共
同 研 究
申
国
の
居
留 地
と
租
借
地
に
お
け
る
浄
土 真 宗
本 願 寺
派 開 教
と 日
本 人
子
弟教
育
研究主 任 研 究 員 研 究 員 研究員 研 究 員 研 究 員 研究員 研究 員 研 究員 研 究 員勝
臣
夫
水
江
生
風
若
規
眞
謙
幹
英
友
青
樹
@
斗
搗
陳
畑
馳
艦
郭
張
王
鹹
ガ は じに われわれ の共
同
研究は,工999
(平 成11
)年度と2000
(平
成12
)年
度に 「戦前 の中国お
ける 浄 土 真 宗の開 教 と 日 本入
子 弟教育 一青島と大連
を中心に一」 の主題で遂
行さ れ , 『 教 文 化 研 究所紀要
』第39
集 ・第40
集
,2000
(平成12
)年11
月・2001
(平成13
)年ll 月,に の成果 を公 表した が, 今 回はそ
の延長と し て , 「中 国 の居 留地と 租借 地」に 範 囲を 拡大 し 実施す るこ と にな
った。2001
(平 成13
)年8
月には天
津 市,2002 (平 成14
) 年9
月に は武 市 (当
時は「漢 口 」 )を訪 れ て, 現 地史料を 蒐集する とともに 今な お 僅か に残 る当 時の
景 を眼 に した が,中 間報告 的 で はあ る が「漢 口」に しぼ って共同研 究の 成を
ここに
収めた い 。 まず, 柴田 幹 夫 研 究員が「漢 口 の歴 史的位置づ
け
と本願寺 」と 題して 「 漢口」 と い う 街の 主と して 歴史的意 味を「 物の流 れ」
を軸 に 論述 し, 次 に 野 世 英水研 員 が 「真宗本願 寺 派の 武 漢開 教 と漢 口 本願寺」と題し て
, 漢 口本願
寺 の 足跡
を 分析・ 記述 る 。 そし て , 小島 勝が「 漢 口 明治尋
常 高 等 小 学 校の 特微 一外
務省外 交史料館
史 料と『 教海
瀾』をもと
に 一」と 題 して, 漢 口 本 願 寺 が 開校 し た「 漢 口 明治尋 常 高等
小学 校 」 の 日 本 学校し
ての特
徴について 論じる
。な
お, 柴田論 文 の 「1
−1
漢
口 の 歴史
的位置
につい
」 と 野 世 論 文 の 「1
. 武 漢 ( 漢 口 )中国の居 留地 と租 借 地における浄土真 宗 本 願 寺 派 開 教 と日木 人 子弟教 育 の地理的歴史的 性格」 は
一
部 重 複して い る が,
そ れ ぞ れの論 調を尊
重 して その ま ま掲 載 するこ とにし た.(
小 島勝
)
1
漢
口 の
歴 史
的位 置
づ
け
と
本 願寺
明 治
39 (1906)
年10
月24
日, 本 願寺
の 法 主 大 谷 光 瑞は,
上 海・
蘇
州・
九 江を経て漢口に到着
し た1) 。 中 国 開 教の拠 点を定め る た め であっ た。 その後
漢口本 願 寺 設立の た め に派遣 さ れ た 田中哲 厳は漢口 の様 子を次の よ うに語っ て いる 「漢ロ本願寺
の 当地は現 今80
万余
の 人口を有し 且つ 将 来 甚だ有
望に し て支 那 本部に布 設せ られた く若 くば将
に布
設さるべ き鉄 路及び長江を上 下 する各船舶
は必ず 此地に輻
湊 すべ き を以て貨 物の 聚 散 人 馬の往復
陸 続 頻 繁の地と相成 り……
日下の上海の 夫れ よ り優
る と も劣
る ま じく 支 那 木 部その 他の地の最も枢 要の 地点と相 成 り本 派本願 寺が 経 営 する開 教 事 業は 明に緑 叢 中の紅一
点と な り優に一
大 光 彩を放つ もの……
であ る 」2)。
漢口が 大 谷 光瑞
の 見た と お り将 来に わた っ て 浄土真
宗の 中 国 開 教の中心 地にな る とこ ろであっ た。
1899
年 大 谷 光 瑞は初めて中
国を訪
れ た。 その 際に選んだ ところ は漢口であっ た。 彼が漢 P を選
んだ 理 由は い っ た い何であっ たの か。 私はかつ て大 谷 光瑞
の外遊
目的が, 「国 家の前 途と宗教
の将 来とに付い て深 く考ふ る所ある に 因る」もの で あっ た こ とに着
目し て,
次の ように考え た。 「武漢は長江中 流 地に お ける最 大の都 市で あり, ま た交
通の 要 地で も あ る。い わ ば中 国の 心臓 部 といっ て も差し支 えないで あろ う。 日本を始め列 強 各 国が先を競
っ て こ の地に租 界を設 けた 理 由も そ こにある。 こ の 心臓 部に くさ び を打ち込 む こ とに よっ て,
北か ら,南か ら,
ある い は束か らの情 報を容 易に手に入 れ るこ とが で きると考えた か らで あろ うか。
こ の よ うな地 政 学 的 見地 から, 武 漢を押さえてお くとい うこ と は当然考え られる選 択 肢で あっ た 」 3) 。つ ま り武 漢(
漢
口)
の 地 を押さえて お くこ とに よっ て,
中 国 各地に開 教 基 地を作る こ と が 可能であ る と考え たの で あろ う。 そ れはま た入の流 れや物の 流 れを十 分に 熟知 してい る か らこそ言えた の であろ う。本 稿は, 漢口 の重要 さ を 歴
史
的に, ま た物
の流れを追 っ て 考えようと したもの である。1
漢
口 の歴 史 的 位置
に つ い て(
1)
漢 口 の歴 史 的 沿 革漢口 の地は, 漢 陽
・
武 昌とは違
い, 武漢三鎮の地でありな が ら,
その 歴史 的 沿 革は異な る。 漢 陽・
武 昌は隋,
唐 時 代よ り,
地域の 中心 地であっ た が,
漢口 に至 っ ては, 開 港まで一
漁 村に 過 ぎず,
開 港後,
漢 陽・
武 昌を凌
ぐ よ うになっ た とい う。
夏の 時 代にあっ て は
,
武 漢一
帯の 地は,
三苗の故地 とし て知ら れ,
苗 族の根 拠 地であっ た。
周の 時 代は荊 洲に属し た。 周 末の 天 下大 乱時
期に は, 七 大 国の一
つ で あ る楚の 支配する と こ ろ (52 )中国の居 留地 と租 借 地に おけ
る
浄 土 真 宗 本 願 寺 派 開 教と日本 人 子 弟 教 育 となっ た。
秦が統一
するに邪の管 下と な り, 両 漢に は, 江 夏 郡に編 入された。
三 国 時 代を経て 孫 権が都を武 昌の 地に遷す こ とに よっ て,
中 国 中央 部の要衝
の地 と な っ た。隋
代tr
こは江 夏郡 と な り,唐
代におい て は, 太 宗の地 方 制に よ り, 武 昌は江 南西道に属し,
鄂 洲となり、
漢 陽・漢
口 は淮常道に属し,
巧湖
と なっ た。
五 代には再び武 漢三鎮は荊
洲 とな っ た。 宋 代になる と,
荊 湖 北路に な り, 元代に は武 昌に荊 湖省
が置
かれた。 その後
湖 広と改め,
武 昌は湖 北, 湖 南,
広 東, 広西四省の首 都となっ た。 明代
に は広束
, 広西は 分離
し たが, なお湖 北,
湖 南両省の音
都 であっ た。 清の康 熙 時 代に は湖 広を湖 北,
湖 南に分
け,
湖 南長沙に巡撫をお いた。
近 代に 入 りアヘ ン戦 争
後,
南 京 条 約の締 結に よ り、
中 国の港は漸 次 開 港を余儀
な く さ れ た。1843
年をこ上海が開 港された。
そ して 長江 沿岸
を遡 及 するよ うに,
鎮江,
南 京,
蕪 湖が相 次い で 開港
し,1861
年に至 っ て漢 m の 開 港 となっ た の で ある。 武 昌・
漢 陽に後
塵を拝
し た漢口はこ こ に 至 っ て人 口八 十 万 を擁 する大 都 会 となっ た の である。 さらに 日清戦争後
重慶
が 開 港さ れ たの で,
四川の 物 資が長 江を 上 り, 漢口に集まるよ うになっ た。 その上, 京 漢, 粤 漢 鉄 道の開 通に よ り益々交通の便
も発
達し,
漢口を中心 と して,物資
な どが四方八達し,
中 国 内地に おけ る重 要 都 市の位 置を占め た の で あ る。「両 湖饒れぽ天下 足る 」 とい われた湖 北
・
湖 南 両地域は米を 主要な生 産物
に し て,
茶,
綿 花, 桐 油, 胡 麻 油,
豆類,牛
皮, 烟 草, 獣 皮, 麻,
生糸, 木
臘鉄
, 薬材,
小麦
な ど を産
す る4) 。 これらの農 産物
は長江の 本 流と, 長 江に注 ぐ諸 河 川つ ま り中 国一
八省の うち九 省を通 っ て きた水が 漢口に注 ぐとい う「九 省の会」 とい わ れ るぐらい 地勢
的に恵ま れ た ところに集 散さ れ た。 近 郊の 大 冶県の 石炭や 江 西省萍
郷 県の鉄鉱
石 を用い,
ま た豊 富な水 量を利 用し て重工業 が発達
し た。湖
広 総 督 張 之 洞(
1837〜1909)
が創設に関わっ た紡
紗 局,織布
局(
武昌)
や鉄 政 局 兵工廠(
漢 陽)
,漢
口に は燮 昌燐 寸 製 造 所な ど が設立 さ れ た。 その結 果当 地は 「東 洋の シ カ ゴ」 と も称さ れる よ うになっ た。
(
2
)
鉄 道の要地北 京か ら広 東まで 中 国 縦 貫 鉄 道の 観を 呈 し てい る の が
,
京 漢 鉄 道(
廬溝
橋か ら漢冂)
で あ り, ま た広 東から漢口 ま で は粤
漢 鉄道
が走っ てい る。
ま さ に 申 国の 北と南を繋 ぐ大 動 脈で あ る。
その 中 継 地が漢口 である。京 漢 鉄
道
は 全 長お よそ1300
キ P メー
トル あ り,
漢口 と北京を 結 ぶ もの である。
こ の 鉄 道は中 国 自身 自ら経 営せ ん とした もの であり, 湖 広 総 督 張 之 洞の発議
に よ り1895 (
明 治28)
年に線 路 の測 量を始めたが,莫
大な費
用がか か る た め に,中
国側
でその費
用を 工面 するこ と が出来 ず, 湖 広 及び直 隷総
督はこ の鉄
道を担 保に し て, 外 債を募
集し た。 こ の外債
に応 募した ベ ル ギー
の シ ンジ ゲー
トの 間に借 款 契 約 が 成 立した。
粤
漢 鉄道
は元来
ア メ リ カ に布 設 権があっ た が,
の ちに中 圏側が 回収し て両 湖 及び 広東に 鉄 道 を敷 設 するこ とになっ た。 広 東 区 間は順調に 工事
が進
んだ よ うである が,
湖 広 区 間は資 金不足 の た め,
布設する こ とが出来
なか っ た。
そ こでまた鉄 道を担保
に し て.
四国銀行団 か ら借 款 (53 )中 国の居 留 地 と租 借 地に おける浄土真 宗 本 願 寺 派 開教 と日本 人 子 弟 教 育 し
,
欧 州 市 場に公 債を売 り出し た。こ の粤 漢 鉄
道
の 完成に よ り, 香 港や広 東を通じて 輸入 さ れる海 外の物 資 もこ の漢口に集 散さ軸 f 弦 it
_
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鵬 坦 U 丿1亠 鳳 V出 皿’
、
向上 して きた の である
。
2
租 界地
と し ての漢
口「国 中の 中の 国」 と 言 わ れ た租 界は
,一
般 的に言 うな らば, アヘ ン戦 争 後に中 国各 地に 形 成 さ れ たが,
半 植民 地 と なっ た 近代中
国の一
つ の 特 黴 とい えよ う。
アヘ ン 戦 争は
,
イ ギ リス が武 力を用い て,
中 国の鎖
国体
制を打ち破っ た が,
その結 果 とし て, 上海な どの 五港を開 港せ し め, 中 国の 内陸部にあ る漢口にも 触 手 を伸ば し,
租 界地 と して 開辟 し た の である。漢口租 界は上述し た ように, イ ギ リス が
1861
年か ら当 時の清 国政 府か ら半 永久的に土 地 を割 譲させ たの が始ま りである。
イギ リス 租 界は中 国人街と接し て お り, ま た長江に面 し て い るな ど,商
業上,貿
易上, 好 位置
に あ っ た。他の国々 ドイツは
1895年
に,
ま た フ ラ ンス,
ロ シ ア は1896
年に租 界の 権 利を獲 得し,
長 江 沿 い に租 界 地を形成 した。
と くに 日清 戦 争 後の三国干 渉に感 謝して,
ドイツが租 界地を要 求し た ζとに対して.清
政 府が早 速そ れに応えてい るほ どであっ た とい う5)。日本租 界 もま た 上述の 国
・
婦こ続い て, 長 江 沿岸
に並 ぶ よ うに形成さ れ た(
図1
参 照 )。 日本 の漢口に おける租 界 権 利は,
1898
(明 治31)
年 図1
漢口租界 全 図 に 日清 両国に よっ て協 定された もの である。 以 下その 協 定 文を少し紹 介し よう。
漢 口 口本 居 留地 取 極
書 (
外 務 省 告示第24
号1898
年12
月6))
「日本 居 留地は
,
漢口鎮
独 逸国居 留 地の北隣
よ り起る。 其 東 界は,
揚 子 江に沿ふ こと百 丈
(
筆者注一
丈は十尺で お よ そ3.2
メー
トル
)
,
南 界は,
東の方 揚 子 江 沿 岸よ り起り, 独逸 国居留地
境
界に 沿ひ、
西の 方 鉄 道地界迄, 西
界
は鉄道地界を 以て 境と な し,北界は
東
界の 北 端なる揚子江 沿 岸よ起 り,酉界の 北端な る 鉄 道 地界 迄 直 線
(
此直 線は南界
線
と平 行 すべ し,
傾 斜 するを得ざるもの とす
)
を 画きし界 内を 日本専 管 居 留 地と為し
.
此 取 極書
を定め たる后,
員を 派 してノ
日 (『中 国租 界史』 より転 載 ) (54)中困の思 留地 と租借地における浄土真宗 本 願 寺 派 開 教と 日本 人子弟教育 立 会ひ界 漂 を設 け くぺ し 」
「右 界 内の 道 路
,
隰塘,溝
渠,
波 止 場 及警
察の権は,
日木 帝国領事
に属し, 又其 道 路 提塘
,
溝 渠,
波止場は 日本帝
国領
事に 於て法を設 け,
修 築 するもの とす, 道 路, 堤 塘, 溝渠 公 共 用の地 内に若し官 衙
官
地あ れ1
ま, 借 地 料, 租 税を免 除し 又民地 な れば借 地料の み を交 付し, 租 税を納 むるに 及ばず」 な ど
,
こ のよ う な取り決めがあっ た。
こ の漢口 日本 居留地取 極 書が締結 さ れた翌
年
に大 谷 光 瑞は漢口を訪れて いる。
光 瑞に 同 行 し た上 原 芳太郎の 記 事に よ る ど「漢口
此地は , 長江漢 水 合 流 点に在 り。 古は漢 陽の
一
部 落に過
ぎざ り し も,今
は湖 北有
数の 市 とな りて,
漢 陽共に州の首府た る武昌と鼎 峙の姿を な せ り。
此 地を貿 易 場と注 目せ し は,
仏 国宣 教 師ヒ =・
一
ヌなるもの也。1861
年,開
放せ ら れ,英
国居 留 地は市の西 端に在り。 城 郭は髪 匪(
筆 者注,
太平 天国の 乱の こ と)
の 時, 築 城せ るもの。 又居留
地の街 衢は広 くし て, 江 岸に沿へ る延長半哩 あり。
加 督 教の大 会 堂 あ り.
又 プロ テ ス タ ン ト,希
臘 教会堂 あ り。希
臘 教会堂は露 国の レジデン トの 手に よ りて成 れ り。 又,
露 国居 留 地に は,
露 人の経 営に か か る団 茶 製 造 所あ り。
此地の人口80
万 と称
す。 対 岸,
漢陽
に は鉄 製 局 あ り。
此地 よ り茶の 輸 出 高,1897
年に於て,
41 万0019
ビ クル ,醇
茶48
万3
工92
ビ クル 也。 又,鴉
片 の 輸入高は97
年に於て518
ビク ル, 如 此 少 数な るは, 此地に産
出 品 ある故也。
97
年
の貿 易 総 高 は4972
万630
両 也……
(
中田各)……
猊 下 (筆 者 注,
大 谷 光瑞
の こ と)
は磚 子に て、
余 等は少舟
にて領 事 官に随 行。
該 館は英国 居留地の 中にあり。 領 事の束 導に より 日本居留地 を見る。 英 租 界の北 隣は露
の租 界に し て,
有 名な る磚
茶 製 造所あり。
又 多 少の 商 館 あ り。其
北は法(
筆
者 注,
フ ラ ンス)
租界
。 これは英
露の如
く建
造物
あるを見ず。
又,
道 路も未
だ整頓
せず。
此 地に来
る時,
驟雨 あ り。’
城壁の 廊 門 内の 関 帝 廟に避け, 須臾
に して 小 降となるを以て 発 す。
法 租 界 の 北 端は漢口城 郭に し て一
門 「通済
」 と名く 。 又 「漢 南 雄 鎮」 と遍 す 門を出れば, 独租 界 江 に沿へ る長さ300
丈。
此 を 過 ぐれ ば,
我 居留地 也7)」 と記してい る。
往 事の 日本 租 界の様 子が窺 わ れよ う。
ただ この 時は 租 界 設 置 後まもな くに し て,
日本人の数も ま だ そ れほど多くな く,
領 事 館や旅 館, 貿 易 商社,
武備
学堂の 日本 語 教師 ぐ らい であっ た。 し か しな が ら,
こ の 地の 重 要 性をい ち早
く感じ取っ たの は,
大 谷光瑞
で あっ た。 彼は こ の地こそが中 国 大 陸にお け る本願寺 の拠 点である としたの である。その
後,
1906(
明 治39
)年
, 本願 寺の布
教 所が設 置され, ま た翌年に は 日本人 小学 校.
幼稚
園,青
年や 学校な ど が本 願 寺の手に よっ て創
設 さ れて い るB)。 日木 人の増 加に と も なっ て, 生 活 方 法 習慣
な ど も 日 本 と同じよ うになっ て きたの である。
寺 院,
学 校の設 置な ど が そ れ を如
実
に示 して い る。 又 口本租 界の 拡 張な どに とも なっ て.
人 口 も増加 し「
郵 便 局や 新 聞 社,
銀 行,
商 社.
商 店,
工 場 な ども新しく作 られて い っ た。 当 時の 大 阪 毎日新 聞の記 事に は 「当 租 界 内には 三菱 公司,
高 昌公 司,
本願 寺,
菜 市場,
日本 人 倶 楽 部, 倉 庫,
貸 家 等の 建 築 物は既に落 成せ る もの又は 工 事 進 行 中の もの たるを問はず 建 築工事は非常
に旺 盛 な り。如
斯趨勢
な れば 当 租 界の 経 営を了 りし部 分は遅く も本 年 末に は一
空 地を見ざる に 至 るべ し 。 前 記の如き家 屋建築
(55 )中国の居留地と租 借 地に おける浄 土 真 宗 本願 寺 派 開 教 と日本 人 子 弟 教 育 に
伴
ひ 従来
他 租 界に住 居せ し邦人 も来住するもの 多 く落成 し た る家 屋は殆んど 空 地 を見 ざる盛 況 な り。 尚 料理店 飲食
店も本 月 中に は転住する もの 多か る べ し9)」。
とある 。 ちなみ に1906(
明 治39
) 年当 時,
漢 口に おける在 留 邦 人の 数は,66Q
名であっ た とい うが, す ぐさま600
名の増
加 が あっ た とい う10)。 その後漢
口 の貿
易 高が益々増 加 する に 従っ て, 邦 人の 数 も漸 次増 加してぎ た。1914
(大正3
) 年に は,
1380
人の 日本人が漢 口 に住ん でい た 11 ) 。 こ の 数は租 界を設 置して い る国の 中で は最も多い もの であ っ た。
さて こ こ で人 口が急激に増加 し た
,
囲治38
年 前後
の 漢口 とH
本との貿 易 額を見てみ よ う。 (表1
)丶.
….
一
一
一
.
_.
一
年 商最丶.
一
一
一
一
一
一
一
_
一
一
_
1
明治36年 銅 塊 789,
338(両 ) 明治37年 綿 製 品 2,
589,
674(両 ) 93,
400 173,
505 1,
059,
484 明 治38年 海 産 物 石 炭 燐 寸 とその材 料 綿糸 擬 洋 紙枕木 総 輸入品価 額 7,974,
198(両) 65,
394 955,
301656,
834172,
799 10,
157,
380 662,
53e 454,73。一
「
328
,
320 161,
174 6,
701,040 106,
883 13,640,2229,
18840,
0eo
11,
793,
479 140,
772 4,
991,
20412,
089616 ,648
15,
124,
406 水野幸 吉r
漢口』 (冨 山房1907年 )より作成こ こ に
挙
げた製品は 日本か らの 主な輸入 品 目で あるが,
東 洋の シ カ ゴ と呼ぼ れ た漢口 で主に 加エ されて ま た 世界 各 国へ輸
出 さ れ たの であっ た。
次に漢口 か ら日本へ 輸 出された主な品
目を 見て み よう。
俵ll
) 品 名 単位 棉 花 擔 皮.
豆 牛 大 棉 実 麻 類 擔 石 擔 擔 生漆
擔
一
__
i一
豆 粕 擔 直 航60,
0005
,
00060 ,000130
,
000 ユO,
OOO2,
000
鶏 卵85,
000 個 上海 経 由 1,
500,
000 合 計 単 位の平 価 210,
000 15両 総 価 額 35,
000 40,
000 3,
150,
000
両 31両 500,000150
,
00050 ,000 560,
000 石は130斤2両 280,
00060,
000
1両 12両 1,
240,
OOO3,
000 1,
120,
000 5,
000 200,
000
285,000
20,
000,
000 20,
000,
000 280,
000720,
000
47両 235,
000 1両2
匁342,
OOO
5文 100,
000 (56 )中 国の居 留 地 と租 借 地にお け る浄土真宗本願寺派 開教と 日本 人子弟教育 鉄 鉱 銑 鉄 猪 毛 植 物 油 木 蝋 噸 90
,
0GO 噸 擔 擔 擔 菜 種 子 屠 繭 屠 糸 石一
擔 擔 3,
145 1、
GOO 5,000
5002,
00050,
000 6,
0005,
00090
,00
茴 麻 石 膏 擔」
5・°°° 擔 3
,
000 合 計 3,
1455003 ,00050
,
0005,
0DO6,
0005
,
00015,
00010
,
000 20,
00013,
000 ・両・刈
・・6・
… 26両 160両8
両 10両 2両27
両 26両 4両 1両 81,
77080,
00024
,
000500,
OOO10 ,OOO162
,
000130
,
00080 ,00013,
000 8,
4850770 水 野 幸 吉 『漢口』 (冨 山房,1907
年 )より作 成こ の
2
つ の輸
入・
輸
出額を比 較 すると,
輸入超 過とい うの が よ く わ か る。 長江の 水 運を利 用 して 日本の汽 船会社な どは多くの貨 物と人 間を運んだの であっ た。 こ の よ う な人の 流れ,
物の 流れ を大 谷光瑞
は き ちん と理解し てい た の であろ う。彼
がこ の 地 を開 教の 拠 点とし た理 由は,・
漢口 こそが ま さに中国の 中心 地 であ り, 将 来の 発 展を見 込んだ ため で は なかろ うか。
註 1) 鏡如上人七 回忌 法要事務所編 r鏡如上人 年 譜』1954年,
42頁。
2 ) r教海一
瀾』335
号,
明 治39年11月。 3 )拙論 「大 谷 光 瑞 初め て の外 遊」 r東 洋 史 苑』50・
51号 1998年,
99頁。 4) 水野幸吉『漢口』冨 山 房1907年,
101頁。 なお水 野幸 吉は 漢 口総 領 事であ り,
大 谷 光 瑞の理解者で もあっ た
。
日本に一
時 帰 国 した とぎに,
西 本 願 寺 を 訪れてい る。
『教 海一
灘』 (351号,
明治40年2月)
は この時の様 子を次の よ うに伝えてい る。
「清 国 漢口領事水 野幸吉 氏は
,
東上の途 次 同 夫 人 同伴 VLて
,
両 堂参拝の為 去る20日午 前11時 来1⊥1せ られ しに付, 賛 事木村 省吾,
注記 補 鎌田正 観の両氏 出迎 はれ
,
黒 書 院に休 憩,
次で淳 淨 院殿 (筆者 注大谷尊重の こ と, 光 瑞の弟)並に武 子 様 (筆 者 注
のち
の九条 武子の こと
,
光瑞の妹)御会見 種々の御物語 あり……
領 事は其厚 遇に感 謝し て帰館せられ た り・
…
卩
」0 5 )費成康 r中国 租 界 史』上海 社 会科学 出版 社35頁。 エ992
年。
6 )ここで は水 野 幸 吉 『漢口 』 に よっ た。
冨山房,
1907年。 7 )上原 芳 太 郎 「南 船北 馬1r 外 遊 記 稿』所 収。 こ こで は 白須 淨 眞 「上 原 芳 太郎r
外 遊 記 稿』所 収の 「南 船 北馬」 「龍谷史壇』 ユ03 ・
104号,
1994年に よっ た。 8)田中哲厳編 著 r漢口本願寺創建顛末』 2頁。 発 行 所 並びに発行年月不明。
9 ) r大阪毎日新 聞』1909 (明治42 )年9月30日号。
10) 『教 海一
瀾』335号, 明治39
年11月。 11)日清 汽船株式会社 編 『漢口事 情』 出版 社 不 明,
奥 付には印刷 所は東 洋 印 刷株 式 会社とある。 1914年,28頁
。
こ の 日清 汽 船は 白岩 龍 平に よっ て創設さ れ た船 会 社で あ り,
漢口のイ ギ リス 租 界 内に本社
が あ、
(57
)中 国の居 留 地 と租 借地における浄土真宗 本 願 寺 派 開教と 日本 人子弟教 育
っ た。 その堂々 とし た建物は, 現 在 も残 されてお り
,
武漢市の保護建築 物になっ てい る。小 論 を作 成 するにあたっ て
,
第1章は 全般にわた り,
水 野幸吉 『漢口g,
日清 汽 船 編 『漢口事 情』を
,
第 2 章は費成 康 r中国 租界史』を参 考に し た。 〔付記 〕脱稿後, 孫 安 石 氏の 「漢口の都市発 展と 日本 租 界につ いて 」 (『人 文 研 究』149
,
2003 神 奈 川 大 学 人 文 学会)とい う論 文を閲 する機会を得た。
外交史 料 など を用い て漢口 の 日本 租 界の分 析を試みて いる。 参 考 に できなか っ たのが残 念であるが, こ こ に紹介 する次第である 。(
柴田幹 夫
)
皿
真 宗 本 願 寺 派
の
武
漢
開
教
と
漢
口
本
願 寺
本 稿で は
真
宗 本 瀬 寺派の武 漢 開 教につ い て,
そ れ を真 宗 本 願 寺 派 漢口出 張所の 沿革
と活 動 状 況 を 通して考 察してゆ くこ と としたい。
こ の真
宗 本 願 寺 派 漢口出 張所すな わち漢 「コ本 願 寺1)に 関しては,
これまで にま とまっ た考 察は な さ れて い ない。
ま たこ の 漢 口本 願寺につ い て論じる 場合,
い ま だ史 料上 の 制 限があるこ とも否定する こ とがで ぎない。
しか し な が ら 本共同研 究で は2002
年9
月に武 漢へ 赴 き 調 査を行い,
何 度か所 在 を変え た漢口本願寺
の建
物 跡は確 認で き な か っ た もの の,
武 漢 大 学の牟 発 松 教授は じめ諸 先 生 方の ご協 力をい ただ き, 文 献 史 料や当 時の詳
細な日本 租 界地図な ど を 入手 するこ と がで き た。 また国 内に お い ては漢口本 願 寺設立時よ り の駐 在である 田巾哲 巖2)編 述に よる 『漢口木 願寺 創建顯 末 』3)が残さ れてお り,
また外 務 省 外交
史料館
蔵の 漢口本 願 寺 関 係 外交
文書
も 本共 同 研 究の柴田幹 夫 研究
員の ご尽力に より入 手 する こ と がで ぎた。
こ こまでは まず武 漢(
漢口)
と い う都市の地 理的 歴 史 的 性 格の.
一
端につ い て窺
っ たの ち,
現 在ま で に入 手で き た史 料にもとづ き漢口本 願寺
の 沿 革と活 動 状 況につ い て考 察し てゆ くこ と とし たい 。1
武
漢 (
漢
口)
の地
理的
歴史 的 性
格
長江中 流 域に位 置 する武 漢は, 長 江 東
岸
の 武昌と長 江へ と注 ぐ漢 水 河口 をは さ んで 南の 漢 陽,
北の 漢 口 とか らなっ てい る。
俗に武 漢三鎮 と もい わ れ るよ うに,
武漢は これ ら三 者が一
体
と なっ た合成都 市ともい えるもの で ある。
ま た武 漢は東 西 南 北の水運の ク 卩 ス ロー
ドを な す 地 で も あ り,
中でも漢口 は1858 年の 天 津 条 約 以 降に開港され,
外 国の商 社や資 本が進出 し,
さ ま ざま な商品が 流 通 する一
大貿
易港と なっ て いっ た。1890
年 代にはこ の地の 総 督に就 任した張 之 洞(
1837〜1909)
に よっ て 急 速に 工業 化が進め られ,
北 京 と漢 口 と を結ぶ京 漢鉄 道 や 広東と武 昌と を結ぶ粤
漢 鉄 道の 敷設 もは じ め られた。
こ の ように武 漢は水陸に わ た る交 通の要衝と して 北 京.
蘇 州.
広州と な らぶ大 都 市へ と発 展し てい っ た が,
特に漢口は 内 陸 部に おけ るエ ンポ リ アム(
商 業 中心 地)
と して 百万 都 市 化 し てい っ た4)。ま た こ の武 漢の地は古 来 「九省の会」 とも呼ばれて お り
,
その ヒ ン ター
ラ ン ト (後 背地)は (58 )中 国の居 留地 と租 借 地に おける浄土真 宗 本 願 寺 派 開教と 目本 人 子 弟
融
育 中国の 中 央 部 九 省の広 大な地域に及ん で いる。
こ とに武 漢をは さんで 南 北に位 置 する湖 南, 湖 北の両 省は農 産 物に富み, 「両 湖 饒れば 天下 足 る 」 と もい わ れ た とこ ろで あっ た。
さらに 政 治,軍
事 面に お い て も重 要地であ り, 「中京 事あ れば武 漢の地先 ず 乱る 」 ともい わ れ, 「之を得る者 ぱ興 り之を失う者は亡ぶ」 とま で評さ れた とい う5)。
事実,
辛亥革
命は1911
年10
月10
日の 武 昌 での 蜂 起を発 端とし て各 地に 波 及し, 翌年
の 中華
民 国の成立へ とつ な がっ た もので あ り,
ま た1927
年の一
時 期, こ の地に国 民 党左派の 武 漢国 民政府
もお か れ てい る。 口中 戦 争 時に は1937
年12
月の南 京 陥 落 後, 国 民 政 府の中枢 部が漢口 に置かれ1 これに打 撃を与えんとして 翌年
目本 軍 に よ る漢 口作戦 が な さ れて い る。
こ の漢口作 戦に 従っ た [ti
本の 中 支那派 遣 軍6)は九 個 師 団 余,
総兵
力30
万を越える もの で あ り,
日中 戦 争の 単一
作 戦に動 員さ れた兵力で は最 大 規 模の大 軍で あっ たD。 これらよ りい か にこ の地 が軍 事上 重要であっ た かの一
端が知 られ よ う 。こ の ように政治
,
経 済,
軍事上の 重 要 地で あっ た武 漢に は、
早 くより列強
各 国が進 出し, そ の中 それ らの租 界B)も設 置さ れて い っ た。 租界
は漢口 の長 江 沿い に開 設さ れて い っ た が.
そ れ は南より, 漢口市 街に接
するイ ギ リス租 界(
1861
年 設 置),
ロ シ ア租 界(
1896
年 設 置)
,
フ ラ ン ス租 界(
1896年
設置)
,
ド イ ツ租 界(
1895
年 設 置)
そして 日本 租 界(
1898 年設 置,1907
年 拡 張 ) であっ た、
日本 租 界は当 初,
小さ な 石標が建っ てい るだけの荒れ地で,
わずか にマ ッ チ工場と その 従 業 員が住む茅葺
き小屋 がある だけとい う貧 弱なもの で あっ た ようで,
その不便さの ゆ え 日本 人の 事 務 所はすべ て他の租 界に置かれ,
日木 領 事館
さ えフ ラ ン ス 租 界に置かれて い た とい うこ とで ある9)。
こ の こ とは後に 述べ る漢口本願 寺に お い て も 同様
であ っ た。
し か しな が ら日 露 戦 争後
に は在留 邦人 も増 加し, 日本租 界は漸 次 整 備さ れて い っ た。 これ ら租 界は 日本 租 界を 除き 順 次 国民政府に よっ て 回収さ れてゆ くこ と と な る が, 租 界同収 後は ドイツ,
P シ ア,
イギ リス 各 租 界の順に特別第一,
第二、
第三 区 と さ れ,
国民政 府 直 轄の漢口特 別 市に編入 さ れて い っ た。こ の ような地に
真
宗 本 願寺
派の漢 m 本 願寺
は設立 さ れてゆ くこ と と なるの で あるが, 以下そ の沿 革と活 動 状況につ い て見てゆ くこ と と し たい 。2
漢
口本
願 寺
の沿
革
と活 動 状 況
漢冂本願 寺は
1906 (
明治39
)
年10
月,
木 願寺
派法主 大谷 光 瑞や籌 子 裏 方一
行の漢口訪 問の折開
設さ れた。 同月8
目に は先に護
城 慧 猛,
田巾哲 巖が漢口駐 在として着
任し,
フ ラ ン ス 租 界河 街の 家 屋を租 借,
活 動をは じめ てい る。
し か しな が らこ の 時 期に は布 教上特 記 すべ ぎ もの はな く,10
人以下の就
学 児童に小学 教 育を施 すなどの 活 動に [E
まっ て い た よ うである.
ま た 当 時の 在 留 邦 人は湖 北, 江 西,
河 南,陝
西 の各省
全体で660
名に過 ぎなかっ た と も さ れてい る 10)。
.
こ の漢口本願
寺
の開 設は 本 願寺
派 教 団の 中 国 開 教に おい て早 期の もの に属し,
関 東別 院(
19
04年),
奉 天 別 院(
1905
年),
北 京別院(
1905
年 ).
上 海 別 院 (1906
年 )な どの 開 設 時 期に重 な る もの である。
これ らの う ち関東
別 院,
奉天 別 院 な どは 日露 戦 争を契 機とし て東 北 部(
満 州)
(59
)中国の居 留地と租 借地に おける浄土真 宗 本 頼 寺 派 開教 と日本 人 子 弟教 育
に開 設された もの であ り, 北 京 別 院, 上海 別 院な どは沿 海 部の主要 都市に開 設さ れ た もの であ
っ
・
た。 これに比べ て漢口 は華 中のそ れも 内陸 部に位 置するもの であり, こ の地 域に 出張 所が早{拑ア〆
.
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あ ろ うか
。
その 理 由 と して は先に見た ように武 漢が中 国の 中心点に 位 置し,
政 治,
経 済, 軍
事,交
通な どの 要 所で あっ た こ と、
及び 日露
戦 争後
在 留 邦人 も増
加し,
日本 租 界も整 備されつ つ あり, 将 来へ の発 展が見 込め た こ と な ど が挙 げら れよ う、
こ の こ とは 田中 哲 巌の 漢口に 対す る認 識に も見られる。
田巾は清 国 開 教 総 監へ の 報 告の 中で, 次の ように述べ て い る。
当地は現 今80
万 余の 人口を有し且つ 将 来甚だ右 望に して支 那 本 部に布 設せ られた る若 くは将に布 設さるぺ き各 鉄 路及 び 長 江 を 上下 する各 船 舶は必 ず此 地に輻 湊 すべ き を 以て貨
物
の聚
散人馬の 往復 陸 続 頻 繁の地 と相 成 り隆 盛ヲ サ ヲ サ 目下の上海の夫よ り優る とも劣るまじく
支
那 本 部其他
の地の 最も枢 要の地点と相 成 り本 派 本願寺が経 営 する開 教 事 業は 明に緑 叢 中の 紅一
点と な りzalc
−・
・
大 光 彩を放つ もの と存 候11) すな わ ち漢
口は交
通の 要 衝で あり, 商 業の 中心 地 とし て隆 盛し てお り, 将 来 も有 望で, こ の地 での 開 教 事 業の 進 展 も期 待で ぎるとい うわ けで ある。
しか し なが ら漢 口本 願寺
の 早 期 の 開設 は,
こ の よ うな 理由に加え, そ こ に は法 主 大 谷 光 瑞の 意 向 も大 き く反 映して い た ようで ある。大 谷 光 瑞は前 述の よ 勃こ
1906 (
明 治39
)
年10
月に漢口に行 っ て い る が,
そ れ以 前に も1899
(
明治32
)
年
の 中 国へ の 初めて の外遊
の際
漢口を訪 問して い る。
こ の 時の漢口訪 問の 目的は,
当 時 張 之 洞に よっ て設立 さ れ た一
連
の 近代
的 設 備を見 学 するこ とに あっ た ようで、
光瑞
一
行
は 武備
学 堂や 自強 学 堂な どの学 校, 漢 陽に1893 (
明治26
)
年建
設 さ れ た製
鉄 所や兵 器工場 など を 精 力 的に見 学し てい る12)。
中で も漢 陽の製 鉄所(
漢 冶萍
煤 鉄 公 司)
は 日本の 八幡 製 鉄 所より8
年
も早 くなっ た もの であ り,
当 時ア ジ ア第一
と ま で評さ れた規 模であっ た。
こ の大 谷 光 瑞の 外 遊につ い て は柴田幹 夫 研究員
が 論 文 「大 谷 光 瑞 初め ての外 遊」13)に お い て 詳 述されて い るが, その中で 柴田研究員
は,
な ぜ光
瑞が わ ざ わ ざ内 陸 部の武 漢ま で行っ た の か につ い て考 察を され て い る。 その 理 由 と して柴田研 究 員は まず 光 瑞が武 漢とい う中 国の 「心臓 部に くさ び を打ち込 む こ と に よっ て,
北から,
南か ら,
あるい は東か らの情 報を容 易に手に入 れ るこ とができると 考えたか らであろ うか。 こ の ような 地政学 的見地か ら,
武 漢を 押 さえて お く とい うこ とは 当 然 考 え られる選 択肢であっ た」 と分 析さ れて い る。
さ らに光 瑞は 「洋 務 運 動とい う一
種の富 国 強 兵 政 策が,
張 之 洞とい う一
人の人物を 通し て おこな わ れてい るこ とに 関心 を持っ たの では ない か 」 「r
国 家の 前 途』 を考え た光 瑞は あ くま でも個 人とし て考えたの であ り」 その意 味で張 之 洞とい う人 物は特に関心 があっ たの で は ない か と も指摘
されてい る 14)。
こ の柴田研 究 員の 論に 従 う時, 漢口本願 寺の早 期 開 設の理 由も ま た 別の 点 よ り理解できる ように思われる。 すな わ ち 開 教上有 望である とい う一
教団の思 惑の枠を越えて, 今 後の 日本 とい う 国 家の前 途を考 え,
ま ず 武 漢 に くさ び を打ち 込み,清
報を収 集し,
その 近代
化, 工業 化に学び, さ らにそ れを推 し進 め た張 之 洞に学ぶ とい う光瑞
の 意図 が強くあっ た か らこその早 期 開 設で はなか っ たの か と考 え (60 )中 国の居 留地 と租 借 地における浄土 真 宗 本 願 寺 派 開 教と 日本 人子弟教 育 ら れる
。
さて 開設の 翌
年1907 (
明治40)
年7
月, 護 域 慧猛 が離 任し新た に井上慈
曠
15)が着任
する とと もに,漢
口本 願寺
は フ ラ ンス 租 界よ り ド イツ租界 内の家 屋へ と移転
してい る。 ま た本願寺 経 営 の 小 学 校は, 漢口居 留民 団法 施 行に と も ない 同 年9
月居 留民 団 の経 営に移 管し,漢
口 明 治尋 常 小学校 及び付 属 幼 稚 園と なっ た。 翌年の 1908(
明治41
)
年 5
月に は田中哲 巖が成都
に転 勤とな り龍溪
玄 義16)が 着 任して い るが,
こ の頃の漢口本 願寺
の 活 動 状 況を外 務省外交
史 料館
蔵 外交
文書
17)に もとづ き見てみ ると, 当 時 漢口で活 動し て い た 日本 人布
教 者は井上慈曠
と龍溪
玄 義 の2
名の み であ り, 漢口本願寺
は ド イ ツ租 界 華 景 街 18)にあっ た と さ れてい る。
漢口本願
寺で は毎週 日曜日午後
2
時
よ り法 座が開かれ,
ま た毎 月一
回 武 昌日本 人 娯 楽 部及 び漢口 日本 婦 人会
に お い て,精
神 講 話,布
教 もなされて いた。 活 動 費 用は教 団よ り年 額3000
円が支
給され,漢
口本 願 寺 家屋の借 家 料, 駐 在 員 及び その 家 族の生活費,
その 他 仏事
や事 務 の費
用 等にあて られて いた。 こ の 時 点で は ま だ在 留 邦 人に対 する寄付
等の依 頼は し て いなか っ た よ うである。
こ の 時 期の漢 口本願寺
は未
だ寺 院と称 する程の もの で はな く,
仮に商 舗 向 き洋
館を1
ヵ月50
円の 家 賃で 借 り 受け た もの であっ た。 そ こに本 尊を安置
し礼 拝 所 とし てい た が,
参 拝 者 も少
な く毎 朝の勤 行 時 に は5
, 6
人, 日曜午後
の 法 座でも,2
,30
人程 度であっ た ようである。 ま た信 徒, 門徒
と な る手 続ぎ も形 式上整っ てい な かっ た ようで,
その数もは っ き りとし てい な かっ た。
しか
し なが ら漢
口に は 日本 人に よ る宗
教 施 設が他に な く,
葬 儀な どはすべ て本 願 寺駐 在員に依 頼さ れてい た とい うことである。 その他に漢 口本 願 寺で は英
語 夜学校、
漢 文 夜 学 校,
日語 夜 学 校 を経営
し,
教 育 活 動を行っ て いた が,
すべ て無 月 謝で,男
性40
名 内外,
女 性10名
内外,
中 国 人20
余名
の 学 生が仕 事の 合 間を利 用し学ん で い た。
い ずれも成 績良好で, 布 教 目的の活 動で はなか っ た が, 将 来 仏 教 青年会
等を組 織 する基礎と す る考’
えも あっ た よ うである。1911 (
明 治44
)
年水上 覚 忍が新た に漢
口本 願 寺に着 任 するが, この 年の10
月100
に は武 昌蜂 起が あり, 井上慈曠
や水上 覚 忍らは邦 人 避 難 民の護
送や中国兵
屍 体 の 収容等
の 活 動を行っ た。
同年12
月に は在 留 邦 人保護
の名口で 中 清 派 遣 隊が漢口 に駐 屯 する よ うにな る が.
漢口本 願寺
で はこれ を受 けて翌年 1
月に中 清 派 遣 隊 慰 問 部を設 置し兵士た ちの ため に親
聞, 雑 誌, 書籍,
娯 楽 器な ど を用 意し て建 物を開放
した。
また毎 週日曜 水 曜の午後
に は井上に よ る講話
も行われ、
漢口本 願寺
の 階上階 下は兵士で充満
し た と されて い る。 慰 問 部 開 設一
年後
の1913
(大正2 )
年3
月 時 点で、
新 聞は東 京,
大 阪,京都,
九 州 等 各 地 発行
の もの11
種 雜誌
は約40
種, その他新
刊書籍
は100
余 冊に及んで い た とい うこ とである19) 。 教団の軍 人 慰問
に対 する 日清,
日露
戦 争 以降
も変わ らぬ熱心 さが 窺わ れ よ う。
1913
(
大 正2 )
年3
月には井 上 慈 曠が 上海に転 勤と な り, 漢口本願寺
開 設 時の駐 在であっ た 田 中哲巖
が復
職して い る。 こ の頃
漢口 の在 留 邦 人 数は一
層増
加し ,1914 (
大正3
)
年
セこは1380
人
であっ た と されてい る 2°)。
こ の よ う な中,
手 狭であっ た本 堂を新 築しよ うとい う気 運 も高ま っ て い っ た よ うで, 田中哲巖
は寺委員
と協議
の結
果,
建 築 用敷
地 の使
用 権 獲 得な ら びに建 築 費 (61 )中国の 居 留地 と租借 地にお け る浄土真 宗 本 願 寺 派 開教と日本 人 子 弟教育 補 助金下 付を申
請
す るため1917(
大正6
)年11
月 帰 京し.
教 団 当 局 者と折 衝した。
し か しな がらこ の要 求は教団の年
度議
会の協賛
を経べ ぎ事 項で あっ た た め,
1919 (
大 正8
)
年1
月再び帰京
し申
請を行い,
教 団よ り建 築 費 補 助と して銀4000元 な ら びに敷 地 使 用の 認許を得るこ2
がで き た。 漢口 に も どっ た 田中は同 年5
月寺
委 員の 議を経て, 漢 口総 領 事は じめ在 漢 各方面の賛 助 を得る中, 設 計略 図 及び 「漢 口木願 寺 建 築 趣 意 書」 を発表 し てい る。 そ こ で は 「現 租の狹 隘に して不体 裁なる仮本願 寺」「会 者を し て座 する に席なき如 き」 と漢「コ本願寺
の現 状 を述べ , 「動 もすれ ば流 れ 易 ぎ植 民地的弊
習を掃酒する象 徴とし て 且 は 祖 先 崇 拝の霊域と し て教 義宣伝心身 修 養の 道 場とし て宗 教 寺院造 営の 喫 緊なる は贅
を待た ざるべ し21)」 とその 建 築の 必要 性が強
調 さ れて い る。 本 堂な らびに 対面 所の 総工費 見積 もりは31280
両であっ たが, その大 半を寄
付に よっ て ま か な うこ とがで きた よ うである。
こ の頃 漢 口本 願 寺に は新た に平野 龍 勝
菊
池 諦 了な ど が着 任し, 田中哲巖
と ともに仏 教研究 会を開 き 『四十二 章 経』 『法 華 経』 『無
量 寿経』な ど を講じて い る 。 ま た暁 起 読 書 会 も 開か れ 四書(
r大
学』 『中 庸』『論 語』
『孟子』
)
や 『菜 根 譚』が講 読さ れてい た が,
田中は そ こ で『孟 子』を講 義し
,
さ らに は江西省 九江 まで 出 張し, 当 時80
余 名い た と さ れ る在留邦
人に対し て講
話 もし て い た とい うこ とである22)。
1920 (
大正9
)年 1
月4
日漢口本 願寺
は 日本租 界山崎街 八号の寺 院 建 築用 敷地内二 階 建 洋 式建物 2
棟を買 収, その内
部を修 理 改 修し仮 本堂 とし て, ド イ ツ租 界の 借 家よ り移 転し た 。 こ の 敷 地は かねて より本 願 寺が買 収し て い た もの で, 洋 式 建 物はそ こ の借 地 人に よっ て建
て られて い た もの で ある。
同 年3
月14日に は本堂新
築 定 礎式が挙 行さ れたが, こ の定
礎式
に は大 谷 光 瑞 や当時 本 願寺 派管
長 代 理であっ た大谷尊由は じめ,
支 那 開教 総 長 龍島祐
天.
瀬 川 漢口総 領 事,
陸 軍各将
校,
各 会 社 銀 行主任
その他数
百名が列 席し た。 式で は大 谷 光 瑞が吊るせ る石 を下ろ し 槌を把っ て 三 打し て本堂 の基礎を定め てい るe その後 経 済不 況 のた め一
時工 事着 手が 見合わ さ れた が.
翌年2
月に は経 済 状 況 も回復し着工 す るこ と となっ た、
本 堂の 設 計図案
は公 募され.
応 募して き た設 計 図, 仕 様 書は一
括し て教団中 央と 上海の 大谷光瑞
の もとへ 送ら れ, 選 定が な されたと さ れて い る。
しか し な が ら事 実上大 谷 光 瑞ひ とり に よっ てその選 定は なされた よ う で, こ の 頃に お い て も大 谷 光 瑞の意 向が漢口本 願 寺経 営に大 き く反 映さ れてい た ことの一
端 が 知 られる。 そこ で選 定さ れ た もの は,
本堂は鉄 筋コ ン ク リー
トな ら びに煉 瓦 造 りで奥 行き工0
間, 間口9
間,
そ れに方20
尺の大 玄 関を設 け, 屋 根は 純 日本寺
院式と し他はすべ て洋 式とした もの であっ た 。 特に屋根瓦は湖南省 産の黄色瓦を用い る と され, 極め て新 しい形式であっ た と されてい る23) 。 同 年6
月16
日 に は 宗祖 親鸞
の命
日にあわせ 事 始めの式が行わ れ,
その 後エ 程は 順調に進み 同年12
月11
日に は上棟
式が行わ れて い る。
こ の式に は東 京 帝 大 講 師であっ た常 盤大 定 も列 席し,
同H
夜に は仏 教史跡
に関する講 演も行わ れ た。1922
(大正11)
年8
月 末に はエ事 請 負 業 者より建 物全 部の引
き渡
しが完 了し, 同 年9
月5
日 よ りは法 務 教 務一
切が新 本堂に て取 り扱
あ れるように なっ た。 これ を受
けて同年10
月14,15
日に は入仏 慶 讃 法 会が支 那 開 教総
長斯 (62 )中 国の居 留地と租 借地に おける浄土真 宗 本 願 寺派 開教と 日本 人 子 弟教 育 波 隨 性を 迎 え 盛大に厳 修さ れ た。 ま た 同月