• 検索結果がありません。

三 二 川

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "三 二 川"

Copied!
15
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

古 逸 叢 書 の 白眉 『玉 燭 宝 典 』 につ いて

‑近年の学術情報 .巷九の行方な ど‑

三佐男 は じめに

‑ 『玉燭宝典』 に関する基本情報

目本 に伝わる 『玉燭宝典』の諸本

中国における 『玉燭宝典』の学術情報

四 近年発見 の 『敦塩懸泉月令詔候』に関す る学術情報 五 目本 における 『玉燭宝典』の学術情報

『玉燭宝典』の巻九の行方 おわ りに

は じめに

ここに言 う 『玉燭宝典』の一書 は、中国では明 ・清 ころ亡侠 ・流伝 して姿 を消 し、それ が幸運 にも日本 に伝わっている ことが分か り、清末 に 日本か ら一巻 を欠 く十一巻本が古逸 叢書の一書 として里帰 りす る ことになって大 いに脚光 を浴びた ものの、その後 は長期 に捗 って さほど重視 されず、幾たびか新たに翻刻 される ことがあって も整理 はおろか、めぼ し い研究成果 はほとん ど現れない状況 にあった。 ところが近年、そ うした状況 とは打 って変 わって国内外で注 目すべき研究成果があ り、また関連す る考古資料の発見 もあるな ど、『玉 燭宝典』の周辺は学術上 にわかに賑わ しくなって きた。改めて言 うまで もな く 『玉燭宝典』

の一書は、我が国の公的年 中行事の根幹を形成 した基本資料 として も知 られる。

そ こで小論は、近年の 『玉燭宝典』に係 る国内外の最新の学術情報 を伝えることを通 じ、

今後の 『玉燭宝典』の学問的充実発展 は中 日両 国 (その実は朝鮮半島、ベ トナム等 をも包 括する) による国際的総合研究 を実現できるか否かに係 っている ことを指摘する。

‑ 『玉燭宝典』 に関する基本情報

『玉燭宝典』十二巻 (現存十一巻)は、中国古代か ら秦 ・漢 ・魂 ・晋 ・晴 に及ぶ文献資料 り

に基づ く中国年中行事の記録であるO世 に知 られている 『荊楚歳時記』 とな らんで歳時記 の双壁 とされ る。ただ しその分量 ・領域 は荊楚歳時記 に十倍 し、かつ今 日に伝わ らないも の も含む多 くの文献 を引用 して精密である ことか ら、あるいは 『玉燭宝典』は中国の古歳 時記、また中国の年中行事の記録 として最高の ものか も知れない。

(玉燭宝典の著者) 『玉燭宝典』の著者 は南北朝時代後半か ら晴の初 めにか けての、杜 台卿 とい う人である。 『荊楚記』の注すなわち 『荊楚歳時記』を書いた杜公略の叔 父にあた る人でもある。杜台卿 についての伝記 は陪書 に次のようにある。

台卿 は字 は少山といい、博陵郡曲陽県 (今 の河北省曲陽県)の人である。父は衛尉卿 (官名o九卿の一つ)であった杜弼である。台卿 はその二番 目の子供である0台卿は年 若 い ころか ら学問を好み、博 く書物 を好み、また文章 もよ く書 いた。北斉

( 5 5 0

〜 5 7 7

年)に仕えて奉朝請 (朝廷で儀式 を行 うとき臨時 に任命す る官)とな り、その後、司空 ・ 1 1‑

(2)

西閣 ・司徒 ・戸曹 ・著作郎 ・中書 ・黄門 ・侍郎等 々の官職 を歴任 したが、常 に風雅 の 道 に心 を置 いた。北周

( 5 5 7

〜 5 81

年)の武帝が北斉 を攻めはろばす と台卿 は郷里 に帰 り、礼記 と春秋 をテキス トに用 いて子弟 に講授 した。やがて晴の文帝が北周か ら天子 の位 を譲 り受 けると開皇初年

( 5 8 1

年、晴成立)、台卿 は召 されて朝廷 に入 った。 これ に先立ち、台卿 は礼記の月令篇 をもととし、類 に触れて これ を広め、玉燭宝典 という 書物十二巻 を作 ってあったのを、 ここに至 って文帝 に献上 し、絹二百匹を賜 った。 し か し耳がきこえない病気 にかか って職務 に耐え難か ったので国史 を修 めたい ことを願 うと、文帝 は これ を許 し、著作郎 に任命 した。開皇十四年

( 5 9 4

年)に台卿 は理 由を し たためた文章を奉 って官 を辞職 した いことを願 うと、文帝はね ぎ らいの ことばをかけ、

著作郎のままで郷里 に帰る ことを許 した。 (衣)集十五巻、 また斉記二十巻 を撰び、 と もに今 日読 まれて いる。

これ を要するに、杜台卿 はその経歴が物語 るよ うに当時の一流の官吏であ り、一流の知 識人であった。

(玉燭宝典の成立)上の記述 によれ ば 『玉燭宝典』は社台卿が北斉

( 5 5 0

〜 5 7 7

年)に仕 えてか ら以後、北周

( 5 5 7

〜 5 8 1

年。この間、台卿は大半は任官せず に郷里 にいた)の時期、

すなわち晴が成立す る開皇初年

( 5 8 1

年)までの間に書 き上 げた ものであることが知 られる。

仮 りにそ の序文 をもっとも下限の開皇初年

( 5 8 1

年)に書 いた とす る と、その序文 に 「むか し、典掌の余暇 に因 りて、芸文 を考 え校ふに、礼記の月令、 もっとも備悉 を為す。つひに これ を月 ごとに分かちて、おのお の篇 の首 に冠す云 々」 とある ことか ら、『玉燭宝典』 は 著者 ・社台卿が北斉 に仕えていた問にほぼその体裁 をととのえて いた と考 え られ る。 した が って、『玉燭宝典』を晴代

( 5 8 1

〜 6 1 6

年)とす る従来の説は、あるいは正確 さを欠 くであ ろう。

なお 『荊楚記』の著者 ・宗懐 は周書 によれ ば六十四歳で保定

( 5 6 1

〜 5 6 5

年)中に亡 くな って いるOつま り 『荊楚記』は保定の年間を含 むそれ以前 に成立 しているC また社台卿 は

『玉燭宝典』 に 『荊楚記』 を しば しば引いている。 さらに 『荊楚記』 に施 した杜公腔の注 (現在の 『荊楚歳時記』)には 『玉燭宝典』ない しは 『玉燭宝典』 に引 く文献資料 をしば し ば引いている.

これ を要す るに上記三本 は南北朝時代後半か ら晴初 にか け 『荊楚記』‑ 『玉燭宝典』‑

『荊楚記』の注 (現在 の 『荊楚歳時記』)の順で成立 した もので あることは明 らかである。

つま り 『玉燭宝典』はかかる成立背景か らも注 目されてよいであろう。

(中 日間のブ ックロー ドを来往する玉燭宝典)『玉 燭 宝 典 』 が今 日に伝わるに至 った来 歴 については、いささか ドラマチ ックな ものがある。

というのは この書は、障害の経籍志、旧唐書の経籍志、唐の徐堅の初学記、新唐書の芸 文志、宋の尤裏の遂初堂書 目、同 じく陳氏の直斎書録解題、また陳元親 の歳時広記、宋史 の芸文志、明の陳第の家の蔵書 目録世善堂書 目等 に見える、すなわち晴 ・唐 ・宋 ・明 ころ まで伝わ っていたが、酒代 になると絶えて散逸。 ところが光緒

( 1 8 7 5

〜1 9 0 8

年)の初め、

すなわち我が国の明治 の初 め清末 の学者 ・楊守敬が公使 の何如環 に従 って来 日す るに及 び、 この書が 日本 に存在 している ことを初めて知 り、か くして大 臣の賓庶 昌に勧 めて古逸 叢書の中に翻刻 させた。中国の文献が中国においては散逸 し、それが偶然 にも日本 に伝わ

I I̲7 ‑

(3)

って残 っていた という事例 はほか にもあるけれ ども、『玉燭宝典』の場合はそ の白眉であ って、か くして中国の人々はみな驚 き希世の珍本 とした という、かかる来歴があるか らで ある。

二 日本 に伝わる 『玉燭宝典』の諸本

日本 にお ける 『玉燭宝典』十二巻 に関する古記録は、まず藤原佐世の 『日本国見在書 目』

に見える。 これによれ ば 『玉燭宝典』十二巻 は、清和天皇

( 8 5 8

〜8 7 6

年)の時代 にはす でに 日本 に伝わっていた。

以下 には 日本 に伝わる 『玉燭宝典』の諸本 に関する情報 を紹介する

0

旧加賀藩前田侯 の尊経閤文庫所蔵 『玉燭宝典』巻子本 (暮九欠)

本書 は 日本現存最古の 『玉燭宝典』である。本書前田家本の巻六の尾 には 「貞和四年

( 1 3 4 8

年)八月八 目、書写畢 (る)」 としたためてある。また本書の背紙 は、多 くの文 書 を連綴 した ものか ら成 っているが (玉燭宝典裏書参照)、巻三の背 には 「貞和二年 ・ 三年」 とあ り、巻六の背 にも 「貞和三年」 とあ り、巻七の背には 「建武三年

( 1 3 3 6

年)

・暦応二年

( 1 3 3 9

年)・貞和四年

( 1 3 4 8

年)」 とある。なお本書の巻五の尾 には 「嘉保三 年

( 1 0 9 4

年)六月七 日、書写了 (る)罪 (せて)校弄 (む)」 とあるが、 これは旧蹟 をそのま ま写 した もの とされ る。 これ らによって前田家本 『玉燭宝典』は、後村上天皇

( 1 3 3 9

〜1 3 6 8

年)の時代、換言すれ ば足利幕府 開幕

( 1 3 3 8

年)後、まもな い ころに書写校定 された ものである ことが知 られ る。

○前 田家景印本 『玉燭宝典』巻子本 (暮九欠)

○宮内庁書陵部蔵 『玉燭宝典』 (写本 ・巻九欠)

○古逸叢書本 『玉燭宝典』 (尊経閣本 の影印 ・巻 九欠)

○歳時習俗資料費編本 『玉燭宝典』 (尊経閣本の影印 ・巻九欠)

○国立公文書館蔵 『玉燭宝典』 (昌平聾学問所 旧蔵、水野忠央 旧蔵等四本) (暮九欠)

○専修大学所蔵本 『玉燭宝典』 (写本 ・巻九欠)

本書 は江戸末期 の考証学者 ・森立之 ・約之父子が代表 して校合 した もの。巻二の尾 に は 「山田直温 ・野村温 ・依 田利和 ・猪飼傑 ・横 山樵 ・同に校 (して)畢 (る)、三月五 日」

とあ り、また旧蹟 をとどめて 「貞和五年四月十二 日、一校 了 (る)、面山里」 としたた め、さ らに冊尾 には森約之の安政三年

( 1 8 5 6

年)の識語一条がある。

○国会 図書館所蔵 ・依 田利用 の自筆稿本 『玉燭宝典致証』 (暮九欠)

本書の 目次 には十二巻本 と銘打 ってあるが、序文 に巻九を欠 くことを明記 しているよ うに実際は十一巻 しかない。本書の致証に当た った俵 田利和 は江戸幕府医官であって、

専修大学所蔵本の巻二の尾 に見える依 田利和 とは同一人物である。

○東洋文庫所蔵 ・依 田利用の 自筆稿本 『玉燭宝典致証』 (暮九欠)

本書は国会図書館所蔵本 とは書式 を若干異 にす るが内容はほぼ同一であると思われる。

旧青山相公蔵 『玉燭宝典』巻子本 (全十二巻)

本書 については、島田翰 の 『古文 旧書考』刻宋本寒 山詩集序 に次 のよ うに言 う。「今 是書、装成巻子、相其字様紙質、当在八九百年外臭、而巻第九尚僚存、却侠巻第七後半、

〜是書、比之於貞和本、語辞更多、且通篇用新字、其数多至十三字、云 々」。ただ し本

‑ 3 ‑

(4)

書が現存するか否かについては現時点では未詳。

○東北大学所蔵本 『玉燭宝典』 (残八巻、三冊本) 本書 は依 田利用等校訂 による写本 (朱筆校訂本)o

o 中国古典新書続編本 『玉燭宝典』 (巻九欠) 佑 川三佐男著 ・明徳 出版社)

三 中国における 『玉燭宝典』の学術情報

ここに言 う 『玉燭宝典校本』 (未刊) は筆者 による仮称である。本書 は最近、中国で も トップクラスの著名大学人文学院の碩士学位論文 として提出された ものである。本書 は前 半で、中国古代の重要な月令 に関する著述である晴の杜台卿の 『玉燭宝典』について成書 、 流伝 、価値 、構成等 に捗 り、歴史文献学の視点か ら詳細な整理研究 を展開 している。その 圧巻 は 『玉燭宝典』が引用する百五十余の膨大な量の文献資料 について綿密な統計調査 と 考察 を行 い、さ らに経書等 との比較研究 に及んで いる点である。 この成果 だけで も 『玉燭 宝典』が文献学上いかに高い価値 を有 しているかを知 らしめるのに十分である。 さ らに本 書 は後半で、『玉燭宝典』の本格的体 系的な校勘 を試みて いる。すなわち底本 とす る古逸 叢書本 『玉燭宝典』の本文及び注 について、対校す る主要テキス トを 『書経』『詩経 『礼 記』月令篇等 を含 む十三経注疏 (中華書局本)と日本の 『玉燭宝典注』 (石川三佐男の訳読 に係 る中国古典新書続編本 『玉燭宝典』 を指 して いる)に定め、歴史文献学 の視点か ら丹 念な校勘 を展開 している。碩士論文 の水準 を超 えた労作であると言 って も過言ではない。

ただ し内容 を通覧 した上で二、三、批評めいた ことを述べれ ば、『玉燭宝典』が引用す る察畠の 『月令章句』は、十三経注疏本 『礼記』月令篇 と文言が必ず しも一致 していない。

したがって十三経注疏本の 『礼記』月令篇等 を過大評価 した上での校勘 には多少、過誤が 生ずる可能性がある。また 日本人の 『玉燭宝典注』 を重要視するのであれ ば、 日本人学者 による 『玉燭宝典』の考証 として最高傑作 というべ き俵 田利用の 『玉燭宝典致証』 を校勘 の対象資料 とする ことは不可欠であ り、本書 はそれ を欠 いている ことが惜 しまれ る。さ ら に言えば、中国において近年、敦塩懸泉遠地か ら 『教壇懸泉月令詔候』 という建物 の壁面 に墨書 された考古資料が発見 されている。 また敦燈周辺か らは月令の記事 と緊密に関連す る彩 しい数量の漢筒が出土 している。本書 は こうした新 出資料への配慮 を欠いている点、

今後の課題 として残 るであろう。

とはいえ 『玉燭宝典』の一書は中国では明 ・酒 ころに亡侠 ・流伝 して姿 を消 し、それが 滴末 にな って 日本か ら一巻 を欠 く十一巻本が古逸叢書の一書 として里帰 りする ことになっ て当時大 いに脚光 を浴びたが、その後 は長期 に捗 って さほど重視 されず 、幾たびか新た に 翻刻 される ことがあって も整理はお ろか、めぼ しい研究成果 はほとん ど現れなか った経緯 があることを考慮すれば、本書 に対 しては特 に積極的な評価 を与えてよいであろう。

以上のほか、中国の著名大学 の副教授で、大学院では 「中 日文化交流史」等 を担 当 し、

大学では 「東 アジア民俗 の比較研究」等 を担 当し、すでに 「漢暦 の東伝一 日本 における中 国の歳時文化の影響

J

(『文史知識

』2 0 0 2

年第

1

号)、『古代 日本 にお ける中国年 中行事の受 容』(日本桂書房

・2 0 0 2

年)をは じめ とす る相 当数の著書論文 を発表 して いる学究者か ら、

中国の年中行事史 前史、中国年 中行事の構造、古代 日本 における中国年 中行事 の受容等 に 関わ って、近々一冊の書物 を刊行す る予定であるという情報が寄せ られている0本人の言

4 ‑

(5)

によれ ば今後、 日本のほか、朝鮮半島、ベ トナム、昔の琉球等 も中国の年 中行事の影響 を 受 けてお り、それ らを総合的に調査研究する構想で あるという。いずれの場合にも、その 基本史料 に 『玉燭宝典』が加わる ことは間違 いないであろう。

以上のよ うな状況か ら筆者は今後、前者の 『玉燭宝典校本』の研究成果 と同様、後者の 東 アジア全域 を視野 に入れたグローバルな研究活動 にも注 目していきたいと考えているo

四 近年発見の 『敦煙懸泉月令詔候』に関する学術情報

近年、前漠元始五年 (西暦

5

年)の記録 になる 『詔書四時月令五十候』 (以下 『月令詔候』

M と表記)という考古資料が敦燈甜水井東南三里の地 にある漢代懸泉遠地か ら発見 された。

この考古資料 はもともと一個 の小院形式の建物の泥壁 に墨書 されて いた ものだが、後漢 晩期 に当該県が廃止 された経緯 もあって、発見時 にはほとん ど原形をとどめないほど崩れ 落ち、破損 していた。甘粛省文物考古研究所 による復元作業 を経て元の姿 を現 した 『月令 詔候』 は、正文が右前方か ら左後方 に向か って縦五十候、全九十九行 に分 けて小 さな隷 書体で箇条書きされてあ り、標題 は正文の最後 に二行 に分 けて縦 に大 きく隷書体で書かれ て いた。 標題 には 「使者和 中所督察詔書四時 月令五十候」 とあった。五十候 の候文の配 置内容 は均衡 を欠いてお り、最 も多いのが一ケ月十一候で最 も少ないのが一ケ月一俵であっ た。

・春 :孟春 (正月)十一条、仲春 (二月)五億、季春 (三月)四条、計二十候

・夏 :孟夏 (四月)六候、仲夏 (五月)五候、季夏 (六月)一条、計十二候

・秋 :孟秋 (七月)三傑、仲秋 (八月)三候、季秋 (九月)二条、計八候

・冬 :孟冬 (十月)四儀、仲冬 (十一月)五候、季冬 (十二月)一条、計十傑

『月令詔候』はその冒頭 に 「太皇太后詔日」 とあ り、前漢元始五年五月十四 日に太皇太 后 (王葬の姑)の名義で頒布 された ものである。同類の詔候 はおそ らく全国各地 に頒布 され た ことで あろう。 しか も 『漢書』王葬伝 には、次のような歴史記事が記載 されて いる。

・太皇太后臨朝、大司馬葬乗政、百官総己以聴於葬。

・附順者抜擢、件恨者課滅。

・王舜、王邑為腹心、甑豊、甑耶主撃断、平宴領機事、劉款典文章、孫建為爪牙。

これ らの記事か ら推せ ば、『月令詔僚』が頒布 され た背景 には、成帝 が崩御 し、幼 い哀 帝が即位 した直後の王葬 による権力拡張 と王朝纂奪の野望があった ことは疑 いない。

ちなみ に月令 という一連 の理論形式 と表記形式 を備 えた 行 政 文 書 は、『礼記 』 月令 篇 の事例 に見 られ るよ うに、前漢初期 ころには一定 の影響 をもつよ うにな ってお り、前 漢 中期 ころにはすで にかな り流行 していた。 また伝世的な月令 は本来、『呂氏春秋』孟春紀 や 『礼記』月令孟春の候 に 「立春之 目、天子親率三公九卿諸侯大夫以迎春於東郊」 「天 子 乃 以元 日祈穀於 上帝」 「王布農事 、命 田舎東郊 、皆修封彊、審端径術」 「是 月也、不可以 称兵」 「無変天地之道 、無変地之紀」 とあるよ うに、時の統治者 の政治活動か ら書 き始 め るのが一般である。そのような性格上、月令 は長編 となる ことが通例である。六月の記事 に例 をとってみよ う。

『呂氏春秋』季夏紀 (部分)

・是 月也、令漁師伐較取亀、升亀取壷、乃命虞人人材葦。

一5‑

(6)

・是月也、令四監大夫合百願之秩嚢、以養犠牲O云 々

・是月也、命婦官染采、献敬文章、必以法故、無或差式。云々

・是月也、樹木方盛、乃命虞人入 山行木、無或斬木。不可以興土功、不可以合諸侯、

不可以起兵動衆。無挙大事、以揺蕩干気。無発令而千時、以妨神農之事。

『月令詔候』六月債

・母得興土功。

一 目瞭然、『呂氏春秋』季夏紀 に比 して 『月令詔候』六月候は極端 に少ない。『月令詔候』

が六月の候文 として 「母得興土功」‑候 のみを抽出 した理 由は謎めいている。 これ につ い ては王葬 と劉款の陰陽五行 を迷信敬順す る働 きがあった ことが考 え られ る。

ところで 『月令詔候』の発見 は歴史研究 と文献研究 に対 し、計 り知れない意義 をもた ら している。二、三、具体例 を挙 げてみよ う。

第一は、『月令詔候』五十億 には、歴史 資料の空 白部分 を大 き く補填す る情報が含 まれ て いることである。第二は、『月令詔候』五十候 には、『漢書』王葬伝 に記載の不明瞭な政 策 を一気 に解 明す る情報が含 まれている ことである。第三は、『月令詔候』五十候 は関係 す る旧本の誤 りを校勘 した り、旧解釈の誤 りを訂正 した り、文献資料 を正 しく理解 させ る 情報 を内包 して いることである。第四は、『月令詔候』五十候 の発見 は過去 の学術論争の 結論 に対 し、見逃す ことのできない疑念 を抱かせ る情報が含 まれている ことである。

第一の問題 については、た とえば王葬が義和の官 を立てた ことは史書 に簡略 に記すのみ である。なかには王葬奪漢時の義和 には両義 あるのを誤解 している向きもあった。そのよ うななか、た とえば 『月令詔候』五十候 には 「建義和、立四子」とあって (これは 『尚書』

尭典の所説 を踏襲 した もの)、と こにいう義和は王葬の国師 としての劉款 を暗示するはか、

四方や四季 を分掌す る四子 、すなわち義仲 (香)、義叔 (夏)、和仲 (釈)、和叔 (冬)の意味 を 合意する。 したがってた とえば和叔 につ いて言えば、顔師古が これ を 「義和四子之‑」 と 注記 したのは誤 りであって、実は和叔 と義和四子 は同置の存在 であ り、北方冬季月令 を掌 る存在 と見なけれ ばな らない、等 々。 これ らによって 『月令詔候』五十億 は王葬の事跡 を 知る上で、もはや不可欠の史料 とな った と言 ってよいであろう。

第二の問題 については、『漢書』王葬伝元始五年の候 に次のよ うにある。

・劉款 、陳崇等十二人皆以治明堂、宣教化、封為列侯。

・葬既致太平、北化旬奴、東致海外 、南懐黄支、唯西方未有化。

・又増法五十候、犯者従之西海。徒者以千寓数、民始怨実。

このうち「増法五十候」は何を指すのか ほとん ど知 られていなかった。しか し 『月令詔候』

五十候が発見 された今 日、 「増法五十僚 」が時間的 にも詔候数 日で も 『月令詔候』すなわ ち 「詔書四時月令五十

」を指すことはもはや疑う余地がない。この ことは両者の性質が 「律」

であ り 「法」である ことか らも指摘 できる。

第三の問題 については、『呂氏春秋』仲春紀 に見える語 と関わる。

・是月也、日夜分。雷乃発声、始電O塾轟威動、関戸始出O先雷三 日、奮鐸以令兆民 日、

雷且発声、有不戒容止者、生子不備 、必有凶衆。

この うち 「奮鐸」 の語 につ いて、『礼記 』月令篇 は 「奮木鐸」 に作 る。 仲 春 紀 の高 誘 注 には 「鐸、木鈴也。金 口木舌為木鐸、金舌為金鐸 、所以振告兆民、使知 将 雷 也」 とあ

ー6‑

(7)

る。朱琳の 『礼記訓纂』は王引之説 を引いて次のように指摘 している。 旧本 『北堂書紗』

政 術 部 は 「奮鐸以令」 に作 るoその注 は月令 を引いて亦た 「奮鐸以令兆民」 に作 るO『太 平御覧』 天 部十三 も亦た 「奮鐸」 に作 る。『港南子』時則訓 は 「振鐸」 に作 るO『釈文』

は只だ 「奮鐸」の二字 に音 を注す るだけである。 これ らに由れば、 もともと 「木」字 は無 かった ことが分かる、 と。 したがって今 『月令詔候』は 「奮鐸」 に作 る ことか らす る と、

王引之の説 は非常 に正確であるとい うことが証明できる、云 々。

第四の問題 については、擬古文 『尚書』の作者 につ いて清の摩平、康有為、雀適等 の学 者 は劉款が偽造 した と疑 ったが、後 に多 くの学者 によって劉款偽書説 は否定 され、劉款 は無 実 を勝 ち取 った感が あった。 しか し 『月令詔候』五十候が発見 され るに及び、劉款 偽書説はその嫌疑が十分である ことが改めて浮上 してきた。まず 『月令詔候』の冒頭 に 「太 皇太后詔 日」 とあ り、 ここに見える 「太后」は王葬の姑 を指す ことは前述の通 りである。

いっぽう 『尚書』中には 「元后」の語は五箇所 に見える。すなわち大南謀 に三回、太誓 に 二回に見えるO大南謀 に三回言 う 「元后」、及び太誓 に 「璽聡明、作元后、元后作民父母

と二回言 う 「元后」は、その実、王葬の姑で ある 「太皇太后」 を合意す ることが明 らかで ある。ちなみに大南講は過去 に古文 『尚書』のなかで も偽書中の偽書 と疑われ、泰誓 は今 文 ・古文両篇 ともに偽書 と疑われてきた。今文太誓 については、その出現 はかな り遅 く、

多 くの学者 は早 くか ら劉向、劉款父子がその偽作 に関わっていると論定 していた。近年、

劉起軒 も次 のよ うに指摘 している。 「今文太誓 は漢代 の偽造であると断定す る ことができ る。その神怪内容 に依拠すれ ば、今文太誓は漠代の五行災異説流行の産物である ことは疑 いない。 (中略) これ を要す るに、今文 と擬古文両篇の太誓 は当然、従来尚書のなかで討 論 してきた ことに雑入 させ るべきでない」と。したがって 『月令詔候』五十候の頒布 と 『尚 書』 を襲 う文字の使用状況か ら 『尚書』中の 「元后」の語を連想すれ ば、それ は太皇太后 の歓心を獲得す る こと、及び王葬の漢王朝の権 力を纂奪す る野心が達成 されるよ う常助す るためのもので あった ことが認め られる。 このように劉款 には確か に 『尚書』 を偽造す る 動機があ り、彼 には確かに偽書行為 に関わった という重大嫌疑がある0

『月令詔候』の発見 は以上のほか、敦燈漢簡等 に数見す る不確かな 「肩書」 「大肩書」

の問題 を解明す る情報 も提供 している。その問題 については ここでは割愛する。

五 日本 における 『玉燭宝典』の学術情報

日本 における 『玉燭宝典』の研究 は中国の場合 に比べ、さ らに少ない。そ うしたなかで,

『玉燭宝典』は 日本の公事 にどれ ほど影響 を与えたか という基本的な問題がある。我が国 の公事が中国か ら伝来した 『玉燭宝典』にどれだけ依拠す る ことが多かったか については、

た とえば 『年 中行事秘抄』 に 「玉燭宝典孟夏篇云」 「玉燭宝典仲夏篇云」 「玉燭宝典孟冬篇 云」 とある ことか ら、容易に窺 うことができる。 ここではその間題 を 『本朝 月令』 を通 し て考 えてみたい。『本朝 月令』 につ いて 『群書解題』第五巻 は次のように解説 して いる。

公事すなわち年中の政務 に関す る書。原巻数不明。本朝書籍 目録 には六巻 とあ り、

あるいは四巻か とも注 している。現存の ものは大 きく散逸 していて、その一部 を存す るのみであるが、尊経閣文庫本 には 「本朝月令巻二」 と題 してあるか ら、現存 のもの はそ の第二巻 に相 当す るものか とも思われ る。「書名」本書 は年 中の公事 を説 いてい

一7一

(8)

るので、礼記の月令の篇が四季の時候 を叙 しているところか ら、その名をか りた もの である。 「作者」本朝書籍 目録 に 「公方撰」 とある。他 にそ の的証 は無 いけれ ども、

公方

( 9 3 9 ‑9 7 0

頃)な らば惟宗氏、累代 の明法博士 ・大 判 事 で 、醍 醐 ・朱 雀 ・村 上 ・ 冷泉の四朝 に仕 えた人 という (中略

) 0

「内容」年 中の公事 を説明 した もの、すなわち いわゆる年中行事 の書である。今 は四月よ り六月に至 る部分 しか残 っていな いので、

他の公事の書 のよ うに、臨時の公事 の部分 もあったか どうかは明 らかでな い。古書 に 引用 されている本書の逸文 にも、臨時 に相 当す る記事は見 当た らな い。本書 の説明態 度 は、ただ群籍 を引用 し、それ を して語 らしめるという仕方で、著者 自らの文で説明 した ところは無 い。それゆえほとん ど公事の縁起 を明 らかにするのみで、本朝書籍 目 録にも 「記年中公事本線」 といって いるのである。 この書 によって公事が どういう順 序で運 ばれて行 くか という事 は、まった く知 る ことができないのである。その引用す る群籍 は和漢 を通 じ、内外典 に及び、はなはだ広博であ り、往 々今 日に伝わ らない逸 書の面影 を忍 ばせるので、学界か らはその点でははなはだよろこぼれて いる。「本文」

前田家の尊経閣文庫 に鎌倉時代書写の金沢文庫本 を伝えているほか、宮内庁書陵部 ・ 上野図書館 ・神宮文庫 ・彰考館等 に写本 を蔵するが、世に行われている諸伝本 は、い ずれ も金沢文庫本 にもとづいている。類従本 も勿論その‑である。なお本朝月令 と題 して正月よ り十二月に至る記事 を有す る写本 もあるが、それは本書 とは全然別 の もの である、云々。

以上の 『群書解題』の説明の限 りでは 『玉燭宝典』が我が国の 『本朝月令』 に何 らかの 影響 を与える事実があったか否か について は一切触れていない。それ もそのはずで、実は

『本朝月令』のなかでは漢籍 を引用す る ことは彩 しい数量 に及ぶ けれ ども、『玉燭宝典』

に言及する ことは一切ない。 これ は同類書の 『年 中行事秘抄』の場合 と比較すると、いさ さか不可思議 な ことである。 この間題 につ いて林真木雄氏 は、『本朝 月令』 に引用 され る

『月奮記』 という書物 を緒 口として、近年、剖 目すべ き研究成果 を報告 している。その要

㌔.; 点 は、およそ次の通 りである。

第‑は、『本朝 月令』 中に見える 『月嘗記』 という書物 は 『本朝書籍 目録』帝紀篇の末 尾近 くにその書名を見 出す ことはできるものの、 これは恐 らく 『目録』の編成者な いしは 後の増補者が 『本朝月令』のなか にその書名 を認めて著録 した ものである と推定 される。

第二は、諸書 に散見する 『月書記』の記事 はいったい如何なる典籍か ら引用 された もの であるかを仔細 に検討 してみると、いずれ の記事 も 『本朝月令』か ら孫引きされた蓋然性 が極めて高い。

第三は、『月奮記』の典拠 を検 討 してみる と、 これ も 『本朝 月令』 に所 引された漢籍記 事 同様、『玉燭宝典』に依拠 した ものである ことが明 らかである。『本朝月令』では 『玉燭 宝典』か ら年中行事資料 を引用するに降 し、一切 『玉燭宝典』の書名 を用 いていな いO こ れは明法博士 ・惟宗公方が敢えて秘匿 した ものであると推定 され る。この ことは 『月番記』

の書名が一連の引載記事の冒頭部分ではな く、決 まってなかは どのあま り目につきにくい 部分 に見 られ る こととも関連すると理解 しな ければな らない。

このよ うに見て くると、『本朝 月令』 に引用 され る記事 と 『月膏記』の記事 は、双方 と も同一人によって 『玉燭宝典』か ら適宜抜粋 された と解す るのが最 も自然である。 この こ

8

(9)

とか ら、『月奮記』は 『本朝 月令』 に先行 して存在 した著作物である と見なす ことはでき ず、その実は惟宗公方 によってその書名が偽造 された と考 えなけれ ばな らないであろう。

当時の公方 には明法家 としての広才博覧ぶ りを誇示 しなければな らない不可避の理 由があ ったのか もしれない、云々。

なお 『月奮記』の記事が 『玉燭宝典』 に依拠 して いる ことは、た とえば 『月書記』十二 月の記事 と 『玉燭宝典』巻十二の記事 を併記 してみれば、さらに顕著 になるであろう。

『月番記』十二月の候

・月奮記云o周官。方相氏家熊皮O黄金四 日O玄衣朱裳o執犬揚楯O帥百隷而時傑O 論語郷薫云。郷人傑。孔子朝服而立於降階。注云。傑者。謂駈疫鬼。朝服而立於昨階者 為鬼神。或驚怖富依人。今世打細腰鼓。戴胡公頭。及作金剛力士逐除。即其遺風也。

『玉燭宝典』巻十二 の候 (部分)

・案周官 、方相氏、蒙熊皮 、黄金四 日、玄衣朱裳、執文揚楯、師伯隷而時傑香 、章常 土鼓幽笛 、杜子春注云、土鼓以瓦為匡、以革為両面可撃、又 日、国祭培、則吹幽煩 、撃 土鼓、以息老物、此即腹鼓也 、論語郷薬云、郷人傑 、孔子朝服而立於昨階。注云、傑者 謂駈疫鬼。朝服而立於降階者 、為鬼神或驚怖 、昔依人。今世、民打細腰鼓、戴胡公頭、

及作金剛力士逐除。即其遺風。

以上のほか、林真木雄氏は、南北朝梁代の宗懐 の著作 として著名な 『荊楚歳時記』 につ いて、そ の実 は 『荊楚歳時記』は晴代 の杜公梅 によって大幅に改窺 された と見な されるた め、 これ を歴史資料 として用 いるには厳密な文献批判がなされた上でなけれ ば史料的価値

il、

を持ち得ない ものである と い う 、 注 目すべ き見解 を示 している。事 は 『玉燭宝典』の資 料的価値 を高める ことにも関わ って重大であるO今、煩 を厭わず当該箇所 を引用 して紹介 すれば、次の通 りである。

現行本 『荊楚歳時記』七月十五 日盆会 に所引され る 『孟蘭盆経』は直接 に該経か ら 引用 した と見なす ことはできず、杜公暗 によって 『玉燭宝典』か ら孫 引きされた もの と考 え られ る。それは 『玉燭宝典』 と 『荊楚歳時記』 とを仔細 に比較する ことによっ て得 られ る結論である。すなわち①両者 (玉燭宝典 と荊楚歳時記)の 『孟蘭盆経』の 引用範囲が完全 に一致す る こと。② しか も 『荊楚歳時記』 に引用 され る 『孟蘭盆経』

は 『玉燭宝典』の ものを節略 したかたちで引載 していると見なす ことができる こと。

③右 の① 、② を うらづ ける こととして、『孟蘭盆経』 に於 いては 「十方衆僧於 七月十 五 日」、「亦応奉此孟蘭盆、救度現在父母乃至七世父母」とある部分が、『玉燭宝典

『荊 楚歳時記』では ともに 「至七月十五 日

「亦応奉孟蘭盆供養」 となってお り、 ここに

「至」字、「供養」 とい う語句が両者 に一致 してみ られ る こと。 と りわ け 「供養」 と い う言葉が共通 している ことは看過 し得ない決定的事実 と云えよ う。

六 『玉燭宝典』の巻九の行方

日本 に伝わ る 『玉燭宝典』の諸本 につ いては、た とえば国会図書館所蔵 ・依田利用の 自 筆稿本 『玉燭宝典致証』叙 ・例言の一 に、

・第九巻各本閲逸、灰聞某侯所蔵 、独為完善、而不可得見、以侯博拾君子、有得而補之。

とあるよ うに、各版本 とも巻九が開逸しているというのが常識 となっている。そ こで諸家 こぞ

‑9‑

(10)

って 『玉燭宝典』巻九は今 日に伝わらないという。

ところが平成十六年

( 2 0 0 4

年)八月、筆者が詩経国際学術会議 (中国河北省承徳市) に 向か う途次、北京 に二、三 日滞在 した際、我が 目を疑 うような驚 くべき学術情報 に接 した。

そ の情報資料 には 「日本 に伝わる 『玉燭宝典』 には幾つかの版本があるが、島田翰が著 し た 『古文 旧書考』 には従来知 られている版本 と異なるものが伝 え られていて、 しか も行方 不明であった 『玉燭宝典』巻九が保存 されている。ただ し巻七の一半は欠けている0倍 し いかな 自分 はそ の実物 を実見 してはいな い」 (原漢語) と記 されてあった。筆者 は島 田翰 とい う人物 とそ の著作である 『古文 旧書考』 について全 く情報 を持ち合わせていなか った こともあって、まさに驚天動地の ごとき思 いを体験 したのであった。

帰国後、島田翰の 『古文 旧書考』を検索 してみると、幸 いにも秋 田県立図書館 に収蔵 さ れて いることが分かった。早速、秋 田県立図書館 に出か けて 『古文 旧書考』 を閲覧 し調査 してみると、その序文 には次のように記 されていた。

・玉燭宝典十二巻 ・巻子本

隔志雑家 、玉燭宝典十二巻、著作郎杜台卿撰、唐志 同、新書宋史列之農家、直斎書 録解題収之時令、其余、遂初堂書 目載之、崇文総 目、郡斎読書志、鄭樵通志、皆不 著録、独明陳第世善堂書 目、載足本、蓋 自宋初、如存如亡、不甚顕於世、故太平御 覧、所引用亦己少実、雨後来諸家 目希載 、則其家々亦可知也 、是所 引用諸書 、如月令 章句、察雲所韓、馬国翰所集 、括統詳暗、無遺、而猶且不及見也、其他、皇覧、孝子伝、

漢雑事、緯書、蒼譲、字林之属、皆侠 亡不伝、又漠魂人遺説、屡籍此以存、所謂吉光片 羽、所宜宝重也、蓋本邦古文物之盛、収書之多、晴唐志所載者、無不悉備蔦 、観 之 藤原佐世見在書 目、可徴也。其後、寓内板蕩 、数 百年之中、干支接瞳、典籍随而散侯 、 錐其僅存者 、亦不能無残映、而是書不為兵火所懐、不為風雨漸滅 、幸存干今英、而歴 年之久、伝写謬誤、浸失 旧文、鉄脱紛錯 、殆不可句、不亦歎乎、巻子之制 、毎張烏糸欄 高八寸一分、‑歎八度十九行行二十三字、注撃行二十三四五字、世字民字、避唐謹映 画 、蓋従唐妙所伝録也 、首有玉燭宝典序 、巻端題玉燭宝典第‑巻 、杜氏撰、一行直書 、 次行記正月孟春第一、是書繁氏古逸叢書本 、以影録秘府貞和抄本為藍本 (貞和抄本 、 徳川氏時、佐伯侯毛利高翰所献、妙手極精)、而巻第九、則属開逸、今是書、装成華子、

相英字様紙質、当在八九百年外実、而巻第九尚僚存、却侠巻第七後半、貞和本末巻 、 往 々用武后制字 □□ロロロロ之類 、余巻悉然、今是書、比之於貞和本 、語辞更多、且 準等用新字、畢 数多至十三字 、知其来比御本更在遠也、聞侯爵前田氏、又蔵足本、

惜未見、奈伯噌錐映其守換、独英文学則東京鴻匠英、某所著月令章句、天文礼楽車服 志、女訓、勧学、聖皇篇之属 、皆逸 亡不伝 、而共存干今者 、僅独 断而巳、而亦不完 、深 以為恨 、月令先秦古書 、而章句実与鄭君並駕 、其失伝尤可歎 、唯是書所載 、英文多於 他書、而乗馬之徒、皆不得見 、故其為説往 々悪虚憶裁 、錯乱失次、可議者不紗実、

学者以是為底基、蒐羅寿捜 、雄不能復 旧観 、庶幾乎次叙可考、鳴呼王者謹時令 、急民 事、故小正紀之夏時、月令係 之周公 、然則是豊独好奇捜異 云乎義 (巻第九長不録 、収 在群書鮎勘 中)、

すなわち明治三十七年

( 1 9 0 4

年) に刊行 された島田翰の 『古文 旧書考』 によれば、島田 翰は従来の版本 とは異なる版本の 『玉燭宝典』を見つけた。 この 『玉燭宝典』は巻子本で

一 1 0‑

(11)

文字の書 きようや紙質 を見れ ば、ざっと八、九百年来の ものである ことが分かる。 しか も この 『玉燭宝典』は巻第九を厳然 として保存 してあ り、逆 に巻第七の後半が欠落 している。

従来伝わ っている貞和本の巻末 には、往 々にして則天武后が制字した□□□□□口等の文 辛 (当該文字は活字では容易に表記Lがたいため本論稿では仮りに口の符号を当てておく)が用 いられていて、他 の版本もほとんどそうである。しかしこの 『玉燭宝典』は貞和本 に比べてみ る と、用いてある語辞 はそれよ りもさらに多 く、 しか も全体 を通 して新字 を用 いてお り、そ の数量は十三字 も多 いことか ら、その伝来 は御本 に比べ るとさ らに遠 い ことが分かる。な お巻第九は長文であるので本書 には収録せず、『群書鮎勘』中に収めてある、 と言 う。

以上の記載か ら、『玉燭宝典』巻九は残念なが ら 『古文 旧書考』 には収録 されていな い ことが判明 した。そ こで筆者は、 こん どは島田翰の 『群書鮎勘』を捜索する作業 に入 るこ ととした。 この間、可能性があ りそ うな図書館 ・資料館等 々、あ りとあ らゆる方面 に捜索 の範囲を広 げた。 こうした捜索の途次、島田翰 には 『古文 旧書考』の附録 として刊行 され た 『訪余録』 という書物がある ことが浮上 してきた。そ こで東京の二松学舎大学図書館 に 出かけ、島田翰の 『訪余録』を実見 してみる と、次のようにあった。

・訪余録

刻宋本寒 山詩集序

蘇 峰徳富氏、既刻我古文 旧書致、又将真幸遺経、訪 日於予、予謂之 日、将以表章経 本 、則如古文 尚書請訓伝 、大唐書儀及道蔵 申請書、皆卓卓可伝者、惟其巻秩浩潮、

未易鐘梓 耳、震発 旧本之異 同、参弁侠存古侠 之妄改、是亦一道 、然 巳有我群書窯占勘、

在如玉燭宝典巻 九、収在英 中英、無 己、則有‑於斯、予昔奉青 山相公 、命編校 内府之 書、旧紗 旧刻 、皆有校本侠篇、云々、

明治三十八年太歳乙巳夏四月 東京島田翰序 すなわち 『古文 旧書考』の記載 と同様、その附録である 『訪余録』にも、島田翰 には 『群 書鮎勘』なる著作があって、『玉燭宝典』の巻九の ごときものも、その中に収録 してある、

と記載 されて いる。 しか も島田翰 はさ らに次 のよ うに言 う。 「私のよ うな者がいなか った ら、 このよ うに稀親資料 を一つにまとめることができたであろうか。私は音、青山相公の もとに奉職 した ことがある。その折、命ぜ られて内府の書物、旧紗 ・旧刻 を編纂 し校閲 し た ことがあるが、そ こには校本侠貨の類が皆備わ っていた、云 々」 と。 この記載か らす る と当時、島田翰は青山相公なる御仁の ところか ら、巻九が備わ っている 『玉燭宝典』の情 報 を入手 した らしい。 「無己、則有‑於斯」 (己無 くんば、斯れ を一にす る こと有 らんや)

と言 うのは、当時、書誌学者 としての島田翰の絶頂期 を物語るものであろう。

ちなみに 『古文 旧書考』を通覧す ると、次のような表現があることに気がつ く。

・起藁於 巳亥之冬、至今五菜卯 、越五閏年 、始克古文 旧書考、及群書鮎勘二書 、云 々、

・〜在群書鮎勘、

・〜詳在於群書鮎勘、

・考具於 旧砂本牧第二集

これ らの限 りで は、『群書窯占勘』は確 かに刊行 されたかのよ うである。 ところが平成十 六年

( 2 0 0 4

年)八月以来の半年余、筆者 はあ らゆる手だて を講 じ、また図書館 司書や専門

‑‑ll‑

(12)

家等の協力を得 るな どして島田翰の 『群書鮎勘』を捜索 したが、その手がか りはほとん ど 無 い状態であった。その途次の九月末、一つ気 になる情報 に出 くわ した。それ は徳富蘇峰 記念館 に勤務 される高野静子 さんの著作 『続 蘇峰 とその時代‑小伝島田翰他‑』のなか

kE

にあった。すなわち 『続 蘇峰 とその時代一小伝島田翰他‑』の 「小伝 鬼才の書誌学者 島田翰」中に収録 されている、翰が当時の中国の著名碩学 ・王国経 に宛てた書翰のなかに、

次のよ うに見える。

・自分 は古文 旧書考、群書鮎勘の二書を刻 し、友人の助けを以て 『古文 旧書考』を印刷し 宣ところ、なんと先生 (王国維)は曽文正が先生に贈ったところの真読書人の四字を私に贈 られたことは、思ってもいないことでした。

つま りこの翰 自身の書翰 に 「自分 は古文 旧書考、群書窯占勘の二書 を刻 し、友人の助 けを 以て 『古文 旧書考』 を印刷 した云 々」 とある限 りでは、『古文 旧書考』は首尾 よ く刊行 さ れ、国内外 の識者か ら高 く評価 された ことは間違 いないが、 「群書鮎勘」のほうは原稿 は 完成 したが、経済的理 由等 で実際は刊行 されなかった ことを示 しているよ うに読み取れる のであるO仮 りに明治三十年代 当時、 「群書難勘」が実際 に刊行 された とすれ ば、島田翰 はある意味では時代の寵児であった ことか ら、明治期 の出版物記録書 にその書名を留める ことは必至である考え られるO ところが現実 にはそ の類の リス トには 「群書窯占勘」 は全 く 見 あた らない。 この ことは即、 「群書鮎勘」 は結局未刊 とな った ことを推測 させ る残念な 状況証拠 となるのである。

そ こで筆者は次 のような仮説を立ててみた。すなわち 『玉燭宝典』の巻九を収録す る島 田翰の 「群書鮎勘」は、原稿段階では完成 して いたが経済的理 由等で実際は刊行 されなか ったOただ し出版直前 まで仕上がっていた島田翰の 「群書窯占勘」の原稿資料は、戦災等で 消失 していない限 り、 日本の どこかに収蔵 されているはずだ、と。さ らに言えば、その可 能性が高いところは自ずか ら絞 り込む ことも可能である。そ こで筆者は最 も可能性のあ り そ うな機関に対 し、 「群書難勘」 (未刊?)資料 に関 して次のよ うな捜索依頼 を試みたO以 下 の資料は平成十六年九月に、島田翰の事跡 に詳 しい高野静子 さんに宛てた筆者の 「嶋田 翰の 『群書難勘』 (未刊?)資料 に関する捜索依頼文」である。

高野 さま、こんにちは。先般 は種々 ご教示賜 りまして渦 にあ りが とうございました。

そ の折のお言葉に甘え、以下の ことについて改めて捜索方お願 いする次第ですO (捜索対象)依頼者石川の最終的捜索対象は明治三十八年 に民友社か ら刊行 された嶋 田翰の 『古文 旧書考』の玉燭宝典十二巻巻子本 に関する書誌学的解説記事末尾 に 「登 第九長不録、収奪群書鮎勘 中」 と注記 されている 『玉燭宝典』巻九の資料、または情 報です。 この資料 を見つける ことは関係機関の ご協力を得なければとうてい達成でき そ うにあ りません。

(状況) 「玉燭宝典」の巻 九が収録 されているはずの 「群書鮎勘」につ いては、嶋 田 翰の 『古文 旧書考』古文 旧書考発凡の条 に、「起藁於 巳亥之冬、至今姦突卯、越五閏年、

始克古文 旧書考 、及群書鮎勘二書、云々」と見えます。しかしこれまで明治 ・大正 ・昭和期 の出版物を検索した限りでは 「群書鮎勘」 に関す る手がか りは全 くあ りません。

そのよ うななかで最近 、高野 さまの ご高著 『続 蘇峰 とその時代』 (一小伝 鬼才 の書誌学者嶋 田翰‑) 中に、翰が中国の学者 に宛てた手紙 を引いた一条があ り、そ こ

‑1 2‑

(13)

には 「自分は古文 旧書考 、群書鮎勘の二書 を刻 し、友人の助 けを以て 『古文 旧書考』̲

を印刷 した ところ、なん と先生 (王国維)は曽文正が先生に贈 った ところの真読書人 の四字 を私 に贈 られた ことは、思 って もいな い ことで した」 とあるのを目にす る機会 を得 ました。

これによると 『古文 旧書考』は首尾 よ く刊行 され国内外か ら永 く名声を得 るところと なったが、いっぽうの 「群書鮎勘」は未刊のままとなったよ うに読み取れ ます。仮 りに そ うであれ ば出版直前段階にあった 「群書鮎勘」はその後 どのよ うな運命 を辿 ったの で しょうか。そ こで‑積の望み として次のよ うな思いつきを得 ました。

高野 さまの ご著書によ ります と、徳富蘇峰は書籍蒐集質量 とも絶大であ り嶋田翰の 佳 き理解者であった。明治三十六年 には蘇峰が嶋田翰の蔵書

( 6 7 0

2 3 7

本) を大野酒 竹 の斡旋で購入 し、 これが蘇峰の蔵書、成貴堂文庫の基礎の一部となったとあります。こ れらのこと及び蘇峰 と嶋田翰 との関係か ら 「群書鮎勘」 に関する資料は貴記念館 または お茶 の水図書館 「成算堂文庫」の現在未整理と伺う資料のなかに含まれている可能性があ るように思われます。

(依頼)ついて は渦 にお手数 をおか け しますが、員記念館 において 「群書鮎勘」 に 関す る資料 また情報が あ りました ら、是非 ともご教示 いただきた く、 ここに書面を以 て謹んでお願 いす る次第です。なお同趣の依頼はお茶の水 図書館 「成算堂文庫」のほう にも行ったことを申し添えます。 早々。

以上の捜索依頼 に対 し、高野 さん及び徳富蘇峰記念館か らくだんの資料は収蔵 していな い旨の ご返事 を頂戴 した。その間、電話による調査ではあるが、金沢文庫 (前身は称名寺。

称名寺は国宝級和漢資料 を豊富 に収蔵 し、それは後 に金沢文庫 に受継がれ ることになる。

島田翰 はかつて称名寺の資料 を自由に閲覧で きる立場 にあった経緯がある) にもくだんの 資料が収蔵 されていないか どうか を尋ねた ことが ある。その際の回答では、当該資料 を収 蔵 していた形跡は一切ないとの ことであったO

以上の捜索経緯か ら、『玉燭宝典』の巻九の行方 を巡 っては大 き く四つの可能性が ある ように思われる。

第一は、島田翰の 『訪余録』に 「巳有我群書鮎勘、在如玉燭宝典巻九、収在英中英、無己、

則有‑於斯、予昔奉青 山相公、命編校内府之書、旧紗 旧刻、皆有校本侠篇、云々」とある記載 に その存在の可能性を認めることができる。すなわち巻九を完備した 『玉燭宝典』は明治のころ「青 山相公」なる御仁の もとに収蔵 されていて、現在 もそれが どこかに受 け継がれて いる可能

L61 性がある。

第二 は、『玉燭宝典』の巻 九を収録 した島 田翰 の 「群書鮎勘」 (未刊?)の資料 は、明治 三十六年 に徳富蘇峰が嶋田翰の蔵書

( 6 7 0

2 3 7

本) を大野酒竹の斡旋で購入 し、 これが蘇 峰の蔵書、成算堂文庫の基礎 の一部となった経緯があることから、お茶の水図書館 「成筆堂文 庫」の現在未整理状態であるという資料群のなかに埋もれている可能性がある。

第三 は、 もと「青 山相公」な る御仁収蔵 の巻九を完備する 『玉燭宝典』 (今是書 、装成巻 子、相英字様紙質、当在八九百年外英、而巻第九尚僚存、却侠巻第七後半、〜是書、比之於貞 和本、語辞更多、且通篇用新字、其数多至十三字)と 『玉燭宝典』の巻九を収録す る島田翰 の 「群書鮎勘」 (未刊?)資料は、 どち らか一方が価値等不祥のまま 日本の どこかの個 人な

1 3

(14)

い Lは機関等 に眠って いる可能性がある。

第四は、 もと「青山相公」な る御仁収蔵の巻 九を完備する 『玉燭宝典 』 (今是書 、装成巻 子、相其字様紙質、当在八九百年外実、而巻第九尚僚存、却侠巻第七後半、〜是書、比之於貞 和本、語辞更多、且通篇用新字、其数多至十三字)と 『玉燭宝典』の巻九を収録する島田翰 の 「群書鮎勘」 (未刊?)資料 は、 ともに第二次世界大戦の被災等 を受 けて灰壇 に帰 した可 能性がある。

仮 りに第一、第二、第三の可能性 について‑練で も望みがあ り、近 い将来 きっと発見す ることができれ ば、それは世紀的発見事であって、彼我の歳時記や年 中行事の研究 にどれ だけ多 くの好影響 を及 ぼすか計 り知れないものがある.その意味で も筆者は、第‑、第二、

第三の可能性が現在なお存続 して いる ことを信 じて疑わず、今後 も関係者関係機関の協力 を得つつ、力の及ぶ限 り両資料の捜索 に努めていきたいと考 えている0

おわ Uに

以上のよ うに見て くると、『玉燭宝典』 に係る学問のあ りよ うは、従 来 のよ うに 日本 と か中国等 に閉ざした形や個別的に進めるのではな く、今後 は中 日両国 (その実は朝鮮半島、

ベ トナム等の地域 も関わる) による国際的総合研究 を構築する必要がある ことが歴然 とす るであろう。その時機 もそ ろそ ろ熟 したよ うに思われる。

すなわち、今後の 『玉燭宝典』の望 ましい学術研究 のあ りよ うは、 日本 にお ける旧加賀 藩前田侯の尊経閣文庫所蔵 『玉燭宝典』巻子本 (暮九欠)、宮内庁書陵部蔵 『玉燭宝典』(写 本 ・巻九欠)、専修大学所蔵 『玉燭宝典』 (写本 ・巻九欠)、国会図書館所蔵 ・俵 田利用 の 自筆稿本 『玉燭宝典致証』(暮九欠)、東洋文庫所蔵 ・依 田利用の 自筆稿本 『玉燭宝典致証』

(暮九欠)、国立公文書館蔵 (旧蔵者 ・昌平貴学 問所 ・文化二年 ・写本、旧蔵者 ・水野忠 央 ・江戸 ・写本等 四本) の 『玉燭宝典』 (巻九欠)、東北大学所蔵 『玉燭宝典』 (残八巻 、 三冊本)、拙著 ・中国古典新書続編 『玉燭宝典』 (暮九欠)、林真木雄氏 の 『本朝 月令』 に 関す る研究等 と,中国 にお ける 『玉燭宝典校本』 (仮称)及び年 中行事 の関連研 究 、考古 出土資料 『詔書四時月令五十候』、同敦燈漢簡等 を融合 させ、その厳密な校本策定 と正確 な語釈や訳注や索 引等 を 日中の学者間で協力 し合 って作成 し、全世界が共有活用 できるデ ータベース化 を図る ことに係 っていると言 ってよいであろうO

この遠大な国際的課題 を実現 させ るためにも筆者 は、 もと「青山相公」な る御仁が収蔵 して いた巻 九を完備す る 『玉燭宝典 』巻子本 (全十二巻)、及び 『玉燭宝典』 の巻九 を収 録す る島田翰の 「群書窯占勘」 (未刊?)資料 を、何 として も探 し求めたい。

【註】

(1)以下第‑項 、第二項 の情報 は拙著 ・中国古典新書続編 『玉燭宝典』(明徳 出版社) による。第三項 の情報 は筆者の 『玉燭宝典』(明徳 出版社)が当事者たちに活用 され ている学縁 によって得た得難 い情報である。

(2

)第四項の情報は中国文物研究所 ・甘粛省文物考古研究所編 『敦燈解泉月令詔候』(中 華書局

・2 0 01

年)、及び中国文物研究所胡平生 ・甘粛省文物考古研究所張徳芳編撰 『敦 燈,%泉漢漢釈粋』 (上海古籍 出版社

・2 001

年) によ る0両著 は近著 『長江 流 域 出土

H ‑

(15)

簡憤与研 究』 (湖北教育出版社

・2 0 0 4

年) と併せ、著者胡平生氏よ り提供 を受 けた。

(3

)林真木雄氏 の

『本朝 月令』所引の月啓記 につ いて

」(

『国学院雑誌』第

91

1

号 ・ 平成

1 0

年) による。

( 4)

林真木雄氏 の

『本朝月令』の典拠 について

」(

『神道宗教』第

1 6 6

号 ・平成9年) に よる。

(5

)高野静子著 『続 蘇峰 とその時代一小伝島田翰他‑』(徳富蘇峰記念館 ・平成

1 4

年) による。なお島田翰の書誌学者 としての生涯 、及び稀親書 に対す る執念 には鬼気迫る ものがある。本書 についてはその視点か らも、広 く講読 を勧めたい。

(6)

『玉燭宝典』の巻九の侠 文が唐 の徐堅の 『初学記』巻第 四、歳時部下 に伝わ って い る。 ここでの引用は割愛す る。

(7)本情報 は国立公文書館 の有友至氏よ り得た。

(秋 田大学教授 ・本会会長)

1 iIl

参照

関連したドキュメント

 当図書室は、専門図書館として数学、応用数学、計算機科学、理論物理学の分野の文

Matsui 2006, Text D)が Ch/U 7214

十条冨士塚 附 石造物 有形民俗文化財 ― 平成3年11月11日 浮間村黒田家文書 有形文化財 古 文 書 平成4年3月11日 瀧野川村芦川家文書 有形文化財 古

東京都公文書館所蔵「地方官会議々決書並筆記  

※証明書のご利用は、証明書取得時に Windows ログオンを行っていた Windows アカウントでのみ 可能となります。それ以外の

ダウンロードした書類は、 「MSP ゴシック、11ポイント」で記入で きるようになっています。字数制限がある書類は枠を広げず入力してく

とされている︒ところで︑医師法二 0