『農業大綱﹄について
高
沢
裕
一
一 21
本 稿 の 主 要な目的は︑近世後期︵一九世紀初期の頃︶ の能登地方に関する農書﹁農業大綱﹂を紹介することであ
る︒そのために︑原文を掲載しながら︑さしあたりの解説と分析を試みることにしたい︒この農書を紹介する理由
は︑それが近世の能登地方における比較的まとまった稲作農業技術の著述として︑今のところ唯一のものだからであ
る︒この書を最初に研究の素材としたのは安田健氏であり︑その後筆者が一部を史料として扱い︑最近には﹁志雄町 ︵−︶史﹄︑﹃押水町史﹄に相ついで要約した内容が示されているが︑原文は未公表であった︒ おぎのやち
農『
業 大綱﹄は︑石川県羽咋郡志雄町荻谷の岡部幸雄家所蔵の一本と︑その写本である金沢市立図書館加越能文庫
の 一本とが知られる︒岡部家は代々荻谷に居住し︑加賀藩時代に十村役として能登国羽咋郡の押水組あるいは邑知組 を 裁 許した家柄である︒その旧蔵文書中にある本書は袋綴︑墨付二二丁︒表装はいつの頃か補修されていて︑表には題
字がなく︑内側に﹁農業大綱 完﹂と記されている︒序文︑践文︑著者名はなく︑成立年代も記されていない︒裏表紙
の内側には﹁岡部氏﹂と記してある︒金沢市立図書館本は︑前田家編輯方が明治の頃に筆写した写本で袋綴︑墨付二 一丁︒農具の図の部分以外は縦罫のある用紙を使用している︒表紙には真中に﹁農業大綱 完﹂︑その左下方に
「能州羽咋郡 岡部蔵所﹂と記し︑右下隅に﹁校了﹂の朱印が捺してある︒岡部本の写本であることは︑内容の照合の結果︵後
22
述︶からも︑まずたしかであり︑同じ加越能文庫中に岡部家の旧十村役関係文書の写本もあるから︑これもおそらく
直接の写本であろうと考えられる︒
ここに掲載する原文は岡部本によった︒岡部本と金沢市立図書館本の内容を照合すると︑ひらかな・万葉かなの一 部を漢字に直したり︑その逆にしたりしていること︑わずかの誤写があることが相違点であるが︑岡部本の誤字︑当 て字︑誰言︑判読不能字︑桁字もそのまま写しており︑また農具の図はおそらく輪廓は影写したらしく細部以外は酷 似している︒このように金沢市立図書館本は岡部本に対して異本というにあたらず︑助字等の書きかえは古文書学な
いし国語学的な考究を目的としていない本稿の性質からして︑一々校訂するに及ばないと考えて原文には注記しなか
った︒それよりも︑農書としての内容紹介を第一の目的とするので︑ここに原文を活字化するにあたって︑底本にお
ける万葉がなは︑近世文書の活版印刷の際に通常用いられる用字︵者︑江︑而︑茂など︶以外はすべてひらかなに直し
て 読 み やすいよう配慮を加えた︒
ただ︑農具の図は︑金沢市立図書館本所載のものを写真で掲示した︒というのは︑岡部本の図は線描きの上に薄墨 で 彩 ︵2︶ 色してあるため︑写真版で掲載すると細部までを明示することに技術的な困難があるので︑やむをえず線描きの 部 分 ︵3︶ だけを模写して薄墨を塗っていない金沢市立図書館本を用いた︒
た だし︑底本とした岡部本自体が写本であるように考えられる︒その理由となる点は︑いくつかの誤字や文意不明
の箇所のうちにつぎのようなものがあるからである︒たとえば杁︵エブリ︶を机と記したり木扁に心と記したり︑稲 扱きの扱を正しく記したり拓と記したり︑ヌカを正しく糠としたり糖としたり︑またキネを正しく杵としたり誤って
科としたりして不統一であること︒千歯扱きの図の説明に﹁稲拓 コヰヒ本有﹂とあるのは︑稲扱の歯数が四十七本
あるという意であろうが︑本文中で四や七の数字は正しく書かれているから︑図の説明文が細字のために筆写の際に カ
正しく読みとれなかったことを示すように思われること︒﹁田ヲカク形﹂の図でも︑馬鍬の歯数の説明が﹁コト云八
本有﹂と意味不分明な文があり︑本文中にも﹁刈ぐ也﹂といった判読困難な字︵﹁刈二くし﹂カ︶があって︑同様に考え
られること︒また︑田を梨く図の上方の説明文中に﹁画之表少シ相違也﹂と記されているのは︑筆写の際に書き込み
した部分ではないかとも考えうることなどである︒
はまずたしかである︒一反当り種子籾の入用図り︵②︶は﹁能州筋﹂についてだけ記しており︑稲の品種についても つも このように著者も成立年代も未詳で︑原本の所在も知られていない本書であるが︑能登についての農書であること
今「
能州筋に流行ものにハ﹂云々︵⑳︶とあり︑畠稲は﹁能州﹂に適さずと述べ︵⑳︶︑稲束について﹁今能州筋杯三 手 打も二手打もする﹂としている︒そのあとに﹁金沢近在﹂の場合を記すが﹁亦売買によろしと見へたり﹂と伝聞と
して述べている︵⑳︶︒
二 23
『農 業 大綱﹄の成立年代は未詳であるが︑内容から近世後期であると推測できる︒その理由の一つは︑種の池入れ
の 時期について述べた箇所︵⑤︶に﹁宝暦年中以前迄ハ彼岸中日までに種池入せしと見へたり﹂︑および︑当時︑彼岸
の 終り頃に種池入れする理由として﹁宝暦暦も寛政暦二も春彼岸より春土用前日まで三十三日有故なり﹂と記してあ
ることから︑本書の成立が寛政暦施行以後であることがわかる︒また﹁宝暦年中以前﹂︵宝暦暦施行以前︶については
「⁝⁝と見へたり﹂と伝聞として記述していることから︑著者はその時期を体験していないと推測できる︒宝暦暦は 宝暦五年︵一七五五︶より施行され︑四三年を経て寛政一〇年︵一七九八︶より寛政暦が施行され︑四五年後の天保一 四 年
(一 八 用されていた四五年間︵一七九八〜一八四二︶と推定することができる︒ ︵4︶ 四三︶からは天保暦に改められた︒なお︑天保暦については言及がないことから︑成立年代は寛政暦が使 さらに推定成立年代の幅をせばめることはかなり困難であるが︑傍証として農具の種類および稲の品種名について
24
︵5︶
検 討しよう︒その結果として︑右の四五年間の比較的前の時期の成立を推測できるのではないかと考えるのである︒
農具の図のなかに︑三ッ鍬︑千歯扱き︑千石摺︵トロゥス︑泥臼︶︑唐箕︑千石とおしが描かれているが︑これらは 近 世中期に改良・発明された一連の新式農具である︒三ッ鍬には﹁熊手︑三ッ鍬︑近年ノ農具也﹂と説明があるが︑
天明七年正月の勧農の触や越中砺波郡の天明八年の農書﹃私家農業談﹂に﹁近年﹂に出現した農具として述べてお
り︑千歯扱きは︑すでに正徳五年の石川・河北郡十村からの書上げの中で︑その頃から現地で製作されるようになっ
たことを述べている︒土日︵泥臼︶についても天明元年石川郡の﹃耕作大要﹄︑同八年﹃私家農業談﹂にみえており︑
︵6︶ 唐箕︑千石とおし︵唐けんどん︶も﹃私家農業談﹄に記述があって︑正徳・享保の頃より使用されたという伝聞をの べ て いる︒したがって﹃農業大綱﹄は︑そうした一連の農具の改良がみられたのちに成立した農書であると考えられ
るが︑三ッ鍬が近年の農具であるとの説明は︑右の天明期の二史料と同じであり︑能登という後進的様相を持つ地域
の ため︑寛政末年以後において﹁近年﹂出現のものであったとしても︑天明より︑どれほどおくれて導入されたもの
であったろうか︒特別に高価でもない三ッ鍬の導入をあまりおくらせて考えなくてもよいのではないかと思われる︒
稲の品種名から年代の推定を試みるために﹃農業大綱﹄に記されている三一種︵但し赤もちが重複している︶について︑
文 化 九 年
(一八一二︶と天保九年︵一八三八︶の能登口郡︵鹿嶋・羽咋郡︶地域の稲品種書上げとを比べてみた︒結論的に 云 えば︑文化︑天保の品種名と合致するものがみられ︑なかでも文化九年のそれとより合致する︒文化九年八月の口郡
「稲之名書上申帳﹂︵岡部家文書︶に記載された早稲二五種︑中稲二七種︑晩稲五五種︑計一〇七種の品種名を表示し
︵7︶
たが︑そのうち下線を付したものが﹁農業大綱﹄にみえる品種である︒そのうち﹁あらきもち﹂と﹁目黒もち﹂が二 つずつあるので一八種が両書に共通する品種である︒もつとも︑このほかに﹁農業大綱﹄の﹁ヨツヤ坊主﹂を文化九 年 の
「よつや﹂に︑﹁アイサカ﹂を﹁あい坂坊主﹂ないし﹁あい坂見出シ﹂に︑﹁シロヤマト﹂を﹁大和﹂に︑﹁サ︑
カワ﹂を﹁毛笹川﹂ないし﹁笹川坊主﹂に︑﹁チョマチ﹂を﹁千代町ばやり﹂に比定することもできるように思われ
25
文化9年(1812)能登口郡の稲品種
早稲(25種) 中 稲(27種) 晩 稲(55種)
2幽よつや,三
拠赤わせ,白わせ,
なべしま,単わせ,やら ともち,あい坂もち(毛 山口・やわらもち),矢駄 はやり,波しばり(小はせ),
あい坂坊主,あい坂見出 シ,宿屋坊主,多根わせ,
山てらし,いつてつ,お みかけ,京坊主(坊主わ せ), やようか,しらか
(きやうでん・用三九郎),
土川,中嶋わせ,黒もち
(あめもち),うるもち(福 浦もち・やわらもち)
彼岸見出シ(彼岸みとろ)
あらき(やとめ・大和),
石太郎,こだけ,あらき 坊主(やとめ坊主・石崎 坊主),市郎平(ひきず り),五郎松,黒あらき
(黒やとめ,かねまさ),
仁兵衛見出シ,千右衛門 坊主(こっそり・さべら す),かのう坊主,とん ちやん坊主(ばけ物・江 戸坊主),目黒もち(しや
うだい),獅子くわず,関 東坊主,今浜(ちうけい),
八升もち(やわたもち),
西国,万ばい,やつしろ,
しら川,横川越後坊主,
古府ばやり,万右衛門,
盆ばやり
しなしな(入せい),森右衛門,でじろ,
きんちやく(おと丸),やまなか(用ひ きずり),伊勢しろ,あらきもち(加賀 もち),大和もち,願正寺(赤坊主),
とうしろ,どんちやん(ばけ物),千 代町ばやり(赤稲・赤あらき・源兵衛は やり),あらき坊主(みやこ坊主),そ より,忠兵衛はやり,やしろはやり,
をう川,ゐんきよ,深田坊主(越中は やり),三助(頼政),かふずん,藤九 郎坊主又助,みろく,嶋田坊主,黒 田,けいとしげ,中条坊主,あらきも ち(大和もち),平左衛門坊主(新左衛 門坊主),黒坊主(川上坊主),三助坊 主(目黒坊主),目黒もち,加賀はや り,横川もち,笹川坊主,大伊勢しろ,
みとろ,弁慶,五郎丸,品川,出ばえ,
白竹,中田,赤まで,てりしろ,千代 町坊主(赤みやこ),あせ越もち,お たき,寺見出シ,ござれもち,小崎,
毛笹川,たて山坊主,白馬坊主
。史料は文化9年8月「稲之名書上申帳」(志雄町荻谷,岡部家文書)。
。括弧内は十村組のちがいによる別称。
。下線は『農業大綱』に記されている品種。
るし︑﹁シトロ﹂を﹁ミトロ﹂の誤
記と考えた方がよいとも思われるの
で︑そうすればさらに六種ほども共
通
することになる︒なお︑品種名は
比
較的狭い地域ごとに別名で称され
ることがあって︑たとえば﹁コツソ
リ﹂と﹁サベラス﹂︑﹁アラキ﹂と
「ヤトメ﹂などは﹃農業大綱﹄では
別 種
のごとくに記され︑文化九年書
上げでは同種異称とされるように定
か で な い
ので︑照合も正確を期しが
たい︒
つぎに天保九年の口郡邑知組四二
ヵ村の﹁種籾高書上申帳﹂︵岡部家
文書︶と比べると︑﹁八八日﹂︑﹁よつ や坊主﹂︑﹁ついなひき﹂︑﹁相坂﹂︑
「赤わせ﹂︑﹁石太郎﹂︑﹁あらき﹂︑﹁や
とめ﹂︑﹁彼岸見出シ﹂︑﹁しなしな﹂︑
「笹川﹂︑﹁さへらん﹂︵さへらす︶︑﹁こ
26 つそり﹂の一三種が照合できる︒この天保の書上げには橋米の品種が記されていないようであるが︑梗米について
は︑さきに文化の書上げと照合できた︵先述一八種に六種も含めて︶品種以外のものはなく︑文化と照合できた﹁キヤ
ウデン﹂︑﹁シラカ﹂︑﹁シトロ﹂︑﹁カ〜ハヤリ﹂︑﹁チヨマチ﹂︑﹁シロヤマト﹂︑﹁マタスケ﹂が見当らない︒この点か
ら︑﹁農業大綱﹂は天保期よりも文化期により近いのではないかという推測を抱かせる︒﹁今︑能州筋に流行マタス
ケ﹂云々と記された﹁又助﹂が文化に見えて天保に見えないのもそうした推測の一因となるが︑また羽咋郡新保村久 ︵9︶
左 衛門家の文化三年︵一八〇六︶手作り地の稲品種中に﹁中条もち﹂︵﹁チウシヤウモチ﹂と照合︶の名がみえるのも傍証 になろう︒
化期の普及・優良品種には﹁三九郎﹂︑﹁単三九郎﹂︑﹁きんちやく﹂などが含まれていたようであるが︑﹁農業大綱﹂ ︵−o︶ さらに︑文化と天保のどれか一つの年代にだけ記された普及品種ないし優良品種と目されるものをくらべると︑文 の
「キヤウデン﹂︑﹁シラカ﹂が﹁単三九郎﹂と同種とされている︵表参照︶︒天保九年の書上げでは種籾量と播種する
村数がわかるが︑それらの数量の多い品種の中で文化期に記されていない﹁ばん毛﹂︵白ばん毛︑黒ばん毛など︶︑﹁小
林﹂︑﹁中川﹂︑﹁よし川﹂などは﹁農業大綱﹂に記載がないのである︒
稲の品種の名称が﹁同種二而も所々かわりありて﹂とか︑﹁在々所々にかわりありて一様ならす﹂︵⑳︶といい︑村
により土質により︑また農家の好みによってもさまざまな品種の組合せがなされて︑その意味で稲の品種の検討によ
る年代推定は必らずしも確実な方法ではない︒しかし︑﹁農業大綱﹂が能登地域の農事を一般的に語ろうとする姿勢
を持つことをふまえて︑あえていえば︑やはり天保期よりも文化期に近い年代であるように考えたいのである︒
三
『農業大綱﹂は農書一般としては大部なものではなく︑綜合性︑体系性や精細性もさほど高く評価できるものでは
27
ない︒加賀藩領の加越能三州には﹁耕稼春秋﹄︵石川郡・宝永四年︶︑﹁農事遺書﹂︵江沼郡・宝永六年︶︑﹃私家農業談﹂︵砺
波郡・天明六年︶の優れた農書があるが︑ほかに﹁耕作大要﹄︵石川郡・天明元年︶や﹁耕作仕様考﹂︵砺波郡.天保八年︶︑
「開作仕様﹂︵地域・年代不詳︑文政・天保期か︶が知られており︑本書はそれらに列しうるだけの内容を持っている︒
とくに能登地域に関する農事のまとまった著述として唯一のものである点で研究に資することが大であると思う︒ ︵11︶
そ の内容の一々についての分析は今後に果されるべき課題である︒今は農書としての性格︑著者の立場について考 え ておこう︒
農「
業 大綱﹂の内容構成は︑本文が﹁三ケ国斗代御定﹂以下三八項にわたり︑そのあとに農具の図を付し︑追加と
して﹁免を仕立る大法﹂を加えている︒冒頭の斗代御定と末尾の免仕立の法は加賀藩の農政制度に関するものである
が︑他の主要部分は稲作にしぼつた農耕技術について記している︒
いま︑本文の各項に①〜⑱の符号を付して内容的な指摘を試みよう︒
記 述 の 順序は大体は農作業の順序を追っているが︑細部まではそうではない︒順序は大まかにいえば︑播種・育苗
(②ー⑦︶︑耕起・整地︵⑧ー⑬︶︑田植︵⑭ー⑯︶︑基肥︵⑰︶︑中耕・除草︵⑱︶︑潅水︵⑲︶︑土質と植稲︵⑳︶︑労働量
(⑳︑⑳︶︑稲の品種︵⑳︶︑刈入れ︵⑳ー⑳︶︑杣︵⑰︶︑畠稲︵⑳︶︑稲束︵⑳︑⑳︶︑穫稲量︵⑪︑@︶︑稲干︵⑬︶︑脱穀
・
精製︵⑭︑⑮︶︑農具︵⑯︶︑畑麦︵⑰︶︑田麦︵⑳︶となっている︒このうち︑労働量は荒起しから施肥までの労働に つ い て だけ記しているので︑作業順序に従って基肥の記述のあとで述べれば︑植稲から稲の品種へと記述が無理なく つづくことになったろう︒杣︑畠稲の記述は穫稲量のあとで述べてもよいと思われる︒また畑麦︑田麦は農具の記述
の 前 で述べれば農具の記述と図とが接続するのであるが︑この著述はもっばら稲作について記しているので麦につい て は 補 足的に加えられたのであろうか︒ともかく︑内容はさほど整合的なものではなく︑精粗のむらを持ちながら農 事 の 実 際 に つ い て のさしあたりの知識を書き留めたものとみられる︒
田 著者の農学の知識はある程度うかがわれる︒沃壌︵沃土︶︑境埆︵やせ地︶︑埴挺︵ねば土︶︑また惨︑杣︑槌︑摺提な
どはいずれ農書類から知った用字であろう︒また︑農具について﹁委くは農支の古書︑農家の人によりて聞へし﹂
(⑯︶︑﹁養水の夏︑大体かわりなし﹂︵⑲︶︑畠稲は能登に適さず︵⑳︶として叙述を展開しないでいることから︑著者 が 他 地 域 の 農 書 を知っており︑それを前提にして能登地域の農事の特徴を述べるという限定された意図で執筆したも の
であり︑したがつて本書が綜合的・整合的である必要性は薄かったと考えられよう︒
地 域 の 農 事 に 詳しく︑農書を読み︑万葉かなまじりの文章で記述した著者は︑能登に住む上層農民で︑在郷の知識 人 であったろう︒そうした立場は︑著述内容の精粗︑関心のあり方からもうかがえるように思う︒記述がなかったり
簡略にすぎる部分としては︑労働の量や編成︑飼馬︑補植︑施肥︑潅水︑落水︑農具などが指摘できるであろう︒労
働量については荒起しから尿配りまでの概数︵⑳︶および田植労働の能率︵⑳︶についてふれているだけで︑明らか
に 不十分である︒あえていえば稲作労働の辛苦について︑言及の要はないまでも︑文章上から何の感興も読みとれな
い︒また記述のかぎりでは稲作の細部にわたる全過程を知ることはできないのである︒
本書は比較的小部な冊子で︑記述は全体に簡略であるが︑そのなかで相対的に詳しい部分としては︑播種・育苗︑
耕起・整地︑中耕・除草︑土質︑稲の品種︑刈上高などに関する記事であろう︒
とくに土質と稲に対する関心の強いことが注意を惹く︒土質のちがいに触れた箇所は︑かい田打︵かい田鋤︶︵⑪︶︑
あぜ塗︵⑫︑⑬︶︑肥培︵⑰︶︑草払・坪打︵⑱︶︑養水︵⑲︶︑植稲︵⑳︶︑人夫懸り︵⑳︑⑳︶︑坊主稲︵無芒種︶︵㊧︶︑杣
(㊨︶︑稲刈高︵@︶︑畑麦︵⑰︶の各項にわたっており︑近世の農書は一般に同様の関心を示すが︑本書でも特徴的に
目立つ点である︒とくに土質と植稲の関係を述べた項︵⑳︶は他書に比してまとまった見解とみなされる︒それに関
連して稲などの植え物に対する関心も強く︑種子籾入用つもり︵②︶は詳しいものであり︑播種・育苗︵③ー⑦︶の記 述も小冊子にしてはていねいである︒疇に植える豆・稗︵⑬︶︑杣︵㊨︶︑畑麦︵⑰︶の項も同様に考えられよう︒
労働過程への関心が薄く︑土質に応じた植え物に対する関心が強いという内容的特徴は︑著者が主として監督的な 立場にある農業経営者ではなかったかという想像をみちびき︑そこに﹃農業大綱﹄の性格をうかがうことができるで
あろう︒
29
↑註
)
(2︶
(3︶
(4︶
(5︶
(6︶
(7︶
(8︶
安田健﹁加賀藩の稲作﹂︵﹃日本農業発達史﹄別巻上︑昭和三三年九月刊︶︒高沢裕一﹁多肥集約化と小農民経営の自立﹂上
(『 史林﹄五〇の一︑昭和四二年一月刊︶︒﹃志雄町史﹄は昭和四九年一一月刊︒﹃押水町史﹄は昭和四九年一二月刊︒安田氏
は岡部幸雄氏所蔵本を採取し︑筆者は金沢市立図書館本を採取した︒なお︑筆者が岡部本を閲覧するにあたっては押水町当
局の御世話を受けた︒﹃押水町史﹄の関係部分は筆者が執筆した︒
岡部本の農具の図の写真は﹃志雄町史﹄一九〇〜二〇七頁の間︑﹃押水町史﹄二九九頁に一部を掲出してある︒
安田氏は︑岡部本を写本としている○しかし理由は示していない︵前掲書五四二頁註5︶︒
安田氏は﹁一八〇〇年頃の著か?﹂二八〇〇年前後か?﹂と考え︵前掲書五〇三頁︑五一五頁︶︑筆者もかつてそれに従っ
た
(前 掲 論文二一頁︶︒
ほ か に 成 立 年 代 推定の傍証となるかと思われるものに享和二年︵一八〇二︶正月二七日付の越中の戸出村又右衛門から十村 仲間に宛てたつぎの触状があり︑当時は彼岸中日よりおくれて浸種する傾向があったことがわかる︒
彼岸中日二種池入仕候義古来β通例二御座候所︑近年所二β中日β相後池入いたし候村々茂有之躰二御聞被成候義も有之 候間︑仮令遅ク池入いたし暖気二相向池入いたし候得者宜敷杯与申義有之候共︑定例之通池入いたし可然旨被仰渡候︑此 段村々不相洩様御申渡可被成候︑以上
正月廿七日 戸出 又右衛門 中間宛所
︵金沢市立図書館加越能文庫﹁御用覚書﹂1鹿島郡武部村の旧十村真舘家旧蔵文書の写本1︶
以 上 の 農具の改良時期については高沢前掲論文二二〜二五頁参照︒
志『 雄 町史﹄二〇〇〜二〇一頁にも表示があるが︑一部脱漏があり誤記もあって照合に耐えない︒
『羽咋市史・近世編﹄一八八〜九頁に表示あり︵筆者執筆︶︒
30
(9︶
(10︶
(11︶
同書一八五頁︒
安田前掲書五三二頁︑五五一頁︑五五四頁︒
本書を分析した従来の研究は前掲︵註1︶安田論文と高沢論文であるが︑そこで取扱われた箇所を指摘しておこう︒項目順 に い えば︑②1高沢論文二九頁︒⑧ー安田論文五〇二頁︒⑨1同四九六︑五一五頁︒⑩ー同四九五頁︒⑪1同五〇二︑五〇 七頁︑高沢論文二六頁︒⑰ー安田論文五=二︑五一四︑五一七頁︑高沢論文二一頁︒⑲ー安田論文五一八頁︒⑳ー同五=二
頁︒⑳ー同五三九頁︒⑰1同五三九︑五四四頁︒@⑭ー高沢論文三一頁︒農具の図ー安田論文五〇四頁︑高沢論文二三頁︒
な お 安田論文五一八頁に﹃耕稼春秋﹄︑﹃私家農業談﹄と比較した稲の耕種期日の表が掲げてある︒
(表紙裏︶
「
農
業
大綱
完
」
①三ケ国斗代御定
能 美 郡
百三拾弐間八分四厘三毛 一︑高百石二付此歩壱万七千六百四拾七歩 町二〆
五 町 八 反 八 畝 七歩 但三百歩壱反壱石七斗代 但︑壱町ハ三千歩︑壱反ハ三百歩︑壱畝ハ三拾歩なり 附り︑壱歩と云ハ六尺三寸四方ヲ云
31
越中三郡
百五拾四間九分弐厘 一︑高百石二付此歩弐万四千歩 町二〆 ︵マ マ︶
六 町 六 反 六 畝 弐 拾四歩 但三百六拾歩壱反二付壱石五斗代
但︑右同断
能州四郡・石川・河北
百四拾壱間四分弐厘三毛 一︑高百石二付此歩弐万歩 町二〆 ︵マ マ︾
六 町 六 反 六 畝 弐 拾 歩 但三百歩壱反二付壱石五斗代
但︑右同断
〆 右三ケ国反別御定
②能州筋三百歩壱反二種子籾入用図大凡
壱歩二五々廿五株栽之所ハ五升之図
下皆是二おなし 但︑壱株二籾廿五︑六粒︑籾壱升転和紀六合之粒数二図
壱歩二六々三拾六株栽之所ハ七升五合之図
但︑壱株二籾廿五︑六粒
壱歩二六七四拾弐株栽之所ハ八升五合之図
但︑壱株二籾廿五︑六粒余
壱歩二七七四拾九株栽之所ハ壱斗之図
但︑壱株籾廿六粒余
32
壱歩二八々六拾四株栽之所ハ壱斗弐升五合之図
但︑壱株二籾廿五粒余
③一︑種子籾︑当世ハ彼岸七日めに池に入︑池いれの日より廿日程漬置︑取揚る︑その日より七日・八日二して芽立
ものなり︑土用前又ハ土用の入に蒔入︑それより三十三日を苗役といふて栽か﹀る夏なり
④一︑植つくるハ苗役をかきりとする也︑されとも苗根薄或ハ小出来なる時は二︑三日またハ五日も遅ク植もあり
⑤一︑宝暦年中以前迄ハ彼岸中日まてに種池入せしと見へたり︑当時彼岸中日に池入さする夏ハ春秋の彼岸に少し違
ある故︑彼岸の終り頃に種池入する也︑其わけハ宝暦暦も寛政暦二も春彼岸より春土用前日まて三十三日有故な
り トサ⑥一︑種池揚をして芽立遅吏有時ハ︑湯をかけ莚なとを覆ひ晋せれは四︑五日にて芽立もの也︑涌水・川水に漬る籾
ハ晴たる日池よりあけ︑或ハ五日ほと日に千︑二︑三日ほと晋せおけハ芽立︑蒔頃になる増嫁綜礪れい煮︑冷れハ遅
⑦一︑苗の尿ハ小便又灰を用ヒる也︑芽立あしき時煤を蒔てよし ︵こえ︶ きものゆへ湯をかけ莚を覆ひなとするなり︑また芽立過たるはよろしからす
⑧一︑田打切の大概︑土地の品により違有といへとも︑まつあら起して稀鴫W㏄梵ロは詞地味能所の大きなる所は鎌切と
い ふをする︑皆童の所作也︑かめかちとて杵にて能干たるかめのこうをかちて細かにするなり︹長鎌・杵の図11 写真1︺
⑨一︑切田といふハ︑荒起したるうへを細かに打なり︑また真切といふてもとのはかを靴齢コ輪⇔舗⑳横にうつなり︑
扱 栽る時ハかい田うちといふて能鍬目を入︑またならし︑いぷりをさし︑そのうへを真鍬といふを馬にひかせて
⑩一︑大はか六々粒に栽る所ハ稲株大きにて荒起の時また切田の時にも鍬つかへにくき故︑童ともに右に図す長鎌を ︵使 い︶ ● かきならし︑それより杁ほ啄ピ師いいぷりにさしならし栽作る也︹鍬・杷・杁等の図11写真2︺
33
『︐︑需ぽ漂⁝舞灘嬬獣慧難翻馨灘糊織灘
き.ぞづP汽溺嘉拭活淳姦灘灘隆ー︐き灘
ザ涜鴻霧かい諺パパマ︑郎
苛…湿激嘉議懸縫墾適驚〜灘灘灘灘没慧灘灘
燕轟擁綿纏磯灘総罎灘灘姦
一奪汀づ濠消霧織懇灘縢灘罐繍翻灘職
農具の図1
持
せ古株をニツまた三ツにも打割なり︑四拾弐株栽の所
なと長鎌にて株を割吏なり︹型の図ー写真2︺
⑪一︑堅田・沼堅田はゆふに及す︑沼田にても馬の入やすき
田は荒田も馬に鋤せる也︑扱而亦かい田打とゆふをする︑
またかい田打もかい田すきといふて馬にすかせる所あり︑
またならし田のうへを栽代にするハ杷にてか﹀せる事何
方二も異ならす︑草の能く生たる田地・谷間或ハ砂勝の ︵より脱力︶
処
に て 癖 たる地は︑さたまりも手繁くあたるか能キ也︑
至 て の
上田肥地にて︑また常に田の涌く処なと定まりよ
︵或 は︶りも一偏あるへは二偏も間抜︑打切もあらめにして栽し ミ ゆ にへ藁瀦懸灘難聡灘滅ー鑓購⁝
羅難撒羅灘羅礫⁝纂欝 霧装速濠活η‖ 顯灘
¶ミ ⁝︷︽ミ︑ こ︶ー︑⁝ ︑チモ︑李x︶︽ ー︸ ︸
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ハ ノ ス
≡鑛馨澱篠鐵鍮・護畷湧鎌︑多懇謁日︷騨2
醸螺鱗隷難驚簸謬羅簿縫薮闇隷図
の一難鷹灘︑隷響⁝︑藏講涜搭沢影沙綾 均灘鴻鷲︑
鮎埜
㌫鰺獅摺髪麟灘瞭縫︑鰺溺︑鞍醐鎌3・懸︑縢織雛 緒惑磯蓼譜雛霧懸諜難灘雛鱒義購x︑
藩瞳灘斗繊羅轟薄縫瀬満馨獺
灘鯵難功︑藷羅藷蒙慧治灘繋
鰯麟亨鎌漣馨瀧舞梁灘繊灘欝︶
馨灘
灘購灘講灘・
蝿羅灘灘醗麟繋
購灘灘灘灘鴻難織羅灘総灘醗灘懸糠享漿懸蘂鱗鱗繊騰懸懇織燕鯵線懸響硲脇難総購︑ 具慧
農
34
⑫一︑畔を塗吏︑畔寄せとてあぜ際を弐尺余はかりも細かに切いつかせ置塗吏なり︑水持能沼田或ハ谷間の田地水沢 キハ うにするなり酬越艇剖い杣脳判巳鴛礼はひ縮稲︑又尿を多ク用る所︑堅田水持あしき所はかい田鋤を二偏又三偏するもあり 山なる所は畔ふちを鍬入せず残しおきて塗吏なり︑しかれとも田かたがりてよろしからすゆへ農吏功者はせさる
なり ひえ ⑬一︑畔を塗あけてその畔に栽ものをする︑黒豆・青豆等也︑穆もあぜねといふて大穂なるをうゆる所あり︑やせ地
又ハ其所の地位によりて豆も穆も出来兼もあり︑堅田には豆は栽す多ク稗を植る︑山村なとやせ地ハうわらす
⑭一︑田を植は皆女の所作なり︑壮なるをよしとす
⑮一・壱株の籾廿五︑六粒の図にては秋も壱株に十五︑六筋うゆへきなれともさにあらす︑多苗鳩像に緬ふヲ植のもの
ハ十筋ほと︑少苗植の措壕仁は云ものハ五筋ほと植るなり︑以上七︑八本を中分の図とする︑扱十五︑六粒の籾は
多く苗になるものなれとも落こぼれ・ふち苗或は捨りな
とあり︑又年によりて甚不出来吏有ものゆへ壱株廿五︑
六粒の図にて蒔込なり
⑯一︑苗代より田江苗を持運ふは︑手ころにたはねて携ひ篭
に入︑又苗を手ころに取分積かさねて囲りにする所有︑
⑰一︑田培物の夏︑やせ地なれは壱反に下尿拾弐︑三肩を入︑ こえ 苗痛二て甚悪し︹擦篭の図H写真3︺
其外二厩草糞五︑六駄より拾駄もいれるなり︑又坪土
ハ といふは水屋尻の壷に土砂を腐らかし用るなり︑砂無所
ハ土を壷に入腐す︑或ハ厩糞・藁・糖・菜種から・稗売 鞭灘灘難灘難⁝sーー⁝ーiー⁝㌔ー灘
難鍵慧蚤縫籍譲灘纏繊凝縫蕪鱗蕎灘︑叢ぶ鶏磯難藁繋灘⌒︐⁝
ヤお ネく トキべ きミ くき しま べ きハも ノ まき もリヘセセきノもきノ ぐ よでぺ ぺ
灘 が
灘離翻鱒騰雛騰搬難 羅灘.灘磯騰難縫綾醜難・懸灘肋
^農
35
杯を土に切縫てむし肥にするもよし・培の配り籔・以上・下地癖田の振にならいて用るなり︑惣て養ひの仕様︑
沃壌⁚旛搬べし懸地砂土によって農夫能考用るものにて功者・不功者有︑当世は肥を多く用る故︑魚絞粕・油粕
・鳥の糞或ハ豆腐の粕・小麦粕等のものを用るなり︑扱地のさがる・地のあがるとゆふ事有︑地の能なり悪くな
る事なり︑肥物の多西弛或は洪水・炎に︑農家のいしりの懸るとか〜らさるとによると見ゆ適あり
⑱一︑草払の大概︑苗植付てより十日ほと過︑小草生田いつきて堅なる故将打とゆふをする︑苗と苗との間を鍬にて
打也︑夫β壱番草を取払ふに︑又将打して弐番草を取︑三番草β多く坪を打たす︑所に寄りて五番・七番まても取
払 ふものなり︑楮将打吏︑田涌過草生薄き所はせす︑尤其所の土地により又山田なと冷水か〜りの草生薄き所有
之三はんほと廻れハ可也の処もあり・草多きハ取実劣ものゆへ幾度も取払蔑吏なり・坪は山方杯多くうたす
⑲一︑養水の夏︑大体かわりなし︑田の涌とわかさるとに少しの違有︑土用中またハ土用過三︑五日の間にて田を干
事有︑しかしその年気候潤気等︑土地の品により考有夏皆同し
⑳一︑田に早稲地・中稲地・晩稲地の三品あり︑多く堅田にハ早稲を植︑堅沼には中稲を植︑沼田は晩稲を植る振な
れとも一涯になりかたし︑至ての沃地又ハ堅田・旱損地ハ地味悪く共早稲二あらされハ炎の凌悪し︑又大深田にて
尻起
じり懸゜潟縁゜水つき淀なと沃田なれは早稲を植ても能実り・沼田゜堅沼なとにても養へ手入地元に依り早
稲能実り安き所も有︑土地の品によりて猶考有事農家之能試可弁支にて功者・不功者も有なり︑仮令堅田にても
谷間・日陰杯ニハ早稲実のらす︑夫故に山村なとは早稲・早中稲も植りかたきものなり︑地味あしきハ出来かた し︑尤手入も養も格別入ものなり︑去共肥すきたるはよろしからす︑土地にあふ・あわさる吏考あるものなり
⑳一︑人夫懸りの大概︑田地壱反の新田を起すより畔塗・尿配り迄の懸り大凡八︑九人にて栽代にするもの也︑堅田
かち埴挺なる所は拾人亦ハ拾壱︑弐人もかsるへき︑また上地沼勝の所は六︑七人二而も植しろにする事なり
⑳一︑田を栽るハ女壱人にて堅田は三百歩︑堅沼ハ三百五拾歩︑沼田ハ四百歩余も栽る︑以上四拾弐株栽ほとのつも
36
り︑四拾九株・五拾株と植る時ハ此図ニハうわらす
⑳一︑稲の名︑御領分在々所にかわりありて一様ならす︑今能州筋に流行ものにハ︑ヤヨウカ一名スsメハセ・ヨツ
ヤ ︵ミカ︶ 坊主・ッイナヒキ・アイサカ・赤ハセとうなり︑亦二鎌ほとも遅物にはぷい助乏︹大中稲わせあり︑イシタロ・
キヤウデン・シラカ︑中稲に而ハ︑アラキ・ヤトメ・シロヤマト・ヒカンミタシ杯なり︑晩稲は︑シトロ・シナ ︵晩力︶ く・サ︑ヵワ・カ〜ハヤリ・チヨマチ・サベラス・コツソリ等其数多し︑同種二而も所々二かわりありて数 五︑六十種にもおよふへし︑嬬稲も早中稲の三種有て名も梗に異ならす︑早き物はボンモチ・セチキモチ・アイ ヌキ サカモチ・ハツシヤウモチ・赤モチ︑中稲ハ︑アラキモチ・ヤダモチ︑晩稲ハ︑メクロモチ・赤モチ・チウシヤ ウモチ等なり︑是も二︑三十品あるへし︑又精梗共芒のなき物有︑是を坊主稲といふ︑山入村なと猪鹿多所ハ栽 か たし︑上方杯籾を莚干の国ハ坊主を植る︑風のおそれ有国ハ一体坊主稲は粒落易きゆへ多くハうへす
⑳一︑稲苅時の事︑早稲ハ多く日を算へす寒の明㊨弐百十日前うしろを限る︑遅きものハ弐百二十日亦弐百廿五日を
限りに刈なり
㊧一︑中稲ハ秋土用前に苅︑植付の日より百三拾五日・百四拾日まて刈もの也︑大抵土用入前十五日より五日前まて
の間に初るなり︑晩稲ハ植付の日㊨百五十日余に熟する︑晩稲にも早晩稲・遅晩稲有︑今能州筋に流行マタスケ
なと常の晩稲とハ十日遅熟するなり
⑳一︑豊年ハ早中晩とも惣而熟しはやく凶作ハ熟し遅きものなり︑別而雨降年なと甚熟しかたく︑去共気候潤気によ
るものにて二様ならす
⑰一・︵磐いふ稲あり・田の縁・おも田禦魂㌃さし弐茶餐ハ三もとも植るなn栽やうハ畔際ふたもと・お
も田を置間に一もとさし︑又二本おも田を狭て植るなり︑又ミたれさしといふあり︑深沼田に栽て能きうへやう
なり︑間さしの出来る田には植てわうし︑取実すくなく風に籾落易し︑併本田同様のらちにして熱⁝二本うゆれ
37
ハ取実多かるへし︑みたれさしハ畔際に本田をうへす間さしするものゆへ野猪の喰へあらすためにハ本田損さる ゆへ利方なり︑扱米は赤きものにて百姓の食根にするなり︑三百歩の田には米弐斗より三斗またハ三斗四︑五升 も出来するものなり︑此稲芒のなき坊主稲なるゆへ山入なと野猪の流行所に栽かたし︑それ故貧民なと杣の替り
に間さしとゆふて芒の有嬬稲なと穂の色かわりたるを栽る也
⑳一︑畠稲といふあり︑能州なとの地に植て出来かたし︑米はつやうすく味なし
⑳一︑稲把に三手打・二手打といふ有︑三手といふハ三握を壱把にするゆへ三手打といふ︑二握をたはねるを二手打
といふ︑今能州筋杯三手打も二手打もする︑地干にする取扱の利方には三手打をよしとす︑藁のためまたはさに 懸る時は二手打か利方なり︑金沢近在に一握もたらさるを壱把とする︑縄はさに懸る故把大きなるハよろしから
すや︑亦売買によろしと見へたり
⑳一︑壱束といふハ三手打拾弐把を壱束といふ︑合して三十六握也︑二手打廿四握拾弐把を壱束と云︑防而拾六把を
壱
束とする処もあり
⑪一︑三手打ハ一日壱人にて弐拾壱弐束・廿六七束またハ三十四五束も苅ものなり︑二手打ハ四十五束・五十束も
︵ママ︶ 苅︑稲生能くミたれす苅能年ハ壱歩二六十株栽位の所ハ三手打四十東方六拾四五束・七八十九十束も苅ものなり︑
凶作またハ毛見有年なとハ稲性もあしく刈時もおくる〜ゆへ稲乱或稲の腰折るにより刈ぐ也︑三手打ハ十三束㊨
十 六
七束・廿二三束ならて刈かたし︑二手打もおなし
⑳一︑稲刈高︑三百歩壱反に三手打五十束或者六十束また七十束・七十五束も苅︑二手打なれハ六十束㊨七十束・八
九拾三五束も刈ものなり︑尤地味の善悪︑免の甲乙二より稲刈高甚違あり︑通例凶作の年ハ三百歩の面にて十四
⑬一︑稲ハ能く干たるかよし︑干のかへなきハふけ安く朽やすし︑地干ハ悪クはざかけはよし ︵甲斐力︶ 五束・二十束はかりも刈落るものなり
⑭一︑稲の扱摺ハ三手打ハ十六︑七束より廿束米に仕立なり︑但出来米拾東二付弐斗七︑八升より三斗ほと有もの 也︑高免所上田農稲ハ十束につき三斗四︑五升余も出来するものなり
︵しべ︶@一︑米にするハ稲扱にて穂をこき落し︑杵にて芒を落し︑すへを取︑籾はかりにして芒或ハこみを箕またハ風に簸
︵すりうす︶ ︵糠︶ ︵唐︶
分て摺禮また千石摺に磨て米を糖とわける也︑唯一へん磨て米成兼るゆへ二偏三へんも磨︑それを戸箕にて通し 米と糠とを分るなり︑粉とうしハ籾と粉と米とをわけるなり︑円とうしにて分るも有︑されとも米も籾もシイタ
籾も鰐緯纏りて壱人前の庭には五・七升或ハへ九升も残りわけかたきもの有是麓玲いふ翻脳わ.・て百 姓 の 食 糧 に用るなり︑米を仕あくるにハ戸箕にてたてる︑其時粉米ハ末の方のてうし口江分出︑米は内のてうし
口
⑯一︑農具の有増︑稲なつて米に仕立る道具の大概すへに図す︑前の文章にあて〜其大凡を考知へし︑此外農具数多 ︵末︶ へ出る︑塵ハ戸箕の大口へ出るなり しといへともこ〜には要々の品まてを記す︑委しくは農吏の古書︑農家の人によりて聞へし
ル@一︑麦も地味によりなり︑上中下の三位ハ三ツ免の所も六ツ免の所もその所々にて位分をする故分りかねるなり︑畑 ︵段︶
は 屋 舗割・上圃割・中畑割・下畑割・下々畑割大抵五たんも有り︑いつれにても田畑しかり︑地味よく沃地ハ百 歩二麦七︑八斗・九斗も出来る︑地味中位の処ハ百歩に五斗或ハ六︑七斗︑癖地ハ三斗五升また四斗五升︑五斗
︵宿 字︶
マこ ハ出来兼るもの也︑埴土にて沙気石なき地ハ麦実入よろしからす芒柔なり芒柔なり︑芒鋭なる出来立能く取実 有なり︑砂石不交の地ハ麦・大豆なと登ものハ充実にハならさるなり︑軽き地ハ小麦を栽て利有︑諸種不育地に
も小麦ハ能く育ものなり︑尤取実ハ甚少し
⑳一︑田麦の吏︑上田ハ壱反に三石四︑五斗︑中田者弐石八︑九斗︑下田ハ弐石四︑五斗も有ものなり
〔この間︑七丁は農具の図‖写真4−11︺
39
追 加 免 を 仕
立る大法
一、
草 高 百 石 歩数弐万歩 但︑拾石高は弐千歩︑壱石高ハ弐百歩なり 右 百
石高の出来米凡九拾石
但︑百石高には米百石または百拾︑弐︑三拾石まても出来するものなり︑併土性による 前 段九 拾 石 之内 六歩の米也︑此分百姓里子の食糧 五 拾 四 石
農具入用馬飼料等に被下御定
三拾
六 石 四歩之米御納所之御定
内
三 石
六斗弐升五合九夕程 口米引
壱 石 七夕弐才 夫銀代米 壱石直段四拾五匁図
二口合四石六斗弐升六合六夕弐才程
残
而三拾壱石三斗七升三合三夕八才
免
〆三ツ壱歩三厘七毛三味三弗八
以 上 右 九
拾石の米百石之高に出来之訳を知る時は歩刈をする
歩 苅 の 大 概 左 之 ︵マ マ︶ 通り
一、
歩 刈 を するには升といふもの有りのことくなるを組て︑稲の中江さしかたくは稲株を半懸てかの升のうちにな
りたるを刈事なり
40
一、
上 の部三段︑中の部三段︑下の部三たん︑以上九段の撰ひ︑其たん毎に田の字・作人・稲の名なとしるしをし て 刈取︑右の九段を別々二して莚の臥に入︑百姓の庭に取越︑一品つ﹀扱落し︑扱其もみを箕のうちに入︑禾を
とる︑生稲にて禾とれかぬるゆへに手に草鮭なとを持て摺落す事也
一、
前 段 九 段 の 籾 を集︑扱籾壱升を米五合の図にして米五升五合あると図り︑五升五合の籾は生籾故欠立あり︑乃
而
水引といふをする︑右五升五合の内水引して︑残五升の米を百石高の歩数弐万歩に割あてれは米百石也︑是を 四 公 六 民
の図をもて免を仕立る也
一、
定 免 之内引免あり︑是を中古内検地之御検地願上候得土ハ御聞届無之︑重而願出不足高二当ルほとの免を引免に 被仰付分︑或者土性定免に相兼御納所勤兼または何となく及難渋︑その御郡の御扶持人より願上引免被仰付也
(裏表紙の内側︶
﹁岡 部 氏
」
灘︑
灘鱗灘
鑛︑鍍漂蘂鳶鯵蕎
農具の図4
41
∨
綴
W Uを是樽九李事>5ヲ渚柘
ウ
︑
灘鎌・竃
雛
︽
︑
衷肇垣
.
叢磁
ト
織
5図 の 具
裳ゑ態始
曇蒸農鐵総
領§惣壕蓮鞍灘
灘繍燃
、
農具の図6
42
獄蓼筏鯨難難懸・蘂驚
フ 融v套鍵・溌糠 鯵v猪
ン s∨≧ ・
農具の図10
齢 ☆、 琴糠
農具の図7
廷
∀ 、
∨ イ
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農具の図8
43
蒔
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農具の図 9
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農具の図11