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共同感情と間主観性理論 : マックス・シェーラーにおける他我知覚の四区分 利用統計を見る

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Academic year: 2021

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Title

共同感情と間主観性理論 : マックシュ・シェーラーにおける 他我知覚の四区分

Author(s)

齊藤,

Citation

聖学院大学総合研究所紀要, No.52, 2012.2 : 240-261

URL

http://serve.seigakuin-univ.ac.jp/reps/modules/xoonips/de tail.php?item_id=4217

Rights

聖学院学術情報発信システム : SERVE

SEigakuin Repository and academic archiVE

(2)

共同感情と間主観性理論

マックス・シェーラーにおける他我知覚の四区分

齊 藤  伸

はじめに近現代の哲学における主観と客観の問題

本小論の主な関心は︑マックス・シェーラーの哲学的人間学の基礎を成す﹁共同感情﹂に関する彼の思想を明らかにすることである︒というのも︑彼の人間学は一般に﹁愛﹂と﹁情緒的な生﹂の人間学であると言われているが︑それらが﹁と﹁る﹁﹂︵Sympathie

る﹁た︒ る︒め﹁り︑ 0000000 探求から出発して﹁客観﹂の実在や本性を解明しようとする哲学がもっとも興隆したことは一般に認められる事実であ は︑た︒来︑ で︑と﹁﹂︑と﹁﹂︑と﹁ ラーの人間学を研究するにあたって︑我々が共同感情の考察から出発することには確たる意義と正当性が存する︒ 1

(3)

は︑な﹁ 0000000た︒謂﹁クス的転回﹂は︑従来の対象と認識との関係︑つまり模写説を逆転させることよって全ての認識の対象を主観によって創り出されたものとして︑ア・プリオリなものはそれを生み出す﹁カテゴリー﹂であると説かれた︒こうしたカントによる客観性の放棄以降も︑主観と客観の対立問題は多くの哲学者たちを悩ませ続けたが︑そうした袋小路に迷い込んだた︒は︑カントが言うように︑人間が自己の主観のみによっては客観を認識することが不可能であるとしても︑その主観のは︑す﹁﹂︑ち﹁た︒して世界についてのそうした明証性は︑個々の主観のみに妥当するものではないはずであり︑つまり自己の主観にとってと同時に他の主観である他者にも妥当する︑と自我は確信している︒フッサールはそうした自我が他我の存在を確信を﹁﹂︵intersubjektivität

一九二八︶にとっての間主観性は︑カント的な超越論を意味していない 議論は超越論的な間主観性理論である︒しかしながら︑本稿の中心的な関心となるマックス・シェーラー︵一八七四︱ ば︑は﹃ 2

り記述的な純粋現象学の手法だからである 法を用いて間主観性の理論を展開するが︑そこでの彼の手法は超越論ではなく︑むしろ初期フッサールの現象学︑つま ︒というのも︑シェーラーもまた現象学的な手 3

て構成された超越論的他者ではない づいて独自の現象学を展開する︒そのためシェーラーにとっての他者は︑フッサールが言うような︑自己の意識によっ ︒彼は人間の生活における情緒的な生の現象に着目し︑そこでの明証性に基 4

象学とは異なる︒ た考え方は︑還元またはエポケー︵判断停止︶によって明証を得る﹁純粋自我﹂から出発するフッサールの超越論的現 ︒むしろシェーラーは︑自我と他我は根源的には区別されていないと言う︒こうし 5

(4)

は︑調て︑に﹁後にまわらせざるを得なかった︒しかしながら︑フッサールが一貫して主張したように︑人間は生まれながらに﹁社会る︒り︑は︑は﹁﹂︵fremdる︒は︑に﹁た︒降︑学最大の問いの射程が︑自己の領域だけに限られずに︑それを超えて拡大されるに至った︒このような初期現象学の手て︑に﹁ス・る︒は︑シェーラーの人間学の中心的な問題である間主観性理論の基礎を成す﹁共同感情﹂の理解を︑中期の著作﹃共感の本質と形式﹄︵以下﹃共同感情﹄と呼ぶ

︶の考察から明らかにしたい︒ 6

.シェーラーの人間学における共同感情

稿に︑で﹁い︒は︑とって︑それが愛を基礎付ける作用または機能であると理解されるからである︒人間における愛の現象は︑情緒的な生命の過程の現象学的考察から︑その生き生きとした姿を描き出そうとするシェーラーの人間学にとって中心的な問題となる︒後に詳述することになるが︑シェーラーによると愛が生じるためには発生的に︑また機能的に共同感情の作用がる︒序︑成︑

(5)

は︑まずもって共同感情とは何かを現象学的に明証な事実に基づいて明らかにしなければならなかった︒た︑は﹃に︑て﹁け︑た︒や︑は︑的・し︑に︑た︒て︑る︒ち︑は︑理学に現象学的な基盤を与えようとする諸研究の大がかりな連関のなかから生まれたものである︒この連関から一応はなれ︑この連関を提示すべき仕事に先立って以下の研究を公刊するにあたり︑著者としては︑かならずや︑この研究の対象が倫理学者だけでなく︑共同感情︑愛︑および憎しみという諸事実のもつ価値的側面に対してあまり関心をはらわない認識論の専門家や心理学者に対しても︑十分に魅力あるものとなることを願わずにはいられない

る︒だが︑彼が主張する共同感情の概念には︑彼自身の用語上の曖昧さが存在しているし︑また彼の難解にして複雑な を用いて︑そうした様々な分野から独自になされてきた探求を統合することによって新たな間主観性理論の構築を試み はそれを倫理学の機軸となるべき主要概念として確立しようと試みるのでもない︒むしろ彼は︑純粋に現象学的な手法 らも明らかなように︑シェーラーの意図は単に認識における共同感情の役割を解明しようとするものでなければ︑また ﹂と︒この言葉か 7

意義であろう︒そこで我々は上述したシェーラーの基本思想を出発点として︑続く考察で詳細な解明を試みたい︒ という言葉によって何を意味するのかを明らかにすることは︑それに基づいて展開される﹁愛﹂の現象学にとっても有 く︑い︒稿に︑が﹁ 8

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.共同感情と倫理的価値判断 に︑憎︵Liebe und Haßと﹁﹂︵Mitgefühl/Sympathieる︒ら︑た﹁は︑て﹁る︒は︑善や悪といった道徳的な価値とはいっさい無関係に共同感情を抱くことが可能だからである︒そのため価値・無価値を必然的にその内に含まざるを得ない﹁愛﹂や﹁憎しみ﹂は︑共同感情から区別されなければならない︒このようなは︑が﹃分︑部﹁﹂︑部﹁して第三部﹁他我について﹂という三つの構成によってそれぞれを分けて論じていることが象徴的であろう︒しかしながらシェーラーのこうした的確な区別に反して︑イギリスの倫理や︑ルソー︑そしてショーペンハウアーが展開した所謂﹁は︑き︑た︒そのためシェーラーはこれらの学問においては︑社会内での共同感情から引き出されるべき特定の価値があらかじめ前提されていると言う︒アダム・スミスもまた︑そうした前提をもって出発した︒スミスは人間が自己に対して正しく倫理的価値判断を行うことができるのは︑常に第三者的な﹁公平な観察者﹂のなかへと自己を投入し︑その観察者の視点によって成されると考えた︒しかしながらシェーラーによると︑そこでは社会が誤るはずがない 0000000という︑社会の﹁万能る︒は︑く︑

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(7)

て︑た﹁soziale Suggestion︶が真実を覆い隠している可能性を考慮しなければならない︒そのためシェーラーは︑﹁自己評価がく︑た︑らない

﹂と言う︒ 10

(一)共感の諸機能

こうして共同感情は︑倫理的な価値判断とは異なる領域に置かれる︒そこで次に︑シェーラーが言うところの﹁共同い︒た﹁は︑ば︑て﹁﹂︵Sympathieる︒に︑﹂︵Mitgefühlと﹁が︑は﹁

る︑ Teilnehmen接︿え︑に︿﹀︵ る︒ち︑程︑ 11

解を考察してみたい︒ る︒は︑の﹁ は︑の﹁が︑は︑ 12

シェーラーによると︑頻繁に﹁共同感情﹂と混同されるのがこの﹁相互感得﹂である︒これに関するシェーラーの叙 Mit-einanderfühlen1︶相互感得︵

(8)

述は簡略なものであるが︑それは共同感情とは﹁現象学的に異なる二つの事実﹂であると理解されるために重要な区分である︒彼はそれをわが子の亡骸の傍らに立つ二人の親を例にして説明する︒彼らは互いに﹁同じ﹂苦しみ︑悲しみを感じている︒この場合︑

Aの苦しみを親

Bが共苦しているのではない︒その場に第三者としての

Cが現れ︑両親

AB

と﹁の﹁る︒合︑

C

ABは﹁が︑

A ることを彼は﹁相互感得﹂と呼ぶ︒ Bは互いの苦痛を決して対象化することなく︑ただ相互に苦しみを感得している︒このような非対象的な感情を感得す

に︑し︑ だけが求められるのであり︑それが捉えるのは対象化された他者の感情の﹁性質﹂であるから︒そのためシェーラーが NachfühlenVerhaltenや﹁﹂︵う︒ら︑度︵ MitfühlenNacherlebenが︑為︑ち﹁﹂︵は︑﹂︵ て﹁う︒の﹁も︑の﹁ 2︶共同感情と追感得

﹂︑は﹁が︑ 13

特徴付ける︒ intentionる﹁﹂︵る︒は︑ Teilnehmenの﹁﹂︵る︒は︑ が成されなければならない︒追感得や追体験においては︑感情の主体︵他我︶とはまったく無関心に関わっており︑そ いう表現が可能である︒したがって彼によると︑自己が他者と共歓や共苦をもつためには︑さらに一歩進んで共同感得 14

(9)

で﹁﹂︵Fühlenる︒ち︑は﹁や︑ろ︑それは他者の苦しみを目の当たりにして生起するのみならず︑またその他者の苦しみを﹁思念し﹂meinen︶︑そしてそれは感得する機能そのものとして思念するように方向付けられている

15

したがってシェーラーにとって共同感情は︑同時に共同感得であり︑それは感性的な感覚印象から構成されるものではない︒それは﹁感得﹂であるために︑志向的性格をもち︑その際に志向の対象となる他者の感情は相互感得の場合とる︒ば︑

が︑ AB Cは︑

る︒ ABし︑ Cは︑

あるとは限らない点に留意しなければならない AB 同感情︑④愛となる︒だが次の考察では︑もっとも本源的な他者体験と言われる﹁一体感﹂に進む前に︑既に倫理的価 解では︑自我と他者との関わり合いは︑大きく分けて四つの段階に区分され︑下層から順に①一体感︑②追感得︑③共 Einsfühlungた︑は︑﹂︵う︒ と言われているように︑それは共同感情と同一ではないが︑それに含まれ︑それの上で成り立つ一つの機能である︒ま ないことは明らかであろう︒すると︑先に引いたシェーラーの言葉の冒頭で︑﹁共同感情はそれ自体で︿感得﹀として﹂ こうして追体験および追感得は︑共同感情からは区別される機能であるが︑それら無しで共同感情が成立するのでも Mitfühlen情を看取するだけの﹁追感得﹂は︑共歓や共苦といった共同感情をもつ﹁共同感得﹂︶とは異なると説く︒ ︒そのため本節の最初に述べたように︑シェーラーは他者の何らかの感 16

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値判断の考察において言及した彼が言うところの﹁感情伝播﹂を先に考察してみたい︒

混同されてきた シェーラーによると︑感情伝播は相互感得と同様に︑共同感情とは異なる現象であるにもかかわらず︑頻繁にそれと Gefühlsansteckung3︶感情伝播︵

のみ生じること︑他者の喜びに関する知をそもそも前提しない点である 0 の体験への何らの思い遣りも成り立たない︒むしろ伝播にとって特徴的なことは︑それがもっぱら感情状態相互の間に 00 よると感情伝播は次のような特徴をもつ︒すなわち︑感情伝播においては﹁他人の喜びや苦しみへの感情志向も︑他人 00 者の感情﹂への志向︑つまり他者の感情に対して共歓したり共苦したりすることである︒それに対して︑シェーラーに く︑る︒に︑も﹁ 他者の感情体験を必要としないばかりか︑一見すると他者の苦しみが私に伝播するように思われるとしても︑それは他 000000 ︒単なる感情伝播と︑共同感情が区別されるのは︑それが不随意的に生じること︑またそれが必ずしも 17

も︑ 0000000000 て︑を︑ い︒は︑に﹁ 先に感情伝播は﹁不随意に生じる﹂と述べたが︑確かに一種の感情伝播である社会や世論の動向などを︑個人の恣意 ﹂︒ 18

区別すべき異質な要素が見出される 19

20

ず︑る︒ Einsfühlung4︶一体感︵

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や︑る﹁と︑ 000︿﹀﹂

﹁精神﹂と﹁生命﹂という二元論的構図においては︑純粋に生命の領域のみに属する現象である Grenzfallて﹁﹂︵う︒は︑ は︑て︑ 21

リップスの感情移入説  ところで︑ 22

的に受容したわけではないにせよ︑この﹁感情移入﹂という用語は晩年まで放棄されることなく用いられた 一体感が成立していると言う︒このリップスによる仮説はフッサールにも大きな影響を与えており︑彼がそれを無批判 によると︑サーカスにおける綱渡りの演目において︑観客が自己の感情を投射的に演者のなかに移入することによって Th・リップスはこうした一体感が﹁感情移入﹂によって生じると説いた︒それ

ば︑ は︑の﹁る︒も︑ ︒しかしな 23

は演者と一体化しているのではなく︑単に意識が演者の側に立っているだけに過ぎないからである 00 Eの﹃﹄︵に︑

idiopathischer Typusheteropathischer Typus︶であり︑他方は異発生型︵︶である ば︑る︒ち︑ てみたい︒ 事ではなくて︑むしろ恒常的な性格をもつ現象として理解する︒ここではシェーラーが提示する例のいくつかを考察し の「解  は︑ 24

おける﹁一体感﹂を︑それぞれ例を用いて解説している 他我によって取り込まれて生じる一体感であり︑それは﹁異発的一体感﹂と呼ばれる︒シェーラーはこれら二つの型に 000000 によって生じる現象であり︑それによる一体感は﹁特発的一体感﹂と呼ばれる︒そして後者はその反対︑つまり自我が ︒前者は自我が他我を取り込むこと 25

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参照

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