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上宮寺門徒団史料の基礎的考察 ―― 中世末期・近世初期を中心に ―― 

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Academic year: 2021

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上宮寺門徒団史料の基礎的考察 四一

上宮寺門徒団史料の基礎的考察

─中世末期・近世初期を中心に

 

 

 

はじめに

  三河本願寺勢 力 (( ( に関する研究の蓄積は大きい。本願寺研究の一環とし てのものだけでなく、大名研究と結びついた形での研究も多く、検討課 題の豊富な題目といえよう。   三河本願寺勢力に関する研究で基礎となるのは新行紀一氏の研究であ る。 新行氏は三河本願寺勢力の成立と展開の過程について整理した上で、 三 河 一 向 一 揆 の 構 造 と 経 過 を 厳 密 な 史 料 検 討 に 基 づ い て 詳 細 に 論 じ た (( ( 。 さらに、三河本願寺勢力の復興過程にも目を向け、材木京上一 件 (( ( を取り 上 げ な が ら、 徳 川 領 国 に お け る 大 名 権 力 と の 関 係 性 に つ い て 論 じ て い る (( ( 。   これらの新行氏の研究に続いて、青木馨氏は、三河本願寺勢力の復興 過程について、教如の動向に注目し た (( ( 。石山合戦終結をめぐる本願寺新 門教如の動向について、三河本願寺勢力との関わりに視点を置き、三河 本願寺勢力の再興過程の分析を行った。   以上の先行研究をより深める形で、近年またさまざまな視点から三河 本願寺勢力研究が行われている。安藤弥氏は天正十一(一五八三)年三 河本願寺勢力赦免、十三(一五八五)年三河七か寺赦免、十六(一五八 八)年材木京上一件など、家康との政治的関係を中心とする議論に傾い ている状況を指摘し、その狭間を含めた三河本願寺勢力の再興過程の詳 細検討を課題として提示した。その上で、平地御坊本宗寺を中心とした 体制理解で三河本願寺勢力の全体像を再検討し、さらに三河本願寺勢力 の自律的動向に注目しながら、その再興過程を検討してい る (( ( 。三河本願 寺勢力研究の課題の提示も積極的に行っており、豊臣政権期の本願寺勢

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同朋大学佛教文化研究所紀要   第三十八号 四二 力史論の本格的検討、三河一向一揆関連史料の再検討の必要性、地方本 願寺勢力の動向からの本願寺東西分派論の構築を意識すべきことなどを 提示してい る (( ( 。   水野智之氏は材木京上一件に注目し、豊臣政権と大名、天皇、寺院と の相互関係を考察し た (( ( 。豊臣政権内に包摂されつつも、なおその独自性 を 誇 示 す る 家 康 と、 そ れ を 完 全 に 取 り 込 も う と す る 秀 吉 の 姿 を と ら え、 同時に宗教勢力を支配下に置こうとする武家勢力の動向を材木京上一件 の経過から確認した。秀吉は天皇を頂点とした公家社会の秩序を以て家 康を官職・実力の両面から統制していた。しかし、豊臣政権の仲介で一 度停止された材木京上人足役の再賦課が行われたことから、家康の独自 性を実質的に統御できず、天皇を頂点とする支配秩序を基にする統制路 線が軽んじられることとなったとしている。   谷口央氏は三河本願寺勢力の再興過程について、小牧長久手の戦いへ とつながる徳川・羽柴両氏の対抗関係を前提として、三河本願寺勢力の 解禁が行われたという従来の見解の見直しを行っ た (( ( 。徳川・羽柴両氏の 対立以前から本願寺と徳川氏による本願寺勢力再興への交渉は進められ ており、禁教期間における有力寺院の不在によって、三河本願寺勢力の 有力寺院とその坊主衆の連帯体制は薄れていたことなどから、三河国に おける本願寺派禁教解除の背景としての徳川・羽柴両氏の対立構造はさ ほど強調度の高いものではないとの説を提示した。   村 岡 幹 生 氏 は 三 河 一 向 一 揆 に つ い て の 再 検 討 を 行 っ た。 『 松 平 記 』 等 の史料から反家康勢力の動向を注視する中で、三河本願寺勢力と家康と の対抗関係を中心に見過ぎてはならないと指摘しており、その意味で三 河一向一揆の表現としては「永禄三河一揆」の方が無難であるとしてい る ((1 ( 。 ま た、 『 新 編 岡 崎 市 史 ((( ( 』、 『 新 編 安 城 市 史 ((1 ( 』 に も、 三 河 本 願 寺 勢 力 に ついての詳細な説明がなされている。   このように三河本願寺勢力に関する研究は多く、その歴史的実態の基 本的な部分はかなり明らかにされている。しかし、なお検討していくべ き点があるのも事実である。三河本願寺勢力に関する研究は三河一向一 揆や材木京上などの事件を中心として発展してきているが、三河一向一 揆後の再興過程に関連する研究の多くは天正年間頃までにとどまってお り、より長い期間を対象にして、近世初期まで見据えて考えていく必要 がある。先行研究において、当該期の関係史料をめぐる詳細な検討は提 示されておらず、急ぎ行うべき研究課題と考える。   そこで、本稿では、上宮寺文 書 ((1 ( 、特に上宮寺末寺連判状・末寺帳に注 目し、上宮寺門徒団の本末関係を中心とした歴史的実態をめぐる基礎検 討を行う。三河本願寺勢力の本末関係について検討した研究としては織 田顕信 氏 ((1 ( 、青木馨 氏 ((1 ( の研究が挙げられるが、両氏の研究のように、三河 本願寺勢力寺院の本末関係を検討し、その本末関係を基礎とする組織構 造や末寺道場の変遷などを明らかにすることで、三河本願寺勢力全体の 組 織 構 造 や 末 寺 道 場 の 実 態 の 解 明 に つ な げ て い く こ と が で き る で あ ろ う。以下、順を追って論じていくことにしたい。

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上宮寺門徒団史料の基礎的考察 四三

 

末寺連判状・末寺帳の特徴とその傾向

  古くから、三河三か寺と呼ばれ、中心的な存在とされるのが、佐々木 上宮寺・針崎勝鬘寺・野寺本證寺である。三河三か寺は多数の末寺を抱 えているが、その中で、上宮寺文書には末寺連判状や末寺帳が比較的多 く伝わっている。もっとも古いもので文明十六(一四八四)年『如光弟 子 帳 』【 史 料 一 ((1 ( 】 が あ り、 天 正 年 間 ~ 元 和 年 間 の 頃 に も 複 数 の 末 寺 連 判 状などが出されている。加えて近世にも貞享四(一六八七)年『東本願 寺 宗 上 宮 寺 末 寺 手 形 帳 』【 史 料 十 四 ((1 ( 】 が あ る。 こ れ ら を 比 較 検 討 す る こ とで、上宮寺の本末関係や末寺道場の組織について、特徴やその変遷を 捉えることができるだろう。上宮寺の末寺連判状・末寺帳に注目して検 討していきたい。   検討の前提として、上宮寺の末寺連判状・末寺帳の連続性について確 認 し た い。 現 存 で も っ と も 古 い 文 明 十 六 年『 如 光 弟 子 帳 』【 史 料 一 】 は 上宮寺如光の弟子帳として伝わっており、三河本願寺勢力の中心となる 上 宮 寺 の 当 該 期 の 状 況 を う か が い 知 る こ と の で き る 貴 重 な 史 料 で あ る。 た だ、 そ こ で は「 末 寺 」 と い う 表 現 は 使 わ れ て お ら ず、 「 弟 子 帳 」 と い う 名 称 が 用 い ら れ て い る た め、 『 如 光 弟 子 帳 』 を 後 の 末 寺 連 判 状・ 末 寺 帳 と 同 列 に 検 討 す る こ と に は 問 題 が あ る と す る 考 え も あ る か も し れ な い。 し か し、 『 如 光 弟 子 帳 』 に 見 え る 地 名 の 大 半 は、 後 の 末 寺 連 判 状・ 末寺帳にも確認できる上、高取専修坊や坂崎法蔵坊などの一部の道場の 名 称 も 一 致 し て い る た め、 『 如 光 弟 子 帳 』 に 始 ま る 上 宮 寺 末 寺 連 判 状・ 末寺帳の連続性は存在すると言えよう。   上宮寺の末寺連判状・末寺帳は合計十四ある。それらをまとめたのが 【 表 1】 で あ る。 年 月 日 が 同 じ 連 判 状 や 作 成 目 的 が 同 じ 連 判 状 も 存 在 し ており、 各史料の内容をみると末寺帳は史料一、 四、 十三、 十四の四つ、 本願寺住職下向の際の割付関係が史料二、九、十、十一の四つ、その他 規定等に関するもの六つというようにおおよそ大別できる。   複数存在する連判状・末寺帳を比較検討する上で、末寺道場・坊主衆 の変遷、各連判状・末寺帳の性格をより捉えやすくするための作業とし て 【 表 2】 を 作 成 し た。 こ れ に よ り 理 解 で き た 各 史 料 の 表 記 の 特 徴 や、 読み取れてくる上宮寺末寺道場の状況を示せば次のとおりである。   まず、各史料には、末寺道場・坊主衆と地名が両方記されているもの もあれば、末寺道場・坊主衆の署名のみ記されているものもあることが 確認できる。今回の 【表 2】 では、比較検討を行いやすいように、地名 のみ記載された末寺連判状であっても、特定できる限り末寺道場・坊主 衆の名も記入した。   また、各史料に何度も見られる末寺道場・坊主衆もいれば、一度しか 見られないものもいる。何度も末寺連判状に署名している末寺道場・坊 主衆は上宮寺末寺道場内でも上位に位置する末寺道場・坊主衆である可 能性が高いと思われる。また、末寺道場・坊主衆の大半は、署名に付さ れる地名がどの末寺連判状でも同じであるが、一部の坊主衆は途中で別

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同朋大学佛教文化研究所紀要   第三十八号 四四 の地名に変わっているものが見られる。ここからは坊主衆が上宮寺末寺 道 場 内 で、 別 の 道 場 に 移 動 す る こ と が あ っ た と い う こ と が 推 測 で き る。 地名も同様に、複数の末寺連判状・末寺帳に何度も見られるものもあれ ば、一度しか見られないものまで存在する。末寺連判状・末寺帳ごとに 表記の仕方が異なる地名が多い。漢字が違うが読みが同じもの(細川と 細 河、 小 峯 と 小 峰、 鷹 取 と 高 取 な ど )、 あ る い は 読 み が 近 い も の( 滝 見 と鷹見村など)の一部は、末寺道場・坊主衆に注目した時、一致する場 合がある。このような場合、末寺連判状・末寺帳における地名の連続性 は認められよう。   以上のように末寺連判状・末寺帳を俯瞰すると、末寺道場・坊主衆は 定期的に新しい名前が登場しているが、地名の方は文明十六年『如光弟 子 帳 』【 史 料 一 】 に 見 ら れ る も の が そ の 後 も 見 ら れ る 場 合 が 多 く、 新 し い地名が登場することは少ない傾向にある。末寺道場の位置する土地に 変化はあまりな く ((1 ( 、末寺道場内で坊主衆が交代しながら、末寺連判状に 名を連ねている様子がうかがえる。   さらに、各史料に見られる上宮寺末寺道場の地名を、確認できる範囲 で地図に落として確認してみたところ、そのほとんどは矢作川とその支 流の付近に位置するもの、東海道などの街道沿いに位置するもの、海岸 付近に位置するものと理解することができた。いずれも交通や流通の要 衝であり、人やものが多く集まる地点であり、そのような場所に真宗の 寺院や道場が建立されたのである。そのことは先行研究でよく指摘され ていることではある が ((1 ( 、あらためて上宮寺とその末寺道場の地域的展開 とその基盤を考える上で重要であることを確認しておきたい。   さ て、 お お よ そ 上 宮 寺 末 寺 連 判 状・ 末 寺 帳 に 関 し て 作 成 し た 【 表 2】 から俯瞰できたことを確認したところで、個々の論点検討に入っていき たい。本稿で以下、論じていくのは、同年月・同年月日に作成された末 寺連判状・末寺帳の比較、本願寺分裂前後の比較、同一の目的で作成さ れた末寺連判状・末寺帳の比較の三点である。

 

同年・同年月日末寺連判状・末寺帳の比較

  上宮寺末寺連判状・末寺帳には、同年同月あるいは同年月日に出され た と さ れ る 連 判 状 や 末 寺 帳 が 存 在 す る。 ( 1) 天 正 十 九( 一 五 九 一 ) 年 一月『末寺帳』 【史料四】 と天正十九年一月二十日『末寺連判状写』 【史 料 五 】 は 同 年 同 月 で、 ( 2) 慶 長 二( 一 五 九 七 ) 年 八 月 二 十 四 日『 末 寺 連 判 状 』【 史 料 六 】 と そ の 写 【 史 料 七 】、 ( 3) 元 和 二( 一 六 一 六 ) 年 十 一月十日『末寺連判状』 【史料十】 【史料十一】 は同年月日である。これ らに署名している末寺道場・坊主衆を比較すると、人数の不一致や署名 した坊主衆の名が異なっている例が数多く確認できた。これらの差異が 生じた理由やそこから見える特徴について一つずつ考察していきたい。

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上宮寺門徒団史料の基礎的考察 四五 ( 1)天正十九年の『末寺帳』と『末寺連判状写』   まず、 天正十九年一月 『末寺帳』 【史料四】 と天正十九年一月二十日 『末 寺 連 判 状 写 』【 史 料 五 】 を 比 較 す る。 こ の 二 つ の 史 料 は 作 成 さ れ た 目 的 が大きく異なるため、史料に見られる末寺道場の構成や数に違いが出る のは当然のことであろう。しかし、本来末寺道場を把握するために作成 されるはずの 【史料四】 に見られる末寺道場・坊主衆の数よりも、同年 同月に作成された 【史料五】 の方が、三河国内に限れば末寺道場・坊主 衆 の 数 が 多 く み ら れ る と い う 結 果 で あ っ た (11 ( 。 な ぜ 同 年 同 月 の 【 史 料 四 】 と 【史料五】 でこのような差異が生じたのだろうか。可能性を一つずつ 検討していきたい。   両 史 料 に 記 さ れ る 三 河 国 内 の 末 寺 道 場・ 坊 主 衆 の 数 は、 【 史 料 四 】 が 五十二、 【史料五】 が六十三であり、前者よりも後者の方が多い。本来、 末寺道場の把握を目的として作成され、それをすべて網羅しているはず の 【史料四】 にこのようなズレが生じているのは違和感がある。後に述 べるが天正十九年『末寺連判状写』 【史料五】 と慶長二年『末寺連判状』 【 史 料 六 】 の 署 名 を 比 較 す る と、 そ の 大 部 分 が 一 致 す る。 つ ま り、 上 宮 寺末寺道場の構成が変化しているということは考えにくいということで ある。   注 目 す べ き 点 は 【 史 料 四 】【 史 料 五 】 の 両 史 料 を 比 較 し た 時 に ど ち ら か一方にのみ見られる末寺道場・坊主衆の数が多く、両方に見られる末 寺道場・坊主衆が三分の一程度に過ぎないという点であろう。同年の作 成にも関わらず、一致する部分がそれほど多くないのである。ここで地 名の方から比較してみると、末寺道場・坊主衆の名前で比較した時に比 べて両方に見られたものが半数を上回り、 多い傾向にあった。また、 【史 料四】 は 【史料五】 と比べて、坊主衆の名ではなく寺院の名で記載され ているものが多く、そこが両者の差異の一つの要因となっていると考え られる。さらに、 【史料五】 に見られず 【史料四】 にのみ見られる吉浜 ・ 田原・佐々木・神戸の四つ、両方に記載はあるが 【史料五】 よりも 【史 料四】 に数が多く記載されている地名は吉田 ・ 西端の二つが挙げられる。 これらの差異は 【史料四】 が 【史料五】 には見られない末寺道場・坊主 衆まで記載しているということで説明ができよう。   こうした点を考慮して見ると、坂崎・牛久保・保久・長瀬・長沢・鷲 田・大のま・尾崎・広瀬・安城・新堀・一色・赤津・宮口・大門・赤羽 根・鴛鴨について、 【史料四】 と 【史料五】 における署名の数が合わず、 ズレが生じている状況である。その原因と思われる問題を一つずつ検討 していこう。   坂 崎 と 宮 口 は、 【 史 料 四 】 で は 一 つ し か 見 ら れ な か っ た が、 【 史 料 五 】 で は 複 数 見 ら れ た。 【 史 料 四 】 の 記 述 を 見 る と 坂 崎 は 法 善 寺、 宮 口 は 浄 覚 寺 と あ り、 【 史 料 五 】 の 署 名 を 見 る と、 坂 崎 は 法 蔵 坊・ 教 順・ 順 恵、 宮口は祐教 ・ 了念とあった。 【史料四】 では寺院の名が記載されているが、 【 史 料 五 】 で は 道 場 や 坊 主 の 名 で 連 判 し て い る こ と が わ か る。 こ の こ と か ら、 坂 崎・ 宮 口 に お け る 記 述 の ズ レ は、 【 史 料 五 】 が 個 々 の 道 場・ 坊

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同朋大学佛教文化研究所紀要   第三十八号 四六 主 衆 が 署 名 す る の に 対 し て、 【 史 料 四 】 で は そ れ ら を ま と め た 形 で 寺 院 の名前が記述されていることによって生じたと推定される。記述の方式 が 異 な る 両 史 料 の 性 格 の 違 い が こ の よ う な 差 異 に つ な が っ た の で あ ろ う。 そ れ 以 外 に も 長 沢 が、 【 史 料 五 】 で は 了 西 と 了 心 の 二 名 が 長 沢 の 坊 主 衆 と し て 連 判 し て い る が、 【 史 料 四 】 で は 了 西 の 名 前 に の み 長 沢 が 付 されており、こちらもまとめて記載したと考えられる。   この他に、比較的有力な末寺道場に近隣の末寺道場がまとめられる形 で 記 載 さ れ た 可 能 性 も あ る。 こ の 例 に 該 当 し そ う な 末 寺 道 場 は 牛 久 保、 大門である。牛久保は吉田に、 大門は岡崎にまとめられた可能性である。 牛 久 保 は 天 正 十 九 年『 末 寺 連 判 状 写 』【 史 料 五 】 と 慶 長 二 年『 末 寺 連 判 状 写 』【 史 料 七 】 に お い て、 順 西 に 付 さ れ る 形 で 見 ら れ る が、 そ の 順 西 は天正十九年 『末寺帳』 【史料四】 では吉田の地名が記載されている。 「末 寺帳」と「末寺連判状」で、記載される地名が異なる例があったという こ と だ ろ う。 ま た、 【 史 料 五 】 で 大 門 に は 祐 心 の 名 が 見 ら れ る が、 そ の 祐心は慶長二年『末寺連判状』 『末寺連判状写』 【史料六・七】 では大門 で あ る も の の、 慶 長 九 年『 末 寺 連 判 状 』【 史 料 八 】 で は 岡 崎 の「 専 福 寺 祐心」とある。同名異人の可能性もあるが、 距離も非常に近いため、 【史 料四】 においてはまとめて記載されたと考えることもできるだろう。こ れ以外では、赤羽根は野田、長瀬は吉田、尾崎は大友などの近隣の有力 末寺道場にまとめられるなどして 【史料四】 に表れなかった可能性があ る。   『 如 光 弟 子 帳 』【 史 料 一 】 や『 別 本 如 光 弟 子 帳 』【 史 料 十 三 】 に は 末 寺 道場の中の孫末 寺 (1( ( の記述がいくつか見られるが、このような孫末寺が末 寺の本寺とまとめて 【史料四】 には記載された可能性も考えられる。こ れに該当するのは保久 ・ 大のま、 広瀬、 赤津である。保久 ・ 大のまは、 『別 本 如 光 弟 子 帳 』【 史 料 十 三 】 で 田 代 の 道 場 三 箇 所 の 内 の 二 つ と し て 記 載 されており、 田代にまとめられて 【史料四】 に記載された可能性が高い。 広瀬は 「オシサワノ末」 という記述があることから押沢の末寺にあたり、 赤津は「アカツノ一シキ」として「コイタハノ末」の記述があり、赤津 はこいたわの末寺という位置付けであった。広瀬や赤津のような孫末寺 はその本寺にあたる押沢やこいたわ(越田和)にまとめられる形で記載 されたため、 【史料四】 に表れなかったという解釈ができそうである。   こ こ ま で、 【 史 料 五 】 に 見 え る が 【 史 料 四 】 に 見 え な い 末 寺 道 場・ 坊 主 衆 と そ の 地 名 に つ い て 検 討 し て き た。 【 史 料 五 】 に 見 ら れ、 【 史 料 四 】 には見られなかった地名のほとんどは他の「末寺連判状」でも見える回 数が少ないものであった。そのため、これらは比較的小規模で力を持っ ていない末寺道場であった可能性がある。そのような末寺道場が距離の 近く、有力な末寺道場にまとめられる形で 【史料四】 に記載されたとみ るのがもっとも自然な解釈であろう。   一方で、鴛鴨や鷲田、新堀、安城、一色は、隣の末寺道場まで距離が あったり、他の末寺と緊密な関係性を有していた形跡が見られたりしな かったことなどから、近隣の末寺道場にまとめられたという解釈はやや

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上宮寺門徒団史料の基礎的考察 四七 難しいように思う。ただし、今回の検討では、これらの末寺道場の記載 が無かったことについて確たる理由を示すことはできない。尾崎や鷲田 などが 【史料四】 に見られなかった点も含め、今後の課題として残さざ るを得ない。 ( 2)慶長二年の『末寺連判状』とその写   慶 長 二( 一 五 九 七 ) 年 八 月 二 十 四 日『 末 寺 連 判 状 』【 史 料 六 】 は 本 願 寺の東西分派へとつながる教如と准如の対立に伴い、教如方についた上 宮寺が、准如方についた本宗 寺 (11 ( へ参詣しないことを末寺道場に誓約させ た 連 判 状 で あ る。 『 新 編 岡 崎 市 史 』 に は こ の 連 判 状 の 原 本 【 史 料 六 】 と その写 【史料七】 が収録されているが、両史料に見られる末寺道場・坊 主衆の数は原本よりもその写の方が多い。   こ の よ う な 差 異 が 生 じ た 理 由 は 何 で あ ろ う か。 両 史 料 を 比 較 す る と、 原本に見られる末寺道場・坊主衆は写の方にも同様にみられる(原本に 見 え る 祐 賢 と 写 に 見 ら れ る 祐 堅 を 同 一 人 物 と み な し た 場 合 )。 こ こ か ら 推測できることは、 原本 【史料六】 のような「末寺連判状」が複数あり、 それらを統合して書写し、一つの連判状とした可能性が考えられる。他 に 【史料六】 と同様の「末寺連判状」が確認できていないため断定する ことはできないが、署名数の多い連判の形式としては、自然な解釈であ ろう。   また、連判の方法としては、地域別で近い末寺道場の間でまわして連 判 す る こ と が、 ま ず 考 え ら れ る。 し か し、 【 史 料 六 】 に 見 ら れ る 末 寺 道 場はかなり広範囲に及んでおり、近隣の地域でまわしたということは考 えにくい。また、 【史料六】 に見られる末寺道場 ・ 坊主衆がその前後の 「末 寺連判状」 にも複数回出てきており、 ある程度力のあった末寺道場であっ たと考えられる。このことからは有力な末寺道場は他の末寺道場とは別 に連判していた可能性が指摘できよう。   ただし、原本と写で連判した末寺道場・坊主衆の署名の順番や位置が 大きく異なっていること、原本にはなかった末寺道場の地名が写には付 されていることなどが疑問に残る。今後の検討課題である。 ( 3)元和二年の『末寺連判状』二点   元和二 (一六一六) 年十一月十日付で二点存在する 『末寺連判状』 【史 料 十 】【 史 料 十 一 】 は い ず れ も 東 本 願 寺 第 十 三 代 宣 如 (11 ( の 下 向 に 際 し 費 用 を末寺に割り付ける内容であり、この二点に連判した末寺道場・坊主衆 には大きな差異は見られない。唯一、連判している坊主の中で教順と慶 順という坊主が一方には見られ、もう一方には見られないという違いが 見られる状況である。 【史料十】 【史料十一】 には末寺道場の地名がほと んど付されておらず、 手がかりが少ない (慶順にはあさいと付してある) 。   他 の「 末 寺 連 判 状 」「 末 寺 帳 」 を 見 る と「 教 順 」 と「 慶 順 」 の 名 は 同 史料に記されていることはない。また、どちらにも生田という地名が付 されることがある。おそらくは同一人物とみてよいであろう。

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同朋大学佛教文化研究所紀要   第三十八号 四八

 

本願寺東西分派前後の「末寺連判状」比較

  慶 長 二 年 八 月 二 十 四 日「 末 寺 連 判 状 」【 史 料 六 】 が、 准 如 方 に つ い た 本 宗 寺 へ の 参 詣 を 禁 じ る も の で あ っ た こ と は 先 に 述 べ た と お り で あ る。 本願寺が東西分派していく動きの中で、全国各地における寺院・道場の 坊主衆においては准如・西本願寺につくか、教如・東本願寺につくかが 大きな問題となった。これは三河でも同様であった。そこで、本願寺東 西分派前後の上宮寺末寺帳・末寺連判状を検討し、当該期に上宮寺末寺 道場がどのような動きを見せていたのかを考察したい。   慶長二年『末寺連判状』 【史料六 ・ 七】 の前に作成された末寺連判状 ・ 末寺帳については、 天正十九年の 『末寺帳』 【史料四】 と 『末寺連判状写』 【 史 料 五 】 が 直 近 で あ る。 そ こ で 【 史 料 七 】 と 【 史 料 五 】 を 比 較 検 討 し てみると、大半の末寺道場が一致する。異なっているのは 【史料五】 に 見える末寺道場 ・ 坊主衆(坂崎 ・ 教順、おしかも ・ 和泉、わした ・ 哥了、 あかづ ・ 万才、あさゐ ・ 了可)が 【史料七】 には見えないこと、 【史料五】 に見えない末寺道場 ・ 坊主衆(さかさき ・ 了順、わした ・ 暁願、大はま ・ 西忍、あかづ・万了、あさゐ・了正)が 【史料七】 には見えることであ る。このうち、道場があったと考えられる地名が一致しているものとし ては、坂崎、わした、あかづ、あさゐが挙げられ、これらは連判した坊 主 の 名 前 は 異 な っ て い る も の の( 代 替 わ り と 考 え ら れ る )、 同 じ 末 寺 道 場が署名していることが推測できる。   以 上 を 考 え て み る と、 天 正 十 九 年 と 慶 長 二 年 で の 差 異 は、 お し か も・ 和泉と大はま・西忍に限られる。双方の連判状のズレとして認識できる のはごく一部の坊主であることがわかった。その一方で、大半の末寺道 場と坊主衆は、天正十九年と慶長二年で一致しており、本願寺東西分派 という状況においても、上宮寺との本末関係を崩さなかったことが推測 できる。上宮寺の本末関係の結びつきの強さがうかがえよう。

 

同一作成目的の末寺連判状・末寺帳比較

  上 宮 寺 の「 末 寺 連 判 状 」「 末 寺 帳 」 の 中 に は 作 成 目 的 を 同 じ く す る も のが複数確認できる。ここではそれらの比較検討を行い、議論を深めて いきたい。取り扱うのは次の三つの項目である。 ( 1)「末寺帳」を比較し、末寺道場の変遷についての検討 ( 2)東本願寺住職下向時における費用割付関係の連判状の比較 ( 3)上宮寺御番規定に関する「連判状」と「末寺番帳」の比較   このうち( 2)下向費用割付関係と( 3)御番規定関係に関してはそ れぞれ史料を比較検討する中で、上宮寺末寺道場・坊主衆の財政状況に ついても考察する。特に御番規定の検討は末寺道場・坊主衆の班分けや 御番の担当者分担などに注目することで、他の末寺連判状・末寺帳の比 較検討とは異なった視点から検討することができる。

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上宮寺門徒団史料の基礎的考察 四九 ( 1)「末寺帳」の比較検討   末寺道場 ・ 坊主衆の把握を目的とした「末寺帳」として、 文明十六(一 四八四)年『如光弟子帳』 【史料一】 、天正十九(一五九一)年『上宮寺 末寺帳』 【史料四】 、『別本如光弟子帳』 【史料十三】 、貞享四(一六八七) 年『東本願寺宗上宮寺末寺手形帳』 【史料十四】 を比較検討する。   ま ず、 記 載 さ れ た 末 寺 道 場 の 数 を 比 較 し て い く。 【 史 料 一 】 に 記 載 さ れ た 地 域 と 門 徒 の 数 は 三 河・ 尾 張 で 合 計 百 五 で あ る。 【 史 料 四 】 は 合 計 八 十 八 と な っ て い る が、 【 史 料 十 三 】 で は 【 史 料 一 】 に あ る 末 寺 道 場 が 複数に分かれたり、新しい末寺道場の地名が見られるようになったりし ていることから、末寺道場の数を増やしている様子がうかがえる。しか し、 【 史 料 十 四 】 は 末 寺 道 場 の 数 が 合 計 五 十 と な っ て お り 大 幅 に 減 少 し ているように見える。   次に、 末寺道場の分布については、 【史料四】 (天正十九年)では遠州、 駿河、武蔵江戸、下総などにも末寺道場が分布しており、 【史料一】 (文 明十六年) より末寺道場の分布範囲が広がってい る (11 ( 。しかし、 【史料十四】 ( 貞 享 四 年 ) の 場 合 は 三 河 国 内 に 限 っ た 末 寺 道 場 が 記 さ れ て い る。 そ の ため先に述べたように数が大きく減少するのであるが、 これは「末寺帳」 としての性格が異なるためで、三河以外の末寺道場との関係が切れたわ けではない。   その上で、 【史料十四】 に記された末寺道場を見てみれば、 やはり 【史 料一】 から続く末寺帳・末寺連判状に見られた有力末寺道場の地名の多 くが確認できる。三河国内において、中世以来の上宮寺の末寺道場の多 くが近世に入っても上宮寺との本末関係を維持していたのである。 ( 2)東本願寺住職下向費用割付関係「連判状」の比較検討   上宮寺末寺連判状には東本願寺住職の下向に伴う費用を末寺に割り付 ける内容のものも多くある。   ま ず、 天 正 十 五 年( 一 五 八 七 ) 年『 上 宮 寺 末 寺 割 付 帳 』【 史 料 二 】 は 連判状形式ではないが、教如の下向費用を三十五か所に割り振ったもの で、上宮寺末寺道場の多くが見える。連判状形式のものとしては、慶長 十一(一六〇六)年『上宮寺末寺連判状』 【史料九】 、元和二(一六一六) 年『 上 宮 寺 末 寺 連 判 状 』【 史 料 十・ 十 一 】 が 挙 げ ら れ る。 こ れ ら を 比 較 しながら、見出されてくる上宮寺の費用割付のあり方やその特徴、さら には上宮寺末寺道場の財政状況についても検討を行いたい。   これらの割付関係史料を見ると、そのすべてに見られる末寺道場・坊 主衆が複数存在する。そのほとんどが高取専修坊や細川重正など、他の 連判状 ・ 末寺帳にも多く名が見られる末寺道場 ・ 坊主衆であった。また、 すべての割付関係史料に登場する末寺道場・坊主衆は 【史料二】 による と、 割り付けられた費用の金額が他の末寺道場より大きい傾向にあった。 費用を他の末寺道場より多く賄えるだけの財力を有していたということ だろう。さらに、これらの末寺道場・坊主衆は割付関係だけでなく、規 定関係の連判状にも多く署名が見られ、上宮寺末寺道場の中では上位に

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同朋大学佛教文化研究所紀要   第三十八号 五〇 位置していたと考えられる。   その一方で、他の連判状・末寺帳では多く署名が見られるものの、割 付関係史料には一度しか見られない末寺道場(小峯、長沢、吉田、恵田 など) 、一度も見られない末寺道場(筒針、渡)も一定数存在していた。 つまり、連判状・末寺帳に多く登場している末寺道場、人数の少ない連 判状にも見られる末寺道場は上宮寺末寺道場内では主要な位置を占めて いたと考えられるが、そのような末寺道場でも、必ずしも毎回割付費用 を賄えるほどの財力を有していなかった可能性があるのである。   一方で、連判状・末寺帳全体であまり署名が見られなかったにも関わ らず、割付関係史料には複数回登場している末寺道場(広瀬)も存在し た。このことからは、あまり末寺連判状に多く見られず、主要な位置に なかったと考えられる末寺道場でも、比較的財源が充実していたものも あった可能性が指摘できよう。   ただ、 上宮寺末寺道場全体の財政状況は良好ではなかったようである。 再興後の三河本願寺勢力は、三河一向一揆後の再興にかかる費用、赦免 から続く徳川氏への諸礼銭の支払い、材木京上人足役賦課などで、財政 は非常に厳しい状況であったことが推測され る (11 ( 。上宮寺もその例外では な か っ た の だ ろ う。 【 史 料 十・ 十 一 】 で は 割 付 費 用 の 半 分 を「 は り さ き 七蔵、こもう茂左衛門、まちや孫左衛門」の三人で賄っている。厳しい 状況下で費用を賄おうと苦心する様子がうかがえる。 ( 3)「御番之事」の規定に関する比較検討   上宮寺末寺道場には 「御番之事」 という役目が課されることがあった。 「 御 番 之 事 」 と は、 こ の 場 合、 末 寺 道 場・ 坊 主 衆 が 上 宮 寺 に 参 り、 掃 除 や灯明などの諸役を勤めることである。この「御番之事」について記述 が あ る の は、 天 正 十 九( 一 五 九 一 ) 年『 末 寺 連 判 状 写 』【 史 料 五 】 と 年 未詳の『上宮寺末寺番帳』 【史料十二】 である。両史料の特徴をまとめ、 比 較 検 討 を 行 う。 そ の 中 で 【 史 料 十 二 】 の 年 代 推 定 も 行 い、 さ ら に は、 上宮寺と末寺道場の財政状況や本末関係についても言及していきたい。   まずは両史料の「御番之事」に関する記述の特徴を整理する。   【史料五】 には礼銭などの規定に加えて、 「御番之事」についての規定 が 記 さ れ て い る。 「 御 番 之 事、 御 ち や う め ん の 通、 一 は ん 七 日 ツ ヽ 御 院 家 さ ま へ ま い り、 御 と う 明・ 御 そ う ち 等 仕 可 申 候、 」 と あ り、 末 寺 道 場 を合計三班に分けた上で、各班が七日ずつ「御院家」すなわち上宮寺に 参り、掃除や灯明の諸役を勤めるというものである。この 【史料五】 は 他の「末寺連判状」と比較して末寺道場・坊主衆の署名の数が多い。他 の「末寺連判状」にも複数回見られる末寺道場・坊主衆だけでなく、あ まり多くは見られない末寺道場・坊主衆の署名もあり、各班に割り振ら れている。   一班・二班・三班の内約を見ると、人数や末寺道場の構成に偏りが生 じている。各班を構成する末寺道場・坊主衆の数は、一班=十九、二班 =十四、三班=三十であった。また、三班に他の「末寺連判状」で多く

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上宮寺門徒団史料の基礎的考察 五一 見られる末寺道場・坊主衆の大半が振り分けられており、末寺道場・坊 主衆の構成も大きな偏りがうかがえる。班を構成する末寺道場の数が増 えれば、相対的に各末寺道場の仕事量は減ることとなるが、このように 偏りのある班編成となった理由は何であろうか。   各班を構成する末寺道場の数に大きな開きがあるにも関わらず、それ が許されているということは、各末寺道場・坊主衆もそれを理解した上 で班構成が行われたということであろう。三班を構成する末寺道場・坊 主衆に注目すると、先にも述べたように他の「末寺連判状」に多く見ら れるものがほとんどである。さらに前節で検討した割付関係の観点から みると、三班に属する末寺道場・坊主衆は教如下向の際の割付関係史料 【史料二 ・ 九】 に複数回見られるものがほとんどであった。このことから、 教如下向の費用割付に大きく貢献した末寺道場は「御番之事」での負担 が減る傾向がうかがえる。費用割付の負担が大きい末寺道場には御番の 負担を減らすことで末寺道場間の不平等を是正しようとしたのではない だろうか。   あるいは、有力な末寺道場が自らの負担を軽くしようと図った可能性 も考えられる。有力末寺道場・坊主衆で示し合わせて、御番の負担を軽 減すべく動いたということである。この場合は有力な末寺道場・坊主衆 の派閥のようなものが存在し、この派閥に属しない末寺道場・坊主衆は これに口出しできなかったという形になろうが、可能性としてはあり得 ない話ではないだろう。いずれにしても、意図的に三班を構成したこと は間違いなかろうし、その背景に三班の負担軽減があったことも強く推 定できる。そして、そこには末寺道場・坊主衆の派閥やグループが存在 していた可能性も考えられよう。   一方、同じく「御番之事」について書き記した 【史料十二】 も存在す る。こちらは五日に一度の間隔で一月から十二月の一年間を通して担当 者とその日程が決められており、 年に一回から三回の御番が各末寺道場 ・ 坊主衆に割り当てられている。そして文書の形式は「末寺連判状」とは 異なり、番役の覚書としての帳面である。 【史料五】 と比較して、 【史料 十 二 】 に 登 場 す る 末 寺 道 場・ 坊 主 衆 の 数 は 少 な い。 さ ら に、 【 史 料 五 】 で は、 「 末 寺 連 判 状 」 に あ ま り 多 く 記 載 の な い 末 寺 道 場・ 坊 主 衆 が 多 く 見られたのに対し、それらの末寺道場・坊主衆の大半は他の「末寺連判 状 」 に 多 く 見 ら れ る 有 力 末 寺 で あ っ た。 ま た、 【 史 料 十 二 】 に 記 載 の あ る末寺道場・坊主衆は割付関係の史料にも複数回見られるものが多いと いう傾向もあった。   な お、 【 史 料 十 二 】 は 年 月 日 の 記 載 が 無 い 史 料 で あ る。 よ り 議 論 を 深 めるために 【史料五】 と 【史料十二】 の前後関係をある程度把握する必 要がある。そこで、あらためて 【表 2】 を用いて検討を行いたい。   【 史 料 十 二 】 に は 外 表 紙 に 尊 祐 の 印 が 見 ら れ る。 尊 祐 は 慶 長 九( 一 六 〇四)年九月十四日没であるため、それより以前であることは間違いな いだろう。さらに 「龍泉寺源明」 という坊主が 【史料十二】 に見えるが、 年次が判明する源明の初出は 【史料九】 (慶長十一年) である。そして 【史

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同朋大学佛教文化研究所紀要   第三十八号 五二 料 六 】( 慶 長 二 年 ) ま で は 龍 泉 寺 の 坊 主 は 祐 喜 で あ る た め、 慶 長 二 年 以 降 で あ る 可 能 性 も 高 い。 以 上 の こ と を 考 え る と、 【 史 料 十 二 】 が 作 成 さ れた年代の範囲は慶長二年八月二十四日以降、慶長九年九月十四日以前 の期間であることが推測できる。これ以上の検討は難しいが、ある程度 の年代を推定できたことで比較検討をさらに進めることができる。   すなわち、 【史料十二】 は 【史料五】 (天正十九年)よりも後に作成さ れたこととなる。とすれば、番役の割り振りに関する変化の方向性が見 えてくる。一班七日ずつの三班構成で割り振られていた番役は五日に一 度( 月 に 五 回 ) に 減 少 し、 班 の 編 成 も 行 わ れ な く な っ た。 さ ら に、 【 史 料 五 】( 天 正 十 九 年 ) で は 六 十 三 も の 末 寺 道 場 が 番 役 を 担 当 す る こ と と な っ て い る が、 【 史 料 十 二 】 で は、 三 十 四 の 末 寺 道 場・ 坊 主 衆 し か 見 ら れず、その大半は主要な末寺道場・坊主衆が占めているのである。   番役を割り振る日数が減少し、番役を担当する末寺道場も主要な末寺 道場のみ残される形で減少している様子からは、上宮寺末寺道場・坊主 衆の厳しい状況がうかがえる。番役を定期的に担当できるほどの余裕の あ る 末 寺 道 場 が 【 史 料 五 】( 天 正 十 九 年 ) の 頃 に 比 べ て 少 な か っ た の で あろう。それを上宮寺側も考慮して、番役の日数を削減したのではなか ろ う か。 【 史 料 五 】 で は、 費 用 割 付 関 係 で 貢 献 度 の 高 い 有 力 末 寺 道 場・ 坊主衆に配慮し、その負担が軽くなるように班編成が行われた可能性を 先 に 指 摘 し た が、 【 史 料 十 二 】 か ら は そ の よ う な 余 裕 は う か が う こ と は できない。本節(二)でも言及したが、この時期は上宮寺をはじめとす る三河本願寺勢力の財政状況は厳しかった可能性がある。そのような状 況下で、上宮寺末寺道場の中でもともと力のなかった末寺道場・坊主衆 は番役を務める人員的・金銭的余裕がなくなってしまったのであろう。   そ の 一 方 で、 「 末 寺 番 帳 」 が 作 成 さ れ た と 推 定 し た 期 間 は 本 願 寺 勢 力 の分裂が顕著となっていた時期にあたる。上宮寺は慶長二年の時点で教 如 方 に つ く こ と を 表 明 し、 「 末 寺 連 判 状 」 に お い て 准 如 方 に つ い た 本 宗 寺への参詣を末寺道場・坊主衆に禁じているが、本願寺勢力の分裂とい う問題に直面する中で、 本末関係の維持に努める必要があった。そこで、 末寺道場の掌握を推し進める一環とし て (11 ( 、天正十九年「末寺連判状」で 規定した「御番之事」を末寺道場の財政状況を鑑みたうえで修正したも のが今回の 『上宮寺末寺番帳』 【史料十二】 なのではなかろうか。つまり、 末寺道場側の厳しい状況を考慮して番役の日数を減らしつつ、番役の担 当を有力末寺道場・坊主衆に限定することで番規定を継続し、本末関係 の維持を図ったのである。厳しい状況下でも、主要な末寺道場・坊主衆 との本末関係を維持しようと苦心する上宮寺の様子がうかがえよう。こ のような上宮寺の取り組みが、本節(一)でも言及したような、三河国 内の長期にわたる本末関係の維持の一因となったのであろう。

おわりに

  本論文では三河本願寺勢力の中でも上宮寺の「末寺連判状」 「末寺帳」

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上宮寺門徒団史料の基礎的考察 五三 に注目し、上宮寺の本末関係や末寺道場・坊主衆のあり方についての検 討に取り組んだ。同年月日あるいは同年に作成された 「末寺連判状」 「末 寺 帳 」 を 比 較 す る こ と で、 「 末 寺 連 判 状 」 の 作 成 方 法 や 末 寺 帳 に お け る 末寺道場・坊主衆の記載傾向に至るまで考察を行った。   また、本願寺東西分裂の前後で「末寺連判状」の比較を行ったが、本 願寺分裂の前後で上宮寺の末寺道場組織に大きな変化が見られなかった ことから、三河国内において上宮寺と末寺道場が本末関係を維持してい る様子をうかがうことができた。さらに、同一の目的で作成された「末 寺連判状」 「末寺帳」の連続的な比較検討を行った。 「末寺帳」の比較で は末寺道場の変遷を追い、割付関係史料と御番規定関係史料では末寺道 場の財政状況と本末関係について考察した。弱体化に伴い厳しい状況に あった末寺道場の実態と本末関係を維持しようと努める上宮寺の様子を うかがうことができた。   しかし、 いずれの項目もまだまだ検討が不十分な部分が存在している。 天正十七年「末寺連判状」や慶長九年「上宮寺末寺連判状」など、今回 検討することのできなかった史料もあり、 さらなる分析が必要といえる。 さらに、今回は上宮寺の本末関係に限定して検討したが、今後は勝鬘寺 や本證寺などの三河本願寺勢力の有力寺院との比較検討を行い、三河本 願寺勢力全体の本末関係のあり方を分析するなど視野を広げていくべき であろう。   以上、本論文の成果と今後の課題を提示し擱筆する。 注 ( 1)   先行研究においては 「三河本願寺教団」 と称される場合が多いが、 「教 団 」 と い う 言 葉 は 近 代 的 な 表 現 で あ る た め、 中 世・ 近 世 期 の 三 河 本 願 寺 の 勢 力 に 対 し て「 教 団 」 と い う 呼 称 を 安 易 に 用 い る の は 危 険 で あると考える。      そ こ で 本 論 文 で は、 中 世 後 期 か ら 近 世 初 期 の 三 河 に お け る 平 地 御 坊 本 宗 寺・ 三 河 三 か 寺 を 中 心 と す る 一 向 宗 寺 院・ 坊 主 衆・ 門 徒 衆 を 総称して「三河本願寺勢力」と呼称する。 ( 2)   新 行 紀 一『 一 向 一 揆 の 基 礎 構 造 ─ 三 河 一 揆 と 松 平 氏 』( 吉 川 弘 文 館、 一九七五年) ( 3)   天 正 十 六( 一 五 八 八 ) 年 二 月 十 五 日、 徳 川 家 康 か ら 三 河 本 願 寺 勢 力 に 対 し て、 材 木 を 京 都 ま で 運 ぶ た め の 人 足 役 の 賦 課 命 令 が 出 さ れ た。 三 河 七 か 寺・ 八 か 寺 は 本 多 重 次 に 免 除 を 願 い 出、 本 願 寺 に 仲 介 を 依 頼 す る な ど し た が、 本 多 重 次 に は 願 い を 却 下 さ れ、 本 願 寺 に は 仲 介 を 断 ら れ た。 そ の 結 果、 八 か 寺 は 平 地 御 坊 に 集 合 し て、 こ の 問 題 に つ い て 話 し 合 い、 人 足 役 提 出 を 拒 否 す る こ と を 決 め、 本 多 重 次 に 申 し 入 れ た。 そ の 後、 石 川 家 成 が 再 度 人 足 役 提 出 を 要 請 し て お り、 三 河 本 願 寺 勢 力 と 石 川 家 成 と の 間 で 交 渉 が 行 わ れ た よ う で あ る が、 不 調 に 終 わ り、 八 か 寺 は 人 足 役 提 出 拒 否 を 正 式 に 決 定 し、 各 寺 院 を 退 去した。      八 か 寺 の 退 去 の 動 き は 本 願 寺 に 伝 え ら れ、 本 願 寺 の 仲 介 に よ り、 豊 臣 政 権 内 部 に も 伝 わ る こ と と な っ た。 そ の 結 果、 豊 臣 秀 長 か ら 家 康 へ 意 見 が あ り、 人 足 役 は 停 止 さ れ る こ と と な っ た。 そ の 根 拠 は 天 正 十 三( 一 五 八 五 ) 年 の 七 か 寺 還 住 許 可 時 に 家 康 よ り 七 か 寺 に 宛 て られた諸役免許状であった。      し か し そ の 後、 家 康 は 再 度 三 河 本 願 寺 勢 力 側 へ 材 木 京 上 の 人 足 役 を 賦 課 し た。 七 か 寺 に 対 し て 人 足 役 を 賦 課 す る こ と は 諸 役 免 許 状 に 違 反 す る た め 不 可 能 で あ る が、 門 徒 衆 か ら の 賦 課 で あ れ ば、 七 か 寺 に 役 賦 課 す る わ け で は な い た め 可 能 で あ る と い う 論 理 で あ っ た。 ( 以 上『新編安城市史 1通史編原始 ・ 古代 ・ 中世』 〈安城市、二〇〇七年〉 第十一章第七節・谷口央氏執筆分を参照し要約)

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同朋大学佛教文化研究所紀要   第三十八号 五四      そ の 後 の 一 件 の 終 結 に つ い て は『 新 編 安 城 市 史 1』 は 不 明 と し て い る が、 『 新 編 岡 崎 市 史 2中 世 』( 岡 崎 市、 一 九 八 九 年 ) 第 四 章 第 二 節(新行紀一氏執筆分)では礼金上納で終結したと推定している。 ( 4)   新 行 紀 一「 天 正 末 年 の 三 河 本 願 寺 教 団 と 徳 川 家 康 ─ 材 木 京 上 一 件 を め ぐ っ て ─ 」( 和 歌 森 太 郎 先 生 還 暦 記 念 論 文 集 編 集 委 員 会 編『 近 世 封 建支配と民衆社会』弘文堂、一九七五年) 。 ( 5)   青木馨 「三河本願寺教団の復興と教如の動向─石山合戦終結をめぐっ て ─ 」( 北 西 弘 先 生 還 暦 記 念 会 編『 中 世 仏 教 と 真 宗 』 吉 川 弘 文 館、 一 九八五年) 。 ( 6)   安藤弥 「天正年間三河本願寺教団の再興過程─平地御坊体制をめぐっ て─」 (『安城市史研究』第六号、二〇〇五年) 。 ( 7)   安 藤 弥「 「 三 河 一 向 一 揆 」 は 家 康 に と っ て 何 で あ っ た の か 」( 平 野 明 夫編 『家康研究の最前線   ここまでわかった 「東照神君」 の実像』 (洋 泉 社 歴 史 新 書、 二 〇 一 六 年 )、 同「 教 如 教 団 の 地 域 的 基 盤 ─ 三 河 を 事 例として」 (同朋大学仏教文化研究所編 『教如と東西本願寺』 法藏館、 二〇一三年) 。 ( 8)   水 野 智 之「 聚 楽 第 行 幸 と 武 家 権 力 ─ 三 河 本 願 寺 教 団 へ の 材 木 京 上 賦 課の検討から」 (『安城市史研究』第六号、二〇〇五年) 。 ( 9)   谷 口 央「 三 河 本 願 寺 教 団 の 再 興 過 程 に つ い て の 一 考 察 」( 稲 葉 伸 道 編 『中世寺社と国家・地域・史料』法藏館、二〇一七年) 。 ( 10)   村 岡 幹 生「 永 禄 三 河 一 揆 の 展 開 過 程 ─ 三 河 一 向 一 揆 を 見 直 す ─ 」( 新 行紀一編『戦国期の真宗と一向一揆』吉川弘文館、二〇一〇年) 。 ( 11)   前掲注 ( 3)『新編岡崎市史 2中世』 、『新編岡崎市史 3近世』 (岡崎市、 一九九二年) 。いずれも執筆には新行氏が携わっている。 ( 12)   前 掲 注( 3)『 新 編 安 城 市 史 1』、 新 編 安 城 市 史 2通 史 編 近 世 』( 安 城 市、 二 〇 〇 七 年 )。 こ れ ら の 執 筆 に は 安 藤 氏、 水 野 氏、 谷 口 氏、 村 岡氏が携わっている。 ( 13)   真 宗 大 谷 派 寺 院( 岡 崎 市 上 佐 々 木 町 )。 も と 天 台 宗 で 二 三 世 蓮 行 が 親 鸞 に 帰 依 し て 改 宗 し た と 伝 え る。 一 五 世 紀 中 葉 に 改 宗 六 代 如 光 が 本 願 寺 蓮 如 に 従 っ て 高 田 派 よ り 改 宗 し、 本 願 寺 派 三 河 三 か 寺 の 一 つ と な る。 一 向 一 揆 の 国 外 追 放 の た め、 一 揆 以 前 の 史 料 は 僅 少 で あ る が、 天 正 年 間 以 後 の 地 方 教 団、 特 に 中 本 山 の あ り 方 を 示 す 史 料 は 数 多 い。 ( 以 上、 『 新 編 岡 崎 市 史 6史 料 古 代・ 中 世 』〈 岡 崎 市、 一 九 八 三 年 〉 中 世編解題を参照) ( 14)   織 田 顕 信「 三 河 三 か 寺 門 徒 団 の 基 礎 的 研 究 ─ 勝 鬘 寺 末 寺 を 中 心 と し て」 (『同朋大学論叢』第二四 ・ 二五合併号、一九七一年。後に同『真 宗 教 団 史 の 基 礎 的 研 究 』〈 法 藏 館、 二 〇 〇 八 年 〉 所 収 )。 織 田 氏 は、 三 河 三 か 寺 に 数 え ら れ る 勝 鬘 寺 の 蓮 如・ 実 如 期、 証 如 期、 顕 如 期、 教 如 期 と そ れ 以 降 と そ れ ぞ れ の 時 期 に お け る 門 徒 団 の 形 成 過 程 と そ の発展について検討を加えた。 ( 15)   青 木 馨「 中 世 末 期 に お け る 三 河 上 宮 寺 の 本 末 関 係 」( 『 近 世 仏 教 』 第 四 巻 第 四 号、 一 九 八 〇 年。 後 に 同『 本 願 寺 教 団 展 開 の 基 礎 的 研 究   戦 国 期 か ら 近 世 へ 』〈 法 藏 館、 二 〇 一 八 年 〉 所 収 )。 青 木 氏 は、 上 宮 寺 の 末 寺 帳 か ら、 中 世 末 期 の 地 方 真 宗 勢 力 の 構 造 的 特 質 と 展 開 の 一 端 を 考 察 し、 中 世 末 期 の 本 末 関 係 を 中 心 と す る 本 願 寺 地 方 教 団 の 構 造の一例を示した。 ( 16)   『新編岡崎市史 6』上宮寺文書一九四。 ( 17)   『 新 編 岡 崎 市 史 8史 料 近 世 下 』( 岡 崎 市、 一 九 八 五 年 ) 上 宮 寺 文 書 一 六〇。 ( 18)   こ の 特 徴 は 三 河 国 内 に 限 ら れ る。 四 で も 述 べ る が、 三 河 国 外 の 上 宮 寺末寺道場の変遷は流動的といえる。 ( 19)   峰 岸 純 夫『 中 世 社 会 の 一 揆 と 宗 教 』( 東 京 大 学 出 版 会、 二 〇 〇 八 年 ) など。 ( 20)   上 宮 寺 は 三 河 国 外 に も 末 寺 道 場 が 存 在 す る が、 末 寺 連 判 状 に は 三 河 国 外 の 末 寺 道 場・ 坊 主 衆 の 名 が 見 ら れ る こ と は ほ と ん ど な い。 そ の ため、今回は三河国内の末寺道場に限り比較を行うこととする。 ( 21)   末 寺 の 末 寺 を こ の よ う に 称 す る こ と が あ る。 前 掲 注( 15) 青 木 論 文 参照。 ( 22)   浄 土 真 宗 本 願 寺 派 寺 院( 岡 崎 市 美 合 町 )。 蓮 如 建 立 の 一 家 衆 土 呂 本 宗 寺 の 寺 跡 を つ ぐ が、 血 縁 は 近 世 初 頭 の 四 代 良 乗 で 断 絶 し、 末 寺 光 顔 寺 が 留 守 居 と な る。 一 八 一 六( 文 化 一 三 ) 年 本 宗 寺 と 復 称。 一 九 六 八( 昭 和 四 三 ) 年 火 災 で 焼 失。 ( 以 上、 『 新 編 岡 崎 市 史 6』 中 世 編 解

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上宮寺門徒団史料の基礎的考察 五五 題を参照) 。 ( 23)   『 新 編 岡 崎 市 史 6』 で は 本 文 中 の「 御 門 跡 」 に「 ( 教 如 )」 の 傍 注 が 付 い て い る が、 教 如 は 慶 長 十 九 年( 一 六 一 四 ) に 没 し て お り、 誤 り で ある。教如の後を継いだ宣如が正しい。 ( 24)   前掲注 ( 15)青木論文は、 如光弟子帳と天正十九年末寺帳の比較を行っ て お り、 末 寺 道 場 の 数 や 範 囲 に つ い て 検 討 し て い る。 ま た、 天 正 十 九 年 末 寺 帳 は 如 光 弟 子 帳 と 比 べ て、 寺 号 を 有 す る も の が 増 加 し 俗 名 は全く見られないことや孫末寺(孫末道場)の消滅に言及している。 ( 25)   『新編安城市史 1』第十一章七節(安藤氏執筆分) 。 ( 26)   『新編安城市史 1』 第十一章七節 (安藤氏執筆分) では御番規定を 「末 寺 掌 握 の た め の 精 力 的 な 制 度 整 備 」 と し て お り、 上 宮 寺 を は じ め、 三河三か寺が末寺掌握を強く推し進める一環として位置づけている。

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同朋大学佛教文化研究所紀要   第三十八号 五六 【表 1 】上宮寺末寺連判状・末寺帳一覧 史料名 年月日 内容 史料番号 【史料一】 『如光弟子帳』 文明16(1484)年 11月 1 日 上宮寺作成。前書きなし。末寺道場・坊主衆の把握が目的と考えられる。登場する末寺道場・門徒 衆の数は最多。俗名で記されている門徒が多く、孫末寺も散見されることは他の連判状・末寺帳に はない特徴である。 A 194 【史料二】 『天正十五年上宮寺割付帳』 天正15(1587)年 9月1日 上宮寺作成。教如下向につき、費用の割付を書き留めたもの。表紙に「末寺」の文字と上宮寺尊祐 の印が確認できる。各末寺道場に対してどれほど割付がなされたかを知ることができる。 A 195 【史料三】 『天正十七年上宮寺末寺連判状』 天正17(1589)年 9 月28日 上宮寺作成。灯明銭の事について美多銭を本銭に準ずる貨幣として扱うこととし、進上の日限を七 月二十日に定め、 期限を過ぎた際の規定も記す。また、 先代に倣って永楽銭での進上も認めている。 A 104 【史料四】 『天正十九年上宮寺末寺帳』 天正19年 1 月 上宮寺作成。上宮寺末寺道場・坊主衆の把握が目的と考えられる。 C 137 【史料五】 『天正十九年上宮寺末寺連判状写』 天正19(1591)年 1 月20日 上宮寺作成。礼金・礼銭に関する規定を定める。御番の事についても同時に確認している。 A 179 【史料六】 『慶長二年上宮寺末寺連判状』 慶長 2 (1597)年 8 月24日 上宮寺作成。三河三ヶ寺が教如方への出仕を表明したことを受けて、今後、准如方へついた本宗寺 へは参詣しないことを末寺道場・坊主衆へ誓約させる内容。 A 114 【史料七】 『慶長二年上宮寺末寺連判状写』 同上 上宮寺作成。右の慶長二年上宮寺末寺連判状の写であり、内容は同一である。ただし、連判してい る末寺道場・坊主衆の数に違いがある。 A 178 【史料八】 『慶長九年上宮寺末寺連判状』 慶長 9 (1604)年 7 月24日 上宮寺末寺道場方作成。称名と念仏に関する上宮寺からの質問への返答と考えられる。各々の坊主 に聴聞したところ、御文には称名は御名を唱えること、御名を唱えることとは南無阿弥陀仏と唱え ることであり、いわゆる称名念仏であることが確認できた。つまり、称名と念仏は同一であり、そ の ほ か の 解 釈 は 存 在 し な い こ と を 伝 え て い る 。「 各 々 聴 聞 」 さ れ 、 称 名 と 念 仏 の 解 釈 を 確 認 し た 末 寺道場が連判したと考えられる。連判した末寺道場・坊主衆の数は最も少ない。ここに見られる末 寺道場・坊主衆は他の末寺連判状にも多く登場しており、上宮寺末寺道場内でも主要な末寺道場で ある可能性が高いと思われる。末寺連判状では唯一の上奏型文書。 A 187 【史料九】 『慶長十一年上宮寺末寺連判状』 慶長11(1606)年 2 月11日 上宮寺作成。教如下向につき、費用割付分を無沙汰なく進上させることを誓約させる。 A 118

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上宮寺門徒団史料の基礎的考察 五七 【史料十】 『元和二年上宮寺末寺連判状』 元和 2 (1616)年 11月10日 上宮寺作成。宣如下向につき、岡崎佐々木でのまかないの割付を無沙汰なく進上することを誓約さ せる。 A 119 【史料十一】 『元和二年上宮寺末寺連判状』 同上 上宮寺作成。宣如下向に際した費用割付について、はりさき七蔵・こもう茂左衛門・まちや孫左衛 門という商人と思われる三名と末寺道場・坊主衆で「御わひ事」を半分とすることを定める。はり さき(針崎)は三河三ヶ寺の内の一つ、勝鬘寺が所在する地域であり、こもう(小望)は上宮寺が 所在する佐々木のすぐ近くに位置する。 A 120 【史料十二】 『上宮寺末寺番帳』 年 未 詳1月1日 上宮寺作成。上宮寺御番について相違がないように書き留めたものとされる。 A 196 【史料十三】 『別本如光弟子帳』 (上宮寺末寺鏡) 年月日未詳 慶長九年以降と考えられる。教祐筆、真祐加筆。 『如光弟子帳』を増補改訂した内容である。 A 197 【史料十四】 『貞享四年東本願寺宗上宮寺末寺 手形帳』 貞享 4 (1687)年 6月2日 三河国内における上宮寺の末寺道場・坊主衆の把握が目的と考えられる。 B 160 *出典  【史料一~四】 【史料六~十三】 …『新編岡崎市史 6 史料古代中世』 (岡崎市、1983年) =A      【史料十四】 …『新編岡崎市史 8 史料近世下』 (岡崎市、1985年) =B      【史料五】 …『愛知県史12資料編織豊 2 』(愛知県、2007年) =C

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同朋大学佛教文化研究所紀要   第三十八号 五八 表2 如光弟子帳 天正15年上宮 寺割付帳 天正17年上宮 寺末寺連判帳 天正19年上宮 寺末寺連署書 状写 天正19年上宮 寺末寺帳 慶長 2 年上宮 寺末寺連判状 慶長 2 年上宮 寺末寺連判状 写 慶長 9 年上宮 寺末寺連判状 慶長11年上宮 寺末寺連判状 元和 2 年上宮 寺末寺連判状 元和 2 年上宮 寺末寺連判状 上宮寺末寺番 帳 別本如光弟子 帳 貞享 4 年東本 願寺宗上宮寺 末寺手形帳 〔寺院名〕 【地名】 アカツノ一シキ 〇 30 〇 赤羽根   アカハネ 〇 46 〇了空 〇了空 〇 足助岩崎   あすけいわ さき 〇 40 〇 井谷   いかい 〇 58 〇 池田   いけだ 〇 25 〇 磯部   いそべ 〇 14 〇祐専 (三百文) 〇 西教寺 牛田   うしだ 〇 19 〇( ・ 四百文) 〇了円 〇了円 〇了正 〇了円 〇了正 (〇了正) (〇了正) 〇 〇 〇西教寺 祖母居屋敷   うばやしき 〇 37 〇 務女   うねめ 〇 51 〇 東円坊 江田・恵田   えた・ゑた 〇 53 〇(四百文) 〇東円坊 〇東円坊 〇東円坊-祐 可 (〇東円坊) (〇東円坊) 〇 〇 大嶋   おおしま 〇 24 〇 安受寺 大友   おおとも 〇 2 〇(壱貫文) 〇尊誓 〇玉専坊 〇玉専寺 〇尊乗 〇玉専坊-尊 乗 〇玉専坊-尊 乗 〇尊乗・祐知 (〇尊乗) (〇尊乗) 〇 〇 〇安受寺 本伝寺 大浜   おおはま 〇 5 〇願成寺・智 慶 〇智慶・順慶 〇智慶・西忍 〇知慶 〇「つじ」? 〇 〇本伝寺 願成寺 大浜   おおはま 〇 11 〇 〇「上州たて はやし」 〇願成寺-了 性 〇風呂之下 〇風呂之下 〇風呂之下 〇「大浜風呂 之下」 「張間 (播磨)ヒメ ジ」 縁盛寺 大平   おおひら 〇 13 〇西蔵坊(弐 貫四百文) 〇西蔵坊 〇西蔵坊 〇西蔵坊 〇西蔵坊-専 了 〇西蔵坊 (〇西蔵坊) (〇西蔵坊) 〇 〇縁盛寺 専福寺 岡崎   おかざき 〇 47 〇祐欽 〇祐欽 〇専福寺 〇祐欽 〇専福寺-祐 心 〇専福寺-祐 心・祐珍 (〇専福寺) (〇専福寺) 〇 〇専福寺 西円寺 ・ 円勝寺 ・ 唯心寺 奥郡野田・田原 野田・野田   おくのこお りのだ・たはら のだ・のだ 〇 60 〇誓忍(弐貫 四百文) 〇宮内 〇西円寺 〇西円寺 〇誓忍 〇西円寺-誓 忍 西円寺-誓忍 (○西円寺) (○西円寺) 〇 〇西円寺・円 勝寺・唯心寺

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上宮寺門徒団史料の基礎的考察 五九 尾崎   おざき 〇 22 〇西円 〇順光 〇順光 〇 鴛沢・押沢   おしさわ 〇 27 〇道了 〇道了 〇道了 〇 河崎   かわさき 〇 50 〇 河口   かわぐち 〇 35 〇 木瀬   きせ 〇 43 〇 知誓寺 越田和・冨田村       こい だ わ ・ とみだむら 〇 29 〇祐円 〇明覚坊 〇明覚坊 〇明覚坊-祐 円 〇明了 (〇明覚坊) (〇明覚坊) 〇 〇知誓寺 (冨) 浄専寺 小嶺・小峯   こみね 〇 36 〇教専 〇教専 〇祐専 〇教専 〇教専 〇 〇 ○浄専寺 円行寺 坂崎   さかざき 〇法蔵坊 7・8・9 〇(壱貫四百 文) 〇順恵 〇法蔵坊・教 順・順恵 〇法善寺 〇慶順 〇慶順・法蔵 坊-暁願・順 恵 法蔵坊-暁波 (〇けうは) (〇けうは) 〇 〇 〇円行寺 左桐   さぎり 〇 28 〇 浄慶寺 ・ 正福寺 佐々木   ささき 〇  1  三 箇所 〇恵春・修伝 〇浄教坊・徳 蔵坊 (〇恵春 ・修 伝) (〇恵春 ・修 伝) 〇 〇浄慶寺・西 福寺’ 正福寺) サフシキ 〇 45 〇 下河口   しもかわく ち 〇 57 〇 大門   だいもん 〇 49 〇祐心 〇祐心 〇祐心 〇 鷹落・高落   たかおち 〇 48 〇誓念 〇 〇誓念 〇 専修坊 鷹取・高取   たかとり 〇専修坊 4 〇専修坊(弐 貫四百文) 〇祐念 〇専修坊 〇専修坊 〇祐念 〇専修坊-祐 念 専修坊-祐念 〇祐念・専修 坊-民部 (〇専修坊) (〇専修坊) 〇 〇専修坊 高橋竹尾   たかはした けう 〇 39 〇 西雲寺 高村・竹村     たか む ら ・ たけむら 〇 18 〇( ・ 四百文) 〇西林 〇祐順 〇西教坊 〇祐順 〇祐順 〇祐順 (○祐順) (○祐順) 〇 〇 〇西雲寺 竹尾   たけう 〇 56 〇 清通寺 竹見・滝見・鷹 見村   たけみ・た きみ 〇 26 三 箇所 〇明慶 〇明慶 〇専正坊 〇明慶 〇明慶 〇明慶 〇 〇 〇清通寺

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同朋大学佛教文化研究所紀要   第三十八号 六〇 長照寺 田代   たしろ 〇 54 〇順西 〇祐西 〇長円寺 〇祐西 〇祐西 〇祐西 (〇祐西) (〇祐西) 〇 〇長照寺 俊賀利・渡刈   とかり 〇 52 〇 長沢   ながさわ 〇 16 〇了西 〇了心・了西 〇□西(了西 カ) 〇了西 〇了西 〇 〇 長瀬   ながせ 〇 20 〇順光 〇祐智 〇 中山   なかやま 〇 34 〇 光善寺 新堀   にいほり 〇 59 〇素鉄 〇素鉄 〇 〇光善寺 応仁寺 ・ 栄願寺 ・ 康順寺 西端・西畠   にしはた 〇 3   計 二箇所 〇(・壱貫五 百十六文)浄 西 (百文) ・ 祐唯 (四百文) 〇祐明 〇祐明・指春 〇隠居所・祐 明坊・康順 〇祐明 〇祐明・指春 〇 御 隠 居 所 ・ 指春・祐明 (〇祐明) (〇祐明) 〇 〇栄願寺・康 順寺 ノカイ 〇 44 〇 ヒカシトツラ 〇 32 〇 広瀬   ひろせ 〇 38 〇明覚坊 (壱 貫四百文) 〇宗善 〇宗善 〇 願力寺 古井   ふるい 〇 10 〇( ・ 四百文) 〇寿専 〇寿専 〇専心 〇寿専 〇寿専 〇専心 〇専心 (〇専心) (〇専心) 〇 〇 〇願力寺 ホウノツ 〇 42 〇 順行寺 細川・細河   ほそかわ 〇 55 〇(九百五十 文)重正(二 百文) 〇祐伝 〇重正・祐伝 〇祐専寺・重 正 〇祐伝・重正 〇祐伝 〇重正・祐伝 (〇重正 ・祐 伝) (〇重正 ・祐 伝) 〇重正 〇 〇順行寺 松興寺 松峯   まつみね 〇 41 〇道欽 〇道欽 〇道欽 〇 〇道場 ミウチタイラ 〇 31 〇 ミツクリ 〇 33 〇 村高   むらたか 〇 23 〇 西照寺 矢作   やはぎ 〇 12 〇秀了 〇秀了 〇秀了 〇秀了 〇秀了 〇 〇矢作宿之道 場 山中   やまなか 〇 15 〇祐源 〇祐堅 〇祐源 (〇祐賢) 〇祐堅 〇祐堅 〇祐堅 (〇祐源) (〇祐源) 〇 〇 吉浜   よしはま 〇 6 〇正観 〇教伝 〇 〇 円楽寺 若林   わかばやし 〇 17 〇( ・ 四百文) 〇法順 〇法順 〇教願 〇法順 〇慶忍 〇 〇 〇 〇 〇円楽寺 鷲田   わしだ 〇 21 〇哥了 〇恵了 〇

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上宮寺門徒団史料の基礎的考察 六一 正法寺 赤坂   あかさか 〇(四百文) 〇了心 〇了心 〇了心 〇了心 (〇了心) (〇了心) 〇 〇正法寺 (筑後) ちくこ 〇(四百文) 願随寺 鷲塚   わしづか 〇(三百文) 〇順慶 〇長徳寺 〇順慶 〇順慶 〇順慶 〇順慶 〇順教 長興寺 保久   ほっきゅう 〇(四百文) 〇祐智 〇西円 〇 順念寺 舞木   まいき 〇 〇(四百文) 〇順念寺 浄覚寺 宮口   みやぐち 〇(壱貫文) 〇了念・祐教 〇浄覚寺 〇祐教 〇了念・祐教 〇了念 (〇了念) (〇了念) 〇 〇浄覚寺 吉田・牛久保   よしだ・う しくぼ 〇順西(四百 文) 〇正行寺・順 西(牛) 〇正行寺・順 西 〇正行寺・順 西(牛) 〇順西・尊秀 〇 〇直参分(壱 貫二百文) 〇尾張分(四 貫文) 〇念秀(二百 文) 〇祐智(四百 文) 法泉寺 岡・岡村   おか 〇教円 〇教円 〇法専寺 〇教円 〇教円 〇教円 〇教円 〇 〇 〇法泉寺 入覚寺 御馬   おんま 〇順恵 〇順恵 〇西法寺 〇順恵 〇順恵 〇 〇 〇入覚寺 生田   しょうだ 〇順教(三百 文) 〇教順 〇順教 〇教順 〇順教 〇順教 〇教順 〇祐順 (〇教順) 〇慶順 寺下教会 寺谷下   てらやき 〇空了 〇空了 〇空了 〇空了 〇宮了 〇 〇道場 正願寺 合歓木   ねむのき 〇 〇正願寺(壱 貫五百十六 文) 〇尊教 〇尊教 〇正願寺 〇尊教 〇尊教 〇正願寺-尊 了 〇正願寺 (〇正願寺) (〇正願寺) 〇正願寺 正光寺 浅井   あさい 〇了可 〇了順 〇了正 (〇慶順) 〇 安城   あんじょう 〇宗念 〇宗念 〇尊了 市田   いちた 〇光空 〇正珍 〇光空 〇 〇 〇 〇教□ 明円寺 一色   いっしき 〇大念 〇大念 ○明円寺 教恩寺 歌石・哥石  うたいし 〇正西 〇正西 〇正西 〇教恩寺

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同朋大学佛教文化研究所紀要   第三十八号 六二 等順寺 大沼   おおぬま 〇祐願 〇祐願 〇祐願 〇祐願 〇等順寺 大のま   おおのま 〇教伝 〇教伝 安福寺 鴛鴨   おしかも 〇和泉 〇安福寺 法光寺? 欠   かけ 〇了伝 〇了伝 〇了伝 〇 〇 筒針   つつはり 〇正誓 〇正誓 〇正誓 〇 〇道場 正道寺 竜泉寺・龍泉寺   りゅうせん じ 〇祐喜 〇明玄寺 〇祐喜 〇源明 (〇源明) (〇源明) 〇源明 〇正道寺 渡   わたり 〇智慶 〇智慶 〇智慶 〇順正 〇 〇 〇道場 西応寺 神戸・青津村   かんべ・あ おづむら 〇「のだ西 円寺下」 〇念西 〇西応寺 (青) 龍泉寺 田原   たはら 〇「のだ西 円寺下」 〇教願 〇龍泉寺 礼善寺 莇生村   あざぶむら 〇礼善寺 専超寺 今村   いまむら 〇専超寺 満徳寺 堤村   つつみむら 〇満徳寺 光円寺 八町   はっちょう 〇光円寺 唯念寺 日名村   ひなむら 〇唯念寺 春林寺 福桶村   ふくおけむ ら 〇秀悦 如光弟子帳 天正15年上宮 寺割付帳 天正17年上宮 寺末寺連判帳 天正19年上宮 寺末寺連署書 状写 天正19年上宮 寺末寺帳 慶長 2 年上宮 寺末寺連判状 慶長 2 年上宮 寺末寺連判状 写 慶長 9 年上宮 寺末寺連判状 慶長11年末寺 連判状 元和 2 年上宮 寺末寺連判状 元和 2 年上宮 寺末寺連判状 上宮寺末寺番 帳 別本如光弟子 帳 貞享 4 年東本 願寺宗上宮寺 末寺手形帳 *如光弟子帳・天正十九年末寺帳に関しては三河国の末寺道場に限る。

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