Title
海面変動が基線に与える影響とその国際法上の効果・序論
−−デルタ国家の事例を手がかりとして−−
Author(s)
長岡 さくら
Citation
福岡工業大学環境科学研究所所報 第7巻 P63-P69
Issue Date
2013
URI
http://hdl.handle.net/11478/503Right
Type
Research Paper
Textversion publisher
福岡工業大学 機関リポジトリ
FITREPO
海面変動が基線に与える影響とその国際法上の効果・序論
−−デルタ国家の事例を手がかりとして−−
長岡 さくら(海洋政策研究財団 研究員) キーワード:直線基線、三角州、海面上昇 一 はじめに 現在、様々な自然現象に起因する海面の変動によ り、国家が管轄権を及ぼすことができる海域を決定 するための基線の位置が変動する可能性が指摘され ている。例えば、国連海洋法条約審議過程において も指摘されていたようなバングラデシュの三角州1 における基線の問題や、ツバルやキリバスといった 低海抜の陸地からなる小島嶼国の島の水没問題、日 本の沖ノ鳥島のように波による浸食による沿岸縮小 の問題などを取り上げることができよう。 このような現象により、基線が現在の基線の位置 より退行する場合、現に国家管轄権を有している海 域の国際法上の地位はどのようになるのであろう か?現代国際法上、この問題に対する規則は、現行 諸条約及び慣習国際法には示されていない点が多い。 本稿では、とりわけ、自然現象により三角州が著し く変更される場合について取り上げ、この問題に対 する国際法規則の有無を明らかにすることを目的と する。 なお、このような自然現象に基づく海面変動につ いては通常「海面上昇(sea-level rise)」という語が 用いられることが多いが、理論上、海面は上昇及び 下降のいずれの場合も考えられるため、本稿では「海 面変動」という語を用いることとする。 二 三角州における海面変動と基線 現在、海面変動によって基線の位置が不安定とな る自然現象の一つに三角州(デルタ)の問題がある。 このような問題を抱えている国の一つにバングラデ シュを挙げることができよう。ベンガル湾に面する バングラデシュは、その国土の多くが、ガンジス川 とブラマプトラ川が流入して構成される三角州(デ ルタ)である。熱帯国家である同国では、雨季とな る3 月から 6 月にかけて度々、川の氾濫、降雨、ハ リケーン等をもたらし、その結果、継続的な川の浸 食や堆積が起こり、国土の地形が変動し続けている。 このような現象は、国際法上、海洋法における基 線の位置が変動するという結果をもたらす。慣習国 際法上、デルタ国家のような不安定な低潮線を持つ 国家の基線に関する特別の規則は存在しない。また、 1958 年領海条約においても、その第 4 条にて、海岸 が著しく曲折しているか海岸に沿って一定の島が存 在する場合の直線基線採用について明示されただけ で、デルタ国家の基線に対する特別な規則は設けら れなかった。 このような状況の下、1974 年、バングラデシュは 「1974 年領水及び海域法(1974 年第 26 号)」を制定 し、その第3 条 1 項にて同国領海基線を官報にて告 示することを定めた2。これに基づき、同年4 月 13 日、同国は「宣言第LT-I/3/74 号」第 3 項にて等深線 に基づく領海基線を定めた3。上述の通り、同時点で デルタ国家の基線設定に対する特別の規則は存在し ていなかったため、このようなバングラデシュによ る一方的国内措置は国際法上違法であると捉えるこ とができよう。また、同国がデルタ国家の領海基線 に対する特別な規則の適用を国際社会に対して主張 したのは、この国内法が初めてであると言うことが できよう。 同国がこのような主張を行った時期はちょうど第 三次国連海洋法会議が開催された時期(1973-1982 年)と重なっている。同国は、上述の主張を同会議 においても主張した。同国が国内法を設定した数ヶ 月後の1974 年 7 月 16 日、第三次国連海洋法会議第 二会期第二委員会第5 回会合において、バングラデ シュ政府代表であるRashid 氏は、同国のガンジス三 角州の状況について説明するとともに、そのような 状況下で唯一実現可能な陸地と海域の境界画定 (demarcation)方法はある深さの条件によって基線 を定めることである旨主張した4。また、1978 年 4 月26 日、バングラデシュ政府は、同会議第七会期第二委員会非公式会合において、条文草案第7 条 2 項 修正案を提出した5。これに対して、米国政府は、同 年4 月 25 日、国務省発出の書簡にて、バングラデシ ュ政府が行った提案は、同国の特殊事情を考慮した としても、適切な低潮線より海側へ張り出さない基 点を用いない領海の境界画定を行う目的での直線基 線制度を支持することはできないとの考えを示した 6。また、インド政府も、同年5 月 18 日、同会期全 体会合第104 回会合にて、同政府代表 Jagota 氏が、 バングラデシュ政府の提案は従来よりも海側に基点 をとる新しい規則を創設しようとするものであるた め、これが効力を持つためには国際社会の承認が必 要となる旨発言した7。と同時に、バングラデシュ政 府がこの問題に関心のある他の国家と議論を行った り、次会期に再度この問題を取り上げる意思を示し たことは歓迎すべきことであること、現時点ではバ ングラデシュ政府の姿勢は有力な支持を受けている とはみなされない、との意思を示した8。 その後、バングラデシュ政府は、1982 年 4 月 28 日、同国政府国連代表たるA. K. H. Mohamed 氏から 第三次国連海洋法会議議長へ宛てた書簡にて、低潮 線が不安定/不定であるため、その度毎に条約規定 に基づく海図を修正することは不可能であるとして、 デルタ国家に対する直線基線採用基準を見直し、等 深線に基づく基準を採用するよう再度提案を行った 9。これに対して、インド政府は、同年4 月 30 日、 S. P. Jagoda 同国国連代表から第三次国連海洋法会議 議長に宛てた書簡にて、インド政府の考え方を示し ている10。まず、1978 年にバングラデシュ政府が行 った主張に対する当時のインド政府の対応について 引用する11。そして、1978 年以降これまでバングラ デシュ・インド間でこの問題についての議論がなか ったこと、及び、1978 年のバングラデシュ政府の提 案以降、これまで同国政府はこの提案を説明するこ とがなかったことに言及する12。従って、バングラ デシュ政府代表が述べているような条文草案第7 条 2 項の規定が等深線基準を排除することはできない という解釈は正しくなく、本会期におけるバングラ 政府による提案は受入れられないとの立場を表明し た13。 また、ビルマ政府も、1982 年 4 月 30 日、S. Hlaing 同国国連代表から第三次国連海洋法会議議長に宛て た書簡にて、ビルマ政府の考え方を示している14。 とりわけ、ビルマ政府は、バングラデシュ政府によ る書簡における等深線による直線基線採用の提案に おける「多くの代表団によって強固で好意的な支持 を受けている」及び「条約草案第7 条は(バングラ デシュ政府の提案する)基線の引き方について排除 してはいない」との文言について言及する。これに ついて、ビルマ政府は、バングラデシュ政府の提案 は、これまでの第三次国連海洋法会議や、とりわけ、 同会議第三会期に設立された基線に関する非公式交 渉グループによって持ちこたえているとは言えず、 また、これまでの交渉の結果、条約草案第7 条 2 項 は規則で明確にされた場合に限り直線基線を陸地の 点から陸地の点に向けて引くことができるとしてい るわけであって、海上の点から海上の点に向けて引 くことを許容している訳ではないと指摘している。 このような経緯があったものの、最終的に国連海 洋法条約においてはバングラデシュ政府の提案は取 り入れられず、デルタ国家等自然条件が特殊なため に海岸線が不安定である国家に鑑みて、次のような 規則が新たに取り入れられることとなった。 「三角州その他の自然条件が存在するために海岸 線が非常に不安定な場所においては、低潮線上の海 へ向かって最も外側の適当な諸点を選ぶことができ るものとし、直線基線は、その後、低潮線が後退す る場合においても、沿岸国がこの条約に従って変更 するまで効力を有する(第7 条 2 項)。」 この規則が創設されたことにより、デルタ国家だ けでなくその他の自然条件によって海岸線が著しく 不安定となる場所についても、直線基線を採用でき ることとなった。 では、当初、バングラデシュ政府が提案していた ものとは異なるこの規則に対して、バングラデシュ 政府はどのような態度を示したのであろうか。第三 次国連海洋法会議第十一会期(ニューヨーク)の最 終日である1982 年 4 月 30 日、本会議において条約 案が記名投票に付された15。バングラデシュ政府は 同条約案に対し賛成票を投じ、また、同年12 月 10 日、ジャマイカのモンテゴ・ベイで開催された国連 海洋法条約署名会議の席上にて署名を行った。そし て、2001 年 7 月 27 日、バングラデシュ政府は同条 約を批准した。 このように、バングラデシュ政府は、第三次国連 海洋法会議最終条約草案や国連海洋法条約で示され た上述の規則に一貫して賛成する態度を示している。 にもかかわらず、現在までこの規則と抵触する1974 年国内法を撤回していない。このため、例えば、米 国政府は、いわゆる「航行の自由計画(the U.S.
Freedom of Navigation Program, FON Program)」を実 施し、国防総省(主として海軍)による「実行によ る」抗議・権利主張(operational assertion)を行うこ とによって国際法規則に反する国内法規則への抗議 を行っている16。現在、公表された文書によって確 認される限り、米国政府は、1995 会計年度、1996 会計年度、1998 会計年度、2000-2002 会計年度に恣 意行動を行っているが、その後は2013 年 3 月 31 日 までの間に示威行動は実施されていないとともに、 この問題に関する文書も公表されていない17。従っ て、2002 年以降、米国政府がバングラデシュ国内法 に対する国際法上の解釈を変更したのか否かについ ては現在のところ不明である。 また、2011 年 2 月 25 日、バングラデシュ政府は、 大陸棚限界委員会(CLCS)に対し大陸棚の延長申 請を行っているが、この申請で用いられている基線 は、1974 年国内法にて定められている直線基線であ る18。これに対し、2011 年 3 月 31 日、ミャンマー政 府は口上書にて、バングラデシュが用いる直線基線 は国連海洋法条約第7 条に違反していること、そし て、ミャンマー政府はこの直線基線の使用を承認し ない旨述べている19。また、2011 年 6 月 20 日、イン ド政府も口上書にて、バングラデシュ政府が用いる 基線が国連海洋法条約第7 条に適合していない旨述 べている20。なお、これ以外に、現在まで、その他 の国家が文書や実行による抗議や権利主張によって この規則に対する抗議を行った事例は明らかとなっ ていない。 国連海洋法条約で初めて明記されたデルタ国家に 適用しうる直線基線に関する規則は、現在、次のよ うに解釈されている。まず、デルタ国家等に適用さ れる国連海洋法条約第7 条 2 項は、直線基線一般に ついて定めた第7 条 1 項の特別な場合の適用である とする。そして、第7 条 2 項が適用できる場合であ っても、浸水している場所を基点として採用するこ とはできないとする21。従って、バングラデシュ政 府の主張する、ある一定の等深線を基線とする提案 は否認されているということができよう。また、同 項は、バングラデシュだけでなく、ビルマ(現ミャ ンマー)、エジプト、ナイジェリア、ベトナムといっ たデルタ国家にも適用しうるとする22。 なお、同項における「その後、低潮線が後退する 場合においても」との表現に関し、水路学の専門家 達からは低潮線が後退する現象は稀であり、むしろ、 洪水等によって堆積物がそれまでよりも海側へ押し 出され、低潮線が前進することになると理解されて いるとする23。 それでは、これらのデルタ国家は国連海洋法条約 第7 条 2 項に定める直線基線を採用しているのであ ろうか。 エジプトは、ナイル川河口に世界最大のデルタ地 帯を有する国家である。エジプトは、1951 年 1 月 15 日、「エジプト王国領海に関する勅令」を発布し24、 ナイル川デルタの最西部に位置するエル・アラブ湾 (Bay of El-Arab, Bay of Al Arab, Khalij Al ’Arab)を含 むエジプト王国沿岸の全ての湾域を内水と定めた (第4 条(a))。 これに対し、英国政府及び米国政府はエジプト政 府に対する抗議を行ったとされている。 英国政府は、1951 年 5 月 23 日、在カイロ英国大 使館を通じて口上書を発出し、「エジプトに位置する 歴史的湾は存在しない」旨の抗議を行ったとされる 25。 また、米国政府は、1951 年 6 月 4 日、在カイロ米 国大使館を通じて口上書を発出したとされるが、詳 細は明らかではない26。 その後、エジプト政府は、第三次国連海洋法会議 最終議定書及び条約の署名会議が開催された 1982 年12 月 10 日に国連海洋法条約への署名を行い、翌 1983 年 8 月 26 日、同条約の批准を行った。その後、 1990 年 1 月 9 日、「エジプト=アラブ共和国海域の 基線に関するエジプト=アラブ共和国大統領令第 27 号」を発布し27、エジプト沿岸に直線基線を採用 した(第2 条)。また、この大統領令において、エジ プト政府は、第2 条に従って引かれる直線基線の一 覧を、慣習規則に従って公にし、かつ、国連事務総 長へ通告することを定めた(第3 条)。この点、直線 基線の一覧について、国連事務総長への通告を国内 法令で明記したものは大変珍しいものであると言え る。なお、同令第2 条 1 項及び同附属書 1 に従って 設定した地中海沿岸の直線基線の中には、本稿で検 討しているデルタ地帯に対する直線基線が含まれて いる。 さて、エジプト政府によるデルタ地帯への直線基 線設定を含む直線基線制度の採用に対し、アメリカ 合衆国は在カイロ米国大使館を通じて、1991 年 6 月 13 日、口上書第 851 号を発出し、エジプト政府に対 して抗議を行っている28。米国による抗議の主な点 は、エジプト沿岸は全ての海域において一般的に滑 らかであり、国連海洋法条約第7 条に定める要件を
満たしていないという点である。とりわけ、ナイル 川デルタへの直線基線採用に対して、米国政府は、 エジプト政府に対する口上書の中で次の点を指摘し ている。即ち、国際法上の湾と認められるアブ・キ ル湾(Abu Kir Bay)以外に設定した直線基線は、海 岸線が特に著しく曲折している訳ではなく、又、海 岸に沿って至近距離に一連の島がある訳ではないと して、直線基線の採用に抗議するとともに、米国 が 持つこれらの海域に対するあらゆる権利を留保する 旨述べている。これに先立ち、同月8 日、米国国務 省は在カイロ米国大使館宛公電において、これらの 米国の立場を詳細に述べている29。 なお、この後、1994 年 5 月 6 日、米国国務省地理 局は、エジプトの直線基線に関する分析を公表して いる。この中で、ナイル川デルタを含む地中海に設 けられた直線基線に関しては、1991 年の口上書で述 べられていることを繰り返している30。 また、米国政府は、1996 年に同海域に対する示威 行動を行っていることが確認できるが、2005 年以降 の示威行動の有無は不明である31。 エジプト政府によるナイル川デルタに対する直線 基線設定に対する米国以外の反応は現在のところ不 明である。但し、デルタ地帯に対する直線基線設定 は、1958 年領海条約では規定されていなかったもの の、現在は国連海洋法条約第7 条 2 項によって明確 に認められているものである。従って、米国政府が、 国連海洋法条約第7 条 1 項の要件だけを取り上げて エジプト政府に対して抗議を行っていること自体、 国際法の解釈が正しく行われていないと指摘するこ とができよう。 上述のバングラデシュと同じくインド洋及びベン ガル湾に面しているビルマ(現ミャンマー)にもデ ルタが存在する。その国土の中央を流れるエーヤワ ディー川(旧イラワジ川)河口付近がデルタ地帯と なっており、同国の主要な産業である米作の中心地 となっている。 1968 年11 月15 日、ビルマ連邦革命評議会議長は、 外務省令を公布し32、同省令及び附属書によって、 ビルマ連邦沿岸の形状的理由及び沿岸住民の死活的 経済利益を守るため、同国のほぼ全沿岸に亘って直 線基線が設定された(第3 項)。デルタ地帯であるエ ーヤワディー川河口付近も例外ではなく、マルダバ ン湾の一部として河口沖合に直線基線が設定された。 その後、1977 年 4 月 9 日、ビルマ政府は、「領海 及び周辺海域法」を制定したが33、1968 年省令で定 められた直線基線の大部分はそのまま踏襲された。 エーヤワディー川河口付近のデルタ地帯に設定され た直線基線もそのまま踏襲されている。そして、こ の直線基線は現在もなお維持されている。 これに対し、米国政府は、1982 年 8 月 6 日、在ラ ングーン米国大使館を通じて、ビルマ政府に対し、 ビルマ政府の設定した直線基線が沿岸の一般的方向 から離れており、国際法上の規則と合致しないとし て抗議を行った34。また、2000 年にも再度抗議を行 ったとされている35。そして、米国政府は、2013 年 3 月 31 日現在、1985 会計年度、1989 会計年度、 1996-1998 会計年度、2000-2003 会計年度及び 2011 会計年度に示威行動を行っている36。 なお、英国政府も、1993 年、ビルマ政府の設定し た直線基線に対して抗議を行ったとされているが、 詳細は不明である37。 ミャンマーは、1982 年 12 月 10 日に国連海洋法条 約に署名し、1996 年 5 月 21 日に同条約を批准して いる。このため、エーヤワディー川河口付近のデル タ地帯において、国連海洋法条約第7 条 2 項に従っ て低潮線上の最も外側の適当な点を用いて直線基線 を設定することは可能である。しかし、現在、ミャ ンマーが同地帯に設定している直線基線は低潮線上 の点を用いたものではなく沖合に直線基線を設定し たものであり、国連海洋法条約第7 条 2 項に合致し ない可能性が高いと言えよう。なお、米国政府によ る抗議では線基線が沿岸の一般的方向から離れてい ることは指摘されているものの、国連海洋法条約第 7 条 2 項に合致しないことを直接指摘しているもの ではない。 アフリカにおいては、上述のエジプトの他、ナイ ジェリアにおいてギニア湾に面し、ニジェール川の 河口付近にニジェール・デルタと呼ばれるデルタ地 帯が存在する。しかし、同国において現在有効な法 令では同国の沿岸に直線基線を採用していない38。 さて、アジア地域では、ベトナム南部のメコン川 河口域に位置するメコンデルタも存在する。同地帯 においても、ミャンマー同様、稲作が盛んである。 1982 年 11 月 12 日、ベトナム政府は、1977 年 5 月12 日に制定された国内法の履行のため、直線基線 を設定する声明を発表した39。この中で、ベトナム 政府は、メコンデルタを含むベトナム沿岸のほぼ全 域に亘って直線基線を設定した。メコンデルタにお ける直線基線は、低潮線上の点を用いて直線を引い たものではなくその沖合に位置する島を用いて直線
基線を引いていることから直接に国連海洋法条約第 7 条 2 項を用いたものではなく、同条 1 項の海岸に 沿って至近距離に一連の島がある場合の直線基線の 採用とみられる。 これに対し、ベトナム政府が採用した直線基線の うち、メコンデルタ付近の直線基線について抗議を 明確に行っているのはタイ政府である。タイ政府は、 1985 年 11 月 22 日の声明の中で、メコンデルタ付近 のポイント0 とポイント A7 間の直線基線は国際法 に不一致であると述べている40。 これらの例からは、国連海洋法条約第7 条 2 項が 規定された後、必ずしも関連国家がこの規定を用い ている訳ではない可能性を指摘することができる。 三 おわりに さて、これまで考察したように、海面変動に伴う 基線の変化のうち、デルタ国家の場合については 1982 年国連海洋法条約第7 条2 項に規定が設けられ たため、一定の評価を下すことができると考えられ る。しかし、この条項について憂慮すべき点も含ま れていると考えられる。 なぜならば、同項は「直線基線は、その後、低潮 線が後退する場合においても、沿岸国がこの条約に 従って変更するまで効力を有する」と規定している ため、著しく低潮線が後退した場合であっても、国 家の裁量によって半永久的に現状とかけ離れた直線 基線を用いることができるようにも解釈できる。し かし、同時に、国連海洋法条約第 16 条は、その 1 項にて「第7 条・・・の規定に従って決定される領 海の幅を測定するための基線又はこれに基づく限界 線・・・は、それらの位置の確認に適した縮尺の海 図に表示する。これに代えて、測地原子を明示した 各点の地理学的経緯度の表を用いることができる」 とし、その2 項にて「沿岸国は、1 項の海図又は地 理学的経緯度の表を適当に公表するものとし、当該 海図又は表の写しを国際連合事務総長に寄託する」 と規定する。よって、国家は、国連海洋条約に従っ て基線を定めその海図を公表する義務を負うと考え られるが、国連海洋法条約第7 条 2 項に該当する国 家はどのような頻度で基線を変更し海図を公表する 必要があるのであろうか。 この点、国連海洋法条約には明確な規定を有して いないため、デルタ国家が基線が後退した場合にも 基線の変更を行わない場合であっても、これが直ち に条約違反に問われることはないと解釈することも 可能である。これに対して、国連海洋法条約第7 条 2 項に該当しない国家が基線を変更しない場合、直 ちに条約違反に問われる可能性があるのと比較して 公平性を欠くように考えられる。これらの理論的整 合性について更に精査をする必要があるように思わ れる。 なお、本稿にて検討したデルタ国家の場合には一 定の場合について条約上の規定が既に存在するもの の、国連海洋法条約上規定を有しない小島嶼国や波 による浸食を受ける国家などの海面上昇が起こった 場合についての基線について、現行の国連海洋法条 約の規定を修正し、今後、海面上昇によって低潮線 が後退したとしても現在の基線を凍結・固定しよう とする動きがある。 例えば、林司宣教授は、「沿岸国は、国連海洋法条 約の関連規程に従って設定した基線を、いったんこ れを十分な縮尺の海図に記載し、または地理学的経 緯度の表によって示し、かつこれを適当に公表した 場合には、海面上昇によるその後の当該沿岸または 島の地理的形状の変化にもかかわらず、恒久的なも のと宣言することができる」とする規則案を提唱す る41。そして、このような規則案を作成することは、 海面上昇の被害国に対する影響の減少をもたらすと ともに、その他の国家の既存の権利・権原を侵害し ないという効果をもたらすとして、国際社会に受け 入れられやすいのではないかとする42。 確かに、現在、各国家が有している権利・権原に 影響を与えにくいという点ではこの規則案に一定の 評価を行うことができる。しかし、国際社会におい て、一旦決定された規則の変更が非常に難しい現状 を念頭に置いた場合、この規則案は、今後、世界の 状況が著しく変化した場合であっても、この時代の 現状を固定したまま数十年あるいは数百年間基線が 変更しないという状況を生み出すことも考えられ、 国際法上の衡平概念に抵触するのではないかとの疑 問を生む。 現在、地球環境の変化により海面変動が起こり、 これが国際社会における法に対して影響を及ぼしつ つあることはまぎれもない事実である。本稿では、 デルタ国家という一例を取り上げて考察したが、小 島嶼国や波の浸食による基線減少の問題については まだ考察を行っていない。これらの事例についても 具体的な検討を行うことで、デルタ国家の問題の考 察からは検討できない新たな課題等を見出し、総合
的な検討が可能になるものと考えられる。よって、 これらの課題について検討することを今後の検討点 として提起し、本稿の締めくくりとする。 * 本稿は筆者個人の見解であり、所属する組織の見解ではな いことを附記する。 1 三角州(デルタ)とは、国連海洋・海洋法課では「分散さ れた河口によって囲まれ横切られる堆積してできた土地帯」 と定義されている。United Nations, Office for Ocean Affairs and the Law of the Sea, The Law of the Sea, Baselines: An Examination
of the Relevant Provisions of the United Nations Convention on the Law of the Sea (New York: United Nations, 1989), pp.53-54.
2 Territorial Waters and Maritime Zones Act 1974, Act No.XXVI of
1974. なお、同法は以下にて確認することができる。 http://www.un.org/Depts/los/LEGISLATIONANDTREATIES/PDF FILES/BGD_1974_Act.pdf 参照のこと(2013 年 1 月 17 日確認 済)。
3 Declaration of April 13, 1974, No.LT-I/3/74. cf. United Nations,
Office for Ocean Affairs and the Law of the Sea, The Law of the Sea:
Baselines, National Legislation with Illustrative Maps (New York:
United Nations, 1989), pp.62-63.
4 A/CONF.62/C.2/SR.5. cf. United Nations, Third United Nations
Conference on the Law of the Sea: Official Records, vol.II (New
York: United Nations, 1975), p.109, para.10.
5 Informal Suggestion by Bangladesh (C.2/Informal Meeting/6).
Informal Suggestion by Bangladesh (C.2/Informal Meeting/6/Corr.1). cf. Renate Platzöder comp. and ed., Third United Nations Conference
on the Law of the Sea: Documents, vol.V (Dobbs Ferry; New York:
Oceana Publications, 1984), p.11.
6 J. Ashley Roach and Robert W. Smith, United States Responses to
Excessive Maritime Claims, 2nd ed. (The Hague: Martinus Mijhoff,
1996), pp.134-135.
7 A/CONF.62/SR.104. cf. United Nations, Third United Nations
Conference on the Law of the Sea: Official Records, vol.IX (New
York: United Nations, 1980), p.73, para.54.
8 Id.
9 Letter dated 28 April 1982 from the representative of Bangladesh
to the President of the Conference (A/CONF.62/L.140). cf. United Nations, Third United Nations Conference on the Law of the Sea:
Official Records, vol.XVI (New York: United Nations, 1984),
pp.246-247.
10 Letter dated 30 April 1982 from the representative of India to the
President of the Conference (A/CONF.62/L.148). cf. United Nations,
Third United Nations Conference on the Law of the Sea: Official Records, vol.XVI (New York: United Nations, 1984), pp.254-255.
11 Id., para.2. 12 Id., p.255, para.3. 13 Id., para.4.
14 Letter dated 30 April 1982 from the representative of Burma to the
President of the Conference (A/CONF.62/L.149). cf. United Nations,
Third United Nations Conference on the Law of the Sea: Official Records, vol.XVI (New York: United Nations, 1984), p.255.
15 米国の提案により条約案は記名投票に付されることとなっ
た。
16 航行の自由計画については以下の文献を参照のこと。
George Galdorisi, “The US Freedom of Navigation Program Preserving the Law of the Sea”, Ocean and Coastal Management, vol.25 (1994), pp.179-188. George Galdorisi, “The United States Freedom of Navigation Program: A Bridge for International Compliance with the 1982 United Nations Convention on the Law of the Sea?”, Ocean Development and International Law, vol.27-4 (1996), pp.399-408. George Victor Galdorisi, “Preserving Freedom
of Navigation: U.S. Lessons for the International Community”,
Ocean Yearbook, vol.12 (1996), pp.126-136. George Galdorisi, “An
Operational Perspective on the Law of the Sea”, Ocean Development
and International Law, vol.29-1 (1998), pp.73-84.
17 United States Department of Defense, Secretary of Defense
(William J. Perry), Annual Report to the President and the Congress (Washington D.C.: Department of Defense, 1996), p.I-1. United States Department of Defense, Secretary of Defense (William S. Cohen), Annual Report to the President and the Congress (Washington D.C.: Department of Defense, 1997), p.I-1. United States Department of Defense, Secretary of Defense (William S. Cohen), Annual Report to the President and the Congress (Washington D.C.: Department of Defense, 1998), p.I-1. United States Department of Defense, Secretary of Defense (William S. Cohen), Annual Report to the President and the Congress (Washington D.C.: Department of Defense, 1999), p.I-1. United States Department of Defense, Secretary of Defense (William S. Cohen), Annual Report to the President and the Congress (Washington D.C.: Department of Defense, 2001), p.I-1. United States Department of Defense, Under Secretary of Defense for Policy,
Maritime Claims Reference Manual (DoD 2005.1-M) (2005), p.68.
なお、米国国防総省による上記“Maritime Claims Reference
Manual”は、現在、最新の状況を反映させる作業が行われてい る。バングラデシュによる各海域に対する主張及び米国によ る反応は、以下にて、2013 年4 月現在の状況が反映されてい ることが確認される。 http://www.jag.navy.mil/organization/documents/mcrm/Bangladesh2 013.pdf(2013 年8 月 30 日確認済)。 18 バングラデシュ政府の申請概要は、以下にて確認すること ができる。 http://www.un.org/depts/los/clcs_new/submissions_files/bgd55_11/E xecutive%20summary%20final.pdf(2013 年 8 月 30 日確認済)。
19 Note No.146/03 20 17 dated 31 March 2011, p.2, para.2. cf.
http://www.un.org/depts/los/clcs_new/submissions_files/bgd55_11/ mmr_nv_un_001_08_04_2011.pdf(2013 年 8 月 30 日確認済)。
20 Note PM/NY/443/2/2011 dated 20 June 2011. cf.
http://www.un.org/depts/los/clcs_new/submissions_files/bgd55_11/i nd_nv_un_001_20_06_2011.pdf(2013 年8 月 30 日確認済)。
21 Satya N. Nandan and Shabtai Rosenne eds., United Nations
Convention on the Law of the Sea 1982: A Commentary, vol.II
(Dordrecht; Martinus Nijhoff, 1993), p.101.
22 Ibid.
23 supra note 21, p.101.
24 The Geographer, Office of the Geographer, Directorate for
Functional Research, Bureau of Intelligence and Research, Department of State, United of America, “Straight Baselines: United Arab Republic”, International Boundary Study, Series A, Limits in the
Seas, No.22 (1970), pp.2-5, esp. p.3. なお、同国は、1953 年、王
制を廃止し共和国制へと移行し、1958 年 2 月 17 日、1951 年 の勅令を修正する大統領令を発布したが、実質的な内容は変 更されていない。1958 年大統領令は、以下にて仮訳を確認す ることができる。 http://www.un.org/Depts/los/LEGISLATIONANDTREATIES/PDF FILES/EGY_1958_Decree.pdf(2013 年8 月 30 日確認済)。
25 J. Ashley Roach and Robert W. Smith, United States Responses to
Excessive Maritime Claims, 2nd ed. (The Hague; M. Nijhoff, 1996),
pp.54-55.
26 Ibid. Under Secretary of Defense for Policy, Department of
Defense, Maritime Claims Reference Manual (2005 DoD 2005.1-M) (2005), p.196.
27 Office for Ocean Affairs and the Law of the Sea, United Nations,
Law of the Sea Bulletin, No.16 (1990), pp.5-11. Office of Ocean
Affairs, Bureau of Oceans and International Environmental and Scientific Affairs, United States Department of State, “Straight
Baseline Claims: Albania and Egypt”, Limits in the Seas, No.116 (1994), pp.6-8.
28 supra note 24, pp.85 and 89. Ibid., Limits in the Seas, pp.23-24. 29 Sally J. Cummins and David P. Stewart eds., Digest of United
States Practice in International Law 1991-1999 (Washington D.C.;
International Law Institute, 2005), pp.1580-1582.
30 supra note 26, Limits in the Seas, p.11.
31 supra note 25, Maritime Claims Reference Manual, p.196. 32 The Geographer, Office of the Geographer, Bureau of Intelligence
and Research, Department of State, United of America, “Straight Baselines: Burma”, International Boundary Study, Series A, Limits in
the Seas, No.14 (1970), pp.2-6.
33 Office for Ocean Affairs and the Law of the Sea, United Nations,
The Law of the Sea, Baselines: National Legislation with Illustrative Maps (New York: United Nations, 1989), pp.64-66.
34 supra note 24, pp.123-124. 35 以下にて、米国による抗議及び示威行動の最新の状況を確 認することができる。 http://www.jag.navy.mil/organization/documents/mcrm/Burma2013. pdf(2013 年 8 月 30 日確認済)。 36 Id.
37 supra note 24, p.124, footnote 107.
38 以下にて、ナイジェリア領海法の一部を確認することがで
きる。
http://www.un.org/Depts/los/LEGISLATIONANDTREATIES/PDF FILES/NGA_1998_Decree.pdf(2013 年8 月 30 日確認済)。
39 The Geographer, Bureau of Intelligence and Research of the
Department of State, United of America, “Straight Baselines: Vietnam”, Limits in the Seas, No.99 (1983), pp.3-7.
40 Office of the Special Representative of the Secretary-General for
the Law of the Sea, United Nations, Law of the Sea Bulletin, No.7 (1986), pp.111-112.
41 林司宣、「島の海域と海面上昇」『島嶼研究ジャーナル』2
巻1 号(2012 年)、74-87 頁、とりわけ、84 頁。
42 同上、84-85 頁。