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Academic year: 2021

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Title

ラインホールド・ニーバーの教会論

Author(s)

高橋, 義文

Citation

聖学院大学総合研究所紀要, No.45

URL

http://serve.seigakuin-univ.ac.jp/reps/modules/xoonips/detail.php?item_i d=2025

Rights

聖学院学術情報発信システム : SERVE

SEigakuin Repository for academic archiVE

(2)

ラインホールド・ニーバーの教会論

髙 橋 義 文

はじめに

ド・い︒は教会論がない︑ニーバーは教会を重んじていない︑ニーバーの神学で教会は本質的な場を占めていない等々の見方が相当程度広がっている状況があるからである︒そのことをとくに声高に主張する近年の代表者は何と言っても︑

年︑ト・演﹃沿

Stanley Hauer was

ス︵る︒は︑い︑

S

・ハ おいて︑端的に次のように主張した︒ 1

ニーバーは︑倫理学でも神学でも︑教会の説明をしていない︒ニーバーの著作から教会が欠如していることへの標準的な説明は︑ニーバーの経済的・政治的事柄への集中がかれに教会論を展開することを許さなかったということである︒この説明は︑ニーバーの著作における教会の欠如が偶然的な見落としであるように思

(3)

る︒し︑は︑る︒⁝⁝ニーバーが教会をキリスト教が時代を通して存在するための社会学的必要性と見なしていることは明らかである︒しかし︑かれは教会を倫理的認識論的必然性とは見なしていない︒かれの神学的視点に照らせば︑かは︑が︑かった

2

は︑る﹁﹂︵

absence of the

churc

h

︶と表現し︑﹁かれは︑その神学においてこの教会に位置を与えなかった﹂と断じた 3

た︒ ハワーワスは同様の主張をすでに二十年前からしているが︑この種の指摘はじつはそれよりさらにはるか以前からな 4

D

が︑は︑

D. B. Rober tson B

ン︵ば︑

J

遡るという

C John C. Bennett

ト︵ しかし︑ニーバー解釈として本格的神学的にそれに触れたのは︑おそらく 5

W

a critical omission

を﹁﹂︵ ニーバーの社会的な説明に︑キリストにおける贖罪のわざを継続する神の器として新約聖書が提示する教会がないとし 最初であろう︒かれは︑一九五六年︑ニーバーへの献呈論文集でニーバーの人間論を論じたが︑そこで︑救いに関する

W illiam John W olf J

・ウォルフ︵︶が

そらくこのウォルフの主張をベースになされてきたように思われる は︑ 6

説明をしたことはなかったし︑いわゆる教義学的教会論を展開したこともなかった しかし︑以上のような見方は正確なニーバー理解とは言い難い︒確かに︑ニーバーが教会について本格的に組織的な 7

︒しかしだからと言って︑ニーバー 8

(4)

い︒点︑た︒かれは︑ニーバーの著書にはすでに教会についての重要な言及がある程度あることを認めており︑ニーバーの﹁思想におけるこの未開拓な分野を誇張することは不公平であろう﹂と冷静にかれの指摘に留保をつけていたからである

野﹂であったとまでは言いえても に︑は︑で﹁ ところが︑事実はウォルフの留保をはるかに超えて︑ニーバーは教会について相当量語り論じているのである︒確か 9

み︑ ニーバーが教会を重んじていないという理解に問題を覚えたロバートソンは︑散在するニーバーの教会に関する代表 い︒ そ﹁り︑ り︑ば︑の﹁か﹁か︑ ︑生涯に書いた教会に関する言及はほとんど無数に上るのみならず︑神学的にも踏み 10

かに高く積極的に尊重しているのである に教会に多大な注目を寄せている︒また︑かれは︑この機関﹇教会﹈を︑かれの評価が表面上認められているよりはる る︒は︑に︑れ﹇ー﹈は︑ が︑は︑れ︑ た︒は︑ 11

十分な妥当性があると考える︒筆者は︑かつて︑ 稿は︑て︑て﹁が︑ ﹂︒ 12

ら︑は﹁し﹁

Paul T illich P

・ティリッヒ︵︶がニーバーの認識論を﹁隠された認識

explicit

的︵る︒が︑ 13

(5)

い︒は︑

R

H Ronald

ン︵

H. Stone

︶と

B

Bob E. Patterson E

・パターソン︵︶である

その特徴を追っていくことにしたい︒ にニーバーの教会への言及があまり知られていないと思われるゆえに︑以下︑ニーバー自身の言葉を多く引用しながら バー解釈の誤解を解きほぐすとともに︑ニーバーの思想の基盤の一端をあらためて確認することである︒その際︑一般 本稿の目的は︑ニーバーの教会論の特質とその豊かさを包括的に明らかにし︑それによってハワーワスらによるニー じていて興味深いが︑残念ながらどちらも簡潔な概要の域を出るものではない︒ ︒とくに後者はニーバーの教会論を社会秩序との関係で論 14

一 教会についてのニーバーの基本概念

は︑て︑バー自身の﹁解釈と批判への返答﹂において︑次のように述べた︒

教会に対するわたしの姿勢に関するかれ﹇ウォルフ﹈の批判を︑何の弁明もしないで受け入れるわけにはう︒は︑る︒は︑ず︑に︑る︒は︑と︑上げる神の憐れみの言葉とにいつも身を開いている歴史の中の際立った場所である︒このような見方が大き

(6)

くなりつつある認識であるという限りにおいて︑ウォルフ教授の批判は正しい︒しかし︑宗教共同体の思い上がりや型にはまった品位なき律法主義や宗教的狂信によって︑いかに多くの新しい悪がこの世に入り込んでいるかを見るとき︑わたしが心配するのは︑教会へのますます高まるわたしの評価がわたしを裏切って自己満足の手にわたすことがないようにということである

15

これは︑教会が軽視されているとのウォルフを含むそれ以前からの批判に対して︑ニーバー自身がそれにじかに応じる︒る︒ニーバーはここで︑ウォルフに配慮しながらも本質的にはその批判が当たらないと明言するとともに︑自身が教会る︒は︑体﹂︑﹁神の託宣﹂︑﹁裁きの言葉﹂と﹁憐れみの言葉﹂︑﹁歴史の中の際立った場所﹂といった表現とともに︑将来の教会の﹁自己満足﹂に陥る﹁心配﹂の表明が見られるが︑それらはニーバーの教会概念の重要な局面を構成している要素を如実に示しているからである︒すなわち︑教会の源泉と機能とその現実である︒ニーバーの教会論を明らかにするに当たって︑まずはそれらの点から検討してみよう︒

1

.教会の源泉 ニーバーは︑教会を表すのに多様な用語や表現を用いている︒﹁教会﹂︵ニーバーは一九三〇年代半ば以降︑自らの考

Chur ch

使ば︑﹂︑﹂︑望にあふれた信者︵

hopeful believers

︶の共同体﹂︑﹁悔い改めた信者︵

contrite believers

︶の共同体﹂︑﹁人を救う残りの

(7)

﹂︵

saving remnant

︶︑﹂︑る︒し︑も多く使用したのは︑﹁恵みの共同体﹂

community of grace

︶という表現である︒それは︑一九四〇代に初めて見られ︑それ以降頻繁に使われるようになった︒恵みの共同体とはニーバーにとってどのようなものであろうか︒それによって何を示そうとしたのだろうか︒それは何よりも︑教会が単なる人間的社会的共同体ではないということである︒ニーバーにとって︑教会はまずもって︑他のさまざまな共同体とは異なる︑神の恵みに端を発する特別な共同体である︒その恵みとは言いかえれば啓示であり︑具体的には十字架と復活であり︑さらにはそれを受け止める出会いと悔い改めと信仰である︒教会が啓示に基づくものであることを︑ニーバーは次のように述べている︒

が︑て︑力︵

a for ce of

destiny

る︒は︑え﹁としても︑永遠の倫理的真理を提示するために存在しているのではない︒キリストにおける真理は思弁的に確立されうるものではない︒それは︑個人であれ集団であれ︑キリストの仲保によって示された模範に従って神と出会うときにのみ確立されるのである

16

ら﹇で︑る︒神は︑﹁いろいろな時に︑いろいろな方法で﹂︵ヘブル人への手紙一・一︶語られる︒そして︑啓示は︑歴史の過程をとおして︑﹁この終りの時には︑御子によって︑わたしたちに語られた﹂︵ヘブル一・二︶という頂点にむかって動いている︒この啓示を信仰によって受け入れることは︑そこにおいて啓示が生起する共同体

(8)

の根源的な分岐に関わることである︒それは特定の民や民族であることではなくなる︒啓示は︑信仰によっる﹁﹂︵六・出すのである

17

すなわち︑教会は啓示にその根拠を置くゆえに︑それは単なる倫理的真理を提示するための機関や特定の社会的民族的集団に還元できるものではない︒さらにこの文章には︑ニーバーの啓示理解の重要な特徴も表れている︒ニーバーにとって︑啓示は神の自己開示であるが︑それは︑歴史に深く巻き込まれて歴史の中で生起するものである︒ニーバーが聖書の宗教を﹁啓示宗教﹂としてとらえてきたことは自明のことである︒それはリベラルな神学思潮の中に身を置いていた若い時から一貫して変わらなかったことである︒ニーバーは︑伝統的教義学の分類に沿って︑一般啓が︑は﹁る︒は︑も︑の人格性に対して人間が徐々に見出してきた適切な定義の記録﹂でもなく︑むしろ﹁その中に神の自己開示を信仰が見分ける歴史における出来事の記録である︒信仰が見分けるものとは⁝⁝神による人間の出会いを明らかにする神の行為である

のである り︑て﹁ ﹂︒この神の自己開示の究極はイエス・キリストの出来事である︒﹁キリストの生涯と死は⁝⁝神の人格性の究極 18

り︑ ニーバーによれば︑このキリストにおける啓示に教会はその存在の根拠を置いているのである︒すなわち︑﹁教会は︑ 19

棄である十字架﹂と﹁自己再生である復活﹂を含むものである 啓示の具体的な頂点とみなす︒﹁十字架の死と復活という頂点は︑一連の啓示全体の頂点﹂であり︑それらは︑﹁自己放 ﹂︒際︑は︑ 20

︒教会との関連でニーバーは特に復活における啓示を重 21

(9)

要なことと考え︑きわめて明瞭に次のように断言する︒

は︑⁝⁝⁝⁝し︑う︒は︑に︑る︒⁝⁝このようにして教会は︑キリストの真の意味を徐々に悟るようになったということを基礎にしているのではない︒それは復活において真のキリストを認めるという奇跡を基礎として建てられているのである

22

は︑る︒は︑ご自身の受難を予告され始めたイエスをいさめるペテロに︑イエスが﹁サタンよ︑引き下がれ﹂と応じられたマタイ福音書のエピソード︵マタイ一六・一七︱二三︶について︑イエスを主と認めることが教会の決定的な特徴であることをこう述べている︒

この対立は︑各時代を通じてキリスト教会のうちに存在する究極的な視点と人間的視点の混合の正確な象徴的描写である︒イエスを主と認める共同体である限り︑それは新しい共同体であり︑他のあらゆる人間的共同体と異なるものである

23

教会の源泉に関する以上のニーバーの立場は︑いわば教会を啓示論的に基礎づける作業とも言えるであろう︒で︑る︒ば︑

(10)

は︑は︑

る︒し︑ る︒て︑ 24

て︑え︑は︑ ﹂︒で︑は︑ 25

に認識しているのである 判であるからである︒しかし︑ニーバーは実際には︑言及は少ないものの︑枢要なポイントで聖霊の重要な役割を明白 かなければならない︒ニーバーに︑教会論と並んで聖霊論も欠落しているというのがしばしばなされるニーバーへの批 26

会を聖霊論的に基礎づける方向が示唆されていると見ることもできるであろう︒ 仰者によって構成され︑聖霊によって維持される特別な共同体なのである︒このような理解は︑教義学的に言えば︑教 こうして︑ニーバーにとって︑教会は︑神の啓示とりわけキリストの復活に根差し︑それを受け止める悔い改めた信 27

2

.教会の機能と現実

1

︶教会の機能

神の啓示とりわけキリストの復活に基づき︑悔い改めた信仰者より成る教会の主たる機能を︑ニーバーはどのようにか︒ば︑⁝⁝﹃る︒は︑人間の傲慢を打ち破る神の裁きの言葉と︑失意の淵にある人々を引き上げる神の憐れみの言葉とにいつも身を開い

いて︑ニーバーは︑次のように述べている︒ ﹂︒ち︑は︑る︒ 28

(11)

教会は︑人間の社会にあって︑人間の野望に対する審判として立つ永遠の神の言葉によって人々が困惑さる︒し︑は︑は︑六・る︒は︑廃棄されることなく︑超越させられる︒ここで︑人間は罪人にとどまるとはいえ︑人間の罪は神の憐れみによって克服される︒いかなる教会も︑すべての人間の生がそのなかにある部分的で有限な歴史から人間を吊い︒し︑め︑の国に入るという解釈は︑誘惑であり︑妄想である︒教会は神の国ではない︒教会は︑神の国が神の言葉をとおしてすべての人間の営為に影響を与え︑神の恩寵が神の審判を受け入れた人々に用意される︑人間社会における特別な場所である

29

ニーバーにとって︑教会は︑人間の社会にある﹁特別な場所﹂である︒それは︑罪の人間とその集団にとって裁きのに︑る︒会︑同体とは明瞭に区別される機能をもった共同体である︒裁きと憐れみについて説教することは教会の主要な役割であるが︑て︑い︒は︑びとと罪との間を真に分離する場所である︒それはたとえ教会の中にあったとしても人間自身が決して創り出すことのできない分離である

に︑る﹃ て︑は︑ば︑ ﹂︒ 30

(12)

saving remnant

︶﹂

会との関係に関するニーバーの理解につながるものである︒ 公的集団にまで︑悔い改めと再生を呼び掛けることに教会の使命があると考えるのである︒これは︑後述する教会と社 は︑を︑い︒々﹂ 31

2

︶教会の現実

ニーバーは教会の機能を以上のように捉えていたが︑それは現実の教会がその機能を健全に果たしてきたとは考えてはいなかった︒むしろ歴史的教会に関してニーバーはその問題と腐敗の状況を多く指摘した︒その際︑ニーバーは次のように︑伝統的な﹁見える教会﹂と﹁見えない教会﹂の区別を受容し︑そこから教会の現実に目を向けている︒

教会は︑自らの自尊心すなわち独善においてまったく揺るぎない者および自己強化の目的のために宗教の形態を利用する者と︑﹁砕けた魂と悔いた心﹂﹇詩篇五一・一七﹈をもって生きる真のクリスチャンとから成る奇妙な混合体である︒われわれが︑真の︑しかし見えない教会を構成しているこの後者のグループに所属しているかどうかは︑神をおいて誰も知ることができない

32

に︑は︑

し︑ 33

ではない︒教会もまたこの罪をまぬかれることはできなかった︒ 極めて鋭いものであった︒ニーバーによれば︑このような集団の罪に巻きまれ腐敗を繰り返したのは︑世俗の集団だけ ﹂とし︑その現象を歴史上のさまざまな集団に見ているが︑いわば﹁罪の地形学﹂とでもいうべきその描写は広範で 34

(13)

国家と同様︑教会も集団的利己主義の手段となりえた︒すべての人は真理に達しえないという預言者的な真理を含むあらゆる真理は罪深い傲慢の僕にさせられる可能性がある

35

こうして︑ニーバーは中世教会のさまざまな事象︑歴史的教会を神の国と事実上同一視したこと︑とりわけカトリッ姿た︒は︑

ある る︒ 否や︑プロテスタントもまた自己中心の罪の中に失われるのである︒また万人司祭というプロテスタントの教理が︑個 が︑ い︒ば︑で︑ 方︑ 36

さにその罪の手段として用いられうるのである か︑い︒え︑ こうして︑ニーバーにとって︑カトリックもプロテスタントもともに傲慢の罪から自由ではないのである︒それどこ ﹂︒ 37

年︑ もなった︒ だ︒こうしたニーバーの教会に対する厳しい姿勢もまた︑ニーバーが教会を評価していないとの批判につながる理由と 以上のゆえに︑ニーバーは︑宗教的な傲慢に対してきわめて厳しい批判を浴びせ︑それはキリスト教会自身にも及ん ﹂︒ 38

Patrick Granfield P

ド︵の﹁

(14)

いての社会的説明で︑あなたは教会の役割を十分に強調していないという人たちがいる﹂との指摘に対して︑こう応じている︒

わたしは自分の知っているカトリック︑プロテスタント双方の教会の歴史的な﹇腐敗の﹈現実の影響を受けてきた︒⁝⁝わたしはまたセクト的プロテスタンティズムの影響も受けてきたが︑同時にとくに︑世俗的な政治学者の友人たちの教会に対する批判的な態度の影響も受けてきた︒かれらは︑宗教的共同体を腐敗に巻き込まれているものとのみ見ていた

39

ここで︑ニーバーは︑教会の腐敗についての自らの立場が世俗的な政治学者の友人たちの影響だと述べているが︑正確には︑そうした友人たちの教会批判がニーバー自身が持っている批判と共通したということであろう︒に︑た︒て︑た︒い︒しかし︑それはニーバーが教会の本来の機能が完全に失われ︑その価値がなくなったと見ていたということではない︒た︒て︑

M

Max L

ス︵

L. Stackhouse

は︑⁝⁝により大きな潜在力があると見ていたことの表れである﹂と述べているが

︑きわめて適切で重要な指摘である︒ 40

参照

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