陳後主「臨行詩」の日本伝来とその受容
─大津皇子「臨終一絶」の遡源をめぐって葛 継 勇
はじめに
古 代 日 本 は、 遣 隋 使・ 遣 唐 使 の 派 遣 を 通 じ て、 直 接 に 中 国 文 化 を 享 受 し た。 「 虚 往 実 帰( 虚 し く 往 き て 実 ち て 帰 る )」 と 言われ る
(1)ように、唐文化はこれまでにないスピードで日本に伝来し、日本文化の形成・発展に重要な役割を果たした。例え ば、日本に伝わった漢詩は文明の種として芽生え、次第に成長して、日本人の精神文化生活の不可欠な一部分となっていっ た。本稿で論じる陳後主の「臨行詩」もその一つである。
従来、陳後主の「臨行詩」についての研究論著は、主に小島憲之氏、福田俊昭氏、濱政博司氏、金文京氏ら研究者の業績 があるが、陳後主の「臨行詩」の日本伝来とその受容についてはこれまでほとんど言及されていな い
(2)。筆者も、金文京氏の 挙 げ た「 臨 終 詩 」 九 首 以 外 に、 『 五 灯 会 元 』 巻 十 八 に 見 ら れ る 用 例 を 補 い、 五 代 詩 人 の 江 為 は 同 族 の 江 総 を 経 由 し て 陳 後 主 の「臨行詩」を知って、真似て詠んだのであり、大津皇子の「臨終一絶」は陳後主の詩を改作したものだという論考を発表 したことがあ る
(3)。しかし、前稿では紙幅の制約のために、陳後主の「臨行詩」はどのように日本(倭国)に伝わり、大津皇
子に知られたのかという問題については、十分に論ずることができなかった。
そこで、ここに稿を改めて、陳後主の詩と隋僧吉蔵、日本僧智蔵との関係を考察しながら、大津皇子の「臨終一絶」の成 立経緯を追究したいと思う。
一 陳後主の詩と智光、吉蔵
陳 後 主 の 詩 は 智 光 の『 浄 名 玄 論 略 述 』 巻 一 本 に 収 録 さ れ て い る。 す な わ ち、 「 至 長 安 懸 芙 蓉 曲 水 日 嚴 精 舍 」 の 注 疏 と し て、以下のように記されている。本論の原点として重要であるので、やや長文になるが引用する。 ( 1) 大 師 生 於 梁 末、 長 於 陳 代。 及 于 陳 滅、 以 隋 開 皇 十 八 年 至 於 長 安。 長 安 陳 朝 相 去 凡 三 千 三 百 里。 春 時 発 去、 秋 時 還 矣。長安為隋王之所都。 ( 2) 如 有 伝 曰、 後 周 終 王 号 少 帝 闡、 将 諸 太 夫 享 祀 先 廟。 掌 客 之 臣 楊 堅 有 二 美 女 与 一 男、 男 是 楊 光 也。 堅 使 此 二 女 挙 觴 上帝。帝感於二女好色、即敕之曰、 「欲納其女弟耳。 」堅乃献之。仍納此女而棄先妃、寵愛甚重。経乎三年、女啓帝曰、 「欲見父焉。 」乃詔、 「莫過三日帰矣。 」女退語父、 「欲帝位乎。 」父曰、 「若似朝花、一日得耳。 」女曰、 「欲齎銛刀。 」遂置 靴裹而入宮中。帝善非違約、甚為讌樂而臥。女以銛刀密刺帝頸、乃出敕曰、 「楊堅入宮、因寵愛女、而讓位於堅矣。 」堅 乃 施 行 云、 「 威 憲 去 可 去 用 可 用。 」 不 知 所 以 然 之、 忽 行 此 事。 已 獲 天 下、 群 臣 皆 服、 無 敢 出 異 言 者。 躬 治 万 機、 其 勢 亦 爾。 堅 乃 兼 文 武、 遠 振 威 德。 次 其 子 光 襲 於 位。 然 即 隋 有 二 君、 合 三 十 八 年。 堅 初 年 号 開 皇、 二 十 年。 次 年 号 仁 壽、 四 年。 光 年 号 大 業、 十 四 年。 凡 陳 合 五 主 三 十 二 年、 従 大 將 軍 陳 霸 先 至 叔 宝。 叔 宝 在 位 八 年、 以 已 酉 年 正 月 為 隋 楊 堅 所 威 ( 滅?) 。 叔 宝 之 臣 号 曰 妙 景、 其 妻 妍 美。 王 聞 感 念、 乃 任 景 以 将 軍 居 戍 隋 之 南 境、 而 集 其 妻 納 于 宮 中。 景 乃 言、 「 戍 境 有 限、 無 所 奈 何。 心 雖 甚 悔、 今 無 所 為。 」 遂 生 叛 逆、 使 人 告 隋 朝 曰、 「 叔 宝 無 義 失 道、 虐 悪 甚 之。 」 堅 固( 故?) 作 色 而 怒
曰、 「 天 授 不 取、 還 受 殃 耳。 」 乃 以 楊 光 為 大 将 軍、 率 諸 兵 卒、 度 江 伐 陳。 臨 発 之 日、 堅 語 光 等、 「 朕 聞 其 吉 蔵 者 善 達 法 門、 宜 申 誠 心 要 請 之。 至 今 伐 于 陳、 豈 貪 其 地 乎。 良 由 有 道 之 王( 主?) 耳。 」 以 鐵 鏁 与 鼓( 船?) 権 為 浮 梁 而 度 津、 景 前 導 而 伐 之。 遂 平 其 城、 而 囚 執 叔 宝 並 子。 光 乃 申 堅 意 確 請。 大 師 撫 嘆 而 応 之。 既 已、 還 于 長 安 矣。 宝 発 路、 詠 曰、 「 鼓 聲 推( 催 ) 命 役( 短?) 、 日 光 向 西 斜。 黄 泉 無 客 主、 今 夜 向 誰 家。 」 及 度 □ 津 至 梁 上、 宝 詠 曰、 「 聞 道 長 安 路、 今 年 過 □ 津。 請 問 浮 梁 上、 度 幾 失 郷 人。 」 遂 至 於 隋。 諸 家 大 人 看 之 感 慕。 宝 子 入 宮、 堅 使 為 詠。 詠 曰、 「 年 少 未 敢 書、 □ 詠 牆 上 草。生処非不高、但恨逢霜早。 」又作詠曰、 「野林無大小、山花色並鮮。唯有権折枝、独自不知春。 」 ( 3) 然 堅 自 大 師 未 至 之 前、 預 造 日 嚴 精 舍。 遂 及 至、 自 躬 出 迎 之、 止 住 其 中。 事 以 国 師 之 礼、 勧 請 伝 法。
暨於 光 辰、 彌 復敬重。於是大師興隆大法、仍制淨名玄等。稟法之徒百千万衆、而善知法、唯慧牘法師及一音慧藏等焉。言長安者、王 都之号而有二処。 (後略)
( 1) 大 師 梁 末 に 生 ま れ、 陳 代 に 長 ず。 陳 の 滅 ぶ に 及 び、 隋 の 開 皇 十 八 年 を 以 て 長 安 に 至 る。 長 安 は 陳 朝 と 相 去 る こ と 凡そ三千三百里。春時に発ち去り、秋時に還る。長安は隋王の都する所と為る。 ( 2) 伝 有 り て 曰 ふ が 如 し、 後 周 の 終 王 は 少 帝 闡 と 号 す。 諸 太 夫 を 将 ゐ て 先 廟 に 享 祀 す。 掌 客 の 臣 楊 堅 に 二 美 女 と 一 男 有 り、 男 は 是 れ 楊 光 な り。 堅 此 の 二 女 を し て 觴 を 挙 げ 帝 に 上 ら し む。 帝 は 二 女 の 好 色 に 感 じ、 即 ち 之 に 敕 し て 曰 く、 「 其 の 女 弟 を 納
いれ ん と 欲 す る の み 」 と。 堅 乃 ち 之 を 献 ず。 仍 り て 此 の 女 を 納 れ、 先 妃 を 棄 て、 寵 愛 す る こ と 甚 だ 重 し。 三 年 を 経 て、 女 帝 に 啓 し て 曰 く、 「 父 に 見 え ん こ と を 欲 す 」 と。 乃 ち 詔 す、 「 三 日 を 過 ぐ る こ と な く し て 帰 れ 」 と。 女 退 き て 父 に 語 る に、 「 帝 位 を 欲 す る か 」 と。 父 曰 く、 「 朝 花 に 似 た る が 若 し、 一 日 得 る の み 」 と。 女 曰 く、 「 銛 刀 を 齎 さ ん と 欲 す 」 と。 遂 に 靴 裹 に 置 き て 宮 中 に 入 る。 帝 約 に 違 ふ に あ ら ざ る を 善 し と し、 甚 だ 讌 樂 を 為 し て 臥 す。 女 銛 刀 を 以 て 密 か に 帝 の 頸 を 刺 し、 乃 ち 出 で て 敕 し て 曰 く、 「 楊 堅 宮 に 入 れ。 女 を 寵 愛 せ る に 因 り て、 位 を 堅 に 讓 ら ん 」 と。 堅
乃 ち 施 行 し て 云 ふ、 「 威 憲、 去 る は 去 る べ く、 用 ふ る は 用 ふ べ し 」 と。 之 を 然 り と す る 所 以 を 知 ら ず、 忽 ち 此 の 事 を 行 へ り。 已 に 天 下 を 獲 て、 群 臣 皆 服 し、 敢 へ て 異 言 を 出 す 者 無 し。 躬 ら 万 機 を 治 め、 其 の 勢 も 亦 た 爾 り。 堅 乃 ち 文 武 を 兼 ね、 遠 く 威 德 を 振 ふ。 次 い で 其 の 子 光、 位 を 襲 く。 然 し て 即 ち 隋 に 二 君 有 り、 合 し て 三 十 八 年 な り。 堅 初 め 開 皇 と 年 号 す る こ と 二 十 年。 次 い で 仁 壽 と 年 号 す る こ と 四 年。 光 大 業 と 年 号 す る こ と 十 四 年 な り。 凡 そ 陳 は 五 主 を 合 し て 三 十 二 年、 大 將 軍 陳 霸 先 従 り 叔 宝 に 至 る。 叔 宝 位 に 在 る こ と 八 年、 已 酉 年 正 月 を 以 て 隋 の 楊 堅 の 滅 ぼ す 所 と 為 る。 叔 宝 の 臣 号 し て 妙 景 と 曰 ふ あ り、 其 の 妻 妍 美 な り。 王 聞 き て 感 念 し、 乃 ち 景 に 任 ず る に 将 軍 を 以 て し、 隋 を 戍 る の 南 境 に 居 ら し め、 而 し て 其 の 妻 を 集 め て 宮 中 に 納 る。 景 乃 ち 言 ふ、 「 境 を 戍 る に 限 り 有 り、 奈 何 と も す る 所 無 し。 心 に 甚 だ 悔 ゆ る と 雖 ど も、 今 は 為 す 所 無 し 」 と。 遂 に 叛 逆 を 生 じ、 人 を し て 隋 朝 に 告 げ し め て 曰 く、 「 叔 宝 義 無 く 道 を 失 ひ、 虐 悪 甚 し 」 と。 堅 固 ら に 色 を 作 し 怒 り て 曰 く、 「 天 授 く る に 取 ら ざ る は、 還 つ て 殃 を 受 く る の み 」 と。 乃 ち 楊 光 を 以 て 大 将 軍 と 為 し、 諸 兵 卒 を 率 ゐ、 江 を 度 り て 陳 を 伐 つ。 発 す る に 臨 む 日、 堅 光 等 に 語 る、 「 朕 聞 く、 其 れ 吉 蔵 な る 者 は 善 く 法門に達すと。宜しく誠心を 申
のべて之に要請すべし。今陳を伐つに至りては、豈に其の地を貪るか。まことに有道の王 ( 主?) に 由 る の み 」 と。 鐵 鏁 と 船 と を 以 て 権
かり に 浮 梁 を 為
つくり て 津 を 度 り、 景 前 導 し て 之 を 伐 つ。 遂 に 其 の 城 を 平 ら げ、 叔 宝 並 び に 子 を 囚 執 す。 光 乃 ち 堅 の 意 確 く 請 ふ を 申 ぶ。 大 師 撫 嘆 し て 之 に 応 ず。 既 に し て 長 安 に 還 る。 ( 叔 ) 宝 路 を 発 す る に 詠 み て 曰 く、 「 鼓 聲 命 の 短 き を 催 し、 日 光 西 に 向 き て 斜 め な り。 黄 泉 に 客 主 無 く、 今 夜 誰 が 家 に 向 は ん 」 と。 □ 津 を 度 り 梁 上 に 至 る に 及 ん で、 宝 詠 じ て 曰 く、 「 聞
き道 く な ら く 長 安 の 路、 今 年 □ 津 を 過 ぐ。 請 問 す 浮 梁 の 上、 幾 た り の 失 郷 の 人 の 度
わたる か 」 と。 遂 に 隋 に 至 る。 諸 家 の 大 人 之 を 看 て 感 慕 す。 宝 の 子 宮 に 入 る に、 堅 詠 を 為 さ し む。 詠 じ て 曰 く、 「 年 少 く 未 だ 敢 へ て 書 か ず、 □ に 牆 上 の 草 を 詠 む。 生 い し 処 高 か ら ざ る に 非 ず、 但 だ 霜 に 逢 ふ こ と の 早 き を 恨 む 」 と。 又 た 詠 を 作 し て 曰 く、 「 野 林 大 小 と な く、 山 花 色 並 び に 鮮 か な り。 唯 だ 権 り そ め に 枝 を 折 る も の あ り、 独
ひ自
とり春を知らず」と。
( 3) 然 る に 堅 大 師 の 至 ら ざ る 前 よ り、 預 め 日 嚴 精 舍 を 造 る。 遂 に 至 る に 及 び、 自
みずか躬 ら 出 で て こ れ を 迎 へ、 其 の 中 に 止 ま り 住 ま し む。 事 ふ る に 国 師 の 礼 を 以 て し、 法 を 伝 ふ る こ と を 勧 請 す。 光 辰 に
暨び、 彌 い よ 復 た 敬 重 す。 是 に お い て 大 師 大 法 を 興 隆 し、 仍 り て『 淨 名 玄 』 等 を 制 す。 法 を 稟 く る 徒 百 千 万 衆 な る も、 善 く 法 を 知 る は、 唯 だ 慧 牘 法 師 及 び 一 音 慧 藏 等 の みなり。長安と言ふは、王都の号にして二処有り。 (後略)
このうち、 (2) 「如有伝曰」の内容について、金文京氏は、 『開業平陳記』 『大業拾遺記』の関連記事にも合致し、その原 型 は 陳 滅 亡 後 に 江 南 地 域 で 生 ま れ た 伝 説 か ら 成 立 し た も の で あ る、 と 指 摘 し た
(4)。 ま た、 文 中 の 人 物「 妙 景 」 の 原 形 は『 南 史』蕭摩軻伝に見える蕭摩軻であり、智光(或いは智光が引用した材料の原作者)は同じ発音の「妙景」二字を選択したの で あ ろ う。 つ ま り、 古 代 の 発 音「 摩 軻 」 発 音「
moke」 と「 妙 景 」「
mioke」 は よ く 似 て い る こ と が 指 摘 で き る。 し た が っ て、 (2) 「如有伝曰」の内容はやや荒唐無稽であり、構文もぎこちないが、歴史事実と無関係であることは言い切れないだ ろうとする。
そして、文中の「楊光」が隋煬帝楊広であり、中国人が「広」を「光」と書き間違えることは考えにくいので、 (2) 「如 有伝曰」の内容は日本人によって書かれたもの、もしくは百済人或いは新羅人乃至日本に亡命した外来移民によって書かれ たものである、と金文京氏は主張し た
(5)。しかし、安澄『中論疏記』所引の『淡海記』には「陳時、于楊光而所伐。以破国之 日、 大 師( 吉 蔵 ) 来 至 長 安( 陳 の 時、 楊 光 に お い て 伐 つ 所 な り。 国 を 破 る の 日 を 以 て、 大 師 来 り て 長 安 に 至 る )」 と あ り、 「光」の字が使用されている。
煬 帝 の 名「 広 」 が「 光 」 と 書 か れ た の は、 恐 ら く 当 時 の 隋 人 が 避 諱 し た た め で あ ろ う
(6)。『 浄 名 玄 論 略 述 』 の 作 者 智 光 は 唐 代 の 人 で あ る か ら、 煬 帝 の 名 を 避 諱 す る 必 要 は な く、 「 広 」 と「 光 」 と は 中 国 語 に お い て も 日 本 語 に お い て も 同 音 で あ る か ら、 「 広 」 が「 光 」 と 書 か れ た と し て も、 一 介 の 外 国 人 僧 侶 に と っ て 特 に 問 題 で は な か っ た の だ ろ う。 ま た、 智 光 と 同 じ 逸
話 を 挿 入 す る『 淡 海 記 』 で も、 同 じ く 作 者 が 引 用 し た 原 資 料 に は「 光 」 を「 広 」 と 記 載 し た と 思 わ れ る。 そ れ で は、 こ の 「原資料」すなわち(2) 「如有伝」の「伝」とは、どんなものであろうか。
僧 智 光( 七 〇 八 ~ 七 七 六?) は、 『 元 亨 釈 書 』 巻 二 智 光 伝 に は「 釈 智 光、 内 州 人。 共 礼 光 止 元 興 寺、 得 智 蔵 三 論 之 深 旨 ( 釈 智 光、 内 州 の 人 な り。 礼 光 と 共 に 元 興 寺 に 止 ま り、 智 蔵 に 三 論 の 深 旨 を 得 た り )」 と あ り、 『 扶 桑 略 記 抄 』 巻 二 の 天 平 十 七年正月己卯廿一日条には「爰有釈智光者、河内国安宿郡鋤田寺沙門也。俗姓鋤田連、後改姓上村主。母飛鳥部氏也。天性 聡 明、 智 惠 殊 勝、 制 盂 蘭 盆・ 大 般 若 等 経( 爰 に 釈 智 光 な る 者 有 り、 河 内 国 安 宿 郡 鋤 田 寺 の 沙 門 な り。 俗 姓 鋤 田 の 連、 後 に 姓 を 上 村 主 と 改 む。 母 は 飛 鳥 部 氏 な り。 天 性 聡 明 に し て、 智 惠 殊 に 勝 れ、 盂 蘭 盆・ 大 般 若 等 経 を 制 す )」 と あ る よ う に、 彼 は河内国人であり、智蔵に師事し、元興寺に止住した三論宗の高僧である。
また、末木文美士氏が指摘しているように、 『浄名玄論略述』のほか、智光は『盂蘭盆経述義』一巻、 『大般若経述義』一 巻、 『大惠度経疏』二十巻、 『初学三論標宗義』一巻、 『正観論』一巻、 『肇論述義』 (巻数不詳) 、『法華玄論略述』五巻、 『中 論疏記』三巻及び『浄名玄論略述』七巻などの三論教学関係書物を著している。その他、 『無量寿経論釈』五巻、 『四十八願 釈 』 一 巻、 『 安 養 賦 』 な ど の 浄 土 教 関 係 の 著 作 が あ る
(7)。 そ の 中 の『 法 華 玄 論 略 述 』、 『 浄 名 玄 論 略 述 』 と『 中 論 疏 記 』 は、 そ れぞれ三論宗の高僧吉蔵(五四九~六二三)の著した『法華玄論』十巻、 『浄名玄論』八巻、 『中論疏記』十巻を注釈したも のである。したがって、吉蔵の多数の著書を注釈した智光が陳の亡国や隋の誕生に関する吉蔵の記述に注目したのは、必然 と考えてよいであろう。
吉蔵(五四九~六二三)の俗姓は安氏で、南京で生まれ、先祖は西域安息国の人である。吉蔵は隋の百越征討の際に、会 稽(現在の浙江紹興県)の嘉祥寺に住し、三論を究めた。その後、楊州の慧日道場・長安の日厳寺で三論や法華の布教や講 説を行った。唐代に入ると、長安の実際寺、定水寺、会昌寺、延興寺等に住して、僧衆を統領する大徳十人の一人として徴 用された。また、長安で三論注疏を完成し、三論宗を創設した。彼は安息国出身であることから、胡吉蔵と言われ、嘉祥寺
に住したことから、嘉祥大師とも言われた。
前 掲 の『 浄 名 玄 論 略 述 』 巻 一 本 に は、 陳 を 征 伐 す る 際、 吉 蔵 は 都 の 建 康 に 居 た と 思 わ れ る。 ま た、 『 続 高 僧 伝 』 巻 十 一 の 吉蔵伝に、
具 戒 之 後、 声 問 転 高。 陳 桂 陽 王 欽 其 風 采、 吐 納 義 旨、 欽 味 奉 之。 隋 定 百 越、 遂 東 游 秦 望、 止 泊 嘉 祥、 如 常 敷 引。 ( 中 略)在昔陳隋廃興、江陰凌乱。道俗波迸、各棄城邑。乃率其所属、往諸寺中。但是文疏、並皆收聚、置於三間堂内。及 平定後、方洮簡之。故目学之長、勿過於蔵。注引宏広、咸由此焉。 具 戒 の 後、 声 問 転
うたた 高 し。 陳 桂 陽 王 其 の 風 采 を 欽
つつしみ て、 義 旨 を 吐 納 し、 欽 み 味 は ひ て 之 を 奉 ず。 隋 百 越 を 定 め、 遂 に 東 の か た 秦 望 に 游 び、 止 ま り て 嘉 祥 に 泊 し、 常 の 如 く 敷 引 す。 ( 中 略 ) 在
むかし昔 陳 隋 廃 興 し、 江 陰 凌 乱 す。 道 俗 波 迸 し、 各 々 城 邑 を 棄 つ。 乃 ち 其 の 属 す る 所 を 率 ゐ て、 諸 寺 中 に 往 く。 但 だ 是 れ 文 疏 は、 並 び に 皆 收 聚 し て、 三 間 堂 の 内 に 置 く 。 平 定 の 後 に 及 び 、 方 に 之 を 洮 簡 す 。 故 に 目 学 の 長 は 、 蔵 に 過 ぐ る は 勿 し 。 注 の 引 く こ と 宏 広 な る は 、 咸
みな此 に 由 れ り 。
と あ り、 陳 の 滅 亡 の 際、 吉 蔵 は 建 康 の 諸 寺 を 奔 走 し、 「 文 疏 」 を 集 め た。 し た が っ て、 隋 軍 は 陳 後 主 ら を 囚 執 す る 時、 吉 蔵 は建康にいたのである。吉蔵は陳の桂陽王などの王公貴族に尊重されたことから、天台宗の智顗(五三八~五九七)と同じ く、陳の滅亡の直前、吉蔵は王公貴族ないし陳後主に誘われ、建康で講経していたのかもしれない。
主の「臨行詩」を聞き取る人物には、陳後主の「狎客」である江総のほかに、僧吉蔵もいたと考えられる。おそらく、ここ 応ず。既にして長安に還る」とあることから、吉蔵も陳後主と同行して長安に連行された可能性が高い。したがって、陳後 と 一 緒 に「 執 役 」 さ れ た。 ま た、 前 掲 の『 浄 名 玄 論 略 述 』 巻 一 本 に は「 光 乃 ち 堅 の 意 確 く 請 ふ を 申 ぶ。 大 師 撫 嘆 し て 之 に 『 南 史 』 巻 十 陳 後 主 本 紀 の 禎 明 三 年 正 月 戊 辰 条 に は「 僧 尼 道 士 尽 皆 執 役 」 と あ り、 禎 明 三 年 正 月 に、 僧 尼 と 道 士 は 陳 後 主
で問題としている陳後主詩は僧吉蔵の手になる関連記事から抄録されたものであろう。
陳 後 主 の「 臨 行 詩 」 は、 『 浄 名 玄 論 略 述 』 の 中 の「 有 伝 云 」 に 記 さ れ て い る が、 現 存 す る 吉 蔵 の『 浄 名 玄 論 』 等 の 著 作 に は、前掲の「有伝云」の内容が見られない。では、中国に留学したこともない智光は誰から、どのように陳後主の詩を入手 したのであろうか。
二 慧潅、福亮と道慈
倭国に赴いたことのある吉蔵の弟子には、高句麗僧の慧潅(恵観、恵潅とも書く)がいる。慧潅は日本で初めて三論学説 を 広 げ、 日 本 三 論 宗 の 祖 と さ れ て い る。 慧 潅 の 後 に、 僧 智 蔵 及 び 智 蔵 の 弟 子 道 慈 が 入 唐 し、 三 論 宗 を 学 ん だ。 道 慈 は 帰 国 後、吉蔵の三論学説を日本に広げ活躍した。
『 日 本 書 紀 』 巻 二 十 二 の 推 古 天 皇 三 十 三 年 正 月 条 に は「 戊 寅、 高 麗 王 貢 僧 惠 灌。 仍 任 僧 正( 戊 寅、 高 麗 の 王 僧 惠 灌 を 貢
すすむ。仍りて僧正に任す) 」とある。また『元亨釈書』巻一の慧潅伝には、
釈慧灌、高麗国人、入隋受嘉祥吉蔵三論之旨。推古三十有三年乙酉春正月本国貢来、住元興寺。其夏天下大旱、詔灌祈 雨。灌著青衣講三論、大雨便下。上大悅、擢為僧正。後於内州創井上寺、弘三論宗。 釈慧灌、高麗国の人なり。隋に入りて嘉祥吉蔵に三論の旨を受く。推古三十有三年乙酉春正月、本国に貢来し、元興寺 に住す。其の夏、天下大旱して、灌に詔して雨を祈らしむ。灌青衣を著て三論を講ずれば、大雨便ち下る。上大いに悅 び、擢んでて僧正と為す。後に内州において井上寺を創り、三論宗を弘む。
とある。これらの記録によると、慧潅は隋から高句麗に帰った後、推古三十三年(六二五)正月に倭国に至った。吉蔵は唐 の武徳六年(六二三)に亡くなっているので、慧潅が隋から高句麗に帰ったのはその前後であろう。
慧 潅 の 弟 子 に は 呉 国 人 の 福 亮 が い る。 『 元 亨 釈 書 』 巻 十 六 呉 国 福 亮 伝 に は「 釈 福 亮、 呉 国 人。 受 三 論 於 嘉 祥。 斉 明 四 年、 内 臣 鎌 子 于 陶 原 家 精 舍 請 亮 講 維 摩 詰 経( 釈 福 亮、 呉 国 の 人 な り。 三 論 を 嘉 祥 に 受 く。 斉 明 四 年、 内 臣 鎌 子 陶 原 家 精 舍 に お い て 亮 に 請 ふ て 維 摩 詰 経 を 講 ぜ し む )」 と あ り、 福 亮 は 嘉 祥 大 師 吉 蔵 に 従 っ て 三 論 を 学 び、 斉 明 天 皇 四 年( 六 五 八 ) に 倭 国 で 維 摩 経 を 講 じ た。 『 太 子 伝 私 記 』 に 収 録 さ れ る「 法 起 寺 塔 露 盤 銘 」( 『 寧 楽 遺 文 』 下 巻 所 収 ) に「 至 于 戊 戌 年、 福 亮 僧 正 聖 徳 皇 御 分 敬 造 弥 勒 像 一 躯、 構 立 金 堂( 戊 戌 年 に 至 り、 福 亮 僧 正 聖 徳 皇 の 御 分 に 弥 勒 像 一 躯 を 敬 造 し、 金 堂 を 構 立 す )」 と あ ることから、福亮は舒明天皇十年(六三八)に聖徳太子の冥福を祈るために弥勒仏像を作り、法起寺の金堂を建てた。した がって、福亮が倭国に赴いたのは舒明天皇十年以前であると考えられ る
(8)。
慧潅や福亮が前述の陳後主の詩を倭国に将来したとすれば、大津皇子や智光もその詩を書き写した、或いは模倣した可能 性がある。しかし、隋における慧潅と福亮の活動を記した資料はなく、陳後主の詩が彼らによって将来されたかどうかは定 かではない。
『三国仏法伝通縁起』巻中には「慧潅僧正以三論授福亮僧正、福亮授智蔵僧正。智蔵越海入唐、重伝三論。
(中略)智蔵上 足有三般匠、乃道慈 ・ 智光 ・ 礼光也(慧潅僧正 三論を以て福亮僧正に授け、福亮智蔵僧正に授く。智蔵海を越えて入唐し、 重ねて三論を伝ふ。 (中略)智蔵の上足に三般の匠有り、乃ち道慈・智光・礼光なり) 」とあるように、智光の同門には、唐 へ赴いた留学僧の道慈もいた。道慈について、 『元亨釈書』巻二の道慈伝には
事呉智藏、稟三論学。大宝元年入唐請益、于時武后長安之始也。蹈勝地、尋明師、経律論多渉獵、益究三論之旨。養老 元年帰、盛唱空宗。天平九年冬十月、啓最勝会於大極殿、其儀同元日。慈為講師。初元年將新大官寺、下詔覓伽藍営造
之 宏 規。 時 無 委 者。 慈 奏 曰、 「 臣 在 唐 時 偸 図 西 明 寺、 心 中 誓 念、 若 帰 本 土、 柄 道 福 願 規 模 之。 今 陛 下 之 睿 志、 臣 之 先 抱 也。 」即上之、上大悅、詔慈為造寺監護而居焉。 呉の智藏に事へて、三論の学を稟く。大宝元年入唐請益す、時に武后の長安の始めなり。勝地を蹈み、明師を尋ねて、 経律論多く渉獵し、益々三論の旨を究む。養老元年帰りて、盛んに空宗を唱ふ。天平九年冬十月、最勝会を大極殿に啓 く に、 其 の 儀 元 日 に 同 じ。 慈 講 師 と 為 る。 初 元 年 将 に 大 官 寺 を 新 に せ ん と し、 詔 を 下 し て 伽 藍 営 造 の 宏 規 を 覓 む。 時 に 委 る 者 無 し。 慈 奏 し て 曰 く、 「 臣 唐 に 在 る 時、 偸 か に 西 明 寺 を 図 き、 心 中 に 誓 念 す ら く、 若 し 本 土 に 帰 れ ば、 道 福 を 柄せば、願はくは之を規模とせんと。今陛下の睿志、臣の先に抱くところなり」と。即ち之を上るに、上大いに悅び、 慈に詔して造寺を為し監護して居らしむ。
とある。また、 『続日本紀』巻十五の天平十六年十月条には
辛卯、律師道慈法師卒。法師俗姓額田氏、添下郡人也。性聡悟、為衆所推。大宝元年随使入唐、渉覧経典、尤精三論。 養老二年帰朝。 (中略)卒時年七十有余。 辛卯、律師道慈法師卒す。法師俗姓は額田氏、添下郡の人なり。性聡悟にして、衆の推すところと為る。大宝元年使に 随ひて唐に入り、経典を渉覧し、尤も三論に精し。養老二年帰朝す。 (中略)卒する時年七十有余。
と あ る。 亡 く な っ た 天 平 十 六 年( 七 四 四 ) に は、 「 七 十 有 余 」 で あ る か ら、 道 慈 は 六 七 〇 年 前 後 の 生 ま れ で あ り、 大 宝 元 年 (七〇一)に唐に留学する時は三十歳余であったと推測できる。
また、 『懐風藻』道慈伝には、
少 而 出 家、 聡 敏 好 学、 英 材 明 悟、 為 衆 所 推。 大 宝 元 年、 遣 学 唐 国。 ( 中 略 ) 遊 学 西 土、 十 有 六 歳。 養 老 二 年、 帰 来 本 国。帝嘉之、拜僧綱律師。性甚骨鯁、為時不容。解任帰、游山野。時出京師、造大安寺。年七十余。 少 く し て 出 家 し、 聡 敏 に し て 学 を 好 む。 英 材 明 悟、 衆 に 推 さ る。 大 宝 元 年、 唐 国 に 遣 学 す。 ( 中 略 ) 西 土 に 遊 学 す る こ と、 十 有 六 歳。 養 老 二 年、 本 国 に 帰 来 す。 帝 之 を 嘉 み し た ま ひ、 僧 綱 律 師 に 拜 し た ま ふ。 性 甚 だ 骨 鯁、 時 に 容 れ ら れ ず。任を解きて帰り、山野に游ぶ。時に京師を出で、大安寺を造る。年七十余。
とある。この「時年七十余」いう表現は、前掲の「卒時年七十有余」と合致することから、これは大安寺を建立する時の年 齢ではなく享年である。この記載によると、道慈は大宝元年に入唐し、唐で十六年間過ごし、養老二年(七一八)に帰国し た
(9)。唐では、当時の都の長安西明 寺
)(((
で学んだことがわかる。前掲の『元亨釈書』巻一道慈伝によると、在唐中、仏教典籍に 渉った道慈が、帰国時に多くの唐仏教典籍を将来したとされる。また、智光の著作には、当時唐で新たに訳された経論の影 響が少なくないという指 摘
)(((
を考慮すると、智光は道慈の将来した新訳の三論経典を参考にした可能性がある。
ところが、大津皇子の詩は朱鳥元年(六八六)に誕生したので、時間的に道慈が唐に留学する前に、陳後主の詩は既に日 本に伝わっていることになる。したがって、智光は彼の師の僧智蔵から陳後主の詩を知った可能性が高い。
三 智蔵、吉蔵と嘉祥寺
智蔵について、 『元亨釈書』巻一の智蔵伝には、
釈智蔵、呉国人福亮法師俗時子也。謁嘉祥受三論微旨、入此土居法隆寺、盛唱空宗、白鳳元年為僧正。道慈、智光皆蔵 之徒也。 釈智蔵、呉国人福亮法師俗たりし時の子なり。嘉祥に謁して三論の微旨を受く。此の土に入りて法隆寺に居し、盛んに 空宗を唱ふ。白鳳元年僧正と為る。道慈、智光、皆 蔵の徒なり。
と あ る。 こ の「 白 鳳 元 年 」 に つ い て は、 さ ま ざ ま な 説 が あ る が、 『 扶 桑 略 記 』 巻 五 の 天 武 天 皇 二 年 三 月 条 の「 同 月、 智 蔵 任 僧正」という記録から、白鳳元年即ち天武天皇二年(六七三)三月に、智蔵は僧正と補任されたことがわかる。ところで、 智蔵「謁嘉祥受三論微旨」の「嘉祥」は吉蔵本人であるか、それとも嘉祥寺であるか。
『懐風藻』僧正呉学生智蔵師伝には以下のように記されている。
智蔵師者、俗姓禾田氏。淡海帝世、遣学唐国。時呉越之間、有高学尼。法師就尼受業。六・七年中、学業穎秀。同伴僧 等頗有忌害之心。法師察之、計全躯之方、遂被髪陽狂、奔蕩道路。密写三蔵要義、盛以木筒、著漆秘封、負担遊行。同 伴 軽 蔑、 以 為 鬼 狂、 遂 不 為 害。 太 后 天 皇 世、 師 向 本 朝。 同 伴 登 陸、 曝 涼 経 書。 法 師 開 襟、 対 風 曰、 「 我 亦 曝 涼 経 典 之 奧 義。 」 衆 皆 嗤 笑、 以 為 妖 言。 臨 於 試 業、 昇 座 敷 演、 辞 義 峻 遠、 音 詞 雅 麗。 論 雖 蜂 起、 応 対 如 流。 皆 屈 服、 莫 不 驚 駭。 帝 嘉之、拜僧正。時歳七十三。 智 蔵 師 は、 俗 姓 禾 田 氏。 淡 海 帝 の 世 に、 唐 国 に 遣 学 す。 時 に 呉 越 の 間 に、 高 学 の 尼 有 り。 法 師 尼 に 就 き て 業 を 受 く。 六、七年の中に、学業穎秀なり。同伴の僧等頗る忌害の心有り。法師之を察りて、躯を全くせむ方を計り、遂に被髪陽 狂し、道路に奔蕩す。密かに三蔵の要義を写し、盛るに木筒を以てし、漆を著けて秘封し、負担遊行す。同伴軽蔑し、 鬼狂なりと以為ひ、遂に害を為さず。太后天皇の世に、師本朝に向かふ。同伴陸に登り、経書を曝涼す。法師襟を開き
風 に 対 か ひ て 曰 は く、 「 我 も 亦 た 経 典 の 奧 義 を 曝 涼 す 」 と。 衆 皆 嗤 笑 し、 妖 言 と 以 為 へ り。 試 業 に 臨 み、 座 に 昇 り て 敷 演するに、辞義峻遠、音詞雅麗。論蜂のごとくに起れりと雖も、応対流るるが如し。皆屈服し、驚駭せずということ莫 し。帝之を嘉みしたまひ、僧正に拜したまふ。時に歳七十三。
ま ず、 注 意 す べ き こ と は 智 蔵 が「 呉 学 生 」 と い う こ と で あ る。 「 呉 学 生 」 に つ い て、 東 野 治 之 氏 は、 呉 学 生 は 呉 国 人 で は な く、 呉 に 留 学 し た 学 生( 僧 ) と い う 意 味 で あ り、 呼 称 に 留 学 し た 国 名 を つ け る 類 例 は し ば し ば 見 ら れ る、 と 指 摘 し て い る
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。しかし、奈良時代では国際婚姻で誕生した混血児は父親の出身国によって国籍を決めたことから、福亮は呉国であり、 それゆえ子の智蔵が呉国人と見なされた可能性が考えられる。
そ の 他、 『 僧 綱 補 任 抄 出 』( 上 ) の「 福 亮 」 条 に は「 呉 人、 熊 凝 氏、 本 元 興 寺 」 と あ り、 『 本 朝 高 僧 伝 』 巻 一 福 亮 伝 に は 「 釈 福 亮 姓 熊 凝 氏、 本 呉 国 人、 来 朝 出 家、 従 高 麗 慧 灌 僧 正 習 稟 三 論、 兼 善 法 相( 釈 福 亮 姓 は 熊 凝 氏、 も と 呉 国 の 人、 来 朝 し て 出 家 す。 高 麗 の 慧 灌 僧 正 に 従 ひ て 三 論 を 習 稟 し、 兼 ね て 法 相 を 善 く す )」 と あ る よ う に、 熊 凝 氏 は、 福 亮 が 倭 国 に 来 た 後、 出 家 す る 前 に 名 乗 っ た 氏 で あ る。 た だ し、 『 懐 風 藻 』 に は 智 蔵 の 俗 姓 は「 禾 田 氏 」 と あ る。 こ の こ と に つ い て、 王 勇 氏 は、福亮が娶った日本女性、つまり智蔵の母親が「俗姓禾田氏」であった、或いは福亮の出家後に、智蔵が禾田家の養子に なったからだと指摘し た
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第 二 に、 智 蔵 が 入 唐 し た 時 期 は「 淡 海 帝 世 」( 天 智 朝 ) の こ と で あ る。 天 智 朝 に お い て、 六 六 五 年・ 六 六 七 年・ 六 六 九 年 の 三 回 に わ た っ て 遣 唐 使 を 派 遣 し た が、 智 蔵 は 六 六 五 年 に 出 発 し た 遣 唐 使 に 従 っ て 入 唐 し た と 思 わ れ る。 ま た「 六・ 七 年 中、 学 業 穎 秀 」 と あ る こ と か ら、 呉 越 地 区 に 六・ 七 年 間 滞 在 し た 智 蔵 の 帰 国 年 は 六 七 二 年 前 後 だ と 推 測 で き る。 『 元 亨 釈 書 』『 扶 桑 略 記 』 に 記 さ れ た 三 論 宗 僧 の 智 蔵 が『 懐 風 藻 』 に 記 載 さ れ た「 僧 正、 呉 学 生 智 蔵 師 」 と 同 一 人 物 で あ る と 主 張 す る井上光貞氏、王勇氏は、智蔵は天智天皇十年(六七一)十一月に帰国したと指摘してい る
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。また、胡志昴氏も智蔵は天智
天皇十年十一月に唐の使者郭務悰に随って帰国したが、翌月の天智天皇の崩御、壬申の乱などなどの影響をうけて、翌年の 秋以降に入京したと主張してい る
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ただし、唐の使者郭務悰が百済故地に戻るのは翌年の五月、壬申の乱は翌年の六月である。また、筑紫大宰府到着後、智 蔵 ら の 留 学 人 員 一 行 が、 唐 の 使 者 と 行 動 を 共 に し た と は 考 え に く い。 『 日 本 書 紀 』 巻 二 十 八 の 天 武 天 皇 元 年 十 一 月 条 に は 「 辛 亥、 饗 新 羅 客 金 押 宝 等 於 筑 紫( 辛 亥、 新 羅 の 客 金 押 宝 等 を 筑 紫 に 饗 し た ま ふ )」 と あ る。 智 蔵 は 新 羅 使 者 の 金 押 実 等 に 随って、天武天皇元年十一月に筑紫に到着し、翌年二月前後入京し、 「試業」に参加したのではないかと考えられる。
また、ここの「太后天皇世」は天武天皇の皇后鵜野讚良(即位後の持統天皇)あるいは天智天皇の皇后倭姫を指すと言わ れ る。 さ ら に、 横 田 健 一 氏 は、 「 太 后 天 皇 世 」 と は 中 国 の 則 天 武 后 を 指 し、 智 蔵 は 天 武 天 皇 十 二 年 に 帰 朝 し た、 と 考 え た
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。 最近、胡志昴氏は天智天皇の崩御後、皇后倭姫が称制したと考えて、皇后倭姫説が妥当だと主張してい る
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。しかし、皇后倭 姫 の 称 制 や 天 皇 と し て の 即 位 を 示 す 史 料 は な い。 「 太 后 天 皇 世 」 と は 立 后 さ れ た 以 降 の 言 葉 で あ る と 考 え ら れ る。 『 日 本 書 紀』巻二十九の天武天皇二年二月癸未条には「立正妃為皇后」とあるように、正妃鵜野讃良が立后されたのは天武天皇二年 (六七三)のことである。その下文に「帝嘉之」とあり、天武天皇を指す言葉として、 「帝」が使われている。また、持統天 皇 が「 帝 」 で は な く、 「 皇 太 后 」 と 称 さ れ た こ と が『 懐 風 藻 』 に よ っ て わ か る。 『 日 本 書 紀 』 等 の 六 国 史 に お い て、 「 帝 」 と いう言葉はほとんど男性天皇の称として使われている。
第 三 に、 前 後 の 文 脈 か ら 判 断 す る と、 「 時 歳 七 十 三 」 は 智 蔵 が 僧 正 に 任 命 さ れ た 時 の 年 齢 で あ る が、 帰 国 後 ま も な く 任 命 さ れ て い る こ と か ら、 入 唐 時 の 年 齢 は 六 十 五 歳 ぐ ら い と な り、 高 齢 で の 渡 唐 に 疑 問 が 生 じ る。 『 懐 風 藻 』 道 慈 伝 の「 時 年 七 十余」という享年から判断すると、 「時歳七十三」は智蔵が亡くなった時の年齢であると考えられる。
ま た、 智 光 撰『 般 若 心 経 述 義 』 序 文 に は「 智 光 従 生 九 歳 避 慣 肉 処、 遊 止 伽 藍。 然 自 志 学 至 於 天 平 勝 宝 四 年、 合 三 十 個 年 ( 智 光 生 ま れ て 九 歳 従 り 肉 処 を 避 慣 し、 伽 藍 に 遊 止 す。 然 し て 志 学 自 り 天 平 勝 宝 四 年 に 至 る ま で、 合 し て 三 十 個 年 な り )」
と自ら述べている。この「志学」を十五歳とすれば、智光は七〇八年に生まれであり、天平勝宝四年(七五二)には四十四 歳となる。だから、沙弥になる九歳(出家)の七一六年から「志学」の七二二年までの間に、智光が智蔵の弟子になった可 能性は高い。つまり、七一六年から七二二年までの間、智蔵は存命だったのである。
智蔵が七十三歳で亡くなったことを踏まえれば、智蔵は早くとも六四四年に生まれ、 「淡海帝世」 (六六五年)に入唐した 時は二十二歳ということになる。福亮が舒明天皇十年(六三八)以前に日本に来たことから判断すると、王勇氏が指摘した ように、智蔵は福亮と日本の女性の間に生まれた混血児である可能性が高いと言えるだろう。
揮したから、川原寺大蔵経書写の「督役」に委任され、僧正に任じられたのであろう。 て 大 蔵 経 を 写 し、 沙 門 智 蔵 督 役 し、 故 に 僧 正 に 任 す )」 と あ る よ う に、 智 蔵 は 帰 国 後 の「 試 業 」 で 才 能 を 余 す と こ ろ な く 発 『 元 亨 釈 書 』 巻 二 十 一 の 天 武 天 皇 二 年 二 月 二 十 七 日 条 に は「 于 川 原 寺 写 大 蔵 経、 沙 門 智 蔵 督 役、 故 任 僧 正( 川 原 寺 に お い
だということなる。 く、嘉祥寺を指すに違いない。つまり、智蔵は、吉蔵が開基した越州の嘉祥寺(現在浙江省紹興県平水鎮)で三論宗を学ん 亡 く な っ た こ と か ら、 前 述 の『 元 亨 釈 書 』 巻 一 智 蔵 伝 に 記 さ れ た「 謁 嘉 祥 受 三 論 微 旨 」 の「 嘉 祥 」 は 吉 蔵 大 師 本 人 で は な 『 懐 風 藻 』 智 蔵 伝 に よ る と、 智 蔵 は 呉 越 地 区 の 尼 か ら 学 ん だ こ と が 分 か る。 ま た、 嘉 祥 大 師 吉 蔵 は 武 徳 六 年( 六 二 三 ) に
越 州 は 陳 の 都 の 建 康 か ら 遠 く 離 れ て い る の で、 「 呉 越 地 区 で 留 学 し た 智 蔵 は 陳 後 主 に 関 す る 伝 説 と 前 述 の 臨 行 詩 を 耳 に し て、記録した」という金文京氏の推 論
)(((
を考え直す必要があるだろう。また、陳後主及び陳の滅亡に関する伝記(例えば『開 業平陳記』等)は隋唐時代に広く伝わっていたが、それらの伝記に前述の陳後主の詩が収められていたかどうかは定かでは ない。
筆 者 は、 智 蔵 が 越 州 の 嘉 祥 寺 で 陳 後 主 の 詩 を 知 見 し た も の と 推 測 す る。 智 蔵 が「 淡 海 帝 世 」( 六 六 五 年 ) に 越 州 へ 赴 い た 時は、吉蔵の没後四十二年であった。陳が滅亡した後、吉蔵は越州の嘉祥寺に滞在したので、陳の亡国及び陳後主の詩等に
関する記述は、嘉祥寺に残っていた可能性がある。これら嘉祥寺に残された吉蔵の記述は彼の弟子らに認識され、保存され ていたはずである。横田健一氏は、智蔵が師事した高学の尼とは吉蔵の弟子に当たる人物であると推測し た
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。したがって、 智蔵は越州の嘉祥寺で前掲の(2) 「有伝曰」の内容を知ったと考えられるのであ る
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。
四 智光、安澄と「如有伝」
智光『浄名玄論略述』巻一本に収録される「如有伝」に見える少帝闡関連記事は、安澄『中論疏記』にも記されている。 安澄は平安時代初期の三論宗の僧で、奈良大安寺における三論宗の論客として知られた。著書に『中論疏記』八巻があり、 こ れ は 吉 蔵 の『 中 論 疏 』 十 巻 を 注 釈 し た も の で あ る。 『 中 論 疏 記 』 に は、 中 国、 日 本 の 多 く の 文 献 が 引 用 さ れ て お り、 資 料 的価値が高いと言われる。
『中論疏記』巻三には、
「言以去仁壽等者」の注疏として、以下の内容が記されている。
(ア) 『述義』引伝云、後周少帝闡在位一年。隋楊堅令子楊光襲位。即隋有二君、合三十八年治之。堅初年号開皇、註二 十年。次年号仁壽、註四年。光年号大業、経十四年。今言去者、於大業時、著此疏故。以後望前、故云去仁壽也。 (イ) 『淡海記』云、陳時于楊光而所伐。以破国之日、大師来至長安。長安年号、前名仁壽、後呼大業。又後時号貞観。 故以後望前、名為去仁壽也。 ( ウ ) 如 有 偈( 伝 カ ) 云: 後 周 終 王 少 帝 闡 将 諸 太 夫、 享 祀 先 廟。 掌 客 之 臣 楊 堅 有 二 美 女 与 一 男、 男 是 楊 光 也。 堅 使 此 二 女 挙 觴 上 帝、 帝 感 等 二 女 好 色、 即 敕 之 曰、 「 □ 欲 納 其 弟 女 耳。 」 堅 乃 献 之。 仍 納 此 女 而 棄 先 妃、 寵 愛 甚 重。 経 乎 三 年、 女 啓 帝 曰、 「 欲 見 父 焉。 」 乃 詔、 「 莫 過 三 日 帰 矣。 」 女 退 語 父、 「 欲 帝 位 乎。 」 父 曰、 「 若 似 朝 花、 一 日 得 耳。 」 女 曰、 「 欲 齎 銛
刀。 」遂置靴裹而入宮中。女以銛刀密刺帝頸、乃出敕曰、 「楊堅入宮、因寵愛女、而讓位於堅矣。 」 ( エ ) 有 人 伝 云: 一 巻『 玄 義 』 云、 大 隋 仁 壽 二 年 四 月、 奉 命 撰。 又 下 文 云、 如 疏 初 序、 准 此 玄 文。 仁 寿 二 年 造 此 疏。 然 有人云、仁壽四年造此疏者、可問也。今検嘉祥碑、云大業四年。今云仁壽三年。 (下略) (ア) 『述義』に伝を引きて云ふ:後周少帝闡位に在ること一年。隋の楊堅、子の楊光をして位を襲がしむ。即ち隋に二 君 有 り、 合 し て 三 十 八 年 之 を 治 む。 堅 初 め 開 皇 と 年 号 し て 二 十 年 を 註 す。 次 に 仁 壽 と 年 号 し て 四 年 を 註 す。 光 は 大 業 と年号して十四年を経。今、去と言ふは、大業の時において、此の疏を著す故なり。後を以て前を望む、故に去る仁壽 と云ふなり。 ( イ )『 淡 海 記 』 に 云 ふ、 陳 の 時、 楊 光 に お い て 伐 つ 所 な り。 国 を 破 る の 日 を 以 て、 大 師 来 り て 長 安 に 至 る。 長 安 の 年 号、前に仁壽と名づけ、後に大業と呼ぶ。又た後の時に貞観と号す。故に後を以て前を望み、名づけて去る仁壽と為す なり。 ( ウ ) 偈( 伝 の 誤 り か ) あ り て 曰 ふ が 如 し: 後 周 の 終 王 少 帝 闡 諸 太 夫 を 将 ゐ て 先 廟 に 享 祀 す。 掌 客 の 臣 楊 堅 に 二 美 女 と 一 男 有 り、 男 は 是 れ 楊 光 な り。 堅 此 の 二 女 を し て 觴 を 挙 げ 帝 に 上 ら し む。 帝 二 女 の 好 色 に 感 じ、 即 ち 之 に 敕 し て 曰 く、 「 其 の 弟 女 を 納 れ ん と す る の み 」 と。 堅 乃 ち 之 を 献 ず。 仍 り て 此 の 女 を 納 れ て 先 妃 を 棄 て、 寵 愛 す る こ と 甚 だ 重 し。三年を経て、 女 帝に啓して曰く、 「父に見えんことを欲す」と。乃ち詔す、 「三日を過ぐることなくして帰れ」と。 女 退 き て 父 に 語 る に、 「 帝 位 を 欲 す る か 」 と。 父 曰 く、 「 朝 花 に 似 た る が 若 し、 一 日 得 る の み 」 と。 女 曰 く、 「 銛 刀 を 齎 さ ん と 欲 す 」 と。 遂 に 靴 裹 に 置 き て 宮 中 に 入 る。 女 銛 刀 を 以 て 密 か に 帝 の 頸 を 刺 し、 乃 ち 出 で て 敕 し て 曰 く、 「 楊 堅 宮に入れ、女を寵愛せしに因りて位を堅に讓らん」と。 ( エ ) 人 有 り 伝 へ て 云 ふ: 一 巻『 玄 義 』 云 ふ、 大 隋 仁 壽 二 年 四 月、 命 を 奉 じ て 撰 す と。 又 下 文 に 云 ふ、 疏 の 如 く 初 め て 序し、此の玄文に准ず。仁寿二年此の疏を造る。然るに人有りて云ふ、仁壽四年此の疏を造るは、問ふべきなりと。今
嘉祥の碑を検するに、大業四年と云ふ。今仁壽三年と云ふ。
文中に、 (ア) 「『述義』引伝云」の『述義』とは、末木文美士氏によると、 『中論疏述義』のことで、智光の『中論疏記』三 巻を指すとされてい る
)(((
。従うべき見解であろう。つまり、安澄『中論疏記』は智光の『中論疏記』三巻を参考にして書かれ たのである。
前掲の『中論疏記』巻三には、 (ア) 「『述義』引伝云」 、(イ) 「『淡海記』云」 、(ウ) 「如有偈(伝の誤りか)云」の三つの 文 章 が 引 用 さ れ て い る。 福 田 俊 昭 氏 は、 「 如 有 偈( 伝 の 誤 り か ) 云 」 以 下 の 内 容 は「 『 淡 海 記 』 云 」 に 含 ま れ る も の で は な く、 「如有偈(伝の誤りか) 」は独立して引用された文であると指摘し た
)(((
。しかし、ただ『述義』 (智光『中論疏記』 )と記さ れ て い る の で は な く、 ( ア )「 『 述 義 』 引 伝 」 と 明 示 さ れ て い る か ら、 所 引 の「 伝 」 は 看 過 で き な く て、 更 に 検 討 す る 必 要 が あるだろう。
一 般 的 に は、 同 一 文 章 に 二 箇 所 に 同 書 物 が 示 さ れ て い る 場 合、 名 前 が 異 な る こ と は あ り え な い。 す る と、 ( ア ) の「 伝 」 は(ウ)の「偈(伝の誤りか) 」と別のものになる。しかし、 (ア)にある「後周少帝闡在位一年」から「光年号大業、経十 四 年 」 ま で の 内 容 は、 『 浄 名 玄 論 略 述 』 巻 一 に 引 用 さ れ る( 2) 「 有 伝 曰 」 の 内 容 と ほ ぼ 同 じ で あ る。 し た が っ て、 ( ア ) 「『 述 義 』 引 伝 云 」、 ( イ )「 『 淡 海 記 』 云 」、 ( ウ )「 有 偈( 伝 の 誤 り か ) 云 」 の 三 つ の 文 章 は そ れ ぞ れ 独 立 し た 引 用 文 で は な く、 や は り( ウ )「 有 偈( 伝 の 誤 り か )」 を( イ )「 『 淡 海 記 』」 の 一 部 と 見 な し た ほ う が 妥 当 と 言 え よ う。 ( エ ) の 部 分 は、 『中論疏記』の作者安澄が書き入れたものである。
そ の 場 合 は、 ( イ ) の「 陳 時 于 楊 光 而 所 伐、 以 破 国 之 日、 大 師 来 至 長 安。 長 安 年 号、 前 名 仁 壽、 後 呼 大 業。 又 後 時 号 貞 観。 故 以 後 望 前、 名 為 去 仁 壽 也 」 と い う 内 容 は『 淡 海 記 』 の 本 文 で あ り、 ( ウ )「 如 有 偈( 伝 の 誤 り か ) 云 」 以 下 の 内 容 は 「如有伝」のものである。すなわち、 『淡海記』の作者は、直接「如有偈(伝の誤りか)云」の内容を見て、引用したことに
なろう。
仮 に 福 田 俊 昭 氏 の 指 摘 に 従 っ て、 ( ウ )「 如 有 偈( 伝 の 誤 り か ) 云 」 以 下 の 内 容 は「 『 淡 海 記 』 云 」 の 一 部 で は な い と す る と、 安 澄『 中 論 疏 記 』 巻 三 は( ウ )「 如 有 偈( 伝 の 誤 り か )」 す な わ ち(
り、それにしても、 「如有伝」の内容は確かに存在したのであり、その内容が否定されるものではない。
2)「 如 有 伝 曰 」 を 直 接 引 用 し た こ と に な る。 つ ま
また、智光の『浄名玄論略述』巻一本には、 「至長安懸芙蓉曲水日嚴精舍」という語句の注疏として、 (1) 、(2) 、(3) の内容が引用されている。 『浄名玄論』巻一の関連本文は、以下のようである。
金陵沙門釈吉蔵陪従大尉公晋王、至長安縣芙蓉曲水日厳精舍。養器乖方、仍抱腳疾。恐旋南尚遠、而朝露非奢。毎省慰
喻
之言、遊心調伏之旨。但蔵青裳之歳、頂戴斯経。白首之年、翫味弥篤。願使経胎不失、歴劫逾明。因撰所聞、著茲玄 論。 金 陵 の 沙 門 釈 吉 蔵 大 尉 公 晋 王 に 陪 従 し、 長 安 縣 芙 蓉 曲 水 の 日 厳 精 舍 に 至 る。 養 器 方 に 乖 き、 仍 り て 腳 疾 を 抱 く。 恐 ら く南に旋るは尚ほ遠く、而して朝露奢るにあらず。毎に慰
喻の言を省み、心を調伏の旨に遊ばす。但だ青裳の歳を蔵し て、斯の経を頂戴す。白首の年、翫味 弥
いよいよ篤し。願はくは経胎をして失はしめず、歴劫 逾
いよいよ明らかならんことを。因り て聞くところを撰し、茲に玄論を著す。
ここには、吉蔵は陳都建康の攻略を指揮した晋王楊広と一緒に現れるが、 (2) 「有伝」の内容は見られない。
『中論疏記』の(ア)
、(イ) 、(エ)の内容は「言以去仁壽等者」の説明である。たとえ(ウ) 「如有偈(伝の誤りか)云」 以 下 の 内 容 が な く て も、 原 文 の 理 解 に 何 ら 影 響 を 及 ぼ な い。 し た が っ て、 智 光 の『 浄 名 玄 論 略 述 』 巻 一 本 に は、 ( 2) 「 有 伝 」 の 内 容 は な く て も、 不 都 合 は な い。 智 光 に は、 特 に( 2) 「 有 伝 」 の 内 容 を 創 作 し な け れ ば な ら な い 理 由 は 存 在 し て い
ない。むしろ、智光は忠実に原資料を忠実に写したということであろう。したがって、 (2) 「有伝曰」以下の内容を創作し たという見解は、否定的に捉えなければならな い
)(((
。
現在、 『淡海記』は散逸し、現存していないが、安澄『中論疏記』は、随所に引用されている。金文京氏は、 『淡海記』の 現 実 的 で は な い 説 話 を 詳 し く 考 察 し た 上 で、 そ れ ら の 奇 妙 な 説 話 は 日 本 に お い て 独 自 に 勝 手 に 作 ら れ た も の で は な く、 『 捜 神記』などの中国古典に同じ内容が記されていることから、これらを活用したものであると指摘された。また、 「『浄名玄論 略述』の場合も事情は恐らく同じであって、何らかの中国文献をリライトしたか、或いは中国からの伝聞を記述したものと 考 え る の が 妥 当 で あ る と 指 摘 さ れ た
)(((
。 金 氏 の 指 摘 に 従 え ば、 『 淡 海 記 』 に は、 陳 後 主 の 詩 を 含 む 内 容 が 存 在 し た 可 能 性 が 高 いと思われる。
『浄名玄論略述』に引用される(2)
「有伝曰」の内容は、嘉祥寺にいる吉蔵によって記述され、さらに其の弟子らに熟知 さ れ、 伝 来 し て き た の で あ ろ う。 つ ま り、 ( 2) と( ウ ) の「 伝 」 は、 智 蔵 に よ っ て 日 本 に も た ら さ れ、 智 光『 浄 名 玄 論 略 述』 、安澄『中論疏記』ないし『淡海記』に引用されたと考えられるのである。
五 智蔵、大津皇子と淡海三船
である智蔵は、言うまでもなく当時の王公貴族から招請される人物だったであ る
(()と あ り、 中 臣 鎌 子 等 の 内 臣 は 福 亮 を 招 請 し、 『 維 摩 経 』 を 講 じ さ せ た 後、 「 高 才 」「 碩 学 」 の 高 僧 を 講 経 さ せ つ づ け た。 僧 正 其の講匠と為し、甫めて維摩経の奧旨を演べしむ。其の後、天下の高才・海内の碩学、相撰して請ひ用ふること此の如し) 」 奧 旨。 其 後、 天 下 高 才・ 海 内 碩 学、 相 撰 請 用 如 此( 同 年、 中 臣 鎌 子 山 科 陶 原 家 に お い て、 呉 僧 元 興 寺 福 亮 法 師 に 屈 請 し、 『 扶 桑 略 記 』 巻 四 の 斉 明 帝 四 年 条 に は「 同 年、 中 臣 鎌 子 于 山 科 陶 原 家、 屈 請 呉 僧 元 興 寺 福 亮 法 師、 為 其 講 匠、 甫 演 維 摩 経
(
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『懐風藻』大津皇子伝には、
性頗放蕩、不拘法度、降節礼士。由是人多附托。時有新羅僧行心、解天文卜筮、詔皇子曰:太子骨法、不是人臣之相。 以此久在下位、恐不全身。因進逆謀。迷此詿誤、遂図不軌。 性頗る放蕩にして、法度に拘らず、節を降し士を礼したまふ。是れに由りて人多く附托す。時に新羅僧行心といふもの 有 り、 天 文 卜 筮 を 解 す。 皇 子 に 詔 げ て 曰 は く、 「 太 子 の 骨 法、 是 れ 人 臣 の 相 に あ ら ず。 此 を 以 つ て 久 し く 下 位 に 在 ら ば、恐らくは身を全くせざらん」と。因りて逆謀を進む。此の詿誤に迷ひ、遂に不軌を図る。
と あ る よ う に、 大 津 皇 子 の 配 下 に は、 経 書 に 詳 し い 学 士 の み な ら ず、 異 国 か ら 渡 来 し た 新 羅 僧 も い た こ と が わ か る。 し た がって、大津皇子の周りには外国に留学した人物も多くいたことが考えられる。
ところで、新羅に留学経験のある山田三方の「七夕」詩は、陳後主の「狎客」江総の「七夕」詩を真似て詠んだと見られ る
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ことから、山田三方は江総の「七夕」詩だけでなく、陳後主の詩を知って、日本に将来したのであろう。すると、大津皇 子は山田三方から陳後主の詩を得て、それを真似た可能性が考えられる。
山 田 三 方 は 持 統 六 年( 六 九 二 ) 十 月 に 務 広 肆 を 授 か る こ と か ら、 彼 の 帰 国 時 期 は、 そ れ 以 前 と な る
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。『 日 本 書 紀 』 に よ る と、大津皇子が亡くなった朱鳥元年十月以前の留学僧の帰国は以下のようになる。 ①天武天皇十三年十二月癸未に土師宿祢甥が帰国しているが、留学僧は記されていない。 ②天武天皇十四年五月辛未に帰国した学問僧は、観常・雲観の二人しか見られない。
また、朱鳥元年十月以降、 『日本書紀』によると、留学僧の帰国は以下のようになる。 ③持統元年九月甲申に帰国した学問僧は、智隆一人しか記されていない。
④ 持 統 元 年 九 月 甲 申 に 帰 国 し た 学 問 僧 は、 明 聡・ 観 智 等 で あ る。 三 方 沙 弥 の 名 前 は 記 さ れ て い な い が、 「 等 」 と い う 表 現から見ると、明聡・観智二人だけではなく、そこに含まれた可能性がある。 ⑤持統元年九月甲申に帰国した学問僧は、智宗・義徳・淨願の三人しか見られない。 し た が っ て、 山 田 三 方 の 帰 国 時 期 と し て は、 持 統 元 年 九 月 甲 申 が 最 も 有 力 で あ る。 つ ま り、 山 田 三 方 は 陳 後 主 の 詩 を 知 っ て、日本に将来したとしても、朱鳥元年十月に亡くなった大津皇子がこれを知るはずがないのである。
また、新羅僧行心は天文・ト筮というト占の類の法を会得していたようであるが、中国の文人文集についての知識を持っ ていたかは不明である。したがって、大津皇子が山田三方や新羅僧行心から陳後主の詩を知ったかどうかは判断できないこ とにな る
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一方、留学僧の智蔵も「尤愛文筆」かつ「詩賦之興、自大津始也」と褒め称えられた大津皇子が交際する対象としては相 応しい。大津皇子の詩に「述志」があり、智蔵の詩に「言志」があり、両者には「述懐」類の作品があるのも偶然ではなか ろ う
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。大津皇子は、僧正智蔵から直接に陳後主の詩を知ったのではないだろう か
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と こ ろ で、 『 日 本 書 紀 』 巻 三 十 の 朱 鳥 元 年 十 月 庚 午 条 の 卒 伝 に「 為 天 命 開 別 天 皇 所 愛 」 と あ る よ う に、 大 津 皇 子 は 天 智 天 皇に愛されていたのである。彼の母は天智天皇の娘大田皇女であり、妻は天智天皇のもう一人の娘山辺皇女である。また、 彼の名前「大津」は、天智朝の都、近江国大津と深くかかわっていると思われる。
ま た、 『 懐 風 藻 』 の 編 纂 者 は『 淡 海 記 』 の 作 者 と 同 じ く、 奈 良 時 代 の「 文 人 之 首 」 と 言 わ れ る 淡 海 三 船 で、 天 智 天 皇 の 五 世 孫 で あ る。 し た が っ て、 淡 海 三 船 が 大 津 皇 子 に 対 し て、 親 近 感 を 抱 い て き た の は 言 う ま で も な い。 血 縁 関 係 の せ い か、 『懐風藻』に最初挙げられた人物は淡海朝皇太子(大友皇子)であり、続いて河島皇子(天智天皇第二皇子) 、大津皇子、智 蔵、葛野王等である。
注 目 す べ き こ と は、 智 蔵 が『 懐 風 藻 』 に お い て 四 番 目 の 人 物 で あ り、 五 番 目 の 人 物 が 正 四 位 上 式 部 卿 葛 野 王 で あ る。 ま
た、 葛 野 王 に 続 く 人 物 は、 「 諸 人 未 得 伝 記 」 と あ る よ う に、 詳 し く 知 ら れ て い な か っ た よ う で あ る
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。 葛 野 王 は 淡 海 朝 皇 太 子 ( 大 友 皇 子 ) の 第 一 皇 子 で、 『 懐 風 藻 』 葛 野 王 伝 に は「 少 而 好 学、 博 渉 経 史。 頗 愛 属 文、 兼 能 書 画。 ( 中 略 ) 皇 太 后 嘉 其 一 言 定国。特閲授正四位、拜式部卿。時年三十七(少くして学を好み、博く経史に渉る。頗る文を属ることを愛み、兼ねて書画 を 能 く す。 ( 中 略 ) 皇 太 后 其 の 一 言 の 国 を 定 め し こ と を 嘉 み し た ま ふ。 特 に 閲 し て 正 四 位 を 授 け、 式 部 卿 に 拜 し た ま ふ。 時 に 年 三 十 七 )」 と あ り、 「 愛 属 文 」「 能 書 画 」 だ け で な く、 か な り の 度 胸 と 見 識 を 持 ち「 一 言 定 国 」 と 言 わ れ る ほ ど 立 派 な 人 物であった。では、一介の僧侶である智蔵が、どうして『懐風藻』には葛野王の前に挙げられ、四番目の人物として置かれ たのであろうか。
前 述 の よ う に、 『 浄 名 玄 論 略 述 』 は 八 世 紀 半 ば に 書 か れ た も の で あ る。 時 期 的 に は、 『 懐 風 藻 』( 七 五 一 年 成 立 ) と ほ ぼ 同 時期に成立している。つまり、八世紀半ばにおいて、大津皇子の詩と陳後主の詩は同時に世間の注目を浴びていたことがわ かる。したがって、 『淡海記』 『懐風藻』の編集者淡海三船は『浄名玄論略述』の作者智光と同じく、隋が陳を滅亡させたこ と及び陳後主の詩を智蔵から知り得ていたに違いない。陳後主の詩に基づいて改作された大津皇子の詩が、淡海三船に注目 され、 『懐風藻』に収録されたのは尤ものことであったのであ る
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く、日本最初の詩僧として漢文学に及ばした影響は量り知れないものがあっ た
(()『 懐 風 藻 』 に は、 智 蔵 の 詩 は 二 首 し か 収 め ら れ て い な い が、 胡 志 昴 氏 が 指 摘 し た よ う に、 智 蔵 が 古 代 の 高 僧 ば か り で な
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。おそらく仏教界における地位だけでなく、 智 蔵 が 唐 に 留 学 し た 経 歴、 持 ち 帰 っ た 漢 籍 経 典 及 び 彼 自 身 の 広 く 深 い 学 識 は、 「 文 人 之 首 」 と さ れ る 淡 海 三 船 に 注 目 さ れ た のであろう。勿論、智蔵が将来した陳後主の詩もそこに含まれたのは言うまでもない。
おわりに
終わりに、本稿において指摘した三点をまとめておく。第一に、陳後主の「臨行詩」は吉蔵によって記されて、僧智蔵が 嘉祥寺でそれを入手し、倭国に将来した後、弟子の僧智光によって『浄名玄論略述』に収録されたと考えられる。
第二に、智蔵との親交を通じて、大津皇子が陳後主の詩を知得し、自殺する前に詠んだ「臨終一絶」詩には陳後主の「臨 行詩」の影響が見られた。その後、大津皇子に対する親近感を抱いていた淡海三船によって、その詩が『懐風藻』に収録さ れたということである。
第 三 に、 「 文 人 之 首 」 で あ る 淡 海 三 船 は、 仏 教 界 に お け る 地 位 だ け で な く 唐 に 留 学 し た 経 歴 を 持 ち、 内 外 経 典 を 将 来 し た 智蔵に注目し、彼が将来した陳後主の詩を含む陳後主関連記録を得て、 『淡海記』に収めたことが考えられる。
大津皇子の「臨終一絶」なしには『浄名玄論略述』に見える詩は出現しえないという見方は妥当なものではなく、やはり 陳後主の「臨行詩」が倭国に渡り、以上のような経緯によって、大津皇子の詩がこれをもとに改作されて、成立したという ことになろう。
注(
( 1) 王勇『唐から見た遣唐使』、講談社、二〇〇二年。
「」研究』、和泉書院、一九八九年)、濱政博司大津皇子臨終詩群の解釈(『万葉集と漢文学』、汲古書院、一九九三年)、金文京「黄泉の宿 研究』第一一四号、二〇〇二年)、濱政博司「大津皇子臨終詩と金聖嘆・成三問
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日中朝の臨刑詩の系譜」(同氏著『日中朝の比較文学 福田俊昭「大津皇子「臨終詩」の系譜」(『日本文学研究』第十八号、一九七九年)、福田俊昭「海を渡った大津皇子の「臨終詩」」(『東洋 之「近江朝前後の文学その二─
大津皇子の臨終詩を中心として」(同氏著『万葉以前─
上代びとの表現』、岩波書店、一九八六年)、 2) 今まで、陳後主の「臨行詩」についての研究論著は、小島憲之「大津皇子の文学周辺」(『歴史と人物』一九七八年十一月号)、小島憲─
臨刑詩の系譜とその背景」(『興膳教授退官記念 中国文学論集』、汲古書院、二〇〇〇年)、金文京「従『全唐詩』一首「臨刑詩」談日韓資料在漢学研究上之価値」(『中華文史論叢』第六十四期、二〇〇〇年)、金文京「大津皇子「臨終一絶」と陳後主「臨行詩」」(『東方学報』第七三号、二〇〇一年)などがある。(( 漢籍遺産
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奈良を中心として』、勉誠出版、二〇一二年)。 3) 葛継勇「大津皇子の「臨終一絶」と陳後主の「臨行詩」─
江為の「臨刑詩」との関連を中心に」(河野貴美子・王勇編『東アジアの( 4) 前掲注(二)金文京「大津皇子「臨終一絶」と陳後主「臨行詩」」。
( 5) 前掲注(二)金文京「大津皇子「臨終一絶」と陳後主「臨行詩」」。
( 所王処、名曰晋王。光即尊威、不敢言名、故挙処名。」とあるように、避諱のために「晋王」と呼ばれたことがある。 6) 『浄名玄論略述』巻一「陪従大尉公晋王」の注には「言晋王者、揚(楊の誤り、以下同じ)堅之子、名曰揚光。封以揚光而王晋地、從
( 7) 末木文美士「元興寺智光の生涯と著述」(『仏教学』第十四号、一九八二年)。
( の三ヶ月経たないうち、僧正に任じられた。しかし、他の文献に見えないことから、この記事は疑わしいと思われる。 8) 『元亨釋書』巻第二十の推古天皇三十三年条に「夏、釈慧灌擢僧正。秋、冬沙門福亮爲僧正」とある。福亮は師僧の慧灌の僧正任命後
( になる。 始也。蹈勝地、尋明師、経律論多渉獵、益究三論之旨。養老元年帰、盛唱空宗」とある。これによると、道慈は養老元年に帰国したこと 9) 『元享釈書』巻一の道慈伝には「釈道慈、姓額田氏、和州添下郡人也。事吳智蔵、稟三論学。大宝元年、入唐請益。于時、武后長安之
( 寺、延興寺等に住み、最後に延興寺で亡くなっている。 10) 六五八年に建てられた西明寺(元は唐の魏王李泰の住宅)は当時未だ存在しなかった。吉蔵は長安の日厳寺、実際寺、定水寺、会昌
( 11) 前掲注(七)末木文美士「元興寺智光の生涯と著述」。
( 12) 東野治之「法起寺露盤銘」(同氏著『日本古代金石文の研究』、岩波書店、二〇〇四年)第三二六頁。
( 二十八号、二〇〇二年)。 13) 王勇「呉越に留学した智藏」(『中日文化論叢』一九九五号、一九九六年)、王勇「狂人を装う留学僧
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智蔵列伝」(『アジア遊学』第( 僧
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智蔵列伝」。 14) 井上光貞「三経義疏成立の研究」(同氏著『日本古代思想史の研究』、岩波書店、一九八六年)、前掲注(十三)王勇「狂人を装う留学( 15「」) 胡志昴釈智蔵の詩と老荘思想(『埼玉学園大学紀要』(人間学部篇)第十号、二〇一〇年)。
( 16) 横田健一「『懐風藻』所載僧伝」(同氏著『白鳳天平の世界』、創元社、一九八九年)。
( 17「」) 前掲注(十五)胡志昴釈智蔵の詩と老荘思想。
( 18) 前掲注(二)金文京「大津皇子「臨終一絶」と陳後主「臨行詩」」。
19) 前掲注(十六)横田健一「『懐風藻』所載僧伝」。