学制改革までの茨城県女子中等学校の展開
佐藤 環*
(2014年11月28日受理)
The Development of the Girls' Secondary Schools in Ibaraki Prefecture
Tamaki SATO*
(Received November28, 2014)
はじめに
旧制女子中等学校史研究は,その制度的変遷に関するもの1),女学生の学校や家庭における生活 実態に関するもの2)などの視点から論究がなされ現在に至るが,産業教育史の観点から女子の実 学教育に焦点をあてたもの3)を除くとそれらの多くは高等女学校令により設置された高等女学校・
実科高等女学校を中心とした研究である。しかし,旧制女子中等学校は高等女学校令により設置さ れた高等女学校・実科高等女学校だけではなく,実業補習学校,徒弟学校,職業学校,各種学校と して設立された女学校があり,それらを含めた研究によって女子中等学校史研究はより深化すると 考える。
本稿は,茨城県における明治30年代から第二次世界大戦後の学制改革により高等女学校が廃止 され新制高等学校に転換するまでの旧制女子中等学校の歴史的変遷を明らかにすることを目的とす る。ここで取り上げる女子中等学校は高等女学校・実科高等女学校のみならず,技芸学校,裁縫学 校などの実学的教育を行う女学校や私立の「高等女学校ニ類スル各種学校」をも含んでいる。
明治期における女学校の設置情況
1.高等女学校令により創設された女学校
明治32(1899)年の高等女学校令により茨城県下初の高等女学校として明治33(1900)年4月,
茨城県高等女学校が旧水戸藩校弘道館を仮用して開校した。翌年,茨城県立高等女学校となり,さ らに明治36(1903)年4月に水戸市大町に移転して茨城県立水戸高等女学校と改称した。水戸高 等女学校と校名変更したのは同年5月,第二高等女学校として茨城県立土浦高等女学校が設置され たためである。
茨 城 大 学 教 育 学 部 教 育 学 研 究 室( 〒310-8512 水 戸 市 文 京2-1-1; Laboratory of Education, College of Education, Ibaraki University, Mito 310-8512 Japan).
*
茨城県の教育行政面からみると,女子中等教育は中学校をはじめとする男子の中等教育ほどには 重視されず,県立高等女学校は大正11(1922)年に下館・水海道の両県立高等女学校が発足する までの約20年間,水戸・土浦の2校のみであった。
明治43(1910)年,高等女学校令が改正され「家政ニ関スル学科」を授ける実科高等女学校の 設立が認められた。実科高等女学校は高等女学校に比べて規制が緩く,設置しやすいことが特色で ある。例えば,高等女学校を設立するためには文部大臣の指揮を受けて地方長官(知事)が設立を 決定する手続きをふまねばならなかった(第2条)のだが,実科高等女学校の設立においてはこれ が適用されなかった(第17条ノ2)。また,高等女学校は卒業者のために専攻科を設置できたが,
実科高等女学校はそれが認められなかった(第11条)。これらのことから,県立高等女学校より郡 市町村立実科高等女学校の方が数段低いという社会評価の形成につながったから,地域に設置され ている実業補習学校を高等女学校に,あるいは実科高等女学校を高等女学校に,しかも県立校とし て昇格させることが地域の悲願となった。明治期に設立された公立実科高等女学校として,茨城県 西の水海道町外6ヶ村学校組合立実科高等女学校(明治44年),真壁郡実科高等女学校(明治45年),
石岡町立石岡実科高等女学校(明治45年)が挙げられる。
2.実業学校令による女学校
明治期には,県内諸地域で女子中等教育への要求が徐々に高まっていく。その教育需要に対応し て,郡市町村(学校組合含む)が女子中等学校を設立するようになった。
実業学校令で規定された実業補習学校や徒弟学校(工業学校の一種)として,義務教育を修了し た女児に裁縫を主体とする技芸を教授するための私立学校として設立されたのち公立校に改組され たものとして,下館町立下館裁縫女学校(明治33年),潮来町立女子技芸学校(明治40年),大 子町立大子女子技芸補習学校(明治45年)が挙げられる。
3.私立女学校の発足
「高等女学校ニ類スル各種学校」として発足した女学校の殆どは私立学校であるが,それらの淵 源は個人経営の裁縫などを教授する私塾であった。この私塾は,潮来裁縫学校(明治38年)や大 子女子技芸講習所(明治43年)のように後に公立女子実業学校となるもの,下妻の女子絅文学校(明 治42年)のように町立移管され実科高等女学校,さらに県立高等女学校に発展していくもの,そ して創立者の教育理念を継承して私立校のまま高等女学校へと発展するものとにわかれた。
茨城県教育会『茨城県教育史』及び『茨城県統計書』(茨城県立歴史館蔵)の「学事ノ部」によれば,
明治20年代後半から明治40年代にかけて,私立校の茨城女子実業学校(水戸市。設立者は太田梅子,
明治28年設置),太田裁縫女学校(水戸市。設立者は太田梅子,明治32年設置),水戸挺秀女学 校(水戸市。設立者は大高つる,明治34年設置),茨城高等技芸学校(水戸市。設置者は太田梅子,
明治37年設置)などの各種学校や実業補習学校が確認できる4)。ただ,「女学校」とは称するもの の各種文教法令等に基づいた学校組織として整っていたかどうかは判然としないし,むしろ短期間 で消滅していることや校名が統計資料に出たり出なかったりしていることなどを考慮すると,その 経営基盤は校主(創立者)の都合や死去とともに学校も消滅する甚だ脆弱なものだったと考えてよ かろう。
茨城県下の私立校で最初に学校組織を整え各種学校から高等女学校へと発展したのは,額賀三郎・
キヨ夫妻により明治40(1907)年に開かれた裁縫塾であり,翌明治41(1908)年4月に各種学校 である大成裁縫女学校となった。明治42(1909)年には,のちに各種学校の水戸常磐女学校や常 磐高等女学校に発展する小田木(結婚後,諸澤)みよの裁縫教授所が発足している。水戸に設立さ れたこの2つの裁縫塾・女学校は発展過程が似ている。教育内容や学科課程構成だけでなく,発展 過程において普通教育主体の高等女学校に一本化するのではなく裁縫技芸主体の各種学校である女 学校も併置する形態をとった。それは,建学の理念は勿論のこと,普通教育,実学教育それぞれの 教育ニーズに対応した学校を用意・充実することで生徒数の確保を企図し,学校経営基盤を安定さ せるためであったと考えられる。
大正期における女学校の設置情況
女子中等教育機関は明治30年代以降発達が著しく,全国の高等女学校数が大正4(1915)年の 223校から大正14(1925)年には618校へと約3倍となったように,第一次世界大戦後には量的 に一大飛躍を遂げている。女子教育に関する臨時教育会議答申を受け,大正9(1920)年に高等女
学校令及び同施行規則が改正された。主な改正点として,高等女学校の目的に国民道徳の養成と婦 徳の涵養に留意すべきことが付加されたことや,代用高等女学校制度,すなわち郡市町村立高等女 学校を以て府県立高等女学校に代用することができるという規定を削除し「市町村学校組合」を高 等女学校の設置主体と認めたことなどを挙げることができる。
1.公立校の高等女学校・実科高等女学校昇格傾向
大正期の高等女学校令改正は,水戸・土浦以外の地域をして高等女学校設置に対して積極的にさ せた。
まず,大正11(1922)年には,収容定員増加,教授組織の充実,校地校舎といった施設設備の 充実といった高等女学校昇格に課せられた条件を満たし,公立実科高等女学校から水戸・土浦に続 く県立高等女学校として下館高等女学校と水海道高等女学校が認可された。次に,太田町立実科高 等女学校(大正5年),鉾田町外8ヶ村学校組合立実科高等女学校(大正13年)と公立実科高等 女学校が発足し,また,龍ケ崎町立実科高等女学校(大正8年),古河町立実科高等女学校(大正 8年)のように公立実業学校から実科高等女学校に昇格した事例もある。当時の入学難を解消する 目的で,水戸市立高等女学校(大正15年)が県下初の市立校として創設された。
注目すべきは,大正13(1924)年の茨城県教育改善案に県立高等女学校の「学科程度の向上」
が掲げられたことである。そこでは,家事裁縫等の技能向上と科学思想を涵養するため理数科に力 を注ぎ,県立高等女学校の修業年限を中学校と同様に5年とすること,さらに高等女学校卒業生の ために2年制の家事・裁縫専攻科を県立高等女学校2校に設置することが提案された5)が,実現 をみなかった。高等女学校の修業年限については「四箇年トス,但シ土地ノ情況ニ依リ一箇年ヲ伸 縮スルコトヲ得」(明治32年高等女学校令9条),「五箇年又ハ四箇年トス,但シ土地ノ情況ニ依 リ三箇年ト為スコトヲ得」(大正9年高等女学校令9条)とあり,5年制も可能であったが,茨城 県下の高等女学校は敗戦直後の昭和21(1946)年の中等学校令改正により5年制となるまで4年 制が標準であった。
2.実業学校令による公立女子中等学校
公立の女子実業学校(実業補習学校や職業学校)として,結城町に結城町立女子技芸学校(大正 2年)・結城女学校(大正14年),取手町に北総実修学校女子部(大正11年)が設置された。県南・
県西地域の実学的な女子中等教育需要に対応したものである。
3.私立校の対応
大正期の女子中等教育需要に対応しようとした私立校の動向は,下妻の私立女子絅文学校のよう に町立移管され下妻町立実科高等女学校(大正8年)となるもののほか,水戸市の好文女学校(大 正8年),水戸市大成女学校(大正9年),水戸常磐女学校(大正11年)や日立市の助川高等裁縫 女学校(大正14年)のように裁縫技能の徹底を図ろうとするものとにわかれた。特に大正中葉か ら昭和初期にかけての水戸市では,東京女子高等師範学校卒の小田梅乃によって設立された好文女 学校,額賀夫妻の水戸市大成女学校,諸澤夫妻の水戸常磐女学校が私立女学校として鼎立し,三者 それぞれの個性ある制服姿は市民の眼をひいたと言う6)。
昭和戦前・戦中期における女学校の設置情況
昭和戦前・戦中期には,公立の実科高等女学校設置や高等女学校昇格の傾向が顕著になり,高 等女学校教育の大衆化が進行した。特に戦時中の昭和18(1943)年に発せられた中等学校令では,
高等女学校設置の「実科」課程や「実科高等女学校」の名称が廃止されたため,裁縫主体の修業年 限4年未満という従前の実科高等女学校までもが「高等女学校」として統一された。また,実業学 校令職業学校規程により新たな女学校が誕生している。
太平洋戦争における戦局が著しく悪化していくなか,昭和18(1943)年12月28日の「女子中等 学校卒業者ニ対スル看護婦免許ニ関スル件」を受け,茨城県では昭和19(1944)年11月13日に看 護婦の速成養成を公私立高等女学校20校で行うため校内に看護婦養成所を設置することとなった。
1.昭和戦前期の公立校
この時期に公立高等女学校として設立されたのは,茨城県立水戸第二高等女学校(昭和8年)と,
那珂湊町立那珂湊高等女学校(昭和16年)である。
また,町村立実科高等女学校から県移管して県立高等女学校に昇格させる傾向が顕著となった。
茨城県太田実科高等女学校から茨城県立太田高等女学校(昭和2年),古河町立実科高等女学校か ら茨城県立古河高等女学校(昭和11年),茨城県石岡実科高等女学校から茨城県立石岡高等女学校
(昭和13年),茨城県鉾田実科高等女学校から茨城県立鉾田高等女学校(昭和15年),茨城県取手 実科高等女学校から茨城県立取手高等女学校(昭和15年)となった。
町村立実科高等女学校から町村立高等女学校に昇格させたのは,茨城県下妻実科高等女学校から 茨城県下妻高等女学校(昭和14年),結城実科高等女学校から結城町立結城高等女学校(昭和16 年)の2校である。また,地域の女子中等教育需要に対応して町村立実科高等女学校を創設したも のとして,茨城県岩井実科高等女学校(昭和2年),茨城県松原実科高等女学校(昭和3年。昭和 12年に「茨城県高萩実科高等女学校」と改称)の2校がある。
特異な例として,私立の東海高等女学校から町村立の東海高等女学校(昭和9年),そして県立 の茨城県立助川高等女学校(昭和11年)・茨城県立日立高等女学校(昭和14年改称)という私立 から学校組合立の公立校,そして県立校となったものを挙げることができる。
このように大正期までに県立高等女学校を有した水戸・土浦・下館・水海道以外の県内各地域で の高等女学校昇格が成就していった一方,女子の実学需要に応えるための女学校が新たに設置され るようになった。それらは実業補習学校規程により設立され,のち職業学校規程に基づく公立女学 校に転換した太田実践女学校(昭和10年),江戸崎実践女学校(昭和10年),大宮実践女学校(昭 和10年)などのように実業補習学校から職業学校に改組した学校群である。地域の女子教育ニー ズは普通学主体の高等女学校によりまかなえるものではなく,昭和期に入り農業や商業など女子に とって実際的な職業教育を施し且つ通学の便がよい女子中等学校を求めるようになった。従来,こ のような女子の実学教育を担当していたのは上級学校に進学せず就労した尋常小学校卒業者を受
け入れる実業補習学校であり,またそれに代わり昭和10(1935)年から設置がなされた3年制(2 年に短縮可)の青年学校普通科が担当することとなった。しかし,これらは就労者を対象とする夜 間教授や季節制といった開講時期を限定したパートタイム学校であったため,職業教育を提供する フルタイム通年制の女子中等学校を希求する教育需要が高まった。それに対応しようとして設立さ れたのが実業学校令職業学校規程や女子に対する農業・商業教育の推進を図る中等学校令実業学校 規程(昭和18年3月)に依拠した実践女学校・高等実業女学校である。地域に密着して職業教育 を施す女学校は,独立校舎を持つ高等女学校に対して学校施設設備を尋常高等小学校に併置する形 態をとっていることが多い。また,戦後の学制改革では境町立高等女学校を除く県内の高等女学校 は新制高等学校に転換できたのに対して社会的威信の低い実践女学校・高等実業女学校の場合は,
廃止となるもの,新制中学校に転換するもの,新制高等学校の分校になったものとにわかれた。
2.昭和戦中期の公立校
太平洋戦争中において,施設・収容定員・教授組織等の面で不十分として高等女学校昇格がなさ れなかった学校も,戦時文教施策により高等女学校に昇格していった。特に昭和18(1943)年に 公布された中等学校令により「実科」が廃された影響が大きい。
太平洋戦争中における茨城県下の女子中等学校の傾向は以下のようである。
まず,茨城県高萩実科高等女学校から茨城県高萩高等女学校(昭和18年),そして茨城県立高 萩高等女学校(昭和20年)のように,町村立実科高等女学校から町村立高等女学校,さらに県立 高等女学校となったもの。
次に,茨城県下妻高等女学校から茨城県立下妻高等女学校(昭和17年),結城町立結城高等女 学校から茨城県立結城高等女学校(昭和17年),茨城県那珂湊高等女学校から茨城県立那珂湊高 等女学校(昭和20年)のように,町村立高等女学校から県立高等女学校となったもの。
そして,大子女子技芸学校から茨城県大子高等女学校(昭和18年),潮来町立女子技芸学校から 潮来町立高等女学校(昭和17年)そして県移管となり茨城県立潮来高等女学校(昭和20年)の ように実業学校から高等女学校に転換したもの。
最後に,茨城県岩井実科高等女学校から茨城県岩井高等女学校(昭和18年)のように町立実科 高等女学校から町立高等女学校となったもの。
3.私立校の展開
昭和戦前・戦中期の私立女子中等学校において,特筆すべきは普通学と商業教育への対応に積極 的か否かにより校運が左右されたことであろう。
まず,女子中等教育需要が裁縫中心の技能習得から普通学志向に傾斜していくことに即応して,
水戸市大成女学校(各種学校)は高等女学校令による大成高等女学校(昭和4年)を併置,水戸常 磐女学校(各種学校)も同じく常磐高等女学校(昭和10年)を併置した。希望者が増加していっ た普通学の比重が高い高等女学校と,従来からの家政・裁縫といった実学主体の各種学校とを包含 する学校形態としたのである。他方,あくまで家政・裁縫主体の教育を堅持しようとしてやむなく 廃校となる私立学校もあった。小田梅乃による好文女学校は,小田が病没した昭和4(1929)年に 高等女学校令による水戸好文実科高等女学校となったが昭和12(1937)年3月,「財政逼迫,経営
困難ノ為」廃止された7)。当時の水戸市内には女子中等教育機関として,茨城県立水戸高等女学校,
茨城県立水戸第二高等女学校,水戸市立高等女学校のほか,私立の大成高等女学校,常磐高等女学 校,茨城商業女学校といったライバル校が多く,さらに家政・裁縫中心の「実科」高等女学校では 時代の流れに対応しきれなかったのだろう。
昭和に入るとそれまでの家政・裁縫に代えて商業教育を行う私学が登場した。戦時中,政府は商 業分野の業務は女子が遂行可能であるとした「教育ニ関スル戦時非常措置ニ関スル件」(昭和18年)
を発して女子の商業学校を増加させることに積極的になり,同年に職業学校規程を廃止して実業学 校規程を制定することで女子の職業学校を商業学校や農業学校に転換させた。特に注目すべきは女 子中等学校における商業教育の導入であるが,その国策にいち早く対応したのは公立校ではなく私 立校であった。
実業中等学校に長く勤務し,また私立東海女学校校長を務めるなど実業教育と私学教育に精通し た鈴木米蔵は水戸市に商業教育主体の私立各種学校である茨城女学校(昭和6年。昭和10年に「茨 城商業女学校」に改称)を開設した。裁縫教授が女子の実学としての王道と考えられていた当時と しては画期的な着眼であり,鈴木は先見の明があったのである。この茨城商業女学校は中等学校令 実業学校規程による水戸女子商業学校(昭和19年)に昇格した。水戸にある各種学校の水戸常磐 女学校本科も常磐商業女学校(昭和19年,各種学校)に改組され,土浦では昭和2(1927)年に 発足した昭和女学校が土浦女子商業学校(昭和19年,実業学校)となった。
学制改革期における女学校の対応 -新制高等学校への転換-
敗戦後の昭和21(1946)年,中等学校令が改正されて高等女学校は4年制から5年制となり,
学制改革の過渡期的措置として附設中学校を置くことになる。茨城県の公立(県立・市立・町立)
高等女学校は計21校を数えた。全国的にみて公立高等女学校設置数は多い方に属している。茨城 県においては,亀鑑校として茨城県が設置した水戸・土浦両高等女学校の他は,実業学校,私立校,
実科高等女学校から郡市町立高等女学校,そして県立高等女学校へと順次昇格した学校が殆どであ る。本県女学校のキーワードは,この県立高等女学校への「昇格」熱にあるようだ。隣接した地域 にある女学校が高等女学校に昇格,あるいは県立に昇格するとなると,自分の地域にある女学校も 負けじと昇格しようとする競争意識の連鎖が,本県の公立高等女学校数が多い原因の一つであろう。
さて,昭和23(1948)年4月から新制高等学校が発足するが,茨城県における高等女学校から 新制高等学校への転換過程を概観してみる。
1.県立・市立高等女学校の新制高等学校移行
県立及び市立高等女学校を母体として昭和23(1948)年に新制高等学校として発足したのは,
以下の通りである8)。
①茨城県立水戸第二高等学校
茨城県立水戸高等女学校と茨城県立水戸第二高等女学校が母体となって全日制普通科・家庭科と 定時制普通科・家庭科を以て発足した。なお,定時制課程は水戸本校のほか大宮分校も含んでいる。
②茨城県立土浦第二高等学校
茨城県立土浦高等女学校を母体として全日制普通科・家庭科と定時制普通科・家庭科を以て発足 した。
③茨城県立高萩高等学校
茨城県立高萩高等女学校を母体として全日制普通科・農業科と定時制普通科・農業科を以て発足 した。
④茨城県立日立第二高等学校
茨城県立日立高等女学校を母体として全日制普通科・家庭科と定時制普通科・家庭科を以て発足 した。
⑤茨城県立潮来高等学校
茨城県立潮来高等女学校を母体として全日制普通科・商業科と定時制普通科・商業科を以て発足 した。
次に新制公立女子高等学校として発足したが,高校三原則により翌昭和24(1949)年に原則と して男女共学校として再発足したもの。
⑥茨城県立太田第二高等学校
茨城県立太田高等女学校を母体として昭和23年に茨城県立太田女子高等学校となったが,翌昭 和24年に全日制普通科・家庭科・商業科を持つ茨城県立太田第二高等学校となった。
⑦茨城県立大子第二高等学校
敗戦後の昭和22年に町村学校組合立茨城県大子高等女学校が県移管され茨城県立大子高等女学 校となり,それを母体として昭和23年に茨城県立大子女子高等学校となったが,翌昭和24年に 全日制普通科・家庭科を持つ茨城県立大子第二高等学校となった。
⑧茨城県立水戸第三高等学校
水戸市立高等女学校が県移管され昭和23年に茨城県立水戸女子高等学校となり,さらに翌昭和 24年に男女共学の全日制普通科・芸能科を持つ茨城県立水戸第三高等学校となった。
⑨茨城県立那珂湊第二高等学校
茨城県立那珂湊高等女学校を母体として昭和23年に茨城県立那珂湊女子高等学校となったが,
翌昭和24年に全日制普通科・家庭科を持つ茨城県立那珂湊第二高等学校となった。
⑩茨城県立鉾田第二高等学校
茨城県立鉾田高等女学校を母体として昭和23年に茨城県立鉾田女子高等学校となったが,翌昭 和24年に全日制普通科・家庭科を持つ茨城県立鉾田第二高等学校となった。
⑪茨城県立石岡第二高等学校
茨城県立石岡高等女学校を母体として昭和23年に茨城県立石岡女子高等学校となったが,翌昭 和24年に全日制普通科・家庭科を持つ茨城県立石岡第二高等学校となった。
⑫茨城県立竜ケ崎第二高等学校
茨城県立龍ケ崎高等女学校を母体として昭和23年に茨城県立竜ケ崎女子高等学校となったが,
翌昭和24年に全日制普通科・家庭科・商業科を持つ茨城県立竜ケ崎第二高等学校となった。
⑬茨城県立取手第二高等学校
茨城県立取手高等女学校を母体として昭和23年に茨城県立取手女子高等学校となったが,翌昭 和24年に全日制普通科・家庭科を持つ茨城県立取手第二高等学校となった。
⑭茨城県立下館第二高等学校
茨城県立下館高等女学校を母体として昭和23年に茨城県立下館女子高等学校となったが,翌昭 和24年に全日制普通科・家庭科を持つ茨城県立下館第二高等学校となった。
⑮茨城県立下妻第二高等学校
茨城県立下妻高等女学校を母体として昭和23年に茨城県立下妻女子高等学校となったが,翌昭 和24年に全日制普通科・家庭科を持つ茨城県立下妻第二高等学校となった。
⑯茨城県立結城第二高等学校
茨城県立結城高等女学校を母体として昭和23年に茨城県立結城女子高等学校となったが,翌昭 和24年に全日制普通科・家庭科を持つ茨城県立結城第二高等学校となった。
⑰茨城県立水海道第二高等学校
茨城県立水海道高等女学校を母体として昭和23年に茨城県立水海道女子高等学校となったが,
翌昭和24年に全日制普通科・家庭科・商業科を持つ茨城県立水海道第二高等学校となった。
⑱茨城県立古河第二高等学校
茨城県立古河高等女学校を母体として昭和23年に茨城県立古河女子高等学校となったが,翌昭 和24年に全日制普通科・家庭科を持つ茨城県立古河第二高等学校となった。
2.町立高等女学校の新制高等学校移行
学制改革前に県立高等女学校に昇格できなかった茨城県岩井町立岩井高等女学校の後身は特異な 展開を示す。太平洋戦争中に町立の実科高等女学校から高等女学校(昭和18年)に昇格したとは いえ,岩井高等女学校の場合は施設設備・教授組織などの面で他の県立高等女学校に比して遜色が あった。戦後の学制改革により町立岩井高等女学校は昭和23年に茨城県岩井町立岩井高等学校と なったが修業年限4年の定時制のみが認可されたに過ぎない。設置者である岩井町などの尽力で,
翌昭和24年に県移管がなされ全日制普通科・被服科と定時制普通科を持つ茨城県立岩井高等学校 に昇格した。
昭和21年,猿島郡境町議会の要望により境町立高等女学校が設置され,133名が1期生として 入学した。しかし,学制改革により2期生募集が不可能となったため,1期生のみ3年間在学し,
昭和24(1949)年に1期生卒業と同時に閉校した。茨城県下における21番目の公立高等女学校且 つ最後の公立高等女学校であった境町立高等女学校は存続した期間が3年間,しかも1期生のみ しか卒業生を出していないため「幻の女学校」と言われている9)。
3.学制改革前後における私立女学校の展開
敗戦直後の私立女学校の動向の中では,各種学校であった女学校を中等学校令による勅令学校へ 昇格させようとしたことが注目される。当時の私立女学校は高等女学校と各種学校の女学校という 複数の学校を運営するものがあった。例えば水戸市において諸澤みよは高等女学校である常磐高等 女学校,私立各種学校である水戸常磐女学校と常磐商業女学校を経営していたが,水戸常磐女学校 専攻科を常磐高等女学校第二本科へ,常磐商業女学校を常磐女子商業学校へと各種学校を中等学校 令による勅令学校に昇格させている。また,土浦市の土浦女子商業学校を運営する財団法人は新た に土浦第一高等女学校(昭和22年)を創設し両校を経営したが,やがて商業学校を分離させて高
等女学校のみの運営を行った。
昭和23(1948)年には私立女学校を母体として多数の新制女子高等学校が発足した。高等女学 校を基とする新制公立高等学校は高校三原則により原則として男女共学校に転換したのだが,私立 校は学祖の教育理念を継承して共学校ではなく女子高等学校に転換した。私立女子高等学校発足時
(昭和23年)には,旧制学校の伝統を生かした形で普通科のほか家庭科や商業科,さらには別科 課程を併置していた。なお,平成期に入ってから私立女子高等学校が男女共学へ転換していく傾向 が顕著になった10)。
4.公立職業学校の対応
戦前期に発足した職業教育を施すための公立女学校は,尋常高等小学校校地内に併設されていた り教員が尋常高等小学校との兼任が多いことなど,施設設備や教授組織などにおいて設置条件が厳 しい高等女学校には及ばなかった。戦後の学制改革により高等女学校は新制高等学校に移行したが,
これら公立女学校は新制高等学校設置基準に達しなかった。よって,次のような対応がなされた。
まず,新制中学校は独立した校地・校舎や専任の校長・教職員を置くことが義務づけられたため,
条件が整わず廃校となるもの。
次に,校地・施設設備・備品類をそのまま新制中学校として引き継がれたもの。例えば,太田実 践女学校は新制太田町立太田中学校に転用継承されているし,独立校舎・校地を持っていた江戸崎 実践女学校も新制江戸崎中学校に転換した。
最後に,高等女学校を母体とする新制高等学校の定時制分校となるもの。独立校舎・校地を既に 有していた大宮実践女学校は新制高等学校が発足する昭和23(1948)年に茨城県立水戸第二高等 学校大宮分校(但し定時制課程のみ)となった。
結語
本稿では,明治33年の茨城県高等女学校創設時から学制改革で新制高等学校などに転換する昭 和24年までの茨城県における旧制女子中等学校の展開を概観した。茨城県の旧制高等女学校の数 は全国的にみてかなり多い方に属する。明治期に茨城県では公立高等女学校は県立2校しかなく他 府県に対して遜色があったのだが,大正期以降,県内諸地域において起こった地元の女子中等学校 を高等女学校に,望むらくは県立校に昇格させようとする教育熱はやがて地域相互に競争心を生み,
それが地域一体となって高等女学校昇格のハードルをクリアする原動力となった。ために地域にあ る技芸学校などの実業学校から高等女学校令による実科高等女学校・高等女学校へ充実させ,さら に県移管に成功するのである。他方,私立校として発展していった学校は多いとはいえない。私立 校として学祖の理念を継承しつつ発展したものよりも,私立校から公立に移管した女学校が多いた めである。
明治期,大正期,昭和戦前・戦中期,戦後にわけて,以下に茨城県女子中等学校展開の特色をま とめてみる。
(1)明治期の女子中等学校
他府県に比して女子中等教育に対する取り組みに淡泊であった茨城県であったが,高等女学校令
によって明治33年,茨城県高等女学校(のち茨城県立水戸高等女学校)を創設し,続いて明治36 年に茨城県立土浦高等女学校を設置した。明治期の県立校は亀鑑校であるこの2校だけであり,ほ かは裁縫女学校や女子技芸学校という実業学校の範疇に属する町立校が下館,潮来,水海道,石岡 に設置された。また,裁縫などを教授する私塾が叢生し,のちに公立女子実業学校となるもの,の ちに県立高等女学校となるもののほか,創立者の理念を継承して私立のまま高等女学校へと発展す るものとにわかれる。
(2)大正期の女子中等学校
第一次世界大戦後に全国の高等女学校は量的に約3倍となったように,大正期は高等女学校の拡 張期であった。水戸,土浦に次ぎ大正11年には県西の下館と水海道に県立高等女学校が設置された。
両校とも実科高等女学校を充実させ高等女学校に昇格しているところが,設立当初より県立高等女 学校として創設された水戸・土浦両校と異なる。また当時の高等女学校進学希望者の増大に対応す るため,水戸に市立高等女学校が創設された。
大正期は,郡町村(学校組合を含む)が高等女学校に比して設置のハードルが低い実科高等女学 校を設置している。これら実科高等女学校は,当初より実科高等女学校として設置されたもの,公 立女子技芸学校(実業学校)から高等女学校令に依拠する実科高等女学校に昇格したもの,私立校 から町移管され公立実科高等女学校となったものとがある。
私立校では裁縫塾を母体として学校体制整備を行い,裁縫技能修得を目的とする各種学校の女学 校となった。
(3)昭和戦前・戦中期
この時期は,地元で高等女学校教育を提供できるようにするため町村の高等女学校設置,高等女 学校昇格,さらに県移管を望む傾向が顕著となっている。高等女学校として設置された茨城県立水 戸第二高等女学校と那珂湊町立那珂湊高等女学校(のち県移管),町村立実科高等女学校から町村 立高等女学校や県立高等女学校に昇格するもの,昭和18年の中等学校令により高等女学校昇格の ハードルが低くなったことを奇貨として女子技芸学校から一足飛びに高等女学校となるもの,私立 校から県立高等女学校となるものがある。
それまで各地域は実情に応じた多様な女子中等学校を用意して地域の子女に中等教育を提供した が,やがて女子中等教育需要の趨勢は普通学主体の高等女学校に収斂していくこととなり,それに 対応して高等女学校設置,しかも威信の高さと学校の永続性を考えて県移管を図った。他方,普通 学を志向しない女子中等教育需要のため職業学校の女学校(実践女学校・高等実業女学校)を設置 する地方もあった。
私立校は,高等女学校の併設,そして商業教育を行おうとする傾向が見られた。当時の女子中等 教育需要は,普通学主体の高等女学校教育を望むものと実学教育を望むものとがあり,その両者を 兼備した学校へと展開した。また,特に戦中期の女子商業教育推進の国策により,商業教育を行う 学校に転換するものがあった。
(4)戦後
敗戦後には,中等学校令の改正により県内の高等女学校は5年制となった。因みに戦前期より 5年制高等女学校が認められており他府県では5年制高等女学校が存在していたが,茨城県では4 年制が標準で5年制高等女学校は戦後になるまで存在しなかった。また,学制改革により昭和23
年に旧制高等女学校は新制高等学校として発足するが,県立高等女学校を母体とする新制高等学校 は「第二高等学校」と称するものと,「女子高等学校」と称するものとに分かれた。しかし,翌昭 和24年に高校三原則の要請から実態はともかく公立の「女子高等学校」は男女共学の総合制「第 二高等学校」となった。
注
1) 高等女学校研究会編『高等女学校の研究−制度的沿革と設立過程−』大空社,1994年,など。
2) 稲垣恭子『女学校と女学生』中公新書,2007年,など。
3) 三好信浩『日本の女性と産業教育』東信堂,2000年,や三好信浩『日本女子産業教育史の研究』風間書房,
2012年,など
4) 樫村勝『茨城県女子教育百年の歩み』私家版,1976年,107-113頁。
5) 樫村勝『茨城県教育史』下巻(復刻),茨城県教育会,1980年,151-153頁。
6) 櫻井薫「私学教育の変遷」茨城県教育会『茨城教育』第733・734合併号,1969年。
7)『商業及商船学校台帳』国立公文書館蔵。
8) 樫村勝『茨城県教育史』下巻,茨城県教育会,1960年,209-218頁。
9) 境町史編さん委員会『下総境の生活史 地誌編 地誌』境町,2004年,16頁。
10) 助川高等家政学校の後身である日立女子高等学校は平成8年に学校法人明秀学園日立高等学校,常磐高等
女学校の後身である常磐女子高等学校は平成12年に常磐大学高等学校,土浦第一高等女学校の後身であ る土浦第一女子高等学校はつくば国際大学高等学校へと女子高校から男女共学高校となった。
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