青のイメージと「詩」の否定
――ボリス・ルィジイにみる20世紀ロシア詩の展開
1宮川絹代
1.はじめに 亡命ロシア文学の存在は、1970-80 年代を中心に、20 世紀ロシア文学が 一つか二つかという議論を呼んだ。ソ連崩壊を経て、その議論は過去のも のとなったが、一つと言われるロシア文学は依然として複雑さを抱えてい る。チャーギンが、「一つのロシア文学、より正確には、内的にまとまり のある現象として 20 世紀ロシア文学を考えることは、今日一般に受け入 れられているように見える(…)。しかし実際にはここで状況は一層複雑 になった」2と指摘する通り、20 世紀ロシア文学は一つと見なされること で、異なる展開プロセスを経験した文学による多様性を孕むことになった と言える。ロシア文学がいかに一つなのか、そしてその一つのなかでいか に多様性が生まれているのか、こうした問題は決して容易に解き明かされ るものではない。 そのようななかで、ロシア文学の統一性と、またその多様性とをともに 内包するイメージとして青のイメージを挙げることができる。ロシア文学 の統一性、すなわちロシア文学が隣接してきたヨーロッパ諸文学に対して 持つ確かな特殊性を、青という一つの色彩のイメージが生み出すのは、ロ シア語における青が二つの用語を持ち、どちらも基本色として認められて いるためである3。一般に、シーニイсиний
はより広い意味で用いられ る語であるものの、元来闇を宿した色として不吉なイメージで捉えられる 傾向が強く、一方のゴルボイголубой
は完全に肯定的で一切の闇を排除 した青を指す。これら二つの用語が区別されることによって、ロシア文学の青のイメージは、明確にヨーロッパ文学のそれとは異なる展開を見せる。 特に、それが明確に現れているのが、20 世紀初頭のロシア象徴派によ るヨーロッパ文学の青の受容である。一方では、18 世紀以降のヨーロッ パ文学において、永遠と結びつくイメージとして定着した青を、ロシア文 学も引き継いでいる。ゲーテやノヴァーリスのドイツロマン派、さらには フランス、ベルギーの象徴派において、象徴化されてきた青は、ロシアに おいて、特に 19 世紀末から 20 世紀初頭に、ソロヴィヨフからブローク、 ベールイらによって、ソフィアのイメージとともに象徴化された。けれど も、ロシア文学において、ヨーロッパの文学の
blau, bleu
は、シーニイ ではなく、ゴルボイとして受け入れられている。ブローク が「青い鳥」 の青はゴルボイであって、シーニイではあり得ないと述べるように4、永 遠やこの世を超えた世界と結びつく色彩は、起源において闇を想起させる シーニイではなく、絶対的に肯定的なゴルボイである必要があったからで ある。こうして、青は、ロシアに限らずヨーロッパ文学全体に普遍的な、 永遠のイメージとして象徴化されながらも、二つの用語はロシア文学独自 のイメージを創出している。 そして、象徴派以降のロシア文学でも、二つの用語の区別による、青の 象徴化を見ることができる。ロシア革命後、ロシアを離れながら、ロシア 文学の伝統を継承し、維持しようとした第一次亡命ロシア文学において も、青は独自の象徴性を孕み、象徴派とは異なるイメージで現れている5。 さらに、20 世紀ロシア文学の青の展開はそこで終わるものではない。本 稿は、20 世紀末 1990 年代の詩人ボリス・ルィジイの詩における青につい て考察し、特に亡命詩人ゲオルギイ・イワーノフの詩との対話に注目する ことで、一つの 20 世紀ロシア文学の中に息づく青の展開を明らかにする。 2.ボリス・ルィジイと亡命ロシア文学 ボリス・ルィジイは、1974 年チェリャービンスクで生まれ、スヴェル ドロフスク(後にエカテリンブルク)で 2001 年までの短い生涯を過ごしている。ペレストロイカ時代からソ連崩壊後への社会の大きな変化を、身 を以て経験した世代と言える。公表されている詩は、ほとんどが 1990 年 代から亡くなるまでのものであるが、それらは、少年時代だった 1980 年 代のありふれた日常を切り取ったような詩で、直接的に社会の変化を語る わけではないが、過去へのノスタルジーが指摘される。 そのようなルィジイの詩の特徴として、亡命詩人たちへ寄せる親近感が ある。詩人として早く成功を収め、ロシアを離れるという選択もありえ たものの、故郷の町に留まり続けたルィジイと、亡命を余儀なくされた 詩人たちを結ぶのは、物理的な空間、距離によって左右されることのな い孤独感である。例えば、「ロシア詩についての詩」
(«Стихи о русской
поэзии»)
(1995)という詩がある。 イワーノフはチュッチェフの詩を 鮮やかに美しく彩った。6 こんなに僕と君は孤独―― でも、おかげさまで、僕たちはロシアにいる。 彼はパリで生きて死んだ。 でも、祖国は去らないけれど、 僕と君ももっと近くで死ぬわけじゃない―― なんとこれは悲しいことか、愛しい人よ。(ОЖ, 26)7 亡命詩人であるゲオルギイ・イワーノフと、やはり長期間ヨーロッパで 過ごしたチュッチェフが、時間や空間を超えて、詩において繋がる一方で、 物理的に近くにいても、究極的に超えることのできない境界が、人と人の 間に横たわる。それは、亡命者であろうと、そうでなかろうと、等しく人 を孤独にする。 亡命者たちに思いを馳せながら、「祖国は去らないけれど」と述べる ように、ルィジイの詩的主人公は、亡命者たちの前に後ろめたさや罪悪感を抱くが、それは、他の詩にも現れている。「路面電車のロマンス」 (
«Трамвайный романс»
)(1995)では、やはり亡命詩人イワーノフの 名を挙げ、「人間味のある改札係たちの国に/僕は住んでいた――悲しい 無賃乗車客だ。/そして誰のことも見捨てずに、/イワーノフの詩を愛し ていた。」(ОЖ
, 30)と語り、イワーノフとは異なる国にいる存在として 「僕」を位置付けている。そして、「故郷の国の空気を吸い込み、/恥じ ながら、僕は感じた――盗んだ。」(ОЖ
, 31)と語る。「恥じる」のは、故 郷にいるからであり、「盗んだ」のは詩的な感覚である8。亡命者とは異な り、故郷の空気を吸うことができるにも関わらず、詩において共感するも のがあること、それを「盗ん」でしまうことを、恥じながら語っている。 さらに、「亡命者たち」(«Беженцы»
)(1998)という詩は、亡命者と は何かという問いを浮かび上がらせる。亡命者とは、必ずしも、物理的に 祖国を離れたものとは限らない。コカコーラやホットドック、ハンバー ガー、チップスというモチーフは、アメリカの亡命者たちを想起させる が、「亡命者ブルース」を繰り返し口ずさむ「私」が、公園の並木道の最 後で辺りを見回したときに、眼に映るのは、ロシアを彷彿させる風景であ る(「ヤマナラシ、白樺、/この空とこの夕焼けが/涙で滲んで散ってし まえ、/そしてもう元どおりに合流しなければいい。」(ОЖ
, 175))。亡命 先の風景とロシアの風景とが混じり合うなかで、場所がどこであろうと、 過去は等しく戻らないものとして浮かび上がることに読者は気づかされ る。亡命者たちとは、実際に国境をこえて亡命した人々だけではない。国 内に留まっている人々もまた、過去の風景を喪失し、その記憶を遠くから 眺めるとき、亡命者たりうる9。亡命詩人や作家は、異郷にあって、過去 のロシアに郷愁を抱いたが、ルィジイは 1990 年代のエカテリンブルクに あって、1980 年代のスヴェルドロフスクの日常を詩に刻んだ。その背景 にある喪失感もまた、亡命者たちとの距離を近づけた要素だったと言える。 しかしながら、亡命詩人たちとルィジイの結びつきは、ノスタルジーや 孤独感といったテーマ、内容に限られるものではなく、ロシア文学におけ る重要なイメージである青にも明確に現れている。そこから見えてくるのは、共感とは異なる、ルィジイのイワーノフへの返答である。 3.途切れた青──第1期 3-1.青の変遷 ルィジイの詩において、青は際立って頻度の高い色彩である。アリエフ は、ルィジイの青をブロークと結びつけており10、ショーミナはゲオルギ イ・イワーノフと結びつけている11。しかし、これらの議論は、シーニイ とゴルボイという、伝統的に区別されてきた二つの青を区別していない。 ブロークもイワーノフも、二つの青を表す語を区別して用いており、その 繊細な使い分けを無視しては、見落としてしまうものがある。 ルィジイの短い創作期間も、二つの青の割合に注目することで、区分す ることができる。1992 年から 1996 年は、シーニイがゴルボイの 1.5 倍程 度の頻度で現れるが、その後の 1997 年から 1999 年は、ほぼ同程度の割合 で現れる。そして 2000 年から 2001 年においては、シーニイがゴルボイの 2 倍の頻度で見られ、かつ、両方を含めた青は、年を経るごとに増してい る。カザーリンは、ルィジイの創作期間を発展段階において五つの時期に 分けているが12、本稿では青を軸に、上記の 3 段階に分け、1992 年から 1996 年を第1期、1997 年から 1999 年を第 2 期、2000 年から 2001 年を第 3 期とする。これらの三つの時期の特徴は、主にシーニイの内容と割合の 変化によって形成されている。そして、それは、亡命詩人で、すでに名前 が挙がっているゲオルギイ・イワーノフの青と深く関わっている。それを 解き明かすことで、ルィジイの詩の重要な側面を明らかにすることができ るはずである13。 3-2.ゲオルギイ・イワーノフの青 まず、ゲオルギイ・イワーノフの詩における青について述べておく必要 がある。イワーノフにおいて重要なのはシーニイである。象徴派がゴルボ イや瑠璃色を永遠のシンボルとしたのとは対照的に、特に亡命後の 1920
年代から 1930 年代において、シーニイは圧倒的に頻度を増し、永遠のイ メージとして象徴化されている14。1930 年代の最後の作品である詩的散 文『原子の分裂』でも、シーニイの象徴化が見られる。この作品では、一 人称の語り手によって、「醜悪な世界」における出口のない深い絶望感が 語られるが、その絶望の根源には、文学的言語の喪失がある。その絶望の なかで繰り返し現れるのが、「青いドレス」であり、これはロシア文学の イメージとなっている15。例えば、「僕は海辺に出て、砂の上に横になり、 目を閉じて、自分の顔に神の息を感じたかったのに。僕は遠くから始めた かったのに――青いドレスから、些細な諍いから、冬の霧の日から。『グ ルジアの丘に夜の闇が横たわった』――だいたいこんな言葉を僕は人生と 語り合いたかったのに」16、あるいは、「僕は簡単な説得力のある言葉で、 たくさんの魔法のようなかけがえのないものを説明したい――青いドレス について、些細な諍いについて、冬の霧の日について」17といった箇所か ら、「青いドレス」が文学や詩の創造を導くべきもののイメージであるこ とは明らかである。 そのようなイワーノフの 1930 年代の詩では、青が、「ただ」、「〜だけ」 を意味する
«только»
と結びついて、頻繁に現れる。例えば、「これはた だ青い香こう、/これはただ夢の中の夢、/星たちはひっそりとした庭の上、 /バラは君の窓辺に。」(1930)18や、「静寂だけ、/青い氷だけ、/永遠 に底に/測鉛は届かない。」(1930)19、「青い別れの波だけ、/青い『許して』 という言葉だけ。」(1931)20というように、「ただ」という語と「青」は、 「香」や「氷」、「波」、「『許して』という言葉」を修飾し、あらゆるもの が失われたところに、唯一残されたもののイメージとなっている。 そして、そのような詩の一つに、明らかにルィジイの詩が対話を交わす ものがある。 星たちだけ。青い宙だけ、 青く、永遠で、氷のよう。 青く、恐ろしい、青い星に満ちて。君の上に、僕の上にある。 静かに、静かに。極圏の彼方で 手を解かずに、眠っている、 誠実な友と、離れることなき友と、 死んだ友と、死んだ友が。 彼らは共にあって安らか、彼らはそばにいて幸せ…… 静かに、静かに。息をしないで。 星たちがひっそりとした庭の上に輝くだけ、 君の心の青い光だけ。21 この詩は、イワーノフにおいて青が象徴化される時期の詩の特徴を凝縮 させている。「パリ調の注釈」22と言われるにふさわしく、簡明な表現の なかに、孤独感や絶望を湛える。そして、「青はパリ調の色」23という指 摘もあるが、この詩においても、青が特徴的である。夜空の色彩であった 青が、最後には「君の心の光」を彩り、物理的な色彩を超えたイメージを 帯びる。こうして、喪失のなかで、ただ残されたものである青は、可視的 で物理的なイメージから内的なイメージへと転じることで、生と死、距離 を超えた価値の象徴となっている。 3-3.途切れた青に見るイワーノフとの対話 このイワーノフの「星たちだけ。青い宙だけ……」の詩に対して、ルィ ジイは二編の詩を残している。第 1 期と第 3 期のものである。それらはど ちらもイワーノフの詩のパロディとも言える。そして、その二編の詩は、 イワーノフの詩と対話を交わすことで、ルィジイにおける全く異なる二 つの青のイメージを露わにする。まず 1996 年の次の詩(
«Над домами,
домами, домами…»
)から検討したい。本稿で第 1 期とした時期の詩で ある。家の、家の、家の上 空色の雲が浮かんでいる―― ほらそれは僕たちと残るだろう 永遠に、永遠に、永遠に。 水蒸気だけ、青のなかの白だけ 群れ連なる石板の上に…… 決して、決して僕たちは消えない、 僕たちは花崗岩よりも強く柔らかい。 僕たちの殻は壊れてしまえ、 地上の生の幾何学は、―― 見回して、僕の唇にキスをして、 僕に手を貸して、僕と残っていて。 でも、僕たちが互いを離れる時には、 君は自分の翼で運び去って 水蒸気だけ、青のなかの白だけ、 空色と白があ…… (
ОЖ
, 99-100) まず、この詩の第 2 連の「ただ」«только»
という語と「〜の上」を意 味する«над»
が、イワーノフの詩と呼応するのは明らかである。しかし、 何よりも重要なのは、イワーノフの詩の第 1 連において、「僕」と「君」 の上にあるのが、「青い」空なのに対し、ルィジイにおいては、「水蒸気」 であり、「青のなかの白」であるという点である。 これは、二つの詩が共有する死というテーマと関わっている。イワーノ フにおいては、「僕」と「君」に対して、「死んだ友」たちが空の彼方にお り、生あるものと死んだものとが対置されている。そして、最後に、死んだものたちの永遠のイメージと結びつく星たちの輝きが、「君の心の青い 光」となっている。この「君の心」の光が、生と死という二つの世界を結 びつけることから、青もまた、生と死を繋ぐ永遠のシンボルとなっている。 一方、ルィジイの詩はどうだろうか。「僕たちの殻」、「地上の生の幾何 学」は脆いにも関わらず、そのような存在は「強く」、消えることはない。 「群れ連なる石板」、「花崗岩」という自然の持つ硬さ、頑強さに対置され るのが、儚い「殻」に覆われた「僕たち」、あるいは「僕たち」の「柔ら かさ」であり、「水蒸気」はそのメタファーとなっている。表面的、物理 的には脆い人間が、生命を覆う「殻」を脱ぎ捨てた後も、「水蒸気」や「雲」 のように残るものがある。「水蒸気」、「雲」は、青ではなく、「青のなか」 にあるものであり、ルィジイの詩においては、そのような一見儚いものこ そが永遠に残るものとして語られる。 このように、二つの詩はどちらも、生と死を超えるものをテーマとして いる。そして、イワーノフにおいては、生と死という二つの世界を繋ぐの は青の光であり、ルィジイにおいては、青のなかの白、もしくは空色、す なわち水蒸気、雲なのである。ここで、さらに注目しなければならないの が、ルィジイの詩の最後、「水蒸気だけ、青のなかの白だけ、/空色と白 が あ ……」(
«только пар, только белое в синем, / голубое и белое в
си...»
)という部分である。最後で、青«синем»
(シーニイ«синий»
の 前置格)という単語が途切れ、«си…»
となっている。途切れていなけれ ば、 「青のなかの空色と白」となることが想定される。ショーミナは、「ルィ ジイの詩においては、G. イワーノフの試みによらない、断片ジャンルの 独自の変化がある」24として、単語の後半を省略符で記したこの箇所を挙 げている。しかし、重要なのは、この省略が、明らかにイワーノフの詩 に対する返答としてなされたという点である。イワーノフの詩のように、 ルィジイにおいて、シーニイは永遠のイメージではない。逆に、永遠なの は、 青のなかの儚い水蒸気であることが強調される。イワーノフのシーニ イは、象徴派の光の宿る瑠璃色やゴルボイに対するパロディであったよう に、ルィジイの詩は、イワーノフのシーニイを否定するのである。このように、ルィジイの第1期のシーニイは、途切れるものであり、 イワーノフの永遠の青の対極にある。上で検討した詩の他に、さらに早 い時期の 1992 年の詩(「どこか彼方遠く、森の匂いが漂うところ……」)
«Где-то там далеко, где слоняются запахи леса…»
)でも、 同様にシー ニイ«синий»
という語が、«си…»
と後半が省略されている(ВК
, 29)。 こうした永遠の象徴としてのシーニイのイメージをあえて否定するかのよ うに、語の途中で断ち切られたルィジイの青は、第 2 期において、その性 質をより露わにしていく。 4.青の否定──第2期 第 2 期になると、シーニイとゴルボイが同程度の割合で現れる。これ は、シーニイの相対化であり、やはり永遠のシンボルとしてのシーニイの 価値の否定と捉えることができる。例えば、1997 年の詩(「……町の庭園 の並木道で……」(«…В аллее городского сада…»
))では、「空色のス ミレを摘んだ、/なぜなら明日僕は死ぬから」(ОЖ
, 115)とゴルボイ(空 色)がスミレの花に用いられ、それは、明日死ぬ「僕」と重なるように、 摘み取られる。同年の詩(「少年が小川に放した紙の……」(«Мальчик
пустит по ручью бумажный…»
))では、「少年が小川に放した紙の/ 小さな空色の舟を。/僕たちはこの通りで今に/群れとなって死に向か う。」(ОЖ,
123)と、ゴルボイの紙の小舟と、死に向かっていく「僕た ち」が重ね合わされる。あるいは、シーニイもゴルボイも、ともに白と 等しい色として扱われるのも特徴的である。例えば、「百もの流れに分 か れ た 川 の 水 で、 山 の 中 ……」(«Водой из реки, что разбита на сто
ручьев, в горах…»
)(1997)では、本来は白い待雪草と雲が「同じ青い色」 (ОЖ
, 113)とされており、「墓の上に白いものが……」«Над могилами
белое…»(
1998)では、「墓の上には白いものが、/空色のものと青い ものが同時にある」(ОЖ
, 205)と語られる。 このように、シーニイは、雲に代表されるような、儚いものの色彩として用いられる。そして、すでに挙げた第1期の「家の、家の、家の上 ……」で始まる詩のように、第 2 期において、雲に対する愛着が一層明 確に語られるようになるのである。例えば、1999 年の次の詩(
«Прошел
запой, а мир не изменился…»
)を見たい。「青い空色」の雲の下にい る詩的主人公は音楽に満ちている。 酒乱はおさまった、でも世界は変わらなかった。 音楽が訪れた、言葉は終わった。 一つのモチーフが別のモチーフと一つになった。 (全く野心的な一節だ。) ……でももしかしたら、全く言葉なんていらない ほらこんな――こんなってどんな?――ロバたちには…… 青い空色の雲の下に 立ってぼんやりと両手を広げる、 全身隅々まで音楽に満ちる。(ОЖ
, 247) この「音楽が訪れ」、「言葉が終わった」世界に、雲は属している。「世 界は変わらない」が、言葉ではなく、音楽、つまり詩の響きは詩的主人 公を満たすほど豊かだ。それを示すのが第 2 連である。ロシア語では、 「言葉」«слов»
と「ロバ」«ослов»
という理性や知性においては無縁の ものが、豊かな脚韻による響き、音楽によって、結びついていく(«...а
может быть, совсем не надо слов / для вот таких – каких таких? –
ослов...»
)。1997 年の詩でも、「世界は変わらない、でも僕たちにとって なんだというのか、/変わらないこと、まだ隣人が生きていること、/だっ て僕は彼女を愛していた、雲は流れていた、/でも雲がなければ、僕に は救いもない。」(「ほら悲しい田舎の小さな掃除夫……」(«Вот дворник
крохотный в провинции печальной…»
))(ОЖ
, 161)と、変わらない世界に対して、流れる雲こそが「僕」の「救い」であることが語られる。 こうして、第 2 期のルィジイの詩においては、青い変わらない空よりも、 そこに浮かぶ白い雲への愛着が頻繁に語られるのである。これは、一見、 イワーノフを離れた独自の展開のように見える。しかし、実はここでも、 イワーノフとの共鳴を見いだすことができるのである。ここで呼応してい るのは、イワーノフの 1940-50 年代の詩である。すでに述べたとおり、イ ワーノフの場合、シーニイの象徴化が見られるのは、亡命から 1930 年代 までの詩においてである。そして、『原子の分裂』を境にイワーノフは数 年間の休止期間に入り、1940 年代はじめに創作を再開するが、そこでは、 シーニイがすでに失われ、代わりに色のない世界が現れる。その時期を代 表する 1951 年の次の詩と、上に引用した 1999 年のルィジイの詩は呼応し ているのである。 太陽は沈んだ、色彩は消えた。 虚しい空はすっきりと澄んでいる。 オリーブオイルのなかのイワシのように、 寂しい雲が泳いでいる。 特別大切なものじゃない しかも、誰にも必要ない、 でも、愛しい雲よ、ほらやはり、 僕は君をこの胸に受け取ろう。 そこにはあらゆるガラクタがたくさんある、 たくさんの音楽と、知性は少し、 そして「麗しの淑女」が支配する、 それが誰か――自分でみるだろう。25 青が失われた空に浮かぶのは雲である。誰にとっても不要なその雲を、
この「僕」は胸に受け止める。そこにあるのはガラクタばかりで、銀の時 代を象徴する「麗しの淑女」が支配者となっている。 そこには音楽があると語られる通り、この詩も、特に第 2 連、第 3 連 の豊かな脚韻を特徴としている。第 2 連では、1 行目の訳では「もの」と なっている「ちょっとしたもの」
«штучка»
が(«Не особенно важная
штучка»
)、3 行目の「雲」«тучка»
と韻を踏む («Ну, а всё-таки, милая
тучка»
)。空に浮かぶ「雲」は、「ちょっとしたもの」にしか過ぎず、内 容においても重なるとともに、音もまた見事に響きあう。そして第 3 連で は、「ガラクタ」«хлама»
と、それとは本来無縁であるはずの「麗しの淑 女」«Прекрасная Дама»
が、内容的に関わりあうだけでなく、響きによっ ても深く結びつけられ、象徴派がシンボルに込めた永遠という内容とは別 の、音楽としての詩の可能性を生み出している。「雲」と「ちょっとした もの」、「ガラクタ」と「麗しの淑女」は、すべて価値のないものとして語 られる。けれども、韻が生み出す音楽は新たな詩の創造の可能性を示して いる。 イワーノフにおいて、もはや銀の時代のロシア詩の権威は失われ、同時 に、その詩から青も消えた。ブロークの詩において「麗しの淑女」が、や はり青の一つである「瑠璃色」に輝く存在であったことを想起すれば、青 の消滅が、 ロシア詩の権威、価値の喪失であることは明白である。しか し、そこから、イワーノフは、新たな詩的世界の創造へと向かう。そこに 生み出されるのが、青の失われた色のない世界であり、そこに現れるモチー フが雲であり、音楽であり、その音楽性は、豊かな脚韻にも具現している。 これら全てが、第 1 期から青の永遠性、完全性を否定してきたルィジイ の詩と響き合うのは、疑いようもない。イワーノフがシーニイを喪失した 世界から、ルィジイは出発しているということもできよう。その点で、 1999 年の次の詩(«Белое синее…»
)は極めて象徴的であるといえる。 白い青いものに 黒い縁がある。点と線は 灰となった。 煤けたものは、 運命だった、 愛する人たちだった、 君だった。 (…) 音楽、音楽。 おお、こめかみには 音楽、音楽。 嫉妬、鬱。 真っ赤な炎が 弱々しい芽を出す。 『ズナーミャ』から破りとれ この紙切れを。 (
ОЖ
, 218) 「点と線」は灰になり、「運命」、「愛する人たち」、「君」は煤けた。けれ ども、音楽、詩の共鳴、響きがある。『ズナーミャ』はルィジイの詩が掲 載された文芸誌である。そのページが切り裂かれ、炎に焼かれるイメージ は、一見、詩の否定のようだ。けれども、「点と線」を書き記した紙や、 そこに記されていたはずの価値あるものは、燃え、煤けて、消失したよう でありながら、「炎」«пламени»
と「ズナーミャ」«Знамени»
、および「芽」«росток»
と「紙きれ」«листок»
における豊かな脚韻は、そこに消失せ ずにある確かな音楽の存在を主張している。 そして、冒頭の「白い青いもの」(«белое синее»
)は、「黒い縁」に対して、白と青が混じり合った曖昧な色彩であるだけでなく、形容詞の中性 形によって抽象化され、捉えどころのないものに見える。しかし、紙やそ こに記された言葉のような確かな輪郭を持つものは炎によって燃えても、 その響きは消えないように、「白い青いもの」もまた、捉えどころがない 不確かさのなかに、音楽を宿していると解釈することができる。このよう に、ルィジイのシーニイは、白やゴルボイとともに、不確かで儚い音楽の ようであるが、同時にそれらこそ、詩の本質をなすものなのである。 5.繰り返される青──第3期 5-1.新たな対話 しかしながら、イワーノフの詩が、普遍的価値を持ったシーニイを残し た世界から、その喪失後の世界へと移行したように、ルィジイにおいても、 青のイメージをめぐって変化が見られる。そして、再び、イワーノフの最 初に挙げた詩「星たちだけ。青い宙だけ……」と新たな対話を交わすので ある。ルィジイの青、特にシーニイが、これまで述べてきたような、白や ゴルボイと同等の儚いものを彩る色とは異なるイメージを持つようになる のは、第 3 期の 2 年間ほどの期間である。ここでは、これまでとは大きく 異なり、シーニイ・シーニイ
«синий-синий»
、すなわち「青い青い」と 繰り返される表現が現れる。初期には単語の途中で途切れ、その後は白や ゴルボイとともに儚いもののイメージであったシーニイが、完全な形で現 れるだけでなく、強調すべく繰り返されるというのは、極めて大きな転換 と考えることができよう。 イワーノフの詩と呼応しているのは、次の詩(«Вышел месяц из
тумана…»
)である。2000 年から 2001 年と記されているが、2000 年 12 月 30 日から 31 日にかけての夜に謎の死を遂げた同郷の詩人ロマン・チャ グーノフに寄せて書かれており、2001 年の詩と考えるのが妥当であろう。 ルィジイは 2001 年の 5 月に自ら命を絶っており、その死については様々 な憶測が行き交うが、少なくとも第 3 期の詩に、それまでとは異なる特徴が表れていることは、青の変化からも明らかである。 月が霧の中から出た―― そして何年も ロマンの墓の上に 青い青い光が。 光は悲しく、青く青く、 ふんわりと、この世のものではなく スヴェルドロフスクの上に、ロシアの上に、 僕の上にさえも。 僕はつまらないから君の方に向いた、 道の途中だった、 紙巻きたばこを持って、手はズボンに、 言う:ごめんな。 そこでは、天使の取り調べでは 誰もが罪人だ、 ちっぽけなもの、紙巻きたばこのために 仲間を引き渡すな。 でも、ロマン、黄金の管の 響きのもとじゃなく 天使は、ケチな奴らは、 背中に腕を回す。 僕たちの顔には夜明けまで 炎が向けられる、
彼らがそれをやる ところに連れ去る。 こうして僕らはスクリーンから降りる、 答えに沈黙しないで。 ロマンの墓の上には ただ青い光だけ。 (
ОЖ
, 287-288) 第 1 期の 1996 年の詩では、「上に」あるのは、水蒸気、白い雲だけで、 さらにシーニイは途切れていた。それはイワーノフの「青い光」だけがあ るというイメージと、明確な対比をなしていた。しかし、今度は、ルィジ イにおいても、ただ「青い光」があるのである。少し詳しく検討したい。 イワーノフの詩の第 1 連に対応する部分が、ルィジイにおいては最初の 2 連に当たる。イワーノフの場合は、青さの他に、「永遠」で「氷のよう」 で「恐ろしい」星空だが、ルィジイの場合は、「永遠」の代わりに「何年 も」輝く月の光があり、その光は、「恐ろしい」のではなく「悲しく」、「ふ んわりと」して、「この世のものではない」と語られる。イワーノフの詩 の方が、超越的で、この世の人間との距離を感じさせる。さらに、イワー ノフにおいては、星空は「君」と「僕」の上にあったが、ルィジイにおい て、青い光は「ロマンの墓の上に」、さらに「スヴェルドロフスクの上に、 ロシアの上に/僕の上にさえ」あり、より具体的である。 イワーノフの第 2 連に該当するのは、ルィジイの第 3 連から第 6 連で、 独特の展開が見られるものの、死んだ友というテーマを共有している。イ ワーノフの詩では、第 1 連の荘厳さを継承し、静寂のなか、「死んだ友」 たちが「手を解かずに、眠っている」ことが語られる。一方、ルィジイに おいては、第 2 連までの具体性をさらに展開し、「僕」は生前の出来事に 想いを馳せる。人間に対して、取り調べをする天使たちが現れているのも、 ルィジイの特徴である。 このような相違は、最後に顕著な対照をなして現れてくる。イワーノフにおいて、「死んだ友」たちは、「彼ら」という三人称で表され、生きてい る「君」と「僕」に対する他者となっている。そして、その「彼ら」と生 ある「僕」たちとを繋ぐのが「君の心の青い光」であった。それに対して、 ルィジイにおいては、「僕たち」とは、すでに死んだものも含む死すべき 人間全てなのである。その人間たちに対する他者に当たるのは人間を取り 調べる天使たちであろう。そこで問題となるのが、ルィジイの詩の「青い 光」である。イワーノフにおいては、1930 年代のシーニイが、文学的な 価値の永遠性を象徴していたように、この詩のシーニイも、内的な光と転 じることで、生ある自己と死者という他者との間にある境界、あるいは地 上と天上、さらにはヨーロッパとロシア、現在と過去といったあらゆる距 離を超え存続するものを象徴している。一方、ルィジイの詩においては、 「青い光」が、死すべき人間とは異なり永遠性を宿していると言えるもの の、死んだ友と「僕」は、「僕たち」という同じ死すべき存在であり、そ の間に繋ぐべき距離はなく、「青い光」は、自己と他者という異質のもの を結ぶ光とは一線を画する。 では、ルィジイの「青い光」とは何なのか。それは、ここでも、脚韻に 注目することで、明らかになる。すでに見た通り、イワーノフの詩におい ても、ルィジイの詩においても、脚韻が果たす役割は大きい。そして、 このイワーノフの詩では、1 行目と 3 行目が女性韻、2 行目と 4 行目が男 性 韻 の 交 差 脚 韻 で(
«Им спокойно вместе, им блаженно рядом… /
Тише, тише. Не дыши. / Это только звёзды над пустынным садом,
/ Только синий свет твоей души.»
)、ルィジイの詩も同様であるが(«Так
и мы уйдём с экрана, – / не молчи в ответ. / Над могилою Романа /
только синий свет.»
)、どちらの詩においても、同じように豊かな脚韻 を見せている点が重要なのである。特に注目したいのが、2 行目と 4 行 目である。イワーノフの場合、「息をする」«дыши»
という語と「心」«души»
が呼応し、2 行目では「静かに、静かに。息をしないで。」と静 けさを求めている。「息をしない」とは、生が限りなくその営みをひそめ、 死者たちに近づくことであり、そこにこそ「青い心の光」はありうる。「青い心の光」は、2 行目の要求によって得られた答えである。 それに対して、ルィジイの詩では、「答え」
«ответ»
という語と「光」«свет»
が共鳴し、2 行目は、イワーノフの逆で、沈黙しないことを求め ている。「僕」が「答え」を求めるところにあるのは「青い光」だけである。 けれども、「答え」と「光」の響きの共鳴が示すのは、まさに「光」こそが「答 え」であるということなのではないか。イワーノフにおいて、2 行目に対 する返答が、4 行目の脚韻によって与えられるように、ルィジイにおいて も、「光」が「答え」なのである。そしてそれは、あらゆるこの世のものの「上 に」あって、普遍性を内包している。 5-2.青という「答え」 しかしながら、「青い光」は、あらゆるものを照らすにも関わらず、そ れが示す「答え」は、「心」というような内容を明らかにしない。これは、 ルィジイがイワーノフと交わす新たな対話である。初期の詩は、シーニイ という永遠を否定していたが、今や、シーニイは永遠のイメージを宿して いる。けれども、ここで新たに、イワーノフが用いた「心」という表現を ルィジイは否定しているのである。 「心」に関して、ルィジイの詩的主人公は、別の詩で、興味深いことを 語っている。まず、1997 年の詩(「こうして花崗岩は氷に覆われ……」«Так гранит покрывается наледью…»
)では、「記憶の山:様々なもの、 様々なもの。/もう死んでしまった人が言っていた、/醜悪なものは美し いもの、/心に収まりきれないものだと。」(ОЖ
, 133)とある。ルィジイ の詩で語られるのは、一見「醜悪なもの」であるスヴェルドロフスクの日 常である。そこには友人との殴り合いや喧嘩、犯罪、アルコール依存など が溢れている。しかし、それこそがルィジイの詩的なものであり、「美し いもの」なのである。そして、ロマンの死に寄せた詩の中間部で仄めかさ れるような、なんらかの諍いもまた、そのような「醜悪なもの」でありな がら、「美しいもの」であり、それは、「心」という言葉に収まるようなもの ではない。ま た、1998 年 の 詩(「 雪 が 降 り 出 し、 雪 の 動 き に 向 か っ て ……」 (
«Начинается снег, и навстречу движению снега…»
))には、「雪が 降り出し、雪の動きに向かって/上に昇っていくのは、古くさい言葉、心 だ」(ОЖ
, 209)という一節がある。イワーノフの詩に見られるようなシー ニイという語を伴って永遠性を帯びる「心」は、もはや、ルィジイの詩の なかで語られる価値を表す語としては、「古くさい」ものとして現れている。 こうしたことから、「答え」が「心」ではなく「光」にあるのは、ルィ ジイにおいて、「心」は「古くさく」、スヴェルドロフスクの日常を収める ことはできないからと考えることができよう。「青い光」が宿す「答え」 とは、「醜悪なもの」も含んだ「美しいもの」なのである。この解釈を裏 付ける詩が、さらに二編存在する。どちらの詩も、「醜悪なもの」を象徴 するような依存症病棟での死が語られており、さらに「青い青い」とシー ニイが繰り返される表現も見られる。それぞれ 1999 年と 2000 年の執筆と されている26。1999 年は第 3 期より少し遡るが、2000 年の詩との内容の 近さ、かつ「青い青い」という表現の存在から、青、特にシーニイが増し ている最後の期間に繋がる詩と考えることができよう。 これら二編の詩のうち、青がより象徴的な内容を持つイメージとなっ ているのは、1999 年の詩(「湿った依存症患者の監獄で……」(«В сырой
наркологической тюрьме…»
))である。「依存症患者の監獄」で「僕」 は、担架で運ばれていく遺体を目にする。粗布が被せられたその下から、 白い足が見える。「粗布の下から出ている――ひと組の白い足、/一本に は青い青い銘文が/記されていた: 通り抜けたのはなんと短い道……」 (ОЖ
, 226)と、一本の足に、「青い青い」銘文が刻まれていることに「僕」 は注意を向ける。そして、もう一本の足に何が書かれていたのかは、わか らないと語られる(「もう一本の足にはただ酸の澱/だけ――全てはいつ ものように不明:/もう一本の足にはなんと書かれていたのか?」(ОЖ
, 226))。その続きは、以下のように続く。 窓の外には青い星が燃える、悲しい格子の窓の外だ。 いわゆる差し迫った問題が現れ、 2 倍 3 倍先鋭化した。 精神病院全体でただ一人 僕はフレーズの続きを覚えていた、 でも黙っていた、隠して秘めた、 そして注意深く胸にしまった―― 何を人は空に持ち去ったのか そしてそもそも――人が何を意味するのか。(
ОЖ
, 227) 「青い青い」銘文に加えて、「青い星」が現れる。これらが、無関係で あるはずはない。そして、「僕」は、もう一本の足の判読できなかったフ レーズの続きを知っていたと語るものの、それが何かは明かされない。し かし、それは確かにあり、そこに「僕」は死んだ人物が何を空に持ち去り、 その人物の生きた「意味」を理解する。足に刻まれた青いフレーズと、青 い星は、地上の生命と空、つまり死後を繋いでいる。青いフレーズは、そ の人物が、生前己の体に刻んだもので、それは死後、青い星の輝く空へと 持ち去られていく。青はこのように、生と死を超えてあり続ける「意味」 であり、すなわち、価値のシンボルとなっている。 もう一編の詩(「病院の廊下の青い光……」(«Синий свет в коридоре
больничном…»
))でも、シーニイは、地上の儚い生と空とを繋ぐ。こ ちらでは、シーニイは光の色彩として用いられている。「病院の廊下の青 い光、/病院の窓の外には月の光。」(ОЖ
, 282)と始まり、苦しみ、死に かけているロマの患者の様子が描かれ、もう一度、病院の廊下が「青い青 い光のもと」(ОЖ
, 283)にあることが記され、そこを彷徨っては、「窓の 外を見る」(ОЖ
, 283)と語られる。この詩だけでは、1999 年の詩ほど、 明確な内容を捉えがたいが、病院の廊下の青い光と、窓の外の月の光とが、 ともに光として呼応している点が特徴的である。廊下の光は人生の壮絶な 最後を照らしながらも、閉鎖的な終わりを照らし出すというよりは、その先にある死後の光へと導くように、詩的主人公の目は、月の光へと向けら れる。 この二編の詩から、「青い青い」と強調されるシーニイは、生前から死 後へと続いていくものであると言える。1999 年の詩では、それが、死に ゆく人間にとって意味あるもの、また同時に人間の「意味」を象徴するも のであることが明確に示されている。2000 年の詩でも、「青い光」は病院 と月を繋ぎ、やはり普遍や永遠を想起させるのである。そして、どちらの 青も、依存症によって短い人生を終える「醜悪さ」とともにあることを忘 れてはならない。 ここで、ロマンの死に寄せた詩を思い出したい。イワーノフと異なり、 「心の青い光」ではなく、ただ「青い光」こそが「答え」であるのは、「答 え」が「心」に収まりきれない「醜悪なもの」を含めた「美しいもの」だ からである。それを、「心」というように言葉にすることができないのは、 1999 年の詩で、「僕」がフレーズの続きを知っていながらも、言葉にせず に、胸に秘めておくのと同じである。言葉では、「醜悪なもの」の美、そ の価値は表現できない。ただ言葉にはならない「答え」として「青い光」 を差し込ませることによって、あらゆる「醜悪なもの」においても確かに 存在する価値が照らし出されるのである。 6.おわりに ルィジイの詩は、亡命ロシア文学に関わるモチーフを多く含み、またテー マも共有していた。けれども、青のイメージは、それが単なる共感ではな いことを示す。むしろ、語られる内容からは見えてこない相違を浮き彫り にする。ルィジイの詩の青のイメージは、イワーノフの詩との対話を交わ しながら、時を経て、正反対のものへと変化していくが、どちらも、イワー ノフの青の受容ではない。ルィジイは、青において対話しながら、イワー ノフとは異なる詩的世界を切り開いていったと言える。 二人の詩人のシーニイから見えてくるのは、詩や詩人の位置付けの相違
である。イワーノフにおいて、シーニイは、文学や詩といった価値と結び ついて永遠を象徴する色彩である。銀の時代のロシアを経験したイワーノ フにとって、文学、詩は、それ自体が絶対的な価値を呈するものだった。 亡命後に、それが失われつつあるという不安と絶望のなかで、シーニイ は、かろうじて残された詩的イメージとして象徴化された。ルィジイの出 発点は、そのような権威ある「詩」を象徴する永遠の青の否定にある。 ルィジイの詩的主人公は、大文字で表されるような「詩人」ではなく、「飲 んでは涙する、娘たちを抱く、/また飲んで、それでも黙っている、/ア クセントに合わせて頭を揺らし、/音節に合わせて怒鳴り散らす。」(
ОЖ
, 111)(「若さは僕に多くを約束していた……」(«Молодость мне много
обещала…»
) (1997))ような人物の一人である。1930 年代までのイワー ノフにおいて「醜悪なもの」は、「美しいもの」、すなわち詩的なものと明 確に区別されているが27、ルィジイの場合は、一見「醜悪なもの」こそが 詩の根源にある。ルィジイが求めたのは、「醜悪な」世界にいる誰もに手 が届く詩であり、ペレストロイカによってもたらされた格差を拒絶するか のように、 エリートたりうる詩人は「醜悪な」世界の一員に位置付けられ る。 こうした「詩」や「詩人」の権威の否定は、第1期から第2期のルィジ イの詩において、不完全で儚いシーニイのイメージに現れていた。そし て、ルィジイの詩に最後に現れた「青い青い」と繰り返される表現も、イ ワーノフの詩に見られたような絶対的価値への回帰とは異なっている。確 かに、繰り返され強調されるシーニイは、永遠の「意味」や価値と結びつ いている。しかし、ルィジイは、シーニイに明確な内容を孕ませることに 躊躇し、ただシーニイの存在だけを強調する。これは、永遠の価値の象徴 化である一方で、「心」や「詩」という言葉で表される「古くさい」内容 の否定である。価値は「醜悪なもの」を取り込まなくてはならない。こう して、旧来の価値は否定しつつ、新たな内容を宿す価値が存在することを 強く意識するようになったのが、最後の時期といえよう。 常に「醜悪なもの」を詩的なものとして語るなかで、シーニイは、不完全なものから、永遠の価値を象徴するイメージへと変化する。シーニイの イメージが対極に振れるのは、ロシア文学の伝統のなかでシーニイが培っ てきた象徴性、その内容の豊かさゆえである。象徴派のゴルボイ、あるい は瑠璃色、第一次亡命ロシア文学のシーニイと、永遠が多様な内容を宿し ながら青において象徴化されてきたプロセスなしに、ルィジイのシーニイ のイメージもないだろう。本稿で扱った詩は、ゴルボイよりもシーニイに おける象徴化を特徴としていたが、ルィジイの詩で、シーニイの否定がゴ ルボイとの同一視にも現れていたことは、ロシア語が二つの青を区別する ことに起因する。このように、伝統と対話し変化していくシーニイのイメー ジに、20 世紀ロシア文学の変遷と多様性の一端を見ることができる。 [注] 1 本稿は,「北海道スラブ研究会」(2018年11月22日,北海道大学スラブ・ユーラシア 研究センター)における,「20世紀ロシア詩を繋ぐ――途切れた青の行方(ゲオルギ イ・イワーノフとボリス・ルィジー)」と題した報告をもとに,内容を一部変更して執 筆した論文である. 2 Чагин А. Расколотая лира: Россия и зарубежье: судьбы русской поэзии в 1920-1930-е годы. М.: Наследие, 1998. С. 13.
3 特にCorbett, Gerry, Morgan, Greville, “Colour Terms in Russian: Reflections of Typological Constraints in a Single Language”, Journal of Linguistics, 24(1988), pp. 31-64に詳しく,その論拠についても述べられている. 4 Блок А. О «Голубой птице» Метерлинка // Блок А. Собрание сочинений в 8 томах. Т. 6. М.-Л.: Государственное издательство художественной литературы, 1962. С. 412-413. 5 これについては,すでに論じてきた.「ロシアから持ち去られた青――ゲオルギイ・ イワーノフのシンボルとイメージ」『ODYSSEUS 東京大学大学院総合文化研究科地 域文化研究専攻紀要』第 21 号,2017 年,105-130 頁,“The Semantics of Blue in Russian Émigré Literature of the First Wave”『札幌大学女子短期大学部紀要』第 65 号,2018 年,7-29 頁,「ロシア文学の青――ガイト・ガズダーノフの場合」『札 幌大学総合研究』第 10 号,2018 年など.
6 「霊感とは何か……」(«А что такое вдохновенье...») (1958)で,イワーノフはチュッ チェフの「キケロ」を引用している. 7 ボリス・ルィジイの詩の出典は,Рыжий Борис Оправдание жизни. Екатеринбург: У-Фактория, 2004 は ОЖ,Рыжий Борис В кварталах дальних и печальных: избранная лирика. Роттердамский дневник. М.: Искусство-XXI век, 2017 は ВК と略号を用い,ページ数を本文中に記す. 8 オシプ・マンデリシタムの「第四の散文」で言及される剽窃に由来すると指摘され る(Арьев А. Ю. Блок, Иванов, Рыжий. О стихах Бориса Рыжего // Звезда. 2009. No 9. (Журнальный зал : [сайт] URL: http://magazines.russ.ru/zvezda/2009/9/aa12. html (дата обращения: 09.12. 2018.))) 9 これは,「国内亡命」として別の論文(宮川絹代「『スヴェルドロフスク』と空―― ボリス・ルィジーの詩的空間」『辺境と異境――非中心におけるロシア文化の比較 研究――平成 21-24 年度科学研究費補助金基盤研究(B)研究成果報告書』,第 1 号,2010 年,48-69 頁)で論じたことと関わる. 10 См.: Арьев А. Ю. 11 См.: Сёмина А. А. Резонанс трагического звучания: поэзия Г. Иванова и рецепции Б. Рыжего // Вестник Балтийского федерального университета им. И. Канта. Сер.: Филология, педагогика, психология. 2017. №2. С. 76. 12 См.: Казарин Ю. Поэт Борис Рыжий. Екатеринбург: Издательство Уральского университета, 2009. С. 175-178. 13 ゲオルギイ・イワーノフはルィジイの詩に頻繁に現れる.上記の詩の他に, 「イワーノ フ」(«Ива́нов»)(1995), 「イワノーフ」(«Ивано́в») (1996), 「『白い草原で灰の舞踏 会があった』……」(««В белом поле был пепельный бал»…») (1997), 「ヨーロッ パの夜」(«Европейская ночь»)(1997), 「カットグラスを背景に……」(«На фоне гранёных стаканов…») (1999)でも,イワーノフの名前が現れている. 14 「ロシアから持ち去られた青――ゲオルギイ・イワーノフのシンボルとイメージ」で詳 しく論じている. 15 ランチンはブロークのイメージだと述べているが(Ранчин А. Экзистенциализм по-русски, или самоубийство Серебряного века: « Распад атома » Георгия Иванова // Нева. 2009. No9. С. 194),ニコライ・グミリョフの詩にも「青いドレス」が現れている. 16 Иванов Г. Распад атома // Иванов Г. Собрание сочинений в 3 томах. Т. 2. М.: Согласие, 1994. С. 18. 17 Там же. С. 19.
18 Иванов Г. «Это только синий ладан…» // Иванов Г. Собрание сочинений в 3 томах. Т. 1. М.: Согласие, 1994. С. 267. 19 Иванов Г. «Не было измены. Только тишина…» // Там же. С. 259. 20 Иванов Г. «Только темная роза качнется…» // Там же. С. 310. 21 Иванов Г. «Только звезды. Только синий воздух…» // Там же. С. 305. 22 Марков В. О поэзии Георгия Иванова // Библиотека русской критики. Критика русского зарубежья II. М.: Олимп , 2002. С. 411. 23 Крейд В. Парижская нота и « Розы » // Культура российского зарубежья. М.: Российский институт культурологии, 1995. С. 181. 24 Сёмина А. А. Модификация жанра отрывка в лирике Георгия Иванова и Бориса Рыжего // Вестник Бурянского государственного университета. 2005. Выпуск 3. С. 186. 25 Иванов Г. «Солнце село, и краски погасли…» // Иванов Г. Т. 1. С. 379. 26 ルィジイは執筆年を意図的に変えることが多かったと言われる.そのため,実 際に書かれた年とは一致していない可能性がある. 27 ただし,ホダセーヴィチが「彼の作品に極めて特徴的で,その詩の最も弱い 側面であると同時に最も強い側面をなす,かの克服しがたい美しさを逃れる ことができなかった」(Ходасевич В. «Распад атома» // Ходасевич В. Собрание сочинений в 4 томах. Т. 2. М.: Согласие, 1996. С. 415)と主張するように,「醜悪 な世界」を語ろうとした「原子の分裂」は極めて詩的な作品となっている.