地域文化運動における教師の役割に関する研究
―戦後の書く実践を対象にして―
A study on the role of teachers in community cultural
movements
―For postwar writing practices―
川 原 健太郎(作新学院大学人間文化学部) Kawahara Kentaro(Sakushin Gakuin University, Faculty of Human and Cultural Sciences)
目 次
1 .はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 38 2 .先行研究と本研究の位置づけ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 39 2-1.「ふだん記」に関する先行研究・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 39 2-2.先行研究 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 40 3 .「ふだん記」の概要 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 42 3-1.「ふだん記」の活動・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 42 3-2.「ふだん記」の運営・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 42 4 .「ふだん記」の活動における教師 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 43 4-1.「ふだん記」における教師・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 43 4-2.教師が「ふだん記」で果たしている役割 ・・・・・・・・・・・・・・ 45 5 .「ふだん記」で書かれた教師の文章 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 47 5-1.教員としての「自分史」を残す ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 47 5-2.教育実践の記録を残す ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 49 6 .まとめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 51 7 .注・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 52 要 約 本論文は戦後日本で行われた地域文化運動の中でも文章を書き・出版する運動 (書く実践)を対象に、実践に取り組む教師が担ってきた役割に着目した研究である。対象は八王子の実践家・思想家・教育家である橋本義夫により、1960年代 後半に創始された草の根の文章運動、「ふだん記」で活動・執筆をした教師たち である。教師たちは、「ふだん記」運動の運営を担い、文章を書き残している。 これらの分析を通して、地域文化運動において教師が果たしてきた役割や意義を 明らかにすることを目的とする。 キーワード: 教師、地域文化運動、教師の役割、教師の実践、実践記録、「自分 史」、「ふだん記」
1 .はじめに
本論文は戦後日本で行われた地域文化運動の中でも文章を書き・出版する運動(書く実 践)を対象に、実践に取り組む教師が担ってきた役割に着目した研究である。戦後日本に おける書く実践には、例えば1950年代の生活記録運動・共同学習が代表的な実践として挙 げられる。さらに1980年代頃に始まった「自分史」運動はその後も幅広く行われており、 多くの人の手により「自分史」の本が発行されている。「自分史」は書き手が自らの来歴 などの内容を文章に書き本にまとめる実践であるが、この「自分史」のルーツとされる実 践が本論文で対象とする「ふだん記」(ふだんぎ)運動である。 東京西部・三多摩地域の八王子の実践家・思想家・教育家である橋本義夫により、1960 年代後半に創始された「ふだん記」は、「下手に書きなさい」の理念を標榜し、文章は易 しく誰もが書けるとした草の根の文章運動であり、地域に暮らす人々が自由に文章を書く 実践である。書かれる文章の内容は多岐にわたっているが、中心となっているのは、書き 手自身の歴史や日常生活の記録や感想などのエッセイ等の「自分史」であり、50年以上に 亘り活動が続けられている。 「ふだん記」運動は全国に広がる各地グループによって全国各地で行われている。八王 子において1960年代後半に始められた「ふだん記」であるが、活動がおおよそ10年を数え た1970年代後半頃から、神奈川県の八菅(はすげ)グループを皮切りに全国に「ふだん記」 の理念に賛同し、実践を行う各地グループが誕生しており、北海道から九州までさまざま なグループがそれぞれの地域で「ふだん記」の実践に取り組んでいる。 主な活動は、文友(ぶんゆう)と呼ばれる「ふだん記」の執筆者による文章の執筆、さ らにグループごとに定期的に発行されている(グループにより異なるが年 1 回または 2 回 程度)機関誌の発行、発行に伴う編集会議・校正会等の種々の作業、機関誌出版後に行わ れる発行記念会や配本会などの会合があり、さらに新年会や花見などの各種の懇親の会な どもある。グループ単位での活動以外にも、文友個人それぞれによる単行本(主に「自分 史」の本やエッセイ集などである)の出版や、文友同士の手紙・はがきを用いた交流なども行われている。 このように文章執筆運動である「ふだん記」は、文章執筆・出版と同時に、地域をフィー ルドにした文友間による種々の活動を行なう実践である。 本論文では、「ふだん記」運動を全国で実践している各地グループで活動をしている文 友のうち、教師を研究対象とした。庶民の文章運動を標榜する「ふだん記」の文友には多 様な職種の人々がいるが、その中でも教師が多くみられるためである。教師たちは「ふだ ん記」各地グループにおいて運営や執筆を担ってきたが、本論文ではこうした教師の取り 組みを解き明かすことによって、地域文化運動における教師の役割に迫りたい。 以上を鑑み、本論文では戦後の書く実践「ふだん記」各地グループにおける教師を対象 に、地域文化運動において教師が果たしてきた役割や意義を明らかにすることを目的とす る。 ここでは主に、「ふだん記」において教師が行ってきた活動内容を取り上げ、「ふだん記」 の機関誌などで教師が綴ってきた文章を分析することを通じて、実践と記録の側面から文 化運動に携わってきた教師の姿を分析する。
2 .先行研究と本研究の位置づけ
2-1.「ふだん記」に関する先行研究 書く実践「ふだん記」は、創始者である橋本義夫に着目した研究や「ふだん記」運動が 開始された初期にあたる1960年代後半の実践を中心に、歴史学や社会学等の分野において 研究が進められてきた。その中では、橋本義夫の生涯や「ふだん記」を着想するまでの思 想、さらに初期の「ふだん記」に人々が集い、共に書き・読みあう姿が解き明かされてき た。例えば小林多寿子は、「ふだん記」が書く人の立場を問わなかった脱階級性を有して いたことや文章の巧拙を問わないことなど(「ふだん記」では「下手に書きなさい」を標 榜している)、「ふだん記」における「書く思想」を明らかにしてきた1)。先行研究では、「ふ だん記」にはさまざまな書き手が集まり、文章を書くコミュニティが形成されてきたこと が解き明かされてされてきた。 しかしながら、「ふだん記」には、未踏の研究課題もまた少なくなかった。例えば、 1970年代には実践がはじめられた各地グループの研究はその一つである。「ふだん記」が 創始された八王子から地理的に離れた地域で活動をされてきた、各地グループの活動の実 態は等閑視されている状況にあったと思われる。また同時に、各地グループで執筆をする 多くの執筆者たちも、同様に研究対象となることはあまりなかった。 こうした状況を踏まえ、筆者はこれまで橋本義夫に関する思想や実践に関する研究2) や、各地グループを対象にその成立と実践の過程に着目した研究3)等を行い、「ふだん記」の実像や執筆活動を行う文友たちの姿を解き明かすよう努めてきた。 橋本義夫を対象にした研究では、「下手に書きなさい」、「新人優先」などの橋本の言説 を中心に学習論の視点などから分析を行ったが、文章を書くことを易行とする考え方を示 すことで、多くの人々が実践に取り組みやすくするよう促し、新しく「ふだん記」の執筆 の関わる人々を重んじることで、共鳴する仲間を増やしてきた。また、創始者の橋本義夫 は、「ふだん記」の文友たちの文章執筆活動にも関わっており、文友による個人の本の作 成に助力していることなどもうかがえた。 各地グループに関する研究では、文友たちへのインタビュー調査を中心に、文友が「ふ だん記」に関わる経緯を描きだすよう努めてきた。そこでは、「ふだん記」の執筆理念に 共有する人々、文章を書く場を求める人々や、機関誌を通じて知る人々、知縁・地縁など の経緯が浮かび上がった。その過程において見いだされた、「ふだん記」に参加している 文友の中でも特に顕著であった存在が、教師たちであった。教師たちは、文章の執筆はも ちろんのこと、グループの運営などにも関わってきたことはうかがえたが、中心的な対象 になってきたことはなかった。そこで、本研究では「ふだん記」の教師に焦点をあて、活 動や執筆した文章を分析しながら、地域文化運動の担い手としての教師の役割を研究する に至った。 2-2.先行研究 文章執筆の実践に関する教師の役割の先行研究をみると、学校における実践を対象とし た研究がみられている。 例えば、保坂(2019)は、母語が中国語の日本語を学ぶ学習者を対象にした、私立大学 における論文作成クラスの実践を対象にした事例を取り上げ、学習者と教師が対話をする ことで、学習者がレポートの自己推敲を深めることができるか否かを検討している5)。そ こでは、教師との対話が学習者の自己推敲や自己内対話に限定的ではあっても繋がること が示唆されたという研究結果を示している。長澤(2018)は、国立大学のある留学生の作 文教育の実践例を対象にし、指導者が留学生個人の関心や能力をどのように引き出し、日 本語の文章作品として結実させ得るかについて考察している5)。長澤は、指導者は学生の 〈書きたい内容〉を引き出し発展させられるよう、原稿や対話を通して学生の関心を み 取る姿勢をもつことが重要であることを指摘している。 田中・淺津(2016)は、大学で留学生に対する予備教育を目的とした日本語コースにお いて実施しているライティング・ワークショップ(WWS)を対象にした研究を行ってい る6)。そこでは、実証的に教師の役割を研究しているが、例えば、「書く時間」において, 教師は教える、相談を受ける、読者となるといった様々な役割を担っていたことを明らか にすると同時に、学習者の計画的な時間利用に対する教師のサポートは不十分であったこ
とを課題として挙げていた。 これらの研究のように文章執筆の実践に関する教師役割を対象にした研究は見受けられ るものの、主に大学生を対象にした研究が多く、地域における実践を取り上げたものはあ まりみられなかった。 地域における教員の役割の研究のうち、書く実践とのかかわりに関する歴史研究もみら れる。例えば、太朗良(2919)による秋田県における綴方教育研究同人組織・北方教育社 (1929年発足)に属した小学校教員の行動を取り上げた研究がある7)。同研究は綴方と教 員役割に着目しており、1930年代に子どもの作文に書かれた綴方にある問題に対し、「家 庭環境の福祉的ケア」や「生徒指導(面談、進路指導)」などの対応を行ってきた事例研 究である。 他にも、松野ら(2019)による1960年代の奈良県におけるへき地教育を事例にした研究 もみられる8)。同研究では、教員が児童と協力しながら信頼関係を築きつつ、地域の協力 なども得ながら教育実践を行っていた実像が明らかにされている。 地域とかかわる教員の役割に関する現代的研究もまた数多くみられる。二宮ら(2012) は障害のある子どもと地域の関わりから研究し9)、地域型インクルーシブ教育推進のため に「障害のある子ども達とその子ども達が育つ地域とをつないでいく教師の役割」につい てへき地における教育実践を紹介しつつ検討を行っている。そこでは、インクルーシブ教 育を地域で推進していく学校づくりのベースとなる障害のある子どもと地域とをつないで いく教師の役割がより一層重要になることを示している。 さらに、中村(2019)による校区の社会経済的背景(SES)の厳しい学校によける学校 環境と教師役割の特徴を検討した事例研究もみられる10)。同研究では、学校環境によって 要請される教師役割として、「学級の荒れを統制する役割」「学習意欲の喚起とケアの役割」 「保護者と関係を構築する役割」が見出を見出しており、また教師たちがこうした学校環 境に適応するために主体的に獲得していく教師役割として「しんどい子を包摂する役割」 「荒れに対向する協働的役割」の二つの教師役割が観察されたとする。 社会教育分野における地域での教師役割の事例では、仙台市における「嘱託社会教育主 事制度」がある11)。これは、仙台市立学校に勤務し社会教育主事の制度を有する教員に対 して、仙台市教育委員会が嘱託社会教育主事として委嘱する制度であり、1971年に発足し た。加藤(2018)は、嘱託社会教育主事をつとめる教師は、教育委員会主催事業などに協 力しており小中学生を対象にした職業講座を開設するプロジェクトの運営や、ジュニア リーダーの各種研修会などでの講師の担当、市内各区の特色や地域素材を生かした事業を 行っていることなどを示しており、教師が地域の文化活動等へのかかわりをもっているこ とがみえる。 以上を鑑みると、教師の役割に着目した研究には、文章執筆、さらには地域の中での教
師役割などの分野で研究の蓄積があることがうかがえる。しかしながら、文章執筆研究で は主に学校における教育実践を対象にしたものがテーマの中心となっており、地域におけ る教師役割の研究では現代的な地域課題と教師を対象にしたものが多く、地域で展開され る文化運動における教師の姿を追うものはあまりみられないようにうかがえる。
3 .「ふだん記」の概要
3-1.「ふだん記」の活動 「ふだん記」は、文章執筆や出版を行う運動のため、活動内容の軸は機関誌の出版がそ の一つである。1968年 1 月に最初の機関誌である<ふだんぎ>が発行されて以来、現在ま で多くの出版物の発行が続けられている。発行過程の中で、文友による機関誌の投稿、編 集・出版作業、発行、配本、読み合いや感想の手紙の交換、さらに対面による発行記念会 や交流会など対面による活動が行われ、これらの取り組みもまた、活動内容の軸となって いる。 機関誌に投稿される文章は、おおよそ原稿用紙数枚程度の短いものが中心で、内容は書 き手が自身の過去の経験をつづった「自分史」や日常のエッセイであるが、これらは、文 友が読み合い意見交換を行うテーマとなり、さらに投稿文を積み重ねることで個人誌の素 材となる、「ふだん記」の実践の中心である。 本研究で取り上げる教師たちが執筆している各地グループは、「ふだん記」の実践が始 まり10年を経過した1970年代後半ごろから結成されている「ふだん記」の実践を全国各地 で実施しているグループであり、2019年 6 月現在16のグループが活動をしている12)。特に 北海道のグループが 6 グループを占めており(さいはて(北見)、旭川、札幌、江別、留萌、 帯広)各地グループの地域的特徴を示している。なお、北海道で「ふだん記」の実践が盛 んである点について、創始者である橋本義夫による北海道に執筆文化が根付くとした期待 や北海道で最初のグループである士別グループを始めた斉藤昌淳など多くの人物が「ふだ ん記」の理念に共鳴したことの影響があることがうかがえているが、ここもまた少なくな い教員の姿をみることができている13)。 3-2.「ふだん記」の運営 「ふだん記」運動を実践する各地グループの運営は、窓口と呼ばれる世話人の役割を果 たす人物を中心に行われている。窓口は、文字通りグループの連絡先としての窓口の役割 の他にも、本の編集や発行や発送などの業務でも中心を担っている。 なお、運営に関しては決まり事が少なく比較的緩やかに行っていることが基本形式であ り、「『ふだん記』には、世話人、窓口、担当の人はあっても、リーダーはない14)」といった橋本の言葉に示されているように、窓口が運営の中心を担ってはいるものの、リーダー を中心に構成する形の組織ではない。なお、一部のグループ(さいはてグループ(北見市)、 帯広グループ)は、規約や会の役割分担(さいはては代表、帯広は会長の名称)を設けて おり、組織的な運営を行っているグループもあるが、「ふだん記」では原則として運営方 式を細かく決めるようなことはなく、それぞれのグループが独自に実践を進めている。 しかしながら、「ふだん記」は「独立すれど孤立せず」を標榜しており、各地グループ は独立して活動が行われている一方で、グループ相互の協力もまた行われている。主なも のとしては、文友が所属していない他グループの機関誌への投稿があり、グループの垣根 を越えた書き合い・読み合い(手紙・ハガキによる感想の交換)などがある。特に手紙・ ハガキの出し合いによる交流は重視されており、書き出しが「こんにちは、〇〇さん」と 書き出すことだけを決めたコンニチハハガキと呼ばれている形式自由のハガキが「ふだん 記」では活用されている。 さらに、北海道における各地グループでは、道内の 6 グループの持ち回りにより毎年 「北海道交流会」が行われており、講演会や意見交換、懇親会などのイベントを行い他の グループの文友との対面の機会も行われている15)。 これらからうかがえるように、「ふだん記」では文章を執筆する実践を中心にしつつ、 対面を含めた実践もあわせて行われており、ここに教員を含めたさまざまな人々が活動に 従事している。
4 .「ふだん記」の活動における教師
4-1.「ふだん記」における教師 創始者橋本義夫は、陶鎔小学校高等科、東京府立農業学校を卒業後、青年期に「教育の 家」と呼んだ日曜学校での読書会や、教科研八王子南多摩支部での活動に参加するなどの 教育実践活動は行ってきたものの、自身は教師ではなかった16)。しかしながら、「ふだん記」 に参加している教師は少なくない。 そのような教師の一人で、「ふだん記」運動の初期からかかわっている香川節は、1924 年生まれ高等学校の日本史・世界史担当の教師であり、「ふだん記」発祥の地である八王 子で教 をとっていた人物である。香川は、「ふだん記」運動を実践しながら「自分史」 を収めた著書、『多摩の空と大地に』(ふだん記本49、ふだん記全国グループ、1977年)、『続 多摩の空と大地に』(ふだん記本54、ふだん記全国グループ、1978年)を発行している。 橋本は、香川を次のように評している。「学校教育の献身者であるとともに、一般社会教 育者として、『ふだん記』にも参加され、『ふだん記』出版に多大の努力を払っている。本 書の執筆、出版なども、また社会教育の一手段として自ら範を示されたのである17)」。「ふだん記」の地元八王子で教職に就いていた香川は、八王子の郷土史に関する橋本の新聞 記事等を通じて名を知り、八王子で発行されていた「多摩文化ニュース」(1967年刊行)の編 集会議で橋本から「ふだん記」の紹介を受け参加したことを著書の中で叙述している18)。そ の後、香川は八王子で教員生活の傍ら、退職後に至るまで「ふだん記」の実践に従事して いる。 「ふだん記」の地元八王子以外をみても、「ふだん記」に関わる教員は少なくない。「ふ だん記」津軽グループを創始し、窓口を務めた水木幸夫もその一名である。青森県の小学 校教員であった水木は、1980年 1 月に橋本が著した二冊の文章執筆に関する書『だれもが 書ける文章』(講談社現代新書、1978年)、『書いて花咲く哲学』(欅出版、1977年)を読み に感銘を受け、運動に関わりたい、と決意したことが参加の契機であった19)。水木は津軽 グループの機関誌創刊時のことを次のように回顧している。 「呼びかけは、私の職業柄、教職に関係している方が多かったのですが、それでも、『ふ だん記』運動の性格上、できるだけ人脈が多彩になるよう気を配ったつもりです。その意 味でも本号に寄せられた方々の範囲は大成功と思っております。創刊号におさめられた多 彩な職業・地位・階層・年令の方々の文章はみな一家言を成していて、到底私の如き者の 肩を並べるところではありませんが、『まとめ役』みたいなものもいなければ……とも思 い、敢えてその任に当たろうとしたものであります」20)。 これをみると、水木が津軽における「ふだん記」運動の「まとめ役」を果たすことを意 識していたことにも言及していることがうかがえる。 さらに、「これを核に、『書く』運動を、名もない民衆が、生活を、地域を記録していく 運動を大きく展開したいのである。津軽一帯の広がりをもつものとして発展させていきた いのである21)」と述べており、水木が草の根の文章執筆の文化を地域一帯にも広めること を企図していることもまた見受けられる。なお、水木は教師の立場からも、書くことに言 及している箇所もみられる。「職業を通じて書くことも実践している。学級通信や学年通 信の発行である。子どもたち3 3 3 3 3―と一ぱ一からげに表現される子どもたちの中に、一人とし て同じ子はいない。顔形はもちろん体つきから、そして心の中はもっとちがっている。一 人ひとりちがう子をできるだけ具体的に親に伝えたい。そういう願いから学級、学年の通 信を発行してきた22)」。 水木は「ふだん記」の書く運動の理念への共感を示しているが、教員としての日々の活 動の中でも書くことの実践の視点を持って取り組んでいることを示している点は注目され よう。 北九州グループで窓口を務める川原洋子も、教師として在職中に各地グループを立ち上 げた一人である(1980年 1 月、北九州グループ。グループの機関誌<北九州のふだんぎ> 創刊は1980年 2 月)。川原は北九州の私立の高等学校英語教師であったが、教師在職中の
1977年に「ふだん記」と橋本義夫を取り上げた色川大吉の著書『ある昭和史―自分史の試 み』(中央公論社、1975年)を読み、「ふだん記」を知ったという23)。北九州グループの立 ち上げは、川原と「ふだん記」に賛同した仲間 2 名(教師ではない)を含む 3 名、文章を 書くことは難しいと考えない易行の考え方に共感し、グループを立ち上げている24)。以降、 現在に至るまで九州で活動する唯一の各地グループとして40年に亘り、地域における自由 な文章執筆の場としての役割を果たしている。 川原は、「ふだん記」を知った時期と同じくして、勤務校の必修クラブの文芸クラブの 顧問となっており、クラブ活動の一環として文化祭時に生徒の文集を作り、橋本に送る活 動などもおこなっていた25)。川原による文芸クラブの活動に関する記録をみると、1988年 4 月23日に「ふだん記」グループへの初便りを出した後、八王子に住む文友との文通が始 まっていることがうかがえるが、その際、翌 5 月16日には前述の八王子の教師・香川節か らの手紙の受領、6 月 2 日には文芸クラブから香川の勤務校の文芸部へのハガキを出すな どの、交流を持っていた様子もうかがえた26)。 こうした状況からも、「ふだん記」の理念に共鳴した教師たちが運動に参画しつつ、関 わりを持っていたことがわかる。 4-2.教師が「ふだん記」で果たしている役割 4-2-1.グループ運営の担い手として 現在 6 グループが活動をしている北海道の各地グループにおいても、多くの元教員が関 わりを持っている。中でも、さいはてグループ(窓口・千葉正義、1979年発足、北見市、 正式名称は「ふだん記と自分史・さいはてグループ」)、旭川グループ(窓口・岡田勝美、 1980年発足)、帯広グループ(窓口・松崎拓郎、2002年発足、正式名称は「帯広ふだん記 の会」)の 3 グループでは2020年 9 月現在教師がグループの窓口を務めているなど、運営 に教師が関わっている割合は高い。 なお、現在窓口は交代しているが他の 3 グループも、留萌グループ(1982年発足、<留 萌ふだんぎ 歩み>として1996年に再出発)の初代窓口は、渡辺シゲ(小学校)、札幌グ ループ(1983年発足)二代目窓口・峯垣文雄(高等学校、数学) 、江別グループ(1993年 発足)の三代目窓口竹原郁子と元窓口に教師経験者が並んでいる。他にも、役員制をとっ ているさいはてグループでは副代表の国安民雄(小学校)、野本弘美(特殊学校(当時))、 会計の下谷登美子(小学校)と元教師の名前がみえる27)。 各地グループの窓口を概観すると、グループの立ち上げから運営に至るまでに校種・教 科を問わず、さまざまな教師が運営に関わっていることが顕著であり、地域における書く 実践を行うための場づくりに一定の役割を果たしてきた状況がうかがえる。
4-2-2.生徒の「ふだん記」への参加 「ふだん記」には教師だけでなく、教え子である生徒が参加しているケースもみられる。 一例に挙げられるのが旭川グループである。旭川グループは、高校の国語教師であった岡 田勝美により創設されたグループであり、北海道の各地グループの中でも初期に立ち上げ られたグループである(1980年)。「ふだん記」思想に深く共感し、旭川はもとより全国各 地の「ふだん記」で執筆する文友に影響を及ぼした岡田は、旭川にも書く実践を根付かせ ようと奮闘している28)。旭川に生きるさまざまな草の根の人々に書くように勧め、多くの 人々が旭川グループに関わってきたが、そこでは「十期会」という岡田が担任した10期目 の生徒たちが多く関わっていることがわかる。 岡田は、生徒が関わったことについて、卒業担任をした生徒たちのうち、卒業後の同期 会で何度も顔を合わせる生徒たちに「本を送って書きませんか」と誘い10名前後の生徒が 関わってくるようになった経緯があったと語っている29)。 そのような十期会のメンバーであった「ふだん記」文友の一人、則武尚大は印刷会社を 営み、旭川グループ発行の機関誌や書籍等の出版に際する力にもなっており、旭川グルー プの実践を進めていくうえで欠くことのできない役割を果たしている。また、則末は、旭 川グループ立ち上げの1980年の前年、1979年には高校での読書会で「ふだん記」と橋本の 取り組みから、草の根の歴史を紡ぐことを叙述する書、色川大吉『ある昭和史』を取り上 げていたことがあり、グループ立ち上げ前から生徒たちに草の根の執筆文化を学ぶ実践も 行っていたと語っている30)。学校における学びの一環で、書く実践の理念や実践の方法を 伝えつつ、またそこで学んだ生徒が地域での書く実践につながっていくつながりが見出す ことができ、こうした継続する道筋を教員が担っている役割がうかがえる。 なお、元教師・川原洋子が窓口を務めている北九州グループでも、教え子の生徒とのつ ながりがあるケースがみられる。北九州グループの文友・山本久江は30代という「ふだん 記」執筆者では比較的若い時期に自身の著書(『若い寿司屋』ふだん記新書114、ふだん記 北九州グループ、1982年)を出版するなど、北九州グループの活動に積極的に参加してい る文友の一人であるが、川原と同校で教師を務めていた川原の配偶者31)との関わりから 「ふだん記」を知り、参加した経緯がある。 4-2-3.書き手の学校時代の「自分史」を伝える実践 旭川グループでは、書き手の学校時代の「自分史」を伝える本、諸岡智子、岡田勝美、 高石博子編『私の学校記』(ふだんぎ本100、ふだん記旭川グループ、1985年)を発行して いる。同書は、書き手が過ごした学校時代の体験や思い出のエッセイを集積し一冊の本に まとめている。あとがきには次のような記述がみえる。「誰でも学校の思い出をもってい る。だから誰でも書ける。時代や社会事情の違いが出る。だから面白い。『おらが学校記』
をみんなに書いてもらいましょう。―橋本先生にそう勧められて取り組んだのが昨年の 秋。先生のご病気・ご逝去の事があって発行が遅れました。折を見て、この続 を出した いと思います。明治も大正も昭和の前半も『遠くになりにけり』です。ぜひ書きとめてお きましょう32)」。学校時代の経験を本にまとめたいとする発案と、それに共感し学校時代 の経験を残すことへの共感を持ちながら、出版に至っている様子がうかがえる。同書は、 それぞれの記事の著者の学校へのおおよその入学年が記されており、読み手は時代背景を 意識しながら記事に書かれた内容を読むことができるようになっている。 「ふだん記」には多くの教師が関わっているが、本節で取り上げたように書き手として 参加しているだけでなく、窓口として文化運動を実践する運営者の役割を果たしているこ とが確認できた。その際、生徒での書く実践を支えていることや書き手の学校での経験を 残すことなどの活動などもみられた。
5 .「ふだん記」で書かれた教師の文章
5-1.教員としての「自分史」を残す 本節では、教員が「ふだん記」の中で何を書き、文章に残してきたか、北海道の各地グ ループの文友が執筆した文章からみていきたい。 第一に取り上げるのは、ふだん記さいはてグループ(北見市)で窓口を務める千葉正義 である。元中学校教師(英語科)の千葉は、1950年代半ばから教員として、おおよそ1990 年代末ごろまで中学校に勤めている。「ふだん記」参加の経緯は、前代表の池田晶信(元 教師)に街で会い、紹介されたことが契機であると千葉は語っているが33)、オーストラリ アの体験や思い出から書き始めたことにはが特に注目される。 千葉は1987年から 3 年間、自身が50代の頃に文部省の海外派遣教員としてシドニーの日 本人学校の教頭をつとめている34)。この執筆は<さいはてのふだん記>誌の初投稿第47号 (2001年 5 月)の「住んでみたオーストラリア(一)」から、第72号(2013年10月)「住ん でみたオーストラリア(最終回)」まで12年25回の長期に亘って続けている。 「住んでみたオーストラリア(二)」(<さいはてのふだん記>48号、2001年11月)では シドニー日本人学校のことを記録している。同記事では学校の特色や PTA 活動の経験談、 離任後10年ほど経ったのちの再訪した経験が、写真とともに綴られている。一例をあげる と次のような PTA の活動を感想を添えて記録した記事がある。 「PTA 事業の最大のイベントは、『フェート』と言って、各学年 PTA が、中古衣料・古 本市・手芸・やきとり、やきそば・子供の遊び場・依託店・とみくじ(ラッフル)等を実 施して、その純利益金を学校にそっくり寄付するのである。(中略)このフェートの準備 のために保護者達は、子供のためになるということで、ものすごく燃える。特にオーストラリア人の保護者の燃えようはすごい。企画の段階で話し合いが熱をおび、長時間に及ぶ こともある。本番の一か月前から、毎日学校に集まり、準備に当たっている。学校には PTA の部屋があるが、八十名ぐらいの会議でも開かれる大きさである。この PTA 活動を 通して、日豪の児童・保護者間の相互理解がより深まったと思う35)」。 他にも、小学部の修学旅行を引率で訪れたキャンベラ・カウラのことを綴ったもの36)、 中学部の修学旅行で訪れたタスマニアでの経験も文章に書いている37)。さらに、日本人学 校で出会った人物のことを述懐した記事もあるがその中で、オーストラリアの教員の指導 に関する記述をした記事もある。 「この先生は、オーストラリア学級部の学級担任で、私とは一年間だけの交流であった。 しかしその一年間で、私が想像もしていない指導を見た。私は今でも印象に残っている。 私は、ある期間オーストラリア学級の四年生の日本語を受け持った。ある日、男の子が女 の子のブラウスの袖にマジックペンで落書きをしていて、その女の子が泣いた。私なりに 指導はした。就業のベルが鳴り、教員室にもどるとすぐに、オスラー先生に伝えた。彼女 はすぐに二人を呼んで事情を調べた。男の子が悪いことが判明した。先生は、すぐに保護 者に電話をしていたが、やがて私のところに来て『オーケー、ミスターチバ。大丈夫。こ の問題は解決しました。男の子の親がブラウスを弁償します。』と私に説明した。私は想 像をしていなかった結末である。次の日、男の子の態度が驚くほど落ち着いていて、隣の 生徒にいたずらなどしない。家で親からかなり指導されたことが読み取れた。日本では、 こんな簡単には終わらない。日本では、必らずいたずらをした側も、正当性を主張する。 日本の学級担任は、どうしたらよいかを考えこんでしまう。オーストラリアの方法は、親 の指導も含めて、効果的だと思った。日豪の違いを知った38)」。 千葉は、シドニー日本人学校で暮らしていた日々をこのような文章で記している。海外 赴任をした教師本人の回顧の記録が、積み重ねられていることがうかがえる。 自らの人生で出会った人物を通じて、教師生活を記録する者もいる。さいはてグループ、 札幌グループ等で執筆活動をしていた「ふだん記」の文友、佐野智は1920年代半ば生まれ の元小学校教師であり、戦後直後の時期から1980年代半ばまで教員生活を行っている人物 である 。佐野の「ふだん記」誌に投稿をしていたシリーズが「忘れえぬ人々」と題され た出会った人物を通じて綴った「自分史」の文章である。 佐野は、新任時代の赴任校の校長夫妻を「忘れえぬ人々」に挙げ、次のように綴ってい る。「辞令が到着すると、私はじっとしておられず夕方近かったが、社名渕校の校長宅を おとずれた。校長先生は二見(ふたみ)勝(かつ)治(はる)先生という。私は初対面で あったが、温かい感じのする人で安心した。奥さんは『何もないが』と言いながら酒を出 してくれた。当時二十一歳である。(中略)私は、四月一日から中学校の方を持ってほし いと言われ、中学校の教室へ行った。中学校といっても、昨日まで社名渕国民学校高等科
の一室である。一年生三十名、二年生二十名、三年生十名で合計六十名である。六十名だ から一年から三年までの複式教室である。職員室は無いから小学校と同居である。みんな 若く活気に満ちていた40)」。 新任当時の校長夫妻を思い起こしながら、当時の勤務校の学校の状況などの記録を残し ている。その後の教員生活も「忘れえぬ人々」題で出会った人物とともに綴っている。定 年退職前に最後に校長として美幌小学校に勤めていた頃の記事には、前任校長や歴代の PTA 会長などの名をあげながら学校での卒業式や公開自主研究会のことなどを回顧して いる41)。 佐野が学校に関する記録を残している際の考え方は、定年退職後美幌で発行されている 叢書の編集、執筆の経験を綴った文章から見ることができる。1920年に創立された学校を 振り返る記事「美英校を温(たず)ねて」を美幌叢書という地域誌に掲載する時の記録を、 調査の過程で出会った池田晶信(さいはてグループ元代表)と学校の記録を<さいはての ふだん記>に掲載している42)。その文章には続編も掲載されており、さらなる調査の経緯 も綴っており、あわせて以下のような文章を残している。 「現在、我が国では、国民学校時代とか、敗戦前後の回顧とか評価とかがさかんに行わ れています。いろいろな立場の人が、それぞれの思いを遺(のこ)すのは重要ですし、そ れなりの評価も与えられております。そのことと同時に私どもも、美幌という日本一の地 域の高等科と呼ばれた子どもたちが、生々しく、自らの体裁や考え方を悟ったり書いたり することは、今、多く発刊されている書籍にもまして、貴重なものであることを、私ども は知っております。枚数に余裕があれば、もっともっと遺(のこ)したいことが沢山ある のです。この時代の子供たちは、当時作った文集の中に、既に新日本建設に努力すると述 べている通り、その後頑張って、世界有数の平和国家、経済大国にまで発展させてくだ さった人達です43)」。 その時代を生きたその人の声こそ価値があるとする、佐野の学校記を遺そうとする思い がここからうかがうことができる。 5-2.教育実践の記録を残す 自らの教員の活動を含めた「自分史」を本にまとめ、出版している文友もいる。「ふだ ん記」江別グループの文友、竹原郁子は1920年代後半の生まれの元青年師範学校・実務高 等学校、中学校教諭である。終戦直後の1940年代半ばごろから10年に亘り教 をとってい た竹原は、のちに江別グループで窓口も務めている。 竹原の著書、『ひなた道』(ふだん記創書48、ふだん記江別グループ、2017年)には、竹 原の教師時代の活動が綴られている。終戦直後の青年学校の活動をみると以下のような記 述が見える。
「四月の或る日、『知ることから始まる』ので出席四十三名の女生徒の心理、要望等の調 査を行ってみた。『私の思っていること』について自由に書かせた。(中略)青年学校の実 情について理論的には聞いていたが、つくづく物質不足の実生活の中にいる生徒たちだと 感じ、それにくらべて私は物質不足は同様であるが、家族の中で働き手の重要な一員では ない幸せの中に育ってきたことを有難く思った。そうしてこの子達にも青年期の理想やあ こがれ、豊かな考えを持たせ、その実現前にこの調査で得たショッキングに慣れっこに なってしまわないで先ず、自分の実力をつけなければいけない『何とかやってみよう』と 言う強気と『大変なことだ』という弱気とがまたも交錯する春たけなわの日であった44)」。 同文中には生徒たちの回答の中に、「お米使用の実習はコメがないから困る」、「お米の 配給を多くしてほしい」といった率直な声が記録されてあったことに対する、当時を生き る若手教師の心持ちが文章から読み取ることができる。 さらに、竹原は1947年の新制中学が始まった頃の実践も綴っている。社会科の授業に関 する述懐をみてみたい。 「お粗末でも教科書のある教科は教え易いけれども『社会科』は大人たちも初めて聞く 言葉で、自分の育った町をよく知り、どう生きたらよいかを勉強する学課ということで 『二時間続きを適当にやってください』とのこと、受け持ちの先生が社会科を持つ場合は 連絡事項などに使われもした。私は思案の結果、中学一年生にはその元気さを満足させる ためにも青空教室である山へ行き、自分の住む町を一望して自分で身近な『わが町の地図』 作りから地理、歴史、産業へと入ることにした。子供たちは教室だけよりも山登りできる ことをこの上なく喜んで目を輝かせ、目的地に上りつくと『あ、海がみえた』『爆弾の落 ちた所だ』『みっちゃんちが見えた』等々さざめいてから地図作りと活気ある作業学習に 代わっていった45)」。 試行錯誤をしながら、実践を行っていた様子がこうした記述からうかがえる。戦後直後 期の社会科に関する叙述は、雲の碑グループ(八王子市)の香川節(高等学校、日本史・ 世界史教諭)も記している。香川も当時の教師たちが新しい教科に戸惑いを持っている様 子を記しながら、研修、研究授業の見学などを通しながら実践への取り組む姿勢を整えて いったことを記し、次のように実践を記述している。 「わたしは、クラスを五、六名ずつのグループに分かち、単元の中に小単元を設けて、 それぞれのグループに研究をさせたのち順々に全員に発表してもらった。発表の際は、模 造紙に表や図を描いてもらったり、プリントをこしらえて配ったりさせた。はじめのうち は慣れなくて、口の中でモゴモゴやっているのや、蚊の鳴くような小声のものや、よくま とめられなくてシドロモドロのものも多かったが、だんだん上手になって、発表も元気よ くやれるようになった。研究のとき、校外へ出て、市役所や駅や博物館などに行って見学 や質問をしてきたり、百科事典や三省堂の『社会科文庫』などを丹念に読んだりする生徒
もあって、具体的な問題はことのほか向学心をそそったようである46)。」 これらの教師による回顧は、「ふだん記」で実践するさまざまな教師によって書かれて いるが、教師が行ってきた実践を形にして残す役割を果たしていると思われる。また、草 の根で書かれた教師たちの文章は、現在もなお蓄積を重ねられており、地域における教育 実践の史料としての意義もあると推察される。
6 .まとめ
本研究では戦後の書く実践「ふだん記」各地グループにおける教師を対象に、地域文化 運動において教師が果たしてきた役割や意義を明らかにすることを試みてきた。 1 .では先行研究を取り上げた。「ふだん記」はこれまで初期の活動、「ふだん記」の理 念に基づいた文章を書く思想、創始者の橋本義夫を中心とした研究が行われており、各地 グループで書く人々への着目がなされてこなかったことをみた。また、教師の地域の役割 に関する先行研究では、地域課題と教師を対象にしたものなどが中心であり、地域文化運 動における教師に関する研究は多くはみられなかった。 2 .では「ふだん記」の活動を概 観した。八王子で創始された草の根の文章執筆運動は、全国に広がっており、窓口という 役割を置く緩やかな組織運営の形式をとっていることを示した。 3 .では「ふだん記」に参加する教師を取り上げた。運営に教師が関わっているケース が少なからず見られ、特に北海道の各地グループでは、多くのグループで教師が窓口を務 めたことがあり、北海道の各地グループが創立して40年以上を経過した現在もなお、半数 のグループが教師経験者であり、書く実践の運営に関わっていることがうかがえた。なお かつ、教師自身の学校時代の生徒も一緒に実践に参加することや、さまざまな書き手に学 校時代の経験を綴ってもらい出版する活動などを行っていることもみられた。 4 .では教 師が書いた文章を取り上げた。教師としての「自分史」を著し、さらに自らの教師時代の 実践記録もみることができた。 以上を通じて、教師は地域で展開してきた書く実践の中で運営を担ってきた人物の存在 や、地域で教師の経験を文章に残してきた教師が少なからずいることがうかがえた。こう した教師の取り組みには、いくつかの意義が認められる。第一には、学びの専門家が地域 文化運動の担い手となる意義である。「ふだん記」では多くの教師が、文章の書き手とな ることに加え、文化運動の運営の担い手となる役割を帯び活動をしていた。学びの専門家 である教師が文化運動に関わることは、より一層の実践の充実につながる意義があると思 われる。第二は、多様な教師の実践記録が積み上げられてきた意義もある。本論文で取り 上げた範囲だけでも、教師の実践の回顧は多様な場所、時代、内容の取り組みに亘ってい た。地域の中で自身の取り組みを綴ることにより、教師が積み上げてきた教育実践の記録が地域の中にアーカイブされてきた意義が認められる。 第三は、教師自身に関する意義である。今回対象とした「ふだん記」において書かれた 教師の実践記録は出来事だけではなく、書き手である教師の出来事の振り返りが綴られて いる。このことは、地域文化運動への参加が、「学び続ける教師」のための一助となって いる意義があるものと推察される。 本論文では、多くの教師が地域で書く実践に取り組んでいる状況をとりあげ、分析をし てきた。しかしながら、今回取り上げた文章は一部にとどまっており、さらなる研究が必 要であると思われる。今後の課題としたい。
7 .注
1) 小林多寿子『物語られる「人生」 自分史を書くということ』学陽書房、1997年、pp.47-48。 2) 川原健太郎「『ふだん記』と「自分史」の一考察:橋本義夫による実践の再評価」、<関東教育 学会紀要>41、関東教育学会、2014年、pp.3-26、他。 3) 川原健太郎『戦後地方文化運動の実証的研究―「ふだん記」各地グループを対象として―』揺 籃社、2019年、他。 4) 保坂明香「ライティング指導における対話の役割 ―構想を練るための支援として―」、<ICU 日 本語教育研究>(15)、国際基督教大学グローバル言語教育研究センター、2019年、pp.57-67。 5) 長澤済「留学生への作文教育 : 関心や能力をどう引き出すか」、<名古屋大学日本語・日本文化 論集>(25)、名古屋大学国際言語センター、2018年、pp.83-103。 6) 田中信之、淺津嘉之「ライティング・ワークショップの実践と評価 : 留学生別科生を対象とし て」、<富山大学国際交流センター紀要>(3)、富山大学国際交流センター 、2016年、pp.9-23。 7) 太朗良信「家庭環境の福祉的ケアと教員の職務:1930年代の事例をもとに」、<教育学部紀要> 52(別集)、文教大学、2019年、pp.119-123。 8) 松野哲哉、河本大地、馬鵬飛「山間地域における1960年代の「へき地教育」の性格 : 奈良県十 津川村の大字出谷の事例を中心に」、<次世代教員養成センター研究紀要>(5)、奈良教育大学 次世代教員養成センター、2019年、pp.175-184。 9) 二宮信一、大友浩美、手代木了「障害のある子どもと地域をつなぐ教師の役割 : 津別町におけ る特別支援学級の実践から考えるインクルーシブ教育」、<へき地教育研究>(67)、北海道教 育大学 学校・地域教育研究支援センター へき地教育研究支援部門、2012年、pp.21-30。 10) 中村瑛仁「学校環境の違いによって教師役割はいかに異なるのか?: 校区の社会経済的背景に着 目しながら」、<教師学研究>22(1)、日本教師学学会、2019年、pp.1-11。 11) 加藤良樹「現職教員が学校と地域社会をつなぐ「嘱託社会教育主事制度」 (特集 「学びを支援す る力」の可能性 : 社会教育職員の専門性を活かす)」、<月刊社会教育>63(5)、国土社、2019年 5 月、pp. 27-33。 12) 「ふだん記」発祥の八王子で活動をするグループ、ふだん記雲の碑グループの機関誌に掲載され ているリストをみると、「ふだん記全国、関西、春日部、さいはて、あいち、北九州、四條畷、 津軽、旭川、みちのく、札幌、江別、高知、留萌、雲の碑、帯広」のグループが掲載されている(<ふだん記―雲の碑>第44号、ふだん記雲の碑グループ、2019年 6 月)。 13) 川原健太郎「地域における学習・文化活動の受容過程に関する研究―北海道における初期「ふ だん記」を対象にして―」、<早稲田大学大学院教育学研究科紀要>25、早稲田大学大学院教育 学研究科、2018年 3 月、pp.15-27。 14) 橋本義夫(岡田勝美編)『新人類文化のすすめ―宛名のない手紙―』ふだん記新書130、ふだん 記旭川グループ全国グループ、1983年、p.62。 15) 2019年 6 月23日には、第36回北海道ふだん記交流会・札幌大会(於:ホテルライフォート札幌) が開催されている。 16) 橋本義夫(色川大吉、椚国男、清水英雄編)『砂漠に樹を 橋本義夫初期著作集』揺籃社、1985 年。 17) 橋本義夫「自伝であるとともに、多摩の昭和史でもある」、香川節『多摩の空と大地に』ふだん 記本49、ふだん記全国グループ、1977年、まえがき。 18) 香川節『続 多摩の空と大地に』ふだん記本54、ふだん記全国グループ、1978年、pp.88-91。 19) 水木幸夫『津軽の叫び』ふだん記本74、ふだん記津軽グループ、ふだん記全国グループ、1983年、 p.3。 20) 同前。 21) 『津軽の叫び』前掲、p.14。 22) 『津軽の叫び』前掲、p.15。 23) 川原洋子『筑紫の山脈・遠賀川―炭鉱の町に生まれて』ふだん記北九州グループ(協力・ふだ ん記全国グループ)、1993年、p.63。 24) 『筑紫の山脈・遠賀川―炭鉱の町に生まれて』前掲、p.65。 25) 川原洋子インタビュー、聞き手:川原健太郎、2015年 9 月 5 日実施、於:川原洋子宅(北九州 市小倉)。 26) 『筑紫の山脈・遠賀川―炭鉱の町に生まれて』前掲、pp.65-74。 27) さいはてグループは前窓口の池田晶信(中学校、音楽)も元教師である。 28) 岡田は多くの「ふだん記」本の出版、編集に関わっているが、中でも自身の著書、岡田勝美『「ふ だん記」にひかれて』(ふだん記本114、ふだん記旭川グループ、1988年)をみると、地域の文 芸誌や新聞の連載などさまざまな媒体で、「ふだん記」における書く思想を伝えていることがう かがえる。 29) 岡田勝美インタビュー、聞き手:川原健太郎、2016年 9 月 6 日実施、於:ときわ市民ホール(北 海道旭川市)。 30) 則末尚大インタビュー、聞き手:川原健太郎、2016年 9 月 6 日実施、於:ときわ市民ホール(北 海道旭川市)。 31) 川原洋子と同校で教員を務めた川原士道もまた、交流会に度々参加するなど「ふだん記」に共 感的に関わっている人物の一人である。 32) 諸岡智子、岡田勝美、高石博子編『私の学校記』(ふだんぎ本100、ふだん記旭川グループ、 1985年、p.143。 33) 川原健太郎『戦後地方文化運動の実証的研究―「ふだん記」各地グループを対象として―』前掲、 pp.93-94。 34) 千葉正義インタビュー、聞き手:川原健太郎、2017年 9 月19日実施、於:北見文化連盟事務所、
調査時千葉の提供資料より。 35) 千葉正義「住んでみたオーストラリア(二)」<さいはてのふだん記>48号、ふだん記と自分史・ さいはてグループ、2001年11月、pp.24-25。 36) 千葉正義「住んでみたオーストラリア(三) カウラ日本人捕虜収容所の悲劇」(<さいはての ふだん記>49号、ふだん記と自分史・さいはてグループ、2002年 5 月、pp.60-64。 37) 千葉正義「住んでみたオーストラリア(五) タスマニアの秘話」(<さいはてのふだん記>50号、 2003年 5 月、ふだん記と自分史・さいはてグループ、pp.42-44。 38) 千葉正義「住んでみたオーストラリア(十九) 思い出に残る人々(その一)」(<さいはてのふ だん記>66号、2010年10月、pp.111-112。 39) 佐野智『苦根楽果(二)』(自費出版、発行年記載不明)。佐野は2016年11月に逝去、<さいはて のふだん記>では79号(2017年 5 月)、<札幌のふだんぎ>50号(2017年 5 月)では追悼の特集 記事が組まれている。 40) 佐野智「忘れえぬ人々(五十二)―社名渕時代 二見校長夫妻―」、<さいはてのふだん記>66 号、ふだん記と自分史・さいはてグループ、2010年10月、p.113。 41) 佐野智「忘れえぬ人々(五十四)―美幌町 牧野了泰さん―」、<さいはてのふだん記>66号、 ふだん記と自分史・さいはてグループ、2011年11月、pp.45-51。 42) 佐野智「忘れえぬ人々(二十六)―美幌叢書十二号と池田晶信さん―」、<さいはてのふだん記 >56号、ふだん記と自分史・さいはてグループ、2005年10月、pp.37-39。 43) 佐野智「忘れえぬ人々(五十五)―続美英校を温(たず)ねての協力者たち」、<さいはてのふ だん記>69号、ふだん記と自分史・さいはてグループ、2012年 5 月、p.40-41。 44) 竹原郁子『ひなた道』ふだん記創書48、ふだん記江別グループ、2017年、pp.45-47。 45) 同前、pp.56-57。 46) 香川節『続 多摩の空と大地に』前掲、pp.19-20。 謝辞:本研究にあたり、多数の「ふだん記」文友の方にご協力を頂戴している。感謝の意 を申し上げたい。