「法と政治」雑感,あるいは法哲学者の独り言
著者 高橋 文彦
雑誌名 明治学院大学法学研究 = Meiji Gakuin law journal
巻 102
ページ 275‑291
発行年 2017‑03‑07
その他のタイトル Miscellaneous Thoughts on Law and Politics, or a Soliloquy of a Legal Philosopher
URL http://hdl.handle.net/10723/2996
「法と政治」雑感,あるいは法哲学者の独り言
Miscellaneous Thoughts on Law and Politics, or a Soliloquy of a Legal Philosopher
高 橋 文 彦
はじめに
共同研究「現代政治研究の新潮流」
(2013〜2014)
にお誘いいただいたおかげ で,法と政治の関係ならびに法学と政治学の関係について改めて考える機会を もつことができた。お恥ずかしい話だが,私はこれまで「政治学」という学問 をほとんど理解していなかった。私が大学時代に受講した「政治学」と称する 講義は,私の記憶に残っている限りでは,藤原彰教授の講義だけだったように 思う(1)。ある時,同世代の政治学者にそのことを話すと,「あの人は歴史学者 でしょう」と言われた。「そうだったのか」と,私は初めて気がついた。この ように政治学に無知な私にとって,渡部純教授の著書『現代日本政治研究と丸 山眞男』の第 2 章は,戦後日本における正統的な(!?)
政治学の大雑把な流 れを知る上で,大いに有益であった(2)。なるほど,そう言われてみると,私の 学生時代にも,丸山真男,神島二郎,福田歓一,藤田省三,高畠通敏といった 正真正銘の政治学者の名前を耳にしたことはあった。にもかかわらず,私は政 治学を真面目に勉強しないまま,法哲学者になってしまった(3)。改めて政治学者の書いた著作を読んでみると,当然のことながら,法学者が 書いたものとは,研究対象だけではなく,思考方法や文筆のスタイルまでもが 異なることに気づく。もちろん,実定法学者よりも法哲学者の方が政治学者に
近い発想をすることは確かである。しかし,それでも両者の発想には大きな違 いがあるように思われる。本稿では,この違いについて法哲学者の視点から考 えてみたいが,まずその前に,「法/法学」および「政治/政治学」という基 本概念の意味について簡単に確認することから始めたい。次に,両者の接点を 探るため,「法/法学」と政治イデオロギーという論点を取り上げ,この論点 に関するいくつかの異なった立場を概観する。そして最後に,当初の問題に立 ち返り,法的思考と政治的思考の対立点について法哲学的な視角から若干の考 察を加えてみたい。
1. 「法/法学」と「政治/政治学」
常識的に考えると,法と政治ならびに法学と政治学は互いに密接な関係にあ るように思われる。しかし,そう言いうるためには,「法/法学とは何か」お よび「政治/政治学とは何か」という問いに対して,既に何らかの答えを提出 する用意がなければならないだろう。
1. 1 「法/法学」とは何か
法哲学者が「法とは何か」を語り始めると,いつまでも話が終わらなくなる。
そこで,まず「法/法学」の常識的な意味を知るために,『新明解国語辞典[第 7 版]』
(三省堂,2012 年)
をひもといてみると,「法」は,①法律,②その場に おいて妥当とされる行為の基準,③…と説明されている。確かに,常識的には「法=法律」であろう。しかし,周知のように,法哲学者を含む広義の法学者 は,そうは考えない(4)。法学者の常識によれば,法律は制定法の一種に過ぎず,
国会が制定する狭義の「法律」以外に,行政機関が制定する命令や地方公共団 体の制定する条例もまた制定法に含まれる。しかも,我が国においては制定法 以外に慣習法もまた制度上の法源であり,法は慣習法という形でも存在すると
考えられている。このように専門家の常識は辞書的な常識とはしばしば一致し ない。
同じ辞書で今度は「法学」を引いてみると,「法律に関する学問の総称」と 書いてある。しかし,上述のように,「法」を広義に理解するならば,実定法 学を念頭に置いた場合でさえ,この狭い定義には異論がありうる。ましてや,
基礎法学の一つである法哲学においては,実定法を超えた自然法について考察 することさえあるから,この辞書の定義は狭すぎる。せめて「法に関する学問 の総称」と書いてほしかった。ここでも法学者の常識は辞書的な常識からずれ ている。
1. 2 「政治/政治学」とは何か
そうなると,政治学を専門的に勉強したことのない私が,自分の専門を越え 出て,ここで「政治/政治学とは何か」という問いに答えることなど,とても 恐ろしくてできない。そこで,専門家の執筆した文献を探してみたところ,ま さにぴったりの題名をもつ論文を見つけた。添谷育志教授の「政治/政治学と は何か」(5)である。しかし,悲しいかな,私には理解力が致命的なまでに不足 しているのであろう。何度読んでも,答えが見つからないのである。仕方がな いので,もう一度『新明解国語辞典』をひもとくと,「政治」は,「住みやすい 社会を作るために,統治権を持つ
(委託された)
者が立法・司法・行政の諸機 関を通じて国民生活の向上を図る施策を行ったり治安保持のための対策をとっ たりすること」と定義されていた。ちなみに,この辞書には「政治学」の定義 は載っていない。1. 3 「法」と「政治」の距離
政治学者からは叱られるかもしれないが,この「政治」の辞書的定義を念頭 に置くならば,法と政治ならびに法学と政治学の間に密接な関係があることは
十分理解できる。なぜなら,統治者は立法・司法・行政の諸機関を通じて政治 を行うからである。「立法」とは法を定立することであり,立法機関とは法を 制定する機関である。「司法」とは法を司ることであり,裁判所が法に基づい て裁判を行うことである。したがって,立法および行政が法と密接に結び付い ていることは,定義上,明白である。これに対して,「行政」を定義すること は容易ではない。毛桂榮教授によれば,「行政」にはおよそ三つの意味がある という(6)。第一に,三権分立論における「行政」であり,立法と行政を除いた 部分
(いわゆる「控除説」)
としての「行政」である。第二に,民主的に選挙さ れた政治家が行う活動としての「政治」に対置される「行政」であり,専門能 力に基づく資格で任用された職業公務員が行う活動としての「行政」である。そして,第三に,「司法行政」や「学内行政」のように,各種組織における管 理業務に相当する部分もまた「行政」と呼ばれる。上述の「政治」の定義に含 まれる「行政」は第一の意味に理解されるが,控除説は「行政」の積極的な定 義を避けているので,法との関係は明示されていない。しかしながら,少なく とも「法治国家」においては,行政は法律の制限の下で行われており,ドイツ や日本においては「法律による行政の原理」が行政法の基本原理の一つになっ ていることを考えれば,法と行政の密接な関係もまた明らかであろう。以上の ように概念を腑分けしてみると,法と政治の距離はかなり近いように見える。
それでは,「法/法学」と政治イデオロギーとの関係についてはどうであろうか。
2. 「法/法学」と政治イデオロギー
「法/法学」と政治イデオロギーとの関係について考えるための手がかりを 得るために,何人かの法思想家の見解を取り上げて,大雑把にスケッチしてみ る(7)。私の能力的な限界のために,かなり恣意的な選択となるが,その点はご 了承願いたい。
2. 1 ケルゼン
まず最初に,「純粋法学」を提唱したハンス・ケルゼンを取り上げよう。『ハ ンス・ケルゼン自伝』を読むと,ケルゼンの波瀾万丈の人生は,彼がまさにリ ベラルなユダヤ人であるが故に,常に政治や宗教に翻弄されていたことがよく 分かる。ウィーン大学におけるゼミの指導教授ベルナチックからは,ユダヤ人 であるが故に「君には学者としての未来はないよ」と言われ,第一次大戦後に 自ら創設したオーストリア憲法裁判所ではリベラルであるが故に保守的なカト リック勢力から攻撃され,ケルン大学ではユダヤ人であるが故にナチス政府に 罷免され,命からがらドイツからスイスに亡命せざるを得なかった。
その亡命先で執筆されたマニフェスト的な著作『純粋法学』(8)においては,
法学が規範科学たり得るためには,事実を探求する経験科学
(自然科学,心理学,
社会学など)
から純化されるのみならず(9),法外在的な価値判断(宗教,道徳,政 治イデオロギーなど)
からも完全に純化されなければならないことが,緊張感に 満ちた力強い筆致で論じられている。ケルゼンによれば,法規範は命令ではな く仮言判断であり,そこでは法律要件と法律効果が「帰属関係」という当為的 な関数関係によって結び付けられている。そして,この法律効果とは国家によ る強制行為であるから,その意味において法規範はすべて強制規範なのである。ケルゼンが展開したこの極めて形式的な法理論において,法秩序は「根本規 範」を頂点とする段階構造として,すなわち政治色も宗教色もすべて脱色され た法規範から成る無色透明のピラミッド型の体系として描かれる。ケルゼンの
「純粋法学」の特質は,シュミットの「政治神学」と対比することによって明 確に浮き彫りにされる(10)。両者は伝統的な意味における自然法を否定する点で は共通している。しかし,シュミットが当時の政治動向に歩調を合わせるかの ように,「主権者の決断」を自然法の代替物として実定法秩序の頂点に据えた のに対して(11),ケルゼンは自然法を形式化し脱色し去勢した上で,この政治的
に無色透明となった法規範を「根本規範」と改名し,すべての実定法規範の妥 当性の究極的な根拠とした。まさに,「純粋法学」が純粋たる所以である。
ケルゼンは法学から政治イデオロギーを徹底的に消去しようとした。しかし,
言うまでもなく,いくら法学を政治や宗教から理論的に純化したとしても,法 や法学が現実社会において政治から超然としうるわけではない。実際,「純粋 法学」はまさに純粋であろうとしたが故に,政治的な無力という負の政治性を 逆説的に示さざるを得なかった。
2. 2 ハート
ケルゼンと並ぶ代表的な法実証主義者ハートもまた,法を道徳や政治から独 立した概念として,すなわち「第 1 次的ルールと第 2 次的ルールの結合」とし て,定義しようとした(12)。ハートの生涯は,戦時中にイギリスの情報機関
MI5
に所属していたという事実が多少興味を引く程度で(13),政治的な観点から見れ ば,比較的平坦なものに見える。しかしながら,法を考察するに際して法外在 的な価値判断(特に道徳)
からはっきりと距離を置こうとする実証主義的な姿 勢は,ケルゼンと共通している。というよりも,極論すれば,ハートの法理論 は,ケルゼンの純粋法学をイギリスというコモン・ローの世界で批判的かつ発 展的に継承したものとさえ言える。実際,ハートの用いる基本概念の多くは,ケルゼンの純粋法学の中に対応物を見出すことができる。例えば,「外的視 点/内定視点」の二分法は「存在/当為」の二元論に,法解釈における「開か れた構造」は「枠理論」に,そして,「承認のルール
(認定のルール)
」は「根 本規範」に対応しており,いわゆる「司法裁量」を正面から認める点でも両者 は共通している。このうち,ハートの法概念論において決定的な役割を果たすのが,周知のよ うに,第 2 次的ルールに属する「承認のルール」である。ハートによれば,承 認のルールは,あるルールがその社会集団における法的ルールとなるためには,
どのような特徴をもたなければならないかを規定する。換言すれば,承認のルー ルが定めるテストをパスすれば,そのルールはその社会集団における法的ルー ルとして承認
(認定)
されるのである。したがって,ナチス統治下のドイツ帝 国議会で制定された「悪法」も,制定当時の「承認のルール」に適合している 限り,法として承認される。ハートによれば,「これは法である」と認めた上で,「しかし,それはあまりに邪悪であるから,服従・適用できない」と付言すべ きなのである。
2. 3 ドゥウォーキン
このようなハートの法実証主義に対して,オックスフォード大学における ハートの後任となったドゥウォーキンは,根源的な疑問を提起した(14)。ドゥ ウォーキンによれば,法を政治道徳から独立に定義することはできない。法は 単なるルールの体系ではないのであって,とりわけ法的ルールの単純な適用だ けでは結論を導くことができないような「ハード・ケース」においては,法的 ルールとは区別される「原理」が重要な機能を果たしている。このようにハー トの法概念を批判した上で,ドゥウォーキンは次のように明言する。「しかし,
法はルールの体系であるという考え方を私が拒否するからといって,私がこの 考え方に代えて,法はルールと原理の体系であるという理論を採用していると いうわけではない。他から明確に区別され,それぞれ固有の基準形をもった個 別的命題の集合体たる「法」といったものは存在しない。(15)」要するに,ドゥ ウォーキンによれば,法的原理と他の原理とを明確に区別しうるような「承認 のルール」は存在しないのであって,法と政治道徳はいわば地続きなのである。
したがって,法命題の真理条件には政治道徳的な考慮が含まれざるを得ないか ら,ハートの主張するような法実証主義は成立し得ないことになる(16)。 ドゥウォーキンによれば,ナチスの法も解釈以前的な意味においては法であ る。しかし,ある人が,ナチスの法は法体系に不可欠の特徴を欠いているとい
う解釈上の判断に基づいて「ナチスの法は本当の法ではなかった」と言うなら ば,その人の言葉遣いはこの政治道徳的判断にとって適切であり,十分に理解 可能である。これがこの問題に対するドゥウォーキンの立場である。
2. 4 批判法学
ドゥウォーキンは法と政治道徳の分離を否定したが,その解釈的アプローチ は,森村進教授が指摘するように,「裁判官の建前上の議論をこれまでなかっ たほど好意的に説明した(17)」ものであった。畠山弘道教授の表現を借りれば(18), それはあくまでも《よい子》の法哲学なのである。これに対して,「法のイデ オロギー性」を極端なまでに強調し,「政治としての法」を過激に主張したのが,
いわゆる「批判法学
(批判的法学研究)
」であった(19)。1960 年代の新左翼運動に 一つの淵源をもつ「批判法学」の主張には,マルクスによるイデオロギー批判 の影響が明らかに見て取れる。念のために,マルクス『経済学批判』から有名 な一節を引用しておこう。「人間は,その生活の社会的生産において,一定の,必然的な,かれらの意志から独立した諸関係を,つまりかれらの物質的生産諸 力の一定の発展段階に対応する生産諸関係を,とりむすぶ。この生産諸関係の 総体は社会の経済的機構を形づくっており,これが現実の土台となって,その うえに,法律的,政治的上部構造がそびえたち,また,一定の社会的意識諸形 態は,この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は,社会的,政 治的,精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するの ではなくて,逆に,人間の社会的存在がその意識を規定するのである。(20)」マ ルクスの表現を借りれば,「批判法学」は「上部構造」としての「法/法学」
がはらむイデオロギー性を鋭く指摘したのである。
もっとも,「批判法学」によるイデオロギー批判は,必ずしも唯物史観が主 張するような経済的決定論に単純に依拠しているわけではない。確かに,「批 判法学」の支持者たちは,契約法が資本主義経済を土台とするイデオロギーで
あること,裁判所は決して政治的に中立ではなく,現実には社会的・政治的判 断が裁判所の決定を導いていること,伝統的な法学が社会的対立や抑圧の存在 をイデオロギー的神話によって隠蔽する作用を果たしていることなどを指摘す る。しかしながら,「批判法学」の主張はそれに留まらない。例えば,従来の「公
/私」二元論が,「法は家庭に入らず」というレトリックによって,家庭とい う私的領域における男性による女性搾取を放任し,家庭内暴力
(DV)
を放置す るという意味において,まさに「家父長制イデオロギー」に荷担していたこと を暴露した点では,マルクス主義的なイデオロギー批判をも超える射程をはら んでいたと言えよう(21)。2. 5 法学者は《よい子》である?
さて,以上の荒っぽいスケッチから,一体何が言えるであろうか。さしあた り雑駁な感想を述べさせていただけば,どの法学者も「法/法学」が政治イデ オロギーと無縁ではありえないことには,当然のことながら,気がついている。
だからこそ,ケルゼンの「純粋法学」は躍起になって法理論から政治イデオロ ギーを追放しようとしたのであり,逆に「批判法学」は「法/法学」のイデオ ロギー性を過剰なまでに批判したのである。しかしながら,後者の批判は,法 外在的な立場から,すなわちハートの用語に従えば「外的視点」からなされて いる。このことは,法学の学問的性格を考える上で重要である。もし法哲学を 含む広義の法学が,「内的視点」という《よい子》の視点なしには成立し得な いものであるとすれば(22),むしろハートとドゥウォーキンのような考察態度こ そが実は法理論の王道を行くものではないか。この問いに答えるためには,法 的思考を政治的思考と対比させつつ,その論理的な特質について考えてみなけ ればならない。
3.法的思考と政治的思考
法的思考と政治的思考を対比するのであれば,それぞれの思考の担い手をま ず明らかにしておく必要があろう。ここでは,便宜上,その主体を狭く限定し て,それぞれ法学の研究者としての法学者および政治学の研究者としての政治 学者を考えることにしたい。
3. 1 政治学者の政治的思考
さて,政治学者の思考様式は法学者の思考様式とどのような点で異なってい るのであろうか。前述のように,『新明解国語辞典[第 7 版]』には「政治学」
の定義が載っていないが,『広辞苑[第 6 版』
(岩波書店,2008 年)
はこれを「ひ ろく政治現象を研究する学問。古代ギリシアに起源をもつが,独立した学問と しての近代政治学の形成は 16 世紀のマキアヴェリ以後のこととされる。」と説 明している。そこで,政治学的な考え方の淵源を探るために,マキアヴェリの『君主論』を読んでみると,第 18 章であの有名な一節に出会う。「あなた方は,
…闘うには二種類があることを,知らねばならない。一つは法に拠り,いま一 つは力に拠るものである。第一は人間に固有のものであり,第二は野獣のもの である。だが,第一のものでは非常にしばしば足りないがために,第二のもの にも訴えねばならない。そこで君主たる者には,野獣と人間とを巧みに使い分 けることが,必要になる。(23)」マキアヴェリはここで「法」による闘い方と「力」
による闘い方を対比した上で,統治者はこの両方を使い分けなければならない と主張する。となると,「力」による闘い方を支える思考様式が,法学には欠 けた政治学特有の思考様式なのであろうか。
3. 2 法学者の原理的思考
一般に,法学者は政策的思考に対比される原理的思考にこだわる。一例を挙 げよう。いわゆる「法と経済学」,すなわち「法の経済分析」は,法の領域に ミクロ経済学の手法を導入し,伝統的な法学者に大きな衝撃を与えたが,また 大きな反発も買った。ミクロ経済学は「効用」の概念を基礎として,社会状態 の効率性を「パレート基準」あるいは「カルドア・ヒックス基準」によって評 価するが,「法と経済学」は,この考え方を法学に応用して,契約の破棄が全 体的な効用を増大させる場合には,「契約を破る自由」を正面から認める(24)。 これは一種の政策的な思考である。これに対して,伝統的な法学者は「合意は 守られなければならない」という原理を墨守しようとするが,これはまさに原 理的な思考と言える。
周知のように,ドゥウォーキンは「政策の論証
(立論)
」と「原理の論証(立 論)
」を対置する。ドゥウォーキンによれば,政策の論証とは,ある政治的決 定が集団的目標を促進・保護することを立証することにより正当化しようとす る論証であり,これに対して原理の論証とは,ある政治的決定が個人や集団の 権利を尊重・保証することを示すことにより正当化しようとする論証である。具体的な例を挙げれば,障害者の雇用を増やすか否かの決定に際して,経済成 長という集団的目標に基づいて決定を正当化すれば,それは政策の論証であり,
障害者の人権に訴えて決定を正当化すれば,それは原理の論証となる。ドゥ ウォーキンは,この 2 種類の論証を対置した上で,「ハード・ケース」におい て法律家
(特に裁判官)
は政策ではなく原理に基づいて決定を下すべきだと主 張する。この主張の背景には,ドゥウォーキン独自の権利論が存在する。ドゥ ウォーキンによれば,権利(特に人権保障)
という制度は,少数派の尊厳や平 等を尊重するという,多数派の少数派に対する約束を表明している。換言すれ ば,権利とは,多数派に対する少数派の「切り札」なのである。このことを認めなければ,権利は存在意義を失う。まさにこの点にこそドゥウォーキンの主 張の核心が存在する。
3. 3 義務論と帰結主義
もちろん,前述の「法」による闘い方と「力」による闘い方との対比は,必 ずしも原理的思考と政策的思考の対比に単純に対応しない。そもそも法秩序内 部において自力救済を否定する法学者に,「力」による闘いという発想はない。
これに対して,国家の統治者は,自国の独立を保つためには,法律と並んで軍 事力の利用をも考慮しなければならない。少なくとも政治学の始祖マキャベリ はそう考えた。しかしながら,この「力」による闘いは,勝利という目的を設 定する以上,論理必然的に政策的・戦略的な思考に基づかざるを得ない。した がって,この政治学的な思考様式は,結局のところ,法学者の思考様式と基本 的に対立することになる。
もっとも,法学内部においても,政策的な考え方が存在しないわけではない。
それは立法論において顕著に表れるが,解釈論においてもしばしば目的論的な 解釈技法が用いられる。さらには,前述の「法と経済学」は,経済的な効率性 に基づく政策的な思考を法学方法論の前面に押し出すことによって,伝統的な 法学者の思考様式を超克しようとする。しかしながら,権利を真剣に考える伝 統的な法学が基本的には原理的な思考に依拠していることは,誰も否定し得な い。しかも,この思考様式は,倫理学においても一つの確固たる地位を占めて いるのである。この点を確認しよう。
現代倫理学においては,規範的倫理学とメタ倫理学が区別されるが,本稿の 文脈で問題となるのは前者である。規範的倫理学の領域においては,伝統的に 義務論と帰結主義が対立してきた。簡単に言えば,功利主義のように,行為や 規則がもたらす結果の価値のみに基づいてその行為や規則を評価する立場,つ まり「最善の結果をもたらす行為をすべし」あるいは「最善の結果をもたらす
規則を採用すべし」と主張する立場が,帰結主義である。これに対して,カン ト倫理学のように,結果を考慮せずにまさに「義務である」という理由で行為 を義務づける立場,あるいは少なくとも結果以外の要素も考慮して行為や規則 を評価する立場が,広義の義務論に含まれる。この分類によれば,一般に政治 学者は帰結主義的な思考様式を採るのに対して,法学者は概して義務論的な考 え方をする。例えば,ドゥウォーキンのいう「原理の論証」などは,まさに広 義の義務論の伝統に連なると言えよう(25)。
このように考えるならば,法学者の原理的思考は決して結果を無視した倒錯 的な考え方ではない。それは,結果を超える何かに価値を見出す一つの倫理的 な規範意識に根拠をもっているのである。
結びに代えて
本稿においては,法哲学者の視点から法的思考と政治的思考とを大雑把に対 比してみたが,タイトルが示すように,文字通り雑感の域を出ない。したがっ て,はなはだ申し訳ないが,本稿に結論めいたものはない。しかしながら,本 稿で行った対比的な考察は,現在白熱しつつある一つの政治的な論議を整理す るために,多少は役立ちうるかもしれない。その論議とは憲法改正に関するも のである。最後にこの点に触れておこう。
言うまでもなく,憲法学は伝統的な法学の一分野であるが,政治の影響を最 も受けやすい領域でもある。現代法理学の泰斗である田中成明教授も,「…法 的思考と政治的思考とのいわばボーダーダインに位置していて,いろいろとむ ずかしい問題をかかえているのが,とくに憲法解釈学です(26)」とはっきり指摘 しておられる。とりわけ,第 9 条をめぐる議論は,様々な政治イデオロギーの 主戦場である。この護憲派と改憲派がしのぎを削る修羅場において,最近ひと きわ目を引く主張が一人の法哲学者によってなされた。井上達夫教授の「9 条
削除論」である(27)。この一見奇想天外な主張はマスコミにも大いに注目され,
新聞や雑誌などのメディアでも既に何度も取り上げられている。しかしながら,
その真意が正確に理解されているかといえば,はなはだ怪しい。
井上教授はベストセラー『リベラルのことは嫌いでも,リベラリズムは嫌い にならないでください』の中で次のように述べている。「私は,安全保障の問 題は,通常の政策として,民主的プロセスのなかで討議されるべきだと考える。
ある特定の安全保障観を憲法に固定化すべきでない(28)。」この引用文中の「政 策」という言葉に留意してほしい。さらに,井上教授は語る。「憲法の役割と いうのは,政権交代が起こり得るような民主的体制,フェアな政治的競争のルー ルと,いくら民主政があっても自分で自分を守れないような被差別少数者の人 権保障,これらを守らせるためのルールを定めることだと私は考えます。/一 方,何が正しい政策か,というのは,民主的な討議の場で争われるべき問題で す。自分の考える正しい政策を,憲法にまぎれ込ませて,民主的討議で容易に 変えられないようにするのは,アンフェアだ(29)。」ドゥウォーキンの用語に依 拠しながら,井上教授の主張を要約するならば(30),安全保障の問題はあくまで も「政策」の問題であり,民主的プロセスにおいて「政策の論証」によって議 論されるべきである。これに対して,憲法は民主的体制および人権保障に関す る「原理」を明文化し規定するものであって,そこに「政策」をまぎれ込ませ るべきではない。このようにまとめることができよう。
井上教授の主張は大変明晰である。しかしながら,その読者のうちどれだけ の人が「政策の論証」と「原理の論証」との対比を理解した上で,その主張に 賛同あるいは反対しているだろうか。本稿の雑駁な考察が多少なりとも論点を 整理するための手がかりになれば幸いである。
付記 本稿は明治学院大学法律科学研究所共同研究「現代政治研究の新潮流」
(2013〜2014)
による研究成果の一部である。注
(1) もちろん,藤原彰他『昭和史』
(岩波書店,1955 年)以外に,丸山真男『日本の 思想』
(岩波書店,1961 年)などは読んだことがあったが。
(2) 渡部純『現代日本政治研究と丸山眞男―制度化する政治学の未来のために』
(勁 草書房,2010 年)29 頁以下。
(3) 言うまでもないことだが,これはあくまでも私の個人的な問題である。法哲学 者の中には,笹倉秀夫教授のように,丸山真男の思想をテーマとする研究者も存 在する。参照,笹倉秀夫『丸山眞男論ノート』
(みすず書房,1988 年),同『丸山眞 男の思想世界』
(みすず書房,2003 年)。
(4) 法学部の 1 年生は入門講義や基礎演習で必ずこのことを学ぶであろう。参照,
蛯原健介・高橋文彦・畑宏樹編『フレッシャーズ法学演習』
(中央経済社,2016 年)40 頁以下。
(5) 添谷育志「政治/政治学とは何か」明治学院大学法学部政治学科編『初めての 政治学―ポリティカル・リテラシーを育てる[改訂版]』
(風行社,2015 年)15〜40 頁。
(6) 参照,毛桂榮「政府と行政」明治学院大学法学部政治学科編『政治学の扉―言 葉から考える』
(風行社,2015 年)184〜185 頁。
(7) 「政治イデオロギー」という概念も多義的であり,詳しい説明を要するが,こ こではさしあたり「イデオロギー」を「歴史的・社会的に制約された偏った観念 形態あるいは虚偽意識」として理解しておきたい。ちなみに,後述の「批判法学」
のみならず,既にケルゼンの「純粋法学」においても,この意味におけるイデオ ロギー批判・イデオロギー暴露が重要な位置を占めている。
(8) ケルゼン
(横田喜三郎訳)『純粋法学』
(岩波書店,1935 年)。
(9) 周知のように,この主張の根底には,新カント派に特徴的な「存在」と「当為」
の二元論が存在している。もっとも,ケルゼン自身は,「存在」から「当為」は 論理的に導くことができないと断定する
(あるいは公理のように想定する)だけで,
論理学的な定理としての証明は一切行っていない。欧米の哲学界ではしばしば ヒュームの主張とも結び付けられるこの二元論を論理学的に証明するためには,
新カント派の時代には思いもよらなかったような高度の論理学的な知識
(例えば 可能世界意味論)が必要である。参照,高橋文彦「「存在」・「当為」・義務論理」『法 哲学年報 1985 年度 法哲学と社会哲学』
(有斐閣,1986 年)89〜98 頁。
(10) 参照,松本尚子「法実証主義の極限と「例外状態」の合法性―ケルゼンとシュ ミット」森村進編『法思想の水脈』
(法律文化社,2016 年)153〜165 頁。
(11) 参照,松本尚子「カール・シュミット」勝田有恒・山内進編著『近世・近代ヨー
ロッパの法学者たち―グラーティアヌスからカール・シュミットまで―』
(ミネルヴァ書房,2008 年)
406 頁。
(12) 参照,濱真一郎「法実証主義の再考―H. L. A. ハートとラズの現代分析法理学」
森村進編・前掲書
(注 10)170〜183 頁。
(13) 参照,中山竜一『二十世紀の法思想』
(岩波書店,2000 年)35 頁,脚注 4。
(14) 参照,高橋文彦「法実証主義の超克―フラーの「法の内面道徳」とドゥウォー キンの「純一性としての法」」森村進編・前掲書
(注 10)184〜198 頁。
(15) ドゥウォーキン
(小林公訳)『権理論Ⅱ』
(木鐸社,2001 年)189 頁。
(16) このようなドゥウォーキンの批判に対して,後年,ハートは,場合によっては 法が道徳的規準を含みうることを明示的に認めて,「排除的実証主義」に対置さ れる「包含的実証主義」の立場を擁護している。ハート
(長谷部恭男訳)『法の概 念〔第 3 版〕』
(筑摩書房,2014 年)378〜379 頁。
(17) 森村進『法哲学講義』
(筑摩書房,2015 年)228 頁。
(18) 畠山教授によれば,《よい子》とは,「動員体制の要請に忠実な人々の総称」で ある。畠山弘文『近代・戦争・国家―動員史観序説―』
(文眞堂,2006 年)45 頁。
(19) 参照,ケアリズ編
(松浦好治・松井茂記編訳)『政治としての法―批判的法学入門―』
(風行社,1991 年)
(20) マルクス
(武田隆夫他訳)『経済学批判』
(岩波書店,1956 年)13 頁。
(21) このような主張に対しては,「家父長制イデオロギー」もまた物質的生活の生 産様式
(例えば家族経営の農業・工業・商業)によって制約された社会的意識形態と して説明できるという反論が考えられる。しかしながら,フェミニストの批判法 学は,経済的決定論をア・プリオリな前提とはせずに,女性の視点から「公/私」
二元論のイデオロギー性を告発している点で,やはり注目に値すると思われる。
(22) もっとも,「内的視点/外的視点」という二分法には再考の余地が存在する。
ラズが指摘するように,現行法秩序の正当性にコミットせずに権利や義務につい て語る第三の視点,すなわち「距離を置いた内的視点」も存在しうるからである。
参照,ラズ
(深田三徳編訳)『権威としての法』
(勁草書房,1994 年)80 頁以下。
(23) マキアヴェッリ
(河島英昭訳)『君主論』
(岩波書店,1998 年)131 頁。
(24) 厳密に言えば,「法と経済学」の支持者は,しばしば「効用」あるいは「選好」
概念に基づく「パレート基準」による評価ではなく,金銭評価に基づく「費用/
便益分析」を法の領域に応用している。参照,ポリンスキー
(原田博夫・中島巌訳)『入門 法と経済―効率的法システムの決定』
(HBJ出版局,1986 年)17 頁。
(25) もっとも,政治学者と一口に言っても,政治哲学の研究者と政治過程論の研究 者では,その思考様式は大きく異なるであろう。すなわち,前者の思考様式はむ しろ法哲学者のそれに非常に近い。というよりも,ほとんど同じである。例えば,
政治哲学者キムリッカの代表作『現代政治理論』にせよ,大人気を博したサンデ
ルのベストセラー『これからの「正義」の話をしよう』にせよ,これらはそのま ま法哲学の教科書として使用できる。参照,キムリッカ
(千葉眞他訳)『新版 現 代政治理論』
(日本経済評論社,2005 年),サンデル
(鬼澤忍訳)『これからの「正義」
の話をしよう』
(早川書房,2011 年)。
(26) 田中成明『法への視座転換をめざして』
(有斐閣,2006 年)30 頁。
(27) この問題を論じた最近の学術論文としては,井上達夫「九条問題再説―「戦争 の正義」と立憲民主主義の観点から」『法の理論 33』
(成文堂,2015 年)3〜50 頁。
(28) 井上達夫『リベラルのことは嫌いでも,リベラリズムは嫌いにならないでくだ さい―井上達夫の法哲学入門』
(毎日新聞出版,2015 年)52 頁。
(29) 同書 53 頁。
(30) ドゥウォーキンの「原理」概念については,井上達夫『憲法の涙―リベラルの ことは嫌いでも,リベラリズムは嫌いにならないでください 2』
(毎日新聞出版,2016 年)