沖 縄 ・ 豊 見 城 村 の 伝 説 ﹁ 真 玉 橋 の 人 柱 ﹂
中村史
人 文 研 究 第97輯 二
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はじめに
まだんばしとみぐすくそんこくばがわ真玉橋は︑沖縄本島の那覇市とその南の豊見城村の問を流れ︑やがて那覇港に注ぐ国場川に架けられた橋である︒
尚貞王の康煕四七年(一七〇八)︑木橋から石の橋に架けかえられたと伝えられ︑これは石造りの立派なアーチ型橋
であったが︑美しい両岸の光景とともに写された何枚かのモノクロ写真を残して消え去った︒沖縄戦の際日本軍に
よって破壊されたのである︒今は何の変哲もないコンクリート橋となっているが︑琉球王府あるいは那覇市内と南
部を結ぶ交通の要衝であることは今も昔も変わっていない︒
さて︑伝説・昔話を求めて沖縄本島を歩くとき︑しばしば聞かされる話のひとつが︑この真玉橋に人柱を立てた
ながという伝説である︒名づけて﹁真玉橋の人柱﹂と呼ばれるこの話は︑奄美諸島以北のほぼ日本全国で聞かれる﹁長
らユ良(長柄)の人柱﹂とよく似た話である︒﹁長良の人柱﹂はたとえば着物に横はぎのある人を人柱に立てよと
言った当の男が犠牲者となり︑その娘が父親の言いつけによって口をきかなくなる︑嫁に行っても口をきかないた
め実家に帰されるその道で︑鳴き声を立てたばかりに撃ち取られた雑を見てはじめて言葉を口にするーなどと語
られる︒﹁維も鳴かずば撃たれまい﹂の諺とともに長く伝承され︑また︑広く伝播してきたと思われる話である︒﹁長
297(2り 沖 縄 ・豊 見城 村 の伝 説 「真 玉 橋 の人 柱 」
はしひめの良の人柱Lは古く南北朝期の﹃神道集﹄﹁橋姫縁起事﹂から見られるものであるから︑素直に考えれぼ︑﹁真玉橋の
人柱﹂への﹁長良の人柱﹂の影響は十分にありうることである︒しかし︑その一方︑地元沖縄では︑﹁真玉橋の人柱﹂
やまとうちなコは昭和の初期︑大和芝居を翻案した沖縄芝居﹁真玉橋由来記﹂から発生したーという意味にも取れる強硬な主張
があって︑それなりに通用している︒こうしてみると︑果たして伝説﹁真玉橋の人柱﹂は︑いつごろ︑どのように
して生まれたものなのであろうか︒
そもそも︑橋の民俗的な意味に思いを致すならば︑日本の本土でも︑橋は境界の地であって︑恐ろしいものの住
はしうらみ着きまた出現する場所であり︑橋占によって自他の身の上のなりゆきを知るところであった︒古曲ハ文学であれば︑
もどりばしあぎばし﹃三国伝記﹄や﹃平家物語﹄ほかに見る一条戻橋︑﹃今昔物語集﹄の安義橋などがそうである︒また︑諸書に見︑伝
承に聞く宇治の橋姫も思い起こされる︒
こうした橋の精神風土が︑大きな川をあまり持たない南島にも完全にあてはまるとは言い難い︒しかし︑真玉橋
まんこの架かる国場川は沖縄では珍しく川幅が広く水量の多い川であって︑かつては現在よりもはるかに大きかった漫湖
を経て那覇港に注ぐ重要な川であった︒しかも︑真玉橋はもっと下流に明治橋が架かるまで︑すでに述べたとおり︑
中心部と南部を結ぶ重要な橋だったのである︒このような真玉橋の架橋工事は︑近代以前に中国から優れた石造建
築を取り入れていた沖縄でも︑その規模の大きさに応じて払った犠牲が多大であったであろう︒むろん︑そうした
犠牲者を悼み︑ことの次第を説明しようとする人々の行為に南島特有の心意があったことをも考えあわせなければ
なるまい︒こうした背景を意識しつつ︑以下︑伝説﹁真玉橋の人柱﹂の発祥の経緯をたどってみたい︒
立命館大学の説話文学研究会(福田晃氏指導)では︑平成元年と二年の夏季に豊見城村の伝説・昔話調査を行っ
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た︒当時同大学の大学院生であったわたしもこの調査に参加し︑現在地元の共同研究者ととともに追跡調査・資料
ヨ整理を進めている︒二回の集団調査で採録された計二十四話の﹁真玉橋の人柱﹂から例話をひとつ︑ここに紹介し
よう︒まずは︑そのあらすじである︒(前出報告96)
真玉橋の架けかえのとき︑首里から﹁七色ムーティi﹂をしている女︑すなわち髪を結う紐が七色である女
を人柱にしなけれぼならないと言って来た︒また︑ある女がそれに同調した︒ところが︑首里から来た侍が調
べたところ︑当の女が七色ムーティーをしていたので︑彼女が人柱に立てられることとなり︑彼女は娘に﹁ひ
くにがみそんじゃしきとさきにものを言うな﹂との言葉を残した︒娘は父親とともに国頭村の謝敷に逃れた(その子孫と屋敷跡が今
いたびしぎほんも残っている)︒その後謝敷の﹁板干瀬﹂で貝を取っていた娘を︑義本王の墓を拝みに行く首里の侍が見初めて
連れ帰った︒そして︑(口をきかなくなっていた)娘は再び口をきくようになって幸福に暮らした︒人柱になっ
た女は橋の右側の快にある社に祀られている︒(守本泰之・山本淳両氏聴取)
たいらこの話の語り手は平良徳三さんとおっしゃる方である︒明治四五年四月二九日生︑語りに出てくる国頭村謝敷出
たかみね身で︑豊見城村の字高嶺に在住されている︒そして︑この話は芝居﹁真玉橋由来記﹂で見たとのことである︒
つぎに︑やや長くなるが︑テープ・レコーダーに録音された平良さんの語りをできるかぎり忠実に文字に起こし
たものを示しておきたい︒
真玉橋ね︑その由来記を︑よく聞いているんですがね︒それから︑芝居で見たりね︒沖縄芝居で見たり︒そ
ういう話を︑その話はよく僕は︑ちょっと詳しいんですよ︒それ話してあげましょう︒年代はね︑年代は定か
でないが︑それはね︑村の教育委員会か︑そのあたりで調べたらわかるはずですよ︑年代は︒何年︑今から何
百年くらい前の話って︑わかるはずですからね︒ただそれに⁝⁝︑﹁真玉橋の由来記﹂っていう話があるわけで
すよ︑芝居でも︒
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沖 縄 ・豊見 城 村 の 伝説 「真 玉橋 の人 柱 」真玉橋をですね︑昔︑大水になると流される︑流されるいうてね︒それで︑首里の方から︑﹁この橋の架けか
えた場合に︑(架けかえた)ときに︑人柱を埋めないと︑この橋はもたない﹂ちゅうことになってね︒人柱が︑
埋まったわけですよね︒橋の︑土台の下にね︒で︑その場合の話がですね︑母親と⁝⁝︑親父と母親と︑娘さ
んがいたわけ︒そで︑真玉橋の架けかえのときに︑この母親は︑髪︑髪の根元を結うでしょ︑昔のあの︑髪結
うときはね︒元を縛るとき︒今はもう︑ちゃんとした結い紐があるんだけど︒昔は︑﹁七ムーティー﹂いうてで
すね︑結う︑髪結う紐があったわけですよね︒女の方はね︒女の方々は︑それがあったわけですよね︒それが
あの︑そこにあの⁝⁝︑﹁人柱に埋まる人は︑七ムーティー︑髪の根元結う紐が︑七つの色でね︑七つの紐で︑
紐結ってるのが︑髪の根元結ってる人が︑埋まらなきゃいかん﹂て︑いうように︑首里から決まって来たわけ
ですよね︒決まってね︒その本人も︑その話を聞いて︑﹁そうでなければいかん﹂と︑皆にも︑話したわけです
よね︑その本人も︒したら︑それを︑首里から来た︑調べに来た侍の連中がね︑皆女の方の髪の根元を見たら︑
その人に当たっているらしいんですよね︒この︑七︑七色の︑布で髪の根を結んだ︑結んだ女の人は︑この本
人に当たっているらしいんですよね︒そんで︑もう︑その人が︑いよいよ人柱に決まったわけですよね︒で︑
そのときに︑いちおう埋まることが決まった︑その時点で︑主人と娘さんを前にして︑﹁自分が︑こうこう︑こ
ういうふうになったのも︑自分の口から出た︑錆びであるから︑ひとさきものは言うな﹂と︑﹁ひとさきものを︑
喋ったらいかん﹂と︑いうことを娘に︑言い伝えで︑聞かしたそうですよね︒
そうしたら︑いちおう︑お母さんは人柱に埋められて︑そのあと︑お父さんとこの娘さんは︑国頭に逃れて
行ったわけですよね︒こっちでもう生活ができなくて︑人にもの笑いもされるし︑人の口もうるさいから︑国
頭に逃れて行ってね︒その︑その部落が︑この親子が逃れて行った部落がちょうど僕の部落なんですよね︒国
頭村謝敷って部落なんですよ︒はい︑謝敷って部落なんですよね︒でその部落にまだ︑あれですよ︑今は家は
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ないけど︑家はもうこっち︑那覇に引っ越して来て︑家はないけど︑子孫はありますよね︒子孫はあって︑そ
の屋敷跡も︑こっちで︑こっちから逃れて行って住んだという︑この屋敷跡︑屋敷もあるわけですよね︑ちゃ
んとね︒言い伝えのようにして︑合致した言い伝えがあるわけですよ︒で︑そうして︑もう︑畑耕して︑それ
から︑親子生活しとってですね︒
あるとき︑謝敷の部落にはですね︑謝敷の部落がこうあればですね︑このへんに︑波打ち際にね︑﹁いたびし﹂っ
いたびせいたびしてね︑まあ字で書くと﹁板干瀬﹂ですよね︑﹁板干瀬﹂︑﹁板干瀬﹂ですよね︒それがちょうどね︑波打ち際
にね︑畳敷きつめたようにして︑きれえにね︑あったわけですよね︒まあ今は︑形崩してしまってね︑昔のよ
うな形はないけど︑やっぱり板干瀬って名前は︑残っているわけですよね︒で︑そこで︑この板干瀬に︑この
娘さんが板干瀬に︑降りて︑潮が引いたときに︑貝取りしとったわけね︒貝取っとったわけ︒海の貝をね︒そ
へどれで︑そのときに︑首里からの侍が⁝⁝︒辺戸岬︑これからもっと北︑うちの部落からもっと北の︑先のほう
ういばるね︑トンネルご存じでしょ︑あのもっとむこう側にね︑辺戸岬︑辺戸上原︑辺戸上原って︑平坦な所があるで
ぎほんしょ︒あそこに︑昔の︑あれですよ︑義本王って︑王様の墓があるんですよね︒今でもあるんですよ︒そこへ
お参りに行く首里からの侍がね︑その娘さんを見てですね︑振り向いて︑立ち止まったわけですよね︒立ち止
まったら︑あんまりきれいなので︑きれいなので︑この侍なんか︑見とれて︑いちおうそのまま︑その場はそ
のまま行って︑辺土︑辺土上原の義本王の墓拝んで︑今度は︑帰るときに︑そのまた娘さん見たらですね︑そ
の娘さんも振り向いて︑笑い顔で︑笑って︑歯を見せる︑見えるくらいの笑いかたで︑笑ったもんだから︑あ
んまりきれいなので︑見とれて︑しばらくそこに立ち止まって︑侍なんか︑それから首里に連れて帰った︒
帰って︑今度は︑あれですよ︑自分で妻にすると言うてね︑首里に連れて帰って︑自分のうちで生活さして︑
親子いっしょに連れて来て︑生活さしたって︒まあ︑あとは妻にしたらしいですよね︒それに︑歌も掛けられ