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「天誅窟」探索記

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

「天誅窟」探索記

著者 長田 光男

雑誌名 高円史学

巻 20

ページ 61‑64

発行年 2004‑10‑01

その他のタイトル Searching for "Tenchu‑kutsu" (天誅窟)

URL http://hdl.handle.net/10105/8820

(2)

︹ 余   録

﹁天諌窟﹂ 探索記 ︺

文久三年八月 ︵旧暦︶︑擾夷祈願の目的で孝明天皇が大

和に行幸して畝傍御陵と春日社に参拝するとの詔が下った︒

これを討幕の行動をおこす絶好の機会ととらえた尊王壊夷

派の志士達は︑公家の中山忠光を主将とし︑藤本鉄石・松

本杢堂・吉村寅太郎を総裁として大和に下り︑﹁数千の義

兵を募って御親征を南都に迎へに参る﹂ ことを目的に立ち

上がった︒そして八月十七日︑総勢およそ七十名で五候代

官所を襲い︑代官らの首をあげ︑代官所を焼き︑近くの桜

井寺を本陣として門前に ﹁御政府﹂ の看板を揚げた︒いわ

長     田     光     男

ゆる天誅組の変である︒

ところが︑翌十八日になって︑会津・薩摩の公武合体派

が宮廷内から長州を中心とする尊壊派を追放し︑朝議は一

変︑天皇の大和行幸は中止となった︒挙兵の名目を失いl一

転して朝敵となった天誅組は︑以後四十数日の間大和各地

を転戦・敗走し︑ついに東吉野において潰え去った︒

2

文久三年九月二十四日から六十日余り︑天誅組志士の小

川佐吉らが病気療養のため潜んでいたという洞窟が ﹁天諌

(3)

窟﹂ と呼ばれて川上村伯母谷に遺存すると聞いて︑私達四

名は平成十五年十月二十六日にその探索に出かけた︒天誅

組の変百四十周年の年であった︒

幕府方の追討軍と戦いながら︑五條1十津川1下北山1

上北山1川上へと転戦してきた天誅組は︑峻険な伯母峰を

越える頃には連日の過労と傷病者の続出でさすがに難渋の

極にあったようである︒久留米藩出身の小川佐吉 ︵師人︶

ら十数名は行軍不能となり︑伯母谷でしばし休養をとるこ

こ う だ に

とになった︒庄屋の水本勘次郎は上谷の庄屋中谷安太郎と

相談して︑傷病者を分散して引き受け︑食事や傷病の世話

などに努めた︒九月二十四日︑中山忠光ら本隊は彼らを残

して東吉野へと下って行った︒傷病者の看護のために医者

の乾十郎は残留した︒

十日ほどでほとんどの者は元気をとり戻し︑伯母谷を出

発したが︑小川佐吉だけは熱が下がらず︑やむなく庄屋の

水本は追討軍や村人の目を避けるために︑小川と乾十郎の

二人を自分の所有の山奥の洞窟にかくまったという︒その 時の記録として水本家に ﹁中山様御家来病気二付逗留中入 用覚帳 文久三年亥十二月﹂ ︵水本家文書︶ が残る︒そこ には︑例えば十一月晦日として ﹁中山様御家来逗留中ふと ん壱ツ損料﹂ や魚代・紙筆代など計九匁の費用が記されて いる︒他にも同様の記載がある︒

(4)

3  

伯 母

谷 の

水 本

家 を

訪 ね

た 後

︑ 私

達 は

  ﹁

天 課

窟 ﹂

  を

探 索

るために東熊野街道として遣存の山路に入った︒嘗てその

洞窟を探索したというこの村の浦本氏が道案内に立って下

さった︒東熊野街道とは名ばかりで︑途中からは道は消え︑

私達は潅木などを切り払い︑かき分けつつ︑山腹や谷筋を

探るようにしながら︑小一時間かかって︑ようやく眼下に

大迫ダムを見下ろせる絶壁の下へ辿り着いた︒﹁この崖を

登る﹂ との浦本氏の指示で︑崖に生える木にロープを引っ

かけ引っかけしながら崖をよじ登った︒約二十m登った所

に︑ぽっかりと洞窟らしきものが口を開けている︒﹁ここ

だ︒﹂ と浦本氏が言うので︑木の根っこや小枝にしがみつ

きながら︑やっと這い上がった︒畳二畳ほどの広さで天井

も立つことができないはどの低さである︒奥行きは全くな

い︒見つかれば逃げようがない︒他の者は ﹁これか︒﹂ と

感嘆しているが︑私はここではなく︑もっと深い洞窟が他 にあるのでは? と考えていた︒

﹁ほかにもないか探してみる︒﹂ と言って私はそこを出

て木にすがり付きながら更に上方の崖を見回した︒十mほ

ど上に岩の割れ目らしき所がある︒私は再びロープを上方

の木に引っかけて崖をよじ登った︒

﹁あった! これだ!﹂ と叫んだ︒そそり立つ崖はそこ

だけ深く割れ込み︑暗闇の洞窟は奥へ奥へと限りなく続い

ていた︒懐中電灯の明かりも奥まで届かないほど深く︑枝

分かれもしている︒浦本氏も︑これは知らなかったと言っ

て驚いている︒みんな︑私の発見に喜んだ︒これぞ ﹁天謙

窟﹂ なのだ︒ここなら追討軍はおろか︑この村人にも気付

かれることはない︒︵帰りに再び水本家に立ち寄り︑写真

その他で確認した︒やはりこの洞窟であるとの確証を得た︒

但し︑川上村の人々は︑今でもこの洞窟の所在を知ってい

ないとのことであった︒︶

懐中電灯で念入りに壁や地面を調べてみたが︑遺留品と

か文字らしき痕跡などを見つけることができなかった︒

(5)

ここなら小川佐吉が全快するまで六十余日をゆっくり休

養できたであろう︒それにしてもここは大変な絶壁︒世話

をやいたという水本家では︑どのようにしてこんな山奥の

絶壁へ食料やふとん類など︑当座の生活資材を運び込んだ

の で

あ ろ

う ︒

4

天   誅   窟

川上村伯母谷

天誅組の小川佐吉・乾十郎が潜んでいた洞窟︒東熊野街道の崖の 下から三十mほどよじ登ったところにある︒ ︵撮影 長田光男︶ 全快した小川佐吉は︑お礼にと短刀など三品を水本家に 遺し︑医者の乾十郎と共に樵夫姿に変装して伯母谷をあと にした︒脱出に成功した小川は長州に入り︑宮田半四郎と 名を変え︑遊撃軍参謀兼司令官となって明治元年正月︑鳥 羽伏見の戦に出た︒重傷を負い︑海路周防国三田尻に着い たが︑同年三月十一日に死去した︒三十八歳であった︒明 治以後︑殉国の士として靖国神社に祀られた︒

乾十郎は小川と別れて摂津の吹田で名を楠本橙庵と変え

医者をしていたが︑幕吏の探知するところとなり捕えられ︑

元治元年七月︑京都六角の獄舎で斬首された︒三十七歳で

あった︒﹁いましめの縄は血Lはに染まるともあかき心は

な を

か は

る べ

き ﹂

  の

辞 世

を 遺

し た

一 指

噴 噂

碩 謂

媚 編

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