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井上圓了の、「新潟學校第一分校」在学期における洋学修行の背景―「長岡洋学校」の創立をめぐって 利用統計を見る

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井上圓了の、「新潟學校第一分校」在学期における

洋学修行の背景―「長岡洋学校」の創立をめぐって

著者

土田 隆夫

著者別名

tsuchida takao

雑誌名

井上円了センター年報

22

ページ

51-93

発行年

2013-09-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00006298/

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土田隆夫

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5

s

はじめに 井上園了は、明治四十ご年(一九

O

九)七月四日、自らが創立した新潟鯨立長問中事校和同曾創立三十五年記 念祭に際して、﹁更に見る和同舎運新なるを﹂とよろこび、次のような祝詩を寄せた。 ( 1 ) ﹁ 疎 々 消 老 五 十 春 草葬深き処清貧を守る 想ふ長城撃を求むるの日鍾雪嘗め壷す幾苦辛 夢の知し心頭隠見頻なり﹂ ( 原 漢 詩 ) 悠久の花長生の月 この感懐は、三年前の明治三十九年(一九

O

六)十一且、新潟牒立長岡中亭校和同舎発行の﹃和同舎雑誌第 参拾八競﹄に、﹁博士井上園了氏の講演﹂として掲載している追憶談によって具体的にうかがうことができる。 うl井上国了の、「新潟皐校第一分校j在学期における洋学修業の背景

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写真(1) ﹁私は明治十年西南戦争、 即ち彼の西郷の乱の時、 父母の下を去った。即ち此長岡校を僻して他郷に遊 撃致したのである。其れ迄は此の皐校に教育を受け たのであるから、長岡は私の故里、此校は私の揺藍 である、其れ此の郷が何となく懐しく、殊更、貴方 が た の 顔 を 見 る と 、 古が忍ばれるのであります。 ( 原 文 の マ マ ) 明治七年(一八七四)五月五日、長岡洋事校が変 革した新潟事校第一分校に十七歳で入門、入塾した 井上園了は、一年三か月後の明治八年八月には﹁洋 書濁見﹂(洋書を自学習得)して、自身で抄語する程 に 熟 達 し た 。 その成果は、現在、長岡高校記念資料館に収蔵し てある﹁舌耕筆梶田﹂(縦半帳一冊、二十一丁)に筆 録収載の﹁羅馬史表﹂・﹁羅馬略史﹂謹述によって端 的にうかがうことができよう。 本稿では、既刊の﹁年報﹂所載二篇の拙論 ( 2 ) を補 完する意味合いも含めながら、井上園了の、﹁長岡洋

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李 校 ﹂ H 新潟事校第一分校 H ( 現在の新潟県立長岡高等学校)における﹁洋学修業﹂ の背景について考究するこ と と す る 。 再興長岡藩の教育

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)

長岡藩国漢事校の設立 北越戊辰戦争後の明治二年(一八六九)五用、灰撞に帰した長岡城下の東郊において﹁漸近在寺院を雇ひ児輩 ニ素読を伝ひ候次第三主として﹁長岡漢撃校﹂が開校した。 ( 4 ) 四郎丸村の曹洞宗寺院﹁昌福寺﹂を借り受けて、再興長岡藩のリーダーとなった小林庸三郎らの人びとの強い 意欲と努力によって漸く年少の人たちに経書の素読などを習わせる教場が聞かれた。この時期には文武の教場な どを新たに建てるという状況には未だ到底立ち到つてはいなかったのである。 一年後の明治三年六月十五日に漸く教場が建てられて長岡本町の町央、坂之上町二七番地に﹁長岡藩国漢撃 校﹂が開校した。いわゆる﹁米百俵﹂の故事によって伝えられている戦後教育の開始である。。 ﹁長岡藩国漢撃校﹂の設立と整備に係わる費用を大きく担ったのが長岡藩主牧野家を宗家とする支藩三根山藩 の牧野忠泰知藩事家から再興長岡藩牧野忠毅知藩事家に﹁此節之見舞﹂としておくられてきた﹁百俵の米﹂で あ っ た 。 再興長岡藩の当初において大参事であった小林庸三郎の国漢撃校設立の意向を受けた三島億二郎は、三根山藩 到来の﹁百俵の米﹂を換金したおよそ二百七十両のうち、百両を文武両場の費用に充てるため明治三年五月二十 う

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井上園了の、『新潟皐校第一分校J在学期における洋学修業の背景

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二日、藩役所の文武局に出金した。三島億二郎は、戊辰戦争後に長岡藩の公用人として新政府との折衝に当た り、三根山藩の信州伊那郡の内への﹁土地替﹂免除嘆願運動にも奔走していた。三島が助力し、三根山藩の神戸 十郎右衛門をはじめとする三根山藩家中の人々と、領民たちが力を合わせてすすめてきた三根山藩の﹁土地替﹂ 免除の嘆願運動は結局、明治二年十一周頃には三根山藩の若干の減石によって決着をした。そして、同年十二且 四日には遂に新政府から﹁土地替﹂中止の命令が下されていた。 ( 5 ) そして翌年五且には三根山藩知事家から宗 家の長岡藩知事家への﹁窮迫の見舞米﹂として百俵の米が到来した、という状況になった。再興長岡藩にあっ て、長岡藩大参事として長岡の復興への方向付けを担った小林庸三郎の﹁教育立国﹂を目指す理念を承けて、当 時藩政の中心的な担い手であった三島億二郎は出金した百両のうち、二十両ずつを国漢拳校をはじめ、同時に同 ( 漬 武 場 ) ( 洋 学 周 } じ場所に開設した兵事校、武場、医拳校、洋拳校の費用として、配分した。なお、このことを記載した三島億 二郎自筆の﹁午の年五周まんところ日ことの記﹂の明治三年五月二十二日の項の翌日五月二十三日の項に ( 明 抽 三 年 ) は﹁代議人江春回之建議を示す﹂とある。﹁春回﹂とは田中春回を指している。 田中春回は再興長岡藩で知藩事牧野忠毅の侍講を務めていた。藩の医学頭取田中惰道の長子で江戸に出て医術 修業をする傍ら、蘭字者大槻磐漢、昌谷精撲に就いて儒学、漢学、蘭学を学んだ。長岡藩国漢撃校が開校すると 筆頭訓導師となった。国漢事校での教育実践を実際上主導したのは田中春回であった。前掲の﹁春回之建議﹂と は、﹁峰山米代金﹂のうち、配分済みの百両のほかの残りの分の金と、牧野藩知事から下附された二百両の金を ﹁書籍之料﹂と﹁武場道具之料﹂に充てて文武の教育をすすめるように三島に﹁建議﹂したのではないか、と思 わ れ る 。 再興長岡藩(明治元年十二月から三年十月二十二日廃藩までの長岡藩)では、明治二年六月、新たな藩治職制

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によって従来の藩庁の会所を改めて議政局をおいた。議政局のもとで公務局、会計局、民政局、文武局、軍務 局、監察局、内政局などの七局をおいて藩治を分担させた。旧藩の家老にあたる執政には牧野頼母が就き副執政 に三島億二郎が就任した。文武局を統括する文武総督には小林庸三郎が任じられた。 ﹁ 文 武 取 扱 総 督 ﹂ は ﹁ 人 材 ヲ 教 育 シ 文 武 ヲ 振 起 ス ル 等 ノ 庶 務 7 総裁ス﹂との任を帯びて戊辰戦争後の荒廃した長岡城 下において、まず人材を育成することを急務とした教育の振興策を強く推進して行くこととなった。 同二年八月には再び藩治職制が改められて教育の面でも新たな制度が打ち立てられた。 それは、﹁文武事校﹂を総称名として、国漢撃校・洋拳校・兵挙校・小事校から成り、調馬師、珠算教授が附 随するものであった。 ここに、明治三年の長岡藩国漢撃校、明治五年の長岡洋事校の創立へと展開する、再興長岡藩のいわば﹁教育 立国﹂実現へのビジョンと方向付けが明確に示された。 明治二年十月、入札によって三島億二郎、小林庸三郎は再興長岡藩の大参事に公選され、牧野頼母と共に十一 月八日の太政官任命辞令によって正式に任命された。翌三年十月、長岡藩が廃藩によって柏崎県の管轄下に入る 迄、約一年間は三島、小林が再興長岡藩の首脳として藩の要職にあって戦後の藩内窮状の打開に当たった。その ため、土族・卒族の速やかな帰農・帰商を督する藩内改革が行われ、明治三年七月には大参事、少参事の役職は 入札(公選)によって人心を一新し、改革に当たることとなった。入札の結果、牧野頼母と共に三島億二郎が大 参事に選ばれ、小林庸三郎は少参事に選ばれた。この頃、二九歳であった安政三年(一八五六)春以来、宿痢の 病患に悩まされていた小林庸三郎は難決の身ながらも、明治三年十一月、柏崎県庁から﹁事校井演武場掛リ申付 候事﹂としての辞令を受け開校間もない長岡藩国漢撃校の教育に力を尽くしていった。しかし、翌四年七月八日 ラ ラ 井上倒了の、「新潟事校摺一分校j在学期における洋学修葉町背景

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には柏崎県庁から﹁病気ニ付再三顧之趣無齢義当問、別紙之通ニ職務差免候条、精々加療養可申事﹂との辞令書 を受け取った。八月、療養のため東京に旅立ち、後、弟小林雄七郎の許に身を寄せた。同月、旧長岡藩国漢撃校 も相崎県の管轄になり、国漢撃校の名称は消滅して柏崎県長岡分量と改称した。翌五年八月からは長岡町の町方 の学校と合併し、土族・平民の子弟が一緒に学ぶ学校となった。さらに二年後の明治七年八月には長岡町組学校 とも分離して明治新政府の学校制度の確立による公立の小学校へとかわってゆき、﹁阪之上校﹂(現在の長岡市立 阪之上小学校の前身校)につながって行ったのである。 ( 6 ) 長岡藩国漢撃校の教育 明治初年の文明開化の風潮のなかで欧米の近代的な学問、科学技術や近代的な思想の潮流がたかまり、柏崎県 の管轄下に入った長岡でも洋学勃興の気運が促された。とりわけ廃藩後、相崎県大参事に任じられ貫層鯛頭とし て長岡の再生に努力を傾注していた三島億二郎は、洋学教育の必要性を痛感していた。その磐には億二郎と呼吸 が合い、長岡復興への方向付けを担っていた小林庸三郎の示唆と進言があった。 小林庸三郎は幕末、江戸でその門に学んだ師、佐久間象山に宛てた安政五年(一八五八)九月七日付の書信の 中で、﹁前日洋書を読み一詩を得候﹂として﹁洋儒窮物理軌近益精明﹂との詩を詠じている。そして同年秋か ら翌六年の春にかけて著わした論稿﹁興学私議﹂のなかで、当時江戸にあった﹁大学・武学・蕃書院﹂のいわゆ る﹁三学の制﹂を、理想として考える学校制度として論じている。 ( 7 ) ﹁蕃書院﹂は外国語や洋学を教授する学校 である。かねてから小林庸三郎は、プロシアリドイツの学校制度をはじめとして、オランダ、フランスなど当時 のヨーロッパ各国の学制に倣い、いわば現代の総合大学のような学校を理想的な学校教育のビジョンとして考え

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て い た 。 つまり、庸三郎の教育思想の基盤には、東洋文明を支える精神性と、西洋文明を特色づける科学・技術 という﹁枠﹂を離れて とを合わせたような﹁世界文明﹂ の発展を理想とする考え方があった。﹁藩﹂ ﹁ 日 本 ﹂ と いう﹁国家﹂全体の発展を考えていた。﹁広く世界の中の日本の行手﹂を想見し世界文明の発展の流れからいわ ば置き去りにされないような日本と日本人の進展・進歩を図って行こうとするものの考え方が潜熟していた、と そして、席三郎は理想として描く﹁三学の制﹂のような学校制度をまず整えて、ひろ ﹁ 強 民 強 国 之 基 ﹂ ( ﹁ 醜 刊 徳 国 学 校 論 客 いえるのではなかろうか。 く ﹁ 国 民 教 育 ﹂ の制度を打ち立てて行くことこそ、 序﹂)と考えていたの で あ る 。 なお、推論すれば、明治三年六月十五日に開校した﹁長岡藩国漢事校﹂ は、﹁国民教育﹂を目指す新たな学校 としての意味合いからもそれまでの ﹁ 長 岡 漢 撃 校 ﹂ の校名に、庸三郎のいう﹁国民教育﹂ ﹁ 国 ﹂ の文字を加え の るという意図も含めて ﹁長岡藩国漢撃校﹂をその名称としたのではないか、 と 考 え る 。 土 品 れ 九 、 その教授法でも﹁輪講﹂を奨励した、 という。それは藩聾崇徳館以来の、生徒聞の解釈を比較させ、意 見を交換させて学習を昂めさせて行くという教授方法を受け継いでおり活発な授業が展開した。 かつて自らも藩費崇徳館で学び、幕末に自身も崇徳館で助教を務めた田中春回は崇徳館の課題として出された ﹁ 学 問 に 本 来 あ る の 記 ﹂ で次のような論旨で論述している。 ﹁学問の道は広がりを持ち、深遠であってまた決して平坦ではない。そしてその本質は真理の探求を目指し て誠心誠意努力することにある。そうでなければいかに学識が該博で名文を書くことができるような手腕が あったとしてもそれは虚しく上辺だけのものに過ぎない。物事の本質を明らかにして実生活に役立つように う

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井上川了の、「朝?潟事校第一廿校j在学期における沖字情輩出背1;t

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心掛けることこそ肝要である。 このような論旨は、長岡藩の藩初からの﹁実学主義﹂に立脚するものであった。 長岡藩は、元和四年(一六一八)四月、三河以来の譜代牧野氏の青、藩祖牧野忠成が長岡に入府して成立し た。そして藩政の基盤を固めた第三代藩主牧野忠辰以来、幕府が文教振興の中心的な軸に据えた倫理・秩序重視 の朱子学よりも、日常生活における規範と有用な思考を重んじた学問的方向性と教育の方策とを執ってきた。 文化五年(一八

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八)四月開鑑の藩の学館(藩費)崇徳館における古義学派の学問の推進と教授はまさにそれ が開花したものであった。さらに、幕末に至って藩の医学頭取であった春回の父、田中修道は、藩主に建白して 嘉永六年(一八五三)十二且に藩の医学塾済世館を開校した。済世館は土・民の子弟を問わず藩内の医術志望の 者たちを教育する学塾であった。まさに、藩土のほか、町人・農民らにも教育の道を聞いたのは修道の達見であ り、先進的な教育実践のさきがけであったとされている。維新後の長岡藩国漢撃校において﹁洋皐生徒﹂を除い て士族・平民の別なく入学させるという近代的な国民教育の基盤になった、といえよう。 長岡藩国漢拳校の設立に際して、その理念と、再興長岡藩独自での英才教育を目指す教育観は、小林席三郎の 確固とした考えと、それを受け継ぐ三島億二郎の教育実践によって展開して行った。 洋学教育の推進 三島億二郎は前述のとおり、小林庸三郎と共に再興長岡藩で大参事となった。明治三年十周の廃藩後は相崎県 大参事に任じられた。また﹁貫層鯛頭﹂として長岡の再生に努力を傾注した。そのようななかで、小林庸三郎の

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意を承けた三島は自らも洋学教育の必要性と重要さを自らも痛感して新たに洋事校の設立を企図した。 小林庸三郎は戦後問もない明治二年一月に三島に宛てた書簡の中でいち早く長岡の戦後の教育の大切さを認識 して次のように記している。 ︹ 修 者 註 ・ 秩 国 外 記 ・ 旧 名 花 鎗 求 蝿 } ﹁学政御更張之儀ニ付、書籍必用之品々書立差上候様被伸問、是ハ旧鵬、秋田参政迄差上申候。 ( 筆 者 註 ・ 旧 名 村 松 忠 抽 右 葡 門 ) ( 筆 者 註 ・ 参 政 は 旧 奉 行 職 に 相 当 } 向も調査候様被仰聞、拝承。此も草野参政より被申聞候事ニ付、何れ其内大略書立差出し可申心得ニ御座 猶 又 、 其 趣 イ 戻 ( 8 ) ﹂ 明治二年五月に藩庁に議政局が置かれ﹁藩治職制﹂ の更改が行われる以前、即ち庸三郎が﹁文武総督﹂として 人材育成に取掛かる以前から既に戦後教育のビジョンを描きその準備に着手していたことがうかがえる。 ( 筆 者 註 ・ 明 治 元 年 十 二 月 十 -目 、 実 際 は 九 日 ) なお、この書簡の末尾には、次のように追記している。﹁鵜殿氏、去蹴十一日物故、御同事哀惜之至、旧友零 落凄然、感嘆を起すを不覚事ニ候。(中略)別して気之毒之事ニ御座候﹂。即ち、幕末に蕃書調所教授に登用され て幕臣となった長岡藩士鵜殿圏次郎(号春風)の夫折を深く悼んで三島にその気持ちを伝えている。藩聾崇徳館 でともに都講伊藤東巌に就いて古義学を学んでのち洋学を修め、また戊辰戦争に際しても同じく非戦論を唱え た春風の三八歳での病没を惜しむ庸三郎の心情と感懐を如実に物語っている。幕臣勝海舟の推挙によって幕府の 目付役をも務めた春風は洋学に通じ、殊に数学では﹁当代の泰斗﹂とされた。洋学の振興を企図する庸三郎と三 島にとってはその矢先においてまさに大きな衝撃であった、と推察される。 前述のとおり、明治二年十一周八日、牧野頼母、三島億二郎とともに再興長岡藩の大参事に任命された席三郎 う

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井上町田、「新満開第一分校」在学期における洋芋修恥背景

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は、この日付けで当時在京していた弟小林雄七郎宛に出した書簡には官頭に次のように記している。 ︹ 筆 者 註 ・ 再 興 長 岡 藩 の 藩 庁 韓 体 ) ﹁ ( 前 略 ) 某 も 先 づ 寒 気 に も 障 り 不 申 、 時 に 一 時 斗 り づ っ 、 政 事 堂 へ 出 席 候 位 に 候 問 、 御 降 慮 可 被 下 候 。 本藩極々困迫を窮め、士族の内にも、粥を三度づつもすすりかね候者も有之候仕合、親類中にて栂野氏杯 窮苦甚し。粥而巴と被居候。土族等の養ひは、如此にして、又公廓費用も甚だ不足故、文教武備政治更に知 ︿ 筆 者 註 ・ 明 拾 三 年 六 月 十 五 日 開 校 ゆ 畳 間 藩 国 漢 学 校 の 建 設 計 画 が 成 就 す る 見 込 み ) ( 掲 ) ( 筆 者 註 ・ ア メ 何ともすべからず。漸く来春漢学校を建候図りに到候位の事にて遺憾千万に候。(中略)但、新片にて米利幹 リ カ 人 サ ム エ ル ・ ロ リ ン ・ ブ ラ ウ ン } 人 フ ラ

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ンとか申者御雇入にて、洋学校教授被仰付、既に当朔日より閉症に候。是は先づ宜しき事に候。(下略) 子 英 賢吉霜 弟草月 本八

術 七 男 林 雄 七 郎 席 硯 北 ( 9 ) ﹁寒冷の候に至ったこのころも小林庸三郎は病苦を推して毎日一時ばかり(約二時間)ずつ政事堂へ出勤して 藩の政務について執務していた﹂庸三郎は、この頃の藩内の﹁困迫﹂のようすについて、﹁士族のなかにも一日 に粥を三度ずつもすすりかねているような者がいるような状況である﹂と述べている。そのような困窮のさなか にあっても藩の文教政策の推進についての努力を営々として続けていた。そして、この書簡が書かれた明治二年 の秋、十一月ごろには、翌年六月十五日に開校した長岡藩国漢撃校の新築、開校のビジョンが青写真として庸三 郎の胸中には既にできあがりつつあった。

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四月五日には、東北諸藩、府・県においても他地方に倣って学校を設置するように努める こととする、という新政府からの令違があったので学校の設置について一層促進されていった、と考えられる。 な お 、 こ の 年 の 春 、 そして庸三郎が文末に記していることが殊に注目される。 新潟でのグ洋事校の開鑑 H が十一月一日に既に行われていたことを挙げ、グ固定は先づ宜しき事に候 0 4 と感懐を も付している結びの文節である。 明治元年秋、新潟で開港事務が開始されてから新潟港は急に活気に溢れた。そこで、当時の越後府または新潟 県の首脳の人びとは新政府の中央の意向をも踏まえて新潟英拳校(語拳所)の開設を企図した。それは外国人を 招請して外国事情や外国語を習得することの必要性を痛感するようになったことからであった。 そこで庸三郎の書簡に記されている﹁米利幹人フラ

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ンとか申者御雇入にて﹂とある外国人教師は、﹁アメリ カ 人 サ ム エ ル ・ ロ リ ン ・ ブ ラ ウ ン ( ∞ ・ 戸 田

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﹂であったと考えられる。それは 婿ラウダ!という人物が当時、新潟駐在の英国臨時領事をしており、その推薦によって新潟英拳校の教師に招聴 されたものと思われる。同行者に彼の妻と、﹁ミス・メリ

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﹂という若い女 性がいた、とされる。明治二年十月二十六日頃に新潟に到着したといわれていることからすると、庸三郎の情報 キャッチのすばやさには驚嘆させられる。新潟英拳校、語事所は当時通称とされた校名であって、やがて正式に ﹁洋拳校﹂の校名が用いられている。その点も、既にこの書簡では﹁洋学校教授被仰付﹂と記している庸三郎の 先 見 が 注 目 さ れ る 。 ﹁ ブ ラ ウ ン ﹂ の 女 の同伴来日は、﹁本県女子洋学教育の最初をもたらした﹂とされている。而) 後年になって、﹁長岡洋事校﹂が﹁私立長岡事校﹂に改編された翌年の明治二十年(一八八七)には四月一日 な お 、 ﹁ キ ダ

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﹂ 61井上回了の、f新潟挙校第一分校j在学期における洋学修業の背景

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から十周までの半年間に、同校に﹁鈴課生﹂として女子七人が入学していた。当時としては開明的な学校運営の 淵源はこのあたりから発しているのかも知れない。当時、長岡では、キリスト教主義の新潟の学校 H ﹁ 北 越 事 館﹂と﹁私立長岡事校﹂とが合併したらどうか、という案も持ちあがっていた。 小林庸三郎は戊辰戦争後、再興長岡藩の成立直後から長岡における﹁洋学教育の必要性﹂を重く考えており、 ﹁新潟での洋事校設立﹂のうごきをはやくから注視していたから、前掲﹁弟雄七郎宛書簡﹂のなかで率直にしか もすばやくその企図と心情を吐露したものと考えられる。 小林庸三郎は既に明治二年の春頃から長岡での洋事校開設への懐いを込めて具体策を胸中に秘めていたようで ある。同年二用から三月にかけて新政府への﹁三根山藩の土地替免除嘆願運動﹂を続けて東京から京都へ奔走し ていた三島億二郎宛の書簡によってそのことが推察される。明治二年三月十八日付け三島宛庸三郎の書簡の文中 にそのことがうかがえる。 一 「 子楽仁兄梧下 合 一 島 瞳 二 郎 ) 十八日 ( 三 且 十 八 日 ) 晩春 席 再 拝 ﹂ と文末に記した書簡の一部を掲げておこう。 ﹁ ( 前 略 ) ﹁ 郡 県 論 起 り 坂、西諸藩事に着眼早さには感心いたし候、併是は所謂太早計に可有之被存候。 ︹ 大 坂 ) ( 西 南 ) ( は な は だ } 愚見大略は秋田殿へ申遣し置候。本藩の事浩歎の外無御座候。藤野善臓も御暇願差出し候。私へも相談いた ( 秋 田 外 記 )

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し候へ共、善臓申処、大義を不失候故、強て止むる事仕ず候。此方の政府は決し難く、尊兄等へ問合の ( 畏 聞 の 帯 方 ) 由、如何御決しに相成候哉。何れにも尊兄の御帰来を待居申候。色々申上度件も候へ共、後鴻に付し閣筆仕 ( 鋼 } 候 。 時 下 折 角 御 多 愛 所 祈 に 御 座 候 。 不 宣 。 ﹂ ( 傍 註 ・ 筆 者 ) ( 長 岡 高 校 記 念 資 料 館 所 蔵 文 書 ) この書簡の官頭で、小林庸三郎は二月二十六日に庸三郎の母久が死去した際、三島の病中見舞と見舞の品を拝 領したことについて﹁御深志﹂を深く謝している。そして庸三郎は藩士族の藤野善臓を慶臆義塾に入塾(入社) させて福津諭吉のもとで英学を修めさせたのち、長岡に招請しようとする企図を三島に明かしている。 藤野善離は明治五年(一八七二)十一周二十三日に三島億二郎が創立した長岡洋事校の草創期に、慶慮義塾の 塾頭格から三島によって招請され、英学教師として来任し初期の英学教育を担った人物である。その来任に際 し、三島は藤野善蔵を﹁年分金千四百四拾園ニ雇入﹂れた。つまり、且百二十園の給金で当時の一般の教師の平 均的な給金の三十六倍以上とされる破格の待遇によって開校したばかりの長岡洋事校の英学教育を﹁悉皆﹂させ た。この待遇については藤野は来任に際してが心苦しい d との意向を表明している。 この三島宛の庸三郎の文面からは、藤野善識はこのとき既に庸三郎の誘いに応じて慶慮義塾への入社の決意を 固め、長聞を離れるため再興長岡藩の藩庁に﹁御暇願﹂を差出していたことがわかる。しかし藤野は北越戊辰戦 争直後の困窮の極にあった長岡の地を離れることは内心では恒慌たる思いがあって慎悩し、庸三郎にも﹁相談﹂ していたことが察せられる。庸三郎としては藤野のそのような心情はよくわかり、人としての﹁大義﹂を失わな いようにしたい、という藤野自身の考えは尤もなことであることから、藤野のそのような思いを強いて抑止する ようなことは適当ではない、と自分も考える。また、藩庁でもそれを決めることはでき兼ねておりひたすら三島 63井上回了の、「新潟鞘第一分校J在学期における洋学修輩の背景

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殿の意向を待っている、という状況である。 したがって三島殿にはこの決着をどのようにおつけになるお積りか をうかがいたい、という思いでいる。何れにしても三島殿の帰来を待って決めたい、と結んでいる。 結果として、藤野善臓は後述するように明治二年五月十九日に慶臆義塾に入社している。 この書簡の趣意から、洋拳校設立の企図は小林庸三郎のビジョンから発し、その実践と遂行に三島億二郎が大 きく関わっていたと理解することができる。要するに、長岡洋皐校の設立は小林席三郎と三島億二郎との二人三 脚で進められていったのである。 先学多田建次氏は、三島億二郎のこのような﹁洋事校設立・洋事教育の推進﹂の実践と遂行について先見的な 論説で的確に喝破しておられる。その要旨について多田氏の論稿を抄出して掲げさせていただこう。 ﹁彼は(三島億二郎は)自己に課された責務を決して回避することなく、従客として遂行する武士的モラル をバックボーンに、象山、海舟、諭吉(福津諭吉)らとのたび重なる交流や、あるいは自ら修めた蘭学を通 して得た開明的識見を備えた人物であったといえよう。単なる政治家であるばかりでなく、時勢の動きに敏 な実業家の才覚をもあわせ持っている。 まさに正鵠を得た適切な﹁三島億二郎評﹂ であるといえよう。 さらに、同氏は ﹁ところで、三島と福津とは、 い つ 頃 か ら 、 どのような経緯によって、親交を重ねるように なったのであろうか。はっきりしたことはわかっていない。﹂としておられる。明治二年十月頃からではないか、 ともしておられるが、筆者はそれより早く、明治二年五月頃には既に三島は福津とかなり深い交友を持ってい

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た 、 と 推 定 す る 。 ﹃慶臆義塾入社帳第こには、同年五且十九日に長岡藩士族藤野善蔵が慶慮義塾に二十三歳で入社したこと が見える。そして、既述のように、三島が三根山藩の﹁土地替﹂免除嘆願運動のために﹁西上北帰﹂していた明 治二年五月二十五日の昼頃に、新銭座にあった﹁福津之塾﹂に来遊した。そして既に入塾していた藤野善識を訪 ね、長子徳識も伴って三人で会食をしている。この後、長子三島徳臓は同年八月十二日に藤野が﹁入塾謹人﹂と なって入社している(前掲﹃入社帳﹄に拠る)。なお、三島はこの日の﹁日誌﹂には﹁新銭座塾生百二十余人と 云﹂と、当時の慶慮義塾の盛況振りを記している。 同年十一月二日には小林庸三郎の弟、小林寛六郎(小林又兵衛の六男、明治十年の西南戦争の際病没)が二十 七 歳 で 入 社 し て い る 。 小林寛六郎の入塾保誼人には庸三郎の名は記されていないが、﹃入社帳﹄の同人の父または兄の欄には 席三郎弟﹂と明確に記されているから、前述のように、明治二年春頃から長岡における洋学教育の必要性を唱え ていた席三郎と福津との接点が既にはやくから在ったことが考えられる。 ﹃入社帳﹄によれば、明治三年間十月六日には藩知事であった牧野忠毅(﹁第十三代藩主﹂牧野鋭橘)が洋学修 ﹁ 小 林 業のため十二歳で入塾している。 これに先立つ十月二十二日、再興長岡藩は既に廃藩となり、相崎県に合併されていた。 牧野忠毅にかわって旧藩内をまとめ本腰を入れて士族授産を図り、士族・卒の帰農商をすすめて行こうとした のは先代の藩主﹁第十二代﹂牧野忠訓であった。そこで同年間十月、忠訓より旧藩士・卒宛に、いわゆる﹁従四 位様御直書﹂が示達された。これによって士・卒への授産・帰農商の督励がなされた。しかし、旧藩士族・卒 6う井上回了の、「新潟事根第一分校J在学期における洋学修輩の背量

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のなかには、帰農商は実質的に士族身分の剥奪を意味するものとして激しい抵抗感を示す人たちもいた。このよ うな旧藩士・卒の人たちの懸念の空気を察知してか ﹁御直書﹂は次のことばで結んでいる。 ﹁呉々も従五位、他事成業の後、鴻恩之高一奉報候様為致度、随而士卒一同ニも一際奮励いたし、農商 ( 牧 野 忠 毅 ) 之事を努、齢カニハ学芸講習等人間之務意得候様致度、なホ今日皇国之御為勤皇之微志、此外他事無之候。 一同ニも此我等之衷情を憧し奮習を脱し、同心裁力我等之漸志を達し候様調勉強候儀、厚く頼入候事。﹂ ( 川 端 一 克 I 大島都 J W 情 ) この牧野忠訓の﹁御直書﹂に﹁元大参事﹂も補記して次のように督励している。要旨を記しておこう。 ﹁この御懇篤な従四位様(忠訓公)からの御直書の御意向を身に体しその御趣旨をよく理解して御趣意を空 虚なものにしないよう士族・卒の各自が心がけて行くことこそ肝要である。﹂ こ の ﹁ 元 大 参 事 ﹂ は 三 島 億 二 郎 で あ る 、 と思われる。さらに﹁元大参事﹂による、補記は次のように続いてい る ﹁農商之事を努、齢力ニハ学芸講習等人間之務意得候様致度、﹂との忠訓公のお言葉はこれまでの、士農工 商の身分制度に立脚した封建社会の生活状況のなかでは到底考えられないことであるかも知れない。 しかし、海外諸国のどんな固でも先祖代々の俸禄を得て安住しているような土・卒は全く見られない。国

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家有用の人物は皆農工商の業に励んでいた人びとのなかから余暇に学芸に励んで身を立てて行ったのであ る それゆえ、十分の俸禄を得なければ何も勉学や修行ができないという道理は決してないはずである。した がって、土・卒たちも帰農商をすれば身体も強健となり、志気も勇鋭になって学芸も成就し易くなるもの だ、ということをよく認識する必要がある。 要するに、土・卒はすみやかに帰農商をすすめてその暮らし向きを安定させ、その子弟たちには余裕を与 えて学芸に励ませるようにすればよい。当座の暮らしは少々苦しくても将来的には、十分の俸様をいただい て安住の暮らしに甘んじていた時よりもかえって暮らし向きは楽になり、学芸も進展して行くことであろう。﹂ 前述のように、明治三年十月二十二日の再興長岡藩廃藩によって柏崎県の管轄下に入り、三島は﹁貫層燭頭﹂ に就き旧藩を代表する立場となった。そして自らは固辞するも容れられず﹁柏崎県大参事﹂に徴召されてその任 に 当 た っ た 。 旧藩内の困窮した窮状の打開を図り起死回生策を講ずるという一大責務を担った三島はまず新政府の行政官に 意向をうかがい、所管の大購省に財政的な救済措置を嘆願して行った。これに対して大蔵省は三島に、長岡の実 情をなおよく見て申し出よ、となかぱ叱責するような態度であった。苦摂にみちた三島はそれでもなお、自身の 弁明はさておいて、長岡の救済をひたすら願う嘆願書を継続して大蔵省に幾度か提出して行った。 袖裏書に﹁大臓改定之分反古﹂と記してある明治三年十一月に書いたと推定される三島の大蔵省への再度 の嘆願書の草案には官頭に次のような書き出しで、大臓省からの﹁再調査﹂指示の措置に対し強い語調で敢然と 67井 上 町 の 、 「 欄 開 第 一 分 校J在学期における洋学修業の背景

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長岡の実情を述べている。 ﹁元長岡藩士族卒帰農商等取計之儀ニ付、件々奉伺候処、猶実地検査之上可申出旨被仰問、今般帰瞬之上、 右士族卒情実猶又取調、取上、一同貫層ニ被差置被下度旨、願出、於御嘗地兼而存込候とハ事実相達、殆ン ト 嘗 惑 仕 候 。 新政府は救援を求める長岡の人びとに対して、士族・卒がすみやかに帰農商をすすめることが先ず以て欠かせ ない要件である、としていた。しかし、現実には旧藩内での士族・卒の帰農商はなかなか思うようにはすすんで 行かないのが実情であった。 三島はこの﹁大蔵省への嘆願書のなかで、﹁且又士族卒之中帰農商等取計之為メ御貸渡相成候十寓両 ハ御仁慈之程難有奉感銘候儀御座候。﹂として新政府からの取敢えずの十高両の貸渡しについて謝意を表しなが らも、苦悩しながら嘆願書の成文案を起草している姿がその墨抹修正の跡からまざノ¥と偲ばれる。 この﹁大蔵省への嘆願書草案﹂による三島億二郎の考え方の根底には次のようなことがあった。 草 案 ﹂ ﹁まず、士族・卒の帰農商をすすめるからには、帰農商をしても直ぐには何をしてよいかわからないために ただ手を挟いて他人の様子を見ているような者がいないようにしたいと思う。ところが、只今のところでは 戊辰戦争後の荒廃した城下ゆえに、老人や子供、女子たちが多くて、壮年の男が少ないために、農商の業に 新たに従事し生業としてしっかりと身につけて行くことができるような者たちが意外に少ない。このような

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実情はたいへん心配である。 したがって現時点では、人びとの叡智や見識が次第に養われて行き、向上して行くなかで漸次に帰農商の 方向を定めて行くことを必要とするのではないか。 そして今はそのようなことを真剣に考え、実行して行く べ き で は な か ろ う か 。 このような、提言も踏まえての三島の大蔵省への嘆願書の草案がこのとおりに実際に大蔵省に提出されたのか この草案の末尾に記して、﹁又今般帰農商願出候者若干、卒若干之処置方は追 と、しっかりと結んだ三島の気概を今もひしひしと感じ取ることができ どうかはわからない。けれども、 而可奉伺、是亦御聞置被下度候。﹂ る

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帰農商をこのように実行して行こうとする三島億二郎の考え方として、根本的に三島は自身では、﹁農・商・ 事務﹂についてどのように考えていたのであろうか。 三島自筆の﹁覚書﹂によってそれを探ってみよう。 ﹁覚書﹂の文言からして、おそらく三島億二郎が幼主牧野忠毅に対して としての意義を言上するために草したものと推定される。 の冒頭には、﹁然して猶齢暇あらば原書ニ就て御研究なさるべし﹂ ﹁ 農 ﹂ ﹁ 商 ﹂ ﹁ 事 務 ﹂ の今後における ﹁ 生 業 ﹂ という丁重な添書があること こ の ﹁ 覚 書 ﹂ から、三島が慶麿義塾に入塾中の幼主牧野忠毅に対してその勉学を促すためにも草したものと考えられる。 ﹁ 農 ﹂ と ﹁ 商 ﹂ の項は要旨を抄出して掲げておこう。 の項に就いての記述はその全文を、﹁事務﹂

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井川了の、「新潟挙校第一分校J在学期における沖学悼業の1ftt

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甲ハ農事の実際ニ通暁し乙ハ之ニ反ス若しこの両人をして農皐を研究せしめんニ蓋し 甲一年の学問ハ乙三五年の拳問ニ封すべし此理を以て推せば縦ひ早晩御遊拳之御思召ありましでも今直ち に御遊撃あると、数年農事御経験之上ニて御遊撃あるとは時と金との損益僅少ならざる事と思わる ﹁今甲乙の二人あり 商 商ハ野生の好む所ニあらず且つ土地の模様ヲ知らざれパ確乎たる見込なし尤算術記簿法等ハ何事ニ も幾分か有用のものなれパ之を学ぶハ勿論可なり又活計の為ニ銀行なり拳校なり其他の舎社なり書記舎計 等の事務御取扱之分ハ喜も異論なし 事務 事務ハ世人の空ニ重ずる所ニして其意味極て暖昧たり今野生の愚考ニては事務をよく/¥解剖すれパ全く 二元素より成立つものと思わる、其一ハ人ニ接するの部分とし一ハ真の仕事ヲ為すの部分とす或ハ一を無 形之部分一を有形之部分と称するも可なり有形之部分を為すニは先ッ巧ニ全龍之趣向を立て着手之順序を 誤らず善く其事ニ熟し心ニ先チテ手足先ッ動くと云ヘルまで老錬する者を最上なりとすされども是等の事ハ世 人の所謂事務と唱ふる事ニのみ限るニあらず(中略)無形之部分とは贋く人ュ接し事ニ嘗リ幾多の年月を積み 思わず知らず言語容貞坐作進退等各其宜を得て自然ュ人 z 愛敬せ(ら)れ或ハ畏服せられ或ハ信用せられ随 て其説も行れ易く其事務も挙り易く如何ニも有用之人物らしく見ゆる等の有様を云ふものなりこの部分ニ 至ては之を拳ぽんとするも定りたる撃科なく之を得んとするも固有之法則なし唯慶く拳聞を為し慶く人ニ 接し物ニ接して自然ニ之を得るの外道なかるべし然はこの無形の事を得んが為ニ生涯の目的ニもあらざる事 務ニ入らんと欲し或ハ之を拳ぷニ定まりたる事科ある様ニ心得るは蓋し大なる誤なるべし 且ツ此無形の事と

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ても平生の注意よろしければ態々所謂事務ニ入らずとも全く得難きに非ず父母兄妹ニ接し朋友親戚一一交る等 畢寛事務を重んずるの過度なる(は)政府を重んずる 総て彼無形の事を同学得るの好機舎ニあらざるはなし の曹習より生ジ来るものなるべし 然れども他の生業よりも事務一一適嘗せるか或ハ之を好むか或ハ活計の為或ハ土地便宜の為等ニて事務を為 すハ困より不可なし 唯 世 俗 の 常 言 ニ ﹁事務を解せざる者は迂遠ニしでもの﹀用ニ立ち難し﹄との言ニ惑され差嘗り事務ニ入るの要 用なくして態々之ニ入るが如きハ不都合なりと云ふのみ

( マ マ ) ( キ ニ ー ネ ) 事問謹書の大切なるは勿論なれとも食物の淳滞ニ下剤を用ひ糠病ニ﹁キナイニ﹂を用ゆるが如き即功ある 蓋 し 平 生 事 物 ニ 接 す る 毎 一 -よ く 之 -一 注 意 し 何 事 を も 勿 一 -看 過 せ ざ る ハ 最 大 の 学 問 な る べ し ものハこれなり '-( 日 ) 右のような三島億二郎の ﹁農﹂・﹁商﹂・﹁事務﹂についての基本的な思考と実践に向けての方向性は次の諸点に 要 約 さ れ よ う 。 ①﹁農﹂・﹁商﹂については、旧藩の ﹁藩初﹂以来の学問的方向性と古義学派の学聞の伝統とを踏まえた考え方 がここに具現されている。 つまり、既述のように﹁有用な思考を重んじた所謂﹁実学主義﹂と実証的な学問 を探究しようとする姿勢とを以て三島の ﹁ 農 ﹂ ・ ﹁ 商 ﹂ 観 、 ﹁帰農商﹂についての根本的な考え方が ひいては 感 得 さ れ る 。

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1

弁上国了の、I新謁事校第 分校I在学期における洋学修業の背量

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②﹁事務﹂について三島は生業における処世観、対人論のあり方を論じているのがその根底にある。いわば、 一般的教養を重視して現代における﹁営業者﹂の心構えを説いたものと解される。 ③この﹁覚書﹂が書かれた年代は不明ではあるが、ここに見られる三島の学問修業についての基本的な考え方 は戊辰戦争後の変革期に発したものである。いわば近代長岡の﹁教育立国﹂に向けての三島の教育観と教育 実践への方途を指し示したものといえる。 三島億二郎は前掲の﹁覚書﹂に記したような社会観、教育観に立脚して洋学教育の推進を図って行った。 長岡漢撃校・長岡藩国漢撃校における洋学教育への開明的な努力 明治二年五月に開校した長岡漢撃校と翌年六月十五日に開校した長岡藩国漢事校において、三島億二郎は﹁洋 学生徒﹂を募り、具体的に洋学教育をすすめて行こうとしていた。 三島家文書の億二郎自筆の﹁覚書﹂(叫)にそのことが残されている。明治二年

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明治四年当初における億二郎 の﹁洋学教育﹂推進の意気込みが感じられる。 左記にその全容を掲げておきたい。

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主事 引事官内洋学 圭島近.何回一人 一等句讃師 人 四 人 人 二等句讃師 人

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午空白己主 年草剤年号 II].J 明 治 │ 治 支語洋

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支主 那)皐│那) 亭 生 │ 学 生 倒 生 徒 宮徒 三百 十 /、 人 句讃師心得洋学 〆十三人 午 年 洋 周 子 生 徒 二 人 百七十五人 コ 一 十 五 人 { 犠 者 住 ・ 明 治 二 年 ) 去一昨巳年更ニ取立候小向学校教員 給し来候 井生徒之数如此御座候 但屋宇之修補井校中諸器械に至迄之 料 ハ 此 外 一 一 御 座 候 辛主 未註 十喜 一」年 月) 費用ハ一ヶ年凡千両程 以 上 長岡小学校 73井上幽了の、I新潟事校第一分校I在学期における洋学修業の背景

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( 端 裏 書 ) 分市中

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更首 小 生 費 生 午日 年 雨間 徒数 表徒 教 員 生 徒 用 費 取 調 室巨ヨ

枚 枚 枚 枚 既述のように、明治二年五月開校の﹁長岡漢挙校﹂を先駆として明治三年六月十五日から開校していた再興長 岡藩の﹁国漢撃校﹂は、翌明治四年八月に﹁柏崎勝長岡分聾﹂と改称して相崎勝の管轄となった。さらに翌五年 八月には﹁長岡町組事校﹂と合併し、二年後の明治七年八月には﹁長岡町組事校﹂とも分離して﹁新潟勝第三中 学区公立二十番小拳阪之上校﹂となった。﹁長岡藩国漢皐校﹂は、系譜的には明治新政府による学校制度の確立 にともなって公立の小学校へと代わって行き﹁阪之上校﹂(現在の長岡市立阪之上小学校)につながった。 右に記した﹁三島億二郎覚書﹂は、﹁長岡漢撃校﹂以来、﹁長岡藩国漢拳校﹂が﹁阪之上校﹂に代るに際して一ニ 島億二郎がその教員ならびに生徒数について、何等かの必要性があって﹁書き出し﹂た下書きとしての覚えであ ろう。したがって、三島自身の構想をも含めた明治二年から四年にかけての﹁学校整備﹂についての基本史料と し て 理 解 さ れ る 。

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なお、この﹁覚書﹂を補完するような史料として次のような断簡もあるので併せて掲げておく。 出席者 四 席 三嶋億二郎 田中春回 十八席 二十六席 西 郷 謀 津 彦 禰 小倉最中 三十三席 二十六席 十 席 稲 垣 長 岡 壬申三月 小 屋 d校 長岡小事校﹂とあることから、﹁国漢撃校﹂が﹁長岡町組拳校﹂と合併することを目前 にして、長岡の﹁小事校﹂設立を協議するための会合を聞き、その会合の出席者名と席順とを書き留めた覚えで ﹄の断簡に﹁壬申三用 あ る と 思 わ れ る 。 三嶋億二郎(三島億二郎)をはじめとしてここに氏名が見える人びとは何れも国漢撃校の教員などとして当時 国漢撃校の運営に携わっていた人物である。田中春回は国漢拳校の筆頭訓導師であったことは既述したとおりで アラ 井上国了の、「新潟事校軍一分校J在学期における洋学修業の背景

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藻は同じく﹁長岡漢学校﹂と国漢撃校で国漢拳句讃師を務めていた。津彦捕は国漢学校で国漢拳 句讃師を務めていたが、後に長岡洋拳校が開校すると入門して生徒となった。初期の洋皐校では句讃師も兼ねて おり、幹事野秋兵太郎の補助者として学校運営にも関わっていた。稲垣一は初期の洋事校に入門し活動した。 これらの人びとが、国漢拳校・洋事校の教育をすすめるのに力を尽していたことは確かであろう。 前掲の三島億二郎自筆の﹁覚書﹂では﹁巳年﹂(明治二年)の﹁長岡漢撃校﹂での﹁支那事生徒百三十六人﹂ とあり、﹁洋拳生徒﹂として傍線を付してはいるものの人数の記載はない。前記の﹁長岡漢撃校国漢撃匂讃師 西郷藻﹂による記録では﹁生徒の数は四五十名位で、﹂とあるから﹁支那事生徒百三十六人﹂は三島の企図 するところを記したものであろう。したがって﹁洋拳生徒﹂についてもこの段階、この時期では実質は零であっ たとも考えられる。同じく教職員についても学校の運営と教員の監督に当たる﹁主事一人﹂(当初は秋山左内 が任命された)以下﹁〆十三人﹂とある実数は疑わしい。しかし、注目すべきは、﹁訓導師内ヰ岬四人﹂・﹁句 讃 師 心 得 洋

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一人﹂と、記載されている点である。つまり、三島は、将来を考えて既にこの時点で﹁洋事生徒﹂ の入門を予想して﹁洋拳﹂担当教師三人を想定してその確保を図っていたことが考えられる。 なお、﹁長岡漢拳校﹂と﹁長岡藩国漢撃校﹂の費用として、建物維持費、諸教材設備費等を別途として一か年 につきおよそ千両を支出した、とあるから教員の給料等はできるだけ低廉に押さえたものと思われる。 ﹁長岡藩国漢撃校﹂になると、前掲﹁覚書﹂にあるように生徒の数も大幅に増えて、﹁支那拳生徒百七十五 人、洋撃生徒三十五人﹂となった。合わせて二百十人の生徒が学んだ。﹁支那事生徒﹂は漢学・国学をあわせて 教授することを主たる課業とする生徒であった。その中心は漢文で国家の歴史や制度等を教授し学ばせるという 課 業 で あ っ た 。 ある。西郷

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ほかに仮名交じりの文章を読ませ、和文・和歌などを教えた。 ﹁洋事生徒﹂は、英学(英語・英文)を学ばせた。英学を主として教授したが、同時に世界の出来事や各分野 の科学的な事柄を学ばせ各自にも研究させることを課業としていた。 当初の洋拳句讃師は二名で渡遺譲三郎・牧野又六郎であった。洋皐二等匂讃師として長津矢一郎・田中敬次郎 の名も見える。三島億二郎は前掲、﹁覚書﹂では洋挙句讃師心得として二人を挙げているが、実際にはいなかっ たようである。また、訓導師四人を挙げ、内、洋学一人を挙げているが、実際に訓導師になったのは国漢夢担当 で筆頭訓導師となった田中春固と、もう一人同じく国漢事訓導師になった大瀬虎治の二人であった。教員の序列 と し て は 、 ﹁ 教 授 ﹂ ・ ﹁ 訓 導 師 ﹂ ・ ﹁ 訓 導 師 心 得 ﹂ ・ ﹁ 一 等 句 讃 師 ﹂ ・ ﹁ 二 等 句 讃 師 ﹂ ・ ﹁ 句 讃 師 心 得 ﹂ の 順 に な る よ う で あ る 。 教員の給料は、前出、西郷藻の記録によれば、﹁長岡漢拳校﹂では﹁多額の人が年給十二両、最低は十両位﹂ で、﹁教授は毎日午前限りである。教員は藩庁の習慣にて名義は自動であったけれども其賓、隔日出勤教授して ゐた様だ。﹂としている。生徒は原則、士族の子弟に限られていたようである。 ﹁長岡藩国漢李校﹂では医事局を担当し西洋医皐教授試補として西洋医拳の初歩を教えていた榔野謙秀(後に 直と改名)が洋拳訓導師心得を兼ねていた。洋撃の教員は他の国漢皐や兵皐の教員に比して破格の待遇であっ た。榔野謙秀の給料は月二両二分で、特にほかに﹁小者雇料﹂(助手を雇い入れる際の手当)として月二朱を給 されていた。国漢拳句讃師試補が月一両二分であったのに対し洋事句讃師心得は月十二両であった。兵事訓導師 試補は月一分に過ぎなかったことを考えると格段の差があった。(市)後述する洋事校英挙教師藤野善識は明治六 年 に ﹁ 月 給 一 一 一

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円﹂で慶慮義塾から招請されたことと合わせて三島らは洋事教育の導入にいかに腐心していた 77 井上園 f由、「新潟事校第一分校J在学期における洋学修業申背景

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かが察知できよう。 ﹁長岡藩国漢撃校﹂では洋事局が開設され土族の子弟のみに限定された﹁洋拳生徒﹂が一室で英撃を学んだ。 根岸(旧姓牧野)錬次郎、鬼頭悌次郎(旧姓名菅原正菊)等であった。 旧藩以来、藩には秀才である者たちをいわば藩費生として採用する制度があって年四俵の手当米を給されるこ とがあった。このような制度に基づいてか、﹁洋事生徒﹂のなかで洋撃の研修を任とする藩費留学生として洋撃 の先進藩である庄内藩(鶴岡藩、譜代大名酒井氏を藩主とする十四万石の藩領で、戊辰戦争では列藩同盟側を主 導して敗北し明治二年に大泉藩と改称)に派遣された。 戊辰戦争のいわゆる北越戦争に際して庄内藩は会津藩、長岡藩とともに奥羽越列藩同盟側に立って果敢に戦つ た。庄内藩兵は数的に優勢であったばかりでなく、装備も東北諸藩のなかでも最もすぐれていたとされる。市) 慶応四年六月上旬には越後において戦い、寺泊辺から出雲崎口まで出兵した。八月に入ると、新政府軍に降伏し た長岡藩の支藩三根山藩兵と戦い、八月二十六日には庄内口で激戦をした。 三根山藩はその戦闘振りが新政府に認められて藩主牧野忠泰は帰藩した。九月半ばになると、米沢藩が新政府 軍に降伏し新政府軍の攻撃が庄内藩に向かって集中的に行われるようになって会津藩に続いて庄内藩も九月二十 三日に新政府軍に降伏した。二日後の九月二十五日、長岡藩も新政府軍に降伏した。しかし庄内藩の降伏の条件 は他藩にくらべて異例なほどに寛大であった。ただ賠償金として七

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寓両の献金を命じられただけであった。そ れは新政府軍の西郷隆盛の発案によるものであった、(げ)といわれている。 このような経過を辿って展開した戊辰戦争の終結後、再興長岡藩の大参事であった三島億二郎は、旧庄内藩家 老で維新後の庄内藩(大泉藩・明治四年七月十四日廃藩置県により大泉県となる)で大参事となった松平権十郎

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に会った。その折、松平権十郎から三島に対して次の史料に見るような話があったという。 も段々困るべければ前途有望の者三、四名丈けなら食客に置いてやって宜しい。﹂との話であった。 そ れ は ﹁ 貴 藩 子 弟 ﹁三嶋は大いに喜び園元より五名の青年を圧内に送れり 時は明治三年十月の事にして左の五名選抜派遣せ ら れ た り 。 能 渡 世竺遺

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譲 琢 三 郎 ( 廿 一 才 ) ( 一 九 才 ) 田 中 精 一 ( マ マ ) ( 躍 が 正 し い } 牧 野 練 次 郎 ( 十 五 才 ) (牧野とは根岸の事にて、叔母の家にて男子早死の為め、次男たりし練次郎氏が養子に趣けるものなり ( 十 六 才 ) といふ。尤も後に至りて貫家に復籍)﹂ 少々長文に亙るが、これに続く史料も敢て抄出しておきたい。 ﹁ 而 し て 右 と 同 時 に マ舎津より五名 ︹)内の記載略 マ仙蓋より三名 同 右 マ上の山より二名 同 右

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井 上 町 の 、 「 欄 鞘 第 一 分 校J在学期における洋学修業の背景

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マ小倉藩より三名 同 右 此等の多くは松平家老の長屋に住し、長岡藩組だけは、七、八百石の家老松宮源右衛門の長屋に住ひ居 れ り と い ふ 。 { 松 平 ) 教師としては牧田廉離(本名小川吉三郎?)といふ奮幕開成所に居りし者と、権十郎氏の弟長津某の家 来二人にて、此人は長揮鷲之助といひ慶臆義塾に入塾中園許より呼戻されたりとの事にて、嘗時洋事(此 ( 原 文 の ま ふ 頃 は 英 撃 と は 言 は ざ り し ) を 研 究 せ ざ れ ば 将 来 立 身 の 途 な し と 言 ふ 大 勢 に 促 が さ れ て 、 後 年 の ( 松 平 権 十 郎 ) 親懐氏が創立せるものの由にて、従て別に塾名もなく教室とて特別のものなく長屋にて足かけ三年教 授を受けたり 再

( 根 岸 錬 次 郎 の 談 話 の 記 録 に 拠 る ) ( 市 ) 圧内藩ではもともと長岡藩と同じく古学派の学統を受け継いでいた。事保年間に荻生祖僚に師事した中老で、 げんろう のちに家老となった水野元朗にはじまるとされる。その学館(藩校)致道館は長岡藩聾崇徳館より三年早く文化 二年(一八

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五)に開廷している。その教学は儒学の古典に直接、接することによって、孔孟の真意をもとめる という古学派の立場をまもり、幕府が儒学の正統とする朱子学を排した。ただ長岡藩聾崇徳館が同じく古学派で も古義学派と祖徳学派の並立を標梼していた点では異なる点があった。しかし、長岡藩と同様に、はやくから蘭 学 U 洋学導入への志向があり、明和八年(一七七一)に江戸の蘭方医中山道補が庄内藩に召し抱えられたときか ら始まった、とされている。(ゆ)また、開国論者として知られ、高野長英や渡遷幸山とともに蛮社の獄に関わっ た蘭方医小関三英は一時期鶴岡で開業していた、といわれる。三英は後に幕府の天文台蘭書翻鐸方を命じられ、

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英語に堪能であったとされる。なお、大坂の緒方洪庵の適々粛塾や慶慮義塾にも圧内藩の人びとで入門、入塾し ていた人がいた、という点でも幕末の長岡藩士との共通点もあった。 慶応三年(一八六七)三月に藩命によって江戸に出て大鳥圭介の塾に入った庄内藩士重田新治郎(号致庵、講 範正)は後に明治二年(一八六九)六月に﹁洋学所御取締役﹂を命じられたとの記録が伝えられている。した がって、このとき、前掲の庄内藩家老松平権十郎による﹁洋撃なくして将来の立身なし﹂とする考え方から﹁洋 拳所﹂が設置されたと見てよいであろう。一般には﹁英撃所﹂とも呼ばれた庄内藩の洋挙教授所﹁洋事所﹂は鶴 岡城本丸に近接した学館﹁致道館﹂の南側、﹁御普請御小屋﹂と呼ばれた場所に創設された。町名としては ﹁元御曲師町﹂であった。﹁御小屋﹂の一部を住宅としていた重田範正は明治三年七月には致道館の助教と﹁洋事 所御目付﹂を﹁持添﹂(兼任)する、という、辞令書を受けていることから致道館と﹁洋皐所﹂はいわば一体の 教育機関であったと考えられる。御曲師町の﹁御普請御小屋﹂には萱葺きの大きな長屋門があり、そこを入る と約五

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間四方の土地の四面に数十戸のお長屋があった。この一画を﹁御小屋﹂と呼んだ。嘗ては藩主 の﹁御小屋﹂がこの中にあったのでそう呼ばれたと伝えられている。﹁洋拳所﹂は門を入って左側二軒目に二戸 分を打ち抜いて建てられていたらしい。 英学の教師は旧幕府の開成所にいたという牧田廉離(本名小川吉三郎)が担当し、松平権十郎の弟の長津鷲之 助が入塾中の慶慮義塾から国許に呼び戻されて教師牧田廉蔵を助けたという。旧庄内藩主酒井忠篤が戊辰戦争で 新政府軍に恭順しなかった廉によって未だ謹慎中であったこの時期に、庄内藩士族の人びとが﹁洋拳所﹂を開設 して新しい世界への雄飛を図った先見と、先進的な洋学教育推進への熱情には睦目させられる。 81井上岡了の、「新潟畢校第一卦校J在学期における洋学修業の背量

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長岡洋事校初期の﹁洋事生徒﹂育成について 再興長岡藩から庄内藩に﹁洋事修行﹂として五人の若者が藩費留学したことは左記の史料によって確認するこ と が で き る 。 それは、庄内藩士松宮儀右衛門長治の日記﹃老の友﹄である。弘化二年(一八四五)家督を継ぎ、禄高三百 石を給され番頭を務めた長治の日記は、文政八年(一八二五)から明治十年(一八七七)に及んでいる。 現在、鶴岡市郷土資料館所蔵の写本に拠って再興長岡藩から洋事修行のために鶴岡に来藩した人たちの動静を 探 っ て み よ う 。 まず明治三年(一八七

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十月二十一日の頃に、次の記載がある。長治は明治二十四年(一八九一)三月八日 に行年八十二歳で没しているから六十一歳の頃の日記であろう。 ﹃ 老 の 友 巻 五 ﹄ 明 治 三 年 十 月 二 十 一 日 の 項 ( 抜 き ( 明 拾 三 年 ) ミ カ タ ( マ マ ︺ テ イ ﹁ 十 月 廿 一 日 越 後 長 岡 の 土 能 勢 琢 渡 部 議 三 郎 田 中 精 一 鬼 頭 悌 次 郎 の 五 人 洋 拳 修 菅原正葡 行として此方へ参り今日より長屋へ止宿此頃松平権十郎親懐へハ上の山より五人酒井玄蕃了恒へハ斗南 より四人長沢金剛光久へハ豊津より弐人参り候よし斗南即旧舎津藩豊津ハ小倉藩なり 牧野錬次郎 次に長岡藩からの来藩者の帰岡について見ょう。 ﹃老の友巻五﹄明治五年二月晦日・三月十四日の項

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﹁ 二 月 晦 日 長岡書生 田中精 鬼頭悌次郎 牧野錬次郎 帰岡として護足 ( 中 略 ) 三月十四日 琢 ( 下 略 ) ゆ こ 帰岡として襲足 長岡書生 能 勢 琢(能勢琢仙)・渡部譲三郎(渡遺譲三郎)・田中精一・牧野錬次郎(根岸錬次郎)・ 鬼頭悌次郎ら二十一歳から十五歳までの青年・少年五人が洋事修行のために庄内藩に来藩し、明治五年二月末日 この史料によって、態勢 と三月十四日に帰岡したことが知られる。足掛け三年、満一年五か月程滞在し洋皐修行に励んだ。他藩からも、 上山藩から五人、斗南藩(旧舎津藩)から四人、豊前豊津川小倉藩から二人が来藩したことが記されている。長 岡藩からの五人は当初、家老松平権十郎家に止宿する予定であったが他藩からの人たちで占められたので家老松 宮源右衛門の長屋に止宿したという。松宮家は門の左右に長屋があり、長岡からの来藩者は門に向かって右の方 の 長 屋 に 止 宿 し た ら し い 。 ( 羽 ) 庄内藩では長岡から五人の藩費留学生が来藩した明治三年の年初からは藩主酒井氏の意向によって﹁洋事修 の明治三年三月初頃の次の記載がそのことをうかがわせる。 行﹂に特に力を入れてきたようである。﹃老の友﹂ ﹁一、土族二三男等の中、西洋挙致し候様被仰付、当春頃より大督寺脇寮侍受院にて学問いたし候事なり。 是まて無之事故しるしおく。 また、同年間十月の頃にも次のようなことが記載されている。 ﹁一、閏十月半頃、小竹弁蔵洋挙所取締役被仰付候よし

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井上聞了の、I新潟畢校第一分校I在学期における洋学修業の背景

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即ち、庄内藩が藩内外を間わずに士族の子弟を﹁洋事修行﹂に向かわせようとしていた頃に再興長岡藩の藩費 留学生の庄内藩派遣が実行されたのである。再興長岡藩が廃藩となった明治三年十月頃からは従前の藩費留学生 の制度にかわって、希望する者自身が米四俵を持ってくればそれ迄の藩費留学生と同様の取扱いを受けることが 可能となった。ただし、寄宿舎等において自炊をし、副食物は自宅から持参することになっていた。 庄内藩への﹁洋皐修行﹂のための派遣も、藩内外のこのような状勢の変化を背景とするなかで実施されたので あ ろ う 。 長聞からの留学生五人は前述のように牧田廉蔵・長津鷲之助(引)等の英学先進藩庄内藩の教師たちに就いて英 学を熱心に学んだことであろう。 こうして庄内藩で英学を学んだ藩費留学生たちは長岡洋皐校の開校に先立つ約半年程前に帰岡した。長岡洋学 校が開校後、最初の学校の﹁日誌﹂の冒頭、明治六年(一八七三)二月一日の項には、﹁二月一日一、牧野錬 次郎午後入門入塾讃出取請置候事﹂とある。 牧野錬次郎は北越戊辰戦争で長岡藩の軍事総裁(総督)として戦い、会津塩沢で陣没した家老河井継之助の外 甥(妹千代の二男)である。後、根岸姓を名乗り日本郵船(株)のロンドン支店長などを務め日英貿易の先駆 的 貢 献 者 と な っ た 。 また、﹃老の友﹄に﹁二月晦日 長岡書生田中精ごと記されていて、明治五年二月晦日に帰岡した藩費留 学生の筆頭に挙げられている田中精一は、国漢撃校筆頭訓導師の田中春回の弟である。後には長岡洋亭校で明治 六年から句讃師を務めて地理などを教え、長岡筆校にかわった明治十九年まで教師を務めた。 このようにして、戊辰戦争直後の再興長岡藩では、明治二年に慶臆義塾に十人の入塾生を送り、翌三年にも九

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人の入塾生を送ったあと、五人の圧内藩への藩費留学生を送り込んだのである。﹁洋事生徒﹂ と進展し、明治五年秋には長岡洋事校の開校として結実した。 の育成事業は着々 二、長岡洋苧校の創立から井上園了の﹁舌耕筆梶田﹂ ... 長岡洋事校創立の理念 明治初年の文明開化の風潮がさらにひろがってゆくなかで、長岡においては欧米の近代的な学問・科学技術や 思想の導入が急速に局り洋学への関心と洋学教育の必要性を説く気運がさらに高揚した。 小林席三郎とともに長岡の再生への努力を傾注していた三島億二郎は、長岡藩国漢事校の洋亭局を基緒として 長岡とその周辺地域を対象とした本格的な洋学教育の必要性を痛感し、新たに独立した﹁洋事校﹂の設立を企図

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し た 。 明治五年を迎えた一月、在東京の小林庸三郎は三島億二郎に宛た書簡で、﹁又拳校武場の入用の図りは知何﹂ と 気 遣 っ て い る 。 さらに、五月二十五日付けの三島宛ての書簡で、庸三郎は次のように記した。要点を抄出する。 ﹁(前略)其御地土卒益困迫、不一方御心配被成候旨、兎角興奮力不足ニて、毎々御嘆息との御事御玉至極、併 何分是迄沿習之勢、事理時変も不耕もの共不得己次第、何れそ土族卒も同様に可有御座、知高喰、士族扱方 一時ニ普通之理を以て処し候てハ不都合を生じ可申、但、兎角諸旧藩之風習ニて、平民教育-一心を不用、士族 8う井上幽了の、「新渦皐校第一分校l在学期における洋学修業申背景

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而巳ニ教育費用を掛ヶ、凡才之者ニ俊秀一一可教学科ヲ授ヶ候様之不適当なる事比々皆然。高知勝之如きも尚如此、 是畢寛ハ地方官之教育事務ニ疎きの所致ト慨嘆不少候。(下略) ﹂ ( 辺 ) 右の書簡の文中にあるように、小林庸三郎は﹁平民教育に心を用いず、士族のみに教育費用を掛け、凡才の者 に俊秀の人に教えるべきような教育をすることは不適当である﹂と、強くうったえている。 つまり、席三郎は今 こそ士族・平民を問わずに英才教育を優先しなければならないことを強くうったえ、また、﹁平民教育﹂ H 国民 教育の必要性を説いているのである。 三島億二郎は小林席三郎のこのような理念に、その年の秋十一月二十三日に開校した長岡洋事校創立に向けて に士族ではなく、周辺地域のいわば﹁平民﹂ この先見的な示唆を感得したのであろう。これこそ長岡洋事校の創立理念の真髄であった。 明治七年(一八七四)五月五日に、長岡洋挙校がかわった新潟事校第一分校に入門・入塾した井上園了はまさ であった。しかし、学識や学力を考慮し、入門生の意向を尊重して での﹁洋事修業﹂は十七歳の青年井上園了が 適宜に学習を促して行くという教育理念と方法を執った﹁洋撃校﹂ 志す学業形態に程良く適合したものであったといえよう。(お)

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井上園了謹述﹁舌耕筆梶田﹂の筆録 井上園了は新潟事校第一分校(﹁長岡洋李校-)に入門・入塾して一年三か月程経った明治八年(一八七五)八 月に、﹁洋書濁見﹂として﹃羅馬史﹁スウエル﹂氏﹄を濁学し、その成果として﹁羅馬略史﹂を語述し、﹁羅馬史 表﹂併びに﹁羅馬略史序﹂とともに一冊の筆録を編した。現在、長岡高校記念資料館に大切に保管、所蔵されて

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いる園了自筆の﹁舌耕筆縛田﹂である。(剖) ﹃東洋大事創立百五十年史﹄所載の﹁井上国了先生略停﹂五

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八ページには、﹁事事一家の批評を加ふ。其の達 識少年の倫に非ざるを思はしむ。﹂とし絶賛して紹介されている。同誌もその筆録を﹁明治八年中﹂としている。 標題(書名)として掲げた﹁舌耕筆韓国﹂は﹁演説で生計を立て筆によって暮らしを潤す﹂という志を意味す る も の で は な か ろ う か 。 即ち井上園了のいう﹁舌耕﹂は、福津諭吉が示した﹁大勢の人を会して説を述べ、席上にて我思ふ所を人に停 写真(3) 井上園了筆「舌耕筆縛田J (長岡高校記念資料館所蔵) るの法なり﹂との理念と共通するものではな かったか、と考える。そして翌明治九年十月 二十一日に園了が設立した﹁和同舎﹂がその 目的とした﹁塾生相互の懇親を厚くし、演説 や討論の稽古をしようとするもの﹂という意 図の基因となったのではなかろうか。またこ の﹁舌耕筆梶田﹂という標題は当時の園了自 身の﹁立志﹂を意味するものでもあったと思 わ れ る 。 後年に園了は母校県立長岡中拳校での講演 の な か で ﹁立志﹂について次のように述べて い る 。 87井上聞了の、『新潟畢校第一分校J在学期における洋学修業の背景

参照

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