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登山の詩とユーモア:一九三九年五月二日、アルパイン・クラブでの講演 利用統計を見る

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(1)

登山の詩とユーモア:一九三九年五月二日、アルパ

イン・クラブでの講演

著者

マイケル ロバーツ, 佐藤 泰人

著者別名

Michael Roberts, SATO Yasuhito

雑誌名

白山英米文学

41

ページ

1-22

発行年

2016

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00007930/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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一   登山の詩とユーモア      ──一九三九年五月二日、アルパイン・クラブでの講演── 数年前の八月、ある霧がかった朝、我々三人はヴィットリ オ・セッ ラ 2 の山小屋を出発しました。グリヴォラ 山 3 を普通の ルートで攻めようという計画です。頼るものは、イタリア製 十万分の一地図、 山の南側を写した写真絵はがき、 それと﹁一 見簡単に見える﹂北東尾根は避けようという堅い意思、これ だけでした。山の麓の平原まで登っていくと、霧がほんのひ と と き 晴 れ ま し た。 ﹁ あ っ ち の 山、 俺 た ち が 登 る や つ と 同 じ ぐらい良い形してるな﹂と同行者その三がいつになく軽率な ことを言いましたが、ともかく我々は足を進め岩場の下にた どり着きました。しかし、二〇分と見込んでいたところを五 分で氷河を渡ってしまい、山の尾根はどうも違う方向へ伸び ているようです。でも地図でみると、 これが我々の山のはず。 氷 河 が 後 退 し て る ん だ、 錯 覚 を 起 こ す 見 え 方 を す る も の だ、 などと知ったようなことを言い合った末、我々は登り続けま した。グリヴォラの南面に落石があることは分かっていまし た。指一本、そして片方のブーツのつま先だけで崩れかけた 岩の小さな裂け目にへばりついているときなどに、分速十五 マ イ ル で、 目 に 見 え ず に か す め て く る 落 石 た ち の﹁ ヒ ュ ッ﹂ という残忍な音が聞こえるのはあまりいいものじゃありませ ん。同行その二は、私が今にやられると言い、その三は、私

登山の詩とユーモア

──一九三九年五月二日、アルパイン・クラブでの講演─

1

マイケル・ロバーツ

訳・註

 

佐藤泰人

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二 のすぐ五〇フィート上の出っ張りに落石がいくつか命中して いると言います。霧がまた晴れました。北東尾根なら三〇分 で登れるのに、と誰もが思いましたが、簡単なのは見かけだ けというクーリッ ジ 4 の言葉を思い出し、恥辱を抱えながら攀 じ下りて、南尾根のほうへ歩きました。南尾根はなかなか素 晴らしいものでした。岩の塔、突っ張り、横穴の数々が散ら ばり、郵便受けや水差しの取手のようなとっかかりがついて いる。あぶみや耳や鼻があらゆるところに出っ張っている感 じです。時おり霧が晴れると間違って 岩 ジャンダルム 峰 5 に登ってしまって いることに気付くこともありました。そうすると一行は後戻 りして、今度はその三が説教壇や飛び梁に我々を連れて行っ てしまう、という具合でした。太陽が照り、残っていたわず かな蒸気を乾かしていきます。岩の塔とガーゴイルの明るい 赤色が、晴れた空の濃い青色にくっきり浮き立ちます。する と突然、その三が横穴に登り込んでいったかと思うと、はね 上 げ 戸 を 通 っ て む こ う 側 に 出 て、 頂 上 に 達 し ま し た。 ﹁ 一 杯 食わされたな﹂と彼。まさにそのとおり、一マイルほどむこ う、我々より千フィートほど高いところに、グリヴォラ山頂 が見えたのです。足元には一番広いところでは一キロに渡る トラホ氷河があります。我々は地図にない山頂に立っていた のです。我々は﹁一見簡単に見える﹂北東尾根を一〇分で下 り、翌日グリヴォラに登りました。 こういうことは、私よりも上級の登山者たちもやらかして き ま し た。 気 分 の 悪 い、 屈 辱 的 な こ と で す。 ︵ エ ヴ ェ レ ス ト 周 辺 を 飛 ぶ 飛 行 士 に だ っ て 起 こ る こ と で す。 ︶ し か し 我 々 が 見せた愚かさは登山につきもの。思いがけずプンタ・ロッ サ 6 に登ってしまった我々の場合のような話を、悪意あるユーモ ア好きが集めて、便利かつ良い教訓になる本を作ることもで きましょう。名づけて﹃間違い山案内﹄ 、と。 そんな未完の本を思い浮かべながらも、ちょっとその姉妹 編 も 考 え て み ま し ょ う。 そ の 名 も﹃ 想 像 山 案 内 ﹄。 こ の 本 が 扱うのは、一万三千フィートのモン・イスラ ン 7 のような山─ ─これは、アルプスの山小屋のいくつかと同様、地図にしか 存在しない山ですが──そのような山ではありません。そう

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三   登山の詩とユーモア      ──一九三九年五月二日、アルパイン・クラブでの講演── ではなくて、我々の想像力にたびたび現われる、名もない象 徴的な山々です。 ﹁間違い山﹂ がユーモアの領域に属するなら、 ﹁ 想 像 山 ﹂ は ─ ─ 我 々 が﹁ 想 像 ﹂ と い う 言 葉 に 十 分 注 意 深 く あれば──詩の領域に属するでしょう。より物質的な実際の アルプスと同様、こうした山々に我々は容易に迷い込むこと ができます。そして我々のユーモア感覚──これは困難や屈 辱に向き合う助けになることがよくありますが──このユー モ ア 感 覚 が、 ﹁ 想 像 山 ﹂ へ の 行 き 過 ぎ た 冒 険 に も 歯 止 め を か けてくれるのです。我々がある地点に、そこを越えると崇高 は何か別のものになってしまう、そういう地点に近づきすぎ ると、警告を発してくれるのです。 私は完全にホッブズの弟子というわけではありません。彼 の詩への不信、宗教を見るときの無慈悲に実際的な態度、人 間性に対する暗い見方などを、私は持っていません。 ﹁人は、 そこにユーモアの全くない災難や下品を笑うことが往々にし てある﹂というホッブズの言 葉 8 には同意しますが︵登山家な ら 誰 で も き っ と 同 意 し ま す ︶、 彼 の い う﹁ ユ ー モ ア ﹂ と は 何 なのか、災難はすべて泣いたり呪ったりすべきものと考えて いるのか、とやや疑問に思います。というのも実際、大部分 のジョークは困難や災難に関することなのは明らかなのです から。そうしたジョークは、残酷にも我々に人間の限界を思 い出させてくれます。我々のバランス感覚を保ち、またこの バランス感覚に表現を与えてくれる。ちょっと蹴つまづいた からといって自殺やら他殺やらを考える私たちを、正気に戻 してくれるのです。ユーモアはいわば詩という街のいかがわ しい裏通りで、 ﹁災難や下品﹂を残酷にも思い出させるジョー クやパロディーに耐えられない詩は、悪い詩です。 ホッブズは、ザイルをつないで一緒に登るにはよい仲間と はいえないでしょう。登山には、かなり非実用主義的要素が あり、これは彼の哲学に居場所を見いだせませんから。いっ ぽ う 詩 の 射 程 は だ い ぶ 広 い。 そ れ か ら、 午 前 二 時 に 起 き て、 向こうずねに痣を、 顔に火ぶくれをつくり、 落石に片耳を持っ ていかれ、嵐にずぶ濡れになりながら三マイルものモレーン を 歩 き、 暗 く な っ て 山 小 屋 に た ど り 着 い て み れ ば、 床 じ ゅ

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四 う、それからテーブルの上にもフランス山岳兵たちが寝っ転 がっている、というスポーツにも、本質的に可笑しいものが あります。これすべて楽しみのため、と説明すると、精神分 析医はちょっと特別な表情をしますし、普通の人はそこに何 かジョークが隠れていると思います。ジョークではないと分 かると、ジョークを加えろと言います。しかしこのジョーク は、そこにはないジョークなのです。つまり、登山に伴うさ まざまな苦痛と試練のひとつひとつは古典的ジョークを持っ ていますが、それを超越するジョーク、それがあれば我々の 理解し難い情熱を部外者が受け入れてくれる、そんな超限レ ベルのジョークは存在しないのです。我々の登山を正当化す るもの──そんなものがあればの話ですが──それは詩のな かにあるに違いありません。しかしイングランド人は詩より ユーモアを好む人種ですし、それに、もし我々が世界一の悪 ふ ざ け 屋 を 自 負 す る な ら、 ﹁ で も 一 体 な ん で 山 に 登 る ん で す か﹂などというウブな質問は、そもそもしないでしょう。 ともかく、 登山に関する様々な、 別々の、 一つ一つのジョー クはたくさんあります。例えばアルプス蚤の話。もっとも今 は一八六〇年代より勢いがなくなったようですが──それと も私たちの世代が頑丈になったのでしょうか。それから、初 登頂したらイワシ缶が捨ててあった、とか。登る人の速度よ り速く流れ落ちる氷河、だとか。大きな岩の裂け目の下で具 合の悪くなっている登山家、だとか。捜索隊に関するジョー クというのもあります。不必要な捜索隊に加わった人ならだ れでもこういうジョークが必要だと知っているでしょう。そ の最高のものはドロシー・ピレ イ 9 の﹃登山の日々﹄に描かれ ています。 イーニュ 滝 10 の上の地は、日が暮れて戻れなくなった登山 隊が夜を明かす場所として有名である。捜索隊が発見で きなかった男についてのおもしろい話がある。捜索隊が 絶望してアロッラに戻ると、宿の庭にその男が座ってい る で は な い か。 ﹁ 一 体 ど こ に い た ん で す か、 ど う し て 見 つけられなかったんだろう。私たちの叫び声が聞こえな

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五   登山の詩とユーモア      ──一九三九年五月二日、アルパイン・クラブでの講演── か っ た ん で す か ﹂ と 聞 く と、 ﹁ 聞 こ え ま し た よ ﹂ と 戻 れ な か っ た は ず の 彼。 ﹁ で も そ の 声 が 怒 っ て る み た い に 怖 くって、どこか行くまで岩の影に隠れてたんです。 ﹂ こういうジョークはみんな、私が﹁実用ジョーク﹂と呼ぶ 種類のものです。この類いにオーブリー・ル・ブロン女 史 11 の ツィナルロートホル ン 12 横断の話を加えていいかどうか分かり ません。 女史はほとんどツィナルまで下りてきたが、 また登っ て ひ と 山 越 え て ツ ェ ル マ ッ ト に 行 か な け れ ば な ら な か っ た、 な ぜ な ら ト リ フ ト 氷 河 の 岩 の 下 に ス カ ー ト を 置 い て き た か ら、 という話。当時はジョークでは決してありませんでした。 少し時代がたつと腹が痛いほど可笑しかったでしょう。でも 今、女性がズボンでホテルに入れる現在では、可笑しいとい うよりは古風な趣のある話ですし、登山そのものよりは個人 に関する歴史的逸話の部類に入るでしょう。 クーリッジが ﹁自 分の伯母と飼い犬と一緒に登ったアメリカ人﹂として描かれ たり、アルパイン・クラブ前会 長 13 の強大な政治力を、宿の主 人が﹁ロンドンノカイチョーサン﹂と呼んだ、とかいうのも 同 様 で す。 コ ン ウ ェ イ 14 の ガ イ ド も ま た、 ﹁ 岩 ジェンダルム 峰 か ら 逃 げ る の は人間の本能﹂と言った男として記憶されるでしょう。ホー プとカークパトリッ ク 15 は、アルミの衿留めボタンの発明者と してアルプス伝説にその名を残すでしょう。風変わりで懐古 的な味わいが、 こうした逸話や呼び名には入りこみます。 人々 がアルプスを歩き回り、二日にいっぺんは新登頂を果たした 時代、そんな昔をほろ苦く偲ぶものとなるのです。国境警備 隊が厄介だけれど危険な存在ではなかった時代、男性の登山 者が衿留めボタンなしでホテルに入るなんて、ル・ブロン女 史がスカートをはかずにツィナルに下りてくるのと同様に考 えられないことだった時代。 個人的逸話──その人の性格をあらわし、同時に我々自身 の悩みや困難を軽くしてくれるような出来事や言葉──それ が様々な登山の物語のなかに自然に収まっています。その著 ﹃ナンダ ・ デヴィ﹄で、 ティルマ ン 16 は、 難しい登攀と、 竹のジャ ングルを抜けるさらに困難な下山という数週間を終え、つい

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六 に土でできた集落が見えた時、まさに彼らしく叫びます── ﹁ お 茶 の 時 間 に 間 に 合 う ぞ!﹂ と。 よ り 学 者 的 で す が 負 け ず に気が利いているのが、バクスト ン 17 のエギーユ ・ ド ・ ビオナッ セ イ 18 初登頂のときの言葉です。彼は一日じゅうギリシャ語と サンスクリット語の源となる言語について同行のクロファー ド・グロウ ヴ 19 と議論を戦わせてしていましたが、寒く不快な 野営の半ばでようやく初めて彼と意見が一致しました。それ は、すべてに終わりがあるならばビオナッセイの夜だってい つか終わる、という意見です。もっとも、バクストンは考え 深げにこう付け加えましたが──﹁今回の場合、問題はどち らが先に終わるかだ。夜か、それとも我々か。 ﹂ これでまた実用ジョークに戻りました。ブラックで、自然 で、必要なジョーク。サミヴェ ル 20 の作品はそうしたジョーク の 標 準 典 拠 で す。 登 山 が 苦 痛 で あ り 骨 が 折 れ る も の で あ り、 そして楽しいものである限り、そうしたジョークは必要とさ れるのです。 しかしまた別の、 もっと一般的でない登山ジョー クもあります。念入りに手の込んだ知的な愚かさ。これはわ が国民の理論嫌いが表れたものですが、そうした愚かさが登 山にあてはめられた例を私はなぜか一つしか知りません。し か も イ ン グ ラ ン ド 人 の も の で は な い の で す。 そ れ は リ ヨ ン の 弁 護 士 の も の で、 こ の 人 は あ る 雨 の 午 後、 フ ェ リ ッ ク ス・ フォール小 屋 21 の山小屋帳に、三ページかけて管理人から聞い た話の一変 奏 22 を書きつけています。 元の話はこんなふうです。 フェリックス・フォール小屋の管理人が、ある山小屋の 存在で登山家の注意を惹き付けた。それはいつでも使用 できるカタツムリ用の山小屋︵一ダースにつき五フラン で宿泊可︶なのだが、問題は、こういう興味深いカタツ ムリたちの登山中はこの小屋をどうしようか、というこ と。 この手のジョークで自然なユーモアの地を後にして、文学 の地に入ることにしましょう。 今度は ﹁間違い山﹂ ではなく ﹁想 像山﹂です。いやコールリッジを慰めるなら﹁空想山﹂とし

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七   登山の詩とユーモア      ──一九三九年五月二日、アルパイン・クラブでの講演── ましょうか。我々は物理的に起こったことを報告するためだ けに言葉を使うのではなく、外側の目では見えない経験を組 み 立 て る の に も 言 葉 を 使 い ま す。 は る か 遠 い 地 の﹁ 想 像 山 ﹂ と、 ﹁間違い山﹂の残酷な現実との間には、 華美な散文と水っ ぽい詩とで膨れた湿地帯があります︵ここに私は最後には戻 ら な け れ ば な り ま せ ん が ︶。 し か し あ る 地 点 で、 二 本 の 山 脈 は繊細な雪の尾根につながっているのです。この尾根の真ん 中で危なっかしく立ち止まっているのが、件のフランス人弁 護士、殻に引っ込んだカタツムリで永遠に名をとどめること になった人です。その近くにはA・D・ゴドレ イ 23 に率いられ た一隊がいます。彼らもまた﹁間違い山﹂を経験し、さらに ﹁想像山﹂ を見た人たちです。彼らは登山の苦痛も愉楽も知っ ている。彼らは経験が豊富すぎて、自分が最も重きを置く感 情を直接に表現しようとすることができないのです。 登山から得る深い満足感は、散文より詩でこそ表現したい と我々の多くが感じるものです。詩のリズムのほうが記憶に の こ る と い う の が 理 由 の ひ と つ で し ょ う。 ま た 詩 的 リ ズ ム は、あのおなじみの美文調の湿地帯の飾り立てた冗漫さに陥 ることなく、我々の感情を散文よりも少し高く持ち上げてく れます。そういう詩を書くのがいかに難しいか、やってみよ うとした人なら分かるでしょう。ジェイムズ ・ リーヴ ズ 24 の﹁山 に登る﹂という詩がありますが、これは我々の求める基準に ちょっと達しません。経験のないアマチュアの感情を描いた ものだからです。全き熱情を表現するのにふさわしい、より 伝統的なリズムには、 ダグラス ・ フレッシュフィール ド 25 やジェ フ リ ー・ ウ ィ ン ス ロ ッ プ・ ヤ ン グ 26 の 詩 が あ り ま す。 し か し、 最 も 控 え め に 描 写 し よ う と す る 詩 で さ え 危 険 が あ る の で す。 リズムがどんどん走ってしまう、気分が盛り上がって真実味 のない英雄詩になってしまう、ありがちな形容語句が手から ぽろぽろはずれて、自分の位置がわからぬまま、すでに虚空 に足を踏み出してしまっているのです。 ゴドレイのように優雅に逃れられるなら、私たちの大半が 問題を避けて満足するでしょう。ゴドレイはよく用いられる 大袈裟な形容語句を、半分ふざけて、半分真面目に用いるの

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八 です。彼は、登山にそんなにも情熱を抱いてしまう自分や友 人をからかい、彼らが﹁ラバとマーモットを食べ、山羊から と れ た 羊 肉 を 食 べ ﹂ 27 て い る こ と を 思 い 出 さ せ ま す。 こ れ は、 カーヴァリ ー 28 やJ・K・スティーヴ ン 29 のような、イングラン ドの学者作家による 軽 ライト・ヴァース 妙詩 によくみられる気分です。情熱の 気 分 で は な く、 そ う い う 自 分 の 情 熱 に に こ や か に 水 を 差 す、 それでいてその情熱を恥と思わない、 そういう気分なのです。 というわけで、気まぐれでない率直な描写とは何か、とい う中心課題が未解決のまま残っています。さらに想像による 書き物のもつ問題もあるでしょう。ワーズワースのシンプロ ン峠の詩行、シェリーのモンブラン、コールリッジの﹁夜明 け前の賛歌﹂といった詩はみな、外側に見えるものをごまか したりねじ曲げたりすることなく、想像力によって内側に見 えるものを表現することに成功しています。ただこれらの詩 は﹁山の詩﹂ではあっても﹁登山の詩﹂ではありません。山 の詩であれ登山の詩であれ、結局のところ純粋な描写詩とい うのは不可能なのかもしれません。経験そのものと、そこに 読 み 取 る 重 要 性 と を 分 け る こ と は で き な い の で す。 フ レ ッ シュフィールドやジェフリー・ヤングが単に物理的描写に満 足することはほとんどありません。しかし虚空に落下する危 険がもっとも大きいのはまさにこの点なのです。散文の端的 さが失われ、報告書を書くならばあえて大袈裟な表現など決 し て し な い 人 が、 ザ イ ル を 投 げ 捨 て、 真 面 目 な 登 攀 を や め、 絶対に不可能な永遠の岩壁を登るという無謀を冒そうとする の で す。 詩 は、 精 確 な 報 告 と い う レ ベ ル か ら 持 ち 上 が る と、 隠喩やリズムが用いられるという以上の意味において普通の 発話とは異なるものとなります。というのも、詩人はある衝 動の感覚のもとに書いている、そしてときに合理的な主張や 物理的事実を無視することがあるのです。しかし精確で具体 的な観察への労を怠る詩人は、その寓意や隠喩に深い意味を 与えることができないでしょう。 ﹁美的距離﹂を置くことは、 彩りのない抽象表現とは違います。強烈で端的な感情は、大 袈裟な身振りで煽られた使い古しの文体では伝わってきませ ん。預言者や夢想家もそうですが、詩人もまた、普通の覚醒

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九   登山の詩とユーモア      ──一九三九年五月二日、アルパイン・クラブでの講演── 時に目を見開いている状態のほうがずっとよいのです。 この点において、登山に関する散文の書き手のほうが詩人 に教えるところがあります。ティンダ ル 30 の観察の精確さ、そ の生き生きしたイメージを考えてみるとよいでしょう。例え ばこうです──﹁全き絹のような雲のヴェールが山肌を退い ていき、長い紗のような膜を大気に延ばしていった。そこで ついに凝固して普通の雲になり、その生まれたての優雅と美 とを失った﹂ 。またはクロファード ・ グロウヴを見てみましょ う──﹁寒さがより厳しくなってくると、氷河を一面覆う音 が 徐 々 に 消 滅 す る ﹂。 ﹁ 消 滅︵ extinction ︶﹂ と い う 語 は、 科 学 的にだけでなく感覚的にも的確です。真ん中の音節 ︵ tinc ︶が、 寒さと、氷河が凍てつくときの最後の鋭いピシッという音を 思わせます。 それから想像力の点からいっても的確な語です。 音はただ単に止まるのでなく、 それはもう一つの要素である、 浸食する静けさによって消されるのです。 きらりと光る語句を選ぶ同様の能力は、現代の作家にも見 いだすことができます。 ドロシー ・ ピレイは、 デヴィルズ ・ キッ チ ン 31 の岩を ﹁滑らかだけれどぼろっと崩れるトフィーのよう﹂ と形容し、また、落ちたクレバスからひっぱりあげられた彼 女 自 身 に つ い て は、 ﹁ そ の 後 は ず っ と 石 鹸 泡 の 膜 の 上 を 歩 く みたいに﹂歩いた、と書いています。直接的描写で極度に繊 細 な 様 子 を 出 そ う と し て、 ﹁ そ れ ま で な か っ た 以 上 に 慎 重 に 歩いた﹂と書いてしまえば、伝わる情報は同じですが、経験 の生む﹁感情﹂が伝わることはもうありません。適切な隠喩 や直喩は我々の感覚に働きかけます。大袈裟な表現をいくら 盛り込んでも、けばけばしい語彙に華美なつぎあてを貼り合 わせて仕立て上げても、適切な一語句にはかないません。 ワーズワースやコールリッジやテニスンは、山について書 く時にそうした語句を見つけました。F・W・H・マイヤー ズ 32 も 時 お り 成 功 し て い ま す。 し か し 大 体 に お い て 山 の 詩 は、 悪い描写がもつ欠点をすべて曝しているといってよい。誇大 妄 想、 大 言 壮 語、 甘 っ た る い 感 傷 主 義。 そ れ は﹁ 間 違 い 山 ﹂ を描いているかのようです──現実にある﹁間違い山﹂では なく、想像世界の﹁間違い山﹂です。そうした詩が表現する

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一〇 のは、ある種のいんちき宗教や感傷的な白昼夢で、そこでは 残酷な現実が超越されるのではなく、都合良く無視されるの で す。 一 つ 目 を 背 け れ ば も う 一 つ に 目 を 背 け る こ と に な り、 このお気楽な宗教は、その神学と同じように粗雑で限られた イメージやリズムで表現されるのです。   ﹁ 山 の 宗 教 性 ﹂ と は ア ー ノ ル ド・ ラ ン 氏 33 の 言 葉 で、 私 の 言 葉ではありませんが、私が理解するその意味をより十分に説 明したいと思います。古代から、山岳の孤高さ、巨大さ、永 続性は、 人知を超える力の存在を人間に考えさせてきました。 滝や氷河の超人的力、山の森林の闇、小さな山の花の唐突な 対照、雪と日光の全き相反。こうしたものが人を魅了し、ま た恐怖させました。町や畑、草地や川といった普通の暮らし のすべてを見渡せる高所に達する困難が、登山を人生そのも のの象徴にしています。人生は、困難、危険、思わぬ発見の 瞬間の数々に満ちていますから。 精神的現実にかかわる作家にとって、実際の物質のイメー ジはつねに必要です。 ですから、 宗教的作家が山にそのイメー ジをもとめるのは当然でしょう。 神々はオリンポス山に住み、 ダンテの地上の楽園は山頂に置かれました。オーストリアの 詩人リルケは、彼の詩の一つで、山をはっきりと、人間存在 と人間の魂の奮闘の象徴としました。 心の山のうえ吹きさらされて   ほら   なんて小さい 見てごらん   後にしてきた最後の言葉の集落   もうすこ し高くには それでもなんて小さい   ぽつんと 感情の農地   見えないかい 心の山のうえ吹きさらされて   両手の下には むき出しの岩   でもこんなところでも 何かが花を咲かせている   無言の絶壁から 一本の植物が   自分でも気付かずに花咲かせ   風に歌っ ている ではそれを知る者は?   ああ   彼は先ず知ることから始 めて

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一一   登山の詩とユーモア      ──一九三九年五月二日、アルパイン・クラブでの講演── いまは黙っている   心の山のうえ吹きさらされて ここ   心乱されず 歩く多くの生き物   足取り確かな山の獣 立ち止まり   立ち去り   ひそやかに暮らす大きな鳥は 純粋で人を寄せ付けない頂上のあたりを舞う   風雨を覆 うものすべてのうえ ここ   心の山のうえ ワーズワースにおけるように、象徴性は大体において暗黙 のうちに示されます。しかし象徴性があからさまでもそうで なくても、 人はイメージを現実と取り違える傾向があります。 ワーズワースに見られる汎神論の影響を恐らく受けた、十九 世紀の反キリスト教的運動は、この間違いを押し進めるのに 寄与しました。象徴は現実と解釈され、グリーンフィールズ 博 士 34 の説教を聴いたかなどと一般の人々が話題にするいっぽ う、登山家は登山を宗教のように語り始めたのです。 登山はゲームです、スポーツです。または気晴らし、最高 の気晴らしです。登山は、自分の体力と集中力すべてを必要 とします。登山は、達成し得る仕事─といっても何とかギリ ギ リ 達 成 で き る よ う な 仕 事 ─ を、 我 々 に 設 定 し て く れ ま す。 登山は、いっとき、人生の複雑さをすっきりした単純さに戻 してくれます。登山は、市民生活において価値あるさまざま な特質を必要とします。登山は、悪に向かうかもしれない本 能や欲望に、害のないはけ口を与えてくれます。それから登 山は、象徴的重要性に富む経験を与えてくれます。しかしそ れでも、登山は実生活ではなく、宗教でもありません。登山 は、体を動かすことをさまざまな価値ある特質に向かわせま すが、我々がそれらの特質を、もうゲームをしていない時に 活 用 し な け れ ば、 そ こ に な ん の 徳 も あ り ま せ ん。 も し 我 々 が、登山の状況や困難にわが身を打ち込むという行為を、な にか超越的な霊力に自分の意志をつぎ込むという行為と混同 すると、そこには大きな危険があります。山は、なにか別種 の現実の象徴やイメージとなり得るかもしれませんが、その

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一二 イメージを、まるでイメージ以上のものであるかのように崇 拝するとしたら、それはひとつの迷信となってしまいます。 登 山 詩 に お い て︵ と き に は 散 文 に お い て も ︶、 こ の 汎 神 論 的異端がもう一つの異端と結びつくことがよくあります。悪 は現実に存在しない、という教義です。宗教的詩人が、善と 悪との戦いから生まれる超越的な善を示そうとするのは一理 あります。しかしこのような主張は悪の現実性を否定するも のではありません。この世における、そして私たち自身にお ける悪の存在は、メール ・ ド ・ グラー ス 35 のクレバスやマッター ホル ン 36 の悪い岩の存在と同じぐらい現実で明白なのです。そ れ を 無 視 す る こ と は、 阿 呆 の 楽 園 に 暮 ら す よ う な も の で す。 楽天的視点と時おり呼ばれるものを表現する類いの詩が、登 山における実際の恥部──水ぶくれだとか、時おり襲う腹痛 だとか、山小屋の汚臭だとか──を無視するのは当然でしょ う。作り事の宗教は作り事の世界にもとづいて想像化される のです。その世界では、ホッブズのいう﹁災難や下品﹂がす べて超越されることはありません。超越的善が生まれる材料 としてそれが扱われておらず、ただ単に無視されているだけ なのですから。テニスンがモンテ・ローザを描く詩 行 37 でやっ ているように、美しい細部を選ぶことは無害です。そうして 選ばれたものはやはり根本的に真実であって、汚ない面から とられた現実的な細部に侵略されても完全に台無しになるこ とはありません。美しいものを扱い、それと同じように本質 的に醜いものを扱わなくても、 詩は正直なものとなりえます。 危険は、そうした選択が事実を曲げるものになると起こりま す。描かれる感情も世界もその詩は嘘にしてしまい、一つの 宗教に落ち着いてしまう。この宗教は、現実の世界にあては めることができないのですからタチが悪い。 内的物証から判断するに、こういう感傷的詩を書く人が登 山家であることはめったにありません。今の時代からこうい う 軽 い 過 ち を 犯 し た も の の 例 を 拾 う の は ち ょ っ と 酷 で し ょ う。また公平でもありません。というのも私は書評をやって きていて、悪い詩に対する感情は特別に強いのですから。そ こ で マ シ ュ ー・ ア ー ノ ル ド に 目 を 向 け る こ と に し ま し ょ う。

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一三   登山の詩とユーモア      ──一九三九年五月二日、アルパイン・クラブでの講演── ア ー ノ ル ド な ら ば 我 々 の 主 張 の ほ と ん ど に 同 意 す る す る で しょうが、 ﹁ラグビー ・ チャペル ﹂ 38 で自らが悪例を示してしまっ ているのです。この詩には長い描写的叙述があります。 友らと陽気に   我らは発った やがて高みで   嵐が来た あきらかにアーノルドとその友人たちは天気を読めない人た ちで、その無分別のツケを払うことになります。 我らのかたわら   発った友ら 今やよろめき   嵐に消える しかし彼らを救出しようという実際的なナンセンスは起こり ません。詩の調子はあまりにロマンティックに英雄的で、常 識の入る余地がないのです。 眉間にしわ寄せ   唇は 厳しく締めて   懸命に 進み進んで   ついに夜更け 旅路の果てにたどり着く 幸運にも彼らは宿に到着します。こういう種類の旅人のこと を知っている様子の主人は、誰を雪の中に置いていったのか 問いただします。 悲しく答える   我々が 連れてきたのは 我らのみ! ほかは嵐に見失い 我らだけで無情にも   今と同じで友なしで   戦い抜いてここに来た 友は   仲間は   一隊は 我らのかたわらから消えた   雪崩が彼らを飲み込んだ

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一四 私たちは実際、 災難のことをこういう調子では話しません。 また控えめに言っても、よく準備された一行であれば災難は こんなふうに起こりません。アーノルドは充分わかっている のです、この箇所すべては彼が本当に言いたいことの隠喩に 過ぎないことを。つまり、人生は戦いだ、困難と危険は人生 につきものだ、価値のある人生にならつきものだ、とアーノ ルドは──彼は常にそうでしたが──言おうとしているので す。しかし言い方がもっと実際的であったならば、高級精神 は 少 な く し て、 現 実 の 屈 辱 や 苦 し み を 受 け 入 れ る 明 る さ が もっとあったら、説得力はずっと増したでしょう。 ﹁ラグビー ・ チャペル﹂ には興味深い点がもう一つあります。 こういう類いの詩では往々にしてそうなのですが、主人公は 旅行者で、なにか理由があって旅をしています。しかし登山 者はそうした理由をほとんど持っていません。登攀そのもの が、 そ れ 自 体 を 正 当 化 す る の で す。 こ の 点 に お い て 登 山 は、 旅よりもうまく人生の象徴となるでしょう。登山はそこに理 由がないこと、意味のない行為にみえることによって、深い 象徴的意味を持ちうるのです。登山者は、 ためらいながらも、 気 が 進 ま な く と も、 不 快 と 屈 辱 同 様、 危 険 も 受 け 入 れ ま す。 プロの登山家でない限り、それを無理に受け入れる必要はな い。それなのに彼は自由な選択によって、わざわざ、より高 い安全性を斥けるのです。ハルトマンのナンガ・パルバット 日 記 39 の最後の記帳は、我々の注意を、登山のこの側面にどう しても向けます。ハルトマンはその日、第五キャンプへ進ん でいました。日記にこう記します。 七月十四日。素晴らしい晴れ。休みなしで楽に高度を上 げることができた。雪のなかでもそうなのだ。ふつう雪 があると、私はほかの人より深く入ってしまいそのため 疲労もより大きかったのだが。不思議だったが、自信も 湧いてありがたかった。さらにいえば、私は一日じゅう ひとり微笑んでいたと思う。なぜって今日は息子の誕生 日 だ っ た か ら だ!   ゆ っ く り と、 ひ と り、 ま た ひ と り、 シェルパたちが到着しては、重荷を氷のでっぱりにどさ

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一五   登山の詩とユーモア      ──一九三九年五月二日、アルパイン・クラブでの講演── りと置いていく。 ハルトマンは読み手に対して何かを企図した訳ではありま せん。しかしこれが彼の最後の言葉だと、そしておそらく彼 の最後の思考だと、我々は知っている。このことこそが彼の 言 葉 に 特 別 な 痛 み を 与 え て い る の で す。 ﹁ さ ら に い え ば、 私 は 一 日 じ ゅ う ひ と り 微 笑 ん で い た と 思 う。 ﹂ こ の 言 葉 は 詩 で はありません。しかしこれにくらべたら山岳詩の非常に多く が馬鹿げて見えます。この言葉は感傷的ではない。感情が誇 張されていないし置き違えられてもいないからです。それで も、こういう言葉が詩に現われたらどうしても誇大に感傷的 になってしまう。あの大事故を前にして問わずにはいられな い疑問にまず答えずして、その出来事を詩に用いることはで き ま せ ん。 ﹁ 何 の 権 利 が あ っ て あ ん な ふ う に 自 分 の 命 を 投 げ うつのか﹂と。優秀な登山家は、自分の山とルートをいった ん決めれば、自らのすべての技術と知識とを用いてあらゆる 危険を最小化する、とこれは認めるにしても、一体何の権利 があってそもそも彼はその危険を冒すのか。 答えはあると思います。しかし、馴染みのアルプスの山々 を 跳 ね 回 る 我 々 を 正 当 化 し よ う と す る ど ん な 補 足 的 理 由 も、 ど ん な 妥 当 と 思 わ れ る 理 由 も、 受 け 入 れ ら れ な い で し ょ う。 景色だとか、 肉体の奮闘による高揚だとか、 日常生活の問題 ・ 悩みの数々からしばし逃れられる満足だとか、思考と技術の す べ て を 必 要 と す る 仕 事 に 没 頭 で き る だ と か。 も し 登 山 が、 心配事や責任からのいっときの解放にすぎないとすれば、そ れは他のスポーツと変わりません。しかし、登山の詩につい て語るときに、偉大な詩の主題から離れずにいられる、とい う事実は、登山にはゴルフや自動車レースにはない要素があ ることを示すでしょう。もし登山が、科学的知に貢献するこ とだけに価値があるとしたら、ダイナマイトや鉄はしごを敵 視する我々の偏見は許されないものとなるでしょう。もし登 山の目的が健康な運動だけならば、首をへし折る危険を時お り冒さなければならない理由はないでしょう。登山を丸々正 当化しようとするなら、命を失うこと、故意に危険を冒すこ

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一六 と を 正 当 化 し な け れ ば な り ま せ ん。 思 う に、 唯 一 の 答 え は、 喪失に全く意味がない、ということにあります。何も恐れな い、死すらも恐れないと示すことによってのみ、人は威厳を 保つことができるのだ、と。 道路を渡る時に馬鹿げた危険を冒したり、くじ引きで自殺 を 決 め て 楽 し ん だ り す る こ と で は こ の 条 件 は 満 た せ ま せ ん。 こういった例は、命の価値をまったく認めていないと示すだ けですから。危険に対置される何かがなければならない。な にか適切なものが。それがあってはじめて、登山をする他の すべての理由も秤にのせることができるのです。犠牲は必要 ではない、危険はなにも物質的利益を生まない。しかしそれ は何かを──精神の高揚だとかはっきりものが見える感覚だ とか──危険を冒す理由の一部となるものを生みます。では 残りの部分はといえば、危険自体が危険を冒す理由となるの です。人間は食べ物を掘り起こすためだけに生きているので はない、家族や社会に忠誠を尽くすためだけに生まれたので はない、ということを示すのです。より低いレベルにある命 そのものよりも高い価値を置くことのできる精神の状態があ る、魂の状態がある、それを示すのです。 もっと単純な説明もあり得ます。命の価値を最も痛切に意 識するのは、命が最も危険にさらされる時だ、と。わざわざ 厳しい状況に身を置いて生きることへの精神病的情熱、これ が登山家の行為の説明ともなりましょう。しかし大半の人に とってそれは説明のほんの小さな一部にすぎません。宗教に 見られるような何か本質的 ・ 内在的価値がそこにないかぎり、 すべてを説明することにはなりません。物事は何かの用途目 的に役立つから良いのではなく、ただその物であるが故に良 いのです。命を犠牲にすることは、それが単なる実用主義的 価 値 観 に 勝 る も の が あ る こ と を 示 す が 故 に 良 い こ と な の で す。犠牲は、行き過ぎやり過ぎを示すものでしょうが、それ は自信と活力の一表現なのです。自分の最後の食べ物を神々 に捧げる原始人が愚か者であるとは限りません。彼は飢え死 にするかもしれませんが、死ぬことのない種族の精神を示す のです。

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一七   登山の詩とユーモア      ──一九三九年五月二日、アルパイン・クラブでの講演── こうした登山と宗教との関係は、誰もが感じてきたもので すが、 それを間違って同じものだと捉える必要はありません。 登山を象徴として用いるなら、象徴と現実との区別をはっき りさせておきましょう。同時に、登山における災難も下品な 部分も素直に認めて、 この象徴の力と範囲を保持しましょう。 そうすることによって、我々の人生解釈が、感傷的な白昼夢 ではなく、包括的で応用のきく哲学であることを確かにする こ と が で き る の で す。 我 々 が ユ ー モ ア 感 覚 を 賢 く 使 う な ら、 私的な感傷を公に見せびらかす恥ずかしさから──ゴドレイ が免れたように──免れることができます。それから、登山 が我々の宗教的思考にさまざまな象徴を提供してくれるとし ても、やはり宗教とは異なるということを思い出させてくれ も す る で し ょ う。 ﹃ 想 像 山 案 内 ﹄ は ボ ー ル 40 や ク ー リ ッ ジ の 本 とは異なりますが、それらと同様に有用であるはずです。自 身の虚栄や誇張から身を守るため、この﹃崇高案内﹄は﹃滑 稽案内﹄と一緒に読まれるべきなのです。 ─────────── 註 1   Michael Roberts, ʻThe Poetry and Humour of Mountaineering ʼ, The Alpine Journal 52: 260, May 1940. 22-33.   本稿はこの、アルパイ ン・クラブにおける講演録の全訳である。    マ イ ケ ル・ ロ バ ー ツ︵ 1902-1948 ︶ は 英 国 の 詩 人、 批 評 家。 詞 華集 New Signatur es (1932) を編み、 オーデンやスペンダーといっ た新しい才能を紹介した。 また

Faber Book of Modern V

erse (1936) を 編 纂。 妻 Janet Adam Smith と と も に 登 山 愛 好 家 で あ り、 彼 ら の蒐集した膨大な登山関連書は

Oxford Mountaineering Library

の 基 礎 を 築 く。 一 九 三 六 年 か ら そ の 死 ま で、 ア ル パ イ ン・ ク ラ ブ 会員であった。    英 国 山 岳 詩 と い う ジ ャ ン ル は 興 味 深 い。 自 国 に 高 山 を 持 た な い 英 国 は、 科 学 的 調 査、 冒 険 的 登 山、 観 光 地 開 発 な ど さ ま ざ ま 面でアルプスに進出し、 一八五七年世界に先駆けてアルパイン ・ ク ラ ブ を ロ ン ド ン に 設 立 し た。 で は 山 を う た う 詩 の ほ う は ど う か と い え ば、 最 も 有 名 な の は ロ マ ン 派 の 詩 人 た ち で あ っ て、 彼

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一八 ら の 詩 は 登 山 黄 金 期︵ 一 八 五 〇 年 代 半 ば ~ 一 八 六 〇 年 代 半 ば ︶ 以 前 の も の で あ る。 ロ バ ー ツ も 本 講 演 で 触 れ て い る よ う に、 彼 ら の 詩 は 山 の 詩 で は あ っ て も 登 ﹅ ﹅ ﹅ 山 の 詩 で は な い。 黄 金 期 以 降 数 々 の 登 攀 記 の 名 作 が 生 み 出 さ れ た が、 小 説 や 詩 と い う フ ィ ク シ ョ ン・ ジ ャ ン ル に お い て は そ れ に 匹 敵 す る も の が 出 て い な い ことが本講演からはうかがえる。    ア ル パ イ ン・ ク ラ ブ 会 誌 で あ る The Alpine Journal に お い て も 詩 の 出 番 は ほ と ん ど な い。 ク ラ ブ 創 立 以 降 二 巻 出 版 さ れ て い た Peaks, Passes, and Glaciers ︵ 一 九 五 八 年、 一 九 六 二 年 ︶ を 引 継 ぎ、 ﹃ ア ル パ イ ン・ ジ ャ ー ナ ル ﹄ は 一 八 六 三 年 以 来 刊 行 を 続 け て い る が、 詩 が 顔 を の ぞ か せ る の は よ う や く 一 九 三 八 年︵ 第 五 〇 巻 二 五 七 号 ︶ に な っ て の こ と。 し か も 作 者 名 を イ ニ シ ャ ル で 示 し た 二 作 の み で あ る。 翌 一 九 三 九 年 の 五 一 巻 二 五 八 号 に ロ バーツの詩が一編 ︵

ʻThe Green Lake

ʼ ︶ 載せられている。つまり、 き ち ん と し た 詩 人 と し て は ロ バ ー ツ が ア ル パ イ ン・ ジ ャ ー ナ ル 初 登 場 と い う こ と だ。 本 講 演 録 を 掲 載 し た 五 二 巻 二 六 〇 号 に は、一九三九年に亡くなった弁護士・政治家の Alfred Hopkinson を 偲 ん で、 彼 の 書 い た 詩 が 一 編 載 っ て い る。 四 四 年 の Arnold Lunn ︵ 註 33︶ に よ る ワ ー ズ ワ ー ス 論 を へ て 次 に 詩 が 登 場 す る の は 一 九 四 八 年︵ 五 六 巻 二 七 六 号 ︶、 詩 人 と し て 名 を 残 し て い る と は い い 難 い H. C. A. Gaunt (1902-1983) の ソ ネ ッ ト が 六 編。 一 九 三 八 年 か ら 一 九 四 八 年 ま で は Henry Edmund Guise Tyndale (1888-1948) が 編 集 長 で あ っ た が、 編 集 方 針 と し て ど こ ま で 詩 の 掲 載 が 意 識 さ れ て い た の か は 不 明 で あ る。 本 講 演 で も 触 れ ら れ て い る、 詩 人 で 登 山 家 の Douglas W illiam Freshfield や Geof frey W inthrop Y oung は ア ル パ イ ン・ ク ラ ブ の 会 長 で あ っ た が︵ 註 25、 26参 照 ︶、 自 身 の 詩 を 単 独 で は 載 せ て い な い。 一 九 四 八 年 の 後 は 一 九 五 六 年︵ 六 一 巻 二 九 三 号 ︶ に R. L. G. Irving (1877-1969) の 詩 一 編 ʻThe Under Five ʼ が 載 る。 ﹃ ア ル パ イ ン・ ジ ャ ー ナ ル ﹄ は 登 攀 記 の 掲 載 が そ の 目 的 と は い え、 設 立 か ら 百 年、 ア ル パ イ ン・ ク ラ ブ に お い て 登 山 詩 は ほ ぼ 顧 み ら れ る こ と が な か っ た こ とになる。    山 岳 詩 研 究 で は Marjorie Hope Nicolson の Mountain Gloom and

Mountain Glory: The Development of the

(20)

一九   登山の詩とユーモア      ──一九三九年五月二日、アルパイン・クラブでの講演── (1959) が 有 名 だ が、 こ れ も ロ マ ン 派 ま で の 変 遷 を 追 っ た も の。 本 格 的 な 登 山 家 を も 納 得 さ せ る、 ﹁ ポ ス ト・ ロ マ ン 派 ﹂ と で も 名づけられるであろう山岳詩の研究がこれからの課題である。 2   登 山 家・ 写 真 家 V ittorio Sella (1859-1943) に ち な ん で 名 づ け ら れた山小屋。イタリアのグラン ・ パラディーゾ国立公園にある。 3   Grivola (3,969m) 。 4   W . A. B. Coolidge (1850-1926) 。 ア メ リ カ 生 ま れ の 歴 史 家、 登 山 家、 神 学 者。 グ リ ヴ ォ ラ 山 の す ぐ 隣 り の Punta Nera della Giovola (3,683m) 初 登 頂 を 成 し 遂 げ て い る︵ 一 八 八 八 年 八 月 八 日︶ 。 5   山 の 峰 な ど に そ そ り 立 つ 岩 峰。 も と、 ﹁ フ ラ ン ス 騎 兵 ﹂ の 意 から。 6   Punta Rossa Della Grivola (3,630m) 。 一 八 六 四 年 H. F. Montgomery 、 S. T aylor 、 J. T annler の 一 隊 に よ っ て 初 登 頂 が 成 さ れている。 7   十七世紀の地図に描かれた、 四千メートル以上といわれる山。 一八六〇年代に、実在しないことが証明された。 8   Thomas Hobbes (1588-1679) の

The Elements of Law Natural and

Politic

第九章︵

Of the Passions of the Mind

︶からの言葉。 9   Dorothy Pilley Richards (1894-1986) 。 英 国 の 登 山 家。 一 九 二 八 年 Dent Blanche 北尾根からの初登頂を達成。 Climbing Days (1935) は定評のある回想記。夫は I. A. Richards 。 10  

Cascade des Ignes

。スイス南部 Les Ignes (2,850m) にある滝。 11   Mrs Aubrey Le Blond ︵ 結 婚 前 の 名 は Elizabeth Haukins-Whitshed, 1860-1934 ︶。 ア イ ル ラ ン ド 出 身。 英 国・ ア イ ル ラ ン ド 女 性 登 山 家 の パ イ オ ニ ア 的 存 在。 一 九 〇 七 年 に ロ ン ド ン に 設 立 された Ladies ʼ Alpine Club 初代会長となる。 先述のヴィットリオ ・ セ ッ ラ と 共 に 登 山 も し て お り、 影 響 を 受 け て 山 岳 写 真 を 撮 影、 シネカメラで動画も撮影した。 12   Zinalrothorn (4,221m) 。 ス イ ス、 ペ ン ニ ネ ア ル プ ス 山 脈 の 山。 初登頂は一八六四年、 Leslie Stephen と

Florence Craufurd Grove

︵註 19参照︶による。麓の Zinal は北西、 Zermatt は南東に位置する。 13  

Lieutenant-Colonel Edward Lisle Strutt (1874–1948)

。英国の軍人、

登山家。アルパイン・クラブ会長

(1935-1938)

(21)

二〇 14   W illiam Martin Conway (1856-1937) 。 英 国 の 美 術 評 論 家、 政 治 家、地図製作者、登山家。 15   R. P . Hope (1873-1930) と W . T . Kirkpatrick (1858-1941) 。ガイド な し 登 山 の パ イ オ ニ ア。 よ く 二 人 で ペ ア を 組 ん で 登 っ た。 ホ ー プ は 軽 量 リ ュ ッ ク な ど の 登 山 用 品 を 開 発 し た こ と で も 知 ら れ る。 16   Harold W illiam (ʻBill ʼ) T ilman (1898-1977) 。英国の登山家、 冒険 家。 ヒ マ ラ ヤ 山 脈 に あ る イ ン ド 第 二 の 高 峰 Nanda Devi (7,816m) 初登頂は一九三六年。 17  

Edward North Buxton (1840-1924)

。英国の政治家、自然保護論 者。 18   Aiguille de Bionnassay (4,052m) 。モンブラン山群の山。バクス トンとグロウヴ ︵註 19︶ による初登頂は一八六五年七月二五日。 19  

Florence Craufurd Grove (1838-1902)

。 英国の登山家。 アルパイ ン・クラブ会長 (1884-1886) 。 20   Samivel ︵ 本 名 Paul Gayet-T ancrède, 1907-1992 ︶。 フ ラ ン ス の 作 家、詩人、イラストレーター、冒険家。 21   Refuge Félix Faure 。 現 在 の 名 前 は Refuge du Col de la Vanoise 。 フランス、ローヌアルプスにある山小屋。 22   ﹇原註﹈この一変奏は次の通り。    我 々 の 見 解 に よ れ ば、 カ タ ツ ム リ︵ ヘ リ ッ ク ス・ ソ マ テ ア ︶ に は 実 際、 二 つ の 好 ま し い 特 徴 が あ る。 そ れ は 吸 着 力 と 可 視 軌 跡を残す能力である。    第 二 の 能 力 は、 霧 が 起 こ っ た 場 合 で も カ タ ツ ム リ の 一 隊 の 帰 還を容易にする。    第 一 の 能 力 は、 垂 直 ま た は オ ー バ ー ハ ン グ の 表 面 が 滑 ら か な 岩壁を登るのに計り知れぬほど貴重である。    し か し 経 験 が 物 語 る に、 氷 河 の 上 で は カ タ ツ ム リ は 駄 目 で あ る。 冷 た く て 殻 に 引 っ 込 ん で し ま う の で あ る。 い か に 説 得 し よ う と も、 強 制 し よ う と も 殻 か ら 出 て こ よ う と は し な い。 中 国 人 登 山 家 が、 カ タ ツ ム リ が 進 め る よ う に、 前 も っ て 氷 河 の 表 面 に 何 か 細 工 を し た ら よ い の で は、 と 提 案 し た が、 こ れ は 金 が か か る し 現 実 的 で は な い。 な に よ り も フ ラ ン ス 式 登 山 の 伝 統 に 反 す る。

(22)

二一   登山の詩とユーモア      ──一九三九年五月二日、アルパイン・クラブでの講演──    逆 に、 興 味 深 い 結 果 が 得 ら れ た の が、 カ タ ツ ム リ を 利 用 し て 岩 を ど け る と い う 方 法 だ。 大 砲 で 岩 を 吹 っ 飛 ば す よ う に。 あ る 重 さ の 岩 を 動 か す の に 必 要 な カ タ ツ ム リ の 数 は 次 の 公 式 で 求 め られる。 n=   (t× a3 )y 3 /π+ k 。 k は岩の湿度を示す定数。 23   Alfred Denis Godley (1856–1925) 。 英 国 の 古 典 学 者。 ユ ー モ ラ スな詩を書く詩人。 24   James Reeves (1909-1978) 。英国の詩人、 劇作家、 児童文学作家。 25   Douglas W illiam Freshfield (1845- 1934) 。 英国の弁護士、 登山家、 作家。 アルパイン ・ ジャーナル編集長 ︵ 1872-1880 ︶。 アルパイン ・ クラブ会長︵ 1893-1896 ︶。 26   Geof frey W inthrop Y oung (1876-1958) 。 英 国 の 登 山 家、 詩 人、 教育家。アルパイン・クラブ会長︵ 1941-1943 ︶。 27   ゴドレイの詩、 ʻSwitzerland ʼ からの句。 28   Charles Stuart Calverley (1831–1884) 。 英 国 の 詩 人。 ʼThe

university school of humour

ʼ と呼ばれる一群の始祖的存在。

29

 

James Kenneth Stephen (1859-1892)

。英国の詩人。 30   John T yndall (1820–1893) 。 ア イ ル ラ ン ド 出 身 の 物 理 学 者、 登 山 家。 チ ン ダ ル 現 象 を 発 見、 ま た、 ア ル プ ス 山 脈 五 番 目 の 高 峰 ヴァイスホルン初登頂︵一八六一年八月十九日︶ 。 31   Devil ʼs Kitchen 。 ウ ェ ー ル ズ の ス ノ ー ド ン 地 域 に あ る エ ガ ル ン 山︵ Y Garn, 947m ︶ と グ リ ダ ヴ ァ ウ ラ 山︵ Glyder Fawr , 1,001m ︶ の間にある岩の割れ地。 32   Frederic W illiam Henry Myers (1843–1901) 。 英 国 の 詩 人、 古 典 学 者、 文 献 学 者。 ま た、 英 国 心 霊 現 象 研 究 会︵ the Society for Psychical Research ︶設立者。 33  

Arnold Henry Moore Lunn (1888–1974)

。英国の登山家、スキー 家、作家。アルパイン ・ スキー ・ クラブ設立︵ 1908 ︶。スラロー ム・ ス キ ー 競 技 の 発 案 者。 登 山 関 連 の 著 作 多 数 だ が、 な か で も A Century of Mountaineering 1857-1957 (1957) は重要作。 34   Dr . Greenfields 。不詳。 35   Mer de Glace 。アルプス山脈、モンブラン北壁にある氷河。 36   Matterhorn 。 ア ル プ ス 山 脈 の ス イ ス と イ タ リ ア に ま た が る 山 ︵ 4,478m ︶。

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二二 37   テ ニ ス ン の 詩 は ʻThe Daisy ʼ 。 Monte Rosa は ス イ ス で 最 も 高 い 山︵ 4,634m ︶。 38   Matthew Arnold (1822-1888) の ʻRugby Chapel ʼ は Rugby School 校 長であった亡き父親に思いを馳せる詩。 39   Nanga Parbat は ヒ マ ラ ヤ 山 脈 の 山︵ 8,125 m ︶。 パ キ ス タ ン の ギ ル ギ ッ ト・ バ ル テ ィ ス タ ン 州 に 位 置 す る。 一 九 三 七 年、 Karl W ien 率 い る ド イ ツ 隊 が 登 頂 を め ざ す が、 雪 崩 に よ り Hans Hartmann を 含 む 七 人 の 隊 員 と 九 人 の シ ェ ル パ が 死 亡。 初 登 頂 は 一 九 五 三 年 七 月 三 日、 ド イ ツ・ オ ー ス ト リ ア 隊 の Hermann Buhl による。 40   John Ball (1818-1889) 。アイルランド出身の政治家、 博物学者、 登山家。 アルパイン・クラブ初代会長︵ 1857-1860 ︶。

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