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マルクスの貨幣・信用論の骨子
信用の史的嚢展と貸付資本の基本的性格
近代的信用組織‑信用市場・銀行活動
信用と現實資本との關聯
結語 舳
1
1 マルクスの貨幣理論が︑軍純商品経濟における商品の省察に端を獲していることは︑すでにその思索が猫特の立場
のうえに築かれ︑方向づけられていることを物語つている︒商晶の分析から照し拙されたものは︑ほかならぬ量れに
含まれた二つの要因㌔すなわち︑Φ︒び目鉾昌︒岸のぞ⑦尾酔と類㊥肖酔との矛盾という性質のものであつた︒つづく廼①H窪︒.目
の分析から︑貨幣という範麟が︑商品に内在している二つの嬰因の封立の必然的な外部的表現にすぎぬことが導きい
信用理論‑
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2 商學討究第三巻第四號
だされ︑ここ忙陥りやすいOo冨鼠宏9をあかるみに出したというわけである︒少しく︑その読くところを顧みるな
らば︑マルクスの貨幣論が︑男oB冒筥δ暑︒︒とおのつから異るものがあることはほぼ推定されるとしても︑このこと
から︑ただちに寓①蜜一一δ目霧或は詔籠o嵩σq①一律ぽ︒o島①と同一覗し去ることも到底許されない︒貨幣を商品とみる意
味において相通するもののあることが認められるにしても︑マルクスによれば︑貨幣は︑私生産者の肚會の生きた現
實から導かれたものであり︑富の肚會的性質の猫立したHβ貯霞露試oβであり︑箆'宏働コ︒陣である窯で︑他の商品と
異り︑︹d霧国畳巨臼鉾§︺まさに物化せる人間關係の如實の委をあらわしているものであるといわねぼならぬ︒ここ
では︑貨幣についての属o葺oか団げ曳かの樹立的な結んで解けざる論孚も︑おのつから氷解することを思わせるに
ズ至つている︒そこには︑多くの異論も唱えられうるであろうが︑この貨幣親をもといとして展開さ.れる貨幣の基本的
機能は︑冒器砿幽宵囲く①詳oというわけである︒ただ︑ここでは︑貨幣商品が親念的なものとして︑すなわち︑商品所
有者の頭謄のなかで假想せられたある金量が︑観念的に商品と等置せられるにとどまり︑貨幣は計算貨幣としてあら
われるとみる︒この機能を果しうるがゆ乏に︑貨幣は︑いま一つの機能︑すなわち︑それ自らの冨嘗岸︒げなものを
もつてするか︑或は代用物を通じて︑国冒犀巳暮ご富昌蓉9という役目を果しうることが読かれる︒問題は︑慣値尺
度として︑流通手段として機能する貨幣が貨幣としてあらわれる形態をいかに考えるかにある︒マルクスは︑この第
一の形態を砿魯算Nぴ自曾嵩σqにもとめ︑商品韓形の蓮績としてめ販費と購買とが中噺せられて︑販費がこれにともな
つて︑これを補充すべき購買をともなわなくなるところに︑その根擦を見出すのであつて︑後にのぺ亀るごとく︑嚢達
憩憩した賓本主義砒會において︑銀行という貯水池に集中せられるものこそ︑この退藏貨幣に他ならない︒マルクスの読
くいま一つの形態は︑商品流通の爽展にともなつて︑商品の譲渡を便格の實現から時間的にひき離す事情に即して把
えられるものであつて馬ととでは貨幣はN魯冒昌σq︒・昌簿9としてあらわれると考えるわけである︒ここでの貸付取引
●
○
︑
︑ は︑等慣の回牧が時間的に延期される︹隅畳芭冒皿・馨︺という黙で費買取引とその性格を基本的に異にしているとみ
る︒新しいこの枇會關係のひろまるにつれ︑支佛手段としての貨幣の機能は︑流通手段としてのそれを犠牲として︑
くりひろげられ︑それぞれの支梯が相殺せられる限り︑貨幣は計算貨幣として全く襯念的なものたりうるのであつ
て︑悔だ何らかの原因によつて︑支佛の蓮鎮が断たれ﹂相殺の機構が掩齪されるときにのみ︑貨幣はその観念的な存
在から黄金の現身ともいうべき本然の姿にたちかえることになるというわけである︒所謂昏Φ負津σ唾⑦冨は︑この機能
を侯つて理解さるべきものであり︑その直接の形態としての爲替手形︑その流通を基礎とする銀行券・小切手など
は︑相殺によつて︑貨幣たる機能を果すと観ていこうとするもので︑国o屋BoN臥⑦肖⑦旨国目⑦伽器を口器目o働亀昌o
俸Φ象宏易審日の頃暮葭零諏o冨凝oΦ旨昌自冒σq①をなすとみる思考は︑すぐれて端的に表明せられているとみてよい︒
.苦団ユ亀ユoげ国口oq臼ロは︑この閥の滑息なつぎのごとく述べている︒すなわち︑﹁紅會の富がその轡ハな示すのに︑個人ボ自らの欲
望をみたすために︑質的に異つ液使用債値存相互に交換すうからにすぎない︒⁝⁝個人の富に︑貨幣の媒介によつてのみ弛會的
富として實現されろ︒,この富の融會的性格に︑貨幣という物のうえに体現される﹂と︒︹属畳5=昌ロ・︒哺ご櫛甲民藏全集︑第ご巻︑﹁便値及貨幣﹂四〇六頁︑友岡久雄著﹁貨幣・賢本・信肘﹂四三頁塗照︒
**貨幣の本質あば︑oQ陣o㎏㊥o︑く巴ロoにもとめろケイyズの貨幣観は(この貯蓄現象なめぐつて︑貨幣額の分布と移動が行われ︑
生産財・消費財の債格面に起伏があらわれ︑経濟赴會の蓮動がみられることな主張ぜんとするものてあるが︑マルクスの立場か
らみれば︑この蓮動過程な外面的に均衡の問題としてのみ考え︑内百的な支持とか機構について腐心するところがないという箋
とになるであろう︒
3 軍純商品生産から資本主義生産に進むにつれ︑貨幣は資本に韓化せられ︑一つの與えられた償値から︑一つの自己
増殖的な償値となり︑貨幣には︑それが貨幣としてもつ使用償値のぼかに︑いま一つの追加使用償値︑すなわち資本
︒︑画・・馨として機能するという使用贋値が與えられることを主張する︒︹欝艮5=H護幹蕗ア︒︒呵ごいま︑§ぼ司①昌についての探
︑信用理論
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ト 4 商學討究簾三巻第四號
索を措いて問わぬとすれば︑H旨自口︒︒げ鼠①国鉾娼詳舘が相ついでとる形態憂化︑(その流通過程のうちでとるΦΦ蜀犀署淳巴
と︑名霞Φβ匿営げ9という形態︑生産過程の内部でとる弓Ho含匡才①實国越客鑑という形態の攣化)と信用の交渉・
關聯がかえりみられなくてはならぬ︒われわれは︑信用關係については︑さきに支梯手段としての貨幣の機能の分析
に鯛れて︑畢純商品流通の信用關係のなかに︑その国匡段巴冨蟄試o昌の可能性︹国畳芭目砿・養︺のひそんでいるとみる
論擦を顧りみたのであるが︑この現實的な結晶化にマ歩進めるものが︑商業信用の焚展に他ならないとみる︒ことで
の商業信用が︑貸付取引によつて︑尋冒匡ざ犀窪国碧津鑑(産業資本・商業資本\の蓮動の實現を媒介する性質のもの
であり︑貸付けられるものが︑所有者の手にあつて商品資本の形態をとりつつ貨幣に轄化せられねばならぬ資本であ
る意味においてハそれは商品の韓形︑いいかえれば︑相互に從薦し結合せられている再生産過程のqΩ酔亀才Φ︒冨9を
媒介するものな0である︒しかし︑これは︑商品の實現過程で︑企業家が企業家として︑相互にあたえあう信用とい
う意味においては︑費買取引が貸付取引を伴うにすぎないとみる︒︹国畳巨日⁝§︺ところが︑この企業者相互の間の
貸付關係としての商業信用が︑銀行業者によつて︑企業者にあたえられる貨幣の前貸にく霞宕8犀されたものが手
形割引であると解するのであるが︑ここでの貸付を︑いまだ名目的のものにとどまるとみてとる限り︑ここでの銀行
業者はΦ①冨げぎ臼霞の性格をもつにすぎないといわなくてはならない︒マルクスにおいては︑資本の所有と資本の生
産への充用との分離︑すなわち日︒写罫営言一と産業資本との矛盾のうちに︑信用關係の結晶化を観ていこうとするも
のであつて︑ここでは︑債椹者と債務者との役割は︑資本の再生産過程の一定の資本家のうえに固定され,貸付取引
は︑貸付資本の唯一の流通形態となり︑この貸付資本︑すなわち国窪馨量σqΦ昌噺①国還詳鼻嵐9δ遷自O屠詳乙は︑す
でに猫立の封立された︑そしてその封立においてのみ自己を主張する資本となることを主張せんとするもので訪る︒
マルクスは︑ここに全く新たな●眼o伽目洋ざ募く亀露崔営の︑特殊の内容と質的特徴をもつている猫立の生産關係を護
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︾ 暦●5 ノロみとるべき態度をもつてのぞんでいる︒いまや︑貨幣資本家が直接にか︑また間接に銀行を通じてか︑または銀行自
身が︑機能資本家にあたえる国魯犀ぼo働津が藤業資本の循環から解放された冨H蓉冨凶Φぴ富窪負霧肉署帥葺一の蓮動を實
現させ︑かくして︑銀行と産業的企業との關係が恒常的となり︑緊密となるにつれて︑この銀行信用の意義は増大
し︑それが典型的な信用形態となり︑商業信用は︑もはやその純粋の姿で現われること少く︑銀行信用によつて複雑
化されることますます多くなる結果として︑商品をその樹象とした信用取引にかわつて︑貨幣を劉象とする信凧取引
が如實の姿をあらわしてくるという︒マルクスの論理によればこのようにして︑貨幣・信用の焚展こそ︑使用債値と
慣値︑乃至は貸付資本と産業資本という統一物の甥立物が分離し︑この封立物が外化し︑猫立化するごどのうちにあ
るとみる態度をもつて貫らぬかれている︒しかも︑信用が貸付資本の蓮動たよつて特徴づけられている限り︑信用理
論が資本理論に立脚し︑その貸付資本が貨幣形態における資本である意味では︑信用理論は貨幣理論に立脚して
いるともいえるのであつて︑その波卒らかな論旨の展開には︑一抹の執着・魅力をさ乏感ぜしめることは箏い難いで
あろうが︑その叙述展開の脊後につねに潜められているものが︑實に︑マルキシズムの世界観としての僻誰法的唯物
幹勢論にあるといわねばならない︒それは︑まつ︑思惟と存在との關係にたいして︑存在・物質を第一義的なものと考
ゆえ︑したがグて︑精神(意⁝識)は物質によつて決定されるとみるとともに︑その思考の墨襲黙としての物質をぱ︑・常
にその存在形態としての蓮動・焚展ど關聯して思考する︒すなわち︑事物の蓮動・焚展の動因をば︑物質そのものの
うちに汲みとり享物を輩一なものではなく︑矛盾の統一︑封立物の統一であるときめ︑この二つの封立物が事物のう
ちにあるところから︑呂爾者の相孚うことによつて蓮勒と獲展が起るとみるのである︒乏のような耐會攣革への情熱ををみを深く藏した思想動機については︑すでに嚴正なる批判が試みられているが︑わたくしは︑むしろ︑この立場を是認し
たあとに︑とのような立場のもとにおいて︑到達される事實認識が︑他のそれと如何なる相異瓢をもち︑また︑この
信‑用理論