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巨峯竃¥遺ダ璽︾蜜 重 學 界
畷︑ゲ馬︾垂鳳・ミ..≧ζ論琴駄醇︾︑曇幾¢気乏も︽適地博士之愚稿﹁工業経管論﹂
室谷賢治郎
戦争は鋤〜多くの血七重な生命と財産とを隠㎜く聞に喪失せ
しめた◎それは第咽線の職.⁝闘に参加した陸海察旧慣士の
生命や︑銃砲機器艦精施設等を損耗せしめたのみなら
す︐本土に在った文化推當者とその所産をも一朝にして
犠牲に取去つ旋︒わが適適経三曲學界の至費増⁝・地籍治螂博 .士の逝去と︑博士の最後の瞬聞まで肌身を離さす護られ
た原稿とは︑學者の紅皿財を危く蕩織せしめようとした
悲劇的運命の︸づを示すものである︒
昭和二十年三月十日︑.この日は大東京のぴ鼠︒$器酔と も名歌すべきか︑歴皮上嘗て見ざる猛火が十萬の生難を
内
nにして砥め鑑℃て穿つた︒その時︑増地博士ぱ本所
の御自宅附近で隣組の凡々を働ましつつ鎭火忙敢闘され
たけれども︑途に身心消磨しであはれ再び起つ能はざる
に至ったのである︒この間博士の安否を氣遣ふ門下生の ・ 除は︑日夜を舎かす捜索に當つたが︑漸く十四鳳の夕 刻︑河畔に横はる冷い選骸として博士を獲見せざるを得 なかった︒遺骸鍵共に見出されたものに︑一束の原稿が あった︒この原稿こそは︑疎開先の國立の御別宅に保管 されてるた原稿と相合して︑博士の遺著﹁工業維螢論﹂
の第一編を成すものであるが︑水回濡れた一枚一枚は遺 .骸の傍らで︑近親者及び門下鰍等によって丁寧に艦濁で
乾かされたといふ悲痛限りなき事實謙を射するのであ
る︒ いま遺著となった右の﹁工業経結論﹂の紹介の筆・を執
るに際し︑生前に於ける博士の業績を︸鴨り燭識して見︐
たい︒大正八年三月︐奮東京高等商掌學校庭攻部の學窓 ︑を出られるや︑博士は元住友総本店へ入り︑調査係を播
當し︑牛歳を総て往友製鋼所に縛じ︑主として原領計算
の事務に從はれた︒その後︑昇格した母校東京商科大學
の助手に任ぜられたのは大毘十年四月のことであるが︑
既に住友在職の二年閥大阪高等工業勘校講師と︒して︑工
業手樽の講義を播営されたことがあるゆ十二年三月三都
省在外研究員どしてドイツに町はれたが︑その前の置土
産に二部の墨書がある︒一はシュモラーの大著﹁一般國
民経濟塑原論の中の企業の章を抄課した﹁応.業論﹂︵大
・︑ ご九
↑
正+年下趨書店獲行︒同改課版は大正十況年局交違警行︒︶であ
り︑二はゾ弓フマンの好著﹁企業㎝形能劣醜﹂︵大正十一年嗣丈
館堅剛︒橿原贅氏と共課︶の全諜である︒二書とも專攻部時
代に於けるゼミナ拶ルの恩師上田貞次郎博士の校閲を経
たもので︑上田博士の序丈がある︒ドイツで主としてべ︑
ルリン.商科大肇の嵩ックリッシュ教授に師事された帯地
助手は︑十四年夏麟朝せられみと同時に︑東京商科大學 ダ 附議商學專門部敏授に任ぜられ︑象ねて同大學重留授に
任ぜられ︑闇もなく滞激中の土産を虞女作として出版さ
れた︒﹁維螢経済學序論﹂︵大正十五年問丈館獲行︶が即ちそ
れで︑わが國に於て経螢維濟學の名田を冠する著書の噛
矢である︒ 炉 ポ
越えて昭和四年には増地学授の経論経濟學に署する一
般概論的巻絡として﹁維瞥経濟學﹂が改造砒版の経濟學騨
全集の中に澱められ↓同年更に軍行本﹁奮起要論ド巖松 堂獲行︒昭和+六年全訂︶が公にされた︒昭和五年千倉書房
刊行の﹁商舗全集﹂申に良識執筆になる﹁企業形態論﹂
・が世に邊られ︑別著﹁商業続騰﹂︵昭利七年︶が同全野申
の一︑雀をなした︒昭和九年東洋出版就刊行の﹁會計學全
集﹂には敏授は﹁維螢財務論﹂の叫毬を憺零せられ︑昭
和十一年の﹁我が國株式三態に於ける株式分散と支配﹂ 三〇
︵気強違警行︶に湿ての賀誰的寒鯛之相挨ち︑商學博士の
學位を授輿せられる基礎を作られた︒﹁株式會肚﹂︵昭和 げ +こ年︑巖松堂磯行︶と題する大作は﹄その精華と見らる
べきものである◎ ︑ ︒︑
既余して東京商大の蕉敏授に累点せられた増嵩博士は
東京帝國大野敏授並びに黒部三教學官を鹸ね︑日本経螢
學會︵大正+五年創設︶の常務理事を勤め︑極めて多忙の
日常を過痴れつつも︑愚問の探求と普及とのためには寸
暇を惜み︑無釜に時闇を徒費するが如きことは少しもな
かった◎さればその後に至っても︑﹁商業概論﹂︵昭剥+三
弗︑雄風館螢行\﹁維螢學講話﹂︵ 昭南十四奪︑高陽書聖獲行︶︑
﹁賃銀難醐﹂︵昭利十四年︑千倉書房獲行︒十八年改版︶︑﹁小囎買商
号轡ハ問題﹂︵國弘員入氏と共著■小贋閥顯︸研究叢書◎昭瀦十四年
譲文館獲行︶の如き薯作が︑相酷いで公刊されたことも異
とするに足らぬであらう︒進んで右の他.に︑昭和十五年
日本評論肚刊行の﹁新経濟學全集しに︑博士は﹁商工経 .螢論﹂を執筆せられ︑編書止して﹁統制経濟下に於ける
維欝學﹂︵昭瀦+六年︑豊松党書店獲行︶︑﹁生産力撲充と経欝
合理化﹂︵昭瀦十八年︑臼・ぶ騨豊艶獲行︶︑﹁経軸僧無為塵﹂︵昭和
十八年目・三省堂獲行︶︑﹁応叢小形態の研∵究﹂・昭和十九年︑縫本
評論肚獲行︶︑﹁戦時維麟學﹂︵昭和二十年︑巌松堂繋店獲 行︶を
︑./ 肋 窪
刊行された︒ ﹁職時維螢學﹂の初版獲行の縫から︸筒月 を経過しない間に︐博士が穴察襲によって罹災死を招か うとは︑榊ならぬ人開の誰が弓懸し得たことであらうか︒ 遺稿﹁工㎝業繋螢論﹂が⁝種の娼ず◎島牧となって現はれよ づとは抑も弾入が期待し得たことであらうか︒ 故博士の業績を辿って鼓に到ると﹁工業経鞭耀しが鷺
の目を見るごとは︐當然期待せらるべき事實であったと
云って︷も難い○代表者を故博士に立てて來た経螢維濟研
究會は︑本書の序文に﹁本書が即題維濟學の指導者とし
ての先生の︑長き塵問的歩みの総決算である﹂ことを記
してみるが︐セき汰にとっては謳う云はれざるを得ない メ であらう︒
さて本書の内容を誘くと︑全巷は四編︑十五章から成
る◎第一編工業経螢に於ては︑工業維螢の意義及び図標︑
工場立地︐維螢規模︐操業度︑大量生産の五つの章が當
てられる︒先づ工業を組立工業掛︒・︒・の鑓ぴぞ鍵曾財嚢と濫︷
行工業㌘8駐貯砦︒・㌶団どに大別し︑﹁維鶯維濟は維濟性
・を目標とする鯛別経濟である﹂︵ミ頁︶となし︑経濟性の
概念の本質としては﹁費用と給付との比較秤量﹂︵賜頁︶ を以てする︒而して経単性と牧盆性の關係は︑牧町性の
目標が給付から費用を差31いた剰鹸を最大ならしめるこ とを期待するに在る轍から︑﹁維濟性と華魁性とは同一 のものでな︐いが︑しかしまた相排斥するものでもないゆ 爾者は同時存在を許されるが︐その存在する面を異にす るものである︒﹂︵鷲頁︶ 工業経螢は工業を工む繧機経濟 として︐右の製表目標を有するものとせられる︒次いで 工場の立地條件を経理納雑件と非維濟的條件とに分ち︑ 非経産的條件として自然的條件︑政治的條豊町個人的條 件の三を繋げ︑経濟的難件として︑原料費の低廉︑交通 の便︑動力費の低廉︑勢務の豊富低廉︑治費地への接近︑ 資本調達の有利といふ六を歎へて論かれる︒更に工場の 規摸の基準を論じ︑大窺模経欝の利弊を顧み︑∴進んでこ れと操業度との開係を︑ゾ凱マーレンバッハ敏授の引例 によって明かにする︒なほ大殿生産に要してば︑右の大 経螢と必然的黙諾を有洗るものでなく︑﹁むしろ工場の 專門化が行なれてゐ軍一種類もしくは極めて少数種類の 製晶を御包的だ生産することを意味する︒ゆゑに︑今日 往々用ゐられる軍種多産の名稻の方がその本質を明示す る◎し︵三〇頁︶と限定し︑大量生産の前提は工業維螢の三 門化もじくは特化であるとし︑標準化に封ずる要請の生 れる所以を指摘し︑標準化或は軍純化のもたらす諸種の
.利釜を論でる︒本書の第一編は︑かくして総論とも見られ
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