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(1)

序節穴から射し込む光

1

江戸時代の覗き眼鏡

一江戸時代における西洋製光学器具の受容一

(覗き脹鏡>は、レンズ越しに絵を覗いて鑑賞する装置 である。その絵は遠近法を強調した洋風画だった。この 装置はもともと西洋の風景画の成立と密接な関係を持っ ている。一人で覗く<覗き眼鏡>は大名など裕福な家庭 で楽しまれたものだが、長く庶民の娯楽として楽しまれ てきたのは屋外で興行される<のぞきからくり>であっ た。<のぞきからくり>もまた西洋における風景画の成 立と切り雛せない。ヨーロッパで、風景そのものを対象 として描かれた絵、すなわち風景画が成立するのは十五 世紀のイタリア・ルネッサンスにおいてだとされるが、

すでにその時点で、それは自然を写し取るための仕掛け (装置)と深い関係にあった。その一端は、イタリア前 期ルネッサンスの建築家・画家・芸術理論家であったレ オン・バッテ'イスタ・アルベルティ(1404 7のの、方 眼紙様の格子の工夫や、実熊は不明ながら外界を写し取 る光学的な箱の考案に見ることができるa)。

壁や扉の小さな穴から暗い室内に差し込む光が外の景 色を映し出す現象は日常どこの国でも見られたはずであ る。日本の木造家屋では節穴を通してそのような現象が 現われる。享和三年 a803)に刊行された曲亭馬琴の黄

かげとひむたちん毛人fい

表紙「明美閑珍紋圖業」には次のような場面が載っている。

曲亭馬琴のこの黄表紙は、前年の享和二年に書かれた

彼の随筆『覇旅漫捌中の次の記事をそのまま挿絵入り でそっくり紹介したものである化)。

廿三五綵の山水

仁ひぼり

三州新堀(をかざきょり西一里半在)深見荘兵 衛(木綿問屋、豪家なり)といふ人あり。子忘、は左 太郎といふ。狂名を朝倉三笑といへり。この家の納

えんがけと

戸の縁側戸のふし穴に、紙を一尺ばかり手前におし あてれぱ十間ばかり先の泉水草木悉く紙中にうつる。

えがけ

その鮮明画るが如し。五色は五色にうつり天色は天 色にうつる。尤いづれもさかさまにうつるなり。予 が見しときは、池に杜若あり。竹あり柳あり。庭に 小児の手習草紙ほしてありしが。表紙のもん字年月 まであざやかによめたり。雲の追々にあつまり、又

そよ

ちりゅき。竹やなぎの風に戦ぎ池に漣のたつなど。

(?マ)

言語同断の景色、理外の機関なり。主人こころみ に庭に小児を出して見せしむるに、眼鼻衣服の模様 までよくうつれり。わづか0是ぱかりの戸のふし 穴より、みの紙一枚の内ヘ、方十八問の山水、明細 にうつること、蘭画びいどろがみといふものに似 たり。(戸をたてこめて内はうすくらうして外より 影をとるなり)また京大宮どほり百姓丹羽又左衛門 が納戸のふし穴に紙をさしかざせぱ、東寺の塔あざ やかにうつる。(これもさかさまにうつるなり)ま た信州上の諏訪薬師堂のうらの羽目のふし穴よりも、

塔影のうつるといふことはかねて聞しが、いまだ目 前に見ずーーー以下略

(「日本随筆大成」第一期第一巻所収、曲亭馬琢「尋旅 漫捌より)

馬琴はこのように述ベ、これは漢籍にも例のあること だとして唐代の段成式撰「酉陽雑爼」や明代の陶宗儀 (1316‑1369)撰「綴耕録」(巻十五)をあげて、「か、れば 異国にもむかしよりありしこと、見えたり」という。実 際あらゆるところでこのような現象は起こっていたに違 いないが、書き留められることはほとんどなかった。そ れが意識に留まり世間に共有されるようになったのは、

タイモン・スクリーチが説いたように「凝視」という江 戸の精神史上のできごとと関係がある住)。右の馬琴の 文中にもこの現象を「蘭画びいどろか゛みといふものに

板垣俊

新潟県立大学

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図1:節穴から射し込む光と風景 (曲亭馬琴の黄表紙「陽兼開珍紋圖業」享和三年刊)

熊1援洲

いがたきしゅんいち

〒950‑8680 新潟市東区海老ケ瀬471

(2)

似たり」とある。これは歴史的事実としてはまったく逆 で、西洋の光学装置や遠近法が日本に移入されたことで はじめてこのような現象が意識的にとり上げられるよう になったものである。

オランダ人がもたらした珍器

ーカメラ・オブスクーラー

日本では特定の土地に現われる珍現象と見られていた が、西洋では外界の景色を写し取るためにこの自然現象 を意識的にとらえ、それを人工的に創り出す光学的な装 置の開発につなげていった。すなわち外部からの光を遮 つて真っ暗にした箱の一方の壁にピンホールを開けた力 メラ・オブスクーラが考案されたように、外界の自然を 写し取るための工夫も最初はこの自然現象を再現するこ とから始ま0ている。さらにまたピンホールの変わりに レンズがはめ込まれることでより鮮明な像を得ることが できるようにな0た。

その後、このカメラ・オプスクーラは小型化され、携 帯に便利な箱形にな0た。ケネス・クラークは「十七世 紀も末になると、光の絵画はもはや愛の行為であること

トリ,ケ カメラ.ルシダ

を止め、詐術となった。<写生器>は人を驚かせるどこ ろか、画家がふだん使う携帯品となった」御と述ベて いる。しかし、この断定について、ジョン・ H ・ハモン ド著「カメラ・オブスクラ年代Ξ己』⑤では、「フェルメ

ールをはじめオランダの画家たちが、はたLてカメラ オブスクラを使用Lたかどうかという問題について多く の著者たちが関心を寄せてきたことを思えぱ、これはま ことに困った発言である」と否定的である。クラークが いうカメラ・ルシダがカメラ・オブスクーラよりも構造 上単純な、支柱にレンズと鏡が取り付けられた携帯に便 利な写生器であったとすれぱ、それが十七世紀に実際に あったかどうか定かではなく、はっきりしているのは 十九世紀になって用い始められたという事実である。現 物も古いものが見当たらず十九世紀のものが残されてい る。ちなみに日本国内に所蔵されてぃるルシダも新しく、

東京都富士美術館所蔵の木製ルシダの製作年代は1830年 頃とのことである(吉岡栄二郎氏ご教示)。

西洋の十七世紀の画家たちがカメラ・オプスクーラを 使って実際に映し出された像をなぞるようにLて絵を描 いたかどうかについては疑問が残るとLても、それは画 家にとって大きな関心事であったことは間違いなく、外 界の印象をできるだけ正確に描こうとする絵画の出現、

そしてそのような絵を現実の擬似体験として楽しむ鑑賞 者の出現と、このような光学的装置との密接な関係は疑 い得ようもない。

十七世紀のヨーロッパで普及したカメラ・オブスクー ラは、光を遮った箱の中にレンズと鏡が付いた装置であ る。オランダ商館の記録によれぱ、すでに「1645年に、

ビレガールスベルヒ号が長崎に運んできた珍品の中には、

言十12個の「donckerC抑er E1ヨSen」が見られる」という(6】。

また、東京大学史料編纂所発行佃本関係海外史料オ ランダ商館長日記』(訳文編之九)を見ると、」六四五(正 保三)年十二月に、それまでの商館長から任務を引き継 いだレイニール・ファン・ツムの日記の三月六日の記事に、

筑後殿は、すべての珍奇の品すなわち、閣下のた めに持ち渡った集熱レンズ(br抑tg1舶Sen)、拡 大鏡(vetgootgla且Sen)、暗室鏡(donckerCヨmer・

g1始Sen)、及びその他の品々を、甚だ不満であると して送り返してきた。通詞の知らせによると、その 中のーつも彼の気に入らなかったからだ(とのこと である)。 〔フ)

とある。「筑後殿」は、幕府大目付、井上筑後守政重の ことで、これらの「珍奇の品」は商品ではなく、長崎貿 易が円滑にゆくようにと政府高官ヘ贈られた献上品であ

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写真1:日本に渡来したカメラ・オブスクーラ 東京富士美術館蔵 (二00Ξ年国立科学博物館特別展「江戸大博覧会ーモノ づくり日本一」図録より。解説にヨーロッパで十七世紀 に使用されていたものという。他にピラミッド型あり。)

1

ここにいう「暗室鏡(donckerC抑er・g1ヨasen)」もま たカメラ・オプスウーラである。東インド会社では、当 時西洋で製造されていた興味深い光学的器具としてこれ を選んだものであろう。まったくことなる文化的文脈に 居る幕府大目付井上筑後守が関心を示さなかったのはけ だし当然である。この「暗室鏡」はレンズ付きであった ことは聞違いない。なぜなら、集熱レンズおよび拡大鏡 と並ベられているからである。おそらく携帯できる程度 のサイズだったと推測碁れる。

どころが、このあとさらに続けてオランダ東インド評 議会は、日本人の好奇心を満たすであろうと考えて、ま

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(3)

た別の珍奇な品を長崎ヘ送っている。同年(1叫)六月 十八日付、レイニール・ファン・ツム商館長宛害翰(同 訳文編之九、附録七)によれば、

とりわけ美しい鋼鉄製(枠)の鏡と透視箱(per.

Specuj丘 Casken)は非常に面白くまた感じ良く作ら れており、また二頭の賂駝は先日ペルシアから来た もので、この種の獣はかつて日本にいたことはなく、

好奇心の強い日本人には非常に歓迎されるだろうと 思います。 (同、訳文編之九、附録七、 P.28D とある。不評だった「暗室鏡」に代えて今度は自信あり げに「透視箱(petspecW丘 CヨSken)」を、珍獣のラクダ 等とともに送0てよこした。,前任者の跡を継いだウィレ ム・フルステーヘン商館長は、会ネ士が手配したこれらの 珍しい品々を持って将軍に謁見するため同年十二月に上 府している。

出発に先立って、長崎奉行山崎権八郎正信(知事)に それら献上の品々を点検してもらったところ、「透視箱」

が大変高い評価を受けたという。一六四六(正保三)午 十一月の日記にいう。

(通詞たちは)戻って来ると、"(知事は)特別に満足 した、特に透視箱(petspectie正且S)が大変気に入 られた、すべてのものを点検するのは数日仕事だと 言った、と報告した。(知事は)賂駝、鏡、削り出

した象牙の碗を大いに褒め、金色大羅紗、小型薬品 箱及び粧毯も非常に閣下の気に入った。

(訳文編之十、 P.1の 商館長はこれらを携えて江戸ヘ向かった。長崎奉行が 太鼓判を押したとおり、江戸では「透視箱」が最も喜ば れている。次がまず力ぜタン(商館長)の宿所に押しか けた武士たちの様子。

(一六四七年一月)五日知事三郎左衛門殿の長 男が、大人数の貴族の一団を伴って、オランダ人 及び持って来た珍奇の品々を見物するために現れ た。彼らが終始最も喜んだのは、彼等には極楽 (gocracqbaco)と呼ばれている透視箱(原文 Speゆectie垂且S (8))であり、また小刑時計、碗、小

(訳文編之十、 P、鋤 型の鏡なども(喜んだ)。

そして次が江戸城内における様子。

同月六日一・・・・大身の者たち各人が、彼等の月のー 日であるにもかかわらず、城に赴き、我々によって 持0て来られたあらゆる珍奇の品々を見物するため に今や(ここに)おり、座る場所もないほどであ0 た。あらゆる所が同じように騒然として、(彼等力勺 互いの聞を歩く様子は割目に価する不思議(な光景) であった。それは全く(通常の)秩序とは異なる状 態であった。透視箱が、最も人を集め、また最も気

に入られた。 (訳文編之十、 P89)

この「透視箱」は、「極楽箱(ΞOcracqbaco)」ともあ リ、オランダ語Pe玲PeCⅡef は「遠近法、見はらし」な どと訳され、 k且S(ケース=容器)は南親会編「蘭和大 辞典」 a943、創造社刊)によれば「大箱」の意味もある。

日記中でも「大きい透視箱(grooteperspeMe企a5)」と 言われている。そのため、上府の旅の途中、東海道の舞 坂宿で役人に見耆められ、中に武器を隠しているのでは ないかという嫌疑を掛けられている(同日記、十二月 二十四日条)。これは、評判の悪かった前掲の「暗室鏡」

とは明らかに異なる装置であった。カピタンの江戸宿所 に押しかけた武士たちが、それを「極楽箱」と見なした ということは、何か似たようなものがあったのであろう。

その名から一般に考えられることは、地獄・極楽の絵を 覗かせた<のぞきからくり>であるが、十七世紀の中ご ろにそのような箱があったかどうかはっきりしない。

ほかに考えられるものとしては、箱の中に人が入るこ とのできる大型のカメラ・オブスクーラである。カメラ・

オブスクーラは、もともと中を暗くした部屋に人が入っ てレンズから差し込む外界の映像を雛に映L出して窺賞 する装遣だったらしく、当時西洋では窓のない暗い小部 屋に入って「片方の壁に入れてあるレンズが向かい側の 壁に投影する外界の画像・映像を楽しんでいた」(ミヒ エル・ヴ今ルフガング、同上)という。先に大目付井上 筑後守がまったく興味を示さなかった「暗室鏡」は、そ れを改良して携帯用に小型化したものである。小刑の力 メラ・オブスクーラには興味を示さなかったとしても、

箱そのものの中に入って外の鮮明な映像を見ることがで きたならぱ、ある程度のインバクトはあったであろう。

しかし、この大烈のカメラ・オブスクーラは、屋外に据 えられた挿絵があるように、鮮明な映像を得ようとする ならぱよほど明るい所で用いなけれぱならない。あまり 明るくない日本の室内で用いるにはふさわしくない装置 である。前掲商館長の日記で、「透視箱」が人気の的だ 0たという江戸城内の人々の様子からしても、これでは なかった。

「pe埒Pective丑C部」と言われているこの箱はいかなる ものであったのだろうか。岡泰正箸「めがね絵考』 a992、

P.86)では、この「透視箱」はピープショー・ボックス であったと結論づけている。当時のオランダにあった遠 近法を利用した珍しい箱としては、四角な箱の内部の四 側面と床に、あたかも空間的な広がりを感じさせるよう に絵の具で巧妙に室内を描いた驚きの箱であった。これ を"perspectyfk且S"といい、オランダのカレル・ファ ブリティウス a622 16臭)やサミュエル・ファン・ホ ーホストラーテン a627  1678)などレンブラントの弟

(4)

1

子が製作Lているという内}。英語では"peepsbow"と

いい、ホーホストラーテン作のもの(オランダの家庭の 室内= views of 壮)e n)terioT of且 Dutch House)がロン ドンのナシヨナル・ギャラリーに展示されていてよく知 られている。前掲の商館長宛書翰に「感じ良く作られて おり」とある表現とも一致する。「透視箱」とはそれで あ0た。

かくも驚きを呼び起こしたこの箱も、江戸庶民には無 縁であったから、その遠近表現のトリックを学んで類似 のものを生み出すこともなく、日本ではいつしか歴史の 表から消えてしまった。そして「透視箱」の人気にくら ベ、「暗室鏡」すなわち携帯用カメラ・オブスクーラは ほとんど日本人の興味をひかなかったらしい。もちろん 光学的な関心からではなく娯楽的な玩具としても興味が

もたれることはなかったということである。カメラ・才 プスクーラが関心の対象となるのは、馬琴の節穴の光景 と同じく十八世紀の蘭学の興隆を待たなけれぱならなか つた。たとえば司馬江漢(1747 1釘8)は、これを「写 真鏡と云ふ器あり。之を以て万物をうつす」(「春波楼筆 記」)と紹介した。また杉田玄白(1733 1817)は「蘭 東事始」にさまざまな舶来の器具とともに「ドンクルカ ームル(donckerC抑e"暗室写真鏡」といって次のよ うに紹介した。

かのくにしちhたり

其頃、より世人何となく彼国持渡の物を奇珍とし、

すべて其舶来の珍器の類を好み、少しく好事ときこ

と"あ0め

へし人は、多くも少くも取聚て、常に愛せぎるはな

も上 たらろ

し。殊に故の相良侯、当路執政の頃にて、世の中

吐41'だ かのふね

甚華美繁花の最中なりしにより、彼舶より、ウヱ ールガラス天気験器・テルモメートル寒暖験器・

ドンドルガラス震雷験器・ホクトメートル水液 軽重清濁験器・ドンクルカームル暗室写真鏡・ト ーフルランターレン現妖鏡・ゾンガラス観日玉・

ループル呼遠筒といへる類ひ、種々の器物を年々

もちこ

持越し、其余諸種の時計、千里鏡、ならびに硝子細 工物の類、あげて数ヘがたかりしにより、人々其奇

ばな壮だ

巧に甚心を動し、其究理の微妙なるに感服し、自 然と毎春拝ネLの蘭人在府中は、其客屋に人彩く聚

るやうになりたり。ao)

*「其頃」は田沼意決が老中だった時代で明和年問 (1764  72)をさす。

また幕末の随筆、喜多村信節撰n喜遊笑覧」巻Ξ「書画」

の項では、この器具について次のように説明している。

写真の鏡あり。「物理小識」十二置二玻瓔鏡于暗室 之窓版一、則物形小縮、透二入兀上之紙̲、可二細描̲

也、写,真甚肖、とれもと西洋の法なるべし。

このように、さまざまな光学的器具に対して「究理の

微妙なるに感服」することができたのは、まさに白然を 凝視する態度、すなわち自然観察と科学との相関性に対 する理解があってのことであった。

図3:写真鏡

(江戸浅草茅町二丁目の眼鏡細工所大隅源助が幕末頃に発行した 引札中に見える。香川大学祁原文庫所蔵「西洋輸入器具営業廣 告Ξ種J 中の一部分。)

焦点の調整はレンズがはめられている筒の部分で行なうものと

思われる。

図2:どんけるかあむる

(大槻玄沢述「蘭説弁惑」天明八年序、寛政十一年刊、「江戸科 学古典叢沓」17所収より)

司馬江漢は天明八、九年 Q7朋 89)'長崎に旅行したときこの 写真鏡を持参した。しかし、途中蕨枝の酒造家大塚藤蔵.軍蔵 方に預け置いている。江戸に帰0てからの江漢は、寛政元年四 月十六日付、藤蔵・軍蔵宛書簡で「其後トンケルカアモル如何 候哉、承度候」と言い送っている

(「司馬江漢全集」第二巻「江漢書簡集」)。

おびただしあつま

カメラ・オプスクーラの構造は、外部の光をとらえる レンズ、焦点を合わせるための蛇腹、45度に傾けられた 鏡から成っている。外の景色はレンズを通して反転して 箱の中に入り、鏡に反射して正像(ただし左右は逆)と なる。その像は箱の上部のすりガラスなどの平面上に投 影させて見ることができる。また半透明の紙を水平に置 けぱそとに外界の景色が映り、それをなぞって外界の像 を正確に写し取ることもできる。じつのところく覗き眼 鏡>はこの原理を逆に応用したものに過ぎない。なぜな

ら<覗き眼鏡>は、絵に描かれた擬似風景を鏡に反射さ

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12

鏡真写

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(5)

せてレンズ越しに覗てという装置だからである。レンズ を通して本物らしく写し取られた風景の絵を、今度は逆 にレンズの向こう側に置いて覗く。すると、レンズの向 こう側には本物らしい虚像の風景を感じ取ることができ る^そのような卜りツクを持つ装置であり、おそらく カメラ・才プスクーラが普及し、それとの関係で風景画 が多く描かれるようになった時代に、あまり時間を置か

ず誕生したものと思われる山)。じうさい西洋ではく覗

き眼鏡>にも転用できるカメラ・オブスクーラが十七世 紀の中ごろに作られてぃたのである⑫。十八世紀には

「カメラ・オブスクラ」という語を、西洋では露天の香

具師や行商人らが'<のぞきからくり>の箱と誤って用い ることが多かクたともいわれ、その点からも両者の間に 深い関連があったことをうかがわせる。

野の玉川」(明和4年(1767)頃)に描かれていて、十八

世紀中ごろの日本でも民間で話題になった舶来の珍器だ つた a.0

構造は、マホガニ「材の支柱に付けられた大きなレン ズの覗き窓とそれに対して斜めに開くように付けられ たガラスの反射鏡からなっていて、英語では支柱のあ る光学的器具という性格から「opticalP辺ar Mach血es」

あるいは斜めの鏡を持つ光学的器具という性格から

「optical diagonal machjnes」と呼ばれている⑮。日本

ではこれを「覗き眼鏡」と呼ぴ、この器具を使って覗き 見る絵が「眼鏡絵」であった。

西洋の眼鏡絵は、その題材の多くを地誌的なものにと うていて、銅版画で描かれたその絵は数枚のセットで販 売された。前掲カルデンバッハの論文によれば、1784年 のカリントン・ボウルズのカタログには、「セットは、種凌 様々なバースペクティブ・ヴニーズから成っており、イ ギリス、フランス及びオランダの船舶、著名な都市、町、

王宮、さらに貴族や郷士の屋敷や庭園の名だたる風景や、

ヴェネツィア、フィレンツェ、古代あるいは当代の口ー マ風景ならびにロンドン内と、その周辺部の最も人目を 弓1く公共建築物の風景などを含んでおります」(岡泰正 訳、『めがね絵考」 P232)とあるという。また、同カタ ログには眼鏡絵の用途および鑑賞方法として、そのまま で「部屋飾り」にもなるし、さらに「適当な彩色を施し たものは、斜めの鏡、あるいはスタンド状の反射式のぞ き眼鏡(OP杜Cal P辺ar Machines)で鑑賞する」方法も あること、その器具を使うと絵は「驚くほど美しく見え、

ほとんど実景の建物を前にするかのように大きく見え る」(同 P232)との宣伝文句もあるという。このように、

西洋には十八世紀の眼鏡絵の販売カタログが残されてい て、イギリス・イタリア等の例から、眼鏡絵の「その大 多数はおそらく一七四0 九0年ごろに制作された」と 推測されてぃる⑮。また、このような器具と絵の制作 開始年代については、少なくとも十七世紀には遡り得な いという説が強かった(功が、しかしそうでもないらしい。

眼鏡絵が、それを覗く装置である<覗き眼鏡>と一体 のものであることを考えれぱ、その起源は装遣の発明と も密接な関係があるはずである。そして装置の発明は突 然なされたものではなく、覗かれる風景画を生み出した 遠近法と関連するそれ以前の光学的器具をビントにした と考えるのが自然である。すなわち前節に述ベたとお

..

リ、<覗き眼鏡>とは、風景画の生産に関わったカメラ・

オブスクーラから生まれたもので、原理的にそれと逆の、

言うなれぱ風景画を消費する装置だったと考えられる。

西洋でそれらしい装置のことを記述した最も早い例とし て、 JC.コールハンスという人が、「覗き眼鏡(vieW血g 映像

カメラ・オブスクラの原理

レンズ

13 覗き眼鏡の原理

レンズ

外界の 景色

風景を描いた絵

西洋のゾグラスコープー覗き眼鏡一

前述のように<覗き眼鏡>に類似した装借は、十七世 紀にはすでに出来ていたと思われるが、十八世紀になる

と、極端に遠近を強調して景観を描いた鑑賞用の銅版画 とともに、それを覗き見る装置としての<覗き眼鏡>が 家庭での鑑賞用サイズで西洋の富裕市民層に普及した。

それはまたオランダから日本ヘもたらされてぃる⑬。

そのような<覗き眼鏡>の一種で、斜め45度に傾斜した 鏡に映る絵をレンズ越Lに見る装置を、西洋ではゾグラ スコープ(zogascope)という。これは、よく引かれ る鈴木寿信の浮世絵「六玉川」シリーズのうちの一枚「高

人問の 眼ヘ

(6)

mヨCh血e)』として利用されたカメラ・オブスクーラに ついて記述している一六七七年の著作をあげ、その書で は見る者が奥行き感を得るためには両眼による像が必 要であることを強調してぃる、という例が興味深い Q8)。

カメラ・オブスクーラの転用例を考え合わせると、西洋 における<覗き眼鏡>はやはり十七世紀まで遡.りうると 考えなけれぱならない。

レンズを使って絵や何かを覗き見る装置は日本の場合 でも十七世紀まで遡ることができるのだが、ただしここ ではっきりさせておかなけれぱならないことは、大き な箱にレンズを付けて中を覗かせる「のぞきからくり (peepshows)」と、レンズのほかに斜めの反射鏡を備え た、遠近法の絵を見るための<覗き眼鏡>とは区別して 考える必要があることである。前者は、絵が箱の中に入 つていることで、イルミネーション効果を出すなどの驚 きを与えることができる仕掛けを加え得る装置である点 で<覗き眼鏡>とは大きく性格が異なる。ここではく覗 き眼鏡>をこのように限定することで、興行的なくのぞ きからくり>の問題と区別して考え、後者に関する考察 は後に回すことにしたい。

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図4:鈴木春信筆「高野の玉川」暢和4年 a767)囿 城西国際大学水田美術館蔵(水田美術館発行の絵葉書より)

「六玉川」は、陸奥の名所「千鳥の玉川」、近江の名所「萩の玉川」、

摂津の名所「拷衣の玉川」、武蔵の名所「調布の玉川」、山城の 名所「井出の玉川」など歌枕として知られる著名な六つの玉川 を美人画として構成したものだが、女人禁制の高野山は女性を 配して描くことができなかったため、高野の玉川だけを舶来の

<覗き眼鏡>で人物に覗かせるというユニークな手法をとったの である。絵の中で床に逆さまに置かれているのが高野の玉川の 風景画である。この絵の場面は陰間茶屋だというユニークな見 方もあるが、春信筆の浮世絵(浮世美人寄花・八重垣)にはや はり光学器具の一種である望遠鏡を覗く禿を連れた遊女を描い た絵もあるから、ここの絵も遊女と禿とみておきたい。

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<覗き眼鏡>のタイプ

西洋における<覗き眼鏡>の形態については、前掲ゾ グラスコープのようなAタイプと、前面と左右の側面を 板で塞いでピラミッド状にし、上部にレンズと鏡を備え た覗き箱を置く Bタイプとが知られている。(このほか 正面に一個の覗きレンズが付くだけの、鏡の無い、絵を 縦にして鑑賞する箱烈のものもあるが、それは一人用の

<のぞきからくり>と考えて除外する。) Aタイプのも のは、ディドロの「百科全書』巻22 (1767)の眼鏡屋の 図に見ることができる。

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写真2:ゾグラスコープ(東京富士美術館所翻

「特別展江戸大博覧会ーモノづくり宜本」(2003、 P.釦)に掲載 する東京富士美術館所蔵のものは、鈴木春信画「高野の玉川」

に描かれたものと形状が一致する。

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図5:ディドロの「百科全書』眼鏡屋の図

(rフランス百科全書絵引」平凡社刊、19舗よ川

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図6:ディドロの「百科全書」に載るゾグラスコープ (『フランス百科全書絵引」平凡社刊、 19闘より) 図5の限鏡屋では、この器具が左手奥の窓の近くの棚に置かれ ている。

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前掲のように、これは鈴木春信の浮世絵「高野の玉川」

に描かれていて、十八世紀の半ぱ過ぎには日本でもよく 知られていた。これには両脹で絵を覗けるように人間の

目の幅よりも大きめのレンズ(直径12.5Cm もある)が 使用されている点に特徴がある。これについては既述の ように、見る者が奥行き感を得るためには両眼による像 が必要であるとの説があり、大きなレンズの両端のプリ ズム状の部分⑲を通して異なる屈折をした像が眼に入 0てくることで遠近感を感じさせるのだという。しかL 現代の3D映像でお馴染みのように、人問が平らな画面 に感じる遠近感は、わずかに異なる両眼の角度から左右 別々の映像を見ることによって生まれる。このような立 体映像装置の出現は時代が下った十九世紀末のステレ オ・スコープを待たなけれぱならない。それには左右の 眼で別々に見るための差異を持った写真や絵が使われ た。ドイツのアルプレヒト・デューラー a471  152幻 の絵に、碁盤の目状に組まれた格子のある窓越しに横た わる裸婦を机上の方眼紙に写し取る男を描いた版画の あることが知られている。これはパロディとも見られて いるのだが、画家の男が片方の眼をとがった棒の先に当 て、単眼で正確に位置を測っている様子は、透視遠近法

と眼との関係をよく表わLている。すなわち遠近法で描 かれた絵は両眼で見るようにはなっていなかった。言う までもなくカメラ・オブスクーラでとり入れられた外部 の映像もだたーつのレンズを通して得られたものであ る。そのような問題はあるにせよ、しかし実際に製作さ れ、かつ今日に残されているのは、人間の両眼の幅を少

し越える大きなレンズが付いたAタイプのゾグラスコ ープである。

それでは、上部にレンズと鏡を収めた箱を載せるピラ ミヅド劉のBタイプはどこに由来するのか。再びディド 口の『百科全害」巻20 (1763)によれぱ、カメラ・オプ スクーラとして次のような図を載せている。

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ノワ'、,,四咋 ^.ι¥::".r

図7:ディドロの「百科全書」に載せるカメラ・オブス クーラの図

(「フランス百科全書銓引」平凡社刊、 1985 より) リチャード・ノ勺レザーの著書(Ri血ard Balzer.'peep・

Shows: A visualHjstory' P28)に載せる「OPTICIAN」

(18即)と題された銅版画中にも、光学的器具を扱う工 房の台の上に置かれた四角錐のものが見え、これもこの 形のカメラ・オブスクーラであろう。ディドロの「百科 全書」に載せる四辺に支柱を持つカメラ・オブスクーラ は、レンズと鏡の位置を替えれぱそのまま<覗き眼鏡>

となる。すなわちこれも既述のとおり、レンズを通して 鏡に反射させた風景を見る、という過程を逆にLて、鏡 に反射させた絵の風景をレンズを通して見るようにする、

ということにほかならない。その形の<覗き眼鏡>も西 洋で製作されていた。日本に伝わうた例としては次の写 真に見ることができる。

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15

写真3:日本に渡来したBタイプの例 (故渡辺紳一郎コレクション所蔵「長崎絵涯飾覗き脹鏡」) 外国製といわれ、との例でもレンズの直径は 10.1Cm と比較的大

きいのが使われている。図録「江戸の泥絵展」によれば、反射 鏡198 × 256Cm、高さ即Cm。

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︑八一<一Υ:

(8)

この二つのタイプの<覗き眼鏡>が一緒に描かれた江 戸時代の資料として注目されるのは{司馬江漢が製作し たAタイプの<覗き眼鏡>(写真4)の基台裏面に貼ら れた引札様の説明書である。そこには模写図(図8)の ように、まさしく A ・ B二つのタイプの<覗き眼鏡>が 紹介されている。説明書に描かれたAタイプのものはゾ グラスコープである。西洋製ゾグラスコープと比ベると 簡素ではあるが、基本的な構造はまったく同じと言って いいだろう②)。江漢の品がレンズも鏡も小さくなって いる点は、大きなレンズや鏡の入乎が容易で無かったこ とからと思われる。また、 BタイプはΞ方側面が塞がれ ず四つの角に支柱を残すだけの形態となっているけれど も、四角錐の上部に四角な小箱を載せて、それにレンズ と鏡を備え、底部に絵を横たえて鑑賞する形は西洋のも

のと原理的に同一である。しかもこれらの<覗き眼鏡>

が、斜めに据えられた鏡を不可欠な部品にしていること

は、説明書中に「道具なき時ハ常ノ鏡二うつし見る可し」

と記す江漢の認、識からもうかがえる。つまり、正面にー 個の覗きレンズが付いただけで鏡の無い覗き箱は、蘭学 一自然科学一遠近法という知の系列とは異なる興味本位

のくのぞきから<り>であったことが知れるだろう。

A

C

C

七広ヂフ

図8":神戸市立博物館蔵の引札様の説明書の模写図 この説明書の始めには、司馬江漢が日本における銅版画の創始 老である旨の説明が次のように記されている。

からえL

司馬江漢先生者、芝門神儒窟二居シテ唐画吏ナリ。画ヲ 作ル之余暇、紅毛ノ学二入ル。即西洋二銅板鍾刻之怯フり。

支那及日本此法ヲ不J乍。画理ノ妙二不,至ハ作ルコト不、

能。故二先生此法ヲエムコト数年、寛二卯ノ九月己二作レ リ。其画理西洋ノ法ノ如シ。則チΞ本ニテハ此法ノ創製也。

後人工者ハ江漢先生ヲ徂(祖)ト知ルロシ。

け巳1"

司馬江漢先生ハ日本銅板ノ創ナリ。

作ル処ノ画五品ハ皆本朝ノ図ナリ。一図ハ紅毛ノ模写ナリ。

熟(塾)徒等誌区可

天明申辰四月

*「申辰」は甲辰であろうから、天明四年(17別)である。

なお、原文に句読点を補い旧字体は今E通行の字体 にしてある。

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一三名',

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見0二きら憾女 可ハ 零道

写真4:司馬江漢作ゾグラスコープ 神戸市立博物館所蔵

(神戸市立博物館編集図録「眼鏡絵と東海道五拾三炊展;西洋の

影署をうけた浮世制 19別より)

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J

写真5:日本製ゾグラスコープ

町田市立国際版画美術館蔵、西洋眼鏡絵10枚二組付き寛政十二 年 Q即0) 65×67X 諦3師(図録 rHANGA 東西交流の波」

東京新聞、捌別よ")

この国際版画美術館所蔵のものには、蓋に汰のよう女所蔵者の 銘文がある卿}。

紅毛一覧図并二鏡記

此日紅毛一覧図懸二鏡照之則秋毫玲瓏猶登泰山指画天

下是以側挺立者名日泰山鏡也所以其蓋鏡為縮地令彼 萬里外境縮而宛然於目下故以為名矣鳴呼逮乎盖壌中 工於奇技者亦多也如斯鏡則可認寄中之奇耳若有淫者 則淫也非余所謂奇矣余好奇有所託而遁青因記此言以 箴子孫淫者云爾

寛政十二年庚申六月 七十三叟撫山福仲國記印 16

紅毛の.注"生人物山水村にて間図の如(.

ニ.?0し見山水1生 女り,,.例にる可ιろが如し

A印ピイドロ回轆

B印画女り制に亙(司. L

C印鏡女0 女︑めに.7子弓, L

篝之内雌tかいに入

(9)

四鶴岡市致道博物館所蔵の<覗き眼鏡>

『江漢西遊日記』によれば、天明年間に司馬江漢はく覗 き眼鏡>を携帯して、旅先で人々の眼を驚かせている。

おそらくそれは彼自身が作製したAタイプであろう。ま た、前掲の引札に描かれたBタイプの形と同じものも今 日実際に残されていて、故渡辺紳一郎コレクションや山 形県鶴岡市の致道博物館に所蔵されている。 Bタイプの、

側面を開放した形態のものが西洋で報告されていないと ころを見ると、これは東洋で造られたものかも知れない。

あるいは西洋のものが中国で改良され、それをさらに日 本で模倣した可能性、ある。このタイプのものとしては、

おAのぞき

写真6のように葵の御紋入りの豪華な「御覗」も残され ている。

徳川家の「御覗」に比ベれば質素な致道博物館所蔵の

<覗き眼鏡>(写真7)は庄内藩主酒井侯の所持品と伝え

られている。ただし、文字の記載はいっさい無く、製作 者も製作年代も不明である。木の材質も筆者には不明で あるが、少なくともこうした器具一般に使用される桐材 ではない。また、塗装も無く木目が現われている。釘は 木釘あるいは竹釘を使っていて、金属類はいっさい使わ れていない。また箱の匹隅を木組みにするような細工も 無く、藩主の所持品としてはかなり質素である。

この<覗き眼鏡>は、全体が次のような部品一式から なり、分解U又納することができるようになっている。

1.基盤となる木鍵の台

横45.OX縦365X高さ9.ocm

(上部が蓋になっていて絵を収納する箱でもあ リ、覗くときに絵を載せる台でもある。) 2.レンズが付いた木製の覗き箱

13.5 × 135 高さ10.ocm 3.覗き箱の蓋

4.ガラス製の鏡一枚(厚さ5 6mm程度) (覗き箱に斜め45度の角度で入れる。)

^

七N

^.武、竜

写真6:「御覗」梱人所朗

(二00三年国立科学博物館特別展図録「江戸大博覧会ーモノづ くり日本一」より)

勝盛典子解説によれば、「櫓型の中段の障子には、編子のような

聖h

薄い裂力唄'られ、ここから採光できる。紫檀こしらえの下台の 四方の障子には絵絹を張」 0てあるという。

右は上部の箱の蓋を開け たところ。鏡を入れた状態。

^

5 覗き箱を支える支柱二想

F‑140mm→1

写真7 致道博物館所蔵の<覗き眼鏡>

(2009年9月6日撮影)

覗き箱

370mm

(上下端が差し込みのホゾにな0ている。) 6,二組の風景画セット(四枚組と五枚組)

四枚組の絵は約26Cm X37Cm 五枚組の絵は約23Cm X40cm

(絵は遠近法による彩色銅版画でヨーロッパの 都市および港湾の風景図。何度も利用されたら しく黒く緑取られた周囲はところどころ色が落 ちている。また、裏打ちもされている。文字の 部分はいっさい無い。)

ト^335mm^

30omm

17

(10)

これは高さ56Cmほどの<覗き眼鏡>であり、故渡辺 紳一郎コレクションの同型<覗き眼鏡>とほぼ等しく、

規格化された製品だったことが知れる。ということは、

覗き見る眼鏡絵もサイズが規格化されていたということ になる。

致道博物館所蔵の<覗き眼鏡>に付属する銅版画は、

次のような九枚の絵である。(① ⑨の番号は便宜上筆

写が適当に付けたものである。)

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写真8 致道博物館所蔵眼鏡絵(① ⑨)

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写真9:レンズを通して見た伊」(⑤)

(レンズと鏡が小さいため絵の両端が少し欠けて見えない。) これらの絵は、横のサイズは37 40cm程度で一定 しないが、縦カミ26Cm のものと23Cmのものと二種ある ことから、二組のシリーズだったと思われる。また絵 は手彩色が施された西洋の銅版画であるが、周囲が黒 く塗られて縁取りされているため、キャプションらし き部分は残っていない。これは鑑賞の効果を出すため に塗ったもので伽〕、現存する同じ絵によれぱ周囲は余 白となっており、上下に文字がある。たとえぱ②の絵

創=

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81

(11)

は、ヴェルサイユ宮殿とパリの大通りの絵で、某骨董店 (philogt且Phikon 、 G21erie R且血Uりのインターネツト・

カタログ囲によれぱ、 1790年にパリのDaumontから 出版された眼鏡絵にこれとほぽ一致する作品があるが、

それと比較すると致道博物館所蔵の絵は一部を除いて左 右逆転している。

ほほ同一の構図で描かれている銅版画に左右の逆転が 見られることは同一の版から刷られたものばかりではな かったことを示している。また、ラテン語、イタリア語、

フランス語、ドイツ語など複数の言語で表記された絵の タイトルが見られることは、ヨーロッパ中で広く販売さ れたことを示している。おそらくそれらが模倣されても 制作販売されたものであろう。

また、④の絵もパリのヴェルサイユ宮殿で、同じ骨董 店のインターネット・カタロ,グ伽),によれぱ、 1770年に B且lthaS且r probst によるドイツのアウグスプルグで発行 された眼鏡絵にほぼ一致する作品があるが、それと比較 すると致道博物館所蔵の絵はこれも左右逆転している。

このほか①は聖ペテロ教会と広場の絵でHuquierに よるパリでの、やはり十八世紀後半の出版である鬮。

⑨の絵は口ーマのカサナテンセ図書館所蔵の口ール型 眼鏡絵の一場面とほほ同じで、りスボンの風景(写真 10)を描いている。

江戸時代に製作された<覗き眼鏡>

一京都の玩具商と応挙の眼鏡絵一

絵のサイズについては、たとえぱ司馬江漢の銅版眼鏡 絵「広尾親父茶屋之景」が縦横28.8×42.1Cm、「三囲之 景」力辺85X如8Cm、西洋の銅版画を模した「sethe址ine」

力毛76×407Cm伽)等々と、西洋の脹鏡絵とほぼ同サイ ズにな0てぃる。また、中国清朝十八世紀中ごろとされ る遠近法を強調Lた絵「中国楼閣図」"が27.8×41.6Cm卿

となっており、さらに円山応挙の宝暦から明和期 Q751・

72)とされる眼鏡絵「中国楼閣風景図眼鏡絵」が27.OX 455Cm となっていて、これらは前記の致道博物館所蔵 の絵とほぼ同サイズであり、江漢の説明書に描かれたB タ¥プの<覗き眼鏡>の大きさも致道博物館所蔵のそれ と同じだったと思われる。

また、とりわけ応挙の「中国楼閣風景図眼鏡絵」は、

広い空が西洋の銅版眼鏡絵とまったく同じように藍色で 塗られ、手彩色が施されている点で、その模倣である ことが明白である⑳。空の色につぃては「京Ξ条大橋」

にも西洋の銅版眼鏡絵の影響が見られるが、ただしその サイズは20.7Cm X27.3Cm と少し小さめであった。「京 Ξ条大橋」図を含むこのサイズの応挙の木版眼鏡絵につ いては、その版木が残されてぃて圃、それらの系会はみ なほぼ同じサイズになっている。しかもその版木には

@の焼印が押されていて、応挙が若年のころ雇われて

いた玩具商尾張屋勘兵衛のものだ0たことが分かってい る W。これらの大小サイズの異なる絵の存在は、「反射 式のうち大型と小型の」器具の存在を物語0ているだろ う慨)。そして、縦約28Cm ・横約40cm という大型のほ うの規格は、西洋の眼鏡絵の標準的なサイズであった横 45.7X縦30.5Cm (りチャード・/Uレザー箸、'peepshows A visUヨ1 History')に倣った。ものであり、舶来のゾグ

ラスコープでも鑑賞できるようにLた統一規格であった と考えられる(訟。

応挙と眼鏡絵との関係については、明治三十二年四月 刊「骨董協会雑誌』第四号に載る久保田米偲の談話筆記

「円山応挙作の眼鏡絵」が唯一の資料としてあげられて きた。それによれば、応挙と脹鏡絵との関わりは、彼が 若年のころ京都の「玩弄物商」であった中島(尾張屋) 勘兵衛に奉公して人形の彩色などをしながら絵を学んで いたところ、あるとき勘兵衛のもとヘ阿蘭陀眼鏡という 玩弄物が舶来し商品として好評を博したが、付属の絵に 限りがあったため、絵が上達した応挙に新しく描かせた ことに始まるという。この談話を裏付ける資料がないた め真偽のほどが知れなかったが、円山応挙の庇護者だっ た円満院門主祐常(1723 73)の「万誌』によって、彼

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写真10:りスボンのロイヤルビル、川からの眺望

"vedeTevioggiote : UⅡ rot010 di vue5 d' optique del xV1Π Sec010"(1994、イタリアの展覧会図録一Ⅱ tot010 C且Sヨn且tense (カ サナテンセの絵巻物)」)より

それらは縦25 27Cm、横40cm前後のサイズで、余 白部分に黒枠を設けて切り落とせば致道博物館所蔵の絵 のサイズになる。

西洋における眼鏡絵の最盛期が1740 1790年といわ れることから、致道博物館所蔵の絵はその最盛期の後半 にオランダから日本にもたらされたものと考えられる。

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(12)

が人形の彩色をしていたことや、鏡や望遠鏡などの光学 的器具にも関心をもっていたことが知られるようになっ て卿、この談話が事実に近かったことがわかった。佐々 木丞平は具体的に次のように述ベている。

その人尾張屋勘兵衛は延享二年.(一七四五)の京の 案内害「京羽二重大全」には「びいどろ道具』とし て記載されている。びいどろとはガラスのことで、

当時まだ珍しかったガラスを使ったレンズ、道具等 を総称して「びいどろ道具」と呼んでいた。'その中 には当時流行した遠近表現のある絵を見る「覗から くり」や望遠鏡などがあり、勘兵衛はこうした道具 類や人形、又、玩具害画骨董等を商っていたようで ある。店は四条通富小路西え入町にあり、縁あって 応挙は勘兵衛の世話になった圃。

佐々木はまた「万誌」中に「浮江も同人也、十六、七 ノ比画」とあることから、「応挙が浮絵制作に携わって いたことを確認できる」絢ともいう。享保十八年a733) 生まれの彼が十六、七歳のころといえぱ、延享五牟 a7娼) ごろであり、右に延享二年刊「京羽二重大全」が、尾張 屋を「びいどろ道具」と紹介する時期と同じである。後 に絵師として名を成す以前の応挙が若年のころは玩具と しての眼鏡絵を描いていたのである。彼の光学的器具ヘ の関心もそうした仕事からきていると思われる。

伝応挙筆の眼鏡絵に舶来のゾグラスコープで見るサイ ズがあることも、あるとき勘兵衛のもとヘ阿蘭陀眼鏡と いう玩弄物が舶来してそれが人気を得たという話に対応 する。また、既述のように、眼鏡絵に比較的小さい規格 があることは、それに対応した和製ゾグラスコープを新 しいビイドロ玩具として尾張屋が発売したことを意味し ているだろう。ただし、鏡を用いない直視式の覗き箱(の ぞきからくり)はそれ以前から手がけていた可能性もあ る。なぜなら増穂残口の浮世草子「艶道通鑑」(正徳五 年1715刊)に「覗機関をビイドロなしに・・・・・・」とあって、

延享年間から三0年も前にビイドロ付きの「覗機関」が あ0たからである。

をあげ、また望遠鏡のレンズについてはオランダ製のガ ラスと我が国のガラスとを融合すれば丈夫なものができ るとコメントする。長崎におけるレンズの製造に関して は、西川如見著「長崎夜話草」(享保五年1720敗)付録「長 崎土産物」に、

1土*めがh

眼鏡細工鼻目鏡遠目鏡虫目鏡数目鏡磯目

ちかめ

鏡透間目鏡近視目鏡

長崎住人浜田弥兵衛といふもの、壮年の頃蛮国ヘ渡 リ、脹鏡造り様を習ひ伝ヘ来りて、生島藤七といふ 者に教ヘて造らしめたるより今にその伝なη。此弥 兵衛は武芸の達者、細工の上手なりし。

(岩波文庫本)

反射式の<覗き眼鏡>は、レンズ・鏡ともにビイドロ 細工であった。少なくともレンズを用いる点で、く覗き 眼鏡>は「びいどろ道具」だった。

レンズは日本でいつごろから普及するようになったの だろうか。寺島良安著「和漢三才図会」(正徳二年1712 自序)でば、当時ガラスは長崎のほかに大坂でも多く製 造されているとあってその製法を紹介し、さらに「眼鏡」

の項では近視鏡(凹レンズ)・遠眼鏡・虫眼鏡・数眼鏡

とあることから推測できる。

また、京都の人三宅也来が著した享保十七年の序を持 つ「万金産業劉岡巻之三で、レンズの製作方法を紹介

した部分に、

たう

びいどろ玉は中古唐よりわたる所、厚さ一分あまり、

わ¥リ

大根の輪切のビとくにして来るを、和にて又丸みを なをL、両面よりょくすり、あつき薄きは中年若年、

てうせA

その程/\に仕たつる。又朝鮮より来る白びいどろ の菊ちゃわんあり。その破れたるをーツにし、火消 つぽの蓋に入れその上に、又同じ壺のふたをあをの

皇こ

けにのせ、それに炭火をつよく搬し、一時斗も置に、

たま

右のちゃわんみなとけて、蓋のうへにーツに澀る。

うヘ

扱上の火をとり、蓋ながらさまし置けば、いかにも

そこ

むらなくとけて当に溜(=ゐ)たまるを、よき程に

すり

まろくし、両めんより摺て、右目がねの玉につかふ。

薄き厚きはその好によるべし。

,ず

とあり、また「理めがね」「虫目がね」「遠冒鏡」などレ ンズを使った器具についての記載があって、「遠目鏡」

については、「和の製作にも有とはいへと、唐渡ならでは、

本来さいくに上品はなし」ともいう。

「長崎夜話草」の著者西川如見は長崎の人で生没年は 慶安元年 享保九年 a悦8 1724)であるから、これら

によって十七世紀後半から十八世紀の始めにはすでに中 国から輸入したガラス玉を材料として長崎・大坂・京都 で国産のレンズ作りが行なわれていたことが知れる。井 原西鶴の浮世草子「好色一代男」(巻一)に、行水する 女を世之介が遠眼鏡で覗く場面があり、同害力汗U行され た天和二年 a68の頃には、それを所有する町八もいた のである。高級品は舶来の珍器として大名等が所有した ようだが、小説に描かれるところを見ると遡って十七世 紀の後半には国産の模造品もあったことは間違いないだ ろう。ただしそのレンズは輸入品だったかも知れない。

江戸におけるレンズの製造も西国とあまり時間を置か ず始まったようで、喜多村信節撰 n喜遊笑覧」巻六上

20

十八世紀における和製レンズの普及について

参照

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