地域研究と経済史の新しい課題 (巻頭エッセイ)
著者
岡崎 哲二
権利
Copyrights 日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア
経済研究所 / Institute of Developing
Economies, Japan External Trade Organization
(IDE-JETRO) http://www.ide.go.jp
雑誌名
アジ研ワールド・トレンド
巻
179
ページ
1-1
発行年
2010-08
出版者
日本貿易振興機構アジア経済研究所
URL
http://hdl.handle.net/2344/00004434
エ ッ セ イ
アジ研ワールド・トレンド 2010 8
岡 崎 哲 二
地域研究と経済史の
新しい課題
おかざき てつじ/東京大学大学院経済学研究科教授 1986年 東京大学大学院経済学研究科博士課程修了(経済学博士) 1999年より現職。 この間、スタンフォード大学経済学部客員教授、フランス社会科 学高等研究所客員教授等を歴任。Journal of Economic History, Economic History Review, Explorations in Economic History 等に論文多数。 アジアを中心とする地域研究に大きな成果を 挙げ、また多数のすぐれた研究者を輩出してき たアジア経済研究所が、本年、創立五〇周年を 迎 え る こ と に つ い て、 そ れ ら の 成 果 や 現 役、 OBの研究者の方々から大きな恩恵を受けてき た立場から、まず慶びと感謝の言葉を申し述べ たい。このような機会に、本誌の巻頭に文章を 書かせていただくことは筆者にとって大きな光 栄である。 本巻の特集を企画した町北朋洋氏は、後掲の 「 特 集 に あ た っ て 」 に お い て、 五 〇 周 年 を 迎 え たアジア経済研究所が一つの曲がり角に来てい るという問題意識を提示している。町北氏の論 点は、アジア経済研究所の研究が依拠してきた 「三現主義」 (現地語、現地資料、現地調査)の 方法では、近年の国際環境変化に伴って生じた 新しい問題に十分に対応できないということに ある。この文章を読んで、経済史を専攻してい る筆者は、経済史研究、少なくとも日本におけ るそれが直面してきた課題との共通性に強い印 象を受けた。 経済史研究の主要な柱は、歴史研究一般と共 通 す る、 史 料、 特 に 第 一 次 史 料 の 収 集・ 批 判・ 解釈という一連の作業である。研究者になろう とする者は、大学院生、場合によっては学部学 生の時から、主としてOJTを通じてその方法 を 身 に つ け て い る。 「 三 現 主 義 」 に 対 応 す る、 いわば「史料主義」である。一方で、経済史研 究 者 は、 「 史 料 主 義 」 で は 足 り な い 部 分 を 補 う 手 段 を 講 じ て き た。 よ く 知 ら れ て い る よ う に、 日本における経済史研究は、伝統的に、マルク ス経済学ないしマルクス主義の影響を強く受け てきた。すなわち、多くの経済史研究者は、上 記の一連の作業のうちの解釈の部分、さらには 作業の前提となる問題設定そのものに関してマ ルクス経済学に依拠してきた。 それだけに、一九八〇年代以降に生じたマル クス経済学の急速な退潮は、日本の経済史研究 にも大きな影響を与えた。その際に多くの経済 史 研 究 者 が 選 択 し た の は、 「 史 料 主 義 」 の み に 研究の立脚点を求めることであった。しかしこ の対応は、現在の経済・社会が解決を要請して いる諸課題と経済史研究とを疎遠にし、さらに は、そのような諸課題に取り組みながら急速に 発 展 し て き た、 ( 非 マ ル ク ス ) 経 済 学 を 中 心 と する社会諸科学から経済史研究を孤立させるこ とにつながった。 しかし、このような状況の中で今日、むしろ 「 史 料 主 義 」 的 ア プ ロ ー チ の ポ テ ン シ ャ ル は 大 きくなっていると筆者は考える。それを経済学 の新しい発展と統合し、また現在の諸問題と歴 史研究を関連づけることによって、豊かな研究 フロンティアが拓かれる可能性がより高くなっ て い る か ら で あ る。 経 済 学 の 比 喩 を 用 い る と、 補完性を持つ諸要素が外部で蓄積されたことに よ っ て、 「 史 料 主 義 」 の 限 界 生 産 力 が 高 く な っ ているといえる。地域研究における 「三現主義」 にも同じこといえるのではないだろうか。それ はアジア経済研究所が培ってきた貴重な資産で あり、 それを継承しながら、 それと新しい問題、 新 し い ア プ ロ ー チ と の 補 完 性 を 生 か す こ と に よって、地域研究の未来が拓かれると考える。 アジ研ワールド・トレンド No.179 (2010. 8)