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<論文>日本における鉄道政策の転換 : 日本的交通形態の形成 利用統計を見る

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<論文>日本における鉄道政策の転換 : 日本的交通

形態の形成

著者

大島 藤太郎

著者別名

Oshima Totaro

雑誌名

経営論集

18

ページ

1-20

発行年

1981-06-30

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00005823/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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1. 2. 3. 4. 5 6 7

日 本 に お け る鉄 道 政 策 の 転 換

日 本的 交 通形 態 の形 成 大  島  藤 太 郎 はじ めに 保守政党 の鉄道 政策 絶対主義 官僚に よる鉄道政策 自動 車交 通へ の対 応 日本的 鉄道輸送 の形成A  資本 の追加投 入  B  「 技能」の集積( 以 上本号) 日本 鉄道史 におけ る後藤新平 と原敬 大正 デモ クラシ ー 保 守政党に よる鉄道 政策 の基盤 む す び は じ め に  日露戦争(1905∼6)が終ってからの20年間は,政治的に は大正デモクラシ ーの時代とよばれてい る。しかし この時代は明治維新以降 のわが国 の近代史 の中で,政治 の問 題ばか りではな く,社会的に 乱 経済的 に も重要な地位を 占 めている。 この点は交通界について も同様であって,こ の時代に日本的な 交 通,運輸の形成一 現在 の交通問題 の原点が生み 出され ている。 さらにい えば,こうした交通問題の発生こそは,大正期の政治,経済的な 日本社会の 転換 の現れであ り,このような 立場においてこそ,交通問 題 の本質を,正し く理解することができるのであ る。 1. 保守政党の鉄道政策  鉄道の建設は莫大な資金に よる半永久的な固定設備 の投 資 であるから,モ の国 の将来を展望した経済政策に もとづ き,建設さ るべき地域 の産業や人口 の分布その他充分な事前 の調査にもとづいて実施さ るべきことは い うまでも

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2 な く , さ ら に 鉄 道 以 外 の 交 通 機 関 の 発 達 等 も 重 要 な 問 題 で あ る 。 と こ ろ が わ が 国 の 場 合 は ど う か 。 欧 米 の 先 進 諸 国 に お い て は , 現 在 , 特 殊 な 区 間 を 除 い て 鉄 道 の 建 設 と い う よ う な こ と は ま ず 考 え ら れ な い に も か か わ ら ず, 1964 年 ( 昭 和39 年 ) 開 通 の 東 京 一 大 阪 間 の 新 幹 線 の 成 功 に 刺 激 さ れ て , 現 在6,000 キp の 新 幹 線 建 設 計 画 を も っ て い る 。 簡 単 に 計 画 決 定 の 経 過 を の べ て み る と , 佐 藤 内 閣 の 時 代 ,1972 年 の1 月 に ま ず 東 北 ( 東 京 一 仙 台 ・ 後 に 盛 岡 ま で 延 長 ), 成 田 , 上 越 の 三 線 が 決 定 , つ づ い て 同 年 の5 月 に な る と 東 北 一 北 海 道 ( 盛 岡 − 青 森 一 札 幌 ), 九 州 ( 福 岡 一 鹿 児 島 ), 東 京 一 富 山 一 大 阪 の 三 線 が 追 加 さ れ , こ れ で 建 設 計 画 はl,800 キp に 増 大 し た 。 と こ ろ が ,72 年7 月 に 田 中 内 閣 が 成 立 し , 日 本 列 島 改 造 計 画 が 打 ち 出 さ れ る と と も に ,73 年9 月 に 入 り , 北 海 道 は 札 幌 一 苫 小 牧 一 室 蘭 ( そ の 後 長 万 部 ま で 延 長 ), 山 陰 線 , 日 豊 線 ・ 名 古 屋 一 大 垣 一 敦 賀 (m 東 線 ), 九 州 横 断 ( 大 分 一 熊 本 ) の 建 設 が 決 定 し た 。  こ れ が1 ヵ 月 後 に は さ ら に 増 加 し , 結 局 つ ぎ の 通 り の12 路 線 で 約6,000 キ ロ に ふ く れ 上 り , こ れ が 完 成 す る と 全 国 で7,000 キ ロ の 新 幹 線 網 と な り , 現 在 の 国 鉄 の 営 業 線 の3 分 の1 に 達 す る の で あ る 。   (1 )北 海 道 ( 青 森 ‐ 札 幌 の 延 長 ) = 札 幌 一 滝 川 一 旭 川 (130 キ ロ ), (2 )北 海 道 南  回 り = 札 幌 一 苫 小 牧 一 室 蘭 一 長 万 部 (180 キ0 ,(3) 羽 越 = 青 森 一 弘 前 一 秋  田 一 酒 田 一 新 潟 一 直 江 津 一 富 山 (560 キ ロ ), (4 )奥 羽 = 秋 田 一 新 庄 一 山 形 −  福 島 (270 キ ロ ),(5) 中 央 = 新 宿 一 八 王 子 一 甲 府 一 飯 田 一 中 津 川 一 名 古 屋 −  四 日 市 一 木 津 ・ 奈 良 一 新 大 阪 (480 キ ロ ), ㈲ 北 陸 ・ 中 京 = 敦 賀 一 岐 阜 羽 島  ( 大 垣 付 近 )一 名 古 屋 (50 キp; , (7 )山 陰 = 新 大 阪 一 三 田 ( 兵 庫) ― 福 知 山 一  鳥 取 一 米 子 一 松 江 一 益 田 一 下 関 (550 キ ロ ), ㈲ 四 国 = 新 大 阪 一 三 田 一 本 州  四 国 連 絡 橋 の 明 石 ・ 鳴 門 ル ー ト 一 徳 島 一 高 松 一 松 山 一 佐 田 岬 一 大 分 (480 キ 0 , (9 )九 州 横 断 = 大 分 一 熊 本 (150 キp; , ㈲ 東 九 州 = 福 岡 一 北 九 外ト 大 分  一 延 岡 一 宮 崎 一 鹿 児 島 (390 毎 ロ ),(11) 中 国 横 断 = 松 江 一 米 子 一 岡 山 (150 キ 0 ,(12) 四 国 横 断 = 岡 山 一 本 州 四 国 連 絡 橋 の 児 島 ・ 坂 出 ル ー ト 高 知 (150 キ O O      ■      ■ 12 路 線 に な る と 現 在 , 単 線 の 区 間 が 相 当 あ り , こ れ が い っ き ょ に 広 軌 複 線  の 新 幹 線 が 開 通 す る の で あ り , し か も 日 本 経 済 は 低 成 長 , い わ ゆ る 「 安 定 成  長 」 の 時 代 に 入 っ て お り , 専 門 家 の 間 で も 再 び が っ て の 高 度 成 長 の 時 代 が 到  来 す る と は , 誰 も 信 じ て い な い と 思 う の で あ る 。 新 幹 線 の 技 術 に 世 界 の 鉄 道

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関 係 者 は 驚 異 の 眼 を 注 い で視 察 に や っ て ぐ る人 は 多 い が , わ ず か2, 3 年 の 間 に こ の小 さ な 島 国 で6,000 キ 吋 こ及 ぶ 新 幹 線 の 建 設 計 画 が決 定 さ れ た と聞 い た ら, も う一 度 び っ く りす る の で は な い か 。 青函 トソネ 少につい て「 朝日」(80.9.18 日) の「 今 日の問題 」はっ ぎ のようにの べ てい る。「 現場 の関 係者 払 破砕帯突 破 の苦心 談や新工 法 の話では目 を 輝 か せ る。だが完成後 の話になると, とた んに表│青が曇る。せっか くのトンネ ルがど う生 かされ るか決 っていないか らだ。一応,新 幹線 と在来 線が両方 通れる ように3 本の レ ールを 敷 く設計になっ ているが,新 幹線が通 るのぱいつ のこと か 見 当 もつ かな い 。 16年前に着工した ころは『輸送力 増強 のた め』とい うトンネル建設 の目的 もは っ きりしてい た力\ 高度成長 の行 き詰り と航空 路の発 達で事情は変った。最近では 『北海道防 衛 のため』といった取ってつけ た ような意味づけ さえ 聞こえ る。 総工費6 千億。外国か らの見学者も絶え ないが, 日本の技 術力に驚 嘆したあ とどう使 うか 決 まっ ていない, と知って二 度びっ くりするそ うであ る。」 今 回計 画 された 四国新 幹線 は,大 阪を 起点 とし て 明石海 峡を 橋 で渡 り,徳 島 , 高松 ,松 山を至 て豊予海 峡 の海 底を く くリ , 大分 に至 る もの であ る。 大 鳴 門 橋は二 層 で下 は新 幹線 が通 る構 造, す でに鉄 道部 門 だけ で150 億 が投 入 され ,豊予 海峡 は海 底 トンネ ルだ が, 鉄 道建設 公 団 が地 質 調査を 進 め てい る。 し かし四国 に新幹 線を 必要 とす る「経 済的 必 要性」 に つい ての具 体的 な調査 は何 ら行 わ れてい ない もの と思 われ る。 現 在, 四国 の国 鉄 はほ とん どが単 線 で,複線 は香 川県 の一 部 のみ。 電 化 区 間 もゼ ロ とい う状 態 であ る。  こ うし たほ とん ど事前 の調査 右なし に鉄 道 の建設 計画 が 決定 され る とい う こ とは, わ が国 の場 合,実 は 高度経 済成長 と田 中内 閣 の 出現 とい うよ うない わ ば「偶 然 的」 な条 件に よっ て のみ生 み出 さ れた もので はない のであ る。 今 か ら60年 以 上 の昔, 大正 の中 期, わ が国 の鉄道一 交通政 策 の重 大 な転 換期に お い ても同様 な歴 史を示 し てい る。 す な わち1892 年(m 治25年)公 布 された 鉄 道 敷設 法 に よ り計 画さ れた約1 万 キg の幹 線鉄 道 は, 第1 表 の通 り,1921 年(大正10年)前後 に大 体そ の建設 を 終 り, 鉄道 輸 送 はこ れか らい か に あ る べ きか, そ の 転換 期に際 会 し てい た。  し かるに1918 年(大正7 年)原 敬 に よ る政友 会内 閣 の成 立 と と もに 後 藤 新 平を 中心 とす る広 軌改築 政策一 改 良主 義 は 正式 に廃 棄さ れ, ロ ーカル線 の建 設 主 義が採 用 され1921 年 の第44 議 会 に鉄 道 敷設 法 改正 法 律 が提 出 さ れ, つ

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4 第1 表 一 年 一度 261616167161616123456 7 7 8 8 9 9 00 0 1 1 2 2 3 3 4 4 4 4 4 4 8      9 I       I 国有鉄道営業粁 粁   数 26.2   101.2   135.0   313.8   885.9   983.4  1, 641. 0 3, 459. 7 6, 407. 5 1, 965. 0 9, 348. 310, 644. 312, 740. 714, 805. 017, 354. 818, 455.718, 545.119, 589. 220, 173. 019, 648. 319, 648.7 ( 注)1901 年−07 年 の間 の増 加 は, 鉄 道国 有化 に よ る もの であ る。 ぎ の第45 議 会 で可決, 公 布 さ れた。 内 容 は 一 躍149 線, 10,221 キ1= に及 ぶ ロ ―カル線 の建設 で, さ き の第1 表 の通 り,当 時 の既設 線 と大体 同程 度 のぼ う大 な新 線 の建設 計画 であ っ た。 先年, 国鉄 の磯崎総 裁 は,現在 の国鉄 の営 業 線21,000 キ ロ の 内, 幹線 の1 万 キp を もっ てす れば国 鉄 の自立経 営 が可 能だ と発言 し てい た力気 第1 表 に よる1921 年以 降 の線路 の増 加 は,右 の改正 法 律に よるロ ー カル の建 設 であ る。(第二次大戦中の若干の私鉄の買 収線も入っている。)当時 ,新 聞 は こ のぼ う大 な鉄 道 建設 を政 友 会に よる「 我 田引 鉄」 政 策 と皮肉 った が, 後藤 新 平のつぎ の国 鉄総 裁 中 村是公(1918年4 月−9 月在任)は,貴 族院 にお け る質問 の中 で,改 正 鉄道 敷設 法策 定 の当 時 ,全 国 か ら多 勢 の陳情団 が上京 し,東 京 の宿 屋 は満員 に な った とのべてい た が, もっ て一 半 の情勢 が判 る のであ る。 以 上 の 通 りにし て, ここに わ が国 の保 守 党政 府 の鉄道政 策一 交通政 策 の特 徴一 体質 が あ る。 国鉄経営 の自主性 とい う問 題について,逸す る ことのできない のは敗戦後,国鉄 の公共企業体一 独 立採算制へ の移行 である。 こめ問題の発端は, 1948年(昭和23年)国家公務員のストライキ権,団体交渉権 のはく奪を命ずる芦 田首相宛 のマ ッカーサ ー書簡であった。マ書簡 の中にはPublic Corporation とい う言葉だけがあっ 七詳しい ことは書かれていないので,政府部内で意見 が対立した。要するに国鉄に対して欧米並 の経営 の自主性を与えるか否かと い う根本問 題で,とくに大蔵省と運輸省が対立し,結局,経営 の自主性は認 め られなかった。当時,長崎国鉄総裁はつぎのように のべていた。「予算を 例にとっても昔より今 の方が拘束されてい るよ うに思 う。 監督官庁にして 乱 運輸省,大蔵省,会計検査院,それに国会と昔 より少なくとも一つは増えて い る。 また運賃 の改正についても多 分に経済的な性質を持ってい る の で あ

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り , 昔 は 審 議 会 で 自 主 的 に 決 定 出 来 た も の であ る が , 今 で は 国 会 の 議 決 を 経 る こ と に な っ て い る。 こ うい っ た よ うに 自 主 性 と い う点 に つ い て の み い え ば 以 前0 方 が よか っ た と い う こ と が で き る。」(「交 通新聞」1952年10 月14 日) こ こ に もわ が 国 の保 守 党 政 府 の国 鉄 政 策 の 特 徴 が示 さ れ て い る。 2. 絶対主 義 官 僚 によ る鉄道 政 策  わが国 にお い て,選 挙 に よ る国 民 の代表 が国政 に 参加 す る ことに なっ た の は ,い うま でもな く憲法 が 制定 され た1889 年( 明治22年)以 降 であ るが,実 質 的 に政 党が 内閣を 組 織し た のはに1918 年(大正7 年) に成 立した 原敬 を総 理 と す る政友 会内閣 が最初 であ る。 そ の間約30 年 間 は ど うだ っ た のか。 周知 の通 り「 超憲 法」 的 に薩 摩, 長 州 出身 の藩 閥 官 僚− 「 元老」 が た らい回 しに 内閣 を組 織し て きた のであ るが, こ の時 代 の鉄道 政策 の特徴 は ど うか。 さ きに の べ た政党 内閣 の時 代 と対 比し 指 摘 し て み よ う。  明治維新後 ,長 州 藩 出身 で英 国 帰 り の井 上 勝が 鉄道頭 とい う地 位 につ き鉄 道 の建設 ,運 営 の責 任 者 であっ た。 線 路 が延長 し,1889 年 明治2 年バ こは 東 海 道線 が全通 す るが, 組織 は内 務省 か ら逓 信省 へ 移 り,鉄 道庁 長 官 は引 続 き井 上勝 で,1893 年(明治26年)に退 任す る。当 時 の政 府 の政 治 目標 は「 富国 強 兵」 と「 殖産 興業」 であ り, そ の柱 であっ た鉄 道に対 し て軍 部 そ の他 か ら い ろいろ な要 求 ・圧力 がか かっ てきた。 た とえば陸 軍 は, 1886 年( 明治19年) 当 時,東 海道 線 が海岸 に面 し,有 時 の際 の防備 上不 利 で あ るこ と, さ らに 輸 送 力強化 のた め広 軌 にす るこ と, 幹線 は必 ず複 線 にす る こ と等を 要求 した。 こ れに対 し て井 上長 官 は, わ が国 の場 合海 岸を 避け ると 山岳 地帯 に な り建設 費 が増 加し, 経 常 の運輸 費 も増 大 す る。 ゲ ーヂ もわが国 は山 岳が多 く,又運 輸量 も少 な く, 狭軌 の方 が 建設 費 用 も少 な くて足 りる等 を 回答 し, 軍 の意見 に同質 し なかっ た。 こ れ がた め「参 謀 本部 長 ノ所見 ト鉄 道 局長 官 ノ所見 ト ノ 間 二凱齢 ヲ来 シ タ ル ヲ以 テ参謀 本 部長 熾仁 親王 ハ深 ク之 ヲ遺憾 ト セラ レ鉄道 局 長官及二 ,三 ノ局員 ヲ官 邸 ニ`招 致 シ参謀 本 部員 若干 ト 会 シ互 二意 見 ヲ交換 セシタ タリシ カ遂 二一 致 ヲ得 ル ニ至 ラ ズ」(r 日本鉄道史』上篇,649−51頁) と い う状 態 であ った。  また井 上 は鉄 道 経営 の資 本家的 弊害 を つ ぎ の よ うに指 摘し てい る。 第1 に 収支 が償 わなけ れ ば必 要 な る線路 を延 長 し ない こ と。 第2 に 会社 は鉄 道を 独

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6 占 す るこ とレ 第3 に資 本 の増 加を恐 れ改良 を怠 る こと。 第4 に重 複 の線路 を 敷 き不 必要 な競 争 を す るこ と。 第5 に一地 方 の利 益 のみを 目的 と す る 鉄 道 は, 後 日全 国 的 な幹 線 の敷設 と重 複す ること。 第6 に 会 社数 が増 加 するに し た が い費 用 は 嵩 み紛 糾す る こ と。 第7 に 会社 は 地方 の人民 に威 ば り運 送謝 絶 の恐 れあ るこ と。 第8 に非 常出兵 等 の時 ,運 賃 値上 を 行 うこ と等 であっ た。 『叩 本鉄道史』上篇, 391− 2 頁。)これ は日本 鉄道 の成 功 に刺 激 され て各地 に続 出し て きた当 時 の 私鉄経営 の実績を 観察 した井 上 の正 確 な指 摘 であ り, ここ か ら彼 は鉄 道 の国営主 義 を主張 す る。(「鉄道政略 二関スル議」1891年,参照)  こ うした 井 上 鉄道庁 長 官 の下 におい て1892 年(明治25年)これ か らの国鉄O 建 設 を規定 し て行 く鉄道 敷設 法 が制定 さ れた。  鉄道 敷設 法 は幹線 国営, 枝線 私営 の原 則を 明 らかに す ると と もに, わが国 に お い て将来 建 設 すべ き予定 線33 線 を列 挙し, 右 の内 第1 期 に実 測並 び に敷 設 す べ き路線9 線 を決 定 し, これに は相当 額 の調 査費 を 使っ て策 定 した の であ る。 要 す るに 政治 的 な要求一 圧 力 に対 し て国 鉄 経営 の 自主 的 な 立場を 確保 し ようとい う狙 い の法 律 であ る。 「 第1 ニ全 国内 将来 敷 設 ヲ要 スル 線路 ヲ調 査 シ其緩急 順 序 等 ヲ考察 スル亦 夕緊 急 ノ事ナ ルヘ ク百 シ テ其 調 査 ノ方法 ハ各線 路 二就 手先 ツ地形 ノ大位 ヲ案 シ鉄 道 ヲ敷 設 シ得 ヘ キ ヤ否 ヤ ヲ踏 査 シ傍ラ民 口, 物 産等運 輸営 業 上 二関 係 アル事 項 ヲ精査 シ直 接 二鉄道 ノ開 通 二依 テ起 ルヘ キ 便益 ヲ商量 シ 敷 設 ノ価値 アル ヤ否 ヲ考究 シ 尚 ホ線路 二依 テハ数 年 内 二起エ ス ル ノ見込 ア片 モ ノハ 実 地 二就 キ傍測 ヲ要 スル カ故 二少 ク トモ 雨3 年 ノ時 日ヲ 要 スヘ キ見 込 ナ リ トス,依 テ25 ,26 雨年 度 二於 テ 継続 費 トシテ 全国線 路調査 費 全6 萬 円 ノ支 出 ヲ要求 ス」(r日本鉄道史』中篇,4 頁) 若 干 減額 さ れたがつ ぎ の通 りに 決 定し た。  合計 54,000 千 円   全国 鉄道 線路調 査費 内 訳  金22, 500円  明 治25年 度 金27,500 円  明治26 年 度   金4,000 円  明 治27 年 度  右 に も とづ き鉄道庁 に線路取 調 委員 を 置き ,定 員を 改 正 し て鉄道 線路調査 のた め技師5 名 ,属lO 名 ,技手40 名を増 加 した。(以上『 日本鉄道史』中篇,4 −5 頁) 初 代 の鉄道 庁 長官井 上 勝 は1893 年 明治2Q年)に辞 職し, 代 っ て長 官に就 任 した のは工 学博上 松 本荘一 郎 であ る。(松本長官は第1 回は1893 年−1897年。

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第2 回は97年−1903年 の計約10年間在職した。)鉄道 国有 化 後 の国鉄 の営業 政策を 確 立し た 人 とい わ れ る大正 期 の営業 局長 木下 淑夫 は松 本 長 官 につ い てつ ぎ の・ よ うに のべ てい る。丁我 国有 鉄 道が 過去2,30 年 間に亙 っ て,欧 米 の鉄 道に比。 し 良好 な る成 績を 挙げ 得 た事 は争 はれ ぬ事実 であ る。 斯 くの如 き好 成績 を挙レ・。 げ 得 た る所 以 は言 ふ迄 もな く日清戦争 前後我国 鉄 道 が大 いに 発 達 せ んとす る 時 に当 り, 最 初 の鉄 道 敷設 法を 判定 し て国内 主要 幹線 敷 設 の方針 を定 め,其 後 私設鉄 道軌 道 の免 許 に際 し て も最 も真摯な る方針 に よ り並 行線 の乱 設を避 け ,資 本 の浪 費 を省 きた るに 基因す る ものと謂 ふべ く, 此点 に就 ては予 は当 時 約10 年 間 に亙 りて, 我国 の鉄 道を 其双 肩に 荷い ,卓 越 せ る識見 と確固 た る 方針 とに依 りて,施 設按排 実 に其宜 し きを得 た る名長 官 松本 荘一 郎博士 の功 績 を追想 し て止 まな い の であ る。 。乱…松 本博 士 は前 世紀 の中 葉欧 米諸 国 が所 謂 『鉄道 濫設時 代 』 に於 て,各 国 の実業 家財 政 家等 が鉄 道 の投 資 を以 て直 ぢ に国富 を増 し又 早 晩投 資 に対 し て過 分 の収益 を 挙げ 得 べ き もの との皮 相 な る 観 察 よりし て幾多 並 行線 の乱 設並 に 自然 の富源 に乏 し き 地方 に不急 線 路の建 設 を行 ひ ,為 め に財 政 を塵乱 し資 本を 浪費 し た る実蹟 に 鑑 み, 後進 た る我 決 道 は其 轍を 踏か なか らん ことに戒 心し 投資 に慎重 な る調 査研 究 を 遂げ 緩急 を 按排 七濫 設を 避 く るこ とを以 て鉄 道 政策 の根本 方 針 とさ れた の であ る。 従っJ て当時 或 は官 線 の収 益多 き区 間 に並 行し て有益 な る私設 線 を 設け んとす るも の,或 は将来 の収益 は兎 も角 建 設中 に於 て 私利を 営 まん とす る企業 家或 は収 益 の見込 乏し き僻 販 の地に 新線 を敷 設 せ んとす る等続 々有 力 な る紹介 若し く は,政党 員 の運 動等 に 依 りて敷 設許可 を 迫 りた る者 あ りし 乱 博士 は萄 し く も自ら其 局 に当 る以 上 ,縦 令有 力 者 の感 情を害 し 又 は政 党 よ り疎 外 せ られ若 し くは消極論 者 と罵 ら るる も敢 て辞 せ ず とし, 所謂 毀 誉褒 販を 度 外 に置き一 意 穏健 な る見 地 の下 に我国 有鉄 道 の永 遠 の利 害 に のみ着 眼 し て邁 進 せ られた のであ る。 此 博士 の健 実 な る画策 は実 に今 日 の盛運 を来 した る所 以 であ る力≒ 官 僚思想 の脹 れ る当 時 にあ りて,博士 が諸先輩 其 他有 力 者 の所説 を排 して 自 ら信ず る所を 断 行 せ られた る苦 心 は,誠 に想 像 の外 な りし こ とと察 せ られる のであ る。」(木下淑夫『国有鉄道の将来』1924年,3 ∼5 頁) 絶対 主義 官 僚 の真 骨 頂を発 揮 し た も ので, こ うい う鉄道 局長官 がい た0 で あ る。 国鉄 の建 設 時代 か ら,私 鉄 の国 有 化一 国 鉄 の基盤 確 立後 ,大 正 の中 期 まで

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S い わ ゆ る国 鉄 の 「 興隆 時 代」 にお い て国鉄 経営 の リーダ ーシ ップを とっ た の は絶対主 義 官僚 であ り, 中 で も国有 化 後 の中心 人物 は後 藤新 平(1857−1929 年) であ っ た。 ところ が第1 次 世界 大 戦を契 機 として 国鉄 の将 来 のお り方 に つ い て政府 内 部 で大 き く意見 が分 れ る のであ る。 後藤 新平を 中 心 とす る人 々 は , 広 軌 改築 ( 線路のゲーヂを三沢六吋から,ヨーロッパ並の4 沢8 吋5 の標準型 へ改良) を 中心 に 幹線 の輸 送力 拡充 =改 良 主 義を主 張 し, 政 友 会 の原敬 を 中 心 とす る人 々 は,鉄 道 の効 用を 知 らない地 方 の人 々 のた めに新 線 の建 設 =建 設 主 義を主 張 した。 人 物 とし てあげ る とつ ぎ の よ うに なる。 改 良主 義 者 とし て は後 藤新 平(鉄道院総裁), 中 村是 公(鉄道院総裁), 仙 石貢(鉄道大臣),白 石直 治(帝大教授),古 川 阪次 郎( 鉄道院副総裁), 島 保 次 郎(国鉄技監), 木 下 淑夫(国鉄営業局長)等 ,建 設主 義 者 として は原敬(鉄道院総裁), 床 次竹 次 郎 ( 鉄道院総裁), 大沢 界雄 (参謀本部運輸部長), 石丸 重美(鉄道院副総裁), 大 村 鋼 太 郎(国鉄建設局長)等 であ った。(青木槐三「鉄道史話」『国鉄』71号) 3. 自 動 車交 通 への対 応   あ る社 会組 織 の歴 史 上 におけ る性 格 は,新 しい 生産 手段 の出 現にた いし て ど の よ うに対 応 す るかに よっ て 明 らかに な る。   わ が国 の鉄 道史 江お い て歴史 的 な 転換 と なっ た鉄道 敷 設法 中改 正法 律を 推 進 し た原 敬内 閣 が成 立し た のは1918 年(大正7 年)であ る。 し か るに世 界 の 交 通 界を み る と, この時代 に は鉄 道 輸 送に比 較し ,少 資 本に より短距 離 輸送 に す ぐれ た特 徴を 発揮 す る 自動 車交 通 が本格 的 に発展 し ,鉄道 輸送 は黄 金 時 代 の幕 を とじ ,そ の独 占 が音 を た てて崩 れ て きた のであ る。 ヘ ン リー・ フ ォ ード(1863−1947年)がT 型 フ ォードを 完成 し た のが1908 年 明治4:i年) であ り,つ づい て1913 年(大正2 年)に は組 立ラ イ ン方式 に よる大 量生 産 体制− い わ ゆ るフ ォード・ シ ステ ムが 完成 す る。 モ れ まで の自動 車 は,い わ ゆ るカ ス タ ムー 注文 生 産 であ り, ロ ール ス ロイ スや ボ ル ボは 現在 でも この 方 式 で あ る。 フ ォー ド・ シ ステ ムに よっ て, 自動 車 の価 格 がい っ き ょに1/4, 1/5に 低 下し , 市場生 産 とな り, 消費 者信 用一 月賦 販売 制度 と結合 し て大衆 車時 代 。が当 来 す る。 これ が鉄 道輸 送 に影 響 を及 ぼ さ ない わけ は なく,世 界 の交 通界 は 未 曾有 の変 革期 に突 入す る のであ る。        ニ 由 来 ,わ が国 の資本主 義経 済は農 村 の特 殊 な状態 か ら国 内市 場 が狭 陰 で,

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そ れだ け 商 品 流 通 が 未 発 達 であ り, 加 え て 馬 車 時 代 の 歴 史 は 浅 く主 要 な道 路 は 江 戸 時 代 の ま ま の 状 態 だ っ た の で 第2 表 の通 り , 自 動 車 交 通 の発 達 が遅 れ て い た が , そ れ で も1923 年( 大正12 年) の関 東 大 震 災 を 画 期 と し て 自 動 車 が 増 加 し て き た 。  こ う し た 当 時 の世 界 的 な 情 勢 を 背 景 とし て 貴 族 院 の 鉄 道 敷 設 法 改 正 法 律 委 員 会 に お い て 前 の 国 鉄 総 裁 だ っ た 中 村 是 公 は 新 線 建 設 に反 対 の 立 場 か らつ ぎ の よ う な 発 言 を し て い る 。  「 是 カ ラ ド ヴ運 輸 交 通 ノ機 関 ト云 フ モ ノ ガ 発 達 スル カ分 ラ ナ イ, 20年 モ30 年 モ経 チ ヤ … … 今 デ モ 郵 便 ナ ソ ト云 フ モ ノ ヲ飛 行 機 デ モ 運 ブ シ 人 間 モ飛 行 機 デ 運 ベ ル , 又 自 動 車 ナ ソ ト 云 フ ヤ ウナ モ ノ ガ無 暗 二発 達 シ テ来 ル 今 日ブ ア リ マ ス カ ラ, 自 動 車 ノ発 達 ト 云 フ モ ノ ハ 将 来 ド ウ云 フ 風 二発 達 シ テ 来 ル デ ア リ マ セ ウ カ , 又 郵 便 飛 行 機 ト 云 フ モ ノ モ 出 来 テ飛 行 機 デ 運 ブ シ , 人 間 モ運 ン デ 呉 レ ル 世 ノ 中 ニ ナ ツタ カ ラ , 今 敷 設 法 二 規 定 シ テ ア ル 小 サ イ 線 路 ナ ド ノ如 キ ハ , 自 動 車 デ 済 ム コ ト ガ 多 々 , 私 ハ 出 来 ル ダ ラ ウ ト思 ヒ マ ス , サ ウ ナ ッテ来 第2 表  本邦自動車台数累年表 乗 用 車 貨 物 車 合  計 増 加 数1 年間の 増 加 率 1916  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28  29  30  31  32 1,624  2,649  4,491  6,847  9,355 11,228 13, 48310, 66618, 95122, 45627, 97335, 77544, 66052, 82957, 82762, 41964, 282 24  23  24  204  644  888  1,383   2,099   8,282   9,425  12,097  15, 987 21,719 27 541  30, 881 34, 837 35, 939 1,648   2,672   4,533   7,051   9,999  12,116  14, 866 12,765 27, 233 31, 881 40, 070 51, 762 66, 379 80, 370 88, 708 97, 256100, 221 1,024   1,861   2,518   2,948   2,117   2,750 −2,101  14, 468  4,648 8,189  11, 692 14, 617 13, 991  8,338 8,548   2,965 62.1   69.6   56.5   41.8   21.2   22.7 −14.2  113.3   17.1   25.7   29.2   28.2   21.1   10.4   9.6  3.0 ( 注) 田 中 喜 一 『 自 動 車 交 通 経 済 論 』1936 年. 49頁 。

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10 レ バ又 他 日改 正 ヲ要 スルモ ノ ガ非 常 二出 テ来 ル,此 日進 月歩 ノ今 日 二於テ ,:20 年, 30年 先 キ ノモ ノ ヲ今 日 カ ケ規定 シテ 置 ク程 ノ要 ハ 私ハ ナイ ト,斯 ヤ ウ レニ申上 ゲル ノデ アリマ ス」(1921年3 月13日) こ の特 以 来 半世 紀を 経 過し た今 日 の新 幹 線 の建 設計 画 に も十 分通 用す る内 容 の発 言 で あ ろ う。 \木下 淑夫 は , さ きに も紹 介 した が既 設線 の輸 送 力充 実一 改 良 主 義 者 で あ 呪 新 線 の建設 に反 対だ った ので,政 友会 内 閣 の成 立 とと もに 営業 局長 の地 位 を 追 わ れ, 結局退 職 した人 であ るが当時 つ ぎ の ように のべ てい る。   「欧 米 諸国 殊 に英 国 に於け る自動車 運 輸 の発達 と, そ の営業 上対 鉄道関 係 とに鑑 み, 我国 有 鉄道 経営 分将来 に於 い て 乱 こ の新 運輸 機関 の長所を利 用 す る の意味 を以 て,既定 政策 に多 少 の変更 を 加 ふべ き 必 要 があ る と思 ふ。  即 ち将 来 建設 す べ き諸線 路中 ,貨客 少 く地形 も また 鉄 道敷設 に は莫大 の費 用を 要 す る如 き地 方に は ,宜 し くそ の敷設 に先 だ ち 自 動車 運 輸を 開始 す るの レ計 画を 樹 て,差 当 り現 在道 路 の用い得 べ き処 は こ れに より,然 らざ る ものは これを 改築 し ,簡 便 の方 法に より速 か に 自動車 運輸 を 開始 す るを 良策 と信ず る。 最 近営 業 を開始 した る国有 鉄 道 の諸 新線 は,多 く は1 箇 年 の 平均乗 客数20 万 内 外 ,貨 物3, 4 萬 トン位 のも の多 く,中 に はそ の半 に も及 ばぬ もの も あ る と思ふ。 而 して 今後建 設 さ るべ き新 鉄道 網 の諸線 に至 っ ては ,線路 の性 質 概 し て前記 新 開業 線 より貧弱 なるが ため に ,開業 後 に於け る貨 客 の数量 は これ 等 より 七更 に少 か るべ く,且 線路 の距 離 も多 くは3, 40 哩 位 なるを以 て, 自動 車運 送 に最 も適 す る と思 ふ。 ●●●●●・果 し て然 らば こ れ等 の方面 に向っ て既 払 述 べ た る如 く莫大 の建 設費を 投 じ,開 業 後 は営業 上 年 多 額 の鋏損 を予期 し て まで 乱 元,速 に鉄 道を 新設 す る の要 なし と考 ふ。宜 し く国有 鉄道 は地方 と 卜共 同し て , まず早晩 改 築若し くは新築 を要 す べ き道 路 の改 良方 法 を実行 し, そ の修 繕費 の一 部 は国 有鉄道 に て負担 す る と共 に道 路 の改良 な れ る暁 には国 有 鉄 道 自 ら自動車 の営 業を なす を良 策 と考 へ る。」(木下淑夫『国有鉄道の将来』:1924 年,37∼39頁)  右 の通 りに し て,中 村是 公 は前 の国鉄総 裁 であ り丿 木 下淑夫 は営 業 局長だ っ た が, これ らの鉄 道 の改 良主 義を主 張 す る人 々 が, 第 一次 大戦 後 も引続 き 鋼 鉄 経営 の指 導を 行 っ ていた な らば , 新線 の建 設 を行 わない で自動車 輸送を 積 極 的 に と り入 れ, 鉄 道 と自動 車 の協 同輸 送一 当時 の 英 語 でい うCo-ordi-nation が実 現し , わ が国 の陸上 輸 送構造 は, つ ぎに のべ る歴史 とは質的 に

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相 違 し た 几 の ど な っ て 行 っ た で あ ろ う こ と は 確 言 し 得 ら れ る こ と で あ る 。 と こ ろ が1918 年 政 友 会 内 閣 の 成 立 と と も に 後 に 詳 し く の べ る よ う に 改 良 主 義 者 は 国 鉄 の 首 脳 部 か ら 一 掃 さ れ , 建 設 主 義 者 が こ れ に か わ っ て 行 っ た 。 と く に 注 目 さ れ る の は , 工 学 上 の 系 列 が 去 り , 新 た に 法 学 士 の 系 列 が 国 鉄 経 営 の 主 導 権 を 握 っ て 行 っ た こ と で あ り , そ の 象 徴 と し て 工 学 上 木 下 淑 夫 に か わ ら て 営 業 局 長 と な っ た の は 法 学 士 中 川 正 左 で あ っ た 。 そ れ で は 新 し ト 国 鉄 の 首 脳 部 は 自 動 車 交 通 に 対 し て ど ん な 政 策 を 打 ち 出 し て 行 っ た か 。 1923 年 ( 大 正12 年 ) の 関 東 大 震 災 は 震 度7 の 激 震 で 路 面 電 車 は も ち ろ ん , 関 東 地 方 の 鉄 道 輸 送 は 全 面 的 に マ ヒ 状 態 と な り , 陸 上 輸 送 は 混 乱 し , こ こ か ら 改 め て 自 動 車 輸 送 分 重 要 性 が 社 会 的 に 認 識 さ れ て き た 。 さ き の 第2 表 の 通 り , わ が 国 の 自 動 車 台 数 は1924 年 ( 大 正13 年 ) に 至 り , い っ き ょ に 前 年 の2.1 倍 へ と 増 加 す る の は そ の 現 れ で あ る 。 こ う し た 情 勢 を 背 景 と し て 国 鉄 一 鉄 道 省 (1920 年 鉄 道 院 か ら 鉄 道 省 へ 昇 格 ) と し て 何 ら か の 自 動 車 対 策 の 必 要 に 迫 ら れ て い た 。 し か し 政 友 会 内 閣 の 成 立 と と も に 新 た に 構 成 さ れ た 鉄 道 省 の 指 導 部 に は , 大 規 模 なpr ― カ ル 線 の 鉄 道 建 設 が 開 始 さ れ て く る の で 木 下 淑 夫 前 営 業 局 長 の よ う な 鉄 道 と 自 動 車 と の 協 同 輸 送 と い う よ う な 進 歩 的 な 構 想 の 生 れ る 余 地 は な く , む し ろ 反 対 に 鉄 道 輸 送 を 守 る た め の 自 動 車 輸 送 統 制 政 策 を 打 ち 出 し て く る の で あ る 。 そ の た め に は 国 家 権 力 が 必 要 と な り , 当 時 逓 信 省 に あ っ た 陸 運 監 督 権 が , 鉄 道 省 側 の 要 求 に よ り1928 年 ( 昭 和3 年 ) 鉄 道 省 へ 移 管 さ れ る の で あ る ○       ・      I ・ 鉄道に よる貨 物輸 送 め場 合,鉄 道 が自 ら トラ ック等 に よる道路 運 送を 経営 し ない限 り通 運業 者(俗称運送店)の協力 を必 要 とす る。 ここか ら通 運業 者は 必 然的に 鉄 道輸 送 の営業 部 門を 掌握 す る こと に な り(専 用線輸送のように道路 運送を必要としない大荷主の貨物はいわゆる「直扱」として鉄道に直結する)し たが っ て トラ ック輸 送 が発達 し てく ると,鉄 道 として は通運 業 の動向 に重 大 な関 心 を 屯た ざ るを得 な くな る のであ る。 他方 ,通運業 者0 側 は ,第 一次 大戦 に よ る経済 の発展一 貨 物 輸送 の増 大 に よっ て小資 本 で開業 が で き る自由営業 だ っ た ので正 に「 雨後 のたけ のこ」 の よ うに増 加 し,不 況 期 の到 来 とと と もに 競 争 がはげ し く, 貨 物引 換証 付貨 物 に対 す る仮渡 し(貨物引換証なしで貨物を

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12・ 引渡す)事件等 も多 く発生してい た。 こ うした情勢において国鉄 は, トラッ ク輸送対策 として,駅 から居宅 までの集貨・配達 も国鉄め責任において引受 け る「特別小口扱」制度を新設することになった。 ここにおいて鉄道省は運 送店 の大合同を声 明し,合同した通運業 者には鉄道省 の指定運送取扱人とし て右 の特別小り扱の道路上 の集貨・配達を独占的に請負わせる等の特権を与 え るこ とにした。しかし,指定運送取扱人 となった通運業者は,右の特権 と 引換えに「 省の利益に反すること得ず」 とし て鉄道輸送と競争となるような トラ ック輸送は行えない とい う条件 付であった。この結果,合同した全国 の 通運業 者は, 中央に新設された国際通運(1937年日本通運となる)を中核とし て組織され,鉄道輸送を守護す るため のトラ ック輸送に対する全国的な防波 堤が成立したのであ る。かくして鉄道省の権力 と運送業者の全国的な組織化 に よりわが国 のトラ ック輸送経営 は日陰者のように零 細な形 でのみ辛うじて 発展することになるのであ る。 1933 年(昭和8 年)自動車 交通 事業 法 が制定 , 実施 さ れた。 この法 律は「 定 時 ,定 路線」 の自動 車輸 送を 取 締 る もの で対 象 は主 とし てバ ス輸 送 で あ っ た。「一 路線一 経営」つ ま り「 独占 」が 原則 で「当 該( バス)路線 よ り5 粁の範 囲 内 に鉄道 ・軌 道 ・索道 ・自動 車道 事業 又 は他 の自動車 運 輸事業 の路線の在 る もの」等 は,免許 に 慎重 に 期す るた め 地方 長官 に委 任 す る ことな く鉄道省 が 直接 審査 に当 るこ とにし た。(一般的には地方長官)こ うし た関 係 で バ ス事業 の 譲渡 の場 合, そ の価格 の1/2 前 後 は「 暖簾 代」(法的独占による営業権)が占 め てい た。 現在 ,宅 急 便 で有名 な大和 運 輸は , こ の法 律 に よ る免 許 を得 ない で 定 期便 輸 送(現在の宅急便)を 行 っ てい た の で, 1936 年(昭ii年)浦和警察 署 か ら法律違反 め告発 を うけ不 起 訴 に はなっ た が,呼 称 を 大和便 に変 えるとい う 事件 が起 き てい る。 当時 , 名 古屋 鉄 道局 の貨物 掛長 とし て国 鉄 の貨物輸 送 の 第一 線 の責 任者 だ った 柏原兵 太郎 とい う人 は, 敗戦 後 つぎ の ように語 っ て い る。「 皆 さ んの御参 考 に供 し たい こと は,当 時不 況 で ,一 番 大 きな影 響は トラ ッ クの脅 威だ っ た のです。 ト ラ ックに ど ん どん貨 物 を取 られ る。今 か ら 思 えば ト ラ ックの数 も大 した こと も ない し ,長 距 離 も大 し て発 達 してお らな かっ た が, わ れわ れ若 かっ た ので ト ラ ッ クを 目の仇に し て これを向 うに回し て 貨物を と られぬ よ うにい ろ い ろ勉 強 した のです。・・・・・寸私 達 の時 代は トラ ッ

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ク を 征伐 し よ う と か か っ た の で す が , 寧 ろ 大 き な 観 点 か ら い っ て ,( 鉄道は) ト ラ ッ ク と 協 調 し て両 者 の共 存 共 栄 ・ 発 展 を 期 し て 行 く と い う考 え が い いO で な かろ うか と 思 っ て お り ま す 。」(r 配 車研究』9 巻10 号10頁 )右 の通 り に し て 戦 前 に お け る鉄 道 省一 国 鉄 の 自 動 車 政 策 が 明 ら か で あ る。 鉄 道 省 の 権 力 と国 鉄 と い う組 織 の圧 力 を うけ て , わ が 国 の 自 動 車 経 営 は , 旅 客 , 貨 物 と も零 細 な 資 本 に よっ て 「 不 具 者 」 的 な 形 態 で の み 細 々 と 発 達 し , こ こ に 保 守 政 党 の 下 に おけ る交 通 政 策 の 特 徴 が あ っ た。 に の項 ゆ, 大島 『 国 有鉄道 の史的発展』1949 年,第4 章参照) 4. 日 本的 鉄道 輸 送 の形 成  A  資 本 の追 加投 入  第一 次世 界 大戦 は 日本経 済 に とっ て正 に「 天佑」(井上馨 の言葉)であっ た。 日露 戦争 後 続い てい た景気 の低 滞を打 破 して生 産 力を 拡 大 し, 地 域的 にみ て も京 浜重 工業 地帯 はこ の時 期 に形 成 さ れた のであ る。 し たが っ て国鉄 の貨物 輸 送 への需要 は激 増 し, し か もこれに 拍車を 加 えた の は ,貿易 の増 加 に より 外国 航路 が大 い に も うか るた め日本郵 船 が沿岸 輸 送か ら引 き上げ ,こ の分 の 基 礎 資材 が国 鉄輸 送に押 し よせ て きた こと であ る。 第3 表 に よ ると国 鉄 の輸 送 量 は1912 年( 明治45年)以 降 の8 年 間 に旅客 ・貨 物 と も2 倍以 上 に 増 加 し た。 運賃 の値 上げ で営 業収 入 は増 加し たが ,石炭 費 に み られ る よ うに物 件費 の増 加が著 し く, これに対 し て車両 を はじ め として 輸 送施 設 の拡充 が遅 れて 第3 表 1912年に対する1920年の増加率 旅 客 輸 送 量(人キ ○ 貨 物 輸 送 貨 営 営 人 石 利 益 量 ( ト ソ キO 車 ( 定 員 合 計 ) 車 入 費 費 費 子 金 収   業 件 炭  業 ( 積 載トソ数 合計) 2.3 2.2 1.5 1.8 3.8 4.8 4.1 8.9 1.4 2.8 ( 注) 『 鉄 道 要 覧 』 か ら 作 成

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14 いたので,逼迫した輸 送状態 となった。いいかえれば,現有施設に対し ては 非常に能率の よい輸送状態一実は施設・車両等が酷使されている こ と で あ り,当時 の状態を国際的に比較してみると第4 表 の通りであ る。 アメリカは 地理的に沿岸海運 と河川 の舟運が少なく,荷口が大きいから条件が異な り, 旅客のベルギー,貨物 のドイ ツを除 くと日本の輸送能率はズバ抜け てお り, こ うした諸条件の中 か ら,国鉄輸送の日本的な特質 が生 み出され るのであ る。 すでにのべた ように輸送力の増強策 として線路の狭軌から広軌への改築 は 中止され, ローカル線 の建設拡大のため既設の単線区間 の複線化等,輸送力 の根本的な増強等は進 まなかったが,資本 の追加投入に よる新しい技術 の導 入 も行われ,しかしそこには日本的な特質が示されていた。以下 この点を紹 介し よう○  山坂 の多い わが国 の場合,列車が長 くなると機関車の牽引力が重大問題と なってくる。機関車 の牽引力を規定するのはピストンを動かす蒸気 の圧力 で あ り,蒸気 め圧力は石炭を燃 焼する火室の大きさに比例す る。さらに火室は 第4 表 平均1 哩に対する1 ヵ年間の貨客輸送量 日 力 △ べ ナ ル  ギ ソ  ラ  ラ 中 デ フ オ イ マ ソ -ソ  ソ 本 ダ ー 国 ク ス ダ ド ノ ー ル ウ ユ・イ 南 オースト ラリ ア ス ウ ェ ー デ ン イ   メ 7    ア △イ △ ド ギ  イ リ  リ ス  カ 7    ツ 旅 客 一千 人1,300 82 1,429  424 486 474 461 492 218 105 165 359 183 646 673 貨 物 一 千 トソ1,030 798 616  355  671  490  677  167  129  417  239 1,738   622 1,018 ( 注) 『 国鉄興 隆 時 代J 1957年 ,358−9 頁。 日本は1919年 ,△ 印 は 第 一 次大 戦前 ,そ の他は ,1918年 ないし1919年 。

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あ の丸 い耀 の太 さ に依存 し ,耀 が 太け れば 火室 を 大 き くす るこ とが でき る の は当 然 であ る。 し か るに耀 は動輪 の間 に はさ まれ るか ら, 究 極的 には線 路 の 幅 員− ゲーヂ に よっ て制約 さ れ るこ とに なる。こ の点 国 鉄 は1872 年(m 治5 年) 新 橋一 横浜 間 で3 阪6 吋 の狭 軌を 採用 した ことが 決定 的 な制 約 と な り, いわ ゆ る「植民 地型 」 といわ れ るの であ る。 そ こ で狭 軌 の状態 にお い て,し か も な お かつ火 室 を大 き くできない か, ここに国 鉄 の技 術 者 の苦 心 か お りこれを 解 決 し たのが9,600 型 の機 関車 であ る。 従来 の英 国型 の機 関 車 だ と,耀 か動 輪 と動輪 の間 に は さ まれる ので細 くな るが, 9,600 型 は 動輪 を 思い きっ て小 型 とし ,他方 ,耀 を 太 くし て動輪 の上 に のせ た のであ る。 しか し ,動輪 が小 さい か ら耀を そ の上 にのせ て も重 心 はそ れ程 上 らない で安 定 す る。右 の よ う に し て火室 を広 くし, 大正時 代 の貨 物列 車 の機 関車 とし て ,そ の牽 引力 を一 段 と強 化し た のが9,600 型 であ る。 お そ ら く狭 軌 の機 関 車 とし ては, 画期的 で あろ う。(詳しくは,大島『国鉄』岩波新書,1956年, 164頁以下参照) つ ぎ は自動連 結 器 の採用 であ る。 1918年(大正7 年), ア^ リカ の鉄道(す でに自動連結器を採用)を 視察し て帰っ た島安 次 郎 技師 は , つ ぎ の理由 で時 の 中 村 是公総 裁 に 自 動連 結器 の採用 を申 請し た。 1. 列車 の牽 引両 数 の増大 2. 列車 組成 ・ 車 両入 換 の取 扱簡易 化 3. 連結 手 の死 傷 事故防 止(「交 通新 聞」1979 年9 月19 日)  こ の 目的 と順序 は重 要 な意味 を もっ てい る。 従 来 の連 結器 はわが国 の鉄道 創 設当 時 の事 情か らし てイ ギリ ス式 で現在 もヨ ーロ ッパ の鉄 道 は この旧 式 の 連 結 器 であ る。旧 式 の連 結器 は,車両 が ぶつ か り合 う瞬 間に 連 結手 が車両 の 間 に 入っ て, 20キ ロ以 上 もあ る連結環 を 相手 方 の車 両 のフ ッ クにひ っか け る のだ か ら危 険 な 作業 であ る。 輸送 需要 の増大 , 連結 貨 車 の増 加 とと もに事故 が 激 増 し1915, 6年(大正4, 5年)当 時 に は1,810 人 の連 結 手 の うち537 人 が 死 傷 してい るノ し かるに旧 連結 器だ と重い とい っ て も人力 でひ っかけ る連 結 環 だ か ら牽 引 力 は せいぜ い10 トン程 度 の貨 車 が限 度 であ る。 これ に対 し て 自 動連 結器 は は るか に強 度 であ り,大型 貨車 の長 大列 車 の編 成 が可 能 とな り, さ らに旧 式 の連 結 器 より車 両 と車両 の間隔を 短 ぐで き る ので ,列 車全 体 の長 さ が同一 で も連 結 車両数 を 増 加させ る ことが 可 能 で,線 路 や ホ ー ムの使 用能

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16 率 も向上 す る。 し かし 自動 連結 器 の取替 作業 は大 へ んであっ た。 1925年( 大 正14年)7 月17 日( 九州線のみ20日)1 日でい っせい に 取替 作業 は完了し た の で あ るが,当 時 の機 関 車 は3,500 両 ,客 車 は8,600 両 で, こ れ ら は所 属 の機関 車 や客 車区 へ帰 っ て く るの で作業 毛容易だ が,問 題 は52,000 両 の貨 車であ っ た。 アイデ ア とし て 事 前に 自動 連 結器 を全 貨車 にぶ ら さげ て走 り ,当0, 全 国主 要駅295 :*所 に 集 結し , いっ せ い に取 替 えた の であ る。 「 この長 編記録 を 読 む と,当 時 の国 鉄 の創 意 ・総 力 が結集 さ れ,職 種 ,職域 を問 わず ,一 致 協力 し て成し 遂げ た世 紀 の事 業 だっ た こ とがわ か る。」またわ が国 のこ の自連取 替 工 事に は, アメ リ カ のア ライ ア ンス 自動連結 器製 造 会社 が , ヨ ーロ ッパの各 鉄 道に宣 伝 の ため取 替工 事 の模 様を16 ミリ映 画 に撮 影七 だ。 これ に よっ て こ の大規 模な 作業 が世界 の鉄道 関 係 者の注 目を浴 び る とと もに ,そ の成功 に賞 讃 を博し た の であ る。 ヨー ロ ッぷ の鉄 道 は,各国 の車両 が 相 互 に のり入れ る 関係 もあって , 現 在 で 刳日式 の連 結器 であ る。  自動 車連 結器 の採 用 に よっ て連結手 の死 傷 事故 が激減 し たこ と はい うま で もない が,国 鉄 経営 とし て はさ き の第1 項・ 第2 項 が重 要 であ 呪 当 時 ,東 海 道線 の貨 物列 車 の定 期を3 往復 ,不 定期を1 往 復 ,同 じ く山 陽線 で も定 期 二列 車を 減 らす こと が でき た とい われ る。( 以上『 日本国有鉄道百年史』7 巻‥126 頁以下,「交通新聞」昭和54. 9.19日参照) 連結車両数を増加させレ さらにスピニド・アップして輸送 の能率を上昇す るためには従来の貫通真空ブレ ーキ方式を改良し,空気 ブレ ーキ方式に変更 することが大 きな課題となってきた。わが国 の場合,地形 的に も匂配線区 が 多い ので, 匂配線におけ る制動力の確保は絶対に必要な条件 であった。そ こ で1919年( 大正8 年)空気制動装置を全車両に採用する方針を決定し,調査に 着手した。1924年( 大正13年) 空気制動機 の基本型 とし て機関車 にはウエスチ ンタハウス社のET6 型を,貨車には同社 のKC またはKD 型を採用す るこ とに決定した。電車は駅間距離が短 く,停車回数がひ んぱ んなことから,客 車 の標準型 として採用のA 型 動作弁を適用したAE 型 が採用された。右の通 りにして1931年( 昭和6 年) 全車両 の空気制動化が完成され, これに よって, スピード・ア ップ・列車編成車両数 の増加,とくに下 り勾配線におけ る列車 制動 の保安 度は著し く向上し,運転能率は画斯的 に 上昇 した。(r日本国有鉄

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道 百 年 史J 7巻, 129頁 以 下 ) 第一 次世 界大 戦に よる 日本経 済 の発 展 と と もに国 鉄 の線区 の中 で, 輸 送力 が 最大 の溢 路となっ てきた のは東 海道 線 であ り, 中 で も御殿 場 駅を 瓦 点とす る国府 津一 沼津 間0 現 御殿 場 線 の区 間 であ っ た。 た とえば, 1901 年(明治34 年) より東 海道 線 の列 車 に食堂 車 を 連結 した 昿  箱 根 と逢坂 山 は 匂配 が きつ く ,牽引力 いっぱ い で食 堂 車を つけ るた めに は三等 客車 を減 らさね ば な らな い。 そ こで国府 津一 沼 津 間 と ,大 津一 京 都 間 は食堂 車を はず す とい う, 違 例 の 処置を とった の であ る。 そ の後 食堂 車を ボギ ーに 改造 した ので右 の取 扱 は と りや めたが,輸 送力 ギ リ ギ リの状 態 であ った。(r国鉄興隆時代』1957年,148 頁以下)筆者は御 殿場 線 の山 北 在に お ら れ る退 職し た老 機関 士 か ら, 箱 根 の 山 の蒸気機 関車 の順焚 きの きび しい 苦 労話 を聞 い てい る。東 海道 線 が 日本経 済 全体 の動 脈 であ るだ け に箱 根 の山 の輸 送力 の限界 が, と くに切 実 な問 題 と な り,ここか ら熱 海 経 由が 浮上 し てきた 。  東 海道線 を熱海 経 由に か え る場 合 ,最 大 の難 関 は丹那 トン ネ ルの開 さ くで あっ た。 トンネ ル の長 さ は7.8 キ ロ であ るが, 丹那 盆 地 の直 下 を 貫通 す るの で,湧 水に よる土 砂崩 壊 に 悩 まさ れ,67 人 の尊 い犠 牲 者を 出 し た。 1918 年 第1 図 熱海線と御殿場線との比較 国 府 津 沼 津 間 比 較 表 種 別 線路延長 最急勾配 最急勾配 延  長以上区間延長勾配10/1000最  小曲線半径同 延長 水 平直線 換算延長 引力の割合機 関 車牽 消費石炭割  合 最 高 点海  抜 御 殿場 線 60,350m 25/1,00019,470m 51,020m 400 m 10,I40m 119,410m 1.0 3.3 457in 熱 海 線 48,540 10/1,000 11,750 11,750 400 4,830 63,090 2.5∼3.0 1.0 79 ( 注 ) 『 日 本 国 有 鉄 道 史 』9 巻, 68頁 。

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18 (大正7 年)に着工し, 1934年(昭和9 年)に完成, 実に16 年を要し, 工費は2,673 万円であった。第1 図の通り,旧東海道線(現御殿場線)だ と,殆 んど海面 に近 い 国 府津 か ら35 キロ の距 離 で最 高点 の海 技457 メ ー トル の 高さ まで引上げ るの だ か ら大 へ ん であ る。 これ にたいし て熱 海 経 由 の 現東 海道 線だ と海技79 メ ー トル が最 高 の地点 であ り, しか も御殿 場 経 由だ と国 府 津一 沼津 間 は60 キ1=・で あ るが ,熱 海経 由だ と48 キ ロだか ら, いず れ にし て も大 へ んな輸 送力 の合理 化 であ る。(『日本国有鉄道百年史』9 巻,66頁以下) 他面 , 国鉄 のトンネル を掘 る技 術 は 明治 初年 イ ギリ ス人技師 の指 導 を うげ , 育生 された ものであ る力≒ 丹 那 の掘 さ くに よっ て世界 の水 準を抜 き, こ れを うけっ ぎ ,現 在青函 トンネ ル で世 界 の技 術 者 の注 目を あ び てい る こと は冒頭 の引 用文 に も示 さ れ て い る。新 幹 線 のスピ ードは , こ うし た国 鉄技術 の優 秀 性 の他 の側面 へ の現 れで あ る。(丹那トンネルの工事につい ては有馬宏「トンネルを掘る話」1941年参照) 以 上 の通 り, こ の時 期 におけ る資 本 の追 加投 入 は, 逼迫 した輸 送力 に対 す るギ リギ リ の施設 の拡 充 であ り, こ こに も国 鉄輸 送 の日本的 な特 徴 が あ っ た 。 B  「 技能 」 の集 積  前 項 で のべ た よ うな条 件 の下 におけ る資 本 の追 加投 入一 新 しい 技術 の導 入 を 補完 す る ものとし て,以 下 に指摘 す るのは ,資 本 の投 入 に よらない「 技能」 一 熟 練 の集 積 であ り, こ こに こそ国 鉄 輸 送 の 日本的 な特 徴が生 み出され てい る。  まず1 列 車単 位 の連結貨 車 数 の増 大 であ る。 1916年(大正5 年)の28.1 両か ら ,1921 年(大正10年)の40.8 両 へ と45 % も増 加す る。(r鉄道要覧』より) この 点 ,後 述 す る自 動連 結器 や空気 ブ レ ーキ の採 用 も当然 連 結車両 数 の増 加 に寄 与 す るの であ るが ,国鉄 の場 合 こ うし た資 本 の追 加投 入 に よらない「 貨車集 結 輸送 」 に特 徴か お る。貨 物列 車を 編成 す る操車 場一 ヤー ドで,機関 車 も足 りない か ら同一方面 行 の貨 車 を, 牽引 力 の限 界に 達 す る ま懲待 機 させ,最 大 限 連 結し て出発 す る。要 約す れば これが貨 車 集結 輸 送 であ るが, こ の方式 に よる と,機 関車 の運 用能 率 は上昇 す るけ れ ど 乱 荷 主へ のサ ービ スー到 達駅 へ の輸送 時 間は延 長 し,貨 物 は何 日着 駅 へ着 くか 判 らな くな るのであ る。  つ ぎ は機関 車 の修 繕 日数 の合理化 一 短 縮 であ る。 機 関車 は所 定 のキ ロ数 を 走 行 した な らば定 期 修繕 し なけ れば な らず, この 修繕 日数 は, 1912 年(大正

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元年)に は 平均 し て41.6 日 た っ た も の が ,1927 年(昭 和2 年) に は6.6 日へ と 極 端 に短 縮 さ れ た 。 修 繕 工 程 を 分 解 し , 分 業 化 し た の で あ る 。 1929 年 (昭 和4 年)東 京 で 開 催 さ れ た 万 国 工 業 博 覧 会 で 国 鉄 の機 関 車 の 修 繕 方 式 を 展 示 し , 説 明 し た と とろ , 偶 々 ソ漣 の 鉄 道 技 師 の 目 に と ま り, 感 心 し , 彼 の 帰 国 後 , 国 鉄 の工 場 関 係 者12 名 が ソ 連 へ 招 待 さ れ , 機 関 車 の修 繕 作 業 を 指 導 し , 感 謝 さ れ た 。『叩 本国 有 鉄道百年史 』7 巻,132 頁以下)  営 業 キ ロ1 日1 キ ロ当 り の列 車 回 数 は1915 年(大正4 年 ) の28.3 回 か ら,1919 年( 大正8 年) に は36.3 回 へ とOQ % も増 加 す る。(『鉄道 要覧』 より) 線 路 を 増 設( 単線 の複線化, 複線の複々線化) し な い で列 車 回 数 を 増 加 す る 方 式 は , こ の当 時 か ら 発 達 し , 国 鉄 の列 車 課 長 は つ ぎ の よ うに0 べ て い る。   「 我 が 国 鉄 の線 路 の大 部 分 は 単 線 であ り, し か も こ れ ら の単 線 区 間 に お い て , で き る だ け 多 数 の 列 車 を 運 転 す る た め に あ らゆ る 努 力 を 傾 け て き た 。 即 ち 信 号場 の増 設 , 速 度 の向 上 , 閉 塞 方 式 の変 更 な ど線 路 容 量 を 増 加 す る た め の あ らゆ る施 策 を 講 ず る と と も に , 最 も正 確 な 列 車 運 転 時 刻 を 設 定 し , 動 力 車 乗 務員 の操 縦 , 運 転 指 令 の 整 理 , 停 車 場 従 業 員 の運 転 取 扱 な ど の 熟 練 と相 侯 っ て , 輸 送 力 の増 加 に 努 め て き た 。 し か し な が ら相 当 長 距 離 に 亙 る 単 線 区 間 の通 し 列 車 の 最 大 列 車 回 数 は , 通 票 区 間 に お い て80 回 , 自 動 区 間 に お い て90 回 程度 と考 え ら れ る。 更 に 線 路 保 守 作 業 の 列 車 間 合 を 考 慮 に 入 れ る な ら ば , 前 記 の回 数 は 物 理 的 に 可 能 な 限 界 で あ り , こ れ以 上 の 輸 送 力 増 強 は 複線 化 あ る の み で あ る と 力 説 し た い 。」( 林武次「 単線におけ る列 車運転 の現状」『交通 技 術』11巻2 号。 傍点一 大島) 参 考 ま で の べ れ ば , 欧 米0 単 線 区 間 に お け る1 日 の最 大 列 車 回 数 は50 回 と い わ れ て い る が , わ が 国 鉄 は70 −80 回 を 普 通 と し , 特 殊 な線 区 で は100 回 を こ し て い る。 右 の よ うに し て , 線 路 の 増 設 と い う よ う な資 本 の追 加 投 入 が 不 十 分 な 状 態 で列 車 回 数 を 増 加 さ せ る と, い わ ゆ る 「 過 密ダ イ ヤ」 と な る。 ダ イ ヤ が 過 密 化 す れば す る 程 , ダ イ ヤ を 正 確 に 守 ら ね ば な ら ず , 結 城弘 毅 ら に よ る 「 運 転 人 は 秒 を 守 札 」 と い う運 動 が 起 る のは 大 正 時 代 であ る。 現 在 ,東 京 地 方 の 国 電 区 間 の ダ イ ヤ は , 走 行 , 停 車 時 間 と も5 秒 き ざ み と な っ て い る が ,恐 ら く世 界 に 類 例 が な い であ ろ う。 国 鉄 の運 転 系 統 の先 輩 の1 人 は つ ぎ の よ う に のべ て い る。 「 明 治 の中 頃 ま で は 汽 車 は 遅 れ る も のだ , 少 々 発 車 時 刻 に 遅 れ て馳 け 付 け て も乗 れ る と は , 常 識 の よ う に 考 え ら れ て い たo ・大 正4, 5 年 頃 よ り管 内 全 体 に 亙 っ て 列 車 は 時 刻 通

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20 り に動 く よ うに なっ た。そ の後 これ が慣 習 付け られて 汽車 は遅 れ る ものだ と の不 評 は一 掃 された。」(国鉄『国鉄の回顧』1952年,39−40頁)  輸 送貨 物 は 増加し た が貨 車 が足 りない 。 こ こにお い て 本省に配 車 課を 設 置 (1920年)し ,各 駅 へ の貨 車 の配 給 権を中 央 集 権化 し, 各駅 か ら提 出 され るぼ う大 な資 料 に 基づい て「 計画配 車」 とい われ る全 国的 な貨 車 の割 当制を実 施 し た。 この結果 ,貨 車 の運用 効 率 は画 期的 に向 上 し た。 これに より一定 期間 に お い て貨 車 の空 車走 行キ9 が少 な く,積 車走 行 キ ロ の多 い ごとにおい て わ が 国鉄 は世 界一 であ り, これ は統計 的 に も確 認 され てい る。 しか し, この方 法 に よれば与 え られた両 数 の貨 車 の能 率的 使用 に は資 す る が, こ の反面 ,荷 主 の個 別的 な要求 が無視 され る度 合が はげ し く,貨 車 は仲 々配 給 され ない の であ る。(大島「 日本における交通技術の特質」『経商論纂 』53号)  以 上 に 紹介 し てきた 事項 は資 本 の追 加投 入 に よらない 輸 送力 の増強策 であ っ て経 験 と熟 練 の積 重 ねに よる「 創 意工 夫」 に よっ て生 み 出さ れ,概し て労 働強化 を と もな う「 技 能上 と もい うべ き もり であ る。 島恭 彦 氏 のい う「 マ ニ ュフ ァクチ ュア型」 ないし 「 痩せ型」(r日本資本主義と国有鉄道』1950年, 231―2 頁) の鉄道 であ り, 国鉄 輸 送 の日本 的 な特質 を もっ と もよ く示 し てい る側 面 であ る。(以上,前掲『国鉄』38頁以下参照)

参照

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