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〈静岡県の民俗〉近現代における地域交通の展開--南海高野線の存続と河内長野を関わらせて

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(1)近現代における地域交通の展開. ー南海高野線の存続と河内長野を関わらせて│. 人. 近現代における地域交通の展開. はじめに. 泰. また、高野鉄道・高野登山鉄道・大阪高野鉄道の金融・資金繰りについての論考には、小川功﹁明治末期の民営. 一九八六年、二九O買に所収)においてまとめられている。. 進み、南海高野線の発展の様子がかなり細部まで分かるようになり、﹃都市近郊鉄道の史的展開﹄(日本経済評論社、. 収)において明らかにしている。乙の段階では資料の制約が多かったようであるが、その後、資料の調査・研究が. 創業史の一酌│﹂(黒羽兵治郎先生害寿記念会編﹃大阪地方の史的研究﹄厳南堂書唐、一九八O年、二六三頁に所. これまでの先行研究では、高野鉄道の沿革については武知京三一寸近代大阪における鉄道建設の一類型│地方鉄道. 本稿では先ず南海高野線について見ていきたい。. ﹁局地鉄道﹂として発足したが、経営面で問題を抱えながら、約一二O年後の今日においても鉄道が存続している。. 道、高野登山鉄道、大阪高野鉄道、後者のルlツとなる河陽鉄道、河南鉄道、大阪鉄道がある。両社ともに元は. できないが、一例そ挙げるならば、河内長野を通る南海高野線、近鉄長野線がある。前者のル1ツとなる高野鉄. 地域交通の発達について考える時に最も適当な地域と鉄道は、どとのどの鉄道であろうか。簡単に答えるととは. 田. 社会資本の挫折と再建高野鉄道のデフォルトと財政整理を中心に﹂(﹃滋賀大学経済学部研究年報第二号﹄. 281-. 井.

(2) 一九九五年、二五頁に所収)がある。後に補筆して﹃企業破綻と金融破綻負の連鎖とリスク増幅のメカニズム﹄. (九州大学出版会、三OO一一年)に収めている。武知氏、小川氏の成果で同社の沿革、経営状態、資金繰りなどが. 明確となっており、本稿でも大いに参考とし、適宜、その成果を取り入れて行く。両者の研究でやや不足している. と思われる部分は、﹁企業努力﹂についてである。不振企業の側面を強調している点に、この部分が見落とされて. いる印象が強い。不振企業であったととに間違いないが、それをいかにして今日まで鉄道を存続してきたのかとい うととは大いに関心を起とすととと言えよう。. そとで本稿では、現在の南海高野線の展開過程を一瞥しながら先の両者の研究であまり触れられていない鉄道会. 社の取り組んだ﹁営業改善策﹂、﹁企業努力﹂について明らかにし、さらに地域の﹁協力﹂や﹁関わり方﹂などを可. 能な限り触れ、不振企業でありながら、今日まで存続した要因を考えていくことを課題としたい。. ととで本論に入る前に河内長野についての概要を記しておこう。地理的には大阪の南東端にあり、和歌山県と隣. 接している。東は金剛山と南は和泉山脈にはさまれている。平安時代には高野山参詣ル1トである東高野街道、西. 高野街道の合涜地点となっており、高野山参詣、いわゆる﹁高野詣﹂の通過点にあり、交通の要所であった。南北. 朝時代には、南朝方の拠点となった行宮が置かれていた。南北朝統一後は守護畠山氏の内紛、三好氏の台頭で戦火. が絶えなかった。江戸時代は幕府領、膳所・西代・神戸・狭山藩領、旗本領・寺社領の入組支配であった。また庶. 民化した﹁高野詣﹂によって三日市は宿場駅として成立し、栄えた。産物としては、みかん、梨などの栽培が盛ん. で、高野一豆腐の産地でもある。明治の半ばには、農家の副業として発展した高向の爪楊枝は有名であり、一時は生. 産額において全国の九割を占めるまでになった。観光・リゾートという点では、温泉地でも栄えた時期があった。. さらに観心寺、極楽寺など名所・旧跡、文化財も多く、その指定数は圏内でも上位となっている。河内長野市は. 一九五四年四月一日に長野町と高向・三日市・加賀田・天見・川上の五村が合併して誕生している。. 2 8 2-.

(3) 近現代における地域交通の展開. もう一点、南海電鉄の沿革. についても概観しておとう。. 一八八二年発足の阪堺鉄道が. そのルl ツである。松本重太. 郎、藤田伝三郎、烏届駒吉な. ど大阪や堺の実業家が中心と. なって設立した。先に設立し. た日本鉄道会社は政府から厚. い保護を受け、半官半民の性. 格が強かったが、阪堺鉄道は. 民力を基本として発足した。. 一八八五年一二月一一九日、難. 波・大和川聞を開業させ、以. 後、和歌山へ南下していった。. 業績は良好で、高配当を実現. した。競合路糠などもあった. が、順次、合併し拡大した。. 一九O七年の固有化に際して. は、国家の買収を受けずに私. 園1. ι.. 南海高野織の夜遅 場輔由民遭 l ' 創 U. 立 1 0 . 7. 寸. 盲膨候温. 1 園開.2. 1 創立. 寸 . レ 実匝高野候遭 1 . 15 . 4 . 3 0 位轟.~. 高野大師候温. 1 ・ 1 7 . ・ . 2 5 創立. ザ │申 │ 一. •. ャ ナ申│RF 松 出 申 典 心 本 弘 1 : : 甫 L 『 海 【 τ 賓 電 』 軒 Z 気 E 闘 組 儀 合 年 道 】 、 側 「 陣 甫 『 岱 甫 溜 畠 剖 富 野 電 1 : : . 気 組 所 候 』 収 に 温 ] つ か 棋 い ら 式 て 作 金 ー 虚 祉 特 . 百 に 年 甫 虫 周 』 肉 ( ・ 1 地8 方 5 年 在 】 中 、 心 近l ニ . ー 日 本 そ の 儀1 道 」 側 [ 罰 『 遁 向 畢 . 野 日 本 市 候 掴 主 温 研 ' ∞ 究 年 会 の 『 支 あ 申 置 み ・ 虚 同 業1 と 0 〈Z ら O 1 t 0 r M J E 可 O 向 1 0 長 年 野 ) . 壷. 283-.

(4) 1 3, 6 0 4 4 5 . 3 % 3 8 . 0 %. 原資料:i 高野鉄道岡第 2回報告書」 出典:武知京三「近代大阪における鉄道 建設の一類型一地方鉄道創業史の一前一」 (黒羽兵治郎先生喜寿記念会『大阪地方の 史的研究』厳南堂書庄、 1 9 8 0年、 p . 2 6 9 ). 表 2 高野鉄道株主の地域分布日設問 1 8 9 6年下半期 地域. 人数(人〕. 比率(%). 1 , 1 1 0 2 6 6. 6 8 . 2 1 6 . 4. 京都府. 9 8. 奈良県. 8 8. 6 . 0 5 . 4. 兵庫県. 1 6 8 8 7 2 6 1 , 6 2 7. 大阪府 和歌山県. 滋賀県 三重県 東京府. その他 合計. 出典:同前。. 1 . 0 0 . 5. 0 . 5 0 . 4 0 . 6 1 0 0. 284-. 鉄として存続した。元々は、南海鉄道と高野鉄道はライバル関係にあった。というのも高野山参詣者を南海は紀和. 7 9 4 . 9 % 9 0 . 0 %. 鉄道との連絡で運んでいた。その後、図ーに示したように、高野鉄道の系統と南海鉄道は合併する。一九四四年六. 1 1, 3 8 6 3 0, 0 0 0. 月、南海鉄道は関西急行鉄道と合併し、近畿日本鉄道になった。戦後には再度、南海の路線は分離され、高野山電. c l aX1 0 0. 1 4 6 4 1 6 2 7. 気鉄道に諸問捜して、今日の南海電気鉄道となっている。. メ上(b) 1 0 0株L b / aX1 0 0. 6 1 8 4. 4 , 1 0 6 2 , 4 5 0 7 , 0 4 8 5 , 0 1 0. 7 1 1. 高野鉄道の創業と、河内長野の有志. 3 0 0棟以上 2 0 0株以上 1 0 0株以上 5 0株以上 c ) 5 0株未満 ( 合計 C a ). 持株数. 一八九三年一 O月、北田豊三郎(堺市市長・堺米穀取引所理事長)たちが資本金一五O万円で堺と橋本を結ぶ. 株主数. ﹁堺橋鉄道株式会社﹂の設立を企図し、免許を申請した。翌年、高野鉄道に改めている。橋本で建設を止めるので. 株数. はなく、高野山ヘ繋げるととを意識しての変更であったと言われる。一八九六年四月四日、鉄道会識において本免. 表 l 高野鉄道株主の構成比率 1 8 9 6年下半期.

(5) 近現代における地域交通の展開. 許状の下付が決定した。南海の堺駅を起点に和歌山の橋本までを結ぶ 鉄道で、路線距離は約四OMであっ︹問。創業問もない頃の株主構成を みると、表 1のとおりとなっている。一 O O株所有の株主が全体の 五%弱で、五O株未満の株式所有株数の少ない株主が圧倒的に多い。 地域分布では大阪府の株主が最も多く、次いで沿線となる予定の和歌 山の株主が中心であったととが窺える。. 合計. 兵庫県 京都府 奈良県. 創業時に河内長野の人物がどのように関わっていたのかを見ておと う。河内長野には八名の発起人がおり、合計一 OOO株を所有してい. 285-. 7 9. 3 7 5. 1 0 0. 1 0 0. 1 3 , 604. 220. 7 , 048. l. 1 , 663. 1 0 0. 1. 1 1, 1 4 6. た。所有数の多い順にみると、錦織郡長野村の吉年善作一一O O株、西 僚与三郎二OO株、西傭麟之助一 OO株、吉年忠三郎一 OO株、三日 (4v. 市村の八木新吾一 OO株、八木伊一二一 O O株、奥山弥一三 O O株、加 賀田村の森口茂吉一 O O株であった。表1、 3と引受高から判断して 河内長野の発起人は中規模株主の部類に入ろう。 とのなかの吉年善作は可鍛鋳鉄を業としていた。原静村﹃昭和に輝 く﹄によると吉年家の可鍛鋳鉄事業の歴史は古く、享保年聞に始まっ. 出典:同前、 p . 2 7 0 。. 1 0 0. 3. l. 3 7 5. 1 2. 6 1. 1 0 0株以上. 1 , 233. 1. 6 1. 1. 5, 2 4 0. 3. 1 1. 2 , 450. 220. 2, 2 3 0. 2 0 0株以上. 430. 1 1. 1. 1 0. 1 0 6 4,. 3, 6 7 6. 7 l. 3 0 0株以上. 6. 東京府 和歌山県 大阪府. 株数. 45. 合計. たとされる。その後も事業は継承され、戦前には販路を広げ、世界か らも注目されるほどの技術来着して礼的。今回、株式会社室として 存続している。また、東西高野街道の合流点から少し離れた高野街道 の入り口付近には吉年邸があり、地元のシンボルとなっている。吉年. 表 3 高野鉄道株主の地域分布〔所有数〕 1896年下半期.

(6) 善作は同社以外では富田林銀行の監査役を務めてい仏間。話を高野鉄道に戻すと、吉年善作は創業してから数年間同. 社の役員に就いていた。同社の委員として本免許状下付請願のために奔定した。 また西僚与三郎は商売を営んでいたが、昔年善作と同じく富田林銀行の取締役にも就任して凡問。同行の長野支. 庖長にも就いていた。西候家の酒造業の歴史は長く﹁天野酒﹂などの銘柄で有名である。現在酒造業は西候合資会. 社として存続している。八木家は三日市で酒造業を営んでいた。国登録文化財として同家の住宅は指定されてい. る。奥山家は醤油醸造業を営んでいた。とのように、高野鉄道の創業期には河内長野の名土が株式を引き受け、そ のうちの一人が、経営者として名を連ねていた。 開業状況. 現在の南海高野線の開業状況は表4に示した通りである。高野鉄道時代の開業路線は第一 i三期である。第一 i. 二期で堺東│長野闘を開通させたが、冒頭で述べたように同社は経営不振であり、その打開策として、﹁北上作. 戦﹂を推進するのであった。一八九六年一 O月には﹁大阪市付近ニ進出セシメントスル企図ヲ抱キ﹂、粉浜村、津. 守村に至る支線の敷設を希望し、申請したが、少し前に河南鉄道が狭山・天王寺の線路敷設を申請しており、河南. 鉄道と同社ともに却下されている。一八九七年の九月に再度出願した。翌年一 O月に仮免許を受けて、住吉│津. 守閣を津守l難波聞を追加して申請した。一八九九年三月、鉄道会識において﹁難波﹂(実際は桜川付近)を起点に. することが認められた。一九OO年八月の終わりに堺│道頓堀間延長線の開通式を挙行し、九月三日より開業した。. 年=一月二八日に行われた。しかし、資金繰りの悪さからトンネル工事は中断 紀見峠トンネルの起工式は一九O O. せざるを得なくなった。当時の日刊紙では﹁過日来未成の腫道及び線路を完成せんが為め外資五十万円を借入れ経 済社会の回復を待ち株金の払込みを以て之を消却するととを重役に於て一決﹂したと発表さ礼的。また、路線につ. 286-.

(7) 近現代における地域交通の展開. 表 4 南海高野棋の開業時期と停車場の設置状況 駅名. 高野鉄道 大阪高野 南海鉄道 高野山電気 左記以外 第 1期 第 2期 第 4期 第 5期 第 3期 第 6期 1 8 9 8 .1 .30 1898.3.29 1900.9.3 1915.3.11 1924. 1 1 . 1 1928.6.18. • • •. 汐見橋 G 萱頓堀) 芦原橋 木津川 津守 西天下茶屋 帝塚山 住吉東. 湾ノ町. 1 9 1 2 . 11 . 1 5 1 9 1 3 . 2 . 2 1 18 1 9 1 5 . 9. . 12.26 1 9 3 4 1 9 4 2 . 2 . 1 5 1 9 0 7 .1 . 6 1 9 1 5 . 6 . 2 2. 主主孫子前 浅香山 堺東(大小路) ニ国ケ丘 百舌烏八幡 中百舌烏 白鷺 初芝(西村〉 荻原天神 北野田 狭山 大阪狭山市 C 捺山遊園前・河内半田) 金1 1 1 1 滝谷 千代国 河内長野(長野) 一日市 勤日の台 千早口 天見 紀見峠 林間田園都市 御幸辻(高野辻) 橋本 紀伊清水 学文路 九度山 高野下(椎出) 下古沢 上古沢 紀伊細川 紀伊神谷 極楽橋 高野山. •. 1 9 4 2 . 2. 15 1 9 0 0 . 9 . 7 . 1 0 1 9 1 2 . 1 0 1 9 6 4 . 5 . 2 5. •. 10. 1 0 1 9 1 2. 1 9 1 4 . 8 . 7. •. 1 9 1 7 . 7 . 5. . 19 1 9 3 7 . 4. • •. 1 9 鈎. 2. 11. •• • ••. 1 9 1 4 . 10 . 2 1 弱4 . 9 . 1 l. 1 9 8 1 . 1 1 .22. •• •. ••• •. ( 注1 )難波を起点とせず、旧ルート。 ( 注 2)( )内は旧名称。. (出典〉南海電気鉄道株式会社『南港電気鉄道百年史J( l985年) pp.594 ・ 5 9 5 。. 2 8 7-. 1 9 2 5 . 7 . 3 0. 1 9 2 9 . 2 . 2 1 1 9 3 0 . 6 . 2 9.

(8) いても設立時には橋本へと延長する予定であったが、一九O O年一月に長野│橋本聞の工期を、①用地買収難、② 迎。 不況による資金調達難、③工期遅延の可能性が極めて高い、といった理由から二年延長するよう申請 T. 一九O二年三一月、工費が欠乏し、増資の見込めない状態で、難工事を遂行するととは不可能と判断し、同区間の工 事を断念し、放棄するととに踏み切った。 経営者の変遷と内証. 同社の経営者に目を転じると、短期間で社長が何人も代わっており、経営陣の入れ替わりが激しかった。﹃日本. 。 t ! i. 4 骨. a. t ! i. ー 室. t ! i. t ! i. ミ. 288-. 鉄道史﹄によると、歴代の社長は松方幸次郎(一八九八年一月)、太田平次(同年三月)、松方幸次郎(同年四月│. ・. 制酬明察出δ甫獅. 4 社. 州柳田. 週. t ! i 8 0 t ! i. 5 遇. 、. ミ C ト c z ー 白3. 舟. U 俳 C c ・ o 3 ‘. 占 号 君 主. + 社 ~ 洋. t ! i 実 F. ー 8. 本 ~字. C 俳 コ 也 C ・ コ 3 ‘. 宇 濁~ 担~芦. t ! i. 司 事韓 日珂開. o. 占 思百 罪洋 思 占占 思. 。 g. 耳開 5 珪占. ー cn s. 棟 建 母~ 洋 ~ ~珂開. 。~. 占占 号占 思婦5 占苦 日再開 ~ 開 思 遇思 4 基 E洋. ル包~白 ー o 3 ・. 九月)、東尾平太郎(同年九月│一九O三一年四月)、井上静雄(同年八月│一九O四年八月)、伊藤喜十郎(同年八. 喜 u 努 主 計 s 設 話 聖 書 ョ ヨ 書 4 図 惑 思書 E E 事E 当 知的 長. 月)であった。以下で経営者の変遷と内部の様子を見ておとう。. 器. 長 副 F 廻~ 渇 梓 4 ~濁. 再 日. 加 冊 I 書E 軍 十 { 4雪 I 1 湖 ~E 当 費 t. ,話詰 ョ g 主 E f滑 河 野雪. Lム.. o i~. 7 一 量 孔 時喜 一 コ 制 同 主.

(9) E 酬明Q照明瞥謀略土将u Z郡山相. 居住地 1896年 1897年 1898年 1899年 1900年 1901年 1902年 1903年 1904年 1905年 1906年 1907年 氏名 大塚三郎兵衛 堺市 監 堀内裕 奈良 取 中野新十郎 堺市 取 監 村木平次郎 和歌山 鷲尾常次郎 監 大阪市 八木栄次郎 堺市 取 取 藤井藤蔵 京都市 取 取 和薬嘉兵衛 大阪市 取 桜井亀次郎 大阪市 取 取 山家平造 堺市 監 監 監 鈴鹿通商 堺市 取 取 取 取 松山与兵衛 取 取 取 取 取 大阪市 小西綱雄 取 大阪市 監 川崎篤三郎 堺市 村松岩吉 監 大阪市 井上静雄 大阪市 社 橋本清助 取 尽都市 国中佐七 取 大阪市 谷崎新五郎 取 大阪市 今西林三郎 監 大阪市 吉田宗三郎 監 神戸市 伊藤喜十郎 専取社 専取社 専取社 大阪市 富永藤兵衛 大阪市 取 取 取 永井仙助 取 大阪市 西崎作次郎 取 大阪市 足立平助 大阪市 取 取 辻本安七 堺市 監 監 監 監 監 寺田元吉 岸和田市 森久兵衛 大阪市 監 監 監. o'l. 罰.

(10) 5 1. 知的国防棲 EM7繭片岡司卦掴河E 由刷出司淘佐 川勢宮山司誼苛 昨回一調印佳停泊尚δ謹品則。 昨 N 一洋・:洋問'川明国同・:判鎖国同議硲'廻:・沼慧治'陣:・師附浴 d 品即測串骨斗断。 m B吋骨)δ ﹁副酬明勲臨界刷用ゆ件﹂ 打 1。 帯同問。 居酒一匹壮魂刷w・劃﹃ EM甘ゆEゆ洋治加姉鴻仏国│減同町田﹄(同∞u. 初代社長の松方幸次郎は内閣総理大臣・松方正義の三男である。北浜銀行、灘商業銀行、日本貿易銀行の役員に. も就いた。高野鉄道発足から松方幸次郎は株主閣の紛争の対応にあたり、一八九七年一月には、折り合いを付けた. ととで辞任した。二月二三日の重役会で辞任の承諾を得たといわれる。その後任の社長には﹁田中市太郎﹂を候補. 者として推薦したが、実際には田中が社長になるととはなかった。経緯は不詳であるが、太田平次が次の社長に就. いた。太田平次は丹南部(現・堺市)の大地主で情調醸造業を営んでいた。泉州紡績株式会社取締役、堺倉庫株式 会社社長、堺株式取引所監査役を務めていた。. その後、東尾平太郎が同社の社長に就いた。東尾は大阪第七区から出馬し、何度となく衆議院議員選挙に当選 し、国会議員になった人物で札初。高野鉄道の社長の中では、経営の指揮を執る期聞が最も長かった。社長就任. 中、社内での混乱は絶えず、一九O 一年一 O月、定時・臨時株主総会の前に東尾社長以外の重役が辞職を申し出. た。株主総会は二O自に聞かれ、その場で社務、整理法案、定款改正、役員の補欠選挙などについて協議する乙と となった。. 総会当日、﹁協議会派﹂、﹁有志会派﹂と呼ばれるグループが出来あがり、それぞれ重役候補を挙げた。協議会派. には東尾平太郎、北田豊三郎、吉年善作、中野新十郎、西村忠左衛門、河盛文三郎、阿部市三郎、八木栄次郎、山. 家平造がいた。一方、有志会派には、東尾平太郎、藤井藤蔵、岩崎減兵衛、島順民、道家猪吉、桜井亀次郎、山田. 290-.

(11) 近現代における地域交通の展開. 茂助、和田直七、和薬嘉兵衛、小西綱雄の名が見られた。両派の出席者六五七人と委任状提出者の株数は. 円初}. 一七九O九株となり、協議会派が八四一二株、有志会派が三六八O株であった。両派に参加した者と申立を貫く者. は、六一八二株であった。有志会派が不利な状、況にあった。との総会においても資金調達について話し合われた。. 河内長野の名士である吉年善作は創業から取締役を務め、体制の変更に伴い監査役に主任し、一九O 一年から再. び取締役を務めた。との騒動の後、吉年は高野鉄道の役員から外れたようである。以後、河内長野の人物が役員に. 就くととはなかった。しかし、吉年はその後も鉄道事業への意欲を示しており、高野山電気鉄道の敷設計画を北田. 豊三郎らとともに企ててもいる。関西鉄道高野口駅、紀ノ川対岸を起点に高野山女人堂付近までを結ぶルlトで あった。. 社内の混乱はその後もおとり、しばらくして今西林三郎(大阪市在住・石炭商、他に山陽鉄道支配人、阪神電気. 鉄道社長)、藤本清兵衛(藤本ぜルブローカー)が紛糾する同社で仲裁の役目を買ってでた。当時、重役と改革派 ︿. m ). が衝突していたが、今西は改革派(松山与兵衛他)の、藤本は重役の説得にあたり、寸円満の帰着を見﹂たと言わ. れた。最終的に松山与兵衛の意見を入れるととで収束し、重役の総辞職が決まった。東尾は退陣し、新たに経営者 を選挙で決札問。その結果、取締役に井上静雄、谷崎新五郎、辻本安七、吉田宗三郎、中西保、橋本清助、松山与. 兵衛、田中佐七、監査役に太田完治朗、今西林三郎、東尾平太郎が選出された。しかし、辻本は﹁資格なき﹂とい (M. ︺. うととで自然消滅となり、吉田、東尾、太田は固辞したというととであった。欠員は補充せず、ここに﹁井上静雄. 体制﹂が発足した。井上は他に明治製煉株式会社取締役にも就いていた。社長が代わっても、資金操りの悪さは変. わらず、一九O四年四月二九日の定時株主総会で決算案は決まったが、臨時株主総会には事故で重役は欠席し、井. 上社長ただ一人が出席した。借入金についての議題に移っても、欠席した重役への不信感から予め選出された委員. も辞任した。また貸借対照表や重役の処置について調査を求める発識が起とり、賛成者が多かった。それをさえぎ. 291-.

(12) ろうと強引に議長が議事を進行しようとしたため、株主から批判が起とった。休憩をはさんで再開したが、まとま. らず翌月二O日に延期するとととなった。五月二O日に総会を聞いたが出席者が少なく涜会になった。会社を調査. するように求める株主との衝突とは別に、重役聞の紛糾は深刻な状態にあった。調停不調となれば、重役は辞職す. る意向を示した。その後、井上、橋本、田中、谷崎は辞任し、補欠選挙を行う必要から七月二九日に重役選挙が行. われた。八月二二日の重役選挙で、取締役に伊藤喜十郎、永井仙助、足立平助、東尾平太郎、鈴鹿通語、西崎徳次 郎、監査役に寺田元昔、森久兵衛が選出された。その後、互選で伊藤が社長に就任仏問。伊藤喜十郎は大阪市東区. 平野町に居住し、伊藤喜商庖株式会社、日本債券株式会社代表に就き、大阪商業会議所の議員にもなった人物であ. 2 9 2-. 広可. 紛糾に次ぐ紛糾の高野鉄道であるが、同社の経営の方向性を決める上で、大きな人事については、一九O四年九. 月、宇喜多秀穂が同社の支配人となった。入社したのは大塚惟明、松山与兵衛などが呼び寄せたことによる。大塚. 惟明は高野鉄道とは直接関係はないが、讃岐鉄道、山陽鉄道、南海鉄道を渡り歩き、鉄道会社の経営については. キャリアは十分な人物であった。大塚・松山との﹁接点﹂は讃岐鉄道にあり、同社で仕事を共にしたのであった。. 一八九四年一月に字喜多は讃岐鉄道に入社した。一九O三年に退職するまで同社の発展に貢献した。他の鉄道会社. との関係には阿讃鉄道株式会社創立事務顧問を委嘱されてもいる。高野鉄道入社後、社内改革に努めた。 経営状態と経営改善策. シタルニ止マリ普通株ニ配当スルニ至ラズ、三十九年度ニ在リテハ営業収入十二万六千二一百九十六円、営業費. 巻﹄には﹁開業以来収支償ハズ、三十五年度ニ至リ収支均衡ヲ得シモ益金寡少ニシテ優先株ニ対シ若干ノ配当ヲ為. ﹁良くない﹂ということは周知のととであるが、同社の営業成績について少し触れておこう。﹃日本鉄道史 中. 四.

(13) 近現代における地域交通の展開. 十三一万八百十四円ニシテ再ヒ欠損ヲ生シタリ﹂と記されて札問、多少改善したとともあったが、基本的には業績不. 振であったととが読み取れる。小川功氏の研究でも明らかなように、同社は絶えず資金繰りに悩まされていた。同. 社にとっては﹁金脈﹂が重要となった。その点は堺や大阪の企業家や金融業者を頼っており、なかには危険な金融 業者もいたようで、非常に厳しい条件、高利の借入に踏み切るとともあった。 ︿斜). こうした経営難の打開策に同社は堺東よりも北に路線を延長している。前述の﹁北上作戦﹂を実施した。これに (問調). ついては﹁鉄道時報﹂に﹁道頓堀駅よりの乗客一日多きは四千五六百人あり﹂と記され、当時汐見橋では乗降者数. が多く、にぎわっていたようである。同社は南海を意識しており、﹁種々旅客便法を設備して競争を試んとしつつ あれば何れにしても乗客には利便を与ふるに至るべし﹂と評さ礼的。との段階では北上作戦は奏功したようであっ た 。. そして旅客誘致のために運賃の減額を行っている。とれ自体は多くの鉄道企業が実施しており、同社だけのこと. に限った事ではない。例えば、大小路 狭 l 山闘が開業する際、一週間運賃を半減にし、乗客を集めようとした。こ. うした期間限定のものとは別に、汐見橋l長野闘が開通した頃だと思われるが、﹁高野鉄道名所案内﹂には一般旅. 客に対して五O人以上、学生に対しては=一O人以上の団体割引か﹄したり、一ヶ月間で往復四O回、五O回、六O 固. 1堺問、堺│住吉間相互に常時割引往復 と利用頻度に応じて三一1四割運賃を減額したり、汐見橋│住吉問、汐見橋. 切符を発売したり、乗客のタイプに合わせたサ1巴スを実施していたととが書かれている。沿線各駅の﹁名所﹂と. しては次のように記されており、娯楽・観光に旅客の誘致を図っていた。本来高野山へ旅客を運ぶための鉄道を目. 指していたが、それがかなわない状態に長くあったため、沿線の名所の周知と誘致策を検討をしなければならな かったのである。. 293-.

(14) 長野駅. 滝谷駅. 狭山駅. 西村駅. 堺東駅. 住吉東駅. 阿倍野駅. 木津川駅. 汐見橋駅. 駅名. 錦渓温泉・観心寺・楠正成首塚・千早城・滝畑四十八滝・高野山. 滝谷不動尊・四つ大師. 狭山油・上神谷妙見. 金岡神社・法雲寺. 方違神社・高須稲荷・菅原神社・開口神社・妙告示・大仙陵・百舌烏八幡宮・大浜公園. 住吉神社・住吉公園・大黒・浪速屋の笠松・我孫子観音. 天下茶屋遊園地. 木津青物市場・大国神社. 道頓堀(芝居)・心斎橋(買物). 付近名所・下車目的地. その他、旅客サービスの向上のために、井上静雄社長は堺にまで延長し、それに合わせて動力を電気に変更する 計画を立て、実現に向けて奔走仏間。阪神電気鉄道の技師に電気鉄道の設計を依頼した。また線路延長は①堺停車. ハ必). 場←大小路←南海堺駅、②大小路←南海浜寺で、それぞれ連絡を進めようとし、その玉費は機関車、客車貨車を売. 却して捻出しようとした。との資金の捻出までを考えていたととから成否は別として様々なアイデアをだし、経営. 改善を進めていたととが窺える。不振企業でなかなか結実しなかったが企業努力は怠らなかったのである。. 高野登山鉄道株式会社の設立. 高野鉄道のメンバーは寺田甚与茂の協力を得て、資本金七O万円の高野登山鉄道闘を立ち上げることにした。発. 五. 294-.

(15) 近現代における地域交通の展開. 起人総会在一九 Q ハ年一 O月一二日に聞き、創業についての協議を行忌。翌年二月に本免許状が下付さお。寺. 回甚与茂であるが、岸和田を本拠地として活躍する企業家であった。第五十一国立銀行、岸和田紡績株式会社、岸. 和田煉瓦株式会社などの設立・経営に関与し、地方財閥を形成していった。鉄道事業にも関わっており、山陽鉄道. 監査役、南海鉄道監査役・取締役などを歴任している。南海の役員である寺田および一族の加入は同社にとって非 常に心強いものであったであろう。. 新会社である高野登山鉄道が高野鉄道を﹁買収﹂する形で進められ、一九O七年一一月一五日に高野登山鉄道は もと曹ちり曹ち. 高野鉄道の資産をすべて引き継いだ。創業時の役員は、取締役に寺田甚与茂、松山与兵衛(大阪市・足袋商・松山. 合名)、寺田元吉(泉南郡・甚与茂の実弟・五十一銀行取締役兼支配人)、寺田利吉(甚与茂の異母兄弟)、鈴鹿通. が選ばれ、社長には寺田甚与茂が就いた。. ︹“). 高(堺市)、宮永藤兵衛(大阪市・綿花商)、字喜多秀穂(大阪市)、監査役に東尾平太郎、寺田久吉(甚与茂の異. g. 母兄弟)、三木伊三郎(堺市・堺米穀取引所監査,. 寺困社長の時代には、①長野から橋本までの延長、②紀見峠の開削工事の再聞について議論が起こった。これに. ついては、﹁時期尚早﹂との見方と﹁時機到来﹂との意見が起こっており、甑しくぶつかっていた。藤野亀之助と ( 必 ︺. いう人物が両者の調停に努めた。との延長策、障道計画は実現の運びになった。一九一 O年七月二O日に長野I橋 ︿岨咽). 本問、一 0 マイル一六チェーンの敷設の仮免許が下付された。との後、漸進的に南下の運びとなるが、寺田の時代. はどちらかというと﹁種をまく時期﹂で、﹁開花﹂、﹁収穫﹂は次の根津の時代になってからである。 色。つつ巴. 営業においては、沿線地域の名物を、季節に合わせて、割引、列車増発し、集客に努めた。具体的には、長野hu. 三一目市周辺の﹁蕨﹂や﹁踊踊﹂が茂る山々への行楽客、﹁温泉地﹂への歓楽客を呼込もうとし、一九O八年の春に. は、通常、堺│長野聞は約二時間ごとの列車運行であったが、乗客・貨物の増加に対応するために、同区聞を約一. 時間ごとに間隔を短縮し、本数を増発した。また、汐見橋から長野までの運賃を大幅に割り引き、同路線での長距. 295-.

(16) 離旅客の誘引策を展闘い問。. また、大阪市、堺市、他の地域からの﹁河内長野﹂方面への旅客誘致を図り、長野遊園地を開設してもいる。同. 社の働きかけに地域住民も協力的であった。一九O八年二月に高野登山鉄道が長野地域の開発を進めるために、長. 野町の有志とともに﹁長野遊園地期成同盟会﹂を組織した。同会の設立の目的は、長野の古跡を再興して、名勝地. を選定し遊園地を設けて長野、他地域の娯楽を求める人を集め、地域を繁栄させることにあった。同会の事業につ. いては、①遊園地に必要な土地と地上権を設定するとと、②同地所の一部を第三者に貸与、または地上権を移して. 遊園地に必要な設備を設置するとと、または別荘地とするととであり、活動に必要な経費は有志の寄付金で行うこ とになってい口問。同年コ一月に起工、五月に開園式を行ったと言われる。開園に至り、河内長野遊園地期成同盟会は. ﹁長野遊園保勝会﹂に名称変更された。同会と高野登山鉄道との共同出資によって圏内に桜、楓などを植樹し、当 (柏崎︺. 時﹁高野鉄道第一の遊園地﹂として有名になり、行楽客を集めた。その後も同鉄道会社、さらに言えば後身の大阪. 高野鉄道、南海電鉄も含めて重要な集客地であり、改良が加えられていった。 ( m v 当時の様子は字喜多の伝記に次のように記されている。長文となるが、字喜多が展開したであろう経営戦略や マーケティング活動が窺え知れるので挙げておく。. 終点の長野までは人が乗らぬので何んとかしなければならぬといふので長野遊園地を掠えて乗客の吸収につと. められた。その頃香櫨圃が下た火になってゐるのでそんなものをとしらえても駄目だと云はれてゐたが、何れ. にしても終点の長野ヘ客を降ろさねば会社の収益はあがらないと思ったので兎に角、天野山や観心寺を呼び物. にして客をひき、長野には長者の瀧を、観心寺には紅葉の瀧をつくられ、大阪の人は景品を出すとうんと人気. が集まるので、夏などには長野石手川で鯉つかみを催し、その鯉の鰭に番号札をつけて、それで箪笥や時計な. 296-.

(17) 近現代における地域交通の展開. どの景品が当るかと思へば、石手川に赤く塗った盟を涜れに浮かべて盟 遊びをさせたり、遊園地の高所に長い望遠鏡を据置き、鯖麗な女をそれ につけて置いて客の心を明るくさせたり、余興として楠公父子の別を演 じさせたり、園内で景品付きの松茸狩を催したり、終点を只管遊覧地帯 としての紹介につとめられた。今日で見れば別に珍しい催物でもない が、当時鉄道がかかる催物をして客を引くといふととは権威上問題にな ろうといふ時代に、人の意表に出ねば決して斯うした経営難の鉄道の繁 栄をみることは不可能であると深くも覚悟をして、狭山、滝谷附近、天 野山方面に非常に松茸が沢山由るのを幸ひ、沿線を充分に知って貰ひた いために、思ひ切って奇抜な新聞広告を出して問題まで惹起したことが あったさうである。 また、河内長野には温泉が多いが、同社が開設に関わったものもあり、そ れに合わせて旅館を建てるなどの付帯事業を展開していった。他社との競争 上、とうした設備投資にそそぐために配当を低く抑えざるを得なかったと言 われている。また、表 4からも確認できるように開業時期、第一期、第二. 2 9 7-. p . l 0 4 。. 出典:川上龍太郎『鉄道業の現状~(経済新聞社、 1911 年). 0 . 8 0 . 8 0 . 5 7 0 . 6 0 . 6 0 . 6 0 . 6. 5 1 91 . 1 7 0 9 9 . 8 6 4 11 . 9 7 3 8 5 . 6 6 7 1 9 . 5 7 3 6 4 . 4 7 1 2 5 . 8. 1 9 0 7下 1 9 0 8上 1 9 0 8下 1 9 0 9上 1 9 0 9下 1 9 1 0上 1 9 1 0下 単位:円、%. 支出. 1 4 2 3 . 6 2 1 8 0 . 1 9 1 8 . 9 1 9 0 5 . 7 1 4 2 0 . 6 1 8 6 0 . 2 1 5 4 9 . 3. 3 7 6 7 . 6 4 9 1 9 . 7 5 4 9 2 . 9 5 4 7 9 . 8 5 2 9 8 . 8 5 5 0 4 . 1 5 5 7 6 . 4. 7 5 0 1 0 0 0 9 1 3 . 9 8 0 3 . 8 8 0 0 7 5 0 7 0 0. 配当率. 収支差益. 合計. 利子. 営業費 3 0 1 7 . 5 3 9 1 9 . 7 4 5 7 8 . 9 4 6 7 6 . 0 4 4 9 8 . 8 4 7 5 4 . 1 4 8 7 6 . 4 営業収入 時期. 期、第三期に設置された停車場の隙聞を埋めるかのように、中間停車場を設 置している。これにより新設の停車場から旅客を﹁吸収 Lし、一方で地域沿 線の観光地に旅客を﹁拡散﹂するととが可能となった。. 表 6 高野登山鉄道の営業成績.

(18) とうした企業努力により業績は改善できたようであるが、収支で欠損を出すことはないものの﹁低空飛行﹂で. ﹁還元率の低い﹂状態にあった。しかし、﹁配当率﹂については設備投資のためと寺田の方針が関係していた。小林 (町田︺. 轍は次のように語っている。表6の配当率を見るとほぼ寺田の考えている通りになっているととがわかる。. 翁は鉄道事業は一部開通にては一般に充分なる収益は挙がらず、復全部目的地迄開通するも、少く共数年は利. 益を生み出すものと予定すべからざる事を力説せられたり、加之電力供給事業、鉄道事業の如き、公共事業に. 於ては、六分内外の株主利益配当を為し得れば充分なりと述べられたる事一再ならず、之を以て慮れば相当高. 金利時代に於ても、翁は苛も公共事業なるものは比較的低率の配当にでも甘んずべく、以て一般社会を潤すべ き事を念頭に置かれたるを窺ひ知るに足るベし. 一方、問題点がなかったわけではなく、同社では事故が起こっている。例えば、一九O八年九月一日に旅客列車. の衝突事故が起とった。午後六時二O分汐見橋駅発の列車が無蓋貨車に衝突し、軽症者が数名出た。比較的軽微で 済み、しばちくして運転は復旧した。原因はポイントの切り替えを忘れたというものであっ(問。また、別のものに. は一九一五年一月一九日に起こった衝突事故がある。との時は貨車が急勾配の場所で逆走し、後発の列車に衝突し. たというものである。乗客三人が重傷、一人が軽傷、人夫一人が重傷、三人が軽傷を負った。これらは単なる職員 (M. ︺. の不注意か、あるいは極端な経費節減による人手不足に起因したものかは不明であるが、後者の方が原因であるこ とも否定できない。. その後、発起人の一人であった根樟嘉一郎が取締役に就くと、社長の寺田と意見を異にするととが多々あった。. 東京在住の根津がいかにして同社と関わったかというと、その接点は兄が同社の株を所有しており、兄の死後、そ. 298-.

(19) 近現代における地域交通の展開. れを引き受けてからと述べている。寺田甚与茂との意見の食い違いについては、﹁翁は元々紡績畑の人で紡績にか. けては一方の重鎮にして、むろん経験もあり抱負も持って居られたが、鉄道の方には余り造詣もなかったゃうであ. る、私は大体が鉄道畑であるし斯道にかけては比較的知識を有って居る積りなので﹂と﹁専門性﹂の違い、または. ﹁経験﹂や﹁知識﹂の量を指摘している。とれについては、寺田が既に山陽鉄道、南海鉄道の経営に関わっている. ととを根津も知っていょうから﹁経験少なし﹂﹁素人﹂という理由での確執とはとらえにくい。内容について詳しく ︿鴎). 記された物はないが、恐らくは経営の﹁方針﹂そのものに食い違いが多かったと考えられる。寺田元吉の伝記にお 。 いて両者の態度が記されている。興味深い内容であるので引用してお ζう. 明治四十一二年三一月三十日資本金を二百万円に増資し、長野から高野山までの鉄道敷設の第一歩として長野、三. 日市聞の鉄道敷設を計画にかからんとしたとき所謂根樟事件が起こった。根樟嘉一郎は高野鉄道K Kの新株を. 多くもっていた。従って、根津の発言が相当強く:・最後に会社を根樟の手に移すか、或は寺田によって経営す. るかといったドタン場が訪れた。翁兄弟は、根津の持株以上に株券を買占められるまで自重し、根津以上の株. 数をもつに至って愈々根樟と最後交渉を始めた。﹁お互に持株に対し希望があるならば売りでも、買でもどち. らでもよいでしょう﹂と出た寺岡に対し、根津は﹁買いましょう﹂と応え、結局寺田一門の持株を買取った。 翁兄弟は高野鉄道K Kの関係から手を引いた。. 根津の方も同じように記憶しており、寺田の潔さを﹁極めて淡泊なる気持の好い話であった﹂と、その時の心境 を語ってい泊。最終的に寺四一族が株式を全て手放し、根一脅かそれを引き受けて同社の主導権を握った。根津は不. 振会社の東武鉄道を今日のような状態に成長させた、再建を行うととで有名である。高野登山鉄道も彼独特の﹁嘆. 299-.

(20) 覚﹂で買い取り、再建を目指すのであった。 六大阪高野鉄道株式会社における根津嘉一郎の経営. 寺田家を追い出した根津は一九一一一年、取締役社長に就任した。改めて根津嘉一郎(初代)の経歴を見ておこ. う。一八六O年六月一五目、山梨県東山梨郡聖徳寺村(現在の山梨市)で生まれた。村会議員、郡会議員を経て、 ︿鴎). 実業界で活躍し、甲州財闘を形成した一人である。鉄道への関与は彼の関係事業でも中核をなし、東武鉄道、東京. 地下鉄道、日本麦酒鉱泉の社長などを歴任している。その根樟が高野登山鉄道の経営の指揮を執り、スタートする ︹駒). のであった。一九一五年四月三O日、高野登山鉄道は大阪高野鉄道に改称した。同社にとって生命線ともいえる ﹁金脈﹂は、根津の縁故者が多かったようである。. 先述の通り、長野│橋本聞の放棄から南下策を寺田時代から開始していた。長野│橋本聞の断念した理由の一つ (伺︺. には用地買収難があったが、一九一二年三月に土地収用法によって河内長野町、三日市村、加賀田村、天見村の土 地を取得した。. 一九一三年五月に同鉄道の難所と一言われ、長らく中断していた紀見トンネルの工事を再開し、長野I橋本聞の工. 事もはじめた。紀見峠のトンネル工事で一九一四年二月二日午前九時頃、崩落事故が起きた。との大惨事を乗り越. え、翌年四月二七日には橋本町、隅田村の土地を取得し、建設を進めて、一九一五年三月一一日に三日市│橋本聞 ︿鈎). が開業した。これにより長野は最南端の停車場でなくなった。南海電鉄はその社史に﹁大阪高野鉄道が、橋本まで. 線路延長をなしとげたととによって無関心ではおれなかった﹂と記し、大阪高野鉄道の動向に注目していた。さら に大阪高野鉄道では、汐見橋│長野間で電車併用運転を開始した。. 橋本までの開業を見た大阪高野鉄道はその先の高野山までの延長を検討するようになった。和歌山水力電気が鉄. 300-.

(21) 近現代における地域交通の展開. 道の敷設権を有していたが、工事に着手できない状態で延期していた。大阪高野鉄道は自社の路線として経営しよ. うとしたが、大阪高野鉄道側も新株の払込が完了していないことから増資や起債が出来なかった。そうした経緯か. ら新会社として高野大師鉄道株式会社を起こすとととなった。高野大師鉄道と和歌山水力電気との交渉の結果、. 一九一四年六月九日、仮契約の締結に至り、一九一六年一月一一九日に高野大師鉄道に敷設権の譲渡が許可された。. 第一次世界大戦後の恐慌にかかると、工事着工を延期した。一九一七年八月二O目、株式全部を引受を完了し、九. 月七日に第一回の払込を終えた。二五日に創立総会が聞かれ、役員に取締役・根樟嘉一郎、日置藤夫、須田宣(鬼 ( 剖 田V. 怒川水電)、津村紀陵(和歌山市・和歌山水力電気常務取締役、野上軽便鉄道他社長他)、松山与兵衛、監査役・森. 301-. 久兵衛(府会議員、関西水力、大阪電気軌道他)、岡本藤コ一郎が選出され、根津が社長となった。実際の建設、敷. ︿邸). 設工事であるが、一九二二年、紀ノ川橋梁架設工事の競争入札があり、東京の鹿島精一(後に鹿島建設社長)が落. 札した。同年二月一目、着工して間もなく、大阪高野鉄道と同社は南海鉄道に合併している。 南海鉄道と高野山電気鉄道時代. 一九二四年一 O月 二 六 日 汐 見 橋 木 樟 川. 一九二四年九月八日阿倍野(現岸里玉手)住吉東. 一九二四年三一月一八日住吉東我孫子前. その過程は次のようになっている。長野以南の複親化は戦後に行われるのでことでは省いた。. 下)までの工事を終えており、一九二四年一一月一日、開業に至った。また、高野線は順次複線化を進めていく。. 鉄道の高野線として存続する。高野大師鉄道の敷設工事を引き継いだが、その段階では橋本から椎出(現・高野. 一九二二年、南海鉄道と大阪高野鉄道の両社は対等合併するととで意見が一致した。大阪高野鉄道の路線は南海. 七.

(22) 一九二八年六月二二日. 一九二六年二一月一日. 一九二五年六月八日 堺東. 西天下茶屋. 我孫子前. 西村. 岸里. 堺東. 北野田. 西天下茶屋. 狭山. 北野田. 一 九 一 二O年四月二一日 木津川. 一 O日 西村 一九二九年一 O月 一 九 三 一O年四月一二日 一 九 三 一 七 年 四 月 一狭九 山日 金 剛 一九一二八年二月一一日金剛長野. 一九二六年三月には天下茶屋と岸里の聞で南海本線と高野槙の連絡線路が完成した。とれ以降、汐見橋│九度山. 聞の直通列車は全て難波発となり、高野山登山客の利便は良くなり、好評を博した。後述の高野山電気鉄道が極楽 ︿併}. 橋まで開通すると、さらに、難波│極楽橋聞の直通列車が発車されるようになり、一段と旅行客の利便性が増し たc. さらに、南海鉄道は本線よりも遅れをとっていた高野線の方に対して住宅開発を行った。当時は堺東から長野、. ゴ一日市までの途中は﹁田畑﹂が広がっていただけであった。最初に西村駅(現在の初芝駅)周辺を開発地として約. ・以上の分譲地として、周辺にクラブハウス、テニスコートなとを設置した。 一四万dを用意した。一区画二三0 M. 一九一二五年五月一五日から販売され、一ヶ月の予定であったが、ぞれよりも早く契約済みとなるほど好評であっ. た。一九三一八年には河内半田駅(現・狭山遊園前駅)周辺の宅地を約六万五GOO-Mを販売し、一九四O年には狭. Ooodの開発を行った。戦前には西村、河内半田、狭山の三か所であったが、本格化するのは. 山駅周辺約四万五. 戦後で、一九五四年以降のととでbm。高野鉄道、高野登山鉄道、大阪高野鉄道の時代とは異なり、鉄道会社とし. 302-.

(23) 近現代における地域交通の展開. て経営状態が著しく改善した。. 砥コしようゅうほん. 高野山電気鉄道は一九二五年三月二六日に南海鉄道の子会社として資本金一五O万円で設立した。役員は取締役. 社長に岡田意一(元鉄道省監督局長)、常務取締役・小林轍(宇治川電気)、取締役・寺田甚与茂、法性宥擾(僧. 侶)、馬場斉育(京阪電鉄取締役)、神野金之助(名古屋在住・名古屋鉄道社長、三一河水力電気取締役他)、箕団長. 三郎(横浜・美術商﹀、監査役・五辻治仲(貴族院議号、影山銑三郎(宇治川電気専務)が就任していた。高野大. 師鉄道時代、橋千←崎野下聞は着工していたが未成のまま南海鉄道に吸収合併され、一九一五年に全通した。高野. 下│高野山の区聞は和歌山水力電気株式会社に返上しなければならなかった。しかし、和歌山水力電気は. 303-. 一九二二年七月一日に京阪電気鉄道に吸収されていた。要するに本来戻すべき会社がなくなっており、吸収先であ. る京阪電気鉄道のもとに敷設権が返却されていたのである。その敷設権を得るために誕生した会社が高野山電気鉄. 道であった。五月二六日、高野山電気鉄道の定時・臨時株主総会が開催され、高野下までの敷設権を京阪電鉄から. 譲り受けるととに決定した。京阪側もとれより前の四月二九日に譲渡する決議がなされていた。七月一五日に鉄道. 大臣から高野下l高野山閣の鉄道敷設権の譲受が許可された。同区閣の路線距離はそれ程長くはないが、山岳地. 帯で急勾配、急曲線が多く工事の難所であった。一九二八年六月一八日、高野下│神谷(紀伊神谷)聞を、翌年. 二月二一目、極楽橋ま?の開業を実現した。さらに一九三O年六月二九日にケーブルカーで高野山山頂までつな. ぎ、開通した。ついに高野鉄道設立以来四O年の歳月をかけて初期の目標を達成できたのである。 戦後の南海高野線と河内長野の開発. 設し、列車行き違い設備を設置し、一九六四年三月に橋谷信号所・御幸辻聞を複線化した。しかし、とれらは輸送. 戦後、南海高野線の河内長野以南は新たな展聞を見た。昭和三0年代では、一九五七年八月に加賀田信号所を新. 八.

(24) 形態に大きな影響を及ぽすものではなかった。昭和四0年代に入ると、三一日 市、橋本周辺の住宅地開発との関係もあり、河内長野以南から大阪都心部へ の輸送状視の改善を図らなければならなかった。河内長野│橋本聞のスピー ドアップと二0メートル車六両編成(将来的には一 O両編成)の乗り入れを 実現させるよう、抜本的な対策として複線化を計画した。一九七一年五月. ( n v. 一一一日に運輸大臣から河内長野│橋本間一七・二キロの複線化が認可され、 翌年=一月から着工した。七つの工区に分けて、車庫を八つ目の士区として開. 天見. 304-. 始仏問。. 工事は当初順調であったが、第一次オイルショック(一九七三年秋)を経 験すると、経済の混迷による輸送需要の不振、複線用地買収の極度の困難に ハ朝日)(叫). 千早口. 天見. 二日市問一千早口. 直面し、エ期は大幅に遅れた。着工から一二年経過し、御幸辻までの複線化. 三日市町. を達成した。以下に複線化完成状況を示しておとう。. 一九七四年三一月二四日 河内長野. 一九八一二年六月五日. 紀見峠. 千早口. 紀見峠. 一九八三年六月五日. 三日市町. 一九七九年五月二六日 天見. 一九八四年一二月六日. 2 , 377m 2 , 500m 1 , 900m 千早口一天見 天見一紀見トンネル天見方 1 , 240m 第 5工区 紀見トンネル天見方一紀見峠 2 , 376m 第 6工区 2 , 627m 紀見峠一御幸辻 第 7士区 御幸辻一橋本 3 , 029m 2 第 8工区 小原因車庫 3 5 , 400m 出典:南海電気鉄道『複線化工事の記録高野線(河内長野~橋本間)~ 1 9 9 7年 、 p . 3. 河内長野一二日市. 第 2工区 第 3工区 第 4工区. 閥 区 エ区. 2 8 . 0 2 3 3 0 . 4 0 0 3 0. 4 0 0 3 2 . 9 0 0 3 2 . 9 0 0 3 4 . 8 0 0 3 4 . 8 0 0 3 6 . 0 4 0 3 6 . 0 4 0 3 8 . 4 1 6 3 8 . 4 1 6 4 1 . 0 4 3 41 .6 6 7 4 4 . 6 9 6 4 2 . 9 0 0. 第 1工区. (汐見橋起点). 延長・面積. 表 7 河内長野一橋本間複線の工区 キロ程.

(25) 近現代における地域交通の展開. 最後に戦後の河内長野の開発について見てお. とう。高度経済成長期には都市部での公害、人. 口集中による地価高騰、過疎・過密など歪みが. 生じた。そうしたなかで郊外への移転が進むよ. うになった。大阪の場合、七0年代に宅地供給. (間同). 力が限界に近づき、府南部の南海高野線の沿線. が通勤圏に適しているものと注目された。河内. 長野市は一九七O年に﹃河内長野市総合計画﹄. を発表した。その第一章には、﹁土地利用計画. は、急速な都市化に伴う土地利用の変化に対処. するととであり、無秩序な市街化の抑制いわゆ. るスプロlル現象を防止し、良好な都市環境. と、円滑な都市機能を確保し、住民全体の利益. の増進を図るもので、その発展の動向に適応さ. せるべきである﹂と記され、基本方針が定めら. れた。土地利用の構想では、河内長野の市域. O九五七かを①市街化促進地区一二二七・七 一. 拐、②市街化制限地区五一一四三一・=一拐、③緑地. 保全地区四四八六鈴、三地区に分類し、利用日. 表 8 河内長野における主な住宅開発 建設年度 開発商積 地区名 計画戸数 事業主体 ( h a ) (昭和) 楠ヶ丘 民間 1 4 . 7 4 5 0 4 0 4 7 小山田 2 0 4 6 1 4 2 民間 2 6 . 5 1 , 1 9 0 4 2 4 5 民間 貴望ケ丘 青葉台ニュータウン 民間 3 8 . 3 1 , 0 0 0 4 3 4 4 青葉台ハイツ 2 8 . 6 7 5 0 4 4 4 7 民間 2 7 . 6 5 6 0 4 4 4 8 民間 天野山グリーンヒルズ イトーピア長野 民間 6 9 . 1 1 , 5 0 0 4 4 4 9 大師町 2 1 . 4 5 3 7 4 4 4 9 民間 3 8 8 1 3 4 4 5 0 民間 日生二日市 民間 2 5 . 6 6 5 0 4 4 5 0 日生長野 小山田荘園 2 6 . 8 6 4 0 4 5 4 7 民間 4 5. 1 1 , 3 0 0 4 5 5 0 民間 サニータウン 民間 9 2 3 , 8 0 0 45-? 小塩台 1 1 . 9 1 , 2 1 4 49-7 南花台 公団 清見台 7 3 1 , 6 8 0 5 5 5 9 民間 民間 1 4 9 3 , 0 0 0 5 6 6 3 南二日市台 出典:大阪府南河内府民センター『南河内あんない~ p p . 9 ・ 1 0 、「広報かわちながの Jln 2 7 4( 1 9 7 3年 1 2月 1日 ) 、 N n2 5 5( 19 7 3年 1月 1 5日〉、Nn2 8 7( 19 7 4年 5月 1 5日)から 作成。. 305-.

(26) :R?!.l 4n..oキJ ド園余~~O .J~ !.l五80 ド震宝岨~~主主直長田O却す~~盤~軍事!.l..o ~ t;:\'組制盟問者耳元割当号凶ζ~O 組w 型 Qii猷~8 !.l:l司蝶初~'日担当@)QífEI型E棋型凶J !.l~脹初4ご戦v~霊園Il!!!.l吋わド蝿:GiÚ)~~。釧世!と..o~ ~判将E館劇絡む時.lJ~時∞ Q~~{'将ot.P Q :Q~~。橿j控ot.PmlK..oわい ~t;:\' 側主ト Q毛ヨ回出圃F 恒 111 tn-lE-4ロ~恒難細謡 (~). Q1IDE~..)~因調や嶋崎。側!1~重刻.:Q 0 ド ;L 将 :Lbp 定-K:~歯怪恒嶺吋童話割以恒j健細極右「恒雄鰍島 Q4ロ」央'1IDE僻J ~O. . JQii~ !.l鑑J ドム-6vl~ln..o~~ Q長'離灘嗣宇Jl長田世亜川同余人j 与小「限心」宇J~0~。誕E釈匝揮さ重. ぐ夜、句、-"ミ'期制組幹 111001n.:理眠4ロ:ij:lW~OOln.: < 1 口 市1 1 1 0 0 0 1 正 手 〆 ~O. 1 園長. 1fl::; 11000-<Q 阻:ij:I~~-Ð!i....)ドユ. (~). 1 長〈固社長D:I::l111 回会.ú\姐世H価格箪ト駐~Q1 誼央,~糟J謹也記。. U~~工、 Q 1IDE費者!l~0 ドm:-K:D割勘 Q-< ロ ti軒高. . Y て:;-..u..係わ入起 233主潮 ..)~O UQU 心 ti端綱4J.1~!l.lJわい'震. E蜘 Q軍F思!.l 0~耳元心'思R制 ....)~U .lJ\tJ~~。廓 !.l. i 震包回目勘怪 Q í語鋼需臣刊(!I Q+<ヨト~'tãt蝶憧~:i種ぬl宗~IIE....) ド. ( : i i ). 三時J.lJl~1!I..o~~~ω \tJ ~0~o m:-ß:~勘-lE-!.l稲岨初足ド~~-1BE~陛陣勘雛Q届622伴走~Hì' m : f 宣 明 監 , 1 1 1田笹'作E昨 ロ'トK眠\tJ~t(ð0 1IDE猷Q剣必担世~ C1~K同社ー<O.ijt)!.l~♀ド, .J~ú) Qiít~Q眠盤蜘揺さま'判。 Q~小 !.l. 表 9 河内長野市内における南海高野線の乗降人員の推移 1 9 7 0年 ( b ) 1 9 7 5年 ( c ) 1 9 8 0年 1 9 6 5年 駅名 1 9 6 5 年 と 1 9 6 5 年 と 9 6 5年 と 乗降 前 回 か ら 乗降 前 回 か ら 乗降 前回からの 1 ( a ) 前回差 前回差 前回差 人員 の 増 : l J 揮 l の比較cJ a 人員 の増加率 の比較 b f a 人員 増加率 の比較 d l a 千代田 9 , 9 7 9 1 3 , 0 9 4 3 , 1 1 5 3 1 .2% 1 .3 1 2 1 9 , 8 4 4 6 , 7 5 0 5 1 .6% 1 .9 8 9 2 3 , 2 2 1 3 , 3 7 7 1 7 . . 0 % 2 . . 3 2 7 河内長野 2 0, 0 0 5 2 3 , 7 1 5 3 , 7 1 0 1 8 . 5 % 1 . 18 5 2 9 , 1 9 9 5 , 4 8 4 2 3 . 1 % 1 . 4 6 0 3 4 , 3 0 0 5 , 1 0 1 1 7 . 5 % 1 . 7 1 5 4 , 8 5 6 6 , 1 1 4 1 , 2 5 8 2 5 . 9 % 1 . 2 5 9 1 0 , 1 7 6 4 , 0 6 2 6 . 0 9 6 1 3 , 3 7 1 3 , 1 9 5 31 . 4% 2 . 7 5 4 二日市 . 4 % 2 6 9 4 7 1 , 0 3 6 8 9 9 . 0 9 4 1 , 0 9 1 5 5 5 . 3 % 1 . 15 2 1 , 0 6 1 3 0 -2.7% 1 . 12 0 千早口 . 4 % 1 天見 1 , 1 0 6 1 , 0 9 3 -13 -1.2% 0 . 9 8 8 1 , 1 0 3 1 0 0 . 9 % 0 . 9 9 7 9 8 5 -118 -10.7% 0 . 8 9 1 出典:南海電気鉄道側『南海電気鉄道株式会社百年史J( 1 9 8 5年)p p . 5 9 8 . . 5 9 9より作成。. ω (. 議.

(27) 近現代における地域交通の展開. 推移している。千代田、河内長野、三日市は各期において著しく増加した。とりわけ一九七 O │七五年の増加率が. 高い。また一九六五年を基準年度として各期の伸び率を見ると、三日市は七O年に了二五倍、七五年に二・O九. 倍、八O年に二・七五倍となり最も伸びた。千代田が了三二倍、七五年に一・九八倍、三・二三倍となった。住. 宅開発により人口集中具合は河内長野から南北に広がったことが窺える。とれらは既述の南海高野線の複線化とス. ピードアップによって三日市から大阪への通勤が可能となったととも大きく、こうした杭れを助長した。 おわりに. 高野鉄道・高野登山鉄道・大阪高野鉄道に関係した人物について見ると、河内長野の名士が経営に関わったのは. 創業初期から数年間だけであった。南海電気鉄道高野線のル1ツとしておとり、約一二O年経過しても鉄道が残っ. ているのは、内部での衝突・混乱を鎮めた人物や金融面で奔走した人聞が重要な役割を果たしたといえる。そうな. ると、沿線地域以外の企業家の活躍が目立った。例えば、調停者から経営者として残った今西林三郎なEの存在は. 大きかった。その他、岸和田の寺田一族、東京の根津などが乗り込み、主導権を握ってからは徐々に状態を改善で. き、存続に寄与したと言える。吉年善作以外に河内長野の人物が積極的に経営に参加する様子もなかった。時間の. 経過とともに人的な面での関わりは薄くなったといえる。ただ、河内長野の人物の高野鉄道に対する貢献について は、今後の調査・研究で明らかになる可能性は多分にあるととを付け加えておきたい。. また、高野鉄道は、いわゆる﹁局地鉄道しであったが、時機を見て大阪市内へ路線を延伸した。との﹁北上作. 戦﹂は奏功し、状態を多少とはいえ改善できた。その他、他社が行うような旅客誘致策の一つとして運賃減額など. も実施し、営業改善に向けての取り組みも行っていた。やがて﹁南下作戦﹂もくすぶりだし、ゆっくりではあった. が前進した。大阪高野山鉄道では河内長野以南の路線敷設を達成した。南海鉄道への合併後、沿線の宅地開発を行. 307-.

(28) うようになった。本格的な沿線開発は戦後になるが、もともと参詣者獲得の鉄道を目指しており、ぞれがなかなか. 叶わないととから定住者に固を付けようとしたととは、不確実性の強い﹁日銭商売﹂から安定的な﹁固定収入﹂護. 得を考え出した意味で大きいと言える。営業不振企業であったが、種々の努力の結果、なんとかつなぎ止めた。. 鉄道会社の企業努力や工夫だけでなく、長野という地域社会は鉄道会社に対して協力的な面もあった。特に長野. 遊園地の開設は鉄道会社と地域との連携で築き上げられ、鉄道会社の経営に少なからぬ影響があったと言える。戦. 後においても、高度経済成長期には、河内長野市の﹁総合計画﹂に沿って南海電鉄をはじめとする民間企業による. 開発が河内長野市の人口を増加させた。ベッドタウンとなり、南海電鉄の利用者も増加した。発足時は高野山参詣. を目的とした鉄道であったが、今ではその印象はほとんどなくなっている。不利な状況を首の度一枚でつなぎとめ た鉄道であるが、企業と地域社会の連携で克服して今日まで継続できた。. (注). (1)河内長野についての記述は、藤本篤﹁ながの長野﹂(国史大辞典編集委員会﹃国史大辞典第十巻﹄吉川弘. 文館、一九八九年、六二五頁、秋山道雄﹁かわちながの河内長野︹市︺﹂(下中邦彦﹃平凡社大百科事典3﹄. 平凡社、一九八四年、八六三頁)、河内長野市編修委員会﹃河内長野市史第三一巻﹄(河内長野市、二OO四 年)などをもとにまとめた。. (2)南海電気鉄道側﹃南海電気鉄道百年書(一九八五年)、鉄道百年略史編さん委員会﹃鉄道百年略史﹄(鉄道図書 刊行会、一九七二年)をもとにまとめた。. (3) ﹁東京朝日新聞﹂一八九六年四月五日付、五月二日付、五月九日付。. (4)前掲﹃河内長野市史第三巻﹄二七二頁。. 308-.

(29) 近現代における地域交通の展開. (5) 原静村﹃昭和に輝く﹄(南海新聞社、 一九三一四年)二一五│コ一八頁︹国立国会図書館近代デジタルライブラ リl. 。 ︺ (6)由井 常彦・浅野俊光﹃日本全国諸会社役員録 三﹄(柏書房、 一九八八年)六一頁。 (7) ﹁大阪朝日新聞﹂一八九六年二月四日付。 (8)渋谷隆一﹃都道府県別資産家地主総覧大阪編二三柏書房、一九九一年) 一九三頁。 (9)鉄道省﹃日本鉄道史中巻﹄(一九一一一年)五九五│五九六頁。 (叩)﹁東京朝日新聞﹂一八九九年三月一六日付。 (日)﹁読売新聞﹂一九OO年九月一日付。 (ロ)﹁東京朝日新聞﹂一八九八年七月一七日付。. (日)﹁鉄道敷設免許状効用期限延長願ノ義ニ付申請﹂(武知京三﹁近代大阪における鉄道建設の一類型﹂、黒羽兵治. 郎先生喜寿記念会﹃大阪地方の史的研究﹄厳南堂書唐、一九八O年、二七九│二八O頁に所収). (H)前掲﹃南海電気鉄道百年史﹄一一一八一一一九頁。 (日)前掲﹃日本鉄道史中巻﹄五九八頁。 (同)﹁読売新聞﹂一八九七年二月一七日付。 (口)﹁大阪朝日新聞﹂一八九六年一月二八日付。 (児)日本国政調査会編﹃衆議院名鑑三国政調査室、 一九七七年)二三七頁。 (叩)﹁東京朝日新聞﹂一九O 一年一 O月九日付。 (却)﹁鉄道時報﹂一九O 一年一 O月二六日付。 (幻)同右、一九O五年八月二六日付。. 309-.

(30) (包)同右、一九O二一年五月二一O日付。 (泊)同右、一九O一二年八月一五日付。 (糾)同右、一九O一二年八月二九日付。 (お)﹁大阪朝日新聞﹂一九O八年五月五日付。 (部)﹁鉄道時報﹂一九O四年五月七日付。 (訂)同右、一九O四年五月一一八日付。 (却)同右、一九O四年七月一六日付。 (鈎)同右、一九O四年八月六日付、一一七日付。. (叩)高野義夫﹃闇西人名資料シリーズ大阪人名資料事典 第一巻﹄(日本図書センター、二O O三 年 ) 六 四 │ 六五頁、﹁大阪朝日新聞﹂一八九六年一一月一一日付。. (剖)麻生幸二郎﹃産業界の先駆宇喜多翁﹄(字喜多秀穂翁記念伝記刊行会、 一九一三年)九九頁、一一五六頁。 (担)前掲﹃日本鉄道史中巻﹄五九七頁。. (お)﹁鉄道時報﹂一九O三年一一月一四日付。なお高野鉄道の資金繰りについては、小川功﹃企業破綻と金融破綻﹄. (九州大学出版会、二O O二年)の第一部の﹁第九章高野鉄道・高野登山鉄曹を参照されたし。 (担)﹁鉄道時報﹂一九O O 年九月一五日付。. (話)残念ながら今日では汐見橋糠の利用状況は芳しくない。北端の汐見橋の一日の乗降者数は大阪府総務部統計. 課 ﹃ 大阪府統計年鑑昭和三五年版﹄を見ると、乗車数一二六七人(うち定期一五一一二人)、降車数. 一二六五人(うち定期一五=二人)(二O 一頁)となっていた。ぞれが、五年おきの乗車数(カツコ内は定. 四O年版﹄一九四頁)、一六五八人(一二ニ九人)(﹃四五年版﹄一八七 期)は、二一 O三人(一四O 一人)(﹃. 310-.

(31) 近現代における地域交通の展開. 頁)、八二六人(五六四人)、(﹃五O年版﹄一九二頁)、七O八人(五O六人)(﹃五五年版﹄ 一九二頁)と推移. している。二O年で三分の一まで減少した。なお参考までに最近のデlタを見ると、乗車数一一三一二人(八六. 人)、降車数一八八人(八六人)にまで落ち込んでいる(﹃平成二十一一年﹄ 一九九頁)。 (部)﹁鉄道時報﹂一九O O年九月一五日付。 (訂)﹁大阪毎日新聞﹂一八九八年一月三一日付。 (羽)﹁高野鉄道名所案内﹂。 (却)﹁鉄道時報﹂一九Oコ一年一二月一二日付。 (却)同右、一九O三年一二月一九日付。 (叫)﹁墓尽朝日新聞﹂一九O六年一 O月一四日付。. 同右、一九O七年二月八日付。鉄道省﹃日本鉄道史下巻﹄(一九一一一年)では、﹁明治四十年二月仮免許ヲ受. (MM). ケ﹂(五八O頁)、﹁同年十一月七日本免許ヲ得テ﹂(五八一頁)と記されている。 (却)岸和田紡績株式会社社友会﹃寺田甚与茂翁小伝﹄(一九二六年)を参照されたし。. (叫)前掲﹃南海電気鉄道百年史﹄一七四│一七五頁、経営者の居住地は武知京三﹃都市近郊鉄道の史的展開﹄(日 本経済評論社、一九八六年)三O七頁の三│三七表。 (羽)覚埜才介﹃寺田甚与茂翁偲び草﹄ 一九三二年、二一一一頁。 (崎)﹁官報﹂一九一 O年七月一二三日付。 (訂)﹁大阪朝日新聞﹂一九O八年四月二二日付、二四日付。 (絹)前掲﹃河内長野市史第三巻﹄四O四│四O五頁。 (川崎)小林尚一﹃南海鉄道発達史天南海鉄道株式会社、 一九三八年)三九六│三九七頁。. 311-.

(32) フ 闇 『. リ太産. 郎 費 1. 道先. 量生の. a z. 業駆. 盆動 済ー. 首2 、 Iヤ. f. 九. 2 ー頁. 年. 0. 。. 四. 五. 頁. 立 国. 書. 国 会 図. 岱. 近. ア. ジ. l レ フ. タ. 鉄道先人録﹂(日本停車場(株)出版事業部、一九七二年)一一七O │一 (回)日本交通協会鉄道先人録編集部 ﹃ 一 七 一. (町)前掲﹃寺田甚与茂翁忍び草﹄一四四頁。. を示して居る﹂(七五頁)と記されている。. ざるものあり、大正元年九月社長の椅子を根津氏に譲って引退した、今日では南海鉄道と併合して其の繁盛. の敷設区域を延長して前途頗る見るべきものが有ったが、其後取締役根津嘉一郎氏と経営方針に於て相容れ. 与茂翁小伝﹄には﹁翁(甚与茂・:引用者)が社長としての高野鉄道は、漸次悲境より脱出して旧套を更め其. (回)中沢米太郎﹃元朝寺田元吉﹄(寺田元吉翁銅像建設委員会、一九六一年)一 O八l 一 O九頁。前掲﹃寺田甚. (出)前掲﹃寺田甚与茂翁偲び草﹄一四四頁。. もマイナスの要因を多く抱えていたと言える。. られる。また、もともと﹁単線は比較的事故ノ可能性多ク﹂(三一一八頁)とも指摘されている。いずれにして. 言えば、大阪高野鉄道時代は悪かったととになる。これにより士気が低下し、業務に支障が出たことも考え. 併してから﹁旧高野鉄道従事員の待遇は、南海本線並に引き上げられる﹂(一二二四頁)と記されている。逆に. (日)﹁読売新聞﹂一九一五年一月二一日付。前掲﹃都市近郊鉄道の史的展開﹄には、大阪高野鉄道が南海鉄道と合. (臼)﹁東京朝日新聞﹂一九O八年九月三日付、四日付。. (回)前掲﹃寺田甚与茂翁偲び草﹄一一二一三二三四頁。. イ川前 プ上掲. 頁。没後、多摩墓地、高野山、山梨に分骨埋葬された。分骨埋葬の地として高野山が挙げられているととか. 3 1 2-. 5 15 0.

(33) 近現代における地域交通の展開. ら特別な思いがあったようである。 (印)前掲﹃企業破綻と金融破綻﹄の﹁第九章高野鉄道・高野登山鉄道﹂を参照されたし。 (印)﹁官報﹂一九一二年三一月二日付。 (剖)﹁東京朝日新聞﹂一九一四年二月三日付。 (位)﹁官報﹂一九一四年四月二七日付。 (臼)前掲﹃南海電気鉄道百年史﹂二O七頁。. (倒)肩書きについては、津村紀陵は﹁東京朝日新聞﹂一九三三年三一月一八日付、森久兵衛は﹁東京朝日新聞﹂ 一八九九年九月二七日付などをもとにしている。 (邸)前掲﹃南海電気鉄道百年史﹄一七八│一八一頁。 (侃)同右、六O三頁。 。 (肝)同右、二一一O頁 (印)同右、ミ二 l 二一三頁。. (伺)特に注記しない限り、この辺の記述は前掲﹃南海電気鉄道百年史﹄一一七五│一一七七買をもとにしている。. (叩)経営陣の一肩書は、岡田意一については鉄道史学会﹃鉄道史人物事典﹄(日本経済評論社、二O 二三年)一 O六. ー一 O七頁、法性宥捜については上田正昭・西津酒一・平山郁夫・三浦朱門﹃講談社日本人名大辞典﹄. 京阪七O年のあゆみ﹄(一九八O年) ( 一 一O O一年)一六九一頁、馬場斉昔については京阪電気鉄道株式会社 ﹃. 三六O頁、神野金之助については高野義夫﹃明治大正昭和名古屋人名録﹄(日本図書センター、一九八九年). コ一三頁、箕回長次郎については﹁読売新聞﹂一九O三年二月九日付、五辻治仲については日本国勢調査会編 ﹃参議院名鑑﹄(国政出版室、一九七八年)二ハ一頁なEをもとにしている。. 313-.

(34) (口)南海電気鉄道株式会社﹃複線化工事の記録 高野線(河内長野j橋本間)﹄(一九九七年) 一 頁 。 (花)同右、三頁。 (招)同右、三頁。 (刊)前掲﹃南海電気鉄道百年史﹄六O三頁。 (布)﹁日経産業新聞﹂一九八一年四月一日付。. (河)河内長野市市長公室企画係﹃河内長野市総合計画﹄(河内長野市、一九七O年)一五七│一五八頁。. (行)前掲﹃南海電気鉄道百年史﹄七二O頁、長谷川達也﹁私鉄系不動産企業による住宅地開発│甫海電気鉄道を例. にー﹂(人文地理学会﹃人文地理﹄第四九巻第五号、一九九七年、四六九頁)、﹁日経産業新聞﹂一九七六年一 O 月二二日付。. (叩)﹁日経産業新聞﹂一九八四年九月二一日付。約三O年が経過する昨今、南海美加の台の住宅地で空き家が目立. つようになったと報じられた。南海電鉄の山部茂専務は﹁てと入れを急がなければ街としての機能を維持で きない﹂と述べている(﹁日本経済新聞﹂三O 一一年二月一六日付)。. (叩)ベッドタウン化の様子を見ておこう。﹃大阪府統計年鑑昭和四五年版﹄では、河内長野市の①夜間人口. 四万一 O八人、②涜出人口九一三七人、③流入人口五一八O人、④昼間人口三万六一五一人(①+②│③). となっている。日中の涜入出(②│③)を見ると、三九五七人の琉出超過となっており(二八│一一九頁)、. 夜間には戻ってくるベッドタウン化しているととが窺える。ぞれが、一九七0年代の困地開発・造成が一区. 切り着く頃のデータを﹃五O年版﹄で確認すると、①五万一九九四人、②四七五八人、③一万三三七二人、. ④四万三=一八O人で、日申請入出は八六一四人の摘出超過である(三六│三七頁)。さらに、その一 O年後. の様子を ﹃六O年版﹄で追跡すると、①七万八五三二人、②九五五O 人、③一一万一一一二一二人、④. 314-.

(35) 近現代における地域交通の展開. 六万五七四一人となっている。日中疏入出は一万二七六二人の涜出超過で(四四│四五頁)、前の一 O年よ りも差が聞いている。 (郎)前掲﹃河内長野市総合計画﹄ 一八一頁。. 315-.

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自主事業 通年 岡山県 5名 岡山県内住民 99,282 円 定款の事業名 岡山県内の地域・集落における課題解決のための政策提言事業.

1970 年代後半から 80 年代にかけて,湾奥部の新浜湖や内湾の小櫃川河口域での調査

本市は大阪市から約 15km の大阪府北河内地域に位置し、寝屋川市、交野市、大東市、奈良県生駒 市と隣接している。平成 25 年現在の人口は

南山城村 精華町 和束町 笠置町 木津川市 宇治田原町 井手町 久御山町 京田辺市 八幡市 城陽市 宇治市 大山崎町 長岡京市 向日市 京都市 京丹波町 南丹市 亀岡市

田中 至道 1) 、谷山 洋三 2) 、隠 一哉 1) 、野々目 月泉 1) 、沼口 諭