1 15
茨 城 の 初 等 教育
一「大正デモクラシー」の地域的展開一
東 敏 雄
目 次 ある。農業と他産業との対比,農村と都市との関
1 問題視角 連,農民と労働者の知識交流の可能性,などに及 2 初等教育の普及 ぼす教育の影響は決して小さいものではない。
3 実業補習教育の普及 この時代の農民経営については別に触れてある
4 石下自由教育の系譜 ので述べないが,その特徴形成にあたっては,狭い 5 臨時教育会議答申と茨城県教育改善案 意味での経済領域の変化のみならず,担い手たる 6 初等教育と大正期の地域社会 農民の教育水準も役割を果たしたのであった。
もちろん初等教育の内容も重要である。社会的
1 問題視角 にものを見る眼,批判的に分析する頭脳が形成さ明治から大正・昭和初期にかけての茨城は農村 れるのは,一般的にいえば,14.5歳から17.8歳の 県である。そのころの地域史にとって農村の持つ ころと思われる。しかし,その年齢に至るまでの 意味は大きい。農村分析の方法は多様であるが, 日常のなかで,見る目と方向性のおおよそは形作 究極は,時代を特徴づける直接生産者一農民の意 られるのであろう。日常を構成する要素は多いが,
識と行動におLいて総括されるものでなければなら 初等教育とこれに続く実業補習教育の場が,その ない。経済過程の分析もその基礎として位置づけ ひとつであることには違いない。その意味で,教 られるのである。とくにrr大正デモクラシー』 育内容の時代性にはとくに注目しなければならな
の地域的展開」というような,総合的な視角で地域 い。史を眺めてみようというばあいにはそうであろう。
本稿は,その一部である。とすれば,まずは初等 2 初等教育の普及
教育と,それに続く実業補習教育が問題とされね 教育の普及程度をみるための指標としては,修 ばならない。それは一般農民の子弟に,最も広く 業年限,就学率,日々出席率,修業率,等がある。
関係する教育分野だったからである。 教員養成機関の拡大,正教員の供給増加もこれに
初等教育は,それが普及するということだけで 加えてよかろう。
も,一般農民の資質に変化を与える。教育政策・ 明治期の初等教育制度は「学制」期一明治5年
教育理念がどうあろうとも,一般農民が,読み, 8月〜12年9月,「教育令」期一明治12年9月〜明 書き,そして計算する能力を備えるということは, 治19年4月,「小学校令」期一明治19年4月以降,に 大正以降の農村と明治の農村を区別する重要な条 大別することができる。
件であった。知識の大衆化である。書き,文字によ 「教育令」期は明治13年の教育令改正によって って自己を表現するには至らずとも,大衆化した 小区分される。 「小学校令」期は旧小学校令期一
「読」む力は,身の囲りに限定された知識を時間 明治19年〜23年,新小学校令期一明治23年〜33年,
と空間を超えて拡げ,農村の空気を変えるからで 改正小学校令前期一明治33年〜40年,同後期一明
治40年以降,に細分される。 精度を増す。茨城県筑波郡の事例では明治36(1903)
(1)
この区分は初等教育の制度的大枠を決める基本 年から10力年の実績は次のようであった。当時,
的な規則の制定,改廃,改訂を指標としている。 筑波郡長市村成美は明治35年の事実を次のように 明治19年の小学校令によって尋常小学科4年と定 認識していた。 「学齢児童就学歩合ハ,明治35年 められた義務教育年限は,明治33年以降,尋常小 度100人二対シ男97.66女84.81,未就学児童数ハ
学科3ヵ年制の全廃(2年制高等小学校による義 男女ヲ通ジ851人,在籍児童ノ日々出席平均ハ100務教育年限の延長準備)を経て明治40年には尋常 人二対シ男91.99女90.10ノ割合ニシテ,其ノ成 小学校6年に延長された。授業料も明治33年には 績良好ナラズ。若シ斯ノ如キ勢ヲ以テ推移センカ,
廃止され,とくに女子就学促進の契機となった。 無学ノ徒年々激増スベキハ必然ナリ」。この対策 (2)
この間,就学率も増加した。男子は,明治19年 として郡長は明治35年11月29日,「町村長及学校長 小学校令で義務教育4年と定められて60%台から ヲ招集シテ各町村ノ実況ヲ諮問シ」訓令を発した。
50%台へ低下するが,20年代を経過する中で76〜 「…未就学児童数ハ本郡二於テ尚男女ヲ合シテ851 7%となり,授業料廃止を機に80%台を確保した。 人ノ多キヲ見ル…尚就学督励ノ余地アルコト明ナ 女子の就学率は,明治20年代にあっては惨胆たる レバ之ガ局二当ルモノ宜シク薙二留意シ来学年度
ものであったが,明治40年には80%に達した。こ 二於テハ十分就学ノ見込アルヲ除ク外町村長及学 の就学率と義務教育年限の延長を併わせてみれば, 務委員学校職員協議ノ上其ノ児童ノ保護者ヲ招致 茨城県の初等教育は明治40年以降,ようやく普及 シ或ハ家宅二赴キ懇篤ナル督励ヲ加へ邑二不学ノ 期を迎えたといえる。この時期の入学者が小学校 戸ナク家二無学ノ徒ナカラシメ以テ国民教育ノ普
を終え,労働人口となってくるのが大正期なので 及二努メラル・ミ畜」。
ある。 茨城県も,義務教育延長に際し,明治41年には
就学の状況は就学率と併せて出席率をみるとき 「3箇年ヲ期シテ学齢児童ノ就学歩合男女平均98
表1 初等教育修業年限・義務教育年限の推移 修業年限 義務教育
年 限 備 考 学 制 時 代 下等小学校
4
明治5〜13年 上等小学校
4
教育令時代セ治13〜19年
小学初等科 ャ学中等科
33
小学高等科 2
小学校令時代1 尋常小学科
4 4
尋常小学科4年義務教育制定 授業料と寄付 明治19〜23年 高等小学科4
で学校経営小学校令時代H 尋常小学校 3〜4 3〜4 小学簡易科廃止 徒弟学校,実業補習学校を 明治23〜33年
高等小学校
2〜4 小学校の種類とする 専修科,補習科付設学校組合の設置
小学校令時代皿 尋常小学校 4 4 尋常小学校3ヵ年制全廃 2年制高等小学校による義務教 明治33〜40年
高等小学校
2〜4 育年限延長準備授業料廃止小学校令時代IV 尋常小学校 6 6 義務教育年限6年に延長 明治40〜昭和16
高等小学校
2〜3国民学校令時代 初 等 科 6
昭和16〜
高 等科 26
注 文部省r学制八十年史」,茨城県教育会『茨城県教育改善案 全』より作成。
東 :茨城の初等教育一「大正デモクラシー」の地域的展開一 17
表2 初等教育における就学率の推移(茨城県)
男
女
学 齢 就 学 学 齢 就 学
児 童 数 児 童 数
就学率
児 童 数 児 童 数就学率
明治9 65,075 36,550 56.2 60,308 9,653 16.0
10
66,520 38,426 57.8 60,089 9,910 16.511 65,414 39,502 60.4 58,361 10,103 17.3
12
75,442 39,132 51.9 56,891 10,053 17.713
69,116 42,209 61.1 60,811 10,988 18.114
69,830 42,501 60.9 60,249 12,035 20.015
70,535 43,990 62.4 60,326 13,392 22.216
73,753 46,622632
65,222 14,451 22.217
74,795 48,782 65.2 67,543 15,323 22.718
77,676 50,767 65.4 70,679 16,080 22.820
85,737 46,858 54.7 75,440 13,554 18.021 88,426 44,676 50.5 78,448 14,135 18.0
22
91,391 50,702 55.5 84,013 16,160 19.225
105,111 64,536 61.4 86,515 24,464 28.327
108,517 83,317 76.8 87,566 33,692 38.528
110,676 85,114 76.9 96,303 42,771 44.429
113,502 88,415 77.9 95,916 45,427 47.433
100,039 83,509 83.5 90,161 61,052 67.735
98,595 85,747 87.0 89,756 70,756 78.838
98,897 84,445 85.4 90,259 71,615 79.340
102,373 86,763 84.8 93,077 75,379 81.041 ※203,011 ※170,293
83.942 ※200,038 ※170,450
85.243 ※200,745 ※174,366
86.9 注 茨城県教育会「茨城県教育改善案 全」「本県小学校教育ノ沿革」大正14年ノより作成。 ※は男女合計。
表3 茨城県筑波郡における学齢児童就学率と出席率 (%)
就 学 率 尋 常 科 出 席 率 高 等 科 出 席 率 男 女 計 男 女 計 男 女 計
明治36
98.56 90.73 94.78 91.99 90.10 91.10 95.98 93.56 95.3337
98.65 92.31 95.62 90.50 90.74 90.61 91.36 90.27 91.0338
98.84 93.80 96.41 92.39 84.93 88.81 95.79 96.10 95.8939
98.87 94.61 96.86 93.54 86.91 90.37 96.56 96.10 96.4240
98.50 94.81 96.78 93.84 90.84 92.27 95.55 94.67 95.2641
99.40 96.88 98.23 95.05 92.68 94。00 95.63 92.72 94.8042
99.31 97.33 98.40 93.43 88.86 91.39 94.51 94.60 94.5443
99.27 97.12 98.27 94.76 90.61 93.09 95.50 97.38 96.0744
99.28 97.72 98.56 94.78 90.57 92.81 99.37 97.17 98.63大正1 99.45 98.36 98.95 95.15 91.78 93.60 97.34 97.78 97.47
注) 茨城県筑波教育会(代表 市村成美) 『茨城県筑波郡施設経営前編』大正2年39頁。
表4 尋常小学校杢業者の高等小学校入学(稲敷郡大須賀村・伊崎村)
男
女
尋常小学杢業 高等小学入学 高等小学入学率 尋常小学杢業 高等小学入学 高等小学入学率
明治36
25 21 84.007 4 57.14
37
29 26 89.66 10 5 50,00稲
38
28 23 82.14 10 7 70.00敷
39
20 16 80.00 11 5 45.45郡
40 10 9 90.00
9 5 55.56
大
41
20 19 95.00 10 8 80.00須
42
10 10 100.002 1 50.00
賀43
17 12 70.596 3 50.00
村
44
29 23 79.318 3 37.50
大正1 19 15 78.95 17 5 29。41
明治40
15 14 93.33 12 8 66.67 稲敷41
13 12 92.3126 2 7.31
郡 42
20 14 70.008 4 50.00
伊
43
14 11 78.576 3 50.00
崎村
44
18 14 77.786 3 50.00
大正1 21 17 80.90
6 3 50.00
注 大須賀村については「茨城県稲敷郡大須賀村是」74頁。
伊崎村については「茨城県稲敷郡伊崎村是」220頁より。
程」も施行され,「県当局は6800に及ぶ不就学児童
表・尋勘学酔業者の講小学校入学(男女計聴響)
を救済するために,…児童1人当り20銭の就学奨 續? 補助すること」になった。
尋常小学校杢業高等小学校入学高等小学校入学割合 (4)
アれら行政側の努力もあって,明治末には,茨城
明治32
29 28 96.55県の初等教育もほぼ普及という状況となった。も
33
17 16 94.12っとも,教育行政がそれなりの効果を挙げうる前
34
19 15 78.9535
36 29 80.56提には,子弟を教育の場に送り出す側の,経営的
36
36 27 75.60成長があったことを見落としてはならなと諭
37
17 15 88。24明治末になると高等小学校に進む者も増えた。
26 22 84.62
Q2 19 86.36
茨城県稲敷郡大須賀村では,男子の高等小学校入
40
29 16 55.16 学率(2〜4年制)は84%に及んだ。義務教育年41
26 23 88.36限延長後の明治末も,80%程度の水準にあった。
注 『茨城県行方郡小高村是』119頁。 女子は同じころ30%の低さであった。隣接する伊
崎村(現東村)でも事態はほぼ同様であった(表4)。
以上二,在籍児童ノ日々出席平均歩合男女平均95 行方郡小高村(現麻生町)では,男女を合計して 以上二達セシムベキコト」という基本方針を出し も両村に優る高等小学校入学率であった(表5)。
ている。同年には, 「学齢児童就学奨励費補助規 事例から推す限り,高等小学校も明治末には普及
東 :茨城の初等教育一「大正デモクラシー」の地域的展開一 19
表6 尋常小学校杢業者の進学状況 (大正12年 茨城県)
孕業者
高等小学校入学 中学・高女入学 実業学校入学 補習学校入学 其他学校入学 計 非進学者人数
14,617 10,963 429 291 1,363 58 13,104 1,513 男 割合 75.00 2.93 1.99 9.32 0.40 89.65 10.35人数
12,676 7,067 384 60 1,381 53 8,945 3,731 女 割合55.75 3.03 0.47 10.89 0.42 70.57 29.43
注 茨城県教育会r茨城県教育改善案』 『初等教育改善案』の49頁より作成
期に入ったといってよい。大正12年の状況はその
表7 茨城県における補習学校と同生徒数 到達点である(表6)。男子のばあい,尋常小学校ヰ・
校 数
業者のうち,高等小学校入学も含めた進学率は約
生徒総数 農業 商業 水産 其他 計
90%に達したのである。女子でも70%を越してい
ス。このような初等教育の普及は,大正期の農村 明治32 54 1 1 33 67 2 2
を考えるばあい,重要な要素である。
34 153 2 2 4 35 141 3 3
(1)茨城県教育会r茨城県教育改善案 全』 「茨
36 235 5 5
城県初等教育改善案」,大正14年,1〜20頁。なお・
37 317 5 1 6
同書は10項目以上もある各項目について,それぞれ
38 532
8 1 1 10 頁が付してあり,通し頁の記載がない。39
S0
4,639 S,497135 2 2 2 141 P84 4 2 3 193
(2)茨城県筑波教育会『茨城県筑波郡施設経営
41
6,117 208 5 2 3 218前編』大正2年,37頁。
42
7,046 216 7 3 2 228(3)同前,38頁。
43
6,607 229 6 3 5 243(4)樫村勝『茨城県教育史 上』785頁。 44 蜷ウ1
8,080 X,093
263 7 4 5 279 R00 7 4 7 318
(5)東敏雄「『大正デモクラシー』期における農 2 11,490 336 7 4 8 355
民経営の歴史的1生格」 (『村落社会研究 第18集』 3 12,921 353 8 4 9 374
御茶の水書房,1982,所収)を参照。 45 15,507
P8,005
371 9 4 10 394 R88 10 4 12 414 6 20,733 424 11 4 14 453
3 実業補習教育の普及 7 23,926 440 12 4 12 468
茨城県下の実業補習教育も,明治39年以降,発展・
8
28,947 449 11 3 16 479 9 29,781 459 15 4 15 493普及期を迎えた。実業の内容は圧倒的に農業であ 10 29,738 461 16 4 18 499
った魁大正期になって商業もそれなりの普及を 11 28,072 463 16 5 16 500
示した。もちろん,実業補習教育はこの時期に先 12 29,606 465 15 5 17 502
立つ前史を持っていた。 『茨城県教育改善案 全」 「第二茨城県補習教育改善案」27.8頁。
実業補習のうち「実業」の側面は,すでに明治 19年の小学校令に定められていた。教科内容を規
定したr小学校ノ学科及其程度」にあっては,英 学校に専修科(高等小学校に併置,農科・工科・
語・農業・手工・商業が小学校の立地する土地 商科のうち1科もしくは数科),補習科を付設し,
の状況によっては,高等小学校の学科とすること 徒弟学校・実業補習学校を小学校の種類として編 を認められていた。 入したのであった。
(6)その後,明治23年公布の小学校令にあっては,小 明治26年,文部大臣井上毅は教育改革の基本方
針を出すが,このなかで彼は,「高等小学の程度に 数区二分チ巡回教授セリ卒業生徒ノ実地業務二就 おいて実業補習の規定を設けること」とした。これ テ其学理ヲ応用シ従来ノ弊習ヲ改良シ農業上ノ進
に基づき洞年制定された実業禰学校規程は・「従歩二着鋤ヲ奏スルヲ以テ大二民望二適セ1愉・・来小学令中に名称だけがあげられていた実業に従 彼らによって担われた実業教育こそが,明治20年 事する青少年の教育を独立の規定をもって統割」 代を特徴づけるものであった。紙幅の都合で特徴 したものであった。入学資格は尋常小学校杢業程 だけを列記すると次のようになる。(1)講習所杢業
度以上で,修業年限3年以内で夜間の授業を認め, 生の人数(明治21年243人,同22年138人,同23 (10> (11)初等教育の補習とともに,実業に関する知識技能 年 85人)は決して多くはない。県下各地に散在
(12)
を授けることを目的としていた。 する選ばれた少数であった。(2)農事講習所杢業生
(7)
このような文部省の方針にもかかわらず,この の自出を示す史料はないが, 「費用ハ講習生ノ自 時期の茨城県にあっては,初等教育と結びっいた 弁」というように負担を伴い,(1)のような少数者
実業補習教育は甑しなかった.尋常小学校3−4翠あるところか雛して濠凱、・しは富農層の子 年制の上には2〜4年生の高等小学校があり,し 弟が多かったとみられる。この時代の農業実業教たがって実業補習教育の対象者の多くは高等小学 育の階層性を示すものといえる。(3)講習内容は近
校非入学者であった。若年者のばあいには実業教 代農学そのものであった。それは明治14年,農商 (14)
育は年齢的にも無理があり,高年者のばあいには 務省創設以来,大日本農会の下に組織化された農 農業にそくしてみる限り,受け皿としての経営的 談会の篤農技術とは異るものであった。(4)農事講
な条件が成熟していなかったことによるものと思 習所の杢業生は,明治23年に茨城農会を設立した。
われる。この時期の実業教育としては,一般農民よ 当初は農事講習所の杢業生が会員の中心であった りは一クラス上の,富農ないしは豪農の子弟が参 が,明治27年には,県下各地での農会設立の気運に 加した簡易農学校のルートに時代の特色があった。 対応して,会員の範囲を拡げた(趣旨賛成者・会費
簡易農学校規程は,先の井上の方針に基づいて, 納入者)。当時,全国的にみれば,系統農会設置をめ
工業にかかわる徒弟学校規程と共に,明治27年に ぐって,豪農・老農を結集統合し農事改良の指導強 公布された。「簡易ナル方法二依リ農事教育ヲ施サ 化をはかると共に自由民権派に対抗しょうとする
ントスル(第1条)」もので, 「年齢14年以上(第 政府側の意図と,前田正名等の系統農会をして,ひと 4条)」, 「農隙又ハ其他便宜ノ時期(第3条)」 つの政治勢力たらしめようという意図とが角逐した時に開講することができた。 「学科ハ算術,物理化 代であった。農事講習所杢業生に発した明治23〜
学博物ノ大要,耕種,園芸,肥料,土壌,排水, 27年の茨城農会の動きが,この全国的な流れのなか 灌概,害虫,養畜,農産製造,気象,農業工事, でどのように位置づけられるのか,それは今後の
農業経済ノ類トシ地方ノ情況ニヨリ甚斗酌シ又ハ併 課題である。しかし彼らの動きが,明治20年代の農合シテ教授スルヲ要ス…」というものであった。 業実業教育の成果であったことには違いなかった。
茨城県は明治29年3月31日,創設後1年の論 かくて,明治2・年代の実業教育は,_膿民の間 県中央農事講習所を廃止し,これに代って茨城県 には普及しえなかった。しかし農事講習所に端を発し
簡易農学校を設立した。したがって,明治20年代 た流れは,一方で中央農事講習所・簡易農学校を経 の制度としての農業実業教育は,明治21年の農事 て茨城県農学校(明治32年)となり,明治30年代の 巡回教師制度から始まったといってよい。農事講 農業実業教育の中核機関を形成した。また他方,農 習所は,この巡回教師とともに設置されたからで 事講習所は系統農会の源流ともなったのである。
ある。 明治32年2月7日,勅令に基づき,実業学校令が
「明治21年度以来農事巡回教師ヲ置キ連年農事 前年の高等教育会議の諮問を経て制定された。じ
講習所ヲ設置シ生徒ハ農家ノ子弟ヲ採用シ管内ヲ ゆうらいは簡易農業学校規程,徒弟学校規定,商
東 :茨城の初等教育一「大正デモクラシー」の地域的展開一 21
業学校通則,実業補習学校規程に準じて,個々に運 る。大正13年に書かれた『茨城県教育改善案』は 営されていたわけであるから,根本規程の制定で 「抑モ比ノ異常ナル発展ノ起因ヲ繹ヌルニ其主ナ あった。これに基づき明治32年2月25日,文部省令 ルモノニアリ,一ハ時代背景ニシテーハ当局ノ熱
(15)
を以て農学校規程が定められ,農業学校は甲種(「甲 心ナル奨励之ナリ」と述べている。しかし, 「当
種農業学校二入学スル者ノ資格ハ年齢14年以上学 局ノ熱心ナル奨励」はこのときにわかに始ったの 力修業年限4箇年ノ高等小学校杢業又ハ之ト同等 ではない。奨励にもかかわらず普及しなかったの 以上トス但外国語ヲ試験科目二加フルコトヲ得」 である。原因は「時代背景」にこそあったという 第5条)と乙種(「乙種農業学校二入学スル者ノ べきであろう。『改善案』は,その背景について,日 資格ハ年齢12年以上学力修業年限4箇年ノ尋常小 露戦争の勝利によって「所謂一等国」となり,「体 学校杢業以上二於テ之ヲ定ムヘシ」第9条)とに 面ト競争」を強いられるわが国の内面には,「物質 わけられた。 文明二,将タ精神文明二猶幾多ノ訣陥ハ有リキ,
(16)
セ治期における茨城県内の実業学校は,乙種農業 之ガ救済ノ根本ハ教育二依ツテ培養スルノ外無ク 学校が設立されるに及んで教を増したが,大正2年 就中実業教育ヲ普及シテ地方産業ノ発展ヲ期シ多 の生徒数から推しても,極く一部の農村の子弟に過 数国民ヲ就学セシメ以テー般教育程度ヲ高メムガ ぎなかった。その中心にある茨城県農学校の杢業 爲メノ実業補習教育振興ガ当時最大急務中ノ急務
(17)
生も,県下全域から有力者の子弟が集ったとはい タリ」,と述べてい(ゑ)。
え・明治期樋して限られた少数であつ詩実業 ここでは日麟争後のわが国にとって・かくある 教育が一般農民のものとなってゆくのは,実業補習 べしという目標をもって「時代背景」としている。
教育の普及をまたなければならなかった。 それにかかわって,客観的な「時代背景」を確認し 明治35年,文部省は明治26年井上毅文相時代に ておくことが必要であろう。第一は義務教育年限 制定された実業補習学校規定を改正した。文部省 の延長と高等小学校進学者の増加である。旧来,
は同改正規程発布の当日,訓令によって趣旨を明 実業補習教育は尋常小学校4年杢業者ないし同程 らかにした。(1)実業補習学校の性質が十分理解さ 度の学力保持者を対象としたのであるが,一般教 れていない。時勢の進歩と土地の情況に応じて適 育の補習はともかく,実業に関しては先にも述べ 切に対処しなければならない。(2)実業教育の本旨 たように,年齢的にも無理があった。この点が解
は「職業二要スル知識技術」の教授とr普通教育 決されたことの影響は大きい。第二に,子弟を送
ノ補習」である。(3)「教授ノ時間及季節ハ多種多 り出す農民経営の成長を見逃すことはできない。様二且長短不同」であってとうぜんで,修業年限を 経営の実際のなかから,実業教育に対する認識が 定める必要はない。むしろ各教科目の修業期間を 深められたということであろう。
定めることが適切である。(4)総ての教科目を通し こうして初等教育の普及とあいまって,明治40
て徳性を酒養し実践を重視すること。 年以降,茨城県下農村の教育は新時代を迎えるこ (19)
お・およそ以上のような趣旨に沿った改正であ ととなった。もっとも,教育の成果がなんらかの形 った。しかし実業補習教育は普及しなかった。 で現われるのは,大正になってからのことではあ 茨城県においても同様である。画期は明治39年に るが。
訪れた・ 「爾来(明治32年, 「那珂郡ノ山地小瀬 (6)文部省r学制八十年史』昭和29年,125〜127 村二本県最初ノ実業補習学校設置セラレ」て以来 頁。
一引用者)数年間遅々トシテ殆ト進歩ノ跡ヲ見ス (7)同前,147〜149頁。
…然ルニ翌39年二至リー・躍141校ヲ算スルニ至レ (8)文部省内教育史編纂会編修r明治以降教育制 リ,内135校ハ農業補習学校」という事態が出現 度発達史第3巻』,昭和13年,668頁。
した。実業補習教育は新し(習時代を迎えたのであ (9) r茨城県勧業年報第12回』明治25年。このほ
か(10)(11)(12)(13)(14)いずれも『茨城県史料 に向けられてきたので,当時の小学教育をとくに
近代産業編1』548〜563頁に収められている。 国民教育と呼んでいること」,を挙げている。そ
(10) 『茨城県勧業年報第8回』明治21年。 して「これは明治23年の教育に関する勅語の換発
(11) 『茨城県勧業年報第9回』明治22年。 に応じて,小学校令第1条に小学校教育の目的が
(12) 『茨城県勧業年報第10回』明治23年。 明示され,国民教育の基礎を培うべきものである
(13) 『茨城県勧業年報第11回』明治24年。 ことが明らかにされたからである。_とくに修身
(14)農輔習所規則によれば・「学科言果程・は第 教科書において1よ,忠君愛国の思想を議するこ
議鞭縷1妻繕難 難1蒙鵡灘瀦奮講奨義練 伴って起ってきた,所謂新教育運動と称する教育管理法,農産物製造法,実習,実業巡回である(r茨
城農会々誌第1号』明治24年3月,による) 革新運融」に時代の特徴を求めている。茨城県に
(15) r明治以降教育制度発達史第4巻』472頁。 おいて・大正デモクラシーと教育を論ずるとき・常
(16)同前書,486・487頁。 に登場する石下(茨城県石下町石下小学校)の自由
(17) 明治期には30年代から40年代にかけて実業 教育はこの後者の系列にある。
学校が次々と創設された。農学校は甲種1校,乙種 問題は相互の関係にある。両者は単純に対立し 11校(郡立3,町村立4,組合立4)で,大正2年 あうものではない。根底にお」いて,共通項さえ持つ
3月の生徒数は甲種校272人(女なし),乙種校1149 のであり,そこをも照らして,はじめて「大正デモ 人(うち女子62人)であった。このほか商業校2(県 クラシー」と自由教育の時代性を知ることができ
立1,町立1),水産校2(町村立2),工業校1 るものと思われる。
(県立)があった・ 『水農史第1巻』, r茨城県史 これについては,すでに中野光の所説がある。そ 料 近代統計篇』・ 『結城市史第6巻 近現代通史 の骨子は明治30年代になると官側からの教育改革 篇』, 『水戸工高70年史』による。 があり,これを批判して民間の改革構想が出され
(18)簡易農学校第1回杢業生(明治31年)以降・ てくること,両者の間にとうぜん対立はあるが,帝 明治44年までの茨城県農学校の杢業生総数は・628人 国主義的国民を育成するという大目的においては
にすぎない(水農高同窓会『会員名簿』昭和46年, 共通であった,と要約できる。以下しばらく,中
いうものであり,対策は教科目を減らし,児童の 発育に応じた適切な授業,必須科目への集中,日
常生活への活用,等であった。もっとも,現実は別で,小学校令・同施行規則を貫くものは国家主義
4 石下自由教育の系譜 的訓育と低次の実用主義であり,これに対し批判『茨城県教育史』は,明治23年小学校令公布か が相次いだ。すでにこの小学校令改訂に先立って ら同40年改正小学校令公布までを「国民教育樹立 樋口勘次郎の教育批判があり,明治33年の小学校
期」と(し22),これに続く昭和初期(満州事変以前) 令改訂に際して部分的に実施に移されていた。樋までの20数年間を, 「教育活動進展期」としてい 口は絶対主義的な国家権力による教化政策,管理
(ゑ。理由として著者樫村は・ 「日清日露の両戦役 主義的訓練画一的注入教授を批判し,活動主義な
をはさんで,小学校教育はかなり国家主義の方向 いしは統合主義を主張した。その前提にある樋口
東 :茨城の初等教育一「大正デモクラシー」の地域的展開一 23
の社会観は,児童の活動性を抑制する限り,日本 形成しょう,という教育目標であった。その実現の の海外発展を担う人材の育成は不可能,という危 ためにこそ児童中心の教育が叫ばれ,画一注入教
機感でもあった。 育が批判の対象となり,自由と自治が主張された小学校令改訂以降の教育批判も,これとほぼ同一 のであった。
基調にあった。すでに明治20年代にヘルバルト派 こうみてくると,石下自由教育を論ずるばあい,明
の教育学を批判的に紹介し,日清戦争後の大日本 治30年代以降の官制教育批判と,大正期の新教育 帝国の発展を支える精神の養成を主張していた谷 運動との関係がまず整理されなければならない,と 本富は,明治30年代後半にあって,形式的画一主義 いうことになる。そtてその際,日本の教育に大 の教育を排して,能動的・活動的人間育成のための きな影響を与えたドイツのヘルバルト派の教育と
教育を,と主張していた。彼の主張の前提には,後進 世紀末から20世紀にかけての,ヨーロッパの新教資本主義国としての日本が,欧米列強に伍して並 育運動との関連が視野に収められている必要があ び立たねばならない,という目的意識があった。 る。日本の官制教育批判はまさにこの時期から開 彼は絶対主義的臣民の形成ではなく帝国主義的国 始されるからである。
民の形成を,という観点から政府の教育政策を批 長尾十三二によれば,ヘルバルト派教育学は19 判したのであった。棚橋源太郎もプラグマティズム 世紀後半から20世紀初頭にかけてドイツ教育界に
の観点から.改訂小学校令を貫く国家主義的訓 普及するが,第一次大戦までには理論的影響力を育,低次の実用主義を批判した。牧口常三郎も全 喪失した。産業化するドイツ社会の体制維持の支 教科目を融合・統一して有機的体系にしなければ えとして,宗教的情操の陶治と五段教授法による ならない,と官制教科の内容と方法を批判した。 系統的知識の効果的伝達を内容とするヘルバルト その彼も天皇制国家主義の枠内にあり,国家によ 派教育学が期待されたのである。しかし激化する る教育内容の統制を承認した上での批判であった。 社会問題に直面し,これを克服すべく国民統合を 単なる批判にとどまらず学校における実践もあ 目指すビスマルク体制の下にあって,教育を家庭 った。姫路師範学校はドモラン(rアングロサク の私事とし,個人の知的・道徳的向上の行く手に ソンは何故すぐれているか』1897年,同翻訳『独 社会の完成をみようとする教育思想は退潮する。
立自営大国民』明治35年)に影響されて,人格教 代って社会をひとつの有機体としてとらえ,成員 育・自由自治教育・体験的労作教育・宗教的教育 の教育は,その社会を自己保存するもので,したが 等によって特色づけられる新しい教育を実践に移 って国家権力による国民教育の支配は正当,とす
した。偏狭な国家主義・官僚主義では国は飛躍し る公民教育論が登場する。
ない,独立自尊の活動主義的人間の形成こそが国 公民教育が登場すれば,これを否定的に受けと
の基である,という認識があった。 め,逆に新しい社会をつくる人間の育成を教育新学校の設立もみられた。日本済美学校(明治 の課題とする立場も自覚されてくる。これは,当 40),成瞑実務学校(明治39),帝国小学校(明 時,ヨーロッパの趨勢であった。これとは別に,
治45)等である。いずれも自由と自治を尊重し, 社会や学校教育の現状にあきたらぬという点では 画一的注入教授を排し,かつ厳しい鍛練を課した。 共通しながら,その改革を個人主義的自由主義的 帝国主義的発展を保証する人間の育成こそが教育 方向で進めよう,という動きもあった。これは児童
の大目的であった。 中心主義的学校改革運動にとりこまれ,この運動以上,中野光126糸大正自由教育の研究』によって が20世紀初頭の新教育運動や改革運動の主流とな 明治30年代以降明治期の官制教育批判を辿ってみ った。
(27)
たが,全体を貫ぬくものは日本の資本主義的発展 日本のばあいには,ビスマルク体制下の公民教
に対応して,海外にも飛躍できる帝国主義的国民を 育に見合う官制教育に対する批判は,明治20年
代のヘルバルト派教育学の批判的摂取によっては 子どもへという一方交通的な作用関係としてとら じまった。たとえば中野によって先述したように, えられていた。ヘルバルト(J・F・Herbart)
樋口のばあいには活動主義あるいは統合主義を主 の影響を受けた明治時代の教授論は古い伝統のせ 張するが,これは明らかにヘルバルト派教育学の いもあって,当然に教師中心的であった。…大正 影響である。しかし,ヘルバルトのように,道徳 期に入るにお・よんで教師中心の教授論は児童中心 的宗教的な情操教材を中心にはおかない。彼の帝 の学習論へと発展した。…自由教育の主張であっ
国主義的社会観を支える実物教育が中心であった。 (た30)」。これらの指摘からは,明治20年代以降の官谷本もヘルバルト派の教育学説の紹介につとめた。 制教育一ヘルバルト的教授論,大正期の新教育一 しかしヘルバルトの心理学,倫理学は個人的であ 反官制教育・反ヘルバルト的学習法,と図式化す る,と批判する。彼は,天皇に盲従ではなく「自由 ることができる。しかし,前述したように,中野 の服従を爲す人間」を育成するような教育を主張 光によれば,明治30年代以降の官制教育批判は,
したのである。したがって,樋口・谷本等と官制 ヘルバルトないしヘルバルト派の教授法を自らの 教育との間の対抗関係は,ドイツにあってヘルバ 社会観を通して批判的に摂取し,それに立って官 ルト派とビスマルク体制下の公民教育の間にあっ 制教育の形式的画一性を批判するものであった。
た対抗関係とは位相を異にしていた。わが国にあっ したがって,このばあいには,大正期の新教育と ては,批判する側も,国家による公民教育を是認し 明治30年代以降の官制教育批判は裁然と区別され た上で,目標を官制教育とは異って,能動的活動 るわけではない。 「子どもの自発性」に関しては 的人間の育成におき,換骨奪胎したヘルバルト派 共通であり,その社会観,国家観こそが問題とな
的教育学に拠りつっ,形式的画一主義教育を批判し るのである。たのである。これは,ヨーロッパにおける個人主 石下小学校で,新しい教育が実践に移されたのは,
義的自由主義的方向性を持った新教育運動とは異 大正10年4月のことである。中心となった教師は った動きといわなければならない。 湯沢卯吉,倉持豊三郎,増田弥太郎,等である。石
これに対し,第一次大戦末期にもり上ったわが 下小学校では同年暮,かねてから自由教育論を主 国の教育改革運動は,児童中心主義の教育思想に 張していた千葉師範附属小学校主事手塚岸衛と同
支えられてい農)・そもそも・教育理論ないしは教育 校教諭中島義一を招いての講演会を企画し・趣意的主張の固有性は,国家と教育との関連,教育が 書を配布した。これに対し,時の茨城県知事守屋源 育成目標とする人間像,手段としての教授方法, 次郎は郡長倉持平十を通して禁止を命令した。講 この三者の総合によって性格づけられると思われ 演会は中止となった。茨城県当局と千葉師範附属 るが,なかでも,基本は第一にあると思われる。 小学校手塚・中島との問で繰りひろげられた自由 明治の官制教育批判は,一で共通しつつも,二, 教育の是非をめぐる論争の発端である。
三を批判の対象としたのである眠大正期の児童 守屋は自己の処置を正当化すべく宇1)講演禁止か 中心主義はこれとどのように関連するのか。 ら間もない大正11年1月17日,郡視学会議の席上 新教育運動のひとつに千葉県師範学校附属小 で千葉師範学校の「教育主義」 (自由教育)批判
学校の自由教育がある。これは,樫村勝によれば山の訓示をしている。彼は自らの自由教育について (32)
「かつてペスタロッチの開発教授や,ヘルバルト の理解を8項目に整理し(表8).そのひとつひとつ の五段教授法等の形式を踏んできた,わが国の教 を批判した(表9)。守屋は,自由教育が国家・
育界においては,当然批判の的とならざるを得な 社会の秩序維持と矛盾する,という認識に基づい
かっ(た29)」「彼(ヘルバルトー引用者)の教育学の中 て立論する。幼い児童には自己を内省することな心的部門をなす教授論は子どもの自発性を重視す ど出来はしない,人は理性によって発展するわけ
るのであるが,教授の構造は基本的に,教師から ではない,客観的道徳,社会道徳を離れて利己的
東 :茨城の初等教育一「大正デモクラシー」の地域的展開一 25
表8 茨城県知事守屋源次郎の千葉師範教育主義の理解
1 自己を内省する自覚により自由に自我を創造せしむること。
2 人は自己の理性に従ってより大なる統一を求めつつ無限に連続発展す。
3 故に教育は理性活動の各方面(認識生活面)的生活趣味生活信仰生活に互りて人格
価値の自由なる実現を期す。
4 教育は自由を実現せしむる働なり。
5 自由教育は当然の帰結として教育即生活となり社会我実現となり社会と個人との連続
発展を意味す。
6 知識道徳体育皆自己を教育せんとする児童の自覚即自由なる自己実現を本体として教 師は只之が刺戟と暗示と批判とに当るを最高任務とす。何となれば普遍必然の価値意 識に基づく自我の自由なる活動を外にして教育なきが故なり。
7 自由とは服従の謂なり当爲の法則に従って自ら自己を律するは自由にして服従の第一 義なり。人の命令又はより高き規範として自ら自己を規定するは自由服従の第二義な り。教師の命令は屈服盲従なりとも教育上の構造として児童強要するも真の服従への
途として暫く之を許容す。
8 自学の教育は自覚の教育ならざるべからず自覚の教育は自由の教育ならざるべからず 自由に在るところ必ず責任あり責任なき自由は放縦なり児童が独自に連帯し常に責任
を重んじて自学し自治し自育するを自由教育とす。
注『いはらき』新聞,大正11年1月17日,による。大正11年1月13日に「郡視学会議に 於て訓示的に爲したる守屋知事の自由教育に対する批判なり」。
表9 茨城県知事守屋源次郎の自由教育批判
1 自己を内省するなど児童には不可能。また,内省する際,国家的,個人的,自己的と 様々。国家,社会の秩序・発展という観点から寒心にたえず。
2 人は理性に従って連続発展するとは思われない。もし各自が自由におかれるならば人 は精神的にも物質的にも,客観的道徳あるいは社会道徳を離れて思うままに周囲の事
情いかんにかかわらず進んでいく。
3 「人格価値の自由実現と云ふことは教育の目的とせられて居る所でありますが社会的 国家的又国民的に訓練することを顧みずして自由に放縦に自然に不統一にエゴイスチ
ックに又インディビヂュアルに実現せしむるといふことは吾々の賛成を蹄躇する所で
あります」。
4
自由教育は自由を自由に実現せしむる働きであるという。自由は自然が理性化された 状態として理解されており,それを他の干渉拘束なしに自律的に実現できるとしてい る。しかしそれは児童にとって不可能であり,気階気侭の自由になる危険性が大きい。「現代の社会は国家及団体生活の各種の必要なる条件を等閑に附しての自由思想にし きりにかぶれんとするのであります。少くとも我国の国民教育家としては徒らに時流 を追うて児童個人の自由なる主張の発展にのみ熱中することは避けて貰ひたい」。わ
れわれは国家という一人格の分子細胞である。
5 自由教育は児童をして利己的個人主義的生活を実現させる。それは社会的抑制的共同
生活と相容れない。
6
児童の自由な自己実現にのみつとめ古人の経験を無視することはできない。道徳に即 していえばこの考え方は社会共同生存の上からみて不都合である。自己本位の主観的道徳は社会の安寧秩序と矛盾する。
7 「自我の自由なる表現を理想としつつ一方人爲の命令に服従せしめんとすることは無 理な注文であります。社会生活が相互の協調を待たねばならぬことを了解するならば
自我自由表現等といふことを高調せぬ方がよい」。
8
「道徳上自由行動に責任を負はしめ得ると考へても自由に行動するものには必ずしも 責任観念の階伴するものではない」。もし社会共同生存上相互の責任の自覚が必要で あるというなら個性の自由発展を否定しなければならない。注 『いはらき』新聞,大正11年1月17・18・19・20・21・22日,による。「」は原文どおL り,他は意訳を含む。但しいずれも摘記である。表8の各項に対応している。
に,個別的に進んでいくのだ。そのまま放置した から湯沢の去る大正14年ころまで続いた。
のでは,社会的抑制的共同生活とは相容れない。教 湯沢卯吉が新教育の思想をはじめて持った時期 育とは国家および団体生活にとって必要な条件を, はわからない。彼は大正2年の茨城県師範学校の 児童に教えていくことではないのか。個人は国家 杢業生であるから,先述したような明治30年代以
という一人格の分子細胞なのである。ビスマルク 来の官制教育批判の影響は考えられる。しかし具 体制下のドイッ公民教育論を彷沸させる。 体的な契機として,中島義一との関係を見逃すわ
守屋の訓示には,明治30年代以降の官制教育批 けにはいかない。中島は石下町に生れ,茨城県師 判と政府の問にあった共通項,すなわち活動的な 範学校では湯沢と同期で無二の親友であったとい 海外の発展にも対処できる帝国主義的国民の形成 う。広島高等師範学校杢業後,千葉県師範学校附属 という視点さえ見当らない。専ら国家・社会の秩 小学校に赴任した。同校には大正7年来,自由教 序維持が前面に出ている。労働運動,小作争議, 育の手塚岸衛がいた。石下小学校は中島を介して,
社会主義運動,等に示される階級的秩序の動揺とい 中島と共に手塚を招いて問題となった講演会を企
う事態が,守屋の訓示の前提にあったことは疑えな 画したのである。 『大正期石下の自由教育』の著い。石下自由教育の時代相の一端はここにあった。 者増田実は「理論的根拠にしても実践の内容にし ヘルバルトから出ながらも,ヘルバルト派に至っ ても,学校内の教育に限っていえば,石下の教育 て形式化・画一化された教授法に対して,19世紀末 と千葉の教育は概括的にはほとんど同じであると
以来欧米に新教育運動があり,わが国の大正期新 いってよい」と述べてい(る34)。教育運動もその一環という説もある(盗守屋知事 千葉県師範学校附属小学校の自由教育は・大正 と石下自由教育の争点はそれとは次元を異にする 8年,手塚岸衛が主事に着任してはじまった。しかし ものであった。しかも,自由教育を主張する側に 彼の来る前年の学校経営方針にも,実力養成と共
あっても,その国家観においては,守屋のそれと必 に自由研究,立憲的活動が掲げられているところかずしも対立するものではなかった。にもかかわら らして,手塚の着任だけが原因ではなかった。また
ず著名な事件となったのである。 文部省諮問および千葉県諮問の果たした役割も看石下小学校の自由教育で中心的な役割を果たし 過できない。文部省のそれは「小学校の教授上児 た湯沢卯吉は,明治24年1月10日,猿島郡勝鹿村大 童をして一層自発的ならしむべき適当の方法如何」
堤に生れた。大正2年3月,茨城県師範学校を杢業し, であり,千葉県の諮問は「児童生徒二自発的学習ノ
同年4月に東京高等師範学校に進んだ。しかし翌 習慣ヲ酒養スルニ最モ適切ナル具体的方策如何」
3年2月には病のため退学,5年に水戸市立下市 というものであった。着任した手塚は調査員とな
尋常高等小学校に勤務,6年10月に抜擢されて茨 り,委員会答申の作製に参画した。級長,組長の自 城県女子師範学校附属小学校の訓導となった。こ 治的選挙.学芸会,運動会その他諸会合の自治的
れを,大正9年4月,石下町長新井球三郎が石下 運営,学級園,同文庫の自治的管理,教室清掃整
小学校の首席訓導として招いたのである。湯沢は 頓の自治的執行,等が答申の主な内容であった。
大正14年9月,水海道高等女学校に転出するまで 手塚は大正8年9月には5年生以上に学級自治会 5年5ヵ月在任した。彼と共に石下小学校での新 を設け,翌9年1月には高等科男子に自由学習時
しい教育実践に参加した倉持豊三郎は,茨城県師 間を特設した。同校の教育理念は,教育とは「理 範学校杢業後,大正9年に沼下小学校に赴任,同 性の働きによって真善美を創造させること」であ 12年3月,宮城県石巻中学校に転出している。増 り,そのi理性は児童が自らの生活を統制すること 田弥太郎は大正8年3月茨城県師範学校杢業,石 によって淘冶され,その場が学級自治会である,
下小学校には大正10年に着任した。このようにし というものであった。したがって,この立場から
て石下小学校の新教育実践は,大正10年の新学期 の教育批判の対象は,画一主義,干渉束縛,受動注
東 :茨城の初等教育一「大正デモクラシー」の地域的展開一 27
入であった。この限り,明治30年代以来の官制教 自由を主張するという意味での自由主義ではなか
育批判と決定的な差はなかった。さらに教育の前 ったのである。吉植文部省参事官の言も,この間の (38)
提となる社会観・国家観として,手塚は家父長制・ 事情を物語っている。 「近頃自由教育の可否に就
天皇制を肯定し,自由教育は国体にそむいて国家 ての議論が,大分喧しく唱へられてゐるやうだが,
教育を疎んずるものではなく,国家権力による教化 未だ其真諦を極めずして,漫りに冷笑的態度に出
政策に対する批判でもないと主張した。 でんとするものの多いのは遺憾である。自由教育 (35)
このような事実から判断するならば,千葉県師 といへば,如何にも児童を放縦不覇の状態に置き,
範学校附属小学校と石下小学校の教育は,特定の 何等の管理をも施さぬかの如く想像されるが決し 概念を与えられた「自由教育」ではあっても,国 てそんな謬ではない。元来自由教育なる名稻は,
家主義に対立するものとしてのデモクラシー教育 其実質を充分に表徴せず,寧ろ少からず相違して
あるいは自由主義教育ではなかった。 ゐるやうに思へる。今日世人の多くが,動もすれ守屋知事が郡視学会議で自由教育を批判した翌 ば軽挑浮薄なる批評を自由教育に向って試みんと 々月,大正11年3月には水戸市教育会主催で手塚 する傾向を馴致した最大の原因は,比名構の内容
岸衛と中島義一の講演会が開かれた。この会には, にそぐはぬ爲であると云ふべきである(;;1」。知事の命令で小学校教職員・師範学校生徒は出席 「軽挑浮薄」ではあっても自由教育の「自由」
せず,一般聴衆だけだったという。手塚は同日の講 の名に脅え,批判のあったことは事実である。そ 演「自由教育の主張と実際」み隊かで自由教育を れにはそれなりの根拠があった。一般的な背景は,
定義している。 民力酒養運動に示されるような時代相と政府の社 本能衝動は人の自然性である。放漫な自然性を 会認識である。内務大臣訓令五大要綱のキー・ワ
(40)
統一する原理が理性である。理性によって自然の 一ドは,国家観念,公共心・犠性の精神,日新の修 力を真善美の方向に善導するのが教育である。自 養,相互譜和・彼比共済,勤倹力行,と読むことが 然は力ではあっても,特定の方向性があるわけでは できる。総じて国家観念を基礎とした階級協調策 ない。人間に潜在する理性によって支配されるこ といってよかった。
とを自由というのである。「自然を随喜渇仰する 茨城県ではこれを承けて「民力酒養二関スル計 は教育に非ず自然的因果に捉へらる・は自由に非 画要綱」を作成し,石下小学校の所在する結城郡 ずして奴隷なり。自然が内在的統整原理としての でも大正8年9月, 『民力酒養』と題する冊子を 理性に導かる・ことこれ即ち自由なり」。児童に 作成配布して普及に努めた。県の「計画要綱」中
も児童なりの理性があるのであって,その程度に の実行細目の第一では,「立国ノ大義ヲ閑明シ国体 応じて,児童の自然を理性化していくのが自由教育 ノ精華ヲ発揚シテ健全ナル国家観念ヲ養成スルコ
なのである。 ト」が謳われ,「建国ノ由来ヲ明ニシ我国固有ノ国
(37)