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仏教文化研究所紀要42 007小島 勝他「中国の居留地と租借地における浄土真宗本願寺派開教と日本人子弟教育」

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全文

(1)

同 研 究

留 地

土 真 宗

   

本 願 寺

派 開 教

と 日

本 人

弟教

研究主 任   研 究 員   研 究 員   研究員   研 究 員   研 究 員   研究員   研究 員   研 究員   研 究 員

 

 

@

ガ は じ  

 

に  われわれ の共

研究は,工

999

(平 成

11

)年度と

2000

12

戦前 の中国

ける 浄 土 真 宗の開 教 と 日 本

子 弟教育 一青島と大

中心に一」 の主題で

行さ れ ,   『 教 文 化 研 究所紀

』第

39

集 ・第

40

2000

(平成

12

)年

11

月・

2001

(平成

13

)年ll 月,に の成果 を公 表した が, 今 回は

の延長と し て , 「中 国 の居 留地と 租借 地」に 範 囲を 拡大 し 実施す るこ と に

った。

2001

(平 成

13

年8

月には

津 市,2002 (平 成

14

) 年

9

月に は武 市 (

時は「漢 口 」 )を訪 れ て, 現 地史料を 蒐集する とともに 今な お 僅か に残 る当 時

景 を眼 に した が,中 間報告 的 で はあ る が「漢 口」に しぼ って共同研 究の

ここ

収めた い 。   ま, 柴田 幹 夫 研 究漢 口 の

」と 題して   「 漢口」 と い う 街 主と して 歴史的意 味を「 物の流 れ

を軸 に 論述 し, 次 に 野 世 英水研 員 が 「真宗本願 寺 派の 武 漢開 教 と漢 口 本願寺」と題

し て

, 漢 口本

寺 の 足

を 分析・ 記述 る 。 そし て , 小島 勝「 漢 口 明

治尋

常 高 等 小 学 校の 特微 一

『 教

瀾』

に 一」と 題 し漢 口 本 願 寺 が 開校 し 「 漢 口 明尋 常 高

学 校 」 の 日 本 学校

ての

徴について 論じ

。  

お, 柴田論 文 の

1

1

 

口 の 歴

的位

につ

」 と 野 世 論 文 の 「

1

. 武 漢 ( 漢 口 )     

(2)

      

中国の居 留地 と租 借 地における浄土真 宗 本 願 寺 派 開 教 と日木 人 子弟教 育 の地理的歴史的 性格」 は

部 重 複して い る が

そ れ ぞ れの論 調

重 して その ま ま掲 載 するこ とにし た.

      

小 島

  

1

 

口 の

歴 史

的位 置

本 願寺

 

明 治

39 (1906)

10

24

日, 本 願

の 法 主 大 谷 光 瑞は

上 海

九 江口に到

し た1) 。 中 国 開 教の拠 点を定め る た め であっ た。 その

漢口本 願 寺 設立の た め に派遣 さ れ た 田中哲 厳は漢口 の様 子を次の よ うに語っ て いる 「漢ロ本願

の 当地は現 今

80

の 人口を有し 且つ 将 来 甚

望に し て支 那 本部に布 設せ られた く若 くば

設さるべ き鉄 路び長江を上 下 する各

船舶

は必ず 此地に

湊 すべ き をて貨 物の 聚 散 人 馬

陸 続 頻 繁の地と相成 り

……

日下の上海の れ よ り

る と も

る ま じく 支 那 木 部その 他の地の最も枢 要の 地点と相 成 り本 派本願 寺が 経 営 する開 教 事 業は 明に緑 叢 中の紅

点と な り優に

大 光 彩を放つ もの

……

であ る 」2)

大 谷 光

た と お り将 来 っ て 浄土

宗の 中 国 開 教の中心 地にな る とこ ろであっ た

 

1899

年 大 谷 光 瑞は初めて

れ た。 その 際に選んだ ところ は漢口であっ た。 彼が漢 P を

んだ 理 由は い っ た い何であっ たの か。 私はかつ て大 谷 光

外遊

目的が, 「国 家の前 途と

宗教

の将 来とに付い て深 く考ふ る所ある に 因る」もの で あっ た こ とに

目し て

次の ように考え た。 「武漢は長江中 流 地に お ける最 大の都 市で り, ま た

通の 要 地で も あ る。い わ ば中 国の 心臓 部 といっ て も差し支 えないで あろ う。 日本を始め列 強 各 国が先を

っ て こ の地に租 界を設 けた 理 由も そ こにある。 こ の 心臓 部に くさ び を打ち込 む こ とに よっ て

北か ら,南か ら

ある い は束か らの情 報を容 易に手に入 れ るこ とが で きると考えた か らで あろ うか

こ の よ うな地 政 学 的 見地 から, 武 漢を押さえてお くとい うこ と は当然考え られる選 択 肢で あっ た 」 3) 。つ ま り武 漢

の 地 を押さえて お くこ とに よっ て

中 国 各地に開 教 基 地を作る こ と が 可能であ る と考え たの で あろ う。 そ れはま た入の流 れや物の 流 れを十 分に 熟知 してい る か らこそ言えた の であろ う。

 

本 稿は, 漢口 の重要 さ を 歴

的に, ま た

の流れを追 っ て 考えようと したもの である。

 

1

  漢

口 の

歴 史 的 位置

に つ い て

  (

1

口 の歴 史 的 沿 革

 

漢口 の地は, 漢 陽

武 昌とは

い, 武漢三鎮の地でありな が ら

その 歴史 的 沿 革は異な る。 漢 陽

武 昌は隋

唐 時 代よ り

地域の 中心 地であっ た が

漢口 に至 っ ては, 開 港まで

漁 村 過 ぎず

開 港

後,

漢 陽

武 昌を

ぐ よ うになっ た とい う

 

夏の 時 代にあっ て は

武 漢

帯の 地は

三苗の故地 とし て知ら れ

苗 族の根 拠 地であっ た

周の 時 代は荊 洲に属し た。 周 末の 天 下大 乱

期に は, 七 大 国の

あ る る と こ ろ (52 )

(3)

       

中国の居 留地 と租 借 地に おけ

浄 土 真 宗 本 願 寺 派 開 教と日本 人 子 弟 教 育 となっ た

秦が統

するに邪の管 下と な り, 両 漢に は, 江 夏 郡に編 入された

三 国 時 代を経て 孫 権が都を武 昌の 地に遷す こ とに よっ て

中 国 中央 部の要

の地 と な っ た。

tr

こは江 夏郡 と な り

,唐

代におい て は, 太 宗の地 方 制に よ り, 武 昌は江 南西道に属し

鄂 洲となり

漢 陽

・漢

口 は淮常道に属し

と なっ た

五 代には再び武 漢三鎮は

洲 とな っ た。 宋 代になる と

荊 湖 北路に な り, 元代に は武 昌に荊 湖

かれた。 その

湖 広と改め

武 昌は湖 北, 湖 南

広 東, 広西四省の首 都となっ た。 明

に は広

, 広西は 分

し たが, なお湖 北

湖 南両省の

都 であっ た。 清の康 熙 時 代に は湖 広を湖 北

湖 南に

湖 南長沙に巡撫をお いた

 

近 代に 入 りアヘ ン戦 争

後,

南 京 条 約の締 結に よ り

中 国の港は漸 次 開 港を余

な く さ れ た。

1843

年をこ上海が開 港された

そ して 長江 沿

を遡 及 するよ うに

鎮江

南 京

蕪 湖が相 次い で 開

,1861

年に至 っ て漢 m の 開 港 となっ た の で ある。 武 昌

漢 陽に

塵を

し た漢口はこ こ に 至 っ て人 口八 十 万 を擁 する大 都 会 となっ た の である。 さらに 日

清戦争後

が 開 港さ れ たの で

四川の 物 資が長 江を 上 り, 漢口に集まるよ うになっ た。 その上, 京 漢, 粤 漢 鉄 道の開 通に よ り益々通の

便

達し

漢口を中心 と して

,物資

な どが四方八達し

中 国 内地に おけ る重 要 都 市の位 置を占め た の で あ る。

 

両 湖下 足る 」 い われた湖 北

湖 南 両地域は米を 主要な生 産

に し て

綿 花, 桐 油, 胡 麻 油

類,牛

皮, 烟 草, 獣 皮, 麻

生糸

, 木

 

, 薬材,

な ど を

す る4) 。 これらの農 産

は長江の 本 流と, 長 江に注 ぐ諸 河 川つ ま り中 国

九 省 っ て きた水が 漢口に注 ぐとい う「九 省の会」 とい わ れ るぐらい 地

的に恵ま れ た ところに集 散さ れ た。 近 郊の 大 冶県の 石炭や 江 西省

郷 県の鉄

石 を用い

ま た豊 富な水 量を利 用し て重工業 が

発達

し た。

広 総 督 張 之 洞

1837〜1909)

が創設に関わっ た

紗 局

,織布

昌)

や鉄 政 局 兵工廠

漢 陽

,漢

口に は燮 昌燐 寸 製 造 所な ど が設立 さ れ た。 その結 果

 

当 地は 「東 洋の シ カ ゴ」 と も称さ れる よ うになっ た。

  (

2

鉄 道の要地

 

北 京か ら広 東まで 中 国 縦 貫 鉄 道を 呈 し てい る の が

京 漢 鉄 道

橋か ら漢冂

で あ り, ま た広 東から漢口 ま で は

漢 鉄

が走っ てい る

ま さ に 申 国の 北と南を繋 ぐ大 動 脈で あ る

その 中 継 地が漢口 である。

 

京 漢 鉄

は 全 長お よそ

1300

キ P メ

トル あ り

漢口 と北京を 結 ぶ もの である

こ の 鉄 道は中 国 自身 自ら経 営せ ん とした もの であり, 湖 広 総 督 張 之 洞の

発議

に よ り

1895 (

明 治

28)

年に線 路 の測 量を始めたが

,莫

大な

用がか か る た め に

,中

でその

を 工面 するこ と が出来 ず, 湖 広 及び直 隷

督はこ の

を担 保に し て, 外 債を

集し た。 こ の

外債

に応 募した ベ

シ ンジ ゲ

トの 間に借 款 契 約 が 成 立し

 

漢 鉄

は元

ア メ リ カ に布 設 権があっ た が

の ちに中 圏側が 回収し て両 湖 及び 広東に 鉄 道 を敷 設 するこ とになっ た。 広 東 区 間は順調に 工

んだ よ うである が

湖 広 区 間は資 金不足 の た め

布設する こ とが出

なか っ た

そ こでまた鉄 道を担

に し て

四国銀行団 か ら借 款       (53 )

(4)

       中 国の居 留 地 と租 借 地に おける浄土真 宗 本 願 寺 派 開教 と日本 人 子 弟 教 育 し

欧 州 市 場に公 債を売 り出し た。

 

こ の粤 漢 鉄

成に よ り, 香 港や広 東を通じて 輸入 さ れる海 外の物 資 もこ の漢口に集 散さ

軸 f    弦 it

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U 丿1亠 鳳 V出 皿

向上 して きた の である

 

2

  租 界地

と し ての

 

国 中」 と 言 わ れ た租 界は

,一

般 的に言 うな らば, アヘ ン戦 争 後に中 国各 地に 形 成 さ れ たが

半 植民 地 と なっ た 近代

国の

つ の 特 黴 とい えよ う

 

アヘ ン 戦 争は

イ ギ リス が武 力をい て

中 国の

制を打ち破っ た が

その結 果 とし て, 上海な どの 五港を開 港せ し め, 中 国の 内陸部にあ る漢口にも 触 手 を伸ば し

租 界地 と して 開辟 し た の である。

 

漢口租 界は上述し た ように, イ ギ リス が

1861

年か ら当 時の清 国政 府か ら半 永久的に土 地 を割 譲させ たの が始ま りである

イギ リス 租 界は中 国人街と接し て お り, ま た長江に面 し て い るな ど,

業上,

貿

易上, 好 位

に あ っ た

 

他の国々 ドイツは

1895年

ま た フ ラ ンス

ロ シ ア は

1896

年に租 界の 権 利を獲 得し

長 江 沿 い に租 界 地を形成 した

と くに 日清 戦 争 後の三国干 渉に感 謝して

ドイツが租 界地を要 求し た ζとに対して

.清

政 府が早 速そ れに応えてい るほ どであっ た とい う5)。

 

日本租 界 もま た 上述の 国

婦こ続い て, 長 江 沿

に並 ぶ よ うに形成さ れ た

1

参 照 )。 日本 の漢口に おける租 界 権 利は

1898

(明 治

31)

年        図

1

 漢口界 全 図 に 日清 両国に よっ て協 定された もの である。 以 下その 協 定 文を少し紹 介し よう

 

漢 口 口本 居 留地 取 極

書 (

外 務 省 告示第

24

1898

12

月6)

  

本 居 留

独 逸国居 留 地の

  隣

よ り起る。 其 東 界は

揚 子 江に沿ふ こと

  

百 丈

筆者注

丈は十尺で お よ そ

3.2

  

トル

南 界は

東の方 揚 子 江 沿 岸よ り起

  

り, 独逸 国居留地

界に 沿ひ

西の 方 鉄 道

  

地界迄, 西

は鉄道地界を 以て 境と な し,

  

北界は

界の 北 端なる揚子江 沿 岸よ起 り,

  

酉界の 北端な る 鉄 道 地界 迄 直 線

此直 線は

  

南界

と平 行 すべ

傾 斜 す

  

の とす

を 画きし界 内を 日本専 管 居 留 地と

  

為し

此 取 極

を定め たる后

員を 派 して

 

日 (『中 国租 界史 り転 載 ) (54)

(5)

       

中困の思 留地 と租借地における浄土真宗 本 願 寺 派 開 教と 日本 人子弟教育     立 会ひ界 漂 を設 け くぺ し 」

  

右 界 内の 道 路

塘,溝

波 止 場 及

日木 帝国領

に属し, 又其 道 路 提

  

溝 渠

波止場は 日本

事に 於て法を設 け

修 築 するもの とす 道 路 堤 塘

  

渠 公 共 用の地 内に若し官 衙

地あ れ

1

ま, 借 地 料, 租 税を免 除し 又民地 な れば借 地料

  

の み を交 付し, 租 税を納 むるに 及ばず」 な ど

こ のよ う な取り決めがあっ た

 

こ の口 日本 居留地取 極 書が締結 さ れた翌

に大 谷 光 瑞は漢口て いる

光 瑞に 同 行 し た上 原 芳太郎の 記 事に よ る ど

 

 

, 長江漢 水 合 流 点に在 り。 古は漢 陽の

部 落

ぎざ り し も

,今

は湖 北

数の 市 とな り

漢 陽共に州の首府た る武昌と鼎 峙の姿を な せ り

此 地を貿 易 場と注 目せ し は

仏 国宣 教 師ヒ =

 

ヌなるもの也

1861

,開

放せ ら れ

,英

国居 留 地は市の西 端に在り。 城 郭は髪 匪

筆 者注

太平 天国の 乱の こ と

の 時, 築 城せ るもの。 又居

地の街 衢は広 くし て, 江 岸に沿へ る延長半哩 あり

加 督 教の大 会 堂 あ り

又 プロ テ ス タ ン ト

,希

臘 教会堂 あ り。

臘 教会堂は露 国の レジデン トの 手に よ りて成 れ り。 又

露 国居 留 地に は

露 人の経 営に か か る団 茶 製 造 所あ り

此地の人口

80

万 と

す。 対 岸

に は鉄 製 局 あ り

此地 よ り茶の 輸 出 高,

1897

年に於て

41 万

0019

ビ クル ,

48

3

92

ビ クル 也。 又

,鴉

片 の 入高は

97

年に於て

518

ビク ル 如 此 少 数な るは, 此地に

出 品 ある故也

97

の貿 易 総 高 は

4972

630

両 也

……

中田

)……

猊 下 (筆 者 注

大 谷 光

の こ と

は磚 子に て

余 等は少

にて領 事 官に随 行

該 館は英国 居留地の 中にあり。 領 事の束 導に より 日本居留地 を見る。 英 租 界の北 隣は

の租 界に し て

有 名な る

茶 製 造所あり

又 多 少の 商 館 あ り。

北は法

者 注

フ ラ ンス

これは

露の

るを見ず

道 路も

だ整

せず

此 地に

る時

驟雨 あ り。

城壁の 廊 門 内関 帝 廟け, 須

に して 小 降となるを以て 発 す

法 租 界 の 北 端は漢口城 郭に し て

門 「

。 又 「漢 南 雄 鎮」 と遍 す 門を出れば, 独租 界 江 に沿へ

300

此 を 過 ぐれ ば

我 居地 也7)

往 事 本 租 界様 子 わ れよ う

ただ この 時は 租 界 設 置 後まもな くに し て

日本人の数も ま だ そ れほど多くな く

領 事 館や旅 館, 貿 易 商

社,

学堂の 日本 語 教師 ぐ らい であっ た。 し か しな が ら

こ の 地の 重 要 性をい ち

く感じ取っ たの は

大 谷

光瑞

で あっ た。 彼は こ の地こそが中 国 大 陸にお け る本願寺 の拠 点である としたの である。

 

その

後,

1906

明 治

39

)年

, 本願 寺の

教 所が設 置され, ま た翌年に は 日本人 小学 校

園,

年や 学校な ど が本 願 寺の手に よっ て

設 さ れて い るB)。 日木 人の増 加に と も なっ て, 生 活 方 法 習

な ど も 日 本 と同じよ うになっ て きたの である

寺 院

学 校の設 置な ど が そ れ を

に示 して い る。 又 口本租 界の 拡 張な どに とも なっ て

人 口 も増加 し

郵 便 局や 新 聞 社

銀 行

商 社

商 店

工 場 な ども新しく作 られて い っ た。 当 時の 大 阪 毎日新 聞の記 事に は 「当 租 界 内には 三菱 公司

高 昌公 司

本願 寺

菜 市場

日本 人 倶 楽 部, 倉 庫

貸 家 等の 建 築 物は既に落 成せ る もの又は 工 事 進 行 中の もの たるを問はず 建 築工事は非

に旺 盛 な り。

斯趨

な れば 当 租 界の 経 営を了 りし部 分は遅く も本 年 末に は

空 地を見ざる に 至 るべ 。 前 記の如き家 屋

建築

      (55 )

(6)

             中国の居留地と租 借 地に おける浄 土 真 宗 本願 寺 派 開 教 と日本 人 子 弟 教 育 に

他 租 界に住 居せ し邦人 も来住するもの 多 く落成 し た る家 屋は殆んど 空 地 を見 ざる盛 況 な り。 尚 料理店 飲

店も本 月 中に は転住する もの 多か る べ 9)

。 ちなみ に1906

明 治

39

) 年当 時

漢 口に おける在 留 邦 人の

,66Q

名であっ た とい うが, す ぐさま

600

名の

加 が あっ た とい う10)。 その

後漢

口 の

貿

易 高が益々増 加 する に 従っ て, 邦 人の 数 も漸 次増 加してぎ た。

1914

(大正

3

) 年に は

1380

人の 日本人が漢 口 に住ん でい た 11 ) 。 こ の 数は租 界を設 置して い る国の で は最も多い もの であ っ た

 

さて こ こ で人 口が急激に増加 し た

囲治

38

年 前

口 と

H

本との貿 易 額を見てみ よ う。 (表

1

丶.

….

_.

年   商最   

丶.

_

_

1

明治36年 銅 塊 789

338(両 ) 明治37年 綿 製 品 2

 589

674両 ) 93

400  173

505 1

059

484 明 治38年 海 産 物 石 炭 燐 寸 とその材 料 綿糸 擬 洋 紙枕木 総 輸入品価 額 7,

974,

198(両) 65

394 955

301656

834172

799 10

157

380 662

 53e 454,73。

 

 

328

320 161

174 6

701,040 106

883 13,640,222

9,

18840

0eo

11

793

479 140

772 4

991,

20412

089616 ,

648

15

124

406                                      水野幸 吉

r

漢口』 (冨 山房1907年 )より作成

 

こ こ に

た製品は 日本か らの 主な輸入 品 目で あるが

東 洋の シ カ ゴ と呼ぼ れ た漢口 で主に 加エ されて ま た 世界 各 国へ

出 さ れ たの であっ た

次に漢口 か ら日本へ 輸 出された主な

目を 見て み よう

ll

) 品   名   単位 棉   花    擔 皮

豆 牛 大 棉    実 麻    類 擔 石 擔 擔 生

  

  

擔    

__

i

豆    粕 擔 直    航  

60,

0005

00060 ,

000130

000 ユO

OOO2

000

鶏     卵

85,

000 個 上海 経 由 1

500,

000 合    計     単 位の平 価 210

000 15両 総   価   額 35

000 40

000 3

150

000

両 31両 500,

000150

00050 ,000 560

000  石は130斤2両 280

00060

000

1両 12両 1

 240

 OOO

3,

000 1

120

000 5

000 200

000

285,

000

20

000

000    20

000

000 280

000720

000

47両 235

000 1両

2

342,

 

OOO

5文 100

000 (56 )

(7)

中 国の居 留 地 と租 借 地にお け る浄土真宗本願寺派 開教と 日本 人子弟教育 鉄    鉱 銑   鉄 猪     毛 植 物 油 木  蝋 噸 90

0GO 噸 擔 擔 擔 菜 種 子 屠   繭 屠   糸 石

擔 擔 3

145 1

GOO 5,

000

5002

00050

000 6

0005

000

90

, 

00

茴   麻 石   膏 擔

 

5・°°° 擔 3

000 合     計 3

1455003 ,

00050

0005

0DO6

0005

000

15,

00010

000 20

00013

000 ・両・

・・6

… 26両 160両

8

両 10両 2両

27

両 26両 4両 1両 81

77080

00024

000500

 OOO10 , 

OOO162

000130

00080 ,00013

000 8

4850770 水 野 幸 吉 『口』 (冨 山房

,1907

年 )より作 成

 

こ の

2

つ の

出額を比 較 すると

輸入超 過とい うの が よ く わ か る。 長江の 水 運を利 用 して 日本の汽 船会社な どは多くの貨 物と人 間を運んだの であっ た。 こ の よ う な人の 流れ

物の 流れ を大 谷

光瑞

は き ちん と理解し てい た の であろ う。

がこ の 地 を開 教の 拠 点とし た理 由は,

漢口 こそが ま さに中国の 中心 地 であ り, 将 来の 発 展を見 込んだ ため で は なかろ うか

註 1) 鏡如上人七 回忌 法要事務所編 r上人 年 譜』1954年

42頁

2 ) r教海

瀾』

335

明 治39年11月。 3 )拙論 「大 谷 光 瑞 初め て の外 遊」 r東 洋 史 苑』50

51号 1998年

99頁。 4) 水野幸吉『口』冨 山 房1907年

101頁。 なお水 野幸 吉は 漢 口総 領 事であ り

大 谷 光 瑞の理解者で も

  

あっ た

日本に

時 帰 国 した とぎに

西 本 願 寺 を 訪れてい る

『教 海

灘』 (351号

明治40年2月

  

は この時の様 子を次の よ うに伝えてい る。

 

「清 国 漢口領事水 野幸吉 氏は

東上の途 次 同 夫 人 同伴 VL

  

両 堂参拝の為 去る20日午 前11時 来1⊥1せ られ しに付, 賛 事木村 省吾

注記 補 鎌田正 観の両氏 出迎 は

  

黒 書 院に休 憩

次で淳 淨 院殿 (筆者 注

 

大谷尊重の こ と, 光 瑞の弟)並に武 子 様 (筆 者 注

 

のち

  

の九条 武子の こと

光瑞の妹)御会見 種々の御物語 あ

……

領 事は其厚 遇に感 謝し て帰館せられ た    り

 

」0 5 )費成康 r中国 租 界 史』上海 社 会科学 出版 社35頁。 エ

992

6 )ここで は水 野 幸 吉 『口 』 に よっ た

冨山房

1907年。 7 )上原 芳 太 郎 「南 船北 馬1r 外 遊 記 稿』所 収。 こ こで は 白須 淨 眞 「上 原 芳 太郎

r

外 遊 記 稿』所 収の 「南    船 北馬」 「龍谷史壇』 ユ

03 ・

104号

1994年に よっ た。 8)田中哲厳編 著 r漢口本願寺創建顛末』 2頁。 発 行 所 並びに発行年月不明

9 ) r大阪毎日新 聞』1909 (明治42 )年9月30日号

10) 『教 海

335 明治

39

年11月。 11)日清 汽船株式会社 編 『口事 情』 出版 社 不 明

奥 付には印刷 所は東 洋 印 刷株 式 会社とある。 1914年,

  

28頁

こ の 日清 汽 船は 白岩 龍 平に よっ て創設さ れ た船 会 社で あ り

漢口のイ ギ リス 租 界 内

が あ

57

(8)

       中 国の居 留 地 と租 借地における浄土真宗 本 願 寺 派 開教と 日本 人子弟教 育

  

っ た。 その堂々 とし た建物は, 現 在 も残 されてお り

武漢市の保護建築 物になっ てい る。

  

小 論 を作 成 するにあたっ て

第1章は 全般にわた り

水 野幸吉 『口g

清 汽 船 編口事 情』

  

第 2 章は成 康 r中国 租界史』を参 考に し た。 〔付記 〕

 

脱稿後, 孫 安 石 氏の 「漢口の都市発 展と 日本 租 界につ いて 」 (『人 文 研 究』149

2003 神 奈 川 大 学 人 文 学会)とい う論 文を閲 する機会を得た

外交史 料 など を用い て漢口 の 日本 租 界の分 析を試みて いる。 参 考 に できなか っ たのが残 念であるが こ こ に紹介 す次第る 。

      

柴田

 

幹 夫

 

真 宗 本 願 寺 派

願 寺

 

本 稿で は

宗 本 瀬 寺派の武 漢 開 教につ い て

そ れ を真 宗 本 願 寺 派 漢口出 張所の 沿

と活 動 状 況 を 通して考 察してゆ くこ と としたい

こ の

宗 本 願 寺 派 漢出 張所すな わち漢 「コ本 願 寺1) 関しては

これまで にま とまっ た考 察は な さ れて い

ま たこ の 漢 口本 願寺につ い て論じる 場合

い ま だ史 料上 の 制 限るこ る こ とが

か し な が ら 本研 究

2002

9

月に武 漢へ 赴 き 調 査

何 度所 在 を変え た漢口本願

物 跡は確 認で き な か っ た もの の

武 漢 大 学の牟 発 松 教授は じめ諸 先 生 方の ご協 力をい ただ き, 文 献 史 料や当 時の

細な日本 租 界地図な ど を 入手 するこ と がで き た。 また国 内に お い ては漢口本 願 寺設立時よ り の駐 在である 田巾哲 巖2)編 述に よ 木 願寺 創建顯 末 』3)が残さ れてお り

また外 務 省 外

料館

蔵の 口本 願 寺 関 係 外

も 本共 同 研 究の田幹 夫 研

員の ご尽力に より入 手 する こ と がで

こ こまでは まず武 漢

漢口

と い う都市の地 理的 歴 史 的 性 格の

につ い て

っ たの ち

現 在ま で に入 手で き た史 料にもとづ き漢本 願

沿 革と活 動 状 況につ い て考 察し てゆ くこ と とし たい

  1 

漢 (

史 的 性

 

長江中 流 域に位 置 する武 漢は, 長 江 東

の 武昌と長 江へ と注 ぐ漢 水 河口 をは さ んで 南の 漢 陽

北の 漢 口 とか らなっ てい る

俗に武 漢三鎮 と もい わ れ るよ うに

武漢は これ ら三 者が

と なっ た合成都 市ともい えるもの で ある

ま た武 漢は東 西 南 北の水運の ク 卩 ス ロ

を な す 地 で も あ り

中でも漢口 は1858 年の 天 津 条 約 以 降

外 国商 社資 本出 し

さ ま ざま な商品が 流 通 す

貿

易港と なっ て いっ た

。1890

年 代にはこ の地の 総 督に就 任し張 之 洞

1837〜1909)

に よっ て 急 速に 工業 化が進め られ

北 京 と漢 口 と を結ぶ京 漢鉄 道 や 広東と武 昌と を結ぶ

漢 鉄 道の 敷設 もは じ め られた

こ の ように武 漢は水陸に わ た る交 通の要衝と して 北 京

蘇 州

広州と な らぶ大 都 市へ と発 展し て っ た が

特に漢口は 内 陸 部に おけ るエ ンポ リ アム

商 業 中心 地

と して 百万 都 市 化 し てい っ た4)。

 

ま た こ の武 漢の地は古 来 「 とも呼ばれて お り

その ヒ ン タ

ラ ン ト (後 背は       (58 )

(9)

       

中 国の居 留地 と租 借 地に おける浄土真 宗 本 願 寺 派 開教と 目本 人 子 弟

育 中国の 中 央 部 九 省の広 大な地域に及ん で いる

武 漢をは さんで 南 北に位 置 する湖 南, 湖 北の両 省は農 産 物に富み, 「両 湖 饒れば 天下 足 る 」 と もい わ れ た とこ ろで あっ た

さらに 政 治,

事 面に お い て も重 要地であ り, 「中京 事あ れば武 漢の地先 ず 乱る 」 ともい わ れ, 「之を得る者 ぱ興 り之を失う者は亡ぶ」 とま で評さ れた とい う5)

事実

辛亥

命は

1911

10

10

日の 武 昌 での 蜂 起を発 端とし て各 地に 波 及し, 翌

の 中

民 国の成立へ とつ な がっ た もので あ り

ま た

1927

年の

時 期 こ のに国 民 党左派の 武 漢国 民

政府

もお か れ てい る。 口中 戦 争 時に は

1937

12

月の南 京 陥 落 後, 国 民 政 府の中枢 部が漢口 に置かれ1 これに打 撃を与えんとして 翌

目本 軍 に よ る漢 口戦 が な さ れて い る

こ の漢口作 戦に 従っ た [

ti

本の 中 支那派 遣 軍6)は九 個 師 団 余

30

万を越える もの で あ り

日中 戦 争の

作 戦に動 員さ れた兵力で は最 大 規 模の大 軍で あっ たD。 これらよ りい か にこ の地 が軍 事上 重要であっ た かの

知 ら

 

こ の ように政治

経 済

軍事上の 重 要 地で あっ た武 漢に は

早 くより列

各 国が進 出し, そ の中 それ らの租 界B)も設 置さ れて い っ た。 租

は漢口 の長 江 沿い に開 設さ れて い っ た が

そ れ は南より, 漢口市 街に

するイ ギ リス租 界

1861

年 設 置)

ロ シ ア租 界

1896

年 設 置

フ ラ ン ス租 界

1896年

置)

ド イ ツ租 界

1895

年 設 置

して 日本 租 界

1898 年設 置

,1907

年 拡 張 ) であっ た

日本 租 界は当 初

小さ な 石標が建っ てい るだけの荒れ地で

わずか にマ チ工場と その 従 業 員が住む

茅葺

き小屋 がある だけとい う貧 弱なもの で っ た ようで

その不便さの ゆ え 日本 人の 事 務 所はすべ て他の租 界に置かれ

日木 領 事

さ えフ ラ ン ス 租 界に置かれて い た とい うこ とで ある9)

こ の こ とは後に 述べ る漢口本願 寺に お い て も 同

であ っ た

し か しな が ら日 露 戦 争

に は在留 邦人 も増 加し, 日本租 界は漸 次 整 備さ れて い っ た。 これ ら租 界は 日本 租 界を 除き 順 次 国民政府に よっ て 回収さ れてゆ くこ と と な る が, 租 界同収 後は ドイツ

P シ ア

イギ リス 各 租 界の順に特別第

一,

第二

第三 区 と さ れ

国民政 府 直 轄の漢口特 別 市に編入 さ れて い っ た。

 

こ の ような地に

宗 本 願

派の漢 m 本 願

は設立 さ れてゆ くこ と と なるの で るが, 以下そ の沿 革と活 動 状況につ い ててゆ くこ と と し たい

 

2

  漢

願 寺

沿

活 動 状 況

 

漢冂本願 寺は

1906 (

明治

39

10

木 願

派法主 大谷 光 瑞や籌 子 裏 方

行の漢口訪 問の折

設さ れた。 同月

8

目に は先に

城 慧 猛

田巾哲 巖が漢口駐 在として

任し

フ ラ ン ス 租 界河 街の 家 屋を租 借

活 動をは じめ てい る

し か しな が らこ の 時 期に は布 教上特 記 すべ ぎ もの は

,10

人以下の

学 児童に小学 教 育を施 すなどの 活 動に [

E

まっ て い た よ うである

ま た 当 時の 在 留 邦 人は湖 北, 江 西

河 南

,陝

西 の各

全体で

660

名に過 ぎなかっ た と も さ れてい る 10)

 

こ の口本願

開 設本 願

派 教 団中 国 開 教に おい て早 期の の に属し

関 東別 院

19

04年),

奉 天 別 院

1905

),

北 京別院

1905

年 )

上 海 別 院 (

1906

年 )な どの 開 設 時 期に重 な る もの である

これ らの う ち

関東

別 院

奉天 別 院 な どは 日露 戦 争を契 機とし て東 北 部

満 州

      (

59

(10)

      中国の居 留地と租 借地に おける浄土真 宗 本 頼 寺 派 開教 と日本 人 子 弟教 育

に開 設された もの で 北 京 別 院 上海 別 院な どは沿 海 部の主要 都市に開 設さ れ た もの であ

これに比べ て漢口 は華 中のそ れも 内陸 部に位 置するもの であり こ の地 域に 出張 所が早

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あ ろ うか

その 理 由 と して は先に見た ように武 漢が中 国の 心点に 位 置

政 治

経 済

, 軍

,交

通な どの 要 所で っ た こ と

及び 日

戦 争

在 留 邦人 も

加し

日本 租 界も整 備されつ つ 将 来発 展が見 込め たと な ど が挙 げら れよ う

こ の こ とは 田中 哲 巌の 口に 対す る認 識に も見られる

田巾は清 国 開 教 総 監へ の 報 告の 中で, 次の ように述べ て い る

    当地は現 今

80

万 余の 口を有し且つ 将 来甚だ右 望に して支 那 本 部に布 設せ られた る若 くは

  

将に布 設さるぺ 各 鉄 路及 び 長 江 を 上下 す各 船 舶必 ず此 地輻 湊 すき を 以

   聚

散人馬の 往復 陸 続 頻 繁の地 と相 成 り隆 盛ヲ サ ヲ サ 目下の上海の夫よ り優る とも劣るまじ

  

那 本 部其

の地の 最も枢 要の地点と相 成 り本 派 本願寺が経 営 する開 教 事 業は 明に緑 叢     中の 紅

点と な り

zalc

−・

大 光 彩を放つ もの 存 候11) すな わ ち

口は

通の 要 衝で あり, 商 業の 中心 地 とし て隆 盛し てお り, 将 来 も有 望で, こ の地 での 開 教 事 業進 展 も期 待で ぎるとい うわ けで ある

しか し なが ら漢 口本 願

早 期 の 開設 は

こ の よ うな 理由に加え, そ こ に は法 主 大 谷 光 瑞の 意 向 も大 き く反 映して い た ようで ある。

 

大 谷 光 瑞は前 述の よ 勃こ

1906 (

明 治

39

10

月に漢口に行 っ て い る が

そ れ以 前に も

1899

明治

32

の 中 国へ の 初めて の

外遊

口を訪 問して い る

こ の 訪 問の 目的は

当 時 張 之 洞に よっ て設立 さ れ た

の 近

的 設 備を見 学 するこ とに あっ た ようで

は 武

学 堂や 自強 学 堂な どの学 校, 漢 陽に

1893 (

明治

26

設 さ れ た

鉄 所や兵 器工場 など を 精 力 的に見 学し てい る12)

も漢 陽製 鉄

漢 冶

煤 鉄 公 司

幡 製 鉄 所

8

も早 くなっ た もの であ り

当 時ア ジ ア第

と ま で評さ れた規 模であっ た

こ の大 谷 光 瑞の 外 遊につ い て は柴田幹 夫 研

究員

が 論 文 「大 谷 光 瑞 初め ての外 遊」13)に お い て 詳 述されて い るが, その中で

研究員

な ぜ

瑞が わ ざ わ ざ内 陸 部の武 漢ま で行っ た の か につ い て考 察を され て い る。 その 理 由 と して柴田研 究 員は まず 光 瑞が武 漢とい う中 国の 「心臓 部に くさ び を打ち込 む こ と に よっ て

北から

南か ら

あるい は東か らの情 報を容 易に手に入 れ るこ とができると 考えたか らであろ うか。 こ の ような 地政学 的見地か ら

武 漢を 押 さえて お く とい うこ とは 当 然 考 え られる選 択肢であっ た」 と分 析さ れて い る

さ らに光 瑞は 「洋 務 運 動とい う

種の富 国 強 兵 政 策が

張 之 洞とい う

人の人物を 通し て おこな わ れてい るこ とに 関心 を持っ たの では ない か 」 「

r

国 家の 前 途』 を考え た光 瑞は あ くま でも個 人とし て考えたの であ り」 その意 味で張 之 洞とい う人 物は特に関心 があっ たの で は ない か と も指

されてい る 14)

こ の研 究 員 従 う時, 漢口本願 寺の早 期 開 設の理 由も ま た 別の 点 よ り理解できる ように思われる。 すな わ ち 開 教上有 望である とい う

教団の思 惑の枠を越えて, 今 後の 日本 とい う 国 家の前 途を考 え

ま ず 武 漢 に くさ び を打ち 込み

,清

報を収 集し

その 近

化, 工業 化に学び, さ らにそ れを推 し進 め た張 之 洞に学ぶ とい う

光瑞

図 が強くあっ た か らこその早 期 開 設で はなか っ たの か と考 え       (60 )

(11)

中 国の居 留地 と租 借 地における浄土 真 宗 本 願 寺 派 開 教と 日本 人子弟教 育 ら れる

 

さて 開設

年1907 (

明治

40)

7

月, 護 域 慧猛 が離 任し新た に井上

15)

着任

もに

,漢

口本 願

は フ ラ ンス 租 界よ り ド イツ租界 内の家 屋へ と移

してい る ま た本願寺 経 営 の 小 学 校は, 漢口居 留民 団法 施 行に と も ない 同 年

9

月居 留民 団 の経 営に移 管し

,漢

明 治尋 常 小学校 及び付 属 幼 稚 園と なっ た。 翌年の 1908

明治

41

年 5

月に は田中哲 巖が成

に転 勤とな り

龍溪

玄 義16)が 着 任て い る

こ の本 願

活 動 状 況を外 務

省外交

史 料

蔵 外

17) もとづ き見てみ ると, 当 時 漢口で活 動し て い た 日本 人

教 者は井上慈

と龍

玄 義 の

2

名の み であ り, 漢口本願

は ド イ ツ租 界 華 景 街 18) と さ れい る

漢口本

寺で は毎週 日曜日午

2

よ り法 座が開かれ

ま た毎 月

回 武 昌日本 人 娯 楽 部及 び漢口 日本 婦 人

に お い て

,精

神 講 話

,布

教 もなされて いた。 活 動 費 用は教 団よ り年 額

3000

円が

給され,

口本 願 寺 家屋の借 家 料, 駐 在 員 及び その 家 族の生活

費,

その 他 仏

や事 務 の

用 等にあて られて いた。 こ の 時 点で は ま だ在 留 邦 人に対 する

寄付

等の依 頼は し て いなか っ た よ うである

こ の 時 期の漢 口本願

だ寺 院と称 する程の の で はな く

仮に商 舗 向 き

館を

1

ヵ月

50

円の 家 賃で り 受け た もの であっ た。 そ こに本 尊を

安置

し礼 拝 所 とし てい た が

参 拝 者 も

な く毎 朝の勤 行 時 に は

5

, 6

人, 日曜

午後

の 法 座でも,

2

,30

人程 度であっ た ようである。 ま た信 徒, 門

と な る手 続ぎ も形 式上整っ てい な かっ た ようで

その数もは っ き りとし てい な かっ た

し なが ら

口に は 日本 人に よ る

教 施 設が他に な く

葬 儀な どはすべ 本 願 寺駐 在依 頼さ れてい た とい うことである。 その他に漢 口本 願 寺で は

語 夜学

校、

漢 文 夜 学 校

日語 夜 学 校 を経

教 育 活 動を行っ て いた が

すべ て無 月 謝で

,男

40

名 内外

女 性

10名

内外

中 国 人

20

の 学 生が仕 事の 合 間を利 用し学ん で い た

い ずれも成 績良好で, 布 教 目的の活 動で はなか っ た が, 将 来 仏 教 青

年会

等を組 織 する基礎と す る考

えも あっ た よ うである。

 

1911 (

明 治

44

年水上 覚 忍が新た に

口本 願 寺に着 任 するが, この 年の

10

100

に は武 昌蜂 起が あり, 井上慈

や水上 覚 忍らは邦 人 避 難 民の

送や中国

屍 体 の

容等

活 動を行っ た

同年

12

月に は在 留 邦 人

保護

口で 中 清 派 遣 隊が漢口 に駐 屯 する よ うにな る が

漢口本 願

で はこれ を受 けて翌

年 1

月に中 清 派 遣 隊 慰 問 部を設 置し兵士た ちの ため に

聞, 雑 誌, 書

籍,

娯 楽 器な ど を用 意し て建 物を

開放

した

また毎 週日曜 水 曜の午

に は井上に よ る講

も行われ

漢口本 願

上階 下は兵士で充

し た と されて い る。 慰 問 部 開 設

1913

(大

2 )

3

月 時 点で

新 聞は東 京

大 阪

,京都,

九 州 等 各 地 発

の もの

11

種 雜

は約

40

種, その

他新

書籍

100

余 冊に及んで い た とい うこ とである19) 。 教団の軍 人 慰

に対 する 日

清,

戦 争 以

も変わ らぬ熱心 さが 窺わ れ よ う

 

1913

大 正

2 )

3

月には井 上 慈 曠が 上海に転 勤と な り, 漢口本

願寺

開 設 時の駐 在であっ た 田 中

哲巖

職して い る。 こ の

漢口 の在 留 邦 人 数は

1914 (

大正

3

セこは

1380

であっ た と されてい る 2°

こ の よ う な中

手 狭であっ た本 堂を新 築しよ うとい う気 運 も高ま っ て い っ た よ うで, 田中

哲巖

寺委員

協議

建 築 用

地 の

使

用 権 獲 得な ら びに建 築 費       (61 )

(12)

       

中国の 居 留地 と租借 地にお け る浄土真 宗 本 願 寺 派 開教と日本 人 子 弟教育 補 助金下 付を申

す るため1917

6

)年11

月 帰 京し

教 団 当 局 者と折 衝した

し か しな が

 

らこ の要 求は教団の年

度議

協賛

を経べ ぎ事 項 っ た た め

1919 (

大 正

8

1

月再び帰

請を行い

教 団よ り建 築 費 補 助と して銀4000元 な ら びに敷 地 使 用の 認許を得るこ

2

がで き た。 漢口 に も どっ た 田中は同 年

5

委 員の 議を経て 漢 口総 領 事は じめ在 漢 各方面の賛 助 を得る中, 設 計略 図 及び 「漢 口木願 寺 建 築 趣 意 書」 を発表 し てい る そ こ で は 「現 租の狹 隘に して不体 裁なる仮本願 寺」「会 者を し て座 する に席なき如 き」 と漢「コ本

の現 状 を述べ , 「動 もすれ ば流 れ 易 ぎ植 民地的

習を掃酒する象 徴とし て 且 は 祖 先 崇 拝の霊域と し て教 義宣伝心身 修 養の 道 場とし て宗 教 寺院造 営の 喫 緊る は

を待た ざるべ 21) とそ 建 築 要 性

調 さ れて い る。 本 堂な らびに 対面 所の 総工費 見積 もりは

31280

両であっ たが, その大 半を

付に よっ て ま か な うこ とがで きた よ うであ

 

こ の頃 漢 口本 願 寺に は新た に平野 龍 勝

池 諦 了な ど が着 任し, 田中

哲巖

と ともに仏 教研究 会を開 き 『四十二 章 経法 華 経

量 寿な ど をて い 。 ま た暁 起 読 書 会 も 開か れ 四書

r大

学』 『中 庸』

 

『論 語』

 

『孟子』

や 『菜 根 譚が講 読さ れてい た が

田中は そ こ で

 

孟 子講 義

さ らに は西省 九江 ま出 張し, 当 時

80

余 名い た と さ れ る在

留邦

人に対し て

話 もし て い た とい うこ とである22)

 

1920 (

大正

9

)年 1

4

日漢口本 願

は 日本租 界山崎街 八号の寺 院 建 築用 敷階 建 洋 式

建物 2

棟を買 収, その

部を修 理 改 修し仮 本堂 とし て ド イ ツ租 界の 借 家よ 移 転し た 。 こ の 敷 地は かねて より本 願 寺が買 収し て い た もの で 洋 式 建 物 こ の借 地 人に よっ て

て られて い た もの で

同 年

3

月14日に は本堂

築 定 礎式が挙 行さ れたが, こ の

に は大 谷 光 瑞 や当時 本 願寺 派

長 代 理であっ た大谷尊由は じめ

支 那 開教 総 長 龍

島祐

瀬 川 漢総 領 事

陸 軍各

各 会 社 銀 行主

その

百名が列 席し た 式で は大 谷 光 瑞が吊るせ る石 を下ろ し 槌を把っ て 三 打し て本堂 の基礎を定め てい るe その後 経 済不 況 のた め

時工 事着 手が 見合わ さ れた が

翌年

2

月に は経 済 状 況 も回復し着工 す るこ と となっ た

本 堂の 設 計図

は公 募さ

応 募して き た設 計 図, 仕 様 書は

括し て教団中 央と 上海の 大谷光

の もとへ 送ら れ 選 定が な されたと さ れて い る

しか し な が ら事 実上大 谷 光 瑞ひ とり に よっ てその選 定は なされた よ う で, こ の 頃に お い て も大 谷 光 瑞の意 向が漢口本 願 寺経 営に大 き く反 映さ れてい た ことの

端 が 知 られる。 そこ で選 定さ れ た もの は

本堂は鉄 筋コ ン ク リ

トな ら びに煉 瓦 造 りで奥 行き工

0

間, 間口

9

そ れに方

20

尺の大 玄 関を設 け, 屋 根は 純 日本

院式と し他はすべ て洋 式とした もの であっ た 。 特に屋根瓦は湖南省 産の黄色瓦を用い る と され, 極め て新 しい形式であっ た と されてい る23) 。 同 年

6

16

日 に は 宗祖 親

日にあわせ 事 始めの式が行わ れ

その 後エ 程は 順調に進み 同年

12

11

日に は上

式が行わ れて い る

こ の式に は東 京 帝 大 講 師であっ た常 盤大 定 も列 席し

H

夜に は仏 教

史跡

に関する講 演も行わ れ た。

1922

(大正

11)

8

月 末に はエ事 請 負 業 者より建 物全 部の

しが完 了し, 同 年

9

5

日 よ りは法 務 教 務

切が新 本堂に て取 り

あ れるように なっ た。 これ を

けて同年

10

14,15

日に は入仏 慶 讃 法 会が支 那 開 教

長斯       (62 )

(13)

       中 国の居 留地と租 借地に おける浄土真 宗 本 願 寺派 開教と 日本 人 子 弟教 育 波 隨 性を 迎 え 盛大に厳 修さ れ た。 ま た 同月

27

日に は武 漢の 中 国 寺 院よ り

古 徳 寺の 印 清龍 波 和 尚や湖 北 仏

学院 院 長 太 虚 和 尚24) ら 百余 名の中 国 僧が

参賀

に 訪れ た と されて い る

成した

しい 本 願 寺は本 堂, 表正門, 庭 園, 仮 対 面 所

仮 本堂 と してい た二 階 建 洋 式 建

物)

, 貸

長 屋

敷地内の二階

洋式 長屋

7

とか らな り

ま た 前 田慧 雲 撰 文に よ る漢口本願 寺 記 碑 も建 て ら れ た。 法 会に

列 し た漢口 日報 社長の 岡ば

その 祝

の 中で 「共

築ノ壮 大 輪

ノ燦 然タ ル 遠ク大 連 上 海ヲ凌ギ内地ノ 大 寺 院 ト相ス ル モ ノ ア ラン トス ル 」25)と

賞賛

し てい るが, 『漢 口本 願 寺 創 建

に 掲 載さ れ た写

を見る限 り

大連の 関 束別 院 や 上

別院の

ほ どで は ない ものの大 寺 院であっ た こ と が知ら れる こ の 本堂

設に

走し た 田

中哲巖

の 翌年

2

月に辞 任し帰 国して い る。

 

その

後1924 (

大正

13)

6

月 大 連よ り原田玄 訥が漢口本 願

に転 任し,

9

月に は上海より足 立学 念が2e) 転 任してきた

足立学 念は

1927 (

昭 和

2 )

4

武 漢 国民

政府

介石の南

国 民 政 府との 立に よ る と見られる事 件に よっ て負 傷し

帰 国し てい る 同 年

10

月駐

員さ れたが

何らか の理 由に よ り翌年 解 職され

再び足 立学 念が

1929 (

昭 和 4

)年

9

月漢 口に も どっ てい る

ま た原田玄

1932 (

昭 和

7 )

5

月に

養の ため離 任し

6

月セこは上海 に て死亡 した。 その

足立 学念が漢口 本 願 寺主任となるが,

1936

(昭 和

ll

) 年

9

月に離

新た に白 石

照27) が

任し て い る

足立の離 任 直 前の 同

年 8

16

日に漢口

領 事に 提 出さ れ た 「本 願 寺 設立届 書28)」 に よる と , この 時 点で の漢口本願寺の現 況は次の よ う で あっ た と さ れてい る、     名 称, 浄 土 真 宗 本 派 本願 寺 漢 口出張 所

  

所 在地

中 華 民国漢口 日本 租 界山崎 街二     宗 派 系 統

浄土真 宗 本 派本願 寺

  

尊,

阿弥 陀 如 来

  

物,

本堂

正門

,庫

住職住宅

  境内

427

英 方

836

    境 内付 属 建 物, 貸 家

4

ヵ所

  

檀 信

戸 数

400

  

持 方 法 経 常 費は浄 財 並びに貸 家 賃 臨 時収入等    不 動 産

土 地 な し

     

本 堂

正門

住職住宅

,貸

(7

棟 建 長 屋を含 む

10

  

物,

なし

 

1938 (

昭 和

13)

10

月 白石顯照 が

任し

,楠

善 孝29)本 願 寺 主 任就 任し て る が

の頃に はすで に 日本 軍に よる武 漢 作 戦が開 始されて お り

漢口在

邦 人も

総引

き揚 げと なっ て い た ため

,実

上活 動は停 止し てい たもの と思わ れ る。 同

年10

27

日武 漢は 日本軍に よっ て 占 領さ れる が

そ れに先立 ち中 国 国 民 政 府は 日本 租 界 内

及び 日本 権 益の もの をことご とく

破        (63 )

参照

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