊倉直蔵(地主9  等)100円他部落者3名詮120円1,36円,160円(名称略)(「明治35年竈共有金計算帳」)

(19)

       部落共有金穀の運用と名望家支配 (2) 127 は,竈・沼田・萩野3部落のいわゆる「三部共有金」がこの年分割され,竈所 有分が共有金に繰り入れられたものであった。「三部共有金」とは,3部落が 共同経営していた小学校大成舎の学資金積立金であり,1887年以来3部落民に 貸付け利殖されてきたものであった。従ってこの分割繰り入れ分は,実質的な 共有金貸金の増加分ではなく,名儀上の書きかえにすぎない。だがそうであっ ても,この時繰り入れられた「三部共有金」の借入者の階層を明らかにするこ        表ll 助貸利用者の階層(!902年度) 氏 名

㌦眼指借入鋼薪掃動備

1窟1瞳難魏等i[

小 野 豊 次 郎 杉 山 義 三 郎 九  島  長  平 鈴 木 市 五 郎 小  林  福  次 点 林 源 三 郎

小自作(19)

1ノゴ、    f乍  (23  ) 小   作  (18 )  自 小f乍  (18 ) 自  作 (!4 ) ’小 自 作  (19 )

︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶

54!9780808999251111!1212111121

︵  ︵ ︵  ︵  ︵︵  ︵  ︵  ︵  ︵  ︵  ︵ ︵  ︵ ︵

作作作当作作作明夫作作作作満作

小小自小小 斑二

丁自自小自自小野鉄小小自小小自

平吉郎平郎平吉郎郎郎郎郎郎吉吉

二二三九五順太太五五三三三廣廣

  元大 市浅安茂出町

田山林山崎林山山倉辺山村山山林

長杉榑杉山小杉杉伊渡杉中横横栗

25 300000 0!400900400978

391900000001080405400767

円−冷つ遵つユ0 。0﹄憾﹄刃2﹄0702500242

00 U0 P9 P4 P0 I4

W585219221αLαα10LaL2.

−⊥ 整、1

4 IA

1 IO(2−2), @(7) 1  1 1 2.5

32

1.5 O.5 1

L5

2 1 i 2 2 LN @(2), A

A

O(7−3), A @(2) @(1), A @(6) @(5−2) O(O−2), @(5−2) @(5−2) O(1−2), A 出所)「共有金計算帳」「勝又家・杉山家小作帳」等より。  注)○印は勝又家小作人,◎印は杉山家小作人,△印は共有地小作人,O内は納   入小作米(俵一斗),養蚕掃立枚数は1904年度のもの。

(20)

 128 彦根論叢第237号 とで,我々は1902年時点における竈部落共有金全体の貸金利用状況を把握する ことができるのである。その「三部共有金」借入者のうち1902年時点ですでに 他部落へ移転していた3名分118円は普通貸に繰り入れられ,残り24名分286円 が御開にふり分けられている。そこで後者に編入された者を含めた1902年の助 郷の利用階層を表11によって確認すると,杉山利十郎(8等自作地主)を除き, 他の23名は戸数割等級11等∼17等の自作・自小作8名,18等∼24等の小自作・ 小作・雑業層15名という構成であり,貸金額も24輪中22名が30円以下の少額で あった。また彼等のうち17名が掃立枚数1∼4.5枚を営む養蚕農民であり,7 名が共有地小作人,8名が杉山家小作人(そのうち5名は5∼7俵を納める中 堅小作入),4名が勝…又家小作人であった。  以上見てきたように,この期の共有金は,一方で地主==名望家層が,国家の 地域統合策に協力して繰り広げる地域利益誘導策や農会を通じた生産農民の組 織化活動への資金援助にあてられるか,’地主の運営する地方銀行や彼等への直 接的資金需用に供されることによって,名望家層の経済的並びに政治的な地域 支配の安定化に直接資する役割を担わされたのであった。だが他方で,共有金 は,部落共同事業支弁による部落協議費負担の肩替りや,「三部共有金」の無 利息年賦貸への繰り替えによる養蚕その他生計資金援助を通して,客観的には 中下層民の生計扶助と小作料並びに諸税上納を可能にし,主観的には彼等を地 主=名望家層の支配のもとにからめとる同意獲得装置としての機能をも担った のであった。 ③ 1905年(明治38)以降一日露戦後から第1次大戦期一  この鉢叩有金の絶対額は,1905年(明治38)から1910年(同43)の日露戦後 期には1800円∼2000円台に停滞するが,以後増加に転じ1914年(大正3)に は3,891円,1919年(大正8)には第1次大戦による物価高騰の影響も受けて 6,508円のピー・一クに達している(表5)。  まず支出額は,1917年までは平均377円と前期の平均支出345円を上まわる支 出が続くが,1918∼1921年にはさらに710∼1,607円という巨額支出を余儀なく されている。こうした支出増をもたらした要因をあげると(表8),第1に,

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      部落共有金穀の運用と名望家支配 (2) 129 神社祭典費では通常の維持・管理費に加え,日露戦後の「地方改良」運動や第 1次大戦期の国民統合策に伴う諸費が計上されている点が注目される。日露戦 争戦勝記念費として1904・05年に7円,日韓併合祝賀会に1910年10円,第1次大 戦宣戦布告祭と御遷宮式費として1914年151円,また祭典費としても従来の風 祭り経費に加え,1907年より年賀式,1914年より新嘗祭(5円∼18円),1915年 には大嘗祭の式典費(4円)が新たに計上されているのである。そしてこれら 国家的式祭典を担う神官に対し1907年から給与支給がなされている(4円, 1911年以後!0円)。第2に,教育費では日露戦後期と第1次大戦後;期の富士岡 小学校費の高騰を補填するための費用が,1906年52円,1909年56円(教員住宅 費),1919年66円(同左)支出されており,衛生費でも1908年衛生法改正に伴 う支出増(31円)と,1918年をこは再び187円の隔離病舎修繕費の支出を余儀な くされている。両者ともこの期の行政村を通じた国家政策の推進を末端で担 うものであった。第3に,この期の商品経済の一層の進展と陸軍演習場建設 (1907年隣村原里村継妻廠舎,1908年玉穂村滝ケ原廠舎)に伴う人員・兵器並 びに一般物資の搬出入が頻繁を極めたため,道路,橋梁の修繕費が年平均68円 にものぼり,1911年,!919年にはそれぞれ177円,365円の多額支出を余儀なく されている点である。特に19!8∼19年の支出増は従来の里道に加えて陸軍廠舎 に連なる県道修繕費用にも共有金が費されたためであった。第4に,勧業費も この期の農事改良事業の進展を背景に1910年代に増加している。主なものをあ げると,部落有林への植林費(1912・13・18年に計76円),部農会品評会補助 費(1905・18年合計32円),畑開墾費(1918年175円)等であった。第5に, この愛息叉兼作等上層の地主=名望家層を筆頭に8等∼16等の自作・自小作層 も含め貢ぐるみで展開した,独自の地域利益獲得運動への支出である。1906年 日露戦後の軍拡政策の中で,御殿場地域の共有地内に陸軍演習場が拡大され陸 軍廠舎の建設が図られるが,竈部落では自部落に廠舎を誘致するため関係町村        に訴えるとともに,上京して陸軍省に陳情する等活発な請願活動を展開した。 63)例えば竈部落が自部落への廠舎誘致を求めて陸軍省へ提出した請願書には.杉山茂  平(8等),九島平吉(14等),勝又助五郎(15等),杉山国五郎(16等),長田梅吉

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 130 彦根論叢第237号 そのための旅費や集会等の諸経費が1906年∼1901年にかけて合計100円程計上 されている。結局竈部落の要求は実現しなかったが,隣町村との交渉の結果陸 軍から安価に払下げられる人馬糞・廃弾等の一部を竈部落に毎年配分するとい        の う条項を獲得し,1910年以降18円∼908円に及ぶ収入を共有金にもたらしてい る。また富士岡村では日露戦後の小学校統合政策の進展の中で,分教場のある 竈部落と神山部落,さらに行政村当局の3者の間で,分教場の存廃や統合する 小学校の位置をめぐって対立が激化するが,この問題についての集会その他経 費が1912年以降計上されていることも注目される。第6に,この期も引き続き 御厨銀行への投資が活発であり,1908年・1913年・1919年の増資の際にはいず れも対応し,合計1,557.5円の多額が払込まれている。だが他方で,前にみた 1904年の増資を賄った御厨銀行借入れ金500円の返済が,1904∼07年の時期に は他の支出項目に圧迫を加え,共有金の運用を一時的に停滞させていたことに も留意しなければならない。従って借入金への依存を避け,増大する諸経費を 賄ってゆくためにはより安定した資金運用の方途が見出されねばならなかっ た。竈部落ではその方途を銀行預金の活用に求めている。1913年の収支余剰金 821円は,貸金へ廻されず,また取扱長に預けられることもなく,御厨銀行に 預入れられている。以後の収支余剰も同様の措置がとられ,銀行預金額は1917 年以降2,000円台に達し,貸金額を凌駕するに至っている。  では以上見てきた諸支出はいかにして賄われたのであろうか。表9をみる と,日露戦後期においては,共有金収入は田畑小作料・貸金及び預け金(個人) 利子・配当収入の3本柱から成るが,大正期になるとこれに陸軍からの諸払下 収入が加わり4本柱を形成していることがわかる。この中でも特に銀行預金利 子と配当収入は,多額の銀行預金が開始されまた株式購入が活発に展開された 大正期に,両者で250円∼310円に達している。この額は,巨額臨時収入がない   (15等),伊倉市太郎(8等)の名がみえ,中堅の自作・自小作層をも動員した運動   であったことがわかる(菅沼武男「富士裾野陸軍廠舎建設の頃を語る」『北駿郷土研  究』所収) 64) 『市史』第9巻,145頁。

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      部落共有金穀の運用と名望家支配 (2) 131 場合には,収入金の約5割にあたり,この期共有金が銀行資金に決定的に依存 するに至ったことを示している。また少額であるが,この期の神社統合策によ る村社への神螺幣吊料が1909年より計上されている点は注目される。次に臨時 収入の主な使われ方を表8・9を対比させて明らかにすると,以下のようであ る。1907年共有籾70俵売却金234円→御厨銀行への借金返済282円。1911年共有 籾・枯損木売却金358円→土木橋梁費177円。1912年風損木・土地売却金181円 →株式購入150円。1913年山林・土地売却金813円→宣戦布告祭等150円・株式 購入242円。1917年共有籾82俵代300円→銀行預金預入れ。1919年陸軍収益908 円→土木建築費365円・山林購入費280円,等。このように,共有籾や±地売却 金等の臨時収入は,前述の諸支出中多額を要するものにふり向けられており, 前期のように貸金の拡大に廻されることはなかったのである。しかも上記巨額 収入は,多額の収支余剰を生み,それが銀行預金に預け入れられたことはすで に述べたとうりであった。  最後に貸金の動向を表10によって確認すると,普通貸は量的には,1905年 1,135円から1911年2,038円に達し,以後2,000円台を保っており拡大傾向にあ るようにみえる。しかし,その70∼80%は正・副取扱長のもとに独占的・固定 的に預け入れられており,それを除いた=普通貸金額は,1907年1,062円(16人) から,!916年616円(11人),1920年325円(9人)へと減少の一途を辿ってい る。次に無利息年賦の助貸をみると,!907年240円(10人),1916年42円(4 人),1919年38円(4人)と,大正期にはほとんどネグリジブルな存在に陥っ ていたことが確認できる。  以上見たように,未曽有の増税期であり,同時に米反収の増加と養蚕業を中 心とした商業的農業のいっそうの発展期であったこの時期において,共有金 は,増大する農民の資金需用に十分応えることができず,むしろ地方銀行との 結合をいっそう密にする中で,増大する諸経費支弁の方向に投下されていった のであった。だがその諸経費の内容も,すでにみたように,単なる部落の共同 事務管理費だけではなく,むしろ名望家層が,国家の国民統合策=「地方改良」 運動と連繋しつつ推進した,村民の生産・生活並びにイデ1’ Pギ一面での組織

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132 彦根論叢 第237号

      表12勝又家収入の推移

米販売

1893年春明26)  94 ( 27)  95 ( 28)  96 ( 29)  97 ( 30)  98 ( 31)  99 ( 32) 1900 ( 33)  1 ( 34)  2 ( 35)  3 ( 36)  4 ( 37)  5 ( 38)  6 ( 39)  7 ( 40) 113.35(38俵) 134. 94 (38. 3) 38.14(11.2) 194.93(57.1) 116. 75(30. 0) 191.78(39.2) 216.40(不明) 111.75(23.2) 217. 80(38. 1) !57. 62 (28. 0) 125. 88(22. e) 286. 25(33. 3) 125.65(23.2) 36.00( 5.2) 158. 66(24. 3) 畑   収   入 モロコ図ミツマタi計 9.75  0  0 3.5 12. 25 7.0 11.1 16.0 22.6 19.84 14.4 5.9 23. 25 20. 75 22 10. 06  0 22.28 8. 78 16. 87 31. 48  0 10. 80 13. 70 0. 08 14. 17 4. 20 3.71 1. 87  0 20.82 3. 38 29. 74 15. 74 30. 27 59.55 15.66 77. 9 41.7 25. 42 58.31 80.15 30. 88 22.62 22.00

繭販売  生糸販売

 1.77  1. 32  2.85  8. 00  2. 34  4. 36

1L5

 1.54 12. 1 13.09 129.8 31.05 135.71 179.4 197.00 114.08(3貫005匁) 103.00(2貫82) 250.50(5貫411  ) 230.93(6貫47) 238.50(6貫 18  ) 230.00(5貫812  ) 230.67(4貫343  )   0 229.58(5貫510) 49.10(1貫 30  ) 15. 40   0  L9 10.8   0  出所)勝又家「金銭出納帳」各年次より集計。 注)厘以下四捨五入。 化活動や,独自に繰り広げた地域利益獲得活動を資金面で援助する事項が,そ の過半を占めていたのであった。こうして共有金は,その独自の農民的自衛組 織としての機能を相対的に低下させ,代って新たに確立された名望家層による 村民支配様式を資金面で支える方向に自己の存続の方途を見出したのであっ た。  3. 自作地主経営と共有金  ここでは,史料上また紙幅上の都合から,1893年(明治26)∼1907年(明治 40)の時期に限って,共有金が自作地主経営の中で果たした役割を4町歩地主        65) で,共有金取扱副長を歴任した勝又兼作家を例にとって考察しよう。  勝又家は,1890年代は田約2町5反(内小作地約8反),畑約1町5反(内 65)勝又家の経営分析については,他日全面的に明らかにする予定である。ここでは,   「田畑自作,小作受納帳」の集計表や貸金業の実態を表した表など紙幅の都合上割愛   せざるをえなかったことをお断りしておきたい。また以後断らない限り,田畑収量の   数値は「田畑自作小作受納帳」,金銭収支の数値の説明は「金銭出納帳」によるもの   である。

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部落共有金穀の運用と名望家支配 (2) 133 単位;円 給与報酬   0   1. 88   1   1.86  2. 80 12.72 31.42 133.00 142. 00 125. 50 157. 50 132.00 171.00 185.00 212. 40 株式配当   o  o   o  o  o  o  o  o 13.13 1ユ。57 23.42 22.33 70.33 24.ユ5 26.54 貸金利子 21.6 23. 48 30. 72 65. 39 35. 38 55.!0 83. 08 93.!6 52.11 96.68 61. 57 113.17 41.13 45. 14 36.64

宿泊料

42. 95 55. !9 47.64 27.25 16. 31 49. 47  0  0  0  0  0  0  0  0  0

畑小作

11111

その他

1 ! 1.5 2.65 1.5 7.8 6.4 26. 49 17. 89 8. 06 9. 59 11.67 30. 47 18.46 25.81 26. 58 16.67 13. 04 22. 64 14.74 24. 22 14.92 計 332. 76 333. IO 395. 29 526. 16 439. 32 620. 86 567. 55 384. 32 719.41 460. 53 Jr 62. 93 590.24 677.95 514.63 669.28

表13勝又家支出の推移

単位 円 1893年(明26)  94  95  96  97  98  99 1900   1   2   3   4   5   6   7

︵︵︵︵︵︵︵︵︵︵︵︵︵︵

7890123456789022233333333334

︶︶︶︶︶︶︶︶㍉ノ︶︶︶︶︶ 経  営  的  支  出

土比論二二舩一三小計

28. 27 22. 39 32.82 1エ0.48 58.40 78.61 54.02 69.37 38.54 59.21 29.92 27.49 21.85 27.77 67,47 59.54 60.11 69.05 !01.53 126. 47 150.70 124. 07 96.20 !32. 38 117. 89 107. 84 104. 44 124. 34 83. 65 113. 80 1 43.10 44, 64 42.70 45,54 42. 40 5!. 04 47.78 59.38 57.18 63, 27 80.99 74. 87 91.24 92.56 95. 58 10. 67  9.64 40.32 104.97 63. 73 65.60 122.30 105.14 137. 20 97.21 68.51 102. 95 69. 45 54. 32 68. 43 141.58 136. 81 184.89 402. 38 291.00 345.95 348.17 330. 09 365. 30 337. 58 287.26 309. 75 306.88 258. 30 345. 28 家計的 支 出 98. 40 !78.53 221. 89 152. 22 220. 61 286.72 185. 43 280.82 251.84 248.22 262.62 253.15 356. 20 371.00 442.91 合 計 239.98 3!5.34 406. 78 514. 74 511.6! 632. 67 533. 60 610. 91 617. 14 585. 80 549.88 562.90 663. 08 629. 30 788.19        l 収支差引            92. 7sl   17.76 △1!.49   11.42 △72.29 △11.81   33.95 △226. 59   102.27 △125。27   13.05   27.34   !4. 87 △114.67 △118.91        」 出所)前表と同じ。 注)。家計的支出1905年よりの急増は,長男幸雄氏の中学校費        るところが大きい。      。収支差引△印は赤字,厘以下四捨五入。 (53円∼147円)によ

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134 彦根論叢第237号         表14勝又家の貸借並びに資産売買状況 1893年(明26)  94 ( 27)  95 ( 28)  96 ( 29)  97 ( 30)  98 ( 31)  99 ( 32) 1900 ( 33)  1 ( 34)  2 ( 35)  3 ( 36)  4 ( 37)  5 ( 38)  6 ( 39)  7 ( 40)      収 ①借  入  金

騨1賄金蕪’計

   00 0 00000 0

000070000070405

   21322122

00000000

270 252. 90

 0

 0

 0

 0

 0

276. 22 125.75 590.73 136.24 341. 80 317. 38 14. 00  0 75.06

000∩VO

276.22 125. 75 590. 73 336. 24 511. 80 317. 38 3!4. 00

 0

550. 06 452. 90 70. 00 100. 00 240. 00

 0

250.00 @  預り金 49.74 215.43 87.38 76.83 40.49 123.98 246.8 〈!00 > 255.3 〈219.6> 457.2 〈249 > 298.9 〈 77 > 83,39 169.55 88.78 228.30 278.64 @  貸金返金 105.41 121.04 165.98 384.91 200.00 479.50 452.56 357.54 386.6 〈249> 667.00 418.40 436.47 288.13 277.65 332,17 @  立替金返金 入  @  1.15  7.97 10.35  3.48 17.ユ0  3.54  2.10 250.01〈239.5> 60.00  7.4 国幣 財売 20 411.97 252. 90 170. 20 337. 00  出所)各年次勝又家「金銭出納帳」より集計。  注)〈〉内は共有金,厘以下四捨五入。    ⑤ 1886年の411.97円は小作農からの質地買戻し代金,1903年は立木と隠居家 小作地約2反)を所有=経営する自作地主であり,同時に座繰製糸・宿屋業・ 貸金業をも営む農村事業家であった。ここではその経営収支(表12・13)と貸 借関係(表14)の分析により共有金導入の意味を明らかにしたい。 ① 1893年(明治26)∼1898年目明治31)  この期の勝又家の収入は,田畑作物販売約40%(1895年を除く),生糸売却代 34∼54%,宿泊料金5∼16%,貸金利子6∼12%という構成であり,自作中心 の田畑経営と座繰製糸業とで全収入の70∼80%を支えていたのである(表12)。 田収穫期は1891年自作18石3斗・小作8石5斗から,1894年には同28石・8石 とピークをむかえ,以後1898年には23石6斗・6石へと漸減させている。畑作 経営はこの期に稗,粟,大・小豆等の自給的耕種作物から,麦作の導入と玉蜀   みつまた 黍や三極等商業的畑作物の生産拡大へと転換を図りながら,収量も1891年自作 6石1斗,1898年自作19石・小作8斗へと増大させていた。また自家産の繭を

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部落共有金穀の運用と名望家支配 (2) 135        単位:円 @ 計  432. 55  490. 19  854. 44 1, 213. 43  769.39  924. 40 !, O15. 46  612. 84 1, 643. 87 1, 478 80  832, 09  706. 02  616.91  676. 15 1, 197. 8! @t  借入金・  預り金 157. 69 244. 01 239. 10 780. 92 502. 87 354. 82 516. 30 202. 58 支 @,  貸 金 @t  立替金 lll:1灘11諺:器 295.26 i 351.03 1 300.00 1405 89

’91:ll艦:1劃

254.00 1 308.59 i 235.67 l 182. 51

畿[

1 1一一’ n i’ 575. 43 l

L

287. 67 ] .nn 一A i 14.38  0. 72  9. 71 21.07 18.91  5. 54  0.19 243. 93〈199> 376.63<305> 24. 60  2,99 出  産資 ’資投 ⑤  金

 掛

④ 73. 09 92. 36 92,16 90. 27 87. 47 71.84 64. 61 14.80 65. 62 34. !0 35.60 40. 00 25.76 11.76 4. 40 62.50 47.00 270. 00 2!8. 00 105,00 20. 00 4. 06 20. 38 40, OO @・ 計  543. 33  566.60  980, 60 1, 350. 29  970.80 1, 076. 96 1, 156.53  739.98 !, 628. 72 1/083.31  705. 26  785.89  483. 40  307. 42  566. 99 収支差引 (@一@’) A136.81 A 76.41 A126. 16 A136.86 A20!. 41 A152. 56 A141. 07 A127. 14  15.15  395. 49  126.83 A 79.87  133.511 36gl eg[  630. 82 i  屋売却,1906・07年は田・山林・国債等売却。 ⑤’1883年∼97年は質地買受代金,1901年∼1904年は銀行株・国債購入代。 用いた座繰製糸も,1893年繭1石7斗→糸3貫(114円)から1898年繭4石9斗 →糸5貫812匁(230円)へと,収量価額とも2培弱に増大させていたのである。 その他貸金利子収入は,1896年以降増加傾向にあり,漸減傾向にある宿泊料に 代る存在に成長しつつあった。こうしてこの期勝又家は経営的発展期にあり, 収入額は1893年332円から1898年620円へと順調な伸びを示していたのである (表12)。だが支出項目をみると(表13)こうした田畑経営と座繰製糸業の展 開が,勧業費と諸給与支出の著増となつで現れていることがわかる(1893年勧 業費28円・諸給与59円→1898年同78円・150円)。勧業費の中心である養蚕経 営費(蚕種並びに桑弓入費)は,1893年17.6円から1898年50.8円へと増大し, 勧業費を3倍弱にまでおし上げたのである。また諸給与は,1893年時点では下 男2人・下女2人への年雇給与と田植え並びに収穫時の日雇給が中心である が,1898年には,下女1人が加わり,さらに養蚕雇人給与38.3円,糸ひき工女

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 136 彦根論叢 第237号 給与3人35.2円,染糸代15.6円等が加わって給与支出を2.5倍に増大させてい るのである。その他,1896年頃より借入金利子支払いが63円∼104円にものぼ り,また家計的支出も,この期にやはり2倍強に増大していた。こうして,こ の時期勝又家は経営的発展期にあったが,いやそれ故にこそ多大な支出増をも たらし,1893年92,8円の余剰を計上していた家計収支は,以後減少してゆき 1898年には11円余の赤字を計上するほどであった。  次にこの期の貸借関係並びに資産収支状況を表14でみると,勝又家の貸金業 は1893年∼1897年は182円∼310円にあるが,1898年には644円に著増している。 しかし貸金返金は,1896年を除いて毎年40円∼200円も貸金額を下まわり,著 しいオーバーローγ状態に陥っており,貸金返済も滞りがちであった。そのた め1893年∼97年には毎年質地買請を行っており自作経営の拡大にまわしてい た。この買請代金には,経営収麦の余剰金砂に「横糸収入」があてられたが, 不足分は,上級地主や無尽・講,さらに1896・97年には御厨銀行からの借入金 で賄っていた。こうして借金返済金が嵩んでいったが,貸金返金収入が滞り, 経営収支も徐々に悪化してゆく状況下で,再び借入金を導入するという悪循環 が生まれていたのである。このような状態は,1896年小作人杉山源平・神沢悌 次郎よりの小作地買戻し代金410円が入ったため一時的に好転し,1896年には 借入金・預り金を凌駕する返済を行っている。だが1898年には,644円という 多額の貸金需要に応えたため,再びもとの状況に立ち戻っていた。またこの期 の借入金は無尽・講に頼る部分が多かったので,年々の掛金も70円∼90円に達 し勝又家の経営を圧迫したのであった。 ② 1899年(明治32)∼1904年(明治37)一  前期まで経営的前進をとげていた勝又家は,この期2つの方途から挫折を余 儀なくされる。1つは,東海道線開通による当地域の通運業の衰退の影響を受 け,1896年以降不振に喘いでいた宿屋業が,1899年ついに廃業に追い込まれた ことである。いま1つは,最大の収入源であった「横糸収入」=座繰製糸業が, 1900年恐慌の中で経営が立ちゆかなくなり,1903年以降はほとんど廃業に近 い状態に陥ってしまったことである。こうして勝又家は,該期の地域経済の資

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      部落共有金穀の運用と名望家支配 (2) 137 本主義的再編過程の中で大きな打撃を受け,1900年・02年などは125円∼226円 という大幅な赤字を計上し,経営上の危機状況に陥っていたのである(表12・ !3)o  こうした状況に対処するため,勝又家ではまず当主兼作が1899年12月から御 厨銀行に勤務するようになり,翌1900年以降130円以上の給与収入を確保して いる。次に,座繰製糸廃業の後は,養蚕経営に特化し,二二売高も1903年以降 は130円以上を記録するようになる。また稲作経営には大きな変化はみえない が,玉蜀黍や三極の商業的畑作経営には依然力を入れ,毎年ほぼ20円前後の収 入を維持している。さらに貸金利子収入の動向をみると,1899年∼1904年の時 期には,この期の貸金返金の良好状態を反映:して52円∼113円にまで達し,1901 年からは御厨銀行等の配当利子収入も加わり,経営収支の向.ヒに寄与してい る。こうして1900年・02年400円台にまで落ちこんだ収入額は,上記の経営構 造の転換が進む中で,1903年以降再び500円台へ回復していったのである(以 上表12)。  次に支出構造をみると(表13),諸給与支出は,座繰製糸業の不振のため糸ひ き工女二等が減少し,一時的に停滞するが,年雇・日雇を使った養蚕・畑作経 営の振興のために,1895年以前の小規模(60円台)に戻ることなく,100円以上 の額を保持していた。公租公課は漸増傾向にあったが,1902年までは60円台に とどまっており他の支出を圧迫する程の大きな要因にはなっていない。勧業費 は,座繰製糸廃業後は,桑購入をやめ自家産の桑での養蚕振興を図ったため, 1903年以降最大の出費である桑購入費が消滅し,20円台にまで減少している。 また借入金利子支払いは,1899年∼1901年時にはピークの105∼137円に達する が以後漸減傾向を示していった。こうして経営的支出は,この期330円∼360台 にとどまり,家計的支出もインフレ期のこの時期に250円前後に切りつめられ, 全体として勝又家の支出は,1898年632円から1904年562円へと漸減傾向を辿っ たのであった。  こうして勝又家では,支出の増大を最:少限に押えながら,上述の経営的危機 を乗り切ってゆこうとしたのであるが,貸借関係では,この期どのような対応

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