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石 油 危 機 再 考 一市場と資源ナショナリズムー

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石 油 危 機 再 考

一市場と資源ナショナリズムー

館 山   豊

はじめに

第四次中東戦争を契機にアラブ産油国は禁輸を実施し,原油公示価格は1973 年末から74年初にかけで一気に4倍に引上げられた。戦争と禁輸の衝撃が大き かったせいか,第一次石油危機は政治主義的あるいは歴史主義的な側面に重点 をおいて捉えられがちである。それによれば石油危機は,1960年代末から次第 に高揚をみせた資源ショナリズムが,ついには資本の手に握られていた原油生 産部門の支配権を産油国に取りもどす過程でひきおこされたものであり,先進 国に対して途上国の要求を認めさせ,あるいはそれによって市場や資本蓄積に 制約を加えることになった歴史的な出来事であったということになる。

しかし今から振りかえると,資源ナショナリズムは少々「行きすぎ」であっ たようである。原油価格は1973年から81年にかけて3ドル前後から34ドル前後 まで引き上げられ,産油国は巨額の富の流入に潤ったものの,1980年代にはい ると世界経済の成長率の鈍化と省エネルギーの進展により原油需要が減少をは じめ,原油価格は1986年に10ドル前後に暴落する。それ以後価格はやや持ちな おしたが,需要の低迷と非OPEC産油国の進出により, OPECは依然として 価格支配力を回復できないままでいる。近年の実質原油価格は第一次石油危機 直後の水準すら下回っている。70年代初頭であれば価格引き上げ要因となった であろうイラン・イラク戦争や湾岸戦争に対しても原油価格は目立った反応を 示さなかった。それはOPEC諸国に過剰生産能力が堆積しているからである。

資源ナショナリズムは完全に市場に押え込まれた格好である。

こうした経緯をみると,70年代初頭の資源ナショナリズムの高揚も,政治主 義的,歴史主義的側面からのみ捉えるのではなく,市場の状況や景気循環との 関係で捉えなおす必要があることがわかる。資源ナショナリズムが市場の逼迫

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をもたらしたとする見方に対して,戦後四半世紀にもおよぶ資本の強蓄積と,

それに規定された市場の逼追こそが資源ナショナリズムの高揚を引き起こした という見方を対置することも可能である。そこで以下では政治主義的ではなく,

経済主義的な立場にたって,第一次石油危機を再検討してみることにする。

1.上向序列と土地所有の制限性

石油危機にいたるまでの資本と産油国との関係は地代論の領域に属する。そ こでまず地代論について多少検討しておこう。

原油生産は,制限された自然を特定の資本が排他的に利用することを特徴と する抽出産業である。そこでは当然,自然条件や立地条件の差に基づいて,優 良油田から劣等油田までの序列が存在し,それに対応して油田の個別的生産価 格も段階的に上昇する。需要の拡大に対して,油田の開発が優良油田から劣等 油田へと下降序列にしたがって行われるならば,追加的需要を満たしうるのは 最劣等油田となり,原油の市場価格も最劣等油田での生産価格に等しくなる。

その結果,生産コストの安い優良油田で生産を行う資本の手元には超過利潤が 発生する。しかしそれは自然条件の差異によって生じたものであるがゆえに,

資本の力によっては処理しきれず,結局資本間の競争を通じて第三者としての 土地所有者に差額地代として帰属することになる。

他方,最劣等油田には絶対地代が発生する。m絶対地代は,土地の自然的条 件の差異によってではなく,土地所有そのものの力によって生みだされるもの である。それは,土地所有が最劣等油田への投資を制限することによって,原 油の市場価格を引き上げ,それによって地代に転化しうる超過利潤をつくりだ すというものである。

ところで石油危機は,資本に対して土地所有の制限性が強烈に作用した出来 事であるから,油田開発の下降序列を前提とした場合には,石油危機時の原油 価格の急騰は産油国が絶対地代を大幅に引き上げたからだということになる。

なぜなら下降序列の場合,土地所有の制限性によってうみだされるものは絶対 地代だからである。原油の高価格の結果として生じる差額地代と違い,絶対地 代は原油の市場価格を引き上げる原因そのものとなる。

しかし石油危機を絶対地代の引き上げによって説明するには無理がある。と いうのは地代引き上げを主導した中東・北アフリカ産油国は世界でも最優良油 田地帯であり,そこには絶対地代は発生しないからである。優良油田には差額

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地代しか発生しない。

こうした無理が生じるのは,われわれが油田の開発において暗黙のうちに下 降序列を前提としているからである。しかし現実の油田開発は下降序列ではな

く,上向序列にしたがって行われてきた。第二次大戦後,それまで主力を占め たアメリカに代わって中東の産油量が増大していくが,アメリカの原油井戸元 価格が2.5〜3.0ドル/bであったのに対して,中東の産油生産コストは10セン

トにも満たないものであった。(2)1960年代には北アフリカ産油国の開発も進み,

さらに優良油田へのシフトが進行した。

油田開発が上向序列に従って行われる場合,下降序列と同じようには土地所 有の制限性は作用しない。というのは下降序列の場合,社会の追加的需要を満 たしうるのは最劣等油田であるのに対して,上向序列の場合は優良油田だから である。もちろん優良油田が社会的需要のすべてを満たすわけではなく,依然

として劣等油田の存在は必要とされるので,その時々の最劣等油田が原油の市 場価格を規定することになる。しかしその場合でも,優良油田の占める比重が 大きければ,土地所有の制約は最劣等油田ではあまり作用しない。というのは 追加的需要の大部分を満たしうるのは優良油田であるから,たとえ絶対地代の 引き上げによって最劣等油田での投資が制限されたとしても,それは市場価格 や生産量にほとんど影響を与えないからである。ここでは土地所有による投資 制限効果が意味をもつのは,最劣等油田ではなく追加的生産が可能な優良油田 においてである。

それでは差額地代しか生じない優良油田において,土地所有の制限性はどの ような形で作用するのだろうか。それには優良油田での差額地代が平均利潤を 侵食するほどまでに大幅に引き上げられるという事態を想定せざるをえない。

それによって優良油田への投資が制限され,市場価格が高騰する。差額地代が 平均利潤を侵食するというのは形容矛盾ではあるが,上向序列を前提とし,優 良油田においてこそ土地の制限性が作用すると考えるなら,差額地代により積

極的な役割を与える以外に方法はないだろう。       「

以下では中東・北アフリカ産油国の石油収入の実質は差額地代であり,そこ での土地所有の制限性は差額地代の引き上げという形で作用する,ということ を前提に議論を進めることにしよう。もちろん絶対地代の場合と同じように,

差額地代の引き上げも,その時々の市場構造や需給関係に左右されるので,石 油危機を理解するには,いかなる市場構造や需給関係のもとで産油国の差額地

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代の引き上げが行われたのか,そしてそれが市場の動向にいかなる影響を及ぼ したのかという分析が必要となることはいうまでもない。

2.資本の優位

第二次大戦後からユ960年代末までは資本優位の時代が続く。それは,資本の 側に寡占体制が確立していたのに対して,土地所有の側は激しい競争状態にあ

り,そうした市場構造の下で優良油田の発見・開発が相次いだからである。

戦後の寡占体制は戦前に比べて飛躍的に拡大・強化された。戦前の寡占体制 は,ビッグ・スリーと呼ばれたスタンダード石油(NJ)(現エクソン),ロイ アル・ダッチ・シェル,アングロ・ペルシア石油(現BP)が中心メンバーで あったが,それは最大の産油国であり有数の輸出国であったアメリカの原油生 産および製品輸出を管理しきれないという弱点をもっていた。その弱点は1930 年代半ば以降,アメリカの州当局による産油割当てによって補強されることに なるが,それでも原油資源支配力の脆弱さは否めなかった。それに対して戦後 の寡占体制は,構成メンバーを3社から7社に拡大することによって,原油部 門の支配力を格段に強めた体制であった。その支配形態は,メジャーズと1呼ば れる7社の共同所有の子会社を各産油国ごとに設立し,産油国との間で排他的 な長期の利権契約を結ぶことによって,中東全域の原油資源を7社の「共同支 配」下におくというものであった。共同子会社は7社の様々な持株比率と資本 の組み合わせよりなり,支配の複雑な網の目を形成していた。それは独立系資 本の参入を阻止するとともに,メジャーズ聞の増産競争をある程度制約するよ うな仕組みになっていた。(3)また産油拠点を各国に分散させることにより,資 本の側が産油国の個別的な要求を押し潰し,あるいは産油国を相互に分断する

ことを可能にする体制でもあった。

こうした原油部門支配力の強さは,アメリカおよび社会主義圏を除いた地域 での7社のシェアが,1953年には原油埋蔵量の92%,原油生産量の87%であっ たのにたいして,精製能力では73%,製品販売額では65%であり,下流部門よ

りも上流部門で高い占有度を示していたことにも現われていた。㈲

といっても資本間に競争がなかったわけではない。原油生産部門ではサウジ アラビアを支配した米系メジャーズ4社の勢力の拡大と,他方でBP,シェル の英・蘭系資本の後退がみられたし,またメジャーズは共同で生産計画を立て ていたわけではなく,一貫統合企業の特性を生かして個別的に需要予測をたて,

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個別的に供給を調整していただけであった。さらにリビアのように後発的な産 油国に独立系資本が入り込み,メジャーズに競争を挑むこともあった。そして なによりも最終製品市場ではメジャーズ間だけでなく,独立系資本も入り乱れ て競争が行なわれていた。しかし競争が激化するのは60年代に入ってからであ

り,50年代末まではメジャーズの寡占体制には強固なものがあった。

原油価格も50年代は60年代とは違った動きを示した。基本的には原油の市場 価格は低落していくはずであった。というのは中東を中心とする優良油田の開 発・増産にともない,アメリカなど劣等油田の比重が低下し,市場価格を規定 する最劣等油田がより生産費用の安い優良油田の方へ向けて少しずつシフトし ていったからである。しかしそれに対応して価格が下落をはじめるのは50年代 末からで,終戦直後の調整的な価格引き上げ後は,原油価格は高止まりのまま であった。たとえば1950年代半ばのサウジアラビア原油(アラビアンライト,

34°

Cラスタヌラ)の生産コストは10セント足らずであったが,公示価格は1.

93ドル/bに維持されていた。そこには価格下落を阻止するいくつかの力が作 用していたのである。そのひとつはメジャーズの寡占体制であり,もうひとつ

は国内産油業者や石炭産業保護などを目的として展開された消費国政府のエネ ルギー政策であった。制メジャーズはそれによって生じる大きな差額を超過利 潤として取得していたのである。

他方,資本に対峙する土地所有の力は大きなものではなかった。当時中東最 大の産油国であったイランセは,1941年に連合軍によって独裁的君主であった

レザー・ハーンが追放され,21歳の息子のレザー・シャーが王位についたばか りであったし,クウェートは1899年以来イギリスの保護下におかれていた。サ ウジアラビアでは1932年にサウド家によって統一が成されたが,そめ実態は部 族連合国家にすぎなかったし,同じく1932年に独立したイラクではクーデタと 政争が絶えず,政治的には弱体な国家ばかりであった。しかも同じアラブ国家

とはいっても,政情の違いや歴史的な経緯から相互の連帯を欠いていたし,イ ランはアラブ国家ではなかった。

それが如実に現われたのが1950年代初頭のイランのモサデク政権によるアン グロ・イラニアン石油会社(現BP)国有化事件であった。国有化は結局は挫 折するが,それはイランがメジャーズ以外の原油購入業者をみいだせなかった

こと,またメジャーズが他の産油国で石油の増産を自由に行ないえたことによ るものである。資本による原油資源の共同支配に加えて,各産油国での増産の

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容易さは,一産油国の政治的・経済的要求を押しつぶすうえでの強力な武器と なった。産油国からすれば各国で新規油田が次々と発見され,確認埋蔵量が原 油需要の伸びを上回って増加しているような状況の下では,個別的に生産制限 や国有化を行うよりも,資本に増産を認める方が有利であった。(6)

このような資本優位にもかかわらず,1950年前後に主要産油国との間で相次 いで利益折半協定が締結される。これは原油生産から生じる利益の50%を資本 が産油国に支払うというものである。のそれ以前の中東産油国の石油収入は鉱 区使用料(Royalty)と一時的なボーナス程度からなっており,その額もわず かであった。前者は原油トン当り一定額に原油生産量を乗じたものであり,原 油価格とは連動していなかった。もともと鉱区使用料は「財産権を他人に使用 させる対価」にすぎず,この場合は原油という枯渇性資源が,地中から汲み出 され永久に失われたことに対する補償としての性格をもったものである。凶そ れは石油の採掘によって資本が超過利潤をえているか否かにかかわりなく支払 われるべきものである。アメリカをはじめ主要な国では鉱区使用料は経費とみ なされ,地代とはみなされていない。したがって厳密にいえば,戦前において メジャーズは地代をほとんど支払わないまま中東(主としてイラン)で原油を 生産していたことになる。利益折半協定は,メジャーズが中東産油国にはじめ て一一淀額の差額地代を支払うようになったものだということができる。

これにより産油国の取り分(便宜的に鉱区使用料も産油国の取り分として計 算)は飛躍的に増大した。たとえばサウジアラビア政府の原油lb当りの取り 分は戦後直後の20セントから,1950年には56セント,1955年には77セントへと 増大した♂9戦後は戦前に比して産油国の取り分を大幅に増額した体制として 出発したのである。

もっともその差額地代は資本が取得した超過利潤の一部でしかなかった。と いうのは原油公示価格から生産コストや販売コストなどを差し引いた残りが利 潤とみなされ,それに課税されるのだが,その10セント足らずの生産コストに は既に一淀の投資収益率が折り込まれていたからである。ωそれを平均利潤と すると,原油公示価格から生産コストを差し引いた残りが超過利潤ということ になる。〔 1)したがって利益折半協定によって産油国は超過利潤の一部しか(最 大でも50%),差額地代として取得できなかったのである。

ところで,利益折半協定の導入は経済的要因によるものというよりは,多分 に政治的色彩の強いものであった。そのことを示すものは,米系メジャーズの

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アメリカ本国における所得税控除である。サウジアラビアとの利益折半協定の 締結と相前後して,米系メジャーズの支払う差額地代は所得税と認定され,そ

れによりメジャーズの産油国への支払増はアメリカ本国の所得税控除によって        、

蝠舶ェが補填されることになった。これはアメリカの対外援助資金がメジャー ズを通じて産油国に流れ込んだことと同じであった♂ 2)1947年から1950年代初 頭までは冷戦体制の形成期であり,米ソ間での陣取り合戦と自陣営への囲い込 みが熾烈に行なわれた時期である。戦後覇権を握ったアメリカにとって原油資 源の存在だけでなく,地理的にもソ連に近接した中東は対ソ封じ込め政策の重 要な一環をなしていた。しかし他方でアメリカはイギリスより引き継いだイス ラエルとの関係に制約されて,アラブ諸国に公然たる援助を行なうことができ なかった。そのジレンマを解決したのがメジャーズによる利益折半協定の受け 入れと本国での所得税免除である。アメリカ政府は差額地代の増額によって産 油国の経済開発と政治的安定を目指すと同時に,アメリカ対外政策の一翼を担

うメジャーズに対してその負担増の補填を行なったのである。

この利益折半協定は1950年代半ばまでに主要産油国に普及し,1970年まで資 本と土地所有との関係を安定的に維持する機能を果たした。西ヨーロッパ,日 本等の高度経済成長とエネルギー転換の進展により石油需要の伸びは60年代に はいるとさらに勢いを増したが,供給能力の建設はアメリカやベネズエラを除 けば順調であった。特に60年代初頭から原油輸出を開始した北アフリカ産油国 の伸びが著しく,ソ連の原油輸出ともあいまって需要の急増に十分対応しえた。

というよりもメジャーズの手元に蓄積される超過利潤が莫大なものであったが ゆえに,50年代末より参入が活発化し,原油は供給過剰気味に推移した。それ を反映して50年代末以降,製品価格も第三者向け原油価格も少しずつ低落して いった。(ユ3)莫大な確認埋蔵量を前提とし,比較的簡単な投資で生産能力が容易 に建設できるという「エーデルマン的世界」が現われていたといえる評)

1960年にOPECが結成されるが,それは原油過剰に対応してメジャーズが 原油公示価格を引下げ,lb当りの産油国の取り分(差額地代)を減額したか

らである。OPECは公示価格の回復を要求したが,メジャーズは拒否し,代わ りに公示価格の固定化を約束した。これは実勢価格変動のリスクを資本の側が 負うことを意味したが,公示価格自体が引下げられていたため,当面は資本に

とってそれほどの意味をもたなかった。OPECの結成は土地所有者の弱さの表 現であり,強さの表現ではなかった。その後OPEC諸国は単位当り取り分の

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低下に対して生産量を増加させることによって石油収入の増額を図る。需要の 急増に対応して安価な石油が大量に供給されたのは,こうした構造によるもの である。産油国がlb当りの石油収入を以前の水準に回復したのは1966年であっ

た。

なおそれ以後,固定された公示価格は所得税や鉱区使用料の計算基準として の意味しかもたなくなった。したがって公示価格の引き上げは原油価格そのも のの引き上げではなく,差額地代の引き上げを意味する。また公示価格の固定 化により,差額地代が固定化されたのだから,個別資本にとってはいわゆる税 込みコスト(限界費用+差額地代)が原油価格の下限を形成することになった。

さらに公示価格の固定化は,原油の大半が企業内取引きであることと合わせて,

原油の市場価格の把握を困難にした。以後,市場価格という場合,取引き量の きわめて少ないスポット市場での価格を参考にするか,あるいは製品価格から 精製コストと輸送コストを差し引いた架空のネットバック価格を利用するしか 方法がなくなったのである。

3.資源ナショナリズムの登場

生産能力が容易に建設できる「エーデルマン的世界」に対して,供給側の制 約要因として最初に登場してきたのが,リビアの差額地代増額要求である。そ れは1969年の革命政権の樹立に端を発している。

リビアの原油生産は1961年から始まったが,その油田は規模が比較的小さい ため,生産コストは中東よりやや高かったものの,西ヨーロッパに近く,輸送 コストが安いという地理上の優位性をもち,中東以上の優良油田であった。そ れに加えて石油資本はリビア原油に相対的に低い公示価格をつけていたので,

       」

サこから得られる超過利潤には中東以上に大きなものがあった。国王は公示価      「

格の引上げを再三要求するが,資本優位の下ではあまり受け入れられなかった。

リビアの地位は1967年8月の第三次中東戦争を契機に,飛躍的に高まる。ス エズ運河の閉鎖により,中東から西ヨーロッパへの輸送ルートが希望峰回りへ 変更され,輸送距離が大幅に延長され,輸送コストが上昇したからである。船 腹量の不足のため,一時的に高騰したタンカーレートは,巨大タンカーの建造 が進むにつれ69年の夏までに以前の状態にもどる。しかしそれによる輸送コス トの低下も輸送距離の延長によるコスト増を相殺するほどのものではなく,中 東に対するリビアの地理的有利性はスエズ運河の閉鎖継続によって永続的なも

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のになった。さらに西ヨーロッパやアメリカで環境汚染防止の気運が高まり,

リビア産の低硫黄原油への需要増によっても同国の地位は高められた。そうし た中東原油に対するプレミアムはアメリカ燃料・エネルギー省のJ.エイキンス

によれば40セント/b程であった。〔15)

しかしそのプレミアムのかなりの部分が資本に帰属していた。というのはリ ビア政府の1バーレル当り取り分は1966年以降サウジアラビアを凌駕し,69年 には1ドルとなるが,それでもサウジアラビアより13セント多いだけであった からである。⑯リビア政府は地理上の優位さに基づく超過利潤のかなりの部分

を取得できないでいた。そしてリビアの地位が高められた68年以降,資本はそ の超過利潤に刺激されて,わずか2年で生産量を倍増させるという大増産を行 なう。その結果,69年革命勃発時にはリビアはイラン,クウェート,サウジァ ラビア,ベネズエラの四大産油国と肩を並べ,西ヨーロッパ原油需要の%を満 たすにいたったのである。働

しかもリビアは中東と違って鉱区を細かく分割して入札を行なったため,独 立系資本が大挙して進出し,それらは生産量の点でメジャーズを陵駕してい た。(18/独立系資本は巨額の超過利潤を背景に,ヨーロッパの製油所や販売網を 手に入れ,製品価格の下落を先導しながら,メジャーズの西ヨーロッパでの地 位を堀り崩していった。リビアはメジャーズの寡占体制のもっとも弱い環であっ た。そしてリビアでの増産分だけ中東の原油生産の伸びが抑えられ,イランな どに不満がつのることになった。革命以前のリビアは一方では資本間の競争を 強め,他方では土地所有者間の競争も一層熾烈にするという二重の役割を果た

していた。

こうした有利な条件を背景に,カダフィに率いられた革命政権は,公示価格 の引上げと所得税率を50%以上に引上げることによって,lb当りの政府取り 分の増額を図り,土地所有者に帰属しない超過利潤を差額地代として吸収しよ

うとしたのである。その手段は荒っぽく,石油企業に生産制限を課し,政府の 条件を飲むように迫るというものであった。それによってリビアの生産量は360 万b/dから1970年9月には280万b/dに低落した。( 9>また生産量の上限を 300万b/dに設定するなど今までにはない新しい動きがみられた。

しかしその荒っぽさとは裏腹に,リビアの要求は激情に駆られたものではな く,アルジェリアやベネズエラなどの助言に基づいて作成された,かなり計算 されたものであった。⑳そのことは1970年9月に妥結した内容をみればわかる。

(10)

それは公示価格を9月から30セント引上げて2.53ドルにし(1965年にさかのぼっ て適用),さらに今後5年間にわたり毎年2セントずつ引Eげ,また所得税率 を50%から54%強へ引上げるというものであった。この協定により政府取り分 は30セント程増加したから,リビアは中東に対するプレミアム (約40セント)

の7割強を差額地代として吸収したことになる。⑳つまりリビアの要求はスエ ズ・プレミアムの吸収を狙ったものであり,前出エイキンスがこの要求を妥当 なものだと評したのもそういう意味であった。幽

リビアの動きはペルシア湾岸産油国に大きな影響を与えた。それら諸国は,

市場がきわめて堅調であり,資本との交渉によって増収が可能となるような状 況にあることを知ったのである。実際世界の一・次エネルギー消費量に占める石 油の割合は,1960年の35%から,65年の45%をへて70年には50%を上回るとい

う早いテンポで上昇を続けていた。また世界の原油生産量に占めるOPECの 割合は,1969年には50%を越え,なかでも中東・北アフリカ産油国の割合は 1970年にはOPEC全体の76%に達していた。〔33)世界経済の成長は中東・北ア フリカでの石油の増産にかかっていたといっても過言ではない。

しかもリビアの中東に対するコスト面での有利性が失われれば,再度中東原 油に対する需要が増大することは明らかである。そこでペルシャ湾岸産汕国は OPECに結集し,一一致して資本に「団体交渉」を要求した。資本の側は米司法 省から独占禁止法適用除外を取り付け,また米国務省の支援を受けながら,こ れまた結束して交渉に臨んだ。この交渉は資本の側が利権契約の修正と公示価 格引上げという重要事項について,組織としてのOPECと交渉したはじめて のものであり,また産油国においてもその足並みがそろったきわめて希なケー

スであった。⑳

そして1971年2月テヘラン協定が結ばれる。それは所得税率の55%への引上 げ,公示価格の35セントの引上げと75年まで毎年2.5%+5セントの値上げ,

従来行なってきた公示価格からの種々の控除の廃止という内容であった。産油 国は政府取り分の増額を実現しただけでなく,インフレの進行に対する実質取 り分の保証をも手に人れたのである。他方石油資本は5年間の安定供給を確保 した。ここに戦後20年近く続いてきた利益折半協定体制は終りを告げたのであ

る。

この協定による政府取り分の増加は,リビアのそれに対してだけでなく,当 時の原油価格水準や資本の利潤に照らしてもかなり大きなものであった。第1

(11)

表のごとく,197⊥年2月以前のサウジアラビア政府の取り分は0.96ドル(所得 税+鉱区使用料)である。生産コストを0.10ドルとすると,資本の税込みコス トは1.06ドルとなる。ペルシア湾岸fob価格(ネットバック価格)は1.44ドル

/bであったから,超過利潤は0.38ドルである。テヘラン協定により1971年3 月には政府取り分は0.30ドル増加したから,市場価格が一定であれば超過利潤 の大部分を差額地代として吸収する勘定になる。

また前年のリビア政府取り分の増加30セントに対して,今回のサウジアラビ ア政府の取り分も30セント増大したから,この協定はリビアの中東に対する有 利性を反映した政府取り分の両国間格差を再度帳消しにするものであった。

そこでリビアは1971年3月トリポリ協定を結び,リビア原油の公示価格を 2.53ドルから3.45ドルへと大幅に引上げることを資本に認めさせたのであ

る。㈲しかし今回の協定は前回と違って,資本の利潤に比して引き上げ幅が大 きすぎた。第1表によれば今回の措置により政府取り分は2.00ドル,資本の税

第1表 テヘラン・トリポリ協定と超過利潤の吸収

(単位・ドル/b)

サウジアラビア(a) リビア(b)

1971年2月以前

1971年

@ 3月 増加分

1970年9月以前

1971年

@ 3月 増加分

①原油公示価格 1,800 2,180 0,380 2,230

3,447

1,217

②鉱区使用料①×0.L25

0,225 0,273 0,048 0,279 0,431 0,152

③生産費用 0,100 0,100 一 0,160 α160

④醗&一③×瓢5叡,)

0,738 0,994 O,256 0,896 1,571 0,675

⑤税込みコスト

A+③+④

1,063 1,367 0,304

L335

2,162 0,827

⑥原油実勢価格 1,440 1,900

⑦資本超過利潤⑥一⑤

0,377 0,565

出所)公示価格は,OPEC。AηπμαZ S6磁飢oα♂B認Z飢π1986。

生産費用,実勢価格はAdellnan,7TんθWor妃α♂Mα漉碗,1972, p.76,

Appendix VI−1, P。190。

注)(a)34°ラスタヌラ,(b)40°ブレガ,(・)1971年2月以前は0.5,それ以後はO.55。

なおサウジアラビアの原油価格は1971年6月に2.285ドルに引き上げられる。

(12)

込コストは2.16ドルとなったが,市場価格が70年9月以前と同じ1.90ドル前後 であれば,資本にとっては超過利潤どころか平均利潤すらも残らないことにな

るからである。

こうしてリビアに端を発した差額地代の連鎖的な増額要求は,それまでの価 格水準を前提とした場合,超過利潤の大部分を飲み込み,一部では平均利潤を も浸食するほど大幅なものであった。市場価格が上昇しない限り一部の資本は 生産継続が不可能となり,生産量が減少し,供給が制約されることになる。

1971年初頭のテヘラン・トリポリ協定は,資本に差額地代の大幅増額を認め させることにより,1950年代末以降続いてきた原油価格の低落傾向に終iL符を うった。第一次石油危機はここから始まったといえる。そしてこの第一ラウン ドの主役はリビア革命政権であった。しかしリビアの当初の要求は過激なもの ではなく,至極「妥当」なものであった。突如生じた原油輸送ルートの大幅な 延長によるタンカー不足と輸送コストの上昇によって,立地条件の良いリビァ 原油の地位が上昇したのであるが,それによって大幅な超過利潤が発生すれば,

革命政権でなくても,土地所有者として差額地代の増額要求を行なうことは当 然のことである。その意味で,リビアの要求は歴史的な資源ナショナリズムの 高揚によるものというより,むしろ優良汕田に対する需要の増大という市場の 変化に規定されたものであったといえる。

しかし革命政権でなければ,あれだけの要求を実現できなかったこともまた たしかであろう。旧態依然たる国王体制では,カダフィのような急進的な方法 をとれなかったであろうし,そうであればせいぜい若干のおこぼれを頂戴した だけで終っていたに違いない。その意味で,一方では市場の状況が,土地所有 者をして地代増額要求をおこなうべく客観的条件を整えたとするなら,他方で はリビアの政治的変革と主体的な動きがあってはじめて,超過利潤の差額地代 への転化が可能になったといえる。ここからは,理論的には資本の競争を通じ て行われる超過利潤の差額地代への転化が,現実には寡占体制という資本優位 のもとで,急進的な資源ナショナリズムを媒介としなければ実現しなかったと いう関係が見てとれる。しかも急進派が単独で切り開いた道を穏健派が大挙し て進み,その結束のおかげで穏健派は急進派以上のものを獲得し,それに刺激 されて急進派が再度「跳ね上がり」,結果として要求が行き過ぎるという傾向 がこの時すでに現われていたことも注目しておいていいだろう。

(13)

4.資本の対応

石油危機の第ニラウンドは資源ナショナリズムの高揚に対して,資本がその 衝撃を緩和するためにとった手段が中心をなす。

資本の対応の第一は,原油税込みコストの上昇を即座に消費国への販売価格 に転嫁したことである。サウジアラビア原油のfob価格はそれまでの1.44ドル から,1971年テヘラン協定直後の3−5月に1.70ドル/bに上昇した。(26)先の 第1表からわかるように資本の税込コストは1.06ドルから1.37ドルに上昇した から,資本の超過利潤は0.38ドルから0,33ドルに減少した。資本は価格転嫁に より,それまでよりは若干少ないだけのlb当りの超過利潤を確保したといえ る。⑳もっとも産油国と資本との取り分の比率はそれまでの72:28から80:20へ と産油国に有利に変化した。

このようにコスト上昇分を容易に販売価格に転嫁しえたのは,第一に先進国 における高い経済成長率を反映して,石油需要が依然旺盛だったからである。

OECD全体のGDPの伸びは,1960年代前半の5.2%から60年代後半には5%

を若干下回り,70年代にはいると4.5%程度に減速するが,それでも依然とし て高い水準を維持していた。特に好況末期の72,73年には5%を超える伸びを 記録する。それに対応して石油消費の伸びも70年代にはいると多少減速するも のの,経済成長率に対して1,58という高い弾性値を維持していたため,GDP の伸びを大きく上回り,年平均7%の伸びを記録していた。㈱

第二に価格転嫁の影響がいくつかの要因によって緩和されていたことが挙げ られる。そのひとつは7ユ年8月の金ドル交換性停止と,それにともなう世界的 な為替調整である。ドルは他通貨に対して切り下げられたので,たとえば第2 表にみられるように,71年の日本の原油cif価格はドル表示では前年比21%の 上昇を示したが,円換算では17%の上昇にとどまっていた。円高効果は72年に

はさらに著しく,cif価格はドル表示で15%の上昇にたいして,円換算では僅 か1%強の伸びにとどまり,原油価格上昇分をすべて為替レートの変動で吸収 していた。同様なことは程度の差はあれ,西ヨーロッパでも生じていた。世界 的な為替相場の調整が消費国における原油価格上昇の国内経済への影響を緩和

していた。㈲もちろん石油代金の支払による貿易収支の悪化は避けられないが,

それもアメリカからのドル流出が大規模であったために顕在化するにはいたら

なかった。

ふたつめは製品価格に占める税金の割合が低下したことである。第2表に示

(14)

第2表 石油製品価格の構成(日本)

(単位:円/k1)

1970年 1971年 1972年 1973年

①原油cif価格(ドル/b) 1.80 2.18

2.51

3.29

②年平均為替レート(円/ドル) 360 350 308 272

一巾一〔③原油cif価格 4,083 4,794 4,862 5,637

一一④関税 612 576 539 524

⑤精製費用 3,485 4,054 3,971 4,518

⑥製品卸売り価格(③+④+⑤) 8,180 9,424

9β72 10,679

⑦石油消費税 3,720 3,717 3,681 3,563

⑧製品税込価格(⑥+⑦) ll,900 13,141

13,053

14,242

出所)石油連盟『戦後石油統計』1981年より作成。

注)製品卸売価格=Σ(各製品の卸売価格×製品得率)

税金=徴税総額/原油輸入量あるいは製品消費量 精製費用=(卸売価格)一(原油cif価格+関税)

したように日本では税別卸売価格は70〜73年に31%上昇したが,税込製品価格 は20%の伸びにとどまっていた。これは主として税金(関税+消費税)が70年 の4,332円/k1から73年の4,087円/klへと減少し,税込製品価格に占める割合 も36%から29%に低下したことによるものである。同様なことはフランスでも みられ,税込製品価格は同期間に470フランから520フランに10.6%上昇したが 税金の割合は56.4%から50.6%に低下していた。⑳税金比率の低下が税込製品 価格の伸びを低率に抑えていた。

最後にインフレーションである。70年代にはいると世界的にインフレーショ ンが昂進をはじめ,日本の消費者物価は70−73年に24%上昇したが,それは石 油製品税込価格の伸びよりもやや高い水準にあった。フランスでも70−73年に 消費者物価は20%上昇し,やはり製品税込価格の伸びよりも大きかった。その 結果,石油製品の相対価格が上昇せず,石油需要の伸びが鈍化しなかったので

ある。⑳

こうして原油販売価格の引き上げは消費国での末端価格にそれ程大きな影響 を及ぼさなかったが,それゆえ資本による価格転嫁はそれほど苦もなく消費国 に受入られたのである。

資本の対応の第二は,産油拠点の移動である。第3表は掘削された油井数の

(15)

国別の推移を示している。掘削された油井数は大雑把には確認埋蔵量の増加と 生産能力の増強の程度を表すから,資源ナショナリズムの高揚の中で資本がど こに力点をおきながら活動を続けていたのかがわかる。それによるとメジャー ズは,ベネズエラ,リビア,アルジェリアなどの急進派産油国およびクウェー トから資本を引上げ,サウジアラビア,イラン,UAE,ナイジェリア,イン ドネシアなどの穏健派産油国にたいして資本を重点的に投下している。クウェー トは急進派ではないが72年から生産制限が行なわれたことから油井数が減少し た。アメリカについては後に見るが,価格上昇に対して採掘活動が非感応的で あり,70年をピークに生産量が減少に転じる。

こうした開発投資の減少は,クウェートを除くと,産油国による生産制限の 結果というよりは,むしろ急進派諸国があまりにも多額の差額地代を要求した ため,税込みコストが急騰し,中東原油に対する有不1姓が失われたからである

第3表 掘削された油井数と産油量

油井数(単位:本)

産油量(単位:万b/d)

1970年 1971年 1972年 1973年 1970年 1971年 1972年 1973年 世    界

na na na na 4,527

4,786 5,071 5,548

U  S  A 27,408 26,224 27,900 26,081

964 946 947 921

ベネズエラ

632 602 490 424 371 355 322 337

リ  ビ  ア

250 75 80 82 332 276 224 217

アルジェリア ll5 109 79 84 103 79 106 llO

クウェート

105 10

2

1 299 320 328 302

イ  ラ  ク !l 19 17

25 155 169 147 202

サウジアラビア

70 74 186 323 380 477 602 760

イ  ラ  ン

54 93 59 75 383 454 502 586

U  A  E

23 26 48 114 78 106 120 153 ナイジェリア 168 227 258 243 108 153 182 205 インドネシァ 206 454 543 577 85 89 lO8 134

O P E C

2,341 2,533 2,709 3,099

OPEC/世界(%) 51.7 52.9 53.4 55.9

出所)油井数はWor配0記各年版より作成。

産油量はOPEC.4ππμα♂翫αオごs批αZ Bμ〃θ伽1986および.4P∫Bαs c P配ro一

Zθμη3 −Z)αオαBoolc l989。

(16)

と考えられる。囮そのことはリビアの生産量が1970年の332万b/dをピーク に下落を始め,73年には政府の生産制限(300万b/d)以下の217万b/dへ と大きく落ち込んだこと,および政府が掘削活動の低下に懸念を表明し,再三 再四資本に対して投資を行なうように勧告していることからも明らかであ

る。圃探鉱活動の縮小によってリビアの確認埋蔵量は1969年の360億bから1973 年には232億bへと%もの大幅な減少を示していた。もちろん革命政権の過激

な言動が資本逃避を助長したことはいうまでもない。

同様なことはベネズエラでも生じていた。同国は早くから土地所有者間の競 争を制限し,資本への対抗力を強めていくことをめざしていた。圃ベネズエラ は増産によるよりもlb当り取り分を引上げることによって,石油収入の増大 を実現しようとしていた(もちろん70年代にはいるまでは功を奏さなかったが)。

1970年末に所得税率を70年1月1日に遡って52%から60%に引上げるととも に,公示価格を資本との交渉によらず一方的に引上げうる法律を採択した。同 国の所得税率はOPEC諸国中最高となり,それは71年のテヘラン協定によっ て取り決められた水準(55%)をも上回っていた。さらに1971年7月に既存利 権契約の更新を認めないとする法律を制定したこともあって,同国の生産量は 70年の371万b/dから減少を始め,71年には355万b/d,72年には322万b

/dとなった。(器)73年には337万b/dに多少増加したが,70年の水準を回復 することはできなかった。

結局1970−73年にリビアとベネズエラの生産量は合計で150万b/dも減少 し,上限300万b/dの生産制限を行なったクウェートと国営石油会社の生産 量が%を占めるにいたったアルジェリアの両国で生産量が10万b/dしか増え なかったので,市場から140万b/dの原油が失われたことになる。

他方,穏健派産油国における能力増強と増産には凄まじいものがあった。前 記穏健派五ヶ国の生産量は1970−73年に1,034万b/dから1,838万b/dへと 804万b/dも増加し,急進派産油国の生産量の落ち込みを大幅に上回ったの である。OPEC全体の生産量の伸びは1971,72年と落ち込むが,それは世界経 済の減速により石油需要の伸びが低下したからであり,OPEC全体の生産量の 伸びは穏健派諸国の増産により,世界の原油生産量の伸びを上回っていた。(36)

そのなかでも中心的な国はサウジアラビアである。同国は1970年に約30%の 余裕能力をもっていたが,1970年代初頭,米系メジャーズ4社の共同子会社で あるアラムコは需要の急増に対応するために,1980年代初めまでに2,000万b

(17)

/dに生産能力を増強する計画をたてた。(37)この目標はその後1,600万b/d に,そしてさらに1,400万b/d(facility capacity)に引下げられるが,と にかくアラムコは70年代初頭にサウジの生産能力を1974年までに1,000万b/

d以上に増強する計画をたて,そのために17台のリグを動かし,1972年に150 本の油井を完成させようとしたのである。(謝アラムコの設備投資額も1970年の

7,000万ドルから73年には6.5億ドルまで9倍に増大した。(39)

その結果,1971〜73年には生産量が毎年26%ずつ増加し,わずか3年間で生 産量は380万b/dから760万b/dへと倍増する凄じさであった。もし1974年 にも同じように26%の増産がおこなわれたとすれば,生産量は960万bに達し ていた。非社会主義圏の石油需要が73年と同率で増加した場合,サウジアラビ アはその増分の半分を供給できたであろう。

またイランも増産に懸命であった。ここでは増産に熱らであったのは資本よ りもシャーであった。彼は白色革命といわれる開発政策を一層推進するために 石油収入を必要としたし,また中東で最大の産油国に成り上がることによって 政治的発言権を確保しようと狙っていた。イランの生産量の伸びはサウジアラ ビアには及ばないものの,1970−73年に平均14.7%の高い伸びを示していた。

産油量は1970年の383万b/dから1973年には586万b/dに約200万b/dも 増大した。イラン政府は財政上の必要から産油量を1972年の500万b/dから ユ978年には830万b/dにする計画をたてていた。働

このようにユ970−73年の増産分のほとんどが中東であり,その中でサウジア ラビアとイランとで580万b/dの増産を行なったが,それはOPEC増産分の

%を占め,世界全体の増産分の60%を占めた。両国が70年代初頭の石油需要の 急増を支えていた。ニクソン・キッシンジャーが両国を中東安定の要石にしよ

うとしたこともうなづける。

このような対応は世界中に産油拠点をもち,比較的自由に資本を移動させる ことができるメジャーズの常套手段であった。テヘラン協定の際には取り分の 増大を要求して結束した産油国も,それ以後は増産によって漁夫の利をえよう と,利己的な行動に走っていた。その結果,サウジアラビア,イランを含め増 産を行なった産油国の石油収入は急増した。それと対照的に急進派諸国の石油 収入は輸出量の落ち込みから伸び悩むことになった。しかしそれでも急進派諸 国の石油収入は単位当り取り分の増大により減少することはなかった。それは,

穏健派産油国の増産によってもなお満たしえない石油需要の旺盛さによるもの

(18)

であった。逆にいえばそれこそが急進派諸国の過大な要求を支えていた経済的 条件であった。国有化問題もそれとの関連で現実化してくる

なお簡単につけ加えておけば,この時期の需給逼迫を助長した国にアメリカ がある。アメリカの生産量は1970年をピークに低下を始め,国内需要の増加に 追いつけず,輸入が急増した。これは基本的にはアメリカが資源的にピークを すぎたことの反映である。それは⊥962年以降確認埋蔵量の追加が年間生産量を 下回るようになったことからもわかる。それに加えて,州を中心とした生産規 制が行なわれていたこと,インフレの進行にともない採掘コストが上昇したに もかかわらず,原油の実質井戸元価格が横ばいであったことなどが,探鉱活動 の低迷を助長していた。闘さらにアラスカで発見された油出からの生産はパイ プライン建設が思うようにいかないために遅れ,また環境問題などで政府保有 地での採掘が認められず,その面からも探鉱活動は制約を余儀なくされた。結 局アメリカは新規の生産能力を作り出すことができず,他方需要の伸びは景気 の加熱により60年代末より加速したため,輸入が急増した。ペンローズは70年 代に入ってからのアメリカの原油輸入の急増こそが石油危機の重要な要因であ

ると指摘している。吻

5.公示価格の大幅引上げと資本参加

最終ラウンドは,産油国が再度超過利潤の吸収を試みた時期であるが,今回 は第1ラウンドと異なり,差額地代増額要求のほかに,国有化や資本参加の進 展という新たな要素がつけ加わる。そして丁度勃発した第四次中東戦争は,ア

ラブ産油国を反イスラエルの旗の下に結集させ,生産制限や禁輸のための大義 名分を提供した。需給関係は一一気に引き締まり,産油国は差額地代を大幅に引 上げるとともに,原油生産部門の支配権を資本の手から奪いとることになる。

最終ラウンドは,原油のスポット価格が早い速度でヒ昇を始めた73年春から 始まる。テヘラン協定以後,原油公示価格は協定にそって71年3月の2.18ドル から73年1月の2.591ドルへと小刻みに引上げられた。それにともない産油国 の取り分も1。330ドルから1.5i6ドルへと増加し(参加原油分はのぞく),原油 fob価格も小刻みに上昇していった。しかし1971年前半の混乱の時期と比べる と市場は安定していた。それは資本が穏健派産油国で大規模な能力増強と増産 をすすめたからで,原油供給量に目立った不足はなかった。それにもかかわら ずスポット価格が上昇を始めたのは,72年末の経営参加交渉の妥結によって,

(19)

原油供給構造に変化の兆しが現われてきたからである。

1938年にメキシコが石油産業を国有化して以来,1951−53年のイランによる 国有化事件をのぞけば,資本の優位の下で産油国による大規模な国有化が行な われることはなかった。1968年6月のOPEC総会において,勧告という形で 産油国による原油生産企業への資本参加の方針が出された時も,それを本気で 受けとめる者はいなかった。しかし70年代にはいると国有化や資本参加が一斉

に進展しはじめる。

その動きを先導したのもやはり急進派諸国であった。先陣を切ったのはアル ジェリアである。同国はすでに1960年代末に米系企業に51%の資本参加を行なっ ていたが,70年にはいると生産量の%を占める仏系企業へ51%の資本参加を行 ない,その結果,国営石油会社は同国の石油生産量の大部分を支配することと なった。次いでリビアが,イランの軍事行動をイギリスが支持したとの理由か ら,71年12月に英系メジャーズのBPの利権を接収した。さらにイラクは72年 6月に,石油開発を十分に行なっていないとの理由から,長らく係争中であっ たイラク石油会社(メジャーズの共同子会社)を全面国有化した。

急進派諸国のこうした動きは単なる土地所有者としての差額地代増額要求と は異なり,政治的に独立した国家として外国資本の経営権や所有権を獲得し,

もって資源主権を確立したいという要求であり,それは政府の反西欧的イデオ ロギーや一方的・強権的措置とあいまって,資源ナショナリズム高揚の象徴的 出来事とみなされた。

しかし表面的な華々しさとは裏腹に,それは原油供給構造の変化をほとんど もたらさなかった。というのは国有化後もフランスとの強いつながりを維持し たアルジェリアを別にすれば,リビアもイラクも国有化原油の販路を見出せず,

輸出が大きく減少したからである。(431メジャーズが特に妨害したわけでもない のにそのような事態になったのは,穏健派産油国での大増産により,資本が他 の供給源を確保しえたからである。

とはいえテヘラン協定の時と同様に,急進派の行動が穏健派に与えた影響に は大きなものがあった。それは,OPECが1971年7月の総会および9月の特別 総会で「資本参加」の決議をおこない,それに基づいてサウジアラビアが中心

となって会社側との交渉が開始されたことに現われている。そして1972年10月 に包括的参加協定がヤマニ石油相とメジャーズの問で締結された。それは産油 国の当初の参加比率を25%とし,以後段階的にその比率を引上げ,82年には51

(20)

%に引上げるというものであった。それにともない産油国政府には資本参加分 の原油にたいして所有権が発生するが(持ち分原油あるいは参加原油という),

独自の販路がないため,その大部分は会社が一定の価格で買いもどすことになっ ていた。それでも産油国政府は自己販売用として73年には総産油量の2.5%を,

76年には7.5%を受けとることになっていた。

この資本参加の動きは,政治的,イデオロギー的性格の強い急進派の国有化 とは異なり,経済的な要因に強く規定されたものであった。それは,70年代初 頭に市場が売り手市場へと転換したことへの認識と,エネルギー不足が到来す

るとの予測に基づき,土地所有者としての差額地代取得に止まらず,資本の利 益を丸ごと吸収しようとする欲求であった。㈲それは差額地代増額要求よりも 一段と強められた経済的要求である。もちろんそこには,急速な高まりを見せ ている急進派の国有化に対抗して,代替案を提示するという政治的動機があっ たことはいうまでもない。資本と土地所有との関係が変容をはじめた。

この協定を批准した国は,結局サウジアラビア,カタール,アブダビの三ヶ 国だけで,急進派諸国および,クウェート,イラン,ナイジェリア,インドネ シアは協定を締結しなかった。しかしOPEC最大の産油量を誇るサウジアラ ビアが協定に調印した意味は大きく,同国政府の動きによっては原油の供給構 造に変化が生じることが予測された。さらにイランはそれに刺激されて,1972 年10月からメジャーズの共同子会社であるコンソーシアムとの交渉を開始し,

翌年5月に新たな合意に達した。それは国営石油会社がイラン全土の操業権を 獲得し,メジャーズはそのもとで請負契約を締結するというものであり,ヤマ

二が取りまとめた資本参加協定よりもさらに産油国側に有利な取決めであった。

そのもとで国営石油会社は輸出用原油として73年に20万b/dを確保すること となった。それは年々増加し,81年には150万b/dに達することになってい

た。

そして産油国政府の持ち分原油の一部が実際に市場で取引きされることによっ て,メジャーズを媒介とした伝統的な原油の供給構造は,産油国政府と消費国 企業とが直接取引きをおこなう形態へとわずかではあるが変化しはじめた。先 行き不透明感から,メジャーズが非子会社への原油の長期販売契約を控えたこ

とから,原油輸入を急増させていた米系独立資本を中心に原油争奪戦がはじま り,産油国持ち分原油へ需要が殺到した。(45〕持ち分原油はそれ程量が多くない ことから,スポット価格が上昇した。サウジアラビア政府は1973年5月に参加

(21)

原油の全量を「記録的な価格」で販売した。6月カタールは公示価格を超える 価格で参加原油を米系独立資本に販売した。8月までに地中海原油のスポット 価格は公示価格を上回るようになった。㈹

もっともスポット市場は取引き量がきわめて少なく(総産油量の5%程度と 見積もられている),また取引き情報が不十分なことから,全体的な市場の動 向を反映しているとはいえない。(47)したがってOPEC諸国のように,スポッ ト価格を基準に資本の取り分を算出し,それが増大したから公示価格を引上げ うと主張することは適当ではない。しかし製品価格から逆算した原油のネット バック価格でみても,第4表のように早くも73年5月には公示価格に追いつき,

7月にはそれを陵駕するに至っている。これは製品需要が特に堅調で,消費国 での製品価格が早い速度で上昇し,それにともないネットバック価格が公示価 格以上のテンポで上昇したからである。産油国の取り分は公示価格によって抑

え込まれているから,ネットバック価格の上昇が公示価格の上昇を上回れば,

その分だけ資本の取り分が増大する。テヘラン協定直後には産油国8割,資本 2割に変化した超過利潤の配分比率は,73年夏には産油国6割,資本4割へと 資本の有利な方向へと大きく変化した。この比率は資本が優位にあった1960年 代前半の配分比率とほぼ同じであった。(姻

こうして73年中頃には,資本の手元に再び大きな超過利潤が発生した。しか し産油国は5年間有効のテヘラン・トリポリ協定に制約されて,それを差額地 代として吸収することができなかった。60年代にあっては公示価格が固定され

たもとで実勢価格が下落したので,産油国の取り分が増大したが,70年代には いると,後者が前者よりも早く上昇し,ついにはそれを上回ったことから資本 の取り分が回復したのである。そのようなことはテヘラン協定では想定してい なかった。皮肉にも資本参加がそれを助長したのである。

第4表 アラビアン・ライトのネットバック価格(1973年)

(単位;ドル/b)

3月 4月 5月 6月 7月

石油製品 価 格 4.35 4.61 5.57 6.58 6.66

原油ネットバック価格 1.78 2.26 2.73 2.44 3.06

原油公示価格 2.59 2.74 2.74 2.90 2.96

出所)MEES, Oct.5,1973, p.13.

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