芥川の習作作品に見ゆる
白秋の投影について
久 野 ヅ 子 ア 僕等の散文が詩人たちの恩を蒙ヲたのは更に近い時代に もない訳ではない。ではそれは何かと云へば、北原白秋 氏白一散文である。僕等の散文に近代的な色彩や句や与え たものは詩集﹃思ひ出﹂の序文充った。︵﹁文芸的な、余 り に 文 芸 的 な ﹂ ﹀ 芥川竜之助は、最蝿年のエッセイの中で初期白秋に讃辞 を送うているが、果して習作期と目される時期の芥川の作 品には、当時の耽美主義的志向の文学|殊に前掲の言を裏 書する如く、その波の代表的詩人北原白秋の投影が著し い。既に短歌に沿いては、木俣修、吉田精一、中村真一郎 の諸氏が数首ぞそれと指摘された。然し芥川自身の記述に もある如く散文にも叉見捨て難い白秋の影を発見する。芥 川の文学母胎について村松定孝氏は、﹁耽美主義的浪漫主 義﹂をその条件の一に挙げられているが、その一環と見る べき白秋の投影は一顧に価するものと思われる。而してこ の期の芥川の作品に実証的に白秋の影や指摘する事を試み た後、芥川の白秋に受けた影響についての一私見を述ぺて 見 ょ う と 思 う 。 亦川における白秋の投影 ﹃ 大 川 の 水 ﹄ と ﹃ 思 ひ 出 ﹄ の 序 明治四十五年一月、小品﹃大川の水﹄が書かれた。乙の小 品は東京人芥川の、云わぱ心の故郷大川端と感受性鋭い幼 少年時に対する浪漫的な﹁思慕と追憶の書﹂とでも云うぺ き作品で品る。佐々木信網はとの﹁大川の水﹄に初めて﹁芥 川君を知り、乙とに芥川君の文章を知った﹂と述べられて いる由である。さて﹃大川の水﹄に大川の流れぞ叙する美し い、修辞に満ちた、共のような文章がある。 吾妻橋、厩橋、両国橋の問、脊泊のヤつな青い水が、大 きな橋墓の花山岡石と煉瓦とをひたしてゆくうれしさは云 ふ迄もない。岸に近く、船宿の白い行燈をうっし、銀の葉 うらを翻す柳をうつし、昨加門同制料相引凶日附働制音 州 向 引 制 劃 引 討 を 、 − − 一 紅 剰 割 引 相 同 制 刷 剖 劃 料 引 問 、 開 制 い よ わい家鴨の羽にみ冗されて、 f 人J
到創刊岡叫割配間叫淵 刑 制 州 制 嗣 利 引 制 削 叫 | 共 重 々 し い 水 の 色 に 一 五 ふ 可 ら ざ る 温 情 を 蔵 し て ゐ る 。 しかしながらとれは、芥川による嘱自のスケッチではな い。乙れには実に先行する白秋の文章があった。乙の時よ り約八カ月前、間十四年五月に刊行された詩集﹃忠ひ出﹄の 序﹁わが生ひたち﹂中の一文がそれである。 水は清らかに流れて廃市に人り、廃れはてた出。 m 山 内 ﹀ 同 4 I l l − l o l l i − − I l l 1 1 1 1 屋︵遊女屋︶の人もなき厨の下を流れ、洗濯女の白い酒 1 - 2布 に 注 ぎ 、 水 門 に 堰 か れ て は 、 三 味 線 の 一 耳 目 の 緩 む 昼 す ぎ を小料理屋の黒いグ判川引制相同劇割、酒造る水とな り、汲水場に立つ湯上りの素肌しなやかな肺病娘の唇を 轍雪、知叫掛川間引割削侵剖刷、さうして夜は断剖謝川町 な つ か
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制働叫州七劃刷引い州制劃創刊樋を隔て L 海 近き沖ノ端の械川に落ちてゆく。 白秋は郷里柳河の溝渠の水の流れを、とのように﹁わが生 ひたち﹂に叙していたのであった。﹁大川の水﹄中の芥川の 文章が、白秋の乙の文章の全き模倣である事は一目瞭然で ある。即ち芥川は白秋の、柳河溝渠の水の@﹁観音詳のな つかしい提燈の灯をちらつかせながら﹂を①﹁船宿の白い 行燈を、つつし﹂と表現を改め、@﹁水門に堰れでは、三味 棋の音の緩む昼すぎを﹂を②﹁水門にぜかれては三味線の 音のぬるむ昼すぎを﹂と用字を変えてその俵移植しの﹁黒 いグアリヤの花に歎き﹂を③﹁紅芙蓉の花に歎き、ながら﹂ と花を改め@﹁気の弱い鷲の毛に擾され﹂を④﹁気の弱い 家鴨の羽にみだされ﹂とし、@﹁人もなき厨の下を流れ﹂ を@﹁人気のない厨の下を静かに光りながら流れるのも﹂ と、或は修辞を加え或ば節を削除し前後しつ L 、大川の水 の流れの描写を換えたのである。﹁大川の水﹄と﹁わが生ひ たち﹂には、と L を一設の頂点として幾多の類似的筒所が 散 見 ぜ ら れ る 。 一 一 一 段 落 よ り 成 る ﹃ 大 川 の 水 ﹄ の 二 章 と も 云 う 可 き 才 こ の 段 落は、共のような地理的具体性をもった叙述で発展する。 此大川の水に撫愛される泊岸の町々は、皆自分にとっ て、忘れ難い、なつかしい町である。吾妻橋から川下な らば、駒形、並木、蔵前、代地、柳橋、或は多国の薬師 前、うめ堀、横綱の川岸|何処でもよい。閏疋等の町々を 通る人の耳には、日を、つけた土蔵の白壁と白壁との間か ら、︵時︸磨いた硝子板のぞうに、青く光る大川の水は、 凹 l l i l i − − − 共冷な潮の匂と共に、品目ながら南へ流れる、懐しいひい λ きをったへ℃くれるだらう。 乙の冒頭の文の運びは﹁わが生ひたち﹂の同じく二章と云 うべき﹁ 2 ﹂ D 冒頭の文の運びに酷似している。それは次 の 文 で あ る 。 私の郷虫柳河は水郷である Q さうして静かな廃市の一ハ J である。自然の風物は如何にも南国的であるが、既に柳 河の街や貫通する数知れぬ溝渠のにほひには日に廃れゆ く旧い封建時代の白壁が今なほ懐しい影を映す。肥−街路 より、或は久留米路より、或は佐賀より筑後川の流を越 えて、わ一が得に入り来る放びとはその周囲の大平野に分 岐 し て 、 週 引 劃 引 制 劃 ー 叫 剣 町 此 引 ー も 口 紅 劃 劃 刷 U 八 l Z 山 川 河 水を限にするであらう。 即ち芥川の①沿岸の町の説明。②地名の列挙、③⑨すコ一者 を 設 定 し て の 推 且 一 文 、 と 一 五 う 文 の 運 び は 白 秋 の @ @ @ @ の それと同じである。大川端身叙そうとする芥川の脳裡には、白秋の ζ D − 一 ュ ア ン ス に 富 ん だ ﹁ : : : 水 郷 で あ る ﹂ ﹁ : : : 影 を 映 す ﹂ ﹁ : : : 眼 に す る で あ ら う ﹂ と 云 う 種 々 の 終止を以って運ばれる、リズミカルな文白余韻があったの で は あ る ま い か 。 ﹁大川の水﹂の序的性格を持つ守一段落の一文と、﹁わが 生ひたち﹂の等しく序と云うぺき﹁ 1 ﹂の一文に叉二三の 類似性が感じられる。即ち芥川の幼少時の追曜の表現は、 著しく白秋の表現に近似しているのが感じられる。酷似し た比晩、白秋 D 詩文に頻出する﹁をののく﹂の動詞、素 材の使用、各官能を交錯せしめた感覚的表現、殊に色彩語 の使用が著しい。綜巳て﹁大川の水﹂には、構成的に一部、 表現技法 D 上に著しく﹁忠ひ出﹄の序﹁わが生ひたち﹂の反 映が認められる。猶叉両者には一極の﹁追懐文学﹂と一五う 性格の一致も認められる。 2 ﹃ 桐 の 花 ﹂ と ﹁ 秋 ﹂ そ の 他 明治四十三年間月の書簡に共の歌がある。 ① 川 ゃ な V A ﹂薄紫にたそがるる汝の家を忠ひかなしむ ①ヒヤシンス白くかほれり窓掛のかげに汝をなつかしむ タ ③夕潮に春の灯、つつる川ぞひのリ伎の家のしたはしきかな との三首には﹁柄の花﹂の影がある。白秋は問二年五月﹁ス パル﹂誌上に、それに﹁柄の花﹂の新風は成るとされた﹁も ののあはれ﹂六三首を発表していたが、それには共のよう な 歌 が あ る 。 @猫ぞな智薄紫に光りつ L 暮れゆく人はしづかにあ ゆ む ヒヤシンス薄紫に咲きにけりはじめて心顛ひそめ @
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ν 口 H 春の烏な鳴きそ鳴きそあかあかと外の商の草に臼の 入るタ 恐らくこの時の芥川は、乙れら白秋の歌に接していたもの と思われる。才一に﹁川ぞな智措紫にたそがるる﹂﹁ヒヤ シンス白くかほれり﹂と云う、色と匂ひとを交錯せしめた 感覚的表現である。これは明らかに﹃桐の花﹄の個性であっ た。芥川の脳裡には例えば④ぞ@の歌の戦くような新感覚 の感激が刻鐘されていたのではあるまいか。﹁薄紫﹂の色 彩語は既に@@に見える如く屡々白秋の詩歌に見出され、 叉短歌にヒヤシンスを初め西洋草花を取り入れたのも﹁桐 の花﹂の側性であった。更に①のリズム、気分、用語は@ のそれに酷似し、②の二句切のリズムはののリズムに同じ と 一 広 得 る 。 余 情 の 揺 曳 を 、 つ な が す ﹁ 汝 を な つ か し む タ ﹂ の ﹁タ﹂の名詞止は、後歌集﹁桐の花﹄の巻頭を飾るのの歌に おいて、極めて印象深く歌われていたのである。③、恐ら くとれが芥川の地の歌であろう。歌意としては三首とも、 乙んな夕暮には君が懐しい、と一不つ棋のものである。それ がの②の歌ではその背景を叙するに誠実な現実の写実はと。
- 4ーられず、﹃桐の花﹂の感覚情調で染められて了ったと見得よ 、 っ ム ﹂ m也 、 っ 。 大正二年一月、﹁柄の花﹄が刊行されたがとの年の芥川の 書簡には、その亜流たるの何者でもない短歌の数首が見出 さ れ る 。 一 二 四 信 中 に ﹁ 秋 ﹂ 一 連 の 歌 も そ れ で あ る 。 ⑮挨及の青き陶器の百合模様杭はつめたくひかりそめ け る 。 ⑬秋風は清国名産甘楽とかきたる紅き提灯にふく ⑦鋪銀の醐取蜘妹をまづ活かし秋はさぞかに光りそめ ぬ る ︵ 桐 の 花 歌 ︶ @ちりからと硝子問屋の燈能の塵挨うどかし秋風の吹 く ︵ 桐 の 花 歌 ︶ ⑩は⑦の換骨、叉⑬も@の換骨と見得ようと思う。三五信 ﹁ 秋 の 歌 ﹂ 一 連 。 そ の 一 首 、 ⑬秋風よユダヤ生れの年老いし宝石商もなみだするら む @いと憎き宝石商の店を出で泣かむとすれば零ふりし き る ︵ 桐 の 花 歌 ︶ ⑭の宝石商と一五う側性的な素材であるが、との素材は一例 は@に見えるが、白秋の套語と云わねばならない。叉野田 宇太郎氏は白秋阜、杢太郎を﹁新時代の詩人として価値づけ たものは︵略︶思ひ切った斬新な詩的感覚とし℃発見され たボキャブラリイの新しい発掘であった﹂と述べられ、そ れに﹁阿蘭陀﹂﹁羅民人﹂等々ふ乞挙げられているが、﹁ユ ダヤ﹂は正しくその系統に属し、何か西洋的感覚の﹁宝石 商﹂のボキャブラリイも、白秋等により発掘された新素材 の一であろうと思われる。 芥川の短歌は、その端緒を明治問十コ一年の書簡中に、以 後 ﹁ 紫 天 曹 紙 ﹄ ﹁ 客 中 恋 ﹂ 、 ﹁ 若 人 ﹄ の 作 品
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大正一芸 aから三年 の作品を国点に、白秋の﹁相の花﹂の知歌精神を著しく反 映させているのが認められる。即木俣氏が述べられた如く 感覚情緒、りズム、一語一旬の末まで及んで﹃桐の花﹄の模 倣歴然たる事が認めら hU る の で あ る 。 3 ﹃ 老 年 ﹄ D 一 文 と ﹁ 零 ﹂ 処 女 小 説 ﹁ 老 年 ﹄ は 大 正 三 年 四 月 、 ゃ 4 コ 一 戎 ﹁ 新 思 潮 ﹂ に 発 表された ω 東大英文科一年の時の作品である。吉岡精一氏 はこの作品の追憶民生きる詩情と雪の日の大川端情緒は、 共に額唐抵の好んで眼目としたものであると述べ、頭唐祇 文学の余響を指摘された。﹁老年﹄に一カ所、小止みなく零 の降る戸外の叙述がとられている。 長い廊下の一方は硝子障子で、庭の刀柏ぞ高野横につも った零がうす背く暮れた聞から、暗い大川の流れをへだ て L 、対摩のともしびが寅いろく点点と数へられる。川 の宰をちりちりと銀の鋲をつかふヤつに、二声ほど千鳥 が鳴いたあとは、三味線の声さへ聞えず戸外も内外もし んとなった。きとえるのは、薮柑子の紅い実をうづめる 5-雪の音、雪の上にふる雪の音、八つ手の葉をすべる雪の 音が‘ミシン針のひ H A くずつにかすかな崎きをかはすば かり、話し声は業中をしのびぞかにつどくのである。 この二つの感覚的な比晩ぞ含む、詩的ムードの強い文章に は、白秋の影があると思うのであるが、具体的なそれとし ては﹁東京景物詩﹂中の﹁雪﹂である。即、﹁零﹂の詩が持 つ零のつむ夜のしめぞかな情景と時間の経過が、との一文 に生かされているように思われる。傍観ぞ施した比職表現 は 正 し く ﹁ 壁 一 己 の 、 ﹁ 幽 か な 瞬 き : : : 幽 か な ミ シ ン の 針 の /薄い紫の生絹を縫うて刻むやうな﹂の表現を、変形復活 させたものと思われる。﹁ちりちりと銀 D 鋲をつかふぞう に﹂の表現も、白秋に波生した表現と推察される。中村氏 は、芥川は﹁実に純粋に意味を伝達する冗け白、論理的で 主観を殺した文章は一行も書いたととはなかった。常にそ の文章は詩的世界を背後にもっている﹂と述べられている が ‘ そ れ は ﹃ 老 年 ﹂ の 文 章 に 云 い 得 る 事 で あ り 、 ﹃ 老 年 ﹄ に お ける芥川には、その詩的雰囲気のための素材や技巧を白秋 の文学に負っているのが認められるのである。 三 結 び 千八百九十年代は僕の信歩る所によれば、最も芸術的な 時代だった。僕も亦千八百九十年代の芸術的雰囲気の中 に人となった。かう一試ふ少時の影響は容易に脱却出来る ものではない。僕は近頃年をとるにつれ、しみじみこの 事 実 を 感 じ て い る 。 芥川竜之助の文学的青春巻培った、﹁最も芸術的な時代﹂ における文学の一に、私は北原白秋の文学が数えられねば ならぬと思っている。それは短歌のみに・おいてではない。 叉短歌にしても、それは単喝なる短歌枠内の問題として全く 散文とは波交渉に処理さるべきものではないであろう。 それでは、習作時に著しい白秋の感化投影は、芥川に如 何なる晴好守影響を残したであろうか、それについて D 一 私見とは未だ微々たる感想に過ぎないけれども、芥川の色 彩に対する関心とでも云うべきものは、白秋に負う所が大 きいのではあるまいか、と一試う事である。林健太郎氏は、 芥川の作品ぞ読んだ後には﹁いつも何かはっきりした
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あ るいは強烈な、あるいは清澄なl
色彩感が残る﹂と述ぺら れているが、確かに芥川の作品は強烈な或はあざぞかな色 彩の世界を持っている。そ乙には光覚色覚を持つ素材ぞ事 象物象の配置があるが、注意すぺきは色彩巴よる修辞守分 析が多見される事である。即ち芥川にとって色彩は主要な 修辞の一となっているらしく思われるが、との手法とそ、 色彩の美で表現を修辞する手法とそ、習作時芥川が白秋ば りの色感を駆使し、唯美的な文章を綾ったその名残りでは ないか。叉芥川は﹁僕には時と場合でとても使えない語が あったり、句の調子が気になったりするのだから仕方がな い。たとべば柳原と云ふ町の名前でも、一面にそといらが 6-続になるぞうな気がして、その様に折合ふぞうな外の請が ない以上、どうしても使ふ気にはなれない﹂と述ぺている が、この色感に敏感で、叉創作においても絶え十色彩の配 合を考慮する創作態度は、その青年時心酔した、絢澗たる 色感の詩人内状の文学に、或は白秋等白文学に砕発された 所もあるのではなかろうか。 芥川に対して U K も深い影響を及ぼした日本の作家ば、淑 石と鴎外の二人であるとされている。然し叉芥川はこの二 人とは異質な作家である事も言及されている。古川氏はそ の根本を、夫々が是場とした西洋の健康なそれと、精神の 病患と感受性の過多に悩む世紀末の西洋’との相速において 見られているようである。芥川には散石鴎外には見られな い叉一つの唯美的な特質があった。それには芥川自身の奇 質にも加えて、その青年時等しく世紀末西洋を足場とし反 映さぜ、日本の文壇に﹁最も芸術的な時代﹂を作った先達 耽美主義との関連が必然化して来る事になろう。村松定孝 氏は、芥川の形式美を重んずる芸術至上主義の源泉と、後 年キリシタンに取材した南蛮小説の粛芽とを、との風潮に 置こうとされている。芥川と白秋、叉芥川と耽美主義文学 との問には、二三の氏の啓蒙はなされているが、猶かえり みるべき問題があるように忠われる。 ︵ 三 十 三 年 度 卒 業 ︶