駿河国における朱印寺社領成立について
著者 松本 和明
雑誌名 人文論集
巻 71
号 1
ページ 1‑35
発行年 2020‑07‑31
出版者 静岡大学人文社会科学部
URL http://doi.org/10.14945/00027595
一
駿河国における朱印寺社領成立について
松 本 和 明 はじめに朱印寺社領とは、徳川将軍が朱印状を以て安堵した寺社領である。将軍が直接安堵することに特徴があり、近年では幕府による寺社政策とその意図を追究するうえで重要なテーマとして扱われる。筆者も、慶安元・二年(一六四八・四九)における三代将軍徳川家光による寺社領安堵が、全国的かつ画一的安堵という、それ以前にはない特質を有していたことを明らかにするうえで、近世初期段階の寺社領安堵について、全国的傾向とその段階的特徴を指摘した (1)。近世初期段階では必ずしも画一的に安堵が実施されたわけではなく、また、政権が有する権能に大きく規定される (2)。そのため、基礎作業として地域ごとの分析が重要であり、全国的傾向と特定地域に沈潜した分析の双方が行われなければならないと考えている。その点において、本稿が対象とする駿河国は、豊臣氏から徳川氏への政権交代や駿府政権の存在など、成立期の徳川政権の性格を考えるうえで重要な地であり、寺社領安堵の分析もその一助になるだろう。そこで、安堵
二 について、①豊臣政権期との関連、②各時期における担当者、③郡ごとの差異、などに着目する。当該期の駿河国を含む東海地域における政治・政策についてはすでに多くの研究蓄積があるが (3)、寺社領専論の研究は管見の限り見当たらない。見落とされる事実もあろうが、本稿では朱印寺社領成立の問題に焦点を絞りたい。その際、寺社領安堵は知行の問題でもあり、寺社方・地方双方に跨がる点に留意しつつ、徳川領国期から家光期に至るまでの政治・政策の段階差と、各時期において寺社領安堵を取り次ぐなど、実際に担当する者に注目し、職掌分化の過程を跡づける。寛永十二年(一六三五)十一月に老中の職掌の一部を継承した寺社奉行 (4)が設置されて以降は、その職にある者へ安堵についての出願がなされるが、そこにいたる過程について「人から職へ (5)」という指摘をふまえて考えたい。また、かかる方法をとることにより、駿府町奉行による広域支配の有無についての議論にも裨益すると考える。駿河国における国奉行の存在については否定的見解が有力であるが、その後の駿府町奉行による広域支配の如何との関連についての言及はなされていない (6)。寺社領安堵は国奉行の、また寺社方の管掌は広域支配権の指標ともいえる権限である。さらに、京都・大坂両町奉行による広域支配のあり方が、成立段階に有していた権限に規定された可能性を考えると、歴史的・段階的に理由を追究していくことが求められる。そのため、前述の如き視点を以て行う寺社領安堵分析は、近世中後期の駿府町奉行支配を考える手掛かりともなろう (7)。本稿では、如上の課題設定について、Ⅰ期・天正十年(一五八二)~天正十八年(一五九〇):本能寺の変~家康の関東移封(徳川領国期)、Ⅱ期・天正十八年~慶長五年(一六〇〇):関東移封~関ヶ原合戦(豊臣領国期)、Ⅲ期・慶長五年~元和二年(一六一六):関ヶ原合戦~家康死去(徳川政権期・駿府政権期)、Ⅳ期・元和二年~慶安四年(一六五一):秀忠~家光政権期、の四期に区分し、安堵の連続・断絶の両面を考慮しつつ、時期的段階差と地域的特徴を明らかにしたい。なお、各寺社の所属郡については、本文・表とも史料に記されている場合はそのままとした。
三 一 秀吉直判安堵とその意義(Ⅱ期)
天正十八年(一五九〇)八月、豊臣秀吉が徳川家康を関東へ移封し、その後慶長五年(一六〇〇)関ヶ原合戦に至るまでの期間は、駿河国を含む東海地域へ秀吉家臣団が入封し、豊臣領国となった。さきの時期区分でいえばⅡ期に該当する。このかんの寺社領安堵について、秀吉朱印状によるもの(以下、直判安堵)を中心に確認すると、①畿内近国以外では東海地域に集中、②支配領主の別を超えて、大名領国内に自らの直判を以て安堵、③比較的規模の大きい寺社に限定され、それ以外は駿府城主中村一氏の家臣横田村詮による安堵、④豊臣政権から中村氏への寺社領安堵に関する個別指示は、長束正家・増田長盛により実施、という特徴が指摘できる。①について、秀吉直判安堵は、畿内近国において天正十七・十八年に多く行われたことが確認できるが、畿内近国以外においてこの時期に直判安堵が集中しているのは、東海地域が唯一である (8)。また、②については、豊臣政権の「公儀」性を体現する指標のひとつとして指摘できる (9)。しかし、全国的にみると、徳川領国をはじめ多くの大名領国には及ばず(但し鎌倉の一部の寺社へは発給)、封建制原則に規定された側面もみられる。これらは、その後の徳川政権下における寺社領安堵のあり方へと発展的に継承される。その際、③・④とも関連するが、秀吉朱印状にはつぎのような特徴が確認できる。【史料1】『豊臣秀吉文書集』四、三三九八社領事、家康寄進当知行任帳面、如有来不可有相違之条、全可令社納候也天正十八
四 八月廿二日 (朱印)駿河国有渡郡八幡宮神主中民部大輔(傍線加筆、以下同じ)【史料2】『豊臣秀吉文書集』四、三五四七駿河国草薙明神草薙郷拾八石事、任当知行之旨、今度以検地上、右高頭請取之、全可令社納、然上者如有来諸役令免除候也天正十八年十二月廿八日 (朱印)草雉 (薙)社人民部太輔史料1は、天正十八年八月二十二日付有渡郡八幡宮宛秀吉朱印状である。「家康寄進当知行任帳面」との文言がみえ、当知行安堵がなされたことが窺える )11
(。また、史料2の天正十八年十二月二十八日付有渡郡草薙明神宛秀吉朱印状 )11
(には、「任当知行之旨、今度以検地上、高頭請取之」との文言がみえる。これは、駿河国はもとより、遠江国も含め十二月二十六・二十八日付で一斉発給された寺社宛秀吉朱印状において確認できる文言である )11
(。検地のうえで土地を請け取るよう指示されているが、天正十八年九月から十一月にかけて、駿河国において中村一氏による検地実施が指摘されており、これに基づいて安堵が行われていったと考えられる )13
(。
五 このように、秀吉直判安堵の特徴としては、天正十八年八月と十二月に一斉安堵が行われる。八月は「家康寄進当知行任帳面」、十二月は「任当知行之旨、今度以検地上、右高頭請取之」と文言が変化することが指摘できるが、当知行安堵を原則として、領主が検地を行い、朱印状記載石高に従って実際の土地・配分を確定させていくかたちで安堵が実現した。そのため、この前後に秀吉の意図(朱印状)と領主の意図とが乖離するなどした場合には、個別領主への指示が必要となる。例えば、富士郡村山浅間社に関して、駿府へ中村一氏が入封後、天正十八年十二月二十八日付秀吉朱印状 )14
(にて社僧辻坊へ七十五石安堵がなされるが、同日付で豊臣政権の奉行衆である長束正家・増田長盛より中村一氏宛の書状が出されている。そこにおいて、「兎角最前被任御朱印之旨如有来被仰付尤候」などと指示を行う )11
(。これは、この時期に別の社僧池西坊との間で知行をめぐる問題が生じ、秀吉朱印状の旨に違背したことへの対処であり、別の史料では、中村家臣横田村詮・東弘秀連署による「知行所書覚」を辻坊へ発給し、具体的に七十五石の内訳となる村別石高を提示していることが確認できる )11
(。この史料は年未詳ではあるが、長束らからの通達をうけた中村氏側の具体的対応であったと想定される。なお、奉行衆が秀吉安堵の旨を承知するようにと伝達する事例は、遠江国においても浜松城主堀尾吉晴との間にて確認できる )17
(。秀吉直判安堵は、個別領主の同意などを前提に行われたわけではなく、中村一氏ら豊臣直臣の東海地域への入封直後に、家康の先判に依拠して発給され、その後中村らの家臣(中村の場合はとくに横田村詮)が検地やその他調整を行い、実際に知行を割渡す形式で実施されたといえる。すなわち、秀吉直判安堵は形式的であり、示された石高が実際にどこで宛がわれるかは、個別領主に一任されていた。秀吉自身もそれを承知のうえであることは、「任当知行之旨、今度以検地上、右高頭請取之」という朱印状文言に端的に示されている。また、③について、秀吉直判安堵寺社とその石高をまとめた表1から、凡そ五十石程度以上に対する安堵という傾向があったと考えられる。それに洩れた寺社、すなわち少分の寺社領のうち四例ほどについては、横田村詮が慶長二年四月、
六 同四年八・九月付にて自ら安堵状を発給している )18
(。後者は慶長四年検地の結果と考えられる。近世期においては、自領内寺社領安堵は城主(駿河の場合中村一氏)の判物・黒印状を以て行うことが多いが、駿河国の場合城主中村の直判安堵が確認できたのは、富士浅間本宮社への天正十九年四月付千七十七石安堵の一例である )11
(。同社には天正十八年十二月二十八日付秀吉朱印状が四百十二石として発給されており )11
(、それを前提とした安堵であると考えられるが、石高の相違について、秀吉安堵分が組み込まれているのか、独自の安堵かは未詳である。また、慶長四年九月六日には横田村詮が千三十二石の所付を発給している。これは慶長四年検地の結果であろうが、「右之分可有社納之旨被仰出候也」とあることから、中村一氏の指示による所付であったことがわかる。すなわち、さきに確認したような横田による安堵も、いずれも中村一氏の指示のもと行われたのではないかと想定される。以上、天正十八年の家康関東移封から慶長五年の関ヶ原合戦に至るまでの駿河国の寺社領安堵を確認した。中村一氏・
表1 秀吉朱印状発給と朱印高との相関表 内訳
分布(石) 数 郡 寺社 朱印高
111~ 1
富士郡 富士浅間本宮領 817.1
安倍郡 浅間新宮神主 471
庵原郡 清見寺 111.1
富士郡 浅間六所領(別当東泉院) 111
有渡郡 三保大明神 111
11~111 3
富士郡 村山浅間辻坊領 14.1 富士郡 村山浅間池西坊領 11.1 富士郡 富士浅間公文領 81.1
41~11 4
富士郡 北山本門寺 11
有渡郡 草薙大明神 11
富士郡 浅間庵主領 44.1
志太郡 智満寺 43.1
31~41 1 11~31 1
11~11 1 富士郡 先照寺 11
安倍郡 瑞竜寺 11
1~11 1 富士郡 大悟庵 1
富士郡 永明寺 8
1~1 1
高不記載 1 安倍郡 八幡 安倍郡 玄忠寺
【典拠】『静岡県史料』第2輯・第3輯
七 横田村詮関係の史料が限られており、未詳な部分が多いが、当該地域に特有の秀吉直判安堵は、天正十八年八月と十二月に一斉に行われる。いずれも個別領主の意向にかかわらず、また長束・増田ら豊臣政権の奉行衆から適宜指示を加えながら、割付けなどの実際は検地と個別領主の判断のもと実施、という特徴が確認できる。新領主が入封した際、第一に実施する施策が寺社領安堵であり、その理由が新領主の威光を示し、民心の安定をはかる点にあることを考えると、秀吉の主導のもと、徳川氏の基盤であった地域に豊臣権力を迅速に定着させる意図があったと考えることができよう。
二 徳川氏による天正期安堵と井出正次(Ⅰ期)
本章では、豊臣領国期の前後に分断される、徳川氏安堵に注目する。まず、のちの徳川将軍朱印状の先判記載などをもとに初発朱印状発給年をまとめた表2を確認すると、すべて慶長七年以降である。関ヶ原合戦後に徳川氏が全国政権として再度東海地域を押
表2 郡別初発安堵年
郡 安堵年 数
駿東郡
慶長7(1111).11.11 1 慶長9(1114).3.11 3 慶安元(1148).2.14 1 富士郡 寛永18(1141).6.18 14
庵原郡
慶長7(1111).11.9 3 元和3(1117).2.2 1 寛永13(1131).11.9 1
安倍郡
慶長7(1111).11.8 ※3 慶長7(1111).11.9 1 慶長7(1111).11.11 1 慶長7(1111).11.11 1 慶長9(1114).3.11 1 慶安元(1148).8.17 1 慶安2(1141).8.17 1 慶安2(1141).8.14 1
有渡郡
慶長7(1111).11.8 1 慶長7(1111).11.9 1 慶長7(1111).11.11 4 慶長9(1114).3.11 1 慶長11(1111).2.11 1 元和6(1111).3.11 1 寛永2(1111).9.2 1 慶安元(1148).7.17 1
志太郡
天正13(1181).8.11 1 慶長7(1111).11.11 1 慶長7(1111).11.11 1 寛永18(1141).9.17 1 慶安元(1148).7.17 1 註1)濃灰色…家康安堵、淡灰色…秀忠安堵 白色…家光安堵
註2)※…浅間社関係11例は1例と数えた。
【典拠】国立史料館編『寛文朱印留 下』(東 京大学出版会、1181年)、『静岡県史料』第1 輯~第3輯
八 さえて以降であることが確認できる。すなわち、駿河国における徳川氏による安堵は、基本的に徳川領国期の安堵が先判として認定されない、いわば全国政権となって後のそれに継承されない )11
(。加えて、家康の朱印状安堵には、後代の将軍にみられない、安堵に関与した家臣の存在が確認できる。これらの解明は、以降の徳川将軍による安堵との比較とともに、近世駿河国における支配のあり方(駿府町奉行による一国規模の広域支配の有無)を初期支配のあり方から跡づけることにもなろう。かかる課題を設定し、寺社領安堵に多く関与している井出正次を手がかりに、徳川氏安堵の実相を追究する。また、時期的段階差を把握するため、序章で提示した時期区分のうち、本章ではⅠ期、次章ではⅢ期を扱う。Ⅰ期における駿河国の寺社政策については、前述の通り富士郡出身の井出正次の関与が指摘できる。井出の職掌などについては関根省治氏の論考 )11
(を参照しつつ、寺社領安堵にのみ限定してその特徴を明らかにする。井出が安堵に関与した事例として、富士郡先照寺宛の文書を確認しよう。【史料3】『静岡県史料』第二輯、先照寺文書一一駿州富士上方先照寺領拾貫三百六十文幷寺内門前山林竹木諸役等免許之事右如先々不可有相違之状如件天正十一年十月五日 朱印 井出甚之助奉之先照寺天正十一年(一五八三)十月五日付家康朱印状で、先照寺へ寺領十貫三六〇文などを安堵したものである。朱印の下に「井出甚之助奉之」とあることから、この朱印状は井出を奉者として発給されたことがわかる。なお、貫高による安堵であるが、前章ともかかわる、天正十八年十二月二十八日付秀吉朱印状では、十六石が「任当知行之旨、今度以検地之上、右
九 高頭請取之」との文言のもと安堵されていることから )13
(、家康安堵の十貫余が石高十六石に換算され、当知行安堵として秀吉安堵へ継承されたと想定される。奉者の役割については、つぎの史料から確認できよう。【史料4】①『静岡県史料』第二輯、大石寺文書四八無端書候大石寺諸役之儀、幷普請以下、今度於浜松御披露申上候処ニ、何事も如前々御相違あるましき之旨、被 仰出候條、自然是非之儀申方御座候者、此方へ可被申候、恐々謹言申 (天正十二年) 井出甚之助三月十三日 正次(花押)清彦三郎徳長(花押)大石寺御同宿中②『静岡県史料』第二輯、上野妙蓮寺文書七従旧規御拘之名職、如先判形 御朱印之儀申請進候上者、自今以後之儀も壱貫八百六拾五文新増之事者任先判形御免許候、為其我等手形指添進候者也、仍如件天正拾二年甲申 井出甚助三月二日 正次(花押)
一〇 妙蓮寺①は富士郡大石寺への諸役免許などについて、天正十二年三月十三日付の井出と清彦三郎徳長なる人物との連署状である。傍線部に注目すると、井出らはこの件を浜松にて披露した、とある。当時浜松城は家康の居城であり、これは家康への披露と考えて間違いないだろう。そして、「何事も如前々」と「被 仰出」たとあり、これも敬意表現から家康の回答と考えてよいだろう。すなわち、井出らは大石寺への諸役免許などについて浜松の家康へ申請し、口頭ではあるが許可を得たことをこの史料は示している。さらに、この時には安堵状などが発給されなかったためか、万一ことの是非を問う者がいる場合は、自分たちへ申すように、という文言を付している。②は富士郡妙蓮寺への新増地安堵についての、天正十二年三月二日付井出正次手形である。同寺へは前年十月五日付で井出が奉じるかたちで家康朱印状が発給されており )14
(、「御朱印之儀申請進候」との文言はこのことである。ところが、家康朱印状は「寺内諸役免許」とのみあり、新増分とされる貫高については記載されなかった。そこで、それを保証する目的で井出が手形を朱印状に「指添」て与えたのであろう。ただ、「新増之事者任先判形御免許」とあることからもわかるように、これが井出の独断ではなく、家康の承認が前提にあったことには注意したい。なお、井出の手形にみえる「如先判形」「任先判形」とは、おそらく武田氏支配時代の天正七年二月十七日付跡部勝資判物 )11
(のことを指していよう。跡部判物には「累年御拘之田畠□新増分之事」寄附の旨が記されている。また、ここから、貫高は異なるものの、井出がいう「従旧規御拘之名職」とは、この田畑を指していると想定されること、さらに、家康朱印状も、跡部判物を先例とした当知行安堵であったことが窺える。奉者の実態は、朱印状発給の際だけではなく、申請から発給に至るまで取次いでいたこと、さらに家康から口頭の指示のみ、あるいは朱印状に明確な記載なき場合などについては、その後のフォローをも含めて、井出が行っていたことを示
一一 していると考えられる。かかる井出の朱印状発給への関与とそのあり方について、年度別朱印状発給関係者を一覧にした表3により巨視的に確認すると、Ⅰ期においては井出の関与は富士郡に限定され、家康朱印状を奉じる、という役割を果たしていたこと、ただ、必ずしも彼一人に限定される役割でもないことが指摘できる。これは、井出が富士郡出身の代官であることから、出身地域において、しかも代官として管轄内においてのみ寺社領安堵の取次を行うという、限定された役割であったことを示している。限定的という点については、天正十一年三月五日付の、吉野助左衛門宛本給安堵朱印状は本多忠勝・高木廣正の両名が奉者となっている )11
(。吉野氏は永禄八年に今川家麾下の国衆葛山氏から奉公の対価として知行安堵判物を拝領しており )17
(、かかる小領主と思しき者に対する安堵は井出の管轄外であったと考えられる。また、天正十八年七月二十日付本多正信宛榊原康政書状 )18
(においては、富士浅間社「社人免富士田所之儀」につき、社人で四和尚である春長坊より朱印状発給依頼をうけた榊原は、「急上野へ罷越」す、すなわち、家康の関東転封に伴い、上野国館林へ移封となったため、後事を本多正信へ依頼しているのである。榊原にとっては、井出などは本多正信を経由して話を通すべき存在であったといえる。本多から井出への伝達文書は確認できないが、直後には井出が対応している )11
(。ただ、転封直前という状況ゆえか、九月二十九日付春長宛書状において、取次を断っている。かかる家康の関東転封と寺社領との関係を示す他の事例として、天正十八年十一月二十八日付の横田村詮宛大久保忠隣・加々爪政尚連署書状にて、村山浅間社の辻之坊領の扱いは「何事も被申事ハ無之間、御国之御仕置次第に可被仰付」との引継ぎがなされている )31
(。これらの事例から、新領主中村氏側への引継ぎは宿老クラスが対応し、井出は関与しえない立場であったと考えられる。
一二
表3 郡別寺社領安堵・朱印寺社に関係する人物一覧
年駿東郡富士郡庵原郡有渡郡安倍郡志太郡
天正11(1183)~天正18(1111) 天正11.4.14三枚橋城主岡田元次(日枝神社7) 天正11.7.5【奉】本多正信(池西坊9) 天正13.11.14【奉】全阿弥(真珠院★) 天正11.11.11【奉】大久保忠泰(旧東流大夫17)天正11.4.11三枚橋城主岡田元次(西光寺11) 天正11.11.5【奉】井出正次(宝幢院13) 天正11.11酒井忠次(蜂ヶ谷八幡宮) 天正11.11.2【奉】三宅正次(安西寺5)天正18.11.11興国寺城代阿毛重次(大泉寺4) 天正11.11.5【奉】井出正次(先照寺11) 天正18.11.11長沢秀綱(中村家臣)(清見寺14) 天正13.11.11【奉】全阿弥(長谷寺)天正11.11.5【奉】井出正次(妙蓮寺6) 天正13.11.11【奉】全阿弥(修福寺★)天正11.3.2井出正次(妙蓮寺7) 天正11.8.17朝比奈・内記(長谷寺13)天正11.3.13清徳長・井出正次(大石寺48)天正11.3.13小栗吉忠(大石寺41)天正18.3.11井出正次(北山本門寺11)天正18.7.11榊原康政・本多正信(四和尚宮崎氏11)
天正18~慶長5(1111) 天正18.8.1家康関東転封と豊臣領国化天正18.8.18井出正次(四和尚宮崎氏18) 慶長4.11.11横田村詮(清見寺11) 文禄4.6.11横田村詮(桃源寺2)天正11.閏2稲葉重執(東泉院11) 慶長2.11.14横田村詮(修福寺5)天正11.4中村一氏(大宮司富士家13) 慶長4.9.11横田村詮(臨済寺11)慶長2.4.11横田村詮(妙蓮寺8) 慶長4.9.11横田村詮(旧新宮神主11)慶長4.9.6横田村詮(大宮司富士家11) 慶長4.9.11横田村詮(浅間神社11)慶長4.9.11横田村詮(安養寺5) 慶長4.11.3横田村詮(草薙神社6)
一三 慶長5.2.11横田村詮(東泉院17)慶長5.9 関ヶ原合戦 慶長6(1111)~元和2(1111) 慶長6.3.11岡田元次(乗雲寺2) 慶長8.5.14井出正次(池西坊13) 慶長6.11.8長谷部長澄・伊奈忠次(長福寺4) 慶長9.8.晦井出正次(三保旧社家8) 慶長6.8.17伊奈忠次(誓願寺8) 慶長6.11小長谷学仙(神谷2) 慶長6.3.11井出正次(乗雲寺2) 慶長9.9.18井出正次(東泉院11) 慶長7.11.11全阿弥(由比社家4) 慶長7.11.13内田全阿弥(修福寺6・7) 慶長7.8.2酒井忠利(青山八幡宮2)慶長6.11.17井出正次(正雲寺4・5) 慶長9.11.13井出正次(東泉院11) 慶長7.11.14井出正次(由比社家4) 慶長9.8.18嶋田重次・井出正次(瑞龍寺3) 慶長7.8.3小長谷学仙(神谷3)慶長6.11.13井出正次(定輪寺7) 慶長11.2.5井出正次(誓願寺11)慶長7.5.11井出正次(愛鷹社5) 慶長11.3.11井出正次禁制(臨済寺31)慶長9.11.11沼津城主大久保忠佐(妙伝寺1) 慶長11.6.6井出正次禁制(清水寺8)元和元.11.11長野清貞(徳川頼宣代官)(西光寺11) 慶長14.1.13井出正次禁制(見性寺6)慶長14.2.3井出正次禁制(龍津寺11)慶長14.11.17浅羽次郎右衛門(誓願寺11)慶長14.11.11彦坂光正(旧新宮神主11)元和2.4 家康死去
元和3(1117)~ 元和6.11井出正次(由比社家5) 元和3.11.13安藤重次・小野重央・彦坂光正(宝台院4)元和4.3.11朝比奈惣左衛門(蓮永寺2)元和5.11.6村上吉正掟(誓願寺11)元和5.11.9村上吉正禁制(清水寺4)註)【奉】は家康朱印状の奉者。【典拠】★は中村孝也『徳川家康文書の研究』(日本学術振興会、1118年)、無印は『静岡県史料』。
一四
以上から、Ⅰ期において井出が関与する寺社領安堵は、富士郡の井出管轄地に限定され、かつ、(ⅰ)家康直判、(ⅱ)直判+「奉之」(井出が奉者)、(ⅲ)井出の手形(家康の承認が前提)、これらが絡みつつ進められていた。とくに、天正十一年に家康朱印状発給がなされるが、史料4の①②にみえるように、それに洩れた、あるいは朱印状についてのフォローを翌十二年三月頃に井出が行う、という流れが確認できる。
三 徳川政権による慶長期安堵と井出正次(Ⅲ期)
つぎに、Ⅲ期における朱印状安堵と井出との関係を確認する。まず、表2によれば、慶長七年(一六〇二)までは駿東郡での安堵に関与、慶長八・九年には富士郡・庵原郡での安堵に関与、さらに慶長九年以降は有渡郡・安倍郡において、主に禁制発給を行う、といったように、数年の間で関与する地域・事項が変化している。これは、地方支配の分析から志太・益津両郡を除く駿河五郡を管轄していたという関根氏の指摘通りであり )31
(、寺社方専管の存在ではないと評価することができる。そのため、その関与は限定的と考えられる。つぎの史料は慶長九年九月二十八日付の富士郡東泉院宛井出正次書状である【史料5】『静岡県史料』第二輯、浅間神社蔵旧東泉院文書一九尚々最前より我等御頼候間、渡度雖存、御意ニ御座候間、不及是非候、幷貴僧御手作分何れの所にて成共取替にて可被下候、以上昨日は御出候、然は東泉院領之儀、先年七 (長谷川長綱)左散候処を被渡候間、何とも今度之儀は貴僧の御存候伝法善徳寺にて渡申