大 正 期 の 地 方 産 業 資 本 と そ の 没 落 − 長 崎 県 香 焼 島 の 場 合 − 有 田 辰 男
明
治
維
新
後
︑
日
本
坑
法
の
公
布
に
よ
っ
て
︑
日
本
の
石
炭
産
業
は
一
方
で
は
三
池
・
高
島
の
よ
う
な
大
鉱
区
炭
坑
が
官
営
の
も
と
に ヽ 発
足
し
︑
他
方
で
は
農
民
的
所
有
に
よ
る
零
細
鉱
区
の
炭
坑
が
散
在
す
る
と
い
う
︑
い
わ
ば
二
極
集
中
の
形
で
出
発
し
た
の
で
あ
る
が
︑ 香
焼
島
の
場
合
は
こ
の
い
ず
れ
の
理
で
も
な
く
︑
﹁
御
Ⅰ
山
﹂
の
管
理
者
で
あ
っ
た
旧
上
級
武
士
層
に
よ
り
︑
民
間
大
坑
区
炭
坑
と
い
う l 第
三
の
型
を
形
成
し
た
の
で
あ
る
当 だ
が
そ
れ
は
︑
旧
藷
営
炭
坑
﹁
御
上
山
﹂
の
延
長
線
上
に
あ
る
に
す
ぎ
な
か
っ
た
︒
彼
等
の
資
金
は
採
炭
の
増
加
と
と
も
に
必
要
と
な
る 設
備
資
金
に
使
わ
れ
ず
︑
も
っ
ぱ
ら
︑
旧
探
掘
落
と
そ
の
周
辺
の
ほ
と
ん
ど
全
域
に
わ
た
る
鉱
区
拡
張
の
た
め
に
使
用
さ
れ
︑
そ
の
寄
生 地
主
的
性
格
を
乗
り
越
え
る
こ
と
が
で
き
な
か
っ
た
︒
そ
の
た
め
﹁
御
上
山
﹂
的
経
営
の
矛
盾
が
露
呈
し
て
資
金
が
欠
乏
し
︑
明
治
一
六 年
︵
一
八
八
三
年
︶
に
炭
坑
の
所
有
者
が
変
わ
り
︑
こ
こ
か
ら
資
本
家
的
経
営
が
始
ま
る
︒
さ
ら
に
そ
の
後
︑
二
一
度
の
所
有
者
の
変
更
を 経
て
︑
明
治
三
二
年
︵
一
八
九
九
年
︶
︑
化
学
工
業
資
本
﹁
大
阪
舎
密
工
業
株
式
会
社
﹂
の
手
に
移
り
︑
炭
坑
所
有
者
が
安
定
す
る
が
︑ そ
れ
は
独
立
の
炭
坑
資
本
と
し
て
で
は
な
く
︑
工
業
資
本
に
吸
収
さ
れ
︑
コ
ー
ク
ス
の
原
料
供
給
の
た
め
の
一
部
門
と
し
て
の
み
存
続
す
経 営 と 経 済
一一一 一
ることになったのである︒
これとは別に︑香焼島では︑明治二六年(一八九三年)に地元資本によるコークス工業が起り︑三菱造船所と佐世
円︐ 白
保海軍工廠の需要に支えられて発展を開始し︑明治三五年(一九
O
二年)には造船資本も成立する︒そして明治三七年円 ︒
(一
九
O
四年)に日露戦争が始まると︑需要の激増により︑香焼島は著しく活況を呈するに至るのである︒右の過程についてはすでに論じてあるので︑本稿では︑その後大正期を通じて︑香焼島における諸資本︑とくに炭
坑とコークス工業が︑日本の独占資本の確立過程の中にあってどのような変遷を逐げるかを︑歴史的過程にしたがっ
て論
じた
い︒
( 1 )
拙稿﹁幕末・維新期の石炭産業の一側面﹂(﹃経営と経済三一六号)︒
( 2 )
前川
忠良
﹁松
尾造
船︑
川南
工業
︑三
安造
船﹂
(﹁
経営
と経
済﹄
一
一五
ロヲ
)︒
( 3 )
拙稿﹁明治期における地方産業資本の成立と変遷﹂(﹁経営と経済﹄二七号)第 一 次 大 戦 と 炭 坑
・ コ ー ク ス 工 業 の 拡 張
工業における資本主義の急速な発展と︑農業における半封建的小作制度の残存︑という特質をもっていた日本資本
主義
は︑
日清
戦争
︑
日露戦争を経て︑戦争のたびにその規模を拡大して発展してきたのであるが︑さらに第一次大戦
は海外輸出の急増と輸入社絶による国内市場の拡大により︑日本経済
K
﹁未曽有﹂といわれる好景気をもたらした︒香焼島においても﹁大阪舎密﹂の香焼炭坑と山下幸三の﹁山下コークス﹂はこの活況に恵まれて積極的に設備の拡
張にのり出すことになったのである︒
グを
進め
︑
﹁大阪舎密﹂は明治四
O
年(一九O
七年)以降香焼炭坑の陸地山手面における採炭を断念し︑海岸地区のボl
リン
﹁竪坑ヲ開墾シ︑経営百端苦慮探究ノ結果一種ノ良炭層ニ遭遇シ﹂(大正七年﹁香焼村郷土誌﹂長崎県
立図古館蔵)︑本格的に採炭を行うと同時に︑大正期に入ってからもボーリングは継続され︑諸設備を拡張し︑併営
の﹁呑腕コークス﹂の窯も拡張される︒大正二年(一九一三年)の﹃本邦鉱業の趨勢﹄(農商務省)は香焼炭坑につい
て次のように記している︒
下回炭採鉱ノ目的ヲ以テ綱掘試錐ヲ実行シ延長四百五十尺ニテ三層ヲ究メタリ
第二運搬坑道トシテ右八片ヨリ又卸ヲ開竪セリ
大正一五年中ヨリ継続施工シツ︑アリシ骸炭窯ハ一月︑汽路用煙突ハ六月︑洗炭機砕粉機及昇降機(三種共増設)
ノ¥.
五月ニ竣工セリ
施工ノ重ナルモノハ海岸ヲ埋築シテ貯炭場等ヲ拡張シ及積込桟橋ヲ架設シ尚ホ十二月中排気竪坑拡張工事(径六尺
ヲ八尺トス)ニ着手セルガ該工事ハ大正三年二月末ニ竣成スヘシ
とその拡張の様子が記されている︒また︑大正三年(一九一四年)にも第一次大戦開始直後の﹁炭業界不振﹂にもか
かわらず︑設備の拡張︑更新︑および試錐がおこなわれ︑採炭法の面でも従来の残柱式に代って長壁式が登場する︒
大正三年の﹃本邦鉱業の趨勢﹄によると︑
大正二年十二月中排気竪坑拡張工事(径六尺ヲ八尺トス)一着手セシカ該工事ハ本年二月末ニ於テ竣成シ猶八尺坑
道切下リ掘進工事及同鉄管卸切下リ工事ハ一月十日若手シ前者ハ七月三日後者ハ九月八日着炭セシカ通風ノ関係上
扇風協同ノ改造ヲ為スノ必要アリ従来使用セル﹁チャンピオン﹂式扇風機ヲ廃止シ風量十五万立方択水計二吋半幸袋
大正
則の
地方
産業
資本
とそ
の没
落
経 営 と 経 済
一二
四
製作所製﹁キヤペル﹂式扇風機ニ換置スヘク其据付ヲ為スノ程度ニ進捗セシモ時局発生後炭業不振ニ伴ヒ貯炭甚シ
ク増加セル結果一時其採掘ノ進展ヲ見合サ︑ルヘカラサルニ至リタル為者炭セル健之ヲ中止セリ︒
坑内第一試錐ニ現ハレタル二尺炭層ハ六月ヨリ長壁式採炭法ニ依リテ採炭ニ着手シ坑道延長四十五問ニ及ヒ又左右
片磐坑道ハ各二十間毎一一軌道ヲ布設シ通気ト排水トノ為メ連卸ヲ採
V
十五間ノ間隔ニ並行セシム従来三尺層ノ排水ハ手動明筒ニ依リタリシモ延長ニ伴ヒ水量増加シタルヲ以テ六尺平方ノ竪坑ヲ三尺層左十片三昇
ニ降下関観念シ従来七尺層十卸ニ設置セル十二吋﹁スペシャル﹂咽筒二台ヲ該箇所ニ転置シテ排水セシムルコト︑
セリ尚ホ三尺卸ノ延長ハコ一尺層又卸ヨリ百四十五間ヲ進ミタルカ大正四年度ニ於テ引継キ掘進採炭ヲ為スノ予定
七尺層ニ逢着セシムルノ目的を以テ十月ヨリ水平坑道左一片断層給ニ着手シ延長十五問ニ達シ又十二月中ニ於テ七 ナ
尺層右八片磐断層縫ニ着手セリ下層炭試掘ノ為メニ施行セル坑内第二試錐ハ本年度内ニ於テ六百四十四尺ニ達シ工
程ノ約八分ヲ了ヘタルカ大正四年六月中ニ於テ終了ノ予定ナリシ
前年度ヨリ施工中ノ七尺層本卸断層掘警工事ハ傾斜益々急下シ着炭スルノ見込ナキノミナラス横島炭層トノ関係‑一
付キ更ニ調査ヲ為スノ必要アルヲ以テ五月限リ之ヲ中止セシカ四年一月以降横島地表ヨリ試錐ヲ施工シ大正四年度
中ニ完了セシムル計画ナリ而シテ七尺層本卸断層掘墾工事ハ之ヲ将来ノ事業トシテ経営スルノ計画ナリトス
坑内排水用トシテ設置セル蒸汽管ヲ大径ノモノニ取替フルノ工事ニ着手セルカ其ノ工程ハ本年度中ニ於テ約三分ノ
一ヲ了ヘタリ又動力増加ノ必要ニ迫ラレ径七尺長三十尺ノ﹁ランカシヤ
l
﹂式汽権ヲ増設シ旦ツ蒸汽管取替ノ工事ヲ竣成セリ
とあり︑採炭が進めば進むほど坑道が延長され︑それにともなって排水︑換気の設備拡大︑動力の馬力増加︑新採炭
法の採用が促されるに至っているのである︒こうして︑大正三年(一九一四年)末における香焼炭坑の全容は﹁本邦
(大正三年)によると次のようになった︒重要鉱山要覧﹂
地質及鉱床地質ハ地表ヨ︐リ上五尺炭層ニ達スル迄ノ地質ハ重ニ灰色頁岩ニシテ上三尺層ノ上部ニ初メテ厚サ十七択
ノ灰色ノ砂岩露出シ上三尺層ハ現今採掘セル七尺層トノ間ニ四十六吠二十一吋ノ堅牢ナル灰色砂岩アリ其下部ニハ
厚サ二択ナル炭質頁岩ニシテ其下三択八吋ノ柔軟ナル灰色頁岩アリ又其下部三沢四吋半ナル炭層ヨリ猶ホ下部ニ十
沢半ノ砂質頁岩アリテ現今燃料炭トシテ採掘セル三尺層ニ達セリ地表ヨリ上五尺層マテ百
O
五尺︑上五尺居ヨリ上三尺層迄四十二尺︑上三尺層ヨリ下七尺層迄七十尺︑七尺層ヨリ下三尺層迄二十尺︑試錐ニ一露ハレタル二尺九す層
ハ下三尺層ヨリ七十八尺︑同八尺層ハ二尺九す層ヨリ十七尺ナリ
採 炭層ノ走向傾斜ハ一定セサルモ現今走向ハ北西二十八度余ニシテ傾斜西南ニ七度ヨリ二十度内外ナリ
鉱本鉱ハ第一第二ノ二斜坑ニシテ各坑道容積ハ上幅六尺下幅十二尺高六尺ニシテ傾斜平均二十六度両坑ノ高低
差十尺水平間隔七問下坑乃チ第一坑ヲ入気通行路運搬坑道ニ充テ第二坑ヲ排気鉄管卸トス坑口ヨリ百三十五間ニシ
テ当時採掘セル七尺層ニ着ス
通風ハ﹁キヤルベル﹂式扇風機ノ備付アリ蒸汽ニテ運転ス通風ノ順序ハ本卸底‑一直送シ右部ニ送リ三尺採掘場ヲ経
テ左鉄管卸ノ排気坑ニ排出セシム一分間風量(入二時千立方択出二世門六千立方沢)排水ノ設備トシテ﹁スペシャ
ル﹂式噌筒十二吋三台十四吋十六吋各一台坑底ニ架設ス第一哨筒座ニ﹁エヴアンス﹂式哨筒十八吋一台﹁コルニツ
シユ﹂式哨筒一台ヲ架設坑外ニ排水セシム水量一分間三十五立方択其他﹁ゼット﹂咽筒井ニ手動明筒等ニテ応急ノ設
備ヲ為ス現今採掘シアル七尺層及三尺屑ハ各柱房法ニ依リ採掘シ運搬ハ人力及ヒ汽力ニ依ル大正二年七月七尺層ヨ
リ下層ニ向テ探検ノ試錐ヲ施シ年末五百択ニ達セリ未タ継続中右試錐中ニ露ハレシ二尺九す層井ニ八尺層採掘ノ目
大正
却の
地方
産業
資本
とそ
の没
落
一二
五
経 営 と 経 済
一 一 一 ム
ハ
的ニテ十二月二十日ヨリ斜坑開幣ニ着手ス容積上幅六尺下幅十二尺高六尺迩搬入気通行坑道トシテ傾斜平均二十三
度排気鉄管卸坑道ニシテ傾斜平均二十六度大正三年五月着炭ノ筈ナリ
選 鉱
坑口桟橋ヨリ八分目ノ筒ヲ架設シ硬炭ノ選出ヲ為ス
附帯事業﹁コークス﹂製造ヲ営ム其設備ハ平窯式煉瓦造三十窯ニシテ一筒年ノ製造高八百四十二時七千三百三十三
種 別 一 記
一坑外ハ船積スル場合海岸‑一架設セシ桟橋‑一循環綱索式抱機械ニ依リ述炭セシム
一﹁コークス﹂製造用ノ運炭ハ総テ人力ニ依ル
一坑口ニ汽尚一径十四吋ノ複前式問問機械一台ヲ設置シ長サ一
O五間ノ第一斜坑ヲ指拐ケ夫
一ヨリ二六四間ノ水平坑浩
一式陪機械ニテ捲拐ケシム
斤ナリ運搬ノ方法設備
鉄
3
立﹁ 汽
力
一 複
線
坑内汽力
一 人
力
r 汽力
台
4 4 1 . U
胃川dト1 j J
州市川
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内
戸 ー ‑ ^ ‑ ‑ ー 、
人複汽 力線力
t r t 外
汽力
エ ン ド レ ス
坑外 汽力 五四 七 三 五
O右 五 三
左 六五
O 七尺
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00一 ︑
00 0
一 ︑
00 0
一 ︑
00
九悶 0
事
原 動 機
f 1 桓‑
汽 鉱夫員数及賃金
雑 機 工 連
‑
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八 械 作 搬他 夫 夫 犬
其
坑 坑 坑 坑 坑 坑 坑 坑
外 内 外 内 外 内 外 内 子
夫 夫人
程 坑
支 柱
手
計
男 一
一一日最一一日最一一日平一人口貝一工二H
同 賃 金 一 低 賃 金 一 均 賃 金 一 四O五一五一九一一0
一四
六一
一一
・六
九一
一
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一六O二二︑一四哩・七五O一‑五五O一・六五O
一│
一 一 一 一 一 一
O七六七︑
O八三一・五二O一・四二O一・四七O一六二︑三一五
三O
一 九
︑
o
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・五
七OOO一・五
一
・ 五 三 五 一 一
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O一・四OO一・四六O
一 一 一五一四︑五二四一・六八O一・五OO一・五九O一
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一
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↑ 一 一一一三︑三一四一・九OO一・一八O一・五四O一
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一l一17
一八
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五
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本 主
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{ 困
. 馬 自 主
一 四 六
一七
九
ラ ン カ シ ヤ
l
式
梢置式双汽何不凝縮 直立式双汽筒不凝縮
一O六機
〕 二
数
大正期の地方産業資本とその没落
備 汽
通 運 機内 訳 風搬 数
‑三
二五
‑二
O四
一二
七
考
一四九二
凶 一 四
七八
二四
五
( I 本邦重要鉱山要覧」大正三年農向務省編)
経 営 と ' 経 済
一二
八
ところが︑大正六年(一九一七年)頃から︑香焼炭坑は﹁四回断層に会合﹂し﹁採掘区域限定せらる﹂
(﹃
長崎
県
石炭年鑑﹄長崎民友新聞社)という状態になり︑そのため︑従来残柱式によって採掘しだ旧坑道の炭柱採掘によって
能率化を図ることが工夫され︑土砂充填法が採用されることになった︒大正六年の﹃本邦鉱業の趨勢﹄には︑
本炭鉱香焼ニテハ七尺層海底二百沢以上ノ部ニ於ケル残柱ヲ土砂充填法ニ依リ採掘セントシ三月之ヲ試ミシカ其結
果煩ル良好ナリシヲ以テ引続キ実施中ナリ又七尺炭残柱採掘保安ノ目的ヲ以テ下層三尺ノ残柱採掘ニ土砂充填法ヲ
行フ事トシ十月下旬ヨリ実施セルニ之又結果良好ナリ
とある口この土砂充填法は当時一般的に坑道が延長され︑それが設備投資の累進的増加をともなうため︑残柱式が非
能率的なものとなりつつあり︑炭柱を残すことを不必要にするために実施されはじめた方法であり︑まだあまり一般
化していなかった土砂充填法を香焼炭坑が実施した乙とは﹁四回断層に会合﹂したという事情にもとづくとはい
え︑かなり注目されたようである︒この乙とは︑同﹃本邦鉱業の趨勢﹄の﹁鉱山事業ノ概況﹂に次のように記述され
てい
る︒
地表陥没︑自然発火ノ予防及ヒ鉱利保護ノ為メ採炭跡ニ土砂充ば法ヲ応用スルモノ砂ナカラス即チ夕張炭砿'ニ於テ
ハ本坑内ニ土砂充填装置ノ設備中又福島県小野田炭砿︑梅ケ平坑下部坑内専用鉄道ニ沿ヘル部分ニ土砂充填ノ目的
︑ヲ以テ其ノ注入口ノ開磐工事ニ着手シ長崎県香焼炭砿ニ於テモ亦海底保安ノ目的ニヨリ其ノ規模ヲ大ニシ作業ヲ開
始シ頗ル良好ナル結果ヲ得タリト云ヘリ其他三池炭砿高田坑ノ一部ニ之カ実施ヲ見菅牟田炭坑第四坑ニ於テハ其ノ
工事ニ着手セリ
と記述されている︒
しかし︑石炭出炭高の面からみると(第
I
表)︑明治四五年(一九一二年)の五て四四九トンをピl
クに下降に転(単位トン) 43 年 2 6 , 6 1 5 I 大正 T 年 3 8 , 5 1 6 44 5 0 , 9 4 0
ト8 3 5 , 8 1 9 45 1 5
,449
I9 9 2
,8 8 7
大正 2 5 0 , 3 0 5
I0 1 25 , 1 1 5
3 47
,2 0 7
I1 1 1 3
,405 4 3 5 , 2 0 5
I2 1 2 6 , 2 6 7 5 3 8
,1 3 3
I1 3 9
,0 0 1 6 7 3 , 8 8 7
I4 1 0
注各年「鉱区便覧j
より。明治43~大正 4 年の産出高は l 斤=
g . 6 k 0
として換算。
じ︑大正三年(一九一四年)には五万トン台を割り大正四年(一九一五
年)には四万トン台をも割って︑三五︑二
O
五トンに落ち込んだ︒乙れは主力炭層であった七尺層が断層に道遇したため掘翠工事を行ったが︑大正
年に﹁傾斜益々急下シ急‑一着炭スルノ見込ナキ﹂(前出)をもって中止
呑焼炭坑出炭高推移
第 l表
明治
されていたととろへ︑大正四年にガス爆発が起り(﹁香焼町史稿﹂前出)︑
七
O
人前後の死傷者が出た(ききとり)ためと思われる︒そのため﹁第二坑口ニ﹁キヤペル﹂式扇風機(排気量一分間十五万立方尺)ヲ新設ス﹂る
ことになり︑また︑七尺層に逢着させる目的の水平坑道﹁左一片断層縫
及
」ー
﹁七尺層右八片断層縫ト共‑こまたも﹁小断層に遭遇﹂し﹁下層炭試
掘ノ為メニセル第二回坑内試錐﹂も﹁錐下六百六十尺ニシテ途中ノ岩石崩
﹁之ヲ中止﹂せざるを得なくなっている(大正四年﹃本邦鉱業の
趨勢﹄)︒つまり坑道が延長するにつれて炭層状態︑採掘条件の悪化を来 レ
込ミ
﹂
し︑諸設備の拡大にもかかわらず採出高が激減し︑すでに限界炭坑的な兆候が現われ始めていたものと思われる︒そ
それでも四万トン台に回の後残柱採掘により大正五年(一九二ハ年)以降三年間は若干の出炭の増加がみられるが︑
復することはできなかった︒
だが︑第一次大戦時の好況によって炭価が高騰したためこうした採炭状況の悪化は露呈されず︑表面上は︑
漸次上騰シテ今日ノ大景気ヲ呈スルニ至﹂り︑炭坑のある安保地区は﹁田舎町ヲ形成ス︑
﹁炭
価
一
、一六日ハ公休日ニシテ
長崎市ヨリ出張ノ露庖羅列シ︑対岸ノ蚊焼︑高浜ノ村落ノモノ来リテ野菜果物魚類等ノ市ヲ設ケ大イニ盛況ヲ呈ス﹂
大正期の地方産業資本とその没落
一二
九
経 営 と 経 済
一 三
O
(﹁大正七年香焼村郷土誌﹂前出)といった状態であった︒
﹁大阪舎密﹂の﹁香焼コークス﹂は明治三七年(一九他方︑香焼島のコークス工業も好況により事業を拡張する︒
百三十三斤﹂
O
四年)当時の一列七窯から︑大正三年(一九一四年)には﹁平窯式三十窯ニシテ一箇年製造高八百四十二万七千三(前
山山
)と
なっ
た
D
﹁山下コークス﹂も大正五年(一九二ハ年)に株式会社組織となり事業を拡張し︑「山下コークス」工場配置図
コークス炉 7 6
門・図1 . . . . . . .
空突一一トーto. N
日
E二~f!a
困
資本金五
O
万円︑従業員三OO
余名︑数万斤の製造能力をもつに至っ
た(﹁大正七年香焼村郷土誌﹂前山山)︒設備は日露戦争当時四五窯に拡
張したが︑それをさらに︑第一次大戦の好況によって一挙に六七窯に
拡張し︑見取図のような工場配置となった
D
こうして戦争の度毎にその設備を拡大していったのである︒ききとり(後の同社専務横瀬談)
によれば︑当時はフル操業で従業員も六
01
七
O
人から一挙に二七O
ー二八
O
人に
増加
し︑
このうち七
O%
は女子で島外通勤者が一
OO
余
名あり︑深堀︑蚊焼︑伊王島からそれぞれ三
01
四
O
名づっ船で通勤していたという︒香焼島は炭坑をも合めてこの周辺の大きな労働市場
でもあったのである︒だが︑原料炭の面では﹁山下コークス﹂は香焼
炭を使用しておらず︑佐世保の海軍の貯炭中のカジフ炭(英)の粉炭
をもらいさげ︑それに高島炭を加えて使用していたのであるが︑大正
五年(一九二ハ年)頃からカジフ炭をホンゲイ炭(仏印)にかえ︑一口問
島炭︑崎戸炭を使用するようになった︒コークスの販売先は創立当初
と変化なく佐世保海軍工廠と三菱造船であったという︒市場構造がこのように地域的に限定されていることは地方資
本としてある程度当然ともいえるが︑地域的にだけでなく製品の納入先も長く二ケ所に限定されており︑ここにその
資本としての成長性の限界があらわれており︑しかも納入先の軍事的性格が強いことも特徴となっている︒
かくて香焼島は︑日本資本主義それ自体がそうであったように︑戦争のたびに活況を呈し︑日本帝国主義の消長に
左右されながら︑販売市場を通じてそれにますます深く結びつけられていったのである︒
納屋制度と炭坑犬の状態
第一次大戦による好況により︑香焼島も﹁大景気ヲ呈スルニ至﹂(前出)るが︑炭坑およびコークス工業の盛況に
そこで働く労働者の生活は米価およびその他の生活物資の高騰によりかえって悪化した︒﹃香焼町史
秘﹄(町役場蔵)によれば︑大正六年(一九一七年)︑炭坑夫の日賃金は一二時間労働で三五
i
四O
銭であったが︑大正七年(一九一八年)には米価は一升一五銭が六
O
銭まで騰貴した︒そのため坑夫のなかには漁業に帰る者が出た︒ちなみに︑漁業では手ぐり月一四
i
一五
日で
一
oi
一二円の収入になったという︒乙の年︑米価暴騰のため富山県に発生した米騒動はまたたく間に日本全国各地に波及したが︑香焼島では騒動は発生しておらず︑八月二七日から九月
一
O
日までの間に︑救済資金をもって島民に外米を施米または廉売している︒米価暴騰による生活苦はかなり深刻で もかかわらず︑あったと思われる︒
その上︑坑道の延長により炭坑内の労働条件は悪化しており︑大正四年(一九一五年)にはガス爆発で七
O
人の死傷者(一説には死亡七
O
人重軽傷一OO
人)を出しており︑大正六年(一九一七年)には﹁四囲断層ニ会合﹂(前出)
大正
期の
地方
産業
資本
とそ
の没
落
一
一一一一
経 営 と 経 済
一一一
一一
一
してボタが多く採掘労働条件が極度に悪化していたと思われる︒そして悪名高い納屋制度が残存しており︑高島炭坑
ではすでに明治三
O
年(一八九七年)七月二ニ日に﹁納屋制度ヲ廃止シ坑夫ノ扱向ヲ改正ス﹂︐(﹃三菱社誌民四三巻一五三頁)となっていたにもかかわらず︑香焼炭坑ではまだ本格的な納屋制度の下にあったのである︒当時の香焼島に
おける炭坑夫の状態を具状体的に示す記録はないが︑今村等(後出)談によってこれをまとめると︑およそ次の通り
であ
る︒
︹坑
夫の
一犀
入
u坑夫の雇入れは募集屋を通じて行われた︒当時有名だったのは広品県の宇品︑愛媛県の三津浜︑島
根県の米子等の募集屋で︑香焼炭坑の坑夫は愛媛県三津浜の募集屋を通ずる伊予の人が多かった︒その日の食事や宿
に困窮した者が募集屋に行けば﹁めしも喰わせる泊めてもくれる﹂といったぐあいで︑或程度の人数がそろうと募集
屋に連れられて炭坑に向う︒島に上陸するとまず事務所で土下座して﹁人繰り﹂から姓名︑出身地等をきかれ︑納屋
頭に引渡される︒募集屋は坑夫を納屋頭に引渡すと︑
一人
につ
き二
i
三万の礼金を受取る︒この金は納屋頭の懐からではなく﹁大阪舎密﹂が支払ったという︒しかしそれは炭坑夫が借金として背負わされることになる︒炭坑夫は募集
屋を皮肉にも﹁ボッシュiヤ﹂と呼んでいた︒
一雇い入れられた坑夫は︑名目上の籍は会社にあったが実際は納屋頭に雇用され︑坑夫はさながら納屋
頭の﹁私兵﹂であった︒賃金は納屋頭が﹁大阪舎密﹂から一括して受取り納屋頭が支給した︒坑夫の賃金が納屋頭によ
︹納
屋制
度︺
って直接﹁ピンハネ﹂されることはなかったが︑総賃金の九
i
一二形の金が口銭あるいは歩合として﹁大阪舎密﹂から納屋頭に支払われた︒納屋頭は一
O
人程おり︑納屋の名はそれぞれの納屋頭の名を冠して呼ばれ︑林ノ内金三郎︑林ノ内庄太郎︑今村︑西村︑野村︑田中︑谷山︑豊さん︑その他の納屋があった︒このうち大納屋頭の林ノ内金三
郎は納屋頭達全員を統轄して︑香焼炭坑における坑夫全員に対する﹁支配権﹂をもっていた︒彼は島原や口之津から宿
航して東南アジア方面へ﹁女をたたき売る﹂といった荒業の経歴の持主で﹁度胸は長崎ごといわれ︑崎戸︑松島の
納屋頭連中からも﹁一目おかれていた﹂という口しかしこの林ノ内金三郎も﹁大阪舎密﹂に直接つながっていたわけ
田中三郎︑本田悦二郎の三名よりなるこの﹁川田
社﹂は﹁大阪舎密﹂から炭坑運営の一切をまかされている請負人であり︑林ノ内金三郎は坑夫についてだけの支配権 で
はな
く︑
その聞には
﹁川
田社
﹂
が介在していた︒川島長五郎︑
をもっている筆頭納屋頭であった
D
そして﹁川田社﹂の本田悦二郎と林ノ内金三郎は兄弟だった︒したがってその支配系統は大体次のようになっていたと思われる︒
¥勘
﹁大
阪舎
密﹂
ll
﹁川田社﹂││林ノ内金三郎
li
納屋
頭︿
( 炭 坑 所 有 者 ) ( 炭 坑 請 負 ) ( 納 屋 頭 統 轄 者 ) / 人 繰 り
│
│ 坑
勘場は坑夫の賃金︑貸借に関するいわば会計係であり︑人繰りは坑内労働の現場監督であり︑坑内における坑夫の支
配権は人繰りにあった︒したがって︑納屋頭は労働力の管理者であり︑人繰りは労働の管理者であった︒
場
夫
人繰りの支配下におこなわれる坑内労働は大別すると︑仕繰り(坑道係)︑サオどり(運搬
係)︑採炭夫(先山と後山)の分業体系が成立していた︒坑内の空気は悪く︑素足にわらじをはいて︑ ︹坑夫の労働と生活︺
一日中水につ
かつて働くつらい惨慌たる労働の連続であり︑石炭の搬出も本坑道の一トン車(木箱)まで葛でつくったカガリを人
力で引いていかねばならなかった︒
坑夫は自らを自虐的に﹁下罪人﹂と呼び︑島の炭坑は逃亡が困難なことから圧制ヤマが多かったが︑当時香焼島は
松島とならんでその最たる'ものであり︑遠賀川筋にいた者ならどの炭坑でもっとまるといわれていたが︑香焼にはそ
の川筋者が多かった︒﹁前科者﹂も多く︑当り前の着物も持たず︑一枚を三人で共有している者もあり︑賃金も安か
った
︒
大正
期の
地方
産業
資本
とそ
の没
落
一一一 一一一 一
経 営 と 経 済
一三
四
納屋は建物の真中に畳一拍位の大きさのいろりが切ってあり︑そこへ飯炊きの残り火を入れ八帖間位の大きさの蒲
団を一枚かけ︑それに皆足を入れて寝た︒自分の蒲団や着物を持たないものは裸のまま腹の上に手拭をのせて寝た︒
南京虫が非常に多かったというJ
ワラジ︑安全燈等︑労働に必要な用具はすべて自前であり︑生産手段の費用の一部が坑夫
に転稼されていた︒自分で用具を持っていない者には賃貸しされていた口
ハ炭券の発行︺賃金の支払は通貨ではなく︑炭坑の構内だけで通用する炭券を会社(大阪舎密)が発行し︑乙の炭
券によって支払われた︒この炭券は炭坑によっては﹁金券﹂と呼ばれていたところもあるが︑香焼では炭券と呼ば
れ︑出炭量に応じて支払われた
D
炭券は出炭量五斤に対して支払われる五銭︑また
︑ ツルハシ︑
F
ノ ︑ ︑ ︑
︑
一
O
斤に対する一O
銭 ︑
一
OO
斤に対
のは﹁会社の庖﹂と︑ 一
000
斤に対する一
O
円の四種類があり︑月二回︑﹁川田社﹂の田中三郎の経営する﹁田中居﹂の二ケ所であった︒つり銭は屈の印の入った厚紙 一日と一五日に支払われた︒この炭券の通用する
する
一円
︑
が使用された︒こうした状態はいわば売手独占であり︑生活用品の流通過程からもあくどい坑夫収奪が可能であっ
た︒炭券は正式の通貨ではないため︑支払手段であり一種の価値尺度の役割も果すが︑蓄蔵の手段とはなり得ないか
ら︑乱暴に取扱われることが多く︑飲酒︑ケンカによって破いたり燃したりすることもあり︑気前よくパクチをやっ
て失ったり︑紛失したりして消耗がはげしく︑月一回通貨との両替が行われるが︑両替まではほとんどもたなかった
し︑もっていたとしても値切られたという︒したがって炭券発行は賃金切下げと実質的には同じ効果をもつことがで
き︑さらに︑坑夫を常に通貨から切り離しておくことによって逃亡防止の手段ともなったのである︒炭券以外にも納
屋扱の伝票があり︑これは構内の庖以外に島内で酒屋︑タバコ屋︑女郎屋にも通用したといわれるが︑それは坑夫の
借金がそれだけ増加し自縄自縛を意味した︒かくて坑夫は納屋制度の下に最低の生物的生存を余儀なくされたのであ
マ
AVD
︹リ
ンチ
)
納屋制度の秩序を維持したものは暴力であり︑納屋そのものが暴力組織でもあった︒香焼島におけるリ
ンチのやり方は︑普通の場合は︑両手の親指をうしろ手に縛り︑納屋の天井の梁から宙づりにして青竹でなぐるとい
うもので︑便所その他の用事で納屋に出入する者は必ず青竹でたたくことになっており︑日常茶飯事であったというD
疲労や軽い病気で仕事を怠けることを﹁川ながれ﹂と称し︑これが二・三度続くとリンチが加えられた︒また逃亡は
﹁島ぬけ﹂とも﹁ケツ割り﹂ともいうが︑坑木を海に投げ入れて泳いで逃げるのであるが︑高島や端島は海の流れが
早いため泳ぎきれれずに死ぬものもいたという︒この逃亡もつかまればリンチが加えられ︑他の炭坑へ行った乙とが
わか
ると
︑
そこへ行って当人の借金の肩がわりか︑身柄引渡を要求する︒借金肩代りの場合はよいが︑身柄引渡しに
なればリンチが待っていた︒
こうした状態の中から九州で最初の労働組合が香焼島に結成され︑やがて暴動に発展していったのである︒
友愛会支部の結成と香焼炭坑暴動
日本の労働運動は明治維新以後︑近代産業の発展とともに始まり︑炭坑夫の暴動や製糸女工のストライキなどの行
その勢力は分散的で微々たるものであった︒だが日清戦争
後︑近代産業の急速な発展に伴なって日本の労働運動も近代的な形態をととのえるにいたった︒日清戦争後の不況
により労働者の待遇が悪化すると︑労働争議は頻発し︑労働者の団結の必要が自覚されて︑明治三
O
年(一八九七年)︑城常太郎・沢田半之助・高野房太郎・片山潜らにより︑職工義友会を基礎として労働組合期成会が結成され︑ われたことはあったが︑政府や資本家の圧迫もきびしく︑
大正
期の
地方
産業
資本
とそ
の没
落
一三
五
経 営 と 経 済
一 一 ニ ム
ハ
その指導下に鉄工組合・活版工組合などが組織されて︑工場法の制定︑普通選挙の実施などが叫ばれた︒しかし︑明
治三三年(一九
OO
年)治安警察法の制定により︑労働組合の結成は禁止され︑ストライキは弾圧され︑さらに明治
四三年(一九一
O
年)の幸徳秋水の大逆事件にともなって弾圧はいっそう強化され︑誕生したばかりの日本の労働運動は死滅状態に追い込まれた︒
とはいえ︑労働運動の死滅は労働問題の消滅を意味するものではなかった︒大正元年(一九一二年﹀︑キリスト教
的人道主義の立場から︑鈴木文治ら一五名によって労働者の相互扶助と労資協調を基調とする友愛会が結成され︑困
難な状況の下で地味な運動が続けられた︒第一次大戦を契機とする近代産業の発達︑労働者の増加︑米騒動︑労働運
動の
世界
的勃
興︑
ロシア草命の影響などによってその活動も急激に活発佑し︑大正八年(一九一九年)に大日本労働
総同盟友愛会︑大正一
O
年(一九二一年)に日本労働総同盟と改称し︑ここに日本の労働運動がはじめて本格的な発展を示したのである︒
この友愛会の支部が香焼島で鈴木文治の来訪を機に結成されたのが大正五年(一九二ハ年)であった
D
九州最初の労働組合であったという口そして翌大正六年(一九一七年)には組合員一
OO
余名が待遇改善を要求し︑
得している︒これについて﹃長崎労働組合運動史﹄(昭和二七年長崎県地方労働委員会編)は次のように述べている︒ これを獲
﹁九州においては同五年︑鈴木文治初の九州入りの足跡を本県香焼島に印した︒かねて鈴木文治と連絡していた香
焼島安保炭坑の今村等たちはここに鈴木文治を迎え︑正式に友愛会呑焼支部を結成した︒友愛会香焼支部は九州最初
の労働組合であり︑ややおくれて熊本県に友愛会鏡支部が︑翌六年に三菱長崎造船所に友愛会立神支部等各地に友愛
会支部が結成されていった︒組合結成から安保炭坑の労働運動はとみに活発を加え︑六年九月四日組合員百余名が待
遇改善を決議し会社に要求︑会社はストライキに入りかねまじい気勢にあったので組合員の要求を大体において承認
して︑解決することができた︒要求事項は︑
て 採 炭 賃 金 三 割 方 を 値 上 げ す る 乙 と
︑ 二
︑ 坑 員 の 負 傷
︑ 病 気 等 に 際 し ては無料で治療すること︑三︑
そ の 家 族 も ま た 同 様 に す る 乙 と の 三 項 目 に わ た っ て い た が 一
︑ 二 項 目 を 承 認 し 第 三 項 は保留ということになった︒﹂
この友愛会香焼支部結成のいきさつは今村等談によると次のようなものであった︒
当時すでに香焼炭坑には友愛会の分会が成立していた︒大正四年(一九一五年)末から翌年初めにかけての冬頃︑川川という測
民技師(大阪舎密の社民)が友愛会のパンフレットをもとにして結成したらしい︒組合員は約二O名で︑組合員の印として赤い布
切れを十文字に結んで腕につけていたという︒ところが分会長の姉川技師が会社から解雇されるととになり︑組合員達は相談の結
果︑当時納屋頭の一人であった今村等に分会長を引き受けるよう頼み込んだ︒今村等は友愛会が何であるかを知らず︑見せられた
パンフレットには次のような友愛会の綱領が書いであった︒
一︑我等は互に親陸し一致協力して︑相愛扶助の目的を貫徹せんことを期す︒
一︑我等は公共の理想に従ひ︑識見の開発︑徳性の酒義︑技術の進歩を図らんことを期す︒
一︑我等は協同の力により︑岩突なる方法を以て︑我等の地位の改善を図らんことを期す︒
今村等はその時この綱領が何であるかが判らず引受ける気はなく︑今村が分会長になってもよいという他の納屋頭連中全員の承
認印をとってくれば︑という条件をつけた︒ところが納屋頭述中もみな何のことか判らず印を押したので︑結局今村等が分会長を
引受けることになった︒姉川技帥はその翌晩に呑焼島の鯨ノ巻から舟で長崎へ出発することになっていた︒鯨ノ巻には農家を借り
た分会の事務所があった︒そこで送別会と友愛会の説明および事務引継ぎを行い︑同時に︑今村等の発案で事務所の移転と会員の
拡大による支部昇格を決めた︒会員三O名以上は分会︑一OO名以上は支部という乙とになっていた︒その翌日﹁川田社﹂の田中
三郎が所有して賃貸ししている社員住宅の一軒を︑無料で借りた︒後に会社からの干渉によって田中三郎が返還を要求してきたが
応じなかった︒会員拡大の方も︑それから約一ヶ月のうちに炭坑夫全員を加入させたという︒かくて︑今村等は友愛会本部に支部
大正則の地方産業資本とその没落
一三
七
経 営 と 経 済
;
¥
目升特を申請し︑鈴木文治の来訪をまって友愛会呑焼支部を正式に発足させることになった︒
鈴木文治が呑焼島を訪れたのは大正五年ご九一六年)の九月頃で︑台風の目だった︒長崎高等商業学校(長崎大学経済学部の
前身)の教官武藤長践が鈴木文治を早岐まで出迎えた(二人は旧制高等学校での同窓)︒今村等は鈴木文治を長崎駅に出迎え︑大
波止から三人で風雨の中を船で呑焼島へ向った︒武藤長蔵は一泊の後翌明長崎に帰り︑鈴木文治・今村等を中心に友愛会香焼支部
の結成大会が聞かれたのである︒
なお︑大正六年(一九一七年)の待遇改善要求は︑﹃長崎労働組合運動史﹄
料治療︑家族も同様という三項目となっているが︑このほか安全灯の無料を要求して獲得している︒当時ツルハシ︑ノミ︑安全灯
等の労働用具は坑夫の自前が原則で︑持っていないものは賃借りしていたのである︒ (前出)では︑採炭賃金三割値上げ︑負傷病気の無
友愛会香焼支部の結成と︑待遇改善獲得の中心人物となった今村等は︑熊本県玉名市の生れであり︑募集屋の手を
経て最初は端島炭坑︑次に香焼炭坑で坑夫として働き︑ここで人繰りとなり︑さらに納屋頑となった︒組合員に見込
まれて支部長になった当初︑労働組合の理念にも社会主義思想にもキリスト教的人道主義にも全く無縁だった︒た
Y
彼を労働組合運動へかり立てたものは彼のもつ﹁侠気﹂であったに違いない︒そしてこの今村等の侠気が︑高まりつ
つあった坑夫達の不満の上に︑鈴木文治のキリスト教的人道主義と結合したのが友愛会香焼支部であった︒したがっ
てこの組合は今村等の納屋頭としての﹁実力﹂に依存しており︑今日の労働組合とはその肌合いが良かれ悪しかれか
なり異っていたのである︒今村等は大正六年(一九一七年)の対遇改善要求が成功すると︑納屋頭をやめ香焼島を出
て︑三池大牟田︑総回︑三池山野︑小野田︑三池白子の各炭坑を転々としたが︑今村等が香焼を出るとすぐに会社側
の圧迫により友愛会香焼支部は潰滅してしまったのである︒
だが︑大正九年(一九二