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ポストモダンの君主論―イタリア民主党論

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ポストモダンの君主論―イタリア民主党論

著者

村上 信一郎

雑誌名

神戸外大論叢

65

4

ページ

5-35

発行年

2015-03-01

URL

http://id.nii.ac.jp/1085/00001725/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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がっ て、 こ の予備選挙は実質的な候補者選抜 と い う よ り も、 すでに予定 さ れた 候補者 に あ ら ためて承認 を与え る こ と で、 その正統性 を強化す る と い う 、 む し ろ象徴的で儀式的な効果 を意図 し た ものと い う こ と がで き た'7 それに も かかわ らず、 こ う し た 「成功体験」 こ そが、 予備選挙 と も同 じ よ う な機能 を もつ党首直接投票 を、 民主党の創設ばかり か党の存続 と 正統化に と っ て も不可欠の構成要素の一つに し よ う と し た と 考え られ るので あ る。 そ こ で、 こ のよ う な民主党の性格 を理解す る ためには、 党首 と な っ た ウ、ェ ル ト ロ ーニに多少 と も 触れてお く 必要があるだ ろ う。 ウ、ァル テル ・ ヴェ ル ト ロ ー ニは1955年 ロ ーマ に生まれた。 父は 1 歳の時に亡 く な り 、 イ タ リ ア国営放送 (RAI) に勤務 してい た。 母は旧ユー ゴス ラ ウ、ィ ア王国の駐ウ、ァ テ イ カ ン大使 の娘で スロ ヴェ ニ ア人で あっ た。 工業専門学校在学中にイ タ リ ア共産党の活動 家 と な り 、 市会議員や下院議員 を務める一方、 党の宣伝部門の責任者 と なっ た。 1991年にはア キ ツレ ・ オ ツケ ツ ト 書記長によ る共産党の左翼民主党への転換 を 支持す る。 1992年から1996年にかけて党機関紙 『ウニ タ』 (1L 'Unita) の編集長 と な り 、 こ と も あ ろ う に福音書 を販売促進のた めの付録に し た こ と で世間 を驚 かせた。 1994年の書記長選挙に立候補 したが、 249票対173票でこ れまた生え抜 き の若 き党幹部で あ るマ ツシモ ・ ダ レーマ に敗れ る。 映画や文化問題 に造詣が 深 く 、1996年には第一次フ ローデイ内閣の副首相兼文化財 ・ 環境問題担当大臣 に就任 し た。 ま た1998年 に は ダ レ ー マ が首相 と な っ た た め、 同年 2 月 に左 翼民主党

(Partite Demoratico di Sinistra: PDS) から左翼民主派 (Democratici di Sinistra: DS) に改称 し た新党の書記長に就任 し た。 ヴェ ル ト ロ ーニが1999年に ト リ ノ の リ ン ゴ ッ ト で開催 さ れた党大会で選 んだ ス ロ ー ガ ンは “I care” 「わた しがつ い てい る よ」 で あっ た'8。 こ れはフ イ レ ン ツ ェ 郊外の寒村バル ビアナ で貧 しい 民衆の子 ど も た ちの教育に携 わ り 、60年代の学生運動活動家な どから も絶大な 人気 を博 し てい た司祭ロ レ ン ツ オ ・ ミ ラ ーニ (1923

-

1967年) の言葉だっ た'9。 そればか り か、 キリ ス ト 教民主党 と の歴史的妥協やユーロ コ ミ ュ ニ ズム を唱 え たべル リ ン グェ ル共産党書記長 (1922

-

1984年)2°、 当時はま だ存命 だ っ た 自由主義の政治哲学者 ノ ルベル ト ・ ボ ツ ビオ終身上院議員 (1909

-

2004年)2

'、

17 Jonathan Hopkin, “Dalia Federazione all'Unione alie primarie. Ii cammino del centro-sinistra,” Grant Amyot e Luca Verzichelli (a cura di) , Po11tica ln Italia. Edlz1one 2006, Bologna, Il Mulino

2006, pp 87-107.

18 Walter Veltroni, I care, Milano, Baldini & Castoldi, 2000.

19 ロ レ ン ツ オ ・ ミ ラ ーニの人 と 業績につい ては、 バル ビアナ学校著 (田辺敬子訳) 『イ タ リ ア の学校変革論一 落第生か ら女教師への手紙』 明治図書、 1979年 ; 田辺厚子 ・ 青柳啓子編 『田 辺敬子の仕事 教育の主役は子 ど も た ち』 社会評論社、2014年。

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カ ト リ ッ ク 民主的改革派の元 キリ ス ト 教民主党指導者 で後に修道士 と な る ジュ ゼ ツべ ・ ド ツセ ツテ イ (1913

-

1996年)22 の 3 人が左翼民主派の思想的起源 を 代表す る人物で あ る と し た。 2001年にはロ ーマ市長と な り 、 2006年に も再選 さ れた。 同 じ よ う にイ タ リ ア 共産党の 「 ミ リ ュ ー」 (milieu) のなかで未来の指導者 と して育て られながら も、 切れ者 で レ アル ポリ テ イ ー ク を信奉す る戦略家のダ レーマ と 違 っ て、 童顔 で 温厚 な人柄 ( 「お人好 し」 bonista と の異名 がある) か ら人気があ り 、 教皇 ヨ ハネ ・ パウロ 二世 を名誉ロ ーマ 市民 と す る な ど教皇庁 と の関係 も良かっ た。 ま た、 かねて よ り ア メ リ カ の民主党 (特にケネデイ大統領) が大好き で、 バラ ク ・ オバマ と はイ リ ノ イ 州上院議員時代以来の長い親交があっ た。 こ のよ う に ヴェ ル ト ロ ーニはア メ リ カ の民主党 を理想の政党モ デル と 考えて い た。 それ ゆえ ア メ リ カ の大統領予備選挙になぞ ら えた党首直接選挙 を民主党 の創設の原点にす え る こ と で、 それま での共産党や左翼民主党や左翼民主派と は根本的 に異な る政党に変 え よ う と し た。 いい かえ る と 党官僚や党機構があ ら ゆる決定に関与す る 「重 たい政党」 (partite pesante) を、 かつて中道左派連合 オ リ ー ウ、の木 を率い て 首相 と な っ たフ ロ ーデ イ が唱 え る 「軽い政党」 (partite leggero)23 に転換 し よ う と し た。 オ リ ーウ、の木は12も の独立 し た党派か ら成 る 連合体で あっ た。 フ ロ ーデ イや ウ、ェ ル ト ロ ーニは、 こ れ ら12の党派がアメ リ カ の民主党 の よ う に緩や かな連合体 (federation) と し て一つの政党のなかにま と ま っ てい く こ と が望ま しい と 考えてい た。 他方 、 ダ レーマ は左 翼民主党 を左 翼民主派に転換す る こ と に よ り ( それは Cosa 2 「第二の もの」 と 呼ばれ、 第二段階の左翼政党への発展的解消 と さ れ た) 、 かつてのイ タ リ ア社会党に連な る 4 つの小勢力 を糾合す る こ と で、 党の 基盤の拡大 を図 っ て名実 と も にイ タ リ ア を代表す る社会民主主義政党 に変身 さ せ よ う と 考えてい た。 それ ゆえ党章か ら も 「鎌」 と 「槌」 を外 し、 「樫 と 薔薇」 に し た。 「薔薇」 が欧州社会民主主義のシ ン ボルだ っ たか ら で あ る。 こ こ で忘

20 ウ' ェ ル ト ロー ニのべル リ ン グェ ル論については、 W.Veltroni, La sf da interrotta. Le Idee di Enrico Berlinguer, Milano, Baldini & Castoldi, 1994.

21 ノ ルベル ト ・ ボ ツ ビオについては、 ボ ツ ビオ著 (馬場康雄 ・ 押場靖志訳) 『イ タ リ ア ・ イ デ オロ ギー』 (未来社、 1993年) 、 同 (片桐薫 ・ 片桐圭子訳) 『左 と右一政治的区別の理由』 (御 茶 ノ 水書房、 1998年) 、 同 (中村勝己訳) 『光は ト リ ノ よ リ イ タ リ ア現代精神史』 (青土社、 2003年) 、 村上信一郎 「 ト リ ノ の憂鬱一晩年のボ ツビオ教授」 『神戸外大論叢』 62巻 1 号 (2011 年) 、 pp.1-30。

22 Giuseppe Alberigo (a cura di) , Giuseppe I)ossett1. Primo Prospettive e lpotes1 di ricerca,

Bologna, Il M ulino 1998; Paolo Pombeni, Gzuse e osseffz. 'avvenfura of加ca dz un

rif iormatore cn stlano, Bologna, Il Mulino 2013.

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れては な ら ない こ と は、 「第二の も の」 が左 翼民主党 か ら政党 と い う 言葉 を取 り 去っ て 「左 翼民主主義者 た ち」 と い う 名称 を選んでい た こ と で あ る。 こ のよ う に、 じつはダ レーマ で さ え も 、 かつての 「重 たい政党」 の時代は終わ り を告 げた こ と を暗に認 め ざ る を え なかっ た。 しか も、 「第二の も の」 の試み も、 ジュ リ アー ノ ・ アマ ー ト 元首相のよ う な元社会党の有能 な人材 を引 き つけ る こ と が で き なかっ た た めに、 事実上挫折 し て し ま っ たので あ る24。 ダ レーマ は、 ア メ リ カ の予備選挙 をモ デル と す る オープ ン ・ システ ムの党首 直接選挙によ っ て2007年に創設 された民主党 を 「屋台のよ う な投票所から生ま

れ た政党」 (partite del gazebo) と 揶揄 し た。 しか し、 党首直接選挙が導入 さ

れた こ と によ っ て、 こ と 政党モ デルの選択に関す るかぎ り 、 フ ロ ーデ イやウ、ェ ル ト ロ ーニに完全 な敗北 を喫す る こ と に な っ た。 も う 、 かつ てのよ う な大衆組 織政党に戻 る こ と はで き なかっ たか ら で あ る。 いい かえ る と 「現代の君主」 は 敗れたので あ り 、 オ リ ー ヴの木が勝利 し たので あ る。 ただ、 だか ら と い っ て、 種々雑多な政治的社会的思想潮流から な る緩やかな 「連合体」 と し ての 「軽い 政党」 と は一体 どんな政党 なのかが、 た んな る ス ロ ー ガ ンや レ ト リ ッ ク を越 え た形 で、 は っ き り と 定義 さ れてい たわけ で はなかっ た。 3 . 「オ リ ーヴの木」 の思想的起源 イ タ リ アおい て民主党の創設 を終始一貫 し て唱え続けて き た理論家 と い えば ミ ケー レ ・ サル ウ、ァ ーテ イ をおい て ない で あ ろ う。 サル ウ、ァ ーテ イ は1937年の 生まれで、 パウ、ィ ア大学 と ケ ン ブ リ ッ ジ大学 を卒業、 現在は ミ ラ ノ 大学政治学 部政治経済学教授 を務め る中道左 派き っ ての論客で あ る。 サル ヴ ァ ーテ イ が民 主党創設の理念 を最初に考案 し た と し て、 その功績 を讃 え よ う と し たのは、 民 主党創設の直前に亡く なっ たニーノ ・ ア ン ド レア ツタ (1928

-

2007年) だっ た。 サル ヴアーテ イ が2003年に上梓 した著書 『イ タ リ ア民主党一一つの政治理念の 起源』 の献辞 には、 「 も う 一つの政治的伝統か ら 出発 し なが ら も 民主党 と い う 理念に到達 し た ニ ー ノ ・ ア ン ド レ ア ツ タ に」 と 記 さ れてい たので あ る25。 ア ン ド レア ツ タ は1928年に ト レ ン ド で生まれ、 パ ドウ、ァ大学と ミ ラ ノ ・ カ ト リ ッ ク 大学 を卒業後、 ケ ン ブ リ ッ ジ大学で も学び、 1961年にはマサチ ュ ーセ ツ ツ工科大学 (M IT) からイ ン ドのジヤワハルラ ール ・ ネルー政権の経済計画委 員会の顧問 と し て派遣 さ れた経験 を も っ た、 混合経済 を専門 と す る経済学者で

24 Paolo Be11ucci, Marco Marffi e Paolo Segatti, Pa , PDS, I)S. La trasf(ormaz1one de11'zden前a

o zfica de fa szmsfra dz governo, Roma, Do e11i 2000.

25 Michele Salvati, n Partite democratico. Aile origlm di un 'Idea poi前ca, Bologna, Il Mulino 2003.

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あ る。 イ タ リ ア各地の大学で教鞭 を と っ たが、 と く に ボロ ーニ ヤ大学では経済 学研究所 と 政治学部の創設に関わ り 、 ロ マ ー ノ ・ フ ロ ーデ イ (およびその妻 と な る フ ラ ヴイ ア) は彼の教え子で あっ た。 アル ト ・ モ ーロ首相の経済顧問 を務 めた こ と か ら、 キリ ス ト 教民主党左 派に関わる よ う に な り1980年には国庫大臣 を務め、 こ の政党が解体 し たの ちに もチ ヤン ピ政権の外務大臣や第一次フ ロ ー デ イ政権の国防大臣 を務 めた。 こ こ で、 少 し回 り 道 と は な る が、 先述 し た ジ ュ ゼ ツべ ・ ド ツセ ツテ イ に あ ら ためて触れ ざ る を えない。 ド ツセ ツテ イは1931年に ジェ ノ ウ、ァ で生まれ、 ボロー ニ ャ大学 を卒業後 ミ ラ ノ ・ カ ト リ ッ ク大学で教会法の助手 を務めた。 だが1943 年か ら レ ツ ジ ョ ・ エ ミ リ ア で反 フ ァ シズム ・ パルチ ザ ン闘争に参加 し、 キリ ス ト 教民主党の代表の一員 と し て国民解放委員会に も参加 し た。 戦後の憲法制定 会議に も加 わ り 、 イ タ リ ア共和国意法制定に も重要な役割 を果 た し た。 キリ ス ト 教民主党では左派の指導者 と し てデ ・ ガスペ り に対抗 し たが、 1952年突如と し て下院議員 を辞職、 イ タ リ ア共産党の善政 (huon govemo) のシ ョ ーウイ ン ドー と い われた ボロ ーニ ャ市のキリ ス ト 教民主党市会議員 と な るが、1958年に はそれ も辞職 し て司祭 と な る。 そ し て1960年には第二ウ、ァ テ イ カ ン公会議で ボ ロ ーニ ャ大司教 ジ ヤコ モ ・ レル カ ーロ枢機卿の顧問 と し て重要な役割 を果 た し たの ち、 小 さ な修道会 を組織 し て隠遁生活に入 っ た。 その一方 で、 ド ツセ ツテ イ は1952年 ボロ ーニ ヤに 「資料セ ン タ ー」 (Centre

di Documentazione) のちの 「宗教学研究所」 (Istituto por te Scienze Religiose)

を設立 し た。 こ のセ ン タ ーは、 「ボロ ーニ ヤ工房」 (L'officina Bolognese) と 呼 ばれ る よ う に な り 、 と く に1960年以降は第二ヴアテ イ カ ン公会議が宣言 したカ ト リ ッ ク 教会の 「現代化」 (aggiomamento) の精神 を何よ り も重要な ものと 考 え る カ ト リ ッ ク 民主派の知的文化的 な出会いの場 と な っ た26。 ド ツセ ツテ イ がボロ ー ニ ヤの進歩的 な カ ト リ ッ ク 教徒の青年 た ちに及ぼ し た 影響は大き かっ た。 フ ロ ーデ イ家は9 人の兄弟姉妹から なる典型的なカ ト リ ッ ク家族だ っ たが、 ロ マ ー ノ ・ フ ロ ーデ イ が子 ど も のこ ろか ら ド ツセ ツテ イ と 家 族 ぐ るみの付き 合い を し てお り 、 その強い影響 を受けてい た。 ま た、 ド ツセ ツテ イ の薫陶 を受け たルイ ジ ・ ぺ ド ラ ッ ッ ィ のよ う な カ ト リ ッ ク 民主派の大学生が中心 と な り 、 それに自由主義者のニ コ ラ ・ マ ツテ ウ ッ チや 改良社会主義者のフ ェ デ リ コ ・ マ ンチ ーニ と い っ た大学生 も加わっ て、1951年 に ボロ ーニ ヤで同人誌 『イ ル ・ ムリ ー ノ [風車] 』 (Il M,,1,no) が創刊 さ れた。 こ れは1970年以降、 隔月刊の 「文化 ・ 政治雑誌」 と な り 、 現在に至るまで左右

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の垣根 を越 えたイ タ リ アの ヨーロ ッパ主義的進歩派の重要な拠点 と な っ てい る ( ちなみに2014年現在の編集長はカ ト リ ッ ク教徒ではない ミ ケー レ ・ サルウ、、ァー テ イ で あ る) 。 そればかり か、 1954年には同人た ちが、 英米の近代的で経験主 義的な社会科学の導入 を目的 と し て同名の出版社 を設立 し、 今ではイ タ リ ア を 代表す る学術書の出版社の一つ と なっ てい る。 ち なみにぺ ド ラ ツツ イ は1956年に ド ツセ ツテ イの勧めで ボロ ーニ ャ市議会議 員選挙に立候補 し て市長の座 を目指 し たが落選す る。 その後 ア ン ド レ ア ツ タ の 誘い を受け て南イ タ リ ア に赴き カ ラ ブ リ ア大学の創設に関わっ た。 こ のよ う に し て ボロ ー ニ ャ には ド ツセ ツテ イ を触媒 と し て、 カ ト リ ッ ク 進歩 派 あ るいは民主派の広範な政治文化の ミ リ ュ ーが築かれてい た。 こ の ミ リ ュ ー で は、 イ タ リ ア共産党のサ ブ カル チ ャ ーの中心都市で あ る ボロ ー ニ ャ で生 まれ たがゆえに、 かえっ て共産主義者や社会主義者や自由主義者に も門戸 を開い た 多元主義的で民主主義的 な寛容の精神が培 われてい た。 そ し て、 その精神 を支 えた重要な共通体験は反 フ ァ シズム ・ パルチザン闘争で あ り 国民解放委員会で あっ た。 ド ツセ ツテ イ がエ ミ リ ア ・ ロ マ ーニ ャ でパルチ ザ ン闘争 を闘い国民解 放員会に参加 し てい た こ と には深い 意味があっ たので あ る27。 ド ツセ ツテ イは1994年 4 月25 日の国民解放記念日を前に した 4 月16 日、 病床 か ら自 ら が顧問 を務めてい た ボロ ーニ ャ 市長宛 に、 自 ら も制定に加 わっ たイ タ リ ア共和国憲法の擁護 を訴 え る悲痛 と も い え る公開書簡 を送 っ てい た。 ま た

「見張 り の者 よ 、 今 は夜の何 ど き か (Sentine11a, quanto resta delta note?) 」 (イ

ザヤ書21章11) を小冊子のタ イ トル を掲げて配布 して回り 、 シル ヴイ オ ・ べル

ル ス コ ー ニ政権の成立に対す る強烈 な危機感 を表明 し た。

ベルル ス コ ーニは た んな る 「蛮族」 (barbaro) ではな く 、 イ タ リ ア共和国の

立憲体制 を根底 か ら 覆す 「 メ デ イ チ 家 のふ り を し た君主」 (ll principe con

coreografia medicea) で あ る。 そ し て カ ト リ ッ ク 教会 を も 籠絡 し誘惑 し よ う と

す る 「地上におけ るバ ビロ ニ アの女王」 (babilonese Regina del oleic) で あり 、

それ こ そ 「偶像崇拝の神話」 (ll mite idoratrico) に他な ら ない と 断罪 し た。 ベ

ルルス コ ーニが体現す る新自由主義的で消費主義的かつ快楽主義的 な 「偶像崇 拝」 文化 と の対決は 「全面的 で取引の余地のない選択」 で ある と し、 その歯止

め と し てのイ タ リ ア共和国憲法の擁護 を強 く 訴 え たので あ る28。

27 Walter Dondi, o og a fa la. 'esperzenza emzzana e z governo de '

u

zvo, Roma, DoM elii

1998,

28 Giuseppe Dossetti, Senfzne a, uanfo resfa de a noffe z esszom s a franszzzone ztafiana,

Roma, Edizioni Lavoro, 1994; id. I va1ori delta costltuz1one, Reggio Emilia, Edizioni S.Lorenzo, 1995.

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ずいぶん長い 回 り 道 を し て し ま っ たが、 当時はキリ ス ト 教民主党 を継承 し た イ タ リ ア人民党の下院議員団長 を務めてい た ア ン ド レ ア ツ タ も同 じ よ う な危機 感 を抱い てい た。 彼自身は小選挙区比例代表制の導入 に反対 で あっ たが、 それ に基づい て行われた1994年総選挙の結果、 二大政党が成立す る どこ ろか前代未 聞の 「急進右翼」 (destra radicale) が政権 を奪取 し た。 それは ヨ ーロ ッパ ・ デ モ ク ラ シーの最低基準 を逸脱す る、 道徳的 な次元か ら 見て も 異常 な 「無頼者の 右翼」 (destra gaglioffa) なので あ り 、 こ れ を放逐す るには、 たんな る政権交代 ではな く 、 体制転換が必要だ と 考えてい た。 自 ら も深い挫折感 と 内面的危機に襲われてい たア ン ド レ ア ツ タ は、 その前の 年の夏 に、 ア レ ツツ オ郊外の カルマ ドー リ 修道院の隠遁所におけ る黙想 を と お し て 「自 ら を解散 し て人民党員 と 民主主義者 た ちの連合体 を創設 し なければな ら ない と 言 う 勇気のあ る も のが私た ち人民党員 には一人 もい ない」 と い う 悔悟 の念 を抱い てい た。 ま さ に、 そ う し た認識のなかか ら 、 彼の脳裏 には、 ま だ名 前はなかっ たがオ リ ー ウ、の木の構想が生 ま れて き たので あ る29。 ド ツセ ツテ イ の訴 えは、 カ ト リ ッ ク 進歩派か ら強い信頼 を得てい た ミ ラ ノ 大 司教カルロ ・ マ リ ア ・ マルテ イーニ枢機卿が共鳴 し たこ と も あっ て、 1994年の 総選挙におけ る敗北で意気消沈 し てい た人民党左 派や カ ト リ ッ ク 民主派 を再び 活気づけ る こ と に な っ た。 こ う し て ア ン ド レ ア ツ タ が中心 と な り 、 中道右派に 与 し たロ ツコ ・ ブ ツテ イ リ オーネ人民党幹事長やイ タ リ ア司教協議会議長のカ ミ ツロ ・ ルイ ー ニ枢機卿 と の事前の相談 も な し に、 シ ョ ウ、ァ ン ニ ・ ビア ン キ人 民党議長やニ コ ラ ・ マ ンチー ノ 人民党議員団長 と 諮っ て、 フ ロ ーデ イ を自分た ちの首相候補者 と して擁立す る こ と を決定 し た。 こ のよ う な ア ン ド レ ア ツ タ の試み を支 え たのは先述 し た 『イ ル ・ ムリ ー ノ 』 誌の同人で あっ た。 実際オリ ーヴの木 と い う名称 を考案 し たのは、 サルデーニ ャ 出身で カ ト リ ッ ク青年団の副団長 を務めた り 、 い く つかの大学で教鞭 を と っ た の ちに ボロ ーニ ャ大学の政治社会学の教授 と な り 、 イ タ リ ア有数の選挙社会学 の拠点で あ る カ ッ タ ーネ オ研究所 (Istituto Cattaneo) の所長や 『イ ル ・ ムリ ー ノ 』 の編集長 も務 めた こ と も あ る アル ト ウーロ ・ パ リ ー ジだ っ た。 「オ リ ー ウ、の木は強 く 耐久力があ り 大地に深 く 根 を下 ろ し てい る。 海 に も山 に も 平野に も 湖に も 丘に も あ る地中海 ヨ ーロ ッ パの木 だ。 太陽 を好み、 冬 を耐 え抜 く 。 こ の シ ン ボル を選 んだのはイ タ リ アの政治には樫の木[訳注 左翼民 主党 の シ ン ボル] しかなかっ たか ら だ。 多様性、 す なわち違いがあれ ど も両立 し う る こ と が我々の共有財産だ と い う こ と を示すには樫の木 と 並ぶ も う 一本の

29 Natalia Augius e Andrea Covotta, I cattolici e 1'Ulivo. Sfogliando Ia Margherita, Roma,

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政治の木が必要だから だ」3

°

オ リ ーヴの木は復活や平和の響き を持つ キリ ス ト 教的な連帯 を示す用語で あ る。 「カ ト リ ッ ク 教徒の統一」 の時代 が終 わ り 、 キ リ ス ト 教民主党 が消減 し た 後に生 じ た カ ト リ ッ ク 教徒の政党横断的な多元化状況に対応す る ための新 しい シ ン ボル で あ っ た。 い い か え る と カ ト リ ッ ク 民主派は、 「福音精神」 (spirito evangelico) を唯一 の宗教的根拠 と し ながら も、 政治的選択につい ては市民 と し て カ ト リ ッ ク 教会の意向か らは自律 し た決断 をす る と 宣言 し たので あ る。 そ れ ゆえイ タ リ アのカ ト リ ッ ク 教徒の歴史におい て画期的 な宣言で あっ た3

'。

中道左 派連合 オ リ ーウ、の木は、 カ ト リ ッ ク 教会か ら の明示的 な否認 がなかっ たた めに、 1996年総選挙において、 ある意味では 「カ ト リ ッ ク教徒の統一」 が 唱え られたキリ ス ト 教民主党の時代 と 同 じ よ う に、 多数の枢機卿、 司教、 教区 司祭、 修道士 ( と く にイ エ ズス会) 、 カ ト リ ッ ク系の知識人 ・ 活動家 ・ 新聞か ら の大 き な支援 を受け る こ と に な っ て勝利 を収めた32。 だがイ タ リ ア司教協議 会議長のルイ ーニ枢機卿は、 かつての共産党 が偽装 し たにす ぎ ない と 考え る左 翼民主党 と の連携 を図 ろ う と し たフ ロ ーデ イ を初め と す る カ ト リ ッ ク 民主派の 自律的な政治選択 を全面的に否定 し、 教会の利益 を約束 したべルルス コ ーニ ら 中道右派 と の同盟 を選択す る よ う に な る。 それ ゆえ教会がた と え暗黙の形にせ よ フ ロ ーデ イ た ちのオ リ ー ヴの木 を事実上支持す る こ と に な っ たのは1996年総 選挙が最初で最後で あっ た。 4 . イ タ リ アの歴史的特異性にねざ し た民主党構想 ミ ケー レ ・ サル ヴ アーテ イ は、 す で に述べ た よ う に カ ト リ ッ ク 陣営におい て ア ン ド レ ア ツ タ が初めて民主党の創設 を唱え た功績 を讃 えてい た。 だが左 翼陣 営において民主党の創設 を終始一貫 して訴えつづけてき たのが、 サル ヴ ァ ーテ イ 自身で あ る こ と は衆目の一致す る と こ ろ で あっ た。 彼は2003年に左翼民主派/ オ リ ーウ、の木か ら 下院議員 に当選 し てい たが、 その経歴か ら も明 ら かな よ う に マル ク ス主義経済学者 ではな く 、 旧共産党 と のつ なが り も な く 、 む し ろ ケ ン ブ リ ッ ジ大学留学から帰国後は英米系のニ ュ ー レ フ ト の立場に与す る論客 と して 全国紙や雑誌に寄稿す る よ う に な っ てい た。 サル ヴ ァ ーテ イ の主張は、 あ る意味で はき わめて単純 な も のだ っ た。 イ タ リ

30 Romano Prodi, “Net segno deli'olive, Bologna, 6 marzo 1995,” www.per l'ulivo. it.

31 村上信一郎 「キリ ス ト 教民主主義に未来はあるか」 日本政治学会編 『年報政治学2001 三 つのデモ ク ラ シー一自由民主主義 ・ 社会民主主義 ・ キリ ス ト 教民主主義』 (岩波書店、 2002年) 、 pp 61-62。

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アのすへての穏健な改良主義の諸党派がま と ま っ て一 つの新 しい政党 を創 ろ う ではないか。 オリ ーヴの木のよ う に、 だれにで もす ぐに分かる単純な名前 を も っ た一つの穏健な左翼 (あるいは中道左派) の政党 を創 ろ う ではないか、 と い う も ので あっ た33。 こ う し た考えは、 と く に2004年の欧州議会選挙に向けて唱え ら れた も のだ っ た。 欧州議会では、 ながら く 欧州社会党 と 呼ばれ今では社会民主進歩同盟 と 呼ば れ る左 派の グル ー プ と 、 欧州人民党 と 称す る右派の グル ー プ が二大勢力 と な っ て き た。 そ こ か ら も分か る よ う に、 ヨ ーロ ッ パの民主主義諸国では、 多 く の例 外 も ある と はい え、 基本的 には左 派 と 右派 と い う対立軸に も と づい て政党 シス テ ムが築かれて き た。 だ が歴史的 な特異性 (anomalia) のせいで、 イ タ リ アで は そ う し た対立軸の形成が妨げ ら れて き た と サル ヴ アーテ イ はい う。 イ タ リ ア には教皇庁す な わ ち ウ、ァ テ イ カ ンが存在す るか ら で あ る。 イ タ リ アは1861年に国家統一 を成 し遂げて以来、 その領土の内部にあり なが ら国家から自律 し た形で超国家的影響力 を行使 し続け る教皇庁 と の関係に悩ま さ れ続け て き た (い わゆる 「ロ ーマ問題」 questione romana)34。 フ ラ ン スや ス ペイ ンや オース ト リ ア と い っ た他の カ ト リ ッ ク諸国には こ のよ う な歴史の重荷 は なかっ た。 他方、 戦後のイ タ リ ア では他の西欧諸国 と は異な っ て共産党が国民生活の間 に深 く 根 を下 ろ し 、 左翼陣営 を代表す る勢力 と し て強大な影響力 を行使す る よ う に な っ た。 それ ゆえイ タ リ ア では穏健な改良主義 を唱 え る大政党 を結成す る こ と は著 し く 困難 と な っ た。 こ う し て ウ、ァ テ イ カ ンの影響 を受け た キリ ス ト 教 民主党 と イ タ リ ア共産党 が不毛 な対立 を続け る と い う 他の西欧諸国には見 ら れ ない 「特異な」 政党 システ ムが生まれ る こ と にな っ た。 それ ゆえイ タ リ アの政 治そのも のが深刻 な 「膠着状態」 (immobilismo) に陥るこ と になっ て しま っ た ので あ る。 だが 「わた し た ちは自分た ちの過去 を選び なおす こ と はで き ない」 (Noi non

possiamo scegliere ll nostro passato) と サル ヴ アーテ イ はい う 。 こ の二つの世

界、 す なわ ちキリ ス ト 教民主党 と イ タ リ ア共産党のなかで育 っ て き た人々の少

な く と も一部 が主体 と な る こ と な く し て 、 イ タ リ ア に一つの大 き な改良主義の

政党 を創 る こ と はで き ない。 も と も と 社会民主主義者で あっ た り 自由主義者で あっ た り エ コ ロ ジス ト だ っ た人 た ちがそれに加 わるのは当然のこ と で あ る。 し

33 Michele Salvati, “Appelio per ii Partite Democratico,” n Foglio, 10 apriie 2003; id., “Perche voglio 11 Partite Democratico,” La Repubblica, 15 aprile 2003.

34 村上信一郎 『権威 と 服従一 カ ト リ ッ ク政党 と フ ァ シズム』 (名古屋大学出版会、 1989年) 、 pp 33-37。

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か し 、 こ う し た人々はいつ も少数派で あ り 、 こ う し た人々だけでは大き な政党

は創れない。 ま た当然のこ と なが ら20世紀の大き なイ デオロ ギーの対立と い う

古い歴史 を知 ら ない若い人た ち も こ の政党に加 わっ て く る こ と にな るで あろ う。

だ が 「イ タ リ ア第一共和制」 (Ia Prima Repubblica) の二つの巨大な大衆政党

のなかで生き て き た人々 を、 ま だだめだ と 分かっ たわけではないのに、 あ ら か じ め排除 し なが ら、 一つの大き な改良主義の政党 を創 ろ う と す るのは誤 り 以外 の何 も ので も ない。 サル ヴ ァ ーテ イは そ う 考 えてい たので あ る35。 こ う し た試みが可能だ と 分かっ たのは、 い う ま で も な く オ リ ー ヴの木の経験 から で あっ た。 すでに述へたよ う に、 ダ レーマ元幹事長 ・ 首相 を中心と す る左 翼民主党の大多数は1998年のフ イ レ ンツ ェ の代表者会議において、 旧社会党か ら 派生 し た諸勢力 を組み入れ る こ と に よ っ て、 「第二の も の」 (Cosa 2) すなわ ち第二段階の左 翼民主党へ と 進化す る こ と を目指 し てい た。 その名称か ら も政 党 と い う こ と ば を取 り 除い て 「左 翼民主派」 と 称 し たに も かかわら ず、 じつは こ の政党 を社会民主党に変身 さ せ よ う と し てい たので あ る。 サル ウ、ァ ーテ イは、 ダ レーマ た ち を 「政党主義者」 (partitista) と 呼び、 自分 た ち を 「オ リ ー ヴ主義者」 (ulivista) と 呼んでいたが、 「政党主義者」 は結局の と こ ろ、 じつは元共産党員があい かわ らず多数派 を占めつづけ る左翼民主派に 名前 を変 えただけで、 し よせ んは同 じ元共産党員の内輪で一人芝居 を演 じ てい たにす ぎ ない と 批判 し てい た36。 それ と 比べれば、 オ リ ー ヴの木におい ては、 大き な改革構想のなかで元共産 党員 と 元 キリ ス ト 教民主党員 が一緒にな っ て2 本の木が植え られ、 そこ に改良 社会主義者や自由主義者やエ コ ロ ジス ト も加わっ てい っ た。 た しかにイ デオロ ギー的文化的 な相違点は残 さ れたま まのたんな る政治的 な同盟で し かなかっ た。 だ が今の時代では諸勢力のあい だ に 「政治的感受性」 (sensibilita politica) の 大き な違い があ るのは当然で あ る。 そ う し た違いは他国の大き な改良主義政党 に も しば しば見 う け られ る。 だか ら こ そ、 みんなで一つの共通の政治方針 を選 び、 ま た民主的に指導層 を選出す る こ と に よ っ て、 そ う し た対立に終止符 を打 と う と 努力す る こ と が必要 と な るので あ り 、 それは不可能 な こ と ではない。 それでは、 なぜ、 た んな る政治的 な同盟 に留 ま る こ と な く 、 一つの大き な政 党 と な ら なければな ら ないのか。 その問い にたい し てサル ヴ アーテ イは こ う 答 え る。 第一 に、 多様で異質な政治的文化的な起源 を もつ諸集団の合同の過程そ の も のに、 一般市民に対す る訴求力 があ り 、 それが新 たに生 ま れ る政党 に大 き

35 Michele Salvati, ll Partlto Democratico per la rzvoluz1one lzberale, Miiano, Feltrinelii 2007, pp 26-27.

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な付加価値 を も た らすか ら で あ る。 第二は、 ほん も のの改良主義政党が誕生す る こ と で 「第二共和制」 によ る政治改革の成果が、 一般市民に も はっ き り と 目 に見え る形 で可視化 さ れ るか ら で あ る。 第三に、 改良主義 をめ ざす左 翼は今で は あ ら ゆる国で未曾有の危機 に直面 し てお り 、 それ を乗 り 越 え るには、 一旦過 去の経験か ら離れて、 未来 を見す えた新 た な戦略 を構築 し なければな ら ないか ら で あ る37。 ウ、ァ ル タ ー ・ ベ ンヤ ミ ンは、 絶筆 と な る 「歴史哲学テ ーゼ」 (1940年) の第 9 テーゼで、 ポール ・ ク レーの絵に触発 さ れて認めた 「新 しい天使」 (Angelus nevus) 、 す なわち歴史の天使 を、 おおよ そ次のよ う に描いてい る。 歴史の天使 は顔 を過去に向けて廃墟の山 を眺めなが ら楽園か らの強風に吹かれ、 自分が背 中 を向け てい る未来の方へ と いやお う な く 運ばれてい く 。 わた し た ちが進歩 と 呼ぶのは こ の強風 な のだ38。 サル ヴ ァ ーテ イ は、 こ の含蓄の深い予言的 な言葉 をふま えつつ も、 私た ちは 「新 しい 天使」 と は違い 、 過去 を見 な が ら 強風に吹 き 飛 ば さ れ るので は な く 、 未来 を見す え なが ら前に進 んでい かなければな ら ない と し てい たので あ る39。 5 . 遅ればせながらの 「歴史的妥協」 ?

サル ウ、ァ ー テ イ は2003年 4 月 3 日に 「今 で な け ればい つ」 (So non era,

quando?) 4°と い う アウシュ ヴイ ツツの生き残 り の作家プ リ モ ・ レーウ、イの著書 の題名 を引 く こ と に よ っ て民主党の結成 を訴 え始 めた4'。 そ し て、 サル ウ、ァ ー テ イ がイ タ リ アの歴史的特異性か ら その必要 を説い た よ う に、 かつて キリ ス ト 教民主党 に属 し てい た人々 と かつてイ タ リ ア共産党 に属 し てい た人々が一つに な る こ と に よ っ て 、 新 た に民主党が創設 さ れ る こ と に な っ た。 イ タ リ ア共産党のエ ン リ コ ・ べル リ ン グェ ル書記長は、 そのこ ろ荒れ狂 っ て い た極左極右のテ ロ リ ズムや相次い で発覚 し た ク ーデ タ未遂事件に危機感 を覚 え 、 イ タ リ ア の デ モ ク ラ シ ー を 救 う た め に 、 1973年 か ら 「歴 史的妥協」 (compromesso storico) を唱 え始 め、 キ リ ス ト 教民主党 と の連帯 を訴 え る よ う に な っ た。 両者の協力は1976年の第五次ジュ ー リ オ ・ ア ン ド レオ ツテ イ政権に

37 Id., n Partito Democratico por ia rivoluzione liberale, op. cit., pp 27-28.

38 ウ、ァル タ ー ・ ベ ンヤ ミ ン 『ベ ンヤ ミ ン著作集 1 暴力批判論』 [高原宏平 ・ 野村修編] (晶

文社、 1969年) 、 pp.119-120。

39 M ichele Salvati, “Perche ll partite democratico. Spunti per un M anifesto,” a cura di Roberto

Racinaro, Su1 partito demorcatico. 0plmom a confronto, Napoli, Guida 2007, p 93.

40 Primo Levi, So non era, quando Torino, Einaudi 1982 [竹山博英訳 『今でなければいつ』 (朝日新聞社、 1992年) ]。

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対す る共産党の閣外協力 にま で進展 し 、 それは 「国民連帯」 政府 (govemo di solidarieta nazionale) と 呼ばれた42。 そ う し た試み も共産党の対話者 と な っ た アル ト ・ モ ー ロ 元首相が1978年に極左 テ ロ リ ス ト 集団 「赤い旅団」 (Brigate rosse) によ っ て拉致、 殺害 さ れ る こ と によ っ て あえな く 終わっ て しま う 43。 い う ま で も な く1970年代に唱えられた 「歴史的妥協」 と2000年代初頭におけ る元キリ ス ト 教民主党員 と 元共産党員の民主党への合流 を同一視す る こ と はで き ない。 歴史的条件の違い があま り に も大 き す ぎ るか ら で あ る。 それに も かか わ ら ずイ タ リ アの 「政党支配体制」 (partitocrazia) の主役だ っ た二つの大衆政 党の末商 た ちが、 か く も長き にわた り 和解不可能 と 考え ら れて き た宗教やイ デ オロ ギーの違い を乗 り 越 えて一つの政党にま と ま ろ う と し た こ と には驚 き を禁 じ えない。 両者は1970年代と は完全に様変わり した状況のなかで自らの存亡を 賭け て 「歴史的妥協」 を図 ろ う と し たので あ る。 そ こ で、 まず民主党に合流す る キリ ス ト 教民主党の末裔、 す なわ ち ポス ト ・ キ リ ス ト 教民主主義者 (postdemocristiano) の方から見てい こ う44。 それが2002 年3 月に誕生 し た 「民主主義は白由で ある」 (Democrazia e Liberta: DL) で あ る。 その シ ン ボル マ ー ク か ら 一般 には 「マル ゲ リ ー タ」 (margherita) と 呼ばれ た。 こ れにはキリ ス ト 教民主党の左 派 を継承 し たイ タ リ ア人民党、 フ ロ ーデ イ が1999年に結成 した民主主義派、 ラ ンベル ト ・ デイーニ元首相 (在任は1995年一 1996年) が率い る 「イ タ リ アの革新」 の 3 グループが合流 し、 元ローマ市長の フ ラ ンチ ェ ス コ ・ ル テ ツリ を党首に選出 し た。 彼は も と も と 急進党の指導者で 離婚法や中絶法の国民投票 を推進 し た反教権主義者だ っ たが、 その後は緑の党 に転 じ、 ロ ーマ市長 (1993

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2001年) と なっ てからは、 2000年の大聖年をひか えた カ ト リ ッ ク 教会に急接近 し、 熱心な信者 と し て振 る舞 う よ う にな っ た。 し か し2001 年総選挙にオリ ーヴの木連合の首相候補に擁立されたが敗北す る。 マル ゲ リ ー タ では 「中道主義者」 と 「オ リ ー ヴ主義者」 が対立 し てい た。 そ れが先鋭化 し たのは2005年 6 月に実施された人工授精を制限 した法律を廃棄す る ための国民投票だ っ た。 当然のこ と なが ら左翼民主派 と イ タ リ ア社会民主派 (Socialisti Democratici Italiani: SDI) は法律の廃棄に賛成だ っ た。 イ タ リ ア司 教協議会は法律の廃棄に正面から反対す る よ り も、 棄権 を呼びかけて国民投票

の成立要件で ある投票率50% を阻止す る と い う戦略をと っ た。 当時のべルルス

42 馬場康雄 「『歴史的妥協』 か 『権力掌握』 か」 篠原一編 『連合政治n 』 (岩波書店、 1984年) 、 pp.1-66。

43 Agostino Giovagnoli, n case More. Una tragedia repubb11cana, Bologna, Il Mulino 2005. 44 ポス ト ・ キ リ ス ト 教民主主義者 に よ る離合集散 の全体像につ い て は、 Carlo Bacce1lo, I

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コ ーニ政権はこ れに同調 し た。 ま たマルゲリ ー タ が自主投票 を選んだ こ と も あっ て、 こ の国民投票は棄権が多数 を占めて成立 し なかっ た。 そのため国家の世俗 性 (laicita) をめ ぐ り左翼民主派やイ タ リ ア社会民主派と マルゲ リ ー タ の関係 は険悪 と な り 「オ リ ーウ、、主義者」 は窮地に陥 る こ と に な っ た。 そ う し た苦境 を打開 し たのは、 先述 し た よ う にフ ロ ーデ イ を統一首相候補に 選んだ2005年10月の中道左派連合 「ウニオーネ」 予備選挙の成功だっ た。 そ し て2006年総選挙では僅差ながら中道左派連合がべルルス コーニの率い る中道右 派連合に勝利 し た45。 第二次フ ロ ーデ イ政権のも と で上下両院のそれぞれに統 一会派オ リ ー ウ、の木が結成 さ れ、 民主党創設の機運はいやがお う で も高ま っ て い く 。 こ う し て2007年 4 月のマルゲリ ー タ第二回大会において、 2008年度中に 自 ら解散 し、 新 た な政治主体す なわ ち民主党の創設に加 わる こ と を決議 し た。 それでは民主党 に合流す る共産党の末裔、 す なわ ちポス ト ・ コ ミ ュ ニ ス ト の 方は ど う だ っ たので あ ろ う か。 す で に 「第二の も の」 (Cosa 2) につい て述べ たよ う に、 左翼民主党から左翼民主派への転換はほと ん ど成果 を も た ら さ なかっ た。 すでにベル リ ンの壁崩壊後の1991年にアキツレ ・ オ ツケ ツ ト 書記長の下で、 共産党は左翼民主党に変身す る こ と で、 マル ク ス ・ レーニ ン主義や民主集中制 を完全に放棄 し、 そのイ デ オロ ギー的基盤の柔軟化 と 多様化 を図 ろ う と し てい た46。 先述 し たよ う に、 左翼民主党から左翼民主派に転換 し たの ちには、 ウ、ェ ル ト ロ ーニ書記長の下で、 社会民主主義のみな らず自由主義や カ ト リ ッ ク 民主 主義にま でイ デオロ ギー的基盤 を拡張 し、 従来の民主集中制 を前提 と し た大衆 組織政党 を脱皮 し てネ ッ ト ワー ク型の連帯に依拠 し た軽い党構造 を構築す る こ と に よ り 多様 な幅広い諸勢力の結集 を図 ろ う と し た47。 し か し 、 それ を阻んだのは、 皮肉 な こ と に、 かつ て の共産党がエ ミ リ ア ・ ロ マ ーニ ャ州や ト スガーナ州や ウ ン ブ リ ア州 と い っ た 「赤い地帯」 に築き あげた 強固 なサブ カル チ ャ ーか ら な る地域基盤 で あっ た48。 こ う し た地域基盤があっ たがゆえに、 それ を越 えた全国 レベルでの支持基盤の拡大が難 し く な る と い う 「地政学的 ジ レ ンマ」 (dilemma geopolitica) を抱えていたので ある。 そのため、 こ う し た地域基盤 に依拠 し て社会民主主義政党のま ま踏み と どま り 、 さ ら に そ れ を純化 し てい く のか。 それ と も 、 地政学的 な限界 を乗 り 越 え る こ と を可能 と 45 村上信一郎 「分裂と混迷のイ タ リ ア 中道左派が薄氷の勝利」 『世界』 2006年 6 月号、 pp 29-32。

46 Achille Occhetto, 「 senflmenfo o a rag1one. n 'znfe zsfa dz 「eresa arfo z, M ilano, Rizzoli

1994; Piero Ignazi, Dal PCI al PDS, Bologna, Il Mulino 1992; Fiorenzo Ferrero, Dal Pci al Pds.

a fa esfzone socza e a a sociefa czvz e, M ilano, Franco geli 1994.

47 Rosa Mule, Dentro 1 DS, Bologna, Il Mulino 2007.

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す るために、 も つ と 広範な社会諸階層 を巻き 込んで よ り 民主主義的 で中道的 な 全国政党 に変身 し てい く のか、 煩悶 し続け る こ と に な っ た。 し か し左翼民主派 も 第二次フ ロ ーデ イ政権の成立や旧共産党の改良主義派 (migliorista) の重鎮で あっ た ジ ョル ジ ョ ・ ナポリ タ ーノ が2006年 5 月に大統領 に選出 さ れた こ と も大き な要因 と な っ て、2007年 4 月の最後 と な る党大会にお い て、 ピエ ロ ・ フ ア ツシー ノ 書記長は左翼民主派の解散 と 民主党への合流 を提 案 し た。 そ し てお よ そ75% の党員がこ れ を支持 し たので ある。 ただ、 こ れに反 対す る フ ア ビオ ・ ム ツシの動議は15% の支持 を集めた。 民主党への合流に賛成 しつつ も欧州社会党の枠内の留ま る こ と を求めたガ ウ、ィ ー ノ ・ ア ン ジウスの動 議 も10% の支持 を集めた。 いずれもが民主党には参加せず、 前者はよ り急進的

な 「民主的左 翼」 (Sinistra Democratica) 、 後者はよ り 穏健な 「社会党」 (Partite

Socialista) を結成す る こ と にな っ た。 こ う し て2007年 5 月 2 日には45人から なる民主党組織委員会が創 られた。 そ れには、 左翼民主派やマルゲリ ー タ だけではな く 、 その枠外にいたマル コ ・ フ オ ツ リ ー ニ (中道右派 UDC 元党首) 、 オ ツ タ ヴイ アー ノ ・ デル ・ ト ウル コ (元社 会党) 、 ジュ リ アーノ ・ アマー ト (元首相 ・ 元社会党) 、 ガ ッ ト ・ ラ ーネル (左 派系のテ レ ビ司会者) な どの著名人 も参加 し てい た。 そ して 6 月 8 日には創設 大会に参加す る2400人の代議員選挙を来る10月14 日に実施す るこ と が宣言され た。 代議員候補者は自分が推薦す る党首候補者 を掲げた選挙名簿に加わる もの と し、 こ う し た選挙名簿に対 し て オープ ン ・ システ ムに よ っ て直接投票が行 わ れ る と さ れた。 ま た党首選挙への立候補には党員2000人の有効署名が必要と さ れ、 その締め切 り は7 月30日と さ れた。 こ う して最終的には 5 人の候補者の選 挙戦 と な っ た。 そ し て、 す で に述べた よ う に ヴェ ル ト ロ ーニが圧倒的 な勝利 を 収め る こ と に な っ たので あ る49。 6 . 死産だ ったイ タ リ ア第二共和制 こ こ で あ ら ためて確認 し てお き たい こ と は、 イ タ リ アの政治改革は日本 よ り もは るかに根の深い1992年の 「構造危機」 (systemic crisis) から生まれた と い う こ と で あ る。 第一は金融 ・ 通貨危機で あ り 、 イ タ リ アは通貨 リ ラ の大暴落に よ り 「債務不履行」 (default) の危機に直面 し てい た。 第二は社会的道徳的危 機で あり 、 政権与党の政治腐敗の蔓延 と マ フ ィ ア等の暴力組織の専横は頂点に 達 し てい た。 第三は政治危機 で あ り 、 「賄賂都市」 (tangentopoli) と 呼ばれる空

49 M arc Lazar, “La nascita del Partite democratico,” in Mark Donovan & Paolo Onofri (a cura

di) , Politlca In Italia. Edizione 2008, Bologna, Il Mulino 2008, pp 67-86; Gianfranco Pasquino (a cura di) , n partito democratico, op. cit.

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前絶後の疑獄事件で政財界の ト ッ プ を も含む3000人が起訴さ れ、

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時は上下両 院議員の3 分の 1 が捜査通告 を受け る異常事態と なっ た。 権力の絶頂期にあっ たべ ツテ イ ー ノ ・ ク ラ ク シ社会党書記長 ・ 元首相、 ジュ ー リ オ ・ ア ン ド レオ ツ テ イ終身上院議員 ・ 元首相、 アルナル ド ・ フ オル ラ ーニ ・ キリ ス ト 教民主党幹 事長 ・ 元首相 も訴追 を免れ る こ と はで き なかっ た。 こ う し た構造危機のなかか らマ リ オ ・ セ ーニ を指導者 と す る国民投票に よ っ て政治改革 を推進 し よ う と す る運動が起こ り 、1993年の国民投票の結果に基づ き 、 従来の比例代表制にかえて小選挙区比例代表並立制が導入 さ れ る こ と にな る。 そ し て翌1994年に新選挙法の下で行われた総選挙は、 イ タ リ アの戦後政党 システ ム を構成 し て き た伝統的諸政党 が少 な く と も名称の上ではすべて消減す る と い う 劇的 な結果 を も た ら し た。 そればか り か フ オル ツ ア ・ イ タ リ ア、 北部 同盟、 国民同盟 と い っ た新興政党から な る中道右派連合が政権 を獲得す る こ と になっ た。 上院では60%、 下院では70% もの新人議員が誕生 し、 政治エ リ ー ト の劇的 な新旧交代が生 じ た。 か く し て 「第一共和制」 は崩壊 し 「第二共和制」 への移行が開始 さ れた と い われ る こ と に な っ たので あ る。 し か し、 それはいつ ま で た っ て も着地点の見 え ない 永速の過渡期の始 ま り と な っ て し ま う。 選挙研究や比較政治学が依拠 し た 「制度工学」 (institutional en- gineering) の観点からす る と 、 小選挙区制 を基軸と し た新たな選挙制度によ っ てイ タ リ アの政党 システ ムは 「二極化」 に向かっ て収斂す る と と も に再編 さ れ てい く 、 す なわ ちイ ギリ スのウエ ス ト ミ ン ス タ ー ・ モ デルに接近す る と 考え ら れてい た。 それゆえ1994年の中道右派政権の誕生後、 非政党専門家内閣をはさ んで1996年に中道左派政権が誕生 し、 さ ら にその後2001年に中道右派政権が誕 生 し た こ と は、 「政権交代の あ る民主主義」 の成功例 と 見 な さ れ たので あ る5

°

し か し それは大 き な誤解 だ っ た。 イ タ リ ア で成立 し たのは 「二大政党制」 (bipartitismo) ではな く 「二大陣営制」 (bipolarismo) だ っ たから で あ る。 「政 党」 と は一つの綱領の下に結集す る凝集力 と 同質的 な アイ デ ンテ イ テ イ を持つ 単一組織のこ と をい う。 「陣営」 と は異 な る綱領 と アイ デ ン テ イ テ イ を も つ複 数の政党 か ら な る権力獲得のた めの 「選挙 カル テル」 で あ る。 それは小選挙区 制 と い う 新 た な 「外的制約条件」 (vincolo estemo) への功利的かつ技術的な 「適応」 戦略の産物に他 な ら ない。 こ う し た 「陣営」 の内部では政策距離の大 き な政党 ど う し が不断に威嚇力 を行使 し て自己保存 を図 ろ う と し策謀 をめ ぐ ら す。 そのため 「陣営」 は本質的 に凝集力 を欠 く ばか り か遠心化 を強めてい く 。 ま た、 それ ゆえ 「政党」 には なれ ない。 そ し て、 こ のよ う に し て消減 し た政党

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の空隙 を埋め る こ と に な っ たのが、 ベルル ス コ ーニのよ う な カ リ スマ的で人格 的な指導者だ っ た。 政治改革 を主導 し たのが主と し て中道左派系の知識人だ っ た こ と を想い 起 こ す な ら ば、 じつ に皮肉 な結果 で あ る と い わ ざ る を え ない。 政治改革の理想は、 選挙制度 を変 えて政党 システ ムが変われば政治体制 も変 わっ てい く 。 す なわち小選挙区制→政権交代→強力な政権与党→高い統治能力 と い う 単線的 な発展図式 を脳裏に描い てい た。 政権交代 を く り かえ し てい く う ちに統治能力が高ま っ てい き 、 政治 も だ んだ んと 良 く な っ てい く 。 こ れが機能 主義的で予定調和的な制度工学に依拠 し た脱イ デオロ ギー的かつ没価値的で科 学的な政治改革論だ っ た。 い ま にな っ て考えてみ る と 、 こ う し た主体性ぬき の政治改革論に、 全人格 を 賭け、 全身 を露出 し、 全資産 を投入 し て立 ちはだか り 、 抵抗 し たのがべルル ス コ ーニ だ っ たのか も しれない。 ベルル ス コ ーニの背後には、 性善説に立つ政治 改革論 が括弧 に入れて見 ない こ と に し たイ タ リ ア社会の 「残余」 (residue) や 「悪徳」 (vizi) のすべてがマ グマ と なっ て控えてい た。 彼はイ タ リ アの多 く の 人々が本音の レベル で求 めてい た、 む き だ し欲望 と 快楽 (イ タ リ ア語い えば 「腹」 pancia) を丸 ご と 肯定 し、 全面的に解放 し た。 も ち ろ ん、 それは自分自 身の利益のためで も あっ た。 粉飾決算 を軽犯罪化 し、 脱税や違法建築には 「赦 免」 (condone) お与え、 固定資産税の廃止 を選挙公約と し た。 ベルルス コ ーニに と っ ては、 政治改革です ら自 らの既得権益の擁護 と 現状維 持の方便にす ぎ なかっ た。 イ タ リ アの政治改革には具体的 な目標が何一つ定か で はなかっ た。 そ う し た空白 を埋 め るかのよ う に、 その時々の状況 に応 じ て彼 がと る一挙手一投足が、 いつのま にかイ タ リ アの政治 と な っ てい た。 べルル ス コ ーニは、 次の総選挙に不利 と 見 るや政治改革の根幹 をなす選挙制度 (小選 挙区制) ま で何のため らい も な く 変えて しま っ たので ある。 それゆえべルル ス コ ーニの打倒が政治改革の目標 と な る と い う 「倒錯」 が中 道左派諸勢力のあいだに生 じ る こ と になっ た。 彼がい ない と 何が政治改革かが ま るで分か ら な く な っ て し ま っ たか ら だ。 彼 な し には中道左 派 と 中道右派か ら な る二大陣営制 も政権交代 も成 り 立た な く な っ た。 彼 を敵 と す る限 り 中道左派 諸勢力はま と ま る こ と がで き た。 その結果、 総選挙 も彼に対す る好 き 嫌い が争 点と な る、 ある種の国民投票 と化 し て し まい、 低劣な劇場政治に変質 し て し ま っ た。 か く し てイ タ リ アの政治は人格化 さ れ、 劣化 し てい っ たので あ る5

'。

7 . 手術は成功し たが患者は死んで し ま った こ こ で話 を再び2007年に創設 された民主党に戻すこ と に し よ う。 すでに述へ た よ う に、2006年の総選挙に 「ウニオーネ」 が勝利 を収めて第二次フ ロ ーデ イ

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政権が成立 し たばか り か、 ナ ポ リ タ ー ノ 大統領 ま で誕生 し た こ と も あっ て 、 ま さ に中道左 派諸勢力の上げ潮のなかで民主党は生まれたかに思われた。 し か し、 それは と んで も ない状況判断の誤 り で あっ た。 と い う の もべルル ス コ ーニ政権は2005年12月に選挙法を突如変えて しま っ たからである。 ベルルス コ ーニ政権の制度改革 ・ 地方分権担当相口ベル ト ・ カルデロ ー リ (北部同盟) は、 こ のま ま では任期満了後の春に予定 さ れてい る総選挙で中道右翼連合が敗 北す る と 考えて、 政治改革 を求め る国民投票 に よ っ て導入 さ れた小選挙区制 を 廃止 し、 拘束名簿式比例代表制 を復活す る選挙法 を制定 し た ( 下院で相対多数 を得た正統ない し政党連合の名簿には340議席のプ レ ミ アムが与え られる一方、 上院は州 ご と に集計 し て相対的多数 を得た政党ない し政党連合の名簿には定数 の5 % のプ レ ミ ア ムが与え られ る こ と になっ た) 。 カルデ ロ ー リ 自身 がや っ つ け仕事で作 っ た選挙法 を 「豚の糞」 (porcata) み たい な も の と け な し たので、 政治学者の ジ ョ ヴ ア ン ニ ・ サル ト ー リ は、 フ イ レ ン ツ ェ 人特有の皮肉 をこ め、 こ れ を ラ テ ン語風にア レ ン ジ して 「ポルチ ェ ル ム」 (porcellum) と命名 し た ( ちなみに1993年の選挙法 も、 サル ト ー リ にと っ ては、 き わめて中途半端 な も ので あっ たので 、 起草者のセル ジ ョ ・ マ ツ タ レ ツラ か ら 皮肉 を こ めてマ ツ タ レル ムmattarellum と名付け られた) 。 こ う し て政治改革の基本理念 を支 えて き た 「ゲームの規則」 は根底か ら覆 さ れて し ま っ た。 それ ど こ ろか中道右派は小選挙区制導入 に よ る政権交代可能な 二大政党制の実現と い う 政治改革の基本理念な どこ れっ ぼつち も共有 してい な かっ たので ある。 少な く と も成熟 し た民主主義国で こ れほどま で狡猾で破廉恥 な選挙法改正 に よ る 「ク ーデ タ」 は例 をみなかっ た。 ポルチ ェ ルム法はのちに (2013年12月 4 日) 意法裁判所がその一部 (プ レ ミ ア ムの付与) を違憲違反 と し たよ う に、 違憲の疑いが濃厚な合法性すれすれの 法律だ っ た。 それなのに当時野党 だ っ た中道左 派はその良が理解で き ない で徹 底抗戦 を怠 っ た。 その過 ちの大き さ は、 1996年総選挙に勝利 し た中道左派政権 が、 野に下っ たべルル ス コ ーニ を揺籃期の二大政党制におけ る中道右派の指導 者 と 認知す る必要 を感 じてい こ と から、 明白な独占禁止法違反で ある彼のメ デ ィ ア支配や巨大メ デ ィ ア所有者 と 政治家 と の 「利益相反」 (conflict of interests) を一切不問 と し て き た こ と に、 匹敵す る も ので あっ た。 51 「死産だっ たイ タ リ ア第二共和制」 は酒井直樹 『死産 さ れる日本語 ・ 日本人一 「日本」 の 歴史 ・ 地勢的配置』 (新曜社、 1996年) から着想 をえた。 ま た、 こ の節は下記の拙稿 を要約 し た も ので あ る。 村上信一郎 「イ タ リ ア は盗賊支配に移行 す る か」 『世界』 2004年12月号、 pp. 260-267、 同 「ああ、 奴隷 と な り はてたイ タ リ ア」 『世界』 2012年 4 月号、 pp 288-296、 同 「ベ ルル ス コ ーニの時代の終 り」 『世界』 2013年12月号、 pp 20-24。

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2006年総選挙で誕生 し た第二次フ ローデイ政権はポルチ ェ ルム法が仕掛けた 地雷のせい で僅差の勝利 しか得 られなかっ ただけではな く 、 その後の内紛から 僅かの票差で不信任案が可決 さ れた こ と に よ り 、 た っ たの2 年で崩壊 した。 それ以上に重大な こ と は、 小選挙区制がな く な っ た こ と だ っ た。 小選挙区制 の下では中道左 派、 中道右派のそれぞれの陣営内で諸党派間の選挙協定が結ば れ、 そ う し て選ばれた統一候補が顔の見え る 「地域」 の代表 と し て立候補 し て き た。 し か し ポルチ ェ ル ム法が定めた拘束名簿式比例代表制に よ り 、 各党の中 央 と つ ながる支部の書記長が半ば自動的に候補者名簿に記載 さ れる こ と にな っ た。 新 たに創設 さ れた民主党 で も党 首のウ、ェ ル ト ロ ーニが候補者選抜の権限 を 独占す る こ と で 、 かえ っ て中央統制 が強ま る こ と に な っ た。 そのた め、 こ れま で築かれて き た中央 と 地方の関係が完全に断絶 さ れて し ま う 結果 と な っ た。 フ ロ ーデ イの時代のオ リ ー ヴの木は、 中央 と 市長や県知事が行政 を握 る地方自治 体 と を結びつけ よ う と す る同盟の論理 を重視 し て き たが、 今や それが完全に消 減す る こ と に な っ て し ま っ たので あ る52。 2008年総選挙でウ、、ェ ル ト ローニ を党首と す る民主党は、 オリ ーウ、の木やウニ オーネ の時代には中道左派陣営に加わっ てい た中道よ り も左側にい た諸勢力 を 切 り 捨て、 単独出馬 をす る (correre da solo) こ と で選挙戦に臨んだ。 ベルル ス コ ーニ も こ れ を模倣 し て 、 フ オル ツ ア ・ イ タ リ ア、 北部同盟、 国民 同盟 、 キ リ ス ト 教民主連合 か ら な る 中道 右 派連合 「自 由の家」 (Casa delta Liberta) を解党 して フ オル ツ ア ・ イ タ リ ア と 国民同盟が合体 し た単一政党 と し

て の 「自由の人民」 (Popolo delta Liberta) を結成 し た (正式の結成は総選挙

後) 。 こ う して、 あたかも政治環境が合理化 さ れたために政治改革によ っ て期 待 さ れた政党 システ ムの再編 (reaglinment) が一気に加速 し たかのよ う な幻想 が生 ま れたので あ る。 だが政治改革の前提 と な る小選挙区制はすでに消減 してい た。 民主党はすで に比例代表制の論理のま っ ただ なかにい るのに、 い ま なお小選挙区制の論理で 行動す る と い う矛盾に気づかない でい た。 民主党が 「女王の生け費」 (sacrificio di regina) と し て切 り 捨てた批判的左翼、 す なわち緑の党、 イ タ リ ア共産主義 者、 共産主義再建党、 左翼民主党解党反対者 な どは 「虹の左翼」 (Sinistra di Arcobaleno) を結成 し たが、 最低得票率 (下院 4 % 、 上院 8 %) を越え るこ と がで き ず議席はゼロ と な っ て国会の議場か ら消減 し た。 し か し 、 フ ロ ーデ イ が13年かけて培っ てき た批判的左翼にまでウイ ン グを延 ばそ う と し た中道左派諸勢力の幅広い結集 が失 われた こ と に よ っ て、 民主党が

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得た も のはなに も なかっ た。 と い う の も比例代表制で あ るかぎ り は、 批判的左 翼 を支持 し て き た有権者 が死票 と な る こ と を恐れて 民主党 に 「戦略的投票」 (イ タ リ アでは 「有益投票」 voti utile) をす る理由がなかっ たから で ある。 ま た ウ、ェ ル ト ロ ーニがむ し ろ批判的左翼に親和的な争点で ある多文化主義や同姓 婚 を支持 し た こ と も あっ て、 期待 さ れた カ ト リ ッ ク 穏健派 を中心 と す る中道票 の獲得に も成功 し なかっ たか ら で あ る。 2008年総選挙は中道右派の 「自由の人民」 と 北部同盟の圧勝に終わっ た53。 民主党 と 「自由の人民」 か ら な る二大政党の誕生 と い う 政治市場のサプ ラ イ サ イ ドの 「革新」 (innovation) が生 じ たに もかかわらず、 イ タ リ アの有権者市場 が表わす選挙地理の 「粘着力」 (viscosity) は強 く 、 根本的 な地殻変動は生 じ なかっ た。 民主党は結局の と こ ろ 「赤い州」 で し か勝利 で き なかっ た。 ベルル ス コ ーニが総選挙後に豪語 し た よ う に 「条件は変わっ た。 以前は国民 がま つぶたつに分かれて拮抗 し てい たので対話や相互理解が必要だ っ た。 だが 今では我々が3 分の 2 と な り 、 相手は 3 分の 1 しかない。 だから決定権は我々 の側に移 っ たので あ る」。 いい かえ る と 民主党のみな ら ず中道左 派諸勢力 が完 全 な少数派 と な っ て し ま っ た。 民主党はま だ仮定法に よ っ て で し か存在 し え な い政党 (partite ipotetico) だ っ たのに、 単一政党 と なっ た こ と で あたかも政党 システ ム全体が合理化 さ れ再編 さ れて二大政党制が成立 し たかのよ う な幻想に 囚われて単独行動 を と っ たために、 中道左 派勢力の総体 を大き な危機 に陥れ る こ と に な っ た。 ま さ に 「手術は成功 し た が患者は死 んで し ま っ たので あ る」

(L 'operazione e riuscita, ma ll paziente e morto)54

8 . ポス ト モ ダ ンの君主論 イ タ リ アの政治学者マ ウロ ・ カ リ ーゼは、 大衆組織政党の衰退 を 「恐竜」 の 消減に譬えて次のよ う にい う 。 「政党は20世紀の政治 を、 その生息地で ある社 会 を も白 ら に従属 さ せ なが ら支配 し て き た。 い まや生息地その も のが急速に消 減 しつつ あ り 、 政党 と い う恐竜 も絶減危惧種 と な り つつ ある。 環境が氷河期に 突入 し てい るから で ある。 20世紀の前半には、 激 しい宗教的 ・ 社会的対立が流 血の惨事 を と も ない なが ら繰 り 返 さ れて き た。 それが政党 を生み出 し た環境 で あ り 、 生息地 だ っ たので あ る」55。 こ う し た政党観は、 ノ ル ウ ェ ーの政治学者 シ ュ タ イ ン ・ ロ ツカ ンに も と づ く

53 ITANES, n rztorno di Berluscon1. Vincltori e vinti nolle eleziom del 2008, Bologna, Il Mulino

2008.

54 Edmondo Berse11i, “Partite democratico o partite ipotetico,” n Mulino, 2008/3, pp 420-431. 55 M.Calise, op. czt. p 21 [邦訳、 p 23].

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もので、 彼は ヨーロ ッパの近代国家形成期におけ る国家一 教会、 所有一 労働、 都市一地方、 民族/言語と い っ た社会的亀裂 (cleavage) から政党が生まれ、 そ う し た政党の配置がその後 も長 く 「凍結」 (freeze) さ れてい く と した56。 しか し、 第二次大戦後の大衆組織政党が大き な変貌 を遂げつつ あ る こ と は、 オ ツ ト ー ・ キル ヒ ハイ マ ー が唱 え た 「包括政党」 (catch-all-party) 論57 が示 し てい た よ う に、 すで に50年近 く もま えから理解 さ れてい た。 それに もかかわら ず現実には政党はまだ生き延びてい る。 だから消減 し ないのではないか。 カ リ ー ゼは一般の人々がそ う 考 え るの もやむ を え ない と す る。 しか し、 今や政党は大衆 を国家機構に統合す る と い う 役割 を失い ( 「下部組 織 な き 政党」 base-less party58) 、 多 く の点で国家 と 一体化 し てい る と い う。 そ れは リ チ ヤー ド ・ カ ツツ と ピー タ ー ・ メ イ ヤーがい っ た よ う に、 政党 が 「専門 職化」 す る と 同時に 「国家化」 を遂げてい つたか ら で あ る59。 いいかえ る と 党 活動に専従す る よ う な党員や党官僚はい な く な り 、 現在の職業政治家は政党で は な く 選挙に よ る公職に就 く こ と で広義の国家 に基礎 をお き なが ら活動 し てい るから で ある。 それは政党に所属す る市会議員、 県会議員、 州議会議員、 国会 議員のこ と を考えてみ るだけ で も明 ら かで ある。 ま た現代の政党は党員が納入 す る党費よ り も国家から受け取る議員歳費や政党助成金に大き く 依存す る よ う に な っ てい る。 こ のよ う に党員がい な く て も国家 と の相互浸透によ っ て生き延 び る政党 を、 カ ツ ツ と メ イ ヤーは 「 カル テル政党」 (cartel party) と 命名 し た の で あ る600 さ ら に今では 「カル テル政党」 か ら 「フ ラ ンチ ャイ ズ政党」 (franchise party) への移行が唱え られてい る。 かつて ア メ リ カ の政治学者サ ミ ュ エル ・ エル ダー ズ ウ、エ ル ト は ア メ リ カ の政党 が位 階 構 造 (hierarchy) で は な く 重層構造 (stratarchy) を その特徴 と す る と し た。 す なわ ち党 に中心はな く 、 それ ゆえ党 の上部によ る下部の統制や統合 も な く 、 党の下部単位は大き な自律性 を保 ち続 け る6'。 フ ラ ンチ ャイ ズ政党はこ の概念 を応用 し た もので、 政党は選挙のため 56 白鳥浩 『市民 ・ 選挙 ・ 政党 ・ 国家一 シュ タイ ン ・ ロ ツカ ンの政治理論』 (東海大学出版会、 2002年)。

57 Otto Kirchheimer, “The Transformation of the Wester European Party Systems,” In J.Palombara & M.Weiner (ed ) , Po11tica Parties and Political Development, Princeton, Princeton University Press 1966, pp.177-200.

58 Daniel M.Shea, “The Passing of Realignment and the Advent of the ォ Base-lessサ Party System,” American Political Quarterly, XXVII, 1, 1999.

59 R.Katz & P.Mair (ed ) , ow Parties Orgamze・ C ange and dapfion zn Par 0rgamzafzons

in Western Democracies, London, Sage 1994.

60 R.Katz & P Mair, “Changing M odels of Party Organization and Party Democracy,” Party Pozfzcs, vol. 1, 1995, pp 5-27.

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のブ ラ ン ド を提供す るだけで、 下部単位は地方分権化す る と と も に自律化 し て い く と す る62。 と く に近年のイ タ リ アでは州政府の権限が拡大 し た こ と によ っ て 、 その傾向がま す ます顕著に な っ た と い われてい る63。 カ リ ーゼは、 こ う し た近年の政党研究の成果 を踏ま えた う えで、 もはや大衆 組織政党の時代は終わり 、 すでに指導者の個人的な人格に依拠す るパー ソナル ・ パーテ ィ (personal party) の時代が始ま っ てい る と し たので ある。 大衆組織政 党は社会の産業社会化 に対応 し た政党 だ っ た。 グラ ムシのい う 「現代の君主」 は同 じ グラ ム シがい う 「フ オーデ イ ズム」64 に対応 し た政党だ っ た。 そ し て高 度成長 を経て 「豊かな時代」 (affluent society) 65 が到来 し消費社会化や第三次 産業化 も進 んでい く 。 ま たマ ス メ デ ィ アが発達 し教育水準 も 向上 し て社会の世 俗化 も進む こ と で 「ナル シ シズムの文化」 (culture of narcissism)66 が広 ま っ て い く 。 こ の よ う な 「ポス ト ・ フ オーデ イ ズム」 の時代には人々は自己 を中心 と す る複数のアイ デ ン テ イ テ イ の感覚 を抱 く よ う に な り 、 そ う し た社会の変容 に 対 し て大衆組織政党のよ う な 「閉 じ られた システ ム」 では対応でき な く なっ て い っ た67。 ま さ に 「現代の君主」 の座 を 「ポス ト モ ダ ンの君主」 が奪お う と し てい たので あ る。 おわ り に イ タ リ アは、 皮肉 を込めてい う な らば、 ベルル ス コ ーニが三度日の勝利 を得 た2008年総選挙を境に、 政権交代可能な 「二大政党制」 ならぬ 「二大陣営制」 の時代が終わ り 、 キリ ス ト 教民主党 と 共産党 が対峙 し たま ま膠着 し た時代 を彷 彿 さ せ るかのよ う な、 「自由の人民」 と 民主党か ら な る 「不完全 な二大政党制」 (bipartitismo imperfetto)68 の時代に逆行 し たかのよ う に な る。 カ リ ーゼは、 イ タ リ ア で も政党 がパー ソ ナル ・ パーテ ィ 化す る一方、 執政権力の強大化 と 自律 化す な わ ち 「大統領制化」 (presidentialization) 69 が進んでい っ た と し、 2006年 の著作におい て、 すで にイ タ リ アは 「第二共和制」 か ら 「第三共和制」 に移行

62 R.K.Carty, “Parties as Franchise Systems. The Stratarchical Organi-zationa1 Imperatives,” Party

Politics, vol. 10, No.1 (2004) , pp 5-24.

63 P.Ignazi, L.Bardi e OM assari, Mon so o oma. Parfifz e c assf dzrzgenfi no e regzom zfa iane,

Milano, Universita Bocconi Editore, 2013.

64 A.Gramsci, “Americanismo e Fordismo,” in Quederm del carcere, vol.m , Torino, Einaudi l977, pp 2137-2181.

65 John Kenneth Galbraith, The Affluent Socle , Boston, Houghton Mifflin 1958. 66 Christopher Lash, The culture of Narcissism, New York, Norton 1979. 67 Mauro Revelli, Finale di partite, Torino,Einaudi 2013, pp 65-100. 68 Giorgio Ga11i, n bipartitlsmo lmperftetto, Bologna,Il Mulino 1966.

69 Mauro Calise, “Presidentializatio, Italian Style,” in T.Poguntke & P.D.Webb (eds ) , The Presidentialization of Po1流cs, Oxford, Oxford University Press, 2005, pp 88-106.

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