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戦前昭和期の広域行政(道州制) 利用統計を見る

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戦前昭和期の広域行政(道州制)

著者名(日)

佐藤 俊一

雑誌名

東洋法学

44

1

ページ

57-113

発行年

2000-09-01

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00000424/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

戦前昭和期の広域行政︵道州制︶

目  次

東洋法学

 序   時期区分と接近視座   一−一 戦前昭和期の広域行政︵論︶の時期区分   一⊥一戦前昭和期の広域行政︵論︶への接近視座   二−一 分権化揚潮期の広域行政論   二−二 分権化退潮期の広域行政論   三−一 行政機構改革と広域行政論   三ー二 連絡調整から統轄への広域行政制度  小  括 三 総力戦体制期の広域行政 二 政党内閣期の広域行政論

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58 戦前昭和期の広域行政(道州制) 序  本稿は、前稿﹁広域行政とリージョナリズムの概念﹂の検討を受け、まずは戦前昭和期の広域行政︵論︶の展 開を分析しようとするものである。  ところで、前稿では諸辞典の定義などを参照しながら、広域行政とは市町村あるいは都道府県の区域を超えて 処理される行政ないしはその処理方法ーもっとも、かかる区域を超えて処理することが求められる広域行政        こ ︵方法︶は既存の地方団体・制度の再編成を惹起し、アジェンダ化することに留意したい  と定義した。そこ で本稿の対象期である昭和前期をみると、市町村の区域を超えて処理される行政ないしはその処理方法としての 広域行政︵論︶がみられなかったわけではない。そもそも、市制・町村制の実施に際して行政村を創出するため に実施された明治の大合併に次いで、第一次西園寺内閣の原敬内相の指導のもとで一九〇六∼○八︵M三九∼四       パこ 一︶年には全国的な町村合併の推進と町村組合規定の拡充がなされた。そして、一九一二 ︵丁一〇︶年には原内 閣のもとで郡制が廃止され、一九二六︵丁一五︶年には郡役所そのものも廃棄された。そうした中で緩やかな合     パ レ 併が続いただけでなく、郡役所の廃止に対する不満がくすぶり続け、その問題は概略的には以下のような経過を みたのである。  一九二九︵S四︶年の世界大恐慌は、昭和恐慌の荒波となって我が国の農山漁村を荒廃化した。そのために町 村会を基礎にした中央報徳会は、一九三二︵S七︶年一〇月に斉藤実内閣に対し、政府による農山漁村更正の応

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東洋法学

      パゑ 漁村の救治上の如何に便宜を得るならむか﹂とし、府県と町村との間に中間的な地方行政機関を設置すべきとし 急策実施状況をみるにつけても、旧﹁郡役所の如き機関の存続したらんには、此の疲幣困愚の極に沈倫せる農山 た建議を行った。そして、同会は機関誌上で郡役所の復活ないしは中間行政機関の設置をめぐる賛否両論を掲載       パむ      り の の し、復活・設置論の盛り上げを図った。その後、そうした下からの要求・運動は沈静化したといえるが、一九三 六︵S一一︶年の二・二六事件頃から総力戦体制化が進められるとともに、今度は上から府県・町村問における 中間的な行政機関設置が模索されることになった。その企図は総力戦における国策の浸透・遂行化のためにあっ た。そして、それは道州制問題とからみながら、結局は一九四二︵S一七︶年七月に、﹁国政ノ浸透徹底ト重要 農産物資ノ増産、生活必需物資ノ配給等各般ノ経済統制ノ事務、部落会、町内会ノ自治的活動ノ指導事務、貯蓄 奨励等二関スル事務、軍事扶助、軍事援護其ノ他軍事二関スル各般ノ事務其ノ他府県庁二於ケル時局下重要ナル       ゑ 行政事務ノ適実敏活ナル処理トヲ図ルヲ主目的トスル﹂ところの府県の地方事務所として開設されることになっ た。  このように市町村の区域を超える広域行政もみられたが、本稿では都道府県の区域を超えて処理される行政な いしその処理方法としての広域行政︵論︶に焦点を当てたい。というのは、昭和期に入ると府県制の在り様が問 題化し、それとのかかわりでいわゆる道州制案が提起され、敗戦までたえず論議されてきたためといえるが、一 般に戦前における広域行政︵論︶イコール道州制論と観念されてきたからである。  なお、引用文献の旧漢字は特別の場合を除き新漢字に書き直してある。また、以上と以下の本文中における西 59

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戦前昭和期の広域行政(道州制) 暦年の表示に続く括弧内のM・T・Sはいうまでもなく元号の明治・大正・昭和の略記である。

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︵3︶

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 ﹁地方事務所︵府県現地実行機関︶設置要綱﹂の設置目的条項、﹃地方行政﹄第五〇巻第一〇号、昭和一七年一一  同前誌、同前号の他、同前誌の第二七編第一二号、昭和七年一二月、も参照。  ﹁中間地方行政機関の設置に就いて﹂﹃斯民﹄第二七編第一一号、昭和七年一一月、一〇∼二二頁。 和一〇年六月、鈴木俊一﹁市町村合併の再検討﹂﹃地方行政﹄第四四巻第九号、昭和二年九月。 域拡大運動﹂﹃斯民﹄第二九編第一一号、昭和九年二月、小島憲﹁市町村合併問題﹂﹃自治機関﹄第四二四号、昭 トロポリスの創出のための合併という三タイプがみられる。それらについては、次を参照。大塚辰治﹁市町村の地  郡制廃止以降の合併には、経済的基盤や行財政力の強化のための小規模町村の合併、市制施行のための合併、メ 治の形成ー原敬の政治指導の展開﹄東京大学出版会、一九六七年、第一部第一章、を参照。  原敬による郡制廃止にむけた町村合併の推進と町村組合規定の拡充の意図については、三谷太一郎﹃日本政党政  拙稿﹁広域行政とリージョナリズムの概念﹂﹃東洋法学﹄第四三巻第二号、二〇〇〇年三月、六〇∼六二頁。 月、五三頁。なお、この設置経過や役割などの詳細については、次を参照。郡祐一﹁府県現地実行機関設置の必要﹂、 鈴木俊一﹁地方事務所の開設﹂、ともに﹃地方行政﹄第四七巻第一号、昭和一六年一月及び第五〇巻第七号、昭和 一七年七月、鈴木俊一﹁府県現地実行機関設置要綱に就いて﹂﹃斯民﹄第三七編第二号、昭和一七年二月。 60 時期区分と接近視座 ︻1一 戦前昭和期の広域行政︵論︶の時期区分 前稿では、戦前昭和期の広域行政︵論︶を第二次世界大戦の ﹁戦前﹂期と﹁戦中﹂期に二区分する︵第一次︶

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臨時行政調査会答申︵一九六四年一〇月︶の捉え方を支持した。同答申は、かかる﹁戦前﹂期の広域行政論の事 例として一九二七︵S二︶年に田中義一内閣によって提示された州庁設置案や一九三五︵S一〇︶年の東北振興 事務局設置をべースにした東北庁構想を、また、﹁戦中﹂期の事例としては一九四〇︵S一五︶年の地方連絡協        パよ 議会規定、一九四三︵S一八︶年の地方行政協議会令や一九四五︵S二〇︶年の地方総監府官制をあげている。 こうしてみると、ここでの﹁戦前﹂期と﹁戦中﹂期の分岐点は、一九三六︵S二︶年の二・二六事件後に成立 した広田弘毅内閣が翌年初頭に総辞職した頃から、短命の林銑十郎内閣の瓦解を受けた一九三七︵S一二︶年六 月の第一次近衛文麿内閣成立あたりにおかれているといえそうだ。  ところで、内務官僚の郡祐一は、前記の地方連絡協議会を位置づけるにあたり、地方長官H知事とその補助機 関の﹁所管事務たるや事変以来国家の需要に著るしい変化を来して居るが為、全く事変前の事務とは性質を異に パヱ し﹂ていることを強調した。ここで分岐点とされた事変とは、前述した一九三七︵S一二︶年六月の第一次近衛 内閣成立直後に惹起した藍溝橋事件を端にするいわゆる支那事変である。また、戦前のある論者は、戦前昭和期 の地方制度改革の方向は一九二七︵S二︶年の満州事変以降、徐々に﹁政党時代の地方自治主義から百八十度転       パニ 回し、指導者原理を建前とする官治主義へ変化した﹂とするが、かかる百八十度的な転回を促したのは二・二六 事件そして支那事変であったとしている。かくして、戦前においても昭和期の地方自治の転換点は一九三六︵S 一一︶年の二・二六事件や翌年のいわゆる支那事変あたりにあったと認識されていたといえる。  また、近年、戦前昭和期における地方自治︵制度︶総体の展開過程は、﹁民主化﹂観点  地方自治に即して 61

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戦前昭和期の広域行政(道州制) いえば、明治期に形成・確立された官治的地方自治が新たな中央集権化に転化することになったと捉えるか、そ れとも大正デモクラシーを通じて達成された官治的地方自治の分権化が後退・縮小することになったと捉えるか の二見解があるーの他に、﹁現代化﹂と﹁国際化﹂の観点からも捉えられるべきだという見解が提示されてい る。そこでまず、﹁現代化﹂とは、︿農村型社会﹀から︿都市型社会﹀の転換、それにともなう階級・階層構成の 変動が大衆民主主義化、組織資本主義化、行政国家化という政治構造の再編成を惹起することになったことを意 味する。そして、我が国でも構造的限界を有しながら、地方自治に関していえば、︿農村型社会﹀を前提とする 行政規模の小さい︿近代地方自治﹀︵いわゆる地域名望家の自治︶から︿都市型社会﹀を前提とした行政規模が 大きく、専門化のために縦割り行政現象を随伴するような︿現代地方自治﹀への転形が戦前昭和期に入ると始まっ たとされる。次の﹁国際化﹂とは、以上のような一九世紀型の近代国家・近代地方自治から二〇世紀型の現代国 家・現代地方自治への構造転換が西欧諸国では︿古典的地方分権﹀からく新しい中央集権Vへと総括しうる現象 を生起せしめているが、我が国もかかる動向と無縁であったわけではないということを意味する。つまり、我が 国における︿新しい中央集権﹀化の現象︵社会経済政策のための新中央省庁の設置、新たな委任事務の増大、財 政調整・各種補助金の制度化など︶は、総力戦体制のための行政機構改革へ還元しきれない質を有するというの である。そして、我が国における﹁国際化﹂の影響は、︿新しい中央集権﹀をめぐるイギリスのケインズ主義型 とドイツのファシズム型とのせめぎあいになったとされる。その場合、かかるせめぎあいにおける前後期的な分        ゑ 岐点は、やはり一九三六︵S一一︶年∼三七︵S一二︶年あたりに設定されているようだ。 62

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 このように、広域行政︵論︶を含む戦前昭和期の地方自治︵制度︶論の展開は、いずれも一九三六︵S二︶ 年∼三七︵S一二︶年あたりに分岐点があったと捉えられているといえる。そこで本稿では、かかる分岐点によ る戦前昭和期の前後期を、前述した﹁民主化﹂  大正デモクラシーによる官治的地方自治の分権化の後退・縮 小から単に官治的ではない新たな中央集権化へと捉え直したいーの観点を踏まえ、﹁戦前﹂﹁戦中﹂期という 中性的な表現ではなく、政党内閣期の広域行政論と総力戦体制期の広域行政と付称して前後期の特性を表現する ことにしたい。しかも、かかる前後期を後述のごとくさらに二区分しながら、その特性を浮き彫りにするように したい。

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 一−二 戦前昭和期の広域行政︵論︶への接近視座  それでは、戦前昭和期における広域行政問題を府県の区域を超えて処理される行政ないしはその処理方法へ焦 点を当てる場合、言い換えれば、それと深くかかわる道州制論議に焦点を当てる場合には、どのような接近が求 められるであろうか。それには、既に有力な接近視座が、というよりも分析視角が提示されている。それは、天 川晃の政治的な︿集権・分権﹀軸と行政的な︿分離・融合﹀軸を組み合わせた、かの中央地方関係の分析モデル である。天川は、彼自身のモデルの適切性を証明するためともいえるが、戦前・戦後の道州制論を分析し、そこ で提起された道州制案が中央地方関係のく集権・融合V型化や︿集権・分離﹀型化、はたまた︿分権・融合﹀型        パむ 化などのいずれを図ろうとするものであるかを明らかにしようとする。と同時に、﹁﹃広域行政﹄をめぐる論議、 63

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戦前昭和期の広域行政(道州制) ひいては現代日本の︿地方自治﹀をめぐる多くの問題が、︵機関委任事務方式を基軸とした︶現行のく分権・融        パ ロ 合V型の︵中央地方関係︶制度が不完全であることに由来していることが明らかになる﹂とした。  確かに、天川モデルは、伏流水的な広域行政  道州制ー論議を時として噴き出させる制度的要因を顕に すると同時に、道州制案を含めた時々の広域行政の手法・制度︵案︶が中央地方関係の中でどのような性格を有 するものなのかを浮彫りにする点で、きわめて有効な分析視角たりうる。しかしながら、天川モデル自体は、い うまでもなくある特定の性格を有する道州制案、さらにはそれを含む広域行政の手法・制度︵案︶が提起・実現 されることになった歴史的背景や、それを提起・実現した社会・政治勢力の企図などを説明するものではない。 そこで、かかる不足点をカバーするため、戦前昭和期における地方自治︵制度︶の変容を捉えるために提起され た、前述の﹁民主化﹂﹁現代化﹂﹁国際化﹂の観点を取り入れたい。  すなわち、﹁民主化﹂の視点とは、大正デモクラシーのもとでの官治的地方自治の分権化が昭和期に入ると徐々 に単に官治的ではない新たな中央集権化の側面を有することを道州制論の中で捉えようとするものである。また、 ﹁現代化﹂と﹁国際化﹂の観点とは、道州制案を基軸にした広域行政論の展開は戦前昭和期の戦争常態化から総 力戦体制へという特殊日本的要因にすべて帰着せしめられるわけではなく、欧米諸国に先行的にみられた近代国 家・近代地方自治から現代国家・現代地方自治への転換面が、さらには新たな中央集権化とはいってもアングロH アメリカ型かファシズム型かの影響・確執があったことも押えようとするものである。特に道州制案を基軸にし        パヱ た広域行政論議に対する﹁現代化﹂視点からの捉え方は、既に提示されてきたところである。その点は後述する 64

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が また、戦前昭和期に提起された諸種の道州制案については、        ︵8︶ 前稿などで示した道州制の諸タイプ化からも考 察し位置づけてみることにしたい。

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((

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)) ︵5︶ ︵6︶ ︵7︶ ︵8︶  ﹁臨時行政調査会の答申﹂﹃自治研究﹄第四〇巻臨時増刊第一一号、一九六四年一〇月、一九九∼二〇〇頁。  郡祐一﹁地方連絡協議会の設置﹂﹃斯民﹄第三五編第六号、昭和一五年六月、一八頁。ところで、総力戦体制へ と突入することになった支那事変頃から、ここで郡が使用する﹁国家の需要﹂という用語が登場することになるが、 それは戦後の﹁︵広域︶行政需要﹂という術語と関係するのであろうか。現時点では、その点については不明であ るが、続稿となる戦後の広域行政︵論︶の研究の中で考察することにしたい。  鵜澤喜久雄﹃広域地方行政の常識﹄九鬼書房、一九四四年、四三ー四四頁。  以上、進藤兵﹁解説II、戦時期﹂、小早川光郎・他編﹃史料・日本の地方自治2﹄学陽書房、一九九九年、 六∼一〇百ハ。  天川晃﹁変革の構想  道州制論の文脈﹂、大森彌・佐藤誠三郎編﹃日本の地方政府﹄東京大学出版会、一九入 六年。  天川晃﹁広域行政と地方分権﹂﹃ジュリスト﹄︵総合特集二九・行政の転換期︶、一九八三年一月、 一二六頁、括 弧内は引用者の補充。  辻清明﹁戦時行政の性格﹂﹃法律時報﹄第一五巻第三号、昭和一八年三月と、それを受けた高木鉦作﹁広域行政 論の再検討﹂、辻清明編﹃現代行政の理論と現実﹄勤草書房、一九六五年、一九五頁。  拙稿﹁広域行政とリージョナリズムの概念﹂﹃東洋法学﹄第四三巻第二号、二〇〇〇年三月の図11︵八六頁︶ や原龍之助﹁道州制の類型﹂、田中二郎編﹃道州制論﹄評論社、一九七〇年、を参照されたい。 65

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66 戦前昭和期の広域行政(道州制) 二 政党内閣期の広域行政論  二i一 分権化揚潮期の広域行政論  府県の区域を超えて処理される行政ないしはその処理方法としての広域行政論は、単に区域だけでなく府県の 在り様の問題に波及する。そうした問題は、昭和期以前に既にみられた。例えば、広域行政というよりも行政改 革の観点からだが、日露戦争直前の一九〇三︵M三六︶年には児玉源太郎内相のもとで府県統廃合の可能性が調    パと 査された。日露戦争に突入したこともあり、それは実現されなかったが、その後も府県の統廃合問題はくすぶり 続けたようである。しかし、府県の統廃合を実現することは容易ならざることなので、府県区域を超えるまさに        ハヱ 広域行政の処理方法として一九一四︵T3︶年の府県制改正において府県組合の制度化がはかられた。そして、        パゑ 内務省は仕﹁切りに府県組合の結成を促したのでありましたが、殆んど成績の見るべきものを得なかった﹂よう だ。それはともかく、問題はまだ府県の区域レベルにあった。  ところで、日露戦争の終結直後、一九〇六︵M三九︶年初頭に成立した第一次西園寺公望内閣で内相に就任し た原敬は、地方長官“知事の大移動に着手するとともに、郡制廃止案を提示した。それは明治国家体制における 藩閥官僚支配の最後の牙城たる山縣有朋勢力に挑戦し、政党政治の確立を図ろうとするものであった。前者は、       スポイルズ 政権交代ごとに知事が政友会系と非政友会︵憲政党←民政党︶系とに大幅な入れ替えが行われる猟官制日﹁官僚    ハゑ の政党化﹂の端緒となり、その後、知事の公選化論を生み出す大きな要因となった。また、後者の郡制廃止案は、

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町村自治の拡大・強化ー大町村の創出と町村長の職務権限の拡充1を図りながら、知事から更には町村長        パむ レベルヘという﹁官僚の政党化﹂のもう一つの受け皿を形成しようとするものであった。その意味で、名望家を 基礎とする︿近代地方自治﹀から行政の規模・機能拡大や専門化などを特性とする︿現代地方自治﹀への転換を 感得し、それへ対応しようとするものであったといえる。一九一八︵丁七︶年に原はようやく自らの内閣を形成 し、一九一二 ︵丁一〇︶年には郡制廃止案を成立させたのであるが、その年に彼は暗殺された。とはいえ、彼が 企図した分権化1もっともく近代地方自治Vから︿現代地方自治﹀へという過渡性のため、いまだ両側面を 有していたといえるがーの潮流は、大正デモクラシーのもとで退潮化することはなかった。  一九二三︵丁一二︶年、政友会は付加税主義に拠っている地方財政の基礎を強固するため国税としての地租の ような税種を地方に委譲すべきことを提言し、政府に建議した。そして、一九二五︵丁一四︶年末の第五一議会 に、政友会は地租委譲論を具体化した市町村税地租法案と同法施行法案を提出した。これは、﹁政友会の﹃確乎        パ レ 不抜の方針﹄たる地方分権論より出づる所の、地方に対する独立財源の賦与の理論﹂に基づくものであったとさ れるが、護憲三派内閣の税制整理H改革における憲政会︵付加税主義の堅持︶への鞘当てという側面も有してい た。だが、地方の負担軽減を図るとした若槻礼次郎内閣が、政友本党の市町村義務教育費国庫負担金増額案を受 け入れて同党と連携したため、政友党の地租委譲法案は否決された。とはいえ、政友会と政友本党・憲政会との 地租委譲か国庫負担金増額かという確執に、︿近代地方自治﹀からく現代地方自冶Vへの過渡性をみることがで きるのである。というのも、政友会の地租委譲案が地方分権論のコロラリーによるというのは、同党が農村部の 67 、

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戦前昭和期の広域行政(道州制) 名望家を基盤にしてきたことによる牽強付会面があるとしても、両勢力はともに地方の負担軽減を志向している 中でその方途をめぐり確執しているのであり、問題は両勢力の主張を総合的に止揚することにあるとされている     パヱ からである。  それはともかく、一九二六︵丁一五︶年の暮、政友会は憲政会に対抗するため、さらに中央集権の弊を排して 地方自治の確立を期すべきとし、その方法として、O地方税財源の整備︵地租にくわえ営業税も地方に委譲する︶、        パニ ⇔自治機関の整備、国自治権限の拡張を行い府県知事を公選にする、という政綱を提示した。この政綱で登場し た知事公選案は、分権化11地方自治の確立というコロラリーに位置づけられているが、その根源は原がとった ﹁官僚の政党化﹂策にあった。それは、政党内閣の発展とともに政権交代ごとに知事が大幅に更迭されるという 猟官制化を促した。昭和初年に過去一〇年間における知事の平均在職年数を調べた時には、僅か一年八カ月にす        すロ ぎなかったという。そうした事態のため、地方の事情に精通する練達の人材をえ、官僚閥や中央の政権交代に影 響されず地方行政を行うためには任期制の知事公選制にしたほうがよいのではないかという論調を広く生み出し        パゆ ていたからである。  さて、一九二七︵S二︶年四月、金融恐慌を契機に憲政会の若槻礼次郎内閣が総辞職し、政友会が政権に復帰        パも するが、その直前に総裁の田中義一は党の新政綱のもとに﹁地方分権の必要と其の方策﹂を宣していた。それは、 明治の立憲制実施以来の官治的中央集権のため、﹁自治の神髄たる自主独立の精神を失ひて、何事も中央に頼り、 府県に縄り、補助金を求め、援助を乞ふを以て能事とするが如き弊風を馴致して、今日に至ったのである。故に 68

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今日の内政改革の一大要義は、自治制度の徹底的改革に在るのであって、自治の内実を充実せしめ、政治と経済 との併進を如実ならしめねばならぬ。即ち地方分権を実行するの外に途はない﹂とし、地租︵土地課税権︶と営 業税の地方委譲をはじめとする六項目の改革案を示した。この地方分権化論には、従来にみられない二つの特色 があった。  第一は、第一次大戦後における欧米列強との競争は軍事のみならず﹁工業戦、商業戦﹂であり、その脅威とい う対外的危機意識と結びついて地方分権化という内政改革論が主張されたことである。第二に、地域の産業・経 済団体と市町村との協力化とか非営利事業の市町村経営というー﹁地方自治の経済化﹂とか﹁自治体の経済化﹂      お と称された1方策を打ち出したことである。だから、田中の構想は、列強の脅威に対抗するため地方分権に よって地方団体の﹁画一主義、形式主義﹂を打破して能率向上を図る一方、地租などの委譲で地方団体を﹁活性 化﹂し、﹁経済自治制﹂の担い手たらしめることによって﹁産業立国策﹂の地方的推進団体を育成しようとする       ハリ ものであったというのである。これを言い換えれば、田中の分権化論は大正デモクラシーの影響のもとで︿近代 地方自治﹀から︿現代地方自治﹀への過渡性を有しつつ、﹁国際化﹂と﹁現代化﹂のうねりに対応するために必 要な内政改革の方向を示したものであったといえる。  また、﹁国際化﹂と﹁現代化﹂の波を自覚し、地方分権の必要性を説く官僚も現れた。内務省の新進官僚であっ た安井英二のそれは、政友会の政綱、田中内閣の改革論に呼応するかのようなものであった。彼は、明治維新以 降の歴史的考察から西欧列強に対峙しつつ西欧化を進めるためにとられてきた官治的﹁中央集権は、其の使命を 69

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戦前昭和期の広域行政(道州制) 終えた﹂と断じる。だが、自由放任主義に基づく資本主義経済の行き詰りがみられる以上、﹁現代国家の態度は、 一面に於て親権的保護政策を拡螂することが必要であると同時に、他面に於て自由放任政策に堕せざることが必 要である。それ故に、国家又は公共団体は、社会生活の厚生を図るべき積極的任務を負はなければならぬ。﹂か くして、﹁地方自治体の新任務ー住民の強制的消費団体としての特質より来るところの任務   の重要性が 認識せられるに至ったことが⋮⋮地方分権論の根拠でなければならぬ。すなわち、一方に於ては、従来、国家か ら加へられた親権的監督から、解放すると共に、新時代に於ける地方自治体の新しき任務の遂行を保障する権限 と能力を与へることが、地方分権の眼目でなければならぬ。﹂そして、かかる分権化にあたっては、地方自治制 度の改革だけでなく産業・交通・土木・社会・衛生政策分野などの分権化が必要だが、知事公選論についていう ならば、警察事務や市町村監督事務をどうするかなどの問題を切り離して論ずるべきではないものの、原則的に ﹁若し府県も市町村と同様に事業本位の団体とすべきであり⋮⋮︵中略︶⋮⋮而して府県の首長たる知事が、国 の機関としてよりも、自治体の機関として、より一層重要なる地位を有すべきものとせられるならば、それが官 選たるよりも公選たることを以て事物の性質に一層適すると云ふことを否認する理由は、之を発見することが出        パど 来ないであろう﹂などと論じたのである。  それでは、田中・政友会内閣の地方分権化策はどのような決着をみたのか。政権に返り咲いた田中内閣は、早 速、六月に総理大臣の諮問機関として行政制度審議会を設置し、内政︵分権︶改革に着手することになった。と        パお ころが、田中自身は府県改革よりも市町村自治の拡大・強化を主眼にしていたが、それにとどまらず広く地方制 70

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       パを 度改革を行うべしとする﹁政党面に於ける政務調査会あたりから色々な案を持ち込﹂まれることとなり、知事の 公選化、府県会停止権の削除、知事の原案執行権削除、府県会議員に対する議案発案権付与なども論議されるこ とになった。そうした経過は、大きく二つの特色ある結果を生み出した。第一は、地租・営業税の地方委譲は否       ヨ 認されたものの、行政制度審議会の﹁地方分権二関スル決定事項﹂を踏え、一九二九︵S四︶年に府県制、市制・ 町村制の改正をみたことである。これは、従来、大正﹁デモクラシー思想の最高潮に達せる時﹂の改正であり、        ハお 自治行政権の拡充は不十分であるが﹁地方団体の自治権の拡張﹂といえるとか、制度史的観点からみると﹁自治 制上の重要なる分水嶺をなせる﹂もので、﹁議決機関の権限拡充に関して飛躍的なる改正を施したる反面に於て、        パお これと並んで執行機関の権限拡充を企図した点に深く意義が存する﹂とされてきた改正である。第二は、この行 政制度審議会が第二次大戦前における広域行政制度︵道州制︶案の嗜矢とされてきた州庁設置案を提示したこと である。        パ   この案の基本はこうであった。O府県公共団体と国の行政区画との合一化を止め、数府県を包容する行政区画 として州を設ける事。⇔各府県の区域︵北海道は除く︶全部を六州︵東京・仙台・名古屋・大阪・広島・福岡州︶ に分け、各州に州庁を設け州長官を置く事。ω府県は純粋の地方自治体として其の固有事務に付いては完全なる 自治を認め、其の執行機関の長は公選とし其の議決機関の権限は一般的にする事。四府県又は其の長に国の行政 事務に属する教育、産業、衛生、土木等、州庁行政に関するものを成るべく広く委任する事。㈲府県又は其の長 に委任することを得ざる国の地方行政事務は州長官に於て管掌する事、其の事務を分掌する為必要に依り支庁を 71

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戦前昭和期の広域行政(道州制) 置く事、警察事務は警察署をして之を掌らしめる事、警察署長は州長官に隷属する事。因州長官の地位を親任官 又は親補せらるる勅任官とする事。これらに加え、州長官による府県・市町村等の監督や経費負担等に関する参 考案も付された。  いうまでもなく州庁は設置されなかったが、初めての道州制案とされる点で次のことを指摘したい。  第一は、この州庁設置案がはたして府県の区域を超える広域行政制度として構想されたものであったのか、言 い換えると、必ずしも広域行政の観点ないし企図から構想されたものではなかったのではないかという問題であ る。そもそも郡制の廃止、府県の完全自治体化やそのための知事の公選化、それにともなって国の地方行政庁を 設置すべきとする案は、早くは郡制廃止案が紛糾するなかでみられたが、そうした意見はほとんど顧慮されるこ        む とがなかったようである。だが、その後、府県の完全自治体化問題を惹起する知事の公選化論が高まりをみせる ことになった。そのためとみれるのだが、一九二五︵丁一四︶年、憲政会の加藤高明内閣下で全国の地方長官目 知事によってなされた﹁行政刷新二関スル意見書﹂では、府県合併案や府県を廃止し道州庁的上級官庁を設置す る案などが提起され、特に当時、京都府知事であった池田宏は府県を廃止して全国を八区に分けてそこに州庁を        パ  設置し、国に次ぐ市町村に対する第二次監督官庁にすべきとしていた。そうした中で、前述したように政友会 ︵政務調査会︶は知事の公選化を掲げ出していたし、行政制度審議会には政党側から議会の権限強化を図るべき 改革案のみならず知事の公選化案などが持ち込まれていた。これに対して内務省は、府県の完全自治体化を図ら       パ  なければならないような知事の公選化には強く反対していた。だから、広域行政の観点や企図からではなく、基 72

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本的には政・官の確執が止むなく府県の存置とその完全自治体化H知事の公選化を打ち出す一方、その上に国の 機関としての州庁を設けることにしたとみれるのである。実際、﹁察するに之は政治上の或る行懸りから案出さ        パお れた折衷彌縫の一策に過ぎない﹂ともされていた。いずれにしろ、問題をめぐる﹁其の主たる主張は府県知事の        ︵鵬︶ 公選論であって、州庁の設置案は寧ろ副次的なもので﹂あったがゆえに、前者が実現されなければ後者も実現さ れるものではなかった。  第二に、明治中期に形成された国内行政体制は、中央において地方行政を総括する内務省と地方において市町        パ  村行政を総括する府県をセットにした︿内務省−府県体制﹀であった。すなわち、府県は国の地方行政区画であ り、それを管轄する普通地方官庁︵国の総合的出先機関︶であると同時に、その行政区画を基礎とする地方団体 でもあったが、しかし不完全自治体であった。というのも、地方団体の長としての知事は、内務大臣に任命され た地方長官として内務省の指揮監督のもとに、まずもって国政事務︵中央省庁の事務︶を執行するとともに市町 村を指揮監督し、副次的に府県事務を執行するにすぎなかったからである。しかし、国の地方行政区画とそれを 管轄する機関・首長の二重化−普通地方官庁・地方長官と府県・知事1は、国の行政といわば完全自治体 たる市町村の行政をく融合Vする仕掛であった。ところが、州庁設置案は、中央地方関係における﹁府県のく融 合V型性格を否定しようとするものであった。言い換えれば、当時の府県のもつ二重性格の一方を州庁に、他方 を府県にと純化してく分離Vし、そのうえで広域的な州の区画と︿分権﹀的な知事公選制を導入しようとするも     パむ のであった﹂と捉えられる。確かに、州庁設置案は天川モデルにおける︿分権・分離﹀型の中央地方関係への志 73

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戦前昭和期の広域行政(道州制) 向性を有するといえるが、しかし必ずしも︿融合﹀関係を払拭するものとはいえなかった。というのは、州庁        ハ  ︵長官︶と府県︵知事︶が分担する事務の具体的な区別が明確でないばかりでなく、前記したように府県・知事 に国政事務を広く委任するとしつつ、州長官は管内の府県・市町村を指揮監督するとされていたからである。し かも、州長官は中央任命の親任官または勅任官にするとされたことなどから、この州庁設置案は︿官治的道州   ハ  制﹀案ともされる。しかしながら、州庁設置案が注目されてきたのは、戦前における広域行政制度の嗜矢である ためというよりも、実は︿内務省−府県体制﹀に挑戦する初めての公式的な提案であったためであるとみたい。  二−二 分権化退潮期の広域行政論  田中義一・政友会内閣の成立と行政制度審議会の設置は、地方分権論議を活発にし、その論議の中にはあたか         も現在の世紀末における分権改革の在り方論を彷彿とさせるような論議もみられる。それはともかく、行政制度 審議会が提示した州庁設置案は、結局、案として終った。その最大因は、前述したように同案が府県の完全自治 体化をもたらしかねない知事の公選化案を含むことにより、︿内務省−府県体制﹀の基軸に挑戦することになる ことへの内務省の猛反発にあったといえる。  だとすれば、州庁設置の前提であった府県の完全自治体化、それには欠きえない知事の公選化とはどのような ものであったのか。知事の公選化論それ自体が強調されることになった一因、しかもかなり大きな要因は、前述 した原敬による﹁官僚の政党化﹂策にあった。かかる方策は、大正期に入ると政権交代における論功行賞によっ 74

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て知事職が頻繁に更迭されて﹁浮草稼業﹂化することを促した。それ故に、知事がその日暮し、出たとこの行政       パむ に終始せざるをえなくなっている事態への全般的な間題”危機意識を高めたといえる。かかる問題11危機意識の ため、知事の公選化は府県の性格・役割に根本的なメスを入れなければならなくなることを抜きに、近視眼的に 知事の身分を官吏︵地方長官︶にしたまま公選するという当をえない知事公選論  敗戦後の公選官吏案といっ てよいーもみられた。だが、多くの知事公選論議は府県の完全自治体化問題と関連しつつ、次のような賛否         パ  両論の意見となった。  ︿可とする理由﹀  0府県自治の執行機関を府県民の公選︵直接選挙たると間接選挙たるとを問はず︶とす るは、人民自治︵公民自治︶の思想に合致す。ω府県知事を公選することは地方分権の思想に合致す。国公選知 事は中央に於ける政党勢力に左右せられることなく、地方の事情に適切なる政治を行ふことを得べし。四公選知 事は地方民と密接なる交渉を有し且つ地方の事情に精通す。㈲公選知事は任期を付すべきを以て現在に於けるが 如き知事の頻繁なる更迭を減少することを得べし。因公選知事となすときは府県自治が中央政局の変動により受 くる影響を少なからしむることを得べし。㈹知事公選の方法として府県会に於て選挙する制度を採る時は、府県 に於ける意思機関と執行機関との確執を少なからしむることを得。  ︿否とする理由V10現に府県知事の職権に属する事項中には、自治事務の外、広汎なる国家事務も存する に依り、公選知事に之等の事務を悉く処理せしむることとせば国家の統制力に欠陥を生ずる虞あり。ω更に国政 事務中警察事務の如きは、これを公選知事の権限に属せしむるは殊に不適当なり。就中司法警察、特別高等警察 75

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戦前昭和期の広域行政(道州制) 事務の如きは全附的に続跡かを騰阻をレでひかに卦射レむをひとを要ず都を瑛で、ひかを公避知事0梅隈に穆ず ことは不可なり。ω下級自治体の監督権を公選知事に付与することは党弊を地方自治体に及ぼす虞あり。㈲各種 の特許及免許の権限を付与するは行政上弊害を来す虞あり。㈲現に府県知事の権限に属する国政事務と自治事務 とを分別する必要あるも、其の分別は相当困難なるのみならず、国政事務処理の為別の地方官庁を設けるときは 機関の重複を来たし且つ経費の膨張を免れず。因我国現下の政党政治は其の発達未だ幼稚なるため反対派は事毎 に府県知事に反対の態度を取り、地方政治の円満なる発達を期し難し。ω知事を公選するときは勢ひ各種の事業 経営が党派的に行はるる傾向を生じ、為に地方費をして益々膨張せしむる虞あり。㈹知事を公選とするときは補 助機関には官吏の身分を付与し得ず且つ知事の更迭に依り下級職員の更迭を頻繁ならしむるため、地方庁に於け る補助機関の素質を低下し、地方諸政の公正を期すること困難となるべし。  このような賛否両論は、州庁設置案に対する賛否両論と重層する。特に単なる思想ではなく実現如何という賛 否両論を一∼二散見してみよう。賛成論は、州庁設置の趣旨を支持する。例えば、知事の頻繁な交代の弊を改善 し、かつ分権化を推進するという観点からといえるが、知事を公選化し、それまで知事が執行してきた国政事務 を公選知事を戴く完全自治体としての府県と新たに創設する国の機関  なかでも警察事務や府県・市町村の        ハ  監督事務などを執行する  に分離するというものである。これに対して反対論は、なるほど知事の公選化に よる府県の完全自治体化は分権化の拡充になるとはいえ、それまで知事が執行してきた国政事務を府県と国︵州 庁︶に分別することは税財源問題を含めるとほとんど実現困難だとする。また、分別できたとしても、国︵州庁︶ 76

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に分別された事務を執行するため、結局、支庁を求めることになり、その場合、恐らく府県の区域が支庁の管轄 区域になるだろうから、州庁設置は屋上屋︵府県←州庁︶を重ね、屋下屋︵州庁←支庁︶を造り、行政組織の複        お 雑化を増すだけだと批判する。  こうした賛否両論をみると、州庁設置案は決して府県の区域を超える広域行政に対応するための制度として提 案されたものではなかったことが改めて分明になる。それはともかく、田中・政友会内閣は前述した府県制と市 制・町村制の改革を遂行したにもかかわらず、その中で知事の公選化には手をつけようとしなかった。だから、 知事公選化による府県の完全自治体化を前提にする州庁の創設も着手されることはなかった。知事公選、府県の 完全自治体化は、︿内務省−府県体制﹀に根本的なメスを入れることになるので内務省の反発が強かっただけで なく、実際的にも、もし﹁府県知事公選を実現しやうと思ふには、先づ、全体の地方官官制に手をつけて、その        ハ  組織替へを行ふ必要がある⋮⋮︵中略︶⋮⋮ので、ちょっと右から左へと片付ける訳には行﹂かなかったためと いえる。  ところで、一九二九︵S四︶年七月には田中内閣が総辞職し、民政党の浜口雄幸内閣へ政権交代するが、その 浜口首相は翌年末にテロルにあい、そのための病状悪化により一九三一︵S六︶年四月に総辞職、民政党総裁に 就いた若槻に首相を禅譲した。しかし、この年九月には満州事変が発生し、翌一九三二︵S七︶年三月の満州国 宣言から五・一五事件の発生をもって一般に政党内閣制は崩壊に入ったとされる。それは、前述してきた分権化 揚潮期から退潮期への転換でもあった。そこで、広域行政問題も含めた分権化退潮期の特色を四点指摘したい。 77

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戦前昭和期の広域行政(道州制) 第一は、地方分権論の揚潮期に既に分権論に反対する国家主義・保守主義が顔をのぞかせていたことに注目し たい。例えば、ある内務官僚は、地方団体の本質なるものを個人主義的・自由主義的や国家主義的・保守主義的 さらには社会主義的・革命主義的に捉えるかというイデオロギー的問題設定を行い、そこから分権論を検討し、 ﹁現在地方分権の一手段として知事公選を主張する者⋮⋮︵中略︶⋮⋮が、単に党勢拡張の為と個人の地盤擁護 の目的を以て衆愚の無自覚なる主張をそのまま公約し、政権を握って朝に立つときは、常に其の平常主張したる 所を実現せむとさへ試みぬこと多き傾向から見て、間接に社会主義者の主張を代弁していないと誰が断言し得や    う﹂かとして、大正デモクラシーの延長上にあるーつまり個人主義・自由主義に立脚しているーとみなさ れた分権論に冷水を浴びせかけた。この点からみると、内務官僚などは単に政党勢力の圧迫などに反発していた わけではなく、政党政治化の背後に顔をのぞかせ始めていた社会主義・革命主義の思想と運動に敏感に反応し、 それが国家主義・保守主義なる道を開き始めていたことがうかがえる。       パむ  第二は、満州事変後になると、もはや﹁知事公選の問題は今日は下火となって居る﹂とされるようになったこ とである。いや、それだけでなく、次のような慨歎もみることになった。﹁地租委譲論や知事公選論の喧しかっ た頃は分権論の最高潮に達した秋と云へる。然るに時代は急転直下した。何時の間にか地方分権の声失せて中央 集権的傾向急激に増大し、農村問題の重大化と満州事変に始まりし非常時局に依て地方自治政は異常なる影響を 蒙るに至り、自治体理事者中自ら進んで官治の自治に勝ることを説き、甚しきは専制の昔に復さんことを主張す        パ  る者さへ出て来た。僅か数年間に此の様な変化を見たことは真に驚く外はない﹂。それだけでなく、地方行政に 78

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対する政党の弊害の克服、地方から中央への民意暢達などのためという観点から、地方行政関係者もファシズム       パ  へ関心を抱き始めることになった。  第三は、広域行政への対処策そのものではないが、現代社会の複雑・高度化は地方団体の相互連携化が必要に なっているという議論をみることになったことである。そうした主張は、まず当面、O資料の供給︵地方情報の 交換︶、⑭組織や施設の設置及び事務執行方法の研究、国物資の共同購入と配給、について地方団体が相互に連       パ  携化し、できれば自治的な連合機関を設けることが自治政の発達上、必要であると説く。  第四は、最後に広域行政の点で見逃しえないのが、この時期と次期への端境期にみることになった東北振興会 と東北庁創設構想である。そこには、前述してきた州庁設置論とは異質な国土開発論的観点   その論脈にお けるまさに広域行政の観点ーが顔を覗かせ始めていた。かかる東北開発の始発点は、一九一三︵丁二︶年の 大冷害を契機に原敬が﹁東北振興会﹂を設立したことにある。それは、その後解散したが、改めて一九二七︵S 二︶年には東北地方の救済を求めるため、東北出身の代議士・県会議員・市町村長などを網羅した﹁東北振興会﹂ が結成された。しかしながら、一九三一︵S六︶∼三四︵S九︶年にかけての凶作、三陸大津波、大冷害の連続 は、事後処理策にすぎぬ従来の救済策ではもはや対応しえないとして発想の転換を求めた。すなわち、農業以上 に東北地域の産業経済振興を進める必要があるとし、そのため一九三四︵S九︶年末に内閣に﹁東北振興調査会﹂ が、翌年五月にはそのもとに﹁東北振興事務局﹂が設置された。前者の﹁東北振興調査会﹂は、内務官僚の意見 をもとに広域的な東北開発のための東北庁創設構想を提示し、東北地方関係者からその実現が強く求められる中、 79

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戦前昭和期の広域行政(道州制) 一九三七︵S一二︶年には﹁東北振興総合計画実施要領﹂︵五力年計画︶に従った各事業の総合化を図ろうとし た。だが、後者の﹁東北振興事務局﹂は東北興業会社と東北振興電力会社の設立をもって、その監督機関たる内 閣東北局へ改組された。そのため、両特殊会社が本当に東北開発、東北民の利益に資することになるのかは疑問        パき だとする厳しい批判もみられた。いずれにしろ、結局、東北庁構想は実現しなかった。とはいえ、この構想は制 度化への具体性をそなえたものとはいえなかったが、それまでの知事公選論・府県完全自治体論を前提にした道 州制論とは異質な、その意味ではまさに初めての広域行政体論といえるものであったといえる。 ︵1︶ ﹁府県制発布五十周年記念座談会﹂︵以下﹁座談会﹂とする︶﹃斯民﹄第三五編第七号、昭和一五年七月、八∼九   頁。また、鵜澤喜久雄﹃広域地方行政の常識﹄九鬼書房、一九四四年、二三ー二六頁。 ︵2︶ 亀掛川浩﹃自治五十年史︵制度篇︶﹄文生書院、一九七七年、四四二∼四四三頁。 ︵3︶ 前掲﹁座談会﹂、前掲誌、三八頁。あわせ、鈴木俊一﹁道州制案の動向﹂﹃自治研究﹄第一八巻第一号、昭和一八   年一月、二七頁、も参照。 ︵4︶ 升味準之輔﹃日本政党史論﹄︵第四巻︶東京大学出版会、一九六八年、二一九∼二三九頁、を参照。 ︵5︶三谷太一郎﹃日本政党政治の形成﹄東京大学出版会、一九六七年、九三∼一〇一頁。 ︵6︶ 鈴木武雄﹁政友会内閣の地租移譲論﹂﹃都市問題﹄第四巻第六号、昭和二年六月、八四頁。あわせ、田川大吉郎   ﹁地租委譲に就いて﹂﹃都市問題﹄第五巻第五号、昭和二年一二月、を参照。 ︵7︶ この点を強力に主張したのが蝋山政道であり、その点については﹃地方行政論﹄日本評論社、一九四二年の特に   第三篇第五∼七章、を参照。 ︵8︶ 鈴木、前掲論文、前掲誌、八五∼八六頁、による。 ︵9︶ 前掲﹁座談会﹂、前掲誌、二五頁。 80

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121110

)  )  ) ︵13︶ ︵14︶       

18171615

)  )  )  )      2019 ︵21︶ ︵22︶  中村伝一郎﹁自治維新と知事公選﹂﹃斯民﹄第二一編第一号、大正一五年一月、九五頁。  田中義一﹁地方分権の必要と其方策﹂﹃政友﹄第一三三号、昭和二年三月。  蟻山政道﹁自治体の経済化なることに就いて﹂﹃都市問題﹄第五巻第四号︵蟻山、前掲書、所収︶、菊池慎三﹁所 謂地方自治体の経済化に就いて﹂﹃自治研究﹄第三巻第二号、昭和二年一一月、﹁自治体の経済化に関する座談会﹂ ﹃斯民﹄第二三編第一号、昭和三年一月、などを参照。  以上、金澤史男﹁田中義一政友会内閣期における﹃地方分権論﹄の歴史的性格﹂﹃社会科学研究﹄第三六巻第五 号、一九八五年二月、一一九∼一二一頁。  安井英二﹁地方分権論の発生的考察﹂﹃自治研究﹄第三巻第九号、昭和二年九月、 一五ー二三頁、あわせ、同 ﹁地方自治の動き﹂﹃斯民﹄第二三編第四号、昭和三年四月、一七∼二〇頁、も参照。  田中、前掲論文、前掲誌、四頁。  前掲﹁座談会﹂、前掲誌、二四頁。  鵜澤、前掲書、三九∼四〇頁。  蠣山政道﹁地方行政の基礎﹂、東京市政調査会編﹃自治制発布五十周年記念論文集﹄東京市政調査会、 一九四三 年、三七一頁、蟻山、前掲書、一八一∼一八二頁。  亀掛川、前掲書、五七二∼五七三頁。  鵜澤、前掲書、二九∼三二頁、﹁行政制度審議会の州庁設置案﹂﹃都市問題﹄第二二巻第五号、昭和一一年五月、 四五五∼四五六頁、田中二郎編著﹃道州制論﹄評論社、一九七〇年、二八九∼二九〇頁、などをみよ。  阪本影之助﹁地方制度の改善﹂﹃地方行政﹄第二七編第八号、大正八年八月、同﹁府県知事公選論に就いて﹂﹃地 方行政﹄第一三巻第九号、大正二一年九月、二八∼三〇頁、同﹁地方分権は先づ地方庁の形態を改むるに在り﹂ ﹃斯民﹄第二二編第一〇号、昭和二年一〇月、二七ー二八頁。なお、阪本は、福井・鹿児島県知事、名古屋市長な どを歴任した後、貴族院議貝となる。  天川晃﹁変革の構想−道州制論の文脈﹂、大森彌・佐藤誠三郎編﹃日本の地方政府﹄東京大学出版会、一九八 六年、二三ー一一四頁による。 81

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戦前昭和期の広域行政(道州制) 2423 2625 ︵27︶

302928

 前掲﹁座談会﹂、前掲誌、二四∼二五頁。  塚本清治﹁知事公選の非なる所以﹂﹃斯民﹄第二二編第九号、昭和二年九月、一〇頁。もっとも、この州庁設置 案は、政・官の確執がもたらしたものではなく、むしろ守旧的官僚と政友会上層が結びつき、知事公選の実現に備 えようとしたもので、その意味で地方分権を掲げた政友会は分権化を抑制する役割も果したという見解︵金澤、前 掲論文、前掲誌、二五∼二六頁︶もみられるが、はたしてそう言いきれるか。かかる見解は後述から支持しう るところもあるのであるが、筆者は、現状では政友会や内務省の内部の諸勢力を識別し、両者の結合を十分に分析 的に把握していなので、まずは政・官の確執を重視した。  鈴木、前掲論文、前掲誌、二八頁。  市川喜崇﹁昭和前期の府県行政と府県制度O﹂﹃早稲田政治公法研究﹄第三七号、一九九一年、 一一三∼一一五 頁。もっとも、これは、天川晃﹁昭和期における府県制度改革﹂、日本地方自治学会編﹃日本地方自治の回顧と展 望﹄敬文堂、一九八九年、八二∼八四頁、に依拠したものである。  天川晃﹁広域行政と地方分権﹂﹃ジュリスト﹄︵総合特集二九・行政の転換期︶一九八三年一月、二一三頁。もっ とも、天川は、その後、この州庁設置案は中央地方関係をく融合Vから完全な︿分離﹀に移行せしめるものとは必 ずしも捉えていない。天川、前掲論文、前掲書、二一四頁。  塚本、前掲論文、前掲誌、一〇頁。  ﹁討論・道州制論の問題点﹂、田中二郎編著、前掲書、一〇三ー一〇五頁。  例えば、中川望﹁地方分権よりも地方監督の革正が急務﹂﹃斯民﹄第二二編第一〇号、昭和二年一〇月、は分権 化の方策を次のように整理している。第一は、国の事務の一部を地方に委譲する積極的分権で、その場合には国の 特別地方官庁へ委譲する場合と、府県を完全自治体化してそれへ委譲する場合がある︵州庁案は、その両者を同時 に行おうとするものである︶。第二は、国の監督権の縮小を図る消極的分権で、それにも国の許認可事項を不要化 あるいは委任化するという法制上の監督権縮小と、従来の検挙叱責型から指導訓導型へという監督権の事実上の行        ムマ  マレ 使形態を変える二つの場合がある。そして、中川自身は、積極的な﹁地方分権の如き形の上のこよりも、寧ろ煩項 なる監督権を縮小して、地方官庁並に地方公共団体の権限の拡充を認めると同時に、監督方針の変更する﹂ことが 82

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︵3 1︶ ︵3 2︶ ︵33︶ ︵34︶        

41403938373635

)  )  )  )  )  )  ) 以上は次による。前掲﹁座談会﹂、前掲誌、九頁、水野、前掲論文、東京市政調査会編、前掲書、二三頁、 一力  入江俊郎﹁地方団体の連合﹂﹃自治研究﹄第六巻第七号、昭和五年七月。  例えば、﹁地方行政を語る座談会﹂﹃地方行政﹄第四一巻第一∼二号、昭和八年一ー二月。  小島憲﹁地方分権論の衰退と自治の逆転﹂﹃自治機関﹄第四〇九号、昭和九年三月、一頁。  山田準次郎﹁知事公選問題﹂﹃斯民﹄第二六編第九号、昭和六年九月、九頁。  石原、前掲論文、前掲誌︵昭和三年一一月︶、一二頁。  前田、前掲書、二三二頁。 官僚であったことは、内務省内に地方分権化に対する賛否両論の二勢力があったことを示すものといえる。  石原雅二郎﹁州制設置論﹂﹃地方行政﹄昭和三年一二月、二二∼二六頁。なお、石原が、この当時、現役の内務 していた。また、小川市太郎﹁府県知事廃止論﹂﹃都市問題﹄第一四巻第三号、昭和七年三月、も参照。  例えば、水野、前掲論文、﹃国家学会雑誌﹄前巻前号、三〇∼三三頁。水野は内務官僚であり、内務大臣も歴任 自治の話﹄朝日新聞社、昭和五年、二二六ー二二八頁。 というが、次文献によると内務省地方局が地方長官の意見を総合して作成したものであるという。前田多門﹃地方 見は、昭和三年九月二七日の﹁読売新聞﹂と﹁国民新聞﹂に掲載されたもので、ルビは﹁国民新聞﹂のものである  石原雅二郎﹁知事公選論−地方制度改正案展望﹂﹃地方行政﹄昭和三年二月、二ー三頁。この賛否両論の意 ける諸問題に就いて﹂﹃国家学会雑誌﹄第四二巻第一〇号、二六∼二八頁。  例えば、水野錬太郎﹁地方分権の意義﹂﹃地方行政﹄昭和四年二月、四∼五頁、同﹁地方制度の過去並現在に於 今日最も重要であるとする。 五郎﹁地方制度革新案二、三ー東北庁設置を要望す﹂﹃都市間題﹄第二二巻第五号、昭和一一年五月、蝋山政道 ﹁東北振興両社の批判﹂﹃国家学会雑誌﹄第五〇巻第七号、昭和一一年七月、鵜澤、前掲書、五二ー五三頁、佐藤竺 ﹃日本の地域開発﹄未来社、一九六五年、一三ー一四頁。 83

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戦前昭和期の広域行政(道州制) 三 総力戦体制期の広域行政  =丁[ 行政機構改革と広域行政論  一九三二︵S七︶年の五・一五事件後、斉藤実内閣が成立するが、その前後から絶対多数の政友会は派閥内訂 の泥沼に入りこんだ。そのため、﹁五・一五事件の狂熱が冷却すれば、政党内閣が復活するという期待は、次第 に色あせ﹂、政党政治の凋落が進んだ。それとは逆に、官僚は﹁政党政治の重圧から救出される機会を得た﹂。そ の第一歩は斉藤内閣下での文官分限令改正︵官吏の身分保障︶であり、第二歩は続く岡田啓介内閣によって一九 三五︵S一〇︶年五月に国策審議機関として実現された内閣審議会とその事務局たる内閣調査局ーいわゆる       パき 新官僚ないしは革新官僚の拠点となるーの設置である。そして、一九三六︵S一一︶年の二・二六事件は政 党の凋落と︵革︶新官僚のせり上りを決定づけ、後者と軍部との共鳴化を深めた。  その二・二六事件による戒厳令が解除された直後に成立した広田弘毅内閣は、庶政一新・庶政匡革を掲げ、い わゆる﹁七大国策・十四項目﹂を発表した。しかし、それに不満な軍部は、一九三六︵S一一︶年九月に陸・海 軍大臣共同で広田首相に中央・地方を通じ集権化を積極的に図る行政機構改革の意見書を提出した。特に中央機 構については、内閣総理大臣の権限と機能の強化、省・局の統廃合を強く求めた。これに対応せざるをえなかっ た広田内閣は、中央行政機構改革については大蔵・鉄道・逓信・文部の四相会議で、また、地方制度と議会制度 については内務・司法・農林・商工・拓務の五相会議で審議することにした。そして、前者に対して四相会議は 84

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法制局立案の﹁総務庁﹂︵内閣調査局の拡大強化、しかし、それに予算・人事・法制局は属さず︶案を提起した が、それに不満な軍部は内閣調査局を代弁者とする﹁総務院﹂︵内閣調査局の拡大強化のうえ、それに予算・人 事・法制局も加える︶案を対置し、両者は激しく対立した。また、五相会議は、一四項目にわたる改革点を提示 した。その中で広域行政問題にかかわる項目は、︵九︶府県市町村の所謂ブロック行政に関する問題、︵十︶州       パと ︵又は道︶庁の設置に関する問題、︵十一︶特別地方官庁と普通地方官庁との統合問題、であった。  ところが、政友会の浜田議員と陸相との︿腹切り問答﹀によって二日間停会となった衆議院の解散問題をめぐ り広田内閣と軍部との対立は破局に至り、一九三七︵S一二︶年一月に同内閣は総辞職した。しかし、集権化に むけた行政機構改革の流れは止むことがなかった。すなわち、﹁総務庁﹂と﹁総務院﹂のいずれも実現しなかっ たが、同じ年のうちに内閣補助機関として内閣調査局の企画庁へ、さらに企画院への拡充改組や臨時内閣参議制          パ ロ の設置をみたのである。  このように集権化にむけた中央機構改革は必然的に地方制度の改革を誘因することになるが、しかしながら、 二・二六事件以前から広域行政問題への対応を含めた地方制度の改革は既に課題化し始めていた。それ故に、二・ 二六事件後まもなく、雑誌﹃都市問題﹄は地方制度の改革問題を特集した。そして、この特集において、蝋山政 道は改革の背景・要因として地方制度の横断面と縦断面にみられる著しい変化を指摘していた。第一の横断面と は、﹁現行の地方制度の創設以来、約半世紀の間に、我が地方社会は農業社会より産業社会への非常なる発展を 遂げたが、その発達の仕方は競争的私的資本主義によって必然的に肢行的であった。その結果として、画一的に 85

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戦前昭和期の広域行政(道州制) 形式的に区画されている地方団体の間に均衡が破壊されてしまった﹂こと、すなわち、地域経済とそれに立脚す る地方財政の不均衡がきわめて拡大したことである。第二の縦断面とは、﹁国内における農民階級、労働者階級、 産業金融財閥、中商工業者階級、知識的俸給者階級等の対立は次第にその各個の階級的ブロックの組織化の過程 を進めるに従ってその紛争軋礫は激甚を加えつつある﹂ため、国←道府県←市町村という﹁中央集権的な階層的 な地方制度が、経済社会的見地からして、各階級層にとって、行政機関の点からも行政能率の上からも、公平に 有効に運用されな﹂くなったことである。だとすれば、地方制度の改革を求めるかかる二要因は、蝋山自身も認 識しているといえるのだが、実は我国も本格的に﹁現代化﹂と﹁国際化﹂の荒波に洗われ出したことを意味して いるといってよい。というのも、蝋山は、前者の﹁社会的発展と経済的実力とにおける蹟行性と不均衡性は一般 的趨勢であり⋮⋮地方制度も亦、その趨勢に押されて、その影響から免れ得なかったものである﹂とし、また、 欧米にもみられる後者の要因こそ、五・一五事件以後、国家改造思想の台頭や統制経済、計画経済の流行語化を       ハゑ もたらしているとしているからである。それらのことは、地方制度改革を論ずるにあたっては自由主義か全体主       ヱ 義かという問題設定が前提になるという論述が行われるようになったことにも如実にみてとれる。  要するに、﹁民主化﹂の流れが分権化から集権化へと反転・進行するのは、単に満州事変からいわゆる支那事 変へという戦時体制化や総力戦体制化がもたらしているのではなく、﹁現代化﹂と﹁国際化﹂の荒波とも重合し ていることに留意しなければならないのである。そうであれば、地方制度改革の大きなポイントの一つとしては、 蝋山が指摘する横断面と縦断面の変容に対応するための広域・総合︵U統合︶行政制度ー道州制i論が浮 86

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上することになる。それ故、前記した雑誌﹃都市問題﹄の地方制度改革特集は、まさに道州制論議のため組まれ たといって過言ではないのである。ただ、この時期に構想・提起された道州制案は、府県をどのように扱うかな どの点で幾つかのタイプに分けることができる。そこで、以下ではそれぞれのタイプの特性などを検討してみよ ・つ。  第一は、そもそも道州制に反対する意見であるが、それには二つの考えがみられる。一つは、府県の廃合を断 行し、数府県を管轄する道庁を設けて中央政府の事務権限の分権化を図るというような論は屋上屋を重ねるに過       ぢロ ぎないのであって、重要なことは知事を公選化することによって自治行政の充実を図ることだとするものである。 これに対して、もう一つは、府県間の経済力や行政力の不均衡が拡大したことや交通・通信などの発展からする と現在の府県区域は不合理になっているゆえ、府県廃合の必要性を積極的に認める。しかし、そのことは道州制 を形成するものではなく、分権化の観点から、府県区域を合併によって拡大するとともに知事を公選化すること        パヱ により、地方へ﹁充分に手腕を発揮せしむることが地方開発国運進展に寄与する﹂ことになるというのである。 これは政友会顧間・井上孝哉の意見なので、後述するように、政友会内部には分権化の観点をとりながら道州制 化には賛否両論あったといえる。  第二は、﹁現代化﹂と﹁国際化﹂の進行がもたらしてきた国家機能の拡大に対応しようという観点といえるが、 中央政府は外交・軍事・司法・金融行政に専念し、内務行政は地方で行うよう改革すべきとする道州制論である。 すなわち、市町村の規模を拡大する  現状における一万二千市町村を合併によって約三千市町村程度にまと 87

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戦前昭和期の広域行政(道州制) める   一方、府県を廃止して本土内を八道ないし八州に分ち、外地の朝鮮、台湾、樺太を加えた一一道州と し、それに府県以上の権限を持たせるというのである。もっとも、かかる道州庁は﹁中性の機関である。半面に 於ては中央政府の如き機能を備え、半面に於ては地方自治体の如き機能を具へ、其の一部に於ては中央政府の一        なレ 部となり、一部に於ては地方自治の一部となり、両者を混合した如き一機構として作用するのである﹂。とすれ ば、内務行政ラインにおける道州庁は、旧来の府県と同様に二重の性格・機能を持つことになる。したがって、 この道州制論は従来の府県をより広域的な道州へ置換し、かつその権限の強化を図ろうとするものであるので、 前述した天川モデルに従えば新たな︿集権・融合﹀型の中央地方関係の構築をめざすものといえる。  第三は、同じく天川モデルに従えば︿分権・分離﹀型の中央地方関係を志向するものである。その典型は、加 藤久米四郎・政友会議員の考え方にみることができる。彼は、政友会の年来の立脚点である分権化の観点を新た な行政機構改革状況に適応させるためといえるのだが、そのためには自治行政と官治行政を画然と区別すべきだ とする。すなわち、一方では現在の町村を合併して標準人口を約五千人以上とする大町村主義を進め、税制改革 によって独立税を基礎にする市町村財政の確立を図るとともに、府県を完全自治体化するためにも知事の公選化 を図る。他方で、そうした﹁徹底せる自治体を認めてそれを根拠として自治行政を布き官治行政の系統を整備す るが為に、ここに道庁を置く必要を痛感するのである。而して各庁長官は自ら其管内の国家事務を執行する外、 大体現在の各府県を標準として支庁を置き、其の支庁に対する指揮及び監督をな﹂すが、また、道長官の身分は 親任官とし、道庁に営林・税務・鉱山監督局などの特別地方官庁を統合するだけでなく、道庁へ国政事務の多く 88

参照

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